グリフォンのつがいの彫刻も見事な衝立の向こう側では、一見した限り、初老と思しき男が上体を起こしながら寝台の上で横たわっていた。

 血管の筋が、隆、と浮き出た細い手首で、分厚いハードカバーを支えている。

 よほど面白い内容なのか、こちらの接近にはまったく気づいていない。

 そんなにのめり込んでしまうとは、いったい何の本だろうか。

 気になった柳也が訊ねてみると、相手はようやくこちらの存在に気づき、驚いた表情を浮かべて顔を上げた。

「……来ていたのか」

 見た目のわりに、張りのあるしっかりとした声だった。

「つい先ほど。……それで、何を読まれていたのです?」

「医学書だ」

 本ののど奥に栞を挟み、畳んだ状態で表紙を見せてくる。えんじ色のキルトのカバーには、力強い筆跡でルーン文字が綴られている。……ううむ。読めん。

「ゲルマニアが生んだ天才、ルネ・ヘルゲルト卿の著作だ。わがトリステインの医学界からは〈殺し屋ヘルゲルト〉と呼ばれ、異端の医師として認定されている。それゆえ、筆まめな性格にも拘らず、わが国には著書がほとんど入ってこないのだ。しかし、さすがは魔法学院の図書館であるな。異端者の書物も、研究用に何冊か収めておった。ミスタ・クラウスに頼んで、借りてきてもらったのだ」

「異端というのは?」

「ヘルゲルト卿は医師としては珍しい土系統のメイジなのだ。彼は『なぜ、人は病気に罹るのか? 病気の原因は何か?』という問題を研究しているのだが、そのやり方が問題視された」

 眺めているのが痛々しいほど青白い顔に渋面を浮かべて、男は言った。

「卿は人体の構造を隅々まで把握する、という土メイジらしい方法をもって研究に取り組んだ。彼は病気に罹った者の体と健康な者の体を調べるため、ある異常な行為に手を染めた」

「それが、卿を異端たらしめる理由ですか。いったい何をしたのです?」

「死体の解剖だ」

「げっ」

 淡々と告げられた言葉に、柳也もまた顔を青くした。

「卿は墓所から病死した人間と、老衰で死んだ人間の死体を持ち出してその腹を開き、臓器の一つ々々を比べてみた。彼の研究のおかげで、我々は人体の神秘についてかなりの部分を解き明かすことが出来たが、死者を実験体として物扱いするやり方は批判の対象となったのだ」

 まるでダ・ヴィンチのようだ、と柳也は溜め息をついた。ルネサンス時代を代表するこの天才芸術家が、人体をより正確に描写するために三十体にも及ぶ死体を解剖したのは有名な話だ。

「……ところで、今日は何の用だ?」

 ハードカバーをかたわらの丸机に置いて、男はその身を寝台に横たえたまま訊ねてきた。

 およそ客人を出迎えるのに相応しい態度ではないが、柳也の表情に特に気分を害した様子は見受けられない。相手が病人と心得ているからなのか、それとも、彼我の社会的な立場、地位の差を踏まえての態度なのか。彼はにこやかに微笑んで、「お見舞いですよ」と、応じた。

「見舞いか……」

 男は柳也の背後に置かれた衝立に目線をやった。

 描かれた画を眺めているというより、その向こう側にいるであろうミスタ・クラウスを気にしているようだ。

 視線を柳也に戻した彼は、舌先で言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。

「それはありがたいことだ。それで、見舞いの品は何かね?」

「……ご自分から見舞いの品を求めるのですか?」

「いかんか? 何の見返りもなく優しくしてもらえるのは病人の特権だ」

「優しくすることと、甘やかすことは違うと思うのですがね……」

 柳也は苦笑を浮かべながら、ジャケットの左胸ポケットに手をやった。

 蓋付きのパッチ・ポケットから取り出したのは、羊皮紙の巻物だ。朱色に染められた麻紐で軽く縛られている。彼は初めてわが子を抱く父親のように丁寧な手つきで、寝台の人物にそれを手渡した。

「うむ」

 男は厳かな態度で巻物を受け取ると、やはり宝物を扱うような手つきで封緘糸を解いた。広げてみると、巻物の全長はおよそ一メートル弱、横幅は四十センチといったところか。見た目の質感から察するに、相当な年代物のようだ。それなのに染み一つ見当たらないのは、紙自体の質の高さに由来するものと思われた。

 柳也の立っている側からは見られないが、巻物には見事な筆跡で長文が綴られている。男は、まるで骨董品の鑑定でもしているかのような鋭い眼差しを紙面に注いだ。やがて最後まで読み進めた彼は、末尾に記された落款の意匠をじっくりと眺め見て、満足げに頷いた。

「……うむ。間違いない。これこそ先代の国王陛下がわが一族に託した、モットの領地経営を許す証文だ」

 寝台の男……ジュール・ド・モット伯爵は深々と安堵の溜め息をこぼした。

 不安材料が一つ消えたせいか、その表情は少しだけ晴れやいだように見えた。

 

 

 
 話は、モット伯爵の京屋敷からシエスタを救出したあの日まで遡る。

 パリス達ワルドの手の者と思われる謎のスピリット集団を撃退した柳也と才人は、詳しい事情を聴くために、なにより心身ともに消耗しきった伯爵をこの場に残してはおけない、と彼を魔法学院へ一緒に連れていくことにした。

 学院への帰路、モット伯爵は柳也らに事の次第を説明して聞かせた。

 桜坂柳也たった一人を誘い出すために仕組まれた、今回の企て。警備の兵はおろか、使用人までもを皆殺しにされ、自身もまた、神剣士の持つ強大な力を目の当たりにした。

 駆ける柳也に背負われながら、カタカタ、と震える伯爵はそのときのことをこう語った。

「……恐ろしかった。奴らの持つあの力も恐ろしかったが、なにより、あの女達の存在そのものを恐ろしく感じた」

 好色な絶倫男と噂される人物の発言とは思えなかった。

「……奴らとは、少なからぬ時間を、一つ屋根の下でともに過ごした。過ごすことを強要された。そのとき、感じたのだ。奴らは、“何か”がおかしい。奴らは、我々とは“何か”が違う。その“何か”がなんであるか、上手く言葉に出来ないのだが……姿かたちは私達と同じなのに、人間を相手に喋っている気が、しないのだ」

 伯爵と同じように、才人に背負われたシエスタは彼と初めて会ったときのことを思い出した。母親にすがる子どものような甘えようで、モット伯爵は彼女の手を取り、こう言っていた。

『あたたかい……ああ、あたたかい……! 人のぬくもりだ。私と同じ、人間の……!』

 人のぬくもり。

 自分と同じ、人間のぬくもり。

 伯爵は、パリスらのことを人間と認識していなかったのか。では、人間でないとすれば、彼女達はいったい何なのか?

 ちらり、と隣を走る柳也の横顔を一瞥したが、

「……さあな」

と、彼は無表情に呟くだけだった。

「化け物と呼ぶ奴もいれば、道具と呼ぶ奴もいる。俺は人間だと思っているが……、本当のところは、どうなんだろうな……」

 憂いを帯びた呟きに答える者はいなかった。

 一行はその後、特に妨害を受けることもなく魔法学院へと到着した。

 学院の校舎が見える場所まで辿り着いた柳也は、背中のモット伯爵に語りかけた。

 もう大丈夫です。安全な場所に到着しました。もう、あなたを怯えさせる存在はいません。

 優しく囁かれた伯爵は、そこで緊張の糸が切れたか、柳也に背負われたまま気を失ってしまった。揺すっても声をかけても反応しない伯爵の様子に、最初こそ柳也も慌ててしまったが、彼が今日まで置かれていた環境を思い出し、そのままにさせてやることにした。例えるならば自分に敵意を持った凶悪な殺人犯と数日暮らしていたようなものだ。安眠など、出来なかったに違いない。

 モット伯爵を背負ったまま、柳也達は真っ先に学院長室へと足を運んだ。部屋にはマチルダ、彼女から連絡を受けたらしいオールド・オスマン姿があった。

 柳也の口から事のあらましを聞かされたオスマンは、背中のモット伯爵の姿を見て、休息が必要だ、と判断した。

 学院の長は伯爵の当座の寝床として、“水”の塔の保健室にある寝台の一つを提供した。

 モット伯爵はたっぷり二日間もの間昏々と眠り続けた。

 二日に及ぶ熟睡の果てに目を覚ました彼は、かたわらにいたミスタ・クラウスに、まずここがどこなのかを訊ねた。

 自分のいる場所が魔法学院だと知った伯爵は、次いで柳也とオスマンにこの部屋に来てもらうよう伝言を頼んだ。

 モット伯が目覚めた、との報せを受けた二人は、直前まで手をつけていた仕事を一旦中断して、とるものもとりあえず保健室に赴いた。

 伯爵はやって来た二人の姿を見るなり、力のない微笑を浮かべた。

 痛々しい微笑に、柳也とオールド・オスマンはかけるべき言葉を失ってしまった。

 深々と頭を垂れて感謝の言葉を述べた伯爵の小さな……小さくなってしまった背中に、かつてあったはずの精気の漲りは見出せなかった。

 医学には門外漢の柳也をして、長くかかりそうだ、と思わずにはいられなかった。

 それからさらに五日後の朝、ミスタ・クラウスの手厚い看護の末、なんとか一人で食事が摂れる程度にまで回復したモット伯爵は、柳也とオスマンを部屋に呼び出し、「気がかりなことがある」と、言った。

「気がかりなこと?」

「あの京屋敷には、わが一族が二代前の国王陛下より賜った、モット領の統治権を託す旨が記された証文が残されたままなのだ」

「……そいつは大変だッ」

 いまやモット伯爵は無人の屋敷。もし、いまの屋敷に盗っ人でも侵入して、その証文を持ち出されでもしたら。

「証文を紛失したとなれば、わがモット家は王家より信を失うであろう。改易された上、お家取り潰しという沙汰さえ考えられる。……仮に許されたとしても、国王が不在の現状、新たな証文が発行されるまでには時間がかかるだろう。その間、私はモット領の経営にタッチすることが出来ない」

「……どちらにせよ、モット領に大混乱が生じるな」

 険しい面持ちのオスマンの言葉に、伯爵は頷いた。

「そうさせないためにも、頼みたいことがございます。オールド・オスマン」

「分かっておる。証文を、持ってくればよいのであろう?」

 オスマンはかたわらに立つ柳也を見た。

「……行ってくれるかの?」

「……マルトー・コック長に、弁当の用意を頼まないとな」

 柳也はニヤリと笑った。

「俺達神剣士の足なら、休憩を挟まずに急いで一時間弱ってところだろう。ただ、延々走り続けるだけ、というのは精神的に疲れるんでね。モチベーションを維持するためにも、美味い飯は欠かせない」

 以上が、今朝あったやり取りだ。

 モット伯爵から証文の保管場所を教えられた柳也は、コック長お手製のスタミナ弁当を携えて魔法学院を出発した。

 過日はシエスタを助け出すために急いだ道のりを、今度は、あのとき彼女を連れ去ったモット伯爵のために駆け抜ける。

 およそ一時間後、辿り着いた無人の京屋敷は、一言で表するなら荒れていた。

 ただでさえ手入れする者がいないまま放置されている上、一週間前にはこの場所で超常の力を持つ神剣士同士が一戦交えたのだ。荒れていく一方なのは無理からぬことだろう。

 幸いにして、屋敷内にはモット伯爵が懸念していたような、盗人に侵入された形跡は見当たらなかった。

 あらかじめ伝えられていた伯爵の執務室に足を運ぶと、問題の証文もすぐに見つかった。

 首尾よく証文を回収した柳也は、コック長の愛情がたっぷり詰まった弁当をその場で平らげ、それから悠々と帰路についた。

 魔法学院に到着したのは、半刻と少し前のことだ。オールド・オスマンへの報告もそこそこに、彼は早速、モット伯爵のもとを訪ねたのだった。

「先々代の国王陛下の落款は、他人には真似出来ないよう、全部で十六箇所の特徴が隠されている。間違いない。これこそ、わがモット一族の家宝だ」

 モット伯爵は顔を上げると、柳也に向かって微笑んだ。

「礼を言うぞ、リュウヤ。……先日のことといい、この証文のことといい、そなたには、世話になりっぱなしだな」

「お気になさらないでください、伯爵閣下」

 柳也は眉間に深い縦皺を刻んだ顔で応じた。

「もともとは、私を狙う連中の仕業です。謝るべきは、むしろ俺のほうだ。巻き込んでしまったこと、申し訳なく思います」

「それはそれ、だ。たしかに、此度の一件の原因は、そなたにあったのだろう。しかし、私がそなたに助けられたこと、そして大切な証文を確保してもらった事実は変わらない」

 政治家として、有能な人物だとは言い難い。マチルダから聞かされた領地経営の実態からは、良い印象など抱けようがない。

 一人の人間としても、尊敬に値する人物だとは到底言えない。女を手に入れるためなら手段を選ばないそのやり口は、唾棄すべきものだ。

 しかし、それでも、この男はまごうことなき貴族だった。

 約束を重んじ、恩義を大切にする。

 そんな誇りのために命を懸けられる、気高き男だった。

「恩には、礼をもって返さねばならん。何かないか?」

「それなら……」

 少し考えてから、柳也は言った。

 ここで無下に断って相手の心証を悪くする必要もあるまい。

「一つだけ、お願いしたいことがあります」

「うむ。私に出来ることならば何でも言ってくれ」

「その前に確認させてください。伯爵閣下は、復調なされた後はご自分の領地へお帰りになるおつもりですか?」

「うむ」

 モット伯爵は首肯した。

「私自ら王都に赴いて、アンリエッタ殿下とマザリーニ枢機卿に願い出るつもりだ。王都での勤務を解いてもらうか、それが叶わぬならば、せめて長期の休暇をもらえないか、とな」

 王国政府に対しては、伯爵が魔法学院に運び込まれた翌日のうちに、すでに使いを出していた。

 モット伯爵の身柄を、魔法学院でしばらく預かることになった旨を伝えるためだ。

 勿論、パリス・黒スピリットらのことをそのまま伝えるわけにはいかないから、オールド・オスマンが自ら筆を執ってしたためた書簡には、原因不明の熱病に罹ってしまった伯爵が、旧知の間柄にあるミスタ・クラウスを頼って魔法学院を訪ねてきた、という設定のストーリーが記されていた。

「王女殿下らの中では、いまや私は健康に不安を抱えてる身だ。病気は治ったが、しばらく休養したいと言えば、まず間違いなく許可してくれるだろう」

「……それを聞いて、安心しました」

柳也は莞爾と微笑んだ。

「伯爵閣下には、是非、やっていただきたいことがあります」

「うむ。何だ?」

「領地へお戻り次第、いくさの準備を始めていただきたいのです」

「……なんだと?」

 寝台の伯爵は、ぎょっとした表情で柳也を見つめた。

「……もう一度聞く。いま、なんと言った?」

「いくさの準備を、始めていただきたい、と申し上げました」

「馬鹿な……」

 モット伯爵は険しい面持ちでかぶりを振った。

 あまりにも非常識な願い事に、頭かくらくらしてしまう。

「いくら恩人の願いとはいえ、それは聞いてやれん。モットの領地はたしかに私の物だが、領主といえど、何でもかんでも自由に出来るわけではない。いくさにまつわる事柄は、領主が自由に出来ないことの一つだ。家臣たちを説得せねばならんし、王室の許可もいる。

 ……第一、いくさの準備とは言うが、戦争をするには相手が必要だ。敵は誰なのだ!?」

「相手は、新生アルビオン軍」

「馬鹿な……!」

 モット伯爵は再度かぶりを振った。

 眉間に皺を寄せ、険しい面差しを柳也に向けた。

「アルビオンとは先頃、不可侵条約を結んだばかりではないか。それも、条約の話は向こうから持ちかけてきた。つまり、クロムウェル新皇帝にトリステインと戦う意思はないということだ。勿論、わが国にもアルビオンと戦う意思などない。戦う意思を持たぬ者同士が歩み寄った結果が、先の条約締結に結だ。戦争など、起こるはずがない」

「……はたして、そうでしょうか?」

「なに?」

「本当に、クロムウェル皇帝にトリステインと戦う意志はないのでしょうか?」

 柳也はこちらもまた険を帯びた眼差しでモット伯爵を睨んだ。数々の修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者だけが会得しうる凄絶な眼光を浴びせられ、伯爵の細い体が、ぶるり、と胴震いする。

「武力をもってハルケギニア全土を統一する、とはレコン・キスタが第一に掲げる旗印です。あれほどの規模の組織が、そんな最大の行動指針を、そう簡単に捨てられるものでしょうか?」

 組織というものは、巨大であればあるほど、その規模に相応しい目的・目標が必要とされる。

 いかに人を多く集めたところで、戦略に大方針がなければ団結した行動など到底望めない。

 目的を捨てるということは、組織を自ら破滅へと導くも同然の行為なのだ。

 いやそもそも、組織に限らず、人間の生には目的が必要だ。目的のない人生がいかに悲惨な生き方となるかは、容易に想像出来よう。

「私には、オリヴァー・クロムウェルがそこまで愚かな男だとは思えません。彼は、まがりなりにもあの革命戦争を勝利へと導いた人物です」

「オリヴァー・クロムウェルは、ハルケギニア統一の野望を捨てていない?」

「不可侵条約を打診してきたのは、彼らもまた、時間を必要としていたからでしょう」

 柳也は力強い語調できっぱりと断言した。

「武力を用いてやっとこさ成し遂げた政権交代です。革命後の混乱は、まず避けられません」

 闘争によって成立した政権には付き物の悩みだ。

 ましてや、アルビオンはつい先日まで長い内戦状態にあった。国民の生活レヴェルを戦前の水準に戻すことすら、困難な事業となるだろう。

「対外戦争において最も警戒するべきは、国内の不満や反発の声です。というより、国内に不和の種を抱えていないことが、対外戦争を遂行する上での大前提と言えるでしょう」

「たしかに、敵国に攻め入っている最中に、不満を爆発させた民が反乱でも起こしたりしたら、目も当てられないな」

「実際、似たような事例は歴史上何度も起きています」

「だからこそ、奴らは時間を欲した。国内の混乱を鎮めるための時間を」

「足場を固め次第、アルビオンはトリステインに戦いを挑んでくるでしょう」

 その際、尖兵を務めるのはロイヤル・ソヴリン級を中核とした航空艦隊だろう、と柳也は予想した。

 ハルケギニア最強の空軍力をもって早々に制空権を奪い、然る後に、最低でも連隊規模の陸上戦力を適当な地域に投入。橋頭堡を築き、以後はそこに兵と物資を集結させる……というのが、柳也の考える敵の戦略だった。

「ただでさえ戦力の劣るトリステイン・ゲルマニア同盟です。一度橋頭堡を築かれれば、以後の戦いはますます困難になってしまうでしょう。決して、敵軍に前線基地を造らせてはなりません。上陸した敵兵が少ないうちに、なんとしても、これを撃滅しなければ」

 そのためには、開戦とほぼ同時に動くことが出来て、かつ、ある程度まとまった数の戦力が必要だ。

「領地に銀山を三つも所有する閣下ならば、少なくとも五〇〇人は集められるはず。時間さえ許せば、一〇〇〇人は可能、と私は踏んでいます」

「……そなたは、私に尖兵になれ、と申すのか? 対アルビオン戦争の一番槍になれ、と?」

「厚かましい願いとは重々承知しています。ですが、これは閣下にとっても旨味のある話のはず」

「たしかに、一番槍の名誉は欲しいと思って得られるものではないが」

「首尾よく事を進めれば、閣下はトリステイン救国の英雄として、後世まで名を遺されることとなりましょう」

「むぅ……」

 モット伯爵は困惑した表情を浮かべた。

 いま、彼の頭の中では、戦場に立ちたくない気持ちと、英雄としての人生を渇望する気持ちとが激しくぶつかり、鎬を削っていた。

 所領の政にさえ関心の薄いモット伯爵だ。戦争という政治的手段に関わりたくないと思うのはけだし当然と言えよう。

 だが一方で、ジュール・ド・モットという人物は、貴族の誇りを何よりも重んじる男でもあった。

 戦争における一番槍とは、貴族の男児にとって最も名誉ある仕事だ。伯爵の功名心が甘く疼いてしまうのも、無理からぬことといえた。

「……一つ、訊きたい」

 眉間に深い縦皺を刻みながら、モット伯爵が口を開いた。

 「なんです?」と、応じる。

「なぜ、いまの話を私に? 私がレコン・キスタにいまの話を伝えるとは考えなかったのかね?」

「考えませんでしたね」

 寸暇を置くことなく、柳也は言い切った。

「なぜだ? そなたも知っているだろう。ジュール・ド・モットという男が、これまでいかに卑劣な手段を用いて女どもを手籠めにしてきたのか。自分で言うのも難だが、私は、信用に値する人間では……」

「信頼できる人物ですよ。少なくとも、この件に関しては」

 柳也は莞爾と微笑んだ。

「ジュール・ド・モットという人物の噂は、俺も聞いています。率直に申し上げて、あなたはあまり評判の良い人物ではない。ですがあなたは、平民である才人君との約束を守り、やはり平民である俺に対しても、いまこうやって礼を尽くそうとしている。

 政治家としては落第かもしれません。女を手籠めにする手段は、決して褒められたものではない。しかし、あなたは他の何よりも、貴族の誇りを重んじる男だ。一介の平民に過ぎない者との約束に、命を懸けられる男だ。そんな男が内応者などと、どうして疑うことが出来ますでしょう?」

 まごうことなき、本心からの言葉だった。

 人格者とは口が裂けても言えないモット伯爵だが、ただ一点、己の信じる誇りの道を、ただひたすら真っ直ぐ突き進むその姿勢だけは、尊敬出来た。

 モット伯爵の双眸が、すぅっ、と細まった。

 眉間の皺は相変わらずだが、もはや表情に、険しさはない。

「そなたは、私の中の、貴族の誇りを信じたのだな?」

「はい」

「心地よい信頼だ」

 初老にしか見えない伯爵は、柔和な笑みを浮かべた。

「ならば私は、貴族の誇りに懸けて、そなたの信に応えねばならんな」

 

 

 

 

 

永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:64「……お互い、厄介な男を好きになっちゃったわね」

 

 

 

 

 

「戦争に備えよ、とは言うが、正直に言って私はいくさのことには疎い。具体的には、どんなことをすればよいのか?」

「先ほど伯爵がおっしゃられた通り、いくさとは相手がいて初めて成立するものです。軍備を考えるとは、敵について考えるということでもあります」

「まずは敵を知れと?」

「はい。敵の倍の兵を集めるには、まず敵軍の兵数を把握していなければなりません」

「なるほど、道理だな。……して、敵はどの程度の戦力で、どんな作戦を取ると思う?」

「アルビオンのような島国が大陸国家たるトリステインへ攻め入るには、まず上陸作戦を実施しなければなりません」

「上陸作戦か」

「はい。もっとも、アルビオンは空飛ぶ国家ですから。この場合は、降下作戦と言う方が適切かもしれませんが」

「敵はいつ、どこを攻めると考える?」

「戦争を遂行する上で、後方連絡線の確保は欠かせません。本国と、遠征軍を結ぶ中継拠点に適した地域……たとえば、ラ・ロシェールなどを優先的に狙うものと思われます。攻撃の時機は分かりませんが、作戦の開始前には、必ず予兆があるはずです」

「予兆?」

「上陸作戦には航空支援が欠かせません。作戦に先だって、空軍の主力艦隊が大きく動くでしょう。その規模はおそらく……」

 ……なんだか、難しいことを話している。

 どうやら、部屋を訪ねるタイミングを間違えてしまったらしい。

 衝立の向こう側より漏れ聞こえる会話の、物騒すぎる内容に思わず渋面を作ったルイズは、無言で回れ右をした。

 ヴェストリ広場でギーシュと別れた後、水の塔へと真っ直ぐ足を運んだのが不味かった。まさか、いくさのことで話をしている最中だったとは……。

 戦うことが三度の飯よりも大好きなのが、桜坂柳也という男だ。

 やがて訪れるであろう未来への備えに意識が向いているいま、別の話題を振ったところで、自分の求めるひと時は得られまい。アンリエッタに捧げる詔についての相談は、たった二人だけの軍議が終わってからでなければ。

 ――どこかで時間を潰してから、もう一度来たほうがよさそうね。

 軍事には疎いルイズだったが、場の雰囲気から、二人の会話が長引きそうなのは容易に察せられた。

 この調子では、新生アルビオンが取るという次の一手について、かなり細かい部分にまで話し合われることになるだろう。

 勿論、柳也にも他の仕事があるから、長引くといってもせいぜい半刻程度だとは思うが。

 少なくとも、その半分の四半刻は間を置くべきだ、と判じたルイズは、たったいま戸を叩いたばかりの保健室をひとまず退室することにした。

 事務机に広げた自身の研究ノートと睨めっこをしていたクラウス教員が、いったい何をしに来たのか、と訝しげな眼差しを向けてくる。

 ルイズは、「殿方が熱中しているところを邪魔するのは悪いので」と、楚々した仕草で微笑んで、部屋を後にした。

 水の塔からも退出すると、渡り廊下を伝って本塔へと足を向ける。

 目的地はアルヴィーズの食堂だ。

 生徒達に三食を提供するための施設だが、頼めば軽食とお茶ぐらい用意してくれる。四半刻なんて中途半端な時間を過ごすには、うってつけの場所だった。

 夕食を一刻半後に控えたアルヴィーズの食堂は、昼間足を踏み入れたときの華やかさを失っていた。貴族社会に差し込む栄光を象徴しているかのように煌びやかな装飾は、その多くが片付けられている。一応、テーブルにはクロスが敷かれているものの、それとて白無垢の布が一枚のみと最低限に留められていた。なまじ広々として天井も高い造りなだけに、飾りっ気がないとみすぼらしい印象さえ感じられる。

 それだけが原因ではないだろうが、放課後の食堂は閑散としていた。

 お茶を目的に食堂を訪ねたのは、ルイズ自身を含めて十人にも満たない。当然、席はがらがらだ。広さに比してこれだけ空いている状態だと、かえってどこに座るか迷ってしまうが――、おや?

「あれは……」

 席を求めて辺りを見回す鳶色の眼差しが、ある光景を目にしたと途端、動きを止めた。

 食堂の片隅に一人、ぽつん、と座っている、魔法学院の一年生であることを示す茶色いマント。あれは……。ちょうどいい。彼女には少しの間、話し相手になってもらうとしよう。ルイズは小さく微笑むと、後輩の少女が座る場所へと歩み寄っていった。

 対面の席に座るつもりで、真っ直ぐ正面より向かっていく。

 座席まであと十歩ぐらいのところで、向こうもこちらの存在に気がついた。

 小鹿のように大振りな瞳が愛らしい彼女は、教養の深さを感じさせる上品な所作で立ち上がると、微笑みながら会釈をした。

「ごきげんよう、ミス・るーちゃん」

「……もう、これ言うの何度目か分からないんだけどさ、それ、やめてくれない? その、るーちゃんって呼び方」

「……先輩の言うことですし、なるべく聞いてあげるべきだとは思うのですが、こればかりは……」

「……リュウヤといい、あんたといい……あんたたちは、そんなふざけたあだ名のどこがそんなに気に入ったわけ!?」

「え? 可愛い響きじゃないですか。るーちゃん」

 後輩の少女……ケティ・ド・ラ・ロッタは、淡々とした口調で応じた。

 あまりにもあっさりと告げられた言の葉に、ルイズは渋面を作りながらがっくり肩を落とす。淡白な物言いは、かえって彼女の言がからかいでもなんでもない、本心からのものだと窺わせた。いちばん厄介な認識だ。

「……前、失礼するわよ」

 疲れた溜め息をひとつこぼしつつ、ルイズはケティの対面の席へと腰かけた。

 テーブルの上に、ちょこん、と置かれた小さな呼び鈴を振り鳴らして給仕係を呼ぶ。

 やって来た若いギャルソンに自分の分のお茶を頼んだ後、ルイズはケティの両隣の席を交互に見た。左右ともに空席だ。テーブルの上に並べられたティーセットも、彼女一人分しかない。

「そういえば、初めて見るわね」

「なにをです?」

「あんたが一人でいるところ。……ほら、わたしってば、いつもサイトとか、ギーシュとかと一緒にいるあんたばかり見ているでしょ?」

「そういえばそうでしたね」

「だから、あの二人と一緒にいるのが当たり前、みたいなイメージがあるのよ」

「なるほど」

 おとがいに掌を添えながら、ケティは頷いた。

 思い返してみればたしかに、自分達が顔を合わせるときは大抵の場合、才人かギーシュのどちらか一方が、あるいはそのどちらともがかたわらにいた。そんな光景ばかり目にしていれば、ルイズの中でギーシュや才人と一緒にいるイメージが強くなるのも当然だろう。

 また、ルイズとケティを結ぶかすがいを担ったという意味でも、二人の存在感は圧倒的だった。

 もともと、同じ魔法学院の生徒という以外に、接点に乏しい二人だ。そんな彼女らがいまこうして互いの顔を見ながら話し合えるようになったのも、共通の知人である才人とギーシュがいたからこそ。ルイズと関係の深い才人と、同じくケティと付き合いのあるギーシュとの間に結ばれた友情が波及して、彼女らも知り合うことが出来た。この事実は、ルイズの中で二人の存在をいっそう印象づけた。

 そしてそれは、ケティにも同じことが言えた。

「でも、それを言ったらわたしも、るーちゃんはいつもサイトさんやミスタ・リュウヤと一緒にいるイメージがあります」

「そう?」

「はい。……あの、お二人は、今日は?」

 ケティは少し緊張した声音で、おずおず、と問いを重ねた。

 口調から硬さが感じられるのは、才人の身を案じるがゆえだろう。才人とケティは仲が良い。友人の彼が何日も顔を見せないとなれば、不安を募らせるのも当然だ。

 ましてや、京屋敷での一件は柳也とオスマンの判断により、ごく一部の者達以外には秘匿されている。詳しい事情を教えられていないことが、かえって彼女の憂いを強くしているに違いなかった。

「サイトは部屋で休ませているわ」

 本当のことを話してやれない罪悪感からだろう、ルイズは暗い面持ちで言った。

 それを聞いてケティも表情を曇らせる。才人が姿を見せなくなってもう一週間近くになる。それだけの時間を費やしてなお、いまだ彼は衰弱状態にあるのか。

 痛ましげな顔をこれ以上見ていたくなくて、ルイズは慌てて言の葉を重ねる。

「き、今日休ませているのは念のためよ。今朝は、初めの頃に比べたら、だいぶマシな表情をしていたんだから」

 嘘は吐いていない。

 「ひとっ風呂浴びてくる」と言って、寮の部屋を出た才人が、快活さに欠けるとはいえ笑みを浮かべながら戻ってきたのは昨晩のことだ。詳しい事情は聞いていないが、殺人行為に由来する陰鬱な気持ちを吹き飛ばしてしまうほどの、何か良い出来事があったのだろう。今朝の才人の表情からは、それまではまったく感じられなかった精力が見受けられた。

 とはいえ、その良いことをもってしても、才人の悩みを完全に払拭するにはいたらなかったらしい。往時の才人を知っているルイズから見れば、今朝の彼はまだ本調子には程遠く、今日も大事をとって休ませていた。

 ルイズが才人の現状を詳しく語ったのは、ケティを少しでも安心させてやりたい想いからのことだった。

 僅かずつながらも、才人の心身が快方に向かっていることを知れば、きっと彼女も笑顔を見せてくれるに違いない。そう考えたのだ。

 ところが、目の前の少女が示したのは、ルイズの予想とは真逆の反応だった。

 眦の釣り上がった、険しい面持ち。それも、才人の身を案じるがゆえの憂いの表情ではない。自分の発言のどこがそんなに気に入らなかったのか、忌々しげな表情からは激しい憤りが見て取れた。ルイズが初めて見る表情だ。なまじ顔の造作が整っているだけに、酷薄な印象さえ感じられる。これはいったい……。

「け、ケティ……?」

「? どうしました、るーちゃん?」

 驚いた眼差しを向けるルイズに、ケティは不思議そうな声で訊ねた。

 どうやら彼女自身は、自分がいまどんな顔をしているのか自覚がないらしい。

 目の前の上級生がなぜ、自分を見て驚いているのか皆目見当もつかない様子だ。

 指摘するべきか。それとも口を閉ざすべきか。

 ルイズは少し悩んだ末に、座した状態のまま、頭を垂れた。ケティはいっそう当惑した様子で目を白黒させる。

「ご、ごめん……」

「え? あの、え?」

「正直、いまのわたしの発言のどこが気に障ったのか、まったくぴんとこない。でも、出来れば、機嫌を直してほしい」

「え? いえ、あの、機嫌って?」

「やっぱり、自分では気づいていないのね。ケティ、あんた、いま、とても怖い顔をしているわよ?」

 ケティの表情が、硬化した。

 反射的に両手を頬へと伸ばすも、もとより表情筋の動きは、微小だ。指で触れたぐらいで、分かるわけもない。

 顔面を蒼白にしたケティに向けて、ルイズはなおも言った。

「わたしがサイトの今朝の様子を口にした直後よ。あんた、いま、すごく機嫌が悪そうに見えるわ。何をそんなに怒っているのよ?」

「……ああ」

 強張った顔の筋肉が、次の瞬間には、ほぐれた。

 まだあどけなさを残す顔立ちに浮かんだのは、得心した表情だ。

 どうやら自分の言はまたしても、彼女の精神活動に何か影響を及ぼしてしまったらしい。

「怖い顔……そうですか。やっぱり、そうなんですね……」

「……ケティ?」

「あ、ごめんなさい、ミス・るーちゃん。……独り言なんて、はしたない真似を……」

「う、ううん。それはべつにいいんだけど……どうしたの?」

「ちょっと、自分の本当の気持ちを再確認していたところです」

 ケティはそう言って可憐な微笑を浮かべた。

 気持ちの再確認? いったい、何のことだろう。

 ルイズはさらに問いを重ねようとしたが、彼女が何か言うよりも早く、ケティが口を開いた。

「あの、るーちゃん、これから、少しだけお時間を頂戴してよろしいですか? 二つ、お伺いしたいことが
ありまして……たぶん、四半刻もかかりませんので」

「え? ま、まあ、それぐらいなら付き合ってあげてもいいけど」

 もとより、ケティには自分の話し相手になってもらうつもりだった。さらに四半刻といえば、再び保健室を訪ねる前に最低これぐらいは潰さなければ、と思い定めていた刻限だ。ルイズに断る理由はない。

「ありがとうございます」

 ケティが礼を言ったそのとき、先ほどの若いギャルソンがティーセットを載せた盆を抱えてやって来た。ルイズが先ほど注文した分の紅茶だ。ギャルソンは彼女のかたわらに立つと、丁寧な手つきで白磁のティーカップに一杯目を注いだ。ねぎらいの言葉をかけ、その背を見送る。彼の後姿が厨房へと消えたのを認めてから、ルイズはカップの取っ手に指を添えた。

 口元に運んで、夕焼け色の水面が小さく波打つようにカップを揺らす。

 熱い湯気と一緒に、甘酸っぱい香りが鼻腔を突き抜けた。

「まず一つ目の質問をさせてください」

「ん。どうぞ」

「質問というより、これは確認なんですが、るーちゃんは、ミスター・リュウヤのことが好きなんですよね?」

「…………」

 カップの縁に唇を添え、傾ける寸前のことだった。

 差し向けられた質問の、あまりにも突飛な内容に、ルイズの手が思わず止まる。

 この娘、いま、なんと言った?

 好き、と言ったのか? 自分が、柳也を? ……いつ、ばれた!?

 一度は口元に運んだティーカップをテーブルに置き、ルイズは動揺から震える口調で言う。

「い、いいい、いいつから?」

「もしかしたらそうなのかな……とは、わりと以前から思っていました。確信を得たのは、アルビオンから帰る途上でですね」

 アルビオンから帰る途中。

 そのフレーズを聞いて、ルイズの顔から、すぅっ、と血の気が引いていった。

 思い出せ、ルイズ。

 アルビオンから帰る途中。

 タバサの使い魔のシルフィードの背中で、自分はいったい、何をやった?

 昏々と眠り続けるあいつと、したんじゃなかったか。

 あいつの意識がないのをいいことに、自分のそれを、あいつのそれに、押しつけたんじゃなかったか!?

「……まさか、見てたの?」

「ええ、まあ、その……たいへん申し上げにくいのですが……」

 気まずそうに顔をそむける後輩の少女。

 その仕草を見て、ルイズの顔から、一切の表情が消えた。

 恥ずかしさを通り越した深い絶望が、彼女の胸を内側から圧迫した。

「み、見られた……見られてた……ああ、ああああ……!!」

 見られていた。

 自分が、眠り続けるあいつの唇を奪った瞬間を、見られていた!

 しかも、だ。

 ケティに見られていたということは、あのとき、シルフィードの背中にいた他の連中にも……ヴァリエール一族の天敵たる、あのツェルプストーにも、見られていた可能性がっ!

「〜〜〜〜〜〜っっ!!」

 思わず頭を抱えてしまったルイズは、ヒステリックな唸り声を発した。

 脳裏に浮かんだ最悪の想像を打ち消すべく、物凄い勢いでかぶりを振る、振る、振る。桃色がかったブロンドの髪を、駄々をこねる子どものように振り乱す。

 傍目には奇行と解釈出来るルイズの行動に、周囲からは好奇の眼差しが集中した。

「まあ、安心してください。幸い、ミス・ロングビルにだけは見られずにすみましたから」

「それって、他はみんな見てたってことじゃないのっ! キュルケに見られていたって時点で、アウトよ、もう!」

「それで、ミス・るーちゃんはミスタ・リュウヤのことが好きなんですよね?」

「うっ……」

 後悔の念から話題がシフトしてしまうのを懸念したか、再度発せられた事実確認の問いかけは、言い逃れやはぐらかしを許さない強い語調で紡がれた。

 言葉の端々から滲み出る気迫に触れたルイズは思わず息を呑み、やがて仏頂面で口を開いた。

「……そうよ」

 言葉短い、しかし、凛とした口調による、肯定の意。

 もし、この場にキュルケがいたならば、きっと盛大に驚いただろう。

 いくら言い逃れのしようがない状況に置かれているとはいえ、他人に対してだけでなく、自分自身に対してさえ意地っ張り屋なあのルイズが、自分の気持ちを素直に認めたばかりか、誰かに聞かせるための言葉にするだなんて、と。

 質問をぶつけたケティ自身も、こんなにあっさり答えてくれるとは思っていなかったらしい。

 目を丸くする彼女の態度をどう解釈したのか、ルイズは少しむっとした口調で言った。

「笑いたければ笑いなさいよ。あんな変態に惚れるなんて、趣味が悪いとは自覚しているから」

「変態って……さんざんな言われようですね、ミスタ・リュウヤ」

「……否定はしないのね?」

「……あは」

 半眼で睨んでくるルイズに、ケティは苦笑を返すほかなかった。

 目の前の上級生には悪いが、彼女の想い人が変態でないと証明することは、数百年前に失われたとされる“虚無”の魔法を現代に復活させることよりも難しいと思われた。

「……それで? わたしがリュウヤを好きだと、何だっていうのよ?」

 事実とはいえ、惚れた男のことを悪く言われて悦に浸るような異常性癖は、自分にはない。

 ルイズはいっそう不機嫌さを滲ませた口調で、ケティの話を促した。

 後輩の少女は、内心ではびくびくしながら、いまひとつの質問を口にする。

「では、るーちゃんは、ミス・ロングビルのことは、どうお考えなのですか?」

 心臓を、言葉のナイフで真っ直ぐ貫かれた、とそう感じた。

 装飾を一切排した言の葉は、シンプルなだけに力強い響きを孕み、さてどんな質問を突きつけられるのかと、あらかじめ身構えていたルイズの精神防御の壁さえ、いとも容易く粉砕した。

 眉間の裏側が、きゅうっ、と苦しくなる。

 急に視界が暗くぼやけだし、軽い眩暈さえ覚えた。

 ストレス性の脳貧血だ。脳の血液が少なくなったときに生じる様々な症状の総称で、具体的には立ちくらみや頭痛、失神などが挙げられる。血液の不足とは、すなわち酸素が不足するということだ。脳は、人体の中でもとりわけ大量の酸素を必要とする器官でもある。これまで無意識のうちに考えることを避けていた話題を振られて、ルイズの心は、防衛本能から脳より考え事をするための力を奪おうとしていた。

 ミス・ロングビル……いやマチルダのことは、桜坂柳也という男に惚れてしまった以上は、いつかは向かい合わねばならない問題だった。

 夜ごと肌を重ね合う関係にある二人の若い男女。加えて、彼らはコントラクト・サーヴァントの魔法により、肉体だけでなく、精神的にも強い絆で結ばれている。以前、柳也本人に二人の関係について訊ねたときには、恋人ではないが、特別な関係なのはたしか、と答えた。

 『特別な』とは、なんとも曖昧で卑怯な言い回しだ。人間関係のどの部分に焦点を合わせるか次第で、いくらでも解釈が生まれてしまう。たとえば、使い魔の契約に目を向ければ、主従関係を指して特別と評せるだろうし、二人が毎夜閨をともにしていることにスポットを当てれば、セックス・フレンドとも言い表せる。はたして、明言を避けた柳也の意図は奈辺にあったのか。

 もしかすると、言葉自体にはあまり深い意味を篭めないで口にしたのかもしれない。性の問題については、少々潔癖なところがあるルイズだ。彼女の前でストレートな表現を使うことを憚ったがゆえに、あえて曖昧な言葉を選んだとも考えられる。

 柳也の真意がどうであれ、この二人が余人とは決して結べえぬほど親密な間柄にあることは間違いない。

 それに、恋人同士にあらず、とはあくまで柳也の弁だ。相方のマチルダが二人の関係をどう捉えているかは分からない。

 そして自分は、あろうことかそんな二人のうちの片方に恋をしてしまった。第三者の視点に立てば、完全な横恋慕。自分が想いを成就させるには、マチルダから柳也の心を奪う必要がある。

 それはルイズにとって諸手を上げて歓迎出来る未来ではなかった。

 破壊の杖を巡って争っていた頃ならばともかく、いまやマチルダはルイズにとっても大切な仲間の一人だ。アルビオンでは、彼女の魔法に何度も助けられた。そんな彼女と今度は一人の男を巡って争うなど、想像したくはない。だからこそ、いままで思考の外へと追いやった。考えることを避け、問題を先送りにしてきた。

 それなのに、

 それなのに、この娘ときたら……こんな予期せぬタイミングで、しかも強制的にとは……ルイズの唇が、苦々しげに歪む。

 彼女の想い人を髣髴とさせる攻撃的な冷笑を浮かべながら、ケティを睨んだ。

「……あんた、結構、えげつない質問をしてくるわね?」

「……すみません。でも、どうしても聞いておきたかったんです」

「ふうん……ねえ?」

 痛む頭を抱えながら、ルイズは険を帯びた口調で言う。

「その質問に答えてあげる代わりに、わたしからも一個質問していい?」

「……ええ」

 少しだけ悩んだ後、ケティは小さく首を傾けた。

 こちらの要求だけを押しつけて相手の求めには応えないなど、貴族として恥ずべき行為だ。こちらの質問が質問だけに、どんな内容が飛び出してくるかだけ不安だが。

「じゃあ、答えてあげる。わたしは、マチルダのことを……」

 ルイズはそこで一旦言葉を区切ると、大きく息を吸い込んだ。

 新鮮な酸素を脳に送り込み、意識がクリアになっていくのを自覚しながら、ルイズは決然と言い放つ。

「いつかは倒さなければならない、敵だと思っているわ」

 強い覚悟を感じさせる口調だった。

 ケティの双眸が、意外そうに見開かれる。彼女の知る限り、ルイズ・ヴァリエールという少女は争いごとが嫌いなはずだが……口にした言の葉の、なんと攻撃的なことか。

 ルイズはケティにだけ聞こえるよう声を潜めて言う。

「前にね、リュウヤに直接訊いたことがあるのよ。あんたとマチルダは、付き合っているのか? って。そうしたらあいつ、付き合ってはいないけど、特別な関係にはある、って答えた。でも、それって恋人と何が違うのかしら? 呼び方が違うだけで、二人が親密な……その、体を重ねるぐらい親密なのは一緒なのに」

「だから、敵なんですか? ミスタ・リュウヤの隣に立つためには、彼女と対決しなければならないと?」

「一番になりたいのよ。あいつにとっての」

 ルイズは毅然とした態度で言い切った。

「マチルダは勿論、あいつがこれまで出会ったどんな女よりも大きな存在に、わたしはなりたいの」

 トリステインの名門ヴァリエール家の三女と生まれながらも、魔法の才に恵まれず、辛い日々を送ってきた。公爵家の令嬢に向ける期待の眼差しが、魔法を使えないと知って失望のそれへ変わるという屈辱を、幾度となく味わわされた。やがて周囲からは嘲笑とともにゼロの二つ名で呼ばれるようになり、懊悩はいっそう深いものとなった。ゼロ、ゼロ、ゼロ……と、そう呼ばれるのが嫌で、嫌で、たまらなくて、極力、人前では魔法を唱えないようにした。メイジにも拘らず魔法を自ら封じる日々のストレスは、ルイズの心を徐々に蝕んでいった。

 柳也達との出会いは、そんな日々に終止符を打つ出来事だった。

 異世界からやって来た彼らは、自分のことを、公爵家の令嬢として見ない。魔法が使えないことを知っても、態度を変えたりしない。常に自然体で、自分に接してきた。ときにはそれが癪に障ることもあるが、変わらぬ態度は自分の心を救ってくれた。変わらぬ態度が、心地よかった。

 特に柳也のかたわらは、陽だまりの中にいるかのような居心地の良さがあった。

 柳也自身にそんな自覚はないだろうが、清濁あわせ呑む彼の懐の深さは尋常ではない。彼の前では変に肩肘を張ったりする必要がなく、こちらも自然体でいられた。素直な気持ちで、彼に寄り添うことが出来た。

 このあたたかな居場所を、余人に譲り渡したくはない。

 ましてや、それが女となればなおさらだ。 

 そしてマチルダは、ルイズが欲してやまないその場所に、現状最も近い女だった。

 かけがえのない仲間ではあるが、この問題についてのみは、目下最大の強敵といえよう。

 柳也の中で、マチルダよりも大きな存在になる、とはルイズの第一の目標だった。

「恋人かどうかは別として、ミスタ・リュウヤにはすでに、強い絆で結ばれたパートナーがいます。それを知ってなお、るーちゃんは好きになった人への想いを、諦めないんですね?」

「当然よ」

 ルイズは胸を張って言った。

「子どもの頃、ワルドに抱いた憧れとは違う。この想いは、そんなことで捨てられるような、ちっぽけなものじゃないわ」

 ルイズはそこで一旦言葉を区切ると、「さて……」と、切り出した。

「……わたしは、答えたわよ」

 今度は、あんたが答える番。

 ルイズは彼女のものとは思えぬ低い声で言った。

 後輩を睨む眼差しには、先ほどケティがそうであったように、はぐらかしを許さぬ威圧感が満ち満ちている。

 厳しい視線を浴びせられたケティは、ごく、と喉を鳴らしてから、ゆっくりと頷いた。

「じゃあ訊くけど、あんた、なんでいまの質問をしてきたわけ?」

「それは――、」

 間を置かずに口を開くことが出来たのは、あらかじめ質問の内容を予想していたからにほかならない。

 こちらの質問の意図を知りたいと思うのは、問いを投げかけられたルイズの立場からすればごく自然な欲求だった。

「意見が欲しかったんです。わたしと同じか、似た立場にある人の」

「あんたと同じ立場って?」

「すでに恋人がいる殿方を好きになってしまった女、ということです」

 思いもよらぬ返答に、ルイズは束の間、返す言葉を見失ってしまった。まさかこの娘に、そんな相手がいたとは……。

 物語の中ならばともかく、身近な人間の三角関係など、扱いの難しい爆弾も同然だ。話題の中心に据え置くにはデリケートが過ぎ、話題の振り方を一度でも間違えれば大爆発を起こしかねない。ルイズは慎重に言葉を選びながら、ゆっくりとした口調で言う。

「その、差し支えがなければ聞かせてほしいんだけど……あんたの好きな人って?」

 もしかして、自分の知っている人物だろうか。もし、そうだとしたら、件の彼と次に会うとき、どんな顔をすればいいんだろう?

 ルイズはそんなことを考えながら、おずおず、と訊ねた。

「サイトさんです」

「……本当に、どんな顔をすればいいのかしら?」

「はい?」

「いいえ、こっちの話よ。……それにしても、サイトねぇ……」

 眉間のあたりを揉みながら、ルイズは思わず溜め息をついた。

 驚きはしたが、意外とは思わなかった。ルイズの知る限り、元恋人のギーシュを除けば、目の前の少女と最も仲の良い男が才人だ。二人の親密さを知っていればこそ、その間に好意が生じたとしても納得出来た。
 
 貴族と平民という身分の差も気にならない。他ならぬ自分自身が、平民の柳也に恋をしている身だった。

 それよりも気になるのは、才人に恋人がいるという発言だ。そんな話、初耳だが。

「わたしもるーちゃんと同じで、本人から直接聞かされたわけではありません。ただ、昨晩、見てしまったんです」

 ケティは陰鬱な溜め息をついた。

「サイトさんと、アルヴィーズ食堂ではたらいているメイドの娘が、一緒に、お風呂に入っているところを」

 本日二度目の絶句。ルイズの表情が、苦々しげに歪む。

 あのバカ犬め、よりにもよってなんてところを見られているのか……。

 ケティの見たアルヴィーズのメイドとは、おそらく、あのシエスタという黒髪の娘のことだろう。ルイズ自身は面識はほとんどないが、柳也らの口から、仲の良さは聞いている。先日の京屋敷での一件のこともある。まず間違いないと思われた。

 そして、才人が利用する風呂といえば、だ。あの、ゴエモンとかいう、彼お手製の小さな風呂以外には考えられない。あんな狭い風呂釜で、人二人が湯船に浸かろうと思ったら、ぴったり寄り添う必要がある。しかも、入浴という行為の目的を考えれば、二人はともに裸であったはず。文字通り、肌と肌とを合わせていた可能性が高い。

 もし、ケティが昨晩目撃したものが、自分の想像通りの光景だとしたら、その衝撃はどれほど凄まじかったろうか。好意を寄せる青年が、自分とは別な女と二人きりで、裸体を寄せ合って湯浴みをしている。気の弱い娘なら、卒倒しかねない光景ではあるまいか。実際、仲睦まじく見つめ合う二人の姿を見てしまったケティは、倒れることこそなかったものの、ショックのあまり、その場から逃げ出してしまったという。

「先ほどるーちゃんは、今朝のサイトさんの様子を教えてくれましたよね。あの話を聞いたとき、すごくショックを受けました。サイトさんが元気になったことに対してではありません。サイトさんを元気づけたのが、あの娘だったことにです」

 裸で寄り添う若い男女の間に、どんなやり取りがあったかは分からない。世間話に花を咲かせていただけかもしれないし、もしかしたら、淫らな行為に耽っていたのかもしれない。

 ただ、結論だけを述べれば、シエスタとの入浴を通じて、才人は少しだけ元気になった。ケティではなく、シエスタの存在が、才人の心を救ってくれた。

「サイトさんが元気になってくれたことは勿論嬉しいです。でも、なんであの場にいたのがわたしじゃないんだろう、って思うと、素直に喜んであげられない。才人さんのことを想うと、あの娘に対する悔しい気持ちと、妬ましい気持ちが、どんどん大きくなっていくんです!」

 才人のことを想えば想うほど、彼を元気づけたのは別な女という事実に憎しみが募ってしまう。

 なぜ、彼を支えるのが自分ではないのか、と醜い疑問ばかりが浮かんでしまう。

 もともと気の優しい娘だけに、胸中に芽生えた嫉妬の念は、彼女自身をも苛んだ。

「ケティ……」

 力のない、しかし烈々たる告白を聞かされたルイズは、沈痛な面差しを目の前の少女に向けた。

 ケティの言葉通り、彼女もまたすでに恋人がいるやもしれない男に恋慕の情を寄せる身だ。後輩の少女が抱える嫉妬心や悩みは、決して他人事ではない。

 かといって、慰めの言葉をみだりに口にするのも憚られた。自分の無責任な発言が原因で、最低でも三人の人間の人生が狂うなんてことになったら、責任の負いようがない。

 ルイズはやはりゆっくりとした口調で、俯くケティを訊ねた。

「……あんた、さっき意見が欲しかった、って言ったわよね? 結局、あんたは、どうしたいの?」

 好意を寄せる相手にはすでに恋人がいた。彼の幸せを願うならば、自分の想いを押し殺すべきなのかもしれない。しかし、それはとても苦しいことだ。己で、己の意志を殺す。自分自身に、嘘をつく。とても辛いことだ。途方もない勇気を必要とする決断だ。

 では、略奪愛が楽な道かといえば、勿論そうではない。自分の幸せを求めるがあまり、相手を不幸に追いやってしまうかもしれぬ。自分ではない誰かの不幸を背負うかもしれない覚悟を必要とする決断だ。

 諦めるにせよ、奪うにせよ、どちらも茨の道だ。ケティが思い悩むのも無理はない。自分は奪うほうを選んだが、はたして彼女はどうしたいのか。

「……わたしも、諦めたくないです」

 悄然とした口調でケティは呟いた。

 ルイズは静かに、「そう……」とだけ応じる。

「……酷いことを言っている自覚はあります。わたしがやろうとしていることは、幸せな二人の仲を引き裂くという残酷な行いです。それでも……そうと知っても、諦めることなんて出来ません。サイトさんのことは、諦めたくないんです。あの人の眼差しを、独り占めしたいんです」

 まるで柳也のようだ、とルイズは思った。

 彼は以前、暴力を最低の行為と唾棄しながらも、その暴力を愛しているとさえ口にした。背徳の悦びを否定しながらも求めるその姿は、彼女の想い人と重なって見えた。

「……お互い、厄介な男を好きになっちゃったわね」

 ルイズは小さく嘆息すると、優しく微笑んだ。

「サイトは、わたしの使い魔よ」

「はい」

「ご主人様としては、あいつの恋人には、あいつを笑顔にしてくれる人が相応しいと思っているわ」

 言葉遣いが汚かったり、態度が悪かったり。つまらないことで自分をからかってきたりもする。それでも、ルイズは平賀才人という使い魔を好いている。ギーシュが土モグラのヴェルダンデを愛しているように。タバサが風竜のシルフィードに信頼を寄せているように。自分もあのガンダールヴの少年を、大切な相棒だと思っている。

 そんな彼のパートナーには、彼を幸せにしてくれる人を、というのが親心ならぬご主人様心というものだ。

「だから、わたしとしては、サイトを幸せにしてくれるのなら、相手があんたであれ、そのメイドであれ、誰だっていいのよ」

 もとより平民な上に、異世界からやって来た彼だ。意地の悪い姑のように、相手の家柄がどうの、といったことを言うつもりはない。

「特定の誰かを応援するつもりはないわ。……でも、まあ、頑張りなさいよ」

「ありがとうございます。……るーちゃんも、頑張ってください」

 応援はしないと口にしつつも、励ましの言葉は忘れない。

 ケティは苦笑を浮かべながら頭を垂れた。

 照れ隠しか、ルイズはティーカップで口元を隠しながら、「ん」と、頷いた。

 



 

 互いに想い人への意思を確認し合った後、ルイズとケティはぎくしゃくとした雰囲気ながらも他愛のないおしゃべりをしながら、午後のティータイムを楽しんでいた。

 そんな中、ルイズが二杯目の紅茶を飲み終えたタイミングを見計らって、ケティが話題を転じた。

「そういえば……」

「うん?」

「先ほどはわたしが別な話題に変えてしまったせいで聞きそびれてしまいましたが、ミスタ・リュウヤは、いまは?」

「ああ……あいつは……」

 ルイズは水の塔の保健室であったことを話した。

 ケティは気の毒そうな表情を浮かべながら、

「……たしかに、それは長引きそうな話題ですね」

「でしょう?」

「はい。失礼ですが、戦争について語るときのミスタ・リュウヤは、水を得た魚みたいなものですから」

「ええ。絶対に、こっちに会話のペースを掴ませてくれない」

「でも、もうすぐ四半刻経ちますよ?」

「そうね。そろそろ行こうかしら」

 席を立とうとするルイズに、ケティが、おずおず、と声をかける。

「あの、よろしければなんですが、わたしもご一緒させてもらっても?」

「べつにいいけど……なんで?」

「るーちゃんはご主人様という立場上応援出来ないとおっしゃってましたが、わたしは、ただの後輩の立場ですから。……将来のお姑さんとの良好な関係を築くためにも、援護射撃をしておこうかと」

「誰が姑よ。っていうか、もう、サイトの嫁気取りかい、あんたは……」

 ルイズは深々と溜め息をついて、しかし、ほろ苦く笑った。

「感謝するわ」

 二人は同時に席を立つと、水の塔へ向かった。

 保健室の前にやって来た二人は、来る者拒まずの戸をノックしたが、一向に返事がなく、顔を見合わせた。

 かしこまった態度で「失礼します……」と、ドアを開ける。

 部屋を見回すと、事務机にミスタ・クラウスの姿はなかった。

 例の衝立の向こう側から、男の声が三人分漏れ聞こえてくる。その中には、ミスタ・クラウスと思しき声もあった。魔法学院随一の腕を持つ保健医も、どうやらあちら側の住人となったらしい。

 先ほどの戦争の話とは打って変わって、衝立の向こう側から聞こえてくるのは大きな声だった。

 特に耳目に意識を集中する必要もなく、会話は筒抜けだ。

 以下、柳也、モット伯爵、ミスタ・クラウスの順番。

「人のオスとは、なぜ、かくも女子のおっぱいを愛おしく思うのか? ちなみに俺は熟女のふしだらなおっぱいが好き」

「ワシは大きすぎず、小さすぎずで、掌に収まるぐらいが好きだな」

「胸なんて飾りです。偉い人にはそれが分からんのです」

「……ミスタ・クラウス、あんた、通だったんだな……」

「もしやそなたはペ道の追求者か!?」

「違いますよ! ただ、これまで好きになった女性がことごとく貧乳だっただけで……」

「年齢は問題なかったと?」

「つまりは合法ロリだったと?」

「……まあ、たしかに、みんな身長低かったですし、いま振り返ってみれば、みんな童顔でしたが……」

【やっぱりロリコンじゃないか(歓喜)】

【たまげたなあ】

 なお、懸命な読者諸兄にはあえて説明するまでもないとは思うが、念のため。

 最後の二つは、それぞれ〈決意〉と〈戦友〉の言である。勿論、永遠神剣の声は基本的に契約者にしか聞こえないため、ルイズらに届くことはなかったが。

 衝立の前で立ち止まったルイズさん、鳶色の瞳のハイライトがオフ。

 想い人が口にした、「熟女のふしだらなおっぱい」発言を気にしたか、俯きながら自分の胸元を右手でぺたぺたつるぺたはにゃーん。

 無言で顔を上げると、かたわらのケティが、「ひぃっ」と、怯えた声を出して後ずさった。

 鬼の形相のルイズさんは、懐から指揮棒のような杖を取り出すと、にっこり笑ってルーンを唱えた。

 結果、

 

 

 どかーん。

 ぼがーん。

 いやーん。

 ばかーん。

 うっふーん。

 そこはー、

 おちちなのー。

 

 

 威力だけならばマチルダの土ゴーレムにさえダメージを与えうる爆発が、狭い保健室の中で炸裂した。

 



 

 突然の爆発に五体を揉まれ、しかも運の悪いことにちょうど窓際にいた柳也は、爆風に吹かれるままに外へと放り出されてしまった。

 落下の勢いそのままに、地面を転がる彼の横転を止めたのは、後頭部を襲う痛烈な衝撃だった。

 人の頭ほどもある大きな石に頭から突っ込んでしまい、柳也の表情が苦悶に歪む。

 脅威の身体能力を持つ神剣士にとって、頭を強く打った程度は致命打とは言えない。

 とはいえ、脳を揺さぶられたのだ。ダメージ自体は些少でも、脳震盪は避けられない。

 急速に薄れゆく意識の中、柳也は、アルヴィーズ食堂のマルトーコック長の言を思い出し、苦い表情を浮かべた。

 過日の京屋敷での一件は、少なくとも自分にとっては、パリス・黒スピリットらがシエスタを連れ去ったことに端を発する。では、自分はどうやって彼女が連れ去られた事実を知るにいたったか。あのとき、シエスタがモット伯爵に買われてしまったと教えてくれたマルトーコック長は、何と口にしていたか。

『シエスタの家族が人質に取られているらしい……』

 シエスタとモット伯爵の身柄を押さえただけでは、この一件は真に解決したとは言えない。二人の身の周りから、不安材料を一掃しなければならない。

 このうち、モット伯爵については今日、一応の解決を見た。

 ――証文を確保出来たことで、モット伯爵の問題は片付いた。残るは……、

 残すは、シエスタの問題……彼女の家族の、安否を確認することだ。はたして、連中が目的だと言っていた威力偵察を終えたいま、彼女の家族らの監視は解かれているだろうか。

 ――手紙でのやり取りは、偽装される可能性があるし、文章だけではシエスタも真に安心出来ないだろう。やはり、最も確実な方法は、シエスタ本人の眼で家族の無事を確認してもらうことだ。

 勿論、シエスタ一人を故郷へと帰すわけにはいかない。今回の一件における真の狙いは自分一人だったが、一度は標的と定めた彼女を、連中がまた狙ってこないとも限らない。彼女の帰郷を許すなら、護衛につける必要があった。

 問題は、誰を護衛役とするかだ。

 自分はこの魔法学院を動くわけにはいかない。

 自分一人を誘い出すためだけに、シエスタばかりかモット伯爵まで巻き込むような過激な連中だ。今度は自分とより縁の深い、魔法学院を襲撃するやもしれぬ。

 それでなくとも、ワルド達の暗躍が判明したいま、魔法学院という拠点から離れるのは慎まれた。連中が次また何か事を起こしたときにすぐ動き出せるよう、拠点の確保は必須だった。

 ――もし、シエスタの家族がいまだワルド達の監視下に置かれているとしたら、最悪の場合、戦闘になる恐れがある。当然、相手は神剣士……最低でも、スピリットが出てくるだろう。

 護衛役には、少なくともスピリットから逃げ出せる程度の力量が求められる。

 自分以外の人間で、神剣士と対抗しうるだけの戦力を持った人物。思い浮かぶ人材は、一人しかいなかった。

 



 

 ――聖ヨト暦三三〇年、スフの月、黒、ふたつの日、夕刻。

 

「あなたがいま感じている症状について、何か思い当たる原因は?」

 二ヶ月前ヒエムナの駐屯地に着任した軍医のダイアン・ブロカは、体の不調を訴えるアンドリュー・ヨハンセンに訊ねた。

 太った体を揺するようにして言葉を口にした五七歳の女医に、ヨハンセンは失望も露わな表情で「分からない」と、応じた。

「原因が分かっていたら、医務室を訪ねたりしません」

 ハンサムだが、薄っすらと生えた無精髭がだらしない性格を表している男だった。ダーツィ大公国軍はヒエムナ駐屯地に本部を置く歩兵大隊の隊長で、平時でも一〇〇人、戦時には三〇〇人を統率する立場にある。

 先月、三十歳を数えたばかりの大隊長は、生まれてこの方病気らしい病気に罹ったことが一度もなかった。食べることが大好きな健康優良児で、だからこそ、二週間ほど前から続く体調不良に驚き、そして怯えていた。医務室には訓練中に負った怪我の治療などで何度も世話になっているが、病気で世話になるのは初めてことだった。

「このところ、朝起きても疲れがとれないんです」

「けれど、睡眠はちゃんと取っているのよね?」

 皺だらけの丸い顔を近づけてくるダイアン女医に、ヨハンセンは頷いた。

「勿論、たっぷり取っています。ちゃんと眠っているのに疲れがとれないから困っているんです」

「疲れというのは、肉体的な疲れ? それとも、精神的な疲れ?」

「肉体的な疲れです。体が重い。なのに、意識だけははっきりしているんです」

「おかしな話ね」

 ダイアンは溜め息をついた。

「たとえば、寝不足なんかで体が気だるいときは、意識も眠たいものだけど」

「意識ははっきりしています。寝起きも良いほうですし……。とにかく、体だけが疲れている感じで」

「食事は?」

「毎日、おかわりをして炊事班を困らせているぐらいです」

「栄養もちゃんと摂っている、と。ますますおかしな話ね」

 エーテル技術という例外を除けば、中世暗黒期のヨーロッパ程度の文明しか持ちえぬ有限世界だ。当然、栄養学の概念はないが、住人はみな、どんな食べ物を摂れば日々を元気に過ごせるかを経験的に知っていた。

 特に軍の食堂は、そうした経験知の宝庫だ。加えて、激しい肉体労働を前提とする軍人向けのメニューは総じて高カロリー。栄養の偏りとか、エネルギーの不足といった線は考えにくい。

「栄養は摂っているし、休養もちゃんと取っている。それなのに、疲れが取れないなんて……」

「こんな症状は私が初めて?」

「ええ。わたしは帝国で医学を学んだけど、こんな症例はまったくの初めてよ」

 神聖サーギオス帝国はあらゆる分野で大陸の第一位を突き進む国家だ。特に目立つのは軍事力だが、医学や薬学といった医療の分野でも他国の追随を許さない。三十歳で軍医となったダイアンは、その六年後に最新の医療技術を学ぶため帝国へと留学。七年をかけて身につけた知識と技術は、公国のどんな医師にも負けないと自負していた。ヨハンセンが訴える症状は、その自分が初めて見るケースだった。

 ダイアンは問診票の余白部分をペン先で、こつこつ、叩きながら、ゆっくりと言う。

「……身体の回復力が落ちているのかしら?」

「ですが、私はまだ三十ですよ?」

「そう。老化には早すぎる。そういう症例がないわけじゃないけど……」

 現代世界の地球では、早老症と呼ばれる病気だ。肉体が異常なスピードで老化していく病気だが、ヨハンセンにそんな兆候は見られない。むしろ、実年齢よりも五、六歳も若く見える。羨ましい限りだった。

「駄目ね。データが不足している。これじゃあ、正確な診断は出来ない」

「そんな……」

 ヨハンセンは途方にくれた顔で天井を仰いだ。

「医者であるあなたに分からないなんて、私はどうすればいいんです?」

「とりあえず、長期の休暇を取ってみたら?」

「休暇を取れば、症状は良くなるんですか?」

「それは分からない」

「そんな……」

「力になれなくてごめんなさい」

「せめて、薬をいただけませんか?」

「何の薬?」

「深き眠りの薬を」

 深き眠りの薬とは、要するに睡眠薬のことだ。高山地帯でしか採れない特別な薬草の種子を火で炙り、暗所にて二年以上保管した物を、粉末にして飲む。睡眠への導入を手助けしてくれるが、一種の麻薬でもあり、連続して四週間以上服用するのは危険とされていた。

「少しでも体を休めてやりたいんです」

「薬の処方はもう少し待ってちょうだい」

 薬の依存性をよく知るダイアンは、険しい面持ちで言った。ヨハンセンの訴える症状についてデータが不足している現状、軽々しく薬を渡すのはかえって健康に悪影響を及ぼしかねない。

 不服そうに唇をへの字に歪めるヨハンセンを睨みながら、ダイアンは言う。

「せめてあと一週間は様子を見てちょうだい。あまり早くから薬を処方すると耐性が出来て、本当に必要なときに薬が効きにくくなってしまうかもしれない」

「耐性?」

「帝国の医学界で最近提唱された仮説よ。人間の身体の中には、病気や怪我を治すシステムがあって、それは経験によってどんどん進化する、っていう説。要は、一度その病気に罹ると耐性が生まれる、って考えね」

「薬は病気じゃありませんよ」

「でも、本来、体の中には存在しない、異物よ」

「異物が体の中に入ると耐性が生まれるんですか? じゃあ、食事は? 食事だってある意味異物でしょう?」

「そう。だからこそ、この仮説にはまだまだ問題がある」

 いつか科学技術が進歩して、人体の中を透視出来る眼鏡などが発明されれば、はっきりするやもしれぬが。

「とにかく、薬はもう少し待ってちょうだい」

「不安なんです。こんなこと、生まれて始めてだ」

「気をしっかり持って。心が弱ると、体はますます弱ってしまう」

 他人事だと思って、気安く言いやがって。

 ヨハンセンは恨めしげにダイアンを睨んだが、医者という職業柄、この手の視線に慣れている彼女はまったく動じなかった。

 



 

 その晩、ヨハンセンは翌朝目覚めたときのことを考えて憂鬱な気持ちのままベッドに体を横たえた。

 ダイアンは睡眠薬を処方してくれなかったが、代わりに少しでも質の高い休養がとれるように、と彼に様々なアドバイスをしていた。

 就寝の前には仕事や運動など、気持ちが昂るような活動はしないこと。ナイトキャップは寝つきをよくするが、体の中で酔いのもとを消費しきると、すぐ目が覚めてしまうから、あまり意味がないこと。部屋の灯りは就寝の一時間くらい前から絞って、夜の暗さに体を慣らしておくことなど、すべてを実践した。

 手間をかけただけあって、睡魔は横になってすぐ襲ってきた。

 あとは眠りの神の誘いに身も心も委ねるだけだが。

 ――頼むぞ……。

 明日こそはと祈りを篭めて、ヨハンセンは深い闇の底へと意識を沈めていった。

 

 

 

 

 

 夢を見ている、と自覚した。

 夢の中で、ヨハンセンは薄暗く、狭苦しい部屋にひとり閉じ込められていた。

 六畳ほどの部屋には窓やドアがなく、どうやって自分をこの部屋に押し込めたのかは分からない。

 気づいたときにはもうこの部屋におり、その唐突さと、一見しただけで奇妙と分かる環境から、これは夢なのだ、と理解した。

 部屋の中央には、玩具のようなほっそりとしたウッド・チェアーが一脚だけ置かれている。

 インテリアの類は他に一切なく、ヨハンセンは部屋に唯一ある家具に腰を下ろしていた。

 ……いや、腰を下ろすという表現は適切ではない。

 ヨハンセンはウッド・チェアーに体を縛りつけられていた。鉄製の重い鎖で背もたれごと胴を締めつけられ、両腕は荒縄により左右のアームレストに括りつけられている。両の足も然り。さらには猿轡まで噛ませるという拘束の徹底ぶりだ。いったい、何者の仕業なのか。

「……若いからといって、無理をさせすぎたな」

 不意に、声が聞こえた。

 後ろから耳元でそっと囁かれているようにも、遠く離れた場所から大声で呼びかけられているようにも聞こえる、奇妙な音。

 拘束者の声かもしれぬと辺りを見回すヨハンセンだが、首の可動範囲内に、人の姿は見当たらない。

 ならば背後に立っているのか、とも思ったが、そんな気配も感じられなかった。

 声はなおも室内の空気を震わせ、ヨハンセンの耳朶を叩く。

「いかに軍人の体が頑強といっても、連日連夜働かせれば疲労も溜まる。そのことに気がつかなかったのは、迂闊であったな」

 自省の言葉。だが、何に対する反省なのかは分からない。

 訊ねようにも猿轡が邪魔をして、喉を鳴らしても声にならない。

 黙ってこの呟きを聞いている他なかった。

「この男の体には、もう少し俺の仕事に付き合ってもらわねばならん。体調が戻るまで、しばらく夜の情報収集は控えてやるか」

 「今宵はゆっくり休め。アンドリュー・ヨハンセン」と、声は囁いた。

 こちらの身をいたわるように、優しさに満ち満ちた声。

 百万の耳を魅了するオペラ歌手のような甘い音色が耳に心地よい。

 拘束され、さらに監禁されているという状況にも拘らず、脳全体を揺らす甘い痺れに、ヨハンセンは安らいだ気持ちさえ覚えた。

「休養をたっぷりとって、体力が戻ったときにまた、お前の身体を借りる」

 声が、次第に遠ざかっていく。

 どうやら、覚醒が近いらしい。

 不意に、ヨハンセンは自分の手足が自由に動くことに気がついた。

 いつの間にか、椅子と手足とを結ぶ荒縄が消え、胴を縛る鎖もなくなっている。

 ウッド・チェアーから立ち上がったヨハンセンは、猿轡をはずしながら急ぎ後ろを振り返った。

 拘束者の姿を期待しての行動だったが、やはり、背後には誰もいない。

 ヨハンセンは天井を仰ぎ、声高に言い放つ。

「先ほどからわけの分からない発言ばかり! お前はいったい何者だ!?」

「ゲゲル……」

 返答。

 それは、自分をこの部屋に押し込んだと思しき拘束者の名か。

 それとも、まったく別の意味を孕んだ単語か。

 ヨハンセンが判断に迷っている間に、ウッド・チェアーが消えた。

 まるでスピリットの亡骸がマナの霧と化して消えゆくように、金色の、細かい無数の粒となって、蒸発していった。

 部屋の天井も、然り。

 部屋の壁も、然り。

 部屋の床も、然り。

 ヨハンセンが立つ部屋そのものが、物凄い速さで消滅していく。

 ――この部屋全部が消えるときが、目覚めのときか……!

 夢から覚めるまでに残された時間は、あとどれぐらいか。

 夢の終わりが近づいているというのに、声は変わらぬ甘い音色で、平然と言の葉を紡ぐ。

「深き眠りに沈め、ドリュー……。すべては、我らが目指す、普遍なる秩序のためだ」

 この宇宙に、ただ一つの秩序をもたらすために。

 この世界を、あるはずの姿へと戻すために。

 すべては我らが王のために。

 奇なる蛇神は、ミカゲ様のために……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目が、覚めた。

 



 

 翌朝、ヨハンセンは意気揚々と大隊本部のある兵営へと向かった。

 職場を目指すその足取りは実に軽やかで、前日の疲れをまるで感じさせない。

 表情も活き活きと精気が漲り、にこやかな横顔を目にした兵達は、すれ違いざまに自然と顔を綻ばせるほどだった。昨日、軍医に不調を訴えたのと同一人物とは思えぬ好調ぶりだ。

 ――ダイアン先生は本当に素晴らしい医者だ。たった二言、三言のアドバイスだけで、俺の疲れをこうも取り払ってしまった!

 昨日まで感じていた体の重さがなくなっていることに気づいたのは、今朝目が覚めてすぐのことだった。

 昨晩は妙な夢を見たような気がするが、睡眠そのものの質はここ何日かの間でいちばん良かったらしく、前日までの疲れをまるで感じなかった。

 久しぶりに気持ちよく朝を迎えられたおかげか、今朝は食欲も旺盛で、朝食はいつもの倍の量を平らげてしまった。

 ここまで劇的な変化をもたらしたのは、いったい何か。考えられる原因は、一つしかない。昨日、医務室を訊ねたときにダイアン女医から頂戴したアドバイスだ。かくしてヨハンセンは、一晩を経てすっかり彼女の崇拝者となっていた。

「おはようございます、大隊長」

 大隊本部に到着すると、ヨハンセンよりも一足先に兵営にやって来て書類仕事に精を出していた副長のミゲルが挨拶をしてきた。金髪碧眼の二七歳。ぎょろっ、とした目つきが爬虫類を思わせる男だ。

「今朝は顔色が良いようで」

「ああ。昨晩はいつになくぐっすり眠れた」

「それはよかった」

 ミゲルは微笑んだ。

「いくらお若いと言っても、連日連夜、あのように夜更かしをされては身体に毒ですからね」

「む?」

 聞き捨てならない発言だった。

 連日連夜の夜更かしとは、いったい何か?

 ここ数日は不調のこともあって、なるべく早くに床に就くよう心がけていたが。

 訝しげな表情を浮かべながら、ヨハンセンは副官に問う。

「夜更かしとは?」

「この二週間ほど、みなが寝静まった時間帯に、夜ごと兵舎を出ては、街へと繰り出していたではありませんか」

「なんだと……」

 茫然とした。まったく、記憶にない。以前ならばいざ知らず、この二週間は本当に大人しくしていたのだ。

「誰かと見間違えたのではないか?」

「大隊長とは、毎日こうして顔を合わせております。私が大隊長を見間違えるはずがありません。それに、軍服を着ておられましたし」

 嘘を言っているようには見えなかった。

 そもそも、こんな嘘をついてミゲルに何のメリットがあるというのか。

 ――ミゲルは実際に深夜街へと繰り出した俺を見たのだ。だが勿論、そんなことをした記憶は俺にはない。

 記憶がないのに、街には出かけている。それも連日連夜。これはもしや……と、恐ろしい想像を思い浮かべて、ヨハンセンの顔からは見る見る血の気が引いていった。

 ――夢遊病か……!

 現代世界では、睡眠時遊行症を正式名称としている。大雑把に説明すれば、睡眠中に発作的に起こる異常行動の総称で、特に小児に多く見られる症例だ。それまでぐっすり眠っていた人間が突然起き、歩いたり何かをした後に再び就眠するというのが、一般的な症状。すべての行動は無意識のうちに行われ、その間の記憶は本人にはない、という特徴を持つ。

 まさか自分は夢遊病を患っているのか!?

 にわかには信じがたいが、そう考えるとこの二週間の不調にも納得がいく。

 自分ではしっかり体を休めていたつもりでも、実際は常に筋肉を動かしていた。これでは、疲れは溜まる一方だ。

 他方で、疑問も残る。

 ミゲルの言によれば、自分の奇行は二週間も前から始まっているらしい。そんな長い間、自身を含めて、誰も異常に気がつかなかったというのか。

 ヨハンセンは思わず胴震いした。

 自分の身に、得体の知れない何か恐ろしいことが起こっているような気がしたからだ。

「……すまないが、急に気分が悪くなってしまった。ダイアン先生のところへ、行ってくる」

 「後を頼む」と、ヨハンセンは顔面蒼白、乾いた声でミゲルに言った。

 

 

 大隊本部の置かれた兵営から飛び出していくヨハンセンの背中を、鋭く見つめる一対の眼差しがあった。

 瑠璃の原石を眼窩に嵌め込んだかのような、ディープ・ブルーの瞳。

 公国軍制式の軍装一式を着込んだ、青のスピリットだ。

 バスタードソードの姿をとった永遠神剣を、鞘ぐるみの状態で腰に佩いている。

 身の丈はこの世界の女性としては平均よりやや高い一五五センチ前後。兵士の身だけあって肩幅は広く、足腰もしっかりと肉づいている。スピリットらしく、その顔の造作は端整だが、容姿にはあまり気をつかわない性質らしい。薄っすらと銀の混じった空色の髪は、うなじのところでざっくりと切り揃えられているのみだった。

 急速に遠ざかっていく背中に向ける眼差しは険しい。

 強大な戦闘力を重宝がられる一方で、この世界においては奴隷同然の扱いが当たり前のスピリット達だ。たとえ背中であっても、人間に対していつまでも鋭い視線を向けることは、大きな危険を伴う行為といえた。下手をすれば、人間に対する不敬罪を問われかねない。

 そうと知りながら、青の妖精は男の背を見つめ続けた。

 やがてヨハンセンが医務室のある塔に入ったのを見届けた彼女は、眉間の縦皺も深く、訝しげに呟く。

「……なんだ、あのマナは?」

 彼女の独り語りを耳にした者は、この場にはいない。

 彼女の疑問に答えてくれる者も、当然いない。

 ――あれはたしか、第一〇五歩兵大隊のヨハンセン大隊長、だったな……。

 神剣士のみが持ちうる、特別な感覚。

 原始生命力の波動を感じ取るためのセンサーが捉えたのは、奇妙なマナの波動だった。

 青い顔をして走り去った男の背中からは、大隊長自身のマナの他にもう一つ、何か別な生き物のマナが見出された。

 はじめは、衣服の中に虫でも紛れ込んだか、と思ったが違う。虫にしては、感じられるマナが強すぎる。かといって、ネズミやリスなどの小動物を懐に忍ばせているふうでもない。今度は逆に、感じ取れるマナが弱すぎた。

 何より不思議なのは、マナの反応が突然消えたり、そうかと思うと急に強くなったりすることだ。

 呼吸のサイクルに合わせて生命力が活性化しているのではない。それならば、マナは強くなったり弱くなったりするだけで、消えてしまうことはない。

 そもそもマナとは、この世界に存在する森羅万象一切が持つエネルギーのことだ。自分達スピリットは勿論、木や草といった植物、そのあたりに転がっている石ころにも、強弱はあれどマナが宿っている。ごくごく小さなエネルギーしか持ちえないが、死体にすらマナはあるのだ。マナが感じ取れない、すなわち完全に消えてしまうとは、通常では起こりえない事態だった。

 そんな、通常ではありえぬ事態が、起きた。

 一人の人間から二種類以上のマナが感じられるだけでも奇妙なことなのに、これはいったい……?

 青の妖精……公国軍最強のアウステート(戦闘者)、アイリス・ブルースピリットは、険しい面持ちのまま、ヨハンセンが入っていった医療棟を睨んでいた。

 


<あとがき>

 

 読者の皆さんおはこんばんちはっす。ゼロ魔刃EPISODE:64、お読みいただきありがとうございました!

 今回の話を書いている最中に、出張の辞令が下りました。

 いま、このあとがきは、住み慣れた名古屋を離れ、忍者の里にて筆を執っている次第です。

 さて、アニメオリジナルエピソードから派生したモット伯爵編も今回にて一応の終了です。もはや完全なオリキャラ化した伯爵には、愉快な仲間達の外部協力者ポジに収まってもらうことにしました。ファンタズマゴリアのときと違って、手勢を持たないのがゼロ魔刃の柳也ですからね。直接の指揮権がないとはいえ、兵隊を得られるのはかなりの助けとなるはずです。

 さて、次回はいよいよアレの登場です!

 色々と悩みましたが、不肖、タハ乱暴、腹をくくりました!

 軍オタの端くれとして、書いてやりますとも、わが国が誇るあの美しいスーパーウェポンを!!

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜




珍しく柳也が真面目に今後について話していたな。
美姫 「そうね。確かに、ここでは柳也は部隊も指揮権もないのよね」
そういった意味でも今回の伯爵の協力は助かるかな。
美姫 「とは言え、相手の方も何か色々と画策しているみたいだしね」
一体、何を企てているのか。そして、シエスタの家族は。
美姫 「結構、不安要素が残っているのよね」
まあな。でも、その一方で乙女たちの想いは強く。
美姫 「口にする事でより強くなった感じね」
だな。まあ、最後はやっぱり柳也らしいオチだったが。
美姫 「ともあれ、続きが気になるわね」
ああ。次回も楽しみに待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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