注)この話はHeroes of Heartに登場するオリキャラ……闇舞北斗のストーリーであり、本編開始前の外伝的内容となっております。
……冷たい、刃のような風が頬を突き刺す。
『そんなはずがない』と、頭で理解していても、首筋を風が愛撫していく度に、ナイフを突きつけられているような錯覚を覚える。
気がつくと、すでに季節は冬だった。
あれほど心地よかった秋の風はどこへいったのか、今、俺の肌を這うようにして吹き抜けていく風は不快で、ひどく苦痛だった。
それでなくとも、この冷気である。
じっとしているだけで体力は著しく奪われ、冷静な判断力が失われていく。特に夜は最悪で、冬の夜は他の季節と比べて夜の訪れが早く、長いので、なおのこと厄介である。
そして、夜が長いということは、俺達のような稼業の人間にとっては、ある意味で危険で――しかし、ある意味では理想的なことだった。
――そう、俺達のような、闇を縄張りとし、人殺しを生業としている、暗殺者にとっては……
――1959年11月30日
以前、何かの本で読んだ記憶がある。
古来、この国は夜空に浮かぶ月を「つく」と読み、その語源は“憑く”からきているのだ、と……
その記述を初めて読んだ時、なるほど、理にかなっていると思った。
人間の肉体は月と密接に関係している。月が満ちてくれば俺達の体内活動は活発化するし、月が欠けてくれば俺達の肉体は、体内活動が鎮静化するばかりか、精神においても大きなダメージを被ってしまう。
文字通り、俺達人間は、あの夜空に浮かぶ銀色の巨大な球体に、“憑かれている”わけだ。
……今夜は、月齢29.2時の新月。
平時と比べれば格段に戦闘力は落ちており、出来ることならば、直接戦闘は避けたいところである。
――だが、月の影響を受けているのは、相手も一緒だ。
肉体に架せられる制約が同一ならば、決して勝機がないわけではない。
「はぁぁぁぁぁぁあああッ!」
強烈な踏み込みとともに放たれる正拳。
閃光の如く煌いたかと思った次の瞬間には、すでに拳は顔面に迫りつつあった。
反射的に後ろへと小さく跳び、相手のパンチの間合いから脱出する。
眼前で、空を切り裂く正拳。
「はぁッ!」
正拳が回避されることは予想範疇内のことだったのだろう。敵は攻撃を躱されるや、前に踏み込んだ左足を軸に、右回し蹴りを放ってきた。
パンチの間合いからは逃げたが、キックの間合いからは脱出しきれていなかったのだ。
(速い―――ッ!)
速度は充分すぎるほどあった。
着地したばかりの今の体勢では、防御も回避も難しいだろう。
……ならば――!
「回避が不可能なら、打ち落とす!」
俺は右手で拳をつくり、回し蹴りの軌道上へと向わせた。
一般に足の力は腕の3倍であるという。普通に考えてみて、俺の拳と、敵の右回し蹴りとでは、勝敗は言わずもがなである。
しかし、それも蹴りの支点である膝や腿、それから、急所で脛を打てば別だ。
俺は短く踏み込んで接近し、相手の回し蹴りが届くよりも早く、右の拳で大腿部を打った。
「―――くぅッ!」
苦悶の呻きを上げ、敵が慌てて足を引っ込める。
俺の追撃を恐れてか、摺り足で素早く後ろに下がり、距離をとろうとする。
だが、今度は俺がそれを許さなかった。
相手が後ろに一歩退くよりも早く、回し蹴りを打ち落とした右拳の軌道を無理矢理変え、鳩尾へと炸裂させる。
「……ッ!」
速度もなく、体重も乗っていない、貧弱な一撃……
だが、急所に命中したがゆえにその貧弱な一撃は、それなりの威力を発揮した。
ほんの一瞬、相手の動きが停止する。
俺はその隙を狙って、一歩踏み込んだ。
体重を乗せることは考えず、ただ速く…より多く……両の腕をフルに動かして、ラッシュを叩き込む。
未熟な俺の腕では、『双拳の密なること雨の如く、脆快なること一掛鞭の如し』……とはいかない。
しかし、それでも相手の動きを牽制することには成功していた。
なんとか間合いをとろうとする敵の動きを読み、出鼻を挫く。
何度か反撃を試みて、ラッシュの間隙を縫って攻撃をしかけてきたが、俺はそのすべてを躱し、捌いていった。
やがて敵は、諦めたように動くのをやめた。防戦一方の状況が続く。
しかし、何発パンチを受けても、相手は倒れなかった。
敵はボクシングでいうところのブロッキングや、バリーを駆使して、終始ディフェンスに専念することで、ダメージを最小限に抑えていたのだ。
――どれほど殴り続けただろう?
――何発、拳を繰り出しただろう?
徐々に、腕が痺れてきた。
傍目にも明らかに拳速が落ち、両腕の筋肉がインターバルを求めて、悲鳴を上げる。やはり新月の影響だろうか。いつもよりスタミナが続かない。
(頃合いか……)
これ以上ラッシュを続けても、無駄な体力を消耗するだけで、決定打を与えることは難しい。
俺はそう判断するや、最後に牽制のジャブを放って、間合いをとろうとした。
……ところが――
「りゃぁぁぁぁぁぁあああッ!!」
裂帛の気合とともに、一直線に放たれるレフト・ストレート。
どうやら、俺の考えていた以上に拳速は落ちていたようで、牽制のために放ったジャブよりも速く、相手の正拳が俺の体に炸裂した。
「ぬぅ……ッ!」
胸筋をしたたかに打たれ、思わず苦悶の叫びが唇から洩れる。
反射的に受けた衝撃を逃がそうとして、向けられた力に逆らわず、体が一瞬、宙に浮く。
それは本当に一瞬の出来事だった。
しかし、ひたすらディフェンスに専念し、体力を温存していた敵にとっては、充分すぎる時間だった。
―――短く、最小限の距離でありながら、最大限の威力を伴なった踏み込みの刹那、高速で放たれる正拳……
それは何の捻りもないライト・ストレートだったが、それゆえに当たった時のダメージが強烈であろうことは想像にかたくなかった。
俺は咄嗟に左手を伸ばした。
そして、大きく円を描くようにして回転させた。
「!?」
――それは小さな渦にすぎなかった。
しかし、その小さな渦は相手の拳を巻き込み、その威力を無へ帰す渦潮でもあった。
左手の回転に巻き込まれ、威力を失って弾き飛ばされる相手の拳。
攻撃を受け流されたことにより、相手が大きくバランスを崩す。
その隙を縫って、俺は左足を高く突き出し、相手の腹部へとハイキックを極めた。
無論、着地したばかり、構えも何もない体勢からの蹴りである。威力はほとんどなく、当然の如く、俺の蹴りは奴の強靭な腹筋の鎧に阻まれてしまう。
だが、それでも多少のダメージは受けてくれたようで、相手はこれ以上の反撃を恐れて、大きく1歩、2歩と、摺り足で後退した。
すかさず、俺も体勢を整えるべく距離をとる。
俺と奴との距離は、2メートルほどまで開いた。
俺も奴も、互いに一足刀の間合い。迂闊に動くことの出来ない、膠着状態に陥る。
「一思いにラクになればいいものを……」
「……うるせぇ」
一分の隙も見せられない睨み合いが続く中、呼吸を整えながら、軽口を言い合う。
お互い、なんだかんだでまだ余裕があるようだ。
そしてその余裕は、もう少し睨み合いが続けばさらに活力に富んだものとなるだろう。
時間とともにゆっくりと体力が回復し、消耗していくのを感じながら、俺は次なる攻撃に備え、相手の警戒心を刺激しない程度に身を低くする。
――と、その時だった。
「ふぇ〜〜〜」
唐突に、そんな気の抜けた声が、耳膜を打つ。
ハイスピードで目まぐるしく移り変わる戦況についていけなくなったギャラリーの少女が、感嘆の声を上げたのだ。
……その、戦意を削いでくれるような声に毒気を抜かれたのか、目の前の敵……小島獅狼は、チラリと口元に笑みを浮かべ、一瞬だけ視線をそちらに向けた。
―――そこに、一分の隙が生じる!
俺は、小島が視線を逸らしたその一瞬に賭け、疾走した。
時間よりも速く――
より遠い敵を狙って――
俺の体得する、最大の踏み込みを持って、拳を繰り出す!
――吼破・水月!!!
中国拳法の秘儀・『箭疾歩』を応用した一撃は、相手の距離感や時間感覚を狂わせ、防御する機会すら、与えない。
俺の修得する2つの吼破……そのうちの1つが、小島の胸に炸裂する!
「…………ッ!?」
胸筋に力を入れる暇すら与えられず、小島の体は衝撃で吹っ飛び……
「がぅッ―――!!!」
……背中から、床へと激突した。
Heroes of Heart外伝
〜漆黒の破壊王〜
―――奪われた誇り―――
第九話「救い亡き原罪・前」
人間は意識集中を極限まで高めると、通常の何倍も時間を長く感じることがある。
プロボクサーが1ラウンド(三分間)を何時間にも感じたり、コンバットシューティングで狙撃手が銃弾が命中するまでの一秒にも満たない時間を何分にも感じたりするのが、それだ。
……その時、小島獅狼の身に起きた現象は、まさにそれだった。
まるでスローモーションの映画を見ているかのような錯覚に陥り、刹那的な早さの一瞬を、何秒にも感じる。
彼は今、重力をその身に感じていた。
いつの間にか受けてしまった敵の攻撃によって吹き飛ばされ、万有の法則に従って落下していたのだ。
本来なら一瞬で済むはずの落下を、何秒にも感じるのは、ある意味拷問に近い。
感覚として次に襲ってくる痛みが分かるから、なんとかして受け身をとろうとするのだが、実際には落下は一瞬のことなので、それは徒労に終わってしまうのだ。
「がぅッ―――!!」
……床が畳だったため、それほどの衝撃はなかった。しかし、ダメージがないわけではない。
獅狼は、背中と胸からじんわりと広がる鈍痛を堪えながら、転倒した体を必死に起こそうとした。
「ぐっ……!」
しかし、獅狼がどんなに力を入れても、体は動かなかった。
背骨でも打ったのか、全身が痺れて思うように体が動かない。まるで自分の体ではないような錯覚すら覚える。
そうしている間にも、視界の片隅では自分に一撃を加えた相手が、ゆっくりと近付いてくるのが見えた。
まるで地獄から襲来してきた悪鬼の如き殺気を放ちながら、件の男は追撃の一撃を繰り出すべく、軽く拳を作っている。
獅狼は、その悪鬼のごとき男の襲来から逃れるべく身をよじった。
(動ける……!)
まだ起き上がれるほどには回復していなかったが、足を上げるぐらいのことは出来た。
「フッ…!」
男が獅狼の蹴りの間合いに踏み込んだ刹那、獅狼は背筋を躍動させ、足を閃かせた。――と同時に、男も追撃の拳を繰り出す。
……一瞬のうちに三条の閃光が煌いて、うち二条が激突した。
「……」
「……」
互いに、一瞬の無言。
獅狼の眼前では、固く握られた男の拳が静止していた。
「……まいった」
やがて、最後の足掻きとばかりに繰り出した蹴りすらも一方の手で防がれ、獅狼は諦めたように言った。
その言葉を聞いて、男……闇舞北斗は、彫りの深い精悍な顔を歪めてニヤリと笑った。
――あの空前絶後の大戦争が終わって、この国の教育というものは、随分と変わった。
教育基本法が制定され、義務教育が6年から9年へと変わり、学校教育法が制定されて、高等小学校が中学校へ、中等学校が高等学校になった。
学校教育法が発布される以前――大学と、そこへ進学する者自体が少なかった時代――進学校というのは大層肩身の狭い思いをしてきたが、教育法が制定されてからは、陸軍士官学校などが消滅したこともあって、かなり地位を向上させた。
それは北斗達が通う進学校……私立如月学園如月高等学校も、例外ではない。
如月学園高等学校は進学校である。
しかし、この国がまだ神国であった時代――学問よりも肉体を錬磨し、国のために従軍することこそ愛国的行動であった時代――の名残か、部活動の数が妙に多い。
戦争が終結して十四年……今でこそ、その数を大分減らしてきたが、それらの部活動が使用してきた設備などはいまだ健在である。
燐道学園の校舎から少し離れた所に建てられた、木造建築の建物……道場塔。
かつては空手部、柔道部、剣道部など、5つもの格闘技系の部活が共同で使ってきたその場所は、今では空手部と剣道部しか使っておらず、2種類の部活だけが練習をするには、かなり寂しげな印象を与えている。
また、進学校であるがゆえに、教師も生徒も部活動に関してそれほど積極的ではなく、冬は夜が早いこともあって、両部活ともに人影はまばらであった。
そんな道場の一画――畳にテープを貼ることで簡単に仕切っただけの練習場――に、彼らは居た。
「これで俺の176戦176勝だな」
「……」
「去年の戦績も含めて288戦288勝か。俺達も長いことよくやる」
「……」
「しかし、今回は危なかった。一瞬の判断を誤まっていたら、間違いなく負けていたのは俺だった」
「……」
「さて……」
「……」
「何故、黙っている? そして何故、そんなふてくされた顔をしている?」
「……納得いかねぇ」
試合を終えてしばらく休んで、開口一番に小島が口にしたのはそれだった。
まるで子供のような応答をしてくる小島の態度に、若干米神を引くつかせながらも俺は「そうか……」と、気のない返事をする。
すると、小島はますますふてくされて、「うるせぇ…」と、呟いた。
……ここは無闇やたらに刺激するものではないと判断しての言葉だったが、どうやらアテが外れてしまったらしい。俺はまだ、小島獅狼という人間のことをよく理解していないようだ。
「ヤンミ、そういうのはワンちゃんにとっては逆効果だよ…」
俺よりも小島との付き合いでは15年と+αの長がある夕凪が、苦笑しながらツッコミを入れてくる。……否、アドバイスか。
暗に、『妙なところで子供っぽい』と、小島の性格を言い表し、俺に、それを元にして『的確な言葉をかけてやれ』と、指示しているのだ。
さすが幼馴染――というか恋人だけあって、小島の性格をよく理解している。
しかし、残念ながら人付き合いの苦手な俺にとって、その発言はツッコミ以上のそれにはならない。
「……ならば先人の知恵にあやかるとするか」
「どうするの?」
「ユーモアで笑わせ、場の空気を和ませる」
「…………はい?」
「実は俺の友人が眼病でな、それで真珠という高い薬を……」
「……『文違い』の落語なんて、今時の若い人は誰も知らないと思うけど」
「…………知っているじゃないか、俺と、お前が」
――あとこれを書いているあの愚か者も。
「……十代の会話じゃねぇぞ、2人とも」
――と、それまでふてくされて会話に参加していなかった小島が、突然口を開いた。
顔に被せたタオルを取り払い、薄っすらと汗ばんだ顔を外気に晒す。その表情は、どこか恥かしがっているようで、どういうわけか、妙に赤らんでいた。
「……ふむ、落語が駄目ならアメリカンジョークでいくか」
「アメリカンジョークってお前……」
「ヘイ・ジョニー、今日はいい天気だな」
「あ―――ヤンミ、それ以上は言わなくていいよ」
ロバートの相方……ジョニーの台詞を言おうとしたところで、夕凪に止められてしまう。
残念だ。まだ冒頭しか話していないというのに。
「真面目な顔で、しかも笑わせるという意図がまったく感じられない声でやられても、面白くも何ともないっての」
ようやく苦笑を浮かべた小島の第一声はそれだった。
なんだか小憎たらしかったので、俺は横になっている小島の目に向けて、フィンガージャブを放つ。無論、寸止めだ。
「……そう、それだ」
眼前で静止している俺の指を指差して、小島がふっと真顔になる。
意味が分からず、思わず夕凪と2人と揃って聞き返すと、小島は、
「俺がふてくされていた原因。闇舞……お前が、いつも空手以外の技で勝ちやがるからだ」
――昨年の6月頃からだったろうか? 俺と小島が、この練習試合をするようになったのは……
1年生の時点で、すでに小島は如月学園の空手部レギュラーに選出されるほどの実力を持っていた。
顧問の教師や先輩の部員――そしてなにより、当の本人すら気付いていないようだったが、あの時点ですでに全国大会選手と、互角に戦えていたであろう。
(当時の)高校生としては恵まれた体格と、長年の修練の中で培ってきた技術は驚異的な打撃力を生み出し、防御のスペシャリストであるレスラーさえも圧倒する。理想的とすら形容できる筋肉と脂肪のバランスは、短期戦、長期戦のどちらにも対応し、相手の戦闘タイプを問わずして戦うことが出来る。
そんな小島の相手ができるのは、進学校である如月の空手部には皆無で――月日が経つにつれ、小島の実力がはっきりとしてくると、彼は不完全燃焼で終えることが多かった。
そんな時、小島はよく俺に「他流でもいいから試合をしてくれ」と、頼んできた。
その理由は簡単で、俺が唯一、如月の生徒で自分と対等――否、それ以上に戦える相手だったからだ。他にも、如月にある格闘技系部活が、剣道と柔道しかなく、空手と組み手をするには、あまりにも勝手が違いすぎたから、という理由もある。
なんにしろ、きっかけは本当に些細なことだったが、結果的にこの試合は形式化して、今では1週間に4回のペースで、俺達はやり合っている。
原則として組み技、寝技の使用は禁止。制限時間はなく、防具もなし。勿論、武器の使用など論外だが、それ以外に特に取り決めはなく、使用する技やスタイルも、どのような武術であるかは問われない。
「そうは言うが、最初に俺の戦闘スタイルを問わないと言ったのはお前だぞ?」
「頭では分かってるんだけどよ、やっぱ、な……」
空手こそ最強の武術――とまではいかずとも、それに匹敵するほどに空手信奉者な小島である。
空手以外の攻撃によって敗北したという事実が、試合の勝敗以上に悔しいのだろう。
「そりゃ俺だって空手が最強の格闘術だ……なんて思っちゃいないけどよ、こう何度もやられるとさすがに凹む。……それに、他の部員とやれば絶対にヒットする攻撃が、お前にはほとんどまともに当たらないっていうのも、な」
「…空手などの拳法はモーションが大きいからな。その分、一撃の威力は凄まじいものがあるんだが」
どんなに体の小さな人間でも、空手の突きのように、全体重を載せて攻撃すれば絶大な威力を発揮する。
問題は、それが当たるかどうかなのだ。
「それに、空手は基本通りにやると、攻撃が必然テレフォンになってしまうし……」
「テレフォン?」
「呼べば応えるという意味。例えば、ある動作をした後は必ずこの攻撃が出るとか、この攻撃の次は絶対にあの攻撃が出るとか……」
空手の基本で代表的なテレフォン攻撃といえば、“突き”である。
空手の“突き”は、強烈な打撃力を生み出すために、一度腰溜めにしてから腕を突き出す。これでは、電話のベルのように、相手に次の攻撃を教えているようなものだ。
「もっとも、小島レベルの格闘家ともなれば、必然的にテレフォン攻撃も少なくなってくるんだかな」
それに、小島の実力を考えれば、仮にテレフォン攻撃を放ったとしても、それを見切り、好機と出来る人間はかなり限られてくる。
それに、基本に忠実であることが必ずしも悪いわけではない。基本がなければ、応用も発展もありえないし、世の中には基本の技だけで天下に名を馳せた達人も大勢いる。
「あれ? だったらなんでヤンミにはワンちゃんの攻撃が効かないの?」
「だから言っただろう? 空手などの拳法はモーションが大きいから、と」
「なるほど…」
「それに、俺には小島がどう攻撃してくるかが、視界で捉えていなくても大体分かるからな」
「……どういうことだよ、ソレ?」
「攻撃の気配……とでも言おうか。目のみならず、全身の知覚神経をフルに使ってそれを察知するんだ。相手の力の配分、攻撃法、攻撃の速度、フェイントであるか否か……そういったすべてを感知、判断し、最善の防御をとる。全身全霊をもってして、相手の隙間に入り込む」
「な、なんか凄いね……」
「中国拳法などでは聴剄と呼ばれている。……ある達人などは聴剄を用いて、飛来する銃弾を日本刀で切って捨てた、という話だ」
「銃弾の速さ!?」
「ふぇ〜〜、凄いね」
俺の言葉に、しきりに頷いて感心する2人。
西洋の刀剣と比べれば軽量とはいえ、日本刀の重さと、銃弾の飛来するスピード、そして人間の反射から反応までの時間を考えれば、そのような芸当は到底不可能な話だ。なによりまず、銃弾に日本刀が触れない。
しかし、それも聴剄を極めれば可能だという。
2人の驚愕の程度は、凄まじいものであるに違いない。
「ところで、銃弾ってどれぐらいの速さで飛んでるの?」
「それを知らずに感心していたのか!?」
――ある意味、そこが最も重要なポイントではないだろうか?
そう思って、ふっと頭を振る。
2人は一般人である。銃弾の進む速度など知らなくて、むしろ当然なのだ。
「拳銃は米軍で使われているコルト・ガバメントの45ACP弾の初速が秒速253メートル。ライフルでは、同じく米軍制式のガランドM1カービンの30カービン弾の初速が秒速593メートルだ」
ちなみに、俺のブローニング・ハイパワーに装填されている9mmルガー弾の初速は、ガバメントと同じ秒速253メートルだ。本来なら秒速345メートルは出る性能の弾丸なのだが、ブローニングで使っているため、ここまで性能が落ちてしまっている。
「じゅ、銃弾って意外と速いんだね」
「黒色火薬に代わって無煙火薬が開発されたからな。最初の頃は欠陥だらけだったが、改良を加えられてかなり強力になった」
「闇舞って、妙なことに詳しいよな」
「…………ほっとけ」
さすがに自分がそうした武器を使っているなどとは、冗談でも言えない。
これ以上この話題を引きずっていると、ボロが出る可能性があったので、俺は話題を元に戻すことにした。
「……ところで、さっき小島が言っていた、“空手以外の技”というのは?」
唐突な話題転換に着いてこられず、小島が曖昧な返事を返してくる。
「あ、ああ…………まず、お前の吼破」
おそらく、『吼破・水月』のことを言っているのであろう。
俺がこの拳に秘めた、2つの吼破―――そのうちの、最もよく使う方だ。
「なんかおかしいんだよな〜。アレ使われると、なんでか体が思うように動かねぇんだよ」
「……あまり秘密を暴露するのは気が進まないが……」
――これからも戦うであろう相手に対して、自分の技の正体について説明する俺を、武術の先人達が見たら何と言うだろうか。
俺が『吼破・水月』に応用している特殊な踏み込み……箭疾歩は、相手の時間感覚や距離感を狂わせ、かつ、一気に相手との間合いを詰めてしまうほどの勢いと速度を持った必殺の踏み込みだ。おそらく、小島の言う『思うように体が動かない現象』は、この箭疾歩によるものだろう。
狂わされた感覚と正常な感覚との微妙な誤差が、その現象を招いてしまったのである。
「あとあのラッシュもだな。あんな連続拳撃、空手にはないぞ」
あのラッシュは、中国拳法・翻子拳の見様見真似である。
『双拳の密なること雨の如く、脆快なること一掛鞭の如し』とすら形容される翻子拳の機関銃の如きラッシュは、実戦ではここぞという時に意外と有効なのだ。
もっとも、所詮俺のは見様見真似なので、本物の翻子拳士に比べれば随分と程度は落ちるだろうが。
「はぁ〜……その見様見真似に俺は追い詰められたのか。自信なくすぜ、ホント」
半分本気、半分冗談といった表情で、小島が肩を竦める。
「その見様見真似を完璧に防ぎ、あまつさえ俺のスタミナ切れを狙ってカウンターを食らわせた男の台詞とは思えんな」
「そのカウンターの後に、俺はまた逆襲されたんだ。……と、そういやあの時使ってたのは?」
――右拳の威力を無効化させた、あの手の回転のことを言っているのだろうか?
「特にこれといった名前はない。強いて言うなら“化剄”の一種と、形容すべきか……」
「化剄?」
「敵の攻撃を受け流すことで無力化し、相手のバランスを崩して体勢を不安定にしてしまう技術のことだ」
「な、なんか凄そうだね…」
「凄そう、じゃなく、凄い。ただ、それを理論通りに使いこなせる人間は圧倒的に少ない。今回俺が成功したのも、まぐれみたいなもんだ。この次もう一度やれと言われても無理な話だよ」
それに、世の中には化剄より簡単で、より有用性の高いディフェンスはたくさんある。なにも化剄にこだわる必要はない。
ベストなのは、そうしたディフェンスを使わねばならない状況に身を置かないことだが……まぁ、俺も小島も、その方が無理な話である。
「ま、どっちにしろ闇舞は強いってことだな」
「どこをどうしたそんな結論にいたるのか分からんが、そんなことはないぞ。俺なんてまだまだだ。それに、小島だって充分強い」
「お世辞はいいって」
「いや、本当の話だ」
自分ではどう思っているか知らないが、小島は強い
俺は普段、徒手空拳で誰かと戦う場合は、力を60%ほどにまでセーブしている。100%の実力を知られて、対抗策を講じられたくはないからだ。
しかし、小島と戦う時だけは、必然的に80%以上の力を使うことを強いられてしまう。
小島獅狼という男は、それほどの強者なのだ。
「パワー、スピード、スタミナ…すべてが理想的なバランスで完成されつつある。若干テクニックは足りないが、それも日々の修練と場数をこなしていけば、すぐに追いつくだろう」
問題は、その場数をこなすために必要な相手が、決定的に不足しているということだが。
「そうだよ、ワンちゃんは強いよ」
にこにこと笑顔を浮かべながら、夕凪が俺の意見に賛同する。
「わたしは素人だから専門的なことは分からないけど、ワンちゃんは毎日練習頑張ってるもん。そのワンちゃんが、弱いはずないよ」
人間の体は複雑に見えて、意外と単純にできている。
毎日の修練を怠らない小島が強いのは、むしろ必然のことなのだ。
「春香……」
さすがに面と向って言われるのは照れるのか、小島は夕凪の視線から顔を反らす。
必然的に俺と目線が合い、小島はばつの悪そうな表情を浮かべた。
「照れるな、色男」
「照れてなんかねぇよ!」
そう言って否定する小島の表情は真っ赤である。説得力は皆無に等しい。
「それに、その返答は今更というものだぞ」
「? どいう意味だよ」
「言葉通りの意味だ。さっきからずっと照れくさそうに顔を赤くしておいて、今更よくそんな言葉が言えるな」
「な…………!」
「――まぁ、それもそのような状況では仕方ないか」
先ほどから小島が顔を赤面させていた原因……それは、今の小島と夕凪の態勢にある。
俺との練習試合においてダメージが大きかった小島は、それからもしばらく起き上がれず、夕凪に膝枕してもらっていたのだ。
若い小島の回復力を省みるに、すでに体は普通に動いてもなんら差し支えはないと思われるが――まぁ、そのあたりは恋人同士の都合というやつだろう。
「あれ? もしかしてワンちゃん、わたしに膝枕してもらって恥ずかしかったの?」
「う……そ、それはその…………」
いくら人影がまばらであるとはいえ、道場にはまだ空手部だけ10名近い部員が居る。
2人きりの時ならばともかく、好奇の視線に晒されていては、大層居心地は悪かっただろう。
「ふふふ…そうなんだ〜。じゃあ、もっとこうしててあげる」
そう言って小島の額を強く両手で押し付ける夕凪。その表情は妙に楽しそうである。
……アレ、意外と首に負担がかかるから、地味に痛いんだが。
「あたたたたたたたた! は、春香、も、もういいから!!」
「もう、照れなくてもいいよ」
照れているのではなく、素で痛がっている小島。
なにやら別の意味で顔が赤くなってきた。
「あだだだだだだだだっ!!」
相当に気管支が圧迫されているのだろう。
次第に声が無視できないものになってきた。
「う…うぐ…ぐぐぐぅ……」
どうやら声も出せないほどに苦しくなってきたらしい。
次第に顔が黒くなってきた。
「……ってか、闇舞! 冷静に見てないで助けろよ!!」
「それもそうだな」
意外とまだまだ余裕のありそうな小島に言われ、俺は夕凪を諭した。
夕凪は何故か残念そうな表情で、小島の額から手をどける。
……保険金が狙いか?
「…はぁ…はぁ……し、死ぬかと思った」
地獄から解放された小島が、息を整えながら言う。
なにやら、俺と戦った時以上にダメージを受けているようだった。
なんというか…………死ぬ一歩手前?
「夕凪、いくらなんでもこれはやりすぎだぞ」
2人の友人として、また、命というものに直に触れている暗殺者として、俺は夕凪をたしなめた。
すると、夕凪はどういうわけか優しげな微笑を唇に浮かべた。頬がどことなく赤いのは、気のせいではないだろう。
「あ、いいのいいの。だって……」
「ん?」
先ほどとは打って変わって、優しい指遣いで夕凪は小島の額に触れる。
まるで幼子をあやすように額を撫で、頭を撫でながら、慈しみの笑みを浮かべる。
「もっとワンちゃんとこうしていられる口実ができたから」
「小島」
「……なんだよ?」
「女は厄介だな」
「……だな」
少しでも長く、恋人とそうしていたいがために……
たったそれだけのために、彼女は当の恋人を瀕死寸前の状態にまで追い込んだわけだ。
「ふふふ、そうだよ〜。恋する乙女は厄介で我が侭なんだから」
「……間違いない」
「……違いねぇ」
予期せずして、俺と小島の言葉が重なった。
同じタイミングで、しかも揃って同じ内容の言葉を口にして、やはり俺達は同時に吹き出した。
部室で制服に着替えて外に出ると、そこには先に着替えを終えていた小島と、夕凪が待っていた。
「待たせたな」
「じゃ、行こっか」
夕凪の言葉に従って、俺と小島が夕凪を挟む形で歩き出す。
道場は学園の裏門付近に設けられているが、この時間、裏門はとうの昔に閉鎖されており、正門から出るにはグランドを少し歩かなくてはならない。
燐道学園のグランドには、特に大きな照明などは設置されておらず、俺達は星々の明りを頼りに歩を進めた。
「ふぅ……動いた、動いた」
「ふふふ、お疲れ様」
バキバキと肩を鳴らしながら歩く小島に、夕凪がねぎらいの言葉をかける。
――と、その直後、低く唸るようにして小島の腹の虫が鳴った。
「ん…さすがに少し腹が減ってきたな」
「あ、じゃあ何処か寄ってく?」
「お、いいな、ソレ」
「ヤンミはどうする?」
「俺はやぶさかではないが……夕凪は門限、大丈夫なのか?」
以前、夕凪本人から聞いたことだが、彼女の家の門限は『どんなに遅くとも7時半までには帰ってくるように』と、定められているらしい。仮にも夕凪総合病院の院長の一人娘なのだから、当然の配慮といえば当然の配慮である。
現時刻は6時47分。
学校から夕凪の家までは歩いて15分ほどの距離だから、寄り道できないこともないが、何処か店に入って食べていくには微妙な時間帯である。
「うん、大丈夫じゃないね」
「…………」
――朗らかな笑顔でいけしゃあしゃあとこの娘は……
「だから、何処か寄って、買って、歩きながら食べていくの」
「……なるほど、合理的だ」
最初からそのつもりだったのだろう。夕凪はどこか可笑しそうに笑った。
たしかに、それならば移動に時間がかかるだけなので、充分門限には間に合うだろう。
ただ、仮にも良いトコのお嬢様が食べ歩きをしながら帰る……というのは、シュールな光景ではあるが。
「んじゃ、決まりってことで。……で、何処に行く?」
「じゃあさ、マック行こうよ、マック」
夕凪がそう言った直後、場の空気が凍りついた。
「あれ? どうしたの、2人とも?」
一体何が起こったのか、まるで要領を掴んでいない夕凪をよそに、俺達はひそひそと耳打ちする。
「……闇舞、この時代(1959年)にマクドナルドって日本にあったけ?」
「分からん。とにかく、ここは雑学大王のあの男に聞いてみよう」
「あの男?」
俺は心の奥底で、件の男との交信を試みた。
(おい、タハ乱暴!)
(ん? なんじゃい?)
(質問がある。1959年現在、マクドナルドは日本にあるのか?)
(うんにゃ、ないぞ。マクドナルドが日本に初めて第1号支店を持ったのは1971年のことだ)
(そ、そうか、ありがとう)
(ちなみに創業は1940年のことで、設立者マクドナルド兄弟は―――って、おい、聞いていけよ!)
俺は聞くことだけ聞いて、奴とのコンタクトを断ち切った。
「ないぞ」
「そ、そうか」
「だから、2人ともさっきから何話してるのよ〜?」
少しの間とはいえ、相手にしてもらえなかったことから、まるで子供のように頬を膨らませる夕凪。
俺は先刻確認したばかりの事実を夕凪に伝えるべく口を開いた。
「夕凪、マクドナルドはやめておこう」
「え〜〜〜、なんで?」
「……聞くな。世の中にはいくら頑張ったところで、どうしようもないことがたくさんあるんだ」
いくら俺達でも、さすがに時間法則を無視するわけにはいかない。
あからさまに不満そうな夕凪を宥めつつ、俺は小島に聞いてみた。
「小島、お前は何処か寄りたい所はないか? 生憎、俺はその手の場所をあまり知らない」
自分を含めて、食べ盛りの子供2人を抱えている暗殺者には、そのような外食をする余裕などとてもではないがありはしない。
昔から『3人寄らば文殊の知恵』というが、うち1人が完全に無知ではどうしようもないだろう。
「ん……知ってるには知ってるけど、ここからはちょっと遠いな」
「そうか。…じゃあ、無難にその辺りの屋台にでも寄って行くか?」
「うん、そうだね」
――最終的に、俺達は夕凪の提案で、彼女が知っているという屋台に行くこととなった。なんでも、クレープというヨーロッパの菓子を売っている店らしい。夕凪に場所を訊いてみると、学校からそう遠い距離ではなかった。
話し合いながらもしっかりと足を動かしていた俺達は、間もなく正門に差しかかろうとしていた。
―――と、その時、まるで俺達の進路上を立ち塞がるかのようにして、校門の陰から何かが飛び出してきた。
猫ではない。
猫にしては大きすぎるそれは、どうやら人間のようだった。
「――ッ!」
暗殺者としての条件反射か、気が付いた時には、俺は制服の内側に隠されたショルダーホルスターに手を伸ばし、やや膝を曲げて姿勢を低く保っていた。
しかし、次の瞬間には、俺はその必要がないことを悟った。
なぜなら、飛び出してきた相手は、俺の知り合いだったからだ。
「こんばんは、北斗先輩」
飛び出してきた彼女……柏木初穂は、やや幼さの残る顔に、品のある笑みを浮かべながら言った。
後輩からの突然の挨拶に、俺は先ほどまでブローニングのグリップを握っていた左手を軽く挙げて応じる。
結果的に生返事のようになってしまったが、彼女は嫌な顔ひとつせずに、俺の前へと歩み寄った。
些細なことを気にしない彼女の態度に、少なからず好感を抱く。
「先輩は今帰りですか?」
「ああ、そうだ。……もしかして、待っていてくれたのか?」
「はい。あ、気にしないでくださいね。私が好きで待っていただけですから」
屈託のない彼女の笑みに、逆に申し訳ない気持ちが湧いてくる。
――と、なにやら袖を引っ張られているのに気が付いた。
見ると、制服の袖をつまんだ夕凪が、視線で「この娘、誰?」と、問うている。小島の方も見てみたが、同じような顔をしていた。
「――そういえば、まだ2人とは初対面だったな」
「はい。お噂はよく聞きますけど、実際に会うのはこれが初めてです。……はじめまして。私は先輩達の後輩で、柏木初穂と申します」
「あ、はじめまして。夕凪春香です」
「は、はじめまして。闇舞のクラスメイトの小島獅狼です」
相手は年下だというのに、やや緊張した面持ちの2人。
珍しいことだが、無理もない、と思う。
よく聞いてみると分かるが、初穂の日本語は、俺達が使っているものと少し発音が異なっている。『柏木初穂』と、名乗ってはいるが、彼女は正真正銘の中国人なのだ。
初穂はそんな2人ににっこりと笑いかけ、右手を差し出した。差し出された右手を、交互に握る2人。その表情はまだ硬い。
自分では親しみのとれる態度だと思っていたのだろう。実際のところそうなのだが、いまだ緊張の解れぬ2人を見て、彼女は少し寂しそうな表情を浮かべた。
俺は助け舟を出すことにした。
「初対面ということで緊張するのも分かるが、あまり露骨なのもどうか思うぞ。初穂に対して失礼だ」
「北斗先輩……」
俺の言葉が意外だったのだろうか、小島や夕凪だけでなく、初穂までもが目を見開く。
「えぇと、どこから突っ込んだらいいのか判らないけど……ヤンミって、柏木さんのこと、名前で呼んでるんだね?」
「……おかしかったか?」
「ううん、そうじゃないんだけど……」
俺の質問に、なぜか口篭もる夕凪。
他人を名前で呼ぶことの、どこがおかしいというのだろうか?
それとも、女性……というのがいけなかったのだろうか? しかし、それだと留美も名前で呼んでいるわけだし……
しばし思索に耽っていると、いつの間にか、夕凪が初穂を連行していた。
「柏木さん、ちょっといいかな?」
「え? あの、ゆ、夕凪先輩!?」
有無を言わさず校門の陰へと姿を消す少女2人。
それを茫然と見送る男2人。
「……なぁ、小島」
「……なんだよ?」
「あれは新手の恐喝か?」
「…………さぁ?」
校門の陰では、なにやら2人が話し合っているようだった。
風が運んでくる2人の声に、しばし耳を傾ける。
「単刀直入………るけど…柏木…………ンミ……なの?」
「ヤ…ミって……斗…輩の……です…?」
「う……そう。……………うか、柏………も…ンミ…こと…名前…呼ぶ……ね」
「はい。…応、許可……ま…た。そうです…………と北……輩は、……る知り合い………たところ………う…?」
「……だけ?」
「…い」
「…当…それ……?」
「はい、そう……よ」
「…れ以上…関係………たい………たこと……い?」
「そ、そ…以上と………す……」
「例……恋…とか……」
校門の壁を1枚挟んでいるせいだろう。
聞こえてくる言葉は途切れ途切れで、まるで要領をえなかった。
しかし、語調から次第に会話がヒートアップしているのだけは判った。
「小島、これは止めるべきだと思うか?」
「う〜ん、春香が後輩を虐めるとは思えねぇけど……一応、様子だけ見ておくか」
俺達は顔を見合わせて頷くと、校門の陰を覗いた。
初穂は……とりあえず無事だった。どういうわけか顔を真っ赤にして、俺を見るなりあたふたと慌てていたが、とりあえず無事だった。
そして、夕凪は……
「ヤンミ、あんた良い娘捕まえたねぇ」
「? どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だよ。ヤンミ、絶対に柏木さんを手放しちゃ駄目だよ!」
「……言葉の意味がよく判らないんだが、初穂は俺の所有物ではないぞ?」
まるで要領をえない言葉を発する夕凪に、当たり前のことを述べてたしなめる。
すると、どこからか俺の耳膜を小さく震わせる声が聞こえてきた。
「私としては、北斗先輩の所有物でもまったく構わないんですけど……」
「ん? 初穂、何か言ったか?」
「いえ、なんでもありません!」
未だ顔を赤くしたままの状態で、初穂が両手を振って必死に否定する。
――空耳だったのだろうか?
たしかに今、初穂がぶつくさ何かを言っていたような気がしたんだが……
「鈍感……」
「ん? 夕凪、何か言ったか?」
「ううん、なんでもないよ」
またしても空耳…………一度、医者に行って診てもらうべきだろうか?
仕事の関係上、健康保険は入っていないため、医者に行くのは手痛い出費ではある。――が、このまま幻聴が酷くなって、仕事が出来なくなるよりは断然マシだ。――とすると、診てもらうべきは脳だろうか? それとも、耳だろうか?
真剣に悩んでいると、それまで蚊帳の外にいた小島が初穂に言った。
「――ところで、柏木さんはどうしてここに?」
小島の言った初穂への問いに、俺は思考を中断し、答えに耳を傾ける。
小島の質問は、俺も聞きたいことだった。
一体何の目的があって、彼女は校門の陰などで、何時来るかも判らない俺達を待ち伏せしていたのだろうか……?
見ると、初穂は両の頬に軽く指を添えて、照れたような仕草をしていた。
どういうわけか、視線はしきりに俺を気にしている。
「……どうしても、言わなくちゃいけませんか?」
「嫌だったら話さなくてもいいよ。話して、不都合がなかったらでいい」
有無を言わさず、という様子だった夕凪と違って、小島はえらく紳士的な態度で訊ねた。
初穂に対する小島の話し方は、正しいと言えた。単に物を聞き出すだけなら、もう少し押しの強い聞き方の方が効果的だったろう。しかし、情報を聞き出すと同時に、相手からの信頼を得ようとするならば、こうした控えめな聞き方の方が都合が良い。
とはいえ、小島本人にそれを聞かせたら、彼は必ず否定するだろう。打算などではない。彼にとって、そうした対応はむしろ自然な反応なのだ。
案の定、初穂は初対面の小島に、もう気を許そうとしていた。
恥ずかしがりながらも、彼女はおずおずと口を開いた。
「えっと、実はですね……その……ここで待ってたら、北斗先輩と一緒に帰れるかな〜なんて……」
初穂の言葉に、質問した小島のみならず、俺まで驚愕した。
「――そ、そのために、ここでずっと待ってたのか?」
「はい」
「それってどれぐらいの時間?」
「ざっと3時間ぐらいでしょうか?」
初穂の返答に、小島の表情が引き攣った。
そして何故か俺の方を向き、両肩に手を乗せて、諭すような口調で言う。
「闇舞、春香の言う通りだ。絶対に柏木さんを手放すな!」
「いや、だからお前達は何を言っているんだ?」
とうとう夕凪だけでなく、その恋人までわけの分からないことを言い出した。
「ヤンミ、本当に分からないの!?」
「この寒空の下、お前と一緒に帰りたいが一心で3時間も待ってたんだぞ!?」
夕凪と小島の責めに、俺の困惑はますます深まるばかりだった。
ふと、助けを求めようと初穂に視線を泳がしてみると、彼女はまるで捨て犬のような雰囲気を纏っていた。やや潤みを帯びた瞳から放たれる視線が、「迷惑でしたか?」と、語っている。
――と、その視線の意味を悟って、俺の頭の中で、一本の線が繋がった。
『そうだったのか……』と、愕然すると同時に、『なるほど』と、納得する。
鈍い俺でもようやく判った。
彼女の……初穂の言いたい事……そして、してもらいたい事……
それは――
「そうか……」
「ヤンミ!?」
「闇舞、お前……!?」
「ようやく判ったよ、初穂の言いたい事……」
俺は初穂に向き直った。
「すまなかったな、俺が鈍いばかりに3時間も待たせてしまって……迷惑をかけた」
「いいえ、北斗先輩。私はそんな事、気にしてませんから……」
初穂が期待の眼差しを向けてくる。
わかっている。わかっているとも!
俺は、自分でも最高と思える笑顔を浮かべた。
「学校の授業で分からないところがあったんだろ?」
「…………は?」
「教師よりも俺を頼ってくれるなんて……先輩冥利に尽きる、だな」
「……あの、北斗…先輩?」
「何でも聞いてくれ。これでも、人に物を教えることには自信がある」
「……………………」
「現国か? 古典か? それとも数学?」
「…………世界史について、教えてください」
「世界史か。任せろ。世界史のみならず日本史、公民、地理と……社会は得意分野だ!」
何故か、夕凪と小島が溜め息を吐いた。
結局、俺達は初穂も連れてクレープとやらを売っている屋台へと向った。
偶然にも、4人の帰路は途中まで一緒で、クレープの屋台はその道中にあったからだ。
――否、例えそうした条件が揃っていなくとも、4人は一緒に帰ることとなっていただろう。小島も、夕凪も、初穂を連れて行くことに関して、何故か積極的だった。
「このままじゃ柏木さんが報われないよ〜」
「柏木さんが、あまりにも可哀想すぎる」
とは、彼らの台詞である。
帰路の途中に、ワンボックスカーを改造したと思わしき屋台があった。
最初に夕凪がマロンクレープなるものを買い、次いで小島がそれと同じものを注文した。初穂はいちごクレープを頼んだ。俺は多数決をとって、マロンクレープを買った。
味は……正直、微妙だった。夕凪や小島は絶賛していたが、個人的にはもう少し薄味の方が好みである。少なくとも、酒のつまみには向いていない。
そのことを口にすると、初穂が苦笑いを浮かべながら、
「北斗先輩、何でもかんでもお酒を基準にして考えるのは、改めた方がいいですよ」
と、言った。
夕凪がクレープを半分ほどまで食べ終えると、そろそろ別れの時が近付いていた。
俺と初穂、小島と夕凪は、ここで別のルートを通らねばならないのだ。
「それじゃ、また明日」
「おう、それじゃな。闇舞、柏木さん」
「はい、先輩達も気をつけて帰ってください」
「あはは、こっちはワンちゃんがいるから大丈夫! それじゃね、ヤンミ、フォトちゃん」
手を振って別れを告げると、2人の後ろ姿は徐々に見えなくなっていった。
ちなみに、夕凪が言った『フォトちゃん』というのは、彼女が初穂につけたあだ名である。
曰く、
“柏木初穂→漢字4文字中、3文字が植物関係→植物が3つ→木が3つ→森→英語変換 forest →頭と末尾をとって『フォトちゃん』”
……とのことだ。
これを話された時の初穂の表情は、まさに筆舌に尽くしがたいものだった。とりあえず、『凄かった』とだけ明記しておこう。
完全に2人の姿が見えなくなって、俺達は踵を返し、本来の帰路へと就いた。
俺達は歩幅を合わせて並んで歩いたが、2人の間に会話はなかった。
やがて俺達は、それぞれ互いの自宅へと分かれる場所に着いた。俺が普段、夜間のトレーニングに使っている都民公園である。
「それじゃ」
「また明日……」とは、言わない。出来ることなら、明日はもう会いたくなかった。
――実際のところ、先ほど、彼女と話していただけで苦痛だったのだ。
これで明日、また会ってしまったら、俺は発狂してしまうかもしれない。
これ以上彼女と会話していたら、どうにかなってしまうかもしれない。
だからこそ、俺は有無を言わせず彼女に背を向けた。
だからこそ、俺は会話を繋げさせないように、彼女に素っ気無い言葉で別れを告げた。
「待ってください」
しかし、彼女は俺の拒絶の意志表示などまるで無視し、自ら会話を繋げようと切り出してきた。
俺も無視して足を動かすが、2度・3度と呼びとめられて、俺はとうとう根負けし、足の動きを止めた。しかし、あくまでも顔は振り向かない。
「どうした?」
背中越しの問いかけ。
顔は見えないはずなのに、俺には初穂が苦笑したのが分かった。
「北斗先輩は意地悪ですね。分かってて言ってるんでしょ? 私が、何を言いたいのか……」
「分からんな。だからちゃんと言葉にしてくれると、こちらとしては助かる」
嘘だった。
仮に言葉にしなかったとしても、彼女の言いたいことは十分に理解している。
今の返答は、本題を遅らせるための、時間稼ぎにすぎない。
そして、その言葉で稼げた時間は、僅かなものだった。
初穂はひとつ深呼吸をし、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「先日の件……答えは決まりました?」
まるで歌うように紡がれた直後、場の空気が変わった。
質量すら伴なった、圧倒的な殺気がその場に充満し、冷たく、澄んだ冬の空気が、夏のむわっとするような唸りを発して、周囲の環境を一変させる。
殺気の出所は…………俺だ。
「先日からまったく状況は変わっていない。……まだ、考えている最中だ」
言葉と同時に、平静を装って彼女を振り返る。
――周囲の環境と一緒に、彼女の表情も変貌を遂げていた。一見すると何も変わっていないように見えるが、明らかに別人の顔だ。
そしておそらく、振り返った俺自身もまた、小島や夕凪には決して見せることのない……見せることの出来ない表情を浮かべているに違いなかった。
俺は裏社会で『killing child』と呼ばれる、冷酷な暗殺者としての表情を……
そして初穂は、秘密結社〈ショッカー〉のエージェントとしての表情を浮かべていた。
俺と柏木初穂が始めて出会ったのはつい最近……ほんの3日前のことである。
それまでにも、校内や街中ですれ違ったことぐらいあったかもしれないが、俺が彼女のことを意識したのはその日が始めてだったので、表現としては間違いではないだろう。
――あの日、俺はさる人物の依頼で、お忍びで来日していたある人物の暗殺を行ったばかりだった。
標的は中国の秘密結社『葉新会』の幹部……高山好。70代半ばの初老の男で、若かりし頃は秘密結社『天地会』のメンバーとして、辛亥革命にも積極的に参加した武闘派である。彼の所属する『葉新会』は、この『天地会』の流れを組んでいるといわれている。
今から300年ほど昔、北方の満州民族が、漢民族による王朝……“明”を討ち、“清王朝”を建てた。
誇り高き漢民族は、異民族による支配を嫌い、この時期、『反清復明(清を討ち、再び明を興そう、という意味)』を掲げるいくつもの秘密結社を設立した。『天地会』は、そうしてできた秘密結社の一つである。
やがて孫文が1911年に辛亥革命を起こし、“清王朝”は滅亡して、“中華民国”が成立した。
この革命運動を表から支えたのが孫文が組織した『中国同盟』ならば、陰から支えたのがそうした諸々の秘密結社であることは、言うまでもない。
革命の後、本来の目的を見失った秘密結社の会員達の多くは、反社会的犯罪集団へと流れていき、ある者は既存の組織に参加し、ある者はまったく新しい勢力を築き上げていった。
『葉新会』もまた、こうして出来た秘密結社の一つである。
この『葉新会』の、活動資金を確保するための、財政部門の総指揮者が、高山好なのだ。
彼は最近、特に東アジアにおける麻薬シンジケートの設立に力を注いでおり、今回の来日も、そのシンジケート確立のための下準備なのは、間違いなかった。
俺に仕事を依頼した人物は、『葉新会』の日本侵出を良しと思わぬ、とある『暴力団』の幹部だった。
曰く、秘密の来日であるために、高山好への警備態勢は脆弱で、さらに、傍目には子供にしか見えない自分ならば、ある程度接近しても油断してくれる可能性が高い……とのことである。
かくして、俺は高山好暗殺に乗り出すこととなった。
結果から述べれば、暗殺はなんとか成功した。在庫品のストックに丁度いい物件を探していたところを、射殺したのである。
すぐさま、俺の体を目掛けて銃弾がばら撒かれた。
おしのびの来日とはいえ、高山好は銃器で武装した4名の護衛を引き連れており、その4人が、一斉に牙を剥いてきたのだ。
相手はいずれもサブ・マシンガンで武装した、屈強な男達。対して、こちらの武器はブローニング・ハイパワー1挺。戦力差は歴然だった。
俺はある程度の応射をしつつ、逃げ出した。
……逃げて、逃げて、逃げまくった。
やがて市街地まで逃れたところで、撒いてやった。
いくら強力とはいえ、相手は所詮、中国人。地の利はこちらにあり、土地鑑を持っている身としては、市街地に入ってからの逃亡はむしろラクだった。
そのまましばらく市街地をぶらぶらと回って、追撃が止んだことを確認すると、俺は報酬を受け取りに、依頼人が指定した場所へと向った。戦後に倒産した紡績工場の、跡地である。
暗殺業というと、世間一般にはなにやら『儲かる仕事』という印象が強いようだが、実のところそうではない。
たしかに、仕事に成功すればそれなりの代価が返ってくるが、客は人殺しを依頼するような人間である。5回に1回金をとれれば良い方で、下手をすると報酬を受け取る段階になって、裏切られる可能性だってあるのだ。
その点、その日の依頼人は信用が置けた。俺が暴力団グループに在籍していた頃からの付き合いなので、自分達で言うのもなんだが、信頼関係は良好だった。
俺は約束の時間の10分前に、指定された場所に到着した。依頼人達はまだ来ていなかった。
10分待って、約束の時間になった。依頼人は来なかった。
どうしたのかと疑問に思いつつも、さらに15分待ってみた。やはり、依頼人はおろか人っ子一人、猫一匹現れなかった。
「おかしい……」
そう思った時には、すでに両足は動き出していた。
もしかしたら指定場所を間違えたのかもしれないと、淡い期待を抱きながら周囲を探索する。
しかし、本心ではすでに最悪のケースを想定していたのだろう。俺は無意識のうちにショルダーホルスターからブローニング・ハイパワーを抜き、撃鉄を起こしていた。
……ほどなくして、彼らは見つかった。
しかし、俺が発見した時には、すでに彼らは人ではなかった。
嗅ぎ慣れた臭いが、鼻腔をくすぐる。
「…………」
全部で4人。血溜まりの中、屈強な男達の死体があった。依頼人のヤクザ達だ。
よほどの即効でやられたのか、4人のうちで拳銃を抜けたのは、2人しかいない。しかも、その2人が握っている拳銃は、撃鉄が起きていなかった。死体にはまだ温もりがあり、死後20分と経っていない。つまり、俺が彼らを待っている最中に、惨殺されたらしい。
屈強な4人のヤクザを相手に、撃鉄を起こす余裕すら与えずに殺すことのできる存在とは、いかなる手練か、よほどの大軍か……そんなことを考えながら、何か手掛かりがないかと周囲を見回してみると、血塗れになったブリーフケースが視界に入った。
服が血で汚れないように注意しながら開けてみると、中身は札束がギッシリと詰まっていた。金額は俺に払われる予定だった報酬と、1円の違いなく合致している。
「……どういうことだ?」
俺は混乱していた。
俺は最初、今回の仕事の情報を得た何者かによる、俺に払われる予定だった報酬を狙った、物取りの犯行だと推測していた。
しかし、報酬には何ら手が加えられておらず、予定通り俺の手元に納まっている。
……これでは、何の目的でヤクザ達を殺害したのか、まったく分からない。
不可解なことはまだあった。
4人の死因である。
殺害された4人のうち、拳銃を手に取る暇さえ与えられなかった2人は、何か長い針のような物で喉を一突きにされていた。おそらく毒が仕込んであるのだろう。ショック症状で気を失っている間に、じわじわと浸透する毒物によって絶命したらしい。
殺された2人には気の毒だが、これはまだいい。俺にも理解できる。
分からないのは、あとの2人だった。
拳銃を握った2人は、なにやら白いモノで両手両足を拘束され、他の2人と同じく毒針で殺されていた。近付いてよく見てみると、白いモノはふわふわとした細い糸の塊であることが分かるのだが、この糸が、今までに見たこともない繊維だった。
試しに指でつついてみると、ピアノ線のように硬かった。それでいて、絹のような手触りがある。試しに力を入れてみるも、折れもしなければ、たわみもしない。
―――鋼鉄の糸。
技術的に製造は可能だろうが、2人の人間の動きを完全に束縛するほどの量を、相手の反撃を許さぬほどの速さで放出する存在…………果たして、そんな化け物のような存在が、この世界に居るというのだろうか……?
「居ますよ」
「ッ!」
不意に、背後から声をかけられた。
少し発音のおかしい日本語。
(見られた……!)と、脳内を思考が流れるよりも速く、反射的な動作で振り向き、ブローニングを構える。
銃口を向けた先には、1人の少女が居た。
容姿から判断するに、年齢は俺と同じぐらい。艶やかなセミロングの黒髪が、まだ幼さが残る顔立ちによく似合っている。身長は150センチに届くか届かないか、といったところだろうか。
着ている服は、この血生臭い場所においては、あまりにも不適切なものだった。というより、見慣れた服装だ。俺の通う、如月学園の制服である。学年色から、彼女が1年生で、俺の後輩であることが判る。
突然の闖入者の登場に、俺の頭はますます混乱を深めていた。
――何故、こんな所に如月学園の生徒がいるのか?
――何故、彼女はこの惨状を見て悲鳴一つ上げないのか?
――銃口を向ける自分を彼女はどう思っているのか?
――彼女は一体何者なのか?
頭の中を様々な考えが駆け巡り、俺の意識を、思考の迷路へと誘う。
『アリアドネーの糸』を持たぬ俺の意識は、易々とその迷宮に迷ってしまった。
「あの……」
意外にも、思考の迷路をさ迷っていた俺の意識を救出したのは、目の前の少女だった。
見ると、彼女は突き付けられたブローニングの銃口を困ったように眺めていた。銃口をこのままにさせておくか、払い除けるか、戸惑っているようである。
彼女の言葉に、はっと正気に戻った俺は、なによりもまず現状を把握すべく、口を開いた。
「……お前は何者だ?」
……やはりまだ少し混乱していたのだろう。
よりにもよって、こんな無愛想で高圧的な訊ね方になってしまうとは…………これではまるで脅迫だ。
しかし、彼女はそんな俺に態度に気にした風でもなく、なにやら複雑そうな微笑を唇に浮かべながら、
「えっと…私について教えるのはやぶさかではないんですが……」
「やぶさかではないが…どうした?」
「……とりあえずコレ、どけてもらえますか?」
……と、突き付けられたブローニングを指差しながら言った。
失念していた。どうやら、まるで脅迫……ではなく、完全な脅迫をしていたらしい。
俺はハンマーを起こした状態のまま、ブローニング・ハイパワーの銃口を下ろした。
それを見た彼女が、少し表情を和らげて、丁寧に腰を折る。
「ありがとうございます」
「いや……」
礼を言われるのは少しおかしいんじゃないかと思いながらも、俺は改めて彼女に質問をすべく、口を開こうとした。
ところが、それよりも早く、彼女おずおずと口を開いた。
「あと、もう1つよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「場所、変えません?」
周囲を見回すと、死体が4つ。
たしかに、この場は若い男女が語らうには適切な場所ではないだろう。
俺は素直に頷くと、ちゃっかり報酬の詰められたブリーフケースを持って、先に歩き出した彼女の後ろ姿を追った。
――これが、俺と柏木初穂の出会いである。
この時、俺はこの出会いによって、今以上に、後の人生が波乱万丈なものになろうとは、知る由もなかった。
初穂と公園で別れて帰宅した時、すでに時刻は7時を大幅に過ぎていた。どうやら、小島達と少し喋りすぎてしまったらしい。
「ただいま……」
中の様子を覗いながら、静かに、出来るだけ音を立てないようにゆっくりと玄関の扉を開く。
するとそこには、大層ご立腹した様子の留美が居た。
「お帰りなさい、兄さん。……随分と遅いお帰りですね」
留美は笑っていた。少なくとも表面上はそう見えたし、口調にもこれといった変化はない。
しかし、形のよい眉の下にある双眸だけは笑っていなかった。
「いや、その…これはだな、留美……」
頭の中で必死に言い訳を考えながら、俺は乾ききった唇を一舐めする。
闇舞家には夕凪家のように特に決まった門限は定められていない。俺も留美も、基本的にはインドア派であるから必要がないのだ。
とはいえ、俺も留美もまだ学生には違いない。特に留美は中学生とまだ幼いため、闇舞家では、帰りが遅くなる時は家に連絡を入れることになっていた。
他人に話せば、「心配性だな」と、笑われるかもしれない。しかし、暗殺者としての経験から言わせてもらえば、用心するに超したことはないのだ。
……ともかく、そうした決まりがあるにも関わらず、今日、俺は家に連絡を入れるのを忘れていた。
最近は小島の練習などに付き合って、6時ぐらいに帰るのが日常化していたが、さすがに7時を過ぎたのは今日が初めてである。
「兄さん、わたしにはあれほど『電話しろ』、『連絡しろ』などとおっしゃられて、自分は連絡なしでこんなに遅いご帰宅ですか?」
普段は敬語などまったく使わない留美が、敬語を使っているという事実が恐ろしい。こうなってしまった留美を止めることは、不可能だ。
俺は蛇に睨まれた蛙の如く萎縮し、反論をすることすら出来なかった。
「え〜…あの〜……も、申し訳ありません」
とりあえず素直に謝っておくことにした。
下手に言い訳をしたところで、一蹴されてしまうだろうと判断しての発言である。
俺の謝罪に毒気を抜かれたのか、留美は溜め息と同時に肩を竦めた。
そして、俯きながら、
「……今度からはちゃんと電話してよ」
……と、言葉少なく言った。どうやら許してもらえたらしい。
「勿論、する」
俺はほっと胸を撫で下ろしながら、靴を脱いだ。
しかし、廊下に上がり、部屋へ進むことは出来なかった。
留美が俯いたまま、道を塞いでいたからだ。
「留美?」
見ると、留美は小刻みに震えていた。
「……………心配したんだから」
「え……?」
小さく……か細い留美の声に、俺は思わず聞き返してしまう。
そして、まるでそれが合図であったかのように、彼女は顔を上げて、堰を切ったように一気にまくしたてた。
「心配したんだから! 兄さんは暗殺者だからたくさんの人から恨みを買ってて、兄さんは強いけど、もしかしたらやられちゃったんじゃないかって……本当に…心配したんだから!」
「留美……」
激しい後悔に、苛まれた。
自分の思慮の足りなさに、情けなくなってくる。
思えば、俺は今まで留美をたった1人残った肉親として捉え、大切にしてきたつもりだったが、留美にとってもまた、俺はたった1人残された肉親なのだ。
そしてその肉親は、呪われた道を歩むことを選択した。
決して許されることのない、罪深き暗殺者の道……
決して報われることのない、悲しき暗殺者の道……
危険な道だ。いつ果てぬともしれぬほど、険しい道のりだ。
両脇には多くの脱落者達が倒れ伏し、向こう側からは多くの敵が押し寄せてくる。
残されたただ1人の肉親が歩むのは、そんな茨の道だった。命がいくつあっても足りやしない。そして、肉親に与えられた命は、1つのみ。
正常な神経の持ち主なら、どうしてそんな肉親の帰りを静かに待っていられよう?
不安で堪らないはずだ。
孤独で堪らないはずだ。
どうしようもない恐怖に苛まれ、しかし、それをぶつける相手もいない。相談出来る相手もいない。否、作れない。
どうして、平静としていられようか……?
「留美……」
留美の目尻には、涙が溜まっていた。
いずれそれは決壊し、頬を伝うこととなるであろう。
まるで他人事であるかのようにその光景を眺めながら、俺は、“あの日”のことを思い出していた。
俺が初めて、人を殺した時の記憶……
手にしたコルト・ガバメントは冷たく、重かった。
襲ってきた男は赤く染まり、動かなくなった。
大きすぎる反動は子供の細腕で御せるものではなく、両手が千切れそうだった。
振り向くと、守ったはずの女の子は涙を流し……
気が付くと俺自身もまた泣いていた……
……俺は、二度とあの涙を見たくないからこそ、その道を歩むことを選んだ。
……もう二度と、あの女の子を俺のために泣かせたくなかったから、この道を歩むことを選んだのだ。
その俺が、また彼女を泣かせてしまっている。
申し訳ない気持ちで、胸がいっぱいだった。
なんとかしてその涙を止めたいと思う。
その辛そうな顔を、笑わせてやりたいと思う。
しかし、俺はこういう時にかけてやるべき言葉を知らない。
闇舞北斗という高校生は、戦闘に関する専門用語ならば数多くを熟知しているが、人を慰める言葉などに関しては、中学生である実の妹よりも無知だった。
「……すまん」
――だからこそ、俺はありきたりながらも、その言葉を口にするしかなかった。
「……すまん」
――だからこそ、俺は彼女を抱擁する以外に慰めることしか出来なかった。
2度・3度と唱えた謝罪の言葉は、打算など何もない、心からのもの。
心からの謝罪と、固い抱擁が、彼女の心の扉を開いてくれると信じて、俺はしばらくそうしていた。
不意に、帰り際での初穂の言葉が脳裏に蘇る。
『先日の件……答えは決まりました?』
その申し出を受け入れることは、すなわち人の身を捨てるということ……
仮にその申し出を受け入れたとして、この優しい肉親が、それを喜ぶだろうか?
ありえない……ありえるはずがない。
「留美……すまなかった」
4度目の謝罪は、少しでもその申し出が魅力的に思えてしまったことに対しての意味も含まれている。
やがて俺の胸板を、もぞもぞと何かが打った。
「兄さん…苦しいってば、兄さん……!」
見ると、先刻の小島と同じように、別の意味で顔を赤くした留美がいた。
慌てて両腕を解き、留美の背中をさする。
「うぅ…あやうく兄さんに殺されるところだったよ」
「す、すまん」
5度目の謝罪はなんとも情けないものだった。
しかし……
「ううん、いいよ」
色々な意味を孕んだ赤で顔を染めた留美は、そう言って顔を上げた。
その顔には、俺の見たかった笑顔がある。
「許してあげる。色々な意味で」
たとえ情けなくとも、彼女の笑顔が見られるのなら…………それもまた、良しだ。
「……そういえば、自己紹介がまだでしたね」
「場所、変えません?」と、提案した彼女の言葉に頷いて、移動すること5分……不意に、隣りを並んで歩く彼女が、思い出したように口を開いた。
言われてみて、ああ、そうだったなと納得する。
隣りを歩く少女に視線を注ぐと、彼女は恥かしそうに「そんなに見つめないでください」と、言った。
「私の名前は柏木初穂。見てのとおり、如月学園の生徒です」
「よろしくお願いしますね」と、握手を求めてくる。俺はその手を握り返した。
さて、次は俺の番かと口を開く。
「俺は……」
「知ってます」
「なに?」
名前を告げようとしたところで、少女……柏木が何故か割り込んでくる。
「闇舞北斗先輩。如月学園の2年生で、在籍しているクラスはB組。特に部活には所属していないけど、クラスメイトの小島先輩の頼みで、よく空手部に顔を出している」
……どうやら俺の素性は相手に筒抜けだったらしい。
しかし、よくもまぁそんな個人情報まで調べたものだ。呆れを通り越してむしろ感心してしまう。
「……よく知っているな」
「如月学園の在校生で先輩のことを知らない人は、むしろ少ないと思います」
「…………」
……それは、目立たないことが大原則の暗殺者としては、失格ではないだろうか?
今度、フェイスガードを買っておこうと固く心に誓いながら、俺はいまだ続く柏木の言葉に耳を傾ける。
「容姿端麗、頭脳明晰。学業における成績は優秀で、定期試験では常に学年上位。得意科目は社会全般で、特に日本史」
「……褒めても何も出んぞ」
「運動神経も極めて優秀で、その瞬発力は110ヤードを10.87秒で駆け抜け、その持久力は3280ヤードを休まずクロールで泳ぎ切る」
「……いつ測ったんだ、その記録は……」
「家族構成は妹が1人で、両親は不在。祖父母は戦中に両方とも亡くしており、それ以外の親族はなし」
「…………」
「わずか9歳にして始めて拳銃を撃ち、人を殺傷。以来、東京の暴力団事務所に身を寄せ、異例の少年鉄砲弾として活躍。……その事務所も、2年前に自らの手で壊滅させる」
「……おい」
「その射撃技術は、拳銃射撃で33ヤードの距離から直径0.8インチのコインを射抜くほどで、愛用の拳銃はベルギー・FNハースタル社製・ブローニング・ハイパワー。格闘術では空手、柔術、中国拳法など、各種格闘技に精通し、道具を用いた戦闘も得意。人を殺す際に発揮する集中力は爆発的な攻撃力を生み、鍛えぬかれた数名を相手にしても遅れをとらない。裏社会での異名は、『killing child』」
「お前……」
チロリと、まるで悪戯っ子のように舌を出す柏木を、睨みつける。
前半の方はともかくとして、後半の内容は決して無視できるものではなかった。
素人であっても肌で分かるほどの殺意の視線を向けるが、柏木は物怖じせず、静かに「この辺りにしましょう」と、言った。
ふと、周囲を見回すと、そこは普段、俺が夜間の訓練に使っている国立公園だった。
現時刻は7時22分。ここで寝泊りしている浮浪者の耳が気になるが、声のボリュームを抑えれば、聞こえないだろう。
俺達はどちらからとなく、側にあったベンチに腰掛けた。
「――さて、どこから話しましょうか……」
一体何を見ているのか、虚ろな視線で夜空を眺めながら、柏木が口を開く。
「そうだな……まずは、一応、確認のために聞いておこうか。君は……柏木は、こちら側の人間なのか?」
言うまでもないことだった。
俺のことをあれだけ知っておいて、あちら側の人間であるということは、ほぼありえない。
――そして案の定、柏木は俺の問いに対して、肯定の言葉を返してきた。
「はい、そうですよ。……ところで……」
「?」
「柏木って呼び方、止めません? なんか他人行儀みたいですし……」
「……他人行儀というか、他人なんだが、な」
知り合って20分も経っていない人間のことを、世間一般では他人とは呼ばないのか……新しい発見である。
「……了解した。初穂……で、いいか?」
「はい」
名前で呼んでやると、柏木……初穂は何故か嬉しそうに笑った。
「先輩は…う〜ん……北斗先輩、でいいですか?」
「あ、ああ……」
承諾すると、初穂はどういうわけか、ますます嬉々とした表情を浮かべた。
……一体何が、そんなに嬉しいのだろうか?
「……では初穂、次の質問だが、君は何故、あの場に居たんだ?」
これは重要な質問である。
この質問の答え次第で、柏木初穂という人物が、俺にとって敵か味方か、今この場で排除すべき存在か、うでないかが、ハッキリとする。
初穂は嬉々とした表情を崩さずに、口を開いた。
「私があの場所に居た理由は簡単です。北斗先輩に会うためですよ」
「……俺に、会うため?」
その言葉の意味が分からず、俺は彼女に聞き返す。
「はい。もういい加減、我慢の限界がきてしまいまして……」
――我慢の限界?
一体、彼女は何を言っているんだ?
俺の疑問などどこ吹く風。初穂はまだ俺が何も言っていないにも関わらず、言葉を続けてくれた。
仕方がないので、俺もそれに耳を傾け、情報を集める。
「私も長いこと生きてますけど、4年も人を待ったのは初めてでしたから、勝手が分からなかったんでしょうね。辛かったですよぉ〜、相手に気付いてもらえないジレンマというのは」
「…………」
初穂の話しの内容に、俺は絶句せざるをえない。
彼女の台詞から、俺は自分が4年もの長期に渡って、何者かから監視されているという事実を初めて知った。
何がきっかけで命を落とすかも知れないのが、裏社会の実状である。監視には注意してきたつもりだったし、尾行には特に気をつけてきたつもりだった。
――にも関わらず、俺は4年もの間、ずっと監視されていたというのか……
話のあまりの内容に、返す言葉が見つからない。
「それでとうとう我慢の限界がきてしまいまして、『もう待ちきれません』って、“上”に報告したら、『会ってきてもいいよ』って言われて…私、すっごく嬉しくなっちゃって……」
“上”――ということは、初穂はどこかの組織に与しているのだろう。
アジア人は服装次第で5歳ほど若くも、年寄りにも見えるというから、もしかしたら彼女も見た目より年上なのかもしれない。
「それで今日、北斗先輩がもしかしたら1人になるかもしれないって聞いて、あの場所に行ったんですよ。……そうしたら、なにやら血気盛んなヤクザのお兄さん達がいたので、私、北斗先輩と2人っきりになりたかったから、『ちょっとどいていてください』って言ったんですよ。そしたら、断られてしまいまして……」
「……まぁ、当然だろうな」
仮にも殺人の依頼の報酬を渡しに来たのだ。
どこの馬の骨とも分からぬ娘の言葉に、なによりも自分達の面子や、他人に対する義侠心を重んずる彼らが、耳を貸すはずもない。
「私、あきらめずに再三にわたって『どいてください』って言ったんです。でも、ヤクザの方達はそれを聞いてくれませんでした。だから私、実力行使することにしたんです。その時、私は浮かれていたんでしょうね。……私、加減を間違えて、ヤクザのお兄さん達を殺してしまいました」
「……なに?」
――今、なんと言った?
「ですから、加減を間違えて、殺してしまいました」
さらりと、恥かしそうに身をよじりながら、初穂はとんでもない台詞を口にした。
――彼女が、彼らを殺したというのか?
――傍目にも俺と同じぐらいの年齢で、特別な武器など何も持っていなさそうな彼女が、あの不可解な死体を世に生み出したというのか?
「…北斗先輩の疑問はもっともだと思います。私みたいな小娘が、大の大人――それも、拳銃で武装した4人――を殺すだなんて、とても信じられる話ではありません。……けど、これは事実なんです」
俺の表情から読み取ったのだろう。初穂は念を押すように言った。
「それに、私達の組織の人間にとっては、それぐらいは出来て当前のことなんです」
「組織?」
初穂は、小さく頷いた。
「私達の組織は古くからの歴史を持ち、世界的な影響力を持つ、かなり大規模な秘密結社です。……あ、秘密結社って言っても、『ヘルファイア・クラブ』みたいな如何わしい集団じゃありませんよ? ちゃんとした崇高な目的を持った組織です」
「『ヘルファイア・クラブ』と比べては、大概の組織がそうなってしまうような気もするが……それで、その目的というのは?」
「私達の組織の目的は、人類を管理し、その未来を守ることにあります」
――それはつまり、体のいい世界征服ということだろうか?
「……まぁ、有り体に言えばそうなりますね」
俺は呆気にとられた。
たしかに、過去に世界征服を目指した組織や人物は数多く、それは一笑に付すことの出来る話ではない。
しかし、それはあくまで過去の話だ。
現代において、『世界征服』などという理想を掲げる組織はむしろ少ない。それが実現不可能なことを、皆知っているからだ。人間というちっぽけな存在が支配するには、地球という惑星は、あまりにも大きすぎる。
第一、1946年のウィンストン・チャーチルの『鉄のカーテン演説』以来、緊張高まり続ける米ソ両大国間に、それほどの巨大組織が存在していられるほどの余地はない。
……にも関わらず、現代において『世界征服』を目的とする組織があるとは――あまりの非現実的な話に、俺は少々混乱していた。
「私達はその目的を実現するために、“人類の天敵”の創造を行っています」
「“人類の天敵”……?」
いまだ混乱する頭で必死に言葉の分析を続けながら、俺は初穂に問い返す。
初穂は静かに頷いて、
「人間の無軌道を正すためには、夜闇に身を隠し、人々を襲う知恵ある獣の脅威が必要なんです。そして、その“人類の天敵”を創造するために、私達は常に優秀な人間を求めているのです」
「それで、俺に白羽の矢が立ったわけか」
「はい。北斗先輩がどう思っているかは分かりませんが、客観的に見て、北斗先輩のこと戦闘における才能は素晴らしいものがありますから」
……複雑な気分である。
俺とて人間であるから、他人から正当な評価を受け、それが高いものであれば嬉しい。
とはいえ、その評価を受けている対象が対象だけに、素直には喜べない。
「……それで?」
「はい?」
「肝心なところを聞いていなかった。初穂が所属する、組織の名前は?」
楽しげに語る初穂の表情に、さらなる喜色が差した。
「私達は〈ショッカー〉です」
その組織が何時を起源とし、どのような人物が創設したか……それは誰も知らない。
人類の文化文明、その歴史の始まりから存在するともいわれているし、はるか昔に、地球に来訪した宇宙人が組織したのだ、という話もある。
あるジャーナリストなどは、世界最大の秘密結社とすら形容される『フリーメイソンリー』や、歴史に名を残す、十字軍遠征にも登場する『テンプル騎士団』などの母体である、とすら断言している。
――秘密結社〈ショッカー〉。
世界中に数々の支部を持ち、強大な影響力を持つ地獄の軍団である。
人類の暴走を諌め、正しい道へと導くことが、その理念だ。
アニミズム信仰にも似た一種独特の生命信仰を持つ彼らは、その活動の尖兵として、人間と多様な生物の能力を併せ持つ、『改造人間』を創造する。人工的に生み出されてこの“人類の天敵”は、闇の中に潜み、ある者は人口調整とうそぶき、人々の命を無作為に奪い、また、ある者は人類の暴走を止めるためにと、任務遂行のために世界各国の指導者の家族を攫う。そしてまた、ある者は民族紛争の戦場へと現れ、戦火を拡大するために奔走する。
すべては、彼らが定めたシナリオ通りに、人類を、正しい道へと、導くために…………
彼らの理念の正邪を問える者は、未来の歴史家の中にしか、存在しないのかもしれない。
――否、そうした歴史家達の目に、この組織が映ることはないだろう。
〈ショッカー〉は巧妙にその姿を隠し、我々の社会と一体化しているのだ。
彼らは、自分達の掲げる大義の下に、数多くの無辜の民を犠牲にする。そして、犠牲となった人々の多くは、無念をぶつける相手を見つけることすら出来ず、ただ絶望し、死んでいくだけなのだ……
はるかな昔、英詩人アレキサンダー・ポープは言った。
“悪は忌まわしい顔をした怪物だ、
目にするだけで憎しみを覚える。
それでいてあまりにしばしば目にし、
彼女の顔に馴染んでしまうと
人はまず我慢し、次いで憐れみ、
ついには抱擁してしまう。”
〈ショッカー〉という組織は、それほどまでに深く我々の社会に根を張っているのだ。
「――とてもじゃないが、信じられんな」
開口一番の台詞が、それだった。
たしかに、これまでの人類の歴史を振り返れば、そうした秘密結社が果たしてきた役割は少なくない。
だが、それを踏まえても彼女の話のスケールは、大きすぎる。
有史以前から存在する組織……?
改造人間……?
信じろという方が、無理な話だ。
「まぁ、そうでしょうね」
あらかじめ俺の反応が予測できていたのだろう。初穂はすべてを許容するかのような、慈愛の笑みを浮かべた。
「誰もが最初はそう言います。でも、誰もが最終的に〈ショッカー〉のことを認めるようになります。そして、〈ショッカー〉の存在を認めるようになった時、誰もがすでに〈ショッカー〉なしでは生きられないようになります」
「……まるで宗教団体だな」
「そういう側面も、〈ショッカー〉にはあります」
「……分かった。もういい」
俺は初穂の説明が終わるのを待たずして、踵を返した。
「俺も裏社会に生き、裏社会によって生かされている人間だ。自分の尺度だけで、世の中のすべてを測れるなどとは思っていない。しかし、君の話す組織……〈ショッカー〉については、あまりにも現実離れしすぎている」
「認めたくないのは分かります。ですが、これは事実なんです」
「……付き合ってられるか!」
第一、〈ショッカー〉などという組織が存在しているという証拠が、どこにあるというのか?
「――証拠ならありますよ」
「なに?」
その場から離れようとしたのを、その言葉で阻まれた。
苦し紛れのたわ言でないことは明白だった。声から、はっきりとした自信が感じられる。
振り返ると、初穂は先ほどとは一転して、少しだけ悲しそうな、憂いの表情を浮かべていた。
「証拠なら、なにより確かなものがあります」
初穂は憂いの表情のまま自分を指差した。
「私の身体です。私の身体は、髪の毛一本にいたるまで〈ショッカー〉によって手が加えられています」
「それはつまり……」
「はい。私は改造人間です」
「今からそれを証明します」と、そう言った初穂の手の中に、魔法のように何か筒状の物が現れた。大型の自動拳銃用と思われる、サイレンサーである。
「ブローニング・ハイパワー専用のサイレンサーです」
投げ渡されたサイレンサーをよく見てみると、たしかに、それは使い慣れたブローニングの銃口にピッタリと嵌まるサイズのようだった。
念のためホルスターからブローニングを抜き、嵌めてみる。
ズレはなく、隙間もない。どうやら本当に、ブローニング・ハイパワー専用に設計された物のようだ。
「北斗先輩、どうぞそれで私を撃ってください」
「なに?」
「さ、早く」
相手の命を無理矢理奪うのは何度も経験してきたが、相手から懇願されるのは初めてだった。
混乱する頭を抱えながら、俺は周囲を見回してみる。
……どういうわけか、人っ子一人いない状況だった。
いつもならばこの時間は、浮浪者達がたむろしてなかなかに賑やかであるはずなのに……
「すでにこの公園一帯の区画は封鎖させてもらいました。誰かに見つかる心配はありません」
「…………どうなっても、知らんぞ!」
曲がりなりにも、俺にもプロとしての意地があった。
その意地が、目の前で命を軽んじて語っている彼女に対して、トリガーを引かせた。
“ボッ”
サイレンサーによって、消された銃声が低く唸る。
いつもより格段に遅いスピードで機関部から叩き出された銃弾は、一瞬の後、彼女の着ている制服を突き破った。
穴の開いた部分――ちょうど心臓の位置――周辺の生地が、血で滲んでいく。
「…………」
無言なのは、痛みを堪えてのことなのか……?
初穂は、やや顔を顰めながらも、しっかりと2本の足で立っていた。
――ボディーアーマーでも着込んでいたのだろうか?
しかし、それにしたって急所の位置に銃弾を受けたのだから、震え一つ起こしたっていいはずだ。
第一、いくら生地の厚い冬服とはいえ、如月の制服の下に、そんな嵩張るものを着れるはずがない。
「……防弾チョッキなんて着てませんよ?」
俺の表情を読み取ったのか、初穂はちょっと拗ねたような口調で言った。
そして彼女は、おもむろに制服のボタンをはずし、上着を脱ぐと、真っ赤に染まった下着をも脱いで、処女雪のように白い肌を冬の外気に触れさせた。
――たしかに、彼女はボディーアーマーなど着ていなかった。着ていなかったが……あまりの光景に、俺は言葉を失った。
「ほら……」
膨らみかけの双丘の間……そこに穿たれた、1つの銃痕。
まごうはずがない。たった今しがた、俺がつけた傷痕だ。
その銃痕から、ぎりぎりと耳障りな音を立てて、へしゃげた銃弾が体内から、押し戻されようとしている!
「ね?」
何が「ね?」なのかは分からない。
ただ、俺はその言葉に愕然としていた。
こんなことが……こんなことがあっていいのか!?
「もうすぐ体組織の再生が始まります。すでに痛みはありません」
そう言う初穂の表情からは、なるほど、たしかに痛みを訴えるようなものは微塵も感じられない。
むしろ恥ずかしそうに、俯き加減に顔を真っ赤にしている。
「分かっていただけましたか?」
半ば放心した状態で頷くと、初穂はそそくさと制服を着直した。
制服を着ながら、彼女は語った。
「私はもうこの身体で30年以上を過ごしています。改造されたのは12歳の時で、私が生まれたのは第一次欧州大戦が始まった1914年です。中国・天津で生まれました」
言われてみて、たしかに初穂の唇から紡がれる日本語の発音がおかしいことに気付く。
しかし、1914年が生まれとは……『年上かもしれない』とは思っていたが、まさか2回り以上も差があったとは思いもよらなかった。
着替えを終えた初穂は、困惑の表情を浮かべているであろう俺の顔を覗き込みながら言う。
「……ここまでの話、理解していただけたでしょうか?」
「あ、ああ……にわかに信じがたい話であるが、な」
世の中には受け入れられる事と受け入れられない事がある。
初穂の話はどちらかといえば後者の部類となるが、あんなものを見せ付けられた後では、受け入れざるをえない。
俺の反応に、多少先ほどからの憂いの表情を引きずりながらも、彼女は満足げに頷いた。
頷いて、彼女は制服に穿たれた穴と血痕を手で覆い、言った。
「……さて、そろそろ本題に入りましょうか」
驚いた。
ここまでの話はまだイントロであったらしい。
「私はなにも、〈ショッカー〉の話をするためだけに、先輩に近付いたわけじゃありません」
「…だろうな。話をするだけだったら電話でもいい」
「私は先輩に、ある申し出があって近付きました」
「……ある、申し出?」
「はい。北斗先輩にも、決して悪くない話です」
初穂は一旦そこで言葉を区切った。
そして、次に彼女が紡いだ言葉こそが、俺にとっての運命の分かれ目だった。
「私達〈ショッカー〉は、より強大な力を持った“人類の天敵”を生み出すために必要な、優秀な人材を欲しています。私達はそのためならどんな援助も惜しみませんし、現在だけでなく、何十年後の未来の保証だって約束します」
「おい、まさか……」
俺の問いかけに、初穂はにっこりと笑った。屈託のない笑顔だった。
「はい。……私は北斗先輩を〈ショッカー〉に引き入れるために来た、交渉役なんです。……いえ、代理人といっても差し支えないでしょう」
「…………」
「おめでとうございます、北斗先輩。〈ショッカー〉は素晴らしい組織ですよ。その一員になることを許されるということは、とても名誉なことです。……頭脳、肉体、卓越した才能を持った人間として、認められたという証ですから。〈ショッカー〉は選ばれた者に対して、あらゆる援助を惜しみません。多少の義務を果たすことと引き替えに、すべての望みが叶えられるのです。先輩自身の望みも……妹さんの望みも……」
「――まさか、お前はそれを言うためだけに俺を……!?」
初穂は大きく頷いた。誇らしげに、小さな胸を張っている。
「4年以上の間、ずっと見てきました。気紛れで通っていた中学校で北斗先輩を見た時、ピンときたんです。『この人はいずれ私達の組織に必要な人となる。この人は私達と同じ世界に生きている人間だ』って。それで気付かれないよう跡を着けたら案の定、でした」
「…………」
「それからずっと北斗先輩を見ているうちに、それは確信に変わりました。特に仕事をしている時の北斗先輩などは、見ていて魂が震えるほどでした。暗殺者という職種に対しての適正のみならず、あらゆる戦闘に対する順応性。戦闘を勝利へと導くための運動神経、知能、判断力、戦闘を躊躇することのない残虐性」
「……何か、誉められている気がしないな」
極力、平静を装って言葉を返す。
しかし、話す事に熱中しているのか、その言葉は初穂の耳には届いていないようだった。
「そしてなにより、北斗先輩には他の人にない才能がありました。仮に私が、北斗先輩と同等の実力を持っていたとしても、『killing child』と呼ばれることはないでしょう。私にはその才能がありませんから。……〈ショッカー〉も、先輩のその才能を見込んで、私に正式な監視命令を下したんです」
「そもそも、child って歳か……」
どうせ聞いていないだろうと高をくくり、ボソリと呟く。
すると、次の瞬間―――!
“ボッ”
「…………」
タラリ……と、俺の頬から一筋の、細い糸のような血が垂れる。
「……次は当てますよ?」
いつの間に盗られてしまったのか、初穂の手の中には、未だサイレンサーの装着された俺のブローニングがあった。
俺に気付かせる事なくブローニングを奪うばかりか、あんな小さな手で大型自動拳銃を撃つとは……恐るべし、改造人間。
「まったく! 女性に年齢の話を持ち出すのは失礼ですよ」
「どうでもいいからソレ、返してくれ」
「……どこまで話したか忘れちゃったじゃないですか。ええっと、もう一度最初から……」
「その必要はない」
渡されたブローニングのサイレンサーをはずしながら、俺は初穂の台詞に割り込みを入れる。
これ以上初穂に話させると、長くなりそうだったからだ。
「……要するに、初穂は〈ショッカー〉という組織の一員で、その組織は“人類の天敵”である『改造人間』を生み出すために、常に優秀な人間を所望している。そして迷惑なことにその白羽の矢は俺に立ち、初穂は今まで俺を監視し続けてきた。そして今日、ついに俺を〈ショッカー〉に引き込むべく行動を開始した――ということだろ?」
「はい。行動……なんて言うと、大変なことのように聞こえますね。実際は話しに来ただけですし」
「――で、その問いに対する俺の答えが聞きたい、と」
「はい」
初穂は頷いた。俺も頷いた。
ひとつ深呼吸をし、俺は初穂に言い放つ。
「……保留だ」
「はい。……え?」
「だから保留だ。答えは」
キョトンとして首を傾げる初穂に、俺は説明する。
「いきなり今後の人生を左右するような申し出をされて、さも当然の如く『はい、わかりました』なんて言えるわけないだろ? 心の準備だってある。せめて、考える時間をくれ」
ただ組織に入れ、というだけならば、この場で即決出来たかもしれない。しかし、彼女の話す〈ショッカー〉という組織は別だ。
〈ショッカー〉は“人類の天敵”たる『改造人間』を生み出すために、俺のような人間を所望しているという。その申し出を承諾し、〈ショッカー〉に入るということは、俺もまた『改造人間』にならねばならないということだ。
もし、そんなことになれば、今後の人生どころか、生物としての未来まで左右されかねない。
即決出来るわけがない。
その旨を初穂に伝えると、俺の要求に、彼女は快諾した。
「分かりました。上層部にかけあってみます。……ですが、これだけは忘れないで下さい。この話は先輩にとってだけでなく、先輩の妹さんにとっても、良いお話である、と」
「……言われるまでもない」
話に聞く〈ショッカー〉の規模から察するに、組織の一員となった際に与えられる見返りは、計り知れないものがあるだろう。
だが、それでも俺は…………
「それでは、今夜はこの辺りでお開きにしましょうか」
初穂の言葉に、俺は思考を中断する。
彼女の言葉に頷いて、ブリーフケースを持ち上げると、俺は踵を返して歩き出した。
――が、どういうわけか背後にいる初穂が動き出そうとする気配はない。
どうしたのかと振り向くと、初穂は何か物言いたげな視線を送っていた。なにやら、捨て犬を連想させるような表情である。
どこかで見たことがあるような気がして、俺はしばし過去を回想してみた。
ほどなくして、その正体が判明し、俺は納得する。
先日、留美と見た映画だ。
劇中、ヒロインが主人公の男性との別れ際、こんな表情を浮かべていた。
俺はしばし考えて、おずおずと口を開いた。
「……送っていこうか?」
「はい!」
俺の言葉に、初穂は嬉しそうに笑った。
――1959年12月3日
大概の学校がそうであるように、如月学園も土曜日は授業が半ドンで終了する。
俺は普段、このあいた時間を利用して普段あまり構ってやれないでいる留美の相手をしてやっているのだが、今日は別の目的があって早々に帰宅した。
部屋に帰って着替えをし、昼食も簡単に済ませて、俺は出かける準備をする。
ブローニング・ハイパワーを納めたショルダーホルスターを下げ、両手にガントレットタイプのグローブを嵌める。
腰のベルトからシースナイフを引っ下げ、軍用のタクティカルブーツを履く。
最後に、それらの装備が外から見えないようきっちりとコートを着込めば、準備は完了だ。
布地1枚を捲れば戦闘用装備が現れる……というこの服装で、俺が本日向うのは仕事先――ではない。
今日は買い物に行くのだ。
それも、普通の買い物に行くのではない。
俺にとっての仕事道具――ブローニングの弾薬や新品のパーツ、ナイフ、携行食品、その他装備等――を買いに、『ブラック・マーケット』へ行くのだ。……あとフェイスガードも。
俺は先日回収したブリーフケースから当座の軍資金として30万ばかり財布に入れると、俺は早々に部屋を出た。
『ブラック・マーケット』と聞くと、どうも世間一般の人間は、暗く陰惨として、自分達は一生寄り着かないような場所にあるのだ、という認識があるようだが、存外この手の裏市場は、そんな認識を抱いている一般市民が、普段行き来している道のすぐ側にあるのだから面白い。
なにせ、煌びやかな電飾に彩られた繁華街の往来を、一歩ずれればすぐに見つかるのだ。もしかしたら、そうした一般人でさえ、知らないうちに足を運んでいるのかもしれない。
ただ、普通はそれに気付いていないだけなのだろう。気付いてしまった時、彼ら一般人は一般人でなくなってしまう。
俺のよく知るマーケットも、自宅からさほど離れていない位置にあった。時間にして徒歩20分。本来なら、このような装備すら不必要なほどの距離である。
それでも武装を怠らないのは、道中が何があるか分からないからだ。
ブラック・マーケットで買い物をする際、危険なのは市場よりもむしろ、その道筋なのである。
――ブラック・マーケット。
この闇の市場を言葉で表すなら、『ある意味で表の市場より混沌としていながら、ある意味では表の市場以上に秩序を重んじる場所』というのが、適切であろう。
この手の裏市場を利用する者は、人を裏切るのは好きだが、人に裏切られるのは嫌いな人間が多い。
ヤクザなどはその典型で、彼らは自分が知らない街へ行くのを極端に嫌う傾向がある。
そうした人間が集まってブラック・マーケットを開くのだから、そこには必然、ある程度の秩序が存在するようになる。
俺などはその秩序の恩恵を受けてこの市場を利用しているわけだ。
俺はマーケットに着くなり、まずはフェイスガードを買いに足を運んだ。それを封切りに、次々と買い物をこなしていく。
……1時間もすると、残るはブローニングの弾薬と新しいパーツを買うのみとなっていた。
そこは築何十年になるかも分からぬほど、古い木造の建物だった。
巷で流行の電飾――ネオンだったか?――の眩しいばかりの輝きではなく、薄らぼんやりとした提灯に照らされた大きな看板には、『吉沢刃物』と、楷書体で書かれている。
――世間一般の人々が知ったら、何と思うだろうか?
この、欧州の実戦的なナイフなど1本も取り扱っていないごく普通の金物屋が、その実、裏では日本の裏市場でも屈指の銃器販売店なのだ。
ヤクザ時代、俺はこの店でブローニング・ハイパワーを買い、この店で東京に持ってきた45口径の拳銃――随分昔のことなので忘れたが、多分コルト・ガバメントだと思う――を売ったのである。
まるで飯屋か、温泉宿のようにかけられた暖簾を潜ると、嗅ぎ慣れた油と鉄の臭いが鼻腔をくすぐり、視界の7割を、銀色の鈍い輝きが占領した。
その光景に、思わず「うっ」と、たじろいでしまう。
安全と分かっていても、やはり視界をこれだけの刃物に覆われると、どうも殺意を向けられているようで落ち着かない。
「お、久しぶりだな〜坊主」
気を取り直して一歩店内へと足を運ぶと、正面から聞き慣れた声が、俺の耳膜を打った。
声のした方に視線を向けると、そこには50代半ばと思わしき中年の男性がいた。この店の6代目店長・吉沢慎也だ。
俺が初めてこの店に訪れた時からの付き合いで、俺にブローニングを勧めたのも、この人物である。
「今日はどうした? …コッチか?」
店長が手の届く所に置いてあった包丁を見せながら聞いてくる。『今日は、“表”の買い物をしに来たのか?』という意味だ。
「いいえ。今日は…コッチの方です」
コートのボタンを2つはずし、ショルダーホルスターからブローニングを引き抜き、見せ付ける。敵意がないことを示すため、ハンマーは起こさない。
「なるほど。…ちょっと待ってな」
店長は頷くと、カウンターに置いてあった小さなベルを鳴らした。
ほどなくして、パタパタという足音とともに、『吉沢刃物』と刺繍されたエプロンを着た40代前半の女性が姿を現した。店長の奥さんである。
「あら北斗君、いらっしゃい」
「どうも……」
お互いに軽く腰を折って挨拶を交わす間に、俺はブローニングをそっとしまった。店長の奥さんも、俺が裏社会に与する人間であることは知っているが、やはり、店長の奥さん自身は堅気の人間なので、この手の武器を見せるのは気が引ける。
店長は奥さんに簡単に事情を説明した。
「―――というわけだから、しばらく店の方を頼む」
「はい、分かりました」
「じゃ、坊主、来な」
「はい」
促されるがままに、店長の後ろを着いていく。
店の奥……店長の自宅へと足を運び、しばらく廊下を歩くと、地下へと続く階段があった。
吉沢刃物の店舗は木造建築ながら、なんとコンクリート造りの地下室がある。
建築基準法を豪快に無視しているような気がしないでもないが、店長曰く「バレなきゃ大丈夫だって」とのことだ。まぁ、この店の場合、地下室以上に裏で何をやっているかの方が、ばれてはまずいような気もするが……。
地下へと続く階段を降りていくと、少し開けた空間に出た。広さにして約5坪。小さな部屋ではあるが、壁には防音効果が施されており、思いのほか予算がかかっているようである。
その部屋には、まだ奥へと続く扉があった。やはりこちらも、防音が施されている。
南京錠で固く閉ざされた扉を前にして、俺達は立ち止まった。
「そういえば……」
不意に、店長が切り出してきたので、俺は視線をそちらにやった。
「この間珍しいモノが手に入ったんだ。……買う買わないは別として、ちょっと見てけや」
言いながら、店長は南京錠に鍵を差し込み、カチャリと半回転させ、錠前をはずす。
“キィィ……”と、軋んだ音を立てながら扉を開けると、そこには別世界が広がっていた。
目測で先ほど俺達が居た部屋の、10倍の広さ――その広大な面積の中に、所狭しと銃火器が積まれている。
「……相変わらず凄いですね」
ぱっと見ただけで、『フロンティア・リボルバー』、『S&W・M19』、『ボーチャード』、『モーゼル・ミリタリーC96』、『ガランドM1ライフル』、『モーゼルKar98k』、『トンプソンM1・SMG』、『MP40・SMG』、『ウィンチェスターM1897』……と、下手なコレクターなど足元にも及ばぬラインナップの数々が、俺の視界を埋め尽くしている。
「そうか? でも、これ全部商品だからな……在庫が余ってるのを感心されても、嬉しくないぞ」
「これは失言でした」
「そう思うんだったら何か買っていってくれ。……コレなんかどうだ?」
思いっきり弾倉が装填されている状態で放置された『グリースガン』を指差しながら、店長が言う。
「コレ1挺あれば随分戦闘がラクになるぞ」
「いえ、コイツを使うような戦闘に巻き込まれる予定は、今のところありませんので」
「そうか……じゃあ、コイツはどうだ? 『ニードルファイアー』」
「……よく手に入りましたね、ソレ」
『ドライゼ・ニードルファイアー』は、1840年にプロイセンで開発された単発式のライフルで、1870年の“フランス・プロイセン戦争”まで、30年近くにわたって使われた名銃である。
「これも駄目か……」
「いえ、駄目とかそういう問題ではなくですね……」
さすがに100年以上昔の銃に命を託せるほど、俺も酔狂ではない。
「仕方ないな…………ええい! じゃあコイツを持っていけッ!」
そう言って店長が取り出したのは『マキシム水冷式機関銃』……ここまでくると、もはや暗殺者の装備ではない。
「…………店長は俺に戦争をしろと?」
「……まぁ、さすがにコレは冗談だが」
――正直、冗談には聞こえなかった。
「店長、そういうのは後にして…とりあえず、先に注文していた物を」
「ん? ああ、そうだな……っと」
重量20キロもあるマキシム機関銃を軽々と持ち上げ、足取りも軽く、部屋の奥へとその凶器を片付ける。
次に俺の側に戻ってきた時、店長は何やらスイカでも入りそうなプラスチックのケースと、小さな木箱を抱えていた。
「ほれ、注文していた弾薬とブローニングのパーツだ。確認しておけ」
言われて、手渡された木箱の蓋を開け、中を覗き見る。
木箱の中には、黄金色の凶悪な輝きを秘めた弾薬がビッシリと詰まっていた。
「お前さんに頼まれた通り、9mmルガーのホロー・ポイント弾が総計650発。……これだけあれば、しばらくは大丈夫だろ」
「はい、ありがとうございます」
「おいおい、客が店員に礼を言ってどうするよ」
苦笑しながら、店長はプラスチックケースの方も見てみろと、促してくる。
俺は弾薬の詰まった木箱を足元に置き、プラスチックケースの蓋を開けた。
――クセ一つない新しいスライド。
――傷一つない新品のバレル。
――弾力に富んだリコイル・スプリング。
――感触良好な木製のグリップ・パネル。
――世界で初めてダブル・カーラム方式を採用した太い弾倉。
間違いない。先日、注文したブローニングの交換用パーツが、すべて揃っている。
「全部揃ってるか?」
「はい。……色々とお手数をおかけてしまって…ありがとうございました」
俺は軽く腰を折って礼を言ってから、財布から代金を支払った。
「だから客が店員に礼を言うなっての」
店長は苦笑しながら、渡された紙幣の勘定をしていく。
そうは言うが、戦前、戦中ならともかく、今のご時世、ブローニング系統のパーツをこの国で入手することは、かなり難しい。なにせ、ブローニングは米軍の制式拳銃ではないから、在日米軍ルートが使えないのだ。店長がこれらのパーツ、弾薬を入手するのにどれほど尽力してくれたかを考えると、俺は礼を言わなければ気が済まなかった。
「ところで―――」
早速とばかりにブローニングを分解し、グリスを塗りつつパーツ交換をしていると、不意に店長が切り出してきた。
それまでのプラスチックとは違う、木製グリップの温かく柔らかな感触を確かめつつ、俺は顔だけをそちらに向ける。
「さっき珍しいモノが手に入ったって言ったろ?」
「珍しいモノなら先ほど充分に見せてもらったような気もしますが」
『グリースガン』や『マキシム機関銃』ならまだしも、『ニードルファイアー』は100年以上昔の、しかもドイツ製のライフルである。
珍しいなんてものではない。本来なら、博物館に飾られているような代物である。
「今、取ってくるから、ちょっと待ってな」
俺の返事を聞かずして、店長は乱雑に積み上げられた木箱の山と格闘を開始した。
今にも崩れてきそうな木箱の山から、器用にも目的の箱だけを取り出す店長。
……未来、引越しが商売になるとしたら、重宝しそうなスキルである。
店長が持ち出した木箱は、2つあった。
中身は銃器なのだろう。どちらも全長は1メートル以上で、片方は一方より二回りほど大きい。
――箱の大きさからして、ライフル銃だろうか?
箱の中身について空想を膨らませていると、店長は小さい方の箱から開けた。
中に詰まっていた油紙を丁寧に取り除いていくと、中に入っていたモノの、全体のシルエットが明らかになる。
最後の油紙が取り払われ、その正体を露わにした時、俺は驚愕した。
「これは……!」
中に入っていたのは、予想通り8個のパーツに分解されたライフル銃だった。
しかしそれは、俺が今までに見たこともない代物だったのである。
店長は、8個のパーツを手馴れた様子で組み立てていった。
30秒と経たずして完成したソレは、俺が知るライフルという銃からは、あまりにも逸脱したフォルムをしていた。
「店長、これは一体!?」
「ま、坊主が驚くのも無理ないな。……ソビエト製・AK47・アサルト・ライフル。オートマチック・ライフルの革命児よ」
「アサルト・ライフル! これが……」
話には聞いたことがあったが、実物を見るのは初めてだった。
――アサルト・ライフル。
先の大戦でドイツが開発した、まったく新しいオートマチック・ライフル。
ライフルの持つ殺傷力と、サブ・マシンガンの持つ連射力、そしてマシンガンの持つ制圧力のすべてを兼ね備えながら、かつ、重量は歩兵でも充分携行可能なほど軽量という、まさにライフルの革命児だ。
「総弾数30発。有効射程役約328ヤード。1分間の連射速度は毎分600発。使用する7.62mm×39弾の初速は2329フィート・パー・セコンドで、弾丸の1平方メートルあたりの衝撃力は449ポンド。……相手が人間なら、手足以外に命中すれば1発で仕留められる威力だ」
俺は思わず絶句した。
毎分600発の連射速度といえば、下手な機関銃など足元にも及ばぬ速さである。
総弾数30発ということから、フル・オートだと3秒しか保たない計算になるが、それでも、米国製・ガランドM1の総弾数が8発であることを考慮すると、かなり多い数字である。
「……凄い、ですね」
「凄いだろ。……しかも、これだけの性能を有していながら、重量は弾薬非装填時で8.465ポンドしかない。まさに怪物だよ、コイツは」
『怪物』……その形容が、耳にこびり付いて離れなかった。
延々と続く店長の話を、若干上の空で聞きつつ、俺はその『怪物』を凝視する。
見るからに無骨で、美しくもなんともないフォルムのその銃に、俺は不思議と惹かれていた。
理由は分かっている。
店長が言った、『……相手が人間なら、手足以外に命中すれば1発で仕留められる威力だ』という言葉が、あまりにも印象的すぎたのだ。
――俺は今、あの夜のことを回想していた。
紛れもない、女の柔肌に撃ちこんだ9mm弾は、どういうわけか押し返され、まったくダメージを与えるにいたらなかった。
(コイツの威力なら、もしかしたら……)
――そう思うと、この銃を撃ちたいという衝動が、鎌首をもたげてくる。
「……と、ところで店長、もう1つの箱の方は……」
これ以上見ていると、本当に撃ってしまいそうな気がしたので、俺は話題を変えるべく切り出した。
そしてそれは成功した。
俺の言葉に、店長は待っていましたとばかりに表情を輝かせ、手早くAK47を分解し、油紙で包んで箱にしまうと、もう一方の大きな木箱に手をかけた。
「コイツは本当にレアだぞ〜。東側の銃であるAKも、レアといっちゃレアだが、それは西側の国に限ればの話だからな。……これから見せるヤツは、今となっては東西両陣営ともに珍しいものだ」
「すると、すでに生産が終了した兵器?」
「そうだ」
戦時中の兵器だろうか? だとすると、一体何であろう……?
店長が蓋を開け、俺は身を乗り出して中を覗き見た。
「…………」
中身の正体を確認して、俺は心ならずも絶句した。
「……て、店長! コレはまさか!?」
どう見ても鉄でできた筒にしか見えないソレを指差しながら、俺は店長に訊ねる。
店長は頷きながら、
「多分、坊主の考えてる通りの物だ。……ったく、何で俺もこんな売れもしない物を仕入れちまったのかねぇ? 場所とるだけで、邪魔でしかないってのによ」
店長の愚痴を軽く聞き流しながら、俺はその武器……否、兵器を注視する。
――たしかに、コレは売れないだろう。
仮に売れたとして、何時、何処で、どのような状況下でこんな物を使えばよいのだろうか? せいぜい、建造物の破壊ぐらいにしか役に立たないだろう。だがそれは、目立たないことが第一前提の暗殺者としては、絶対にやってはならない行いだ。
「そりゃ、永遠の謎だな」
「……人のモノローグに相槌を打たないでください」
「坊主はポーカーフェイスのくせして、偶に表情が読みやすい時があるからな。――っと、ところで坊主、この2つなんだが……」
「買いませんよ」
店長の言葉を最後まで聞かず、俺はきっぱりと言い放った。
「――たしかにどちらも魅力的な武器ですが、実用性を考えるなら別問題です。この国でアサルト・ライフルを使うような事態が起こることなど、まずありませんし……」
俺は今しがた店長から見せてもらった、『筒状の兵器』のボディを撫でながら言う。
「こっちにいたっては、コイツが戦うべき相手が、この国にはもういません」
……そう、この兵器が倒すべき宿縁を持つ相手は、敗戦国であるこの国にはもういない。彼は、『持っていたところで使う機会のない兵器』という、ある種悲劇の主人公なのだ。
「ま、坊主の言い分も分かるんだけどな……とりあえず、人の話は最後まで聞けや。……さっき坊主は、俺が『この2つなんだが……』って言った後、『買いませんよ』って、答えたよな?」
「ええ…」
つい今しがたのことである。忘れるはずもない。
「その答え方は不正解だな」
「どういう意味です?」
「金をとる気は始めっからなかったからな」
「…………」
「俺は『この2つなんだが、なんとか引き取ってもらえないか?』って、言うつもりだったんだよ」
「……それは、つまり―――」
要するに、厄介払いということだろうか?
「さっき言ったろ? 場所とるだけで、邪魔でしかないって。……代金をとらないのは、『日頃のご愛顧に感謝いたしまして、サービスいたします』ということで」
――ウチの住宅事情は無視ですか、店長。
「それに、口ではなんだかんだ言いながら坊主も満更ではないって顔だしな」
ニヤニヤと口元に嫌な笑いを浮かべながら言う店長を、俺はキッと睨みつける。
「言ったろ? 『坊主はポーカーフェイスのくせして、偶に表情が読みやすい時がある』ってよ。……さっきAK47を見てた時の坊主の顔は、まさにそれだった。何か思いつめているような……まるで、その武器が何者かに通用するかどうか、値踏みしているような……」
まるで、心の中を覗かれているような気分だった。
たしかに、俺はあの時、AK47による射撃が初穂に通じるかどうか、頭の中で何パターンかシミュレートしていたので、その際に何か妙な表情を浮かべていたのかもしれない。
しかし、顔を見ただけでそこまで分かってしまうとは……
「……表情だけで、よくそこまで分かりますね」
「坊主とは長い付き合いだからな……ちょっとした動作や表情で、何を考えているかが手にとるように理解できる」
「それは……恐い話ですね」
「ま、客商売をやっている人間は、大なれ小なれ、お客さんの一挙一動からある程度考えていることが読めないとな。……でだ、話を戻すけどな……」
「……その必要はありません」
「ん?」
「ありがたく、受け取らせていただきますよ」
自分のため……というのもあるが、ここで店長に恩を打っておくのも悪くはないだろう。
俺は店長の提案に深く頷いた。
「サービスでAK47には弾倉3つ分(90発)の弾薬を、コイツには弾頭を2つ付けてやるよ」
店長はかんらかんらと笑いながら、下手なウィンクをよこしてきた。
――1959年12月7日
昼休みになった。
普段ならば、このまま小島達と一緒に屋上へ行くところだが、何分今の季節は冬。吹き付ける風は冷たく痛く、俺達は無難に教室で弁当を広げることにした。
席を外している連中の机を借りて4人で弁当を囲む。
そう、4人だ。
教室には俺と小島、夕凪のみならず、初穂の姿もあった。
なにやら弁当を持って、廊下から教室の様子をおずおずと覗いていたところを、夕凪に捕獲されたらしい。
他のクラスメイト達からの好奇の視線を注がれながら、俺達は弁当の中身をつついていた。
「天津?」
「はい。私の生まれはそこです」
「……闇舞、天津ってどこだっけ?」
「中国北部。北京から東南に位置する中央直轄市で、略称は“津”。中国北方最大の対外開放港だ。……初穂、俺の説明に不備はあるか?」
「いえ、ありません。流石ですね」
初穂の生まれた天津市は、元は天津県といい、それ以前は天津衛と呼ばれていた。
第二次アヘン戦争で英仏連合軍に占領され、天津条約を結ばされた天津県は、北京の外港として港・天津を開港。以後は急速な発展を遂げ、現在では環渤海湾地域の経済的中心地という地位を獲得するに至っている。
ちなみに、天津衛が設置されたのは1404年のことで、天津県に昇格したのは1731年のこと。現在のように『天津市』と、呼ばれるようになったのは1927年で、実はつい最近のことである。
「へぇ〜。……私は天津って聞くと、天津甘栗しか思い浮かばないけど」
「あ、実は俺も」
「天津甘栗の栗は、天津市、北京市を取り囲む形で中国北部に位置している河北省産の栗を使っているんです」
「だから、夕凪の連想もあながち間違ってはいないということだ」
もっとも、俺は栗なんて高価な食べ物は、生まれてこのかた一度も食べた事はないのだが。
「ふぅん。あ、春香、それ美味そうだな」
「ふみゅ? コレ? よかったら食べる?」
「おう」
「じゃ、はい。あ〜ん」
「あ〜ん」
口元へと運ばれた箸にパクリと食いつく小島。
どことなく釣りを連想させるその様子に、思わず苦笑する。
さしずめ教室が漁船で、視線を注いでいるクラスメイトが他の漁師達、夕凪が、大物を釣り上げた船長といったところか。
――と、その時、なにやら妙な視線が、肌に突き刺さるのを感じた。
殺気立っているというか……妙に熱が籠もっているというか……とにかく、そんな異様な視線だ。
周囲を見回してみるが、相変わらずなクラスメイト達の視線を除いて、それらしき視線を送っている人物は見つからない。
気のせいかと思い、視線を元に戻すと、やはり視線を感じた。
今度はもっと注意深く気配を探ってみる。
すると、視線は意外なほど近くから発せられていることが分かった。
まさに『灯台下暗し』といったところである。
俺は周りから気付かれないよう、若干の警戒姿勢をとりながらその方向へと視線を向けた。
「…………」
―――居た。
これ以上ないというほど近くに居た。
彼女は俺の隣りの席から、期待に満ちた眼差しを俺に送っていた。
ふと、視界を小島達へと戻す。
「……小島、夕凪。その…お前達のすべてを悟っているようなニヤニヤとした顔が妙に苛立たしいんだが」
「ホレホレ」と言わんばかりに、ニヤニヤと何かを促すようにサインを送っている2人に、本気で殺意を抱く。周囲からの視線がなかったら、冗談抜きでブローニングを抜いていたかもしれない。
俺は再び隣りを見、小島達を見た。周りのクラスメイト達を見、最後に天井を見上げる。
俺は諦めたように溜め息をつくと、もう一度隣りの席に座っている彼女を見た。
そしてその視線をツツ……と、下へともっていき……
「……初穂、その玉子焼き、くれるか?」
「はい! ささ、どうぞ。あ〜ん」
(小島、夕凪、後で覚えていろよ)
俺は心の中で誓いも固く、口を開いた。
「そういえばさ……」
屈辱の時間を乗り切り、力なく箸を動かしていると、唐突に夕凪が切り出してきた。
「今日の進路ガイダンスだけど――」
「ああ…」
封建主義を徹底的に嫌っていた明治新政府だが、なんだかんだで職に関する封建制度は根強く息づいていた。
農民の子は農民となり、商人の子は商人になるが当たり前の世の中だった。
その仕組み本当の意味で変わったのは、戦後GHQによる占領が始まってからである。
誰もが自由に職を選ぶことが出来る……いい時代になった。
「私は進学組だけど、みんなはどうするの?」
「あ〜俺は断然、進学だな。……っていうか、ウチで進学以外って、あんまりいねぇだろ」
「あはは。ま、そうだけどさ……ヤンミはどうなの?」
「俺か? ……そうだな、俺は就職だな」
俺の答えに、小島達2人のみならず、初穂も目を丸くする。
まぁ、進学校である如月学園生で就職組というのは珍しいから、仕方ないだろう。
「で、でも、ヤンミの学力なら上位の学校狙えると思うけど……」
「学費の問題があるからなぁ。それに、留美のこともあるし。あいつには、出来ることなら大学にまで行ってもらいたい」
俺が大学に進学すれば、それだけ金がかかることになる。
そうなると、今ですら一杯一杯な状況がさらに悪化し、留美は高校への進学すら難しいことになってしまうだろう。
だが、俺が大学への進学を諦めればそれだけ費用が浮き、時間も空くことになる。時間が空けば、俺は仕事のみに専念することが出来る。
どこかの工場なり会社なりに就職するか、暗殺者一本に仕事を絞るか……
どちらを選択するにせよ、今後の生活を考えるなら、進学は諦めるべきなのだ。
「……ま、その辺は闇舞ン家の事情だから何も言わないけどよ。でも、それならなんで闇舞はウチに入ったんだよ? 如月は進学校だぜ?」
「……分からん。気付いたらここにいた」
如月の入学願書に記入をしていたあの頃、俺は当時所属していた暴力団事務所を壊滅すべく計画を練り、準備を進めていた。ゆえに他のことに対する関心は著しく薄れ、入学願書にしても適当に書いていたのだ。
正直、『高卒』という履歴が手に入れば、進学する場所はどこでもよかったわけである。無論、ある程度は学費の安いところを選らんだのだが……と、その時、不意に初穂の視線を感じた。
目配せで合図だけ送ってくると、声には出さず、唇だけ動かして話しかけてくる。
『――〈ショッカー〉に入ればそれぐらいどうとでもなりますよ』
――あの晩、初穂俺に言った。
〈ショッカー〉に入ることを決めれば、俺だけでなく、留美の将来の約束もしてくれる、と……
魅力的な提案である。少なくとも、申し出を承諾すれば今後の生活において、なんら懸念すべき点はなくなるだろう。
しかし、その提案を受け入れることは、悪魔との契約書にサインをするということだ。
そして、そのことは彼女を……たった1人残された肉親を、を悲しませることになってしまう。
『必ず返事はする。だからしばらく待っていてくれ』
とりあえず唇だけ動かして返事をし、俺は初穂との会話を終えた。
――この時、俺は知らなかった。
この日、この時間の俺の答えが、すぐ後にあっさりと覆されることになろうとは……
――1959年12月11日
次の休日、俺は留美と一緒に繁華街へと繰り出していた。
繁華街はすっかりクリスマス一色という雰囲気で、街のいたる処が煌びやかな電飾で彩られている。
今日、俺達は映画を見るために外出していた。
映画のタイトルは『ベン・ハー』。
アメリカの作家で、ルー・ウォーレスなる人物の小説が原作の、全米で歴史的大ヒットを記録した映画だ。
……映画好きの留美の話によると、今回観る『ベン・ハー』は3回目の映画化で、前2作と違い、近作にはちゃんと音声が入っているらしい。監督・ウィリアム・ワイラー。主演・チャールトン・ヘストン。制作費54億ドル、上映時間212分の、超大作とのことである。
映画好きの留美の付き合いで見る羽目になってしまったが、なかなかに面白い映画だった。
特に見せ場である『戦車競争』のシーンの出来は秀逸で、その迫力はこれまで観てきたどの映画作品よりも圧倒的だった。……まぁ、さすがに54年、あの“怪獣王”が日本に上陸した時の衝撃と比べたら劣るのだが、現実とフィクションを比べても仕方ないだろう。
映画を見終えた後、俺達はそのまま買い物へと突入した。
いわゆる、ウィンドウ・ショッピングというやつである。
もっとも、冷やかしだけで帰るつもりはなかった。
そろそろ酒のストックがなくなり始めてきたし、なにより、留美に新しい服を買ってやりたい。先日の仕事の報酬がまだ残っていたので、軍資金には困らなかった。
……そして、歩くこと数時間、俺と留美は互いに満足のゆく品を買い、近くにあった西洋風の喫茶店で酷使した足を休めていた。
「店員さん、ホットコーヒー1つと、サンドイッチ1つ」
「兄さん、わたしこのイチゴサンデーが食べたいんだけど……」
「ああ、いいぞ」
「やった♪」
俺の言葉に、表情に喜色を浮かべる留美。
普段ならばその値段に注文を躊躇ってしまう品だが、今日は別である。それに、これぐらいのことで留美の笑顔が見られるのなら、安いものだ。
「――それにしても珍しいね。メニューにはちょっと軽めのお酒があるのに、兄さんがそれを頼まないなんて」
「……まぁ、たまにはな」
外には世間の目がある。何時何処で誰と会うか分からないし、仮にそれが教員だった場合のことを考えると、迂闊な真似は出来ない。
そう、例えば―――
「あれ、北斗先輩?」
そう、こんな感じに。
「初穂か…。どうしたんだ、こんなところで?」
彼女のことだ、おそらくは俺の監視をしていたのだろうが、一応、社交辞令なので訊いてみる。
「私は見ての通り買い物ですよ。……さすがに他人のプライベートにまで、干渉するつもりはありません」
考えが表情に出てしまっていたのか、最後は少し拗ねたような口調だった。
言われてみて、初穂の手首から紙袋が下がっていることに気付く。見た目の感じから、中身は衣服のようだ。
「――そういう北斗先輩は、今日はどうしてここに?」
「俺は映画を観に来たんだ」
「映画?」
「ああ、『ベン・ハー』というタイトルの映画。…妹の付き合いでな、その後は買い物。なかなか面白かったぞ」
「妹さん、ですか……」
初穂は視線を俺からテーブルの方へとずらし、隣に座っている留美を見た。偶然にも目が合ってしまった留美が、ビクリと身を震わせる。
初穂はにこりと、人懐っこい笑みを浮かべると、買い物袋を持っていない方の手を、留美に差し出した。
「実際にこうして会うのは初めてですね。初めまして。北斗先輩の後輩で、柏木初穂といいます」
「え、あ、は、初めまして、闇舞留美です」
やや緊張した面持ちで留美は立ち上がり、おずおずと初穂の手を握り返す。
留美もまた、小島達同様初穂の日本語の発音に気が付いたのだろう。チラチラと俺の方を見ては、救いを求めるような表情を浮かべる。俺は内心苦笑しながら、「日系中国人なんだ」と、説明してやった。
「……立ち話もなんだ。初穂がよければだが、相席するか?」
幸いにしてテーブルは4人掛け。初穂が座っても、席は1脚余る計算になる。
「え? で、でも……」
「別に俺は構わない。留美もいいよな」
「あ、うん」
相手の素性がはっきりしたせいか、いくらか落ち着きを取り戻した留美は頷いた。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
初穂は何故か嬉しそうに、おずおずと着席した。
ちょうどその時、注文のホットコーヒーとサンドイッチ、イチゴサンデーがテーブルの上を彩った。
すでに留美の視線は普段食べられない甘味に集中し、目の前に座った初穂を見ていない。
俺と初穂は、2人揃って苦笑した。
サンドイッチは俺と初穂で半分ずつ食べることにして、彼女は注文を届けにきた店員にロイヤルミルクティーを頼んだ。店員が伝票に新たな品目を記入するのを眺めながら、俺はコーヒーを一口啜る。
酒を飲むときと同じように舌で苦味のある液体を転がし、じっくりと味わってから食道へと流し込む。煎れたての熱くコクのある液体が喉を焦がし、心地よい。
「ふむ、こいつはなかなか……」
俺はサンドイッチに手を伸ばしながら呟いた。
留美に視線を向けると、彼女は一心不乱にイチゴサンデーを味わうことに集中している。スプーンですくったアイスクリームを口に運ぶたびに、留美の顔は幸せそうに歪んだ。それを見ていると、どことなく俺まで幸せな気持ちになってくる。
俺は2つ目のサンドイッチを食べ終えて、もう一口コーヒーを啜った。
そして次の瞬間、俺はその一口を噴き出した。
“ドゥンッ!”
かなりの近距離――少なくとも20メートルは離れていまい――で、銃声が鳴った。
最初に動いたのは俺で、その次は初穂だった。俺は銃声に驚いてフリーズした留美を抱え込むと、身を低くして屈み、初穂はテーブルに置かれた皿を全て地面に落とし、テーブルを横に倒して簡単な盾にした。
俺達の動きに一瞬遅れて、周りから悲鳴が上がった。それとほぼ同時に、俺達3人はテーブルの盾に身を隠した。
「兄さん! これは一体、うむ……!」
「黙っていろ!」
留美がパニック状態にならぬよう、口を塞ぎながら銃声のした方向へと視線を向ける。
――やはり、そう遠い距離ではなかった。目測で約14メートル先に、拳銃を持った男が1人と、脇差を持った男が1人。2人ともだらしなく口を開け、瞳には、生気がない。
「……どうやら、薬物常習者のようですね」
「なに?」
「2人ともポカン口から除ける歯並びは最悪で、唇からは不自然なほど涎が垂れてますから」
「……なるほど」
とすると、シナリオはこんなところか。
『薬物の売人が自分も麻薬に手を出し、常習者と化したものの、ある日麻薬の仕入れがストップないし困難なものになってしまい、自分達にまで回す余裕がなくなった。そして現在、錯乱状態にある』と。
「迷惑な話だ…」
俺は留美の口から手を離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「兄さん? どうしたの?」
「ちょっとこらしめに行ってくる」
「そう、懲らしめに――って、ええッ!?」
「ああいう輩は周りの人間を巻き込んで暴力を振り撒く。いつ、俺達にも実害がくるか分からないからな」
幸いにして相手はまともな判断能力を自ら失うことを選択した2人。無手でも、勝てないことはないだろう。
生憎今日、俺はブローニング・ハイパワーを所持していなかった。
留美と一緒に外出するときは、原則として拳銃は持たないようにしているのだ。
「初穂、すまないが留美を頼むぞ」
仮にも秘密結社〈ショッカー〉の人間なのだから、例え戦闘要員でなくとも護身ぐらいは出来るだろう。それに、あの夜公園で見せてもらった防御力……言葉は悪いが、盾としては申し分ない。
「はい、わかりました」
初穂の返事に頷いて、早々に俺は駆け出した。
ほんの14メートルの距離。本気で走れば2秒とかからずに現場にたどり着けるが、俺はあえて本気で走らなかった。
実際のところ、あの2人を倒してあまり目立ちたくはなかったし、今走っているのだって、側に居た留美の安全を確保するための行動だ。俺がこうして走っている間に、別の誰かがあの2人を止めてくれれば、それに越したことはない。
しかし、俺の淡い期待を叶えてくれる人物は誰一人としていなかった。
この時点で、俺は目の前のろくでなし2人を片付けることが決定してしまった。
正直泣きたい気持ちを抑えつつ、俺は2人の持っている得物を見る。
1人は通常の脇差だが、もう1人の持っている拳銃は米軍制式・コルト・ガバメントだった。おそらく、在日米軍ルートで手にしたものだろう。
名銃である。そして良銃である。出来ることなら、まともに戦いたくない相手だ。
しかし、案の定というかなんというか、まともな判断力を失った相手はガバメントのハンマーを起こすのを忘れていた。シングル・アクション・トリガーのガバメントは、次弾発射のためにいちいちハンマーを指で操作しなければならないのだ。相手は、弾が出るはずもないのに“カチカチッ”と無作為にトリガーを引き絞り、ガバメントを振り回していた。
(―――倒すなら、あいつから)
もはや銃器ではなく鈍器として使われているガバメント。その間合いは短く、もう1人の脇差使いよりもよっぽど倒しやすそうだった。
そうと決まれば話は早い。俺は軽く左の拳を握りつつ、一気に加速した。
無酸素運動、全力疾走の加速度をフルに活かして、相手に気付かれる間もなく、俺は正面から右手でフィンガージャブを放つ。
「ッ〜〜〜〜!!!」
突き出された5本の指は見事相手の眼球に炸裂し、声にならない悲鳴が上がる。
その悲鳴が終わるのを待たずして、俺は全力疾走のスピードと全体重を上乗せして、さらに回転を加えた右拳を放った。インパクトの瞬間に拳を強く握り、さらに威力を向上させる。
胸部を打たれた相手は、吹っ飛びこそしなかったものの、その場に仰向けになって倒れた。
俺は素早く手放された拳銃を掴むと、ハンマーを起こし、もう1人の脇差使いに銃口を向ける。
「な、な、な……」
突然の闖入者に、もう1人の男が大きく眼を見開く。冷静な判断力を失っていても、こうした生理的反応は出来るらしい。
だが、俺のような男が、その隙を逃すはずがない。
俺はガバメントの銃口を地面へと移し、トリガーを引き絞った。
“ドゥンッ!”
銃口を離れた45ACP弾は地球を抉った。
45口径特有の、巨大な銃声が鳴り響く。
「!」
その銃声に驚いて、脇差使いの体が、一瞬硬直した。
その一瞬の間隙を縫って、俺は奴の間合いへと侵入する。
「フッ」
人差し指から小指までの4本の、第2関節の鋭角を敵の鼻先に炸裂させる。
仰け反った瞬間、俺はガバメントのグリップで奴の股間を思いっきり打った。1キロを超える鉄の塊が、男の急所にめり込む。感触からして、どうやら竿ではなく袋の方に当たったらしい。
「ぐっ…ふはぁっ……」
男の急所を打たれて、情けない声を上げながら倒れる相手。
……まぁ、俺も男だからその痛みはよく分かる。
少しやりすぎたかと思いながらも、俺はガバメントのスライドを引いては放す、引いては放す、を5回繰り返した。1アクションこなすたびに、雷管にポツンと撃針の傷のない処女が排出されていく。5発の凶悪な破壊力を持った処女達は、アスファルトの上に転がった。
俺は空になった弾倉をグリップから抜くと、本体ごと地面に放った。そして、何度も踏みつける。
さすがに金属製の拳銃だけあって、本体を完全に破壊することは出来なかった。しかし、少なくともその形状を変形させることは出来たし、マガジンを壊すことは出来た。これで誰も、この銃を乱用することは出来ないはずだ。
「さて……」
茫然と見ているギャラリーを無視して、俺は喫茶店へ戻ろうと踵を返した。
……その時―――
“ドォンッ!”
「ッ! もう1人いたのか!?」
迂闊だった。『killing child』とあろう者が、目で見た情報だけで状況判断を下すとは……しかし、後悔してももう遅い。
俺はスターターを切る音に合わせて、真っ直ぐ駆け出していた。銃声は、俺が振り向いた方向から聞こえてきたのだ。最後の余韻から、距離は約20メートルといったところだろう。留美や初穂のいる喫茶店までが約14メートルだから、絶対に安全という距離ではない。
俺は最悪のケースが起こらないことを祈りながら、全力で走った。
しかし、神の教えに背いて人を殺し続けてきた俺に、神が微笑んでくれるはずもなく、最悪のケースは起きていた。
“ドォンッ!”
二度目の銃声は、先ほどよりも近い距離から聞こえた。単に俺が近付いているだけでなく、相手も動いているのだ。
「クソッ、間に合え!」
俺が先に辿り着くか、未だ見ぬ敵が先か。ハンデは8メートル。俺としては、相手が人並みの体力を持っていないことを願うのみだった。
「見えたッ!」
2秒と経たず、喫茶店が視界に入る。
そして同時に、拳銃を持った男が、留美と初穂に襲い掛かろうとする光景が見えた。
俺の心を、絶望が支配した。
(―――間に合わない!?)
そう、思った時だった。
“ドォンッ!”
……件の男は、幸運と不運の両方に恵まれていた。
幸運は、男が持っていた拳銃はリボルバーで、冷静な判断力を失っていても使えるダブル・アクション式であったこと。
不運は、襲おうとしていた留美の側にいる日系中国人の少女が、並外れた身体能力を有した、改造人間であったこと……
リボルバーの銃口は、上を向いていた。
男がトリガーを引くよりも早く、初穂が掌底で男の手首を下から打ったのだ。あられもない方向へと銃弾は飛び、他の店の看板に命中する。プラスチックだったのが幸いして、広範囲にわたって破片を放出することはなかった。
ほっと一息つく間もなく、続いて初穂は弾いた男の手首を掴むと、ぐっと人外の腕力で男を引いて、押して、バランスが崩れたところを一気に投げた!
男の巨体が宙で弧を描き、“ドスンッ”と、地面に叩きつけられる。
宙を飛んでいる間に手放されたのだろう、リボルバーが俺の足元まで転がってきた。足を動かすのを止めずに、両手でリボルバーをキャッチする。ちょうど、アメフトの要領だ。キャッチしたのはアメリカ製・S&W・M10だった。
俺はジャンパーの大き目のポケットに無造作にねじ込む。200ミリを超える全長のため、グリップの部分がそのまま出てしまったが、気にしないでおいた。
「留美! 初穂!」
ようやく2人の元に辿り着いて、俺は肩で息を切らしながら立ち止まった。
「大丈夫か、留美!?」
「…………」
留美の返事はなかった。
留美は茫然として、立ち尽くしていた。おそらく、今しがた目の前で起きた光景すべてが信じられないのだろう。こんな俺を兄に持つ留美だったが、実際にそうした場面に遭遇するのは、今日が初めてなのである。まして、初対面の初穂が放った強烈な投げ技を見ては……
俺は留美の肩を抱き、少し強く彼女を揺さぶった。
「留美、しっかりしろ、留美!」
「え? あ、に、兄さん……」
ようやく正気を取り戻した留美。
ほっと安堵の息をつく間もなく、俺は自身の体全体に、強い衝撃を感じた。
「兄さん!」
「……っとと」
ふわりと、女性特有の香りと一緒に寄りかかる温かな重み。
自分に銃口が向けられたときのことを思い出したのだろう、目尻一杯に涙を浮かべ、留美は抱きついてきた。
「恐かった…恐かったよぉ……」
「大丈夫…もう大丈夫だ……」
年齢以上に幼く見えてしまう留美の頭を、背中を撫でさすりながら、俺は留美に言葉をかける。
あまりにも小さく、俺の力で触れれば折れそうなほど、細い体……
(無事でよかった……)
――ふと、視線を留美の頭部から上へずらすと、初穂と目が合った。
どこか羨ましそうな表情はともかくとして、初穂がいなかったら、留美は死んでいたかもしれない。
初穂がいなければ、俺は大切なものを失っていたかもしれない。
「ありがとう……」
人間では、至近距離であっても聞こえないであろうほど、小さな囁き。
改造人間である初穂には聞こえるであろうと思い、俺は万感の想いを込めて、その言葉を口にした。
その夜、俺は自室でブローニング・ハイパワーの手入れをしながら、今日の出来事を回想していた。
「失敗だったな……」
誰に言うでもなく――しいて言えば、物言わぬ鉄の塊に対して――独り呟く。
後顧の憂いがないようにと、あの時は最善だと思って下した判断と行動。しかしそれは、結果的に留美を危険に晒してしまうこととなった。もし、あの場に初穂がいなかったら…もし、相手の男に冷静な判断を下せるだけの理性が残っていたら……今考えても、ぞっとする。
「すべては俺の力不足か……」
限界なのかもしれない。
俺一人で、留美の今と、これからの人生を守るには、もっと大きな力が必要なのかもしれない。
この、ブローニング・ハイパワーよりも、ずっと強大な力が……
そして幸いないことに、その強大な力を俺に与えられる者達は、あちらの方から俺に接触を図ってきた。
なんというタイミング。なんという巡り合わせ。これが世に言う天の采配だとすれば、神様とやらはあまりにも皮肉屋だ。そして、残酷だ。
なぜなら、その決断を下すことは、悪魔との契約書にサインをすることに他ならないのだから。
人の骨肉を捨て、まったく別次元の存在へと『変身』する。いっそ俺が人の身を捨ててしまえば、その気になればこの国を滅ぼすだけの強大な力が手に入るだろう。
だが、気がかりなのは留美はそれを喜んでくれるだろうか、ということだ。
……いや、結論はすでに出ている。喜んではくれまい。それどころか、罵倒してくれれば良いほうで、もしかしたらただ哀れんでくれるだけかもしれない。
嫌われるだけならまだいい。しかし、人でなくなってしまった自分を受け入れ、憐憫の情をかけられは……おそらく、俺は再起不能であろう。『俺のしたことはなんだったのか』と、後悔するに違いない。
―――否、それは言い逃れだ。
『留美のため』、『留美のこと』を言い訳に、俺は恐がっているのだ。
自分が人でなくなってしまうことを、恐れている。
普通の神経をした人間なら、当然のことだ。自分が自分でなくなってしまうなど……恐怖以外の何ものでもない。
―――否、これすらも言い訳なのかもしれない。
「……どっちが、俺の本心なんだろうな?」
思考のループに入り始めたところで、ようやくブローニングの手入れが終わった。余分なガンオイルを拭き取り、愛用のホルスターにしまう。
ブローニングを見ていると、脳裏に、あの夜の光景が蘇った。
あの夜、一瞬だけ垣間見た、改造人間の、絶大なる力。
「―――覚悟を決めろ、闇舞北斗! お前は、留美を…愛する者を守りたいんだろ!?」
自らを一喝し、自らを追い詰めて、決断を迫る。
俺の意思は……今、この瞬間決まった。
俺はもはや人にして人にあらず。世の理の外を歩き、世に乱をもたらす修羅。
この命、この体、愛する者ためならば、喜んで鬼としよう。
……たとえ愛する者が、変わってしまった我が身を見て、涙を流したとしても……
――俺は……………………
「――お前達の申し出、受けさせてもらおう」
〜設定〜
“レミントンM700”
口径:7.62mm×51(308Win)
全長:1662mm 銃身長:660mm 重量:4080g
装弾数:5発 ライフリング:6条/右回り
有効射程:900m
アメリカの老舗銃器メーカー・レミントン社が作ったボルト・アクション式のスナイパー・ライフル。世界最高水準の性能、耐久性を誇り、先日日本の自衛隊でも軍用モデルのM24が制式採用された。
狩猟用ながら高い命中精度には定評があり、ベトナム戦争では当時の軍用スナイパー・ライフルであったM21にとって代わって、スナイパー達は“私物”として持ち込んで、大きな戦果を挙げた。
全話において、バネッサが使用したレミントンは耐久性の高いヘビーバレルを使用したタイプで、厳しい環境下でも如何なくその性能を発揮できる代物。
“U.S. M1911A1”
口径:11.43mm×23(45ACP)
全長:216mm 銃身長:127mm 重量:1100g
装弾数:7発+1 ライフリング:6条/左回り
俗称、コルト・ガバメント。
天才銃器設計者・ジョン・M・ブローニングが設計した拳銃で、大口径主義アメリカを象徴する拳銃。元米全軍制式拳銃でもある。
基礎設計がしっかりしており、最初のモデルの発売からもうじき100年経とうとしているが未だ人気の拳銃で、特許が切れたことから多くのメーカーで生産されている。威力、命中精度、信頼性のすべてにおいて優れた性能を誇る。
ちなみに北斗が初めて撃った拳銃。ガバメントといい、ブローニング・ハイパワーといい、どうやら北斗はブローニングが好きらしい。
“ステンMkUサイレンサーSMG”
口径:9mm×19(9mmルガー)
全長:932mm 銃身長:351mm 重量:3780g
装弾数:32発 ライフリング:6条/右回り
連射速度:450発/分
『世界一安い短機関銃』とすら言われるサブ・マシンガンのサイレンサー・モデル。
サイレンサーというのは、大雑把にいえば“銃声”の音エネルギーを熱エネルギーに変えて消音をする装置である。
そのため、連射によって連続的に排莢を行うサブ・マシンガンは、常に銃声以外の面で“音”を発生させており、消音というより、低音化を狙ってサイレンサーが付けられる。
ステンMkUサイレンサーSMGもまた、そうした低音化を狙ってサイレンサーを標準装備されたサブ・マシンガンである。名前からも分かるように、ベースとなった銃はステンMkUといい、第2次世界大戦中に開発されたものである。
大戦中、慢性的なオートマチック小火器不足に悩まされていたイギリスは、戦時下という混沌とした状況においても大量生産可能な、単純な構造をした、生産性のよい小火器を求めていた。極端な話、専門の工場のみならず、普通の、一般の金属加工工場でも生産可能な小火器を、必要としていたのだ。そうした中、開発・製造されたのがステン・サブマシンガンシリーズであり、ステンMkUは、その2代目モデルである。
ステンMkUサイレンサーの構造は、基本的にステンMkUと大差ない。そして、ステンMkUは初代ステンMkTの基本構造を踏まえて設計されている。ステンMkTはパイプ状の単純なレシーバーを装備。ブロー・バックのボルトが組み込まれ、オープン・ボルトで射撃する。オーソドックスな機構だが、その分整備性と信頼性は極めて高い。
ステンMkU・サイレンサーは、第二次欧州大戦中、イギリスの特殊コマンド部隊やSASなどに使用された。
〜あとがき〜
タハ乱暴「今回は前編なので割愛」