それは彼らが、異界の妖精達と出会うより、少し以前のこと。

 少年達が、まだ何も知らなかったとある初夏ののこと――――――、

 

 

 

 一辺およそ六間の、正方形状の合戦場が同時に六つ作れる、広々とした立派な造りの剣道場だった。

 壁にも床板にもほどよく使い込まれた跡がある一方で、普段の手入れがよいらしく、古びた印象はまったく感じられない。

 換気のために窓や戸は大きく作られているが、広い空間にも拘らず、室内には若々しい汗の匂いが篭もっていた。普段からよほど熱の入った稽古が行われている証左だった。

 私立風芽丘学園は高等部の敷地に設けられた剣道場だ。

 風芽丘学園は県内有数のスポーツ校として知られ、特にここ数年は剣道や護身道といった武道の分野での活躍が著しかった。当然、学校側もこれらの部活には相応の予算を投じ、風芽丘学園剣道部が専有する道場は、他校では見られない広壮な代物となっていた。

 日曜日の朝九時――――――。

 休日で授業が休みにも拘らず、剣道場には男女問わずに多くの部員が集まっていた。

 スポーツ名門校の風芽丘学園では、休日などあってないようなもの。特に剣道部は全国大会の常連だけに、有力な剣士はみな進んで休みの日を稽古にあてていた。

 その日、剣道場の床板を踏んだ生徒の数は、男女合わせてちょうど五十人だった。剣道部全体のおよそ七割ほどの人数で、休日だということを踏まえると、出席率はなかなか高い。

 しかし、剣道場はこの四半刻ほど、竹刀を打ち合う撃剣の歌声を発していなかった。朝の七時に稽古を始めてからおよそ一刻、休憩にはまだ早い頃合だ。

 部員達はみな、道場内に設けられた試合場の一つを取り囲んでいた。

 見取り稽古。

 他者の稽古や演武を見学することで、その一挙一動を我が身の動きと照らし合わせ、見本とさせてもらう稽古だ。とりわけ上級者同士の立会いに接するときは、剣の持ち方や足運び、視線の置き方に技の冴え、試合運びの妙と、見どころは満載となる。

 稀にしか見られない強者同士の戦いに、部員達は等しく真剣な眼差しを送った。

 試合場の中央では、ともに六尺豊かな大男同士が静かに、しかし凛然とした気迫をぶつけ合い対峙していた。

 現代剣道の規定に従って、面、胴、篭手、垂の四種からなる防具を身に纏い、両の手で竹刀を執っている。立会い稽古。正眼の構えは双方ともに威風堂々としており、それでいて無駄な力みのない、自然な姿勢だった。地力と技術。その二つが高い水準で身についていなければ出来ない所作だ。部員達の、そして審判役の教師達の口からは、感嘆の溜め息がこぼれた。

「二人とも、凄いわね……」

 思わず独り言を漏らしたのは、今回の試合で主審を務める女子剣道部の顧問だった。

 剣道の正式な試合では三人の審判員がつく。此度の練習試合では、わけあって男子剣道部の顧問が主審を務めるわけにはいかず、彼女が駆り出されたのだった。

 女ながらに一七五センチという長身の持ち主たる彼女の視線は、目の前の二人に釘付けとなっていた。

 ともに自分より二回り近くも年下の若武者だ。しかし、その力量はすでに自分など到底及ばぬ領域に達している。構えを見ただけでも、そのことがよく理解出来た。技だけでなく、剣気までもが熟練の剣士と変わらぬ水準に到達している。

 ――これは物凄い試合になるわね……。

 今度は胸の内で呟いて、彼女は副審の二人の顔を交互に見た。男子剣道部の顧問と、今日のこの試合のために外部からやって来た小柄な中年男性は、同時に頷いた。

「では、初め!」

 主審の合図を受けて、二人の間にくすぶる濃密な剣気が、爆ぜた。

 

 

 男の持つ竹刀の切っ先が、自分の喉元に向けられた瞬間だった。

 およそ一間半先に立つ相手の巨体が突然膨張し出し、鼻息も荒い闘牛の姿へと変じた。

 無論、錯覚だ。

 面覆いの格子の下、よく目を凝らしてみれば、対手の姿はまったく変わっていなかった。

 六尺豊かな巨体が、汲めど尽きぬ精力を総身に漲らせ、三尺九分の竹刀を正眼に構えている。自分と同様、現代剣道の規定にある防具一式で身を固めたいでたちは、牛からは程遠い。にも拘らず、目の前の男を興奮しきった闘牛と見間違えたのは、相手の竹刀にまとわりつく凄絶な剣気に圧倒されたからに他ならなかった。負けじと臍下丹田に気合いを篭め、五体に気力を充溢させることでなんとか幻視からは脱するも、ちょっとでも気を抜けば竹刀を取る手の内が震えてしまいそうな迫力が感じられた。

「……凄いな」

 面覆いの格子の下で、赤星勇吾は端整な甘いマスクを引き攣らせてひっそりと呟いた。

 風芽丘学園男子剣道部部長を務める、三年生の若武者だ。幼少の頃から草間一刀流という流派の剣道を学んでおり、恵まれた体格と、子どもの頃から親しんできた剣の業に担保されたその力量は県下一位を誇った。昨年の全国大会では、個人戦でベスト16入りを果たすほどの剛の者である。

 そんな彼をして、ただ対峙しただけで思わず怯んでしまうほどの猛気。

 先の全国大会でさえ遭遇しなかった総身を揺さぶる恐怖と、強者と出会えたことに対する感動に、勇吾は酔った。

 ――世の中には、まだこんな怪物が眠っていたのか……!

 桜坂柳也の名前を、勇吾は今日まで聞いたことがなかった。

 C県座臼市から、己と立ち会うためにはるばるこの海鳴市までやって来た男。

 自分より一つ年下だというが、ほとんど同年代の若者が、これほどの剣気を発するとは……!

 正眼の構えから見て取れる技量は、己とほぼ互角か。しかし、対峙しているだけでこちらの戦意を砕くその闘気は、自分をはるかに上回っていた。

 ――たしか、学校では部活動はやっていない、って言っていたな。

 試合前の自己紹介によれば、目の前の大男も自分と同様学生で、しかし部活動の類は一切やっていないという。公の場で剣の腕を披露することは滅多になく、最後に剣を取ったのが一五のときに受けた二段への昇段試験のときだというから、いまの剣道界ではまったくの無名の人材だった。

 ――これほどの男が、誰にも知られることなく、在野に埋もれているなんて……。

 惜しい、と思った。

 と同時に、まるであの男のようだ、とも。

 己の気の乱れを、鋭敏に感じとったか。

 桜坂柳也の構えが、変わった。

 三尺九寸の竹刀を上段に振りかぶる。

 先ほどの幻視のせいだろうか。

 巨大な雄牛が、角を前へと突き出して猛然と駆け出そうとしているかのように思えた。

 応じて、勇吾も己の竹刀を上段に構える。

 ともに六尺豊かな大男。振りかぶった竹刀の角度は、柳也のほうがやや深いか。

 彼は摺り足でじりじりと間合いを詰めた。

 まるで足裏が床板に吸いついているかのように、ほとんど腰の位置が変わらない。

 対する勇吾も、腰高に姿勢を取り、摺り足で前進する。こちらも、日頃の修練のほどを窺わせる、完成された運足だった。

 二人の間の隔たりが、一足一刀の間合いにまで迫った。

 いっそう激しさを増す気迫の応酬。

 取り囲む部員達が、緊張から喉を鳴らした。

 二人の視線が交錯し、剣気が、弾けた。

 裂帛の気合いが、道場内の空気を震撼させる。

「おおおおおおお―――――――ッ!!!」

「せぇぇぇいッッ!!」

 獅子吼。

 ついで、竹刀が金属を鋭く叩く音が響き渡る。

 居並ぶ部員達の多くが、ああっ、と驚愕から目を剥いた。

 両者の竹刀は、まったく同時に相手の面を打っていた。

 主審と副審の剣道部顧問が白旗を上げて桜坂柳也の勝利を宣言するより早く、

「参りました!」

 闘牛の剣気を放出していた男は声高に告げて、竹刀を手元に戻した。

 彼は紅い旗を上げるもう一人の副審……柊慎二を見ると、朗らかに笑いかける。

「赤星先輩のほうが打ち込みは深かった。そうですよね、柊園長?」

「ああ。悔しい話だが、僕の愛弟子よりも、きみの弟子のほうが深い一撃だった」

 同意を求められた柊副審は、もう一人の副審たる剣道部顧問の顔を見て言った。

 勇吾は頭の鉢を上から断ち割るかのごとく、深々と打ち込んでいた。

 対する柳也は、額へ打ち込むように竹刀を振るっていた。しかと足場を定めた上で、肩を支点にして打ち込む瞬間に腰を落とした重い一撃。足腰の力を余さず載せて打ち込んだ会心の一打は、たしかに勇吾の竹刀が柳也の脳天に落ちるよりも僅かに早く、対手の額を捉えていた。

 しかし、

「防具を身に付けない素肌剣術ならばともかく、これは竹刀の立会いだ。面という防具に打ち込むには、柳也君の上段斬りは浅すぎる」

「……さすがは全国ベスト一六。良い勉強をさせてもらいました」

 柳也は面覆いの格子の下で破顔した。

 負けて悔いなし、と真実思っていることが窺える、屈託のない笑みだった。

 

 

 

 

 


永遠のアセリアAnother外伝 VS とらいあんぐるハート3

EPISODE:01「剣者の誓い」

 

 

 

 

 

 事の起こりは、一週間前まで遡る。

 その日の夕刻、桜坂柳也が亡きの父の親友にして自身にとっても恩師である柊慎二が経営する養護施設しらかば学園に足を運ぶと、開口一番、柊園長は「頼みがあるんだ」と、言ってきた。

「はあ。……頼み、ですか?」

 かつて自分もこの施設にいた頃に、悪さをする度世話になった学園長室に通された柳也は、もてなしのコーヒーを一口すすって訊き返した。

 恩人にして第二の父とさえ慕っている人物から頼み事だ。借金の連帯保証人になってくれ、とか。この幸福を呼び込む壺を買ってくれ、とか。よほど無茶な内容でない限り、引き受けてやりたいが。

「実はつい先日、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行く機会があってね」

 一六〇センチに届かぬ身の丈に比してがっしりとした体つきの柊園長は、そう言って自らもコーヒーを啜った。やや酸味の強いキリマンジャロのブラックが、口内に深い苦味を残して喉へと滑り込む。

「その友人……いまは隣県の海鳴市というところで教師をやっているんだけど、昔はやんちゃ者の剣道部員でね。高校時代は、僕も剣道部員だったから、よく二人で馬鹿をしたものだよ」

「馬鹿をやっている柊園長の姿、っていうのが、いまいち想像出来ませんが……」

「僕だって人の子だよ。若い頃は、それなりに、ね」

 柳也の返答に柊は苦笑した。

「まあ、昔の話はいまは置いておこう。それで、その酒の席でのことなんだけど……」

「はい」

「はじめはね、二人ともまだ酒が入っていなかったから。互いの近況について、まあ穏当に話し合っていたんだよ」

「まずこの時点で穏当という装飾が必要なあたり、不穏な予感しかしません」

「まあ、実際、酒が入ってからは、酷いもんだったよ。……そのうちね。お互いがいま抱えている、弟子の話になったんだ」

「というと?」

「勤め先の高校でね、剣道部の顧問をしているんだ、彼。それでね、いま、受け持っている生徒の中に、ひとり、とんでもない逸材がいるらしいんだ」

「なるほど……。だんだん、オチが読めてきましたよ」

 柳也はカップの中のコーヒーを飲みほして苦笑した。

「互いの弟子自慢に、なったわけですね?」

「うん」

 柊園長は頷いた。いっそ清々しいぐらいに、素直な首肯だった。

「いやね。そいつがあんまりにもその生徒のことを誇らしげに自慢するものだから、さ……。僕もついつい、きみのことを話してしまったんだよ。聞けば、その生徒はいま三年生で、きみより一つ年上らしい。いま、僕が抱えている弟子で、それぐらいの年齢でいちばん強いのは、きみだからね」

「あー、うー、そのー……あ、ありがとうございます」

 柳也は気恥ずかしげに微笑した。手放しの称賛や愛の告白など、この男はこうやって直接ストレートな言葉をぶつけられることに弱い。自分のほうから想いの丈をぶつけるのには慣れているのだが。微笑む彼の顔は、朱色に染まっていた。

 愛弟子の可愛らしい態度を見て微笑んだ柊園長は、しかし肩をすくめると溜め息をついた。

「その先の展開は……、きみのことだから、もう、想像は出来ているよね?」

「ええ、まあ……。さしづめ、どっちの弟子が強いか、白黒はっきり着けようじゃないか!? ってなところですか」

「まさしくその通りだよ」

 柳也は呆れた溜め息をついた。

 いかにも酒の席で成立したらしい、頭の悪そうな約束事だった。内容もさることながら、とうの弟子達のあずかり知らぬところで約束を結んでいるあたり、正気だったとは思えない。

「返す言葉もないな。実際、あのときは二人ともかなり呑んでいたしね。それは否定しない」

 柊園長は苦笑しながら言った。しかしすぐに表情を引き締めると、真剣な眼差しで愛弟子を見た。

「でもね、素面のいま思い返しても……いいや、素面のいまだからこそ、これは柳也君にとって良い機会じゃないかと思っているんだ」

「というと?」

「実はね、相手の弟子というのが、あの赤星勇吾なんだよ」

「赤星……って、あの赤星勇吾ですか!? 去年の全国大会で、ベスト16までいった?」

 柊園長の口から飛び出した意外な名前に、柳也は驚きから思わず訊き返した。

 赤星勇吾。剣に携わる者達の間では、ここ数年で急激に名前が売れ始めた注目株だ。自分よりわずかに一つ年上。六尺豊かな恵まれた体躯から生み出される豪快な剣技と誠実な人柄は、著名な剣道雑誌で何度も取り上げられており、柳也もよく知っていた。その若さから、将来への期待も篭めて、海鳴の超新星との呼び声も高い。

 流儀はたしか、草間一刀流だったか。かの伊藤一刀斎を祖とする一刀流の流れを汲む流派で、維新後、現代剣道の黎明期を支えた一派と聞き及んでいる。現代剣道の礎を築いた、という意味では、柳也の学ぶ直心影流と相通じるものが感じられる流派だ。

 はたして、柳也の問いに頷いた柊園長は静かな、しかし凛然とした声で愛弟子に言った。

「きみと同世代の剣士の中では、間違いなくトップクラスの実力者だよ。それほどの相手と戦う機会なんて、滅多に得られるものじゃない」

「……そうでしょうね」

 剣に限らず、およそあらゆる武芸に通じる道理だ。強者との立会いに勝る稽古は、他にない。勝敗を抜きにしても、一戦交えるだけの価値がある。得られるものがある。戦いへの喜びがある。

 柳也は、己の唇が自らの意思とは無関係に笑みを形作るのを自覚した。

 禍々しい冷笑。残忍で、凶悪で、好戦的な笑みだった。

 胸の奥が、熱い。

 心臓の高鳴りが、どんどん激しくなっていく。

 赤星勇吾。

 口の中で、その名を呟く度に、闘争本能が甘く疼いた。

「……はっ」

 面白い戦いが出来そうだ。

 胸の内より湧き出でる熱に浮かされたように、柳也は嗤った。

 胴震いを誘う愛弟子の様子を睨みながら、柊園長は訊ねる。

「それで、どうだろう? 戦って、くれるかな?」

 柳也は柊園長の手を両手で包むと、「是非に」と、応じた。子どものように無邪気な笑みだった。

 



 

 午前一一時半。

 面覆いをはずし、胴鎧を脱ぐ。

 垂を取り、篭手を除いて身軽になった柳也は、疲労の濃い溜め息をついた。

 両肩が重い。腰から背にかけての筋が、鈍い痛みで疼いている。四肢の筋肉は空気袋のように、ぱんぱん、に張れ、熱病に罹ったかのように発熱していた。

 ――……さすがに、疲れたぜい……。

 赤星勇吾との立会い稽古の後、柳也はその日練習に参加していた剣道部員の全員から、熱烈なラブコールを寄せられた。全国ベスト16の剣道部部長と互角に戦ってみせた彼を相当な実力者と認めた部員達は、この男との一戦から多くを学ぼうと次々に立会いを求めた。女子部員にまで試合を請われた柳也は、ほとんど休む間もなく怒涛の五十連戦を強いられた。二時間以上の、長丁場だった。

「楽しかったけど、つ、辛かった……」

 三度の飯より戦うことが大好きなこの男も、さすがに五十人もの剣士と代わる代わる竹刀を打ち合い疲れ切っていた。三十戦目あたりから笑顔が消え、四十戦目を迎えたときに体力が底を尽いた。最後の五十戦目では、ほとんど意地だけで竹刀を振り抜いた。戦績は、五十戦やって四八勝二敗。最後に立会った藤代某なる女子剣道部部長殿の、すれ違いざまの一文字斬りを胴に浴びた瞬間、ようやっと終わった、と彼は膝から崩れた。

「……なんだかすまないな、うちの部員達が」

 額に浮かぶ玉のような汗を持参した手拭いで拭っていると、背後から声をかけられた。

 振り向くと、朗らかな笑みを浮かべた赤星勇吾が立っていた。面覆いこそ脱いでいるものの、胴、垂、篭手は以前として身に付けたままの装いだ。

「みんな、悪気はないんだ。ただ、桜坂君みたいな実力者と戦える機会は、そうそう得られるものじゃないから……。みんな、はりきってしまって」

「いえ。俺も、みなさんの気持ちはよく分かりますから……。べつに気にしていませんよ。俺も逆の立場なら、きっと喜び勇んで稽古を求めたでしょうしね」

 面覆いを取った青年の顔を改めて見つめ、ほうっ、と溜め息をこぼす。端整な造作のマスク。羨望を禁じえない、甘い微笑み。天はこの男に剣の才だけでなく、洗練された容姿まで授けたか。世の不公平さを嘆かずにはいられない笑みを前に、柳也は自らもまた微笑を浮かべて応じた。

「……それにしても、噂に違わず風芽丘剣道部は層が厚いですなあ。赤星先輩だけでなく、みながみな、高いレベルにある」

 平素、総重量一六キログラムの振棒を千本、二千本と素振りして地力を鍛えている己をして、最後はたった数百グラムの竹刀を支え持つのが苦しくなるほどの消耗を強いられた。それはひとえに、竹刀をぶつけ合った者達の高い技量によった。

「五十人いる部員がみんな、とんでもなく強い。合間の休憩時間中も、息をつく暇がなかった。……特に、最後に立会った、女子剣道部部長の藤代先輩。初太刀を受け止めた際の痺れが、まだ左手に残っています」

 柳也は莞爾と微笑み左手を握ったり閉じたりしてみせた。指の関節を動かす度に、じいいん、と鈍痛が響く。女の身ながら藤代の打突は重く、男の打ち込みと比べてもなんら劣らぬ威力を誇っていた。

 自らの所属する剣道部を褒められて、勇吾は嬉しそうに笑った。

「ありがとう。だけど、それを言ったら桜坂君だってすごく強いじゃないか。ほとんど連続で五十回も試合をして、落とした数がたったの二度だなんて……。そういえば、桜坂君は高校では帰宅部なんだって?」

「ええ、まあ」

「勿体ないな。剣道部には入らないのかい? きみの腕なら、全国大会だって十分狙えるだろうに」

「さすがにそれは、買い被りすぎですよ」

 柳也は苦笑した。

「それに家のこととか、バイトとか。色々忙しいんで。部活をやっている暇がないんですよ。……勿論、俺も一人の剣者ですから。全国大会っていう大舞台に憧れる気持ちはありますけれど」

「勿体ないなあ」

 腹の底から残念がる勇吾の言に、柳也は苦笑した。人見知りしない性格に加えて、初対面の自分に対しても臆面なく本音を語る裏表のなさ。柳也は早くも、目の前の青年のことが好きになり始めていた。

「桜坂君は、剣で有名になりたいとか、考えたことはないのかい?」

「ない! ……って、きっぱり言えたら格好良いんでしょうけどね。俺だって、人並みに権勢欲とか、自己顕示欲はありますよ。……ところで赤星先輩、先輩の方が年上なんですし、俺のことは、呼び捨てで全然オッケーですよ? あと、丁寧語も」

「いいのかい? ……じゃあ、桜坂、で。桜坂は、流派は?」

「俺は直心影流です」

「有名どころだな。時代小説なんかでも、よく見る名前だ」

「有名すぎて、こっちは肩が重いです。赤星先輩は、草間一刀流でしたよね?」

「ああ」

「さきほどの稽古での打ち込み、お見事でした。小野忠明の頃より名高い一刀流の上段斬り、感服しました」

「あんまり褒めるなよ。……褒められると、この男はすぐ調子に乗るんだ」

「ほほう。それは良いことを聞きました」

 冗談っぽく微笑んだ勇吾に、柳也もまた諧謔めいた口調で応じた。

「世辞に世辞を重ねて、昼飯を奢らせてやるとしましょうか」

「そういえば、もうそんな時間か」

 道場に設けられた壁掛けの時計を見て、勇吾が呟いた。

 時計の針が示す現在の時刻は午前一一時四三分。そろそろ、部活の練習が終わる時間だ。休日の練習は正午までで、道場の清掃を含む後片付けの後は解散という決まりだった。

「桜坂君達は、この後はどうするんだい?」

「柊園長と一緒に、海鳴見物をしてから帰るつもりです」

 柳也は風芽丘学園剣道部の両顧問と談笑している恩師を見ながら言った。

「聞けば海鳴市は観光地としても有名だとか。俺も園長も、わりと楽しみにしていたんですよ。海鳴温泉と山海の味」

 どちらも事前に購入しておいたタウン情報誌から得た知識だ。市内に海と山の両方を持つ海鳴市は山海の幸に恵まれ、また市の中心部から山一つ越えると温泉地が広がっているという。初めて情報誌を開いたときには、なんとも風光明媚な土地だな、と二人して感心したものだ。

「さすがにいまからじゃ温泉地は無理だけど」

 勇吾は苦笑しながら、柳也に言う。

「昼飯ぐらいなら、良い店、紹介するぜ? 勿論、桜坂がよければだけど」

「是非にお願いします!」

 柳也は満面の笑みを浮かべて応じた。地元の人間が薦める店だ。期待に胸が躍った。

 



 

 稽古後の片付けは、思いのほか早く終わった。

 風芽丘剣道部の道場は広いが、部員も大勢いる。各人が無駄なく動けば、掃除も稽古具の片付けも、さして時間はかからなかった。借り物の竹刀と防具一式を返却し、自らも雑巾を手に床拭きに勤しんでいた柳也が、剣道部主将の発した「終わり」の号令を聞いて顔を上げると、壁掛け時計の針はまだ一二時半にも達していなかった。

 稽古場を清めた次は、若武者達自らが身を清める番だ。

 スポーツの強豪校の設備だけあって、剣道場の隣に建つ部室棟は、シャワールームも備えた立派な代物だった。

 わざわざ遠方から足を運んでくれた客人の体を冷やすわけにはいかない、と優先的にシャワー室へと案内された柳也は、厚意をありがたく頂戴した。汚れた汗をさっぱり流し、剣道着から母校の制服へと着替える。部室に戻った彼が左手首に巻いた時計に目線を落とすと、それでも、時刻はまだ午後一時にも達していなかった。

「……まだ、こんな時間か」

「それ、輸入物か?」

 文字盤を覗き込んでいると、ブラウンを基調とした制服に着替えた勇吾が声をかけてきた。主将の体を冷やすわけにはいかない、と柳也同様先にシャワーを浴びるよう譲られたその顔からは、疲労の色は窺えない。僅か一時間弱のインターバルで、もう失われた力を取り戻している。さすがは全国ベスト一六の選手、素晴らしい体力の持ち主だ。

 柳也は父の形見の腕時計を示しながら、

「ジン、っていうドイツのメーカーが作っている、いわゆるミリタリー・ウォッチってやつです。見やすくて、頑丈で、良い時計ですよ」

「へぇ……桜坂って、時計が好きなのか?」

「まあ、こだわる方ですね。……さすがに趣味に出来るほど、余裕のある懐をしていませんが」

 柳也は苦笑しながら応じた。

「ミリタリー・ウォッチって、普通の時計とどう違うんだ? G-shockなんかは、やたら頑丈なイメージがあるけど」

「基本的には、軍隊で使われているってだけで普通の時計と大差ないです。ただ、軍隊が求める時計イコール、戦闘で使う時計なので……タフであることは、まあ、必須条件ですね」

 戦場という過酷な環境でも確実に動作すること。これをクリアできない時計に、ミリタリー・ウォッチを名乗る資格はない。

「その、ジンも?」

「俺のは、一応、ダイバーズ仕様で、五〇〇メートルまで潜れます。ジンの時計には他に、Uボートスチールっていう、潜水艦の外殻に使われている素材でケースを作っているモデルもあって、それなんかは最大五〇〇〇メートルまでいけるって話です」

「五〇〇〇……ちょっと、想像のつかない世界だな」

「機械よりも先に、人間の方が壊れちまう深さですよ」

 話しながら、スポーツバッグに道着を詰めるなど、二人は帰り支度を着々と進めていく。

 剣道部の部室は広いが、それでも、空間は限られている。長居は他の部員達の迷惑になる、と心得ている二人は、速やかに部屋を出た。勿論、剣道部部長の勇吾には戸締りの義務があるから、そのまま帰るなんてことはしない。 廊下の壁に背中を預け、二人は最後の部員が着替えを終えるまで会話を続けた。

「赤星先輩は、時計、お詳しいんですか?」

「俺はそんなでもないな。メーカーとかのこだわりも、特にないし。俺は、メカだと時計より……」

 勇吾は両手を胸の前に持っていくと、一本の棒を掴むように指先を丸めて、手首を回して見せた。

「……こっちの方が好きだな」

「バイクですか?」

「ああ。俺の家は市内で寿司屋をやっているんだけど、その手伝いでさ。配達で使う原付に乗っているうちに、な。自然と好きになってたんだよ。……桜坂は、バイクは?」

「この年齢の男児の嗜み程度には」

 諧謔を孕んだ口調で呟き、柳也は微笑んだ。

「一応、原付免許も持ってますよ。将来的には、ナナハンを乗り回したい所存であります!」

「ナナハンというと……やっぱりドリームCB?」

「ええ。『ワイルド7』の飛葉ちゃんが好きなんですよ」

「また、古い漫画を出してきたな」

 ホンダのドリームCB750を乗り回して巨悪に立ち向かう主人公を扱った作品だ。少年漫画の業界がいまよりずっと活気づいていた時代に、当時としては斬新なストーリーと本格的なバイク、ガン・アクションを武器に七年という長期連載を果たした。柳也が生まれる前の作品だ。なぜ、そんな物語を彼が知っているかというと、

「実は俺、一人暮らししてるんですよ」

 柳也は苦笑して続けた。

「食費とか、アパートの家賃とか差っ引くと、懐はいつも寂しくて……だから、新しい漫画にはなかなか手が出せないんですよ。もっぱら、新古書店とかに並んでいる安いやつか、図書館とか喫茶店とかに置いてある古い作品しか、読んだことがないんです」

「古い漫画なぁ……『巨人の星』とか?」

「梶原漫画は、近所の床屋にたくさん置いてありましたねぇ。他には、少年ジャンプの、黄金期の作品とか」

「『聖闘士星矢』とか、『北斗の拳』?」

「どっちも少年時代のバイブルです!」

「……ペガサス流星拳の練習、した?」

「モチ!」

 静かな問いかけに、柳也は言葉短く、しかし力強く頷いてみせた。

 それを見て勇吾も壁に背中を預けたまま、

「俺は家の庭で、夜までかめはめ波の練習をしたことがある」

と、自らの過去を、粛、とした口調で語る。

 柳也は無言で右手を差し出した。

 勇吾も右手を前に出し、二人は黙然と固い握手を交わす。

 ともに幼き頃、少年漫画の主人公達の必殺技を我がものにせん、と懸命に修行に励んだ過去を持つ男達の間に、熱い友情が結ばれた瞬間だった。

「……男子二人で、なにしてるのよ?」

 硬く、硬く、手と手を握り合っていると、背後から声をかけられた。

 気の強さを窺わせる、凛、とした声。

 振り返ると、先の五十連戦の最終戦にて、己を打ちのめした女が立っていた。

「藤代先輩……」

「や、赤星に桜坂くん。二人ともお疲れ様」

「お疲れ、藤代」

「お疲れ様です、藤代先輩。……今日はどうもありがとうございました。おかげさまで、よい勉強をさせてもらいました」

「いやいや、こちらこそ。赤星級の相手と打ち合うなんて滅多にない機会からね。楽しい試合だったよ」

 女子剣道部の主将は愛嬌のある笑みを浮かべた。

 対する柳也は、照れ臭そうに苦笑い。全国ベスト一六の剣豪と自分が同格とは……世辞と分かっていても、悪い気はしない。悪い気はしないが、なんとなく、気恥ずかしい。

「……ちょっと残念なのは、わたしが最初の相手じゃなかったことね」

 一時間前の立ち会い稽古の内容を思い出したか、藤代は少し不満げな表情を浮かべた。

 防具を身に着けた彼女と向かい合ったとき、柳也はすでに、四九人もの剣士との試合をこなした後だった。直前まで竹刀をぶつけ合った相手はみな並々ならぬ技量の持ち主ばかりで、彼の疲労は極限に達していた。それでもなんとか気力を振り絞り、目の前の女に挑みかかる柳也だったが、疲弊しきった剣からは常の勢いや鋭さが失われていた。藤代はそんな状態の彼と戦い、勝利を収めたのだ。

 唇をとがらせる女子剣道部主将の表情には、本気の柳也と戦えなかったことを残念がる気持ちが滲んでいた。

「せめて二番手に戦いたかったよ」

「試合の順番はジャンケンだったからな。仕方ない」

「次、また機会があれば、そのときは是非、最初にやりましょう」

 先の一戦を残念がる気持ちは、柳也とて同じだった。普段から勇吾と打ち合っているだけあって、藤代の力量はかなりのものだ。彼女と気力体力が充溢した状態でなまま立ち会えなかったことは、彼にとっても心残りとなっていた。

「……それで? 最初の質問に戻るけど、二人して何をしていたのよ?」

 柳也と勇吾は顔を見合わせた。

 さすがにいまの握手の理由を正直に明かすのは恥ずかしい。

 なにより、藤代先輩は女だ。男子の嗜み、少年漫画の世界に、理解があるとは限らない。

「……昼飯のリクエストをさせてもらっていたんですよ。この後、おすすめの店を紹介してもらう約束でして」

 少し悩んでから、柳也はとりあえず、この後の予定について口にした。

 便乗して勇吾も頷く。

「そうそう! それで、何が食べたい? 何が好き? ……って話していたら、俺と桜坂の嗜好が思いのほか合致していることが分かってな」

「とりあえず、俺らの間では納豆こそがご飯の最高の親友という結論が下されました」

「……いや、ご飯のお伴といったら、辛子明太子だろ?」

「いやいや、炊き立ての白いご飯に納豆、生卵、刻みネギ、醤油が最強の役満ですよ」

「いやいやいや、ナマ良し、焼いて良し、茶漬けにもいける! シチュエーションを選ばず最高のパフォーマンスを発揮出来る辛子明太子こそが最強だろ!」

「……嗜好が合致?」

 男達の間で突如始まったご飯の親友最強王座決定戦を、どこか冷めた眼差しで見つめる藤代女子剣道部部長。

 彼女はやがて呆れた溜め息を一つこぼし、

「まあ、最強王座はともかく……ね、それさ、わたしもご一緒していい?」

「藤代先輩も?」

「うん。わたしもさ、もうちょっと桜坂君とお話ししたいな、って思ってね。……勿論、二人がよければだけど」

「俺は構わないぜ?」

「俺もです」

 莞爾と微笑み、頷いた。孤児院育ちの柳也だ。食卓を大勢で囲むことへの抵抗はない。

 むしろ、自他ともに認める女好きとしては、藤代との相席は大歓迎だった。彼女がいてくれれば、食卓は大いに華やぐだろう。

「たぶん、柊園長も断らないでしょう」

 この場にいない剣の恩師も、特に反対はしないだろう。

 柳也の返答に、藤代は嬉しそうにはにかんだ。

 



 

「桜坂は、何が食べたい?」

という問いかけに対して、柳也は秒と間を置くことなく、

「I need meats!」

と、応じた。

 先の質問は、部室の施錠を終えた勇吾の言だ。

 五十連戦後の疲れきった身体は、なによりエネルギーを欲していた。いまの柳也が必要とするのは、バランスのとれた食事ではなく、上質なたんぱく質をがっつり摂れるメニューだった。

「肉か……牛と、豚と、どっちがいい?」

「牛で! ……と、言いたいところですが、財布ン中が心もとないんで、豚で!」

「二人は、アレルギー的なものは?」

「ありがたいことに、俺はないです」

「僕もないよ。だから気にせず、赤星君のおすすめの店に案内してくれないかな」

「それじゃあ……」

 勇吾は二人を風芽丘学園の校舎からほど近い商店街へと連れていった。なんでも商店街のメインストリートを一本離れたライン上に、尋常ならざる美味さの豚カツを作る定食屋があるらしい。どれぐらい尋常ならないかというと、実際に塩ダレをまぶした豚カツを頼んだ柳也が、一口食べて思わず、

「バカな! 豚カツに、こ、恋をしてしまっただとぅ!?」

と、のたまうほどだった。ちなみにこのとき、彼の面魂からは、若干ちばてつやのかほりが漂っていたという。

 勇吾が自信満々で紹介した定食屋は、蕎麦屋や焼き鳥屋といった、世のお父さん方の夜のお友達が軒を連ねる一画で暖簾を掲げていた。店の広さは二十畳ほどで、六人掛けのテーブル席が三つと、十人腰かけられるL字型のカウンターが一つ、奥に座敷が二席設けられている。休日の昼時とあって、店内は賑やかだった。しかし、四人グループとちょうど入れ替わりで入店した柳也達は、特に待たされることもなく、テーブル席に着くことが出来た。

 テーブル席に腰かけた柳也は、メニューには一瞥もくれずに、即座に豚カツ定食を注文した。ソースは塩ダレ。たっぷり汗をかいたせいか、無性に塩っ気が恋しかった。

 やがて待たされることおよそ十五分、やって来た定食のメイン・ディッシュに箸を伸ばした直後の第一声が、先の「恋をしてしまった」発言であった。

「美味ッ、なにコレ!? 美ん味ぁッ!」

 柳也は夢中で箸を動かし続けた。

 柔らかな肉筋をそっと噛み裂く度に、肉の旨味で口内が彩られていく。疲れた体に、たちまち力が漲るのを自覚した。勇吾の言う通りだった。自慢の豚カツは、たしかに絶品だった。豚ロースのポテンシャルが最大限に引き出されており、噛めば噛むほど、人間が野に生きていた時代からの本能が満たされていく。

 特に衣の造りが素晴らしい。カラッと揚がって油切れもよく、出汁の旨味をたっぷり含んでいる。厚みは口の中を邪魔しない、それでいて肉の旨味を一切逃さない、絶妙なバランスを保っていた。これまで出会った豚カツの中でも、最高の逸品だ。塩ダレの甘辛さも効いている。

「箸が止まらねぇぜッ、ちくしょう!」

「……本当だ。いままで食べた豚カツの中でも、いちばんかもしれない」

 柳也の絶賛の声に、隣に座る柊園長も同意を示した。

 こちらも注文したのは豚カツ定食。タレは味噌だ。勇吾の言によれば、店主は海鳴の生まれだが、若い頃は名古屋の店で料理の修行に励んだという。関東人の柊の舌にもよく馴染むほど良い甘さは、そうした経歴に由来するものと思われた。

「いやあ、最高ですね! ここの豚カツ!」

「気に入ってくれてなによりだ」

 揚げたての切り身を次々頬張る師弟の様子に、柳也の対面に座る勇吾は嬉しそうに微笑んだ。

 柳也達の言葉に嘘偽りがないことは、彼らの食べっぷりを見てもよく分かる。米の一粒とて無駄にはするまい、とする食べ方は、眺めていて気持ちよくさえあった。やはりこの店を紹介して正解だったな、と勇吾は自らの判断を称賛した。

 怒涛の五十連戦をこなした柳也だけに、箸の進みは早い。

 それは強敵との立ち会いを終えた勇吾と藤代も同様で、各々三〇〇グラムはあろうロース肉の豚カツは、あっという間に三人の腹の中へと収められていった。

 この顔ぶれの中では唯一竹刀を握っていない柊は、「さすがに若いなぁ」と、感心した様子で、揃って手を合わせる若武者達を眺め見た。

「桜坂くんは、いつぐらいから剣道を始めたの?」

 食後の番茶を啜りながら、柊の対面に座る藤代が訊ねてきた。柳也を見る眼差しからは、好奇の輝きが見て取れる。無名の身でありながら全国ベスト一六の実力者と互角に渡り合った若武者の素性に、興味津々の様子だった。いわば剣道界に突如現れた未知の実力者だから、好奇心が刺激されるのも当然だろう。

「剣自体は、それこそ物心ついたときにはもう握っていましたね」

 柳也はそこで一旦言葉を区切ると、さてどこまで話すべきか、と思案顔になった。自分と剣術の関わりを語る上で、父・雪彦の存在ははずせない。とはいえ、彼が亡くなったことまで話してしまうと、この場の空気が悪くなってしまうやもしれぬ。情報開示はどのあたりに留めておくべきか。

 柳也は少し悩んだ後、相手の反応を見ながら決めていくか、と口を開いた。

「俺の父も剣術家だったんですよ」

「お父さんも?」

「はい。……もっとも、うんとガキの頃の話です。当時はほとんど遊び感覚でした。俺が本格的に剣を学び始めたのは、六歳のときからですね。柊園長に師事するようになってからです」

「柊さんに?」

 藤代は柳也の隣に座る柊の顔を見た。

「お父さんは、教えてくれなかったの?」

「そのちょっと前ぐらいに、父は、事故で亡くなりました」

「あっ……と……その、ごめん」

 しまった、と表情を苦く歪める藤代を見て、柳也もまた、しまった、と奥歯をきつく噛み締めた。

 やはり、このような席で死にまつわる話は禁句だったか。会話を楽しもうという雰囲気が、一瞬で霧散してしまった。自分の思慮のいたらなさには、ほとほと嫌気が差す。

 とはいえ、口にしてしまった言葉はどうしようもない。

 時間を巻き戻すことが出来ない以上、注力すべきはカバーアップだ。自身の発言のせいで悪くなった空気は、やはり自身の発言で変えるべきだろう。「気にしないでください」と、柳也は穏やかな微笑を浮かべて、藤代に言う。

「もう十年以上も昔のことです。気持ちの整理は、とっくに着いていますから。……それに、俺はある意味で、父が死んでくれたことに、感謝さえしていますから」

「え?」

「父は交通事故で亡くなったんですが、そのとき、父の車には俺も乗っていたんです。父は、俺を助けるために車内に残り、そして死んだんです」

 いまの自分があるのは、父の……いや、両親の愛のおかげだ。もしあのとき、両親の助けがなかったなら、桜坂柳也という男の“いま”はなかった。佳織や瞬と過ごす大切な時間、そして今日のこの出会いもありえなかっただろう。

「こうやって赤星先輩達と楽しいひと時を過ごせるのも、すべては父のおかげです。その意味で、俺はあの人に、感謝しているんですよ。いまの俺があるのはあなたのおかげ。この幸福な時間は、あなたからのプレゼントだ、ってね」

 そう言って、柳也は屈託なく笑った。

 重苦しい空気を振り払うための作り笑いではない。亡き両親への感謝の想いを常から抱いていればこそ浮かべられる、自然な笑顔だった。釣られて、勇吾と藤代の顔にも笑みが弾ける。

「だから、父のことで気を遣っていただく必要はありません」

「そっか……」

「そもそも、俺が剣術を本格的に始めたのも、父の死がきっかけでしたしね」

「うん? それってどういうこと?」

「もう父さん達はいないんだ。これからは、自分の面倒は自分で見なければならない。子ども心に、そう思いましてね。……とりあえず体を鍛えよう。自分の身くらいは守れるようになろう、って剣術に手を出したんです」

 さすがに、両親が自分に託した最後の言葉をそのまま伝えるのは憚られた。死者の言葉ほど重いものはない。

 それに、いま口にしたことも嘘ではない。大切なものを守れる強い男になれ、と父は言ったが、自身の身さえ守れぬ者に、どうしてそんなことが可能だろうか。まずは我が身を守れる強さを、とは柳也の本心からの言葉だった。

「勿論、いまも剣を続けているのは、それだけが理由じゃないですよ?」

 あの当時は生きることに必死で、そんな心の余裕はなかったが、いまならば胸を張ってはっきりと言える。

「俺、剣の道ってものに、心底惚れ込んでますから。赤星先輩達みたいに、部活とか大会とか、そういう機会にはなかなか恵まれませんけど、その道を究めたいって想いも、あります。それに……」

 続く言の葉は、穏やかなはにかみから生じた。

 佳織や瞬、柊園長といった人々の顔が……大切な人達の顔が、次々と思い起こされる。

「この十年で、この身以外にも、守りたいものが増えましたし」

「守るための剣、か……」

 勇吾の唇から、深々と溜め息がこぼれた。

 そのフレーズに何か感得するものがあったのか、ゆっくりと頷いた後、

「やっぱり、似てるな」

と、呟いた。

 自分を見つめる先輩剣士の眼差しは、なぜか鋭い。自然、柳也の顔は怪訝な表情で彩られる。

「似ている?」

 いったい、誰と?

 柳也が問いを口にする前に、「ああ……」と、藤代も得心したように頷いた。

「たしかに、似てるわね。彼と」

「彼?」

「ああ……。俺や藤代のクラスメイトにな、ひとり、桜坂みたいなやつがいるんだよ」

 番茶を啜って唇を舐め、勇吾は言った。

「そいつも桜坂と同じで、めっぽう剣の強い男なんだ。それなのにやっぱり、剣道界ではまったくの無名なんだよ」

「……ほほう」

 我知らず、柳也は身を乗り出して勇吾の顔を見つめた。

 無理もない。全国ベスト一六の腕前を持つ赤星が、「めっぽう強い」と称賛する男だ。剣者として、心を寄せずにはいられない。闘争本能が、甘く疼いた。

「無名というのは、俺みたいに部活をやっていないからで?」

「それもあるし、とにかく露出を嫌う男なんだよ。大会とか、段位取得試験とか、人の眼があるところでは、滅多に剣を振らないんだ」

「へえ……流儀は?」

「御神流っていう、古流の剣術だ。現代剣道のほうは、本人曰く、嗜み程度だってよ」

「古流ですか……そのへんも、俺と同じなんですね」

 ただでさえ競技人口の減少が問題になっている剣道の世界だ。このご時世に、柳也や勇吾のように古流の剣術にまで手を伸ばしている若者はたしかに珍しい。

 それにしても御神とは……聞き覚えのない名前だが、いったい、どこの国で生まれた流儀だろうか。

「しかも、似ているのはそれだけじゃない」

「というと?」

「そいつが剣術を始めたそもそものきっかけも、やっぱり桜坂と同じで、親父さんが剣術家だったかららしいんだ」

「はあ……でも、みんな最初はそんな感じじゃないですか? 剣道・剣術に限らず、親がやっていたから自分もやるって、そんなに珍しいことじゃないんじゃ……」

「で、そいつもやっぱり、親父さんを亡くしている。以来、そいつは以前にも増して、いっそう剣に打ち込むようになった」

「……ま、まあ、今日日そういう家庭も、珍しくありませんし」

「そしてそいつがいまも剣を振り続けている最大の理由は、大切なものを守るためなんだと」

「……え? なにそれ? 俺のドッペルゲンガー?」

 そこまで境遇が似ていると、親近感よりも先に不気味さを感じた。

 まさかとは思うが、自分の生き別れの兄弟とかではあるまいな、その人。

「……そういえば雪彦さん、若い頃はよく遊んでいたなぁ」

 ようやく食事を終えた柊の口が、ぽつり、と呟いた。

 聞き捨てならない内容に、柳也は愕然とした面差しで振り返る。

「ちょっ―――――」

「まあ、さすがにそのあたりは大丈夫だろう。うん。柳也君と同じで、雪彦さんは無類の女好きだったけれど、無責任なことはしていないはずだ。うん。……たぶん、ないはず。うん。いないはずだよ、柳也君に、兄弟は……」

「かつてこれほどまでに恩師の言葉を疑ったことがあっただろうか!? いや、ない!!」

 柳也は思わず頭を抱えた。人間はミスをする生き物だ。柊は大丈夫だろう、と言うが、どこか自分の知らないところで亡き父が失敗していた可能性は否定出来ない。学者先生方の論によれば、条件さえ重なれば、行為に及ばずとも子どもは出来るというし。

「まあ、そこは安心しろ。そいつの修めている流派は直心影流じゃないし、桜坂の親父さんとじゃ亡くなった時期が合わない。少なくとも、そいつの父親については別人だよ」

「そ、そうですか……そりゃあ、良かった」

 勇吾の言によって恐るべき可能性が潰え、安堵の溜め息をこぼす柳也。気を取り直した彼は、炯々と輝く瞳で話しの続きを促す。

「それで? めっぽう強いっていうと、どれぐらいの腕前なんです?」

 自分とあまりにも似た境遇の男。勿論、その類似も気になるが、やはり剣者にとっての最大の関心事は、件の人物の技量が奈辺にあるか、それに尽きる。全国ベスト一六の勇吾が絶賛するほどの男。いったい、どれほどの強さなのか。

「はっきり言って、そいつ、俺よりも強いぜ」

 はたして、剣道界期待の新星と評判の若武者は、自らのクラスメイトを淡々と評した。

 彼の口から紡がれた衝撃的な言葉に、柳也は一瞬、返す言葉を見失ってしまう。

 勇吾より、強いだと? 全国ベスト一六の彼よりなお強い男だと!?

 にわかには信じがたい話だった。しかし、自分を見つめる勇吾の眼差しからは、瞞着や諧謔の意図は一切感じられない。

 驚愕から目を剥く柳也の胸の内を察したか、勇吾はひとつ頷いて続ける。

「俺がいままで戦った同年代の剣士の中でも、間違いなく最強の男だ。全国大会にすら、あいつほどの剣士はいなかった。……たぶん、いまの桜坂よりもずっと強い」

 不思議と、悔しさは感じなかった。

 勇吾の実力は、先の立ち会い稽古を通じてよく理解している。その彼の口から語られた言葉だ。自分よりも強いという評は、おそらくは真実だろう。

 それよりも胸の内を押し上げるのは、いっそう強さを増す興味の念と、戦いを求める欲望だ。

 自分とさして変わらぬ年齢でありながら、自分達よりもはるかな高みにいる男。名前は勿論、顔すら知らない彼の者との戦いを想像すると、胸の高鳴りが止まらなかった。技量で勝る相手を降すその瞬間を思い浮かべると、全身の血が熱く滾る。

「……会ってみたいなぁ……」

 精悍な面魂が、禍々しく歪んだ。

 黒炭色の双眸に、好戦意欲の炎が灯る。

 両端の釣り上がった唇の隙間から、恐竜のような犬歯が覗いた。

 兇笑。

 沸々と煮えたぎる闘争への欲求から生じた冷たい笑みからは、歴戦の勇吾らをして、まともに正視するのが躊躇われるほどの圧倒的な戦意が感じられた。

 そいつに勝ちたい。そいつの上に君臨したい。そいつを倒し、地べたに這いつくばらせ、己との力の差を理解させ、項垂れる頭を踏みつけたい。頂点に立ちたい。

 自分が他人からどう見られているかとか、道徳だとか。そうした余分な装飾の一切を排した、原始の闘争本能の最もシンプルな姿が、そこにはあった。

 かつて見たことのない好戦的な笑みを真っ向から見せつけられた勇吾と藤代は、思わず息を呑む。

 なんと猛気に満ち満ちた笑みなのか。なんと楽しそうに嗤うのか! もし、この戦意が自分達に向けられていたならば……。

 次なる戦いを求めて体が火照り出した柳也とは対照的に、背骨を貫く寒さから、二人は胴震いした。

「……そして戦ってみたい。その男に、俺の全力がどこまで通用するか、試してみたい!」

 またいつもの発作が始まった、と隣に座る柊が苦笑した。柳也に剣を教え始めてからというもの、この男の果てることなき闘争心にはずっと手を焼かされてきた彼だった。

 好戦意欲に滾る双眸と眼が合う。

 柳也の瞳は、「観光は諦めてくれませんか?」と、無言で謝罪の意を示していた。

「……赤星先輩、その人と、今日、これから都合をつけることは出来ませんか?」

 再び目の前の勇吾らに目線を戻した柳也は、そう言って頭を下げた。

 突然の願い事。時間も時間だし、内容が内容だ。無理を頼んでいるのは、百も承知だった。件の人物にも都合というものがあるだろうし、勇吾との関係の問題もある。自分の頼みを聞いてしまったがために、勇吾と彼の友情に亀裂が走ってしまう可能性だってある。断られたとしても文句は言えないし、言うつもりもなかった。駄目で元々の願い事だった。

 はたして、勇吾は少し考え込んでから、おもむろに携帯電話を取り出した。フリップを開き、ひたすら親指を動かす。どうやらメールを打っているらしい。手慣れた様子からは、彼の交友関係の広さが窺えた。

 それから二分ほど経って、勇吾の携帯電話が振動した。返信が届いたのか、彼は画面を一瞥し、また文章を打ち込んでいく。そしてまた送信。そんなやり取りを何度か続けた後、彼は柳也を見つめて笑った。

「都合、ついたぜ」

「赤星先輩……ありがとうございます!」

 深々と頭を垂れる。自らの膝頭に向けられた面差しは、胸の内で燃え上がる歓喜からいっそう凶悪さを増していた。

「でも……どうして?」

 顔を上げた柳也は、勇吾に問うた。

 会って間もない自分の頼みを、この男はなぜ聞き入れてくれたのか。一歩間違えれば、大切な友人を一人、失うかもしれなかったというのに。いったい、何を考えて受け入れてくれたのか。

 訝しげに見つめる柳也に、勇吾は微笑してみせた。
 
「俺も、見てみたかったからな」

「え?」

「そいつと……高町恭也と桜坂柳也の戦いを、見てみたいと思ったからな」

 端整な甘いマスクに浮かんだ微笑みに、思わず、見惚れてしまった。

「さっき俺と戦ったときさ、桜坂、本気じゃなかっただろ?」

 突然の問いかけ。

 質問の意図が読めず、どう返答するべきか一瞬迷ってしまう。

 その躊躇いの隙を衝いて、勇吾はさらなる言葉を口にした。

「勿論、全力ではあったんだろうけど、それはあくまで、現代剣道のルールに則った中での……言葉を飾らないで言えば、ルールに縛られた中での全力だろ? 直心影流の剣士、桜坂柳也の全力全開じゃなかったはずだ」

 真実を言い当てられ、柳也は二の句に窮してしまった。

 自身も草間一刀流という古流の剣術を修めている勇吾には、やはり見抜かれていたか。

 武術と武道の違いを端的に表現するならば、「相手を殺すことを前提とするか否か」という一言に尽きる。

 武術とは、もとをただせば合戦場で行使される実戦の技として始まったものだ。他方、明治時代以降に生まれた現代武道は、相手を死に至らしめることなく力と技を鍛え、その優劣を競うのが目的とされている。文字通り『競』うため『技』であり、剣道であれ、空手であれ、そこには不殺のために設けられた様々なルールが存在する。

 たとえば、現代剣道では足技はご法度とされ、相手にかけようものならば反則と見なされてしまう。しかし、直心影流と同じ新陰流系のタイ捨流では、足技は型にも組み込まれた、むしろ基本的な技の一つなのである。柳也のような古流剣術のやり方にどっぷり浸かっている人間にとって、剣道の試合は、窮屈極まりないものなのだ。

「そいつも……高町も、現代剣道のやり方に馴染めない男だ。高町と桜坂がやり合えば、試合は剣道ではなく、剣術のそれになる」

 剣道家同士の試合ではなく、剣術家同士の死合。それはすなわち、古の合戦場で行われてきたことの再現だ。ルールの存在しない世界。縛りのない、世界。剣術家、桜坂柳也が、本当の意味で全力で戦える戦場。

「ルールって縛りのない世界なら、お前の力は、きっと俺よりも上だ」

 見てみたいと思ったんだ、と勇吾は続けた。

 先の試合では見ることの出来なかった、桜坂柳也の本気を。

 彼の全力が、自分の知る最強の男にどこまで通用するのかを。

「俺も一人の剣士として……いちばんを目指している男として、見てみたいんだ。

 高町恭也と桜坂柳也の、本気の激突を!」

 



 

 合戦場は、先方が用意してくれることになった。

 なんでも高町恭也なる人物の家には小さいながらも稽古用の道場があり、そこでなら人目を憚ることなく剣を振るえるだろう、と勇吾は言った。

 その高町家は、観光地の賑やかさからは遠い閑静な住宅街に居を構えているという。

 「わたしも二人の試合を見てみたい!」と、同行を申し出た藤代を連れ、柳也達は勇吾の先導の下、件の男の待つ家を目指した。『ガ〇ダム』の話などしながら。

「赤星先輩、好きなMSは?」

「種運命のムラサメだな」

「またコメントし辛いMSを……っていか、中の人ネタですか?」

「そう言う桜坂は、タハ乱暴の妄想CV的にシャイニング? それともデュエル?」

「いやまあ、シャイニングですし、ゴッドも好きですけど……。あと、スパイラル大回転斬りは、ゴッドスラッシュタイフーンがモデルなんですけど?!」

「柳也君……こんな<おまけ>話で、必殺技の誕生秘話を話すのかい……」

「いやあ、ファンタズマゴリアじゃ、『ガ〇ダム』の話なんて、誰にも出来ないですし……」

 呆れた口調の柊に、苦笑を返す。

 ちなみに柊は、『ガ〇ダム』は知らなかったが、『GEAR戦士〇童』は知っていた。お気に入りのキャラクターは機将G・グ〇メイだそうな。

「はいはい。妄想CV、中の人ネタ」

「ちなみに高町はWゼロカスタムが好きらしいぞ」

「……なぜにゼロのほう?」

「なんでも、バスターライフルが二挺あるのに親近感を抱いたんだとか。ちなみにカスタムのほうなのは羽根がフィアッセとお揃いだからだと」

「……二刀流なんですか、高町さんの流儀って」

「まあ、そんなところだ。……おっと、着いたぞ」

 到着したのは、江戸時代の武家屋敷を思わせる日本家屋だった。高い塀にぐるりと囲まれ、立派な門構えが柳也達を出迎える。敷地面積は……部屋数八つのコーポ扶桑と並ぶだろうか。日本の住宅事情を踏まえると、一軒家としてはかなり大きい。

「……え? もしかして高町さんって、良いとこの坊ちゃん? え? 俺、手土産とか持ってないですよ!? ってか、普通に制服で来ちゃいましたけど、ドレスコードとか大丈夫ですか!?」

「大丈夫だって。そういうこと気にするやつじゃないし、そもそも、お坊ちゃんじゃないから」

「っていうか、ドレスコードって……」

「いや、高町さんの家って、お父上がいないんですよね? ということは、ご母堂はすなわち未亡人。つまり、俺のどストライクゾ〜ン。新しい恋が始まる可能性もありますし、服装はきっちりしておいたほうがいいかなぁ、と」

「ない、ない。絶対にないから」

 恩師の口から新しい恋の可能性を頭から否定され、膝を抱えてその場で体育座りと洒落込む身の丈一八二センチ、目方七五キロの大男。

 短い付き合いながらだんだんとこの男の性格が分かってきた勇吾は、苦笑しながらも華麗にスルー。門構えのインターフォンを押した。

 ほどなくして、透明感のある若い女の声がインターフォンのスピーカーから流れる。

『どちら様ですかー?』

「俺だよ、晶。赤星勇吾。高町に会わせたい人がいて来たんだけど……」

『ああ、勇兄! ちょっと待っててくれよ』

 可愛らしい声に反して、男らしい口調。

 十秒と待たされず玄関の戸が開き、ショートカットの少女が顔を覗かせた。赤星から晶と呼ばれた彼女は、彼の顔を見るなり、オレンジの白い花のように清しい微笑を浮かべる。

「いらっしゃい、勇兄……に、藤代先輩も!」

 口を開いたところで彼の背後にいる者達の存在に気付いたか、晶は藤代に向かって頭を下げる。

 ついで柊と体育座りモードから復活した柳也を交互に見て、

「ええと、そちらの二人は……」

「柊慎二さんと、桜坂柳也君だよ。今日、高町に紹介したいって二人」

「柊です。隣県のC県で養護施設の園長をしています」

「桜坂柳也です。柊園長の経営する施設の出身で、本日は噂の高町先輩に一手ご指南賜りたく訪ねました!」

「柊さんは、ウチの剣道部の顧問と学生時代からの友人で、すごく強い剣術家なんだ。桜坂はその弟子で、今日はもともと、俺との練習試合のために海鳴まで来たんだよ」

 勇吾は二人が海鳴にやって来た経緯を簡潔に説明した。

「それで試合の後、高町のことが話題に上ってさ。桜坂が是非、会わせてほしい、って言うから、連れてきたんだ」

「……そのあたりは師匠からも聞いています」

 晶は改めて二人に向き直ると、背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を垂れた。一連の所作は、武道を嗜んでいる者ならではの動きだ。体幹がまったくぶれていない。

「城島晶です。勇兄の後輩で、高町さんの家で居候させてもらってます」

「城島さんは、何か武芸を?」

 柳也は反射的に訊ねていた。

 戦うことが大好きで女好きでもあるこの男にとって、武芸を嗜む女性というのはストライクゾーンもど真ん中に位置していた。

 顔を上げた晶は少し困惑した様子で、

「え? ええ、まあ……空手を少し」

「なるほど、空手か!」

 柳也は得心した様子で頷いた。

 空手は特に精神修養を重んじる武道だ。堂に入ったお辞儀も、空手を修めているのなら納得がいく。

「空手は俺もちょこっとだけ齧ったことがあります。なるほど、通りで一つ一つの所作が綺麗なわけだ」

「晶は空手道場のジュニアクラスの中でもいちばんの腕前なんだぜ?」

「なおいっそう理解が深まりました」

「ええと、桜坂さんも空手を?」

「ええ。剣や、剣の代わりが務まる棒きれなんかが調達出来ないときに、無手でもある程度戦えるように、と。空手と柔術、それから、プロレス同好会の連中に師事して、そっちも少し学びました」

「ああ……それで一時期、地元の暴走族に喧嘩を吹っかけてはブレーンバスターで沈めまくるって奇行を繰り返していたのか」

「ええ、まあ、練習がてらに」

「そんなことしてたのっ!?」

「おかげで街がずいぶん平和になった。あの年の暴走族による犯罪件数、昨対比で六割切ったそうだよ」

「なにそれ!? 街に一人は欲しい人材ッ!」

 勇兄、今日はやたら濃い人たちを連れてきたなぁ、などと胸の内で呟きつつ、晶は、

「師匠は道場のほうで待ってますよ」

と、言った。

 察するに彼女の言う師匠とやらが、高町恭也その人なのだろう。

「いまは美由希ちゃんと体温めてます。……赤星ほどの男が会わせたいと言うほどの男だ。こちらも全力で応じられるようにしておかないとな、だってさ」

「それはありがたい」

 柳也の凶相に、好戦的な笑みが浮かんだ。

 真っ向から見てしまった晶が思わず身震いする。空手の有段者の彼女をして圧倒されてしまうほど、禍々しい面魂だった。

「向こうも最初から全力でくる腹積もりとは……ありがたいことだ」

 晶は柳也達を庭へと案内した。かなり広々とした空間で、立派な花壇と、なかなかの大きさの池まである。鯉の姿は……さすがに見えないか。

 平屋の剣道場は、庭の片隅にひっそりと建っていた。

 切妻屋根の建物は、かなり小さい。壁の厚みがどの程度かにもよるが、中はやや小さめの試合場を一面とるのが精一杯といったところではないか。

 覆いをはずされた木枠の窓からは、甲高い撃剣の音が漏れていた。

 竹刀を打ち合う音ではない。木刀同士をぶつけ合っている音だ。

「木刀で立ち会い稽古をしているのか……」

 柊園長が、感慨深い溜め息をついた。

 今時、木刀を用いての打ち合いは珍しい。木刀は刃を持たないだけで、その威力は本身の刀とほとんど変わらない。稽古でこれを用いる場合は寸止めが前提だが、手元が僅かでも狂えば、最悪、相手の命を奪ってしまいかねない。竹刀や防具といったより安全性の高い稽古具が普及した現在では、木刀を使った撃剣稽古を日常的に行っている流派は少なかった。

「御神流とやら……かなり硬骨な流儀のようですね」

「ああ」

 柳也の呟きに、柊は頷いた。

 剣道・剣術歴が五十年近くになる彼をして、御神流の名前は聞いたことがない。いったい、いかなる理合の集合体なのか。

 道場の戸を、晶が叩く。

「師匠、勇兄たちが来ましたよー」

 撃剣の音が、ぴたり、と止まった。

 晶の言葉に応じたのは、「いま、行く」と、凛とした男の声。

 引き戸を開けて現れたのは、半袖のトレーニングウェアに身を包んだ若い男だった。背丈は柳也よりも額半分ほど低く、バスケットボールプレイヤーを思わせるしなやかな体つきをしている。

 顔の造作は端整だ。大振りな瞳は意志の強さを感じさせ、勇吾とはまた趣きの異なる精悍な面差しが、自分達を見つめてくる。額に浮かぶ汗や頬の紅潮具合からから察するに、木剣を振るっていた片割れは、彼で間違いないだろう。

 勇吾が一歩前に踏み出て、柔和な笑みを浮かべる。

「よう、高町。休みのところ、悪いな」

「いや……」

 勇吾の言葉に、高町と呼ばれた青年はかぶりを振った。

 どうやら彼が、勇吾の口にした恭也なる人物のようだ。

「ちょうど俺も暇を持て余していたところだったから、ちょうどよかった」

「相変わらず、休日は盆栽弄りか?」

「ああ。しかし、それも終わってしまえば、あとは鍛錬ぐらいしかすることがない」

「枯れてるなあ」

「ほっとけよ。……そちらの二人が?」

 茶褐色の眼差しが、柳也と柊を交互に見た。

 勇吾が頷いたのを見て、柳也も一歩踏み出す。

「直心影流、桜坂柳也です。こちらは師匠の柊慎二園長です」

 簡潔に名乗り、右手を差し出した。

「今日はよろしくお願いします」

「小太刀二刀御神流、高町恭也だ。こちらこそ、よろしく頼む」

 やはり、目の前の人物こそが赤星の言う、最強の男だったか。

 握手に応じた右手を固く握り返し、柳也は感心したように溜め息をついた。盛り上がった竹刀胼胝の硬い感触は、この男の日々の修練がいかに過酷かを物語っていた。

「……硬い手ですね。よく鍛えられた剣者の手だ」

「そう言う桜坂君の手も硬いな」

「今日は、面白い戦いが出来そうです」

 柳也は屈託なく笑った。

 握手を解くと、恭也はみなを道場の内へと招いた。

 「せっかくだから見学させてください」と言う晶を連れて、柳也達は玄関へと足を運んだ。

 



 

 柳也が予想した通り、高町家の庭の道場は狭かった。

 一般に剣道の試合は一辺が九メートルないし十一メートルの正方形、または長方形の試合場を作って行われるが、高町家の道場はそれよりやや小さな試合場を一面作れるかどうか、といった広さしかない。

 門弟を集めるつもりはないらしく、純粋に屋内練習場として使っている様子だった。

 柳也達は道場に入る際の作法として一礼してから、板の間に足を踏み入れた。

「あ、赤星先輩、いらっしゃいです」

 道場の隅では、恭也と揃いのトレーニングウェアに身を包んだ少女が正座して待っていた。

 やや癖のある長い黒髪を三つ編みに結った、柳也達と同年代と思しき娘だ。顔の造作は……なかなかに美人だ。もうあと二十年も経てば、美しい熟女に成長してくれることだろう。

「……いかん。思わず恋をしてしまった」

「また病気が始まった」

 好色な微笑を浮かべながら呟いた柳也の隣で、柊園長が苦笑混じりに溜め息をついた。

 少女はそんな二人を交互に見て、

「恭ちゃん、そちらの二人が?」

「ああ。赤星が紹介したい、って人達だ」

「直心影流、桜坂柳也です」

「直心影流、柊慎二です。柳也君の師匠をやっています」

「小太刀二刀御神流、高町美由希です。恭ちゃんの……一応、一番弟子ってことになるのかな?」

 美由希を名乗った少女は恭也のほうを振り向いて小首をかしげた。

 そういえば、かたわらにいる城島晶も彼のことを師と呼んでいる。察するに彼女は二番弟子か。

 それにしても高町とは……もしや二人は、

「お二人は、兄妹なんですか?」

「似たようなものです。従兄妹同士なんですよ、わたしたち」

「なるほど。高町さんは、見取り稽古ですか?」

「はい。後学のために見ていろ、と師範代から言われまして」

「赤星が認めるほどの男だ。きっと、得られるものは多いだろう」

「……出来れば、期待は程々にしていただけると助かります」

 恭也の言葉に、柳也は照れ臭そうに微笑んだ。

「師曰く、俺には才能がないらしいので」

 かたわらに立つ師匠はかつて柳也に言った。お前には才能がない、と。この先何十年と剣を続けていれば、一つの流派を極めることは出来よう。されど、そこから新たな理合を生み出すことは出来まい、と。

 恭也は道場の隅に置かれた木刀立から、短めの木剣を二振手に取った。刀身にあたる部分の長さは、一尺と六寸ほどか。いわゆる小太刀、脇差と呼ばれるサイズだ。見た目から察するに、実用性重視の白樫製か。鍔にあたる部分はない。

「俺はいつでも始められるが、桜坂君はどうなんだ? 少し、素振りしてからにするか?」

「俺もいますぐやれますよ」

 柳也は上着を脱いでネクタイをはずすと、竹刀袋から木刀を取り出した。こちらは全長がおよそ一メートル、刀身に当たる部分は、二尺四寸八分もある。素材は本赤樫。高度と弾性を高いレヴェルで両立させた、素振りにも打ち合いにも最適な逸品だった。

「アップはさっき、強豪海鳴剣道部の皆さんを相手にめいっぱいやらせてもらいましたから」

「剣道着には着替えないのか?」

 背後から、強豪海鳴剣道部の筆頭剣士の声。

 柳也は両腕の筋を軽く伸ばしながら苦笑し、

「さっきの五十連戦で、剣道着びっしょびしょなんですわ」

 濡れた道着は着心地が悪いだけでなく、なにより重たい。動きづらさでは制服もどっこいどっこいだが、乾燥している分だけ、まだこちらの方がましだろう。

「防具はどうします? 板の間を貸してもらっている身ですし、そちらの流儀に合わせますが」

「御神流に決まった防具の形はない」

「では、防具はなしで。……ほかに、細かい取り決めは?」

「赤星とはいつも投げなし、蹴りありでやっている」

「じゃあ、それで」

 準備を終えた二人は神棚の前に立つと、無言で一礼した。

 道場の中央に移動するや、およそ一間半を挟んで向かい合う。

 先に剣を構えたのは、恭也のほうだった。

 体をやや左半身に取り、両の木刀を中段に深く構える。

 一対の切っ先が睨み上げるのは、対手の心臓の位置。

 冷たい剣気の鋭鋒に胸板を射抜かれて、柳也は陶然と微笑んだ。

 ――激しさはない。……だが静かで、研ぎ澄まされた剣気だ。

 相手の構えを見、相手の剣気を感じ取った瞬間、理解した。

 小太刀二刀・御神流。

 太平の世相の中で生まれた剣ではあるまい。頬を突き刺す闘気は尖鋭が過ぎる。

 かといって、戦国乱世の風雨にさらされて芽吹いた技術体系とも違うだろう。恭也の剣気からは、いくさ場生まれの剣特有の激しさや狂気が感じられない。

 これは、おそらく……、

 ――これは、闇の世界で生まれた剣技だ。

 暗殺剣とでも、呼ぶべきなのか。

 人の心が生み出す闇に身を潜め、誰にも気取られることなく、事をなす。そのための剣だ。

 太平の世にあっては無用の技。

 乱世においてさえ、疎まれるであろう剣。

 目の前の男の剣気からは、そんな暗黒世界の薫風が漂っていた。

 ――面白いなぁ……ッ、御神流!

 心臓が、熱く騒ぐの自覚した。

 胸元に突き付けられた殺気はこんなにも冷たいのに、身の内からは、熱病に罹ったかのように熱が湧き出ていた。

 太平の剣でも、乱世の剣でもない。

 これまでに出会ったことのない、未知の剣術との立ち会い。

 胸が躍った。

 魂が、震えた。

「面白い戦いに、なりそうだッ!」

 裂帛の気合を篭めて、咆哮。

 木刀を、正眼に構えた、その瞬間だった。

 二人の立ち会いを観戦するため道場の脇に並んだ皆の顔が、

 そして、己を見つめる恭也の表情が、慄然と強張った。

 

 

 ――この男……。

 男の持つ木剣の切っ先が、自分の喉元に向けられた瞬間だった。

 およそ一間半先に立つ相手の巨体が突然膨張し出し、鼻息も荒い闘牛の姿へと変じた。

 黒々とした巨体と、一メートルになんなんとする禍き角が凄まじい威圧感を発している、獰猛な水牛の姿へと。

 勿論、錯覚だ。

 静かに呼吸し、臍下丹田に気合いを漲らせて目を凝らせば、対手の姿は先ほどからまったく変わっていない。

 六尺豊かな巨体が、汲めど尽きぬ精力を総身に漲らせ、二尺四寸八分を正眼に構えている。

 到底、牛には見えないそのシルエットを、興奮しきった闘牛と見間違えてしまったのは、木剣に宿る凄絶な剣気のせいだろう。

 ――なるほど、赤星が見たいと言っていたのは、これか……。

 自らも二振りの木剣を中段に置いたまま、高町恭也は得心した表情で小さく頷いた。

 親友の赤星勇吾から『紹介したい男がいるんだ』という件名で電子メールが送られてきたのは、昼食を摂ってすぐのことだった。

 メールには桜坂柳也の名前と、赤星を始めとする風芽丘剣道部の部員達が彼と戦うことになった経緯、さらにはその結果が簡潔にまとめられ、記されていた。

 メールに目を通した恭也は、はじめ感心の溜め息をつき、次いで渋面を作った。

 メール本文の末尾に、『是非、桜坂と会って、試合してほしい』との一文が記されていたためだ。

 恭也の修める御神流は、戦場由来の介者剣術とも、平時に生まれた素肌剣術とも異なるルーツを持っている。いわば、闇の世界で生まれた暗殺の剣技だ。人に見せるような技ではないし、試合という形で振るうようなものでもない。赤星とは日常的に剣を合わせているが、それは他流試合というよりも、友人同士の馴れ合いとしての側面が強い。恭也としては、剣の邪道を往く御神の技を積極的に振るいたくはなかった。そして自分のそんな気持ちは、赤星も承知しているはずだ。

 にも拘らず、赤星は桜坂柳也なる人物との立ち会いを推してきた。

 その真意は何処にあるのか。

 恭也の返信に対して、赤星が再度送ったメールには、桜坂柳也という男の為人が記されていた。

『桜坂柳也って男は、俺やお前とはまったくタイプの違う剣士だ。いわゆる戦闘狂ってやつだろうな。とにかく、戦うことが大好きで、相手が強敵であればあるほど自分も燃える男なんだよ』

 そして、自分では彼の全力を引き出せてやれなかった。

 その一文を目にした恭也は少なからず驚いた。

 全国ベスト一六の赤星をして、彼のすべてを引き出すことは叶わなかった。その事実は、件の男の力量が、親友に勝っていることを意味している。

 ――俺達の世代でも最強クラスの赤星を上回るとは……!

 その、桜坂柳也なる男、いったいどのような人物なのか。その力の底は、どこにあるのか。

 自身、高みを目指す一人の剣者として、ほんの少し、興味が湧いた。

 そして、そんな自分の心の機微を予想していたかのように、こちらからの返信を待つことなく、赤星は重ねてメールを送ってきた。

『俺は見てみたいんだよ。桜坂柳也の本気も本気、全力全開ってやつを』

 相手は敵が強いほどに自らも剣気を高める男。

 それならば、と己に声をかけてきた赤星の企図するところは明白だった。桜坂柳也に自分をぶつけることで、彼の全力を引き出そうという魂胆だろう。

 ――俺からすれば、お前も十分に闘争心旺盛な男だよ。

 自分よりもはるか高みにある男の、隠された力を暴き出したい。

 彼の全力を、見てみたい。

 甘いマスクに似合わぬ願いをメールに託した親友を思って、恭也は思わず苦笑した。間を置かず、今度はその笑みを自分自身へと向ける。

 ――……まぁ、それは俺も同じか。

 赤星ほどの剣者が絶賛するほどの男、桜坂柳也。

 はたして、件の人物はどのような剣を振るうのか。

 まだ見ぬつわものの太刀筋を。そして彼との立ち会いを想像した恭也は、気分の昂ぶりを自覚して、呆れた失笑を漏らす。

 先ほどまで親友の頼みに対しあんなにも渋い顔をしていたというのに、桜坂柳也なる人物の為人と腕前を知った途端の、この変わりよう……。我ながら自分の尻の軽さには、呆れるばかりだ。

 ――……応えてやるか。

 親友の希望を叶えてやりたいという想いと、自身、強者との立ち会いを求める想い。

 この二つと比べれば、心の天秤の反対側の皿に載った躊躇など、あってないようなものだった。

 恭也は改めて携帯電話に目線を落とすと、ややぎこちない手つきで文章を打ち込んだ。

『大したもてなしは出来ないが、それでもいいか?』

 短い文章で、頼み事を承諾する気があることを伝える。

 返信は、僅か二十秒の後にやってきた。

『桜坂にとっては、お前が立ち会ってくれることが、最高のもてなしになるだろうな』

「…………」

 こんな長文を十秒少々で打ち込んだのか。妙なことに感心しつつ、恭也は客人を迎える準備を始めた。従姉妹であり、愛弟子でもある美由希に声をかけ、庭の道場へと足を運ぶ。

 ――俺と戦うことがもてなしになるのなら、最上のサービスを用意してやらないとな。

 さしあたってするべきは、こちらのエンジンを温めておくことか。

 客を迎えるのにホスト役が不調では目も当てられない。

 美由希を相手に木剣を軽く打ち合いながら、恭也は親友が訪ねてくるのを待った。

 はたして、およそ四半刻の後、赤星が連れてきたのは、予想をはるかに上回るもののふだった。

 ――これが、桜坂柳也か……ッ!

 木剣を正眼に構えた大男を半眼で睨みながら、恭也は静かに息を呑んだ。

 全身から迸る烈々たる剣気。

 並の者ならば、ただ相対しているだけで闘志を砕かれてもおかしくない。

 現に道場の脇で正座している晶などは、自身では胴震いを止めることが出来ず、自らを抱きしめてさえいる。

 それほどの、覇気。

 ただの木剣が業物の威圧感を纏い、炯々たる眼光とともに、恭也を睨む。

 ――技量そのものは、俺よりも劣っている。おそらくは、美由希にも及ばないだろう。

 正眼。

 五行と呼ばれる構えの中でも、基本中の基本とされる姿勢。

 そこから感じ取れる対手の技量は、自分と比べて明らかに劣っているように思われた。

 しかし、油断は出来ない。地力で勝る相手に対し、なおこれほどの剣気をぶつけてくるほどの闘争心は、大きな脅威だ。

 ――……闘志だ。汲めど尽きることのないこの闘志こそが、この男の最大の武器……!

 剣の技も、恵まれた体躯も、すべてはこの猛る闘争心のオプションにすぎない。

 この攻撃性こそが、桜坂柳也という剣者の最大の武器。

 そしてその戦意は、敵が強ければ強いほど、高まり続ける!

 ――……なるほど、赤星が惚れ込んだのも頷ける。

 見てみたい、と思った。

 桜坂柳也という男の全力。その剣気の行きつく先に、興味が湧いた。

「……俺も、少し燃えてみるか」

 ひっそりとした呟きが、口をついて出た。

 途端、対峙する男の顔に、残忍な笑みが浮かぶ。

 どうやら相手は耳がかなり良いらしい。

 黒炭色の双眸は、望むところだ、とばかりに燃えていた。

 

 

 正眼に構える柳也の背筋を、強烈な悪寒がひた走った。

 精悍な面魂が慄然と硬化し、六尺豊かな巨躯が、ぶるり、と一瞬胴震いする。

 原因は明らかだった。

 心臓の位置に狙いを定めた木剣の、切っ先に纏わりつく、冷たい剣気のせいだ。

 ――どんどん鋭さを増していやがる。これが、高町恭也か……!

 自分や勇吾のように、裂帛の気合を全身に漲らせているわけではない。

 むしろ、頬を突き刺す闘気は、粛、としており、威圧感はほとんど感じられない。

 にも拘らず、柳也は己が胸の内で恐怖の感情が急速に膨張していくのを自覚した。いま迂闊に動けば命を失するかもしれぬ、という死に対する恐怖だ。恭也の纏う剣気は烈々たる激しさこそ乏しいものの、本身の刀のように研ぎ澄まされており、対峙する者を静かに牽制してきた。

 目線は、一点に集中しているように見えて、常にこちらの全体像を把握するように置かれている。

 わがほうの一挙一動、一瞬の隙も見逃すまい、との気迫に満ちた眼光は、これと獲物を定めた猛禽の如く鋭かった。

 ――……さあて、どう、攻めるか。

 事前に赤星から聞かされていた通り、技量は断然、向こうが上だろう。

 この男に対して、中途半端な策や下手な小細工は通用するまい。

 となれば、己に残された手段は一つ――――――、

 ――真っ向から勝負を挑むほかないッ!

 決然と頷いた柳也は、木刀を大上段へと振りかぶった。

 烈火の二つ名でも知られる、五行の構えの中で最も攻撃的な、攻めの構えだ。

 胴をがら空きにしてしまうことから、立ち会いの場でこれを執るのは素人丸出しとされる構えでもある。しかし、対する恭也の表情に、侮蔑や、油断の色はなかった。彼はこの局面で上段に構えた柳也の真意を、正確に察していた。

 当惑の声を上げたのは、二人の立ち会いを観戦する晶だった。

 この場に集まった面々の中で最も剣の道に疎い彼女は、柳也の真意を図りかねていた。

「上段って、師匠相手に胴をがら空きにするのかよ……」

 少し小馬鹿にしたような口調なのは、柳也のことを、相手との力の差も見抜けない愚者と見ているからだろう。

 そんな彼女に、兄貴分の勇吾はかぶりを振って言った。

「違うぞ、晶。桜坂が上段に構えたのは、誘いだ」

「……たぶん、そうでしょうね」

 勇吾の言に、美由希もまた頷いた。

「自分の打ち込みの速さに、よっぽど自信があるんでしょう。胴をわざと空けて、攻撃を誘ってる」

「たとえ胴を狙われたとしても、相手の刃が届くよりも先に、こちらの一撃を叩き込む。相手が側背に回り込もうとしたときは、移動の際の隙を衝く。……そういう腹積もりなんだろうな」

 攻めの構えをもって、あえて受け身に徹する。後の先を取る。それが、高町恭也という強敵を前にして柳也が選んだ作戦だった。

「実際、桜坂くんの打ち込みは速いわよ」

 ほんの一刻ほど前まで、柳也と竹刀をぶつけ合っていた藤代が言った。

「たぶんだけど、赤星よりも速いんじゃないかしら?」

「悔しいけど、そうだろうな。昼の試合でも、竹刀が先に面を打ったのは、あいつの方だったし」

 昼間の試合で自分が勝てたのは、ルールに救われた結果だ、と勇吾は判じている。あれが実戦なら、先に額を打ち割られていたのは自分だったろう。

「でも……」

 睨み合う両者を険しい眼差しで眺めながら、美由希が口を開いた。

 勇吾らも視線は二人に向けたまま、耳だけを彼女の言へと傾ける。

「桜坂さんの打ち込みは速いかもしれないけれど、恭ちゃんの打ち込みだって、速い」

 力強い口調に、勇吾と晶は勿論、恭也のことをよく知らぬ柊までもが頷いた。剣道八段の他に、直心影流の目録を許されるほどの腕前を誇る彼は、愛弟子と対峙する男の性質を一目で見抜いていた。

「そうだろうね。間合いで劣る小太刀で、刀を相手にしようというんだ。体捌きと太刀行きの速さに自信がなければ、そもそも、試合を受けたりはしなかっただろうし」

「高町が速いか、それとも、桜坂が速いか……」

 勇吾の呟きに、晶の喉が、ごくり、と小さく鳴った。

 ともに太刀行きの速さにかけては絶対の自信を持つ二人の剣者。

 どちらが勝つにせよ、勝負は、一瞬のうちに決するだろう。

 その瞬間に繰り広げられるであろう熾烈な攻防の一部始終を決して見逃すまいと、居並ぶ一同は耳目に意識を集中した。

 両雄は、互いを半眼で睨み合ったまま、動かない。

 恭也は、相手の狙いが、こちらに打ち込ませることだと承知しているからこそ。

 柳也は、技量で劣る己が勝つには、後の先を取るしかない、と心得ているからこそ。

 互いに、自分からは動けなった。

 ――とはいえ……、

 ――このまま、野郎同士のお見合いを続けるわけにもいかないよなあ。

 目の前の強敵に油断のない視線を置きながら、二人は焦燥から生じた溜め息をついた。

 このまま睨み合いを続けるのは、二人にとって望ましい展開ではなかった。

 柳也には、そして恭也にもまた、長期戦に陥るのは避けたい理由があるからだ。

 桜坂柳也と高町恭也の間には、中途半端な戦術では覆しがたいほどの力量の隔たりがある。 太平洋戦争における日米の関係と同じだ。戦いが長引くほどに地力の差ははっきりと表れ、自分をますます不利な立場へ追い込むだろう、と柳也は予想した。時間の経過は己に利をもたらさない。短期決戦を期さねば。

 一方で、恭也のほうもまた、早期決着の命題を己に課していた。柳也の知らないことだが、彼は過去に一度、度がすぎた鍛錬が遠因で右膝を壊していた。周囲の支えと、本人の懸命なリハビリの末、なんとか稽古を再開出来るまでに回復したものの、後遺症は残ってしまった。激しい運動を重ねると、自力では立っていることさえ出来ぬほど、古傷が熱を持ってしまうのだ。

 ある一定の水準に達した実力者同士の立ち会いでは、ただ静かに睨み合っているだけでさえ、気力と体力を著しく消耗してしまう。

 桜坂柳也という男のスタミナやタフさが分からない現状、時間をかけるのは下策だと恭也は判じていた。

 ――勝負を動かすには……、

 ――危険を承知で、相手に飛び込むしかない!

 それぞれが抱え持つ異なる事情から、ともに短期決戦を望む両者は、等しく決然とした面差しで対手を睨んだ。

 やがて、粛としながらも裂帛の気合をぶつけ合う対峙の時間は、唐突に終焉を迎えた。

 不動たれ、という自戒を先に破ったのは高町恭也。

 鋭い踏み込みとともに振り抜かれた右腕が鞭のようにしなり、手にした一尺四寸五分が尋常ならぬ伸びを見せながら擦り上がる。

 飛燕の如き斬り上げは、昼間見た勇吾の面打ちよりも格段に速い。

 右腕一本で、これほどの太刀行きを可能たらしめるとは!

 ――さすがだ……!

 全国ベスト一六の剣者に、自分よりも強いと言わしめた男。

 彼の実力の一端を垣間見て、柳也の唇は自然と笑みを形作る。強敵との出会いに対する、歓呼の笑みだった。

 迫りくる斬撃ごと相手を正面からねじ伏せんと、柳也は上段に取った木剣を真っ向から振り下ろした。

 木刀の切っ先を目で追っていた勇吾が、思わず息を呑む。

 昼間、自分と立ち会ったときよりもずっと速い、苛烈なる打ち込みだった。やはりこの男は、敵が強ければ強いほど技の冴えが増すらしい。天から地へと、稲妻のような鋭さを宿した刀勢は、親友のそれと比べても見劣りしていない。むしろ、高低差の優劣を踏まえれば、恭也の斬撃ごと叩き伏せてしまうのでは、と思わせた。

 必勝を期した渾身の上段斬りは、しかし、空を打つに終始した。

 相手の肩の動きに視点を置いていた恭也が、襲撃の気配を察知するや、大きく後方へと跳び退いたためだ。

 まだ前進運動を終えていない状態からの、強引なバック・ステップ。

 軸足とした左足の肉が、骨が、血管が、苦悶の悲鳴を発したが、痛みを堪えた甲斐は十分あった。

 恭也の突進を視野に入れた上で放たれた真っ向斬りは、相手の突然の後退によって標的を見失ってしまった。

 間合いと一緒に目論見をはずされた柳也だったが、その程度で彼の闘争心が萎えることはない。

 敵が逃げたならばその分だけ追えばよいと、さらなる前進とともに、上段打ちの中途より変じた突きの一打をもって追い討ちを仕掛ける。着地時の一瞬の硬直を衝いた一撃。狙いは相手の胴。六尺豊かな巨体が道場の床を揺らしながら突進する姿は、さながらバッファローのようだ。裂帛の気合が、柳也の口から迸る。

「おおおおおお―――――――ッッ!!」

 対する恭也は呼吸を止め、左の木刀を前に置いて、砲弾と化した男の突撃を、粛、と迎え撃った。

「ッ……!」

 二尺四寸八分の切っ先があと二尺と迫った瞬間だった。

 恭也は左手首を鋭く振り抜いた。

 木剣同士の打ち合う、甲高い音。

 炯々と好戦意欲に燃える黒炭色の双眸が、大きく見開かれる。

 柳也の手にした木剣の、本身の刀でいう物打のあたりを、恭也の振るった一撃が左斜め下から打ち上げ、突き込みの軌道を反らしたのだ。

 弾き上げられた木刀は凄絶な刀勢がかえって仇となり、軌道修正の叶わぬまま、相手の左の鬢を掠めるにとどまる。

 左の木剣を振るうと同時に、恭也は巧みな足運びで右斜め前へと前進。突進の勢いを利用して、相手を巨体を左へ流した。すれ違いざまに、右の小太刀を胴へと叩き込む作戦だった。

 しかし、これは失敗に終わった。

 右の木刀を振り放つ寸前、凄まじい衝撃が、恭也の五体を襲った。

 七五キログラムの巨体による体当たりだ。

 物打を打たれた瞬間、この刺突は不発に終わると素早く判じた柳也は、先ほどの恭也と同様、前進運動が完全に終わらぬ段から右足に力を篭め、強引に左へと跳躍したのだった。

 技量の差など関係ない。

 勢いと体格のみがものを言う、体と体のぶつかり合いだ。

 体格で劣る恭也は、たまらず弾き飛ばされてしまう。

 ――なんて、重い……!

 不意打ち同然の、痛烈なる一撃だった。

 日頃鍛えた下肢の柔軟性を駆使することで転倒こそなんとか避けたものの、着地の瞬間、バランスを欠いて思わず片膝を着いてしまう。

 柳也にとっては追い討ちの好機。体当たりからの連続攻撃は、彼の得意技だ。

 先に着地した左足を軸に反時計回りに回転。

 鍔元から右手を離し、左腕一本で木刀を振り抜く。胴を狙った回し斬り。慌てて立ち上がったばかりの恭也に、これを避ける術はない。

 ――こんな不安定な姿勢では、受け止めることも無理だ……!

 桜坂柳也という男の膂力が並外れていることは、先の上段斬りを見ても明白だった。

 隻腕とはいえ、その破壊力はこんな不安定な姿勢で凌げるものではないだろう。

 ――ならば……!

 恭也は咄嗟に、両の小太刀を前へと掲げた。

 十文字に結んで、相手の斬撃に重ねるように叩きつける。

 木剣同士をぶつけ合い、打突のエネルギーを相殺する作戦か。お世辞にも広いとは言い難い道場の空気を、再び轟いた剣戟の音が震撼させる。

 直後、恭也と比して優位な立場にあるはずの柳也の表情が、苦悶から歪んだ。

 木刀を握る左手の、手首の筋肉を滅茶苦茶に揉みしだく、強烈な衝撃。

 単に打突を受け止めただけでは起こりえない痛みを堪えかね、男の唇から、たまらず悲鳴が迸った。

「っ、お、おおおッ!!?」

 ――なんだ、この打ち込みは……!?

 衝撃が、木刀を突き抜けて、直接手首を殴打してきた。打突の破壊力を、表面ではなく内部へと貫通させてきた!

 我ながらおかしな表現だと思う。しかし、まさにそうとしか形容のしようがない、不思議な体験だった。

 ――中国拳法には、打撃の衝撃を内部へと貫徹させる浸透剄という打ち方があるらしいが……!

 恭也の放った重ね打ちも、そうした技術の産物なのか。

 なるほど、小太刀は普通の刀や槍に比べて、破壊力で大きく劣る武器だ。そんな非力な武器を、御神を名乗る流儀は主兵装として取り入れた。威力の不足を補うために、打ち方に工夫を凝らすのはむしろ当然だろう。

 刀や槍そのものではなく、得物を保持する手首に、間接的に衝撃を通す。

 強肩からの打ち込みも、斯様に安定を欠いた状態では、非力な小太刀の一撃にも負けてしまう。

 現に己の放った回転斬りは、片膝立ちという不安定な体勢から放たれた十文字重ね打ちによって押し弾かれてしまった。

 ――ますます面白いなッ、御神流!

 凶悪な面魂が、いっそう禍々しく歪んだ。

 激痛を堪えながらの青い顔に、凄絶な冷笑が浮かぶ。

 未知なる戦闘技術との遭遇は、自身でさえ持て余し気味な攻撃性を持つこの男の好奇心を大いに刺激した。

 ――もう少しだけ、付き合ってくれよ。

 激しい痺れから休息を要求する左手をなだめすかし、再び弾かれた木刀を素早く引き戻す。両手で正眼に取ったのも束の間、すかさず上段へと振りかぶった。こちらが態勢を整えるのに要した僅か一瞬の間に立ちあがった恭也の横っ面めがけて、右から打ち込んでいく。

 対する恭也は、左腕を鞭のように振り抜いて追撃を迎え撃った。襲いくる打撃を、やはり打撃をもってみたび弾き返す腹積もりだ。

 かたや六尺豊かな大男が諸手を駆使して放った打突と、かたや長身だが痩躯の男が放った片手斬りの激突。

 得物の優劣も踏まえれば、本来どちらが有利かは一目瞭然だ。

 しかし、いまの柳也は、左手の発する痛みを堪えながら剣を振るっている。その刀勢に、先刻までの凄みはない。運剣の主軸となる左手が痺れているために手の内をしかと練られず、膂力を十分木刀に伝達しきれていないのだ。

 いまや柳也の太刀筋は、非力な小太刀でも十分対抗可能なほどに弱体化していた。

 必然、勢いで勝る一尺六寸が、振り抜かれた二尺四寸八分を弾き飛ばす。

 だがそれは、柳也にとって想定内の事態だった。

 男の口元に浮かぶ、喜色も濃厚な深い微笑。

 むしろ、脅威を払い除けたはずの恭也のほうが、慄然と表情を強張らせる。

 ――手応えが、軽すぎる……!

 手の内を揺さぶる、あまりにも弱々しい衝撃。いかに左手が痺れているとはいえ、この手応えの軽さは、まるで柳を打っているかのようではないか。

 ――斬撃を弾かれてみせたのは、わざとか……ッ!

 そう悟ったときには、もう、敵の第二撃が迫っていた。

 再度横っ面狙いの斬撃が、今度は左から襲いかかる。

 咄嗟に右の小太刀で受け止めていなすも、これも、手応えが軽い!

 弾かれた木剣は天高く跳ね上がり、上段の位置で、ぴたり、と制止。本命の三撃目……真向面打ちが、雷鳴の如く叩き落される。直心影流は、霊釼の太刀。

 ――左右からの連続攻撃は小太刀の動きを封殺するための捨て太刀かっ!

 その太刀筋にどれほどの力が篭められているか。本当のところは、斬撃を実際に受け止めてみるまで分からない。

 左右からの打ち込みをなんとか凌いだ恭也だったが、思いっきり剣を振り抜いてしまったがために、両の小太刀を再度防御のために引き戻すには、一瞬の時間が必要だった。

 小太刀による防御は間に合わない。

 体捌きを駆使して避けられるような間合いでもない。

 ――殺った!

 柳也の顔に、凶悪な笑みが浮かぶ。

 勝利への確信に満ち満ちた、会心の笑みだった。

 しかし、その笑みは秒と経たずして凍りつくこととなる。

 前へと出した右足に鋭い衝撃。

 地を這うように放たれた、コンパクトな足払いだ。

 今度は、柳也が表情を強張らせる番だった。

 平素より足腰の鍛錬に余念のない彼だけに、蹴りの一打をもって転倒するような醜態は曝さない。しかし、勝利への確信から足元への意識が疎かになっていたところへの一撃だ。バランスが崩れてしまうのは避けられなかった。

 足下の乱れは、腰を介して上半身にも伝わる。

 ただでさえ左腕が麻痺しているところに加えての足払いは、渾身の真っ向振り下ろしから精彩さを奪った。

 柳也の動きが一瞬止まり、彼の剣が、ほんの僅かに遅速する。

 そして、ほんの僅かな一瞬さえ稼ぐことが出来れば、恭也は、小太刀を引き戻すことが出来る!

 ――来る……ッ!

 恭也の木刀が、今一度十文字に結ばれた。

 鋭い踏み込み。

 柳也の剣は、いまだ急降下の途上にあった。

 恭也は、今度こそ完全な無防備と化した胴へと双剣を叩き込んだ。

 十文字重ね打ち。雷徹!

「ッッ……!」

 どすんっ、と何か硬いもので肉を叩く音が低く響いた。

 次いで、男の唇から漏れる苦悶の呻き声。

 肺の中の空気の一切を、強制的に、しかも一瞬で吐き出させられた。

 柳也の木刀から急速に勢いが失われ、止まり、柄尻から左手が離れる。

 体側に沿って、だらり、と提げられた木剣の切っ先には、もう、猛々しい剣気は纏わりついていなかった。

「……すまない」

 木刀を押し込んだ姿勢のまま、恭也が口を開いた。

「寸止めなんてしてやれる余裕がなかった」

「……いえ」

 柳也は苦しげな表情のまま、ゆっくりとかぶりを振った。

 その下腹には、十文字に結ばれた木刀が、ぐぐぐっ、と押し当てられている。

 もし、これが本身の刀であれば、致命傷となっていたであろう。

「むしろ、嬉しかったです。思いっきり、叩き込んでくれて。寸止めをさせなかった。高町先輩から余裕を奪い、本気を引き出させた。俺にとってこの痛みは、何物にも代えがたい、勲章ですよ」

 恨み言を口にするつもりは一切ない。

 屈託なく笑ってみせた柳也は、一歩、二歩とふらついた足取りで後ずさり、目の前の男に向かって深々と腰を折った。

「久しぶりに、面白い戦いをさせていただきました。ご指導、ありがとうございました」

「こちらこそ。よい勉強をさせてもらったよ」

 恭也もまた木刀を下ろし、腰を折った。

 礼の述べる精悍な面魂は、かすかに微笑んでいるようにも見えた。

 



 

 カッターシャツを脱いで木刀で打たれた箇所を見ると、十字型の紫班がくっきりと刻まれていた。かなりの広範囲にわたって血管を傷つけられたらしく、皮膚の変色が特に酷い線状のあざを中心に、腐敗した茄子のような色の染みが放射状に広がっている。手で触れると、突き刺すような痛みが皮膚の上をひた走った。思わず顔をしかめた柳也は、過去の経験から、今回の傷は長引きそうだ、と直感した。平素より厳しい鍛錬を己に課している彼は、この手の打ち身やすり傷との付き合いが絶えなかった。

 高町家に二箇所ある縁側のうち、リビングと庭とを繋ぐのほうの板敷きの上で、上半身裸の柳也は胡坐をかいていた。

 高町恭也との立ち会い稽古の後、最後の一撃を寸止めし損ねたことへのせめてものお詫びにと、怪我を治療するための場として、この縁側を貸し与えられたのだ。

 かたわらに置かれた薬箱もまた恭也より渡された物で、彼からは、好きに使ってくれて構わない、との言を頂戴している。外傷に効く軟膏や痛み止め、包帯、消毒液などが豊富に揃っていることから、おそらく高町兄妹愛用の薬箱だろうと推察された。

 とりあえずアイシングだな、と柳也は晶が持ってきてくれた氷嚢を変色部位に押し当てた。ビニール袋に氷を詰めただけの簡素な代物だが、効果は絶大だ。痛みが、一気に和らいでいく。

 人間が冷たいと感じる感覚は、痛みを感じる感覚よりも脳に伝わる速度が速い。痛みの間隔が冷感へと置き換わり、ずいぶん楽になった。自然と、心地よさから溜め息が漏れる。

 すると、

「……痛むか?」

 自分の隣で腰かける恭也が訊ねてきた。

 どうやらいまの溜め息を、腹の傷が痛むせいと勘違いしたらしい。

 柳也は苦笑を浮かべながら、かぶりを振って、

「いまのは、あぁ、冷たくて気持ちいいなあ、って溜め息ですからご心配なく。……まあ、たしかに腹の痛みも相変わらずですが」

 柳也は恭也の手を見つめて言った。

「……不思議な打ち方ですね。中国拳法には、打撃の破壊力を体の内側へと伝える浸透剄なる技があるそうですが?」

「まあ、似たようなものだ」

 明瞭さに欠けた返答。

 もともと無口な性質なのか、それとも、御神流の奥儀に関する質問だったのか。

 もし、後者だとすれば、自分が全面的に悪い。どんな武術にも、門外の人間には決して明かせない秘密、その流派の奥儀、極意というものがある。流派の秘密を探ろうとする者に対し、警戒心を抱くのは当然だ。自分とて、逆の立場なら口をつぐむか、曖昧な回答で相手をけむに巻いただろう。

 ――失敗しちまったかなあ。

 恭也の顔を注意深く観察する。特に気分を害したふうには見えないが、ポーカーフェイスが上手いだけかもしれない。先の立ち会い稽古で、彼の戦いにおける駆け引きの上手さは存分に見せてもらった。そういった人間は大抵、カードゲームにも強い。

 ――……希望的観測は、捨てるべきだよな。

 やはり先の回答は、自分の質問を警戒してのことと考えるべきだろう。

 謝らなければ。

 もし、違っていたとしても、そのときは勘違いでしたか、と笑って誤魔化せばよいことだ。

 柳也は口を開き、すぐにまた閉じた。

 彼が言葉を口にするよりも早く、今度は恭也のほうから質問が投げかけられたためだ。

「こちらからも訊いていいかい?」

「なんです?」

「桜坂君は……」

「あ、呼び捨てでいいですよ」

「分かった。なら、桜坂で」

「はい」

「桜坂は、赤星みたいに、剣道の大会に出ようとは思わないのか?」

「それ、赤星先輩にも訊かれました」

 柳也は思わず苦笑した。

「俺、両親がいないんです。うんとガキの頃に、事故で亡くしてしまいまして……。中学の頃までは、柊園長が経営している孤児院で育ったんですけど、いまは部屋を借りて、一人暮らししてるんです。ありがたいことに、両親は少なくない金額を俺に遺してくれましたけど、俺が成人するまでは、信頼出来る弁護士の先生に預かってもらっているんですよ。だから基本、貧乏暮らしなんです、俺。バイトもしなきゃいけませんし、部活とか、正直、やっている暇がないんですよ」

「だが、なにも学校の部活動にこだわる必要はないだろう?」

 勇吾相手には通用した言い訳を、恭也は淡々とした口調で否定した。

 彼は重ねて、より突っ込んだ内容の質問を口にした。

「全日本剣道連盟主催の大会の中には、一般参加のものだってある。桜坂の実力なら、かなりの上位に食い込めるはずだ。それに出ようとは思わないのか? お前のような男が、なぜ、二の足を踏む?」

「……」

 顔中の表情筋が、緊張から強張るのを自覚した。

 己を見つめる灰色の眼差しを、こちらも真っ向から睨み返す。

 お前のような男。

 それが、桜坂柳也という人間のどの部分を指しての発言なのかは、すぐに分かった。

 今日初めて出会った人間とはいえ、この男とは防具も身に着けずに木刀を打ち合った間柄だ。お互いの為人は、ある意味で親以上に理解している。

「俺はこれまでに色々な人間と剣をぶつけ合ってきたが、お前ほど好戦的な男は初めてだ」

 それほどの攻撃性を持って生まれながら。

 それほどの好戦欲求を抱えながら。

 数多の猛者達が集まる大会に、なぜ、興味を抱かないのか。

 己の闘争本能を満たしてくれるはずの場所に、なぜ、赴こうとしないのか。

 恭也には、その理由が分からなかった。

 桜坂柳也という人物のことが、分からなかった。

「強敵との立ち会いを望みながら、そこにいたる可能性から背を向けている。俺には、お前の態度は、矛盾しているように見える」

 矛盾を抱えながら生きるということは、自分の本心に嘘をついて生きるということに等しい。それはとても辛い生き方だ。そんな辛さを抱えてまで、どうして、お前は剣を学ぶのか。

 お前は、何のために剣を振るうのか。

 はっきり言葉にこそされなかったが、言外の意図は明らかだった。

 ――さて、どうしたものかねぇ……。

 険しい面持ちのまま、口の中で呟いて、柳也は小さく溜め息をつく。

 恭也の抱いた疑問は、なるほど、もっともだと思う。桜坂柳也という人間を知れば知るほどに、不審に思って当然のことだ。自分も逆の立場だったなら、きっと問いをぶつけていたに違いない。

 ――だからといって、簡単に答えられるような内容でもない。

 何のために剣を振るうのか。

 己にとってそれは、お前は何のために生きてるのか、ということを問われているに等しい。

 桜坂柳也という男の人生において、剣術とはそういう存在なのだ。哲学のようなものなのだ。

 そして、「哲学とは何か?」という疑問に答えるのが難しいように、この質問の答えを簡単に説明することもまた難しい。当然だ。一人の人間の生き方、人生観を短い言葉で表すことなど、おそらくは不可能だろう。きっと、質問をぶつけてきた恭也にだって出来はしまい。

 ――どう説明すれば、分かってもらえるかなぁ……。

 この時点で、柳也の中に、質問に答えない、という選択肢はなかった。

 これが軽い気持ちから生じた質問であったならば、愛想笑いの一つでも浮かべて、「言いたくありません」と、にこにこしながらかぶりを振り、話題を変えていただろう。

 しかし、そうでないことは恭也の態度を観察していてすぐに分かった。

 ――単なる好奇心や、軽い気持ちなんかじゃ決してない。この男は、同じ剣の道を往く同志として、桜坂柳也という剣者の本質を知ろうとしてるのだ。

 先の立ち会いを通じて相手のことを知ったのは、自分とて同じ。

 己の見たところ、高町恭也という男は人付き合いというものをかなり苦手としている様子。先の質問の仕方一つ取ってもそれは明らかで、飾りっ気のない言葉遣いは単刀直入が過ぎて刺々しい印象さえ感じられたし、射るような眼差しも減点の対象といえた。初対面の人間と接する態度としては、いささか攻撃的すぎる。

 おそらくこの男は、家族や赤星らごく一部の親しい友人達以外と話すこと自体、慣れていないのだろう。

 そして恭也は、自身のそんな欠点を自覚しているに違いない。彼の口数の少なさは、その自覚ゆえの態度と、柳也は推測した。

 ――そんな男が不器用ながらもぶつけてきた問いかけだ。口を開くには、かなりの勇気が必要だったはず。軽い気持ちなんかではありえない。

 本気には本気を。

 誠実な態度には、こちらも真摯さを胸に応じるべきだ。

「……〈誓い〉が、あるんですよ」

「誓い?」

 考え、悩んだ末に、昔話をすることにした。

 自分で、自分の生き方を定めた、あの日の出来事、あの日感じたことを、言葉にした。

「ウンとガキの頃、洟垂れ小僧だった自分と、誓ったんですよ」

 自分が剣術と出会ったそもそものきっかけは、直心影流の免許皆伝者だった父が与えてくれたものだった。

 テレビの特撮ヒーローだったか、それとも漫画の登場人物だったか。細かい部分は憶えていないが、とにかく、格好良く剣を振るう彼らの姿に憧れ、新聞紙を丸めてチャンバラごっこに明け暮れた。父はそんな子どもの遊びによく付き合ってくれた。そうした遊びの中に、段々と稽古が混じってきた。

「勿論、当時はそんな、稽古なんて認識はありませんでした。俺はただ、父との遊びが、父と遊べることが、楽しくて、嬉しかった。当時の俺にとって、剣とは遊びでした」

 認識が改められたのは、大好きだった父が亡くなってから。

 父が死の間際に自分に託した、最後の言葉を聞いたときから。

 強い男になれ。どんな時でも大切なものを守れる、強い男になれ。

「子どもなりに、必死に頭捻って考えましたよ。強さとは何か? 何をもって強いと言えるのか? どうすれば、強くなれるのか……。考えて、考えて、考え抜いて、下した結論は、強さとはイコール身体能力である、なんてガキの論理でした」

 身体を鍛えるために、父の親友で、自身もまた剣術の達人であった柊園長に師事した。

 親友の忘れ形見に対し、柊の課した鍛錬は苛烈を極めた。

 彼は、「まず心を鍛え、次いで技を鍛え、最後に体を鍛えよ」と、言って柳也を叩きに叩いた。

 幼き日の柳也は、柊のしごきの中で、心の強さという考えを初めて知った。

「〈霊釼〉という言葉を、ご存知ですか?」

「……名前だけなら。たしか、直心影流に四つある奥儀書の、初伝だったか」

「それで間違いないです。昔は、初伝じゃなく三本目に置いていたそうですが……」

 〈霊〉は、たましい、まこと、まごころを意味し、〈釼〉は、刀剣を意味する。

 すなわち霊釼とは、剣を持つ者が常に心がけるべき心構えが記された奥儀書なのだ。

「俺が霊釼之巻を允許されたのは一三歳のときでした。夏休みの期間中、鹿島にある家元の道場に泊まり込んで修行して、ようやく許しを得たんです」

 現在の直心影流正統は十八代目石動安仁。

 彼は霊釼之書を授ける際に、剣士として新たな一歩を踏み出そうとする若武者の顔を見て問うた。

 『きみは何のために剣を振るうのか?』と。

「それは……」

「ええ。まさしくいま、高町先輩が知りたがっていることですよ」

 柳也は苦笑しながら言った。

「霊釼之書が伝えるのは剣を持つ者の心構え。十八代目は、これから奥儀書を渡す相手に、邪念がないか見定めようとしたんでしょう」

 剣は、究極的には道具にすぎぬ。剣を宝剣とするか、妖刀とするかは、剣を振るう者の心次第。直心影流の技術を妖刀使いに授けぬために、十八代目はあんな質問をしたのだろう、と柳也は解釈していた。

「十八代目から問われて、改めて考えました。俺と剣の関係。俺にとって、剣とは何なのか。俺が剣を振るうのは、何のためか」

 剣術を本格的に学ぶようになってすでに五年近くが経過していた。

 いまや剣術は、己にとって単に強さを求めるための手段ではなくなっていた。

「俺は、十八代目に言いました。『桜坂柳也は、さらなる強さを求めるため、そして愛のために、剣を振るいたいと思います』と」

 穏やかな微笑み。愛という、人類がいまだその真理に到達しえぬ壮大な、あまりにも壮大な概念を口にしながら、男の表情からは照れや気負いといった感情は一切見受けられない。あくまで自然な笑みは、彼の言が真実心の底より生じたものであることを物語っていた。

「愛?」

「ええ……。父が、最後に託した言葉は、大切なものを守れるように。けれど、剣を始めた頃の俺には、そんなものはなかった。五、六歳のガキにとっては、両親が、世界のほとんどすべてでしたから」

 当時の柳也にとって、両親の喪失は、世界の終りに等しい出来事だった。

 父の遺言に従って、我武者羅に強さを求めたが、父の言う、守りたいと思えるほど大切なものはなかった。

 大切なものなどないままに、ただただ強さだけを求め、剣を振るい続けた。

 しかし、そんな日々はほどなくして終わりを迎える。

「出会ったんです。いまの俺の、大切なものと。テメェの命を張ってでも守りたいと思えるぐらい、大切な人達と」

「それは……」

「親友です」

 柳也は優しい面差しを恭也に向けた。

 秋月瞬。

 そして、高嶺佳織。

 あの二人が、自分に教えてくれた。気づかせてくれた。

「あいつらと出会って、気づかされました。自分がいかに愛されているのか。愛されるということが、どんなに嬉しくて、幸せなことなのか」

 従前、自分は人を愛し、人から愛されるということに無頓着だった。

 両親がまだ生きていた頃でさえ、彼らからの愛情を注がれて当たり前のものと見なし、自らも愛を返すということをしてこなかった。

 自分を鍛えてくれた、柊に対しても、そう。ただ肉体の強さのみを欲し、腹を空かせた野犬のような凶暴さで剣を振るう当時の自分と根気強く付き合ってくれた恩師からの愛情にも気づかなかった。

 そんな自分に、彼らは、愛されることの喜びを教えてくれた。

「恥ずかしい話ですが、両親が死んだ直後の俺は、軽い人間不信に陥っていたんです。両親は俺に少なくない財産を遺してくれました。その遺産を狙って、これまで会ったこともない親戚の連中が、家の周りをうろつくようになりまして……人間のいちばん醜い部分を見せられて、それが子ども心に衝撃的で……」

 力を追い求める一方で、心は弱いままだった。

 だから、他人を信じられなくなった。

 それでて自分はひどく寂しがり屋で、孤独を嫌った。いまにして思えば、当時そんな心理状態にあった自分が柊に師事したのも、独りになるのが嫌だったからなのだろう。効率は落ちるが、体を鍛えるだけなら、一人でも出来ることだ。

 他人が怖い。でも、独りでいるのも嫌だ。

 ああ、恭也の言う通りだ。

 矛盾を抱えながら生きるのは辛い。実際、自分は辛かった。

 辛くて、苦しくて、毎晩、泣いた。

 泣き声が誰かの耳に入るのが怖くて、毛布にくるまり、口を枕に押しつけて、泣いた。

「そんなザマでしたから、最初はそいつらのことも信じられなかったんです」

 彼らとの出会いは、神木神社のある山中でのこと。

 野犬の群れに襲われる二人を助けたのが、そもそものきっかけ。

「お礼がしたい、って言ったんですよ、あいつら。当然、俺は断りました。口ではそう言っていても、腹ン中じゃなに考えているか分かったもんじゃありませんからね。拒絶して、遠ざけました。でも、そいつら、諦めないんですよ。もう、お礼の押し売りって感じで。毎日々々、話しかけてくるんです。こっちがどんなに嫌だ、もう付きまとうな、って言っても、寄ってきたんです」

 何度拒絶しても、諦めなかった。

 何度遠ざけても、諦めてくれなかった。

 耳を塞ぎ、目をそむけ、あからさまな態度で無視をしても、彼らの心は折れなかった。

 なぜか?

 当時の自分にはなかった、心の強さを、二人は持っていたからだ。

 そして、心の強さを持たぬ自分は、やがて二人の熱意の前に屈した。

「最初に友達になろう、って言ってくれたのは、女の子のほうでした。男のほうは、実は当時の俺以上の人間嫌いで、いま思い出しても笑ってしまうぐらい、物凄い渋面作って、握手を求めてきました。女の子のほうが先に手を差し出してしまったから、自分も仕方なく、って感じで」

 瞬と佳織は、苦しみの中で生きる自分に、愛を教えてくれた。

 二人は何の見返りも求めることなく、自分を愛してくれた。

 友達だから。

 ただそれだけを理由に、途方もなく巨大な愛を向けてくれた。

 嬉しかった。

 だから、その嬉しさを瞬や佳織にも感じてほしくて、自分もまた二人を愛した。

「二人から愛というものを教えられて、ようやく気づきました。柊園長が俺に注いでくれていた愛に。しらかば学園のみんなが向けてくれている愛に。この世界には、たくさんの愛があふれていることに」

 愛の守り人になろうと思った。

 自分を愛してくれる人達を、彼らが愛する人達を守りたいと思った。

 守るために、剣を振るおうと誓った。

「高町先輩の言う通り、俺は戦うことが大好きな人間です。いわゆる、戦闘狂ってやつなんでしょう。強い男を見つければ胸が高鳴るし、ましてそれが俺と同じ剣士だとすれば他の何を犠牲にしてでも戦いたいと思ってしまう。そんな人間ですよ、俺は」

「なら、大会は……」

「はい。正直、出場資格のある大会が催される度に、テメェの闘争本能を抑えるのに必死です」

 柳也は思わず苦笑した。

「けど、誓いましたから。霊釼之巻を受け取るとき、目の前にいる十八代目ではなく、他ならぬ俺自身に」

 己が剣を振るうのは、強さを極めんがため。

 己が剣を振るうのは、愛のため。

 戦うことは楽しい。

 だが、それだけを目的に剣を振るいはしない。

 なぜならそれは、自分を愛してくれる人たちに対する、裏切りだろうから。

 ただ快楽を得るためだけに暴力を振りまくなんて、彼らが注いでくれた愛に対する、冒涜行為にほかならないだろうから。

「男が、ガキの頃の自分と交わした約束です。いまの俺が、そう簡単に破るわけにはいきませんよ」

「……そうか」

 瞑目し、ゆっくりと頷いた。

 会話が途切れ、二人の間に、静寂が訪れる。

「俺からも……」

 氷嚢の氷が七割ほど溶けてしまった頃、柳也が口を開いた。

「もう一つ、質問いいですか?」

「なんだ?」

「赤星先輩から聞いています。高町先輩も、大会とか、出ないんですよね? なんでなんです?」

「……俺も、同じだ」

 答えを口にするまでに、少しだけ、沈黙を挟んだ。頭の中で、考えをまとめていたのか。

「俺も、昔、誓ったんだ。直心影流の霊釼之巻とは違うが、何のために剣を振るうか」

「……詳しく、お伺いしても?」

「ああ」

 ちょうどそのとき、リビングのほうから丸い盆を抱えた晶がやって来た。

 盆の上には、注ぎ口から良い香りのする湯気が漂っている急須が一つと、湯呑みが二つ。それから、煎餅を載せた大皿が一枚。煎餅は一枚々々が小袋に包まれており、袋を開けると、これまた醤油の良い香りが鼻をつついてきた。

 「ごゆっくりどうぞ」と、盆を置いて立ち去る背中に感謝の言葉を述べ、年下の仕事とばかりに湯呑みに茶を注ぐ。

 湯呑みを受け取った恭也は静かに傾けて一口喉を鳴らし、それから、道場のほうを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。

「俺の場合は、死んだ父への誓いだった」

「お父さんへの?」

「ああ……。桜坂のところと同じだ。俺の父も剣士だった。父はフリーのボディガードをやっていたんだが、その仕事中にな」

 恭也の語った内容は、柳也も覚えのある事件だった。

 イギリスの上院議員を狙った爆弾テロ。犯人は厳重な警戒体制をすり抜け、爆弾の設置に成功。標的となった議員の命こそ守られたものの、護衛のあたったボディガードが何人も爆発に巻き込まれて死亡した。犠牲者の中には日本人も一人含まれており、それが、恭也の父だったという。日本での報道は小規模に留まっていたが、柳也は元警官の柊のツテで、詳しい概要を知っていた。

「あのときの事件の……」

「ああ……。父の遺体は向こうで火葬に出されて、俺達のもとに戻ってきたのは、遺骨と、生前父が使っていた愛刀だけだった」

 幼き日の恭也もまた、形見の愛刀を握りしめ、父の遺骨を前に、誓ったのだという。

「あなたが守ってきたもの……俺にとっても大切な人達を、今度は俺が守る。そのために、強くなる。そのために、この剣を振るう」

「……」

 自分と、同じだ、と思った。

 強くなるために、剣を振るう。

 大切な人達のために、剣を振るう。

 その生き方は、まさしく己の相似形のように思えた。

 ――似ている、か……。

 定食屋で赤星が口にした言の葉が、耳の奥で蘇る。

 境遇だけではない。

 その生き方までもが、これほど似通っているとは……もはや、笑うほかに取るべき反応が見つからない。

 ――この人は、もう一人の俺なんだ。

 左手で氷嚢を押し当てたまま、右手だけで熱い湯呑みを掴む。

 自分好みの濃い目の緑茶を一口、喉で味わってから、柳也は両足を正座へと組み換え、恭也へと向き直った。

「……柊園長の誘いに乗ってよかったです。高町恭也という人物と、出会うことが出来た」

「俺もだ。俺も、赤星のお願いを聞いてよかった。桜坂柳也という男と、出会えた」

 ふっ、と恭也の唇がほっそりとした三日月を形作った。

 それはよく注視しなければ従前との見分けがつかぬほど小さな、本当に小さな微笑みだった。

 ――……意外と、可愛らしく笑うんだな。

 初めて見る恭也の笑みに釣られたか。

 柳也もまた、莞爾と微笑んだ。

「……また、こちらにお伺いしても?」

「ああ」

 湯呑みを傾け、唇を湿らせてから、彼は頷いた。

「さっきの稽古を楽しいと感じたのは、俺も一緒だ。久しぶりに、燃えさせてもらった。こちらからも頼む。是非、また来てくれ」

「次は負けませんよ?」

「そうならないように、次会うときまで、俺も鍛えるさ」

 不敵な冷笑。

 剣者ならば当たり前のことが、存外、負けず嫌いな性質なのだろうか。

 そんなところまで似ているのかと、柳也は思わず苦笑した。




<あとがき>

 

 だいぶ前のことなのでいつだったのか忘れてしまいましたが、以前、読者の方から『恭也と柳也とではどちらが強い?』と質問されたことがありました。

 そのときは二人の身体能力や技量なんかを解剖学的に比較して、『条件が同じなら恭也のほうが強い』と、結論づけましたが、このとき両者を比べてみて、なんか二人って似てるよなぁ、と思いました。

 本編にも書きましたが、柳也と恭也は境遇から生き方まで本当にそっくり。桜坂柳也というキャラクターを造り込むにあたって、特に恭也を意識したわけでもないのにこんなにも似ているなんて、と当時は驚いたものです。

 そんな似た者同士の二人が実際に会ったら、そこにはどんな会話が生まれるのだろう?

 本作はタハ乱暴自身が抱いたそんな疑問から生まれました。お楽しみいただけましたでしょうか?

 タハ乱暴の拙作で少しでもお暇を潰せたのであれば幸いです。

 

 

 さて、ここからは執筆時の苦労話でも。

 恭也と柳也の立ち会い、そして最後の縁側のシーンを書くことが最大の目的だった今回のお話。ですが、肝心の二人を出会わせるまでがたいへんでした。二人の接点を作るために赤星に頑張ってもらったわけですが、この赤星が、思いのほか動かしにくかった! 原作「とらハ3」では、ヒロインのみなさんと比べて描写が少なかったですからね。彼という人物がなかなか見えてこない。何をどこまでやらせていいのか、常に考えながら書いていました。

 対照的に、書きやすかったのはほぼオリキャラと化した藤代。原作においてはほとんどモブキャラの扱いでしたからね。あそこまで描写が少ないと、こちらもかえって気がラクでした。特に抵抗なく、オリキャラ化させられましたよ(笑)。

 

 

 本作のラストは、個人的に味のある終わり方に出来たんじゃないかと自負しています。

 お話としてはこれで完結しているんだけど、この先の二人の物語が想像出来る……みたいな。

 いまのところこの話の続編を書く予定はありませんが、機会に恵まれれば、今度は高町家の他の皆さんとの交流とか描きたいなあ、と思っております。恋愛抜きにして、美由希とか晶との相性良さそうだし。あと、桃子に思わず恋をしてしまう柳也とかね(笑)。

 お読みいただきありがとうございました。

 ではでは〜

 

 

 

 

追記

 本編中で直心影流の十八代目正統を石動安仁としましたが、無論、これはフィクションです。

 名前こそ実際の十八代目正統をパロりましたが、為人については一切タハ乱暴の創作ですので。



アセリアAnotherの外伝的なお話。
美姫 「柳也と赤星や恭也との一幕ね」
だな。こうして見ると二人は確かに似ている部分もあるな。
美姫 「そうよね。まあ、女性関係に関しては全くと言って良い程違うけれど」
今回の立ち合いは恭也の勝利となったけれど。
美姫 「どちらにとっても良い経験になったみたいね」
と言うか、大変だよ。
美姫 「何がよ」
今回は柳也がいつになく真面目だ。まあ、らしい部分もあったけれど。
美姫 「まあ流石にね。今回は戦闘メインだしね」
それもそうだな。ともあれ、楽しませてもらいました。
美姫 「タハ乱暴さん、投稿ありがとうございました」
ではでは。



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