注)この話はHeroes of Heartに登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっております。
――1973年3月25日。
獅狼の身体が、再び人間のそれから改造人間・レオウルフのそれへと変わっていく。
コンマ秒の間に起こる劇的な変化は、全身の強化細胞の全機能を『変身』というひとつの目的のために集中させるため、怪人クラスの改造人間にとっては、数少ない弱点のひとつだった。
そのことをよく熟知しているはずの北斗は、しかし変貌を遂げる親友に手を出そうとはしなかった。
そればかりか、彼はレオウルフから視線を逸らすと、そのさらに遠くにいる、自らの半身へと意識を向けた。
光は、実際に戦っていた獅狼ですらてっきり死んだものと思っていた北斗の生還に、特に驚いている様子はなかった。
(ずいぶん遅かったですね……)
(すまない。あっちにちょっと好みのタイプの女がいたもので)
ふたりの間に、今更多くの言葉は必要なかった。
ただ視線を交わすだけで、相手の言いたいことは手に取るように伝わった。
(今度こそ負けないで。それから、ちゃんとわたしのところに還ってきて)
(ああ。まかせろ)
光の視線に北斗は力強く頷くと、改めて獅狼に視線を向けた。
北斗と光が視線での会話を交わしたのはわずか数秒に過ぎない時間だったが、たったそれだけの時間で、獅狼はもう変身を完了していた。
北斗は身の内から湧き上がる不思議な力を全身に馴染ませるようしながら、瓦礫の山を一歩一歩下っていた。
ブローニングのグリップに手をかけるでも、ファイティングポーズを取るでもない無防備な姿勢の北斗に、レオウルフは仕掛けようとはしなかった。
北斗が山を下り終え、さらに移動した。
レオウルフもそれに続き、二人の改造人間は校庭の中央辺りまで足を運んだ。
チラリと、北斗が遠くの光に視線をやる。
視線をレオウルフに戻すと、狼の頭が、ゆっくりと上下した。自分達の戦いの余波が光に及ばぬよう、暗黙の協定が結ばれた瞬間だった。
彼女から十分な距離を取った二人は、改めてあからさまな闘志を剥き出しにした。
北斗の視界からレオウルフの姿が消え、突然背後に気配が出現する。腰の回転がよく利いた、鋭い突きが音速のスピードで何百発と北斗の背面に迫る。
だがレオウルフのその拳は、鋭く大気を切り裂き、真空のかまいたちを無数に作るだけで終結した。4つの眼を持つ改造人間の視界から男の姿突如消え、次の瞬間には毛深い頬を殴られていた。
「……ッ!」
内剄を充溢したレオウルフのように音速の壁こそ突破していないとはいえ、高速で放たれた突きはまぎれもなく北斗が放ったものだった。
全開にした予知能力でレオウルフの攻撃を察した彼は、瞬間移動で咄嗟に怪人の側面に回り込むや、カウンターの突きを浴びせたのだ。
幸いにして素早く強化細胞が防御力を増し、内功によって強化された人工骨が衝撃を完全に吸収してくれたため大事には至らなかったが、攻撃を許してしまったレオウルフの動揺は大きかった。
まるで予想していなかった奇怪な攻撃を前に、自分の身に何が起こったのか、反応の遅れたレオウルフが反撃の蹴りを繰り出したときには、すでに北斗の姿は掻き消えていた。また、瞬間移動したのだ。
素早く蹴りを引っ込めたレオウルフは、地面を蹴ってその場を離れ、そこで改めて態勢を整え直した。
二度目の奇襲は許すまいと、レオウルフは全周囲に高度なテクノロジーと大自然の力によって強化された感覚の警戒網を張り巡らす。
攻撃の前に先行する北斗の“意”を読む……といっても、それは彼の心の中を読んでいるわけではない。敵の筋肉の動きや呼吸、さらには大気の微細な振動から、次の相手の行動を予測しているに過ぎない。
相手の姿が見えない現状では、彼の“意”を読むことは不可能。
必然、レオウルフはいつどこから攻撃が襲来しても対処出来るよう、身構えるしかない。
とはいえ、その警戒網は濃く広い。通常の攻撃の間合いのさらに遠くを狙える“気拳”を持つレオウルフの防空圏は、現時点で彼の半径数百メートルにも及ぶ。
その圏内に北斗が出現すれば、その挙動はすぐさまレオウルフの眼が捉え、耳が捉え、鼻が捉えて、最後には拳が捉える。捻りの利いた回し蹴りが、鋼鉄と同程度の強度を持つ北斗の肉体を破壊する。
イージス艦の防空網より濃密な警戒を張って数秒、反応は、突然現れた。
最初に捉えたのは狼の改造人間自慢の鼻で、次に捉えたのは獅子の改造人間自慢の眼だった。
レオウルフは瞬間移動の挙動を捉えたその先を振り返り、“気拳銃弾”を放とうとして、動きを止めた。
猫科の動物特有の胸の大きな瞳孔が見開かれ、集中を乱してしまった“気拳”は気力の銃弾として成り立たずに空へ霧散した。
視線の先で北斗は、百戦錬磨のレオウルフをして予想外の怪物とともにあった。
腹の底にまで響く獣の低い唸りが獅子の改造人間の耳膜を打ち、生体から決して感じられぬ油の臭いが、狼の改造人間の鼻腔を犯した。
レオウルフはそのシルエットを、中東の砂漠で何度も見かけていた。
精強なイスラエル軍団に組み込まれたそれを、彼自身いくつも破壊してきたし、圧倒的なその火力を前に、重傷を負ったこともあった。戦場においてその巨体は単なる兵器として以上にシンボル的な意味を持ち、大地を鳴らすその進撃の音を聴いただけで、レオウルフは実力以上の恐怖をその相手から感じたものだ。
その威容が軍団の中にひとつあるだけで、兵士達の士気はぐんと上がり、普段なら何でもない相手にも、何度も窮地に立たされた。
北斗はその鋼鉄製の魔物の上で、額に脂汗を浮かべながら会心の微笑を浮かべていた。
レオウルフを見下ろす視線は獲物を前にした狩人のように鋭く、冷徹に輝いていた。
レオウルフは反射的に身を翻し、北斗の視界から逃れようと地面を蹴った。
逃げようとする改造人間の背中を、61式戦車の、90mm砲が狙っていた。
Heroes of Heart外伝
〜漆黒の破壊王〜
―――奪われた誇り―――
第十六話「漆黒の微笑」
(……どうにか上手くいったようだな)
内心の喜びとは逆に、強力な援軍を連れて出現した北斗の表情は、辛そうに歪んでいた。
超能力の使用は北斗の精神と肉体に大きな負担をかける。まして短時間のうちの連続使用となれば、常人ではとても想像がつかないような苦痛を伴うことになる。特に、瞬間移動の際の苦しみは別格だ。
サイコキネシスなどの能力の連続使用はせいぜい軽い頭痛がする程度の痛みだが、瞬間移動の場合には“キーン”という、高周波音が耳の中を満たすとともに、全身の細胞が引き裂かれるような苦痛が襲い掛かってくる。言葉では形容しがたい灼熱した感覚……強いていえば、全身が引き伸ばされて何か別のかたちに置き換えられるかのような、到底人間の知覚で感じられるはずのない感覚が、肉体と精神の両方を打つ。
痛みは瞬間移動を終えてしまえばぴたりとやんでしまうが、空間を超越する際の一瞬は、時間の流れるスピードが何倍にも引き伸ばされるようで、そこを通る際の苦痛を長引かせた。
また、瞬間移動が終わっても、気を抜くことは許されない。
瞬間移動したその場所が、ちゃんと移動の際に設定した目的地であるか否か。瞬間移動したその先の空間に、大気や空気中の微生物以外の異物が混ざっていないかどうか。このふたつが確認出来るまで、緊張の糸は張り続けていなければならない。
特に、後者の確認は重要だ。物理の常識では二つの物体が同時空間を占拠することはあり得ない。もしそんな事態になれば、SF小説の世界では素粒子同士が衝突して、地球が吹き飛ぶほどの大爆発が起こるとされている。
さすがにそんな大事が起きるとは北斗は思えなかったが、それでも、気を抜くことは許されない。瞬間移動は、〈ショッカー〉の科学力でも実現出来なかった事象だ。自分自身、つい先ほど発現させたばかりの能力で、100%理解しているとは言い難い。
想像を絶する苦痛と極限の緊張。しかし、それら過酷な試練に耐えることが出来れば、強大な敵に対するアドバンテージが手に入る。
敵の死角へと瞬時に回り込んで奇襲をかけることも、一旦遠くまで移動して、強力な援軍を連れてくることも、自由自在となる。
レオウルフの後ろ回し蹴りを予知能力で察知した北斗は、瞬間移動してそれを躱すとともに、学校から何百キロもの彼方にある、陸上自衛隊練馬基地にジャンプした。
練馬基地は陸上自衛隊の第1師団の本拠地で、第1師団は普通科(歩兵)3個連隊を基幹とした甲師団。普通科連隊の他に1個の特科(砲兵)連隊を擁し、戦車も五十両持っている。
瞬間移動の際に身体だけでなく、着ている衣服や装備も一緒に転移することに気が付いた北斗は、それならば戦車などの大型兵器も一緒に運ぶことが出来ないかと考え、見事それを証明してみせたのだった。
61式戦車は現在(1973年)の陸上自衛隊の主力戦車で、戦後初の国産戦車である。搭載する主砲は52口径90mmライフル砲で、この場合の52口径は砲の長さを表わし、砲弾の直径90mmの52倍、すなわち4.68mを意味している。徹甲弾と榴弾の2種類の砲弾が使用可能だが、今回北斗が連れてきた戦車には、徹甲弾のみが積載されていた。
北斗は条件反射で一刻も早く射線から逃れようとするレオウルフの背中に、主砲の照準を合わせた。
サイコキネシスで無人のコクピットのアビオニクスを遠隔操作し、61式戦車の主砲の照準を統制する3つの装置に火をつける。砲弾の速度と距離を顧みればそれら複雑なシステムを起動する必要性は低かったが、より高い確実性を求める鷹の眼は、鋭い赤外線の眼差しを標的に向けた。
サイコキネシスによって外から力を加えられた90mm徹甲砲弾を装填する。あとは、砲手席の引き金を引くのみだ。
北斗はレオウルフの姿を視界に捉えながら、別の視界をも見渡していた。
今、北斗は61式戦車の回転砲塔の上に立っていたが、操縦席の様子は、鮮明な映像となって彼の脳裏に映っていた。まるで本当にそこに人が乗っているかのように、無人の戦車は一個のシステムとして正常に機能していた。
北斗はレオウルフの背面ど真ん中に照準を定め、戦車砲の引き金を引いた。
次の瞬間、音速の壁を突破した炎と砲弾が砲口から飛び出し、マズルブレーキからは猛烈な勢いでジェット流のように灰色の煙が噴出した。
さらに一瞬の後、この世の終わりを連想させる轟音が校庭の空気を掻き乱した。
“ドゴオオオンンッ!”
90mm徹甲砲弾が秒速910メートルの猛スピードで大気を引き裂き、本来の戦車戦では絶対にありえない十数メートル先の標的に向かって、一直線に吸い込まれていく。
件の標的……レオウルフは、いつの間に再び振り返ったのか、その場に踏みとどまり、砲弾に真っ向から立ち向かおうとしていた。
――間に合わないッ!
4つの耳が同時に知覚した、戦車砲弾が装填された機械的な音。
瞬時に自分の逃走が無駄に終わると悟ったレオウルフは、踏み出した一歩目で足を止め、踵を返した二歩目を、一歩目の足より後ろへとやった。
理性より本能が先に先行し、レオウルフ身体を、口を開いたマンモスの牙へと立ち向かうよう突き動かした。
振り返った改造人間の4つの眼は、自分のちょうど心臓の位置に、人間の視界では補足不可能な、赤外線の細い糸が真っ直ぐのびているのを見た。それが61式戦車の照準用の赤外線レーザーだと気付くのに、そう時間はかからなかった。
次の瞬間、猛烈な爆音とともに目の前の巨砲が火を噴いた。
“ドゴオオオンンッ!”
それは文字通り、天地を揺るがす雄叫びだった。
ハイ・スピードカメラのレオウルフの視界は、その光景を数ミリ秒単位でつぶさに観察した。
砲口から飛び出すとんがり帽子のような砲弾。マズルブレーキから噴出する火炎と猛烈な噴流。射撃の反動で35tの巨体が大きく揺れ、その上に立つ親友の姿が何重にもぶれて見える。
そしてゆっくり高速回転をしながら、910メートルの秒速で真っ直ぐにじり寄る徹甲弾。
わずか1秒と少しで1キロを進むその矢を目前にして、レオウルフもまたマッハの動きで反応した。
特に何か考えがあっての行動ではない。瞬間的に下した決断は理性によるものではなく、本能による咄嗟の反射だった。理詰めで考えての判断であれば、きっと躊躇っていたことだろう。
とにかく目の前の脅威を駆逐しなければ――――――結晶化したひとつの純粋な思いが、レオウルフの身体を突き動かした。
レオウルフは後ろに引いた足を摺り足で前へと踏み出した。と同時に、異形の改造人間の腰が、腕が、トルネードのように回転し、突きを繰り出した。
前進によって生じたエネルギーのすべてを拳に集中させた“追い突き”は、音速の何倍ものスピードで、突き抜けていくかのような勢いで放たれた。正確無比の照準が狙うのは、真っ直ぐ己の心臓を狙う徹甲弾。
獅子の大きな手と90mm砲弾が、真正面からぶつかり合った。
互いの持つ運動エネルギーを急速に奪い合い、両者の会敵は一瞬で終わった。
エネルギーのぶつけ合いに敗北したマンモスの牙は、あらぬ方向へと弾き飛ばされた。
陸の王者が放った砲弾は鋭かった先端をぐしゃりと潰され、61式戦車の背後にある校舎の窓を、盛大に突き破った。
ガラスの割れる甲高い音と、腹の底にズーンとくる爆音が重なる。
90mm砲の第二射が、早くもレオウルフに迫っていた。
レオウルフが素手で90mm砲弾を弾き飛ばした瞬間には、さしもの北斗も息を呑んだ。
しかし、それで取り乱して冷静さを損なうような彼ではない。
北斗の驚愕は一瞬で完結し、驚きの尾を引くことなく彼は、冷徹に90mm砲の第二射を放った。61式戦車にはソ連製戦車のような自動装填装置は採用されていなかったが、北斗のサイコキネシスによる射撃プロセスの遂行は、回転砲塔に収められた戦車砲に、異例の発射速度を与えていた。
一発目の砲弾を撃ってからわずか1秒。高熱を発する砲身の中を暴れ回り、再び徹甲弾が閉鎖空間から開けた世界へと解き放たれた。
校舎に取り囲まれた校庭の空気を撹拌しつつ、レオウルフとの距離を一息もかからぬ速さで詰める。
はたして、レオウルフは、先ほどとまったく同じように、拳を突き出した。
一歩前進して61式戦車との隔たりを狭めつつ、脅威の鉄拳が砲弾をまたも弾いた。
今度は61式戦車の正面装甲を掠めて、弾かれ砲弾は後方へと飛んでいった。背後で、窓ガラスの割れる音ではなく、コンクリートのひび割れる鈍い音が鳴る。どうやら砲弾は、校舎の外壁にめり込んだらしい。
火力が足りないと、北斗は思った。
絶対的に砲の数が不足している。敵は自分よりも数世代は先の改造人間で、しかも内功を駆使して防御力を飛躍的に高めている。少なくとも、大口径のカノン砲が10門は必要だ。同じ90mmなら、20門は用意しなければ……。
しかし、新たに火力を用意するためには、またあの苦痛を乗り越えて瞬間移動しなければならない。それも、一度に運べる量は限られるから、何度も行わなくては。
すでに連続の瞬間移動で心身ともにかなりの消耗をしているというのに、この上さらにそれを続ければ、蓄積された疲労は致命的なものになりかねない。これ以上の瞬間移動の使用は、極力控えねば。
(……待てよ)
無駄とは分かっていながらも、レオウルフの進撃を少しでも遅らせるべく第三射を撃ちながら、北斗は不意に脳裏をよぎった考えに取り付かれた。
――なにも、自分が瞬間移動をする必要はないのではないか。自分が瞬間移動して砲をこの場に持ってくるのではなく、砲を瞬間移動させてこの場に持ってくることは出来ないだろうか。
(試してみる価値は、ある……)
北斗は敵の姿を目前に捉えながら、瞑目した。
意識を極限まで研ぎ澄まし、ただひとつの目的のために自我のすべてを集中する。
瞼の裏に、遠く離れた『ダーク』秘密基地の、武器弾薬庫の様子がまざまざと蘇った。『死の商人』、『闇の兵器廠』としての側面を持つ『ダーク』の武器庫には、ありとあらゆる種類の武器が、種類も豊富に、大量に揃っている。
北斗はその中のいくつかをピックアップすると、自身がそれらの武器になった気持ちで、瞬間移動を開始した。それぞれの移動先を個別に選別し、ジャンプさせる――と、そこで北斗の思考は中断させられた。
案の定、第三射を弾いたレオウルフが、本格的に61式戦車へと迫ってきた。
北斗は秒と間隔を置かずに連射した代償によって、数百度にまで達した90mm砲の砲身を気遣いながらも、第四射目を放った。と同時に、主砲同軸に備え付けられた近接防御用の7.62mm機銃の発射グリップにも、サイコキネシスの触手をのばす。また自身もただ回転砲塔の上に突っ立るだけでなく、対空防御用の50口径ブローニングM2機関銃と、戦車兵の装備として車内に積まれていたM3サブ・マシンガンを手に、持てる火力のすべてを集中し、レオウルフの進軍を阻もうと必死の抵抗を試みた。
一分間に400〜550発という圧倒的火力の猛威を振るいながら、それぞれ初速の異なった三条の火線が、複雑に絡み合ってレオウルフを制圧しようと襲いかかった。50口径キャリバー機関銃が猛然と火を噴き、90mm砲弾の後を追う。
35tの車体を大きく揺らす主砲発射の反動もなんのその、正確な照準の下集中する三条の火線は……しかし、獅子と狼の改造人間を補足することはなかった。
90mmの徹甲弾はレオウルフの身体をスーと透り抜けただけで、彼がダメージを被ることはなかった。後に続く3つの銃火も同様に、何の抵抗もなく肉体を突き抜けただけで、あとは空気抵抗によって運動エネルギーのすべてを喪失するまで、無為に虚空を薙いでいくばかりだった。
砲弾に貫かれ、銃火を浴びせかけられた改造人間の身体から、出血はない。
そればかりか、まるでフィクションの世界から飛び出してきた幽霊か何かのように、攻撃が命中した部分が透けて見えている。薄っすらと頼りないその姿からは、まるで存在感を感じ取れない。
残像だ。
(いつの間に……ッ!)
超音速の世界に生きるレオウルフのスピードを以ってすれば、自分の目を欺くことはいとも容易いことだろう。
しかし、こうも簡単に目の前で残像だけ残して消え去るなんて……驚愕に両眼を見開いた北斗は、不意に背筋を走った悪寒に小さく身を震わせた。
潜在的な生命の危険を本能が感じ取り、予知能力が、自動的に発動する。
射撃のマズルフラッシュで眩む視界……刹那の間訪れた白い暗闇を、鮮烈な映像が塗り替えた。
数瞬後に待つ己の未来を垣間見た彼は、瞬間の判断で膝を折った。
頭二つ分低くなった彼の頭上を、無音の拳撃が突き抜けた。直後、攻撃が音の壁を突破した証である衝撃波が、北斗の髪を凄まじい勢いで薙いでいった。
その拳風の嘶きに掻き消され、背後で鳴らしたレオウルフの舌打ちが、北斗の耳に届くことはなかった。
北斗は頭上の右腕の手首を咄嗟に掴んだ。
北斗の両手の血管が瞬時に膨れ上がり、レオウルフの手首を強く前へと引っ張った。
筋肉の動きと呼吸の調子、鉄の箱の上で踏ん張る両足と、肩甲骨と背筋の脈動から北斗の狙いが投げ技にあることを悟ったレオウルフは、そうはさせじと両足に力を篭め、その場に踏み止まろうとした。
その刹那、90キロの改造人間の重心がわずかにバランスを崩し、この好機を見逃すことなく、北斗は全身の筋肉を躍動させて、レオウルフを背負い投げた。
内功を繰ることの出来るこの世で唯一の改造人間は、“意”を読む暇さえ与えられないほどの素早く、鮮烈な変則技によって、頭を下に真っ逆さまに落下していった。
視界いっぱいに広がる空は濃い緑色の、やや丸みを帯びた圧延鋼板の空だった。61式戦車の砲塔の前面は、最も厚いところで114mmもの厚さがある。丸みを帯びて一見すると柔らかそうな印象を与える61式の砲塔の装甲だが、その実体は敵の戦車砲弾を受け止めるための硬い鎧だ。落下速度によっては、強化人工骨で構成された改造人間の頭蓋とて、無事では済まない。
しかしレオウルフは、すぐにでも受身の準備を取らねばならない状態にあるにも拘らず、反撃の蹴りを、なんと落下しながらの状態のまま放った。
北斗は咄嗟に首を引いて敵の攻撃を躱すと同時に、至近距離からの12.7mm弾の連射でレオウルフの身体を吹き飛ばそうとしたが、首を引くのも、ブローニング機関銃のトリガーに指をのばすのも、やや遅かった。
“シャィィイン!”
一条の閃光がレオウルフの右足からのび、北斗の眉間に一直線に向かっていった。
首を引こうとしていた矢先のことで、北斗はその直撃こそ間逃れたものの、レオウルフの蹴りは、彼の眉間をぱっくりと裂いていった。
まるで鋭利な剃刀か何かで切り裂かれたかのような傷口からは、一瞬遅れて鮮血が迸った。北斗の視界が、一瞬にして真っ赤に塗り替えられる。
北斗は額と両眼を濡らす、燃えるように熱い雫に苦悶しながら赤黒くかすむ視界の中で、手探りでキャリバー機関銃のグリップを見つけ出し、握り締めた。
“グシャリ”という、すぐ傍で鳴った鈍い音を頼りに、その方向へと銃口を向ける。
思い切ってトリガーを引き絞ると、受身を取るのに失敗したレオウルフの身体を、12.7mm弾のフル・オート射撃が滅茶苦茶に打ちのめした。さしもの新型改造人間も、頭を下に墜落した直後では体も思うようには動かなかったらしい。
無数の機関銃弾がレオウルフの体へと吸い込まれていったが、至近距離にあるにも拘らず、その強靭な肉体を貫いた弾丸は一発もなかった。
その代わり銃弾はレオウルフの体を滅多打ちにし、90キロの巨体を彼方へと吹き飛ばした。
一度は狭まった両者の距離が、再び圧倒的に、狂おしいほどに開いていく。
遠ざかる親友の姿を細い眼で見つめながら、北斗は胸の内で喝采を叫んだ。せっかく機能が回復したところにまた激戦による損傷を受けたのか、血に染まる視界は劣悪だった。
レオウルフとの距離が一定以上に離れると、彼は再び瞑目した。
普段よりも何割か狭まった視界を閉ざすと、再び瞼の奥に、遠い彼方の武器庫の景色を思い浮かべた。
その映像を網膜ではなく脳裏に描き、人工水晶体ではなく心に刻み込むと、北斗は瞠目した。
直後、北斗の四方を取り囲む大気が、風もないのに不自然に揺れ動き、空間が、捻じれて歪んだ。
次の瞬間、鮮烈な閃光が、校舎全体を包み込んだ。
校舎の陰に隠れる光、態勢を立て直そうと気息を整えて立ち上がろうとするレオウルフ、そして、ぶっつけ本番の超能力実験を試みた北斗の視界が、白い闇に覆われて何も見えなくなった。
しかし、鋭敏な感覚を持つ改造人間のふたりだけは、その眩い光の中で起きている変化に気が付いていた。
夜を真昼へと誘う閃光が収まり、三人の視界が正常な色彩感覚を取り戻す。
変わり果てた学校の姿を見て、ある者は驚愕に声を上げ、ある者は背筋を走った戦慄に毛深い頬を引き攣らせた。そしてある者は、自分の思い描いた通りの変貌を遂げた母校にして学び舎の姿に、満足そうにニヤリと笑った。苦しげに男の唇から漏れ出た呻き声は、わずかに喜色に染まっていた。
ぶっつけ本番の瞬間移動実験は、成功していた。
学校は、瞬時にして要塞へと変貌を遂げていた。北斗が脳裏に思い浮かべた通りの配置に、十数門の大砲、数挺の機関銃が鎮座していた。
90mm砲一門の火力不足を嘆いていた北斗も、新たに呼び寄せたこの援軍の数、そしてそれらの砲一門々々が持つ威力には文句のつけようがない。その陣容、155mmの戦車砲が二門、75mmのカノン砲が四門、『ダーク』オリジナルの127mm砲が四門に、105mmの榴弾砲が四門の、計十四門。他に校舎の屋上には八挺もの軽機関銃が配置され、レオウルフに対する脱出不可能の包囲陣を形成している。
強力な反動と爆風を伴う大口径砲は地上に、比較的反動の小さい小口径砲は校舎に。そして『ダーク』オリジナル・ブランドの砲は特殊な製法により、口径のわりに反動と爆風が少ないため建物の中、あるいは屋根の上に搭載され、正確な照準でレオウルフを狙っていた。
スターリンの言葉ではないがまさに『砲は力なり』。
圧倒的な砲の力を手にした北斗は、光の安全に最大の注意を払いながら、すでに砲弾の装填された火砲の群れ、機銃の軍団に、一斉に射撃命令を下した。
今日にいたるまで多くの戦場を駆け抜けてきた獅子と狼の改造人間も、今度ばかりは裸足で逃げ出したい気分だった。
しかし、自分の逃げ道を塞ぐように配置された火砲と機銃の守りは見るからに鉄壁で、とてもではないが突破出来そうにない。かといって、いかに内功で強化した改造人間の肉体でもこれだけの数の砲をすべて凌ぎきるのは不可能だ。回避に徹したところでまったくの無傷ではいられないだろうし、なにより敵の砲の中には榴弾砲が三門もある。炸薬の量にもよるが、広範囲に破壊の威力を撒き散らすこの種の砲弾から逃げ切ることは、今の自分には出来ないだろう。
今やレオウルフに残された選択肢はたったひとつ。理詰めで考えれば誰だって躊躇するような、無謀な選択肢しか残されていなかった。
(…腹、括らねぇとな)
もはや退路は完全に絶たれてしまった。
いやそもそも、己に退路などというものは始めからなかった。認めたくないが自分はとことん不器用な人間だ。そんな要領良く退路を確保し、逃げるなんてことは、とてもではないが出来た試しがない。
十四年前の悲劇の日から今日この瞬間まで、自分に与えられたのは常に『ただ前進あるのみ』という、頭の悪い選択肢だけだった。
近道も回り道もせず、どんな困難が待ち構えていたとしても、決して道を変えることなく、ただひたすらに真っ直ぐ突き進む。そんなだから当然傷つくし、倒れもする。洗っても落ちないような泥も被るし、惨めな思いをすることだってある。
しかし、そんな苦しい思いをしたその先に……いつも自分は辿り着くことが出来た。
傷だらけになりながら…。泥だらけになりながら……。何度も倒れて。何度も失敗して。それでも諦めることなく、いつも前へとひたすら進んだその先に、未来はあった。
「うっし!」
レオウルフは自分の両頬を軽く叩いて気合を入れた。
自分に逃げ場はなく、圧倒的な火力の前には防御も回避も無駄。ならばこの際、腹を括って真正面からぶつかっていこうではないか! 逃げることや避けること、耐えることなどの一切の防御を捨てて、果敢に攻撃してやろうではないか。
自分はもともと小手先の技や計略に頼れるほど器用な人間でもなければ、頭の良い人間でもない。話は単純な方が性に合っているし、難しいことを考えなくていい分、力も出る。むしろ防御に回るより、攻撃に回った方が生き残れる確率も高いだろう。
意を決したレオウルフは、静かなる闘志をたたえた青銅の視線を、キッと北斗に向けた。
4つの眼に煌々と宿る輝きは、磐石不動の勇気に支えられた決意の灯火だった。
レオウルフの視線を真っ向から受け止める北斗は、わずかに眉根を寄せる。十四もの砲に囲まれて、絶体絶命の危機的状況にあるはずの男の目が、むしろ気迫凛然としていたからだ。最悪の状況を前に開き直ったか、それとも自棄になったのか……いや、どちらも違うようだ。レオウルフの全身から放出される闘志のオーラは、諦めの色には染まっていない。
北斗は、炯々たるその青銅色の瞳に、どこか既視感を覚えた。
あの眼が宿す輝きを、自分は今日までに何度も見たことがある。いちばん最近では、そう、ほんの数時間前に、あの海際の倉庫街でいくつも遭遇した。山口達8名の〈ゲルショッカー〉戦闘員達が、その瞳に宿していた光だ。死という逃れがたい運命を覚悟してなお戦おうとする、決意の煌きだ。
人間は最後まで、自分の安全を保とうとする自己保存本能に支配される動物だが、結晶化したひとつの純粋な意識は、それを軽々と突き抜けることが出来る。
強い意志と不断の決意を原動力に、不可能を可能へと変える、未知なる力がある。
レオウルフは無言で利き腕を真っ直ぐ前へと伸ばした。右手の甲を下に向け、親指を除いた四本の指を、一斉に起こしては下げ、起こしては下げる。……それが、14門の巨砲を前にしたレオウルフの、意志表示だった。
次の瞬間、地獄の釜の蓋が、一斉に開いた。
レオウルフの逃げ場をなくすよう全方位に配置された砲の数々が、ついにその巨大な口から炎と黒い煙と、人間の身体さえも揺らす暴風、長い喉を焼く灼熱の痛みからくる絶叫、そして人類が生み出した愚かなる破壊の唾が、吐き出された。爆風と爆音が辺り一帯の空気を席巻し、発射の反動で大地が激しく震えた。
殺戮の吐瀉物は極めて正確な狙いで、たったひとりの男を倒すためだけに飛翔した。
最初にレオウルフに到達せんとするのは四門中の二門に装填された、127mm砲が放つ徹甲弾で、それぞれ左斜め後ろと右側面から、同じスピードで目標に肉薄した。
レオウルフは取り立てて動じる様子もなく、震える大地をしっかりと踏ん張り、迎撃のための……否、攻撃のための構えを取った。
「フゥゥゥ……!」
レオウルフの中を、大自然の力が駆け抜けた。
強化された人工肺いっぱいに溜まる汚染された空気は、しかし、それでも多くの生命に満ち溢れていた。普通の人間であれば感じることすらない、大気中に生きる微生物やバクテリア、細菌などの生命の断末魔の叫びを、レオウルフはひしひしと感じ取った。肺の中で息絶えた彼らの生命のエネルギーは、レオウルフの身体を動かす原動力となって、改造人間の五体に無限の力を与えた。
新鮮な酸素を取り込んだ血液が全身を駆け巡り、まるで自身が太陽になったかのような熱量が、男の身体の中で渦を巻いていた。
レオウルフは右足を軸に、後ろ回し蹴りを放った。同時に左の拳を突き出し、一回転のワンアクションで、2発の徹甲弾を一気に沈黙させる。
360度回転すると、弾いた徹甲弾の行方には眼もくれず、彼は走り出した。
まっすぐ、前へと。
目の前にいる、己の人生最大の敵の元へと。
両側面から襲いくる二発の75mm徹甲弾。真正面から襲来する90mm徹甲弾。
北斗のように才能や超能力の恩恵ではなく、自らの努力だけで極音速の世界にまで到達した男は、針の穴に糸を通すような精度で、短い呼吸の最中に幾千ものパンチを繰り出した。
猛烈な拳撃の嵐に二発の徹甲弾が軌道をそらし、残る一発は真正面から襲ってきたがために、何度も何度も男の大きな拳を受けて、その運動エネルギーを失って墜落した。
地面に転がった徹甲弾の残骸を飛び越え、未だ震える大地を自らの足で揺らしながら、レオウルフはさらに驀進する。
北斗との距離は僅か10メートルほどで、内功を使わずとも改造人間の運動能力なら秒とかからぬ距離だ。しかし、砲弾と格闘しながらの進撃は、思うように距離が縮まらない。5発の砲弾を沈める間に詰めた距離は、僅か2メートルに過ぎない。
そうこうしているうちに、レオウルフの右斜め後方から、155mm砲の砲弾が襲ってきた。
レオウルフは右腕に“気”のエネルギーを集中させると、拳骨ではなく肘鉄から、気力の弾丸をばら撒いた。気拳散弾の変形だ。
レオウルフの後方に青白い光弾の弾幕が張られ、155mm砲弾がたちまち穴だらけになって、崩壊していく。
その一方で、もう一発の155mm砲弾が、レオウルフの左斜め前から迫っていた。
“気拳”を放つには近過ぎる距離に、レオウルフは迷わず左のストレートを放った。
真正面から打ち据えた一撃に、155mm砲弾の弾頭部が“ベコッ”と、凹み、その刹那、小さな、“カチリ”という、何かスイッチが入ったような音が鳴った。
155mm砲弾の、信管が作動した音だ。
(しまった……!)と、レオウルフが思う間もなく、155mm径の榴弾は爆発した。
7.2キログラムの炸薬が炸裂し、圧倒的なエネルギーの奔流が、超至近距離でレオウルフに直撃した。爆発で生じた台風が90キロの巨躯を紙のように吹き飛ばし、散り散りになった砲弾の破片が、強化された改造人間の皮膚装甲を突き破り、一部にいたっては貫通し、体に突き刺さらないまでも、その多くが彼の身を切り裂いた。
また、爆発の衝撃によって歩みの止まったレオウルフに向かって、一揆阿世とばかりに残る七発の砲弾が降り注いだ。
三発の105mm榴弾のうち一発がレオウルフの側で着弾して彼を吹き飛ばし、空中で身動きの取れぬところを、二発の75mm徹甲弾が引き裂いた。
さらに残る2発の105mm榴弾が直撃し、爆発の炎がレオウルフの身体を一口で飲み込んだ。
榴弾の爆発によって生じた爆風と炎と殺戮の破片は、被害が無意味に拡大せぬよう北斗が超能力でレオウルフの周囲をシールドしたため、北斗や光に害が及ぶことはなかったが、その分、閉ざされた空間の中で、爆発の全エネルギーと破片の礫を全身に浴びるレオウルフは地獄を見た。2発の榴弾の爆発によって視界はたちまち真っ赤に染まり、数千度の熱いシャワーが彼の身体を濡らす。強化細胞が織り成す肌が沸騰し、ふたつの口から取り込んだ空気が人工肺を強姦した。鉄の嵐が改造人間の皮膚をべろりと引き剥がし、そのうちの一片が、狼の左眼を抉った。
そしてトドメとばかりに、2発の127mm砲弾……2発の成形炸薬弾が、炎の光芒の中に飛び込んだ。
時限信管が作動し、二条のメタルジェットの烈風が、秒速8000メートルの超々圧力の洗礼をレオウルフの体に叩き込む。均質圧延装甲であればゆうに700mmを貫通するジェットの奔流が、改造人間の強化細胞の一片一片を焼き尽くし、引き裂いていく。
痛みを超える痛みに、レオウルフは絶叫した。腹いっぱいに溜め込んだ空気の全部を使って、喉を震わし、舌を震わし、全身の細胞を、細胞の奥にある自らの魂までもを震わせて、音を伝える空気が張り裂けんばかりの悲鳴で、己の痛みを訴えた。
しかし、狼と獅子のふたつの口から轟く絶叫が、北斗の鼓膜を振動させることはなかった。
超能力のシールドの中で荒れ狂う嵐の咆哮が、男の口から迸る絶叫を掻き消していた。
その嵐の雄叫びすら、戦いの余波でついにところどころ崩壊を始めた校舎の、断末魔の叫びによって押し潰された。
校舎の崩壊が光におよぼす影響はない。
崩落するコンクリート片が北斗や、北斗が配置した大砲の群れを傷つけることもない。
しかし、レオウルフだけは……
レオウルフにだけは、まるで追い討ちをかけるが如く、様々な大きさ、様々な形状のコンクリート片が、濁流のように降り注いだ。
同様に降り注ぐ塵と埃が大気を占領し、地獄の渦中にある改造人間の姿を覆い隠す。
それは同じく改造人間である北斗の視力を以ってしても、レオウルフの姿を捉えられぬほど濃い密度で、土砂は空気を席巻した。
……やがて、轟音が消え、残響だけが、北斗の耳に残った。
煙が晴れ、火炎の地獄だけが虚しく風にはためいていた。
車上の北斗は、未だ旋風の吹き荒れる戦場に、その姿を見つけた。
「……終わった」
砂塵が晴れ、隠されていた男の姿が露わになる。
地面に倒れ伏すその異形を見て、北斗は確信した。
十四発の砲弾のうちゆうにその半分が圧倒的な改造人間の力の前に無力化されてしまったわけだが、特に強力な七発は十分にその威力を発揮してくれた。
今やレオウルフは青色吐息の有様で、弱りきったその姿は、鉄砲水を前にする枯れた一本の柳のようですらある。川の流れに逆らうことなく、風の吹くがままに身を晒す……しかし自らは決して倒れることなく、その生き方は一見か弱そうに思えるが、往々にしてタフ。だが、そんな柔靭な柳の生き方にも、限界はある。命の炎燃え尽きんとする瞬間にあっては、たとえ柳であっても濁流に呑まれ、鉄砲水に根を砕かれてしまう。
だが、倒れ伏すレオウルフは、根どころか魂すら失っていてもおかしくないほどのダメージを負いながら、しかし眼だけは、爛々とした光芒をたたえ、北斗を鋭い眼差しで見据えていた。
そればかりか、レオウルフは腕の力だけで、地面を這って前へ進もうとしていた。両足の強化人工骨だけでなく腕の骨も折れてしまっているらしく、それは安全性も速度も犠牲にした不恰好な匍匐前進になってしまっていたが、それでも、彼はミリ刻みで北斗との距離を詰めようとしていた。
そのあまりの惨状! 戦慄すら覚えるほどの闘志!
這って前に進むレオウルフの黒い身体からは、一ミリを進むために大量の血が流れ、砂と埃と泥の混じった、爛れた赤の道筋を作っている。インパールの遠い道が『白骨街道』であれば、北斗までの遠い道はさしずめ『鮮血街道』といったところだろうか。
車上の北斗は、自身に向けられた圧倒的な闘志に、剥き出しの執念に、思わず言葉を失ってしまう。
「獅狼……!」
「待って…ろよ……北斗! 今ぁ、そこまで行ってやるからよぉ……!」
“ボタボタ”と、狼の顎が上下するその都度、赤黒い滝が地面に吸い込まれていく。
レオウルフは……否、改造人間としての限界すら無視して動こうとするその男……小島獅狼は、今日だけで何度死んでもおかしくないほどの傷を負いながら、なお、前へと進もうとしていた。
前進こそが、彼のすべてだった。
「ガオオオオオオ――――――ンンンッ!!!」
獅狼は、吠えた。
生涯、前に進むことだけを常としてきた男は、今、再び前に進むための活力を得るべく、叫んだ。
獅子の胸口が気高く叫ぶ。巨大なる獣の口が大気を揺るがし、聞く者の鼓膜はおろか、魂までもを揺さぶり動かす。
古来、ライオンが持つ高い生命力には神性が宿るとされ、『百獣の王』は不死に最も近い動物とされていた。西洋世界では多くのハンター達が不死の生命力を求めて大地を這い、あらゆる場所に触手を延ばした。
その、古の獅子が持つ生命力にあやかるかのように、獅狼の……レオウルフの身体は、復元再生を始めた。ナノマシンの性能を無視した再生速度で全身の器官が蘇り、レオウルフは立ち上がった。
「へへッ……なんだよ、こんなモン……」
その男は、震える声で言葉を生んだ。
「こんなの、ただ痛いだけじゃねぇかよ……」
その男は、ふらついた足取りで、しかししっかりと大地に根を張り、一歩一歩を短く、ゆっくりと踏み出した。
「ただ痛いだけの攻撃なんざぁな、こちとら慣れっこなんだよ!」
「獅狼、お前は……」
……いつもそうだった。
目の前で銃をチラつかせても、何度となく殴り倒しても、いつだってこの男は、倒れ伏すその都度立ち上がってきた。決して逃げようとしなかった。
あの、圧倒的に不利な状況から始まった影山高校との大将戦のときも。
あの、絶対的な力量の開きが明白だった14年前のあのときも。
この男は……小島獅狼は、いつだって諦めなかった。
何度だって、強敵の前に立ちはだかった。
己の信ずるもののためならば、いくらでも戦える男。己の信ずる何かのためならば、どこまでだって強くなれる男。
笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣く。他者のために涙を流し、憎い仇の女に本気の笑顔を見せる。大切な何かのために血を流し、罪を背負う覚悟が固められる。
暗黒世界の住人となりながら、どこまでも純粋で、どこまでも真っ直ぐな瞳を持ち続ける男……そんな彼のことが、北斗は昔から好きだった。
(何故、こんなことになってしまったんだ……!?)
彼のことが好きなのに。
こんなにも親友のことを大切に想っているのに。
しかし現実は、互いに血を流し、命を懸けて、“力”と“力”をぶつけ合っている。
(何故だ……!?)
自分達を生んだこの世界。自分達を育んだこの時代。恨みの篭もった叫びは、しかし言葉にはならない。
なぜなら自分は、知っているから。この世界が、そしてこの時代が、自分達に対して常に残酷であり続けているわけではないことを、知っているから……。
“ドゴオオオンンッ!”
14門の大砲が、また、火を噴いた。
瞬間移動によって弾薬庫から無限に抽出することの出来る砲弾は、サイコキネシスによって素早く装填され、機関部から尻を打たれて叩き出される。
初速の速い徹甲弾群が最初に獅狼を狙い、2メートルに満たないその身体に、破壊のエネルギーを叩き込もうとする。
獅狼はそれを……今度は、弾こうとしなかった。
そればかりか、避けようとも、防ごうとすらしなかった。
ただその場に立ち尽くし、なんと彼は十四発の砲弾のすべてを、全身に浴びた。
再び辺りを爆音と突風、閃光と劫火が席巻し、北斗の視界が紅蓮に染まる。
そして、煙が晴れ…………
「馬鹿、な……」
「……へへッ。根性ぉ!」
なんと、その男は無事だった。
いや、無傷というわけではない。7発の徹甲弾に射抜かれた肉体はズタズタに引き裂かれ、5発の榴弾をまともに食らったダメージは克明に刻まれている。2発のメタルジェットの炎と烈風が引き裂いたその肉体は、見るも無残な有り様だ。
しかし、そんなぼろぼろの身体で、彼はなおも立っていた。
肉体は立ち上がることはおろか生きていることすら拒否しかねないほどの損傷と痛みを受けているというのに、この男の精神に堪えた様子はまったくなかった。
「もう弾切れか?」
“ゴホリ…”と、何度も咳き込み、血を吐きながら、獅狼は言う。
「そうじゃなかったら、もういっぺん撃ってこいよ。……ようやく、コツがつかめてきたところなんだ」
「クッ……!」
戦車砲1門だけのときとは違い、14門もの砲を一度に操作するとなると、砲弾の再装填にかかる時間はどうしても遅くなってしまう。
撃てといわれて、早々撃てるものではない。
「撃たないんだったら、こっちから行くぜ!」
ぐぐっと、獅狼の足が大地を踏み締める。
さんざんに痛めつけられた校庭に亀裂が走り、“ダッ”と、獅狼の体が、重く、鈍い動きで、血飛沫を迸らせながら宙へと躍る。
今や傷ついた男の動きから精彩さは欠け、瞬発力と持久力、柔軟性に優れた筋肉は、数ミリを動かすだけで鮮血を吐き出す始末だった。
だが、その動きを無様だと笑える者が、はたしてこの世にいるだろうか? すでに百回は死んでいてもおかしくないほどの傷を負いながら、なおも己の拳に命を載せて打つ男の姿を、醜いと蔑みの言葉を浴びせられる者が、この世に何人いるだろうか……?
獅狼は、決して諦めようとはしない。
闇舞北斗がどんな策を講じようと、またどんな超能力を用いてこようと、彼の取る行動は単純にして明快。ただ、前進し、敵を討つ。それだけだ。
北斗は反射的にブローニングを引き抜くと、親友が次に移動するであろう未来位置に狙いを定め、3発、トリガーを引き絞った。
金と銀の毛並みが宙を舞い、くすんだ真鍮色の空薬莢が弧を描いて地面に落ちる。
雷鳴のような銃声と、獅狼の口から迸る絶叫が重なり、ついで狼の右目から、鮮血が噴出した。北斗が放った3発の特殊徹甲弾のうちの1発が、100メートルの距離で20ミリの鋼板を貫く威力を、全身を強化した改造人間をして克服出来ない急所のひとつで、存分に発揮していた。
「おおおおおお――――――んんんッ!」
しかし、狼の巨大な口から叫ばれたのは、痛みからくる絶叫ではなかった。
自らの闘志を奮い立たせ、戦いに挑むその心を崇高なものとし、凶暴な血気の勇ではなく、死を恐れて逃亡し潰走することを拒否する、磐石不動の冷静な勇気を鼓舞するための、軍歌の咆哮だった。
やがて獅狼の巨大な鉄拳から、青白い光弾が一発、撃ち放たれた。
これまでにない大きさ、これまでにない速度で飛来する、“気拳砲弾”だ。
軽く音速の10倍近いスピードで強襲する光弾が届くまで僅かな時間、北斗は刹那の判断で前面にサイコ・シールドを展開する。
『吼破・太陽』の数万発の攻撃をも相殺せしめた最強の盾と光弾が激突し、光が、爆ぜた。
肉眼では捉えることの出来ない思念の壁に阻まれ、光弾が消滅する。熱した金属に水をかけたときのように白煙がもうもうと立ち昇り、北斗の視界を蒸気の渦が覆った。
一寸先の視界を白い靄に隠された改造人間は、しかしその超人的な知覚の全機能を駆使して、視線の先にいるであろう男の姿を探した。
直後、北斗の脳裏に、巨大な獣人の拳が己の顔面に迫る映像が、閃光のごとく浮かんでは消えた。北斗は靄の向こうに、鋭く光る3つの光芒、血に染まった1つの輝きを見たような気がした。
やがて白い闇を切り裂くように獅狼の鉄拳が、サイコ・シールドによって北斗の鼻先10センチのところまで迫り、止まった。
獅狼の鋭い動きによって急速に霧が晴れ、その躍動する筋肉の輪郭が鮮明なものとして北斗の網膜に刻まれる。
眼前で止められた男の拳は、傷つき、ささくれ立ち、皮は剥け、血は流れ、泥に塗れ、砂に汚れ、深い火傷を負い、細胞は爛れていた。
「……く…うぅ……やっぱ、駄目かぁ……」
そう言う獅狼の表情に、落胆はない。
むしろ彼は、この状況でニンマリと笑った。
「じゃあ…もう一発!」
言うが速いや、毛ほどの停滞すら見せず、獅狼は拳を引き、さらにもう一発、何の捻りもない、真一直線の軌道を描く、ストレートを放つ。
右手と同じように傷つき、爛れた拳が北斗の眼前に再び迫り、また、止まった。
「ぐぅ…あぁ……」
口から漏れる苦悶の吐息は、実体を伴わぬ障壁にボロボロの拳を叩きつけた痛みによるものだった。
「……まだ、まだ!」
苦痛に顔を歪めながら、獅狼はなおも拳を放った。
一発、二発、三発と、拳を繰り出すその都度獅狼は苦痛に悶え、しかし決して攻撃をやめようとはしなかった。
北斗は、次々と拳を繰り出す親友の、悲壮な決意に輝く眼差しを真っ向から受け止めて、激しく動揺した。
「……まさか、サイコ・シールドを破壊するまで、攻撃を続けるつもりか!?」
「へっ…ご名答。頭の悪い考えで、申し訳ないな……」
「無茶だ!」
北斗は叫んだ。
「サイコ・シールドは俺の精神力次第で核の直撃にも耐えられるだけの防御力を持っている。それに、俺の考え方ひとつでダイヤモンドの硬度にも、鋭い剣山の形状にも変えることが出来る。電流を流すことだって、可能だ。間違いなく、お前がサイコ・シールドを破壊する前に、お前の拳が砕けるぞ!」
北斗の叫びに、獅狼は哄笑で答えた。
「嬉しいねぇ。そんなに俺の身体のこと、心配してくれているなんざ……でも、それなら、早いとこ、このシールド解除してくれねぇかな? お前の言う通り、段々手ぇ、痛くなってきた」
見れば、すでに百発以上のパンチを叩き込んでいる獅狼の拳は、最初に北斗の眼前に迫った時よりも、はるかに傷つき、細胞は悲鳴を上げ、構成する原子は、今にも砕けんとしていた。
無論、北斗にサイコ・シールドを解除出来るはずもなく、獅狼はただいたずらに自らの肉体を、何よりも頼りにする己のふたつの拳を、傷つけ続けた。
……いや、違う。
何千、何万と拳を打ち込み、それが十万の位を突破した辺りから、磐石不動のサイコ・シールド、原爆級の威力を持つ『吼破・太陽』の連打にも耐え抜いた屈強な盾に、揺らぎが生じ始めていた。
北斗は思わず自分の眼を、自分の耳を、己の知覚すべてを疑ってしまった。
音速を突破した攻撃の衝撃波が、穏やかな風となって北斗の頬を撫でていく。
土に汚れた赤い拳が、マイクロメートル刻みで接近している……?
「馬鹿な……!」
「点滴、岩をも穿つ……ってなぁ!」
拳を突き出し、引き戻し、また突き出す。その反復を、何度繰り返し、そのたびに襲いかかる痛みを、何度堪えたことだろう。
北斗が張った鉄壁の防壁は、しかし、ただ一点にのみすべての攻撃を集中させる男の、何があっても決して諦めようとしない男の、執念によって打ち破られようとしていた。
原爆級の『吼破・太陽』の威力にも耐えた不可視の盾に、“ビシビシ”と亀裂が走る確かな感触に、北斗は言葉を失った。
「悔しいけどよ、小島獅狼という男は、闇舞北斗に比べれば才能もないし、天才でもない。100の努力でようやく1伸びる、凡人だ。お前みたいに超能力や強運に恵まれているわけでもなければ、努力で掴み取った強ささえ、絶対的とは言えねぇ…」
彼らしくない弱気な言葉が、北斗の耳膜を静かに打つ。同時に、猛々しい獅子の雄叫びが、雄々しい狼の嘶きが、北斗の全身の細胞すらも揺り動かす。
「けどよ、凡人には凡人なりの意地ってもんがある。『吼破・太陽』の1000の力で叩き壊せねぇバリアーなら、1の力を1万束ねて、それで不足するってんなら、1の力を10万かき集めて、ぶつけてやろうじゃねぇか!」
“こぉおおおおおおおおおおおおおお……!”
獅狼が、大きく息を吸い込む。
新鮮な酸素を得た輝く血液が彼の体にさらなる力を与え、その大いなる力が、彼の、人間でもない、獣でもない、異端の肉体を、前へと突き動かす。
虹色のオーラをまとう、獣の爪が、北斗の視界を駆け上がった。
それは獅狼の、極限まで高めた気力の拳が、極音速の世界からさらなる高みの世界へと昇華した証だった。
北斗はサイコ・シールドに超能力の高圧電流を流した。
空手家としての獅狼の命脈を絶ち切ることになるかもしれないと思うとしのびなかったが仕方がない。うかうかしていたら、サイコ・シールドが破壊されてしまう。
しかし、その判断は、わずかに遅かった。
――明心館巻島流空手・吼破!!
百の拳を放つよりなお強く、千の拳を放ったところでその威力にはまだ追いつけない。
弓を射るように放たれる、その乾坤一擲の一打。人という獣の咆哮が、世界を震撼させる。
北斗の耳の奥の方で、“キィィィィン”と、甲高い、金属が鳴らす悲鳴のような音が響いた。
己の両手よりふた回りは大きな獣の双手が、サイコ・シールドを突き破って北斗の顔面に迫った。
彼は咄嗟に身を屈め、それを躱すが、その先には獅狼の丸太のように太い獅狼の大腿から伸びる膝頭が、鋭く肉迫していた。
北斗はなす術もなく、その一撃を喰らって吹っ飛んだ。あまりの衝撃に、一瞬意識が飛びそうになる。
だが北斗はそうなるのをぐっと堪え、足を滑らしかけている綱渡りの意識を集中し、すでに再装填を完了し、移動した獅狼に照準を合わせた13門の砲に、一斉に射撃命令を下した。
“ドゴオオオンンッ!”
『吼破』という大技を放った直後で獅狼は、回避はおろか防御のための行動すら取れない。
無防備な改造人間の背中を、6発の徹甲弾、5発の榴弾、2発の成形炸裂弾が襲う――――――
「へへッ……待ってたぜェ」
獅狼は、61式戦車の上で素早く反転した。
すでに壊れかけの肉体を無理矢理動かし、獅狼は、砲弾が飛来するまでの僅かな時間……コンマゼロ数秒の間に、飛翔する13の悪魔の弾道を、すべて見切った。
獅狼の拳が、天を貫く一条の矢となって、高く掲げられた。
「コォオオオオオオオオオオオオオオッ!」
獅狼の拳が、青白い燐光を纏う。
『吼破』の後で気力の集中ままならぬ右腕に、“気拳”の焔が静かに灯る。
――明心館巻島流空手・赤龍拳改
……そのとき、掲げた獅狼の右腕から、大量の血液が噴出した。
時に攻め、時に守り……幾多の激戦を行き抜き、今日というこの日の戦いを現在進行形で駆け抜ける獅狼の右腕に、ついに限界が訪れようとしていた。
強化人工骨が、バキバキと不協和音を奏で砕けていく。
強化人工筋が、ブチブチと悲しい歌を声高に千切れていく。
ナノマシンの復元再生が追いつかない。
天に掲げたその腕が、震えながら地へと落ちる。もはや獅狼からは、利き腕を持ち上げる力すら失われようとしていた。
(クッ……まだだ……!)
獅狼は、心の中で吼えた。
(せめて、この砲弾の群れと、北斗を倒すための一撃を放つまでは……!)
気を抜けばすぐにでも折れようとする右腕と自らの心を必死に奮い起こし、獅狼は、今再び、青に輝くその腕を、天へと向け、青銅の瞳が睥睨するその先へと向ける。
獅狼の中では、嵐が荒れ狂っていた。
彼が今までに経験したことのない痛み、細胞を震わす強大な地震が、改造人間の肉体を滅茶苦茶に掻き乱していた。
痛みが、決意で塗り固められた男の強き心に、太い鎖をかけようとしていた。生きることを切望する獅狼の野生の本能が、彼の次の行動を制止しようと必死に警鐘を鳴らしていた。
しかし、その痛み、生存本能が発する最大の警報を、獅狼は無視した。
生きることを渇望する生物であれば絶対に抗えぬその衝動を、静かなる闘志で、押さえ込んだ。
「もってくれよッ、相棒!!」
踏み込みだけで、戦車の装甲がグシャリと陥没した。
襲いくる13発の悪魔に対し、獅狼は右腕を突き出した。
小島獅狼という男がこの世に生を受けたその日から、彼が最も頼りとし、ともに幾多の敵を打ち倒してきた、獅狼の最大の利き手が、火を噴いた!
――吼破・気拳十三連春舞!!!
……カウンターは、敵が放つ攻撃の力すらも利用して、己の持つ最強の一撃を放つ一発逆転の必殺技。それをいかなるタイミング、いかなるシチュエーションでも放てるよう奥儀のレベルにまで昇華させたのが、小島獅狼の『吼破・春舞』。
“気力”をその身に宿し、“気拳”という、遠距離の敵にも通用する攻撃手段を持つに至った今の小島獅狼に、返せぬ攻撃は……ない!
青白く輝く獅子の腕が、まるで歌舞伎か何かの演劇の紙吹雪を散らすように、血飛沫を躍らせながら夜を裂いた。
拳風が軍馬の如き嘶きを上げ、マッハ10の衝撃波が、巨大な怪物の顎となって全てを飲み込んだ。
多方向から若干のタイムララグとともに肉薄する13発の砲弾のことごとくが、獅狼の拳が引き起こす台風に飲まれ、ほんの少しの力加減で気流の向きを変えられて、20キロに満たない質量が流されてしまう。
そして砲弾は、元来た道を引き返し、飛んでいく。
これまでになく精密な狙いで、これまでになく早い、13発の、青白い光を放つ銃弾とともに。青白い光の弾丸が地面すれすれの高さを飛翔し、本来ならこの場所には存在すらしなかった13の、『戦場の神』を狙った。衝撃波の囁きが、絹を引き裂く悲鳴のような声を上げながら、戦場にこだまする。
炸裂音が、轟いた。
直径20ミリにも満たない、小さな、小さな光弾と、撃ち返した砲弾の群れがそれぞれの母親に着弾した次の瞬間、金属のひしゃげる悲鳴が上がり、狂ったように炎が、あちらこちらを舐め尽くした。
獅狼の立つ、足場さえも。
獅狼は、動かなかった。
いや、動きたくても動けなかったという方が、より正確な彼の現状だった。
ややあって、61式戦車に積まれた弾薬が誘爆した。
……炎の顎に飲まれたのは、何も獅狼ばかりではなかった。
獅狼の膝蹴りに蹴り飛ばされた北斗もまた、地面に打ち付けられた瞬間には炎の舌にしゃぶり尽くされていた。
(あの時と同じだな……)
業火に身を焼かれながら、北斗の意識は十四年の過去をさまよっていた。
あのときも、こんな風に炎に包まれていた。
油の臭いが漂う屋敷。悲壮な表情で向かい合う三人。乾いた銃声。燃え盛る屋敷。炎の中の二人。救えた命。救えなかった命。救おうとすら考えなかった命……。
炎は、何もかもを飲み込み、灰にした。
殺人の痕跡も、貯蔵されていた麻薬も、何もかもが燃え尽きた。
焼け跡に残されたのは悲しい記憶と、長く、苦しい地獄のような未来、それから小さな約束だけだった。
では、今宵の火災からはいったい何が残るだろう……?
焼け爛れた異形の者達の骸? 自分達の青春の全てが詰め込まれた校舎の変わり果てた姿? 最悪の下にある、さらに最悪の未来……?
(いや……)
この戦いの果てに待っているのは、きっと輝かしい未来であるはずだ。
たしかに校舎は焼け爛れ、崩れ落ち、自分達の青春の残影は朽ち果てるかもしれない。
しかし、それでも自分達は生き残り、青春の思い出はずっと生き延びる…。
そして十四年前に燃え残った小さな約束は、明日もまた生き続ける……今の自分は、そんな未来を築くために、戦っているのではなかったか? そんな未来を目指して、自分はもう一度立ち上がったのではなかったか……?
「……」
北斗は、
すでに一度死して、恩師や戦友、戦友になるはずだった敵、そしてかけがえのない親友の助けを借りて蘇った男は、炎の中でゆっくりと立ち上がる。
顔面に受けたたった一撃によって、鉛のように重くなってしまった身体を必死に気力で奮い立たせ、彼は猛火の中をキッと見据える。
まるで視線そのものに妖力の魔法がかかっているかのように、ただのひと睨みで目の前の炎がモーゼの紅海割りの如く割れ、わずか2メートルと離れていないその先に、北斗は黒い異形の影を見つけた。
「おい、北斗……」
北斗の耳膜を、呻きとも鳴き声ともつかぬ掠れた声が打った。
メラメラと燃え盛る炎が発する熱気流に掻き乱されて、獅狼の声はひどく掠れて、聞き取りにくかった。
表情から彼の現状を読み取ろうと視線を頭ひとつ分高い顔へと向けるが、肝心の顔は見えない。回復したとはいえ未曾有の死闘に途方もないダメージを受けた改造人間の視力は、わずか二メートル先の男の表情すら判然としないほどに低下していた。
「生きているかぁ?」
「ああ。…かろうじてだが、な」
北斗は、顔の見えない男と会話をしている自分がなんとなく可笑しくて、苦笑した。
「ははっ、そうか…」
一方の獅狼もまた、北斗の苦笑につられたように、笑った。
……笑った、ように思えた。
顔は見えなかったし、声もかすれて聞き取りにくかったが、なぜか北斗には親友が笑っているように思えた。
黒く、大きな人影は、ゆっくりと北斗のもとへ歩み寄った。
猛火の灼熱に焼かれながら、肉の焦げる悲しい腐臭を漂わせつつ、その男はちょっと手を伸ばせば届いてしまうほどの距離にまで、接近した。弱りきった視力で、なおお互いの顔がはっきりと見える距離だ。
しかし、獅狼の顔は相変わらず黒いままだった。
狼の面も、獅子の胸顔も、煤で汚れ、灰でまみれ、熱に焼かれて真っ黒だった。
「実はよぉ、俺もなんだ」
炎の暖簾をくぐって、獅狼は悪びれもせずに笑いながら言った。
今度の笑顔は、今の北斗の視力でもはっきりと読み取ることが出来た。
その姿は、彼自身言葉にしているように、傷つき、疲れ果てていた。
しかし北斗はそんな親友の姿を揶揄する気にはなれなかった。なぜなら北斗自身もまた、獅狼とさして変わらぬ有様だったからだ。
「お互い、そろそろ限界が近いようだな」
「ああ…そろそろ、マジで決着をつけようや」
獅狼の提案に、北斗は頷いた。
そして彼は、きょろきょろと辺りを見回した。
猛火に取り囲まれた視界の中に目当てのものを見つけると、北斗は再び視線を獅狼に向けた。青銅色の瞳を真っ直ぐに見据えながら、道場棟の入り口へと顎をしゃくった。
――決着は、あの場所で。自分達が最も多く闘い、ともに技を練磨し合った、あの道場の中で。
北斗の意を汲んだ獅狼は無言で頷くと、今度は彼がモーセの役割を果たして、道場棟への道を切り開いた。
音速を超える拳を放つことの出来る獅狼にとって、風圧で炎を吹き飛ばすことは造作もないことだった。
獅狼が作った道を、二人の男は歩いた。
最初に北斗が道場の中へと足を踏み入れ、続いてレオウルフが摺り足で玄関の框を踏み越えた。
男女の更衣室を脇に抜け、二人は約十四年ぶりに、一緒にその空間へと足を運んだ。
二人の鋭敏な嗅覚は、道場に入った瞬間に、壁に、畳に、空気に浸透した汗の匂いを感じ取った。
「……変わっちまったな、ここも」
寂しそうにポツリと呟き、レオウルフは十四年ぶりに足を踏み入れた道場に、昔を懐かしむような視線を巡らせた。
空手、柔道、剣道に加えて、北斗達の卒業以後新たに創設された合気道の、四つの部活が合同で練習出来るよう道場は十四年前よりも増築され、広々としていた。面積は自分達が現役であった頃の二倍はあり、神棚も立派なものになっている。
「何もかもが、懐かしいな」
「ああ。俺達はこの学園で出会い、この道場で何度も戦ってきた」
「二人の決着を付けるには、おあつらえ向きの場所ってことか」
「そういうことだ」
北斗が答え、獅狼がにっこり笑った。
男達は傷ついた身体をゆっくり引きずりながら、道場の中央へと向かった。
「どうせなら、真ん中で、広々とやろうぜ?」
「同感だな。これだけの道場を二人占め出来るなんて機会、そうそうあるものじゃない」
「…頼めば貸してくるんじゃないか? OBたっての願いってことで」
「あれだけ校舎を壊しておいて、今更頼むも何も……」
「違いねぇ」
道場の中央に立ち、二人の男は同時に拳を作り、静かに構えた。北斗も獅狼も、明心館空手のスタンダード・スタイルだった。
ポタポタと二人の傷口から血が流れ、畳の中に染み込んでいく。互いに時間は、そう多くは残されていないようだった。
「二八九戦二八九敗……だったっけかな?」
「ん?」
「いやよ、お前が相手だったときの戦績。春香の家でやりやった時も含めれば、そうなる」
「……そうだったな」
「いい加減、連敗記録をストップしないとな」
獅狼がニヤリと笑い、北斗が「やれるものならやってみろ」と、ばかりに、目の前の男を睨んだ。
……いよいよ、決着だ。
本当にこれで、すべてが終わる。
次に地面にひれ伏していた方が、負ける。
そして自分達には、相手を打ちのめし、地に叩きつけられるだけの威力を持った強力な技がある。そしておそらく、その技を放てるのは、次の一回限りだろう。
二人はしばし無言で見つめ合った。
沈黙が二人の間に漂う緊張感をより濃密なものとし、高まる緊張がさらに男達の口の紐を堅く結ぶ。
緊張とはすなわち互いの放つ殺気であり、それはふとしたきっかけでより明確な殺意へと、いとも簡単に変身してしまう。
やがて極度の緊張がピークに達したとき、北斗は自らの口で沈黙を破った。
「……獅狼、決着を付ける前にひとつ話しておきたいことがある」
思いつめたその表情は、かねてより言おうか言うまいか迷っていた事を、ようやく口にする決心が付いた覚悟の表れか。
北斗はこの救いなき戦いを終わらせるために、そして獅狼の命を救うために、ついに悲しい決断を下す。
その真実を告げたとき、いったい獅狼がどうなってしまうのか……予想がつかない北斗ではない。彼は深く嘆くだろう。彼は深く悲しむだろう。そして怒り狂って、けれどもその怒りの捌け口を見出せずに、彼はゆっくり壊れいくだろう。だがそれでも、獅狼が生きてくれるのなら……その想いを、胸に抱きながら。
「十四年前のあの日、夕凪を撃ったのは――――――」
……しかし、北斗の言葉は最後まで完結することなく、割って入った獅狼の、意外な言葉に掻き消された。
「……知ってるよ」
その何気なく紡がれた一言に、北斗がどれほどの衝撃を受けたことか。
そして獅狼は、驚愕の表情を浮かべる親友に、すべての決着をつけるための剛拳を突き出した。
獅狼の拳が、北斗の顔面すれすれを通過していく。
ここにいたってなお鋭さを増すその一撃に瞠目しつつ、北斗は、驚愕に震える声で叫んだ。
「ど、どういう意味だ!?」
「どういうことも何も、言ったそのまんまの意味さ」
顎引く北斗の後頭部に続けざまに放ったマッハ蹴りを落とし、倒れ伏す北斗になおも追撃を叩き込みながら、獅狼は言葉を続ける。
「秘密結社〈ショッカー〉日本支部のエージェント、柏木初穂。コードネーム『蜘蛛女』。当時愛用していた拳銃は、25口径ベレッタM1919」
「獅狼、お前は……」
では――――
では、彼は最初から知っていたというのか? 夕凪春香の命を奪った相手の正体も、彼女が使った銃の正体も、すべて了承した上でここにいるというのか?
だとしたらこの戦いはいったい何なのだ? こんな救いのない戦いを続けなければいけない理由が、どこにあるというのだ?
「これは復讐さ」
全身から血を流しながら、二つの口から赤い飛沫を迸らせながら、しかし獅狼は歌うように吠える。
十四年もの長きにわたって、真実を知りながらそれを誰にも告げなかった男の本心が、今、語られる。
「俺達を騙し続けてきたお前への。その結果として春香を死なせちまったお前への。
たしかに銃のトリガーを引き、直接春香の命を奪ったのは柏木初穂だ。お前じゃない。けれど、あのとき、お前が俺達に本当のことを話していてくれれば未来は変わっていたかもしれない。春香は、死なずにすんだかもしれない。実質的に春香を殺したのはお前だ。お前が吐き続けてきた嘘が、柏木初穂を動かし、春香を死なせちまったんだ!」
「クッ……ライダァパぁンチッ!!」
降り注ぐ拳の雨を得意の化剄で受け流し、攻撃の間隙をぬって北斗は立ち上がった。
天王拳と地王拳の絶技が獅狼の身体を打ち、トドメとばかりにライダーパンチがその左腕を捕捉する。強化人工骨の砕ける炸裂音が汗の臭いが漂う道場の空気を撹拌し、道場の畳を震わせるほどの悲鳴が弾けた。北斗の口から。
「許せないんだよ! お前が俺達を騙し続けてきたという事実が。お前が俺達にずっと嘘を吐き続けてきたという事実が」
北斗の放ったライダーパンチは、たしかに獅狼の左腕を粉砕していた。
しかし、痛みを恐れず、傷つくことを恐れず、ただひたすらに前進する獅狼に対して、その程度のダメージは許容範囲内でのことだった。
自分の左腕が砕けていくのも顧みず、獅狼は、一度突き刺したら二度と離さない太古の肉食恐竜のように鋭い犬歯を、突き出した北斗の右腕に立てた。人工筋肉の筋が断裂するブチブチという音は、北斗の絶叫に消され、彼自身の耳には届かなかった。
必死に引き剥がそうとする左手の握力を頭蓋に感じながら、獅狼は北斗の腕に噛み付いたまま吼えた。
「なぁ、北斗? なんであのとき、お前は俺達に本当のことを話してくれなかったんだ? そんなに、当時の俺達は頼りなかったのか? たしかに、俺達はあの当時何も知らないガキだった。たとえお前の真実を知ったところで、お前を守ってやれるだけの力はなかったよ。お前が裏の世界との繋がりを持っていると聞いたところで、してやれることなんて何もなかったさ。けど、それでも――――――」
北斗の手刀が閃いた。
北斗の握力をもってしても引き離せなかった狼の犬歯が、きらきらと破片を散らしながら砕け散った。
狼が顎を引くと同時に獅子の左拳が北斗の胸板を狙う。ほんの数瞬で、すでに砕かれた左腕の再生は四割ほどが完了していた。さすがに右腕の再生はまだ完全とは言えなかったが、それも徐々にもう一度必殺技を放つほどに回復しつつあるようだった。
北斗はそれをひらりと躱しながら、突き出された獅狼の左腕を取り、その身体を背負い投げた。血を流す右腕が激しく痛んだが、ぐっと押し殺して投げ飛ばした。
受身を取ることの出来なかった獅狼は、道場の床板を突き抜けて沈んだ。
北斗はマウントポジションを取ると、容赦なく顔面を殴った。
だが、獅狼の言葉は朗々と続いた。
「……それでも、教えてほしかった。お前のことを、親友だと思っていたから、教えてほしかった」
――親友だからこそ、巻き込みたくなかった。
「……お前のことだから、俺達を巻き込みたくないって、考えたんだろう」
――彼らにはずっと、表の世界で燦々と輝いていてほしかった。
「お前のことだから、俺達にはずっと裏の世界とは無縁でいてほしいって、思ったんだろう」
話したいと思ったことは一度や二度ではない。
心から信頼の出来る親友達に、自分の全てを知ってもらいたいと思ったことは、決して少なくない。
しかし、話せば今のこの関係は壊れてしまうと……自分の不用意な発言が彼らの人生を歪めてしまうと、そう思い、話すことが出来なかった。
彼らにはいつまでもいつまでも、あの眩しい笑顔を浮かべたままで、側にいてほしかった。
「悩んだだろうな? 苦しんだだろうな? 俺達に話そうか話すまいか、ずっと考えていたんだろうな?」
しかし、良かれと思って真実を告げなかったその結果、自分は彼らから笑顔を……ずっと側で見ていたいと、これを守るためならば己の命を賭けることも惜しくないと、心の底から思った笑顔を、奪ってしまった。
そればかりか二人いた親友のうちの一人は、嘘を吐き続けていた自分に復讐を遂げようと、改造人間という異形の存在に身をやつしてしまった。
そして吐き続けてきた嘘の果てに、今、この救いのない戦いがある。
「けど、忘れないでほしかった。お前が俺達のことですっげぇ悩むのと同じぐらい、お前のことで悩む人間が、二人もいたってことを。お前のことを心から愛している親友が、お前の側に二人いたってことを。
その二人のことを思うからこそ、真実は話せないというのなら、せめて……それが無理ならせめて…………」
獅子の顎が、大きく口を開いた。
灼熱の炎が、北斗の身体を飲み込んだ。
火砕流を切り裂くように、北斗の鉄拳が墜落した。
と同時に、それまでずっと沈黙していた獅狼の右腕が、凄まじい速さで舞い上がった。
――吼破・春舞!!
「……一言、謝ってほしかった!」
獅狼は、搾り出すように言の葉を吐き出した。
自らの放った攻撃の威力に加え、獅狼が渾身の力を篭めた一撃が、北斗の胸板を鋭く捉えた。幾多の戦いで汚れ、ボロボロになった闇夜の迷彩柄が真っ赤に染まった。
戦艦の装甲すら打ち破る圧倒的なパワーが拳という一点に集中し、濃密な唸りを上げて一気に北斗の身体へとなだれ込む。皮膚の下に内蔵された装甲と人工筋肉の胸筋を突き破り、北斗の体内で最も高い熱を持つ部位……強化心臓を襲う。
「ク…ッ! サイコ・シールド展開!!」
獅狼のカウンターが強化心臓に炸裂する直前、北斗は刹那の判断でサイコ・シールドを心臓の一点のみに集中展開した。防御面積が少ない分、濃密な妖力のバリアーはいつになく強靭で、鉄壁だった。獅狼の放つ破壊のための力と、北斗が築いた守るための力が静かにぶつかり合い、拮抗する。
「俺が何より許せないのはその事だ。北斗、お前は、俺達を散々騙してきながら、今日の今日まで、とうとうその事で一度も謝ることがなかった」
「ぐぅ…ぬうぅぅぅ……ッ!」
「北斗、テメェはまだ俺達に、『ごめんなさい』の一言を言っていないんだよ!!」
破壊のための力が爆発し、守るための力をついに打ち破る。
サイコ・シールドによって威力の大部分を削がれたとはいえ、一撃を心臓に叩き込まれた北斗は、道場の真ん中からいちばん遠い壁にまでの距離を吹っ飛び、丈夫な合板に背中を叩きつけてしまう。
口の中から水鉄砲のように血液が身体の外へと飛び出し、背骨を打ちつけた衝撃が、一瞬の間、北斗の生命活動のほとんどを強制的に停止させる。視界が一瞬にして白い闇に包まれ、北斗は自分の意識が遠のいていくのを感じた。
なおもマッハのスピードで肉薄し、追撃をかけようとするレオウルフに対して、意識を失いかけた北斗が防御を取ることが出来たのは、彼の非凡なる戦士としての才覚の賜物だった。
北斗はほぼ無意識的に、無念無想の境地にあって、動いていた。
あらゆる知覚を喪失した中で、北斗は迷うことなく左手をホルスターにのばした。
ただ無心の意識の中で、今の己が最も頼る武器を求めて、手は、勝手に動いていた。
“ドォン……!”
遠くで、聞き慣れた……あまりにも馴れ親しんでしまった拳銃の、独特の銃声が鳴る。
その音に引き戻されるようにして、北斗の意識は回復した。白い闇夜に包まれていた視界がぱっと花火を散らしたように明瞭になり、その時、彼は己の眼前に迫る獣人の姿を見た。
まるで神話の世界から飛び出してきたかのような異形の左眼からは、一筋の赤い川が流れていた。
北斗は反射的に地面を蹴り、後ろに跳ぼうとした。
しかしすぐに背後に壁があることを思い出すと、北斗は蹴り出そうとした勢いのままその場に踏みとどまった。
――明心館巻島流空手
そして獅狼の拳が北斗の眼前に炸裂しようという瞬間、不死鳥の左手が、稲妻の速さで閃いた。
――吼破・春舞!!
「なっ……!」
獅狼の口から、驚きの声が漏れた。
なんと北斗が放った攻撃は、彼が己の必殺技と頼る『吼破』の一撃だった。
起死回生のカウンターに、今度は獅狼が道場の端から端まで吹っ飛ぶ。
『吼破・春舞』と同時に道場の床を蹴っていた北斗は、すぐに追い着くと、胴回し上段蹴りで頭蓋を打った。
獅狼の身体を畳に叩き落しながら、彼は叫んだ。
「今日だけで何度、お前のその技を見せられたと思っている!?」
今日だけではない。十五年前に初めて出会ったあの日から、十四年前の別れの日までの短い間に、自分は何度となくその技を見せられ、苦しめられてきた。
そんな強敵の得意技を、この闇舞北斗が今日まで研究してこなかったと思っていたのか。
たった一度の実戦と記録データの映像を見ただけで、不完全ながら『ライダーパンチ』や『ライダーキック』を習得した自分が、使えないと思っていたのか。
北斗は獅狼を仰向けに倒すと、再びマウントポジションを取り、顔面を滅茶苦茶に殴った。
今度は高熱火炎の反撃を許さぬよう、獅子の顔も容赦なく叩いた。
渾身の力を振り絞り、拳を、己の全ての力を、己の想いを叩き込んだ。
(獅狼……)
自分は、間違っていたのだろうか?
彼らを裏の世界の事情などに巻き込みたくなかった。その思いは、間違ったことだったのか……? だとしたらあのとき自分は、いったいどんな決断を下せばよかったのか。
すべてを暴露して、彼らをこの世界に巻き込むべきだったのか。
すべてを暴露して、〈ショッカー〉という巨大な組織を、敵に回すべきだったのか。
すべてを暴露して、彼らの前から姿を消すべきだったのか。
今となっては誰にも答えられぬ問い。いや、おそらく答えなど最初からあるはずのない問い。問いかけること自体、そもそも間違っているのかもしれない問いかけ。しかし、分かっていても、問うことをやめられない問いかけ……。
しかし、どれほど胸の内で問うたところで、過去は変えられない。
今更あのときのことを悔やんだところで、今日という現在を否定することは出来ない。
(――だが、お前は知っているはずだ)
最悪の嘘が、最悪の現在を招いた。だが、あの過去があったからこそ、今の自分があるのもまた事実だ。
あのとき嘘を吐き続けていたからこそ、留美を守ることが出来た。あのときの嘘があったからこそ、教師にもなれた。ランバート少佐やバネッサ達にも会えた。一度死んで、もう二度と会えないと思っていた人達とも再会出来た。そして彼女と……光とも会うことが出来た。それらの幸福は、あの最悪の嘘があった歴史の上に、成り立っている。
どれほど胸の内で問うたところで、過去は変えられない。
今更あのときのことを悔やんだところで、今日という現在を否定することは出来ないし、するつもりもない。
過去はどう足掻いたところで変えられない。
ならば、今、やるべきことは――――――
「たしかに、俺は間違っていたのかもしれない。俺がお前達に嘘を吐き続けてきたことは、とても酷いことだ。だが、俺はその嘘の先にある未来の、全部を否定する気にはなれない!」
「グゥッ! テメェ……!!」
「今日という現在、明日という未来……そのすべては、あの嘘があったからこそ成り立っている。その未来までもを、俺は否定するつもりはない。今日というこの日から始まる俺の未来、お前の未来、光の未来…その全てを、否定するつもりはない!」
怒りに血走った獅狼の独眼が、ギラリと光った。
獣の太い足が北斗の背中に伸び、彼の身体を板の間へと蹴り飛ばした。
北斗は受身を取りつつ着地をしようとして……失敗した。
彼は無様にも受身を取り損ない、床の上を転がってコンクリート造りの壁へと突っ込んだ。脆くなっていた部分らしく、北斗の衝突によって壁はボロボロと瓦解し、無数のコンクリート片の崩落に遭った。
彼は灰色の破片の襲撃をさっと避けると、追撃に備えてすぐさま立ち上がった。
しかし、現実は違った。
大きい物では全長二十センチにも及ぶコンクリート片の雨に揉まれながら、北斗はひどくゆっくりとした動作で立ち上がった。
ゆっくりとした動作でなければ、立ち上がれなかった。
自分が思うように、もう身体は動いてくれないらしい。思ったよりも限界は近いようだ。
だが、それは相手も同じらしい。
すぐに来るかと思われた追撃は一向に来ず、獅狼がようやく立ち上がったのは、自分が立ち上がるのとほぼ同時だった。
お互いの限界を身近に感じながら、北斗はまるで老人のようなふらついた足取りで、しかし確実に距離を詰めていく。
獅狼もまた同様に、震える両足を叱咤しながら、北斗との距離を縮める。
歩きながら、北斗は口を開くのをやめなかった。
「あの嘘があったその先に、夕凪が死んだ現在がある」
「そうだ! だから俺はお前が吐いたあの嘘を、その嘘を吐いたお前を許せない」
「だが同じように、あの嘘があったその先に、お前が山口達と出会えた現在がある」
「ッ……!」
「その事実を……お前のために命を賭けて戦った仲間達との出会い、その幸運すら否定するのか? あの嘘の先にある未来の全てが許せないというのなら、彼らとの出会いも許せないというのか!?」
「……けど、あの嘘さえなければ、オヤジ達は死ななくてすんだ。それもまた事実だ!」
「そうだ……」
二人の距離が、縮まる。
互いの間合いの内側に相手の姿を捉え、2人の歩みが止まる。
「だから俺は、ここで罪を清算しなくちゃならない。あのとき吐いた嘘の負の部分……その事に対して、償いをしなくちゃならない」
「なら、お前はこの場で死ね。死んで罪を償え!」
「だから、それは出来ない相談だと言っているだろう」
北斗は、ふっと微笑を浮かべた。
黒く煤汚れた戦士の顔に、輝くような笑みが浮かんだ。
「約束してしまったからな。あいつと。絶対に生きて、きみの胸の中へ帰ると」
「……守れない約束なら…始めから約束なんてしない方がいいぜ」
「守る……さ。光との約束も……春香との約束も」
「……なに?」
「それから、死ねない理由はまだある」
「……」
「お前が言ったことだぞ? まだ、俺はお前に一言も、謝っていない――――――」
北斗の左手に、妖力が集中する。
壊れかけた獅狼の右手に、気力が集中する。
北斗の中を自らの持つありったけのパワーが駆け巡り、
獅狼の中を宇宙の神秘のパワーが駆け巡る。
極限の集中力から生じた圧倒的な“妖力”は、北斗の左腕に闇色の稲妻を走らせた。
極限の集中力から生まれた圧倒的な“気”は、レオウルフの右腕を赤く、燃え盛る太陽の色に発光させた。
2人の視線が交差する。
無言のまま、「次が最後だ」と、交渉が成立する。
静謐な獅狼の心に、真っ赤に燃える太陽が浮かんだ。
――明心館巻島流空手・赤龍拳改
太陽の像に重なって、北斗の顔、そして春香の顔が脳裏に浮かんだ。
獅狼は、自分にしか見えない太陽に向かって、万感の思いを篭めて極限まで“気”を集中させた拳を突き出した。
――――吼破・太陽!!!
音速の何十倍もの境地に至った改造人間の拳が、
圧倒的な攻撃力を有した無数の打撃が、
ありえない伸びを見せて、
ありえない熱と輝きを伴って、
最強の戦闘者の身に、
獅狼にしか見えない太陽に、
襲い掛かる!
万を超える剛拳の前に、北斗は――――――
「はぁああッ!!」
――真っ向から、立ち向かった。
親友を前にして技を放つ北斗の心に、夜闇に孤独に浮かぶ月が浮かんだ。
――明心館巻島流空手
日本刀のように鋭い下弦の月。その刃に守られるように獅狼の顔が、春香の顔が……光の顔、そして多くの者達の顔が浮かび上がる。
北斗は、自身にしか見えない下弦の月を、その刃を左腕に宿し、万感の思いを篭めて、襲いくる無数の攻撃の中に斬り込んだ。
――――吼破・孤月!!!
雷鳴が、轟いた。
闇色の雷が、刃の上をのたうちまわった。
それは相手を切断するための刃でありながら、相手を粉砕するための鉄槌。
音速の何百倍もの境地に達した改造人間の拳が、
圧倒的な攻撃力を有した一条の閃光が、
ありえない伸びを見せて、
ありえない色の雷光を纏わせて、
永遠の少年の身に、
その未来を守ると誓った男に、
襲い掛かる!
万を超える攻撃の中に飲み込まれる、稲妻を伴った一条の閃光。
どっと押し寄せる大河の如き殴打の前に、北斗はなす術もなく打たれ続ける。
“ゴッ!”
……だがその時、まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、獅狼の右肩を、凄まじい衝撃が襲った。
「ッ!?」
まるでダイナマイトの爆発の直撃を受けたかのような、猛烈な一撃。
かつて二人の仮面ライダーとの戦いの際、戦場へと赴く北斗が使用し、以来ずっとあの海際の倉庫街に放置されていたCB450改が、空間転移を果たすや猛スピードで突撃してきたのだった。突然の闖入者による、まったく予想外の攻撃に、さしもの百戦錬磨の獅狼も一瞬そちらへと意識を取られる。
その、わずかな一瞬の空白を衝いて、北斗は、己の全身全霊をかけて、前進した。
「獅狼ぉぉおおおおッッッ!!!」
突き出した必殺の拳は、獅子の口内へと飲み込まれていった。
百獣の王の牙が食い込み、この世のものとは思えぬ激痛が、北斗を襲う。
左腕を噛み千切られるのではないかという恐怖のビジョンと不安の感情が、彼の頭の中を席巻する。
しかし、その強い恐怖は、北斗の肉体のすべてを支配するほどの力を持ち得なかった。迷いを断ち切り、不退転の決意を固めた今の北斗を止められるものは何もなかった。北斗は、目の前の親友がいつもそうしてきたように、自らもまたそのまま突き進んだ。
肋骨の代わりを務めていた特殊合金製のフレームを捻じ曲げ、雷光を纏った指先が、ついに獅狼の体内にあって最も高い熱を持つ器官……改造人間の、強化人工心臓を捉える!
必然二人の距離はこれまでにないほど肉薄し、男達の視線が、間近で深く絡み合う。
北斗は、口から唾を、血を、金属の破片を撒き散らしながら、叫んだ。
「……すまなかった!」
「…………ったく、遅いんだよ、謝るのが」
次の瞬間、北斗の左腕からレオウルフの体内へと、闇色の稲妻が走った。
広い道場の空間に、静かな慟哭が木霊していた。
悲しげに歪む切れ目の双眸から、ひとつ…またひとつと、大粒の涙が流れては零れ落ち、陥没した床の上を濡らしていく。長年にわたって若者達の血と汗を吸い込んできた道場の床は、今、ようやくその使命を終えようとしていた。
「……この、大馬鹿野郎。最初から、素直に謝れってんだよ」
比喩ではなく心臓を鷲掴みにされている状態の獅狼は、しかし目の前の男への糾弾をやめない。
今日というこの日のために、多くのものを犠牲にしてきた男は、歩んできた道程の過酷さゆえに、口から血の泡を吹きながらなお言葉を続ける。
「…なんで、誰も傷つく前に、それが出来なかったんだ。なんで、こんな事になる前に、言わなかったんだよぉ……」
「獅狼…すまない……すまない……」
澎湃と涙に暮れる北斗は、ただ謝罪の言葉を口にし続けた。
利き腕を半ばほどまで飲み込まれて、彼が口にしたのは過去の己の大罪に対する、十四年を隔てての謝罪だった。
「……でも、まぁ、お前の言ったことも、実際本当のことなんだよなぁ」
「獅狼……」
「あの嘘がなかったら、俺はオヤジ達と…仲間達と、会うこともなかった。あの悲しい日々がなかったら、俺は夏目さんとも出会えなかった。……本当、何がどう転ぶかわかんねぇもんだ。“ザンパの英雄”じゃねぇが、人生って、本当に皮肉だよな」
獅狼は、悲しげに笑った。
笑いながら、男は……
「だから、許してやらぁ。ただ、許してやるその前に―――」
北斗は、はっと身構えた。
次の瞬間、彼の顔面に獅子の鉄拳が炸裂した。
音速を超えた拳は後に続く獅狼の言葉よりも速く飛翔し、北斗の体を道場棟の外へと吹っ飛ばす。
「……一発だけ、殴らせてくれ」
“ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ…………………………………!”
そして獅狼が拳を振り抜いた直後、二人の死闘に耐えかねた道場の天井が、ついに崩れた。
「獅狼―――――――――――――ッ!!」
北斗の慟哭の叫びが、壁を突き破って出た道場の外で、木霊した。
東の空が薄っすらと桃色に染まり始めていた。
もうすぐ、夜が明ける。
カーテンに遮られた薄い日差しに頬を照らされて、獅狼は静かにまどろみの中から解き放たれていった。
いつの間に眠ってしまったのか、飾り気のないシーツに包まれた薄い毛布を跳ね除けると、彼はゆっくり上半身を起こし、ベッドに座りなおす。
ベトナム時代の習慣から無意識に身体をまさぐってみると、傷だらけだったはずの身体には包帯が巻かれていた。それもよく見るとまだ真新しく、血と汗を吸い込み始めてあまり時間が経っていないことが分かる。自分で処置した記憶はない。
視線を自分から外界へと移す。見慣れない部屋だ。しかし、どこかで見た記憶がある。自分の寝ている場所が学校の保健室だと獅狼が気付くのに、そう時間はかからなかった。
「…俺は、どうしてこんなところに……?」
「こんなところって……失礼な奴だな。まがりなりにもここは俺達の母校だろうが」
「……北斗、か?」
声のした方を振り向くと、隣のベッドに漫画に出てくるようなミイラ男が寝ていた。
棺桶による封印こそされていないものの、やや色褪せた包帯で顔面すらも覆った男はまさに『恐怖のミイラ男』そのものであるが、繊維の隙間を通して聞こえてくるのが親友の声だけに、獅狼はどうしても恐いとは思えなかった。むしろシュールな光景すぎて、笑えてくる。
獅狼は必死に腹の底からこみ上げてくるものを堪えながら、訊ねた。
「…どうしたんだよ、それ?」
「光に巻いてもらったんだが、気が付いたこうなっていた」
「……夏目さんって、意外と不器用だったんだな」
「そんなことはない。光のフルートの腕前は素晴らしいものがあるし、料理だって美味い。むしろ、手先は器用な方だ。…お前の包帯だって、あいつが巻いてくれたんだぞ」
言われてみて、獅狼は改めて自分の身体を覆う包帯の結びを見る。素人業にしては的確な、きつすぎずゆるすぎずの巻き具合だ。目立って血が付着していないのは、何度か取り替えてくれたからだろう。
獅狼は壁にかけられた時計に一瞥をくれた。最後の時間を確認したときから、かれこれ三時間ほどが経過していた。戦いの最中には時間を確認する余裕なんてなかったから、戦闘時間を三十分と大雑把に考えても、戦闘終了から二時間半は経過している計算だ。
いかな改造人間のナノマシンでも、たった二時間半であれだけの傷を完治させるのは不可能だ。それがこうして苦もなく上体を起こし、喉を震わせて声を発せられるのは、他人による適切な傷の処置があってのことである。獅狼は心の中で光に深く感謝した。
と同時に、彼は、自分に包帯を巻いたのと同じ人物が、なぜ親友に対してはかくも珍妙な……もとい、献身的な治療を施したのか、疑念を抱いた。
「それは分かったけどよ、なんでお前の場合は、そんなミイラみたいな巻き方なんだ?」
「ふむ……」
ミイラ男は、しばし腕を組んで考えた。
そして熟考の末、彼はひとつの結論を口にした。
「……愛情の違いだろうな。覆う面積が、俺への愛を表していると、思いたい」
次の瞬間、獅狼の肺の中の空気が一気に逆流した。
「そんなに笑うことはないだろう」
「い、いや…わ、わりぃ……あんまりにも、らしくないことを言ってくれるものだから……」
双肩を上下させながら、獅狼は傷で痛む腹をさすった。
「それで、当のご本人はどこに行ったんだよ? お礼が言いたいんだけどさ」
「包帯を洗いにいった。保健室にある分の包帯は、俺達ふたりで使いきってしまったから」
「なるほど。…けど、洗うって、あんだけドンパチやって、水道管まだ生きてるのか?」
「死んでいたら、今頃近所中大騒ぎさ」
「ま、そうだろうな……って、おいおい、近所っていえば、お前、さすがに大砲撃つのは不味いだろう? 銃声ぐらいなら車のバック・ファイヤーとか何とか言って誤魔化せるけど、さすがにあの音は……」
「安心しろ。大砲を召還する時に、学校の敷地の外には一切の音が漏れないよう、バリアーを張っていた。万が一、狙いをはずして、榴弾が民家に入らないようにするためにもな」
「……細工は流々だったわけだ」
「その意味では、むしろ、俺の超能力が強化される前の音の方が心配だ。校舎と部活棟を壊したあの音、間違いなく外に聞こえたぞ」
「……そのわりには、消防車もパトカーも来てないみたいだけど?」
「分からん。『ダーク』が何か誤魔化すための手を打ってくれたのか……まぁ、それを考えるのは俺の仕事ではないが」
そう言って、北斗は何もかも投げ出したようにベッドに寝転んだ。
白い枕に後頭部を埋めながら、彼は光の目がないのを良いことに、顔面の包帯をするするとはずしていく。やがて素顔を晒した北斗は、天井を見上げながら言った。
「……本当に、すまなかったな、獅狼」
「もう、いいって」
「いや、謝らせてくれ。そうでないと、俺の気がすまない。俺が犯した罪は、本来なら何千回と謝ったところで許されるはずのないものだ。……それに、謝るのは嘘をついていたことに対してだけじゃない」
「?」
獅狼は目を丸くした。
崩壊の衝撃で割れた蛍光灯を見上げる彼の表情は、悲痛に歪んでいた。
「お前の、左目のことだよ」
「ああ……」
獅狼は包帯にくるまれた白い右手で、右目を覆った。視界が完全な暗闇に閉ざされる。獅狼の左目は、その機能のすべてを失っていた。
「別に気にしてねぇよ。住んでいる世界が世界だ。いつはこんなことになるんじゃないかって、覚悟はしてた」
「しかし……」
「しかしも何もない。フルコンタクト空手にだって、選手生命を絶つような攻撃はいくつもあるんだ。試合で骨折られて拳を突き出せなくなった先輩達の背中を、俺はたくさん見てきた。俺は隻眼になっちまったけど、拳はまだ握れるし蹴り技だって出来る。世の中には隻眼でも歴史に名を残した武術家はたくさんいる。……そういう先輩達に比べれば、俺はまだマシな方さ」
「…………」
「それより、聞かせてくれよ。あの後、いったい俺はどうなったんだ?」
「……道場の天井が崩落した時、俺は咄嗟に遠隔操縦でCB450を操って、お前にぶつけた。覆いかぶさるように倒した。CB450の装甲を、盾にしたんだ」
「…なるほど。無茶してくれるね、まったく」
〈ショッカー〉で開発された特殊合金を基本フレームやボディに多用しているCB450改は、下手な軽戦車などよりもずっと高い防御力を有している。とはいえ、それはあくまで過酷な環境下での耐久性能を高めるための仕様であって、決して防御力を追求してのことではない。いくら丈夫で頑丈といっても、建物の崩落に巻き込まれて無事でいられるかどうかの保証はなかったはずだ。
「よく、信用出来たよな」
「俺の身体を作った組織の技術だ。100%の信頼をしていたさ。CB450のボディならきっと耐えてくれる。きっと、獅狼を守ってくれると信じていた。そして、あいつは俺の信頼にちゃんと応えてくれた」
「崩落がおさまった後は、瞬間移動か?」
「ああ」
なるほど、自分は今日発現したばかりの超能力の、生物実験にされたわけだ。
「気を悪くしたのなら、その件についても謝る。しかし、あの状況でお前を助けるためには、ああするより他になかった」
「いや、いい。……おかげで、助かったんだからな」
本当に申し訳なさそうにしている北斗の横顔に、獅狼は笑いかけた。
実際に彼は、自分が生物実験のモルモットにされたことについては、なぜか微塵の怒りも覚えなかった。
むしろ、獅狼が憤りを感じることといえば、
「……でも、まぁ、恨んでいないって言えば、嘘になるか。何で死なせてくれなかったんだって、ちょっとは思っているよ」
今日というこの日のために駆け抜けてきた戦いの日々、その過程で、自分は多くの命を奪い、犠牲にしてきた。己が戦うことで救えた命もたくさんあったが、その結果消えた命、財産、生まれてしまった悲劇の数は、測り知れない。そしてそれらは、自分の子供っぽい、過去に親友が吐いていた嘘を許せないという我侭に、周りを巻き込んでしまった結果、生じた。
「俺の我侭のせいで、多くの人達が死んでいった。何の関係もない異国の人。何の罪もない民間人。一緒に肩を並べて、同じ釜の飯を食って、一緒に泣いて、一緒に笑った、仲間達……」
北斗が過去に自分の吐いた嘘について謝罪したように、自分も犯した罪に対して謝罪をしなければならない。しかし土下座して謝ろうにも、謝らなければいけない相手の多くは、もうこの世にはいない。自分のせいで、そのほとんどが死んでしまった。
謝罪するべき相手がもうこの世にいない以上、贖罪のために自分が出来る最良の方法は、死をもって償うしかない。
よく、フィクションの世界で語られている、『あなたが生き続けることが死んだ人への償いになる……』なんて、そんなことが、あるわけがないのだ。
「ベタベタな方法だけどさ、死をもって償うことが、俺には最良の方法に思えた。だから今、こうやってお前と話していることについても、ちょっとだけ後悔している」
「……獅狼」
「らしくない……って、思うか? けどよ、これが本当の俺なんだ。お前や山口達が思っているほど、俺は図太い人間じゃない。ナイーブで、繊細な、ガラスの心の持ち主なのさ」
おどけて言ってみせた言葉は、がらんとした保健室の中では奇妙に反響した。
ひび割れた窓ガラスを揺らす乾いた響きは、まるで空虚な自分の心の表しているかのようだった。
「……最初から知っていたさ、そんなこと」
反響する言葉に、また、別の反響が重なる。
それまで横顔を向けていた北斗の視線は、真っ直ぐこちらを向いていた。
「あの交通事故の日から、俺はずっと知っていた。小島獅狼という男は、周りから言われているほどタフな人間じゃない。夕凪も、山口達も、光も、みんな知っていた。……そして、知っているからこそ、みんなお前に生きてほしいと願ったんだ」
「…………」
「山口は……『サンタクロース』は言っていた。小島獅狼はどこまでも優しい人間だ。裏社会で生きていくには、致命的なほどにまっすぐな男だ。それゆえにその心は強く、そして脆い。山口達はお前に生きてほしいと願い、散っていった。
山口だけじゃない。十四年前のあの日、俺は夕凪に言われた。お前のことを、よろしく頼む……と。あいつも、お前に生きていてほしいと願っていた。……光からも聞いている。俺との戦いがどう転ぶにせよ、お前は最終的には自ら命を絶つつもりだったんだな。だが、光はこうも言っていた。『私は、小島さんに生きてほしい』と…」
「…………」
「……俺も、そうだ。お前にはこれからも、生きてほしいと思っている。だから、助けた」
「……何で、お前達は、そんな……」
「不思議か?」
悲痛に顔を歪めて問おうとする獅狼に、北斗は笑いかけた。
いつの間にかふたりの構図は、先ほどとは逆転して、獅狼が泣きそうに顔を歪め、北斗が笑うというものに変化していた。
「理由は簡単だ。俺も、夕凪も、山口も、光も……みんな、お前のことが好きだからだ。お前のことが好きだから…お前の笑顔を好きだから……お前に一緒にいる時間が、楽しいと思えるから……だから、生きてほしいと思うんだ」
「けど…けど……!」
絞り出すようにして、獅狼は声を荒げた。
「けど、俺は、多くの命を奪ってきた人殺しだぞ? 多くの命を犠牲にした、疫病神だぞ!?」
許されるはずがない。許されてよいはずがない。そんな人間が、奪ってきた命のことを、犠牲にしてしまった命のことを忘れて、のうのうと生き続けるなんて、そんな……
「俺も多くの罪を犯した。罪状の数だけで言えば、お前より俺の方が多い。だが、それでも俺は、まだ生きている。俺に死んでほしいと思う人間はたくさんいるのに、俺はまだ生きている。俺が、生きていたいと思っているから、生きている」
「……俺は、俺が、死にたいと思っているのに、生きている」
「そうだな。俺とは反対だ。お前は、お前に生きていてほしいと思う人間がたくさんいるから、生きている」
「どいつもこいつも、勝手なことばかり言いやがって。本人の意思はまるで無視して……」
「傲慢だよな。身勝手だよな。でも、お前にそう思われてもいい。罵倒されても、蔑まれても構わない。それでお前が、生きていてくれるのなら……」
北斗は、そう言うと穏やかに笑った。
自分以上に多くの罪を犯し、十字架を背負って人生を歩む男は、これまでに獅狼が見たことがないほど、静穏に笑っていた。
心の底から、自分が今、生きていることを喜んでくれていた。
「……俺に、十字架を背負って生きろと?」
「奪ってしまった命のことを思い出すたびに、お前の心は傷つけられるだろう。犠牲にしてしまった命のことを思い出すたびに、お前の心は傷つくだろう。生んでしまった悲劇のことを思い出すたびに、お前の心はひどく苛まれることだろう。……それでも、俺はお前に生きていてほしいんだ。俺と、お前と、光の三人で歩む未来を、望んでいるんだ。……悪いな、お前のことをまったく考えていない。身勝手で、自分本意な男で」
「…………」
獅狼は無言でベッドから降りた。
床に足を着けると、ぐらりと、上体が大きく揺れる。
激戦の後で足腰が弱っているのもあったが、床に走る亀裂につまずいてしまったのだった。自分が振り撒いた破壊の余波が、こんなところにまで及んでいることを知り、獅狼の表情が翳りを帯びた。
獅狼はベッドに片手をつきながら、中腰で歩いた。窓辺に立つと、ガラスの抜けた窓を開けて、彼は縁に片足をかけた。
「……これから、どうするつもりだ?」
北斗の声が、獅狼の背中に浴びせられる。
獅狼は、振り返らずに答えた。
「……とりあえず、中東かベトナムにでも行って、墓穴を掘ってくるよ」
「中東も、ベトナムも、未だ荒れている。また、戦いに行くつもりか……?」
「いいや。もう、命の遣り取りには、懲りた。とりあえず、墓だけ作って、謝ってみるよ」
「…………」
「俺に生きていてほしいと願ってくれる人がいる。その人達が、俺に生きていてほしいって思っている間は、まだ死ねない……って。後のことは、それから考える」
自分が死を望んでいることに変わりはない。
しかし、他ならぬ親友が……この世で最も愛した恋人が、犠牲にしてしまった仲間達が、自分に生きていてほしいと望んでいるのなら、自分の命は、今は己だけのものではない。
「……もう少しだけ、生きてみることにする。お前や春香、オヤジ達や、夏目さんがそう、望んでいる間は」
「俺達の一生は、他の人間によりも長いものになるぞ?」
「違いねぇ。せいぜい、その間苦しんでみるさ。……じゃ、またな」
最後に、そう、言い残して、獅狼は縁を踏み越えた。
荒廃した校庭を抜け、正門をくぐるまでの間、最後まで獅狼が北斗の方を振り返ることはなかった。
「……よかったの? あんな風に送り出して」
保健室のドアの後ろで俺達の会話を聞いていた光は、獅狼が視界から消えるなり、言いながら入ってきた。
「大丈夫だ。小島獅狼という男は周りから思われているほど強くはないが、自分で思っているほど弱くもない。大丈夫、あいつは、ちゃんと前を進んでいけるさ」
「……信頼してるんだ、小島さんのこと」
俺は振り返るとゆっくり頷いた。
光は穏やかに微笑を浮かべると、手元のまっさらな包帯に視線を落としながら、
「包帯、洗ったの無駄になっちゃったわね」
「無駄じゃない」
「え?」
「俺の包帯、そろそろ替えてほしい」
「……はいはい」
子供っぽい口調で言ってやると、光は僅かに苦笑した。
ベッドの側まで来ると、彼女はやや湿り気を帯びた包帯をベッド脇の台に置いて、俺の服に手をかけようとした。
しかしその瞬間、俺は彼女の細い手首を掴むと、そのまま思いっきり引き寄せた。
瞬間、視界の端で光の目が驚きにわずかに見開かれるのが分かる。
「あ……」
「……すまん。少しだけ、こうさせていてくれ」
血と、汗と、油と、埃で汚れた戦闘服に包まれた胸板に光の頭を押し付け、俺は彼女の細い身体を抱き締めながら言った。
鼻腔を、ほのかな柑橘系の香りがくすぐる。戦闘中には絶対に嗅ぐことのない匂いだ。ここは血で血を洗う戦場ではないと、安心させてくれる女の香りだ。
「さっきまでは、隣に獅狼がいたから」
「……もう、しょうがない人ね」
「……すまん」
言いながらも、光はこれといった抵抗をしなかった。むしろ俺の背中に手を回し、彼女の方からも俺を抱き締めてくれた。
光の柔らかい身体と、俺の穢れた身体が、熱を分かち合う。
互いの心と身体がひとつに溶け合っていくような、奇妙な感覚が、凍った俺の心を包んでいく。
光がここにいる。その事実を、改めて実感する。
本当に……自分でも思わず笑ってしまうぐらい、安心できた瞬間だった。
俺は光を抱き締め、抱き締められながら、彼女の耳元で囁く。
「……俺も、獅狼と同じだ」
「え?」
「もう、命の遣り取りには、懲りた」
胸の中で、光が顔をあげる。
汚れた服に押し付けてしまったため、その顔は薄く汚れてしまっていたが、思わず目を奪われるほど美しかった。
「……帰ったら、プロフェッサーに頼んで暗殺者をやめさせてもらうつもりだ」
「北斗…でも、それは……」
「難しいってことは、分かっている。仮死状態にあった俺を、組織の戦力にするために救い出した連中だ。そんな申し出が、簡単に通るはずがない。だが、全力は尽くすつもりだ。いざとなったら、『ダーク』の基地のふたつやみっつ、壊滅させてでも言うことを聞かせる」
もう、命の遣り取りには懲りた。今回の件では、光にも危険な目に遭わせてしまった。もう二度と、こんなことがあってはならない。
こんなことに、彼女を巻き込みたくはない。
「万事首尾良く、すべてを終わらせることが出来たら……また、フルートを教えてくれ。そろそろ、新しい曲を覚えたい」
「……ええ、わかったわ」
光の腕が、ゆっくりと離れていく。
俺の腕も、光の背中からゆっくり離れていく。
互いの熱の温もりを、名残を惜しむように、ゆっくりと…ゆっくりと……。
だが俺達は、今は離れなければならない。
ふたりで一緒に歩む未来のために、今は離れなければならない。
離れて、ともに並んで家に帰って、組織の基地へ行って、辞表を出して、そして、もう一度家に帰った時、また、ひとつになればいい。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
「もう、大丈夫なの?」
「ああ…。それに、いつまでもここにいるわけにはいかない。『ダーク』がどんな手を打ってくれたかは知らないが、夜が完全に明ければいい加減誰かが気付くだろう。この、校舎の惨状に」
「……それもそうね」
おそらく、しばらく光は教師を休業することになるだろう。
そのことに対して、少しだけ罪悪感を覚えながら、俺は立ち上がった。
その途端、グラリ…と、上体が僅かに揺れる。軽い目眩が、視界を掻き消す。
しかし、無様に床に倒れるようなことはなかった。隣に立つ光が、支えてくれた。
昨日と今日の、たった二日で、限界まで酷使した左腕に、彼女の腕が絡まる。
その柔らかな感触の、心を癒す温もりの、なんと心地良いことか…。
「行きましょう」
「ああ…」
光が言い、俺は頷いた。
光に支えられながら俺は……いや、俺達は、傷ついた心と身体を引き摺って、一歩前へと踏み出した。
朽ちかけた校舎から一歩外に出ると、空はかなり明るさを増していた。耳を澄ましてみると、スズメの鳴き声が耳に心地良い。
北斗と光が外に出た瞬間、ふたりがくぐった昇降口の扉は“ガラガラ”と音を立てて崩れてしまった。死闘の余波は直接ダメージを被っていない箇所にまで波及しているようで、築二十年になろうかという白亜の城は、建築業者による取り壊しを待つことなく壊れつつあった。
北斗は改めて自分達の身体に与えられた力の強大さに恐怖しながら、しかしもう二度とこの力を振るうことはあるまいと安堵した。少なくとも、振るうのは最大であと数回、『ダーク』が暗殺者としての自分を解雇してくれたその瞬間、この力を振りかざす必要はなくなる。
北斗は身も心も軽くなった気持ちで、重い足を引き摺った。
光に支えられながら一歩、また一歩と歩くうちに、心の枷がひとつずつはずれていくような気分だった。
いや実際、心の枷はともかく、彼の歩みを阻害する足枷は急速に取り払われつつあった。特殊M.E.弾の効果は数時間前に消え去り、極小機械群による肉体の復元は北斗に正常な歩みを取り戻させていた。
しかし、やがて北斗達の歩みは、十歩と数えることなく終わった。
生徒用の玄関を出てわずか数メートル、立ち止まった北斗は、未だ激戦の疲労が残る視線を正面へと向けた。
「…………」
北斗の全身の毛が、産毛にいたるまで総毛立つ。
北斗達から五メートル離れた真正面、傷だらけの校庭のど真ん中に、黒い人影がひとつ立っていた。知らない人間だ。まるで、北斗達の行く手を阻むように、彼らの進路上に立ちふさがっている。
一見して、まだ二十代半ばと思われる男だった。彫りの深い整った造作の美男子だが、どこか表情に生気がない。黒一色に統一されたライダースーツのベルトからは全長30センチほどの皮製のシースが下げられ、とてもではないが一般人には見えない。
(この男……)
……只者ではない。
戦士としての第六感が、警鐘を鳴らしていた。これ以上この男に近付いてはならないと、本能が疲弊した身体に訴えかけている。
北斗は警戒に身構えながら静かに口を開いた。
「……『ダーク』の使いか?」
男が、ゆっくりと深く首肯した。
改造人間である北斗の聴覚は、男の体内から聞こえる機械の駆動音を聞き逃さなかった。彼はひと目見た瞬間から目の前の男が組織の関係者であることに気付いていた。ただの人間であれば、身体の中から機械の音が聞こえてくるなど、絶対にありえない。
「……闇舞北斗だな?」
男が、口を開いた。
流れるような日本語だったが、ひどく抑揚とテンポに欠けていた。まるで機械で合成されたようなバリトンだ。
北斗が「そうだ…」と、頷くと、男は不適に笑った。背筋の芯まで凍る、戦慄の笑みだった。
「俺は『ダーク』破壊部隊の戦士、サブロー……」
「……『ダーク』破壊部隊だと?」
男の口から滑り出したその単語に、北斗は虚を突かれた。
「『ダーク』工作部隊ではないのか?」
「違うな。俺は紛れもなく『ダーク破壊部隊』の戦士だ」
「…………」
北斗は言葉を失った。
てっきり、目の前の男は昨日今日と続いた激戦の後始末のために、組織が使わした工作部隊の人間だと思い込んでいたのである。
『ダーク』破壊部隊は秘密結社『ダーク』が誇る最精鋭の部隊で、組織の侵略作戦の実行を任務とする、戦闘用人造人間のみで構成された部隊だ。文字通り秘密結社『ダーク』の主戦力で、建築やスパイ活動、諜報戦といった専門的技術的任務に従事する工作部隊や、他の戦闘部隊とは一線を隔す存在といえる。
「……破壊部隊の人造人間が、何の用だ?」
北斗は、言葉と眦に険を見せて訊ねた。
今回の一件の後始末において、戦闘用人造人間が介入する必要性はどこにもない。まして、組織にとって貴重な、最精鋭の破壊部隊の人員を割くなど、エネルギーの無駄というものだ。それが分からぬプロフェッサー・ギルではないはずだが……。
北斗の疑念をよそに、サブローと名乗った男は、淡々と語る。
「ギルのやつは、この俺にひとつの任務を与えた」
「…………」
……ギルの、やつ?
プロフェッサー・ギルのことを言っているのだろうが、彼の作った人造人間が、こんな言葉遣いをするなんて……。
先ほどから次々と湧き上がる疑念に、北斗は自分の頭が混乱しつつあるのを自覚しながら、そっと左腕の拘束を解いた。なにやら嫌な予感がする。頭の中を掻き乱す警鐘が、ますます大きくなっていく。
寄り添う光をわずかに引き離し、北斗はいつでも戦闘に移れるよう軽く膝を曲げる。隣に並ぶ彼女に目配せをすると、光は北斗の意図を悟ってくれたようで、自然に腕を解いてくれた。
「その任務は、闇舞北斗、貴様に関するものだ」
「……用済みになった俺を、殺してこいとでも命令されたか?」
断定的な北斗の口調に、光が驚いて彼の横顔を見上げる。
北斗はその視線に応えたいと思う気持ちを必死に抑え、ただ目の前の男にのみ油断なく視線を注いだ。
「……気付いていたのか?」
「馬鹿にしてくれるなよ。お前達『ダーク』が、俺の身体に詰め込まれた〈ショッカー〉の技術を目当てにしていたことは、最初から分かっていた。勿論、俺個人の戦力も欲しがっていたのは、事実だろうがな。『ダーク』という組織の性質上、人造人間以外でまともな戦力になる人間は、貴重だったろうし。……さしずめ、ナノマシンやら強化心臓やらのデータ解析が終了して、俺の体内にある物とそっくり同じ物が造れるようになった。『ダーク』でも改造人間を製造出来るようになって、今回の一件のように問題ばかり起こしている俺は見捨てられたといったところか」
「さすがは世界最強の男、戦闘の天才といったところか」
サブローは、嬉しそうに唇の端を吊り上げた。
その瞬間、北斗は内心で「おや?」と、小首を傾げた。
サブローが唇の端を吊り上げて愉悦の笑みを浮かべた一瞬、人造人間であるはずの彼の表情に、心からの喜びが……命ある生物のみが持つことを許された感情の色が、宿ったような気がしたのだ。
もう一度サブローの顔をよく見ようと北斗が眼を凝らした時、すでに彼は冷笑を引っ込めて、無機質な表情で淡々と言葉を続けていた。
「だが、惜しいな。俺は、貴様を殺せとは命令されなかった。俺としてはむしろそちらの方を望んでいるが、ギルは、この俺に、『闇舞北斗を捕獲せよ』などという、つまらん命令をよこしてきた」
言い終えると同時に、男の姿が一瞬にして消滅した。
北斗だけが、飛燕の如く跳躍して迫るその姿を捉えることができた。彼は反射的に左腕を伸ばして寄り添う光を突き飛ばした。
一陣の黒い風が二人の間を駆け抜け、背後に回った人影から光線のように白刃が振り下ろされる。
右足を軸に回転しながら右手で抜いたブレードと垂直にダイブする抜き身の刀身が激しくぶつかり、青い火花が散った。
「ほぅ……」
サブローが楽しげに呻いた。
この一瞬の攻防に何を思ったのか、心底満足し、北斗の抵抗を嬉しそうに受け止める彼の表情は、もう、見間違いなどではなかった。
サブローは、目の前のこの人造人間は、戦うことを楽しんでいる。自分との戦いに対して心からの喜びを感じ、自分を殺してはならないという命令に、激しい憤りを感じている。そしてそれは、所詮機械に過ぎぬ人造人間が絶対に持ちえないはずの、絶対に持つことを許されていないはずの、命あるもののみに許された特権というべき人間の……。
「完全な奇襲だったはずだがな。……よく、避けたものだ」
「…………」
違う。完全な奇襲などではなかった。たしかにサブローの動きにはまったく予備動作というものがなく、また、人間と違う運動制御系が発揮する身体の動きは、仮に見切れたとしても回避するのは難しいだろう。
しかし、サブローの攻撃は、並程度の兵士ならともかく、自分や、いわゆるベテランと呼ばれる軍人達、二流以上の戦士を相手には、決して不意打ちとはならない。
なぜなら、攻撃の瞬間、自分は確かに感じたのだ。
殺気という、殺意の感情を持てる生物だけが放射できるサインがあったからこそ、自分はあの初撃から逃れ、光を守ることができた。
「お前は、いったい……」
「やはり、この姿では太刀打ちできないようだな」
ひとり納得するサブローは、抜き身の短剣を眼前へとかざした。
まだ薄い日差しともう薄い月光に照らされて、鉛色の刀身が燦然と輝いた。
「うっ……」
北斗は思わず目を覆った。改造人間の人工義眼には必要以上の光量を遮断するためのフィルターが備えられているが、0.2ミリ厚の特殊フィルターが用をなさぬほど、その光は突出した輝きを有していた。
もしかして身体が溶けてしまうのではないか……北斗がそう思うのも、無理はなかっただろう。
やがて目元を覆ってなお痛いぐらいの光芒が終息し、北斗達の目に正常な視界が戻ってくる。
そして、北斗は……見た。
その異形を。
その、漆黒の微笑を。
「お、お前は……お前も……」
両目を見開く北斗の声は、わずかに震えていた。
北斗の視線は、変貌を遂げた漆黒の戦士の頭部に釘付けとなっていた。
ようやく、理解した。
人造人間が絶対に持ちえるはずのない感情という代物。それを、目の前の機械の身体を持った男が、所有することのできた、その理由が。
破壊部隊の戦士であると名乗った時点で、相手は人造人間だと思い込んでいた。しかし、そんな先入観はもっと早く捨てるべきだった。
北斗の視線の先には……
「お前も、改造人間だったのか」
……人造人間が決して持ちえるはずのない、明滅する人間の脳髄があった。
北斗の目の前に、漆黒の破壊者……悪魔戦士“ハカイダー”が立っていた。
“轟”と、どこか遠くのほうで雷鳴が泣き叫んだ。
いつからか焼け爛れた戦場には霧のような雨が降り始め、疲れ果てた戦場の痛みを消し去るかのようにしとしとと世界を洗う。
漆黒のボディの表層を、さざなみが寄せては返し、寄せては返していた。
高度の人生の慮方を際限なく強化された特殊ガラスの上を雨水が滑り、赤く点灯する破壊者の瞳を伝って地面に落ちる。
北斗にはその落下していく雫が、目の前の機械が流す涙のように見えた。
赤い瞳からこぼれ落ちる、黄色い、稲妻の涙のように。
「俺は…俺の名は……ハカイダー!
俺の…俺の使命、俺の宿命……それを果たすために、やつとの戦いのために、闇舞北斗、貴様をあの男の下に連れていく!」
火を噴くような紅蓮の瞳、全身に走る無数の稲妻。
胸の回路に指令が走り、漆黒の唇が妖しく微笑む。
変貌を遂げた黒の破壊者は、声高らかに宣言する。
自らの存在自体が悲劇と知らぬ破壊者は、自らを生んだ世界すべてを破壊しても飽き足らぬ闘争本能を剥き出しにする。
重く、魂を凍えさせる、低いその声が耳膜を打った時、北斗は、己の魂が恐怖で震えるのを実感した。
ハカイダー・システム。
その名前は、北斗も聞いたことがあった。
『ダーク』の技術開発局がほぼ無尽蔵といえるほどの予算をどこからか調達しては費やし、組織が総力を挙げて目下開発中の、次世代型の戦闘用改造人間。パワーや防御面で改造人間を圧倒する人造人間のボディに、人間の脳髄を搭載することで様々な戦況に柔軟に適応することのできる、究極の戦闘員の製造を目的とした一大プロジェクト。北斗自身、戦闘データなどの提供に協力し、開発に少なからず関わった計画だ。
「完成していたのか……」
北斗が最後に計画にタッチした時点で、ハカイダーはまだ起動テストはおろか組立作業すら行われていなかった。機体を制御するためにどうしても必要な、“ある回路”の開発に手間取っていたからだ。
あれから今日でちょうど二週間、劇的な開発ペースの加速には、組織内で何か大きな出来事が起こったに違いなかった。そしてその大きな出来事について、自分は何も聞かされていなかった。
「……どうやら俺は、かなり早い段階で見限られていたようだな」
所詮、自分は末端の戦闘員。『ダーク』がその組織力の総てをかけて挑む一大プロジェクトについて、何も知らされていないのはむしろ当然といえるだろう。
しかし、組織にとって自分はただの戦闘員ではない。目的はどうあれ、プロフェッサー・ギル直々のスカウトを受けた、いわば特別な戦闘員だ。その自分に、何の話もなかったということは、つまりそういうことなのだろう。
「……だが、これで踏ん切りがついた。プロフェッサー・ギルが俺を裏切るというのなら、俺がプロフェッサーを裏切っても文句は言えまい」
「組織を裏切ると……辞めるというのか?」
「…………」
その瞬間のその言葉が、どこか楽しそうであったのは北斗の気のせいだったのか。彼はハカイダーの言葉にゆっくりと頷いた。
恐怖はあった。
現に目の前の破壊者に対する本能的な恐怖によって北斗の身体は震えていたし、心の深いどこかの部分は、この場から立ち去るよう必死に警鐘を鳴らしていた。
しかし、北斗の戦意は、獅狼よりも最新鋭の改造人間を前にしていささかも衰えなかった。
彼は、目の前に立ちはだかる脅威に対して、自分自身の最後の戦いを挑む決意だった。
北斗はベルトに垂らしたシースから、電磁ブレードを引き抜いた。自分を拾ってくれた『ダーク』が、組織の尖兵となった自分に与えた武器を、今度は自分を狙う闇の刺客に振るうことになろうとは……獅狼の言うとおり、“ザンパの英雄”ではないが人生とは本当に皮肉なものだ。
電磁ブレードを握る北斗の両腕では、闇色の稲妻がのた打ち回っていた。
彼の不退転の決意を表すかのようにハカイダーを威嚇しながら、稲妻は周囲の雨を焼き、北斗を体温剥奪の脅威から守っていた。
北斗は自分が突き飛ばしたせいで倒れている光に、意味ありげな視線を向けた。つい先ほどまで戦っていた獅狼と違い、不意打ちや奇襲も辞さないハカイダーを前に、隙を作るわけにはいかない。北斗は光を助け起こすために手を差し伸べることをしなかった。彼にはそれがどうしようもなく辛かった。
しかし、言葉にせずとも、これが闇舞北斗の最後の一線になるであろうことは、光も感じ取っていた。やがて彼女は自分で立ち上がると、無言で彼に背を向けた。光も北斗に声をかけたかったが、それは今の北斗には邪魔になると思って、何も言わなかった。
光が十分に離れたのを見届けて、北斗はブレードを逆手に構えた。そうすることによってハカイダーの側からはブレードが見えず、様々な変則攻撃がやり易くなる。
不意に、北斗は背骨が砕けたのではないかという猛烈な痛みが走るのを感じた。
それからきっかり1秒後、北斗は、いつの間にか校舎の外壁に埋められていた自分に気が付いた。
ポロリ…と、逆手に持ったブレードが滑り落ち、地面にぶつかってバチバチと激しい音を鳴らす。落下の拍子に、電磁パルス発生装置のスイッチが入ったらしく、雨を弾いて輝くそれはたちまち内蔵バッテリーの中身を喰らい尽くし、やがて沈黙した。
「な…に……?」
愕然とした呟きが、北斗の口から漏れた。
北斗はいったい自分がいつ殴られ、いつ壁に叩きつけられたのかまったく分からなかった。気が付いた時にはもう、白亜の外壁に埋まっていた。
(獅狼より、速いだと……!?)
何も見えなかった。見えないばかりか、音もしなかった。
一切の予備動作を配したフリッカージャブの一撃に、北斗は手も足も出なかった。出せなかった。
次の瞬間、北斗の顎を、強烈な衝撃が襲う。またも、不可視の鉄拳だった。
「ぐ…うぅ……ッ!」
白亜の外壁を粉砕しながら、北斗の身体が飛翔する。
腕一本の力でカチ上げられ、空へと飛ばされた北斗を、飛ばした破壊人形は追う。
その流れるような一連の動作の、なんと鋭く、なんと素早いことか。
目前に迫る漆黒の巨躯に、北斗は迎撃のため左腕を振り下ろした。
「くぅッ! ライダアパぁンチッ!!」
暗黒の稲妻がのたうつ鉄拳が、ハカイダーを目掛けて放たれる。
しかし、それは虚しく空を切るばかりだった。
北斗は自らが鳴らす風切る音を聴きながら、目の前で突如消滅したハカイダーの姿を追って……振り向いた。
視線の先でハカイダーは、両手を合わせた鉄槌を北斗に振り下ろした。
瞬間移動をする暇すら、なかった。
地面が、割れる。
叩きつけられた場所に、まるで隕石が振ってきたかのようなクレーターが生まれる。
それほどのスピード、それほどの破壊力だった。
「グ……ガァ…ハッ……!」
地上に叩きつけられた北斗は、うつ伏せに倒れ、全身を砂塵で汚しながら血を吐いた。
激突の瞬間にサイコ・シールドを展開してダメージを軽減しなければ、己の肉体は今頃バラバラに四散していたことだろう。
「やはり、手加減というのは難しいな。ギルからは捕獲を命じられているが、どうしても、貴様を殺そうとしてしまう」
ハカイダーが、勢いよく着地した。ハカイダーが降り立っただけで地面が陥没し、濛々と砂煙が舞い上がった。
ハカイダーは皓々と光る紅の瞳で、七・八メートル先の北斗を見下した。
ダメージのまったくないハカイダーに対して、たった三回、攻撃を受けただけの北斗はもう立ち上がることすらままならぬ状態になっていた。獅狼との戦いの時ですら、たった三発の攻撃では起こりえなかった現象だ。
この目の前の敵は、これまで相手にしてきた連中とは次元が違う。
いつの間にか身体の動きを阻害しようとしていた恐怖は、どこかに消え去っていた。立っている世界のまるで違う相手に対しては、恐怖すら覚えなかった。
「……この程度か」
侮蔑も露わなハカイダーの言葉が、北斗の心を深く抉る。
「先ほどの〈ゲルショッカー〉の怪人と戦っていた時の方が、強かった。……あの時の力を、もう一度出してみろ」
……そうでなければ、自分が面白くない。
そんなニュアンスを含んだ言葉に従うつもりはなかったが、そうしなければならない必要があるのもまた事実だった。
この戦いに勝たねば、北斗達に未来はない。
北斗は素早くホルスターのブローニングに左手をのばした。ほぼタイムラグなく、銃口が間断なく火を噴き、ハカイダーがのけぞる。ホルスターに手をやってから射撃まで、コンマ一秒とかからぬ早業だった。
だがハカイダーの装甲に、9mm特殊徹甲弾の連射は通用しなかった。
いやそれ以前の問題として、9mm特殊徹甲弾は一発としてハカイダーに当たらなかった。のけぞったように見えたのはハカイダーの回避運動で、十メートルと離れていない超至近弾を、漆黒の破壊者はこともなげに躱したのだった。
だが北斗にとって、ハカイダーの運動能力の脅威は予測範疇内のことだった。
もとより9mm特殊徹甲弾がハカイダーに通用しないことはわかりきったこと、『ダーク』が総力を結集して作り上げた改造人間の装甲が、そんな脆弱であるはずがない。
北斗が9mm弾に期待した役割は、自分が立ち上がるまでの時間稼ぎであった。
ブローニングの弾が切れる。
それと同時に、北斗が俊敏な動きで起き上がる。
内容の豹を連想させるしなやかなるも力強い動きで、彼は漆黒の破壊者の装甲に重い拳を叩き込んだ。
――吼破・水月!!
決して見切れぬスピードではない。
事実、極音速の9mm弾に比べれば北斗の動きはぐっと遅い。ハカイダーの運動能力をもってすれば、容易く回避できるはずの攻撃だった。
しかし、ハカイダーは躱さなかった。いや、躱すことができなかった。
もし、ハカイダーが人間の情動を理解する改造人間ではなく、数値だけで全てを認識する人造人間であれば、箭疾歩による錯覚は起こらず、吼破・水月は不発に終わっていただろう。
しかし、ハカイダーは人間の脳髄を頂く改造人間だ。いかに九割九分九厘が機械で出来ていようと、少しでも人間の感覚を持っていれば、そこに錯覚は起こりうる。視角と時間感覚の錯視が起こりさえすれば、吼破・水月は炸裂する。
はたして、懐に潜り込んだその鉄拳は、ハカイダーの胸板を揺さぶった。それは激戦の末に皮膚が裂け、強化人工骨や特殊チタニウム製の手甲が剥き出しになった、文字通りの鉄拳だった。
圧倒的なエネルギーを注がれた金属同士がぶつかり合い、くぐもった悲鳴がハカイダーの胸元で、そして北斗の腹部で鳴り響いた。
「ヌ…ゥ……!」
北斗の強烈な一撃を受けて、さしものハカイダーもよろめいた。
「グゥ…ァアッ……!」
鳩尾にカウンターを喰らった北斗が、衝撃のあまりくずおれた。
「グ…フ、フフ……」
ハカイダーの唇から、冷笑が漏れた。
痛覚などあるはずのない肉体の、わずかに歪んだ胸元をさすりながら、彼は歓喜のさえずりを歌った。
「……そうだ」
うずくまる北斗を狂気の視線で見下しながら、漆黒の破壊者は戦いの喜びに微笑んだ。
「もっと…もっと俺を楽しませろ!」
ハカイダーの右足が消滅し、閃光の一撃が北斗の顔面を襲う。
すかさず両腕をクロスしてガードする北斗だったが、ディフェンスごとカチ上げられ、72キロの堂々たる体躯が壊れた人形のように宙を舞う。
空中に放り出された獲物を追って、ハカイダーが駈ける。
校庭の端に備え付けられた水道に頭から突っ込み、受身の取れぬまま地面を滑る北斗にハカイダーの爪が迫る。
「くッ!」
貫き手の照準は明らかに心臓の位置。高周波振動を起こすハカイダーの爪は、ちょっとでも触れれば命はない。
破裂した水道管のパイプを掴み、ようやく横転から脱した北斗は、肉薄する裂爪に両の拳で立ち向かった。
殺戮の手が戦闘服の生地に到達する寸前、ハカイダーの手首を両側から挟むように北斗の鉄拳が炸裂し、黒の右手が火花を散らした。
動きの止まった一瞬を狙って、すかさず北斗は蹴り上げようとするが、ディフェンスに対するハカイダーの反応は、北斗のそれよりも早かった。
ハカイダーは無造作に右腕を振るった。
たったそれだけの動作で、北斗の身体は校舎の3階まで吹っ飛んだ。
窓ガラスを割り、教室に転がり込む影。
自らの着地で床に亀裂を走らせながら、教室に舞い降りる影。
北斗が起き上がり、ハカイダーが迫る。
北斗の拳が空を裂き、ハカイダーの足が大気を焦がす。
北斗を襲うハカイダーの瞳は、爛々と赤く輝いていた。
狂ったように喜びに満ちたその真紅を見ているうちに、北斗は、獅狼と戦っていた時以上の恐怖を覚えた。
これほどまでに純粋に戦うことに対して歓喜する存在を、北斗は知らなかった。
負けるかもしれない――と、北斗は思った。
何もかもが圧倒的だった。
素人目にもハカイダーの戦力は凄まじく、光には北斗が獅狼と戦っていた時以上に追いつめられているように見えた。そして事実北斗は、ハカイダーの猛攻の前に消耗し、徐々に反撃する力を失いつつあった。
もともと獅狼との激戦で疲れ、傷ついた北斗である。戦える力はほとんど残されておらず、今の彼を支えているのは、未来を想う不屈の心と、最後の戦いに挑む不退転の決意からくる気力だけだった。並外れた精神力が、今の北斗のエネルギーの源だった。
他方ハカイダーは、光でもそうと分かるほどの凄まじい殺気を歓喜と一緒に惜し気もなく振り撒いていた。天災のもたらすそれとさして変わらぬ破壊を世界に解き放つ黒い機械人形の姿はまるで神話の世界から飛び出した破壊神のようで、人々の心に永遠の爪跡を残すほどの威厳に満ちていた。
と同時に、ハカイダーの動きにはどこか哀愁が付き纏っていた。少なくとも、光にはそう思えた。
ハカイダーの振り撒く破壊は、とてつもなく暴力的で、途方もなく悲しかった。
ハカイダーの振るう暴力からは、何も生まれない。ただ悲しみだけが、他の一切の感情を超越した虚しさだけが残る。人の心に、粉砕された世界に、そしてハカイダー自身の心に。
おそらくあの改造人間は、その出自ゆえにいずれ自分を生んだこの世界全てを憎むようになるだろう。この世界の全てを破壊してもなお決して満ち足りぬ破壊衝動を持ち余しながら、最後には自分すらも破壊するのだろう。
戦闘者でないがゆえの直感だったが、光は奇妙に確信していた。ハカイダーは、留美を失ったばかりの頃の北斗にそっくりだった。
北斗が校舎の窓を突き破って飛び出した。
ハカイダーも、コンクリートを蹴破って飛び出した。
空中で交差し、落下する2つの影。
まだ無事な校舎の陰から様子を覗う光の身体が、激しく震えた。
恐かった。
激突する2つの異形が、自分の方に近付いてくるかもしれないと想うと、たまらなく恐かった。
しかし、光には戦いの余波が自分に波及することよりももっと恐いことがあった。
目の前で死闘を繰り広げる男に、万が一のことがあるかと思うと……それは何事にも代えがたい恐怖だった。自分の半身と認めた男が目の前で消えることを想像するのは、自分が死ぬのを想像するのと同じか、それ以上の恐怖を光に与えた。
(北斗……)
20メートルは離れているのに、ぶつかり合う殺気の片鱗が感じ取れるほどの死闘を見つめながら、光は胸の内で小さくその名を呼んだ。
脳裏に映る北斗の顔と、視界に移る血を吐く男の顔が重なって、彼女の心を掻き乱した。
「北斗……」
もう一度、光はその名を呼んだ。
今度は胸の内から飛び出して、周りの空気を震わせながら、強く、響いた。
彼を失いたくない。彼を失ってはならない。しかし、その強い思いとは裏腹に、自分はなんと無力なのだろうか。
光は何の力も持たない自分に失望した。四国での事件の時もそうだった。あの時も自分は、何もできず、ただ彼のことを信じて待つことしかできなかった。
今回も、自分はただ北斗のことを信じ、そして待つことしかできないのか……無力感に打ちひしがれる彼女の両手は、自然と胸を張り裂かんばかりに鼓動する、豊かな双丘の下に隠された心臓へとのびた。
そのとき、光は自分の肘が何か硬い物に触れたのに気が付いた。スーツの内ポケットに収まり切らないそれの正体を確認した光は、はっと驚くと同時に、その瞬間まで存在を忘れていたそれを懐中より取り出した。
死を覚悟した獅狼が光に託した、決意のコルト・ガバメントだった。
45口径7連発の自動拳銃は、日本人の女性としては比較的長身の光の手にも余るほどの巨体と、テキサスの猛牛を思わせる無骨な威容をたたえている。
光はじっと手の中の拳銃を見つめた。
いかな45口径とはいえ、あの黒い改造人間に対してその数字があまりに無力なことは分かっている。また、射撃に関しては、撃ったことはおろか実銃を持つのも今日が初めての自分の腕前で、満足に命中がさせられるとも思えない。けれど、例え命中しなくても、注意を逸らすことぐらいは可能ではないか。例えそれがほんの一瞬にすぎなくても、北斗ならばその一瞬を起死回生のチャンスに変えることができるのではないか。
光の耳に、北斗の悲鳴が飛び込んだ。
銃を見つめる光の視線が、はっと上がる。
たった20メートル先の戦場で、高周波振動を起こすハカイダーの爪が北斗の胸板を削り取っていた。
光の中で、炎が生まれた。
決意という名の、燃え盛る炎だった。
光は走った。夢中で走った。胸の中で北斗の無事を祈りながら、走った。
目指すその先にいる北斗は、消耗のためか、光の存在にまったく気付いていなかった。
北斗の左手が稲妻を思わせる素早さでホルスターからブローニングを引き抜いた。
ハカイダーの左手が閃光を思わせる素早さで銀色の回転式拳銃を抜き撃った。
“ドドドドドドッ!!”と、怒涛の六連射が重低音衝撃波とともに唸りをあげ、強烈な反動が血飛沫を飛ばす北斗の身体を打つ。
“ズゥゥウンンッ!!”と、まるで大砲を思わせる銃声を上げて一発の特殊弾が、北斗が一回目のトリガーを引き絞るよりも早く彼の左肩に炸裂した。
あらゆる機械を粉砕する高周波弾に撃ち抜かれ、北斗は思わずのけぞった。肉体が北斗の意志よりも速く反応し、衝撃を逃がそうとしたのだった。
必然、後からの射撃となった北斗の六連発は照準がそれ、狙いを定めていた頭部よりもはるか上の雨雲の彼方へと吸い込まれていく。
踏みとどまった北斗の鳩尾に、ハカイダーの鉄拳が炸裂する。
北斗の体がくの字に折れ、叩き込まれた拳はそのまま高周波振動する刃となって、北斗の体を切り裂いた。
腹を切られ、胸を切られ、北斗の口から絶叫が漏れた。
刀で切断される痛みと、鋭いナイフで突き刺される痛み、熱した鉄棒を傷口に押し当てられる痛みと、細胞の一片々々を粉々に砕かれていく、言葉では表現のしようのない痛みが混ざり合って、北斗の全身を揺さぶった。
怒涛の如く、津波の如く、ハカイダーの猛撃が北斗に殺到した。
あまりの猛襲の前に、ついに北斗が片膝を着いた。
朱にまみれた彼の拳は、だらりとだらしなく垂れ下がったまま動かなかった。
そんな北斗に、ハカイダーは容赦なく迫った。
ハカイダーの黒い左手が拳を作り、はるか天空の雨雲を散らすように掲げられた。
「プロフェッサー・ギルに持ってこい頼まれたのは、貴様の首から上だけだ」
ハカイダーが、重く腹の底に響くようなぞっとする声で言った。
その言葉に、北斗はなぜ自分が『ダーク』からこのような仕打ちを受けるのか、その理由を悟った。
プロフェッサー・ギルは、目の前のこの改造人間の頭部に、自分の頭脳もまた……。
北斗の心臓めがけて、漆黒の流星が落ちた。
この世の創造物全てを粉砕する鉄拳が、天から地へと滑り落ちた。
トドメを刺そうとするハカイダーの一撃を、北斗は躱さない。躱すことが出来ない。躱すほどの体力が、もう残っていない。
「北斗、あぶない……!」
そのとき、鋭敏な改造人間の耳膜を、初めて絶叫が打った。
あまりの消耗ゆえにその瞬間まで気が付かなかった。コルト・ガバメントを両手にした光が、両脚に全力を込めて走ってきた。
北斗が、駈けてくる光の方を振り向いた。
北斗の口から、血とともに絶叫が迸った。
「来るなッ、光!!」
ハカイダーも振り向いた。だがその反応は北斗よりも遅かった。何の力もない一般人と侮っていたがために、反応が遅れてしまった。また学生時代にソフトボールで鍛えた光の脚力は、ハカイダーの予想を上回るスピードを発揮していた。
一瞬の不意を突いたとはいえ、ハカイダーの反応速度をも上回る勢いを殺さぬまま、光が北斗にぶつかるようにして跳躍し、“ドンドン”と、ガバメントが2回、火を噴いた。
北斗に振り下ろされるはずだったハカイダーの左手が閃光のように走り、光と北斗の身体が激突した。
素人の撃った弾丸は、ハカイダーをそれ、北斗と光が、絡まり合うようにして倒れた。
横倒しになったまま、北斗がブローニングをガンガンガンと三連射し、ハカイダーが一瞬たじろぐ。
すかさず反撃に出たハカイダーだったが、振り下ろした第二撃は地面を何十センチも抉り取るだけに留まった。
ハカイダーの目の前から、北斗達の姿は煙のように消えていた。
土壇場で瞬間移動を発動させた北斗は、ハカイダーから数十メートルも離れていない地点……獅狼との戦いの爪跡が深く残る、校舎の屋上に出現した。なにもそんな近場に逃げなくても……と、思うかもしれないが、ブローニングの三連射で作った一瞬では、学校の屋上をイメージするのが精一杯だったのだ。
「光ッ」
叫ぶ北斗が両目を大きく見開いて、ワナワナと五体を振るわせた。仰向けに倒れている光の胸の中央に、ポツンと赤いシミが表れ、それが急速に広がってスーツを濡らしていく。
北斗は、ブローニングを投げ捨て、光の身体に飛びつくようにして、上体を抱き起こした。
「なんてことを……なんてことをしてくれた」
背中に回した北斗の腕が、真っ赤に染まる。
光の流す赤い血が、北斗の赤い血と混ざり合って、溶け合っていく。
光の胸に、ぽっかりと黒い穴が開いていた。跳躍によってある程度威力が殺されたのか、穴の大きさは小さかったが、噴き出る鮮血はゴボゴボと音を立てていた。
光の状態を抱き支える北斗の両腕は、震えていた。
北斗の歯と歯がガチガチと激しく鳴り、彼の双眸は悲しみに早くも潤み始めていた。
降り注ぐ雨が冷たい。氷のように冷たい。
北斗は、全ての時間が停止したような気がした。
「北斗…お願いだから……悲しまない……で……」
光の手が、北斗の頬に触れた。北斗の目に涙があふれ、それを拭った指を伝い落ちて、熱い雫が彼女の頬の上に落ちた。
「光……死ぬな!」
わずか数十メート先、十メートルの下界ではハカイダーが牙を研ぎ澄ましている。そのことも忘れて、北斗は叫んだ。絶望的な叫びだった。
北斗は、涙に濡れた頬を、彼女の頬に強く押し当てた。肌を刺す冷たい雨が、冷たい風が、嵐のように吹き抜けていった。
「どうしてだ…どうして自分を粗末にした。……どうして、生き続けることを考えなかった」
「北斗あっての、わたしだもの……」
「光あっての北斗でもある! ……それを、忘れたのか!?」
「愛して……る。わたしの…北斗……心から」
「闇舞光の名を残して死ぬな! ……頼む。死なないでくれ。生きていてくれ……!」
北斗は泣いた。かつてないほどの号泣だった。世界最強といわれる男の、号泣だった。愛する女性のための、己の半身のための号泣であった。
「闇舞光になれて……嬉しか……った」
光の首が、静かに折れた。闇舞北斗に惹かれ、彼を支え、熱愛し続けてきた美しい女の、最期だった。
息絶えたその表情はなおのこと美しく、口元に浮かべた微笑みは菩薩を思わせるほど、優しかった。意志の強さを感じさせる眉の下にある、閉ざされた涼しげな双眸はまるで幸せな夢でも見ているかのように、安らかだった。
「お、おおお、おおおおお……」
唇からあふれ出したその慟哭の、なんと悲しみに満ちた叫びだろうか。
またしても救えなかった。この手で掴みながら、またしても滑り落ちていった。
「……おのれ、よくも――――――!!」
ゆっくりと顔を上げた北斗の目が、ギラリと凶悪に光った。
光を静かに横たえ、戦闘服を脱いでそっと彼女にかけた彼は、凄まじい怒りの形相のまま立ち上がった。鍛え抜かれた裸の上半身が烈火の怒りに燃え、鋼の筋肉を摩擦させる。全身の傷口から噴き出る鮮血は上半身を真っ赤に染め、まるで地獄の魔王を思わせた。爛々たる光芒を放つ二つの目に、かつて見たことのない凶暴な輝きが宿っていた。
北斗は、己の中に一匹の悪魔が到来したのを自覚した。
それはハカイダーと同じで、この世界の全てに怒りをぶつけてなお晴れぬ、圧倒的な憎しみの炎を吐く破壊神だった。
漆黒の破壊者を倒すために、今一度北斗は、一匹の獣となった。
「……来たか」
不意に背後に出現した気配に気が付いて、ハカイダーは振り返った。
そしてその瞬間、ハカイダーの頬に凄まじい衝撃が炸裂し、漆黒のボディはきりもみしながら宙を舞った。
受身を取り、校庭を何メートルも転がってようやく止まったハカイダーは、立ち上がると会心の笑みを浮かべた。
「……そうだ」
真っ赤に染まった機械の目は、他の一切のものを映すことなく、修羅の如き形相の男だけを見つめていた。
「その、力だ」
ハカイダーの胸は、歓喜に高鳴っていた。
狂おしいほどの喜びが、全身を支配していくのが分かった。
「その力でなければ、面白くない」
「光イイイイイイッ!!」
北斗が、絶叫した。
全身これ炎と化した怒りで、北斗の鼻腔からバッと鮮血が迸った。鞏膜の毛細血管が“ブチブチ”と音を立てて切れ、目尻から幾条もの血が流れ落ちた。
怒りと悲しみの混じった凄絶な表情を浮かべ、彼は、計算も何もなくただハカイダー突っ込んだ。その髪は逆立ち、歯はガチガチと打ち合って、口腔内粘膜を噛み裂いた唇からは夥しい血の河が流れていた。
それは、恐るべき怒り、恐るべき憎悪だった。戦闘を超越し、死を超越した北斗の怒りだった。
雷光を纏った左右の腕が激しく連続し、ハカイダーの胸部を叩く。
叩きのめされる鋼板が悲鳴をあげるも、ハカイダーもまた計算も何もなく、ただ戦いを求める本能のままに突き進む。
北斗が血を吐いた。
全身の毛穴という毛穴から、鮮血が噴出した。
ハカイダーも血を噴いた。
全身を駆け巡る琥珀色の鮮血が、飛び散っては白亜の校舎を汚した。
互いに目を覆わんばかりの血を流しながら、二つの異形は獣のように吠えた。牙を剥いて吠えた。悲憤の咆哮だった。喜びの咆哮だった。
「ああああああ――――――ッ!!」
「そうだ! この胸の高鳴りを、待っていたのだ!」
こんなにも胸が高鳴るのは、こんなにも魂が奮い立つのは、あいつとの戦い以来だ!
つまらない任務だと思った。目の前にある全てを破壊するために生まれた自分にとって、相手を殺せない命令など愚の骨頂だった。
しかし……
しかし、レオウルフとの死闘の最中に垣間見た、あの闇色の稲妻……あれを見た時の胸の高鳴り。魂の鼓動。
戦ってみたいと思った。
そして実際に戦ってみて、あの胸の高鳴りは本物だと悟った。
心のそこから湧き上がる歓喜が、空虚な己の魂を癒してくれた。
この男との、戦いが……。
「うおおおおおお――――――ッッ!!!」
北斗が、両腕をクロスした。
次の瞬間、北斗の両腕から光の奔流が放たれた。圧倒的な、光の渦だった。
機械の体に搭載された各種センサーは、その光の渦がスペシウム成分を含有した、圧倒的エネルギーの光線だと告げていた。
警告装置のやかましい音を無視して、ハカイダーはその中を突き進んでいった。
たちまち、漆黒の装甲が白熱化を始め、圧倒的な熱量の前に、あらゆる機械がオーバーヒートして、白煙を上げ始める。
「おおおおおお――――――ッ!!」
しかし、そうまでなりながら、ハカイダーは、なおも進撃を続けた。
やがて銀色の光を突き抜けて、ハカイダーは北斗の両腕を掴んだ。そして、引き千切った。
行き場を失ったスペシウムが暴走し、引き千切った両腕も、残った部分も爆発した。
今度こそ、跡形もなく両腕を失った北斗は、しかしなおもハカイダーに牙を剥いた。
絶叫し、泣きながら、満身創痍となって、両腕を失った北斗は突き進んだ。
彼はハカイダーの懐に飛び込むやその喉元にむしゃぶりつき、噛み付いた。
奇怪な悲鳴をあげながら金属がひしゃげ、“バチバチ”と電流が唸った。首の運動を制御する回路が破損し、また同時にハカイダーの装甲に敗北した歯が砕けていく。
ハカイダーのアッパーカットが炸裂し、北斗の顎が砕けた。
血が、べっとりと涎掛けのように身を汚し、北斗の体が宙を舞う。
ハカイダーは跳んだ。
憎悪の男の首を両脚で挟みこみ、漆黒の破壊者は身を捻った。
「ギロチン落とし――――――!!」
空に、断頭台が出現した。
ギロチンの刃の下に晒された北斗に、逃げる術は残されていなかった。
最後の一瞬、北斗は地上へと視線を向けた。
自分が始めて親友達と出会った場所、大切な人との再会を果たした場所、親友との死闘のゴングを打ち鳴らした、大切な場所……校舎の屋上に視線をやり、そこに横たわる彼女を、北斗は見た。
永久の眠りに付いた彼女の、安らかな寝顔を、網膜に、そして魂に刻み付けるように、じっと見つめた。
“ポトリ……”と、一輪の花が散った。
闇舞北斗の瞳は、なおも光の姿を映し続けていた。
雨は激しさを増していた。
夜空ではカッと稲妻がのたうち、感情を持つにいたった機械にはまるで空が悲しんでいるかのように、雨音と雷鳴が聞こえた。
サブローはオープンフェイスのヘルメットを深くかぶると、純白のオートバイにまたがってエンジンをキックした。
素早い反応で空冷エンジンに火が灯り、タコメーターの針が一気に跳ね上がる。
続いて地面を軽くキックすると、白い車体はたちまち風になった。
路面に濃く焼け焦げたタイヤの跡が刻まれ、その上に点々と、朱色の雫が滲んでいた。
自動操縦で走る白いカラスの座上で、サブローは今日の戦利品を愛おしそうに抱いていた。
〜設定〜
“吼破・孤月”
新たなる力に目覚めた闇舞北斗の新必殺技。
超能力で生成した二十万ボルトの高電圧を拳とともに相手の体に叩き込むという、シンプルながらも強力な一撃で、北斗の技量によって相手の急所に炸裂した際には、二十万ボルトという数字以上の威力を発揮する。
通常の電気と違い、空気中でも視認可能な特殊な電撃で、かつその色は紫電ではなく混沌とした闇色。また電圧の威力は北斗のテンション、さらなる超能力の進化によって増減し、理論上は無限大にまで高めることができる。
ちなみに、北斗の放つ吼破にはすべて月の名前が冠しているが、これはタハ乱暴が北斗と獅狼の関係を月と太陽に例えて、意図的にそうしたものである。
闇舞北斗は小島獅狼という太陽に照らされることで初めて輝きを見せた。北斗にとって獅狼は太陽であり、また獅狼にとって北斗は自分が生きていく上で欠かせない親友……お月さんなのである(ちなみに獅狼にとっての太陽は春香。たしか『君は僕の太陽だ』っていうラブレターが流行ったのは、この頃だと思ったけど……)。
なお、以下は吼破のネーミングの由来について。
吼破・水月……日本武術における人体の急所を水月というから。この当時の北斗は人を寄せ付けない殺伐とした雰囲気を醸し出していたし、凶暴な感じがいいかなと……。なお、読み方は“すいげつ”ではなく“みづき”
吼破・静月……タハ乱暴の私見で、浸透剄には静のイメージがあったから。どうせ一発限りと、あまり考えずに名付けた。
吼破・孤月……友人と喫茶店で話している最中に、「北斗って『光のために、留美のために』って言ってるわりには、いつも独りで戦ってるよね」の一言にショックを受けて(笑)。あとサム○イスピリッツの覇○丸とか、結構“孤”のつく技を使ってるし。
吼破・春舞……獅狼にとっての掛け替えのない存在、夕凪春香と闇舞北斗の名前と文字をひとつずつ拝借して命名。“凪”を“風”に換えて、北風という案もあったが、恋人が苗字じゃ不味いだろうというのと、案外想像力が膨らむ語になったことから。
吼破・太陽……説明不要だと思うけどなぁ。まぁ、要するに、この技を放つ度に獅狼は自分にとっての太陽を思い出すわけですよ(笑)。
“スペシウム光線”
新たなる力に目覚めた北斗の新必殺技その2。要するにアレ(笑)。
超能力によって本来地球には存在しない正負のスペシウムを両手に宿し、十字にクロスすることによって生じる正負の化学反応が発生させる莫大なエネルギーを、超強力なビームに変換して発射する。
その威力は無論本家本元の足元にも及ばないが、等身大サイズが放つ光線技としては最高クラスの威力を有している。
“ハカイダー”
秘密結社『ダーク』が組織の総力を投じて完成させた、究極の改造人間。度重なるキカイダーとの戦闘、そして敗北の続く現状を打破するべく、純粋な対キカイダー用の戦闘サイボーグとして開発・設計された。
詳細はここで述べるよりも、読者諸氏がネットなどで“ハカイダー”と調べた方が早く、また理解しやすいだろう。
ハカイダーの存在は、特撮ヒーロー作品のみならず後の多くの作品のライバルキャラクターに強い影響を与えた(ちなみにタハ乱暴的には、ハカイダーの正当な後継者はブラックビートだと思っているのだが、どうでしょう?)。
〜あとがき(今回は対談形式ではなく)〜
現役傭兵の高部正樹氏曰く、日本人はあまり傭兵という職業には向かない人種らしい。理由は至極単純なことで、『日本人は余分なことを考え過ぎる』からだそうだ。
その意味でいくと、闇舞北斗という男に作中で何度も語られているような“世界最強”の称号は似合わない。絶大な戦力を持ちながら自分が戦いに身を投じる理由を常に模索し、目的を見出しては誰かによって破壊され、それを繰り返す。留美を守るため。親友達を守るため。ただ自分が生き延びるため。自分が生きていくのに都合の良い世界を守るため。そして、愛する人を守るため……戦う理由を築く度に第三者によって破壊され、その都度、北斗の心は絶望に染まってきた。
はっきり言ってしまうと、闇舞北斗という男は本来ならばこうしたヒーロー作品の主人公には相応しくないのだ。ヒーロー作品の主人公は誰かを守るために戦う。しかし戦うことに対していちいち悩んでいては、誰も守ることはできない。自分を守ることすら、ままならない。
思えば70年代の特撮ヒーローの主人公は、「仮面ライダー」の本郷猛に代表されるように悩むヒーローが多かった。本郷猛は自らの力に悩み、郷秀樹は超人となってしまったがゆえに生じる周囲との軋轢に悩んだ。しかし北斗のように、戦うことそのものについて激しく苦悩するキャラクターはあまりいなかった。戦うことそのものについて苦悩するヒーローの登場は、平成へと時代が移り変わるまで待たねばならなかった。
闇舞北斗はヒーローではない。ヒーローを倒すために存在する、いわば怪人である。敵役ではない。闇舞北斗というキャラクターは、力石やタイガージョーといったライバルキャラが持っていたカッコよさ、渋さを備えていない。闇舞北斗は、毎話、毎話、姿形を変え、能力を変え、戦法を変える怪人である。第一話で蜘蛛男として戦い、第二話で蝙蝠男として戦う怪人である。
闇舞北斗は、一話ごとに戦う理由をあれこれこじつけては、絶大な戦闘力を発揮していた。戦う理由な確立していない彼は、はっきり言って弱い。ゆえに戦う理由・目的を失った回では、その絶大な戦力にも陰りが見える。どうしようもないぐらい、腑抜けになってしまう。作者がそのように仕向けたんだから、間違いない。
仮面ライダーの怪人達も、回によってはライダーを追い詰め、場合によっては一度はライダーを倒すなどの健闘をみせていた。しかし、やはり回によってはものの数分のアクションで終わってしまうことも少なくなかった。要は、時と場合だった。
闇舞北斗は怪人である。ヒーローではなければ、敵役でもない。敵役には、むしろ獅狼のようなキャラの方が相応しく、ヒーローにいたっては、適役が誰もいない。
今こそ明かそう。「Heroes of Heart外伝」とは、そんなヒーロー不在の、ヒーローの物語なのだ。
ゆえにこの世界では北斗を助けてくれる第三者は存在しない。獅狼を救ってくれる完全無欠の英雄はいない。光の魂を助けてくれる、そんな都合の良いヒーローはいない。いるのは絶大な力のみを信望する愚かな男と、その力すらもを打ち砕く敵だけである。
ヒーロー不在の世界では、現実の世界に普通にありふれている力と力の連鎖が、ずっと続いていく。また力を振るう者達の苦悩も、永遠に続いていく。
そして闇舞北斗はこれからも悩む。
ヒーロー不在の世界で、決してヒーローになりえない怪人は、次回以降も苦悩し続ける。
力を振るい続けることに悩み、戦うことに苦悩し、他人から見たらバカバカしく思える、稚拙な言い訳を用意して戦っていく。
ヒーロー不在のヒーローの物語、その終末が、ハッピーエンドで終わるはずがない……。
そしてヒーロー不在の世界に生きる男は、次回、とんでもないことに巻き込まれる!(ここまで真面目に語って最後は次回の煽りかい)
読者諸氏には、今しばらくこのヒーロー不在の英雄譚に付き合っていただきたい。
それでは最後に、
「Heroes of Heart外伝」、今回もお読みいただきありがとうございました!
この物語を読んでくださったすべての皆様に、猛烈な感謝ぁッ!!
次回、急展開
親友同士による最悪の戦いから一年……
ソレは、唐突に目を覚ました……
最強にして最悪! 誰しもに死をプレゼントする恐怖のサンタクロース!
……ソレは、闇の組織が残した最後の遺産…………
彼の者の、名は――――――
俺の名は 俺の名は
ハカイダー02!!!
つぶせ
破壊!
壊せ
破壊!
破壊せよ!
ただ、壊すためだけの存在!!
胸の、回路に指令が走る
抗えぬ衝動 掻き消せぬ殺意
俺の 俺の使命 俺の宿命
この世界……己を拒絶する世界のすべてを……
破壊せよ!
破壊せよ!!!
次回
Heroes of Heart外伝 第十七話「漆黒の破壊王」