〜リリアン女学園高等部文化祭にて〜

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 恭也の動きが、ステージの中央でぴたりと止まった。

 頤を引き、胸を張り、背筋を伸ばし、観客を睥睨するかのようにたたずむ。

 たったそれだけなのに、観る者全てが圧倒されているのが、幕の間から見るだけでも本

当によく分かった。

 代わって、篳篥がその特徴的な音色を奏で始める。〔沙陀調音取〕(さだちょうのねとり)と呼ばれる曲だ。龍

、笙、(しょう)鞨鼓(かっこ)がそれぞれ、篳篥の音色に乗って静かなテンポの流れを形作っていく。

 この間、恭也は全く動かない。この曲の時のみ、舞人は動く事を許されていないのだ。

しかし恭也は不動にして観客をおもむろに射すくめている。

「祐巳さん」

「……」

「祐巳さん、祐巳さん……」

「あ、う……ふぇっ!? あ、し、志摩子さん……ど、ど、どしたの?」

「ほら、あそこに蔦子さんが」

 志摩子は蔦子がいる事を祐巳に教える。恭也の舞にずっと見入っていた志摩子だったが、

ふと視線を移した先に、蔦子の姿を見つけたようだ。

「え? ど、どこどこ?」

「あの先に……ほら」

 志摩子の指差した先を、祐巳は言われた通りまっすぐ見る。

「あ、本当だ……蔦子さん、あんなところに」

 蔦子を見つけた途端、祐巳はそれが当人にとって失礼だと知りつつも、正直こんな事を

思った。

(うわぁ……何かに取り憑かれたとしか思えないよ、あれ……)

 まるで狂ったかのように、不乱にシャッターを切っている蔦子を見て、祐巳は引きつっ

た笑いを顔に貼り付ける。そういえば、蔦子は常々、

「美しいものの〔今〕を、輝いているままで保存する事。カメラに選ばれた私が天から与

えられた、これは義務なのよ」

 胸を張って広言する事、まことにはばかりなかったが、

(そうか。蔦子さんは〔男〕の高町さまにも、美しさを感じたのか……)

 確かに、祐巳の目から見ても、装束姿の恭也はもの凄く映えて見える。しかも、囀の時

と今とでは、雰囲気そのものが全然違う。

 囀の時は動いていたのが分かるのに、それが現実とはとても思えなかった。すぐに消え

失せてしまう様な気がしたものだ。

 それが今はどうだろう。一歩も動いていないというのに、そこから感じる存在感は、や

たらずしりと重い。リリアンでもっとも厳しい、と言われる教師も裸足で逃げ出すだろう、

圧倒的な威圧感だ。

(凄いなぁ……どうしてあんな雰囲気が出せるんだろう?)

 これまで祐巳が見てきた異性には、こうした雰囲気の変化を自ずと出せる人がいなかっ

た。柏木も、父も、双子の弟である祐麒(ゆうき)もその例に漏れない。少なくとも祐巳にとって、

恭也は初めて見るタイプの異性である。

 それにしても、この時の祐巳は、ある種の〔傍観者的冷静さ〕で周りと恭也を見ている

――三人称で小説を書く作家の視点、と言えば遠からずだろうか――のだが、今の彼女に

そんな自覚は全くない。

「はぁ……凄いわね」

 隣から、溜め息がやけに大きく聞こえる。祥子だった。

(祥子さまも圧倒するなんて……高町さまって、何気に凄い人なんだなぁ。それにしても、

溜め息吐くのも美しいんだよねぇ、祥子さまって)

 祐巳が今度は祥子の横顔に見惚れている内に、笙が沙陀調音取を静かに締める。

 すると、恭也から放たれていた〔気〕が控えめなものとなり、ようやく観客は緊張感を

解く事が出来たのだった。

 

 

 

 

 

 龍笛が甲高く、長いひと吹きを数度奏で、それを追いかけるように鞨鼓、鉦鼓、大太鼓、

篳篥、笙が音の世界を構築し、沙陀調音取の時には動きを見せなかった恭也も、再び動き

出す。

 いよいよ『蘭陵王』の当曲、〔蘭陵王破〕(らんりょうおうのは)が始まった。

 演奏の方も、これまでとは全然質が違い、一気に力強さを増し、ぐっと引き締まったも

のとなっているが、恭也の舞もこれに負けていない。

 これまでのどれとも、今の恭也の発散する雰囲気は違う。最初から腕の振り、足の運び、

首の振り、瞳の力、全てにおいて、陵王乱序の時よりも勇壮さが前面に押し出され、囀の

時のような儚さはもはや、どこにも見ることが出来なかった。

 剣士としての動きもちらりと垣間見られるが、それは余程〔見る事が出来る〕人でなけ

れば分からない程度のものだ。

 恭也の放つ雰囲気に当てられ、演奏の方も熱が入る。観客は既に引き込まれていた。

 そして〔山百合会〕の皆も、恭也の動きから目が離せない。舞台の袖で恭也の舞を見て

いた蓉子は、

(はぁ……)

 熱い溜め息を吐いていた。

(きっと聖も江利子も、ううん……みんな恭也さんに釘付けになってるはずだわ)

 隣では、雅楽同好会の顧問である久我講師が、優しげな目を同好会のメンバーに向けて

いる。

 再び恭也に視線を向けて、蓉子はふと考えた。

(今、恭也さんは何を思って舞っているのかしら)

「水野さん」

「あ、はい?」

 久我に呼ばれて、蓉子は一旦そちらに視線を向ける。と、久我はいたずらを企んでいる

ような笑みを浮かべ、

「高町君に、ご執心のようね?」

 いきなり直球を投げ込んだ。蓉子が目を見開き、紅潮するのを満足気に確認するや、

「ライバルは多いはずよ? きっと、大変な事になるわね。うふふふ」

 いかにも楽しげに微笑む久我に、蓉子も苦笑する。

 そうなのだ。恭也に興味を抱いているのは蓉子本人だけではない。例えば江利子は、自

分が面白いと思ったら理屈も何も必要とせず、聖曰く、

(まるですっぽんのように)

 喰らい付いて離れない一面がある。

 聖はこれまで、ほんの少し退いていたようにも見えたが、しかしそもそも恭也をこのリ

リアンに呼ぶ事を、最初に言い出したのは聖である。

 三人とも同じラインにいると見ても良いくらいだし、今後つぼみ達も、程度の差こそあ

れ、何らかの形で絡んでくる可能性は充分にあった。

 そして、恭也は東京ではなく海鳴に住んでいるから、

(こっちだけでなく、向こうをも気にしないといけない)

 違う意味で、また溜め息を吐きたくなった。

 曲は半ばを過ぎて高揚し、恭也の舞う姿は優美な中に強い気迫を込めたものとなる。奏

者と舞人の呼吸がぴたりと噛み合い、音と舞が観る者を圧倒していた。

 舞う恭也と偶然に目が合う。一瞬ではあったが、恭也の瞳が優しく細められた――よう

な気がして、蓉子は胸の前で手を合わせる。

 大太鼓のだん、だん、という引き締まった音が、そんなわけはないはずなのに、何故か

蓉子の鼓動と呼応しているような気さえしていた。

 流れるような、しかしきびきびとした恭也の一挙動、一投足、そこから発せられるある

種の〔気〕が、観る者全てを魅了している。

 ひとしきり高揚した後、蘭陵王破は沙陀調音取のような静けさに戻り、恭也の舞もまた、

曲が締められると同時に、計ったかのごとくステージの中央で停まったのだった。

 

 

 

 

 

 大太鼓と鉦鼓、次いで龍笛、鞨鼓が速めの曲を奏で出す。

 舞楽『蘭陵王』を締める、そして舞人が退出――入手(いるて)と呼ばれる――の舞を舞う為の曲、

〔安摩乱声〕(あまらんじょう)である。

 舞人は、この入手の舞においても気を抜く事は許されない。奏者もこの点では全く変わ

らない。

「発つ鳥、跡を濁さず」

 という言葉があるが、ここでは正にそれを求められるわけだ。文字通り〔雅〕を(うた)う雅

楽において、これは当たり前の事である。

 淀みなく手足を捌きつつ、恭也は退出の為の舞を舞う。

 既に述べた事ではあるが、ここでの舞は退出の挨拶の代わりであると同時に、最後まで

観てくれた観客へのお礼も兼ねたものだ。

 出手が始めの挨拶だとすれば、入手は終わりの挨拶、曲の締めと考えればいい。

「あー、最初から見れたのは蓉子だけかぁ」

「ちょっと悔しいわね」

 聖と江利子は、祥子と祐巳の着付けの為に残っていた分、蓉子に比べて、

(割を喰った)

 格好になっていた。最初のおよそ五、六分――小乱声と陵王乱序を見逃していたのが、

ちょっと惜しい。泣いても笑っても、恭也が舞うのはこの一度きりしかないのだから、仕

方がないと言ってしまえばそこまでなのだけれど。

 それでも、やはり最初から舞を観たかった、というのが正直なところである。

「聖」

「ん? 何?」

「……やっぱり、目の色変わってるわよ?」

「江利子も、ね。ふふふ」

 顔を見合わせて、微笑み合う。

 江利子は、表情にこそ出していないが、聖の見せている〔変化〕に、少しばかり驚きを

感じていた。

 出会ってから今までの聖を見る限り、ここまで誰かに入れ揚げているのを見るのは、前

の年以来である。

 その頃ののめり込みようからすれば、今はまだ大人しい――と言うより、まだ退いたと

ころにいるのは、確かだ。確かだが、

(でも、退()いてる割にはあれこれ考えてるものね。それに……)

 江利子もまた、聖がその心の中に封印している〔もの〕を、知っている。その封印した

ものを、

(もしかしたら、恭也さんの存在が変えてくれるかもしれない)

 他力本願なのは承知だし、大して根拠のない勘働きだが。そして、

(私も、少しは変われるかもしれない)

 江利子はそう思っている。今後どうなるかは分からないが、

「面白くなりそうだわ」

 小さな呟きが漏れた頃には、既に恭也が退出を始めていた。打楽器が交互に打ち鳴らさ

れ、やがて恭也が舞台の袖に消えると、鞨鼓が一度、ひときわ強く打たれる。

 観客が鞨鼓の音に反応した時には、もう恭也の姿はない。龍笛、大太鼓、鉦鼓によって

曲は締めの段階に入っている。

 ふと、江利子が隣に目をやると、そこでは令と由乃が溜め息を揃って吐いていた。思わ

ず吹き出しそうになってしまう。二人の肩をぽんぽんと叩いて正気に戻すと、

「さ、今度は私たちよ。その前に、恭也さんを労いに行きましょ」

 笑顔で舞台の袖に向かう。それを皮切りに〔山百合会〕のメンバーが皆動き始める。

 龍笛の澄み切った音がひと声、観客席を、体育館全体を、まるで放たれた矢の如く、ま

っすぐに突き抜けていく。

 舞楽『蘭陵王』が、恭也の舞が終わった瞬間であった。

 

 

 

 

 

 観客席から、割れんばかりの拍手がまだ続いていた。もう、雅楽同好会のメンバーは全

員、舞台の袖に下がり、カーテンも閉じられたというのに。

 その意味をいち早く感じ取ったのは、顧問の久我だった。

「高町君」

「はい?」

「このままでは収まりがつかないから、一度ステージに出て、カーテンコールしてくれな

いかしら」

「俺だけ、ですか?」

「貴重な体験になると思うわよ?」

 そんなものだろうか、とでも言いたいような表情を見せると、恭也はカーテンの閉じら

れたステージに再び足を向ける。

 中央で合わされたカーテンを左右に分け開いて、観客から見える側――ステージの(へり)

立った瞬間、拍手がひと際大きくなる。今日、この場で演じた舞の評価を全て、物語って

いた。

 恭也は知っている。自分の力だけではないという事を。奏者達がしっかりとした演奏を

奏でてくれたからこそ、こうして拍手を受けるに値するだけの舞が出来たのだと。

 とは言え、観客がこうして最高の評価をしてくれているのはありがたい事だった。恭也

は一度まっすぐな礼をすると、今度は右の掌を胸に当て、力を抜いて深く、ゆっくりと一

礼し、今度こそ退出した。

 袖に戻ると、ようやく観客の拍手も止み、落ち着きが戻ってきた感がある。

「みんな、今日はご苦労様」

 久我がメンバーを労う。これで、日程は全て終わった事になる。後は〔山百合会〕の演

ずる『シンデレラ』を観てから帰途に着く――生徒達は後夜祭に参加するが、同好会のメ

ンバーは、後夜祭に参加出来るような日程を組んでいるわけでもないし、楽器などを持っ

て帰らないとならない。

 恭也を見る〔山百合会〕メンバーの視線が、どこか別れを惜しむかのような、ある種切

なげなものになっている。

「いやぁ、凄い舞だったよ、高町さん」

 その雰囲気を知ってか知らずか、柏木が諸手を拡げんばかりに勢い込んで、恭也の舞を

激賞する。そして恭也の手をおもむろに取るや、

「どうだろう? 今度は僕の為にその舞を……」

 柏木の、そこから先の台詞は続かなかった。何故なら、『シンデレラ』で王様役を演じ

る聖が、小道具である王位の杖でそれこそ手加減なしに、柏木の後頭部を引っぱたいたか

らだ。

 悶絶する柏木を横目に、

「あー、すっきりした」

 臆面もなく、聖はのたまったものである。

 祥子を始め目撃した皆が(恭也も一瞬ではあったが)、ひきつった苦笑を見せた。

 ともあれ場が収まると、久我が音頭を取る。

「みんな、それぞれ準備にかかってちょうだい。私たちの役目は、これでおしまいよ」

 何にしても、久我の言葉は正に現実であったし、リリアンの側の誰にも、それを止める

術はない――それは間違いなかったのだが。

 着替えのため、先に戻っていく恭也の背中を見送ると、久我は何を思ったものか〔山百

合会〕のメンバーの方を見て、何やら笑顔を見せる。

 すると、三薔薇さまが揃って久我に一礼。

 同好会のメンバーは、肩をすくめてみたり苦笑したりと様々な表情を見せつつ、やはり

控え室に戻っていった。

 その一方で、『シンデレラ』の舞台準備が、急ぎ行われていた。開演まで、およそ三十

分余り。

 いよいよ〔山百合会〕の、連日の稽古の成果が問われる時が、近付いてきたのである。

 

 

 

 

 

 控え室に戻り、普段着に着替えると、やっと素の自分に戻った気分になる。

 装束や道具を片付けて、帰りにいつでも運べるように一ヶ所にまとめておく。これで、

荷物持ち以外の全ての役目が終わった。

 そう、恭也は思い込んでいた。

「高町君」

 全ての段取りが済んだ頃、恭也は再び久我に声をかけられた。ちょいちょいと手招きさ

れ、耳を近付ける。

「同好会の一員でもないのに無理をさせたお詫び、と言っては何だけど……宿の一室、う

ちの名前で明日まで取ってあるから」

「……はい?」

「折角だし、後夜祭……話の種に見て行ったら?」

 久我は帰りの交通費――無論、同好会の予算から捻出したものである――の入った封筒

を、笑顔で手渡す。

「いや、ちょっと待って下さい。そういう話では……」 

 恭也は、それこそ人前で滅多に見せない表情になっていた。困惑していたのだ。

「撤収の準備は、全員でやればすぐに済むわ。荷物は業者さんに運んでもらえばいいし、

それに帰りは電車だから」

「……それは、まぁいいとしましょう」

 恭也には、どうしても聞かねばならぬ事があった。

「何故、俺なのですか?」

「そうねぇ。実は先日、私ともうひとり、という事で後夜祭の招待を受けたの」

「はぁ」

「でもね、〔今は〕高町君だけよ」

「……は?」

「高町君。明日講義を受ける予定は?」

 聞かれて、明日の予定を思い出してみる。

(確か、受ける講義の予定は……)

 ない。と言うより、後日何とか埋め合わせが利くような内容のものしかない、と言うべ

きだった。

「みんな、それぞれ朝から受ける講義があったり予定があったりで……私も明日はちょっ

とした会議に出ないといけないの」

「……」

「さっきも言ったけれど、高町君は同好会の一員でもないのに、色々と引っ張り回してし

まったでしょう? そのお詫びもあるし、付き合ってくれたお礼の意味もあるの」

「いえ、その事でしたら気にする必要は……」

 恭也のそれ以上の言葉を押し止めるかのように、久我は首を左右にゆっくりと振って、

「もうひとつ……ここで高町君に帰られると、少なくとも三人が困る事になるのよ」

 にんまりと微笑んだ。

「三、人……?」

 恭也がきょとん、とした表情を見せるのを面白がると、

「そろそろ上演が始まる頃ね」

「……」

「私は、高町君の事を全面的に信頼しているわ。そういう事だから〔山百合会〕の招待に

応じたの。しっかりね、代表代行さん」

 絶句して、一度天井を仰ぐ。恭也の(あずか)り知らないところで、非常に重要な事が秘密裏に

決められ、しかもいつの間にか、抜き差しならぬ局面で提示されているような気がした。

(三人とは、言わずもがな……か)

 すぐに想像がつく。頑として断る、という選択肢もないわけではないのだが、恐らく後

で色々と困る事になるような気がした。

 結局恭也は、久我の提案を受け容れたのである。








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