〜リリアン女学園高等部文化祭にて〜
第二話
「今回の学園祭に当たって、私たち〔山百合会〕の無理なお願いを聞き入れて来て下さい
ました、海鳴大学雅楽同好会の演奏をしばし、お楽しみ下さいませ。演奏する曲は、舞楽
『蘭陵王』です」
蓉子の声がマイクを通して、体育館の中に響き渡った。
ステージのカーテンが開かれ、客席からは左右に展開した奏者――同好会のメンバーの
姿が現れる。
特に背景のセットを組んだというわけではない。奏者は簡素な敷物の上に端座しており、
中央には舞人――恭也が舞うスペースに合わせた、大きな敷物が敷かれている。舞台の設
定はこれだけだった。
客席には、リリアンの生徒や一般の観客が大勢集まっている。観客の目的は、その大多
数が〔山百合会〕上演の『シンデレラ』であり、これから始まる演奏は、
(ちょっと贅沢そうな前座)
でしかない。この認識を粉砕出来るかどうかは演奏次第でありまた、舞を舞う恭也次第
とも言える。
観客の拍手が収まると、龍笛がその流麗な、甲高い音色を奏で始めた。
舞楽『蘭陵王』において最初に奏でられる〔小乱声〕という曲。
舞人が舞台に上がる前に奏でられる曲だ。大太鼓、鉦鼓が龍笛をサポートして、荘重な
雰囲気を漂わせていく。
そして、次の〔陵王乱序〕になると、装束を身にまとった恭也が、粛々と舞台の袖から
姿を現す。客席の雰囲気が明らかに変わった。
恭也は天冠を被り、海鳴大の時とは違って顔を見せている。本来『蘭陵王』では魁偉な
面を着けて舞う。しかし童舞と呼ばれる、子供や女性の舞の場合は、天冠を被って舞う事
になっている。
この『蘭陵王』では童舞もあるが、恭也は既に童と言うには成長してしまっているので、
龍頭の面を被って舞うのが、元々は正しい仕様なのだ。
それが今回、一種の〔掟破り〕をする事になった経緯は――要約すれば同好会の顧問と
三薔薇さまの話し合いが、極秘裏に持たれたという事である。さて、一体いつ行われたか
はともかくとして。
いずれにしても恭也の装束姿は、観客全てに、鮮烈と言っていい衝撃を与える事になっ
た。
リリアンに来た時から恭也は、生徒達の間でその容姿が話題となっていた。体育館を借
りた稽古では、見学に来る生徒が何人もいた――もちろん、見学を口実として恭也を見に
来ていたのだが。
稽古の時はもちろん私服だったから、
(暗い色の服を着た、落ち着きのある格好の良い大学生)
そんな印象を一様に抱いていた。
ところが本番の装束たるや、緋色を基調とした目にも鮮やかな原色の芸術。リリアンの
生徒達はその慎ましさを発揮して、黄色い歓声の合唱に陥る事はなかったものの、
(ああっ、素敵過ぎます)
(なんて凛々しいお姿でしょう……)
(まぁ……これほどの方がおられたのですね……)
客席に座る生徒達の目の色が、頬の色が、にわかに、急激に変わり始める。
ステージの中央に、恭也が立った。これからの二十分強、彼がどれだけ観客を魅了する
事が出来るか。その点について、恭也の左右で音を奏でる奏者達は、全く疑いを持ってい
ない。既に海鳴大の時で証明済みだったからだ。
いわば、
(もうこっちのもの)
というやつである。
後は、自分達がどこまでやれるか、それだけを考えれば良い。ここから先は、もう後戻
りなど出来ようはずもなかった。
新聞部の築山三奈子は〔妹〕の山口真美を引き連れて、午後の体育館の上演を取材しに
来ていた。
客席とステージ、双方をカバーできる角度をうまい事確保して、まずひと安心したとこ
ろに蓉子のアナウンスがあり、いよいよ演奏が始まった。
ふと視線を別の角度に向けると、そこには写真部の武嶋蔦子がいた。カメラを構えて雅
楽同好会のメンバーの写真を数枚撮っているが、見る限り、それほど身を入れている風に
は見えない。
龍笛の音色の美しさを感じていると、いよいよ恭也が姿を現した。その瞬間――
(あっ!?)
その時背筋を駆け抜けていった感覚を、どう表現すればいいだろうか。ステージの中央
に立つ恭也の姿から、目を離す事が出来ない。粛々とした立ち居が、どうやら三奈子の思
考を停止させてしまったようだった。
真美はと言うと、リリアンに来た恭也を全く間近に見なかった。三奈子があちこち突っ
走って取材するのをフォローするのに手一杯で、〔山百合会〕が呼んだ、
(どこかの大学の同好会のメンバー)
以上の認識を、持っていなかったのだ。それでも、実際に恭也に会って来た三奈子から
話は聞いていたので、彼女なりにこの時を楽しみにしていたのである。
そんな真美も、恭也の装束姿には呆然とした。男性でこうした、言っては悪いがど派手
な衣装が似合うとすれば、普通は芸能界で活躍するイケメンくらいのものだろう。そう思
い込んでいたが、そんな先入観を一瞬で吹き飛ばされた。
「はぁー。セットなんて組んでないのに、凄い絵になりますねぇ……」
驚きの表情で呟いた真美が三奈子の方を向くと、三奈子は思考どころか動作も停止して
いた。ただ一点、恭也の方を、半ば恍惚とした面持ちで見ている。いや、見ているのかど
うかすら、怪しいものだ。
「お、お姉……さま?」
心配になって声をかけた時、三奈子の右手に握られていたはずのボールペンが、いつの
間にか滑り落ち、乾いた音を立てた。
「……はっ!?」
その音で、三奈子はようやく我に返ったようだった。
「大丈夫ですか? お姉さま」
「な、何の事かしら、真美?」
「いえ、ぼうっとしていたみたいなので」
「私が?」
「……」
真美が、拾ったボールペンを黙って差し出すと、三奈子はばつの悪い顔になって、
「あ、ありがとう」
受け取るとまた、ステージの方に視線を向ける。
溜め息をひとつ吐いて、真美は何気なく違う方向に視線を転じた。その目に飛び込んで
きたのは、先程見た時とはまるで、気の入り方が違ったようになっている、写真部のエー
スの姿。
(あ、あーあ……蔦子さん、狙いの被写体って女子高生じゃなかったかしら?)
唖然とした表情で真美が見ているのに気付いているのかいないのか、蔦子は全くお構い
なしにカメラを恭也に向けて、シャッターを切りまくっている。
片や、隣ではメモを忘れたかのように――もしかしなくても忘れているだろう、真美は
勝手に確信した――恭也に視線を向ける三奈子。
(お姉さま、新聞部のエースが仕事放ったらかしてどうするんですか? もう……)
真美は深い慨嘆を、しかしすんでのところで内心に収める事が出来た。
この上私まで呆けてしまっては、新聞部の役目が果たせない――いや、むしろ三奈子を
見て冷静さを保たなければならない、そう思ったと見た方が正しいのだろう。
いずれにしても、真美は自らの成すべき事を見つけ出したのだった。
正直なところ、実はそんなに期待していなかった。
蔦子の本音はこんなものである。元々、今の彼女が最も望むところの被写体は、何と言
っても〔女子高生〕だからだ。
そんなわけで、恭也を相手に話す三薔薇さまの自然な表情は、
(カメラに選ばれ、天より与えられし審美眼)
を刺激して止まなかった。
もちろん、蔦子は恭也にもいささかの興味を持って、恭也単独の写真を撮る事を試みた
事が、幾度かあった。
だが、三薔薇さまと共にいる時はいざ知らず、独りでいる時の恭也からは、まるで付け
入る隙というものを見つけられない。いや、それどころか近付こうにも、すぐに感付かれ
てしまう。まるで感知センサーでも付いているかのようだ。
別にパパラッチを気取っているわけではなかったが、それにつけても相手があまりに悪
過ぎた。
「うぅむ、どうして高町さまのベストショットを撮れないのか……」
とは言え、学園祭を前にした校内には、何も恭也にこだわらずとも、言葉は悪いが被写
体がそれこそ〔ごろごろと〕転がっている。差し当たり蔦子は彼女達の、
(これは、と思ったある一瞬を写真に収める)
そちらの方に集中する事にしたのだった。
恐らく正攻法でいけば、恭也は単独での写真撮影に応じてくれただろう。だがそれは、
(自然な、美しい写真が撮れない)
独自のポリシーでカメラを構える蔦子にすれば、何とも我慢ならないのである。
一応、金曜日の稽古の写真を撮る事は出来たが、それも同好会会長の田丸に話を通して
どうにか可能となった事だし、しかも昨日の稽古はついに、見そびれてしまった。
この日、演奏が始まる直前の、雅楽同好会のメンバーを数枚分撮ったのは、最初に入れ
ていたフィルムの残りを使い切る為であった。新たに交換してからは、
(さて、どうしようか……うん、とりあえずは高町さまがどんな姿で出て来るか、それを
見てから決めよう)
全然、と言っていいほど気乗りしないままで、演奏が始まった時も、それは大して変わ
らなかった。
雅楽、舞楽と言われても、大多数の同世代がそうであるように、蔦子にはいまいちピン
と来るものがない。
演奏が始まり、そこで奏でられる龍笛の音色は確かに美しかった。でも、音色を写真に
収める事は出来ない。ひとつ溜め息を吐いている内に、いよいよ恭也が舞台の袖から出て
きた。
(……う)
一瞬、息が止まった。蔦子にしては全く稀な事なのだが、この時彼女はカメラを向ける
事を、すっかり忘れてしまっていた。粛々とステージの中央に出てきた装束姿の恭也は、
それだけの衝撃を与えたのである。
(……う……美しい……)
不覚にも――後にそう述懐したらしい――蔦子は、恭也の装束姿に、普段他の生徒を被
写体として撮っている時以上の、
(強烈な興奮)
とでも、言うべきものを覚えてしまっていた。
そこから先は、もう無我夢中だった。忘れていた事を唐突に思い出し、すぐに構える。
こうなったら、周りの事はもう、どうでも良くなってしまう。
「神様、写真の神様。私にこれほどの機会を与えて下さり、心から感謝いたします」
小さく、ごく小さく蔦子は呟き、シャッターを切りまくる。
この時全く、そう。全く自覚はなかったが、蔦子は半ば恍惚に浸った表情で、恭也が現
れてからの短い間に、交換したばかりのフィルムを早くも十枚ほど、使ってしまっていた
のだった。
リリアンの〔マス・メディア〕に強烈な一撃を浴びせると――もちろん、当の恭也本人
にはそんなつもりもなければ意識もないが――太鼓と鉦鼓、そして鞨鼓が呼応しながら打
ち鳴らされる中、恭也は更に呼吸を合わせつつ出手の舞を舞う。桴を持つ右手、剣印を組
んだ左手が、緩やかに、時にしなやかに動く。
その毅然とした舞容が観客を魅了するのに、全く時間はかからなかった。
確かに、今時のダンスに比べれば、激しいアクションと言うべきものはない。しばらく
打ち続けられた打楽器に、今度は龍笛の音色が加わるが、それにしてもテンポは一定に保
たれている。その一定のテンポに合わせ、作法に則って舞っている。
こんな書き方をしてしまえば単純、簡単なように思えるかもしれない。が、その動作ひ
とつに華麗さと重厚さ、舞人の精神的な〔表現力〕を同時に求める舞楽の舞は、一筋縄で
はいかないのだ。
海鳴大の時と同様に、恭也は剣印を文字通り剣、いや小太刀に見立て、桴も同様にイメ
ージしながら、しかしそれに溺れる事なく、その〔小太刀〕を抑制しつつ動いている。
それが証拠にこの時の恭也の表情は、まことに静謐なものだった。面を着けていないだ
けに、その雰囲気が際立って見えた。
(む……武嶋さん……反対側は築山さんか。その隣にいるのは後輩、かな)
ステージ上で舞う恭也の視点からは、ちょうど観客席を一望出来る。少し首を動かすだ
けで、自分に向かってシャッターを切る蔦子と、取材を忘れてしまった三奈子も見る事が
出来た。
剣士としての感覚が、舞いながらも静かに周囲の〔気〕を捉え続けている。観客の中に
は、うっとりとした面持ちになっている生徒も何人か見受けられた。誰もが舞の動きのひ
とつひとつに、釘付けになっているようであった。
ここで視点を変えてみよう。そんな恭也を撮りに撮り続けていた――演奏の始まる直前
に取り替えたフィルムを、早くも使い果たしてしまった――蔦子が、ふと視線を移すと、
(おや、三奈子さま……いい具合に呆けてらっしゃる)
こんな近距離にこれほど格好の被写体がいるのを、どうして気付かなかったのか。そん
な事を思いつつ、手早くフィルムを交換して一枚。
「まぁ、三奈子さまに見せて、後は処分かな……もったいないけれど」
ひとりごちながら、今度は恭也に焦点を合わせ、
(えっ?)
急に雰囲気が変わった事に気が付いた。一度カメラを下ろし、肉眼で恭也の舞を見る。
その限りでは、恭也の舞にいわゆる〔危な気〕というものは全く感じられない。
(……気のせい、かしら?)
不思議に思いつつ再びカメラを構え、レンズ越しに恭也を見る。おかしな事だが、肉眼
で見た時とレンズ越しに見た時とで、見えるもの、いや、感じるものと言うべきだろうか。
それが全然違うのだ。
(気のせい、じゃない……わね)
その時蔦子が感じたものは、理屈で説明の付くものでは、多分ない。この時彼女が感じ
たものを敢えて言葉に表現するとすれば、それは、
(儚さ)
そんな形容をするべきものであろう。別段冷えてもいないはずなのに、何故か背筋をう
すら寒いものが、じわりと全身を苛んでいく。
「美しいものを見てるはずなのに、何なんだろう……この寒気は?」
とにかく、この急激な変化をむざむざ見送ってしまってはならない。気を取り直した蔦
子は、再びシャッターを切りまくる。
曲が終わり、恭也は動きをぴたりと止める。残響が余韻を引いて消え去ると、体育館の
空間全てを、しんとした静寂の帳が覆う。
観客の殆どが気にしていなかったが、実は演奏が始まってからたった五、六分程度しか
経っていないのである。
恭也が再び動いた。奏者はここでは誰も音を奏でない。この〔囀〕は、舞人の独り舞台
と言ってもいい。
ステージの中央を舞い動く恭也の姿を、〔山百合会〕の面々がその瞳に捉えたのは、ま
さにこの囀が始まってからだった。幕の間からその姿を見て、彼女達は、
(あっ……)
息を呑んだ。
恭也の舞そのものは、確かに優雅でかつ力強さも同時に備えている。だというのに、何
故かその合間から、どうしようもない〔何か〕が現れるのだ。その〔何か〕が、彼女達の
心を締め付けるのだ。それは、蔦子が感じたものと全く同類のものだった。
海鳴大の時、三薔薇さまが見た時は数度、それもほんの一瞬だけ姿を見せて、気が付い
た時にはすぐに影を潜めていたのに、今度はその〔何か〕がまざまざと、観る者全てに対
してさらけ出されている。
「……す、凄いわ……あの時の比じゃない……」
江利子の呟きがやけに大きく聞こえるなと思いながら、聖はまた別の事を考えていた。
(あの時と、同じ……)
かつて味わった、突き刺すような痛み、そして空虚な喪失感。どうして、恭也の舞から
こんな痛みを感じるのだろうか。いや、恭也そのものからそれを感じるのだ。一体どうし
てなのだろう。
まるで、今いる場所から不意に、恭也がどこかへ消え失せてしまうような。
聖は、一度その感覚を痛烈に思い知らされている。そして、そんな思いを味わうのは、
一度で沢山だった。二度は、ごめんだ。
(嫌だ……そんなの嫌だよ)
どうしてか分からないまま、聖はそう叫びたい衝動に駆られたが、誰かの肘だろうか、
自分の身体にこつり、と当たったのを感じ、危うく踏み止まる。
「はぁ……もしひとりで観てたら、耐えられないかも……」
自分がこのひと時、どれほど緊張していたのか。肩の力を抜いて小さく呟く。ごくごく
小さなその呟きは、くぐもっていて周りの誰にも聞こえる事はなかったが、少しくらい声
が出たところで、周りが気付くかどうかは疑問だったろう。
ふと隣に目をやると、志摩子は誰が見ても分かるくらい頬を上気させ、一心に恭也の舞
を見つめている。令や由乃もまた、舞から目を離せないでいた。
聖はようやく自分を取り戻して、
(魂を抜かれる、って表現がぴったりだね)
くすりと微笑む。そこへ祥子と祐巳が、おっとり刀で追いついて来た。
「ちょうど良かった。ほら、ステージ見て」
聖に勧められるがまま、二人は目を向けて――そのまま仲良く固まった。祥子もそうだ
が、祐巳の固まり具合たるや、
(中々の見ものだわ)
百面相どころか、目を見開いて口をぱくぱくしたまま固まっているところを見ると、ひ
と目で余程の衝撃を受けたに違いない。
悪戯心が働いて、祐巳を背後から抱きしめたくなった。だが、
「祐巳? 祐巳ったら……」
祥子が何かの拍子に、かちこちになった祐巳に気付いたのか、声をかけているのを見て
思いとどまる。もっとも、それだけが理由ではない。
(うん、やっぱり壊したくないもんね……)
やれば、きっとそこから騒ぎになる。そうなればこの雰囲気をぶち壊してしまうし、何
よりも、恭也を失望させてしまうであろう事が最大の恐怖だった。
恐らく、舞台の袖からは、蓉子がやはり恭也の舞に見入っているはずだった。江利子も
すぐ側で、恭也に視線を固定している。
そして聖もまた、同様にその瞳を恭也に向けた。見失ってはならないものを見るかのよ
うに。