海鳴大雅楽同好会が、リリアン女学園の学園祭に参加するのが決定した事。それは、果
たして吉と出るか凶と出るのか。
少なくとも、呼ぼうと画策した側――三薔薇さまは、この決定を大いに歓迎した。学園
祭にちょっとしたひと味を加えられる、というのも当然あったが、それ以上に理由として
大きかったのは、高町恭也という青年の存在である。
〜リリアン女学園高等部学園祭までの挿話〜
第二話
私立リリアン女学園、と言えば、日本で有数のお嬢様学校として、知らぬ者はないと言
われる有名な学園である。
例えば。校内の挨拶で普通に交わされる、
「ごきげんよう」
そんな優雅な挨拶からして、もはや別世界とでも形容するべきだろう。明治の頃、華族
の子女の教育を主な目的に創設された伝統が、今もここでは色濃く継承されていると言っ
ても、過言ではあるまい。
その高等部の一角に建つ、いささか小ぶりな洋館を思わせる建物に、少し目を向けてみ
よう。そこは、通称〔薔薇の館〕と呼ばれている。
その二階の広い一室の中で、福沢祐巳はちょっと、どころか相当混乱していた。
発端は、学園祭を二週間後に控えた朝の出来事。校門からいちょう並木を抜けた場所に
あるマリア様の像の前で紅薔薇のつぼみ――小笠原祥子に思いがけず声をかけられ、セー
ラー服のタイを手ずから直されたのである。
それだけならまだ良かったが、その瞬間を写真部の武嶋蔦子に撮られた上に、その写真
を学園祭の写真部展示に使用する許可を得る為の、いわば交渉役をする羽目になってしま
った。パネル付きで飾る、というオマケ付きで。
これまで縁のなかった〔薔薇の館〕に初めて入ったと思ったら、今度は祥子に押し倒さ
れたり抱きしめられたり――こんな書き方だと、何やら微妙な想像というか妄想が思い浮
かびそうだが、端的な事実のみを簡潔に書くと結局こうなる――騒動の果てに、
「私は、今ここに福沢祐巳を〔妹〕とする事を、宣言いたします」
祥子の、いっそ清々しく思えるひと言が、祐巳の混乱の極北を文字通り決定付けてしま
ったのだった。
もっとも、話はそれだけに留まる話でもなく。俯瞰すると、この日の〔薔薇の館〕の中
は、祐巳が混乱して当然の状況にあった、と言ってもいい。この点に関して、祐巳にとっ
ての助け舟は、祐巳に無茶な交渉の役を祐巳に持ちかけた蔦子である。
「話が全然見えません」
蔦子のこの言葉に慌てた祥子が、強引に話を打ち切ろうとするのを、
「解散したければ、一人で帰りなさい」
黙らせると、紅薔薇さま――水野蓉子は事の次第について、説明を始めた。
三薔薇さまの、入れ替わり立ち代わりの説明で、ようやく祐巳にも何が起こっていて、
それが何故自分にふりかかって来たのか、おぼろげながらも飲み込めてきた。
学園祭で〔山百合会〕が行う事になっている劇『シンデレラ』の主役は、当初祥子に決
定していた。が、今日になって祥子は突如、それを拒否した。
王子役として隣の男子校、花寺学院の生徒会長をゲストに呼んだ事がその原因である。
自分がいない間にそんな事をと、祥子は散々ごねたのだが、その時いなかった理由はとも
かく、決定は覆りそうにない。
何しろつい先だっては、三薔薇さまが揃って、花寺の学園祭に助っ人に行ったのだそう
だから。
「男嫌いもほどほどにしないと……」
祐巳はその言葉に、何か得心がいった気がした。今の祥子のぴりぴりとした雰囲気から
して、ぴたりと当てはまってしまうから。考え事をしていた表情を白薔薇さま――佐藤聖
に見て取られ、
「百面相していたわよ」
茶化されたのはいいとして。祐巳にとってどうでもよくなかったのは、そこから先だっ
た。折角目の前に出された紅茶が、湯気の主張も空しく、次第に冷めていく中でその事を
知った時、
(私は、祥子さまが役を降りるための、藁しべだったわけか)
理解半分、ばかばかしさ半分。
「〔妹〕ひとり作れない人間に、発言権などない」
と言う蓉子の言葉に対する措置であるのと同時に、花寺の生徒会長との共演を降りる為
の、いわゆる〔交渉カード〕にされたのが、今の祐巳の立場だったわけだ。
これでは、いかなリリアン独特のスール制度と言ったところで、認められるわけもない。
当たり前だが、蓉子は手厳しい反応を示す。
だが、これで勝負あったかと思いきや、話はそこで終わらなかった。
初対面の人をいきなり〔妹〕にするのか、という蓉子の追及に対して、白薔薇のつぼみ
――藤堂志摩子が初対面ではないと異を唱えた事、そして蔦子が全員に見せた写真。
祐巳のタイを直す祥子の姿を納めた写真が、祥子の劣勢をいささかなりと盛り返す材料
になったのは、ある意味皮肉とも冗談ともつかないものかもしれないが。
ただ、話そのものは、全く解決していない。妹とシンデレラの役と祥子の男嫌いの間で、
行くアテもなくおろおろと、落ちどころもなく右往左往している。
蓉子曰く、
「男嫌いは役を降りざるを得ないほど、重大な理由ではない」
確かにその通りであった。更に、蓉子は祥子に追い討ちをかける。
「祐巳さんは、祥子の何?」
祥子はそれに対して、
「祐巳は私の妹ですわ」
しかも、ご希望ならばと前置きして、
「皆様方の前で、儀式をしても構いませんけど?」
言い切ってのけた。妹となる後輩に、姉となる先輩がロザリオを渡す、ささやかな、し
かし神聖な儀式。
だが、この場で流されるままスールの儀式、というのも、祐巳にとっては抵抗が大き過
ぎた。彼女自身は祥子に対し、崇拝に近いと言える憧れを持っていたが、
「ファンだからって、必ずしも妹になりたいかって言うと……」
祐巳にとってそれはそれ。例え、
「正式なスールになれるのに、不満に思う生徒がいて?」
鳥居江利子――黄薔薇さまのつぶやきが、正しいとしても。
話があちこち脱線しつつ、結果として祥子は祐巳を妹にし損ね、シンデレラの役も降板
出来そうにない事が、確定しつつある。
実のところ、肝心要の写真の件はどこかに吹っ飛んでしまっていた。が、祐巳にすれば
それどころではない。自分の未来、と言うにはかなり大仰だが、少なくともごく近い将来
の学園生活が、かかっているわけで。
ただ、男嫌いと言う祥子に、無理矢理花寺の生徒会長と共演させるのも、また酷な話じ
ゃないか、そんな気もしている。そして、祐巳は行動を起こした。
「花寺学院の方に、今回は遠慮していただけるように、お願いできませんか?」
それでなければ役の差し替えを。元々連絡ミスだって、祥子さまだけの責任では――し
かし、これには祥子から、
「お黙りなさい!」
ひと言が飛んだ。
「私の為なら、お姉さま方を非難しないで」
いずれにせよ、この時期かなりの段階まで、準備は進んでいた。
衣装やポスターの発注は、とうの昔に済ませてあったし、王子役については言うまでも
ない。近い内に立ち稽古も始まるから、準備は本格化の一途をたどる。
何しろ〔山百合会〕の看板を背負って立つ、学園祭最大の目玉と言っていい。だからこ
そ、万全の状態で本番に臨みたいのは誰もが同じだった。
もっとも、流石に無理矢理男子生徒とダンス、と言うのもどうかとは思うし、納得して
いない後輩に物事を強要させるようでは、生徒会の何たるかが問われる。かと言って、時
期的にも配役の変更など、とてもじゃないが急には出来ない。
花寺の生徒会には、正式にゲストの依頼を出してあるから、今更変更は利かない。シン
デレラの役柄だけならまだしも。
そうこうしている内に、聖がとてつもない事を言い出した。
「祥子が祐巳さんを妹にできるかどうか」
この成否で、シンデレラの役を決める。もし祐巳が妹になって祥子が降板したら、祐巳
がシンデレラ役になって舞台の上に上がればいい、そう言い出したのだ。
即ち、祐巳も劇の稽古を、それも主役の稽古をしてもらう事になるわけで――
「祥子さまの代役なんて、無理です!」
悲鳴に似た訴えも、こうなってしまっては最早、通用するわけもなかった。
シンデレラと祥子の妹の話をひとまず終えると、蓉子がさり気なしに、
「そうそう……この前、正式に決定したのだけれど。今回の学園祭は、花寺だけでなく他
にも、ゲストを依頼してあるわ」
そんな事を言い出した。
「それは、どこでしょうか?」
黄薔薇のつぼみ――支倉令が質問する。
顎のラインで揃えた髪の毛のひと房を、ちょん、と指でもてあそぶと、蓉子は微笑を浮
かべる。
「海鳴大学の、雅楽同好会」
聖と江利子が、にんまりとしたのを祐巳は目の当たりにしたが、それが何を意味するも
のなのか、まるで判断がつかない。
「海鳴って……あの海鳴ですか?」
黄薔薇のつぼみの妹――島津由乃の問いに、蓉子は首を縦に振る。
「ちょっと前の話になるけれど……海鳴大学の学園祭を、覗いてみる機会があったの。山
村先生に同行してもらってね」
江利子が蓉子の後を継ぎ、
「で、雅楽同好会の上演を実際に見て、これはゲストとして招待する価値がある、って事
で、向こうに依頼したの」
聖が総括した。
「雅楽、と言っても、曲だけのものもあれば、舞が入るものもありますけれど、お姉さま
方は、どのようなものをご覧になったのですか?」
祥子が小首を傾げつつ質問する。この辺り、流石はお嬢様、と言うべきだろうか。祐巳
はと言うと、雅楽の〔が〕の字も把握できず、ぽかんとした表情になっている。ましてや、
クラスの担任が一枚噛んでいるとは。
「舞が入る方……『蘭陵王』だったわ」
江利子が補足すると、
「でも、あれから決まるまで、長かったわよねぇ」
聖が肩をすくめてみせた。
「そうね。校長先生と教頭先生にあの画像を見せて、それから職員会議……もっとも、こ
こ最近は行事がめじろ押しだったから、後手々々になってたのは仕方ないわね」
蓉子が軽く溜め息を吐いて、それでも笑みを浮かべている。
「とにかく、正式な依頼も出したし、海鳴大の方でも承諾してくれたから、こっちの方は
問題なしね」
江利子が、にんまりとした表情をそのままに、
「またあの舞を見る事が出来るんだから、私達って幸運よね」
楽しげな声を上げる。
「はい」
声が上がって、祐巳がその方向を向くと、蔦子が控えめに挙手していた。
「何かしら、蔦子さん?」
「大学から呼ぶとなったら、こちらの大学から呼べば、それで済んだのではないかと思う
のですが……どうして海鳴大だったのでしょうか?」
蔦子の疑問は、的を得たものだった。ゲストを呼ぶとなれば、むしろ〔こちらの大学〕
即ちリリアン女子大から応援を頼めば、それでいいはずである。
「その点は、蔦子さんの言う通り。でもね、この事は私達にとっても、偶然の部分が結構
大きかったの」
最初に答えたのは、聖だった。
「では、もしそれを見なかったとしたら、呼ぶ事はなかった、という事なのですね?」
「そうね。間違いなく、今回のような事にはならなかったわ」
蓉子の返答に、蔦子は何か言いたげな表情になったが、それ以上口に出す事はなかった。
ちなみに祐巳は問答を聞きながら、
(雅楽って、どんなものだったっけ?)
ぼんやりとした頭で思っただけである。そもそも、その前に受けた衝撃が、あまりに大
き過ぎたのだ。
ともあれこの日、〔山百合会〕における会議は散々混乱しながらも、概ね一定の方向性
を持たせる事が出来たのだった。
薔薇のつぼみ達を先に帰すと、しばらくして聖が急に笑い出した。
「あはははっ、これで作戦は大成功だね」
「そうね。でも、山村先生には感謝しないといけないわ……いくら実際に見たとは言って
も、画があるのとないのとでは、説得力に差が出るもの」
蓉子は冷静に振り返る。
山村が、録画した動画を校長と教頭、ひいては職員会議で全職員に見せていなかったら、
事はこうもスムーズに運ばなかっただろう。それは、江利子も聖もよく分かっていたが、
江利子は、口に出してはこう言った。
「恭也さんの舞は見れば凄いって、誰でも分かるわ。少なくとも、あの舞を真似出来る人
なんか、いないわね」
その言葉に、へぇ、と言わんばかりの表情になった聖が、
「江利子にも、出来ないものはあったのか」
少し茶化すような口調で聞く。
「単なる舞の作法だったら、多分出来るわよ。でも、ね……」
ふと、恭也の舞を思い出す江利子。
「あの舞の雰囲気……それに、一瞬だけ見せた言いようのない〔何か〕……私には出せな
いし、きっと他の誰にも出せないわ」
「んー……」
聖は思わず唸ってしまう。確かに、恭也が舞の中で見せた雰囲気は、一種独特のものだ
った。江利子の言う〔何か〕に気付いた時には、柄にもなく背筋が震えたものだ。
ともあれ。蓉子が会議の席で公にした、海鳴大雅楽同好会についての情報は、
(学園――正確には三薔薇さま――の依頼に応じ、学園祭にゲストとして参加する)
(リリアンに来るのは、顧問を含め十一人)
(その内顧問ともう二人が、楽器などの機材と共に先発して、来週の木曜日にリリアンに
来る予定になっている)
(なお、同好会の人員の都合上、男子が二人加わっている――先発の二名――ので、この
点は何とぞご理解、ご了承をお願いしたいと、申し入れがあった)
その他、当面の宿泊先についての事などといった、およそ主要なものである。一見、噂
話もお構いなしに、記事にしているかのように思える新聞部に知られたとしても、特に支
障のないものばかりだった。
もちろん、その中に恭也が入っている事を、三薔薇さまは疑っていない。何故なら、
(学園側のリクエストに応え、上演する曲目は『蘭陵王』とした)
旨、雅楽同好会からの返事に含まれていたからだ。海鳴大学園祭での、同好会の顧問に
対する内々の打診が、受け容れられた形になる。
「さて」
聖が何気なく発言した。
「問題は、ここからなのよねぇ」
「聖、問題って?」
江利子の問いかけに、
「んっふっふっふ……」
「何を含み笑いしてるのよ、聖。何かあるならはっきりおっしゃい」
「まぁまぁ蓉子、これは私達三人の問題なんだから」
「えっ?」
蓉子が、要領を得ないでいる事に満足気な表情を見せると、聖はおもむろに、ゆっくり
とのたまった。
「誰が優先的に、恭也さんの相手を、す・る・か」
先に帰ったつぼみ達が、もしこの光景を見たらどう思った事だろうか。三薔薇さまの周
りの空気の質が、瞬間的に変わってしまっている。
「……それは、確かに問題ね。大きな問題だわ」
数瞬、沈黙の帳が降りた後、それを跳ね上げたのは、瞳を面白げに光らせ、大乗り気の
笑顔を見せる江利子だった。
「あ、あなた達ねぇ……」
呆れた表情を見せた蓉子に、
「ほらほら蓉子、呆れてないでさっさと決めるよー」
聖が、にんまりとした表情のままで促す。
窓に差し込む陽の光が、急速にその力を弱めつつある。いかにも、秋のたそがれ時と言
うべきだった。
何かを決める時に、もっとも簡単で、古典的(?)な方法――それが、じゃんけんであ
る。真偽の程はさて置き。
三薔薇さまの誰が、恭也に優先的に近付くかという重大な、少なくとも三人にとっては
重大な問題の解決方法として。
「いい? 最初はグーよ」
間抜けた方法と言うなかれ。
「さーいしょーはグー」
蓉子、江利子、聖が同時にグーを出す。ここからの数瞬が、勝負の分かれ目だ。当たり
前の話だが、じゃんけんにはグー、チョキ、パー、三つの手しかない。この限られた手の
どれを出せば、一人勝ち出来るか。
ほんの数秒の間に、三人の頭脳が目まぐるしく動く。
「じゃーんけん」
それぞれの右手が振られ、
「ぽん!」
出された。
「う……」
「ん……」
「む……」
蓉子がグー、江利子がチョキ、聖がパー。三すくみなので、ここは勝負なし。
「おのれ、江利子がグー出せば一人勝ちだったのに……」
「そう簡単には勝たせないわよ、聖。それにしても、蓉子がパーさえ出してくれたら私の
勝ちだったのに、惜しかったわ」
「聖も江利子も……こういうのは運次第でしょ?」
「とか何とか言っちゃって。ホントは私がチョキ出せばとか、思ってたんでしょ? この
このぉ」
「あ、あのね」
そんなこんなで、第二ラウンド。
「さーいしょはグー」
「じゃーんけん……」
「ぽん!」
今度は、三人ともパーを出していた。あいこでまたも勝負なし。今度は三人とも声を上
げない。程度の差こそあれ、どことなく瞳の色が真剣さを帯びてきた感もある。
第三ラウンド。
「さーいしょーはグー」
「じゃーんけん」
「ぽん!」
――グー、グー、そしてパー。三度目の正直、決着が付いた――
「あら」
「んー、負けたか……無念」
蓉子が、苦笑気味に自分の開いた掌を見やる。この勝負、勝ったのは蓉子だった。
「でも、勝ったからって仕事が減るわけじゃないわ。やるべき事は山積みだし」
「分かってるわ。でも、恭也さんの相手をしてる時くらいは、少しくらい肩代わりするわ
よ」
「そうそう。大船に乗ったつもりでどーんと、恭也さんにぶつかっていこう!」
「……聖にそんな事言われても、喜べばいいのかどうか、微妙だわ」
「うー、江利子ぉ、蓉子がいぢめるー」
「はいはい。お互い負けた者同士、仲良くしましょ」
「ちょっと江利子ぉ……その言い方、何か投げやりじゃない?」
「ふふっ、それはそうよ。これでも勝ちたかったんだし」
「結局、考えてた事は三人とも一緒だった、って事なのよね」
聖がからからと笑い、江利子は楽しげに微笑む。それを見て肩をすくめ、微笑を見せる
蓉子。
窓を見て気付くと、黄昏がいよいよ宵の色に変わり始めつつある。
「さあ、今日はここまでね。そろそろ帰りましょう」
蓉子のひと声を合図に、この日の三薔薇さまの日程は全て、終了したのだった。