注)この話はHeroes of Heartに登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――1973年3月24日。

 

 

 

 

 

 日本で日付が今日から明日へと変わりつつあるその頃、日本との時差8時間のアメリカ・ウェストヴァージニア州では、ちょうど朝を向かえた人々が活動を開始し始めていた。

 ウェストヴァージニア州はアメリカ合衆国で唯一アパラチア山脈の内部に位置している州で、すべての地域が山岳内にあることから通称“山岳州”とも呼ばれる。

 面積の大半が山岳地形という厳しい環境のため工業は発達しておらず、主要産業はエネルギー産業と農業。

しかしそれも、エネルギー産業の方は僅かな石炭、石油、天然ガスを産出するといった程度で、熟達している農業の方も、山岳地形ゆえにその生産物はかなり限られてしまっている。

そのためウェストヴァージニア州の経済はアメリカ合衆国の中でも最も貧弱な部類に入り、アメリカ合衆国統計局の情報によれば、一人当たりの所得はアーカンソー州、ミシシッピー州に続いて下から第三位という、不名誉な銅メダルを獲得してしまっていた。

そんなウェストヴァージニア州で、数少ない安定した収入が見込める生産物がトウモロコシである。

世界最大のトウモロコシ輸出国であるアメリカのトウモロコシは、その多くが東海岸から州の中ほどまでで生産され、その生産地域にはウェストヴァージニア州も入っている。同州では他にも小麦の生産が盛んだが、それはむしろ少数で、やはりメインはトウモロコシとするべきだろう。

一般的に温帯地域におけるトウモロコシの栽培は、4月下旬から5月上旬にかけて種まきをし、7月下旬から8月の上旬にかけて収穫を行う。

しかし、トウモロコシと人類の付き合いは古く、7000千年以上もの長きにわたって施されてきた品種改良の結果、それなりの味を保ちながら栽培時期を選ばない品種の存在も少なくなかった。

よく肥えた広大な面積の土地に、2メートルほどの背丈のトウモロコシが密林を作っていた。

規則正しく等間隔に植えられたトウモロコシの茎はみな太く、逞しい。農薬を使っていない証拠である。穂の先端にひっそりと咲く雄花はススキのそれを思わせ、あと一ヶ月もすれば立派な実がなるであろうことは疑いようがない。

よっぽど手間をかけて育てられているのだろう、根元には一本の雑草も生えておらず、植えた人間の細かい性格と、作物に対する愛情の度合いが窺えた。

そんなトウモロコシ達の成長を、満足げに愛でる一対の視線があった。

白人の青年だ。齢は20代後半といったところか。身長201センチ、体重96キロで大柄な体格といえば、アフリカ育ちの黒人でもそうはいない巨漢である。

2メートルはあろう背丈のトウモロコシ達と同じ位置からの視線で、その生育を興味深げに眺めるその横顔は、彼の温厚な性格を一目で看破出来る柔和な造りをしている。

元秘密結社〈ショッカー〉最強の特殊部隊、SIDE〈イレイザー〉の〈弐番〉シュウ・タウゼント。

〈ショッカー〉の執拗な追撃を凌ぎ切り、故郷へと帰郷した純朴な青年は、今は実家の農園の手伝いをし、かつては何処の誰とも知らない他人を殺すために用いた手を、何処の誰とも知らない他人のために、土と触れ合わせていた。

灰色の作業着に黒いゴムの長靴。薄汚れた軍手に首に巻いたスポーツタオルといういでだちは、どう見ても暗殺者のそれではなく、土を耕す農家のひとり息子以外の何者でもない。赤黒く汚れていたはずの手は、今は土と泥で汚れていた。

 

「時期が時期だからちょっと心配していたけど、さすが父さんだな。これだけの広さの畑なのに、雑草が一本も生えていないなんて。良い仕事をする」

 

整然と並ぶトウモロコシ達の合間を慎重な歩みで抜けながら、父が丹精篭めて作り上げた兄弟達の出来映えに、思わず感嘆の呟きを漏らす。

シュウが足を踏み入れた畑の一画に生えるトウモロコシは、彼の父親が植えたものなのだ。

農作物に対する愛情は父にも負けていないという自信はある。……が、こうした細かい作業の面で、自分はまだまだあの人には勝てないと思う。

〈ショッカー〉に所属していた頃は裏の仕事の都合でなかなか家業を手伝うことが出来なかったが、こうして組織を抜けて、のんびり土と向き合うようになってからというもの、これまで父が長年やってきた仕事の正確さ、繊細さには毎日驚かされてばかりだ。これまで自分が父に対して抱いてきたイメージが、一日ごとに更新されていく。これまでも父には少なからぬ尊敬の念を抱いていたが、半年と経たずして、その感情はより大きなものとなっていた。

不意に、畑の中を穏やかで力強い風が吹き抜けた。

山岳地域特有の強風は、風防によってその勢いを大幅に削がれていたが、その分上の方の大気を薙ぐ勢力は強い。

トウモロコシの茎はビクともしなかったが、その先端の長髪は強く大気を泳いだ。

シュウの口元を、思わずこぼれた苦笑が歪めた。

陽光に照り付けられた黄金色の穂が揺れ動く視界の中、少し高いところを、麦藁帽子が流れている。見覚えのある帽子だ。おそらく、この強風に飛ばされてしまったのだろう。

高度は5メートルといったところか。

シュウは周りに誰もいないことを確認すると、両脚に軽く力を篭めて跳躍した。自分の身体が普通の人と少しばかり違っていることは、まだ家族にも話していない。〈ショッカー〉という組織のことも、この数年自分はとある貿易会社に勤めていたと誤魔化してきた彼である。重力に逆らって5メートルも跳ぶ姿を、事情を知らない誰かに見られるわけにはいかなかった。

シュウは麦藁帽子を掴むと、着地する場所を探して視線を巡らした。

実は、麦藁帽子の持ち主が誰であるかはもう分かっている。

そもそも自分は、その人物の姿を求めて、この畑に足を踏み入れたのだ。

それは7ヶ月ほど前から一緒に暮らし始め、今では家族同然といっても過言ではない間柄の女性だった。自分が改造人間であるということも、彼女だけは知っている。だからこそ、5メートルも跳躍するなんて危険な行為に及べた。

視界の中に彼女の姿を見つけ出し、その付近で、なるべくトウモロコシが生息していない地点を探して、シュウはそこに着地した。

5メートルの高さからの着地は相当な衝撃を伴うものだったが、彼の逞しい下肢はその衝撃をふわりと受け止め、柔らかい地面にほとんど足跡を残すことなく体を支えてみせた。

戦うことをやめてすでに半年以上が経とうしていたが、農作業というハードな労働を連日行っているため、彼の肉体からは衰えというものがまったく見られない。むしろ、以前よりも逞しく、より強靭にすらなっている。

着地したシュウの元に、青年の物と同じデザインの作業着が駆け寄ってきた。

同じ物……といっても、服のサイズや厚い生地越しに見られる身体のラインは大分違う。

背丈はシュウと比べて40センチ近くも低く、身体のラインはなだらかな曲線を描いている。

灰色の袖口から覗く腕は華奢で、一歩踏み出すたびに、セミロングの黒髪が揺れ動いた。

容姿から判別出来る齢はシュウと同じか、それより少し若いぐらいだろう。整った顔立ちのモンゴロイドの女だった。

シュウは無言で駆け寄ってきた彼女に近付くと、その両手に麦藁帽子を握らせた。

女は帽子を大切そうに腕に抱くのを見て、シュウの顔に笑顔が咲いた。

 

「落し物はこちらでよろしかったですか? お姫様」

「ええ。ありがとう、シュウ」

 

芝居のかかった口調の返答は現地人と比べても遜色のない自然な英語。半年がかりでシュウを含めた4名の人間が、全力で彼女に仕込んだ賜物である。

闇舞留美、25歳。

昨年の8月に兄が生死不明となった直後、自身〈ショッカー〉から追われる身となりながらも、シュウを初めとした少なくない協力者達の支援を受け、からくもその追っ手から逃れた彼女は、彼ら協力者達の勧めもあって、現在は農園を経営するシュウの実家に身を寄せていた。

英語があまり得意でない彼女も新大陸に渡って7ヶ月……今では母国の日本語と同じように不自由なく喋ることが出来る。

 

「今日は風が強いわね…それに冷たい。シュウが助けに来なかったら、この麦藁帽子は暖かい太陽の元へ逃げていくところだった」

 

手渡された麦藁帽子を被り直し、留美は冗談めいた口調で言った。

すでに季節は春先になったとはいえ高地の空気はまだ肌寒く、麦藁帽子が似合う時期ではない。

それでも彼女があえて麦藁帽子を被ったのには、それなりの理由があった。

頭上に位置する麦藁帽子は、4人の協力者達の中で唯一日本語まったく解さない無口なロシア人の老人が、まだ英語を使いこなせていなかった頃の彼女にプレゼントした物だった。

その頃の彼らはまだ互いの意思表示もままならず、ボディランゲージによる対話すら四苦八苦していた。言語の違いという壁は思った以上に分厚く高く、2人の距離は一向に縮まらなかった。

そんな2人が互いに歩み合い、距離を詰めようとした証……麦藁帽子は、そんな思い出深い品のひとつだった。

この帽子を受け取って以来、留美は彼と一緒に過ごす時間が増え、彼がアメリカから離れ、祖国のソビエトへ帰る日には、涙すら流したものだ。

留美にとってその麦藁帽子は、季節を問わず被りたくなる、大切な宝物だった。

それに高地の3月の気温はまだ低く、風も冷たかったが、太陽が近いため日差しは強い。その点、つばの大きな麦藁帽子は、陽光を遮るのにぴったりの代物だった。

他方、帽子をしていないシュウは、恵まれた体格のおかげで空を見上げる機会自体少なく済んでいたが、時折上を向くその視線はいつも眩しそうに細くなっていた。

今度は風に飛ばされぬよう深く帽子を被った留美は、左手に巻いたアキュトロンを見た。日本から持ち込んだ数少ない思い出の品で、大学に入学したときに兄が買ってくれた物である。

 

「…そろそろ朝ご飯の時間みたいね」

 

時間を確認した彼女は、そこでようやくシュウが何のために畑にやってきたのか、その理由に気が付いた。

 

「わざわざ呼びに来てくれたの?」

 

青年の家に転がり込んでからというもの、何か特別な事がない限り自分が毎朝畑へ足を運んで散歩をするのは、今では日々の日課になっている。散歩が長引いてしまい、家族揃っての朝食に間に合わなかった経験は少なくない。

片道15分の道程を歩んできたシュウは、嫌な顔ひとつせず穏やかに「まあね」と、答えた。

 

「誰が何と言おうと、留美はもう僕達の家族だからね。家族一緒にみんなで食事を摂りたいっていう当たり前の願望を、抱いていない人はウチの家族にはいないよ。それから、そのために必要なほんのちょっとの労力を惜しむ人もいない」

「ありがとう、シュウ」

「お礼なんていらないさ」

 

シュウは気さくに笑ってみせた。

 

「本当はジョージが呼びに行きたがっていたんだ。あいつは、君のことを本当の姉さんみたいに思っているから」

 

5つ年下の弟は、好奇心の強くて明るい、人の良い青年である。色黒の顔立ちはハンサムで、母性本能をくすぐられずにはいられない。

陽気な性格の彼は、留美に姉に対する弟のそれとも、好きな女に対する男のそれとも取れる好意を抱いていた。日本人は青年の好意に早くから気が付いていた。

 

「でも、名目上とはいえ僕は一応、君の婚約者だからね。恋人を呼びに行くっていう大切な仕事を、弟に任せるわけにはいかないよ」

 

〈ショッカー〉のことを知らないシュウの家族達には、留美のことはアメリカ人が日本で見つけてきたフィアンセであると説明している。

そのこともあって、彼女が家族の中に溶け込むのに、あまり時間はかからなかった。

 

「あれ、心配してくれているの?」

「そりゃぁね。ジョージは僕と違って二枚目だから、兄としては恋人を取られないかって、いつもビクビクしているよ」

「私はシュウだって良い男だと思うけど」

「ははっ。それはどうもありがとう」

 

留美に『男前だ』と、言われ、照れたように小さく笑うシュウ。

彼はお世辞だと受け取ったようだが、しかしそれは偽らざる留美の本心だった。

決して二枚目とはいえぬ顔立ちのシュウだったが、彼にはそんな容姿の優劣など気にもならないほどの、人としての魅力がちゃんと備わっているのを、留美は知っていた。

彼のことを知る多くの人は、シュウ・タウゼントという男のことを “優しい”とか、“今時珍しいぐらいに出来た青年”とか、美しい言葉を以って褒め称える。しかし、それはシュウという人間のほんの一部の側面しか知らない証拠だ。そもそも、人間には誰しもに表にしか現れぬ顔と、普段は隠れている裏の顔の両方がある。

この7ヶ月の間に、全部とは言えないまでもシュウ・タウゼントという男が持つ表と裏の両方の顔を見てきた留美は、他の大多数の人々と同じように、彼について“優しい”とか、“今時珍しいぐらいに出来た青年”とかの好印象を抱くと同時に、まったく別の感想をも抱いていた。

土を相手に嬉しそうに語りかける彼の姿を見て、留美はそれを微笑ましく思った。

自分の言った冗談に気さくに笑った彼の笑顔を見て、留美はそれを可愛いと思った。

家族に対する彼の態度を見て、留美はそこから彼がいかに家族のことを大切に想っているのかを感じ取った。

何度となく失敗しながら、それでもなお畑を耕す彼の姿を見て、留美はそこからどんなに失敗しても諦めない彼の心の強さを知った。

銃を手に取り勇ましく歩く彼の姿を見て、留美はそれを格好良いと思った。

自分を守るために血まみれで戦う彼の背中を見て、留美はそこから頼りがいのようなものを感じた。

異形の改造人間を相手に大剣を振り回す彼の姿を見て、留美はそこから暴力的なものを感じ取った。

ミュンヘンで起きたテロの報道をニュースで見る彼の横顔を見て、留美は怒りに染まった眼差しから彼の正義感の強さを感じ取った。

日曜日、教会で懺悔し、これまで奪ってきた数多の命を想って、またこれからも奪っていくであろう数多の命を想って涙する彼の姿を見て、留美は罪を背負うシュウの弱い心を、そしてそれでもなお戦う決意を秘めた強い心を感じた。

シュウ・タウゼントはたしかに優しい。

だが、ただ優しいだけの男が〈ショッカー〉最強の特殊部隊SIDE〈イレイザー〉で、副隊長などという重職を務められるものだろうか?

留美にとってシュウ・タウゼントという青年は、心に傷を負いながらも、なお戦い続けていく覚悟を持った、“真に強い男”だった。

普段はそんな一面を穏やかな表情の下に巧妙に隠しているので、そんな印象は微塵も感じさせないが、もし彼が表の顔も裏の顔も臆面なく曝け出していたとしたら、彼のそんな強さ……濃厚な牡の魅力を放っておく女性はあまりいないだろう。

留美は確信を持って言うことが出来た。

シュウ・タウゼントは紛れもなく“良い男”だ。

それもとびきり上等な、男の魅力に溢れる“良い男”である。

留美は早い段階から(彼はもっと自分に自信を持つべきだ)と、思っていた。

シュウと留美は柔らかな土で出来た斜面を、ゆっくりとした足取りで上っていった。

坂の上には昔風の造りをした石造りの建物がそびえ建っており、その後ろには巨大なアパラチア山脈の一部を見ることが出来た。

 

「そういえば今日の朝食は何?」

 

がたがたの坂道を登りながら、留美が思い出したように言った。

タウゼント家の人間はみな料理に関して知識の深い鉱脈を持っており、その上で全員が高い料理人の資質を持っている。

特に青年の母親のレオーニ・タウゼントの腕前は素晴らしく、彼女の料理を食べることは留美を含めた家族全員の楽しみだった。

 

「ハムエッグに手作りのパンだよ。勿論、パンに塗るのはウチで作った蜂蜜さ」

 

シュウは留美にハムエッグの卵は知り合いの同業者から貰った新鮮な物だと説明した。それから彼は、パンは自分が今朝早くに起きて自慢の腕力でこねた、作りたての物だとも説明した。

アメリカ人の説明を聞くにつれて、留美の顔は期待でほころんでいった。

シュウはそんな彼女に優しい視線を注ぎながら、トドメとばかりに、今朝自分も知ったばかりの情報をぶつけた。

 

「――そういえば今朝、フランスのバネッサから届いたよ」

「?」

「彼女があっちで作ったワインさ」

 

シュウがにっこりと笑って言って、留美の表情は久しぶりに聞いた遠方にいる友人の名前と、その友人が送ってきた代物で輝いた。

〈ショッカー〉からの逃走劇の最中に固い友情で結ばれたバネッサが、今は故郷のフランス陸軍で働いていることを彼女は知っていた。子供のような――というより、そうとしか見えない――体格の、しかも女性である彼女だったが、こと狙撃の腕前に関しては陸軍に従軍するすべての男達よりも達者で、現在はその腕を見込まれて外人部隊の訓練教官をしているという。

外人部隊所有のぶどう畑から時折送られてくる、彼女自身が手塩にかけて作ったワインは、居候の日本人だけでなく、タウゼント家の人間全員の喉を喜ばせる代物だった。

その中でも、無類の酒好きであり酒豪でもある闇舞北斗と同じ血を半分持っている留美は、友人からの差し入れということもあって、その喜びの程は大きなものだった。

 

「楽しみね。レオーニさんの料理にバネッサちゃんのワインなんて。朝から豪華じゃない」

「こらこら、まだ仕事前だっていうのに、朝っぱらからワインを飲む気でいるのかい? キミは」

「勿論、冗談よ」

「……本当に?」

 

訝しげな視線を留美に向けるシュウ。

忘れてはいけない。彼女は、あの闇舞北斗の妹なのだ。可愛らしい顔に騙されて、彼女との飲み比べの餌食になった人間は少なくない。というより、自分もその被害者なのである。

 

「改造人間のプラスチック繊維消化器官が、ただの人間と飲み比べして打ち負かされるなんて思わなかったよ」

「……別にあれぐらい普通だと思うけど」

 

シュウは引きつった笑みを浮かべながら首を横に振った。

と同時に、アメリカ人は、ことアルコールに関しては改造人間以上に強靭な臓器を持っている彼女を見て、改造人間の臓器を持ったことにより、それ以上に性質の悪い酒豪のことを思い出した。彼もまた、仕事の前には出来る限りアルコールを飲むようにしていた。

彼の言うところによると、適量のアルコールを摂取すると思考が弾み、身体の調子が良くなるのだという。

その作用についてはシュウも何ら異論を口にする気はなかったが、問題は彼の言う『適量のアルコール』の、彼にとっての“適量”にあった。

ボトル一本開けるぐらいはまだ良い方で、時にはビール樽1つ分、まるまる酒をかっくらっていくのだ。しかも、大事な仕事前に。

初めて彼とチームを組んだときの衝撃を、おそらくシュウは生涯忘れないだろう。

彼は戦士としては誰よりも優秀で、当時の自分を含めた多くの者達は、彼の教えを請うことを至上の喜びとし、また常に行列の出来るその順番が、自分に回ってくるのを心待ちにしていた。

当然、シュウも彼と初めてチームを組んだとき、『戦闘の天才』と呼ばれた彼の技を間近で見ることが出来ると知って、たいそう喜んだ。

そして実際にチームを組んで、任務を遂行して……シュウは、見た。

任務の成功前祝と称して敵陣のど真ん中でボトル3本を軽々開けるその日本人の豪快な飲みっぷりを。任務の達成祝と称して、敵軍から奪取した戦車の中で一升瓶をラッパ飲みする、その日本人の豪気すぎる飲みっぷりを。

あのとき受けたある種のカルチャーショックは、シュウの中で今でも大きな衝撃として記憶されている。

常に生死と隣り合わせの戦場を前に、あるいは後ろにしながら、何故彼はあんなにも楽しそうに酒を飲むことが出来たのか?

肝が据わっているとか、凄まじい胆力の持ち主であるとか、そんな美しい形容を超越した無類の酒好き。

しかしひとたび戦闘となれば彼ほど頼れる存在は他になく……過去に思いを馳せるシュウは、今でもなお尊敬する戦友のことを半ば呆れながら、しかし笑いながら思い出していた。

よくよく考えてみれば、自分が今日までの人生の中で出会った最良の友は、奇妙な男だったものだ。

 

「…やれやれ、やっぱり留美は間違いなくホクトの妹だよ!」

「それは褒め言葉として受け取っていいのかな?」

 

呆れた口調で言うシュウの冗談に、留美もまたおどけた調子で答える。

アメリカに来たばかりの頃はふとした弾みで会話の中に兄の名前が出ただけで震えるような反応を示していた彼女も、七ヶ月という短い、しかし濃密な時間を過ごして、今ではこうして笑いながら行方知らずの兄のことを語ることが出来る。また、七ヶ月前と比べて、最近では笑顔を浮かべることも多くなった。

シュウはそんな彼女の些細な変化を、まるで自分のことのように嬉しく思っていた。

 

(北斗……)

 

未だどこに居るのか判然としない戦友に向かって、シュウは心の中で語りかける。

日本を中心に活躍する暗殺者『killing gentleman』の名はシュウも知っていた。“死を運ぶ紳士”の正体が、『死んだはずの闇舞北斗ではないか?』という、裏社会の噂話も耳にしていた。しかし、今のシュウが知りえる情報はそこまでだ。

だからシュウは時折、こうして側に居ない男のことを思いながら心の中で語りかける。

 

(留美はだいぶ落ち着いてきた。僕もバネッサ達も、みんな元気でやっている。…北斗はどうだい? ちゃんとご飯食べてるかい?)

 

返答など期待していない、期待すること自体間違っている問いかけ。

しかし頭の中で思い浮かべた戦友は、律儀にもちゃんとそれに答えてくれた。

もっとも、それはシュウが思い描いた想像の北斗なのだから、答えてくれてむしろ当然であろう。

しかし、いかなる問いにも答えてくれるはずの親友にも、答えられない問いはあった。

 

(……君は今、何処にどこに居るんだ?)

 

空想の親友は曖昧な笑顔を浮かべただけで、何も答えてくれない。

シュウはやはり心の中で溜め息をつくと、不意に自動車のエンジン音を聴いて顔を上げた。

がたがたの坂道を、これまたがたがたのジープが下ってくる。曇ったフロントガラス越しに見えるのは、血を分けた弟の顔だ。

2人の帰りが遅いので、母親辺りが使いに寄越してくれたのだろう。

シュウと留美は顔を見合わせると、にっこり笑ってジョージに手を振った。

行きと違って帰りの道のりは、多少楽が出来そうだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Heroes of Heart外伝

〜漆黒の破壊王〜

―――奪われた誇り―――

第十五話「約束」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

曰く、人間は生前の行い次第で、死後神の裁量によって2つの行き場を用意されているのだという。

神が支配する天国と、悪魔が支配する地獄。

『神曲』を著したダンテなどによると、2つの世界はまったく正反対の成り立ちをしており、天国が神の教えを尊び、生前より多くの善行を積んだ者のみが住むことを許される至高の楽園であるのに対し、地獄は罪人たちが生前犯した罪により、未来永劫裁かれ続ける暗闇の世界であるという。

また、天国は神の御許へと昇れば昇るほど、それは素晴らしい世界が展開しているが、地獄では悪魔の王の元へと潜れば潜るほど、より重く凄まじい裁きの待つ、悲壮な世界が広がっているのだという。

だとすると、罪人である俺に用意された住まいは当然地獄……それも、かなりの深いところであるはずだ。

なにせ俺が犯した最大の罪は殺人。理性を持たぬ動物でさえ滅多に行わない、『同族を殺す』という最悪の所業。しかも俺の場合、相手をちゃんととして認識した上で殺害に及び、あまつさえそれを商売にしていたのだから、こんなことを言うこと自体罪なのだろうが、罪の度合いは単純な殺人鬼よりもなお重いはずである。

その道程は凄惨にして過酷であり、幾多の悲劇であふれていてもおかしくはない。

はたして、待っているのは四方八方焔に包まれた灼熱の鉱炉か、果て無き責め苦か。

しかし、覚悟を決めて一歩踏み出した俺を待っていたのは、自身の抱くそれら地獄のイメージを一新させてくれるものだった。

 

「美しい……」

 

なによりもまず、そんな陳腐で、何の捻りもない賞賛が唇から漏れてしまう。

視界のすべては繚乱する緑に奪われ、鼻腔をくすぶる濃厚な花の香りに、心ならずとも安息を覚える。小鳥のさえずりが、川のせせらぎが、耳に心地よい。

視界に映るは輝く山川。一面に咲き乱れる草木。

見渡す果ては花霞にぼやけ、天地の分け目すら判然としない。

息を呑むほどに美しい風景……眺めているだけで心沸き立つ生命の息吹。

楽園とはおそらくこんな世界のことを指すのだろう。

これが本当に地獄なのかと、自分で自分を疑ってしまう。

あるいは、自分は本当は生きていて、目の前に広がる光景は、ただ自分が夢を見ているだけなのではないか、とすら思ってしまう。

だが、これは紛れもなく現実だった。

目も、耳も、鼻も、俺の肉体に備わったすべての感覚が、眼下に広がる光景が夢であることを否定していた。

 

“ザザァ―――ン……ザザァ―――ン……”

 

ふと耳を澄ませば、爽やかな風に運ばれて聴こえてくる波の音。

どこか懐かしい、それでいて心安らぐ不思議な波濤。

近くに海があるのか、ほのかに漂う潮の香りに、故郷の景色が草原に重なる。

さざなみの音に導かれ、音のする方へと一歩踏み出す。

体は、羽根のように軽かった。

どれほど歩いただろうか、距離感のつかめぬ楽園をとうとうと歩いていると、不意に、見知った顔が視界に飛び込んできた。

 

「あぁ……」

 

14年の歳月を隔ててなお記憶から色褪せぬ、彼女の顔。

決してありえぬはずの再会に、言葉すら忘れてしまう。

少女は、花の絨毯の上にひとりまどろみの中にあった。

風が吹く度に艶やかな黒髪が揺れ、飛沫を散らすが如く舞う無数の花弁が、幻想的な光景を作り出す。

例えるなら、それは眠れる森の姫君。

その美しさに心奪われ、

その懐かしさに、驚きすら忘れた。

 

「……あれ?」

 

俺の気配を感じ取ったのか、2・3回の瞬きの後に開かれる、彼女の双眸。

巡らした視線が俺の姿を捉えるや、少女は驚いたように大きく目を見開くと、しかし、次の瞬間には、記憶の奥底にあった、満面の笑顔を浮かべた。

 

「おはよう、ヤンミ♪」

 

その笑顔はあのころのまま麗しく、美しく……眺めていると、なぜか目頭が熱くなる。

 

「ちょ、ちょっとヤンミ。いきなり泣き出したりなんかして、いったいどうしたのよ?」

 

その労わる声の、なんと心に染み渡ることか。

そう…。

そうだ……

この世界でただひとり、自分のことを『ヤンミ』と呼ぶ少女。

何度やめろと言っても、しつこいぐらいにその名を呼び続けた彼女。

14年前のあの日、キミは笑いながら言った。

 

『あは…ははは……ヤンミってば、ひどい顔……イイ男が、台無しだよ……』

 

……だから、俺は泣くわけにはいかない。

彼女の前で自分が泣いているのは、失礼だと思うから。

彼女の前では俺は、彼女曰くの『イイ男』でいたいから。

熱を帯びた目頭を服の袖で擦り、天を見上げる。晴れ渡った青空を仰臥しながら、深呼吸を2回。

決意も新たに首を傾け、彼女の顔を見つめる。

彼女は、不安げな瞳で心配そうに俺を見ていた。

自分の涙腺はこんなに緩かったのか、再び熱を増す瞼。

俺は涙が頬を濡らす前に、早口で言った。

 

「…いや、なんでもない。……おはよう、夕凪」

 

顔に浮かべた表情は、失敗作だったかもしれない。

しかし夕凪は、そんな出来損ないの笑みを浮かべているかもしれない俺に、再び笑顔を見せてくれた。

 

「うん! おはよう、ヤンミ」

 

その浮かべた満面の笑みの、なんと美しいことか。

少女の名は、夕凪春香。

そして俺の名は……闇舞北斗。通称、ヤンミ。

 

 

 

 

 

――1973年3月25日。

 

 

 

 

 

――吼破・太陽。

数ある改造人間の中でも、唯一内家気功術を可能としたレオウルフが持つ、最強にして最大の必殺技。

全身を駆け巡る“気”のエネルギーを、ただひとつの拳に集束して高速で何発も叩き込むというシンプルな技ながら、最終到達拳速マッハ25という数字は、いかなる敵をも圧倒的な力の現実の下に打ちのめす。

パンチ一発の威力はTNT爆薬800キロ以上のエネルギーに匹敵し、一秒も喰らい続けた際のダメージは、原子爆弾を直接叩き込まれたそれに相当する。

そんな攻撃を、たっぷり五秒間……打ち込まれた標的は、直接の標的である男の身体のみならず、たまたま彼が背後にしていた部活棟すらも木っ端微塵に破壊し尽くした。

改造人間であるレオウルフの呼吸器をしてむせ返るような灰塵が立ち昇り、晴れ渡った夜空の天候を、一瞬にして曇り空へと変貌させてしまう。

 

(まるで爆撃の後みたいだ……)

 

自らの手によってその現象を引き起こしたレオウルフは、まるで他人事のであるかのように静寂の夜空を見上げていた。

音速を25倍も超えた拳撃から来る破壊の音は、まだ彼の耳に訪れていない。

しかしやがて数秒後に破壊の音が、ついで約20秒後に自らの放った拳が巻き起こす旋風の音が、改造人間の優れた耳膜を打った。

それは音響効果抜群の音楽ホールでも稀にしか聴けない、盛大な幕引きのエンディングだった。

暴力の音が旋風とともに鳴り響き、大気の振動が、校庭に植えられた大木の幹すらも激しく揺さぶる。

常人であれば鼓膜が破れてもおかしくないほどの爆音が、レオウルフの耳の奥でとぐろを巻いていた。

しかし、その音によってレオウルフが苦痛に顔を歪めることはない。改造人間としての機能が自動的に聴覚神経を調整して、暴音から彼の鼓膜を守っていたからだ。

小鳥のさえずりほどにまで変えられた破壊の音は、レオウルフにとっては少しだけ不快な騒音に過ぎなかった。

レオウルフは青銅色の視線を地面に落とした。

足元には、鉄筋コンクリートで出来た不恰好な墓石が、山を作っていた。

今もなお崩壊を続ける瓦礫の下に、かつては誰よりも尊敬し、誰よりも親しく感じていた親友の亡骸が埋もれていると思うと、レオウルフの胸の中を、途方もない寂しさが駆け巡った。

 

(はっ、何を考えてるんだか…)

 

そんな自分を省みて、レオウルフは心の中で自嘲する。

その親友をこの墓の下に埋めたのは他ならぬ自分。

そんな自分が、親友の死を思って寂しさを感じるなど……あるはずがないではないか。

 

「……ッ!」

 

不意に、レオウルフの青銅色の瞳に熱いものがこみ上げてきた。

吊り上った狼の頬だけでなく、百獣の王の風格をたたえた胸でも、透明な雫が川を作っていた。

 

「チクショウ…なんで、こんな……」

 

自分に嘘はつけなかった。そもそも、自分は自分に嘘をつけるほど、器用な人間ではない。

はっきりと認めなければならなかった。

自分は、闇舞北斗がいなくなって悲しいと感じている。

もう二度と生きた彼の顔は見られないと知って、寂しいと感じている。

かけがえのない、この世にたったひとりしかいない親友を、この手で殺したことに、罪の意識を覚えている。

心の泉に湧き上がる諸々の感情は、小島獅狼は今でも闇舞北斗を親友と思っていた証。レオウルフもまた、北斗同様、親友のことを今でも大切に思っていた証明だった。

 

(これで、終わりなんだよな……)

 

弱い心を自らの内から湧く数多の感情に打ちのめされながら、しかしレオウルフは思考を切り替える。

終わってしまったことはどうしようもないし、彼を殺したことに後悔はない。いや、おそらく後悔の念はもっと先になってから湧いてくるのだろうが、少なくとも今は、自分と、愛する人を最期の瞬間まで騙していた男を殺したという事実に対しての後悔は、ない。

(それに…)と、レオウルフは思い直す。

親友とは、これからすぐに会うことが出来るのだ。

レオウルフは、自らの発した熱で黒く焼け焦げた両手で涙を拭うと、さっと踵を返した。

振り返ったその姿は〈ゲルショッカー〉合成怪人・レオウルフのそれではなく、愛する人達のために一匹の修羅となった男……小島獅狼のそれに戻っていた。

人間の姿へと戻った獅狼は、背後で愕然とする光を見つめた。

愛する人を失ったことで震えるしかない彼女の姿を哀れに思うと同時に、これから彼女に苦渋の決断を強いらせようとする自分に対して、かすかな怒りがこみ上げてくる。

獅狼は怒りを押し殺しながら、出来るだけ優しい口調で話しかけた。

目前に迫る死を、すでに受け入れる心構えをした獅狼の表情は、どこまでも穏やかだった。

 

「闇舞さん…」

 

獅狼に名前を呼ばれて、ビクリと震える光。

恐怖、悲しみ、絶望…諸々の負の感情で表情を歪める彼女に、獅狼は一歩、また一歩と近付いた。

改造人間が歩を進めるその都度、光は獅狼が歩いたその分だけ後ずさる。

獅狼は、穏やかな表情の中に悲しみの視線を混ぜ込んで、

 

「どうか、逃げないでくれ」

 

と、誠意を込めた一言を放った。

光が足を止める。

 

「どうか逃げないでほしい。俺はあんたには何もしないし、するつもりもない。ただ、今は俺があんたの傍へ近寄ることを許してくれ」

 

獅狼は、多少の威圧はやむをえまいと高圧的な語調で言った。

しかし、そう思い込んでいたのは彼だけで、その声色を聞いた者は十人が十人、「まるで母親に縋る幼子ようだ」と、評したことだろう。

悲しい響きを孕んだその懇願に、光は耳をかたむけ、尋常でない獅狼の様子に、愛する人を殺した男の接近を許した。

2人の距離は3メートルほどにまで縮まった。空手家である獅狼なら、改造人間の力を使わずとも一瞬で相手を叩きのめすことの出来る距離。だが、獅狼から殺気のようなものは感じられない。

そればかりか、獅狼は両腕を広げ、胸を張るように立った。

まるで好きなだけ殴ってくれと、言わんばかりの姿勢だった。戦場であれば、真っ先にスナイパーの餌食となっていたことだろう。

突如としてそんなポーズを取った獅狼に、光は唖然とした視線を向けた。

そして、次に獅狼が言った言葉に、恐怖で震えた。

 

「……さぁ、撃ってくれ」

 

あくまでも穏やかな調子で言う獅狼。

光の脳裏に、ほんの数十分前言った彼の言葉が蘇った。

 

『憎しみの連鎖は、どっかで終わらせなきゃならないだろ?』

『もしもこの戦いで――勿論、闇舞さんとしては考えたくはないことだろうけど――俺が、闇舞のヤツを殺してしまったとしたら…………その時は、そいつで俺を撃ってくれ』

『殺されたから殺して、殺したから殺されて……そんな事はさ、もしかしたら、俺の自己満足なのかもしれないけど、これ一回こっきりにしたいんだ』

 

あのとき、自分は彼に護身用だと言って、懐の拳銃を渡した。

そして彼は、自分がもし北斗を殺したときは、その拳銃で自分を殺してくれと言った。

それに対して光は、使い方が分からない、私は北斗の勝利を信じていると言って、使わないと宣言した。

あのときの会話はあれで終わりではなかったのか。

彼は、自分が拳銃を使うことを諦めてくれたのではなかったか。

戸惑う光に獅狼はさらに続ける。

 

「使いたくないって気持ちは分かるよ。闇舞さんの気持ちは、さっき十分なくらいに聞かせてもらったから。

けど、やっぱりあんたはここで俺を撃つべきだ。俺は春香の仇を討った。そしてその俺をあんたが撃つことで、北斗の仇を討つ…。よくよく考えてみたけどさ、やっぱりそれがいちばん丸く収まると思う」

「で、でも……」

「絶対に俺を憎んでいないって、誰が言えるんだ?」

「……ッ!」

「北斗を殺した俺を、この先あんたが絶対に恨まないって、誰が言えるんだ?」

 

獅狼に指摘されて、光は言葉をなくしてしまう。

たしかにそうだった。

自分は獅狼のことが好きだ。接したのは僅かな時間に過ぎないとはいえ、彼の人間的な魅力に、自分は大いに惹かれている。

しかし、それ以上に自分は北斗を愛していた。その愛する彼を殺した獅狼を、自分はこの先も好きでいられ続けられるだろうか?

遠い未来、ふとしたきっかけで、彼を憎むようにならないと、誰が言えるだろうか?

先のことは誰にも分からない。

現在のその先に、どんな未来が待っているかなど誰にも分からない。

自分が獅狼を憎み、そのとき、彼はもうこの世にはいないという、最悪の未来もありうるのだ。行き場のない怒りと絶望に、自分が壊れていく未来も、ありうるのだ。

 

(けど…けど……!)

 

少なくとも今、自分は彼を恨んではいない。

少なくとも今、自分は彼を嫌いになんてなれない。

そんな彼を、撃てるはずがないではないか。

そんな救いのない未来を、求めて良いわけがない。

しかし光の逡巡を知ってか知らずか、獅狼はあくまで穏やかに言った。

 

「さぁ、撃ってくれ」

 

親友を殺し、その親友が愛した人にすら罪を負わせようとする自分は、おそらく地獄に落ちるだろう。

それならそれで、良い。

親友に対しては、地獄で侘びを入れよう。

そんな腹積もりの獅狼の表情は、迷う光とは対照的にすっきりとしたものだ。

自身の射殺を望む男は、ついに穏やかな表情の中に、あの、世界一の気難しがり屋をも引きつける、屈託のない笑顔を浮かべた。

 

「さぁ、撃ってくれ!」

 

迷う光と、死を望む獅狼。

男と女を隔てる距離は僅か3メートルに過ぎなかったが、両者の心を隔てる距離は、天地のそれよりも広かった。

 

 

 

 

 

「ここはいわゆるその……死後の世界なのか?」

 

辺り一面に咲き誇る花の絨毯の上、遠く波濤の音を聞きながら、俺は隣に座る夕凪に訊ねた。

 

「うん。生きている人達の感覚だとそうなるね」

「俺は死後の世界というのはとんでもなく陰惨な場所か、でなければもっと途方もない楽園かのどちらかだと思っていたが」

「あはは。それってヤンミが抱いている天国の地獄のイメージ?」

 

何が可笑しいのか、俺の顔を覗き込み苦笑する夕凪。

 

「ヤンミはリアリストだと思ってたけど、意外とメルヘンな人だったんだね〜」

「茶化すなよ。それに現実主義者だろうが夢想家だろうが、大概の人間が抱いているイメージなんてそんなものだろう?」

「…まぁ、わたしもそうだったしね」

 

『だった』……ということは、おそらく今は違うのだろう。

生者と死者とでは生きる世界の時間の流れが違うと聞いたことがある。とはいえ、少なくとも俺の感覚で14年以上の時をここで過ごしてきたのだ。考え方のひとつやふたつ、変わっていたとしてもおかしくない。

 

「生きている間に良い行いをした人が連れていかれるのが天国で、逆にそうでなかった人が連れていかれるのが地獄。天国はこの世のものとは思えないぐらい素晴らしい楽園で、地獄はこの世のものとはおもえないぐらい悲惨な世界……わたしも、生きていた頃はそんなイメージだったかな?」

「今は……違うのか?」

「……」

 

夕凪は無言で頷いた。

 

「でもさ、そういう天国と地獄のイメージって、人間が……それもごく一部の限られた人達が作ったイメージなんだよ。よくよく考えてみれば当たり前のことなんだけど、世の中にはたくさんの人達がいて、その人達みんなが色んな宗教観を持っていて、色んな天国と地獄のイメージを抱いている。宗教を信じていない人だって、大なり小なり死後の世界については考えを持っている。世界には色んな死後の世界のイメージが……概念としての死後の世界が、もういくつも存在しているんだよ。

人間だけでこれなんだから、明確な理念のある宗教を持たない他の生き物が抱いているイメージも含めたら、とんでもない数になっちゃうよね。それに、天国とか地獄とか、今わたしは当たり前に話しているけど、それはやっぱり地球人が考え出したイメージで、宇宙全体で見れば、本当にごく一部の人達だけが抱いているイメージなんだ。この宇宙にはまだわたし達が知らないような、たくさんの生命があって当然なんだから。

そんな風にこの宇宙にはたくさんの生き物がいて、それと同じぐらいたくさんの死後の世界があって、それなのに死んだらすべての生き物がわたし達の抱いている死後の世界……天国と地獄に行くなんて、変だと思わない? だってそのイメージは、この宇宙に住む、ごく一部の生物だけが抱いているイメージなんだから」

 

正直、驚いていた。

あの夕凪が、こんな風に死後の世界について考えていたなんて、思ってもいなかったからだ。

歳月は良くも悪くも人を変える。どうやら俺が想像している以上に、夕凪はここで長い時を過ごしてきたらしい。

 

「多分だけどね、死後の世界はいくつもあるんだよ。それこそ生きている人達が抱いているイメージの数だけ、死後の世界は存在するんだと思う。ただ、すべての生物ひとりひとりに専用の死に場所を用意してたら世界がパンクしちゃうし、その人はずっと独りぼっちでいなくちゃならない。だから、ある程度明確に固まったイメージの世界だけが、実際に死後の世界として残るんだと思う。

今回はたまたま、わたしとヤンミの抱いている死後の世界のイメージが似てたから、ヤンミはここに来たんだと思うよ」

「俺の抱いている、イメージ?」

「うん。見てよ、ヤンミ」

 

夕凪はすっと立ち上がると、目いっぱい両腕を伸ばし広げて、周囲に展開する絶景を見回した。

言われるままに周囲に視線を巡らせると、そこには相も変わらずこの世の楽園が広がっていた。

 

「綺麗でしょ?」

「……ああ」

 

それはまさしく楽園だった。

改めて冷静に見てみても、それは『楽園』と呼ぶにふさわしい世界だった。

貧相な俺の国語力ではその素晴らしさの一割も言い表すことが出来なかったが、世界は夕凪の言う通りたしかに綺麗で、美しく、懐かしさを伴う、安らぎに満ちていた。

今や地上でもごく限られた地域にしかない濃い緑。

どこまでも透き通った水で出来た広大な青い礁湖(ブルー・ラグーン)

まばゆい光の中で、“生”と“死”の喜びを礼賛する多くの生命。

輝きにあふれ…生命にあふれ……何よりここには争いがなかった。

俺達戦闘者が何より求めてやまない“平穏”が、ここにはあった。

豊かな自然に囲まれたこの世界では、誰もが飢えることなく暮らしていける。

地上のあらゆるしがらみから解放されたこの世界では、誰もが争う理由を持ちえない。

地上と違って誰もが争うことなく、平穏に暮らすことの出来る理想郷……これを『楽園』と呼ばずして、何を楽園とするのか。

 

「多分だけどね、ヤンミは心の中で、本当はこんな世界を待ち望んでいたんだと思うよ」

 

夕凪の満面の笑顔に、何もかもが癒される。

肉体に負った数千の傷。心に負った数万の傷。そのすべてが、彼女の笑顔の前に消えていく。

 

「わたしもあの時(・・・)望んだんだ。誰とも争う必要のない、誰もが争うことなんてない、こんな、争いのない世界を……」

 

ここには大切な親友と命を賭して戦う必要などない。

ここには大切な親友に嘘を吐き続ける必要もない。

ただ故郷の海を思い出させる波の音に耳をかたむけ、ただ永遠に咲き続ける草木の美しさに目を休め……ただ、この温もりに身をゆだねていれば、それで良い。

抱擁は固く、優しく、互いの熱の、溶け合うままに。

まるで母親が幼子にそうしてやるような背後からの抱擁に、生前感じた何もかもの痛みを忘れた。

 

「ねぇ、ヤンミ……」

 

背後から囁きかける、甘い吐息。

大切な親友に抱き締められながら、大切な親友の温もりを感じながら、俺はこの安らぎに身をゆだねる。

 

「ここはとっても良いところだよ。だから、ね?」

 

夕凪の言わんとしていること。その真意。あえて言葉にしなくとも、それは俺の心にひしひしと伝わってきた。

この世界には俺が戦う理由など何もない。

この争いのない世界で、大切な親友と、一緒に過ごしていける……そんな幸福、断る理由など、あるだろうか。

 

「…この上ない提案だな。それは」

 

俺の返答に、夕凪は嬉しそうに笑った。

 

「これはもう、必要ないよ……」

 

レッグ・ホルスターに収められたブローニング・ハイパワー。

長年使い続けてきた愛銃を抜き取られても、不安はなかった。

そう、これはもう必要ない。

争いのないこの世界に、もうこの銃は必要ない。

 

「ああ。そうだな……」

 

最後にたった一言、そう告げてから、

 

「今まで、ありがとう」

 

数多の戦場をともに駆け抜け、幾度となく俺の命を救ってくれた最高の友に、別れの言葉をやった。

夕凪はにっこりと微笑むと、静かに抱擁を解いて、手にしたブローニングを放り投げた。

やがて“ポチャンッ!”という水音が響いて、俺は心の中でもう一度愛銃に別れを告げた。

 

「……じゃあ、行こっか」

 

14年前のあの日、獅狼とのデートで履いていたスカートをはためかせ、夕凪が言う。

「何処に?」と、俺が訊ねると、彼女は悪戯っぽく笑って、俺の手を握った。

 

「みんなのトコ!」

 

 

 

 

『近くの学校に変な人達が出入りしているんですけど……』

 

もう15分も経てば日付も変わろうとする深夜、受験勉強で夜遅くまで起きていた男子中学生からのそんな通報に、夜勤づとめで出勤していた細木耕作巡査は、受話器を置くなりコートを羽織ると、自転車を駆って派出所を飛び出した。

電話口に立ったのは近所でも評判の野球少年で、彼が嘘を吐くような人間でないことは細木巡査もよく知っている。

彼の言っていることに間違いがないとすれば、件の不審者とはいったい何者なのだろうか? 泥棒だろうか? それとも近くの浮浪者だろうか?

昨年大学を出たばかりで、まだ警察官になって間もない細木巡査は、ひとりでの捜査に昂揚する自分の気持ちを抑えながらそんな事を考えていた。

180センチと少しの大柄な体格には少し小さい自転車を10分も走らせると、目的地の学校はすぐに見えてきた。

――私立如月学園高等学校。

石造りの表札に刻まれたその名前は、男子中学生から通報のあった学校である証だ。

自転車を降りた細木巡査は、奇妙なことに校舎に灯りが点いていないことに気が付いた。

警備員を雇うほどの予算がないのだろうか、いやしかし、それでも宿直の教師ぐらい居るだろう。

首を捻りながら細木巡査が開放された裏門をくぐろうとしたそのとき、彼の耳膜を、この場においてあまりに意外な音が打った。

 

“ガオオオオオ――――――ンンンッ!!!”

 

「な、なんだぁ!?」

 

細木巡査は思わず耳を押さえた。

こんな街中で……しかも夜の学校で、本来ならば聞くはずのない音が、細木巡査の周囲の空気を縦横無尽に掻き乱した。

 

(も、猛獣!?)

 

それも恐ろしく獰猛な、大型動物にのみ発せられる雄叫びだ。

しかも声の反響の具合から考えて、音は校舎の屋上から鳴り響いてきたようだった。

まだ20年と少しの人生の中で、両手の指で数えられるほどしか行ったことのない動物園での記憶をひっくり返し、彼はそれが何の声であるのか考えた。

 

(ライオンだ……)

 

数少ない動物園での思い出の中でも、とびきりのインパクトをもって鮮明に思い出されるのは百獣の王の姿。檻の中に閉じ込められてなお王者の風格をたたえるその仕草に、幼い頃の自分は奇妙な感動と恐怖を覚えたものだった。

 

(だが……)

 

そこまで考えて細木巡査はひとり首を横に振る。

あれがライオンであるはずがない。

第一、こんな街中でライオンが出没するとしたら、今頃はもっと大騒ぎになっているはずではないか。動物園から逃げ出したのか、サーカスから逃げ出したのかは知らないが、とっくの昔に通報があるはずで、今頃現場は報道陣が列を成しているはずである。自分のような派出所勤務の警官が、駆り出されるような現場ではない。

きっと誰かの悪戯……おそらく、男子中学生の通報した不審者達の仕業だろう。

現地に行ったか何かで録音した猛獣の声を、大音量のスピーカーで流しているに違いない。

 

「けど、それにしては生々しかったな」

 

そういえばノイズらしいノイズ音も聞こえなかった。

これも技術の進歩というやつだろうか。

そういえば最近のテレビドラマなどで猛獣が出るシーンなんかも、動物の咆哮は生の臨場感を与えてくれるぐらい猛々しい。

 

“オオオオオオ――――――ンンンッ!!!”

 

また、屋上から獣の声が轟いた。

ライオンの声ではない。もっとこう犬っぽい……そう、狼の声だ。

日本の動物園で狼を飼育しているところなど聞いたことがないから、もうこの声が録音されたものであることは間違いないだろう。日本に存在しない動物が日本の動物園やサーカスから、逃げ出せるわけがない。

 

「まったく、迷惑な連中だな」

 

彼らはいつまでこのはた迷惑な騒音を辺りに撒き散らし続けるつもりなのだろうか。

放っておいてもよかったが、この音量では住民も眠れないだろうし、なにより気の弱い人達は本物の猛獣が暴れているんじゃないかと、気が気でいられないだろう。不審者と遭遇してしまったかもしれない宿直の先生の身の安全も気にかかる。

細木巡査は高校・大学と柔道部に在籍し、段位も三段を修得していた。まさに6尺豊かな大男ということもあって、部内では負けなしの実力者だった。2・3人が一度に立ち向かってきても、倒してみせるという自信があった。

男子中学生から通報のあった不審者の人数は3人。男が2人と、女が1人ということだから、たとえ暴力沙汰になっても自分ひとりで何とかなるだろう。

夜の学校というのはどこか不気味な印象すら与える建物であったが、細木巡査は自分を奮い立たせながら学校の敷地へと一歩足を踏み入れた。

 

“ウオオオオオ――――――ンンンッ!!!”

 

「……あ?」

 

突然聞こえてきた、今までとは種類の違う雄叫びに、細木巡査は思わず足を止めた。

それは雄叫びには違いなかったが、それは猛獣のでもなんでもなく、人間の、それも成人した男の叫び声だった。

今まで鳴り響いていたのが猛獣のそれだったにも拘わらず、ここにきて普通の人間の声とは……いったい相手は何を考えているのだろうか?

 

「どうせならゴジラの声でも流せばいいだろうに」

 

近隣の住民をただ驚かせたいのなら、あの恐竜型巨大生物の声を流した方がライオンや狼なんかよりよっぽど効果があるだろう。まして人間の雄叫びなんて……

 

「まさか、本当に本物じゃないだろうなぁ?」

 

細木巡査はおっかなびっくりで屋上を見上げた。

今、彼の頭の中によぎったのは、(実はこれは宇宙人の仕業ではないだろうか?)という考えだった。

あの“史上最大の侵略”以来、少なくとも目に見える範囲での(・・・・・・・・・)異星人の侵攻は大幅に減少していたが、それでも“ナックル星人”や“異次元超人ヤプール”といった異星からの、あるいは異次元からの侵略は後を絶たない。

彼ら異星人の行動パターンは地球人には理解不能なケースも多く、先日襲来した“スチール星人”などはパンダを誘拐するという、行動目的自体不可解な侵略行為――侵略と呼べるのかどうかすら判然としない活動――を行っていた。

今、屋上に居る連中も、そうした類の侵略者だとしたら……可能性は低いが、考えられない話ではない。

もしそうだとしたら、早急に応援が必要である。

相手が2・3人ならば倒す自信があるというのは、当の相手が普通の人間であることが前提条件なのだ。

 

「とにかく、正体の確認をしないと」

 

ただの不審者であればそれに越したことはない。

細木巡査は持っていた懐中電灯の灯りを空へと向け、大声を出そうと口いっぱいに息を吸おうとした。

――と、そのとき、

 

“ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ………………ッ”

 

「う、うわあッ!!」

 

細木巡査の足下がグラリと揺れ、校舎全体が轟音を発した。

白亜の壁がギシギシと不気味に鳴り、重厚な造りをした裏門が上下に揺れ動いた。

何の予兆もなく訪れた地震に、細木巡査は慌てて後ろを振り向いた。

近い範囲はともかくとして、夜の街はいたって平穏そうだった。自慢の1.3の裸眼視力が見渡す限り、鳴り響く轟音以外に住民の眠りを妨げるものはない。

如月学園の校舎と、その極めて近くの範囲だけが、下から上へと突き上げるように激震しているのであった。

振動は一時的なもので、すぐに収まった。

ダイナマイトか何かが炸裂したような轟音の余韻は未だ細木巡査の耳の中を席巻していたが、やがて耳の痛くなるような静寂がやってきた。

細木巡査は愕然とした表情で再び屋上へと光線を浴びせた。

揺れはもう収まったというのに、細木巡査の顔には、予兆のない、それも限定された地震に対しての恐怖が張り付いてしまっていた。なぜならその種の地震というのは、細木巡査のみならず、東京都民であれば誰もが一度は経験し、恐怖した経験を持つ、恐るべき地震であったからだ。

 

(怪獣だ!)

 

細木巡査の脳裏では、体長数十メートル、重量数万トンというあの巨大な生物達が闊歩した日の光景が、まざまざと蘇っていた。

予兆のない限定的な地震とは、まさしく怪獣の進軍によって引き起こされる災害だった。

 

(宇宙人だ! この学校の屋上には宇宙人がいる!)

 

もう、疑いようがなかった。

鳴り響く獣の雄叫び。人間の絶叫。その上で予兆なき限定された地震とくれば、それは怪獣か、異星人か、はてまたそれとはまったく異なる異能の存在であるかの、限られた解答しか導き出されない。

そして相手が怪獣であるにしろ、異星人であるにしろ、それは自分のような一警官の力で何とか出来るような相手ではなかった。

 

「す、すぐに応援を呼ばないと……」

 

細木巡査はさっと踵を返し、自転車に跨った。

近所だったから自転車でやって来たのだが、こんなことならパトカーにすれば良かった。パトカーなら無線を使って、すぐに応援を呼ぶことが出来たのに。

ほんの少しの後悔に胸を悩ませながら懐中電灯を籠に乱雑に放り、細木巡査はペダルに足をかけた。

 

「おい……」

 

いきなり背後から声がかかった。低く、ドスの効いた声だ。

細木巡査はぎょっとして振り向いた。

相手の吐息を後ろ首に感じながら、その接近にまったく気が付かなかったのである。

いつの間にか細木巡査の自転車の右斜め後ろに、一台のバイクが停車していた。カンパスを連想させる真っ白なボディのロードスポーツバイクに、20代半ばぐらいの若い男が跨っている。

乗っているバイクとはまるで正反対の、黒いライダースーツを着込んだ長身の男だった。シールドのないオープンフェイスのヘルメットの下に見える顔立ちは彫りが深く、整った造作をした二枚目だが、その表情にはどこか生気というものが感じられない。

首に巻いた黄色いマフラーが、黒いスーツとミスマッチして色鮮やかに映えている。

 

「応援を呼ぶ……と、言ったな? 困るんだ、そんな事をしてもらっては」

 

なんとなく無機質な、機械的(・・・)な印象を与える声だった。日本語としては完璧な発音だったが、抑揚にかけている。生きた人間が話したというよりは、合成された音声のようだ。

男の問いかけに、細木巡査は素直に首を縦に振った。

実のところ細木巡査は、男の言葉の意味など半分も理解出来ていなかった。

細木巡査の視線と意識は、男の左手に吸い寄せられていた。

なんと男の左手には、剥き身の短剣が握られていた。

夜空に浮かぶ月明かりと街の灯りに照らされて、9寸5分の両刃の刀身が濁った輝きを放っている。ぴかぴかに磨き上げられた金属の光沢ではない。職人の手によって叩きに叩かれ、鍛えられた、鈍い鉄の輝きだ。

警官としての経験の浅い細木巡査にも、男が握っている短剣が本物であることはすぐに理解出来た。

そして自分がすでにその刃圏に捉えられていることも、すぐに理解出来た。

短剣の切っ先は地面を向いていたが、細木巡査はすでにそれが自分の喉元に突きつけられているかのような恐怖を感じた。

 

「男達が命を賭して挑む戦いに、水を差すような真似をしてもらっては困る」

 

男は精悍な造作をした、しかし能面のような表情で、不気味な声を発した。

そのあまりに硬質的な声に恐怖した細木巡査は、反射的にヒップホルスターに収まっているニュー南部M60五連発リボルバーに手をのばした。素早くグリップを握ったからといって、支給された拳銃の扱いに馴れているわけではない。ちょうど1年になろうかという勤務の間に拳銃を発砲した経験など一度としてなく、警察学校で訓練したとき以来の動作だった。普段はむしろ、柔道三段を誇る腕っ節で犯人を撃退することの方が多い。

 

「ほぅ…やる気か?」

 

細木巡査が拳銃を握ったそのとき、それまで能面のようにピクリともしなかった男の表情が豹変した。

見る見るうちに唇の端が吊り上がり、顔全体が、歓喜の表情で包まれる。と、同時に、それまで機械的だった男の口調にも、溢れんばかりの生気が宿った。

 

「俺は弱いやつは嫌いだ。だが、弱いやつでも全力で挑みかかってくるやつは好きだ」

 

男は明らかに、細木巡査と戦えることに対して喜びを見出していた。いや、男にとって相手が細木巡査であるかそうでないかは関係ないのだろう。

男は、“戦う”という行為自体に、歓喜していた。

自分が“戦える”ということに、隠し切れない喜びを感じているのだった。

また、先程の男の台詞……『男達が命を賭して挑む戦いに、水を差すような真似をしてもらっては困る』という、この一連のフレーズは、若者が“戦い”という行為を神聖視している証ともいえた。

 

(こいつ、狂っている)

 

暴力を信奉し、戦いを崇拝する……自身柔道三段の腕前という並々ならぬ力を持ちながら、その力を他人のために使おうと警官になった細木巡査にとって、目の前の若者は狂人以外の何者ではなかった。

 

「“ギル”からの命令では目標は闇舞北斗ひとりだが……どうやらいい暇潰しが出来そうだ」

 

男がニヤリとニヒルに笑った。

同じ男の細木巡査をして、普段であれば見惚れてしまいそうな冷笑だった。

しかし今は恐怖が勝っていたため、その笑みに彼が引き寄せられることはなかった。

より正確にいえば“恐怖”と紙一重の位置にある“勇気”が、彼の平静を保っていた。

だがその平静も、長くは続かなかった。

男の左手が、ゆっくりと動いた。ひどく緩慢な動作だ。ノロノロとしたスピードで、短剣の切っ先が地面から自転車のタイヤへ、自転車のタイヤから細木巡査の腰元へと、山頂を向けていく。

ゆっくりとはいえ、自分を狙う短剣が動き出したという自体に対する恐怖が、細木巡査の頭の中を真っ白にした。

彼はほぼ本能的に、夢中でリボルバーのトリガーを引いた。

 

“ドンドンドンドンドンッ!”

 

意識も計算もなく、人差し指がほとんど勝手に動いての、五連射だった。

雷鳴のような重低音が連続して細木巡査の耳膜を打ち、間近で閃いた銃火が、彼の視界を真っ白い世界へと変えた。

38口径とはいえ怒涛の五連射の反動に痛打された全身が、自転車から転げ落ちた。

尻から地面に落ちた細木巡査は、コンクリートに激突した臀部をさすることもせず、息を乱し歯をガチガチと鳴らしていた。

連射の反動の物凄さ、銃声と銃火の予想もしていなかった荒れ狂いよう、そして何より、初めて人に向かって銃を撃ったという経験が、彼の中で強烈な衝撃となっていた。それは驚異ではなく、恐怖でもなく……戦慄でもまだ言い足りないほどの経験だった。

 

「あ、あ、ああ……」

 

ニュー南部を握る両手に、初めて人を撃ったという感触が生々しく蘇った。

細木巡査は半泣きの表情で、白いバイクを見上げた。

狙いも何もなかったとはいえ、この至近距離。撃った5発の銃弾は、すべて男の体に吸い込まれていったはずである。

ありえない光景が、そこにはあった。

5発もの銃弾を撃ち込まれたというのに、男はいたって平然としていた。

まるで銃撃などなかったかのように、ゆっくり剣先を揺れ動かし、その切っ先を細木巡査の額へと向ける。

 

「わ、わぁッ! ああッ!!」

 

恐怖に耐えかねた細木巡査は、再びニュー南部の引き金を引いた。しかし、銃口から弾が出ることはなかった。

五連射をしたという自覚はあるのに、シリンダーの中にあと何発の銃弾が残っているのか、計算が出来なかった。ニュー南部M60の装弾数は5発である。

細木巡査は使い物にならなくなった拳銃を放り捨てると、笑う膝を叱咤して立ち上がった。180センチを超える彼が背筋をしゃんと伸ばして立ち上がると、並の痴漢や泥棒程度なら睨みを利かせただけで怯むような威圧感がある。

細木巡査は剣先を腹の辺りに向ける男に、遮二無二殴りかかった。

内から湧き上がる耐え難い恐怖が、彼の体を動かしていた。

一撃で瓦七・八枚を粉砕する細木巡査の鉄拳が、男の顔面に吸い込まれていく。

だが男はそれを余裕で躱した。バイクから降りることすらせずに、顔だけ動かし、高速のストレートを回避した。

次の瞬間、男の右手が拳を作り、振り抜いた細木巡査の右手首を軽く打った。

 

「ッ!?」

 

細木巡査の視界が反転した。天と地とが一気に逆さまになり、気が付くと彼はコンクリートの硬い地面に叩きつけられていた。

全身が痛みに軋む中、あらぬ方向へと曲がってしまった右腕が、特に強烈な悲鳴を上げている。細木巡査の右手は、完全に折れてしまっていた。

たった一撃、本当に軽く触れ合っただけの一瞬で、彼の太い手首の骨は木っ端微塵になってしまった。

 

「嘘……だろ?」

 

細木巡査の唇から、愕然とした呟きが漏れ出た。

自分の身に何が起きたのか、まるで理解出来なかった。

ただ漠然と、自分の“死”を、細木巡査の心の一部が、冷静に感じ取っていた。

最後の足掻きとばかりに腰の警棒に手を伸ばそうとするが、右腕がまったく動かない。どうやら手首だけでなく、右腕全体が使い物にならなくなってしまったらしい。

一陣の風が吹いた。

男が、人間には到底知覚不能な超高速で動いた。

細木巡査の網膜には、風でたなびく黄色いマフラーの残像が、まるで稲妻のように焼きついた。

そしてそれが……細木巡査がこの世で見た、最後の光景だった。

 

 

 

 

 

夕凪に手を引かれるままたどり着いたその場所で、俺は意外な……あまりにも意外すぎる人物達と再会した。

 

「ランバート少佐!? それに浩平! ミハイル!」

「お久しぶりです、北斗先輩♪」

「は、初穂までいるのか……」

 

最期の瞬間に、『お前を許さない』と、宣告してやった女は、思い出の中にある笑顔そのままに、俺との再会に嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。

 

「はい。どうやら私達みんな、考えることは一緒だったみたいですね。死の瀬戸際に、次に生まれ変わるのなら北斗先輩と一緒に、誰も居ない2人だけの世界で静かに暮らしていきたい……そう、思ったら、ここに来てました」

「半分だけ望みが叶ったというわけか…」

 

憎しみよりも懐かしさの方が勝ったらしく、俺は目の前の女がかつて犯した所業も忘れて、彼女の物言いに苦笑した。

夕凪同様、かれこれ14年ぶりの再会である。

かつての憎らしい敵と戦った相手とはいえ、ノスタルジぃのひとつぐらい湧こうというものだ。

――と、そこでふと気が付く。

彼女がここにいるということは、夕凪は14年前の真相を知っているのだろうか?

俺は怪訝に夕凪に視線をやった。

聡明な彼女は、すぐに俺の視線の意図するところを読み取ってくれた。

 

「うん。フォトちゃんから全部聞いてるよ」

「……そうか」

 

おそらく俺は今、とんでもなく暗い面持ちをしていることだろう。

決して彼女にだけは知られたくなかった。

俺達の住んでいた世界がどれほど残酷で、日の照っている場所以外の暗闇に、どれほど悲しみが満ちているのか。暗闇に取り残された人々が、地獄のどん底のどん底で、どれほど悲痛な叫びを上げているのか。そしてその悲鳴の悉くが、ほとんど誰にも届くことのないという悲しい現実。そんな世界で生きてきたこの男が、どれほど穢れきっているのか。

光の中を歩み、俺からすれば眩しすぎるぐらい輝いていた彼女にだけは、知ってほしくなかった。

 

「そんな顔しないでよ、ヤンミ」

 

夕凪の労わりの言葉が、傷ついた心に染みる。

彼女は、まるで聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべながら、

 

「ヤンミだけが悪いわけじゃない。世界がそんな風に出来ているのは、ヤンミだけのせいじゃない。わたしのお父さんだって、そういう悪いことに手を染めていたわけだし…」

「違う。そうじゃない。そうじゃないんだ!」

 

夕凪の言葉を途中で遮って、俺は叫んだ。

 

「俺はお前にだけは……光の中を歩いていたお前達にだけは、知ってほしくなかった。この世界の闇。その闇を知って浮かべるだろう、お前達の悲しい顔を見たくなかった。そんな世界で生きる俺の境遇を知って流すであろう、お前達の涙を、見たくなかったんだ!」

「ヤンミ……」

 

優しい彼らのことだ。

この世界の真実を知って彼らが嘆き悲しむであろうことは目に見えていた。

そんな世界で生きなければならない俺の境遇を知って、彼らが涙を流すことは容易に予想が出来た。

日の光の下を歩く彼らにそんな顔は似合わないし、何より俺自身彼らに悲しみの涙を流してほしくはない。

彼らには、いつまでも日の光の下で笑っていてほしい……そう思えばこそ、この世界の裏の顔のことなど、微塵も知ってほしくなかったのに……!

 

「生き残った獅狼は、〈ゲルショッカー〉という闇そのものに教えられて、それを知ってしまった。あいつは言ってくれたよ。『この世界がどれだけ狂っていて、どれだけ壊れているかを知ったとき、正直、絶望した。憎い仇であるはずのお前の境遇を知って、涙さえ流しちまった』と…。その上で、死んだお前まで……!」

「だが、彼女は知ってしまった。その事実は、もう変えようがない」

 

唐突にランバート少佐が口を開いた。

短い言葉だったが、その言葉が意味する重さに、俺の心は押し潰されそうになった。

俺はかつて師と呼び慕い、今でも尊敬する軍人を振り返った。

アメリカ人は、思い出の中にある冷徹な戦士の顔そのままに言葉を続けた。

 

「だがな北斗、勘違いだけはするな。柏木初穂は……蜘蛛女は、べつにお前を困らせるために事の真相を話したわけではない。蜘蛛女は自分から進んで事件の真相について語ろうとはしなかった。夕凪春香がが〈ショッカー〉のこと、14年前の事件の真相を知っているのは、彼女自身が望んだからだ」

「夕凪が、望んだ……?」

「……」

 

ランバート少佐は無言で頷いた。

その背後では、浩平とミハイルがわけが分からないといった様子でぽかんとしていた。

〈ショッカー〉にSIDE〈イレイザー〉という特殊部隊が創設されてまだ間もない頃、俺はこの人にだけは知っていてもらいたいと、14年前のあの事件……忘れたくても忘れられない、あの忌まわしい過去について、仲間内で彼にだけは話していた。

今より幾分か年若く、視界の狭いガキだった当時の俺にとって、ランバート・クラークという男は偉大な軍人であると同時に、頼れる父親のような存在だった。10歳を数えるより先に父親を失った俺は、当時彼に父性を求めていたのだろう。

少佐は『闘将の相』と形容される切れ上がった眼差しを、俺に、初穂に、そして夕凪に順繰りに注いだ。

 

「真実を知りたいと思う人間に、真実を知らせないのは、当人の意図がどこにあるにしろ、それは罪だ。

勘違いするな、闇舞北斗。柏木初穂は……蜘蛛女は、何もお前を困らせるために自分から進んで夕凪春香に、真実を告げたわけではない。夕凪春香自身がそれを望んだからこそ、蜘蛛女は彼女の願いに応じたにすぎん。彼女が〈ショッカー〉のこと、14年前の事件の折、お前が置かれていた状況を知っているのは、自らの意志ゆえの結果だ」

 

薄い唇から紡がれるその言葉に、自然と視線は夕凪の元へといく。

俺が地上で14年以上、それなりの人生を歩んで生きてきたように、彼女もまたこの世界で、それと同じぐらいの時を過ごしてきたのだ。

自分の命を直接奪った初穂と死後の世界で再会して、なぜ彼女がここに居るのか? なぜ彼女は自分を撃ったのか……? といった疑問を、抱かなかったはずがない。あの時、あの悪臭漂う屋敷の中で俺が語った事以外について問いただそうと思っても、不思議ではない。

だが、その問いを口にするのに、どれほどの勇気がいったことだろうか。

夕凪春香は何も知らない子供ではない。

あの時点で心身ともにそれなりに成長し、知識と高いモラルを持っていた彼女が、闇の世界の事情を知ろうとする……その行為の危険性に、気が付かなかったはずがない。

しかし、にも拘わらず、彼女は自ら危険を冒してまでそれを知ろうとした。

そして、すべてを知った。

何故そうまでして真実を知ることに拘ったのか、疑問の解答は容易に予想が出来た。予想がついたからこそ、俺は泣きたい気分になった。

俺と、獅狼を見守るためだ。

俺がこの世界にやって来たとき、夕凪は俺の死に様を最初から知っているような口振りと態度を取った。彼女だけでなく、ランバート少佐もそうだった。おそらく、この死後の世界から生きている者達の世界を見下ろすのは、さほど難しいことではないのだろう。

夕凪は生き残った俺と獅狼のことを見守っていくために、真実を知ろうとしたのだ。

同じように真実を知った獅狼と、最初から真実を知っていた俺と、一緒の土俵に立とうとしたのだ。

無論この考えはあくまでも俺の推測で、空想の産物にすぎない。

しかし、続けて語られた少佐の話、初穂の言葉は、その考えが間違っていないことを確信させた。

 

「強い娘だ、彼女は。口を閉ざすこと、目を瞑ること、耳を塞ぐことは簡単だったはずだが、あえてその道は選ばずに茨の道を行くことを決意した。真実を知るというメリットを得た代わりに、途方もない悲しみを…闇の現実から目を背けていたことに対する罪の意識を、決して終わることなき一生涯、背負い続けなければならないというデメリットをも得た。だが、それで彼女の顔に暗い表情が浮かぶことはあっても、笑顔が消えることはなかった。真実を知ってなお、夕凪春香は我々に笑いかけてくれた。かつて〈ショッカー〉の人間であった、俺達に」

「ええ…。夕凪先輩は本当に凄いです。私は夕凪先輩に〈ショッカー〉を話をしたとき、ほっぺの2・3発は叩かれても仕方がないって思っていました。それからもう二度とこの人の笑っているとこを見ることはないんだろうなあ……とも、正直思っていました。

それが蓋を開けたらどうですか。夕凪先輩の笑顔は消えませんでしたし、そればかりか私のことを許してくれたんです。普通だったら自分を殺した張本人を……それも死んだ後も自分の大切な人達を苦しめている連中を、許すなんて出来るはずがありません。けれど、夕凪先輩はそれをいとも簡単にやってしまった。自分を殺した相手に向かって、笑顔を浮かべたんです。よっぽど意志の強い人じゃなければ、出来ないことですよ。夕凪先輩は単に優しいだけの人じゃありません。本当に凄い人です」

「まったくだ。彼女の笑顔に、俺達はどれほど救われたことか」

 

そう言う2人の表情にも、いつの間にか笑顔が浮かんでいた。

どちらも優しい笑みだ。

俺は軽い衝撃を受けた。存命中、ランバート少佐は滅多なことでは笑わなかったし、笑ったとしてもそれは薄く唇を歪める微笑程度だった。また初穂の笑顔は何度も見た憶えはあるが、その中に優しい笑顔の記憶はない。俺は2人のこんな表情を、未だかつて見たことがなかった。それが夕凪のおかげであることは一目瞭然だった。なんと彼女は、俺の傷を癒しただけでなく、ランバート少佐や初穂にも強く影響を与えていたのだ。そういえば俺が人並みに笑えるようになったのも、元を質せば彼女のおかげだったな。

俺はいつの間にか内にあったはずの“泣きたい”という気持ちが、自分の中で雲散霧消していることに気が付いた。

2人の話を聞いていくうちに、改めて夕凪春香という少女の偉大さを知って、そんなにも彼女に想われている自分達の存在が、たまらなく誇らしいものに感じられたのだ。むしろ、そんな彼女に想われて、嬉しく思った。

もはや俺の心の中に悲しみはなく、涙が頬を濡らすこともなくなった。

彼女にだけは真実を知ってほしくはなかった……未だ胸中にその想いはあるが、その事に俺がとやかく言う筋合いはもうない。

夕凪春香という少女は、俺が思っていた以上に強い娘だった。

俺はもっと彼女のことを…獅狼のことを、信じてやるべきだったのかもしれない。

そうしていたら、もしかしたらあんな悲劇は起こらなかったかもしれない。

一方そんな偉大なる当の本人は、2人の言葉を背に受けて恥ずかしそうに身をよじった。

 

「そんな…フォトちゃんもトッポ少佐も褒めすぎだよ。わたしはどこにでもいる普通の女の子なんだから」

 

顔を真っ赤にしながらあたふたと語調も荒く夕凪が言う。

背後で、浩平がぷっと吹き出した。

理由はわざわざ訊かなくても分かる。

一瞬、ランバート少佐の殺気が増したような気がしたのは、おそらく気のせいではないだろう。

しかし、それにしてもトッポ少佐とは……

 

「ちなみに由来はなんだ?」

「ランバート少佐って〈ショッカー〉じゃ〈壱番〉って呼ばれていて、アメリカの軍隊じゃ少佐って呼ばれていたんだよね? 〈ショッカー〉じゃ一番なのに、アメリカじゃ真ん中辺り。それって中途半端だと思わない?」

 

いや、〈壱番〉とはいっても、たった13名の部隊の中でのトップなんだが……。

 

「中途半端……チュウ。“チュー”といえば、ネズミの鳴き声でしょ」

 

両手を頭上に持っていき、作り物の耳をしながら唇を尖らせる。

その仕草は……ネズミというよりも、どこかキツネを連想させた。

浩平が爆笑した。

 

「ランバート少佐はアメリカ人だけど、イタリア生まれだっていうじゃない。イタリア語でネズミは『トッポ』だから、少佐って階級と組み合わせて『トッポ少佐』ってわけ。どう?」

 

いや、『どう?』と、聞かれても…。

自信ありげにささやかな胸を張る夕凪。

この分だと、浩平やミハイルにも何やら奇妙な仇名が着いていることだろう。

俺は苦笑しながらとりあえず、

 

「……相変わらずのセンスだな」

「でしょ? でしょ? やっぱりヤンミも良いと思うよねー? ヤンミだったらそう言ってくれると思ったよ」

 

喜色満面。それまでに見たことがないぐらいの笑みで、夕凪がとんでもないことをほざき始めた。

このままでは俺のセンスが、周りの人間に夕凪と同レベルと見なされかねない。

だが言葉で夕凪の口を塞ごうとしても無駄なことは、経験上分かりきっていた。生前、俺はこの娘に口で勝ったことが一度としてない。そんな俺が夕凪のこの歌う唇の動きを止めるには、実力行使しかない。

 

「――というわけでチョップ」

「あいたッ!」

 

夕凪の後頭部を軽くチョップして、その口を黙らせる。

コンパクトに放った手刀は、自分でも驚くほど綺麗に炸裂した。自分で自分を表彰してやりたいぐらい、稀に見るクリーンヒットだった。

とはいえ、夕凪の身体のことを思えばこそ、全力の1厘も出してやるわけにはいかない。はたして、彼女はすぐ復活した。

煙の吹く頭を撫で擦りながら、夕凪は抗議に口を尖らせる。

 

「ううう……ひどいよヤンミ」

「ひどいのはどっちだ。まったく! 俺をお前なんぞと同程度にまで貶めおってからに…」

「貶めるなんて…それこそ酷いなぁ。むしろ昇華したって言ってほしいな」

「……一発じゃ足りなかったようだな」

 

再びチョップ。

今度もやはりクリーンヒットで、正面を向く彼女の眉間に命中。

先程よりも多少力加減を強くして打つと、夕凪の額からもうもうと黒煙が立ち昇った。

叩くと軽く煙を吹く……いったいどういう身体をしているのだろう? この娘は。

 

「死んで身体の構成材料が変わったのか?」

「ううう……ヤンミの虐めっ子〜。暴力反対! 戦争反対! そんなに気が短いようじゃ、女の人にモテないぞ」

 

煙のヴェールの隙間から、恨みがましい眼光が真っ向から俺を見据えてくる。

小鹿のように大きな瞳を吊り上げて睨んでくるそれは、しかし2人の身長差ゆえに彼女が見上げてくる上目遣いの形になって、少しも恐いと思えない。なにより、相手が相手だ。

俺は努めて余裕を見せながら、不敵に笑ってやった。

鏡を持たない俺以外の人間の視界には、さぞ勝ち誇った余裕の笑みがあることだろう。

 

「ふっ、安心しろ。子孫繁栄のための相手には困っていない。……それに、俺にはもうこれ以上ないというぐらいの、姫君がおられるからな」

「……それって光さん?」

「ああ」

「あははっ、ヤンミってば惚気だ〜」

「惚気のどこが悪い。俺が惚れた女は、少なくとも俺にとっては、あらゆる意味で世界で一番の女だった」

 

俺は真顔で言ってやった。

さすがに世界で一番……は、言い過ぎかもしれないが、それは偽らざる俺の本心だった。

俺と夕凪はしばしお互いの顔を見つめ合った。

14年前と何ら変わることのない少女の顔と、14年経ってずいぶんと老けてしまった男の顔が、沈黙の中で向き合った。

どちらからとなく、俺達は笑った。久しぶりに、腹の底から笑ったような気がした。

 

「……俺、兄貴があんな風に笑うトコ、初めて見た」

 

茫然とした浩平の呟きが俺の耳膜を打った。

そういえばSIDE〈イレイザー〉に所属していた頃の俺は、“笑う”ということを忘れていた感すらある。

思えば、俺が最初に“笑う”という行為の意味、その大切さを忘れてしまったのは9歳のとき……あの、初めて人を殺した日のこと。

以来、本当の意味で笑うということをしなくなり、凍てついてしまった俺の心を、熱く滾る魂の炎で優しく溶かしてくれたのは夕凪と獅狼の2人だった。

その2人に冷酷な裏切りをはたらき、再び笑顔を失った俺の心に、炎を灯してくれたのは他ならぬ光だった。

改めて思う。

闇舞北斗という男は、本当に多くの人達に支えられて、今日まで生きてきたのだと。

この男は、多くの人を殺しながら、本当に多くの人間に恵まれてきたのだと。

 

「むぅ…北斗先輩、浮気してたんですか?」

 

ふくれっ面で初穂が言った。

この女も、今の闇舞北斗という人間を形作る上でなくてはならない存在だった。

あの当時は憎らしかった少女の顔も、今、見ればむしろ可愛らしいとすら思える。

 

「浮気も何も、俺はお前と夫婦の契りを交わした憶えはないし、恋人同士になった記憶もないぞ」

「そんな! 私と一緒に過ごしたあの日の夜の事……忘れたというんですか!? あんなに熱く愛し合ったじゃないですか!」

「熱かったのは周りの炎で、その愛し合った結果俺は右腕を失ったわけだが?」

「究極の愛情表現は愛する人を殺すことだ……って、本に書いてありましたよよ?」

「フォトちゃんフォトちゃん、それ絶対読む物間違えてるって…」

 

口を尖らして抗議する初穂に、夕凪が苦笑しながら合いの手を入れる。

遠慮のない物言いからは、2人の間に俺の知らない彼女達だけの14年間で築き上げた信頼関係の存在が窺えた。

そんな2人の様子に一抹の寂寥感を覚えるとともに、今日まで生きてきた俺と、彼女達との間にある、時間という隔たりを実感する。残酷なまでに越え難い、巨大な壁だ。

 

(いや……)

 

後ろ向きに先行してしまう考えを、頭を振って否定する。

たしかに生者と死者との間に隔たる時間は越え難い壁かもしれない。

だが、しかし……そんな時間の壁など、もう問題にならないではないか。

死した俺はこの世界で今後も生き続け、死者の先輩の彼女達は、これからもこの世界で生きていく……。

時間はいくらでもあるのだ。

この心の傷を癒すための時間。

俺と彼女達との間にある差を埋めるための時間。

そう、時間はいくらでもある。

“時”という無限大の存在の、終わりが来るまで…。

ふと瞑目し、見開いてみればそこには広大なる理想郷、かつてともに戦った戦友達、ともに戦うはずだった組織のエージェント、そして親友の姿がある。

一緒に同じ戦場を駆け抜け、一緒に同じ空の下を生き、一緒に同じ時を過ごした彼らは、新参者の俺を、温かく歓迎してくれた。

俺は彼らの方へとそっと右手を差し出した。

夕凪がきょとんとした表情で俺の右手を注視する。

 

「ここでは、俺の方が新入りだからな」

 

欧米では握手をしなければ何も始まらない。根っからの日本人の夕凪にはあまり馴染みのない習慣かもしれないが、ランバート少佐やミハイルはそれぞれイタリア、アメリカの生まれだし、そもそも、俺達裏社会に生きる人間にとって、握手ほど馴染みのある習慣は他にない。

握手とは武器を持っていない……つまり、“敵意がない”ことを相手に示すため行動だ。俺達みたいな人間の生きる世界では、敵意がないことを手軽に表明出来るこの方法は、とても重要な意味を持っている。

ランバート少佐が俺の手を握った。硬くごつごつとした、いかつい巌のような、しかしどことなく父親の手を連想させる大きな手だ。懐かしい感触だった。

 

「ここでは、もうそんなことをする意味もないぞ」

「そうなることを…早くこの世界に馴れられることを祈ってますよ」

 

争いの起こりえない世界で、敵意の有無など何ら問題にはなりえない。

そうと分かっていながら握手を相手に求めたのは、それが長年の習慣だったからだ。

しかし、この世界において握手がこれ以上身体に慣れ親しんだ習慣になることはない。する必要がないのだから、永劫の時の中でいずれはその行為の意味も記憶から薄れ、消えていくことだろう。

この世界に敵はいない。

ここには、気心の知れた仲間達しか存在しないのだ。

 

「ここは優しい場所だな」

「……ああ。俺達みたいな稼業の人間が住むには、勿体無いぐらいの極楽だ」

 

素直に述べた感想は、かつて教え子として隊にいた少年によって同感される。

浩平は垢抜けのしていない幼い顔に、見た目にそぐわぬ大人びた優しい笑みを浮かべて俺の右手を握った。

同じように、先ほどの俺の発言をまだ根に持っている初穂が俺と握手を交わし、すでに挨拶を終えている夕凪を除いて、残るはミハイルだけとなった。

彼と過ごした時間は、他の隊のメンバーと比べればとても短いものだったが、酌み交わした酒の味は今でも憶えている。

 

「改めてよろしく……というのも、妙な話だな。とりあえず、久しぶり」

「ずっとここから見ていました。あなたのことは。だから、久しぶりという感覚はあまりありません」

「おいおい。ずっと見ていたって…俺の人には見せられないような恥ずかしい姿なんかも見ていたってことか?」

「はい」

 

ミハイルは微塵の迷いもなく頷いた。

何を想像しているのか、後ろから女どもの黄色い声が聞こえてくる。

俺はそれを無視して目の前のアメリカ人に右手を差し出した。

ミハイルはにっこりと親愛の笑みを顔に浮かべながらその手を取って、

 

「……ッ! これは!?」

 

柔和だったその表情を、はっと硬化させた。

 

 

 

 

 

人は目前の“死”が確実なものとなったとき、過去の一切の記憶が走馬灯のように思い出されるという。

未だ懐中より抜かれることのないガバメントの銃口に身を晒しながら、獅狼の意識は過去へと泳いでいた。

中国での記憶だ。

文化大革命への介入は改造人間の手による世界秩序の構築を目的とする〈ショッカー〉、〈ゲルダム団〉にとって、既存の世界秩序を崩壊させるための作戦のひとつとして、当時重要なウェイトを占めていた。

毛沢東という70歳を過ぎた老人と、彼の信頼を一身に集めた側近が中国大陸にもたらすであろう混乱は、獅狼達が所属する暗黒組織にしてみれば歓迎すべきものであり、事実この並外れた浄化運動の最終形態は国際社会における中国の孤立化と、国内の混乱を招いた。

1966年8月、赤い中国の父・毛沢東と、彼の信頼を一身に集めた弟子の林彪は、ティーンエイジャー達に向かって年長者に反抗し、あらゆる過去を取り消し、権威を否定せよと呼びかけた。“近衛兵”として組織化された若者達は広大な国土の隅々にまで出兵し、『造反の小将軍』達は現政権と、かつて毛沢東の後継者として毛自らが選んだ劉少奇国家主席の打倒をスローガンに掲げた。

毛沢東と林彪が望んだ文化大革命のシナリオはそこまでであり、彼らの最大の目的は革命の精神を絶やさぬことであった。毛の何よりの関心事は革命家達の精神のバイタリティにあり、彼らが年月の経過とともに情熱を失い、堕落していくその様は、毛にとって嘆きの対象でしかなかった。己の人生の大半を動乱の中で過ごしてきた彼は、“革命”という言葉に執拗なまでの執着を見せた。

彼は消えゆかんとする革命の精神を、あらゆる世代の中で再生させる方策を考えた。若者達を革命へと煽動し、老人達にその矛先を向けさせることで、すべての世代に今一度“革命”を実体験させようと目論んだ。

しかし、〈ショッカー〉は中国で起きたこの一連の革命運動に、それ以上の事を求めた。

毛沢東が若い世代に求めたのは古い習慣、古い伝統、古い思想への攻撃だった。

〈ショッカー〉が若い世代に求めたのは古い習慣、古い伝統、古い思想の破壊だった。

暗黒組織はヒステリー状態に陥った若い世代を煽動した。

本を焼き、楽器を叩き壊し、絵画を破り捨てた。芸術家達は生活の糧となる道具を破壊されただけでなく、指を折られた。尊敬篤い人物を侮辱し、外交官を迫害した。それまでの街の名を捨て、革命的な呼び方に改名した。商店に押し入り、ブルジョワ的商品の売買について脅迫した。信号機の“赤”と“青”の意味が反転し、右向け右が、左向け左になった。

革命のもたらす混乱は、中国全土に広まった。

革命は国際社会における10億の民の孤立化を強制した。

1968年になって軍が本格的に動き出すようになるまで、彼ら子供達の十字軍は続いたのである。

ベトナムでの任期を終えた〈ゲルダム団〉コジマ大隊の面々が、膨大なエネルギーを持つ革命の子らの煽動と、その訓練のために中国入りを果たしたのは1967年の1月のことだった。

アフリカの砂漠で訓練を受け、ベトナムの前線で実戦を経験した彼らの戦力は、改造手術を受けたばかりの頃より格段に成長し、彼らから訓練を受けた若者達は、その力を大いに振るって混乱を招いた。

与えられた任務に没頭するかたわら、獅狼は上司の幹部にも、山口達大隊の仲間達にも何も告げず、ひとりの男と密会を重ねていた。

名を、鉄面臂張遼。

獅狼に赤龍拳を教え、彼に気功という神秘の術の存在を教えた人物である。

2人の付き合いはこの時点で、すでに5年に及んでいた。打倒闇舞北斗への執念を燃やす獅狼が、任務とは別に中国を放浪し、赤龍拳の存在を知ったのがそもそもの始まり。以来獅狼は張遼を師と仰ぎ、中国に来る機会があるその都度彼の下で研鑽を重ねていた。

芥子の畑の舞台の上で、2人の男はおよそ20メートルもの距離を隔てて向かい合っていた。獅狼はすでにレオウルフに変身し、一方の張遼は黒い鎧兜に面を纏っている。

先に動いたのはレオウルフの方だった。

気力を充溢させた下肢での踏み込みは、20メートルという距離をあっという間に詰めてしまう。

両の拳のワンツーの後、右拳を突き出すと同時にモーションに入り、回し蹴りを極める腹積もりだった。ストレートを躱されても、気力の篭もった右足さえ当たれば、鎧甲冑など粉々だ。

しかし張遼は、レオウルフの放った連環を余裕で捌いた。

鎧兜の重さを感じさせぬ軽快な動きで攻撃のことごとくをいなすと、絶え間なく流れ続ける大河が突如荒れ狂ったかのように、張遼は怒涛の反撃を見舞った。

“気”を充溢させた攻撃は“意”よりも先に技が進み、レオウルフがそれを察するよりも早く彼の肉体を打った。

 

「グゥ……ヌヌっ!」

 

咄嗟に気の力で肉体の強度を底上げして対応するも、同じく気の篭もった赤龍拳のラッシュには、改造人間の強靭なボディも耐えられない。

 

「天火星稲妻炎上破ぁッ!!」

 

赤龍拳が、雷光と焔を伴った必殺の一撃へと変わる。

音速を凌駕したラッシュの残像を縫うように、張遼自らが練った炎が、稲妻が、黒手の周りを舞って、レオウルフの頑強な肉体に炸裂する。

拳が、肉を抉った。

炎が、その身を焼いた。

稲妻が、彼の身体を拘束した。

“天火星稲妻炎上破”は張遼が得意とする必殺技だ。特殊な内功で気力の炎と稲妻を生み出し、操るという人智を超越した絶技である。

炎と稲妻の持つエネルギーは張遼の気力次第で太陽のそれにも、天然の落雷が放つ一瞬の煌きにも匹敵し、武器や己の肉体に纏わせることで、圧倒的な破壊力を発揮することが出来た。

特に赤龍拳の強力なつきと組み合わせたときの威力は凄まじく、一撃で巨大な軍艦を撃沈するほどの威力に達した。

炎に焼かれ、雷に打たれ、そして拳に砕かれたレオウルフは、芥子の花の絨毯へと倒れ込んだ。

手心などまったくない。

鋭く、真っ直ぐに突き出された正拳に迷いはなかった。

 

「立て…」

 

張遼の口元から、感情を感じさせぬ暗い声が漏れた。

面当てに覆われた顔で露出しているのは目元と唇のわずかな部位のみで、外からその表情を窺い知ることは出来ない。

ただ、真っ赤な花畑で倒れる異形に注がれる視線は冷たく、それでいて苛烈だった。

 

「技を受ける直前に気で身を守ったはずだ。死に至るほどのダメージは受けていまい」

「そ、そんなこと言われても……」

 

赤い花の芳醇な香りに抱かれながら、獅狼は苦しげに呻いた。

血を吐き、体内器官のことごとくを破壊されたその姿は、いつの間にかレオウルフのそれから小島獅狼のそれへと戻っていた。

張遼が言うように、嵐のごとき連続突きの最中から気力のバリアーで身体の表面だけでなく、内部をもシールドしていた獅狼だったが、張遼の放った“天火星稲妻炎上破”の一撃は、それら防御壁の全てを完全に無力化してしまっていた。

かろうじて生き延びはしたものの、死の一歩手前止まりで立ち尽くす今の獅狼に、すぐに立ち上がるだけの力はなかった。

五体に満足に力が入らない。

 

「老師の稲妻…炎上破を受けたんだ。……すぐに立つなんて…無理ですよ」

 

獅狼は息も絶え絶えに答えた。

『老師』とは中国でいうところの『先生』や『師匠』の意味で、逆に中国でいうところの『先生』や『師匠』は、『〜さん』程度の、敬称の意味になる。

 

「そうか。無理か」

 

張遼はにべもなく吐き捨てると、踵を返し、その場から立ち去ろうとした。

 

「ああッ。ま、待ってください!」

 

獅狼は慌てて呼び止めた。

 

「あ、あと五分待ってください」

 

実際のところ、五分やそこらで回復するようなダメージではなかったが、獅狼は気合で立ち上がった。

肩でする息を整え、気息を充溢し、体内でのた打ち回る極小機械群のはたらきを自らの意思で律してみせる。

肉体の損傷回復のため奔走するナノマシンをなだめすかし、獅狼は人工経絡の生成を開始した。

頭の中に人体の経絡図をイメージし、寸分の狂いなくその通りにナノマシンの配列を変えるよう、腹部の動力炉から微弱な電流を流す。

 

「ふぅぅぅ……」

 

呼気を整え、新たに出来た気の道筋に、再び宇宙の神秘のパワーを流し込む。

機械の力を借りることなく強化細胞が活性化し、破損したはずの器官が再び運転を開始したのが、はっきりと分かった。そして獅狼はそのまま、取り入れた気力をナノマシンに注ぎ込んだ。

体中で蠢きまわる極小機械群に、活力が宿った。気力という栄養ドリンクを得た彼らは、改めて破壊された改造人間の肉体の修復を開始する。

宣言通りの五分が過ぎた頃には、完治とはいえないまでも手足に力が甦り、気息奄々としていた蒼白の顔にはやや赤みが戻っていた。

 

「じゃ、じゃあ、もう一手お願いします…」

 

張遼の教えは手取り足取り懇切丁寧な稽古……などではない。教えてくれるのは最初の基礎理論だけで、それも手取り足取りといった優しいものではない。それ以外の稽古はすべて両者本気での立ち合い稽古で、それも突き放したものだった。

張遼と初めて出会ってからはや5年、彼の強力な気力技の前に地面と熱烈な接吻を交わした回数は数知れず、しかし彼との立ち合いの中で得たものもまた多かった。

張遼は自分の動きから気力の真髄を悟れと獅狼に言い、獅狼は言われた通りに従った。

再びレオウルフに変身した獅狼は、黒い鎧の張遼に果敢に挑みかかった。

出会ったばかりの頃などは、“天火星稲妻炎上破”を放たれるまでもなく、ものの数秒で地面に倒れていた彼だったが、5年もの修行の果てに、今では張遼の動きをある程度まで捉えられる境地に達していた。

 

「“気拳散弾”――――ッ!」

 

張遼の振り回す剣の斬撃を躱しながら、隙を見て自らの気力で作った青白い銃弾を広範囲にわたってばらまくレオウルフ。

銃器や肉体の技のみならず、剣術すら修めているという闇舞北斗打倒の策を講じるために、獅狼は張遼に武器を使ってもらうよう頼んでいた。手にしているのは無論真剣だ。刀身は張遼の気が宿ることによって、分子間の接合すら断つほどの切れ味を有している。勿論、まともに受ければ〈ショッカー〉の改造人間とて命はない。

黒の闘士は気力の篭められた細身の刀身で、放たれた銃弾のことごとくを捌いていった。

気力の技同士がぶつかり合ったとき、打ち勝つのはより気力の技が高みに至った方の技。

気力迸る刃に触れた瞬間、青白い光弾は刹那の速さで四散し、また同じように気力の流れる黒い鎧に触れて霧消していく。

威力の小さな銃弾では埒がいかないと悟ったレオウルフは、より巨大な気拳を打ち放つ。

 

「フゥ…“気拳砲弾”――――――ッ!!」

 

真正面から見た砲弾の直径は10センチ程度。戦車砲弾と同程度の大きさだが、その実青白い輝きの中には戦艦の一斉射並みの破壊力が宿っている。

その飛来速度、ゆうに秒速1400メートル。

例えその軌道を見極められたとしても、並の者に躱せるスピードではない。

しかし、張遼は泰然としてその砲弾に挑んだ。

かます切っ先を赤い花弁へと向け、向かってくる砲弾に対して掌勢をかざす。

 

「気力! 逆気拳砲弾ッ!!」

 

異様な現象が起こった。

放たれた気拳は黒手に炸裂するも、破壊の力を存分には振るわず、輝きと威力を保持したまま再び気合とともに打ち放たれた。

張遼の手から、レオウルフの体へと、標的を変えて。

 

「ンなのありかよ!?」

 

狼の顔を、獅子の胸顔を蒼白へと変えたレオウルフは悲鳴をあげた。

青銅色の視線の先には、自らが放ったはずの光弾がある。

それも、自分が放ったときのゆうに3倍ものスピードで、迫りくる破壊の光弾が。

 

「やべッ!」

 

先刻張遼の“天火星稲妻炎上破”を受けたときと同じように、人工経絡を駆け巡る気力をコントロールして、防御に集中。両腕をクロスし、衝撃に備える――――が、やはり五分の休憩では全快していなかったのか、気力の操作に、手間を取ってしまう。

 

「ッ……!」

 

考えるより先に体が動いていた。

咄嗟に地面を蹴って僅かながら光弾との距離を稼ぎ、その間に必死の形相で気力を集中。

特に両腕に重厚なバリアーを張って、自分が放った砲弾を受け止める――――――

 

「天火星稲妻炎上破ぁッ!!」

 

――――――と、そこに、稲妻と火砕流の渦が青の光弾を呑み込むように雪崩れ込んだ。

計算された師の攻撃に賛辞の言葉を述べる暇さえなく、再びレオウルフ……獅狼は、芥子の幻想世界へと突っ伏する。

倒れ込んだ拍子に口の中に入ってしまった芥子の花が一輪、噛み合わさった歯に挟まれて甘い蜜を滴らせた。

獅狼は赤い花を慌てて吐き出した。

 

「わ、わわッ! ちょっと飲んじまった…」

 

芥子の樹液はアヘンの原料になる。

無論、一滴二滴程度では害はないし、蜜をそのまま飲んだところで麻薬効果などないのだが、根の真面目な獅狼のこと、彼は必死になって唾と一緒に光を吐き出そうとした。

しかし、喉の奥に指を突っ込もうにも、両手は痺れて動かなかった。

そればかりか、二度の“天下星稲妻炎上破”のダメージによって、頼みの綱のナノマシンすら正常に機能してくれていない。

 

「ろ、老師…あと30分ばかし待っていただけますか?」

「3分だ。それ以上は待たん」

 

師匠の温情を求める弟子の言葉に、黒の闘士は冷たく答えた。

張遼の告げた3分が経つと、獅狼は再びレオウルフの姿で彼の前に立ちはだかった。

しかしその身はまさに満身創痍といったところで、獅子の胸甲は顎がはずれ、最大の武器である両腕も、骨砕け筋肉の断裂した、見るも無惨な状態になっている。

かろうじて立ち上がることが出来たとはいえ、大地に根ざした両脚は激しく震え、90キロを超える体躯を支えるにはいささか頼りない。ファイティングポーズを取るなど、論外である。

これで気力が通っていればまだまともな姿勢が取れるのであろうが、充分な休息を得ていない状態では、ナノマシンによる人工経絡の生成すらままならなかった。

今のレオウルフの体を支えているのは、まさしく小島獅狼という男が生来持っている闘魂と、気合だけだった。

 

「も、もう一手お願いします……」

「根性だけはあるようだな」

 

傷つき、疲れ果てながらも、それでもなお気力の限り立ち上がるレオウルフの様子に、仮面の張遼はチラリと笑みを浮かべた。

……浮かべたような、気がした。

レオウルフはその後も何度なく張遼に挑みかかった。

あまりのダメージにナノマシンが完全に機能しなくなり、あまりの体力の消耗に変身の機能すら壊れてしまってもなお、獅狼は戦い続けた。たとえ自身立ち向かう力を失ったとしても、張遼の動きひとつひとつが、獅狼にとっては上等なテキストだったからだ。

獅狼は張遼の動きを見て、彼の“気”に関する技術を貪欲に学んだ。

立ち合い稽古は早朝から始めて、夕刻に至るまで、これといったインターバルなしに繰り返された。

そして獅狼は、傷つき…朽ち果てんとするその身を闘志で奮い立たせ、剣を納めた黒騎士に頭を下げる。

 

「……あ、ありがとうございました…」

 

稽古は終わった。

朝の六時から夕刻の六時までの半日。しかもそれは、明日任務を控えている獅狼の都合に合わせてもらって、いつもより短めに終わった。

全身をびっしょりと汗と泥と血とで濡らし、実戦そのものの立ち合いが終わって緊張の糸が解けた獅狼は、もはやくたくたの足に力が入らず、赤い――花本来の色のみならず、彼が流した血によって葉までも真っ赤に染まった――花畑の上へと仰向けに倒れた。

照りつける夕日の光すら涼しく感じるその身は、過剰な運動のあまりすでに体温が60度をとうに超えてしまっている。

一方の張遼は、改造人間ですら音を上げる半日の稽古を終えたにも拘わらず、平然とした態度で立っていた。いかに稽古中負った傷が獅狼より少ないとはいえ、このことからも両者の力量の差は明らかだった。

 

「まだまだ修行不足だなぁ……」

 

指一本まともに動かせない自分を情けなく思いつつ、獅狼が呟く。

重度の疲労の果てに唇から漏れ出たか細い声に、張遼は瞑目しながら頷いた。

 

「……お前が私の下で稽古を積むようになって5年。“気”を操れるようになって3年。才能はなく、おまけに修行不足。いつまで経っても、花が咲くどころか、芽吹きすらしない」

「うぅ…はっきり言ってくれますね」

 

“ゴホリ”と、血を吐き出しながら乾いた笑いを口元にたたえる。

ちょっと舌と喉を動かしただけこの有様……どうやら内臓は、思った以上に傷ついているらしい。

 

「空手やり始めたときにも言われましたよ。『お前は才能がない。見込みがないからとっとと辞めちまえ』って。俺にあるのは努力と根性と、練習に割ける時間だけだった」

「……だが、芽吹きはもうすぐだ」

 

獅狼は怪訝な面持ちで張遼を見上げた。

 

「お前には才能がない。才能がないから決して大輪の花が咲くことはない。しかし、時間さえかければ小さな花ぐらいは咲き誇るだろう。お前は、時間はかかってはいるが、一歩ずつ確実前へと進んでいるからな」

「老師……」

「満開の桜より小さな野の花に心を魅かれる者もいる。

精進しろ、小島獅狼。お前の相手……闇舞北斗という男は強大だ。才なきお前に出来るのは、ただひたすら修練に打ち込むことのみ」

「……ご指導、ありがとうございます」

 

獅狼は軋む体を必死に起こして頭を下げた。

そんな彼を横目でチラリと一瞥し、張遼は小さく呟いた。

 

「……真っ直ぐな男だな、お前は。こんな裏切り者の私に、礼を述べるなどと」

 

その細い双眸は憂いの瞳をたたえていた。

改造人間である獅狼にとって、張遼の呟きを聞き取ることなど造作もないことだったが、彼はあえてその言葉について追求はしなかった。

向けられた恩師の背中に、途方もない悲しみを……彼が纏った黒い鎧同様、何人たりとも触れることの許されない心の闇を、感じ取ったのだ。

やがて張遼はゆっくりと振り向いた。

その瞳に、憂いの色はなかった。

 

「よいか獅狼。お前が打倒を目指す闇舞北斗という男……私も少なからず噂を耳にしたことがある。聞くところによると、件の男は予知の力を持った超能力者だとか」

「はあ。信じられないですけど、事実みたいです」

「そうか。……だとすれば、お前はその男に対しては注意してかからなければならん」

「?」

 

元よりそのつもりだ。

裏の世界に足を踏み入れて初めて知った闇舞北斗という男の強大さ……決して気を抜いて挑めるような相手ではない。本気で掛からねば、今度こそ殺されるのはこっちだろう。

しかし、今の老師の言い回しはどうしたことか?

まるで闇舞北斗という男の、『超能力にのみ注意せよ…』というような、言い回しは。

 

「よいか獅狼、銃や優れた体術、剣や最新のメカニックなどは、気力を修めた者に対して絶対的な優位を保証する材料にはならん。闇舞北斗がお前と同じように、改造人間でありながら内功を駆使するような文字通りの化け物であれば話は別だが、これからもお前が真剣に気力の修行に打ち込み、それなりの成果を挙げれば、倒せない相手ではない。

しかし、奴の超能力には気を付けろ」

「老師…それはどういう……?」

「聞け。世の森羅万象のすべては、常に陰と陽との関係だ。太陽の光がなければ影は生まれず、影がなければ太陽も存在していないということになる。気力もまた同様だ」

「気力にも、光と影……相反する、別の“力”があるってことですか?」

 

張遼は静かに頷いた。

 

「そうだ。この世界には気力と相反する……宇宙の神秘のパワーと凌ぎを削る、天敵のような“力”がある。気力が大自然から、すなわち外界から“力”を利用するのであれば、その“力”は我々の、内に秘めたる神秘のパワー…」

「それが、超能力……」

「そうだ。この地球上に住む生物で、ごく限られた者のみが使うことを許されたサイキック・パワー……“妖力”だ」

 

「見ていろ…」と、張遼は瞑目すると、眼下の芥子畑……かつて中国を狂わした忌まわしき悪魔達に、掌勢をかざした。

 

「妖力! 火炎地獄ッ!!」

 

獅狼は、見た。

張遼の黒手に、気力とは明らかに違う、何か別の禍々しい“力”が収束していくのを。そしてその力が、赤い花畑に向かって放出されるのを。

芥子の花畑が、一瞬にして地獄と化した。

突如出現した燃え盛る業火は、あらゆる物理法則を無視して、尋常でない速さで燃え広がった。

炎の舌は上半身だけ起こした状態の獅狼の体をも舐め尽くしたが、何故か彼の体は焼かれることなく、ただ芥子の花だけが燃えていた。

茫然と燃え盛る光景を見つめる獅狼に、張遼は言う。

 

「……これが、妖力だ」

 

獅狼は張遼を振り返った。

 

「私はかつて、気力を超える強さを求めた。誰にも負けることのない、誰にも大切なものを奪わせはしないための力を求めた。……苦闘の末、私はごく限られた者にしかその所有を認められない妖力を得た。以来、6千年余りの時をこの姿のまま生きている」

「老師、あなたは……」

「おそらく闇舞北斗という男は、その限られた人間のひとりだろう。今は予知という限定された機能にしかその“力”を使えていないようだが、仮にも『天才』と呼ばれる男。ふとした弾みで、内に秘めた妖力のすべてを解放しないとも限らない。その場合、お前の勝算はぐっと低くなる」

 

炎が揺れる。

獅狼の瞳の中で、張遼の姿が炎に包まれて揺れ動く。

黒の鎧は真っ赤に染まり、まるで血のようにべったりと纏い付いて、彼の身体から離れない。

まるで近い将来……10年か、20年先の、彼の未来を案じているかのように、血のように、剥がれない。

 

「忘れるな、小島獅狼。我が弟子よ。妖力は気力の天敵。気力を行使する改造人間……お前の最大の敵は、闇舞北斗という戦士ではない。気力を宿したお前の最大の敵は……」

 

その光景を、獅狼は今でも鮮明に思い出すことが出来る。

師と仰ぐ人の影が、途方もなく薄く感じられた、あの日のことを。

張遼の瞳が哀しみに染まり、自分の過去について短く語った彼の仮面に隠された顔が、悲壮なものに変わっていたであろうあの日のことを。

獅狼は今でも、鮮明に思い出すことが出来た。

 

「……気力を宿したお前の最大の敵は、妖力を自在に操る闇舞北斗だ」

 

 

 

 

 

かつてSIDE〈イレイザー〉には、他の追随を許さぬ超感覚能力の持ち主として、その名を組織の内外に知られた男がいた。

ミハイル・セレネスというそのアメリカ人は、改造手術を施した技術陣でさえ予想だにしなかった超感覚を発現し、数百キロ先を行軍する戦車部隊が揺らす大気の流れ、数キロ先で息を潜めて待ち伏せる狙撃手の呼吸音といった、同じ改造人間でも知覚することが極めて困難な、あるいは不可能なそれらを、いとも簡単に知覚することが出来た。

そればかりか、人智を超越した存在を知覚することもしばしばあり、一緒に任務を遂行していた際、同僚達は何度か一般に幽霊と呼ばれる存在と遭遇したこともあった。

そんな男の表情が、突然緊迫したものに変化したから、右手を握られた北斗の動揺は大きかった。

自分の手を握った瞬間、いったいミハイルは何を思い、何を感じたのか……気が気でない男に、ミハイルは慄然とした面持ちで呟いた。

 

「これはいったい…まさか……だが……」

 

震える物言いはミハイルが、北斗自身気付いていない何かを、彼の体から感じ取った証だ。

北斗は堅く握った右手を解いて、かつての同僚を問い質す。

 

「どうしたミハイル? いったい何を感じ取ったんだ?」

「ホクト…落ち着いて聞いてください。自分でも何を馬鹿なことを……とは、思うのですが……」

 

ミハイル自身、はっきりと知覚してしまったその事実が受け入れ難いのだろう。

彼はたっぷり一分はせわしなく呼吸を繰り返し、自分を落ち着かせると、途中生じるであろう反論を遮るかのように早口で言った。

 

「あなたは…あなたの身体は、まだ生きています!」

「なッ……!」

 

北斗は大きく目を見開いた。

驚く彼にミハイルは自身信じられないといった面持ちで告げる。

 

「今、あなたの手を握ってはっきりと感じ取りました。おそらく、私でなければ分からなかったでしょう。

ホクト、あなたの脳の機能の大半は、確かに死んでいます。脳死と言って、過言ではないでしょう。ですが、あなたの胸の強化心臓はまだ動いています」

「じょ、冗談はよせ! 俺の身体は、獅狼の攻撃で木っ端微塵に……」

「ええ。ですから、信じられないことなのです。脳死状態にあることはともかくとして、あの攻撃を受けてあなたの肉体が、心臓が動くほどに原形を留めていること自体、普通ならありえないことなのですから」

 

あの時、獅狼が放った“吼破・太陽”は確かに北斗の肉体を殴打し、原子爆弾の爆発にも匹敵するそのエネルギーは、強化細胞の一片々々、原子核のひとつひとつにいたるまで完全に打ち砕いたはずだ。

北斗の身体は地上から文字通り消滅し、だからこそ彼の精神は今この平穏な場所に存在する。北斗自身そう確信し、死者の先たるかつての仲間達も肯定したはずのこと。

しかし、いかなる現象がはたらいたのか、ミハイルはまだ地上の北斗の身体が、心臓はおろか脳以外のほとんどの器官が、死の一歩手前とはいえ、かろうじてまだ動いていることに気が付いた。すなわちそれは、北斗の肉体が原爆級のエネルギーの直撃に耐えたということを意味し、それは奇跡という言葉を用いても説明のつかない現象だった。

ミハイルは己の知覚した事実に愕然としていた。目の前の死んでいるはずの男に、恐怖の感情すら覚えた。

しかし、その事実に対していちばんに衝撃を受け、恐怖を覚えたのは他ならぬ北斗自身だった。

あの視界を閉ざす、溢れんばかりの閃光。死を意識した瞬間と、そのひと刹那の中で告げた言葉にならぬ謝罪。その先に待っていた楽園と、もう二度と会うことはないと思っていた人達との再会。自分の心は、かつての親友らとのふれあいの中で、“己の死”を受け止め、その事実を消化したはずだった。

しかしその実、肉体は今もなお浅ましく動き続き、生き続けているという。

なんという強大な改造人間の生命力。なんという生への執着。

自分で自分の肉体が、改造人間・闇舞北斗の身体が、恐ろしくてたまらない。

 

「――つまり、今の俺は一種の脳死状態ではあるが、心臓は動いているから、いわゆる植物人間の状態にある。ただ脳が死んだも同然の状態だから、精神は肉体を離れてこの場所にいる……そういうことか?」

「信じられない話ですが…」

 

首肯するミハイルに、もはや北斗は言葉すらなくしてしまう。

そしてそれは周りの人間もまた同様だった。

なにせ、てっきり死んだものと思っていた彼が、その実肉体は生きていたのである。死者としての経験の長い彼らも、こんな事態に遭遇するのは初めてだった。

臨死体験というのはよく聞く話だが、まさか自分達の身近でそれに近い事が起ころうとは、想像すらしていなかった事態だった。

 

「……確かに信じられない話ではあるが、ミハイルがそこまで言うのだから、事実なのだろう」

 

最初に正常な思考を取り戻したのはランバート少佐だった。

 

「シャーロック・ホームズの台詞ではないが、一見不合理に思える解釈でも、他の蓋然性のすべてを消去してしまうと、残されたその解釈が真実ということになる。蜘蛛女も浩平も知っているだろう? ミハイルの能力については」

 

かつてはミハイルとともに多くの戦場を駆け巡った浩平と、数多の激闘を潜り抜けてきた百戦錬磨の初穂が同時に頷く。2人ともミハイルが持つ感覚能力の凄さについては十分に理解していた。

 

「なら分かるはずだ。ミハイルの言っていることが事実であると。だが、今問題なのは北斗が生きているという事そのものではない」

 

ランバート少佐が言い切り、初穂が頷いた。

北斗も含めたあとの4人は、何がなんだか分からないといった表情で2人の顔を見比べる。

 

「分かりませんか? 脳だけが死んでいて心臓は動いているということは、逆に言えば脳の機能さえ回復させることが出来れば、北斗先輩は生き返れるということです」

「あ……」

 

その初穂の一言に、得心した4人の時間は一瞬止まった。

死者とも生者とも取れる男は仇敵の言い放つ言葉に愕然と立ち尽くし、死者の3人は茫然とした、あるいは不安の色が混じった視線を、戦いの世界から解き放たれたはずの男に向ける。

初穂の説明を補足するように、ランバート少佐も口を動かす。

 

「付け加えるなら、『今ならまだ…』だ。改造人間の……それも北斗の鍛えられた身体なら、あれだけ打ちのめされた状態でも数日は保つだろう。だが、それも数日が限界だ。それ以上は外部から栄養を摂取しなければ、強化細胞はゆっくりと死んでいく。猶予はせいぜい、一週間といったところか」

「……」

 

心の中で、ランバート少佐の言葉を何度も反芻する。

――今ならまだ間に合う。今ならまだ、生き返ることが出来る。

その言葉の意味、意味することの重さ……脳裏にチラつく、ひとりの女の顔。

 

「……どうするつもりだ?」

「……ッ!」

 

まるで心を見透かされたかのようなタイミングでの言葉に、北斗は驚き顔を上げる。

ランバート少佐は、相変わらず冷徹な軍人の目で、無表情に北斗を見据えていた。

アメリカ人は、まるで本当に北斗の心の中を透視しているかのように言う。

 

「言ったとおり、今ならまだお前は引き返すことが出来る。だが、戻った先はまた地獄だぞ?」

「……」

「折角手に入れた平穏を……争いのない世界を捨ててまで、戻る価値のある場所なのか?」

「……」

 

冷徹なその視線に言葉もなかった。

告げられた残酷な言葉に息が詰まった。

またあれを繰り返すのか? 殺し、殺される痛み、孤独、憎しみに囚われて獣のように殺し合う、あの悪夢の日々――――

 

(クソッ――――――)

 

血塗られた両手が激しく震える。

戦いの中で生きた身体が新たなる戦場を求めて歓喜に打ち震え、戦いの恐怖を知る心が拒絶反応に身を縛る。

 

(俺は……)

 

自分はいったい、どうすればいいのか。

この争いのない世界で以降も暮らしていく。そんな至福を捨ててまで、再び戦場に舞い戻る意味は…………ないわけではない。

先ほどから脳裏にチラついてどうしようもない、見慣れた、自分が愛した女の顔。

彼女とともに生き、ともに同じ道を歩んでいくのは、この争いのない世界で生きることにも勝る喜びだ。

だが、しかし……

 

「選ぶのはお前の自由だ」

 

ランバート少佐は、突き放すように言った。

不安げな春香の視線が、前を向く北斗の背中に重く突き刺さる。いや春香だけでない、初穂も、浩平も、ミハイルも、北斗の一挙一動に注目し、みな不安そうな表情を浮かべている。

 

「ヤンミ……行っちゃうの?」

 

折角またこうして出会えたのに……かけられた言葉にはそんな寂しげな響きがあった。

――折角またこうして出会えたのに。この世界で生きていくのなら、もう誰とも争うことなんてないのに。この世界に生きる人達は、誰もあなたのことを拒みはしないのに。こんなにも優しい世界は、他にないのに……。

 

「夕凪、俺は……」

 

親友の縋るような視線、仲間達の不安げな表情が、生き返る可能性を得た北斗の心を追い詰める。

そう、この世界には死んでいった仲間達が、自分の命と引き換えに、自分をこれまで生かし続けてくれた人が、自分の人生を変えた人達がいる。

夕凪春香との出会いは自分の生き方を180度変え、陽の当たる世界の素晴らしさを、友と過ごす時間の大切さを教えてくれた。柏木初穂との出会いは同時に〈ショッカー〉との出会いでもあり、彼を改造人間という異端の存在へと変えた。桐原浩平とミハイル・セレネスのふたりは、殺伐とした闘争の日々の中に一服の清涼剤をくれた。

そして、ランバート・クラークは自分に多くのことを教えてくれた。武器の使い方、効率的な人体の破壊の仕方……戦いの術だけではない、人間が人間らしく生きる上で、大切な事を教えてくれた。死に際に彼から受け取った大いなる遺産は、今も北斗の中に残っている。

この世界を捨ててまで地上に戻る理由……自分の魂を揺さぶり、心を熱くした、愛する女。

だが彼女と同じように、自分の心の中に足を踏み入れ、人生の転機にはいつも傍に居てくれた者達が、この世界にはいる。

惚れた女のためだ。この平穏な世界を捨てるのも惜しくはない。しかし、この世界に生きる彼らとは、この機会を逃せばもう永遠に会うことは出来ないかもしれない。

人は良くも悪くも変わっていく。次に死神の鎌が北斗の首に振り下ろされたとき、彼が死んだ後にこのような世界を望んでいるとは誰も保証出来ないのだ。

そして、だからこそ北斗は親友のその問いに、毅然とした答えを返せなかった。

 

「俺は……」

 

愛した女と、大切な親友。仲間になるはずだった少女。ともに肩を並べて戦った仲間達。

はたしてそれは、秤に載せて比べられるものなのか。それ以前に、比べて良いものなのか。

目の前にある進むべきふたつの道。はたして自分は、そのどちらを選べばよいのか。どの道を歩むことが、自分にとって最良の選択なのか。

立たされた岐路を前にして、北斗はただただ思考を踊らせながら立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

わずか三十年と少しの人生を振り返る旅は、獅狼の主観で何年も、実際には数分の時間を要して、つつがなく進行していた。

中東の砂漠でイスラエルの戦車団と肩を並べて、エジプト陸軍の戦車部隊と戦った日々のことを思い返しながら、獅狼は、

 

(……そういえば、こうしてゆっくり昔を懐かしむのも、久しぶりかもしれないな)

 

と、ここ数年多忙のあまりそんな余裕をまったく失っていた自分に気が付いて、苦笑した。

14年前のあの事件以来、小島獅狼の身に安心してゆっくり過ごすことの出来る時間はほとんど与えられなかった。将来有望な『怪人』クラスの改造人間で、優れた能力を持っていた彼は、いつも何かしらの任務を抱えていたし、〈ゲルショッカー〉が壊滅した後も、地下世界に潜伏する獅狼らに気の休まる暇は与えられなかった。たまに得られたオフの日も、修行やら何やらで忙しかったし、山口達苦楽をともにしきてきた仲間達と過ごす“今”を大切するばかり、過去に目を向ける余裕はまったくといって良いほどなかった。

そんな多忙な毎日の中で、ようやく手にした気の休まる時間が、人生最期の瞬間の直前に訪れた、この一時とは……まったく、神様は意地悪なものだ。命の遣り取りが忙しすぎて手に入れられなかった安らぎの時間を、いざ己の死を前にしてようやくプレゼントしてくれたのだから。よりにもよって、このタイミングなんて……。

とはいえ、それでも自分はまだ神様から寵愛されている方といえるだろう。

自分達のような稼業の人間にとって、多くの場合死とはいつも突然にやってくる、とても不条理なものだ。死の間際に何かを考える時間が与えられるケースなんてほとんどなく、それだってほんの数秒……下手をすれば、刹那の一瞬にすぎない。

自分のように死の間際になって、何分もの時間が与えられるのはむしろ稀だ。多くの場合死は、覚悟すら定まらぬうちにやってくる。そのことを鑑みれば、自分はまだ幸せな方といえよう。

もっとも、その当の本人は一刻も早く早急な死を望んでいる辺り、やはり運命の神様は意地悪だ。

獅狼は内心苦笑しながら、視線を過去の記憶ではなく、運命の神様の代行者……この場において、自分の生死を左右する決定権を与えられた彼女に、視線を向けた。

神様に代わって、自分に過去へと思いを馳せるだけの猶予を今も与えてくれる女は、その懐に鉄の塊を隠したまま立ち尽くしていた。極度の緊張状態の中で足はすくみ、身長のわりに小柄な体は震えていたが、視線だけはこちらを真っ直ぐ射抜いている。

意志の強さを感じさせるその瞳は、切々と『あなたを撃ちたくない』と、無言で獅狼に語りかけていた。

獅狼は内心予想していたこの事態に、光からはそうとは見えないよう溜め息を吐いた。口では散々光を煽った獅狼だったが、本心は最初から彼女が銃を撃つことはあるまいと確信していた。

もうすぐで十分近くもそうし続けていることになる彼女は、これ以上待ったところで決して懐中のソレを使ってくれはしないだろう。

北斗の勝利を信じ、彼との約束を大切にし続けている彼女だ。恋人の敵である男に信頼を寄せ、あまつさえ直接本人に『死んでほしくない』とまで、本心からの言葉で言ってくれた彼女だ。間違っても、自分が望むような死を与えてはくれまい。

それでも、一縷の望みを限りなくゼロに近い可能性に賭けて、彼女を言葉で揺さぶり、こうして待ってきたが……

 

(それも、もうそろそろ限界かな……?)

 

ふと空を見上げて確かめた星々の位置は、屋上から見上げたときと比べて大分変わってしまっている。もう、のんびりとしていられる時間はあまりない。

獅狼は無抵抗であることを示すために上げていた両腕を、静かに下ろした。

それを見た光が、怪訝な視線を彼に向ける。

獅狼はふぅと、小さく溜め息をついてから、

 

「……負けたよ、あんたには」

 

と、言って、お手上げのポーズを取った。

 

「俺の根負けだ。よくよく考えてみたら、昔から俺は待つってことが苦手だった」

「じゃあ……」

 

ほっと吐いたその安堵の息は、自分が殺人を犯さずに済んだからか、それとも獅狼が死なずに済んだからか。あるいは、その両方かもしれない。

だが、それは間違いだ。たしかに彼女は殺人を犯さずに済むだろうが、自分が死ぬという未来に変わりはない。

獅狼は、彼女を騙す罪悪感からチクリと痛む自身の胸板に、そっと掌を当てた。脈打つ強化心臓の真上ちょうどを五本の指が取り囲み、掌の硬い部分が軽く内臓を圧迫する。

獅狼はにっこりと笑って言った。

 

「…やっぱ、自分でやることにするよ」

 

空手家の自分が、他人の手にかかるのならまだしも、まさか自分の手で命を絶つことになろうとは……皮肉なものだ。大切なものを守るために日々切磋琢磨してきたはずの技で、普通なら何よりも大切にするべき己の命を絶つのだから。

一度はほっと安堵したはずの光の表情は、獅狼のその一言によって再び漂白した。

極度の緊張状態からの解放で止まった震えが、またぶり返してくる。

すでに一度告げられた決意とはいえ、今まさにそれを実行しようとする男に対して、光は思わず声を上げていた。

 

「ま、待ってください!」

「ん? うした? もしかして撃ってくれる気になったのか?」

「違います! 違いますけど…でも、それは……」

「いや、だって仕方ないだろう。憎しみの連鎖はどこかで絶たなきゃいけない。けど光さんは俺を殺せない。だったら、俺が自分で自分を殺すしかない」

「……本当にそんな道しか、ないんですか?」

「ないよ」

 

獅狼はきっぱりと言い切った。

北斗を殺した後、その罪を背負いながら一生孤独に生きていく……そんな未来を、考えなかったこともない。

もしかしたら他に歩むべき道は……最良の選択肢はあるのかもしれない。

けれど自分はそんな数多ある選択肢の中で、この道を選んだ。親友を殺した罪を、自らの死をもって償う。頭の悪い自分には、これ以上の最良の方法は見つからなかった。

 

「恨んでくれるのは構わない。嫌ってくれてもいい。俺の死を悲しんで、涙を流してくれるのなら最高だ。……闇舞さん、俺は北斗以外にもあまりにも多くの人を殺しすぎた。死なせすぎた。こんな男は、死んで当然なんだ」

 

今日というこの日に巡り合うために、自分はどれほどの罪を重ねてきたことだろう。

もう一度親友と会うために。もう一度親友と話をするために。もう一度親友と、戦うために……。

そのために犠牲にした命。犠牲にしてしまった命。自ら望んで、犠牲となってくれた命。そうした数多くの命を背負いながら、明日もまた生き続ける……そんなおこがましい真似が、これ以上出来るものか。

これ以上の無用な悲しみを生み出さないためにも、この男はやはり死ななければならない。いや、死ぬべきなのだ。

 

「俺が犯した罪は、死んだって償えるものじゃない。……けど、俺は北斗ほど頭が良くないから、死ぬことぐらいしか、彼らに報いる方法が思いつかない」

「そんな……」

 

次々と告げられる残酷な言葉に、とうとう光は泣き出してしまう。

目尻から頬へと伝う小さな雫を目で追いながら、獅狼は利き手による圧迫のものではない痛みを、胸に感じていた。

ズキズキと疼くそれに耐え続けるのは、獅狼にとって苦痛だった。

 

「そんな悲しい顔をしないでくれ。美人が台無しだ。あんたを泣かせたなんて知られたら、あの世で北斗のやつに殺されちまう」

 

冗談めかしたその言葉も、この暗い状況では何ら効力を発揮しない。

獅狼は彼女の涙を何とか止めてやりたいと強く思いながら、しかし自分にそんな時間は残されていないと思い込むことで、胸に当てた右手の指を、光の頬へとそっと導くのをなんとか自制した。

彼は、これ以上は自分も胸の痛みに耐え切れないと思った。

獅狼は静かに“息吹”をし、気息を整え“気”を練った。右手が薄らぼんやりと青白く発光し出し、彼の心臓に強い負荷がかかる。

機械で出来た強化心臓がメキメキと音を立て、全身の血液が逆流して、意識がゆっくりと遠のいていく。改造人間の身体でも生命維持に欠かせない強化心臓を守るため、自動的に極小機械群が機能して、左右の肺の肥大化、胸部装甲骨格を強化などをして、荷重に対抗しようとするも、“気”の篭もった獅狼の掌の圧迫には最後まで耐え切ることが出来ない。

 

「小島さん!」

 

光の放つ悲鳴も、もはや獅狼には聞こえていない。

意識のほとんどを失いながら、なおも“気”の取り入れ、心臓への圧迫を止めないのは、よほどの強い力が彼の体を動かしている証。その強い力が獅狼の固い決意、強い意志であることは明白だ。

光は思わず獅狼の傍へと駆け寄った。心臓の位置にあてがわれた彼の太い右腕を、彼女の細い両手がつかむ。

青白く発光する獅狼の右手は少しだけ発熱しており、彼女の白い手はたちまち真っ赤になった。

すでに意識の朦朧としている獅狼は、自分の腕に何かが絡み付いていることには気が付いたが、それを振り払おうとはしなかった。振り払わずとも、彼の五指はミリ刻みで体内へと埋没していた。女の光と改造人間である獅狼の力の差は歴然だった。

しかしそれでも、光は心臓にあてがわれたその太い右腕を止めようとした。その圧迫を、少しでも遅らせようとした。

 

「死んではいけません。小島さん!」

 

悲痛な彼女の叫び声も、獅狼には届かない。言葉では駄目だ。行動しなければ。

強固な意志に突き動かされ、自ら命を絶とうとする彼を、非力な女の自分が止められるとは到底思えない。

だからといって、光には目の前の男が自ら命を絶つその瞬間を、指を咥えておとなしく見ているなんて出来なかった。

かつて北斗が自分に何も言わずに姿を消したあの時、自分は何も出来なかった。たった今しがた北斗が死んでしまった時でさえ、自分は何も出来なかった。

自分は無力だ。そんなことは他ならぬ自分がいちばんよく理解している。しかし、だからといって、何もしなくて良い道理はない。光は必死に獅狼の行為を止めようとした。

しかし光がどれほど頑張っても、自ら命を絶とうとする改造人間の手の動きは、一向に止まらなかった。

“気”のコーティングによって鉄と同じレベルにまで硬度を高めた爪がついに皮膚を突き破り、彼の胸元が赤黒く染まる。

普通の人間であれば絶対にありえぬ金属のひしゃげる音が、光の耳の奥で悲しく響いた。

 

「ああ……」

 

自分ではやはり駄目なのだろうか。自分の力では彼の手の動きを遅らせることすら出来ないのか。

光は、胸の内で叫んだ。

目の前で今にも消えゆかんとするその命を、救うことの出来る力を持った、彼の名を呼んだ。

そんな彼女の姿を映す獅狼の瞳からは、徐々に光が消えゆこうとしていた。

 

 

 

 

 

世界は相変わらず美しく、降り注ぐ陽光は穏やかに6人を包み込んでいた。

耳に心地良い波の音は北斗の心を癒やし、幻想的なその風景は彼の汚れきった目を洗い流す。

この場所に、大切な仲間達といつまでも一緒に居られたら……どんなに幸せなことか。

だが、長い長い沈黙の後、北斗は振り向いて言った。

 

「夕凪……すまない。俺は、行くよ」

「……そっか」

 

振り向いた瞬間に北斗の顔を見て、その答えを予測していたのだろう。

春香の口をついで出たのは、驚愕でも悲しみでもなく、事実をありのままに受け入れた返事だった。

 

「俺は、まだここにはいられない。光との約束も、お前との約束も、まだ果たしてないから」

 

今を生きる者達と、過去を生きた者達。それらは決して比べられるはずのない存在。

しかし過去に生きた者達との約束、そしてその生きた証は、今を生きる者達に受け継がれ、生き続ける。

ならば自分は、過去を生きた者達のためにも、今を生きる者達の元へ帰らなければ……。

何かに吹っ切れたような穏やかな表情で、しかしはっきりとした語調で、北斗は言う。

 

「だから俺は行くよ。例え待っているのが辛い地獄でも、そこにはあいつらがいる。光が……獅狼が待っている」

「だが、お前と小島獅狼との実力差は歴然だ。今生き返ったところで、両腕のないお前では、むざむざ死ににいくようなものだぞ?」

 

ランバート少佐の言葉は痛烈だったが、それは事実だった。

このイタリア人は優秀な軍人だ。物事の本質を見極める観察眼に長けている。今の自分ではどう足掻いたところで、小島獅狼には勝てないことをよく理解している。

また、彼が自分を引き留めるためにそう言っているのではないことを、北斗は知っていた。

ランバート少佐は事実をありのままに述べているだけ――だから北斗は、自分を憐れむことも、憎むことも出来ない。そんな感傷の中に逃げることは許されない。

 

「それでも、俺は行かなくてはなりません。確かに今の俺では、あいつに対して“何も出来ない”でしょう。ですが、だからといって何もしないわけにはいきません。だから……俺は行きます」

「……そうか」

 

二人はしばし見つめ合った。

それ以上言葉は交わさず、視線だけの無言の会話が続く。

沈黙を、目と目の、魂と魂の凌ぎ合いが埋めた。

ややあって、ランバート少佐はゆっくりと頷いた。

 

「……死後の世界では、肉体は存在しない。この世界での我々は、精神だけが全ての存在だ。

望め、闇舞北斗。お前が強くそう望めば、その望みは叶うだろう。不断の決意を持って行けば、天から地へと降りる道も見つかるだろう」

「少佐……」

 

冷徹な軍人の目ではない。

幾多の戦場を駆け、数多の命を見て、無限の死に様を見てきた男の視線……それはとても穏やかなものだった。まるで息子の門出を祝いながら、それを少し寂しいと思う、父親のような、複雑な色で作られた安らぎの視線。

戦士としてではないアメリカ人の表情に、北斗はゆっくりと腰を折った。

アメリカ式の礼ではなく、日本式の礼をすることで、心からの感謝を示した。

それから彼は身体ごと振り返ると、少し寂しそうな視線を向けながら、しかし晴れ晴れとした笑顔を向ける3人の改造人間達にも、腰を折った。3人に対するそれは、少しの間とはいえ安らぎの時間を提供してくれたことに対する感謝であり、おそらく永遠の別れとなるであろう彼らへの、決別の挨拶だった。

そして北斗は、傍らの少女に…大切な親友に、そっと微笑みかける。

 

「それじゃあ、行ってくる」

「うん」

 

長い遣り取りはなかった。

言葉は要らず、もしかしたら交差する視線すら必要なかったかもしれない。

かつて、自分の生き方を完全に変えてしまった少女。今でも鮮明に思い出せる、あの笑顔。

そんな親友との決別に、言葉はむしろ不要だった。

必要なのは互いの笑顔と、結び合う心。そして小さな約束と、それに付随する思い出の数々。

 

「……」

 

さあ、望め、闇舞北斗。

ランバート少佐が言ったように、この世界では自分は精神だけの存在。

肉体的な限界に囚われることなく、無限の変化の可能性を宿した精神だけが、ここでは生きる力を持つ。

そもそも、今あるこの世界は、そうした戦いを望まぬ人々の精神が、想いが、築き上げたものではなかったか。

ならば、自分にそれが出来ない道理はない。少佐が言うように、自分が望めば地上への道は……自分が地上の肉体に戻るための道は、必ず出来るはずだ。

 

「そうだ。望め、北斗。お前の精神は、他の人間と比べて頭抜けて高い」

 

ランバート少佐の声が、集中する北斗の耳膜を静かに打つ。

 

「自分を信じろ。お前の肉体は、〈ショッカー〉最高の頭脳・死神博士が作り上げた。お前の持つ“力”は、〈ショッカー〉最強のゾル大佐が鍛え、〈ショッカー〉最高の地獄大使が与えた戦場で熟成された。いわばお前は〈ショッカー〉の改造人間のひとつの完成体。お前は、自分で思っている以上に、多くの者達の寵愛を受け、手塩にかけられている。私自身、お前には私のすべてをつぎ込んだつもりだ」

「少佐……」

「お前の中には、〈ショッカー〉最高の頭脳が、最強の力が詰められている。お前の中には、多くの者達の想いが、魂が宿っている。この場にいる我々全員が、いつもお前のことを見ている。お前の側には、いつもお前を心から愛する者が、心から愛する親友がいる。お前は、決して独りではない。お前がお前自身を信じるということは、自分だけでなく、お前の中にある全ての人間の想いを信じるということだ」

 

北斗の目の前に……6人の目の前に、光り輝く道筋が現れる。

精神だけが全てというこの世界で物理法則について論議するのは滑稽だろうが、その光る道は、遠く見える遥か彼方……海の方へと延びていた。

 

「北斗、お前のすべてを信じろ。お前のすべてを解き放て。闇舞北斗が持つ全てを……お前がこれまで深く関わってきた人々の全てを、吐き出せ。お前の中にある全部の力を、放出するんだ。そうすれば、あの男……小島獅狼にも、“何かをしてやれる”かもしれん」

「……はい」

「今の自分で何もしてやれないのなら……今の自分を超えればいい。お前なら、それが出来るはずだ」

 

光の道筋に、一歩足を踏み出す。

自身の精神力によって生み出された光の道路は、北斗の進むべき道を煌々と照らし、深く広い海のさらにその向こう……地上と死者の世界とを隔てる、境界すらも闇色に照らし出す。

北斗はもう一度だけ後ろを振り向いた。

そこには、かつての仲間達が、仲間になるはずだった者が、大切な親友が、眩しそうに自分を見つめている。

その顔を、その姿を、争いと無縁の世界で生きる彼らの幸福そうな姿を、網膜に、脳裏に、魂に刻み付けて、北斗はふっと別れの微笑を浮かべる。

そんな彼に、一歩前に踏み出した春香が、大きな声で言った。

 

「行って、ヤンミ! 行って、ワンちゃんを助けてあげて!!」

「夕凪…。ああ、分かったよ、春香!」

 

これで彼女と別れ際に約束をするのは二度目。

一度目はあの地獄の屋敷の中で、獅狼のことを託された。

そして今回は、この楽園で、また獅狼のことを託された。

闇に落ちてしまった彼の心。復讐を遂げて何をするのか分からない彼の心を、救うために……。

北斗は踵を返すと駆け出した。

身体は羽のように軽く、北斗は風よりも速く、音の速度すらも突破して、疾走した。

 

 

 

 

 

……どれほどの時間を走り続けただろうか。

気が付くと楽園の景色はとうに失せ、見渡す限りの真っ暗闇の中を、北斗はひたすら走っていた。

同じ死後の世界でも、あの優しい世界とのこの雲泥の差はどうしたことであろう。

太陽の光はなく、生命の息吹も感じ取れない深い闇が、彼の四方を取り囲む。光源といえる明かりは何一つなく、唯一例外的に彼の作り出した通路だけが、その足元を煌々と照らしていた。

だが、そんな視界の閉ざされた世界にも拘わらず、北斗は自分の周りを漂う“ソレ”らの存在がはっきりと視えていた。

暗闇の中に身を置いて、爛々と輝く心眼が捉えた像は、いずれも人の形をしており、まるで北斗の進行を妨げるかのように、彼の周りに纏わりつき、浮遊していた。

北斗は自分の周りで浮く“ソレ”らの正体を本能的に悟った。

アレはかつて自分が殺した者達の魂。今の自分と同じように、地上に戻りたいと願うも、すでに還る肉体がない者達。安息の死後の世界を築くことが出来ず、こんな闇にしか居場所がない者達。

彼らが自分の傍に集まってくるのは、おそらく自分の復活を妨害するためであろう。

自分達を殺した憎い男。自分達と同じように憎しみに抱かれ、命を失ったはずの男。彼らは、そんな自分の地上への帰還が、妬ましく、疎ましく、憎らしくてたまらない。許せないのだ。

そして許せないからこそ、彼らは北斗の邪魔をしようとする。

 

「恨み辛みはもう一度ここに来たときにでもまた聞いてやろう。だから、今は通させてもらう!」

 

今のところ纏わりついてくるだけで、直接的な行動には出ようとしない彼らに、北斗は声高々に宣言する。

そんな尊大ともとれる北斗の態度が気に障ったのか、それまで彼の周りを浮遊し、彼に追随するばかりだった者達が、一斉に爆発した。

銃を持つ者は銃を、剣を持つ者は剣を北斗に向け、連携も何もない、ただひたすらに、自分達をこの闇の世界に送り込んだ男に対して、怒りのままに攻撃を開始する。

雲霞の如き攻撃の嵐。

その中を北斗は、特に躱すでもなく、防御するでもなく、ただ走り続けた。

ランバート少佐は、猶予は一週間程度と言っていたが、地上での事態はそれ以上に逼迫しているはずだ。一分でも速く、一秒でも速く、そこに辿り着かなければ。

先を急ぐ北斗の前に、かつて中東の内戦地域で戦った戦車、ジェット戦闘機が、その行く手を阻む。遠くの方から聞こえてくるのは、〈ショッカー〉の任務で世間には秘密裏に沈めてやった、イタリアの旧式艦の艦砲射撃だろうか。

北斗の背後を、北斗の正面を、歩むべき道を照らす光を砕くように、砲弾が炸裂し、爆弾が炸裂し、ミサイルが降り注ぐ。

爆風を、砲弾の破片を、巻き上げられた土塊を全身に浴びながら、北斗は先ほど聞いたばかりの、ランバート少佐の言葉を思い出していた。

 

『北斗、お前のすべてを信じろ。お前のすべてを解き放て。闇舞北斗が持つ全てを……お前がこれまで深く関わってきた人々の全てを、吐き出せ。お前の中にある全部の力を、放出するんだ。そうすれば、あの男……小島獅狼にも、“何かをしてやれる”かもしれん』

 

自分の全てを、解き放つ。

今まで敬遠してきた予知能力。

これ以上化け物と呼ばれるのが嫌で、使わなかった改造人間としての機能。

その全てを、解き放つ。

北斗はその言葉をゆっくりと胸の内で呟くと、不意に左手を真っ直ぐ、正面へと伸ばした。

彼の視線の先には、何十両ものソ連製戦車が、彼に対する絶対の防衛線を敷いている。

しかし北斗は、そんな戦車団には一瞥もくれず、ただ己の左手だけを見据え、その他の一切を視界から排除した。

そして彼は、念じた。今までも度々、どうしようもないときに予知能力を行使したその要領で、左手の中に、ある物を……捨ててしまったはずの、己が愛銃の姿を幻想する。

光が、北斗の手を包み込んだ。

彼は温かな熱が自分の左手を抱くと同時に、何か冷たく、硬いものが手の中に出現したのを感じた。

北斗は、もう20年以上もの間、何万回と繰り返し、身体に馴染んだ動作で、人差し指と親指を動かした。

金色に輝く“何か”が北斗の左手から飛んでいき、目の前の戦車団を次々と破壊していく。防衛線を突破した彼の左手には、彼が最も信頼を寄せる拳銃の姿があった。

 

「……こんな感じで、やればいいのか」

 

まるで何かの感触を確かめるかのように、北斗が呟く。

闇の世界の終わりは未だ見えず、いつになった地上の世界に……己の肉体に戻れるのか、まったく見当がつかない。

しかしそれでも、彼は諦めようとはせず、前進することを止めようとはしなかった。

そして北斗が一歩踏み出すその都度、彼の進行を阻もうとする者達がひとり…またひとりと、脱落していく。

今や北斗の疾走に同伴出来るのは、人並みはずれた戦闘者、戦車、装甲車輌、戦闘機、軍艦といった、かつて彼が戦ってきた中でも特に彼を苦しめた者達ばかりだった。そのうちの多くは戦車や戦闘機に乗っていたために、名も顔も知らない連中だった。

北斗は、その中に見慣れた顔を見出した。

追いすがる鎖鎌の使い手を拳で打ちのめし、上空から爆弾を投下しようとする“コルセアU”攻撃機をブローニングで撃ち落した直後、その男は現れた。

 

「……お前か」

 

出来ることならば、もう二度と会いたくなかった男。

出来ることならば、もう二度と思い出したくもなかった顔。

北斗の脳裏に、遠く遥か彼方にある、忌まわしい記憶が蘇る。

 

『ガキ、その手に持っている物を素直に渡しな』

 

血走った眼で、欲にくらんだ愉悦の笑みで、幼かった自分達に刃物を突きつけた男。

彼は自分の取り仕切る闇市を荒らした男に対してひどく腹を立てていた。相手の男が懐の拳銃を抜くよりも早く包丁で突き殺し、溜飲を下げたはずのその後も、彼は猛り狂う眼差しで、男が死に際に手から滑り落とした拳銃を拾った少年達を見つめていた。

当時、まだあまりにも幼すぎた少年と少女は、両親の死という目の前の現実を受け入れる時間すら与えられず、死地に立たされていた。

 

(あのとき、俺は留美を守るために……あいつをひとりにさせないために、あなたを撃った)

 

だがそれは、裏を返せば自分もまた独りになりたくなかったということ。

妹を失うことを恐れ、残されたときの孤独と寂寥を恐れ……だから自分は撃った。

闇舞北斗という男は、他人からよく評価されるような強い人間ではない。闇舞北斗というこの男は、本当は独りでは何も出来ない、弱い男。

独りぼっちになるのが嫌で、嫌でたまらなくて……だから自分は彼を撃った。

彼にも家族や親しい者達がいただろうにと、考えるまでもなく撃った。

 

(本当に俺は自分勝手で、傲慢な男だよ)

 

自分はやはり、本質的に自分のことだけしか考えていない。考えられない。『留美を守るため』、『光を愛している』……そんな甘く、善意に満ちた言葉を紡ぎながら、本当はどうすれば自分はより良い状況に身を置けるか……それしか考えていない。

孤独に怯え、未来の寂しさに怯え、ほとんど相手のことを知らなかったからと、自分は彼のことを躊躇いなく撃った。

その行為の、そしてその決断を下した男の、なんと浅ましく、なんと愚かなことだろう。

しかし、そんなどうしようもない男だからこそ、独りにされることの悲しみ、孤独の絶望を、自分はよく理解出来る。

自分がいなくなって寂しかったと言ってくれた女。

根は自分と負けず劣らずの寂しがり屋の男。

彼らの孤独と、その絶望を、よく理解出来るから……

 

「……俺は、あなたをもう一度撃つ」

 

決して彼女を独りにはさせない。決して彼を独りにはせない。させてやるものか。

自分のことしか考えていない己の傲慢な理想は、俺と、光と、獅狼の3人が、笑って同じ時を過ごせること。それを実現するためにも、彼らにあの孤独と絶望の恐怖を、これ以上味あわせてなるものか。

その想いを胸に、北斗は今、再びあのときの銃を握る。

ブローニング・ハイパワーではない。

今日の自分を築き上げた、その道程の始まり。自分自身の、起源の銃を、男に向ける。

 

「コルト拳銃……!」

 

驚愕を含んだその叫び。

男の出刃包丁が突き出されるよりも速く、北斗はあの時使った拳銃と寸分たがわぬその銃で、あの時以上のスピードと、あの時以上の正確さで、トリガーを引き絞る。

黄金の弾丸がブラックホールから排出され、男の眉間を真っ直ぐ撃ち抜いた。

いやそればかりか、男の背後……遥か数キロメートル先を行く駆逐艦の装甲をも貫き、たった一発で炎上させる。

擱坐し、道を塞ぐそれを飛び越えて、北斗は頭上に一条の光が差し込んでくるのを見た。

四方を取り囲む永劫の闇の中にあって、その光は昼下がりの陽光のように温かく、のどかな光だった。

北斗はその光を目指して大きく跳躍した。高度3000フィートを行くファントムを足場に、高度5000フィートを行くハリアーを足場に。

激戦による体の痛みは消えていた。

目指す光の向こう側から、聞き覚えのある声が手招きする。

 

「そんなに焦らなくても……」

 

ふと唇から漏れる微笑。この場にあって、異質でしかない笑み。

しかし懐かしくて甘い、天使のようなその声を聞いていると、自然と笑顔がこぼれしまう。

声は何度も自分の名前を呼び、北斗はその声の主を求めて空を駆けた。光が徐々に大きくなっていく。

もはや誰も北斗の歩みを止める者はいなかった。

戦闘機も爆撃機も、スペースシャトルですら今の北斗には届かない。追いつけない。

視界を覆う、溢れんばかりの光芒。

 

「今、行くよ……」

 

そして北斗は、光の中に飲み込まれた――――――

 

 

 

 

 

光は驚いて自分の手元を見た。

獅狼の腕に回した自分の両手に、突然誰か別の大きな手が覆い被さってきたからだ。

視線を落とすとそこにはヤスデの葉のように大きな、そして巌のように硬い男の両手があった。光は見覚えのあるその手の登場に言葉をなくし、後ろに立っているはずの男を振り返る。しかし、そこには彼女が望む男の姿ばかりか、誰もいなかった。

光はもう一度、自分の両手を優しく包む、その男の手に視線を注ぐ。

一瞬の空白の後、彼女は獅狼の行動を阻むことすら忘れて、「ああっ!」と、悲鳴にも似た驚きの声を上げた。

男の両手は、なんと肘からその先がなかった。いかなる作用によるものなのか、まるで切り離されたトカゲの尻尾のように、上腕から見捨てられて寂しげに浮遊していた。よく見てみると右手は何か強力な力で引き千切られたようになっており、もう一方の左手は鋭利な刃物か何かで切断されたかのような、綺麗な切断面を抱えている。

光は茫然としてその孤独な両腕達を見つめた。

他の身体の一切のパーツがなく、腕だけで浮遊しているだけでも驚きだったが、次にその両手が取った行動は、彼女にさらなる衝撃を与えた。

2本の腕はそっと優しく彼女の手を掴むと、獅狼の腕に回された光の細い指を一本一本丁寧にはずしていった。そして彼女の手を獅狼の腕から引き離すと、一瞬前まで彼女がそうしていたように、獅狼の腕を両手で掴んだ。

手首の太さだけでビール瓶の底ぐらいありそうな太い腕を軽々と握り締めると、巌の手に赤い水脈が湧いた。

何百キログラム……もしかすると何トンもあるかもしれない握力が改造人間の強靭な腕を締め上げ、命を絶とうと強化心臓に向けられたその手を、数ミリ刻みで引き出していく。

光は歓声を上げるのも忘れて、その光景に見入った。

愕然としたのは光だけではなかった。

朦朧とした意識の底で、自分の腕が何か強力に引っ張られているのを感じた獅狼は、奥深い闇の中へと足を運ぶ意識を必死で取り戻し、状況を悟った彼は突然の事態に光以上に愕然とした。

しかし、獅狼の場合驚愕は光ほど続かなかった。

赤い中国の土の上で、ベトナムの深い密林の中で、中東の寒い空の下で、普通の人間のみならず、超常の存在との接触も少なくなかった彼は、人間の腕だけが動いているこの状況に素早く反応した。

獅狼はまず光を突き飛ばして彼女の安全を確保すると、続いてすぐさま自分を取り巻くその問題に目をやった。

すでに獅狼の意志で彼自身の体内からすっかり抜け出た右手を、相変わらずその両手は掴んでいた。しかしギリギリと腕を締め付ける握力は、引っ張り出そうとする力が消えた分、自害を阻もうとしていたときよりも遥かに増し、このまま右腕を握り潰そうとする相手の意図を正確に獅狼に伝えていた。

獅狼は掌を全開に広げ右腕に力を篭めて、握り潰そうとする握力に反発すると同時に、ナノマシンをコントロールして右腕の強化細胞を強化。同時に気力を流すと効果は覿面で、右腕にかかる負荷はみるみる弱まった。

しかし、だからといって主なき両腕からの攻撃はやまなかった。

ふたつの手はまるでそれ自体高い知性を持っているかのように、獅狼が反撃に及ぼうとすると手法を変えて襲いかかってきた。

ぱっと諦めよく右腕から指をはがすと、殴りかかろうとする獅狼の左手を巧みに避け、変身していない彼の両手の届く範囲外から、一撃を試みようとする。

獅狼はなんとかそれらを得意のディフェンスで凌ぎながら、その計算された動きから高い知性を感じた。単に自分の攻撃の範囲外から攻め立てるだけでなく、双手の連携も完璧といって良いほど取れている。決して二本の腕が同時に攻めてくることはなく、連続で次々と、間断なく襲いかかってくる攻撃にはさしもの獅狼も対処が難しい。付け入る隙が、まったく見当たらないからだ。

こうも計算付くの攻撃が出来るとなると……自在に動き回るふたつの腕を操っている者が近くいるのは、ほぼ間違いない。

問題はそれがいったい何者で、何故自分を攻撃するのか、この事態を打破する方法は――――――

 

(もしかして…いや、けど……)

 

ふと頭の中をよぎった疑念は、今となってはありえない事。たった今しがた命を奪った感触は、今も生々しく獅狼の手に残っている。

しかし、こうまで隙のない戦い方をする人間を、獅狼はひとりしか知らない。自分を襲う両腕が、獅狼にとってあまりにも見覚えのあるものであったことも、その考えに拍車をかけた。

――まさか……いや、しかし……

戸惑う獅狼の脳裏に蘇ったのは、〈ゲルショッカー〉の訓練所で教官から受けた教えだった。あのときは頭でっかちの論理主義者の口だけの妄言に過ぎないと真面目に授業を受けていなかったが、なんだかんだで脳はしっかりそのことを憶えていたらしい。

曰く『戦いには常に予想外の事態が生じる。それは戦いが一種混乱の極みにある状態だからというだけでなく、戦いの基本が“奇襲性”にあるからだ。戦争において確実なことは、“確実な事は何もない”ということだけだ』。

……そうだ。戦いにおいて確実といえる事は何もない。

あの男は確かに自分が殺した……その“確か”すら、疑わなければいけない。

獅狼は親友の墓標を鋭く睨みつけた。30センチもの分厚い壁を透視する改造人間の視力が、その下に埋もれているであろう男の変わり果てた姿を捜索する。

『吼破・太陽』の猛撃を前に、細胞の一片一片、原子核のひとつひとつに至るまでを砕かれたはずの男の死体を、自分はまだ確認していない。コンクート片の下に親友の亡骸は、てっきり原形を留めていないだろうと、確かめる気になれなかったのだ。

はたして、改めて視線を注いだその先に…………彼の姿は、なかった。

赤外線で確かめても結果は同じ。求める男の姿はどこにもなく、やはり獅狼が最初に意図したように、彼の身体はあまりの強大なエネルギーに引き裂かれ、原子を砕かれて消滅してしまったのだろう。あるいは、ナノマシンの証拠隠滅プログラムが機能して、死体は液状化してしまったか。

 

(いや……)

 

ナノマシンが正常に機能しているのなら、どうして自分を攻撃するこの双子の腕は液化しないのか。本体である北斗の生命活動が停止しているのなら、何故この腕はこうやって存在していられるのか。

獅狼の関節の可動範囲を遥かに凌駕した角度から右腕が迫り、それに対する回避先で待ち構えていた左腕が、改造人間の体を打つ。

地面を転がる獅狼は、しかし立ち上がろうとするその瞬間を、背後から狙ってきた右手を裏拳で迎撃。咄嗟に手首を掴むと、双子の兄弟を救出せんと飛んできた左手に、それを投げつける。

改造人間の腕力で回転を加えられ、それ自体一個の凶器となった親友の右手を、彼の利き手だった左手は見事にキャッチしてみせる。

しかし動きの止まったそのわずかな一瞬を、獅狼は見逃さなかった。

中国拳法仕込みの軽やかな、それでいて空手仕込みの力強い踏み込みで一気に距離を詰め、彼はひとつになった標的に殴りかかる――――――

 

「がッ……!」

 

……だが次の瞬間、獅狼の体は吹き飛び、再び地面に転がった。

うつ伏せに倒れた彼の背中を、鋭い痛みが走った。突き抜けるような衝撃は獅狼の全身を駆け巡り、胃の中のものをもどしかけた彼はごほりと喉を鳴らした。

自分の身にいったい何が起こったのか……獅狼が状況を把握するまでに、それほど時間はかからなかった。

背後からの奇襲。攻撃の瞬間まで自分に気配を悟らせず、無防備な背中からまともに突き飛ばされたようだ。痛みの性質からして、おそらく強烈な蹴りによる一撃だろう。

事態を素早く飲み込んだ獅狼は、決して敵に隙は見せまいと、腹を押さえながらすぐさま立ち上がった。

左手を前に出しながら、全周囲に警戒を張り巡らし、襲撃者の姿を探す。

獲物を探す獅子の瞳がギラリと光り、狼の鼻が半径500メートルの距離で強力な警戒網を敷いた。強化された獅狼の嗅覚は、2キロメートルの距離で100人の体臭を嗅ぎ分けることが出来る。

その双眸は烈火の如く復讐に燃え、たとえ襲撃者の正体が蟻の子一匹であっても見逃すまいという決意を滾らせていた。自分に気配を悟らせることなく接近したことに対する驚きよりも、背後への接近を許してしまった悔しさの方が勝っていた。

 

「……どこを見ている?」

 

不意に、聞き慣れた男の声が、獅狼の耳膜を打った。

獅狼は反射的にその方向に視線を向けた。

上に。

獅狼は驚愕すらも忘れて、その光景に目を見張った。

 

「……北斗?」

 

夜の世界に溶け込むための迷彩服を身に纏った彼は、獅狼よりもはるかな高みから彼を見下ろしていた。

死闘の末に激しく傷ついたその身は今にも枯れそうな大木のようであり、両腕を失ったその姿は翼をもがれた鳥のようですらある。

しかし、気迫凛然とした瞳は強い意思の光りをたたえ、揺るぎない闘志に燃えるとともに、山頂から滾々と湧き出る清流の透き通った色をしていた。日本人離れした彫りの深い精悍な顔はやや頬がこけ、鋭いカミソリのような印象を見る者に与えていた。

獅狼の頬を、何か熱いものが流れた。

獅狼は、瞳から止め処なく溢れ出す涙を、こらえることが出来なかった。

その男との再会は、もう決して望めるはずのないものだった。

しかし、天が築いた理を完全に無視して、その男は再び自分の前に姿を現した。

不死鳥の如く蘇り、その親友は再び自分の目の前に還ってきた。

……まったく、運命の神様は本当に意地悪だ。こんな再会を用意してくれなんて……恨みも辛みも、全部忘れて、泣くしかないではないか。

獅狼が、涙で揺れる視線を向けたその先に、朱にまみれた最強の戦闘者は浮いていた。

 

 

 

 

 

「……いったい、どんな魔法を使ったんだよ?」

「奇跡って魔法だ。人生の中で時折訪れる、不思議な魔法さ」

 

……自分がこうして生きているのは、まさに奇跡としか言いようがない。

親友に殺されて、死後の世界で夕凪やランバート少佐達と会って、彼らと短かったが安らぎに満ちた時間を過ごして……そして、蘇った。

正直に自分の見聞きしてきた事実を話したところで、誰も信じてはくれないだろう。逆の立場だったら、俺だってとてもではないが信じられない。死後の世界? 死んだ親友達と再会した? 狂人扱いされるのがオチだ。あるいは、愚かしいほどに真っ直ぐなこの男のこと……もしかしたら俺の妄想に過ぎないかもしれないこの話を、信じてくれるかもしれないが。

だから俺は、『奇跡』という言葉ですべてを片付けることにした。

事実、それは決して間違いではない。

五体不満足とはいえ、こうして俺が宙に浮いていること自体、まさに『超能力』という、奇跡の産物によるものとしか、言いようがないのだから。

 

「まあ実際、運が良かったのは間違いないな。お前の攻撃を叩き込まれる直前に防衛本能がはたらいたのか、俺の中に生きるランバート少佐……かつての、SIDE〈イレイザー〉最強の男の力がはたらいたのか、ともかく、死の直前になって、超能力が発動したらしい」

 

俺は口元にべっとりと付着した赤い汚れを肩口で拭って、答えた。

口の中で塵や埃、コンクリートの破片などが共生して、かなり気持ち悪い。歯を磨くか、うがいをしたい気分だったが、とりあえず強酸性の唾液で溶かして我慢するしかない。

 

「俺が原形を留めていられるのも、こうして宙に浮いていられるのも、ふたつの腕を遠隔操作出来るのも、全部そのおかげだ。

人間死ぬほど追い詰められると、普段以上のパワーを発揮するというのはよく聞く話だが、実際に劇的なまでの変化というのはそうそう起こりうるものじゃない。しかし、幸運にも俺の場合は、それがちょうどいいタイミングで起きてくれた。……本当に、いいタイミングで、新しい超能力が発現してくれた」

 

原爆級の威力を誇る『吼破・太陽』の猛撃を防いだ“超能力のバリアー”。重い瓦礫の下から両腕のない状態で這い出すことを可能とした“瞬間移動”。足の折れてまともに立つことすらおぼつかない俺のために、神様が与えてくれたとしか思えない“空中浮遊”。そして、強化神経を断絶され、もはや独立機能するナノマシンに任せて液化していくのを、ただ見ているしかなかった己の片割れを、こうも自在に操ることを可能とした“サイコキネシス”……。

それぞれが奇跡の産物としか言いようのない超能力を、一気に4つも新しく発現させた。これを奇跡と呼ばずして、なんと言葉で言い表せばよいだろう?

滅多にないからこその『奇跡』という言葉、『僥倖』という言葉だが、これではまるでその安売りだ。

しかも、今挙げた4つの能力以外にも、与えられた奇跡の恩恵は、俺の中で確実に、静かに息づいていた。いつ己の出番が来るのかと、使われる機会を待ち望んでいた。

 

「今までの俺は数秒先の予知能力と、過去を透視する二つの超能力しか使えなかった。しかも俺は、この能力が嫌いで、嫌いでたまらなかった。改造人間というだけでも化け物じみているのに、その上超能力なんて……まさに魑魅魍魎、化生の類でしかなかったからな。それが死ぬ一歩手前で意識を失って、好き嫌いも何もなくなった瞬間、一気に続々と新しい能力が…しかもご丁寧に使い方まで頭の中に入ってきやがった」

「ははっ……なるほどなぁ」

 

バリアー越しだったとはいえ強いショックを受けたせいか、義眼の機能は回復していた。

上空から見下ろすその先で、獅狼は泣き笑いの表情で呟いた。

この状況で何故この男が泣いているのか分からなかったが、基本的に頭の良い彼は俺の言葉の不足した説明で、大体を理解したようだ。

 

「……お前、もはや何でもありだな」

 

獅狼は皮肉に口を尖らした。

 

「改造人間のくせに内家気功術を操るような輩にだけは、言われたくない言葉だな」

「へっ、違いねぇ」

 

いささかの皮肉を篭めた指摘に、獅狼は苦笑で答えた。

要するにどっちもどっち。なんだかんだと言いながら、結局俺達は本質的に似た者同士なのだ。

留美を守るために裏の世界に足を踏み入れた俺と、夕凪の涙をもう二度と見たくなくて空手を始めた獅狼。

独りになるのが嫌で銃を手に取った俺と、自分のことを寂しがり屋だと認めている獅狼。

改造人間という非業の存在に成り下がりながらも、SIDE〈イレイザー〉という仲間達に囲まれた俺と、山口達多くの仲間達に囲まれていたという獅狼。

『超能力』という超常の力をこの身に授かった俺と、努力で内家気功術をマスターした獅狼。

生まれも育ちもまるで違う、戦後の動乱期の僅かな時間、ともに青春を過ごしただけの繋がりしかないはずの2人が、こんなにも似ているなど……もしかしたら俺とこの男の間には、前世からの因縁めいたものすらあるのかもしれない。

俺は基本的に無神論者だが、ああも死後の世界をまざまざと見せ付けられた後だと、そんな考えすら浮かんでしまう。もっとも、前世云々の話は神ではなく、仏の世界の話だが。

 

「けどよ、お前今、超能力のことを『嫌いで、嫌いでたまらない』って、言わなかったか? それが何で、今更使う気になったんだよ?」

「べつに心変わりをしたわけじゃない。今だって、嫌いで、嫌いで、たまらないさ。自分が普通の人間とは違うんだってこと、嫌でも思い知らされてしまうからな。……しかし、折角ナイフを持っているのに、わざわざ素手で戦う必要はないだろう? 下手にカッコばかり気にするのは、もうやめることにした」

 

どんなに言葉で言い繕っても、たとえ超能力を使うことをやめたとしても、俺が改造人間であるという事実は変わらない。

普通の人間とは違う、明らかな化け物だ。認めよう。

 

「その代わり俺は、俺の全てを、これからお前に叩き込む。今日に至るまでの間に身に付けた全ての技、全ての術、全ての戦法と戦術を以って、お前に挑む。超能力も、改造人間としての力も、今の俺が持っているありったけのモノを、お前にぶつける。そしてもし、今の俺の全てで力が及ばないようなら、そのときは今の俺を超えて、その先にある全部を叩き込んでやる」

 

あの世でランバート少佐に言われたこと。かつての教官の教えを守るために。あの世で一時とはいえ俺の心を癒してくれた彼らの思いに報いるために。あの世で夕凪と交わした約束を、守るために。そしてなにより、おれ自身の未来のために……俺の、全てをぶつける。

それは言葉で言うほど生易しいものではない。

相手は内家気功術をその身に修めた努力の天才、自分よりも何ランクも格上の、新型の改造人間だ。

音の壁を突破して放たれる攻撃の数々の前では、己の全てを出し切る暇さえ与えられないかもしれない。

しかし、それでも……

それでも、自分はやらなければならない。

己の全てを賭して、この男に勝たなければならない。

夕凪春香との約束。夏目光との約束。自らの胸の内に誓った約束。それらを果たすために、俺は親友を殴り、倒す。

そして、彼を救う。

意識を取り戻したとき、獅狼は自ら命を絶とうとしていた。おそらく、俺を殺した後は最初からそうするつもりだったのだろう。

愚直なまでに真っ直ぐな性格で、責任感の強いヤツのことだ。自らの私怨のために多くの命を奪い、仲間達を犠牲にしてしまった自分が、許せなかったに違いない。最初から死を以って罪を償うつもりでいたに、違いない。

この戦いに挑む前、俺は自分が死んだ後も獅狼が生き延びてくれるのなら、それでもよいと思っていた。失った多くの命を背負って生きていくのはとても辛いことだろうが、それでも、彼が生きてさえいてくれれば、俺はそれでも構わなかった。

しかし、俺が死んでも彼が生きてくれる未来はありえない。それを証明する出来事が、たった今起きてしまった。

戦いの中でやり方を誤れば、獅狼は死ぬ。

自分が彼に殺されてやっても、獅狼は死ぬ。

ならば残された道は、ひとつしかない。

獅狼を殺さず戦いに勝って、彼を生かす。

夕凪との約束を守り、俺と光りが望む未来を築く。

俺は決して独りにならないし、お前も独りにはさせない。

俺は死後の世界からの帰り道でそうしてきたように、精神を統一した。

たった今しがた発現したばかりの新たな“力”が、

この世に生まれ出でたその日から内に秘めていながら、自身今まで敬遠していたがために、今日にいたるまで現れなかった“力”が、体中を血液のように駆け巡っているのを感じる。

骨折した足にも、離れ離れになった両腕にも、静かに…しかし烈々と激しく流れるそれをコントロールし、念じる。

ふわり…と、虚空を舞う両腕が俺の周りにやってきて、元あったその場所にぴたりとくっ付いた。右腕が少しだけ短くなってしまったが、戦闘に支障はないだろう。

両腕を元あった場所に戻し、ゆっくりと地面に降下する。

足場の悪い瓦礫の山の山頂に降り立つと、少しだけバランスを崩してしまった。

特殊ME弾の電波によって狂わされたナノマシンのダメージは、未だ色濃く肉体に残っていた。

しかし、歩けないほどのダメージではない。

肉体の破損は超能力で誤魔化すことが出来たし、痛みは、気力でこらえた。

最も重要な小型原子炉も、問題ない。さすがに激戦の中での出力低下は否めないが、放射能漏れを防止するためのシールドは正常に機能している。

ただし、損傷が著しいのもまた事実だ。最大出力を発揮できるのは、せいぜいあと3・4回。それも限られた時間でしかないだろう。しかし、好意的に解釈すればそれはあと3・4回もチャンスがあるということに他ならない。

それだけフル・パワーを出す機会があれば、十分だ。

相手がひとりである以上、核は2発も使う必要はない。

レッグホルスターに収められたブローニングのグリップを、握り締める。

堅牢な皮の鞘から剣を抜き、目の前の男の額にポイントする。

 

「……さぁ、第二戦といこうぜ。親友」

 

まるで練習試合の続きを望むように軽い口調で、俺は彼に言い放った。

それはかつて、稽古の度に獅狼が言っていた口調を真似たものだった。

あと数ミリ人差し指を動かすだけで、いつでも金色に輝く殺人者を世に送り出すことの出来る男に、わが親友は一瞬きょとんとした表情を向け、そして、ぷっと吹き出した。

 

「やっぱ、お前役者やるべきだったよ。……そうだったら、俺もこんなことせずにすんだ」

 

肩を上下させて笑う男の顔から、涙は消えていた。

暗い闇の世界にあってなお澄んだ瞳を持ち続ける少年の目は、青銅色に輝いていた。

獅狼の、変身が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜設定〜

 

“鉄面臂張遼”

 

説明不要な気もするけどなぁ……「五星戦隊ダイレンジャー」第7話、第8話に登場する、ゴーマ一族(ダイレンジャーの敵ね)の戦士。気力と妖力という相反する二つの力を駆使し、絶大な戦闘力を誇る。ダイレンジャー四人を相手にしても互角以上の戦いぶりをみせるその正体は……ビデオを見て確認してもらうとして(笑)、ここでは外伝に登場する張遼の解説のみ。

打倒・闇舞北斗の執念に燃える小島獅狼が、修行の旅の最中に出会った彼の師。獅狼に赤龍拳の技と気力を駆使する術、気力を使った戦い方を、厳しくも優しい(?)態度で伝授した。

最新の改造人間であるレオウルフを相手に丁々発止の活躍は本編そのままで、多分外伝に登場したキャラの中でも最強クラスの実力者。ダイレンジャー本編では“ 天火星稲妻炎上破”は未使用だが、本編における設定がアレなんだから、使えてもおかしくはない……と、勝手にタハ乱暴が解釈した結果の、ご使用となった。

 

 

 

 

 

〜あとがき〜

 

割愛♪(も、申し訳ございません!)






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