「幸せの溜め息」
久しぶりに立ち寄ったさざなみ寮は相変わらず賑やかで、懐かしい空気に満ちていた。
恭也くんの膝が完治して、その快気祝いのパーティ会場になったさざなみ寮。
主賓の彼は下戸と言い張っていたにも拘らずたくさんお酒を飲まされて、目を回して倒れている。
いや彼だけでなく、パーティが始まって三時間後のリビングには、酔いつぶれて眠ってしまった人たちの山がうず高く積みあがっていた。
いまこの場で意識を保っているのは真雪さんとリスティ、桃子さんとなのはちゃん、美紗斗の他に、耕介さんとわたしくらいだった。
「悪いね、フィリス。手伝ってもらっちゃって」
「いいえ。好きでやっていることですから」
後片付けを手伝いながら、わたしは耕介さんに微笑みかけた。
パーティ最大の功労者は、流し台の前に立って、ディナー・タイムのレストランの厨房さながらの汚れ物と格闘している。
大量のお皿にも拘らず嬉しそうな表情を浮かべているのは、どのお皿にも食べ残しがまったく見られないからだろうか。根が料理人の耕介さんにとって、自分の作った料理を残さず食べてくれたというのは、最高の栄誉なのかもしれない。
洗い物を着々とこなしていくその手際は良く、無駄らしい無駄がまったく見られない。たぶん、わたしがやるよりもずっと速く、正確な手つきだ。
普段から料理をしている身と、医者の仕事で普段料理をする暇もない身の違いがあるとはいえ、女として負けたような気分がしてなんとなく悔しい。
手にした布巾でテーブルを拭き終えたわたしは、「そちらも手伝いましょうか?」なんて、言ってみる。
でも、返ってきたのは、「もうすぐ終わるから」という、隙のない返事。
実際、耕介さんの手元にはもうほとんど洗い物は残ってなくて、三十人近くで騒いだのが嘘みたいに片付いていた。
「翠屋の厨房ならもっと早く終わったかもな」
それなのに耕介さんは平然とそんなことを呟いてみせる。
少しくらいその主婦スキルを分けてほしいものだと思いながら、耕介さんに嫉妬している自分に気が付いて、わたしは苦笑した。
洗い物を終えた耕介さんはリビングで寝ているみんなに毛布をかけてあげると、
「ちょっと酔いを醒ましてきます」
と、いまだ晩酌を続けている真雪さんたちに断って庭に出た。
酔っていたのはわたしも同じで、一緒に外に出る。
普段は医者という仕事の関係上、飲酒はなるべく控えているけれど、今日はちょっと飲みすぎたみたい。火照りを帯びた頬に夜風が気持ちよくて、思わず溜め息をこぼしてしまう。
「幸せが逃げるぞ?」
耕介さんが笑いながらそう言った。
古いロジックを口ずさみ、自分も夜風に身をゆだねる。
山の澄んだ空気に頬を撫でられ、はぁっ、と溜め息をひとつ。
「幸せが逃げますよ?」
わたしは笑いながら耕介さんに言った。
「これは良い酒を飲んで幸せになった証だからいいんだよ」
「じゃあ、わたしもです。わたしもいま、幸せですから」
幸せすぎるから、溜め息が出てしまう。
それはいまのわたしの偽らざる本心だ。
「リスティに彼氏ができて、その彼氏が恭也くんで、その、姉の彼氏の身体を治すことができたんですから」
「そうだな」
わたしの言葉に、耕介さんは同意して頷いた。
「俺も、リスティに恋人ができて嬉しいよ」
耕介さんは呟いてから、わたしではなく空を見上げた。
山の清浄な大気に浮かび上がった星が、いくつかの星座を形作っている。
天体観測には疎いわたしだけど、オリオン座くらいはわかった。きっとあの三つの星を線で繋いだのが、冬の大三角形なんだろう。
「……正直言うと、少しだけ不安だったんだ」
目線は夜空に浮かぶ星の並びに向けたまま。浮かべた微笑はどこまでも優しく。耕介さんは、口を開く。
「生い立ちが、生い立ちだから、さ。もしかしたらリスティは、人並みの幸せを得られないんじゃないかって、思う時もあったんだ」
リスティの……ううん、リスティと、わたしと、今日は都合がつかなくて来られなかったけれど、もう一人の妹を含めた三人の生い立ち。暖かいお母さんのお腹の中じゃなく、冷たい試験管の中で生まれたわたしたちの秘密。
高機能遺伝子障害というだけで、他の健康な人たちと差別される世の中だ。
それを思えば、耕介さんの不安は無理もないことだった。
「あの娘の秘密を知って、それでもあの娘と真剣に付き合ってくれる人なんて、一生現われないんじゃないかって、すごく不安だった」
高機能遺伝子障害と向き合って生きていくのは本当に難しい。聞いた話でしかないが、知佳ちゃんは他ならぬ肉親にまでその存在を疎まれていたという。
ましてや赤の他人の男と女が一緒になるなんて、ほとんど例のないケースだ。
「でも、恭也くんは……」
「うん。リスティを受け入れてくれた」
いまだリビングで意識を失っているだろう青年のことを思い出したか、耕介さんは苦笑した。
「リスティの性格や仕事の内容、それに、あの娘の秘密も、全部知った上で、受け入れてくれた。全部受け入れた上で、『リスティさんは俺が守ります』って、俺に誓ってくれた。……娘を嫁に出すみたいでちょっと寂しかったけど、嬉しかったよ」
天を仰ぐその目尻に、きらり、と一瞬光るものが見えたのは、わたしの気のせいだったのか。
穏やかに、少しだけ寂しそうに笑って、耕介さんはわたしを見た。
その瞳に、涙の気配はない。
「リスティ、幸せになれますよね?」
「彼となら、きっと」
耕介さんは確信した口調で言い切ると、リビングのほうへ目線をやった。
いつまでも唸っている恭也を見てさすがに心配になったか、真雪との晩酌を中断したリスティが彼を介抱している。
真雪にからかわれながらも、嬉しそうに照れ笑いを浮かべる姉の姿は、とても幸せそうに見えた。
ちょぴりの羨ましさが、胸の奥から込み上げてくる。
「……それにしても、娘みたいな存在だったリスティに、先を越されるなんてなぁ」
耕介さんはおどけた口調で言った。それから、溜め息をひとつこぼす。
耕介さんはいまだ独身で、恋人のいない身だった。
わたしはまた笑って、
「幸せが逃げますよ?」
と、使い古されたフレーズを口にする。
すると耕介さんもまた笑って、
「いいんだよ。いまのは苦労をかけてばかりの娘に立派な彼氏が出来たっていう幸せの溜め息なんだから」
と、本音なのか、強がりなのか、判断に迷う言葉を紡いだ。
「耕介さんは、そういう人はまだ?」
「残念ながら、いまのところ。密かに狙っていた幼馴染は、美少年に取られちゃったし。……そういうフィリスは?」
「わたしも、まだ。……密かに狙っていた恭也くんは、姉に取られちゃいましたし」
わたしと耕介さんは顔を見合わせた。
そして、どちらからとなく噴き出して、笑い合った。
「幸せになりたいですね。リスティに負けないくらい」
「そうだね」
わたしと耕介さんは、同時に溜め息をこぼした。
幸せが逃げてしまうなんて、景気の悪い溜め息じゃない。
幸せだからこぼせる、贅沢な溜め息だ。
お酒で火照った頬が、良い感じに冷えてきた。
わたしと耕介さんは、幸せの詰まったリビングへと足を踏み入れた。
あとがき
永遠のアセリアAnotherの執筆がキリの良いところまでいってPCの電源を落としたのが夜中の午前二時半。それから布団に潜り込んで三十分後の午前三時頃に、突然頭の中に浮かんだ話がこれです。正直、ただいま非常に眠いです。
勢いのみで書いた上、文量的にもSSのレベル。いつも短編以上の文量を書いている男ですから、奇妙な不安に苛まれていますが、まぁ、生暖かい目で読んでやってください。
それにしても、ホント、SSなんて久しぶりに書いたなぁ〜。非公開作品含めても二年半ぶりかぁぁ……。たまにはいいですね、短文も。短文だけにいまの己の実力がよく分かるっていう……うん、ズタボロだ。
お読みいただき、ありがとうございました!
短編の投稿〜。
美姫 「主賓たる二人ではなく、耕介たちのお話ね」
うんうん。上手く言えないが、二人の会話とかが温かいよね。
美姫 「家族を大事に思っているのが分かるわね」
ほのぼのとするお話でした。
美姫 「ありがとうございます」