テニスコート三分の二ほどもある、広々とした部屋だった。

 天井は古い神殿を思わせるほどに高く、弓型に緩やかなカーブを描いている。

 石畳の床には僅かな段差も傾きも見当たらず、石工職人達の丁寧な仕事ぶりが窺えた。床にはモザイク模様のパッチワークが敷かれており、まるでチェス盤の上に立っているかのような錯覚を抱かせる。

 壁の高い場所には、円形の窓がいくつも並んでいた。一つ々々は小さいが、数が多いため、真昼の室内はランプの灯りがなくとも十分な明るさを維持している。すべての窓にガラスが張られており、これだけでも相当な財を投じていることが察せられた。

 出入口は南北の側に一つずつ、赤樫の木を削って張り合わせた扉が設けられている。

 北側には他に、アームチェアーが一つだけ置かれていた。杉の大木を削って組み合わせ、丁寧に鑢掛けをした見事な逸品だ。背もたれにの表側に、煌びやかに輝く黄金の彫金と、宝石がちりばめられている。まさに、王座と呼ぶに相応しい偉容を誇る腰かけだった。

 玉座には、一見、初老と取れる男が座っていた。短く刈った白髪。張りと艶のない口髭。肌は血色悪く、脂と水に欠け、かさついている。顔中に加齢によるものだけとは思えぬ皺が寄り、顔面筋は総じて疲れ切っていた。着衣こそ王座に負けぬ煌びやかさを発していたが、着ている者に、それに相応しい覇気がない。まさに服に着られている感の強い人物だった。いったい何がそんなに恐ろしいのか、顔にはこの世のものとは思えぬ怯えた表情が浮かんでいる。

 男の視線は、テニスコートの中央に立つ広い背中に向けられていた。

 オリーブ・ドラブの軍服を着込んだ、六尺豊かな大男の背だった。

 黒々と太い眉。大振りな双眸。精悍ながら強面の面魂には驚愕と緊張が同居する険しい表情が浮かんでいる。腰のベルトに大小二振の鞘を閂に差し、巌の双拳はすでに定寸刀を正眼に構えていた。

 好戦意欲に燃える石炭色の眼差しは、ドアの方に向けられている。若々しい猛気を孕んだ、峻烈な視線だった。

 視線の先では、ドアを背にして、三人の女が立っていた。揃いの装いに、めいめいの武器。すでに臨戦態勢を整えた彼女らの瞳でもまた、好戦的な炎が静かに燃えている。

「……なぜだ?」

 若武者の薄い唇が開いて、声が発せられた。

 力強い語調の問いかけ。女達へと向けられた言葉なのは明白だった。

 しかし問いをつきつけられた女達は、揃って表情を怪訝そうに歪めた。男の意図するところが、判らないようだった。

 男の口から、小さな舌打ちがこぼれる。彼はもう一度、今度は一切の言葉を削ぐことなく口を開いた。

「なぜ、お前達がこの世界にいるんだ! スピリット!?」

 人肉を断つ手応えとともに、脳裏に蘇る過去の思い出。

 龍の大地での、あの戦いの日々。

 甘い疼きを胸の内に感じながら、若武者……桜坂柳也は、吠えたてた。










永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:58「なぜ、お前達がこの世界にいるんだ! スピリット!?」










 桜坂柳也の一日は、日課の毎朝の走り込みをもって本格的に始まる。

 剣術に限らず、あらゆる武芸において最も肝要なのは足腰の力、と心得ている柳也は、平素からその練磨に余念がなかった。日頃の習慣はハルケギニアに召喚されてからも変わらず、それを怠るとかえってその日一日の調子が悪くなってしまうほど、彼の五体に染みついていた。

 魔法学院の学び舎は、始祖ブリミルが見出した五大系統の関係図をかたどって、学園長室などがある本塔を中心に、それを囲む五つの塔が五芒星を描くように配置されている。五芒星の外周は一キロメートルにも達し、走り込みの舞台としては、うってつけの稽古場だった。ハルケギニアにやって来てからというもの、柳也は毎朝、校舎の外周を三十周することを日課としていた。およそ三十キロメートル超の長丁場だが、神剣士のこの男にとってみれば、さしたる距離ではない。走り込みの後は素振りに没頭し、ついで型稽古へと移る。これを一刻の間行うというのが、柳也の毎朝の習慣だった。

 しかしその日、柳也は走り込みを十周に留めるとヴェストリ広場に足を運び、稽古の内容を、素振りへと早々に移した。別段、体の調子が悪いわけではない。また、急な気まぐれでもない。

 稽古内容の変更は、彼がその日腰に差す得物に由来していた。

 普段通り一張羅のM−43フィールド・ジャケットを着込んで稽古に臨む柳也の腰帯には、大小二振の刀が差されていた。父の形見の脇差一尺五寸五分と、トリスタニアの武器屋から礼にと譲り受けた初代正弘二尺三寸二分の二振だ。先の虚無の曜日に手に入れたばかりの新顔刀の試しを行うために、彼は今朝の稽古内容に変更を加えたのだった。

 寝刃は、昨晩のうちに合わせている。

 装飾に乏しい蝋色の鞘から刀身を引き抜いた柳也は、右手一本で刀を保持しながら、まず、改めて新しい相棒の優美なる姿を、しげしげ、と眺め見た。

 薄っすらと戦国の薫風が匂い立つ先反りの刀身に、紅蓮の炎の如き刃文が浮かんでいる。身幅は広く、重ねも厚い。まさにいくさ場でこそ真価を発揮するであろう、勇壮なる作風だった。

 ――最初手に取ったときも思ったが、ずいぶん軽いな……。

 同田貫と比較して、およそ三分の二といったところか。

 父の形見の豪剣は刀身が二尺四寸七分で、正弘の方が一寸と五分短い。ゆえに武蔵国生まれの業物が軽いのは当然だ。しかし、正弘の身幅と重ねは、九国の武士達がこぞって差し料とした肥後の豪剣と比べてもなんら遜色ない。にも拘らず、様剣術の大家・山田浅右衛門が切れ味抜群と保証した名刀は、同田貫の重みに慣れた柳也には、驚くほど軽く感じられた。刀身の重心バランスが良い証左だ。

 柳也は平素同田貫にそうしているように、掌から正弘へと、〈決意〉の一部を寄生させた。

 刀身を構築する鉄。

 鉄の原子を構築するマナ。

 その一つ々々に、さらなるマナを注ぎ込み、金属としての性質を強化する。

 より強く。

 より鋭く。

 よりしなやかに。

 神剣士の己が振り回すのに相応しい長切へと、正弘を生まれ変わらせる。

 ――〈決意〉、どんな感じだ?

【同田貫と同様、素晴らしき器よ。まるで熱い湯船に身を浸しているかのように、心地良い感覚だ】

【うぅ〜……ご主人様、今度はわたしにも寄生させてくださいね!】

 永遠神剣は単なる武器ではない。彼らには各々人格があり、当然ながら好みという概念も存在する。どうやら正弘の刀身は、〈決意〉の嗜好と合致しているようだった。体内寄生型の永遠神剣の場合、寄生対象との相性が良いほど、強大なパワーを発揮出来る。

 柳也はゲートルを巻いた両足を肩幅に開くと、正弘を正眼に構えた。

 手の内をしかと練り、上段に振りかぶる。

 阿吽の呼吸。

 五体に気力を漲らせ、剣気を研ぎ澄ます。

 およそ一間先に敵がいるとの想定で、柳也は鋭い踏み込みとともに剣を振り下ろした。

 定寸刀が円月の弧を描き、空を裂いた。

 轟然と、音速を超えた剣風が爆発する。

 超音速の風が地面を叩き、大地が割れた。

 摺り足で後退しながら、再び刀を正眼に戻し、また上段に振りかぶる。

 二度、三度と、同じ素振りを反復した。

 ――太刀行きが、軽い……!

 そして素直だ。思い通りに、刀が躍る。自分の気持ちに、刀が応えてくれる。

 柳也の口元に、凶暴な笑みが浮かんだ。

「こいつはすげぇ刀だ!」

 難を言えば、同田貫よりも一寸と五分短いその分、踏み込みを深くせねばならないことか。しかしそれは、どちらかといえば刀を振るう己の方の欠点だ。正弘の太刀そのものは、文句なしの業物だった。

 柳也は溌剌と笑いながら刀を縦横に振るった。

 様子見の上段斬りから一転、袈裟斬り、斬り上げ、刺突に足払いと、己の持つの技のすべてを、幻の敵目がけて放っていく。

 八双発破。

 一刀両断。

 右転左転。

 長短一味。

 法定之形の四本の組太刀を一通り試し終えたところで、柳也は試しを次の段階へと移した。

 柳也は稽古具をしまっているテントの中から石の台座と鉄鍋を取り出した。中華鍋のように底深で大きな鍋だ。金属らしい光沢に乏しい黒は、何十年と使い続けている証左だろう。昨晩、マルトー・コック長に頼んで、使わなくなった鍋を譲り受けたのだ。柳也はこの鍋を相手に、正弘の試し斬りを行う腹積もりだった。

 戦国乱世の時代や徳川の世ならばいざ知らず、現代日本において刀の切れ味を試す試し斬りの標的には、普通、巻藁を使用する。三日間水につけた畳表を固く巻いた物で、居合や抜刀術の公式大会でも的に使われる代物だ。

 しかし、ハルケギニアにはそもそも畳を敷くという文化がなく、巻藁を入手するのは難しい。

 代用品を探そうにも、この世界の植物について自分は大したことを知らない。

 そこで柳也は、直心影流の大先輩・榊原鍵吉に倣うことにした。

 榊原鍵吉は天保元年(一八三〇年)、幕臣榊原友直の子として生まれた。一三歳のときに直心影流の達人・男谷信友の門下で剣術を学び始め、やがて才能を開花させる。男谷は後の安政二年(一八五五年)に、幕府が武術奨励のために設置した講武所の初代頭取として登用されるが、その教授方に鍵吉を誘った。

 第十四代将軍徳川家茂は、一般には病身で悲劇の将軍というイメージが強い。一方で、彼は武芸好きとしての一面があり、江戸城の庭で頻繁に御前試合をさせていた。家茂は試合の度に見事な腕前を見せる鍵吉を気に入り、寵愛した。鍵吉もまた家茂の信頼によく応え、忠誠を捧げた。

 慶応二年(一八六六年)に家茂が急逝すると、鍵吉は幕臣としての職を辞した。

「いまの世の中で、家茂公ほど俺に信頼の心を寄せてくださった方はいらっしゃらない。俺は殿に殉じる」

 昔ならば、当然殉死しただろう。しかし、いまはそんな世の中ではない。ならばせめて、職を辞して野に下ることが、己の生きる道と見出した。

 やがて大政奉還がなり、徳川幕府は崩壊する。

 明治新政府の推進する西洋化政策の中で、剣術を筆頭に様々な武芸が急速に廃れていった。剣心一途に生きてきた鍵吉だ。武芸の廃れは、日本人の精神が失われていくことに他ならなかった。この現状を憂いた彼は、友人達とともに撃剣会を結成。興行によって剣の技を、剣の精神を次代に繋げようとした。

 そして明治二一年十月一一日、鍵吉の剣名を不動のものとした、世に名高い天覧兜割りが明治天皇の御前で披露される。

 この日、伏見宮邸に明治天皇の行幸があり、その御前にて据物斬りの大会が催された。据物斬りとは
試し斬りの一種で、土壇など特定の場所に据え置いた対象を切断することをいう。此度、据物斬りの対象に選ばれたのは明珍南蛮鉄製の兜で、玉の御前にてこれを斬割せんと、この時代最高の剣客達が集まった。

 一番手は警視庁の師範、逸見宗助だった。しかし彼の一刀両断の気合いを篭めた白刃は刃先を欠いて跳ね返されてしまった。

 二番手は逸見と同門の先輩、上田馬之介。幕末に銀座の料亭で天童藩の剣術師範と槍術師範を破ったことで知られる凄腕の人物だったが、彼の放った一刀も刃先を滑らすばかりだった。

 最後に榊原鍵吉が剣を振るった。時に五八歳の老剣客。豪剣・同田貫業次を得意の大上段に構え、裂帛の気合いとともに振り下ろすと、南蛮鉄の兜は見事に斬り割られた。四十年を超す修練が、形となった瞬間だった。

 柳也はこの逸話に倣って、古くなった鉄鍋を試し斬りの対象に選んだ。

 天覧兜割りで用いられた兜は、一般に桃型だったといわれる。平面よりも曲面の構成比が多い、攻撃を滑らせて防ぐタイプの形状だ。柳也がマルトーコック長から譲ってもらった鉄鍋も底は球形に近く、これを刀で斬割するには、よほど角度に気をつける必要があった。かといって繊細さを求めるあまり勢いを欠いては、今度は鉄の強度に弾かれてしまう。条件は伏見宮邸で開かれた据物斬りとほとんど同じといえた。

 柳也は石の台座に鉄鍋を逆さにして置いた。

 鉄鍋の底面が、柳也の腰よりやや低いぐらいの位置。

 柳也は静かに台座の前に立つと、呼吸を練り、正弘の刀を振りかぶった。
 
 構えは大上段。 

 榊原鍵吉が最も得意とし、また柳也自身も得意とする攻撃的な火の構えだった。

 鋭く天を仰ぐ物打ちが、朝の透明な日差しを受けて淡く輝く。

 刀身に、精霊光は纏わせない。

 純粋に斬撃の威力のみで、鉄鍋を割る腹積もりだった。

 ――いまの俺には、榊原鍵吉ほどの腕はないだろう。

 兜割りは、激動の時代随一の名剣豪の業の冴えがあればこそ可能な偉業だった。 

 いまの自分に、それほどの腕はない。

 しかし、己には神剣士としての並外れた運動能力がある。

 直心影流の大先輩をつき離し、刀身に、音速を超える速さを持たせてやれるだけの膂力がある。

 鉄鍋を斬割するのに十分な威力を、生み出すことが出来るはずだった。

 裂帛の気合いが、柳也の口から迸った。

 銀色の稲妻が、天から地へと落ちた。

 鉄と鉄とがぶつかり合う金属音。

 空気の塊が押しやられる轟音。

 大気が震撼し、柳也を中心にカビが広がるかのごとく土煙が舞い上がる。

 はたして、鉄鍋は、

 鉄鍋は―――――――、

「……すごい刀だ」

 剣を振り下ろした姿勢のまま、柳也の唇から驚きに彩られた呟きが漏れ出た。

 見ると、鉄鍋は切断面も美しく両断され、豪剣は石の台座に深々と食い込んでいた。

 大上段からの刀勢は鉄鍋を割っただけに留まらず、据物斬りには欠かせない台座をも斬り割っていた。

 ――鍋を斬るとき、抵抗感がまるでなかった……。

 手の内に感じた感覚を反芻し、柳也は陶然と溜め息をついた。

 空気を裂く手応えの後、一瞬感じた鉄を断つ感覚。突っかかりはなく、正弘の刀は非常に素直な手応えを己の手の内に寄こしてきた。

 柳也はもう一度、「すごい刀だ」と、呟いた。

 







 一刻後、朝稽古を終えた柳也はアルヴィーズ食堂の厨房へと足を運んでいた。

 魔法学院で暮らすようになってからというもの、朝晩の余暇を食堂の手伝いに割いている彼だった。

 柳也はいつものようにマルトーコック長の手伝いをするべく、軍服の上にエプロンを着込んで厨房に立った。しかし、今日はいつもと様子が違っていた。

 ――うん……?

 厨房に足を踏み入れた瞬間だった。

 朝食の準備に追われているみなの姿を一目見た柳也は、何やら違和感を覚えた。

 ――ううん……なんか今日は、いつもより忙しそうだな。

 顎先を親指の腹で撫でさすりながら、柳也は眉間に深い縦皺を寄せながら、厨房内をしげしげと眺め見た。

 仕事の進捗具合が芳しくない。いつもはとうに終わっているはずの材料の下拵えが、いまだ終わっていない。

 ははあ、またコックの誰かが風邪でも引いたか。いや、違う。厨房の人材はみんな出揃っている。ならば忙しさの原因は今日の献立か。いいやそれも違う。聞いた限りでは、今朝の献立に手間のかかるような料理はラインナップされていない。

 忙しさの原因はいったい何なのか。

 いつもよりも明らかに顔が赤いマルトーコック長に言われるまま、包丁で肉を叩いていると、柳也はやがて違和感の正体に気がついた。

「……そうだ。シエスタがいないんだ」

 魔法学院ではルイズ達に次いで付き合いの長いメイドのシエスタの姿が、今朝は見当たらなかった。

 彼女は優秀なメイドだ。アルヴィーズ食堂では給仕や皿洗い以外に、調理の手伝いもしている。そんなシエスタがいないのでは、仕事の遅れもやむなきことといえた。

【この間のコックの風邪が移ったのでしょうか?】

 ――かもしれんな。俺が感じた限り、魔法を除いたこの世界の医学は、中世暗黒時代とさして変わらないように思える。

 柳也達の世界では、医学は解剖学の誕生とパスツールのバクテリア病因説によって二度大きな発展を遂げている。特にバクテリア病因説は衛生という考え方を一般の人々にまで浸透させた、大いなる発明品だった。今日、先進国で暮らす国民の多くが、健康と長寿を楽しめるのはパスツールのおかげと言っても過言ではない。

 ――もし、〈戦友〉の言う通りだとしたら、見舞いにいかないとなあ。

 柳也は朝食の準備がひと段落したのを見計らって、マルトーコック長にシエスタがいない理由を訊ねた。

 はたして、コック長の返答は〈戦友〉の予想を裏切る内容だった。彼は不機嫌そうな面持ちでぶっきらぼうに、「シエスタなら、昨日学院を辞めたぜ」と、答えた。

「辞めた? それも昨日?」

「ああ」

「そいつはまた、突然ですね」

 柳也は寂しげな表情で呟いた。シエスタが魔法学院を辞めようと考えていたなど初耳だった。彼女とはそれなりに良好な関係を結べていると自負していただけに、何の相談もなかったことがかなりショックだった。

「ああ。まさに寝耳に水だよ」

 事前の相談がなかったのは、マルトーコック長も一緒だったらしい。

 彼は深々と溜め息をついて、渋面を作った。

「本当に、昨日、突然、辞めることが決まったそうだ。おかげでこっちは、あの娘が抜けた穴を塞ぐのにてんやわんやさ」

「昨日、決まったんですか?」

 柳也は思わず聞き返した。

 なるほど、相談しなかったのではなく、出来なかったのか。ということは、彼女が自ら意思で職を辞したというよりは、解雇に近い形での退職か。

 しかし、そうだとすれば奇妙な話だ。先述の通り、シエスタは優秀なメイドだ。彼女ほどの人材を解雇させるにいたった理由とは、いったい何なのか。シエスタが仕事で大きな失敗をしたなんて話は聞かないし、メイド一人雇い続けるのが困難なほど、魔法学院の経営状況は悪くないはずだが。

 その旨を訊ねると、マルトーコック長はまた溜め息をついた。対面しているのが辛くなるほど、重苦しい響きの溜め息だった。

「それが、解雇ってわけでもないんだよ」

「というと?」

「引き抜きだよ。シエスタは昨日、ジュール・ド・モット伯爵の家に住み込みで召し抱えられることになったんだ」

「モット伯爵?」

「ああ」

 コック長は嫌悪感も露わな表情で頷いた。

「トリステインの貴族たちの中でも、比較的金持ちの貴族さ」

 ジュール・ド・モット伯爵の使者を名乗る若い女が魔法学院を訪ねてきたのは、昨日の夕暮れ時だったという。学院の門戸を叩いた彼女はまずオールド・オスマンと面会し、突然の訪問に対する謝罪を口にした。次いで学院で働くメイド達の寮へと足を運んだ彼女は、シエスタにモット伯爵の京屋敷で働くよう要請した。その際、提示した給金の額は、いまの三倍だったという。

「……はあッ!?」

 人差し指から薬指までの三本を立てたマルトーの発言に、柳也は呆気に取られた。

 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。下手な貴族よりも高給が保障されている魔法学院の、さらに三倍の額の給金とは……。件のモット伯爵とやら、よほどの世間知らずなのか。それとも、シエスタの能力にそれほどの価値を見出したのか。

「……いやいやいやいや。それにしたって、三倍はねえよ」

 シエスタの能力は自分も認めている。しかし、それにしたって三倍というのは常軌を逸していた。

「しかも住み込みとか。どんだけ厚待遇だよ、それ」

 「俺も一緒に雇ってもらえないかねぇ」と、冗談交じりの口調で呟く。するとマルトーコック長は恐ろしい形相で自分を睨んできた。ぎょっとする柳也。

「ど、どうしたんです?」

「我らの拳よ、冗談でもそういうことを言うんじゃねえよ」

 ドスを孕んだ重い響きの声。

 自分を見つめる眼差しに宿る烈々たる怒気に触れ、柳也は真剣な顔をした。

「異国からやって来たお前さんは知らなくて当然だろうけどよ。ジュール・ド・モットって野郎は、そりゃあひでぇ貴族なんだよ。自分は大した業績もないくせに、親から受け継いだ財産を使ってやりたい放題。俺達平民のことは、それこそ虫けら同然にしか思っていないような奴なんだ。そんな奴に、シエスタは買われちまったんだよ」

「買われた? 雇う、じゃなくて?」

「ああ。引き抜きなんて形だけさ。実体は人身売買……いや、奴隷を買うも同然の取引だ」

「なんだと……」

 柳也の声が、険しさを孕んだ低いものとなった。

 人身売買。人間を商品とする、柳也達の世界で最も忌まわしき所業。商品とされた人間は奴隷の烙印を押され、人間らしい権利の一切を剥奪される。奴隷は買い手への絶対服従を強要され、主人が死ねと命令したら、それに従わなければならない。非情の社会制度。いまだ貴族社会の続くハルケギニアだけに、ありえないことではない。

 普通、この種の奴隷は若く体力に優れる男ほど高値がつく。労働力としての価値が高いからだ。しかし、シエスタは若い女。しかも、どちらかといえば身長のわりに小柄な体格をしている。にも拘らず高額での取引がなされたということは―――――、

「もしかして、そのモット伯爵という男……」

「ああ。たぶん、お前さんが考えている通りだろうぜ」

 マルトーコック長は、モット伯爵は好色な人物としても有名だと告げた。特に十代の、若い娘を好む悪癖を持っているという。

「これまでに何人もの娘が、モットの奴に買われているっていう話だ。たぶん、シエスタも……」

「メイドとしてだけじゃなく、愛人としても……ですか」

 苦々しい呟きに、マルトーもまた苦い顔で頷いた。

 聞けば、モット伯爵の放ったスカウトマンは、交渉のテーブルに着く前に、シエスタの実家の所在と、彼女の家族や交友関係について事細かに語ってみせたという。お前のことはもう調べがついている。この申し出を断れば、お前の大切な人間がどうなることか……。言外の意図を察したシエスタは、使者の引き抜きを受け入れるしかなかったという。

 柳也はコック長の機嫌が先ほどから悪い理由が、ようやく理解出来た。

 







「いますぐシエスタを助けに行きましょう!」

 朝食を摂り終えた直後のことだった。

 教室へ向かおうとするルイズにことわりを入れ、才人を連れてヴェストリ広場のテントに足を運んだ。そこでマルトーコック長から聞かされたシエスタの話を彼にすると、ハルケギニアでの愛弟子は顔を真っ赤にして憤然と怒鳴った。

 才人にとって、シエスタは特別な存在だった。この世界で初めて自分に優しく接してくれた人間。そんな彼女の窮地を知っては、黙っていることなど出来なかった。

「まあ、待て」

 怒りを剥き出しにする才人とは対照的に、柳也は、少なくとも表向きは平静だった。勿論、腹の底ではモット伯爵への怒りが沸々と煮えたぎっていたが、自分までもが怒りで我を忘れてはいけないと自分を律した。

「シエスタを助け出すことについては俺も大賛成だ。だが、何の策もなしに門戸を叩いたところで、門前払いされるのは目に見えている」

「その、モットって奴の屋敷に忍び込んで、シエスタを連れ出せば……」

「リスクが高すぎる。その場合、俺達の正体が魔法学院の人間だとばれたら、かえってシエスタの立場を危うくしてしまうぞ? るーちゃんや同志オスマンにも、迷惑をかけることになるし、第一、彼女の家族が危険だ」

 「だから作戦を立てる必要がある」と、柳也は言った。

「まずは情報収集だ。敵を知らないことには、作戦の立てようがない」

「そんな悠長な……」

「……俺だって、出来ることならすぐにでもシエスタのところに駆けつけてやりたいさ」

 柳也は苦渋に顔をしかめながら、無念そうに言った。

「けどな、俺達は件のモット伯爵の屋敷が、どこにあるかも知らないんだぜ?」

「あ……」

「いま、マチルダに頼んで、ジュール・ド・モットという人物のことを調べてもらっているところだ。動き出すのはそれからでも遅くはない」

 柳也は、才人に向けてというよりは、自らに言い聞かせるようにそう言った。

 遅くはない。

 遅くない、はずだ。

 大丈夫。

 きっとまだ、大丈夫。

 そうやって、自分を慰めることぐらいしか、いまの自分達に出来ることはなかった。

 

 

 ヴェストリ広場のテントをマチルダが訪ねたのは、それから四半刻後のことだった。

 脇に羊皮紙の巻物を抱え持つ相棒の姿を認めた柳也は、やや険を帯びた眼差しで、変装用の伊達眼鏡をかけた彼女の顔を見つめた。

「……早かったな」

「事が事だからね。他の仕事を放り出してきたんだよ」

 過去に家族を奪われた経験から、貴族に対する反骨心旺盛なマチルダだった。ジュール・ド・モットに買われた友人を助けたい。そのための手助けをしてほしい、との申し出に、彼女は快く応じてくれた。

「早いからといって、手抜きはないよ。だから、その剣呑な視線を引っ込めておくれ」

「……ああ。申し訳ない」

 素直に謝罪の言葉を口にして、柳也は、いかんいかん、とかぶりを振った。親指と人差し指で眉間を揉む。 平静を装っているつもりだったが、気づかぬうちに心から余裕をなくしていたらしい。マチルダにきつい視線を向けたところで、事態が好転するわけでもないのに。

 マチルダは柳也と才人の前に立つと、脇に抱えていた羊皮紙の巻物を広げた。どうやら巻物は、彼女のノートらしい。マルトーコック長よりシエスタの話を聞かされていまだ一刻も経っていないのに、もう資料としてまとめてきてくれたのか。ますます頭の下がる思いだった。

「モット家っていうのは、トリステインでも比較的歴史の浅い家なんだ。誕生してまだ百年にも満たない、もともとはそこまで力のある家じゃなかったんだよ。それが先代の当主――つまりジュール・ド・モットの父親――の時代に、トリステインでも有数の富を誇るようになったんだ」

 隆盛のきっかけは銀山の発見だった。先代のモット家当主は“土”系統のメイジで、領地内のすべての山を巡り、新たに三つもの銀山を発見した。この開発が成功し、モット家は巨万の富を得た。さらにそのカネで伯爵の位を買い、富だけでなく名声も得るようになった。

「ただ、先代当主は伯爵位を得てその後すぐ流行り病に罹ってね。ジュール・ド・モットが一五歳のときに死んだそうだよ」

 遡ることおよそ二十年前の出来事だったという。

 モット家にはジュールの他に嫡子となりうる人物はいなかった。

 若くしてモットの家名を継ぐことになったジュールは、その後何をしたか。

 結論を先に述べれば、彼は何もしなかった。

 ジュールは政治に無頓着な人物で、自領をこれ以上大きくしたり、発展させようなどとは考えなかった。いまの暮らしに満足していたジュールは、親の残した莫大な財産を使い、今日まで享楽の日々を送り続けた。

「それ、典型的なダメ息子じゃないっすか……」

「貴族嫌いのマルトーコック長だから、彼の発言には多分にバイアスがかかっていると思っていたが」

「コック長の言っていたことは、全部本当さ。ジュール・ド・モットは、そりゃあ、酷い貴族だよ。好色っていいうのもそうだけど、なにより領民への関心がなさすぎる。

 ……八年前だったかね。領地の銀山の一つで、大規模な落盤事故が起こったんだよ。作業中の人夫が三十人も亡くなる、そりゃあ大きな事故だった。当時、ジュール・ド・モット自身は湯治のため領地を離れていてね。すぐに風竜が事故の報せを伝えに飛んだ。でも、温泉地で事故のことを知ったジュールは、予定通り湯治を続けた。嘘か本当かは知らないけれど、そのときジュールは、風竜の騎手にこう言ったそうだよ」

『なるほど、それはたいへんなことだ。しかし、此度の湯治旅行は半年も前から計画し、先方にも準備のため多大な時間を使わせてしまっている。私は彼らの労に報いたい。事故の件は、留守居役に迅速な対応を求める」

「結局、ジュールが湯治を終えて領地に戻ったのは、事故が起こって二ヶ月後のことだったって話さ」

「どっかで聞いたような話だな」

 柳也は嘆息しながら呟いた。日本人の彼の脳裏には、二〇〇一年の二月に起こったあの海難事故の悲劇と、事故の一報を受け取った当時の日本国首相の取った態度が自然と思い出された。

「ジュール・ド・モットのメイジとしての能力は?」

「トリステインの王室が管理している貴族の名簿には、ライン・クラスで登録されていたはずだよ。たしか二つ名は、“波濤”のモット」

「波濤……得意系統は“水”か」

「ご明察。だからといって、回復魔法のエキスパートってわけじゃあない。攻撃でも防御でも、特に突出したところのないメイジさ。ラインの中でも、実力は下の上ってところだろうね」

「なるほど。じゃあ、女性関係については?」

「一言で表すなら、最低だね」

 一切の迷いなく断じたマチルダに、質問を投げかけた柳也の方が思わず面食らってしまった。

「領地の自邸にも、トリスタニア近郊に構えた京屋敷にも、どこの王族か、っていうハーレムを築いている。それ自体は別段悪いことじゃないけど、その手口が最悪というほかない」

 莫大な資金力にものを言わせた、強引な手法。

 ある村娘を買ったときは、他のどの奉公先よりも高額で雇ってやるからと甘言を囁き、家族を楽にしてやりなさい、と彼女の思いやりの気持ちをくすぐって契約書にサインさせた。

 ある歌うたいの娘を買ったときは、彼女の所属する楽団の経営難を救ってやるからその代わり、と自分の後宮に入るよう迫った。

 ある反物屋の娘にはすでに婚約者がいたが、傭兵を雇い、通り魔に見せかけて殺害。傷心に付け込み、決して寂しい思いはさせない、と京屋敷に連れていった。

 そして、あるメイドの娘を買う際には、その家族や友人を人質に取ることで、否という言葉を封じた。

「財力だよ。魔法の力以上に、財力こそがジュール・ド・モットの最大の武器なのさ」

 領地の自邸に負けない偉容を誇る京屋敷。

 そこに住まう使用人の数々。

 屈強なる傭兵部隊。 

 マチルダがまだ土くれのフーケを名乗り、トリステインの貴族達の心胆を寒からしめていた頃、彼女は一度、モット伯爵の京屋敷に忍び込もうとしたことがあったという。しかし警戒の厳重さから屋敷に近づくことさえ出来ず、盗みは断念せざるをえなかったという。

 マチルダの口から語られる陣容を聞いた才人は、青い顔をして溜め息をついた。

 柳也の言う通り、マチルダを待って正解だった。こっそり忍び込むなどと豪語したが、それほどの人数が相手では難しい。いかな神剣士といえど、無策のまま突っ込むのは危険だった。

 かといってそれほどの富を持つ相手のもとから、合法的な手段をもってシエスタを連れ戻すことは不可能に近い。すでに契約は結ばれてしまっているし、彼女の家族が人質に取られている。やはり、こっそり忍び込んでシエスタ連れ出す他に手段はなかった。

「その、京屋敷の詳しい所在地を教えてくれないか?」

「行くのかい?」

「ああ」

 マチルダの問いかけに、柳也は言葉短く頷いた。口元に浮かぶ、不敵な冷笑。いくさ好きのこの男の面魂は、面白そうな戦いを前にしたとき、溌剌と輝く。

「とりあえず一度、その、自慢のご自宅を拝見してやらないとな。お前さんほどの大怪盗をして侵入を諦めたほどの厳重な警備態勢。一度、この目で確かめないことには、作戦の立てようがない」

「それに、マチルダさんが忍び込もうとしたときとは、状況が変わっているかもしれませんしね」

 柳也に続けて、才人も力強く言った。愛弟子の言に頷きながら、柳也は、

「そうだな。土くれのフーケの噂が市井から途絶えて久しい。もしかしたら、マチルダが侵入を試みたときよりも、警備は緩くなっているかもしれない」

「あとは警備の死角とか、秘密の抜け穴とか、マチルダさんが見落としていたものを、俺達なら見つけられるかもしれない」

「状況が許すようなら、そのままシエスタを連れ出すのもありだな。……その場合シエスタには、ほとぼりが冷めるまで身を隠してもらう必要があるが」

「魔法学院から、モット伯爵の京屋敷までは、馬を休みなく飛ばしても最低三刻はかかる」

 マチルダは巻物とは別に懐から羊皮紙の地図を取り出すと、二人に見せた。

 地図には王都周辺に点在する京屋敷の所在が仔細に記されていた。マチルダからこの世界の文字について学んでいる柳也は、その中に『モット伯爵邸』の文字を見つける。魔法学院とトリスタニアを結ぶ街道を途中はずれて、北西へ向かった森の中に、その名前は記されていた。馬の行軍速度を毎時二〇キロと考えると、およそ一二〇キロメートルの道程となるか。

「馬を休ませる時間も考えると、実際には四刻半から五刻ってところだろうね」

「いや、馬を使うつもりはない」

 柳也はかぶりを振ってマチルダに言った。

「この間、王都へ行くのに馬を使ったのは、るーちゃん達がいたからだ。俺と才人君の二人だけなら、自分の足で走った方が速い」

 己の肉体に細胞レベルで寄生している相棒達は、どちらも身体機能の強化を得意とする神剣だ。特別、下肢にマナを集中させずとも、時速一〇〇キロ前後のスピードを可能とする。

 またデルフリンガーは、特に運動機能の強化に優れているというわけではないが、こちらは契約者本人の能力が優秀だ。なんといっても、感情の高まり次第では亜音速での疾走を可能とするほどのポテンシャルがある。時速一〇〇キロ程度のスピードは、軽々出せるはずだった。

「まずはるーちゃんから、外出の許可を得ないとな」

 この場に集まった三人は、表向きにはみなルイズに仕える身の上だ。魔法学院の外へと足を延ばすには、主の許可が必要だった。

 柳也の言葉に、才人は首肯した。

 







 一コマ目の授業が終わると同時に、柳也と才人はルイズ達二年生の教室へと足を運んだ。

 突然、教室に入ってきた平民二人の姿を見た生徒達ははじめぎょっとしていたが、相手が才人達だと分かると、動揺はすぐに静まった。才人は平民だがルイズの使い魔だ。ご主人様の少女さえ一緒にいれば、この教室に入る資格がある。また柳也は、破壊の杖事件以前に与えたインパクトが絶大だったことから、貴族の少年達をして下手な口出しの出来ない存在と恐れられていた。

 周囲からの物怖じした視線を受け、柳也は怪訝な面持ちでぼやく。

「……そんなに怖がられるようなことしたかな、俺?」

「うん。とりあえずあんたみたいな顔の男が褌一丁で出歩いているってだけで、普通の神経した人間にはトラウマもんだからね」

「顔のことは言うなーッ!!」

 相変わらず自らの顔立ちに関してはガラス・ハートな持ち主の柳也だった。

 目尻に涙の滴さえ浮かべて切々と訴えかける彼の姿を見て、ルイズは呆れた溜め息をついた。

 頭の中を一瞬駆け抜けた、わたしってば男の趣味が悪いのかしら、との思いはかぶりを振って打ち消しておく。

 気を取り直したルイズは、「お願いがあるんだ」と、語り出した二人の話に耳を傾けた。

 魔法学院で働くメイドの一人と、柳也達の仲が良いのはルイズも知っていた。名前までは憶えていないが、二人と同じ黒髪が特徴的な娘だったはずだ。三人一緒に食事をしたり、仕事をしたりしている姿を、ルイズも幾度となく目撃している。

 その彼女が、好色な成金俗貴族のモット伯爵の京屋敷に、無理矢理召し抱えられてしまったという。大切な友人を窮地から救い出したい、という二人の気持ちは、よく理解出来たし、美しいとも思った。大切にしてあげたいとも思った。

 しかし、なんといっても相手はあのジュール・ド・モット伯爵だ。京屋敷は領地の本邸にも劣らぬ荘厳な偉容を誇り、常に多数の傭兵を抱えているという。いかな神剣士といえど、危険な場所には変わりない。

 はたして、そんな危地に二人を送り込んでよいものか。最悪の場合、二人とは二度と会えなくなるかもしれないのに……。悲しい未来を想像し、ルイズは思わず胸元を押さえた。きゅうきゅう、と締めつけるような痛みが胸を襲い、呼吸が苦しくなり始めた。自分の決断次第では、この二人を失うかもしれない。それを考えると、快く送り出すことなど出来ようはずがなかった。

 柳也達の想いは大切にしたい。

 けれど、二人を失いたくはない。

 二つの純粋な想いはルイズの胸の内でせめぎ合い、拮抗し、彼女を深く悩ませた。納得のいく答えなど出るはずのない、深い、深い懊悩だった。

 そして残酷なことに、二人の話を聞き終えた時点で、ルイズに残された時間はもうほとんどなかった。もうすぐ、二コマ目の授業が始まってしまう。次の授業の開始までに、答えを出さなければ。

 いったい自分はどうすればいいのか。

 どうすることが、自分にとって、そして目の前の二人にとって、最良の結果へと繋がるのか。

 ルイズはしばし黙然と瞑目していたが、やがて決然と瞠目し、柳也と才人の顔を交互に見つめた。

「……いいわ。外出を許可してあげる」

 柳也と才人の顔に、大輪の花のような笑顔がはじけた。

 しかし、二人を見つめる鳶色の眼差しには、

「ただし! 一つ条件があるわ」

 ルイズは右手の人差し指を立てて柳也に詰め寄った。

 見上げる鳶色の眼差しと、友愛の義憤に燃える黒炭色の眼差しが正面からぶつかり合う。

「二人とも、今日はまだたくさん仕事が残ってるんだから。……だから、夜までには戻りなさい」

 夜までには戻ってこい。

 戻って、壮健な姿を自分に見せろ。

 無事な姿を見せて、自分を安心させろ。

 言外に込められたご主人様の想いを感じ取った柳也は、「応よ」と、力強く頷き、莞爾と笑った。

 







 最初にこぼれ落ちた溜め息には、屋敷の壮麗な外観に対する感動が宿っていた。

 次に口をついて出た溜め息には、そんな立派な屋敷にも拘らず、働いている人間の数が極端に少ないことへの驚きが宿っていた。

 個人の所有物だけあって、以前の奉公先だったトリステイン魔法学院と比べてしまうと、新たな勤め先の屋敷の規模は小さい。しかし、小さいとはいっても、国内有数の富を持つ貴族が築いた宮殿だ。ジュール・ド・モット伯爵の京屋敷は、十人程度の使用人では到底管理しきれぬだけの広さと大きさを誇っていた。

 それなのに、現在屋敷に勤めている者が、昨日雇われたばかりの自分を含めてたった四人しかいないとは……。これはいったい、どういうことなのか。

 自室として宛がわれた部屋の窓から前庭を見下ろすシエスタは、訝しげに表情を曇らせた。

 案の定広い庭は手入れが行き届いていないらしく、枯葉や落ち葉がそのままの状態で放置されていた。

 ジュール・ド・モット伯爵の使者を名乗る黒髪の少女が魔法学院で暮らすシエスタを訪ねてきたのは、昨日の夕暮れ時のことだった。彼女は突然の訪問に対する謝罪の言葉もそこそこに、シエスタを我が主の京屋敷で雇いたい、と切り出してきた。モット伯爵にまつわるよくない噂を知っていた彼女は、初めその言葉に躊躇した。しかし、使者の口から飛び出した故郷の地名や、家族の名前を聞いて、申し出を受け入れざるをえなくなった。

 お前のことはすでに調べがついている。

 こちらの申し出を断れば、故郷に残している家族がどうなることか。

 遠回しな脅迫に、シエスタは膝を屈してしまった。

 それからの時間は慌ただしく過ぎていった。

 明日から働いてほしい、というモット伯爵の使者はシエスタに最低限の身支度だけさせると、なんとそのまま馬車に押し込んだ。まさに取るものもとりあえずの強行軍だった。

 シエスタの乗った馬車がモット伯爵の京屋敷に到着したのは、日付が変わって間もない深夜の時間帯だった。

 もう夜遅いから、とすでに用意されていた自室にまたも強引に押し込まれてしまった彼女は、一日の疲れもあり、そのまま眠ってしまった。翌朝目覚めた彼女は、新たに支給されたメイド服に袖を通すと、自室から出て、前庭より広壮な宮殿を眺め見た。昨晩は暗くてよく見えず、また長の馬車旅の直後とあって疲れていたためじっくり観察する心の余裕がなかった。

 改めて眺めてみると、思わずうっとりとした溜め息が出てしまうほど、モット伯爵の城は美しかった。

 自分の家族を人質に取った憎い相手。その事実を一瞬忘れてしまうほど、心奪われた。古い伝統様式に則った造りながら、随所に新しいデザインを盛り込んだ、見る者を飽きさせない館。シエスタは知らぬことだが、柳也達の世界ではルネサンス以降によく造られたタイプの城とよく似たいでたちをしていた。さながら空中都市といった趣さえ感じられる精緻な左右対称の美に、メイドの少女は圧倒された。

 しかし直後、シエスタは、でも……、と表情を曇らせた。外からの眺めは確かに美しい。しかし、その内側はお世辞にも手入れが行き届いているとは言い難い。ここに来るまでの間通った廊下には埃が溜まっていたし、要所々々に置かれた花瓶の花は、何日も水を変えていないのかいずれも萎れ始めて久しい印象だった。これほど大きく、立派なお屋敷だ。使用人は何人もいて然るべきはず。それなのに、この有り様とは……。

 そういえば庭に出てくるまで、廊下では誰ともすれ違わなかった。まだ朝早い時間帯とはいえ、屋敷で働いているみながみな、まだ眠っているとは考えにくい。

 ――もしかして、意外と人手不足なのかしら……?

 よく見渡してみると、庭も少し荒れ気味だった。根本的に、人員が不足しているように思える。

「まさしくその通りなんですよ」

 背後から、声がかかった。

 不意の呼びかけに、びくり、と肩を震わせる。

 おそるおそる振り返ると、そこには昨日、自分をこの屋敷に連れてきた黒髪の少女が立っていた。一流の人形職人がこしらえたかのような端整な顔立ちが、自分と同じデザインのメイド服を着込んでいる。名前はたしか、パリスといったか。消炭色の眼差しに真っ直ぐ見つめられると、なぜか心を見透かされているような気分に襲われ、少し、居心地が悪かった。

「あ、パリスさん……おはようございます」

「おはようございます、シエスタさん。昨晩は眠れました?」

「はい、まあ……」

 曖昧に笑って、頷いた。疲れていたとはいえ、憎い男の用意した部屋でぐっすり眠ってしまった事実を認めたくなかった。

 話題を変えようと思ったシエスタは、先ほどのパリスの言葉を思いだし訊ねた。

「あの、パリスさん、その通り、というのは?」

「言葉通りの意味ですよ。まさしくいま、この屋敷では、深刻な人手不足が起きてしまっているんです」

 おとがいに手を添え、溜め息をひとつ。

 もの憂いげな表情だが、それさえも画になる美貌を、少し羨ましく思った。

「実は先日、この屋敷で大規模な人事の整理がありまして」

「そうだったんですか?」

「ええ。シエスタさんも噂は聞いたことがありませんか? 土くれのフーケの噂です」

「があります。たしか、貴族だけを狙うメイジの怪盗だとか」

 土くれのフーケの噂は、シエスタも知っていた。

 トリステインの貴族達を夜な夜な怯えさせている、謎多き大怪盗だ。一ヶ月ほど前に魔法学院の宝物庫から何か大切な宝物を盗み出したという事件は記憶に新しい。
 
「土くれのフーケへの備えで、先日まで当家では警備兵の増員を行っていました。フーケは腕の立つメイジという噂でしたから、歴戦の傭兵を四十人ほど、新しく雇い入れたんです。

 兵が増えれば当然、今度は彼らを支える人員が必要となります。人事整理以前、この屋敷には警備兵七二名、使用人二六名の九八人が暮らしていました。そのおかげなのか、当家はこれまでフーケの被害に遭うことなくすんできました。

 ですが、この一、二ヶ月は、どういうわけか肝心のフーケの噂を聞かない。そこで伯爵は、フーケの脅威は去ったものと判断し、人員の大幅な削減を実施したんです」

 ですからいま、この屋敷には、伯爵を除いてはわたし達四人の使用人しかいません。

 続くパリスの言葉に、シエスタは驚いた。九八人がいきなり四人。いや、自分は昨日雇われたばかりの身だから、実質九五人もの大幅な人員削減。

 開いた口が塞がらない。まさに狂気の沙汰としか形容しようのない、伯爵の愚行だった。

 愚行。

 そう、愚行だ。

 警備兵はともかく、使用人まで大幅に減らしてしまったせいで、宮殿内の掃除さえ満足に行き届いていない現状を招いてしまっている。挙句、結局人手が足りなくて、新たに自分を雇い入れた。愚行以外の、何物でもない。

 呆れた表情を浮かべたシエスタは、なるべく控えめな表現を用いてパリスに言う。

「す、すごく思い切ったことをしましたね?」

「ええ、まあ……。ただ、必要なことでしたので」

「人員削減がですか?」

「ええ」

「でも、それじゃあパリスさんたち、いままでたいへんだったんじゃ?」

「いいえ。そうでもありませんでしたよ」

 シエスタは訝しげな表情を浮かべた。掃除の行き届いていない廊下を通ってこの庭に来たばかりの彼女だ。パリスが何を根拠にそのような返答を寄こしたのか、理解出来なかった。

 視線からシエスタの疑問を察したか、パリスは周囲の景観を見回して、静かに微笑んだ。

「庭の整備も、屋敷の掃除も、いまとなってもう、する必要のない仕事ですから」

「え?」

 する必要がない、とはいったいどういうことなのか。庭の整備はともかく、屋敷の掃除はメイドの仕事だろうに。

 あるいは、モット伯爵は、清潔を嫌う変わった人間なのかもしれない。……いいや、この屋敷の外観の壮麗さを見るに、美的感覚はむしろ研ぎ澄まされているように察せられるが……。頭の中に浮かぶ、いくつもの疑問。

 しかしパリスは、疑問を言葉にさせなかった。

 彼女はシエスタが口を開くよりも早く、

「仕事については、後で教育係をそちらに送ります。ですから呼ばれるまでは、自室で休んでいてください」

と、言った。

 メイドの世界は、基本的に縦社会だ。先輩メイドからこのように言われては、従うほかなかった。

 パリスの指示に従って自室へと戻ったシエスタは、それから四半刻の間、特に何をするでもなく、ただただ漠然と庭を眺め続けた。いまだ自分の部屋という実感の薄い自室には、彼女の私物はほとんどない。なんといっても、パリスが魔法学院を訪ねたのが昨日のことだ。出立の準備に慌ただしく追われる中で、私物を持ち出す余裕はなかった。時間を潰す術を持たないいまの彼女に出来るのは、新しい職場の庭を眺めることぐらいだった。

 人の手より解き放たれた緑を映す夜色の瞳は、不安に揺れていた。

 パリスの口から語られたモット伯爵の人事整理の全容は、狂人の行いとしか思えなかった。相手を正常な神経の持ち主と思えばこそここまで着いてきたが、好色な卑劣漢でかつ狂人となると、どんな命令を下されるかまるで想像がつかない。

 ――無理矢理求められることぐらいは、覚悟していたけど……。

 好色で知られるあのジュール・ド・モット伯爵が自分をメイドとして雇いたい、と知ったとき、シエスタは己の貞操が奪われることを覚悟した。彼女にはまだ男性経験はない。好きでもない、それどころか憎い相手に純潔を奪われてしまうのはたまらなく嫌だったが、家族を人質に取られている以上、伯爵の求めには応じるしかない、と諦め、また覚悟していた。

 しかし、その覚悟も相手が常人なればこそ。相手が狂人となれば、純潔を散らされるだけではすまないかもしれない。狂人は、次に何をするか、行動がまったく読めないから恐ろしい。得体の知れない恐怖から、シエスタは思わず胴震いした。

 部屋のドアがノックされたのは、その直後のことだった。

 







 魔法学院と王都トリステインとを結ぶ街道を、二人の若武者が走っていた。

 馬よりも速く、また風よりも速く路面を疾駆する二人だった。

 桜坂柳也と平賀才人。

 永遠神剣の力を解き放ち、目にもとまらぬ速さで地面を蹴り進む二人の神剣士は、一路ジュール・ド・モット伯爵の京屋敷を目指していた。

 その装いはともに自慢の一張羅。相棒の武具の他には小さな麻袋を袈裟がけに提げただけという軽装だった。麻袋の中身は水筒と携行食のパンが二個、手拭いが何枚かと、二メートルほどの細いロープが一本という、いかにも急遽拵えた雰囲気たっぷりのセットだ。過度の重装備はかえって邪魔になるだけ。それにルイズとの約束もあるから、と二人は好んで軽装を選んだ。

 街道をひた走る柳也の口元には、穏やかな微笑が浮かんでいた。

 自身、このようなときに不謹慎な、とは自覚しつつも、懐かしい気持ちがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

 こうして才人と二人、神剣士同士肩を並べて走っていると、ファンタズマゴリアで過ごした日々のことが自然と思い出された。

 常に仲間達のマナに囲まれていた、あの日々。

 一緒にいるだけで自然と勇気を奮い立たせてくれた、頼もしき戦友達の気配。

 隣より感じられる神剣の気配は、柳也の意識を過去へと誘った。

 まるでSTF隊の面々と一緒に行軍しているような気分に襲われた彼の顔には、屈託のない笑みが浮かんでいた。

 己の闘気が、際限なく高まっていくのを自覚する。

 四肢に漲る久しく感じていなかった力は、柳也の身を、そして心を軽くさせた。

 やがて、魔法学院を発ってからおよそ半刻後、二人の視界に、天を衝く円錐状の塔をいくつも生やした屋根の姿が映じた。

 モット伯爵の京屋敷に、相違なかった。

 







 ノックに応じてドアを開けると、廊下ではメイド服を着た黒髪の女が立っていた。

 雲を衝く長身に加えて、大柄な体格の女だった。メイド服のサイズが合っていないらしく、袖丈もスカート丈も、かなり浅いところで寸詰まりになっている。

 顔を見上げて、シエスタは思わず息を呑んだ。パリスとはまた色の異なる、凛々しい美貌に彼女はしばし見入ってしまった。肉の薄い唇が、落ち着いたトーンの音色を紡ぐ。

「お前の教育係をすることになったキャメリアだ。これから仕事を教えるから、着いてこい」

 墨を溶かし込んだかのような長い黒髪が、翩翻と翻った。

 キャメリアを名乗った女性はこちらの返答を待たずに踵を返した。今度はこちらの番と、自己紹介のため口を開こうとしたシエスタは、慌ててその背中を追いかける。

 言いたいことを言い、動きたいように動く。相手の都合を考えない振る舞いはいっそ清しささえ感じられ、文句を言う気さえ起らなかった。

 キャメリアはスカートの裾が大きく揺れるのも構わず大股で歩いた。対照的に、魔法学院でメイドとしての作法を徹底的に叩き込まれているシエスタは、裾が翻って見苦しくならないよう注意しながら後を追った。ただでさえ身長差著しい二人だ。歩き方の違いがさらなる歩幅の差を生み、必然、シエスタの足取りはやや駆け足気味となった。

 後ろから聞こえてくる忙しない足音をまったく気遣うことなく、キャメリアは前を向いたまま言う。

「仕事を教えるついでだ。お前にはこれから伯爵に会ってもらう」

「モット伯爵に?」

「伯爵はいま、謁見の間におられる」

 伯爵が平民の来客と会うときに使う広間だという。ちょっとしたダンスホールほどもある広間で、パーティの会場として使われることも多いそうだ。貴族が外部の人間と接触する空間ゆえに、廊下とは直接通じておらず、控えの間と奥の間に挟まれた構造だという。

「防犯上の理由でな。謁見の希望者が、来客を装った刺客という可能性もある」

 キャメリアはそう言うと、階段を下りてシエスタを控えの間へと案内した。

 中央玄関から入って右奥に置かれた、十二畳ほどの広さの部屋だった。通常、来客はまずここでボディ・チェックや持ち物の検査などを受け、それをクリアしなければ伯爵とは会えないルールになっている。検査のための部屋だけあって、インテリアの類が極めて少ない、殺風景な内装をしていた。

「大丈夫だとは思うが、一応、お前を検めさせてもらうぞ?」

 先ほどと同様、キャメリアはシエスタの返事を待たずに彼女に触れた。胸元、腰回り、スカートの中、ソックスの内、靴の中、挙句カチューシャなどの装身具にいたるまで念入りに調べる。

「カチューシャまで調べるんですか?」

「技術を持った人間なら、カチューシャに仕込めるような小さな暗器でも人を殺せる」

 知識だけでなく、実際にそういった特別な技能を持った人間と会ったことがあるのか。キャメリアは苦い口調で呟いた。

「……大丈夫そうだな」

 やがて、シエスタが武器になるような物を持っていないことを確認すると、キャメリアは謁見の間へと続く扉に手をかけた。銀細工と青のサファイアで飾られた赤樫の戸だ。ドアノブを捻り、ゆっくりと押し開ける。

 まず視界に映じたのは、モザイク模様の床だった。

 ついで視線が捉えたのは、部屋の奥に置かれたアームチェアー。

 煌びやかな宝飾に彩られた王座と呼ぶべき椅子に、マントを身に付けた貴族の男性が腰かけていた。ドアの開く音に反応して、俯き気味だった顔を上げる。短く刈った白髪。艶のない口髭。何か病を患っているのか、肌の色は蒼白に近く、血の巡りが悪いように思われた。

「あの方が……」

「そうだ。お前の新しい主だ」

「ジュール・ド・モット伯爵……」

 茫然と、その名を呟いた。

 その声には、驚きの色が濃かった。

 ジュール・ド・モットが家督を継いだのは彼が一五歳のときだったと聞いている。たしか、二十年ほど前に先代伯爵が逝去したのが契機だったとか。だとすれば現在、ジュール・ド・モットの年齢は過大に見積もっても三七、八歳のはず。ところが、この見た目はどうだ。どう眺め見ても初老としか思えない。いくら個人差があるといっても、この老化の速さは尋常じゃない。

 見た目ばかりではない。自分を見つめる伯爵の眼差しからは、活力というものがまるで見いだせなかった。

 三十代といえば気力と体力のバランスが取れた、一般に男盛りとされる年齢だ。それなのに、この覇気に欠けた有り様は……これでは、老人にも劣っている。

 本当に目の前のこの男が、ジュール・ド・モット伯爵その人だというのか。好色で知られ、自領の本邸は勿論、この京屋敷にまで己のハーレムを築いた男だというのか。とてもではないが、そんな精力旺盛な人物には見えないが。

「……お前の考えていることは分かる」

 表情から、自分の思考を読み取ったか。

 キャメリアはシエスタに小声で囁いた。

「だがまさしくあの方こそ、ジュール・ド・モット伯爵その人だ。多少老けて見えるかもしれないが、まだ三六歳の男盛りよ。……伯爵様」

 キャメリアは一歩前に出ると一礼した。お世辞にも洗練されているとは言い難い所作による敬礼だった。顔を上げた彼女は、右後ろに控えるシエスタを示す。

「本日よりこの屋敷で働くことになったシエスタです。……ほらシエスタ、伯爵に挨拶しろ」

「……シエスタと申します」

 シエスタは魔法学院仕込みの楚々とした所作でお辞儀した。勿論、営業スマイルは忘れない。いくら憎い相手とはいえ、目の前の老人にしか見えない男が自分のいまの主人だ。つまらないことで不興を買いたくはなかった。

「シエスタ、か……」

 モット伯爵が、自分の名前を呼んだ。とても三十代半ばの男のものとは思えない、しゃがれた声だった。外見ばかりか、体の内側まで衰えている様子だった。

「こちらへ……」

 玉座に腰かけたまま、伯爵は老人のように細い腕で手招きした。

 シエスタの肩が、びくり、と震えた。

 好色で有名な男。成金趣味が民草の不興を買っている男。パリスの口から聞かされた、狂人のごとき男。老人とまごう目の前の男。得体の知れない男。いくつもの伯爵像が一斉に頭の中に浮かび、シエスタの心を蹂躙する。一歩前に踏み出すことを、躊躇させる。混乱と恐怖から生じた震えは、なかなか止まらなかった。

「こちらへ……」

 伯爵がまた呟き、シエスタを手招きした。

 やはり気迫に欠けた、しわがれ、震えた声。

 ……震えた、声?

 ――声が震えてる? でも、なんで……?

 伯爵の顔を見る青い顔に、怪訝な表情が浮かんだ。

 晩春から初夏へと、四季のバトンの持ち主が移り変わりつつある今時分、窓のガラス戸をすべて閉めきった謁見の間では、ただじっとしているだけでも体の火照りを感じるほどだ。

 寒さから生じた震えではない。

 とすれば、伯爵の声帯に影響を及ぼしたのはいったい何なのか。

 シエスタは、主人の顔をまじまじ見つめるのは無礼と重々承知していながら、メイドのタブーをあえて犯し、伯爵の顔をじっと眺めた。

 やがて、新たに主人となった男の青い顔から、ある感情を見出す。

 それはいまのシエスタにとって、最も馴染み深い感情だった。

 すなわち、

 ――恐怖……。

 この京屋敷に一歩足を踏み入れた瞬間から、常に自分につきまとう不快な情動。

 別段、モット伯爵は怯えた表情を浮かべているわけではない。

 しかし、自身現在進行形で得体の知れない存在に対する恐怖感に襲われているシエスタは、その心中を見抜くことが出来た。

 自分を見つめる伯爵の視線からは、己と同様、恐怖にうち震える者特有の陰影が見て取れた。

 ――でも、何に対して?

 富と権力を掌握し、魔法の力まで持っている。加えてここは、彼の城だ。恐怖を抱く対象など、何一つないように思えるが。

「こら、シエスタ」

 一向にアクションを起こさない自分を見かねたか、キャメリアがやや強い口調で名前を呼んだ。

「伯爵がお呼びだ。前へ」

 シエスタは唾を飲み込むと、意を決して伯爵のもとへと歩み寄った。

 一歩、また一歩と近づくごとに、伯爵の表情が変化していく。明らかな喜色が、灰色の瞳に浮かび上がった。水分と油分の枯渇も明らかな唇が、ゆっくりと動く。

「手を……」

 言われるがまま、シエスタは目の前の人物に向けて右手を差し伸べた。

 すると伯爵は、差し出された手を両手で掴んだ。肉の薄い、ひんやりとした手。まるで若い血のぬくもりを求めるかのように、伯爵の指はシエスタの手を撫でさすった。

「あぁ……ああ……!」

 突然、モット伯爵の目尻に大粒の涙が浮かび、シエスタはぎょっとした。

 伯爵はそんなメイドの反応には構わらず、彼女の手を愛おしげにさすり続けた。

「あたたかい……ああ、あたたかい……! 人のぬくもりだ。私と同じ、人間の……!」

 伯爵の嗚咽が、謁見の間に寒々しく響いた。

 澎湃とこぼれる涙は、悲しみからくるものではない。

 まるで母親と再会を果たした迷い子のような喜悦が、老人そのものの顔には浮かんでいた。好色で知られる人物とは思えない、頼りない表情だった。

「シエスタ」

 キャメリアに名前を呼ばれたシエスタは、モット伯爵に手を預けたまま振り返った。

「お前の最初の仕事だ。しばらく、そうして差し上げろ」

 キャメリアは主人に対する敬愛など微塵も感じさせない所作で一礼すると、踵を返した。

 伯爵と二人きりになることへの抵抗もあって、シエスタは「どこへ?」と、訊ねた。

 小山のように大柄な女は肩越しに振り返ると、不敵な冷笑を浮かべた。

 それを見たシエスタの肩が、びくり、と震える。 

 先輩メイドの顔には、尋常でない好戦意欲が満ち満ちていた。

「今日は来客の予定がある。客人をもてなす準備をしなければならない」

 







 この世界で出会った親しい友人を助けたい。いや、助けてみせる。

 静かに闘志を燃やす柳也達にとって、馬の足で三刻要する距離などは大した道程ではなかった。二人の若き神剣士は、魔法学院を発ってから僅かに半刻で、ジュール・ド・モット伯爵の京屋敷を指呼の距離に捉えた。

 町の喧騒を嫌ってか、王都の中心部はもとより、郊外の村々からも離れた場所に、モット伯爵の城は建っていた。

 四方を森で囲まれた孤城だった。高く、そして壮麗な造りの塀と重厚な格子の門からなる門構え。サッカーのグラウンドほどもある広大な前庭。その奥で圧倒的な存在感を発している白亜の宮殿……。城館の屋根の上には円錐形の塔や尖塔がいくつも並び、さながら空中都市といった印象を見る者に与える。

 鬱蒼と茂る森の中に悠然とそびえたつ城を見た二人の地球人は、揃って感嘆の溜め息をついた。

 ジュール・ド・モット伯爵は非道な手段をもってシエスタを連れ去った憎い相手だ。しかし彼の住まう城は、否定しようのない“美”をたたえていた。

「ルネサンス式に近いスタイルだな」

 ミリタリー・オタクの柳也は、城砦の建築様式についても詳しい。六〇〇〇年に及ぶ戦史の中で、城はしばしば重要な役目を果たしてきた。最古の兵法書の一つである孫子の『兵法』の中にも、攻城戦に関する記述がある。

「ルネサンス式?」

「その名の通り、ルネサンス期に流行した建築様式だよ」

 ヨーロッパの文化史を語る上で、ルネサンスは欠くことの出来ない重大事件だった。ルネサンスとは、古代ローマ人の世俗的な生活態度と人間的な文化の再生を理想とする思想で、キリスト教的な清貧を旨とする当時の文化に旋風を巻き起こした。当然、建築の分野でも大いに活用され、一六世紀にはローマを中心とした地域で完成期に入った。それらの技法は、古代ローマ時代に倣って邸宅、宮殿、官庁、病院、市場といった建造物に用いられ、やがて近代ヨーロッパの都市建築の基盤となっていった。

「キリスト教的な価値観の中で切り捨てられた、古代ローマの建築技法を数多く取り入れているのが、ルネサンス式の特徴の第一点だ」

「第一点?」

「ああ。ルネサンス式の城には、もう一つ特徴がある」

 もっともそれは、技術的なものではなく、ルネサンス式の城砦が流行した当時の社会に由来する特徴だった。

「中世に建てられた城の多くは、政治の拠点というよりも、軍事的な防衛施設としての趣が強かった。十字軍の遠征を筆頭に争いの多い時代だったし、中世当時の攻城兵器や戦術では、城に立て籠もる敵を撃破するのは難しいことだったったから、要塞は有力な抑止力たりえた。でもまあ、そういう城は大抵居住性は最悪だ。戦争の少ない時代になれば、当然、人はより快適な住居を求めるようになる。それに軍事上の要地が、その土地を治める上での要地と同じとは限らない。つまり、ルネサンス式の城っていうのは……」

「軍事よりも政治の拠点としての色が強い、居住性に優れる城、ってことですね?」

「そういうことだ」

 森の茂みにひっそりと身を潜める柳也達は、改めてモット伯爵の京屋敷を眺めた。接近を気取られないよう、無論、距離は置いている。男二人が並んで立ってももびくともしないほど太い枝振りの大木に腰かけながら、二人の神剣士は視力の強化にマナを集中した。

「あくまで外から見た印象だが、姿形は美しいが、防衛に適した城じゃないな。防衛施設は、あっても実戦的な物じゃないだろう。……それより俺は、別なことが気になってならないが」

「……柳也さんもですか?」

「才人君もか?」

「ええ」

「じゃあ、せーの、で同時に言おうか」

「はい。せーの」

「「門が全開な上、番兵が一人も見当たらない」」

「「…………」」

「やっぱり、変だよなあ」

「やっぱり、変ですよね」

 神剣士の師弟二人は揃って腕を組み、訝しげに呟いた。

 これだけ大きな屋敷にも拘らず、門番の姿が一人も見られない。そればかりか、正門は千客万来とばかりに全開放されている。マチルダの言によれば、モット伯爵の屋敷は彼女が侵入を断念せざるをえないほど警戒厳重なはず。明らかに異常な事態だった。

「それだけじゃないぞ」

 柳也は険しい面持ちで城を睨みながら呟いた。

「姿が見えないだけじゃない。そもあの城からは、人間らしいマナの気配がほとんど感じられない!」

 柳也の言に、才人もまた頷いた。

 永遠神剣と契約を交わしている彼らは、生物が発するマナの波動を知覚する能力を持っている。

 ジュール・ド・モット伯爵の屋敷からは、人間特有のマナの気配が僅かに二つしか感じられなかった。そのうち一つは、二人がよく知るマナの波動だった。すなわち、シエスタの気配だ。つまり、現在あの城には、使用人も、傭兵も、ほとんどいない、ということになる。

「シエスタのマナのすぐ側に、もう一つ、人間のマナの気配を感じます……」

 五感とは別な感覚を研ぎ澄ますべく、瞑目しながら、才人が呟いた。

 その右手は、鞘ぐるみで背負ったデルフリンガーの柄に添えられている。

 第六位の永遠神剣〈悪食〉とはつい先日契約を交わしたばかりの才人だが、ガンダールヴの特殊能力のおかげだろう、彼はすでに神剣士としての能力を使いこなし始めていた。

 弟子の言葉に頷きながら、柳也は言う。

「すごく儚げなマナだ……。病持ちか、怪我でもしているのか、いまにも消えそうなぐらい、生命力が低下している」

「モット伯爵……ってことはないですよね?」

「好色で有名な男だぞ、彼は。精力絶倫。もっと猛々しいマナを感じるはずだ」

「いったい、何が起きているんでしょう?」

「さあな。検討もつかん」

 柳也はかぶりを振った。

 才人の言うように、あの城で何かが起きているのは間違いない。あれほどの規模の屋敷にも拘らず、たった二人分のマナしか感じられない。しかもそのうち一人はシエスタだから、今現在あの宮殿には、城の人間はたった一人しかいない、ということになってしまう。何も起こっていないと考える方が、異常だった。

「何が起こっているにせよ、尋常な事態でないことだけは、確かだ。そして……」

「そんな薄気味悪い場所に、これ以上シエスタを置いておくわけにはいかない。これも、確かなことですよね?」

「その通りだ」

 枝の揺れが最小に留まるよう軽く足場を蹴って、一歩前へと踏み出した。

 およそ五メートルの高さから落下した衝撃は、膝を十分に曲げることで受け流す。

 立ち上がった柳也は、才人を見上げながら言った。

「なんにせよ人がいないのは良いことだ。こそこそ隠れて行動せずにすむ」

「正面突破、といきますか!」

 右の拳で左の掌を軽く叩き、才人もまた足場を蹴って地面に着地した。

 もしこの場に、マナを知覚する特別な感覚器官を持っている者がいたならば、二人に近寄るのを躊躇うことだろう。

 昂ぶる闘志に呼応して、二人のマナの気配もまた、猛々しく燃え上がっていた。

 二人は疾風怒濤の勢いと速さで、地を駈けた。

 敷地内への侵入は、特に障害もなく易々と果たすことが出来た。前庭には、やはり人の姿は見当たらなかった。

 正門から堂々侵入を果たした二人の神剣士は、シエスタのマナが感じる方へと向かって一目散に駆け抜けた。

 ドアを蹴破り、屋敷の中に押し入ると、目の前の階段には目もくれず右奥へと急ぐ。誰ともすれ違うことはなかった。やがて一つのドアの前で立ち止まった二人は、そこで深呼吸を一つ。新鮮な酸素を五体に巡らせ、頭をクリアにする。

 柳也がドアノブに手をかけた。無言で見つめ合い、頷き合う。最初はゆっくり、途中は勢いをつけて扉を押し開けた。

 二人が入室したのは、インテリアの類が極端に少ない、殺風景な部屋だった。一二畳ほどの広さで、柳也達が入ってきたのとは別な扉が一つ設けられている。銀細工と青のサファイアで飾られた、赤樫の戸だった。扉の豪奢な装いから察するに、この部屋は――――――、

「……なるほど、控えの間か」

「控えの間?」

「城主との謁見の前に通される部屋だ。これから城主と会う相手が、武器類を持ち込んでいないか最終検査をするための部屋さ」

「ということは、この扉の先は……」

「ああ。……おそらくは、謁見の間だろう。そしてこの先に」

「シエスタはいる」

 ドアの向こう側から感じる、馴染みのあるマナと、弱々しいマナの波動。

 シエスタともう一人以外に、やはりマナの気配は感じられない。

 とはいえ、油断は禁物だ。

 柳也は腰に差した初代正弘の定寸刀を、才人は背中の鞘からデルフリンガーを抜刀した。

 臨戦態勢を整えた柳也は、グリフォンの彫金がまぶしいドアノブに手をかけると、先ほどと同様、初めはゆっくりと押し込む。内に鉄板を仕込んでいるのか、見かけよりもだいぶ重い戸板を一寸押し込んだところで、今度は一転して勢いよく押し開けた。

 最初に才人が、ついで柳也が、油断なく剣を構えながら突入した。

 

 

 テニスコート三分の二ほどもある、控えの前にも増して広々とした部屋だった。

 天井は古い神殿を思わせるほどに高く、弓型に緩やかなカーブを描いている。

 石畳の床には僅かな段差も傾きも見当たらず、石工職人達の丁寧な仕事ぶりが窺えた。床にはモザイク模様のパッチワークが敷かれており、まるでチェス盤の上に立っているかのような錯覚を抱かせる。

 壁の高い場所には、円形の窓がいくつも並んでいた。一つ々々は小さいが、数が多いため、真昼の室内はランプの灯りがなくとも十分な明るさを維持している。すべての窓にガラスが張られており、これだけでも相当な財を投じていることが察せられた。

 部屋の出入口は、二つ。たったいま自分達が通り抜けてきたドアの反対側の壁にも、赤樫の戸板が見て取れる。

 部屋の奥には他に、アームチェアーが一つだけ置かれていた。杉の大木を削って組み合わせ、丁寧に鑢掛けをした見事な逸品だ。柳也達の位置からは見えないが、背もたれには、煌びやかな黄金の彫金が施されている様子だ。まさに、王座と呼ぶに相応しい偉容を誇る腰かけだった。

 王座には、一見、初老と取れる男が座っていた。短く刈った白髪。張りと艶のない口髭。肌は血色悪く、脂と水に欠け、かさついている。顔中に加齢によるものだけとは思えぬ皺が寄り、顔面筋は総じて疲れ切っていた。着衣こそ王座に負けぬ煌びやかさを発していたが、着ている者に、それに相応しい覇気がない。まさに服に着られている感の強い人物だった。

 そのかたわらには、見慣れた顔が寄り添っていた。

 魔法学院で支給されている制服よりいくぶんスカート丈の短いメイド服を身に纏い、シエスタは、突然やって来た友人らの顔を驚いた表情で交互に見た。なぜ、この二人がここにいるのか。

「サイト、さん? それに、リュウヤさんも……!」

「シエスタ!」

 正眼の構えを解いた才人は、シエスタのもとへ駆け寄った。

 柳也も、剣の切っ先を床に向けて、魔法学院で働く同僚のもとへゆっくりと歩み寄る。勿論、絶えず警戒の視線を散らし続けるのは忘れない。

「シエスタ……よかった。見たところ元気そうだな」

 才人が安堵の笑みを浮かべながら言った。

 顔や首、手や足首など、目に見える範囲での外傷は見当たらない。着衣の乱れもなく、顔色も良好だ。折檻や暴行を受けた後とは思えなかったし、思いたくなかった。

 ありえるはずのない再会を果たしたシエスタは、困惑の表情を浮かべて、二人を見上げた。

「お二人とも、どうしてここに?」

「シエスタを、助けに来たんだよ」

「迷惑かとも思ったんだがな。マルトーコック長達からモット伯の為人を聞いて、いてもたってもいられなくなった」

 才人の言葉に柳也が続いた。魔法学院では厨房スタッフとして肩を並べた同僚に向ける視線には、やはり安堵の色が濃い。

 しかしすぐに表情を引き締めると、柳也はシエスタに硬い声音で訊ねた。

「……それにしても、これはどういうことなんだ、シエスタ? 俺達は、ジュール・ド・モット伯爵は用心深い人物で、その屋敷は警戒厳重と聞いていたんだが……」

「そうだ。ここに来るまでの間、警備兵どころか使用人一人見当たらなかった」

「これほどの規模の屋敷だ。維持だけでも相当な人手が必要なはずだ。それなのに、いまこの城からは、この部屋以外に人の気配がしない……。それに、そちらのご老人は……?」

 柳也は早口でまくしたてるように言った。

 相手が答えを述べないうちから、二つ目の質問。普段のこの男らしからぬ、相手への気遣いに欠けた問いかけだった。

 警戒厳重と思って近づいた屋敷。しかし蓋を開けてみれば警備兵の姿は見えず、使用人の存在さえ認められない。いったいなぜなのか。いくら考えても答えは見つからず、得体の知れない事態に対する恐怖心と、不信感ばかりが募っていた。身の内に溜まった負の感情が、柳也の頭から気遣いという言葉を忘れさせていた。別な言い方をすれば、いまの彼は混乱し、動揺していた。

 混乱し、動揺しているのはシエスタも同じだった。

 彼女もまた、この屋敷に対して得体の知れない怖気を感じている一人だ。ただでさえ不安を募らせているところに、二人との再会。嬉しい気持ちはまったく湧いてこなかった。

「え、ええと……何から、話すべきなんでしょう……」

 混乱する頭で、必死に言の葉を紡ぐ。

「ええと……そ、そう! まずは、人がいないことについてですよね。実はわたしも、よくは知らないんです。なんでもこの間、大規模な人員整理があったみたいで、屋敷で働いている人を、一気に何十人も辞めさせてしまったらしいんです。そうしたら今度は逆に人手不足になったらしくて、わたしもその補填で雇われたらしいんですけど……」

「なんだよ、その無計画」

 才人が呆れたように溜め息をついた。

 人手が減れば、その分、一人当たりの負担は重くなる。子どもでも理解出来る話だ。それなのに、何ら事後策を用意しないまま人員削減を断行し、挙句、また人を雇う羽目になるとは……。

 ――ジュール・ド・モットって野郎は、馬鹿なんじゃねぇか。

「それから、こちらの方は……」

 シエスタがかたわらの老人を見た。一旦、口をつぐみ、迷うようなそぶりを見せた後、躊躇いがちに言う。

「このお屋敷のご当主、ジュール・ド・モット伯爵閣下です」

「……なんだと」

 かつてアルビオンへの途上でウェールズの口から自身の正体を明かされたときと同質の衝撃が、柳也と才人の頭を横殴りした。

 二人は揃って驚愕に顔を歪め、まじまじと玉座に座る老人の顔を見つめた。

 どう贔屓目に眺めても初老としか思えない皺だらけの顔が、怯えた表情で歪む。目線は自分と、手元の初代正弘を交互に見つめていた。かたわらのシエスタにすり寄るその姿からは、権力者らしい覇気も、好色で知られる男の色欲の匂いも感じられなかった。

「馬鹿な!」

 柳也は思わず声を荒げた。

 王座の老人が、驚きから胴震いする。

「信じられん。ジュール・ド・モットといえば、女好きで有名な男と聞いている。しかし、この男からは、それらしい精力が滾りが、まるで感じられない!」

「それに、ジュール・ド・モットの年は三十そこそこのはずだろう? どう見ても、六十はすぎてる」

「なあ、あんた。本当に、ジュール・ド・モット伯爵なのか?」

 柳也は膝を折ると、玉座の老人の目の高さに目線を合わせた。

 両肩を揺さぶりたい衝動にかられるが、ぐっと堪える。この状況で刀を手放すのは、まだ危険と思われた。

「同姓同名の、別人とかじゃないだろうな?」

「……失礼なことを言うな。モットの姓と領地を持つのは、この世に私一人だけだ」

 玉座に腰かけたまま、男は力のない声で応じた。やはり覇気に欠けたしゃがれ声。とても三十代のものとは思えない。

「私が、ジュール・ド・モットだ。証を示せと言うのなら、ほら……」

 ジュール・ド・モットを名乗った老人は、外からは見えないよう服の内にしまっていた首飾りのペンダント・トップを柳也達に見せた。四センチほどの長さの、小さな鍵だ。

「上の階の私の私室にある、金庫の鍵だ。金庫の中にはトリステイン先王の直筆で、モットの領地を私に任せる旨が記された証文が収められている」

「……どうやら本人に間違いないようだな」

 こんな鍵まで示されては、認めないわけにはいかない。

 早老症と呼ばれる、疾病がある。遺伝子の染色体の異常から、異様な早さで加齢が進んでしまう病気だ。多くは生まれつきものだが、市街戦を含む放射線や化学物質などが原因で、後天的に発症する場合もあるという。

 ジュール・ド・モットの身に起きている現象も、おそらくはその早老症に分類してよい症状だろう。

 しかし、マルトーコック長やマチルダは、モット伯爵の見た目が年齢に比して異常に老けているなどの特徴は挙げなかった。先天的な早老症とは考えにくい。

 後天的なものであるとすれば、いったい何が原因なのか。放射線か、それとも化学物質か。周辺一帯の土地からは、そんなマナの異常は感じられなかったが。

「……では、あなたをジュール・ド・モット伯爵と認めた上で、いくつかお訊ねしたいことがあります」

 柳也はそれまで態度を改めて立ち上がった。軍人としての作法に乗っ取って、モット伯爵に礼を取る。抵抗感はほとんどなかった。事態が斯様に複雑怪奇な様相を呈しては、シエスタを連れ去った憎い相手などと言ってはいられない。

 まったく、シエスタを助けるだけだったはずが、とんだ事件と遭遇してしまった。

 苦い表情が浮かぶのを堪えながら、柳也は眼下の伯爵に訊ねた。

「先ほどシエスタが、人事の整理を行ったと言っていましたが、それは……」

「違う」

 柳也の言葉が終わらぬうちから、モット伯爵はかぶりを振った。

「違う。人事の整理などではない」

「え? で、ですが先ほど、パリスさんは……」

「違う。パリス達の言っていることは、すべて嘘だ」

「……パリス?」

 柳也の顔に、怪訝な表情が差し込んだ。

 シエスタに人員削減の話を説いて聞かせたパリスなる人物。察するに、先ほど彼女が口にしていた先輩メイドが、そのパリスなのだろう。だがおかしい。相変わらずこの屋敷からは、シエスタとモット伯爵、二人分のマナしか感じられない。シエスタの口ぶりからすると、つい先ほどまでこの屋敷にいたらしいが。

「……どうやらまた、新たな疑問が増えたようだ。それはともかく、モット伯爵、二つ目の質問です。私の見込み違いかもしれませんが、あなたは先ほどから何かに怯えているように見えます」

 己の顔を見た瞬間から、顔に恐怖の表情を貼りつかせたモット伯爵。

 たしかに自分はいま、右手に凶器を持っている。それもおそらくは、この世界の人間がかつて見たことのない形状の刀剣を。

 しかし、なんといってもモット伯爵は貴族だ。莫大な富を持ち、権力さえも掌握している。加えて魔法の力を自在に操るメイジ。抜き身の刀を手にしているとはいえ、一見、平民にしか見えない自分を恐れる理由はないはずだ。それなのに、この怯えよう。柳也はその原因が気になった。

「あなたはいったい、何に対して恐れを抱いているのですか?」

「……その……」

 震える指先が、柳也の右手を指し示した。右手が握る、初代正弘の定寸刀を。

「その、剣……」

「こいつが、どうかされましたか?」

「ひっ……」

 柳也が正弘の掲げて示すと、モット伯爵はいっそう怯えた眼差しで柳也を見つめた。まるで魑魅魍魎、化生の類を目撃したかのような恐怖の表情だった。

「あの女どもと同じだ。お前のその剣は、あの女どもと同じ……」

「あの女? それはいったい……」

【主よ―――――――ッ!】

「……っ!」

 唐突に、脳幹を揺さぶる相棒達からの警告音。

 人間のものとは明らかに異なる、巨大なマナの気配が三つ、突然、出現した。

 見ればかたわらの才人も顔をしかめている。おそらくは、デルフリンガーが警告を発したのだろう。神剣士の師弟二人は、反射的に相棒を正眼に取る。

 気配の位置は――――――、

「天井……上の階かッ」

 柳也が吼えた、その瞬間だった。

 氷が割れるような鋭い地鳴りが耳膜を殴打し、控えの間へと通じる扉の側の天井版が、崩落した。

 腹の底に響く重低音とともに落下する瓦礫。

 瓦礫とともに、室内に降り立つ三つの影。

 三つの、巨大なマナの気配。

 永遠神剣の、気配。

 瓦礫の舞台の上に降り立ったのは、三人の若い女だった。

 揃いの着衣上に、揃いのプロテクターを身に付けている。

 一人は六尺豊かな柳也をして目線を合わせるのに首を傾けねばならないほどの長身の持ち主だった。

 もう一人は対照的に背丈が低く、また肩幅も小柄なショートヘアの少女だった。

 そして二人に挟まれる形で、若竹色のストレートを腰まで伸ばした女は立っていた。

 総じて整った顔立ちをしており、特に長身の女は、柳也好みの艶のある面魂をしていた。

 彼女達はみな、各々の得物で武装していた。長身の女は刀身だけで四尺はあろう野太刀の鞘を右肩に背負い、ショートヘアの少女も、腰に定寸刀の拵を差している。勿論、どちらの刀剣も本来この世界には存在しないはずのデザインの武具だ。

 若竹色の髪の女は、全長二尺はあろう長大な槍穂を冠に頂く大身槍を中段に構えている。ショートヘアの少女ほどではないが、彼女もまた身長のわりに体格は小柄なほうだ。とてもではないが、大身槍を自在に振り回せるだけの膂力を持っているとは思えない。はたして異常なのは彼女の得物か、それとも彼女自身か。あるいはそのそ両方か。

「キャメリア、パリス、フィリン……!」

 モット伯爵が、これまでにない激しい震えを起こしながらその名を呟いた。どうやらあの三人の名前らしい。その中にはシエスタが先ほど口にした、パリス、という名前もあった。

 床板を破壊して一階は謁見の間に降り立った彼女らの姿を見た柳也は、思わず瞠目した。

 本日最大の……否、この世界に召喚されて以来最大級の驚愕が、脳細胞をことごとく揺さぶった。

 限りある地平を巡る戦いに身を投じていた日々の記憶が、鮮烈に甦る。

 ラキオス王国軍最強の三本槍の一振を務めていたあの戦いの日々。彼女達は、いつも自分の側にいた。

 あるときは己の敵として立ちふさがり、あるときは頼もしい味方として、肩を並べた彼女達。

 有限世界に生まれた、剣の妖精達。

「……なぜだ?」

 柳也は正眼に構えたまま、力強く問いかけた。

 あまりにも漠然とした質問。当然、彼女らがたったそれだけの言葉で自分の意図を読み取ってくれるはずもなく、怪訝な表情を浮かべるばかりだ。

 柳也は小さく舌打ちした。彼はもう一度、今度は一切の言葉を削ぐことなく口を開いた。

「なぜ、お前達がこの世界にいるんだ! スピリット!?」

 一目見た瞬間から、そうと気づいた。

 あの戦いの日々があったからこそ、目の前の女達の本質に気づくことが出来た。

 ――間違いない。こいつらは……!

 スピリット。

 魂と名付けられた、美しき戦乙女。

 人肉を断つ手応えとともに、過去の思い出が甦る。

 甘い疼きを胸の内に感じながら、桜坂柳也は、吠えたてた。




<あとがき>


 読者の皆様おはこんばんちはっす。タハ乱暴でございます。今回もゼロ魔刃を読んでいたたき、ありがとうございました。

 人質救出作戦は特撮ヒーローの定番ネタ。というわけで、今回の話では我らがヒーロー二人を敵のアジトへと送り込みました。そこで待っていたのはやはり定番、強力な敵という、何の捻りもない展開です(笑)。小細工抜きの真っ向勝負を、読者の皆様には挑ませていただきました。いかがでしたでしょうか?

 さてお気づきかと思いますがモット伯爵のお屋敷、この場合原作となるアニメより、だいぶ増築しています。謁見の間の設定とか、もうやりたい放題(笑)。ないとは思うけど、今後原作でモット伯爵邸の内部図解とか出てきたらどうするべかなぁ……。

 次回はミニオン三人娘との決戦。久々の本格的バトルです。お付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜




シエスタの救出劇。
美姫 「勇み向かったまでは良かったけれど」
あっさりと謁見の間までいけた上に本人は既に魂が抜けているような状態とか。
美姫 「流石に柳也たちも疑問だらけだったでしょうね」
だろうな。とは言え、これで後は帰還するだけとはいかないのが辛い所だがな。
美姫 「寧ろ、普通にシエスタが連れ去られた方が楽だったでしょうね」
スピリット三人との戦闘だもんな。
美姫 「どうなるのか非常に気になるわね」
だな。次回も楽しみにしています。
美姫 「待っていますね〜」
ではでは。



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