朱色の雨が降っていた。

 紅い、血のように紅い、大粒の雨だった。

 空を見上げると、雨雲さえもが赤い。

 紅い雨はときに粛々と、ときに轟々と降り注ぎ、やがては地表を、真っ赤に染め上げていった。

 土を。

 草を。

 木を。

 獣を。

 家屋を。

 人を。

 己を。

 真っ赤に、染めていった。

「……よう、ルーキー」

 赤だけの世界に、黒が一滴、落とし込まれた。

 立ち込める水煙に、おぼろな輪郭が浮かぶ。

 大柄な女だった。

 身の丈は軽く一九〇センチを上回り、肩幅も広い。

 背中には刃渡り三尺八寸の業物を納めた鞘を背負い、墨色の双眸は、まっすぐ自分を見つめていた。

「相変わらず暗い顔だな……」

 轟々、と雨が降っていた。

 しかし、唇から漏れ出たかすかな音は、少年の耳膜をしかと叩いた。

「だが、昨晩までと比べれば、だいぶ男前になった」

 端整な美貌に、楽しげな冷笑が浮かぶ。

 背中の三尺八寸を、勢いよく抜き放った。

 自分もまた、背中の相棒剣を抜き放つ。

 正眼に構える。

 睨み合う。

 紅い屋敷の目の前で、

 広い前庭の中央で、対峙する。

「さあ、今夜も殺し合おう!」

 女が嗤う。

 楽しげに、嗤う。

 形の良い唇が、三日月のように歪む。

「……いいや」

 対する少年は、険しい面持ちでかぶりを振った。

「今夜でもう、終わりだ」

「……なに?」

 女の表情が、凍った。

 訝しげな眼差しを、少年は真っ向から受け止める。

「人を殺す覚悟なんて、いまだに出来ちゃいない。いまだって、お前をまた殺さなきゃいけないって思うと、手の震えが止まらない! ……でも、シエスタは言ってくれた。俺に、生きていてほしい、って。罪を犯した俺に、生きてほしい、って言ってくれたんだ!」

 その想いに、応えたい。

 だから、と少年は吼えた。

 敵対者を前にした獅子が威嚇するが如く、咆哮した。

「だから、俺は生きる! 生きるために、お前を倒して、この悪夢を終わらせる!」

「……よく言った、ルーキー!」

 女が、地面を蹴った。

 少年も、地面を蹴る。

 衝撃で、紅い地面が割れる。

 真紅の水煙を裂いて、銀色の光線が交差した。

 狙いはともに胴一文字斬り。

 得物の間合いは女のほうが利するも、速さは、少年のほうが上!

 肉を断つ手応えを感じた。

 骨を砕く手応えを感じた。

 命を奪う手応えを感じた。

 赤が繚乱する。

 女の体から、赤が繚乱する。

「……お前の勝ちだ、ルーキー」

 女が嗤う。

 楽しげに嗤う。

 歪んだ三日月の端から、赤が滴る。

「強くなったな。初めて剣を交わしたときより、だいぶマシになった……戦士と呼ぶには、まだまだ垢抜けしていないが」

 女が嗤う。

 楽しげに嗤う。

 墨色の瞳が天を仰ぎ、赤を映す。

 彼女の大好きな赤を映す。

「……いいだろう。悪夢は、今夜で終わりにしてやる……。わたしは、お前になった。この命の力、存分に使うがいい」

 女が消える。

 黄金色の霧となって消える。

 赤が消える。

 金色の霧が、世界を彩っていく。

 すべてが、黄金に染まる。

 土が。

 草が。

 木が。

 獣が。

 家屋が。

 人が。

 己が。

 金色の霧に、包まる。

 己の掌へと視線を落とす。

 一人の女の命を絶った、左手を。

 伝説の使い魔の証たるルーンが刻まれた、この世界で生きていくためには必要な左手を。

「……今度夢に出るときは、もっと楽しい内容にしてくれよ」

 ぽつり、と呟いた。

 いつの間にか、雨は粛々と小雨になっていた。

 少年の声は、広々とした前庭に寒々しく響いた。

 

 

 

 

 

永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:63「……保健室とか診察室って言葉だけどさ、響きからして、もう、エロいよね! 女医さんが勤めているなら最高!」

 

 

 

 

 

「まがい物じゃないのかの?」

 本日最後の授業の終わりを知らせる鐘の音を聞きながら、トリステイン魔法学院の最高責任者、オールド・オスマンは、自身の執務室で胡散臭げに一冊の本を眺めていた。

 古びた革の装丁がなされた本だった。王宮から届けられた一冊だが、かなりの年代物らしく、色あせた羊皮紙のページは茶色くくすみ、触っただけでもぼろぼろと破れてしまいそうな箇所がいくつも見受けられる。

 ふうむ……、と唸りながらページをめくった。最初に開いたページには、何も書かれていなかった。次のページをめくる。そのページも、白紙のまま。その次のページも、そのまた次のページも。およそ三百ページはありそうな大作は、どこまでめくっても真っ白だった。

「これが、トリステイン王室に伝わる『始祖の祈祷書』じゃというのか……?」

 およそ六千年前、始祖ブリミルが神に祈りをささげた際に詠み上げた呪文が記されている、と伝承には残っている。しかし、この本には呪文のルーンどころか、文字さえ書かれていない。十中八九、偽物だろう。この手の〈伝説〉の品にはよくあることだが、それにしたって、こいつは酷い。

「ワシがいままで目を通した祈祷書の中でも、最悪の出来かもしれんな」

 オスマンがこれまで見た『始祖の祈祷書』は、いずれもルーン文字が躍り、どんなに酷い出来の物でも、最低限、祈祷書としての体裁を整えていた。しかし、この本には文字一つ見当たらない。

「とはいえ、プライドだけは一人前の王室がわざわざ送ってくるぐらいなんだ。ただの偽物とは思えないけれどね」

 かたわらで書類の整理をしていたマチルダが言った。魔法学院には有能なメイジの秘書ミス・ロングビルとして雇用されている彼女だが、正体を知っている人間の前では、粗野な態度を隠そうとしない。

「一見白紙の本だけど、何か、仕掛けがあるんじゃないのかい?」

「……炙り出しかの? 熱を加えると隠された文字が出てくるとか」

「そんな古ぼけて乾燥した本を火に近づけてごらんよ? よく燃えるだろうね。……ディティクト・マジックは?」

「もう、走査済みじゃ。この本からは、魔法の痕跡は一切検知出来なかった。正真正銘、この本はただの本じゃ」

 スクエア・クラス最強の自分が唱えた探知魔法だ。これを誤魔化せる術者の存在など考えにくい。

「ただの本に組み込めるギミックは限られておる。そして、そうしたギミックが仕込まれているふうにも見えぬ」

「じゃあ、やっぱり……」

「正真正銘の、まがい物じゃろうなぁ」

 そのとき、学院長室のドアがノックされた。マチルダが、丁寧な口調で来室を促す。

「鍵はかかっていませんので、どうぞお入りください」

 扉が開いて、一人のスレンダーな少女が入室してきた。桃色がかったブロンドの髪に、大粒の鳶色の瞳。オスマンとも、マチルダとも馴染み深いルイズだった。

「なんだ、あんただったのかい。気を遣って損したよ」

「……一応、あんたってリュウヤと同じで、わたしの使用人のはずよね」

 来客が自分と知った途端、魔法学院に勤務する美人秘書としての仮面を脱ぎ捨てたマチルダの態度にルイズの米神を引くついた。

 こほん、とひとつ咳払い。オスマンに向き直り、背筋を伸ばしてお辞儀する。

「わたくしをお呼びと聞いたものですから……」

 オスマンは両手を広げて立ち上がった。小さな来訪者を歓迎し、改めて、先日の労をねぎらう。

「おお、ミス・ヴァリエール。旅の疲れは癒やせたかな? アルビオンの地で何があったかは、ここにいるミス・ロングビルや、同志リュウヤから聞いておる。思い返すだけで、つらかろう。だがしかし、おぬしたちの活躍で同盟は無事締結された。トリステインの危機は去ったのじゃ」

 優しい声で、オスマンは言った。

「そして、来月にはゲルマニアで、無事王女と、ゲルマニア皇帝との結婚式が執り行われることが決定した。きみたちのおかげじゃ。胸を張りなさい」

 それを聞いて、ルイズは少し悲しくなった。幼馴染のアンリエッタは、政治の道具として、好きでもない皇帝と結婚せねばならない。同盟締結のためだ。仕方のないことなのだ。頭では分かっている。必要なことだとも理解している。しかし、アンリエッタの友人として、また彼女と同様ひとりの恋する娘としては、納得がいかなかった。幼馴染の悲しげな笑みを思い出すと、我がことのように胸が痛む。

 ルイズは黙然と頭を下げた。

 オスマンは憂いの帯びた眼差しでしばらくルイズを見つめていたが、やがて思い出したように手にした『始祖の祈祷書』を彼女に差し出した。

「これは?」

 ルイズは怪訝な面持ちで古めかしい表紙を見つめた。

「始祖の祈祷書じゃ」

「始祖の祈祷書? これが!?」

 王室に伝わる、伝説の書物だ。世界にたった一冊しかないはずの、国宝中の国宝。それをどうしてオスマンが持っているのか。

 はたして、学院長は「トリステイン王室の伝統じゃよ」と、答えた。

「王族の結婚式の際には、貴族より選ばれし巫女を用意せねばならんのじゃ。選ばれた巫女は、この『始祖の祈祷書』を手に、式の詔を詠みあげるならわしになっておる」

「は、はぁ」

 オスマンはそこで一旦言葉を区切ると、ルイズの反応を窺った。

 ヴァリエール公爵家の三女とはいえ、そこまで宮中の作法に詳しくなかった彼女は気のない返事を寄こす。

 オスマンはそれまでとは一転、厳かな口調で続けた。

「そして姫は、その巫女に、ミス・ヴァリエール、そなたを指名したのじゃ」

「姫さまが?」

「その通りじゃ。巫女は、式の前より、この『始祖の祈祷書』を肌身離さず持ち歩き、詠みあげる詔を考えねばならぬ。勿論、草案は宮中の連中が推敲するじゃろうがな」

「えええ! 詔をわたしが考えるんですか!?」

 ルイズは驚いた。とんでもない大役を仰せつかってしまった。詔なんて、どうやって書けばいいんだろう? 

「これは大変に名誉なことじゃぞ、ミス・ヴァリエール。王族の式に立ち会い、詔を詠みあげるなど、一生に一度あるかないかじゃ。そんな大役に、姫はそなたを指名したのじゃ」

 戸惑いや不安は、オスマンの言葉によって吹き飛んだ。

 そうだ。アンリエッタは自分を指名してくれた。幼い頃、共に過ごした自分を、自らの大切な式の巫女役に選んでくれたのだ。彼女を愛する友人として、この想いに応えねば!

 ルイズは、きっ、と顔を上げた。

「……わかりました。謹んで拝命いたします」

 ルイズはオスマンの手から、『始祖の祈祷書』を受け取った。

 学院長は彼女の華奢な肩に手を伸ばすと、細めた目から優しい眼差しを注いだ。

「そなたと姫は幼馴染じゃと聞いておる。精一杯、頑張りなさい」

「はい!」

 

 

 



 

 


 学院長室を後にしたルイズは、一階へと続く長い長い螺旋階段を下りながら、深々と溜め息をついた。

 快諾したはいいものの、詔の書いた経験なんて自分にはない。いったい、どうやって書けばいいのか。そもそも、詔とは何だ? 花嫁の友人代表としてのスピーチではいけないのか?

 一人で考えていても埒が明かない。

 ここは、恥を忍んで誰かに相談するべきだろう。

 となれば、問題は誰に相談するか、だ。

 此度の結婚は、アンリエッタとゲルマニア皇帝二人のためだけのものではない。トリステインとゲルマニア。両国に生きる者達の、未来を懸けた重要な政だ。失敗は決して許されない。

 先日のワルドの一件もある。自分が詔を詠みあげる巫女役を拝命したことが、両国の同盟締結を防ぎたいレコン・キスタの耳にでも入れば……また、新たな騒動の火種となりかねない。相談相手には、弁が立つことよりも、口の堅さが信頼出来る人物を選ばねば。

「……うん。あいつだ」

 真っ先に思い浮かんだ人物のもとへ向かうべく、ルイズは螺旋階段を下りる歩調を早めた。

 目指す場所は“火”の塔と“風”の塔に挟まれたヴェストリ広場。きっと、あの男はそこにいる。

 階段を下りるルイズの肩は、やけに弾んでいた。

 

 



 

 

 トリステイン魔法学院の校舎は、始祖ブリミルが発見したとされる五大系統の関係図をかたどって配置されている。すなわち、中央に建つ本塔を、土、火、風、水の四塔と、学生寮の計五塔がぐるりと囲み、上から見るとペンタゴンを描いているのだ。ヴェストリ広場は、本塔、火の塔、風の塔を結んだ、三角形の広場のことを指した。

 ヴェストリ広場に到着したルイズだったが、そこには探し求めている男の姿はなかった。

 その代わりに、探し人の弟子がいた。

 自分と同じ黒いマントを身に纏い、額に汗を浮かべながら杖を振るっている。

 ギーシュ・ド・グラモン。

 ルイズの知る限り、この魔法学院で最も容姿端麗な男だ。以前は甘い美貌と腕っ節の強さからくる尊大な態度が何かと鼻につく嫌なやつだったが、自分の使い魔との決闘に敗れて以来、その性格から程よく角が取れた。傲慢さを手放した代わりに謙虚さを身に着けた彼は、友誼に厚い好青年へと生まれ変わったのだ。

 柳也などは、「いいや、いまのがギーシュ君の本来の姿だろう。以前の彼は、グラモン家の男だってことに固執しすぎてきた。周囲から向けられる期待とか、嫉妬とか、そういう難しいことを一旦頭の外に追いやった結果が、いまの彼だよ」と、言っていた。

 しかし、以前のギーシュとの付き合いのほうが長いルイズには、まさに生まれ変わったとしか形容のしようがないほどの変貌ぶりに思えた。勿論、彼女の目から見て、プラスの方向への変化だ。

 ――わたしも、よく話すようになったしね。

 かつては声をかけられただけで顔が強張ってしまうほど彼を苦手としていたルイズだが、特に破壊の杖事件を一緒に解決してからは、自分から話しかけることさえ増えたほどだ。アルビオンでの密命も、ギーシュの為人が以前のままだったなら、同道を許しはしなかっただろう。

 ひとり魔法の練習に夢中のギーシュは、広場にやってきたルイズの存在に気づいていない。

 弟子の彼ならば柳也がいまどこにいるのか知っているかもしれない、と彼女は背後よりそっと忍び寄った。

 足音を殺しながらの歩みは、ギーシュへの気遣いゆえだ。

 精神エネルギーを費やして現象を起こす系統魔法は、なにより意識の集中が肝要だ。どんなに高等な魔法も、集中が乱れれば不発に終わってしまう。

 自身、落ちこぼれの自覚から日々魔法の練習に余念のないルイズは、ギーシュの邪魔をしてしまうことを嫌った。

 視界に入らぬよう。雑音を立てぬよう。話しかけるときは、タイミングを見計らって……。やがて思いのほか広い背中を指呼の距離に捉えたとき、ギーシュは短くルーンを唱え、手にしていた一輪の薔薇を正面に向けて振りかざした。赤い薔薇の造花が、彼の杖だ。薔薇の花びらが一枚だけ、ひらり、と舞い散り、地面に落下した瞬間、鎧甲冑に身を包んだ女騎士へと姿を変える。ワルキューレ。ギーシュの最大の武器たる、土のゴーレムだ。

 現れた戦乙女のいでたちを見て、ルイズは思わず小首を傾げた。ワルキューレの総身を覆う甲冑の意匠が、記憶にある姿と違っていたためだ。

 破壊の杖事件や先の密命騒動でともに戦ったゴーレムの鎧は、どちらかといえば装甲の防御力よりも見た目の優美さを優先したようなデザインをしていた。ふくよかな曲線を基調として構成された青銅の甲冑はたしかに美しかったが、その実薄く、鎧を身に纏ったワルキューレは細身だった。事実、以前この広場を舞台に繰り広げられた才人との決闘では、彼の振るう剣の前に、彼女らの鎧は易々と両断されていた。パワーやスピードはともかく、こと防御力については疑問符がつく、というのが、ルイズのワルキューレに対する評だった。

 翻って、いまギーシュの前に立つワルキューレの鎧は、軍事には疎いルイズの目にも頑強そうに映じた。

 一・八メイルという長身を覆う甲冑は、以前とは打って変わって直線を基調とした平面的なデザインをしていた。そこから雅な美しさを感じ取るのは難しく、むしろ武張った印象のほうが強い。全体のシルエットは以前よりもひとまわり大きく、装甲厚の増大が窺い知れた。特に巨大なのが胸と肩のアーマーで、がっしりとした造り込みは銃弾さえ弾いてしまいそうな頼もしさを感じさせた。

 最大の違いは鎧の色だ。以前の鎧はやわらかな青みをふくんだ緑色をしていた。しかし、いまやワルキューレが身に纏う装甲は、光沢が冷たい黒に染まっている。もし、この場に現代地球人の柳也がいたならば、ガンメタルグレイとでも呼んだだろうか。青銅作りの鎧では、発しえぬ色合いだ。これはもしや――――――、

「……それって、鉄の鎧?」

 気がついたときには、問いが口をついて出ていた。

 後ろを振り返ったギーシュは、ルイズの顔を見て少し驚いた表情を浮かべ、気恥ずかしげにはにかんでみせた。

「……恥ずかしいところを見られてしまったな」

「恥ずかしい? なんでよ?」

「このワルキューレはね、色々と未完成の魔法なんだ。まだ、人に見せられるような出来じゃない」

 ギーシュは苦笑しながら、かたわらのワルキューレの肩を叩いた。

「ご推察の通り、このワルキューレは鉄で出来ている。最近の僕はね、ワルキューレを使った戦術の研究以外に、ワルキューレそのものの強化にも手を出しているんだよ」

「それで、鉄でワルキューレを?」

「ああ。……ただ、知っての通り、鉄の“錬金”はライン・クラスの技術だ。ドット・メイジの僕が無理に行えば、必ずどこか失敗してしまう。だから、未完成なのさ」

「なるほど……でも、なんでワルキューレの強化なんか?」

 青銅のワルキューレだって、十分強いではないか。そりゃあ、たしかに才人には敗れた。破壊の杖と契約を結んでいたマチルダにも敗北を喫している。けれどこれらの戦いでは、相手が規格外すぎた。かたや伝説の使い魔、かたや超常の神剣士。敗北もやむをえないことだろう。

 実際、ラ・ロシェールで殿を務めたときは、一人でオーク鬼を撃破したとも聞いている。後にワルドの従僕だったことが判明したあのオーク鬼は、大きさが一般的な個体の一・五倍はあった。正面からぶつかれば、トライアングルのメイジだって苦戦は必至の相手だ。そんな難敵を倒したギーシュと、彼のワルキューレ達は、十分な強さを持っていると言えるのではないか?

 過去の実績を口にするルイズに対して、しかし、ギーシュはかぶりを振り、きっぱりと言う。

「いいや、僕のワルキューレは弱い」

 以前の傲慢な彼からは考えられない内容の言。

 驚いた表情のルイズに、彼は続けて言った。

「実を言うとね、ワルキューレの強化案はサイトに負けたあの日から、ずっと考えていたことなんだ。僕のワルキューレは弱い。たしかに、重い槍を振り回せるだけの力はある。馬よりも速く走ることだって出来る。けれど、その鎧は脆い。まだ神剣士じゃなかった頃のサイトにだって、容易く断ち割られてしまったほどだ。ラ・ロシェールでの戦いだって、勝つには勝ったが、ワルキューレは全滅した」

 ギーシュは闇色のワルキューレにどこか思いつめた眼差しを注いだ。

「この先に待つ戦いは、きっと、いままで以上に過酷なものになる。戦術研究も勿論だけれど、ワルキューレ自体の強化も、必要になるだろう」

 近い将来への予見を口にするギーシュを、ルイズは訝しく思った。

 この先に待つ戦い? アルビオンとは先頃、不可侵条約が結ばれたばかりだ。それなのに、この少年は破壊の杖事件のときのような戦いがまた起こることを予感しているのか。いったい、何を根拠に?

 鳶色の瞳に映じた疑問を読み取ったか、ギーシュは端整な美貌に険し表情を浮かべて言う。

「例の不可侵条約だけどね、アルビオンの狙いはおそらくは時間稼ぎだろう、というのが僕とミスター・リュウヤの見解なんだ」

「どうして、そう思ったのよ?」

「あの内乱でアルビオン軍は……と、この言い方だと分かりにくいな」

 「反乱軍」と、いまやアルビオンの正規軍となった勢力のことを、ギーシュはそう呼んだ。

「これは僕らも戦争が終わってから気づいたんだけど、反乱軍はあの内乱を、主力をほとんど損なうことなく収めているんだ」

 内乱終結後の反乱軍の状況を俯瞰してみれば、それは明らかだった。

 ニューカッスル城を包囲していた五万人を始めとする、圧倒的な兵力。

 旧王国空軍艦隊を吸収して膨れ上がった航空戦力。

 ワルドを始めとする強力なメイジ達。

 ウィリアム・ターナーを名乗る謎の神剣士の支援。

 最後まで王軍の激しい抵抗に苦しめられた反乱軍だったが、終わってみれば、彼らはそのうちの何一つ失っていなかった。何一つ失わないまま、内乱を終結させた。

 たしかに、長い戦いのせいで国土は荒れた。武力による政権交代には付き物の混乱が、国内の其処彼処で大小の問題を起こしている。しかし、反乱軍は戦争を続けるのに十分な余力を、まだまだ残していた。

「不可侵条約は、たぶん、国内の混乱を鎮め、新体制を整えるまでの時間稼ぎだろう。落ち着きを取り戻し次第、奴らは、今度こそトリステインにその牙を剥いてくるはずだ」

 そしてそれは、おそらく軍事力という名の牙だろう。

 どちらが勝つにせよ、トリステイン王国史上最も激しいいくさとなることは容易に想像がつく。

 そしていざ戦端が開かれたなら、自分は貴族の男児として、またグラモン元帥の息子として、戦地へと赴かねばなるまい。そのときに備えて、ワルキューレの強化は必須だった。

 「それに」と、ギーシュは重ねて言う。

「……勝手ながら、僕はサイトのことを、友人であり、よきライバルであると思っているんだ」

「ギーシュ?」

 いきなりの話題の変化を受けて、ルイズは困惑した表情を浮かべた。

「アルビオンでサイトは永遠神剣という新たな力を得た。勿論、いくつもの偶然が積み重なった奇跡のような出来事だったし、あいつ自身、望んで得たわけじゃない。だからそのことを羨むのは筋違いだと理解はしている」

 ギーシュはそこで重たい溜め息をこぼした。

「……けれど、頭の中でどんなに理屈をこねくり回しても、心の中から、ライバルに一歩先を行かれたという焦りを、打ち消すことは出来なかった」

「……だから、自分も強くなろう、って? サイトに、置いていかれないために。あいつには負けないぞ、って?」

 思わず、問いかける声が震えてしまった。

 彼が頷くのを見て、さらに心臓が跳ね上がるのを自覚する。

 自分と同じだ。名門貴族の家に生まれながら、これまで一度として魔法を成功させた試しのない自分。劣等感から常に感じているのとまったく同じ焦燥を、目の前の少年も感じていた。

 ルイズは急に、いままであまり話すことのなかったこの少年が、身近な存在に思えた。

「……さっきも言ったように、僕は、ワルキューレの最大の弱点は装甲防御力にあると考えている。ワルキューレ達は、僕の剣であると同時に盾だ。一撃で粉砕されてしまうようでは、壁役を頼むことは出来ない。かといって、単に装甲を厚くするだけでは、今度は機動力が損なわれてしまう。分厚い装甲は、重いからね。そこで思いついたのが、鉄でワルキューレを作ることだった」

 加工の仕方にもよるが、鉄は一般に青銅よりも強度に優れた金属素材だ。鉄の頑丈さを青銅で再現しようと思ったら、普通、その何倍もの量が必要になってしまう。刀剣や鎧といった武具の素材として、最も優れた金属の一つだった。

「鉄を使えば、軽くて強靭な鎧をワルキューレ達にプレゼントしてやれる。それに、鉄製の武器は、青銅製のそれと比べて格段に強力だからね。鉄の“錬金”が出来れば、防御だけでなく、攻撃面での強化も期待出来るはずだ」

 勿論、そのためにはクリアせねばならない課題も多い。

 最大の難関は、鉄の“錬金”はライン相当の技術だということだ。

 鉄は銅と比べて加工が難しく、ドット・メイジのギーシュの腕では原子構造の解析すらままならない。“土”の系統の魔法は万物の組成を司る技術だ。対象物の構造の解析・分解・再構築の三行程が、すべての基本となる。その第一段階で躓いているようでは、“錬金”のスペルを唱えたところで、出来上がるのは失敗作ばかりだった。

「これが失敗作?」

 ルイズはギーシュの前に立つワルキューレを見つめた。

「わたしには、ちゃんと出来ているように見えるけど……」

「いいや、失敗作さ」

 ギーシュはかぶりを振ると、きっぱり言い切った。

「立派なのは見てくれだけだよ。中身はスカスカのボロボロ。装甲の硬さは青銅造りとさして変わらない上に……おい!」

 ギーシュは薔薇の杖を振ってワルキューレに腰に佩いた剣を構えるよう命令した。

 漆黒のゴーレムは、ギィギィ、と不快な音を立てながら、ぎこちない動作で腰の剣に手を伸ばした。

 右手の指が柄に添えられた直後、右のにの腕を覆う装甲に亀裂が走り、せっかく抜き放ったロングソードを取り落してしまった。

 ギーシュは苦々しく溜め息をついて、ルイズを見る。

「……と、この有り様さ。鉄の構造再現が完璧じゃないから、ひどく脆いんだ。全身の関節をほんの少し動かしただけで、すぐに装甲がひび割れ、駆動系がいかれてしまう。運動能力はほとんど皆無だ。おまけに青銅を“錬金”するよりもずっと多くの精神力を消耗するから、同時に召喚出来るのは僅か二体だけときている」

 かつて桜坂柳也は、ワルキューレの最大の利点は数にあると言った。いつの時代も変わらぬ戦いの原則は、敵よりも多くの兵を用意することだ、とも。性能を落とした上に、最大の強みをも殺してしまった。失敗作以外の何物でもなかった。

 せめて、装甲防御力で二倍、総合性能で三十パーセントは強化されたワルキューレが五体は欲しい。ワルドやウィリアム・ターナーのような神剣士を相手取るのなら、さらにその倍の数が……。そのためには、

 ――もっと、腕を磨かないとな!

 実戦の場では絶対にあってはならないミスを犯したワルキューレを見つめながら、ギーシュは決然と呟いた。

 気高き決意からか、端整なマスクはいっそう凛々しく引き締まり、ルイズはしばしその横顔に見惚れてしまった。

「……ところで、るーちゃんはどうしてここに?」

 くろがねのワルキューレをひとまず造花の花弁へと戻したギーシュは、それから思い出したようにルイズに訊ねた。

「だから、その、るーちゃん、って呼び方はやめてってば」

 貴族に対する敬意の欠片も感じられない呼び名に渋面を作りつつ、彼女は続けた。

「リュウヤを探してるのよ」

「ミスター・リュウヤを?」

「そ。ちょっと、相談したいことがあってね。それで、いつもあんた達がたむろしてるこの広場に来たんだけど……」

「たむろって……もうちょっと良い言い回しは思いつかなかったのかい?」

「うるさいわね。……それで、リュウヤは? いるの? いないの?」

「見ての通りだよ」

 ギーシュは辺りを見回し、肩をすくめた。

「ミスター・リュウヤは、今日は用事があるらしくてね。指導はお休みしている」

「用事?」

「ああ」

 ギーシュは頷くと、ヴェストリ広場からは彼方に見える水の塔を掌で示した。水の塔には教室の他に、保健室がある。

「お見舞いだってさ」

 

 



 

 

 放課後。

 水の塔の一階にある保健室では、落ち着いた息遣いと、本のページをめくる音だけが、ひっそり、と響いていた。

 読書を楽しんでいるのは、波にたゆたう海藻のようにパーマのかかった短髪が特徴的な、二十代後半と思しき男だ。魔法学院の教員であることを示す外套を羽織り、銀縁の丸眼鏡をかけている。食事にはこだわらないほうらしく、貴族のわりに体は小柄で、痩せ気味でさえあった。

 マホガニー製のデスクの上では、百科事典のように大きくて分厚いハードカバーが広げられている。かなり古い本のようで、ほっそりとした指先が丁寧にめくるページは、みな例外なく砂漠で暮らすラクダの毛皮色に変色していた。写本か、それとも原本の段階からしてそうなのか、ほとんど行間を開けずにびっしりと綴られた筆跡は、お世辞にも上手とは言い難い。

 古い本とは、それだけでもう読みにくい。色褪せたインク。かすれてしまった文字。死語や旧字。もはや世に存在しない文法。いまを生きる者には到底共感など出来ぬ文化などが、読書の障害として立ちふさがる。のみならず、筆跡までもが汚いとなれば、もはや解読は絶望的だ。

 しかしながら、薄い凸レンズの向こう側では、大振りの双眸が、きらきら、と輝いていた。

 文字を読み進める視線の動きからは、一瞬の停滞も見られない。

 難読極まる古い書物の内容をしかと理解している事実は、この男がかなりの教養の持ち主であることを示していた。

 それもそのはず、彼はオールド・オスマンが自ら魔法学院の教師にスカウトするほどの優秀な研究者であった。トリステイン魔法学院の保健医、水のトライアングル・メイジのミスタ・クラウス。今年の夏で二七歳になる、学園では珍しい年若い教師だ。

 ミスタ・クラウスは、王都トリステイン近郊に居を構える、下級貴族の三男坊として生まれた。魔法の腕は六人いる兄弟の誰よりも優れていたが、長男ではなかったため嫡子になれず、このまま家にいても出世の望みはないと、一五歳のときに実家を飛び出した。その後、王立魔法研究所の門を叩いた彼は、自身が“水”の系統を得意とするメイジだったことから、新しい回復魔法の開発や魔法薬の研究に没頭。やがて医師として大成したのであった。

 そんなクラウスが魔法学院の保健医になったのは、彼が二二歳のときのことだった。

 遡ることさらに二年前、王国の南西部では強力な伝染病が猛威を振るっていた。人から人へと移るタイプの病で、子どもや老人を中心に毎週三十人以上がなくなるほどの被害が出ていた。事態を重く見た王国政府は魔法研究所に原因の究明と解決を命令。そのプロジェクトチームのリーダーを務めたのが、当時二十歳のクラウスだった。

 現地へ赴いた彼は一年に及ぶ研究の末に感染源を突きとめ、さらには治療法までも確立させた。新たに発明された回復魔法は、これまで誰も思いつかなかった、しかしやり方さえ覚えればドット・メイジでも使用可能という画期的な術式だった。新しい回復魔法は“クラウス式変圧法”と命名され、その後王国はメイジ二百人をこの地方に投入、伝染病はおよそ半年で根絶された。

 偉業達成から約二ヶ月後、研究所の私室でワインを楽しんでいたクラウスのもとに、王立魔法学院から一通の書簡が届いた。手紙には、クラウスを魔法学院の教員兼保健医として招きたい旨が、オールド・オスマンの名義で記載されていた。この偉大なる老メイジは、先の伝染病との戦いにおけるクラウスのはたらきに目をとめ、是非とも彼を教壇に立たせたいと熱望していた。

 魔法学院の教員といえば、下手な領地持ちよりも高給が約束された身分だ。それに、学院には魔法研究所にもない秘薬や、貴重な書物が数多く収められているという。研究者でもあるクラウスにとって、魔法学院での勤務は魅力的な誘いだった。彼は二つ返事で申し出を快諾した。

 魔法学院の保健医となったクラウスは、年間七五〇エキューという高給と、彼だけの城を与えられた。

 水の塔は一階にある保健室が、彼の王国だ。四十畳近い広々とした部屋で、病人がいるとき以外は好きに使ってよい、とオスマンよりお墨付きを得ている。クラウスは早速この部屋に愛用のデスクと研究用の器材を持ち込み、彼だけの研究室へと作り替えた。勿論、それで保健医としての仕事に支障をきたしては問題だから、六つあるベッドや三つ並んだ薬棚の配置は変えていない。増設したのは機材を収納するための箪笥が二つと、書架が一つだ。書架には図書室より借りてきた様々な医学書を揃え、彼はここに公私ともに最高と自負する環境を整えた。以来この四年半、クラウスは医師として、また一人の研究者として、これまでの人生のうちで最も充実した時間を、この部屋で送った。

 クラウスは自分のために用意されたこの部屋を心より愛していた。魔法学院には彼の他にも優れたメイジがたくさんいた。しかし、その彼らを差し置いて、オールド・オスマンは若輩者の自分に、この保健室を任せたのだ。

 クラウスにとってこの部屋は権威の象徴だった。下級貴族の三男坊にすぎなかった自分が、腕一つで魔法学院の教員にまで昇りつめた。その事実を実感させてくれる二つとない証、彼の誇りそのものであった。

 

 

 ミスタ・クラウスにとって、放課後から就寝までのおよそ四刻は、一日のうちで最も重要な時間だった。

 教員としての仕事さえ終えてしまえば、不意の急患がない限り、残りの時間を好きなだけ研究のために費やせるからだ。学者肌の彼は、文献と向き合っている時間をなにより至福と感じる性質だった。

 この日もまた、明日の授業の準備を手早く済ませたクラウスは、愛用ののデスクの上に研究ノートと数冊の古書を広げた。

 現在、彼が取り組んでいる研究は、およそ二百年前に技術の継承が絶えてしまった、古の治療魔法群を復活させる、という一大事業だ。失われた魔法はどれも強力な効果のものばかりで、しかし、それだけに肉体への負担が大きく、副作用を軽減するためには、それぞれ特別な魔法薬を併用する必要があった。ところが、この魔法薬の調合が非常に難しく、また主要な材料のほとんどが稀少な資源であったことから、いつからか実践的な技術にあらず、との烙印を押されてしまった。やがてよりコストパフォーマンに優れた他の治療魔法が生まれると、古の魔法を受け継ぐ者は完全にいなくなり、いまやかの技術は古い文献の中のみの存在となった。またその資料さえ、二百年という年月の中で徐々に散逸してしまったのである。クラウスがデスクの上に置いた古書はいずれも、すべての蔵書が厳格に管理された魔法学院の図書室だからこそ現在まで残しえた、貴重な資料だった。

 クラウスがいま読んでいるのは、魔法薬のレシピ帳とでもいうべき代物だ。魔法薬の材料や調合の仕方、調合に必要な道具などのデータが記載されている。

 二百年前と現代とでは、魔法薬を取り巻く環境は大きく異なる。かつては稀少とされた材料も、いまやその多くが手軽に入手出来た。また、調合の道具も、二百年前と比べれば格段の進歩を遂げている。クラウスは、これら現代だからこそ可能な手段をもって、まず古の魔法薬を復活させよう、と考えていた。

 治療魔法群が廃れてしまった最大の原因は、魔法薬の調合が難しすぎたためだ。しかし、当時よりもずっと進んだ現代の技術ならば、かつては困難とされた魔法薬の調合も、比較的簡単に作ることが可能なはず。そして、魔法薬の問題が改善されたなら、治療魔法群の費用対効果は飛躍的に向上するだろう。

 二百年前に滅びた魔法は、むしろ現代だからこそ再評価する価値がある。クラウスはそう考え、治療魔法復活の研究に臨んだのだった。

 一般に科学の実験は、簡単なものから徐々に難易度を上げていくのが普通だ。

 クラウスはこれまでに、比較的調合が容易と思われた魔法薬二つの再現に成功していた。さらには、それらを用いた治療魔法の復活にも成功した。治療魔法の効果は絶大で、“火”のライン・スペルに失敗して大火傷を負った生徒の傷を、たちまち全快させてしまった。低難易度でこの効き目だ。クラウスはさらなる高みを目指した。

 ――どんどん難易度を上げていこう。次は何を作ろうか……。

 古い書物にはつきものの埃の臭いに酔いながら、クラウスはレシピ帳に目を通していった。復活させたい治療魔法をいくつかピック・アップし、それに対応する補助の魔法薬の項目を探す。

 調合にかかる日数や難しさは勿論、いま持っている器材や材料、懐具合などを考慮して、次なる実験のプランを練っていった。

 保健室の戸がノックされたのは、クラウスが本との睨み合いを始めて四半刻ほどが経ったときのことだった。

 誰か薬でも貰いに来たのか。

 顔を上げたクラウスが「どうぞ」と、返すと、分厚いオウショウナラの戸を押し開いて、六尺豊かな大男が入室してきた。

 大振りの双眸が意志の強さを感じさせる、精悍だが凶悪な面魂の持ち主だ。オリーブの葉の色をした、奇妙なデザインのツーピースを見に纏っている。一見、二十歳前後の若者のように思えるが、強面のせいで老けて見えるだけかもしれず、本当のところは分からない。

 彼はちゃんと体の向きを変えた上で静かに扉を閉めると、きびきびとした所作で前へと進み出た。

 “水”の回復魔法に関しては学院随一の腕前を誇る保健医の顔を見て、にっこりと微笑む。

 どんな気難しがり屋も思わず微笑み返してしまいたくなるような、屈託のない笑顔。

 反射的にこちらも微笑み返すと、肉の薄い唇がゆっくりと動いた。

「……保健室とか診察室って言葉だけどさ、響きからして、もう、エロいよね! 女医さんが勤めているなら最高!」

「うむ。開口一番に人の誇りを汚すのはやめてくれないかね!?」

 医務室にやって来るなりとんでもない発言を口にした巨漢を、クラウスは、じろり、と睨んだ。

 いったい何を意味するボディ・ランゲージなのか、親指を立てた右手を、ぐっ、と前に突き出し、自分に同意を求めてくる。

 過日、二年生のミス・ヴァリエールが、サモン・サーヴァントの儀式の際に、使い魔の少年と一緒に召喚してしまった変人だ。いや、変態と呼ぶべきかもしれない。なにせ、いまでこそちゃんと上下を着ているが、少し前までは褌一丁でそこら中を平気で練り歩くような男だ。名前はたしか、リュウヤといったか。最近になって魔法学院の勤め人となったが、オールド・オスマンがそのことをみなに告げたときは、この老人、とうとうボケてしまったかとわなないたものだ。魔法学院における人事は、すべて学院長に決定権がある。

「ボケって……私もかなり口の悪い人間だと自覚していますが、あなたも相当ですね」

「言ってくれるな、心の声だ。……それで、用件は何かね? 見たところ怪我や病を患っているようには見えないが? ……それとも、主人の薬を貰いに来たのかね?」

 相手が平民ということもあって、質問する口調は刺々しい。

 相手の方もそんな貴族の態度には慣れっこなのか、特に気にした様子もなく、慇懃に応じた。

「私自身はいたって健康ですよ。私が仕えますミス・ヴァリエールも、身体のことで、これといった問題は抱えておりません」

「ではなぜここに? ……まさかとは思うが、私の誇りを傷つけるためだけに来たとでも?」

 もしそうだとしたら、こちらもそれに相応しい態度をもって応対せねばなるまい。

 クラウスは外套の内ポケットに右手を差し入れると、愛用の杖を掴んだ。いつでも攻撃魔法をぶっ放せるよう、意識を研ぎ澄ます。

 自分の瞳に映じる怒りを感じ取ったか、リュウヤという、耳慣れない発音を名に持つ男は、途端慌てた様子で、

「お見舞いですよ」

と、応じた。

「見舞い?」

「ええ」

 彼は頷くと、保健室に八つあるベッドのうち、出入口から見て最も奥にある寝台を見た。折り畳み式の衝立が、ぐるり、と周りを囲っている。患者のプライバシーを守るための目隠しだ。魔法学院の備品らしく細工に凝っており、表の面には、グリフォンのつがいが仲睦まじく寄り添う姿が見事なタッチで描かれていた。

「あちらでお休みになっているお客様に、特別な見舞いの品を届けよ、と」

「……オールド・オスマンの命令か?」

 唐突に声を潜めたリュウヤに倣って、クラウスもまた声量を抑える。

 粛、と頷いた彼を見て、若き保健医もまた、衝立で囲まれた一画へと視線を向けた。

 衝立の向こう側で横たわる人物の顔を思い浮かべると、自然と溜め息がこぼれてしまった。

 

 

 オールド・オスマンが目の前のこの男とともに、好色で知られるトリステインの貴族……ジュール・ド・モット伯爵を連れてこの保健室を訪ねてきたのは、一週間前の夜ことだった。

 人目を忍んでの訪問で、学院長は彼に伯爵の治療を依頼した。その身にいったい何が起こったのか、オスマンらに肩を支えられながら診察用の椅子に腰かけたモット伯は、三十代半ばの男とは思えぬほど痩せ細っており、心身ともに衰弱していた。オスマンの話によれば、自分一人では食事さえ満足に摂れないほどの消耗だという。それでいて、体には目立った外傷が見られず、またこれといった病気を患っているようにも見えなかった。衰弱の原因は精神的なものだろう、と予想したクラウスは、何があったのか問診を試みたが、モット伯爵は自らを抱きしめて震えるばかりで、何も答えてはくれなかった。どうやら、よほど恐ろしく、辛い体験をしたらしい。

 ――これは長期の療養が必要だ。

 原因は分からないが、身体と、心が、異常なまでに弱っている。そして原因がはっきりしない以上、根本療法を施すのは難しい。自然治癒力を高める魔法と、手厚い看護を主軸とした治療を、気長に続けるしかない。

 クラウスは医師としての見地から、もっと設備やスタッフの充実した専門の病院への入院をオールド・オスマンに勧めた。この部屋は所詮、保健室だ。長期の入院患者を受け入れるように造られていない。それに、人手も不足している。自分一人では食事さえままならないいまのモット伯爵には、二四時間体制の介護が必要だ。しかし、魔法学院にはそんなマン・パワーはない。

 幸い、自分には魔法研究所時代に築いてきたコネクションがある。王都の病院や腕の良い医者を、いくらでも紹介してやれる。

 クラウスは早速、紹介状をしたためようとしたが、偉大なる老メイジはそれを遮り、あくまでこの保健室での治療を求めた。

「伯爵の身に何が起きたのか、詳しい理由を話すことは出来ぬ。とにかく、この状態の伯爵を、あまり多くの目に触れさせたくないのじゃよ」

「…………」

 鏡を見ずとも、己がどんな表情を浮かべているか、クラウスは容易に察することが出来た。

 人目に晒すことの出来ない事情。正規の医療機関を利用出来ない事情。好意的な解釈は難しい。厄介事が舞い込んできた、と重い溜め息が自然とこぼれた。

「……陰謀ですか?」

「そう思ってくれても構わんよ」

 夜の遅い時間帯に訪問された時点で、なんとなく、察していた。

 貴族の世界では、よくあることだ。問題解決の手段を、闇の世界に求める。多くの場合、権謀術数を仕掛ける方も、また標的にされた方も、腹に一物を抱えているような連中だ。モット伯爵の身柄を正規の医療機関に預けられないのは、そのあたりに理由があるのでは? と考えられた。

「闇の世界の事情を、日の当たる場所に持ち込むわけにはいかぬでな」

 オールド・オスマンは眉間に深い縦皺を刻みながら、憂いの濃い口調で呟いた。

 クラウスは診察のため横になってもらったモット伯爵の顔を改めて眺めた。

 本音を言えば、この男を預かるのには反対だった。厄介事に巻き込まれるのは御免だし、医師としてはもっとちゃんとした医療機関に預けて適切な治療を施すべきだ、とも確信していた。

 しかし、余人ならばともかく、いま、自分の目の前にいるのは、この魔法学院のトップの座にある人物だ。ボスの命令には逆らえない。それに、オールド・オスマンには男にしてもらった恩がある。反対意見を口にするのは躊躇われた。

 クラウスは深く溜め息をついてから、オスマンに向き直った。

「……窓際のベッドを使いましょう。生徒に訊ねられたときは、私の古い知人が大怪我を負ったので、私を頼ってここまで来た、とでも説明します」

「すまぬのう」

 オールド・オスマンはクラウスに頭を下げると、かたわらに立つリュウヤを示した。

「ワシが頻繁に訪ねると、あらぬ噂を立てられる恐れがある。学院長は健康に不安を抱えているのではないか、とかなんとかのう。ゆえに、このリュウヤを連絡役として時折遣わすでな、よしなに頼む」

 かくして、モット伯爵の身柄はクラウスの保健室で預かることとなった。

 最初に予想された通り、伯爵の治療は困難を極めた。根本療法を施せないのは勿論のこと、効き目の強い薬や回復魔法を迂闊に施せないことが足を引っ張っていた。衰弱の原因を探ろうとするな、とオスマンから厳命されている現状では、強力な反面、体への負担も大きい術式はやたらには使えない。見当違いの処方の末が、身体を傷つけるだけの結果に終わったとしたら目も当てられない。

 必然的に、モット伯爵への治療計画は、体の負担こそ少ないが回復のペースは緩々と遅いものにならざるをえなかった。

 毎日の朝と晩に基礎体力を強化する魔法を施し、出来るだけ栄養価の高い食事を与え、ゆっくり身体を休ませる。ひたすら、この繰り返しだ。

「閣下の容態は?」

 保健室は一般の生徒や教職員も利用する施設だ。他の誰かに聞かれては不味いとして、モット伯のことは『閣下』と、呼ぶことになっていた。これならば、具体的な名前や爵位を避けられるうえ、礼を失することもない。

「……なんとか、自力で食事を摂れるまでには回復したが」

 リュウヤの問いに、クラウスは表情も硬く、この一週間の治療の成果を告げた。

「公務への復帰は当分先だな。いまのままのペースでは、最低でもあと二週間は入院してもらわねばならん」

 クラウスは小さくかぶりを振って続けた。

「人間の精神と肉体は緊密に結びついている。片方が弱れば、引きずられて、もう片方も弱ってしまうものだ。この一週間、私は閣下の体を徹底的に調べ上げたが、彼の肉体には、異常は一切見当たらなかった」

「……つまり、衰弱の原因は精神的なものである、と?」

「少なくとも、私はそう睨んでいる。しかし、それにしたって閣下の消耗ぶりは異常だ。……本当に、いったい何があったのやら……」

「今日の見舞いで、その心労を少しでも和らげることが出来ればよいのですが……」

 リュウヤはジャケットの左胸のポケットを掌で押さえながら言った。

 おそらくはそこに、オールド・オスマンの言う“特別な見舞いの品”が収められているのだろう。

 人間の精神は肉体以上に外的な刺激に敏感だ。物品の内容次第では、伯爵の体調が快方へと大きく傾く可能性もある。

「それに期待したいところだな」

 藁にも縋りたい思いから自然と口をついて出た呟きが、広い保健室で、静かに響いた。

 

 



 

 

 永遠神剣やミニオンが当たり前のように存在し、かつ彼女らがスピリットと呼ばれる世界を探されたし。

 異世界はハルケギニアに潜伏中のウィリアム・ターナーから、桜坂柳也に対する威力偵察の成果報告を受けた〈戦陣〉のエイジャックは、早速、件の男の身辺調査を命じている〈悲嘆〉ゲゲルに彼の言葉を伝えた。

 進化したアメーバ生命体という出自を持つ異形の神剣士は、師団長からの報せを受け取るやただちに捜索を開始した。そして、僅か四八時間という驚くべきスピードで、目的の惑星を特定してみせた。

 ものの本によれば、この宇宙には我々の暮らす銀河系だけでもおよそ二千億個の恒星があり、さらにその周りを数個からの惑星が周回しているという。そして、現在観測可能な範囲内だけでも、そんな銀河系が数千億個はあるというから、ほとんど無限に等しい数の星が、この宇宙には存在していることになる。そんな中から、僅かな手がかりを頼りにただ一つの星を見つけ出したゲゲルの能力は、“優秀”という言葉では言い表せぬほどに傑出しているといえた。

 もっとも、当の本人に偉業を達成したとの自覚は皆無だった。

 後にエイジャックがこのときのはたらきを称賛したときも、

「べつに大したことはしておりませぬよ」

と、あっけからんとした調子で応じたほどだ。

「ペーパー試験の選択問題と同じです。可能性を一つ一つ潰していった結果、残った選択肢が正解だったにすぎませぬ。その気になれば、誰だって出来ることですよ」

 桜坂柳也が永遠神剣と出会ったのは、自分達が探している、件の異世界で出来事であった可能性が高い。ということは、異世界に召喚された時点では、彼はまだただの地球人であった線が濃厚だ。ノーマルの人間が普通に生存出来たということは、そこは地球によく似た環境を持つ惑星なのだろう。……こうした推理を繰り返したにすぎない、とゲゲルは笑いながらエイジャックに語った。

 苦心の末に探し当てた惑星は、原始の生命力が隅々にまで満ち満ちる銀河の中にあった。地球と同じ、漆黒の宇宙空間に青々と輝く、宝石のような星。

 なるほど、〈秩序の法皇〉が目をつけるわけだ、というのが、惑星を見つけたときのゲゲルの第一印象だ。この世界が蓄え持つ莫大なマナを一気に解放することが出来れば、第二位の永遠神剣を生み出すこととて可能だろう。やはり、ミカゲ様が予想した通り、あの小さな法皇の目的は高位永遠神剣の創出にあるのか。桜坂柳也という男は、その計画のための駒……? だとすれば、いったいどんな役割を与えられた存在なのか。

 ――確かめなければなるまい……!

 桜坂柳也という男の、本人ですら知らない秘密を暴き出し、果ては、ロウ集団随一の知恵者が何を企んでいるかを解き明かす。

 そのために、ゲゲルは件の惑星へと通じる〈門〉を開いた。




<あとがき>

 

 読者の皆様、おはこんばんちはっす。タハ乱暴でざいます。今回もゼロ魔刃をお読みいただき、ありがとうございました。今回の話は、いかがでしたでしょうか?

 今回の話ではゼロ魔刃では珍しい、柳也も才人もメインを張らない構成にしてみました。我らがるーちゃんを単独で動かすというのは、タハ乱暴的に初めての試みで不安もありましたが、何事もまずやってみるものですねぇ。さすが原作「ゼロ魔」のメイン・ヒロイン。一人でもちゃんと動いてくれる! 彼女がこんなにも書きやすいキャラだったとは……新しい発見でした。
 
 書きやすさで言えば難産だったのが実はギーシュ。人前で努力している姿を普段見せない男が、不意に見せた素直な顔とか目指していたんですけどねぇ……。あんま上手く書けなかったかも。うん。頑張ろう。

 モット伯爵編の後始末も次回で最後の予定。そして上手いこと筆が進めば、ワルド側におけるある大きな動きも描写する予定。

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜




ギーシュが頑張っているな。
美姫 「本当にね。とは言え、そう簡単に強くはなれないみたいね」
だからこその努力だよ。それに冒頭のやり取りからするに、サイ……少年の方も一応は区切りが着いたかな。
美姫 「みたいね。モット伯爵の方も何やら考えがあるみたいだし」
上手くいくかどうかは次回以降だな。
美姫 「で、何よりも柳也たちの知らない所でやっぱり動いているわね」
だな。しかも、遂に柳也の故郷を見つけ、更には門を開いたみただけれど。
美姫 「これによって何が起こるのか、非常に気になる所ね」
だな。次回も楽しみです。
美姫 「楽しみにしてますね〜」



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