ルイズから奇妙な命令を受けた翌朝――――――、

 軍服を着こんだ桜坂柳也は、マルトーコック長らの手伝いをするべく、いつものようにアルヴィーズ食堂へと足を運んでいた。

 破壊の杖事件を経て、秘書見習い、という肩書きを得た柳也だったが、日々の生活に特別大きな変化はなかった。

 たしかに、秘書見習いとしての仕事が増えた分、フリーな時間は以前と比べて格段に減った。

 とはいえ、もともと魔法学院では暇を持て余していた柳也だ。少しばかり仕事が増えた程度では、日々の習慣にあまり影響はなかった。彼はいまでも、朝と晩の余暇を食堂の手伝いに費やしていた。

 厨房に顔を出すと、早速、髭面のマルトーコック長が指示を口にした。

「今日は仕込みの方を頼むぜ、“我らが拳”」

 いつのものように柳也を“我らが拳”と呼ぶマルトーコック長は、今朝はコックの人数が一人足りないことを付け加えた。どうやら若いコックの一人が風邪をこじらせてしまったらしく、ために普段はやらせない材料の下拵えを頼んできた。飲食店でのアルバイト経験がある柳也は、二つ返事で承諾した。

 頼まれたのはジャガイモの皮剥きだった。与えられたノルマは壺四つ分。ボウルの代用品として用いられている素焼きの壺に、ぎっしりジャガイモが詰められている。壺は、一つ一つがかなりの大きさだった。生徒達の分だけでなく、学園で働く教員や使用人達の分も含まれているようだ。

 ――魔法学院で暮らす全員の腹を満たすとなると、さすがにすごい量だな!

 軍服の上にエプロンという奇妙ないでたちの柳也は、作業のしやすい位置に壺を移動させようと持ち上げて、その重さに驚いた。壺一つで七、八キロはある。

 壺を脇に置くと、中からジャガイモを一つ手に取って、早速皮剥きを始めた。ピーラーはまだ発明されていないか、一般に普及していないらしく、すべて包丁で剥かねばならない。速さと正確さの両方が求められる作業だ。おしゃべりは効率を下げるだけと、普段は口数の多い柳也も、このときばかりは黙って作業に没頭した。一〇個、二〇個と、剥き身のジャガイモがどんどん生産されていく。

 二十分が経つ頃には作業にもすっかり慣れ、一つ目の壺が空になった。

 自身、皮剥きペースの上昇を感じていた柳也は、今度はもっと早く空にしてみせる、と意気込んだ。

 二つ目の壺の中身に取りかかろうとする。

 メイドのシエスタに声をかけられたのは、そんなときのことだった。

「リュウヤさんに、お客さんですよ」

「客?」

 作業の手を一旦止めて、シエスタの示した入口の方へと視線をやる。

 たぶん秘書見習いの仕事関連でマチルダだろうな、という柳也の予想は、はずれた。

「ミス・ロッタ?」

 厨房の出入口には、意外なことにケティが立っていた。

 目が合うと、気品を感じさせる所作で会釈してくる。

 柳也も会釈で応えながら、珍しいこともあるものだ、と内心首をかしげた。

 破壊の杖事件やアルビオンでの一件ではともに死地へと赴いた自分達だが、個人的な付き合いはほとんどない。少なくとも、才人やギーシュを間に挟まないで話したことは一度もないはずだ。そんな彼女が、さほど親しい間柄にない自分に、いったい何の用だろうか。

「リュウヤさんに相談があるらしいですよ」

 先に用件を伺っていたらしいシエスタが言った。

 それから彼女は、ジャガイモの詰まった壺を示して続けた。

「皮剥きはわたしがやっておきますから」

 貴族に仕事の手際を見られるというのは、監視されているようでなんとも居心地が悪い。だから、早くあの貴族の娘を連れて出ていってくれ。

 言外の意図を察し、柳也は静かに頷いた。

 見ると、シエスタだけでなく、厨房にいる全員が自分に注目し、自分の反応にほっと安堵していた。貴族嫌いのマルトーコック長などは、貴族が自分達の聖域に入ってくるんじゃない、とばかりに、ケティを睨んでいる。

 ――こいつは、早く連れ出してやらんと毒だな。

 ケティにとっても。自分にとっても。いまの厨房の空気は、身体に毒だ。

 柳也は包丁をシエスタに預け、ケティのもとへと向かった。

 「場所を変えましょう」という彼の提案に、大振りの瞳が愛らしい少女は頷いた。どうやら彼女も、自分に向けられた敵意に辟易としていたらしい。「出来れば二人きりになれる場所がいいです」という彼女の言は、自分としてもありがたかった。

 厨房からの去り際、柳也は自分に代わってジャガイモの皮剥きに勤しむシエスタを振り返った。

 少女の手の中で、ジャガイモが次々剥き身になっていく。彼女の方が慣れているとはいえ、自分よりもはるかに速いペースが、少し悔しかった。

 

 

 

永遠のアセリアAnother × ゼロの使い魔クロスオーバー

ゼロの魔法使いとその使い魔と、ついでに現われた守護の双刃

EPISODE:53「俺も、せめて自分の出来ることを……」

 

 

 

 余人を介すことなく話したい、というケティだったが、魔法学院に来て日の浅い柳也だ。

 二人きりになれる場所など早々思いつくはずもなく、結局、いつも鍛錬に使っているヴェストリ広場へと足を運んだ。普段から人気のない広場は、早朝のこの時間帯ともなると誰もいない。密談をするには、最適な場所だった。

 柳也はケティをいつも稽古場として利用している一画へと連れていった。

 広場の片隅では、簡素な造りのテントが一つ置かれていた。オールド・オスマンの許可を得た上で柳也が設置したもので、中には稽古に必要な道具などがしまわれていた。テントの中から椅子を一つ取り出し、着席を促す。

「本当はコーヒーの一杯でも出して差し上げたいところなんですが、生憎、そこまでは常備してませんで」

「いえ、お気遣いなく……あの、コーヒーって?」

「あれ、ご存知ありません? コーヒーの木から採れる種子を焙煎して挽いた粉から、紅茶みたいに淹れる飲み物なんですが……ハルケギニアにはないんですか?」

「わたしは聞いたことがありませんね」

「そうでしたか。いや、俺や才人君の故郷の世界では、紅茶と並んでわりとポピュラーな飲み物なんですがね。こっちに紅茶があったから、てっきり、コーヒーもあるのかと」

 そうか。ハルケギニアにいる限り、もうあの味を楽しむことは出来ないのか。

 残念そうに呟いて、柳也もまたテントから取り出した椅子に腰を下ろした。

 取り出した椅子は廃材から彼が手作りした物だ。六尺豊かな大男の体重を預けられて、ギィィ、と不気味に軋んだ。

「……それで、私に何か相談があるそうですが?」

 言いながら、その実、柳也はケティの相談事の内容についてすでに予想がついていた。

 相談相手に才人やギーシュではなくさして親しい間柄にない自分を選んだということは、つまり、そういうことなのだろう。餅は餅屋、というやつだ。

 柳也の問いに対して、ケティは小さく頷くと、

「あのウィリアムという神剣士の言っていたことについてです」

と、答えた。あらかじめ、柳也が予想していた内容だった。

 アルビオン大陸で柳也達の前に現れた、ウィリアム・ターナーを名乗る謎の神剣士。彼は、その場にいたケティの三人を指して、「神剣士」と呼んだ。永遠神剣を一振たりとも所有していない彼女を、柳也や才人と同じ神剣士とカテゴライズした。

 ウィリアム自身は特に感慨もなく、口から言葉が自然と出てきた様子だったが、彼の発言は柳也達に大きな衝撃をもたらした。

 困惑する自分達に向けて、ウィリアムはさらに“オリハルコンネーム”、“思い出していない”などの、理解は出来ないが無視することも出来ない言葉を連発した。

 自分でさえ、あの男の発言には注目させられた。注目せざるをえなかった。

 言葉の刃を突きつけられた当事者たるケティの動揺は、尋常ではなかろう。

 自分のあずかり知らぬところで、自分を中心とした、“何か”が起こっている。得体の知れない恐怖。実体のない不快感。柳也を見つめるケティの表情には、不安の色が滲んでいた。

 とはいえ――――――、

 ――いまの俺に、彼女の苦しみを取り除いてやる手段や知識はない。

 オリハルコンネーム。ウィリアム・ターナーが口にした、その言葉。文脈から考えるに、このオリハルコンネームとやらが、あの男がケティを神剣士と呼んだ所以だろう。だが、そもそも自分は、オリハルコンネームが何を意味する言葉なのかを知らない。彼女の憂いを晴らせるであろう知識を、自分は持っていない。

 そもそも永遠神剣というアーティファクトについては、あまりに謎が多すぎた。

 この宇宙に数多存在する、神剣の名を与えられた決戦兵器。いったい、いつ、どこで、どのようにして誕生したのか。神剣と、武器の名で呼ばれているが、誰かが作った物なのか。なぜ、かくも様々な宇宙、様々な世界に存在しているのか。

 実際に神剣と契約を交わしている柳也でさえ、相棒達については知らないことの方が多かった。自分が永遠神剣について知っていることといえば、力と意思を持ち、マナを求める、というぐらいだ。そしてそれらの知は、ケティもまた既知の事柄にすぎない。

「……申し訳ありません。俺には、あのウィリアム・ターナーなる神剣士が、なぜあなたを神剣士と呼んだのか、まったく理由が思い当りません」

「そう、ですか……」

 悔しげに告げた柳也の言葉に、ケティは落胆した表情で俯いた。

 ただでさえ華奢な彼女が力なく肩を落とした姿を見て、柳也の胸は締めつけられた。力になれない自身の不甲斐なさが歯がゆくて、腹立たしかった。

「……オリハルコンネームという言葉についても?」

「残念ですが……。そもそも、永遠神剣については、神剣士の俺でも知らないことの方が多いんです。オリハルコンネームが何を意味する言葉なのか、見当もつきません」

「ミスタ・リュウヤでさえそうということは……」

「ええ。自惚れるつもりはありませんが、才人君や、マチルダに訊いても無駄でしょう。過去に神剣士と交流のあった同志オスマンも、神剣そのものについて多くは知らなかったと思います」

「……結局、この件に関していちばん有力な情報を持っているのは、あのウィリアム・ターナーだけ、ということですか」

 溜め息混じりに呟いたケティに、柳也は小さく頷いた。

「そういうことになります。お力になれず、申し訳ない」

「いえ……」

 自らの非力を苦々しく思う柳也の謝罪に、しかしケティは微笑み言った。どこか儚い印象を抱かせる笑みだ。気遣われている、と感じた柳也は思わず歯噛みした。彼女の気遣いを嬉しく思うと同時に、自分の不甲斐なさを恥じた。

 せめて、ケティのために何か出来ることはないかと考え、彼は口を開いた。

「お力にはなれませんが、話を聞くぐらいのことは俺でも出来ます。辛いとき、苦しいとき、単に愚痴を吐き出したいときなど……聞き手役が欲しいときは、ぜひ、声をおかけください」

 辛いときには、自分が聞き手役になる。

 決してあなたを、一人にはさせない。

 あなたが得体の知れない恐怖に怯え、不安を感じ、苦しんでいるときには、自分がそばにいるから。

 あなたの苦しみを、自分も共有するから。

 幼い頃に両親を亡くし、一時期は人間不信に陥っていたこの男は、何よりも孤独を恐れる。

 孤独であることの恐さを、よく知っている。

 それゆえに、柳也は、自分の大切な人達が独りぼっちになることを嫌う。

 自分の知識では、ケティの悩みを取り除くことは出来ない。ならばせめて、彼女に孤独を味わせないようにしよう、と思った。この深い懊悩を、一人で抱え込まないようにさせよう、と考えた。それが、孤独の恐ろしさを知っている自分に出来ること、自分のするべきことと確信した。

「……ありがとうございます、ミスタ・リュウヤ」

 返答までに、やや沈黙を挟んだ。

 自分の言葉を、どう受け取ったか。ケティはまた微笑み、言った。清楚で可憐な、花のような笑顔だった。

 

 

 

 

 同じ頃、マチルダの部屋で朝を迎えた才人は、ルイズの部屋へと戻るべく、四系統の名を冠する各塔と中央本塔とを結ぶ学院の渡り廊下を歩いていた。

 ルイズ達の部屋がある学生寮と、教職員用の寮とは離れて建っている。才人が朝の仕事をするべくご主人様の部屋へ戻るには、長い廊下を歩き、広場を突っ切っていく必要があった。

 床を踏む少年の足取りは軽かった。

 足取りだけでなく、心も軽い。心身ともに快調だった。理由は自分でも分かっている。昨晩、マチルダの部屋に泊まったことが原因だろう。

 ――昨日は久しぶりにぐっすり眠れたな。

 寝具が異なるだけで朝の気分とはこうも違うものなのか。

 才人は昨夜身を預けたソファの寝心地を思い出してひっそりと呟いた。

 昨晩、ルイズの命令で柳也と寝所を交換した才人は、寝具としてマチルダの部屋のソファと一枚の毛布を宛がわれた。ハルケギニアに召喚されてからというもの、寝床に関してはルイズから家畜のような扱いを受けてきた才人だ。久しぶりの人間らしい扱いに、才人は感動から思わず泣いた。彼はマチルダに感謝しながらソファへと身を預け、毛布をかぶり、至福の時をすごした。

 ソファの上はまさしく天国のようだった。勿論、紡績技術の未熟なハルケギニアだから、ソファの寝心地は、地球で暮らしていた頃愛用していたベッドと比べるとかなり劣っていた。しかし、硬い床に藁束を敷きつめただけのいつもの寝床に比べれば、雲泥の差だった。なにより、マチルダの寄せる優しさが、心に染み入った。

 才人は本当に久しぶりに、身も心もぽかぽかと温まる夜をすごした。

 目覚めはすこぶる爽快で、身体の調子もすこぶる快調だった。

【寝具のおかげだけじゃねぇよ。相棒の基礎体力自体も上がってんのさ】

 第六位の〈悪食〉こと永遠神剣のデルフリンガーが、背中に背負った鞘の中で震えた。

 武器屋の店主からは、煩ければ納刀して黙らせてください、とオマケして貰った鞘だが、相棒が神剣だと判明してからはまるで役に立っていなかった。鞘に納めていても、デルフの声は才人の頭の中によく響いた。

【神剣士になったことで、相棒の身体能力は以前と比べて格段に向上してるんだ。身体能力には、回復力も含まれてるからな。前日に神剣士と戦うとか、激しい運動さえしなけりゃ……】

 ――ちょっとの睡眠でも、体力全快ってわけか。

【そういうことだ】

 プロのスポーツ選手と同じようなものか、と才人は納得した。

 まだ地球で暮らしていた頃、テレビの中でインタビューに受け答えするスポーツ選手達は、直前まであれだけ激しい運動をし、息を乱していたにも拘らず、インタビューを受ける頃にはすっかり回復していた。体力が向上すれば、回復も早い。

 ――……でも、不思議だよな。

【あん? 何がよ?】

 才人は左手の甲に刻まれたルーン文字を見た。

 ――俺はガンダールヴの特殊能力があるから永遠神剣を使えるんだよな?

【ああ、そうだな。前のガンダールヴも、そうやって俺を振るってた】

 ――でも、ガンダールヴの能力は、武器を手にしたときにしか発動しない。

【ああ、そうだな】

 ――おかしいじゃねぇか。俺はいま、お前を握っていない。ってことは、ガンダールヴの能力は発動していない、ってことだ。能力が発動してないんだから、いまの俺は永遠神剣は扱えない。本来なら、神剣の声を聴くことも、肉体強化の恩恵を受けることもないはずだ。でも、俺はいまこうやって鞘の中のお前と会話出来ているし、体力も強化されている。

【相棒、そりゃあ、不思議なことでもなんでもねぇよ】

 才人の疑問に、デルフはあっさりとした口調で答えた。

【お前さんと、あの貴族の娘ッ子と同じさ】

 ――俺とルイズ?

【ああ。主人と使い魔の間には、特別な絆が結ばれる。永遠神剣もそれと同じでな、一度契約を結んだ相手とは、目には見えないが特別な絆が結ばれるんだ。その絆は、契約が無効にならない限り、決して切れることはない。そして契約が結ばれている間は、たとえ神剣を手にしていなくても、ある程度はその力を使えるようになるんだ。……“ある程度”がどれぐらいかは、神剣の性格や位階によって決まる】

 ――俺の場合は、肉体の強化ってわけか。

【ああ。勿論、俺を手に持っているときに比べれば、強化の度合は格段に劣るけどな】

 それでも、普通に日常生活を送る分には十分すぎる強化だ、とデルフは付け加えた。曰く、いまの自分ならば朝から晩まで農作業に従事してヘトヘトになっても、一晩眠ればすっかり回復するという。

 便利な体になったものだ、と才人は複雑な溜め息をついた。

 自分の身に起きた異常を、親が知ったらどう思うだろうか。

 ――神剣士のこととか、使い魔のこととか……たぶん、泣いてくれるんだろうなぁ。あぁ、久しぶりに母さんの味噌汁飲みてー。

 叶わぬことと知りつつも、願望が口をついて出るのを抑えられなかった。

 一度母の名を呼ぶと、普段はあまり思い出さないようにしている望郷の念が、大きな津波となって自分の心を掻き乱す。家族とのつながりが絶たれてしまったことへの悲しさ、寂しさ。家族に迷惑をかけていることへの辛さ。早く元の世界へ戻らねばという焦り。自分をこんな状況へ放り込んだルイズへの不満……。

 しんみりと気分が降下するのを自覚して、才人は、いかんいかん、とかぶりを振った。

 この問題について考え出すと、最終的にどうしてもルイズへの恨み言となってしまう。彼女を恨んだところで、現状が変わるわけではないのに。

【お、あれって褌じゃねぇか】

 ヴェストリ広場と接している廊下を歩いているときだった。

 デルフの言葉に、才人は思考を中断して目線をそちらにやった。

 見ると、自分達の稽古具を収めているテントの前で、軍服姿の柳也が誰かと話していた。相手は魔法学院の制服に身を包んだ女生徒だ。神剣士の卓越した視力が、難しい表情で語らう男女の顔を捉える。小鹿のような瞳が愛らしい、あの顔は――――――、

「……ケティ?」

 テントの前で柳也と向き合っているのは友人のケティだった。

 才人は思わず足を止め、二人の様子を窺った。

 珍しい組み合わせだな、と思う。破壊の杖事件やアルビオンでの一件では、ともに命を預け合った自分達だが、全員が全員、普段から親密な付き合いをしているわけではない。柳也とケティの二人については、むしろ親交は薄いはずだった。いったい、何を話しているのだろうか。

 自分との距離はおよそ一五、六メートル。二人とも、自分の存在に気づいていない様子だった。ともにいつになく真剣な表情を浮かべている。柳也はともかく、ケティのあんな顔を見るのは初めてではあるまいか。

【相棒、耳の機能、強化しとくか?】

 デルフリンガーが訊ねた。第六位の〈悪食〉は感覚器官の強化があまり得意でないらしく、これだけの距離を隔ててしまうと、会話の内容は一切聞き取ることが出来なかった。

 デルフの提案に、才人は一瞬、躊躇いの表情を浮かべた。

 余人であればともかく、信頼する二人に対して盗み聞きをはたらくなどとんでもない、と気が咎めた。

 しかし、才人が躊躇した時間は僅かだった。もともと好奇心旺盛な性格の彼は、背中に背負った相棒の柄に左手を添えると、「頼む」と、応じた。柄頭を握る左手のルーンが淡い光を発し、神剣の力が解放される。

 耳に意識を集中すると、これまでは聴こえなかった音が、次々耳膜を叩くようになった。

 魔法学院の渡り廊下は二階建てで、才人はいま一階部分を歩いている。渡り廊下に壁はなく、天井と二階部分は柱で支える構造だ。才人はそのうちの一本の陰に身を隠すと、聞こえてくる二人の会話に耳を傾けた。

 

 

 

 

 それから、少しばかりの時間が過ぎた。

 相談事を終えたケティがその場を去り、柳也もまたアルヴィーズ食堂へと足を向けたのを認めて、才人はようやく神剣の柄から手を離した。左手のルーンから輝きが消え、広がっていた感覚野が急速に萎んでいくのを自覚する。そよ風が草の葉を揺らすかすかな音。つい先ほどまでは聴こえていた音が、遠ざかっていくように感じた。才人の世界に、静寂が訪れた。

 しじまを破ったのは、自らの吐息だった。

 石柱に背中を預けたままの才人の口から、重苦しい溜め息がこぼれた。

 深い懊悩を孕んだ嘆息。二人の話を盗み聞きしてしまったことへの負い目と、ケティの悩みに気づけなかった自分への悔しさが滲んでいた。

 ケティがそんな悩みを抱えていたなんて、ちっとも知らなかった。

 彼女がそんな恐怖を抱えて毎日を過ごしていたなんて、ちっとも気づかなかった。

 友人が、得体の知れない恐怖に日々苛まれ、苦しんでいることに、気づいてやれなかった。

 気づくことが出来なかった自分に、腹が立った。

 友達の力になれないことが、悔しかった。

 ――柳也さんの言う通りだ。俺じゃあ、ケティの悩みを解決できない。

 才人はガンダールヴのルーンが刻まれた左手の甲を掲げ見た。

 この世界に召喚されたあの日から、自分の命を何度も救ってくれた、伝説の使い魔の証。自分に戦う術を、大切な人達を守る力をくれたルーン。しかしその力も、友達の苦しみを取り除くことは出来ない。ケティが抱えている苦悩の前では、役に立たない。

【まぁ、この種の悩み事の前に、ガンダールヴの力は無力だわな】

 頭の中に、デルフの声が響いた。

 才人は悔しげに頷くと、つい先ほど耳朶を叩いたばかりの、師匠の言葉を思い出した。

 自分ではケティの悩みを解決することは出来ないと言った柳也は、続けて彼女に、辛いときには愚痴くらい聞く、と告げた。彼なりに、ケティのために自分の出来ることを探した末の発言だろう。

 強い人だと思う。彼女の悩みを解決出来ないからといってそこで立ち止まらず、せめて自分に出来ることを、という考え方は、なかなか出来るものではない。

 ――俺も、せめて自分の出来ることを……。

 自分にはいったい何が出来るだろうか。

 ケティのために、自分は何をしてやれるだろうか。

 早朝のこの時間帯、ヴェストリ広場に面したこの廊下を行き来する人影はない。

 才人の呟きは、誰の耳にも届かず、空へと吸い込まれた。

 

 

 

 

 “師管”という用語がある。

 師団管区という言葉の略称で、その意味を述べるには、まず師団という用語の説明せねばなるまい。

 師団とは、軍隊における部隊の単位・規模を表す用語の一つで、今日では一般的に、

 一、一歩兵、砲兵、工兵といった各種兵科の部隊を組み合わせて構成される諸兵科連合部隊である。

 二、独立した作戦行動を可能とする自前の補給部隊を持っている。

 三、最少の戦略単位であり、最大の戦術単位である。

などと、定義されている。英語での表記はdivisionで、元はフランス語のdividereを語源とした。

 初めてdividereという言葉が初めて登場したのは一八世紀中頃のことだ。当然、発明したのはフランス人だった。一七五九年、フランスの将帥ビクトル・ブリゴリ侯爵は、歩兵と砲兵からなる五〇〇〇人規模の恒久的な編制を創設、これが後に、世界中の軍隊で採用されることになるdivisionの原型となった。その後一九世紀になって、あの巨大なるナポレオンが一一個のdividereから成る四個軍団をもってライン軍を編成。それを見たオーストリアやプロイセンといった欧州各国は、競合相手であり素晴らしきお手本でもあった彼に倣い、次々に軍団・師団編制を採用した。かくして、dividereは世界中の軍隊に広まり、英語のdivisionが発明された。

 わが国にdividereあるいはdivisionという言葉が導入されたのは、明治維新のときのことだ。

 維新戦争の直後、新たに誕生した明治新政府は、革命政権でありながら自前の軍隊を持っていなかった。戊申の役では、西南雄藩を中心とする討幕派諸藩の連合軍が“官軍”を名乗って戦ったにすぎず、彼らは戦争が終わると間もなく、自分達の故郷へと引き上げてしまった。西欧に比肩しうる近代国家の樹立を目指す明治新政府にとって、各藩からの献兵に頼らない、自前の軍隊を持つことは急務だった。

 維新政府はまず明治四年二月に御親兵(翌年に近衛兵と改称)を編成した。四月には陸奥・石巻と豊前・小倉にそれぞれ東山道鎮台と西海道鎮台を設置。これらの兵力を背景に、同年七月に廃藩置県を断行した。政策の結果、新政府はそれまで各藩主のもとにあった統治権と軍権の一元化に成功し。翌月には石巻と小倉にあった鎮台をそれぞれ仙台、熊本に移した。また同時に東京、大阪にも鎮台を置き、明治六年の一月には名古屋と広島にも置かれ、六鎮台となった。この近衛兵と六鎮台が、国軍の母体となった。

 鎮台とは、読んで字のごとく、地方を鎮めることを目的に置かれた部隊だった。当時の日本は混乱期にあり、新政府の政策に不満を持つ農民や旧武士階級らがいつ暴発してもおかしくない状況だった。実際、明治七年二月には佐賀の乱が、明治九年十月には熊本で神風連の乱、福岡で秋月の乱、山口で萩の乱が相次ぎ、ついに明治十年二月には西南戦争が勃発した。新政府軍が最初に遭遇した敵は、これら地方の反乱だった。

 西南戦争が終結すると、武力による政府転覆はもはや不可能という認識が広がった。鎮台はその役目を終え、いまや西欧の軍隊で主流となっているdivisionへの進化を求められた。その際、訳語として選ばれたのが、古代中国の律令制にある“師”という言葉だった。かくして明治二一年、近衛兵と六鎮台は近衛師団、第一〜六までの歩兵師団と改編された。日本に、西欧型の軍隊が誕生した瞬間だった。

 先にも述べたが、師団は諸兵科の連合部隊である。

 連合部隊である以上、各部隊を統括する司令部の存在は必須であり、一般にこれは師団本部と呼ばれる。

 この師団本部は、平時にはそれぞれ定められた場所に置かれ、さらにその周囲には、師団配下の各部隊が駐屯した。この定められた区域こそ師団管区で、これは勿論、平時において師団のような大きな規模の部隊の管理を容易にするために作られた用語だった。

 

 惑星ベゴヴェを拠点とする奇なる蛇神ミカゲ麾下の八個軍もまた、師団制によって成り立っている組織だった。

 もっともこれは、地球の師団制を採用したわけではなく、軍隊としての機能性を追求した結果が、たまたま地球の師団制に似た組織構造になってしまった、というのが正しい。

 そもそもミカゲが自前の軍事組織を持とうと思い立ったのは何十億年も昔のことであり、当時の地球はまだ灼熱の惑星だった。原始的な単細胞生物さえ発生していない時代のことで、当然、師団制なんて考え方が存在するはずもなかった。

 〈憤怒〉軍、〈傲慢〉軍といった名前を与えられた各軍はそれぞれ五個軍団からなり、一個軍団は四個師団によって編成されていた。すなわち、一六〇個の師団がミカゲの手持ちの戦力となる。師団を構成するのは全員神剣士で、一個師団の定数は約一万五〇〇〇人だった。

 一六〇もの師団数は、それと同じ数の師管の存在を意味している。一六〇の師団管区は、惑星ベゴヴェの五大陸に分散配置されていた。

 ベゴヴェには大陸と呼べる規模の大地が五つあり、それらは液化した硫黄の海によって分かたれていた。そのうちの一つ、一六〇の師団を束ねる立場にあるミカゲが、自らの居城を構えるダイヤ型大陸のはずれに、〈憤怒〉軍第九師団の師団管区は位置していた。

 溶けた硫黄の波しぶきが寄せては返す沿岸部。林立する白亜の建物は勿論、第九師団に所属する一万五〇〇〇人が駐屯する兵営と、彼らをサポートするための人員が暮らす街並みだ。街は沿岸部に面した兵営を中心に扇状に広がっており、兵営を含むすべての建物は、やはり白い石材によって築かれていた。

 異形の神剣士達によって構成された軍隊とはいえ、兵営に必要とされる設備は地球の陸軍とあまり変わらない。中核をなすのは、兵営の建物の大半を占める兵舎と、部隊本部が置かれている建物だ。

 第九師団の場合、師団本部は兵営敷地内のほぼ中央に居を構えていた。

 古代ギリシア時代の神殿建築を連想させるデザインの建物に置かれており、平時においてはこの場所が、文字通り一万五〇〇〇人を擁する師団の中心となる。建物の大きさは小さな山ほどもあり、特に正面出入口の扉は、大型船舶が容易に通過出来そうなぐらい巨大だった。これは、身の丈が二〇メートルになんなんとする巨人族出身の現師団長の体格に合わせた結果で、神殿は十年ほど前に新築されたものだった。

 その巨人族出身の師団長、〈戦陣〉のエイジャックは、神殿建築の最奥部に設けられた師団長室で、ひとり来客を待っていた。

 第九師団に所属するとある下級将校の一人で、一個小隊を率いる立場にある人物だ。つい先日まで、ある特別な任務に従事していた彼がその任を終え、第九師団の兵営に帰還したのは一昨日の晩のこと。任務の内容はいわゆる特殊作戦にあたり、極めて秘匿性の高いものだった。そのため、エイジャックは命令を発した際に、結果報告は中隊長や大隊長を介さず師団長の自分に直接あげるよう併せて告げていた。今日は彼がその報告書を持ってくる予定だった。

 剥き出しの上半身に緋色のトラウザーズといういでたちのエイジャックは、書類仕事を片付けながら待ち人がやって来るのを待っていた。上半身が裸なのは、彼の体格に合う服がないからではなく、もともと彼には衣服を身に纏う習慣がないためだ。エイジャックの生まれた惑星には服飾の文化がなく、いま履いているトラウザーズとて、他の惑星出身者達から、「裸はみっともない」、「見苦しい」などと指摘され、仕方なく身に着けているにすぎなかった。

 事務机には、巨大なタイプライターが一台置かれていた。

 夜間でさえ気温が一二〇〇度近い惑星ベゴヴェの環境下でも、問題なく動作するよう作られた特注品だ。使用する紙やインクも特別製で、エイジャックがタイプする度、重い駆動音が室内に響き、用紙には奇怪な象形文字が刻まれていった。

 エイジャックが作成しているのは、次の作戦に関する命令書だった。

 ベゴヴェの惑星時間で二ヶ月ほど前(地球時間で約半年)、彼が統率する第九師団と同じく、ミカゲの“憤怒”軍に所属する第四師団がとある惑星に攻撃を仕掛けた。目的は惑星に眠る第三位相当の永遠神剣の回収で、星の民はそれを宗教上の御神体として崇めていた。強引に神剣を奪い取ろうとした第四師団は、当然激しい抵抗に遭った。標的となった惑星の総人口は七〇〇〇万前後だったが、国民皆兵とばかりに挑んでくる敵軍に、さしもの神剣士一万五〇〇〇人も苦戦を余儀なくされた。そこで同じ“憤怒”軍の各師団に援軍要請がかかり、第九師団からは二個連隊と、兵站などの後方支援に関わる一〇〇〇人を派遣することになった。ミカゲの軍隊の場合、一個連隊の定数は二五〇〇人。約六〇〇〇人という兵力で、勿論全員が第十〜四位までの神剣と契約を交わした神剣士だった。エイジャックが現在作成しているのは、彼らが抜けた後の人事に関する命令書だった。

 命令書の草案を片手に室内に重いタイプ音を響かせるエイジャックは、ふと壁にかけられた時計へと視線をやった。地球のアナログ時計とほぼ同じ構造の壁掛け時計だ。クォーツではなく、ルビーの振動を利用する仕組みの品だった。

 ――約束の時間まで、あと一五分か。

 ベゴヴェの自転周期に合わせて数字が配置された円盤を一瞥し、エイジャックはひっそりと呟いた。

 件の下級将校がこの部屋にやって来る予定の時間まであと一五分。そろそろ、いまやっている仕事を切り上げねば。

 エイジャックは先ほど副官が資料とともに持ってきたカップに手を伸ばした。中に入っているのはコーヒーだ。エイジャックの母星では茶よりもコーヒーの方が一般的で、彼も愛飲者の一人だった。

 巨人族のエイジャックが飲むだけあって、コーヒーカップはかなりの大きさだった。ドラム缶に無理矢理グリップを取り付けたような印象で、深みのあるキャラメル色の液体を二〇〇リットル近くキープしている。

 カップの中で、コーヒーは静かに波打っていた。漆黒の水面から立ち昇る奥深い香りが、エイジャックの鼻腔をくすぐる。コロビアンという、コーヒーの生産が特に盛んな惑星から取り寄せた、上等な豆を使っていた。カップには神剣魔法の特別な加工を施してあるため、摂氏一〇〇〇度を超える大気の中でも、蒸発の兆候はまったく見られない。エイジャックは存分にコーヒーの香りを楽しんだ。

 カップを唇に寄せたエイジャックは、しかし、そこで顔をしかめた。

 強烈な違和感。

 飲み口に口づけることなくカップを離し、黒い水面を覗き込む。

 一見した限り、コーヒーに異常は見当たらない。新鮮な豆を使っているらしく、香りも上等だ。しかし、エイジャックの神剣士として感覚は、手の中のカップから、普通のコーヒーにはない“異常”の気配を感じ取っていた。馴染みのある感覚だった。

「……悪戯が過ぎるぞ、ゲゲル」

 エイジャックの唇から、冷たい呟きが漏れた。威圧感たっぷりの口調。いったい、誰に向けた言葉なのか。師団長室には、エイジャックの姿しかないが。

 直後、エイジャックの手の中で異変が起こった。

 カップの中のコーヒーが前触れなく泡立ち始め、渦を巻いたかと思うと、やはり突如として、中心部からまるで噴水のように噴出した。カップの中が、たちまち空っぽになる。

 宙へと飛び上がった黒い液体は、なんとそのまま空中に留まり、浮遊を始めた。

 まるでアメーバのように、ぶよぶよ、と蠢いている。

 繰り返し述べるが、ベゴヴェの大気は夜間でさえ気温が摂氏一二〇〇度という超高音の炎と化している。加えて、地球の半分ほどの大きさでありながら、その十数倍もの重力を発していた。

 コーヒーが液体としての性質を留めていたのは、カップに施された神剣魔法の力によるもの。ひとたびカップを離れれば、周囲の熱にやられて瞬時に蒸発・気化してしまうはずだった。ましてや超重力下にも拘らず浮遊を続けるなど、異常というほかない。

 しかしながらエイジャックは、この異常事態を前にしていたって平然としていた。

 彼にとって目の前の“異常”は、普段からよく目にする光景だったからだ。

 エイジャックは眼前に浮かぶ黒い水の塊を睨みつけ、再び口を開いた。

「いつから来ていた?」

「先ほど、副官殿がコーヒーの差し入れをした際に紛れ込みました」

 返答は、空気を震わすことなく、エイジャックの脳髄を直接揺さぶった。

 聞き慣れた男の声。

 待ち人の声だった。

 エイジャックの目の前で、水の塊がいっそう激しく蠢いた。

 黒い水は、見えない手によって粘土がこねられるかのように、徐々に形を変えていった。まるで人間の四肢を形作るかのように変形し、胴体もまた、それに準ずる形で固定化される。頭部に相当する部分は、動物のバクを連想させる形状に形成されていった。水の身体を持つヒトガタ。まさしく、そんな形容がしっくりくる異形の怪物の姿が完成した。

 水のヒトガタは巨大タイプライターが鎮座する机へと降り立った。

 周りとの対比で、まるで人形が机の上に立っているかのような光景だ。しかし実際には、水のヒトガタは六尺豊かな堂々たる体躯を形作っていた。

 事務机に降りた水のヒトガタは、エイジャックを見上げると、その場に跪き、深々と頭を垂れた。長い鼻状の突起物が、だらり、と揺れる。

「まずはつまらぬ茶目っ気を出したことをお詫びいたします。その上で、改めまして第三二連隊所属、〈悲嘆〉のゲゲル、召喚に応じ参上いたしました」

「ああ、ご苦労。楽にしていいぞ」

 エイジャックの言葉に応じ、水のヒトガタは顔を上げた。

 〈悲嘆〉のゲゲル。第九師団に所属する四つの連隊の一つ……第三二連隊で、一個小隊を指揮する立場にある人物だ。無論、人間ではなく、地球の出身者でもなかった。

 ゲゲルは肉体の九九・九パーセント以上が水分で出来たアメーバ生命体だった。ゲゲルの故郷の惑星は、地球と同じような環境の星で、まだ生命が誕生したばかりの段階にあった。単細胞生物が水中にのみ存在する世界で、ゲゲルはそこでアメーバとして誕生した。

 ゲゲルは突然変異種のアメーバだった。

 本来、アメーバやミドリムシのような単細胞生物が神剣士になることは出来ない。永遠神剣と契約を交わすだけの知性が、単細胞生物にはないからだ。しかし、ゲゲルは違った。彼は単細胞生物でありながら、知性を持って生まれた。勿論、脳を持たぬ身ゆえに、ゲゲルの得た知性は決して高度なものではなかった。だが、細胞の核たる部分に、たしかに知の萌芽を抱えていたのである。

 動物の行動には、走性、反射、本能、学習、知能の五段階がある。

 ゲゲルはこのうち、初歩的な学習を会得していた。梅干を見ると唾液が出るといった条件反射や、試行錯誤といった行動が可能となる段階だ。本来ならば大脳新皮質がなければ獲得できない生理作用だが、ゲゲルは突然変異により、それを可能としていた。

 学習の能力を得て生まれたゲゲルは、同族の他のアメーバ達には見られない行動を取った。

 アメーバを始めとする単細胞生物は、細胞分裂によって子孫を増やす。

 しかしゲゲルは、試行錯誤の中で、まったくな別な方法による種の保存を思いついた。すなわち、自らの延命による、種の保存である。

 ゲゲルが考えた延命法は、身体を大きくすることだった。なるほど、身体が大きくなればエネルギーの消耗も増えるが、それ以上に生産量も増える。単純だが、確実な方法だった。

 身体を大きくするには、何をすればよいか。ゲゲルの思いついた方法は、周囲の水を取り込むことだった。突然変異種のゲゲルは細胞核だけでなく、細胞壁もまた特殊で、ゴムのような弾性を持っていた。ゲゲルは水を取り込む度、大きくなっていった。彼はやがて、単細胞生物としては異例の二〇〇キログラムという体重を得るにいたった。

 ゲゲルが海底に突き刺さった永遠神剣を発見したのは、そんなときのことだった。

 神剣の名は第八位の〈悲嘆〉。刺突に特化した西洋剣の意匠を持つ神剣は、ある夜、雷鳴とともに天より降ってきた。おそらく宇宙をさまよっていた永遠神剣が、その日、惑星の引力圏に絡め取られて落ちてきたのだろう。

 単細胞生物にすぎないゲゲルに目に相当する器官はない。しかし、海流の微妙な変化から、岩場に何かが突き刺さっていることを察した彼は、その“何か”に触れてみた。その瞬間、知性ある細胞核に、直接、声が響いた。自分と契約を交わせ、と。

 既知の事柄からいまだ明らかになっていない事柄を筋道立てて予想する行動を、推理という。先述した生物の行動の五段階でいえば、“知能”の段階に属する行動だ。当然、いまだ“学習”の段階に属する行動しか出来ないゲゲルには、不可能な行為だった。神剣が口にした契約を交わした結果、いったい何が起こるのか、ゲゲルは推理することが出来なかった。彼は試行錯誤の一環として、神剣の申し出を受け入れた。そしてこの日、ゲゲルの知性は、また一段レベルを上げた。

 神剣と契約を交わしたゲゲルが得たものは、一段上の知性に留まらなかった。

 〈悲嘆〉の力を得た彼は、自らの肉体の形状を固定化する術を身に付けた。

 通常、アメーバは決まった一つの形を持たない。鞭毛や繊毛などの“足”を持つ他の単細胞生物と違い、アメーバの移動は細胞内の原形質流動によって行われる。その、移動法の特殊性から、アメーバ属の生物は常に不定形なのだ。

 しかし、神剣を手にしたことでゲゲルは、その縛りから解放された。

 ゲゲルは自らの形を様々な姿に変化させた。もともとノーマルなアメーバだった時代から、試行錯誤に没頭していたゲゲルだ。彼は想像力の赴くまま、自らを作り替えていった。あるときは魚類を思わせる流線型の姿に。またあるときは、タコを思わせる姿に。

 まだ海の中に無数の単細胞生物のみが存在する、名もなき惑星。

 その小世界にあって、神剣を手にしたゲゲルは王として君臨した。

 その身はいまだ単細胞生物。しかし、海中を時速一〇〇ノットで移動し、地上を自在に駆ける彼は、まさしく王を名乗るに相応しき存在だった。

 何者も及ばず、また何者にも縛られない。何者にも、従う必要がない。

 自由なる者。

 まさしく、王。

 そんな王が、冠を脱いだのは、彼が神剣を手にして僅か一〇年後のこと。

 きっかけは、〈戦陣〉のエイジャックを名乗る巨人との遭遇。名もなき惑星に落下した永遠神剣を回収するためにやってきた彼との戦いの果てに、敗北したゲゲルは、ミカゲの軍門に下った。その後彼は、エイジャック麾下の第九師団への配属を自ら希望した。

 それから数十年……、単細胞生物としては異常な寿命を持つゲゲルは、着々と力を蓄え、技を磨き、いまや一個小隊の指揮官の地位を得ていた。部下には第五位といった格上の神剣を持つ者も多いが、ゲゲルは彼らと正面からぶつかって、圧倒するだけの実力を身に付けていた。

 戦闘力に優れるゲゲルだが、その本領は諜報活動や、暗殺などの工作任務でいっそう発揮された。

 アメーバならではの身体的特徴が役に立った。ゲゲルは水のある場所ならば、どこにでも侵入することが出来た。

 ある惑星では、水爆の直撃にもと耐えうる豪語するシェルターの中に水道管から侵入し、敵対勢力の幹部を殺害した。

 ある惑星では、警戒厳重な神殿の中に雨粒に紛れて潜入し、回収対象の永遠神剣をかすめ取った。

 ある惑星では、敵対勢力の有力な水源地に入り込み、飲み水に紛れて標的の体内に侵入。身体の内側から、殺してやった。

 今回、エイジャックが件の特殊任務の遂行役にゲゲルを選んだのも、この能力があるゆえだ。ゲゲルの能力は、水の豊富な世界ほど、効力を発揮する。今回、ゲゲルを送り込んだ惑星は、水の惑星と呼ぶに相応しい水量と、その水を扱う人間達が暮らす星だった。派遣先は、太陽系第三惑星、地球。任務の内容は、ある人物に関する調査だった。最高司令官たるミカゲの口から、第九師団の長たる自分に直接発せられた任務だ。件の人物の為人と、所属世界における社会的な地位、家族や交友との関係、そしてなにより、その男を使って、“あの法皇”が何を企んでいるのか。

 件の人物の名は――――――、

「……してゲゲルよ、聞かせてくれ。地球でお前が見聞きしたことを。桜坂柳也という男について、お前が知ったことを」

「はっ……」

 エイジャックの言葉に、ゲゲルは従容と頷いた。

 異世界出身の巨人族と、アメーバ生命体。

 異形の怪物達の密談が、始まった。

 


<あとがき>

 

 どうでもいい話ですが、タハ乱暴はコーヒー党です。もっぱら業務用インスタントですが。

 どうも、読者の皆様、おはこんばんちはっす。タハ乱暴でございます。今回もゼロ魔刃をお読みいただきありがとうございました! 今回の話は、いかがでしたでしょうか?

 今回の話もまた難産でした。原因ははっきりしております。ゲゲルのせいだ。あいつの設定作るのに色々考え、色々調べてたら、すっかり遅くなってしまいました。最初、PSP版「聖なるかな」発売までには終わらせたいな〜、とかほざいていた自分。過去の俺よ、いまの俺を殴ってくれ。

 さて今回の話ですが、前回の<あとがき>でも申し上げた人間関係強化のための布石の要素を持っています。永遠神剣云々の話は、実は蛇足でしかありません(今回はね)。柳也がケティと個人的な繋がりを持ったこと、二人の話を才人が聞いていたことの二点が、メインの話です。この布石が、どう次の手に繋がるのか、ちらっとでもご期待いただければ嬉しく思います。

 次回もお付き合いいただければ幸いです。

 ではでは〜

 

 

 

 

<おまけ そのころのあなざー・えとらんじぇ>

 

エマ「助けてもらったお礼に、シュンお兄ちゃんに料理を作ってあげたいと思います!」

瞬「いらん」

エマ「な、なんでさ!?」

瞬「どうせ失敗するに決まっている。残飯処理をするこちらに身にもなってみろ」

ティファニア(……一応、失敗作でも食べてあげるつもりなんだ)

 二人のやり取りを聞いていたティファニアは、心がほっこりするのを実感した。

 

 

 

 

 <ついでのおまけ>

るーちゃん「……メインヒロインなのに、出番が、ない……」

キュルケ「…………」

タバサ「…………」

 両脇から、ぽむぽむ、と優しく肩を叩かれ、俯く我らがメインヒロインだった。




おまけの切なさが。
美姫 「って、行き成りおまけからの感想って……」
さて、今回は学院ではほのぼの? とした日常に戻ってのお話。
美姫 「あとがきにもあるけれど、今回のこの件が後にどうなっていくのか楽しみよね」
だよな。どんな展開を見せてくれるのか楽しみだ。
で、後半は。
美姫 「どうも柳也について調査したみたいね」
どんな結果かは次回なのか、別の時なのか。
美姫 「どちらにせよ、結論は変態になると思うに一票」
いやいや、それは流石に酷すぎないか。
美姫 「そうかしら」
……だ、断言はできないけれどな。
美姫 「まあ、どうなるにせよ、次回が気になって仕方ないわね」
うんうん。次回も非常に楽しみに待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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