――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、よっつの日、深夜。
サモドア山脈はバーンライトの王都サモドアを中心に南北に広がる、巨大な山岳地帯である。海抜一〇〇〇メートル超の山々が連なるこの山地は、バーンライトが聖ヨト王国の一領地にすぎなかった時代から、この地方の人々の経済基盤を支える要地とされてきた。サモドアの山々からは鉄鉱石の他、銅やスズを含む鉱石が大量に採れ、東のラジード山脈同様、大陸有数の大鉱脈として人々の懐を温めてきた。
しかし人々に多大なる恵みを与える一方で、サモドア山脈は人の命を奪う魔の土地でもあった。なんといっても海抜一〇〇〇メートル超の山々が軒を連ねる山地だ。鉱山に勤める人足達の事故は絶えず、酷いときなどは年間に八〇人以上が死亡、あるいは行方不明になる有様だった。
サモドア山道はもともと、そうした鉱山労働者達の負担を減らし、採掘作業の効率化を図り、転じて事故や行方不明の件数を減少させることを目的に整備された。
聖ヨト暦一三二年、時の聖ヨト王エルリック・イル・ロードザリアが、サモドアと採掘現場を繋ぐ道を整備したのがその始まりだ。以来、聖ヨト王国時代に四度、バーンライト王国になってからは二度の大規模工事を施され、山道は現在の形に落ち着いた。すなわち、バーンライト王都サモドアと、ラキオス領ラセリオとを結ぶ、全長八〇キロメートルの巨大街道としての形態だ。聖ヨト王国時代、山脈から採れた鉱物資源はサモドアだけでなく、ラセリオにも運ばれた。山道が現在も斯様に長大なままなのは、その時代の名残といえた。
バーンライト王国がサモドア山道を始めて軍事作戦に活用したのは、聖ヨト暦二八六年のことだった。
この年のスリハの月、青、みっつの日、サモドア山道を一気に駆け下りたバーンライト王国軍のスピリット部隊が、ラセリオを強襲したのだ。襲撃は夜陰に乗じての奇襲で、ラキオス側は迎撃には成功したものの多大なる損害を被った。
この成果に気を良くしたバーンライト王国軍は、以来、サモドア山道を通過しての攻撃を自軍の戦闘ドクトリンとして訓練するようになった。従来は戦争が起こるその都度編成していた山岳大隊を常設の部隊とするようになったのも、この時からだ。
他方、ラキオス軍もまた、バーンライト側のこのような動きを受けて、ラセリオの防御を強化するようになった。それ以前、ラキオスはエルスサーオにスピリット三個大隊を置き、ラセリオには申し訳程度の戦力しか置いていなかった。しかし、敵がサモドア山道より攻めてくる危険性に気が付いてからは、エルスサーオより戦力を抽出、現在のようなスピリット二個大隊を基幹とする防衛態勢を整えた。一方に戦力を集中させていては、もう一方から敵が攻めてきた時に対処出来ない。両国の睨み合いが長く続いた背景には、こうした理由もあったのだった。
時間は現在に戻る。
ラセリオ方面軍がバーンライト起死回生の奇策・迅雷作戦の存在を知ったのは、黒、ひとつの日の早朝のことだった。
バーンライト王国の精鋭山岳大隊が、王都ラキオスへの攻撃を目標とする特殊作戦を開始した。防衛力の充実しているラセリオを無視し、主力不在のラキオスを叩く腹積もりだ。その目的は、王都を直接打撃することで、我が軍の士気を阻喪させることにある。
情報部のエージェントの口から作戦の概要とその参加戦力、作戦の目的などを知らされた方面軍司令は、早速、軍の主要なメンバーを集めて、対策を練った。
情報部職員から聞かされた内容をそっくりそのまま口にした司令は、軍議の席で広く意見を募った。
敵山岳大隊を迎撃するのは勿論だが、問題はいつ、どこで敵を迎え撃つかということだ。
国境線を越境されてからの迎撃では遅い。ラセリオ・サモドア間の国境線の近くには、広大なリュケイレムの森がある。越境後すぐに森の中に逃げ込まれれば、その後の捜索や迎撃は困難を極めるだろう。手をこまねいているうちに、山岳大隊が王都に接近する公算は高かった。
侃々諤々の会議の末に、やがて決定したのは水際での迎撃方針だった。
ラキオスの領土を寸土たりとも踏ませることなく、越境の兆候があり次第、水際でこれを阻止する。
方面軍の頭脳達は、この方針に沿って作戦を練った。
肝要なのは、サモドア山道を下山してくる敵部隊のいち早い発見だ。一秒でも早く敵を見つけることが出来れば、それだけ素早い対応が取れる。
方面軍司令は、まず国境線警備の任に就くスピリットの増員を決定した。
従来はスピリット一個小隊で行っていた国境線の警備を、三個小隊で実施することにしたのだ。スピリット三個小隊とはすなわち、ラースに一部戦力を派遣している現在のラセリオ方面軍が保有するスピリット戦力の半数を意味していた。
ラセリオ方面軍が擁するスピリット部隊は、
二〇一スピリット大隊……定数、スピリット一二体
二〇二スピリット大隊……定数、スピリット一二体
の、二個大隊。
ともに現在は定数の七五パーセントしか満たしていなかったが、ラセリオという敵国境線に近い場所ゆえに訓練は充実しており、各員は高い能力を誇っていた。実戦経験の豊富さではエルスサーオ方面軍の部隊には劣るが、精鋭と呼んでも差し支えないだろう。
方面軍司令は、両大隊に交代で国境線警備の任に就くよう命令を下した。
交代の期間は一週間(有限世界の一週間は五日間)。
また方面軍司令は、一方の大隊が警備任務を担当している間、もう一方の部隊には、ラセリオで即応態勢のまま待機するよう命令した。国境線付近で何か動きがあった場合に、残りの戦力をすぐ動かせるようにするためだ。
さらに方面軍司令は、ラースに向けて伝令を走らせた。彼の地に派遣していたスピリット二個小隊を呼び戻すためだ。ラセリオとラースとの距離は約一六〇キロメートル。伝令の通信兵には優駿を託し、早くて七日、遅くとも十日後には、方面軍スピリット部隊の全戦力が集結するはずだった。
迎撃作戦の概要は、およそ次のようなものとなる。
まず、警備部隊は敵の越境の兆候を認め次第、すぐに伝令をラセリオに向かわせる。以後はその場に留まって時間稼ぎに努め、伝令が残りの戦力を前線に連れてきたら、これと協力して敵を粉砕する。
ラセリオ基地から国境線監視所までは約十キロメートル。青や黒スピリットが空を飛べば、片道五分とかからぬ距離だ。赤や緑のスピリットの足でも、神剣の力を解放した状態なら十五分とかからない。早くて三十分。遅くとも二時間後には、前線に戦力が揃う手はずになっていた。
時に聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、ひとつの日、正午のこと。
方面軍司令は、一連の迎撃プランを“ンヌ・セィン・サト”計画と名付け、発動した。地球の言語に直せば、で“土の壁”計画となるか。
警備部隊第一陣は二〇一スピリット大隊のスピリット九体。その中には、アセリア・ブルースピリットの幼馴染のセリア・青スピリットの姿もあった。
彼女達は翌日早朝にラセリオを経ち、その日の正午過ぎには国境線監視所に到着した。
ラセリオ方面の国境線監視所は、サモドア山脈最北の山……ウテミ山のふもとにある狭い平野に建てられていた。
監視所が築かれた土地は、リーザリオ西部の湖から流れてくる大河のおかげで肥沃な土壌を持っていたが、なんといっても敵国国境線の付近だ。田園風景広がるのどかな景色……とはいかなかった。
互いに相手の動きがよく見えるように、と遮蔽物が取り除かれた平野は見通しよく、殺伐とした景観を作っていた。
国境線の近くまでやって来た二〇一大隊のスピリット達は、早速、神剣レーダーを駆使して国境線周辺を走査した。
自分達以外の神剣の気配がないか。あるとすればそれはいくつ感じられるか。情報部のエージェントの言によれば、敵山岳大隊の陣容はスピリットが一五体。迅雷作戦にはその全戦力が参加しているというから、その気配はかなりの数が知覚出来るはず。
二〇一大隊は、注意深く、そして忍耐強く国境線の向こう側の様子を窺った。
敵方の監視所では、急にこちらのスピリットの数が増えて唖然としていたが、特に動きはなかった。監視所に勤める兵士達は迅雷作戦のことを聞かされていないらしく、九人ものスピリットを見てあたふたしているだけだった。
一日が過ぎ、二日が過ぎた。
その間、敵スピリットの気配はまったく感じられなかった。
やがて動きがあったのは、二〇一大隊が国境線付近に陣を張って三日目の夜のことだった。
深夜。
セリアの小隊とは別の小隊が、国境線の向こう側に多数の神剣の気配を感知した。全部で一五。情報にあった山岳大隊の人数と、同じ数だ。
これは敵の迅雷作戦に間違いないと判じた大隊長のスピリットは、赤スピリットの一人を伝令に走らせ、後の者には臨戦態勢を取らせた。
敵の神剣が発するマナの気配は、徐々に大きく、強圧的なものになっていった。どうやら敵山岳大隊も、この場に少なくない敵スピリットがいることに気付いているらしかった。
目には目を。
臨戦態勢を取った敵に対し、我が方もまた、戦う姿勢を見せた。
決して広いとは言えない平野に、剣呑な、そして濃密なマナが辺りに充満する。
睨み合いは、長くは続かなかった。
先に仕掛けてきたのは敵山岳大隊。その陣容は、青が三、赤が二、緑が二、黒が八という、黒スピリットに重きを置いた編成だった。
山岳大隊の黒スピリット達は、赤スピリットの神剣魔法の援護の下、二〇一大隊を襲撃した。
対する精鋭二〇一大隊のスピリット八体は、青と緑のスピリットを中心に防御に専念した。
自分達の当面の目的は、援軍が到着するまでの時間を稼ぐことだ。反撃は最小限に留め、とにかく防御に徹する。一時間も粘れば、やがて二〇二大隊のスピリットも到着するだろう。反攻に転じるのは、それからだ。
防御を固めた二〇一大隊の戦術は手堅く、数で優勢な山岳大隊といえど、正面突破は困難に思われた。事実、山岳大隊のファースト・ストライクを、二〇一大隊は凌ぎきった。
これならばいける。
自分達は、精鋭山岳大隊を相手に十分戦える。
二〇一大隊のスピリット達は大きな自信と決意を胸に、その場に踏み止まった。
そして、
そして――――――
二〇一大隊は、四半刻も経たぬうちに、壊滅した。
◇
敵は防御を固めて我が方の攻撃を凌ぎ続けるつもりだ。
ファースト・ストライクを防がれた手応えから、ラキオス・スピリット隊の戦術方針を正確に見破ったバーンライト山岳大隊は、同時に敵の狙いをも看破した。
ラキオス側は援軍が到着するまでの時間を稼ぐつもりだ。積極的な攻撃は最初から視野になく、あくまでも防御に徹するつもりだろう。敵の数はスピリット八体。三人一個小隊が編成の基本単位であるスピリット部隊としては、少し奇妙な人数だ。おそらく欠員の一人は、今頃、ラセリオで待機している仲間を呼びに行っているのだろう。
時間をかければそれだけこちらが不利になる。
戦況を素早く、そして正確に見極めた山岳大隊は、短期決着を目指して戦術を組み立てた。すなわち、敵スピリット部隊に二人いる、緑スピリットを集中的に狙う作戦だ。
強力な防御の盾を持ち、回復魔法を使える緑スピリットは、持久戦には欠かせない存在だ。逆に言えば、緑スピリットを倒せば敵の防御力は半減する。そうなれば、あとは数で勝る我が方の思うがままだ。
かくして、作戦を立てた山岳大隊は、敵の防御の要に対し猛攻を仕掛けた。
山岳大隊が擁するスピリットは一五体。このうち、主力を務めるのは八体いる黒スピリットだ。
一撃の威力こそ青スピリットに劣る黒スピリットだが、その攻撃は高い瞬発力を活かした苛烈極まりないもの。一瞬のうちに、何発もの斬撃を叩き込むことが出来た。
緑スピリットの防御とて無敵ではない。コンマ一秒ほどの寸暇もなく攻め立てられれば、必ずどこかに防御の穴が生じるはずだ。
山岳大隊の読み通り、五個の小隊から代わる代わる執拗な責め苦を受けた二人の緑スピリットはやがて力尽き、消滅した。
それからの展開は一方的だった。
緑スピリットを失ったラキオスのスピリット部隊は、もはや持久戦は不可能と判断したらしく、果敢に打って出た。
しかし、数で勝る敵に対し、正面から攻め込むのは愚策以外の何物でもない。ましてや、これが駄目だったから次はこれ、というような場当たり的な攻勢が通用するほど、山岳大隊は甘くはなかった。
山岳大隊は向かってくる敵スピリット達を、一体ずつ各個撃破していった。
敵部隊は急速にその数をすり減らし、ついには青スピリットが一人と、赤スピリットが一人の二体だけとなった。
山岳大隊の勝利は、時間の問題かと思われた。
◇
――山岳大隊は精鋭と聞いていたけど、まさか、これほどとはね……。
敵の赤スピリットが放ったファイアボルトの弾幕を岩陰にてやり過ごしながら、二〇一大隊の生き残り……セリア・青スピリットは小さく溜め息をついた。
彼女の所属する二〇一大隊が壊滅したのはつい先ほどこと。防御と回復の要たる緑スピリットを早々に撃破され、それからは一方的な展開だった。こちらも必死に応戦して、なんとか敵を二体撃破したものの、大勢は変わらず、二〇一大隊は坂道を転がり落ちるかの如く壊滅した。
一般に軍隊では、死傷者が三割に達するとその部隊は壊滅した、と判断される。三割もの死傷者が出るような激しい戦闘では、消耗がまったくない者などほとんどいない。それだけの損害を出した頃にはもう、まともな戦力として数えられる兵力は半分を切っている、と考えられるためだ。
その半分の戦力とて、実際の戦闘では負傷者の後送や部隊司令部の防衛などに兵力を割かねばならないから、敵との戦闘が可能なのはよくて三割程度でしかない。部隊の全戦力が健在な時でさえ勝てなかった相手に、僅か三割の戦力で挑んで勝てるはずもない。
いまやラキオス・スピリット隊で生き残っているのは、自分と赤のスピリットがもう一人の二名のみ。その二人ともが、やはり大なり小なりの傷を負っていた。幸か不幸か、ダメージの蓄積は戦闘が可能な範囲に留まっていたが、かといって無視出来るレヴェルの消耗でもなかった。ともに体力は限界に達し、神剣が戦闘用に貯蔵しているマナも、残り僅かとなっていた。
他方、敵山岳大隊はいまだ一三体もの戦力を擁している。しかも我が方と違って緑スピリットが健在だから、消耗は最小限に抑えられている様子だった。苛烈に攻めながらもしっかり回復を忘れない抜け目のなさは、流石バーンライト最強の部隊といったところか。
――質で負け、量で負け、しかもこちらは消耗している。この戦況を覆すような作戦は……あるわけがないわね。
敵の神剣魔法が巻き起こす粉塵をかぶり、煤けた頬のセリアは諦めたように嘆息した。
駄目元で、同じ岩肌に背中を預け、隣に座る戦友に問いかける。
「……ナナルゥ、あなた、この状況をどうにか出来る作戦、ある?」
「……彼我の戦力、戦場の地形など、考えられるあらゆる要素を分析してみましたが、この劣勢を覆せるような作戦はないと判断します」
淀みのない口調で淡白に言い切ったのは、同期のナナルゥ・赤スピリットだった。
強力な赤の神剣魔法のエキスパートで、二〇一大隊の攻撃の要たるスピリットだ。特に広域神剣魔法の技量に長けており、彼女の放つフレイムシャワーは、制圧面積・威力・精度のすべてにおいて、王国軍でも一、二を争う性能を誇っていた。
しかし、強力な神剣魔法を使える一方で、ナナルゥは神剣との同化が進んだスピリットでもあった。
同化とは、神剣の意志に使い手の精神が侵食される現象で、進行の程度次第では、人格破壊や、最悪の場合、神剣に精神を乗っ取られることにも繋がる、恐ろしい病のようなものだ。神剣の意志力は、上位の神剣であればあるほどに、マナを吸って成長すればするほどに強くなっていく。神剣との同化現象は、永遠神剣を戦闘に使う以上避けられぬ危険だった。
同化が進めば、神剣からより大きな力を引き出すことが出来るようになる。
ナナルゥの場合も例に漏れず、彼女は自我と引き換えに、強大な戦闘力を得ている、といっても過言ではなかった。
状況を把握し、分析する能力には優れるが、自分から作戦を立案したりする創造力には欠ける。というより、創造力を神剣によって破壊されてしまった、というべきか。時折、口にする作戦や戦術の案は、教科書通りの内容ばかりというのが常だった。
もはや打つ手はなしか。
ナナルゥの非生産的な返答にまた溜め息をつきながら、セリアは抜き身の愛剣の柄を握る手の内を練った。
永遠神剣第七位〈熱病〉。自分がこの世界に生を受けたその瞬間から、片時も離れたことのない片手半剣型の相棒を握り締め、セリアは気息を整えた。
この劣勢を覆すような上策がない現状、この上は五体に残る最後の力を振り絞って暴れ回り、少しでも敵に損害を与えるのが得策だろう。少なくとも、後に続く者達のためにはなる。
――ふふっ。アセリアといい、今回といい、私の人生は、誰かのフォローばかりね。
幼馴染の青スピリットが常に浮かべていた無表情と、彼女が起こすトラブルの後始末に奔走していた日々を思い出し、セリアは自嘲気味に笑った。そういえば己は、自分の我が侭を通したことが一度もない。いつも、誰かのサポート役ばかり務めていたような気がする。もしや自分の生は、そういう星回りの下にあったのか。
――フォローといえば、あの人……。
不意に頭の中に浮かんできたのは、数ヶ月前、ラセリオにやって来た一人の男の顔。新たに創設した部隊の隊員のメンタル・ケアのため、ラキオスからラセリオまで自ら足を運んできた男。エトランジェ、桜坂柳也。
方面軍上層部からまことしやかに聞こえてきた噂によれば、今回の対バーンライト戦略の概要は、ラキオス王ではなく、彼が立案し、練ったものだという。
あの時、他人のフォローのために走っていた彼は、今頃、どうしているだろうか。戦場の表舞台で、華々しく活躍しているだろうか。
だとすれば羨ましい限りだ。自分も、一度くらいは他人に煩わされることなく、思いっきり戦場を駆け抜けてみたかった。
――……いいえ、いまが、その時ね……!
〈熱病〉を握る両手に、力が篭もった。
これが人生最後の戦いなら、どうせ散る命だ。誰かのためではなく、自分のために、思いっきり暴れてやろう。
隣に座るナナルゥを見る。
燃え盛る炎のようなオレンジ色の長い髪が特徴的な彼女も、敵の攻撃を前に髪からは、すっかり、艶が失われていた。
「こちらから攻めるわ。一人でも多くを倒す。フレイムシャワーは?」
「あと一度だけなら」
「詠唱を始めて。私が飛び出すのと同時に、撃ってちょうだい」
「了解しました」
ナナルゥが頷くと、彼女の足下に真紅の魔法陣が展開した。
彼女の持つ永遠神剣、ダブルセイバー型の、第八位〈消沈〉を中心に、周囲の気温が急激に上昇していく。ナナルゥの静かな呪文詠唱に応じて、大気や大地が含む赤マナが活性化しているようだった。
フレイムシャワーの名手、ナナルゥ・赤スピリットの呪文詠唱から神剣魔法発動までの時間は短い。神剣の扱いに長ける彼女は、長々と呪文を唱えずとも、マナを炎に変え、その炎に、敵に向かって飛ばすといった指向性を持たせることが出来た。
やがて数秒も経たぬうちに、ナナルゥの準備は整った。彼女が一声発すれば、テニスコート半分ほどの面積が焼け野原となるだろう。
セリアは岩陰に身を隠したまま、慎重に敵の様子を覗った。我が方の準備はすでに整っている。あとは、自分が攻め入る機会を見つけ出すだけだ。なんといっても相手は精鋭山岳大隊。どんなに周到な作戦を講じたとしても、タイミングを間違えれば成算はない。
セリアは、一瞬の隙も見逃すまい、と炯々たる眼光で敵の様子を鋭く観察した。神剣の力を解放した状態のスピリットの視力は、真夜中にあっても昼間と変わらぬ視界を彼女に提供する。 敵の戦力は青が二人と赤二人、緑が二人と、黒が七人の計一三体。五個小隊からなり、このうち赤スピリットを擁する二個小隊は、先ほどから自分達が身を隠す岸壁に炎の弾幕をぶつけ続けていた。出力を落としたファイアボルトの魔法だ。山岳大隊の赤スピリットともなれば、その気になれば遮蔽物ごと自分達を焼き尽くせるはずだが、そうしないのはより少ないエネルギーで敵を打倒したいからだろう。
見れば、二体の赤スピリットが交互に魔法を唱えるかたわらで、青の二人は神剣魔法封じのアイスバニッシャーの準備をしている様子だった。さらに敵の主力たる黒スピリット七体は、攻撃の時をいまか、いまか、と待ちわびている様子だった。
威力をわざと落とした神剣魔法で揺さぶりをかけ、いぶり出したところを制圧する作戦を立てているに違いなかった。
なるほど、たしかに万全の態勢を整えているところに誘い込んだ方が、大きな魔法を使うよりもエネルギーの消耗は少ないだろう。
――迂闊に飛び出しても、敵に的を与えるだけね。青スピリットが健在な現状では、援護の神剣魔法も無力化されかねない。何か、きっかけが欲しいところだけど……。
きっかけと言っても、そう大それたものでなくていい。ほんの僅かに一瞬、敵の意識を、こちらとは別の方向に逸らすだけの隙さえあれば。
その時、攻撃の機会を見出さんと油断のない視線を巡らせるセリアの双眸が、驚愕から見開かれた。
視線が、ある一点を捉えたまま、動かなくなる。
彼女の視界に、信じられない光景が映じた。
敵部隊はサモドア山脈を背に布陣している。その山々から、黒煙が立ち昇っていた。それも一本だけではない。幾条もの煙が、濛々と天へと昇っている。それもかなりの広範囲に渡って。
「……何、あれは?」
茫然とした呟きが、自然と唇から漏れた。
単なる山火事にしては煙の数が多い。何者かが意図的に、いくつかの場所で付け火をしたとしか思えない。しかし、いったい誰が、何のために。
山脈の異変に気が付いたのはセリアだけではなかった。
敵山岳大隊もまた、彼女とほぼ時同じくして、立ち昇る煙の存在に気が付いた。
「な……に……!?」
セリアのスピリットとしての鋭敏な聴覚が、敵の愕然とした呟きを拾った。
燃えるサモドアの山々を見て受けた衝撃は、セリアの非ではない。自分達の元来た道が燃えている。その光景は彼女らにとって悪夢以外の何物でもなかった。
いったい何が起きているのか。いや、それよりも煙の発信源はまさか……。
次々と耳朶を打つ敵軍の驚嘆の声。何者かが、物資の集積地を攻撃している、という推論を耳にした時、セリアは不意に寒気を覚えた。
炎の魔法を準備しているナナルゥのかたわらにあって、唐突に感じた震え。
にわかに、周辺の青マナが活性化し始め、気温が低下していくのを自覚する。ナナルゥの〈消沈〉よりも強力な永遠神剣が、何か神剣魔法を放とうとしている証左だった。
セリアは視点を正面に定めた。
対峙している山岳大隊。そのさらに後方より感じられる、この激しいマナの波動。どこまでも好戦的で、途方もなく暴力的な、オーラフォトンの波動。かつて一度だけ会ったことのある、神剣の気配。なぜ、彼の気配が、国境線の向こう側から感じられるのか。
セリアがそれらの気配を、はっきり、と感じ取った次の瞬間、山道麓の雑木林から、空色の閃光が放たれた。
アイス・ブラスター。マイナス一五〇度の超低温の凍気を孕んだ、レーザービームの神剣魔法だ。セリア達も山岳大隊のスピリット達も、初見の攻撃だった。
雑木林の中でその存在を秘匿されていたとはいえ、事前のマナの起伏が激しかったため、攻撃は完全な奇襲とはならなかった。それでも、唐突に発射された予想外の方向からの攻撃は、注意をセリア達に向けていた敵山岳大隊のスピリット達の何人かを飲み込んだ。
黒スピリットの一人が直撃をもらった瞬間消滅し、他に青と緑のスピリットが一人ずつ、攻撃を受けてその場に膝を着く。前者は右腕に、後者は左足に低温の閃光が命中し、その部位が完全に凍結していた。直ちに、緑スピリット二人が、揃って回復の魔法を唱え始める。
伴って、敵山岳大隊の注意は後方の雑木林へと向けられた。
セリアが待ち望んだ“きっかけ”が、敵陣に生じた。
「ナナルゥ、今よッ!」
「はい。マナよ、炎のつぶてとなりて降り注げ。フレイムシャワー」
岩陰からセリアが飛び出したのとほぼ同じくして、戦場に、炎の雨が降り注いだ。
神剣魔法の援護の下、姿勢を低くしたセリアが、ウィング・ハイロゥを翩翻とはためかせながら敵陣へと突撃する。
正眼から上段へと〈熱病〉を構え、地面を蹴る。跳躍とともに渾身の上段斬りを叩き込むリープアタック。狙いは、敵の主力たる黒スピリットだ!
後方に警戒を向けていたところに、突如として降り出した猛火の雨。動揺にさらなる動揺が重なり、標的となった黒スピリットは、防御も反撃も間に合わぬまま、斬割されてしまう。
血飛沫が舞い、セリアの頬を濡らした瞬間、黄金の霧が彼女の視界を埋め尽くした。
またも仲間の一人を討たれ、今度は山岳大隊の注意が、セリア一人に集中する。
攻撃直後の隙を、別な小隊の黒スピリットが狙った。
鞘走る三尺近い大刀。
抜刀とともに打ち放たれた横一文字斬りが、セリアの胴を襲った。
回避は間に合わない。
防御も、間に合わない。
しかし不思議と、恐怖はなかった。
この刃は、絶対に自分には届かない。そう、確信出来た。
その時、まるでタイミングを図ったかのように、雑木林から二つの影が飛び出した。
黒い疾風と、黒い暴風が、戦場を駆け抜け、銀色の閃光を放出する。
凍結の負傷から身動きの取れぬ青と緑のスピリットがすれ違いざまに斬られ、血煙が、霧のように周囲の空間を攪拌した。
二つの黒い風はそのままセリアのもとへと駆けつけるや、抜き放たれた胴一文字を、手にした刃で阻んでみせた。
肥後の豪剣同田貫上野介二尺四寸七分と、永遠神剣第九位〈失望〉の刀身が、揃って斜に構えられた姿勢で、斬撃を受け止める。
肉迫した黒スピリットの顔が驚愕の表情に彩られたのを見て、セリアは、薄く冷笑を浮かべた。
セリアが、今度は〈熱病〉を脇に取り、高く跳躍した。
壁役二人を飛び越え、身体を捻りながら敵の背後へと降り立つ。
慌てて剣を引いた黒スピリットが、振り向きざまに袈裟斬りを見舞った。
脇に構えた〈熱病〉の、鉄板そのものの刀身が、銀色の閃光を放つ。
斬り上げ。
正しい手の内の下放たれた斬撃は、重力に逆らう太刀筋ながら、亜音速に達していた。
セリアの摺り上げが、敵の袈裟斬りを叩いた。
斬撃を弾き飛ばす。
直後、正対する黒スピリットの顔が激痛の苦悶に歪んだ。
〈熱病〉の一刀は袈裟からの斬撃を弾くだけでなく、相手の内股をも払い上げていた。
肉を断つ確かな手応えを感じつつ、セリアは一瞬の遅滞もなく、〈熱病〉で頭上高くに円弧を描いた。
返す刃に反動をつけ、沈み込む。
必殺の上段斬りが、黒スピリット正中線を正しく斬割した。
まるで教科書のような、正確な真っ向斬りだった。しかしお手本通りの斬撃を、実戦の場で正確に行えるスピリットはそうはいない。
肉を断ち、骨を断ち、相手の生命を絶つ、甘美な手応え。
血飛沫が己の身を濡らし、山脈から吹く冷たい風が、ポニーテールに結わえた髪を撫でる。
敵の生き血を啜って手の中の〈熱病〉が歓喜に震え、自身もまた、より一層の好戦意欲に心が沸き立った。
昂ぶる気持ちを抑えて、セリアは低く呟く。
「……それで?」
「うん?」
返答は太く、重い男の声。
自分を助けた黒い風の正体は、二人の若い男女だった。
一人はラキオス王国軍制式デザインの戦闘服に身を包んだ、ツインテールの黒スピリット。
そしてもう一人は、オリーブドラブの見慣れぬ軍服に身を包んだ、見知った顔の男。異世界からやって来た、自分の幼馴染が信頼を寄せる男。そして自分が、信用した男。
彼は不思議そうな顔で自分を見つめていた。
亡父の形見と公言して憚らない愛刀を手に、怪訝な様子で続く己の言葉を待っている。
疑問はいくつもあった。なぜ、この場にいるのか。どうやってここまでやって来たのか。あの煙は何なのか。問い質すべきことがあまりにも多すぎて、どれから訊ねるべきか迷ってしまう。戦闘中のいま、無駄口を叩いていられる時間は、あまりないというのに。
やがて僅かな逡巡の後、セリアは、とりあえずいちばんに訊きたい疑問を口にした。
「どうして、ここに?」
「ん〜……理由は様々あるが、一言で言うのなら、助けに来た」
はたして、男は莞爾と微笑んで答えた。屈託を一切感じさせない、明るい笑みだった。頬を濡らした返り血が金色のマナの霧となって蒸発し、文字通り男の顔を輝かせる。
眺めていると、なぜかいままでの疲れが癒えていく、そんな不思議な笑顔だった。
やがて男……桜坂柳也を名乗るエトランジェの青年は、満面の笑みを浮かべたまま、セリアに言った。
「それで? 助けは必要か?」
状況にそぐわぬ、どこまでも明るい笑顔。気の抜ける笑み。それなのに、男の笑いが何とも頼もしく思えて、そんな風に感じる自分が、奇妙に腹立たしかった。
「状況を見て言ってください。……当たり前のことを、聞かないで」
男の言葉に、セリアは憮然として答えた。
永遠のアセリア
-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-
第二章「蠢く野心」
Episode49「サンダーボルト」
――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、よっつの日、深夜。
サモドア山道に灯るオレンジ色の炎に照らされて、夜空は朱色に染まり始めていた。
真夜中にも拘らず明るい空の様子を仰ぐ一方で、山道を駆け下りた桜坂柳也は、対峙する敵部隊にも油断のない視線を注いだ。
亡き父の形見にして己の愛刀でもある豪剣・同田貫上野介を下段に取り、合流を果たしたセリアに問いかける。
「さて、状況が状況だ。お互い、確認作業は手短に終わらせたいところだが……まずはヘリオン、自己紹介」
「あ、はい。スピリット・タスク・フォース隊(以下、STF)のヘリオン・黒スピリットです」
「ラセリオ方面軍二〇一スピリット大隊所属、セリア・青スピリットよ。それから……」
「同じく二〇一スピリット大隊の、ナナルゥ・赤スピリットです」
セリアから促されて、岩陰から一人の赤スピリットが顔を見せた。固まって行動している柳也達の方へと歩み寄ってくる。
背後から近付いてくる気配を一瞥して、柳也は唇の端を吊り上げた。
戦闘中ゆえ、まじまじと相手の容姿を眺めることは叶わないが、一瞬の流し目にも、目の覚めるような美人であることが分かった。腰まで届く長い髪。すらり、とした長身。出るべきところは出て、引き締まっているべきところは引き締まっている。顔の造作も、西洋人形のように彫り深く、端整だ。赤スピリットの赤は情熱の色だが、彼女の美貌からは不快ではない静謐さが感じられる。
「へへっ、俺好みの美人じゃないか。……いかんなぁ。戦闘中だというのに、思わず恋をしてしまった」
「…………」
まさしくいまだ戦闘は続いている中で柳也の口から飛び出した“恋”という単語に、セリアが顔をしかめた。
かつてラセリオで初めて顔を会わせた時、この男の軽薄な言動が不愉快だと、はっきり、明言したこともあるセリアだった。そういえば、幼馴染のアセリアは彼について、女好きで、いやらしい男、と評していたか。
柳也の呟きにセリアが渋面を作る他方、当のナナルゥは怪訝な視線を目の前の男に向けていた。
やはり戦闘中にも拘らず、恋だの、美人だのと発言した柳也の意図を掴みかねている様子だった。
そんなナナルゥの視線に気が付いて、ヘリオンが言う。
「気にしないで下さい。特に深い意味はないと思うので。……いつもの病気ですから」
「ヘリオン、お前も言うようになったなぁ」
柳也は苦笑を浮かべながら、改めて今回が初見のナナルゥに自己紹介をした。次いで、自分とヘリオンがこの場所にやって来た経緯についても、簡単に口にする。
「STF隊の副隊長、エトランジェ・リュウヤだ。バーンライト王国軍迅雷作戦の情報をキャッチし、ラセリオ方面の援護のため駆けつけた」
「迅雷作戦の情報は、わたし達のラセリオ方面軍でも掴んでいました」
打てば響く、といったレスポンス・タイムで、セリアが言った。
「方面軍では迅雷作戦の早期粉砕を目標に、国境線の哨戒網を強化。常時三個小隊が同時に警戒に当たる体制を整えました」
「なるほど。敵山岳大隊が国境線を越境する兆候を認め次第、残る三個小隊をラセリオからすぐに呼び寄せる作戦だな?」
「よくお分かりで」
「二個大隊全部を国境線に置いていないんだから、その作戦しかありえないだろう? それで、残り半分の戦力は?」
「いま、呼びに行っている最中です」
「国境線警備に当たっていた他の部隊は?」
「わたし達と、残りの戦力を呼びに向かって一人以外は全滅しました」
「分かった。んじゃまぁ、俺達は時間稼ぎを続けようか」
柳也は好戦的な冷笑を浮かべると、閂に差していた脇差を抜き放った。
右に同田貫。
左に脇差。
攻めの大刀二尺四寸七分と、守りの補助刀一尺四寸五分。
両の二刀に〈決意〉と〈戦友〉をそれぞれ寄生させ、柳也は正面を見据えたまま、吠えた。
「二人にはいまからしばらく、俺の指揮下に入ってもらう。異論は聞かん。文句は、ここを生き延びてから言え!」
「生き延びられると、お思いですか?」
セリアもまた〈熱病〉を正眼に構え、正面を見据えたまま言った。
先の強襲によってだいぶすり減らしたとはいえ、敵山岳大隊はいまだ九体ものスピリットが健在だ。対して、こちらは神剣士が四人。戦力差は、二倍以上あった。
しかし柳也は、絶対の自信を口調に漲らせ、言う。
「生き延びられるさ。俺達と、セリア達が、力を合わせればな」
いま対峙している山岳大隊と我が方に、絶対的な技量の差があるとは思えない。各人が能力の一〇〇パーセントを発揮し、力の及ばぬところを他の者がフォローすれば、勝てぬ敵ではなかった。
「そいじゃまぁ、戦おうぜ。生き延びるためにな!」
戦争は、より多くの兵を集めた者が勝利を収める。
されど戦闘では、戦いの主導性を掌握した者が、終始戦場を支配する。
そして古来より、戦場を支配するのはより素早き者。相手より早く決断し、早く機動し、早く打って出る者。先の先を、奪う者。
柳也は五体に滾る剣気を発露するかの如く咆哮した。
咆哮とともに、前へと踏み出した。
荒牛の進撃。
六尺豊かな大男が、両の刃を振り乱し前進するその姿は、まさしく猛牛と形容する他ない。
黒い暴風が戦場に吹き、やがて戦場を支配するまでに、そう時間はかからなかった。
◇
原隊が壊滅し、瀕死だったセリア達に加勢したのは、僅か二人の神剣士にすぎなかった。
しかしこの二人の参戦は、戦場を支配していた流れを、あっという間に一変させた。
それまで優勢だった山岳大隊は戦闘の主導性を喪失し、逆にラキオス・スピリット隊は息を吹き返した。
なんといってもエトランジェ・リュウヤの参入が大きかった。緑スピリットほどではないにせよ、強力な防御と回復の魔法を持つ彼の参戦は、以後、セリア達の消耗を最小に抑えた。
また、桜坂柳也という神剣士は、防御だけでなく攻撃面においても優秀だった。もとより平時訓練では、ラキオス最強のアセリアと日頃から打ち合っている彼である。攻防両面においての戦力増強に、セリア達の士気は否が応にも高まった。
逆に士気阻喪著しかったのが山岳大隊だった。ただでさえ自軍後方を脅かされて動揺しているところに、強力なエトランジェの出現である。
あっという間に黒と赤のスピリットが一人ずつ撃破され、とうとう山岳大隊は、当初の半分の兵力になってしまった。
もはや迅雷作戦どころではない。このままでは、王国軍最強の山岳大隊が全滅してしまう!
――それだけは、何としても防がねば……!
この窮地にあって、山岳大隊で一人意気軒昂だったのは、大隊長のローザ・黒スピリットだった。山岳大隊最強の黒スピリットで、外人部隊のスピリットと渡り合える数少ない王国軍の妖精だ。強気のスピリットと知られ、彼女の居合は、神剣の力を解放せずとも直径二〇センチ丸太を一刀の下に斬割することが出来た。
一六七センチの長身の持ち主であるローザが帯刀しているのは、二尺八寸(約八五センチ)の刀身を持つ第七位の〈呑龍〉。ただでさえ広い間合を持った強力な武器だが、ローザ自身の身体能力と技量が合わさることで、居合の間合は八メートルにも及んだ。彼女はこの長剣を、自在に操ることが出来た。
自らの指揮する山岳大隊の全滅を憂うローザは、油断のない視線を四人の敵に向けた。
いまや大隊には、このまま作戦を実行するだけの戦力は残っていない。今後はこれ以上の消耗を避け、この場からの撤退に努めるのが良策だろう。しかし、士気が低下したいまのままでは、撤退ではなく潰走になりかねない。
――一度負け癖がついた軍隊を建て直すのは容易なことじゃない。ここは、敗北の印象が薄い状態で、撤収しなければ……!
ローザは小さく呟きながら、対峙する四人を、じっくり、と観察した。
必要なのは、きっかけ、だ。
戦いの主導性を奪われたこの状態で士気の巻き返しを図ろうと思ったら、とにかくまず一人を倒して、戦いの流れを変える他にない。それは別段、強い敵でなくてもいい。弱い敵でいいから、とにかく一人を倒して、それをきっかけに、士気を高める。そして、その状態のまま、撤収する。
四人いる敵の中で、誰が最も弱いか。どいつをカモにして、士気を高めるか。ローザは適当な標的を探して、素早く視線を走らせた。
やがて彼女の深い墨のような眼差しが、ある一人に固定された。
自分と同様、大刀を佩いた黒スピリット。
現在敵対している四人の中では、最も実力が劣ると思われる敵。
あれならば、容易に撃破出来よう。士気回復のきっかけとするには、ちょうど良い獲物だ。
標的を定めたローザは、ウィング・ハイロゥを展開しつつ〈呑龍〉の柄に右手を添えるや、前へと踏み出した。
◇
ハイロゥをはためかせながら迫る黒い影の存在に、最初に気が付いたのは柳也だった。
黒い影は、真っ直ぐヘリオンを目指している。
標的を見据える目つき。柄に添えた手の内。無駄のない流麗な動き。どれを取っても、並々ならぬ実力の持ち主と思われた。
相棒の神剣はいまだ鞘の内にある。抜刀とともに横一文字の斬撃で敵の戦力を奪い、その上でトドメの一太刀を叩き込む腹積もりだろう。
柳也とヘリオンの立ち位置は、いまは少し離れている。即座には援護に行けぬ距離を隔てていた。
柳也は早い段階で彼女のもとへ向かわねば、とすかさず援護に飛び出そうとした。しかし、かたわらのナナルゥに青スピリットの斬撃が襲い掛かり、彼の出鼻をくじいた。柳也は防御面で弱い赤スピリットを守るためオーラフォトン・バリアを展開。ために、身動きが取れなくなってしまう。
仕方なく柳也は、ヘリオンに向けて、語気荒く警告を喚起した。
「ヘリオン、敵が来るぞ! 気を付けろッ」
「ッ!」
柳也の声がかかるまでもなかった。
神剣レーダーを駆使して、攻撃の緊迫を感じ取っていたヘリオンは、ハイロゥの推進力さえも刀勢に上乗せした一文字斬りを、後ろに跳んで避けた。
なおも前進する黒スピリットの刀が円弧を描き、今度は上段より振り下ろされる。
追い討ちの一刀を、ヘリオンは抜き打つ〈失望〉を水平に受け止めた。
凄まじい衝撃が、両腕にかかる。
腕力だけではエネルギーを受け止めきれず、ヘリオンは膝を折り、腰を折って、衝撃を逃がした。
と同時に、地面を蹴って、さらに後退。
体勢を整えるべく、距離を取った。
柳也は黒スピリットとヘリオンの一連の攻防を、はらはら、しながら見守った。
今回のバーンライトとの戦争では、いまだ単独では一人も撃破していないヘリオンだった。
経験の浅い彼女にとって、実戦の中での本格的な一騎打ちは初めてのことだろう。
黒スピリットと対峙する彼女の表情は硬く、瞳には不安と恐怖が滲んでいた。
――かといって、いまは助けに行くことも出来ん……!
正面から迫る斬撃を左の脇差で受け、時間差で側方より襲い掛かった刺突の一打を、左足を軸に回転しながら避け、柳也は悔しげに歯噛みした。
だいぶ数をすり減らしたとはいえ、さすがは精鋭山岳大隊。敵の激しい猛攻の前に、距離を隔てた仲間を助けに行くこともままならない。
この上はヘリオン一人で相手の黒スピリットを倒す他、生還の道はない。
しかし、敵の黒スピリットは一見しただけでもそうと分かる実力の持ち主だ。いかに身体能力に優れるスピリットとはいえ、小柄な女の身で、三尺近い大刀を一挙動で抜き放った一事を取っても、それは明らかだった。
はたして、いまのヘリオンが敵う相手かどうか。
両者の間に、絶対的な技量の差はない。あとは心の持ち様だが、実戦経験の浅いヘリオンが、強敵を前にして平常心を保てるかどうか。
「ヘリオン、直心影流の法定の太刀筋を思い出せ! 春夏秋冬の呼吸を忘れるなッ」
自身、正面より迫る黒スピリットの斬撃をいなしながら、柳也が叫んだ。
下手な助言はかえってヘリオンの足枷となりかねない。ここは、普段やっている稽古の内容を思い出させた方が良い。
ヘリオンと敵の黒スピリットは、五間の距離を隔てて睨み合った。
ともに構えは正眼。
黒スピリットの刀が三尺近い長剣なのに対し、小柄なヘリオンが手にした〈失望〉は、定寸よりもいくらか短い。しかし重ねは厚く、激しい打ち合いにも耐えうる強度を持っていた。
もとより、刀はただ長ければ良いというものではない。長剣は、ただ一太刀振るうだけとなれば間合も広く、利もあろうが、複数人を相手取っての斬り合いでは間を置かずに、きびきび、立ち回らねばならない。となれば、片手一本で楽に扱え、抜き打ちも易い短寸の方が、むしろ有利になることもある。
そもそも、居合は、乱世の徒歩武者の片手打ちから始まったとも言われている。長短による得物の性能差は、ほとんどないものと考えられた。
「……ラキオスのスピリット、名は、何と言う?」
敵の黒スピリットが、油断のない視線をヘリオンに置いたまま訊ねた。
ヘリオンもまた視点を相手の目元に置き、応じる。
「〈失望〉の、ヘリオン・黒スピリットです」
神剣の位階は口にしない。第九位の神剣士だと知られれば、相手に舐められかねない。
はたして、対手の黒スピリットは静々と呟いた。
「〈呑龍〉の、ローザ・黒スピリットだ」
言うや否や、ローザを名乗った黒スピリットが、低い上段から〈呑龍〉を振り下ろした。
真っ向斬り。
刀は、むやみやたらに高々と振りかぶれば斬撃の威力が増すというものではない。
切っ先から振り下ろした刀身が対象を捉えた瞬間、五指を締め込むことによって遠心力が生じ、威力も増す。柄を握った両の手を、確実に支点とすることこそが肝要なのだ。
黒スピリットには、青や緑のスピリットのように、防御のためのシールドやバリアを展開する能力は基本的にない。訓練次第では使えぬこともないが、そうした能力を持っているのは少数派だった。
ゆえに、一太刀叩き込めば、それが違わず必殺となる。
この一撃を喰らうわけにはいかぬ。
ヘリオンはすかさず〈失望〉の肉厚の刀身を前面にかざした。
重たげな金属音。
必殺を期して殺到した敵刃を、鎬で受け止める。
ついで、軽やかな金属音。
剛力を以って押す刀に対し一歩退くや、ヘリオンは刀を下段に取った。
夏の苛烈なる太刀筋には、静かなる冬の呼吸を以って落ち着かせる。
冬季陰蔵に象り精神の昇降自在を内習し、業は最も静かに勤む。
ヘリオンの〈失望〉が、銀色の光線と化して、前に出ていた右の脛を払った。
ヘリオンの下段に対抗し、地擦りに構えようとしたローザが、苦悶に呻いた。
繰り返しになるが、刀は、ただ長ければ良いというものではない。
長い刀は扱いに難しく、達人の業前を以ってしても、構えの変化には時間がかかる。
その変化までの、一瞬の隙を衝いた、ヘリオンの斬撃だった。
脛を切られたとはいえ、ローザはまだ戦闘力を失ってはいない。
朱色に染まった前足で必死に踏み込み、鋭ッ、とばかりに刀身を摺り上げる。
しかし、傷を負った右足では踏み込みが中途半端に終わってしまったか、その刀勢は先ほどまでの精細さを欠いていた。
ヘリオンは左足を斜め前に出した。
頭を低くし、右肩を落とす。
斬り上げの緊迫が、左斜め前へと踏み出したヘリオンの頭上を擦過した。
刹那、がら空きになったローザの胴を目掛けて、横に寝かした〈失望〉が水平に走った。
短い刃音。
続いて、骨肉を断つ、鈍い斬撃の音。
血煙が噴出し、ヘリオンの頬を、髪を、衣服を汚す。
カウンターアタック。
シールドやバリアの張れない黒スピリットの、唯一にして最大の防御の業。先の先を捨て、後の先あるいは後の後を狙って反撃の一打を叩き込む技術だ。無論、失敗すれば防御に劣る黒スピリットのこと、赤スピリットの非力な一打とて致命傷になりかねない。しかし成功すれば、相手の攻撃力さえも上乗せした斬撃を叩き込むことが出来た。
ローザの唇から、苦悶の呻きが漏れた。
と同時に、ヘリオンの視界を、黄金のマナの霧が埋め尽くした。
大量のマナを吸った〈失望〉が、手の中で歓喜に震える。
初めて自力で、しかも実戦の中で、敵を倒して、安堵したか。
ヘリオンは、はぁっ、と溜め息をついた。
◇
そんなヘリオンを、柳也は莞爾とした微笑を口元にたたえつつ見つめていた。
力量で勝る敵を前にして、平常心を崩すことなく迎撃したヘリオン。なんとも好戦意欲を甘くくすぐってくれる。
――いつか、本気で戦ってみたいな。
「何を笑っている、エトランジェ!」
「おっと!」
仲間の戦いぶりに注意を向けすぎたか。
敵青スピリットの正面からの打ち込みを左の脇差を中心に展開したオーラフォトン・バリアで受け止め、柳也は右の同田貫を下段より摺り上げた。
青スピリットは素早くウィング・ハイロゥを展開するや後方へと飛び退き、斬撃を避けた。
着地し、肩で息をする。
どうやら長の戦いで、疲労が蓄積されているらしかった。
「諦めて降伏しろ。正直、実力で劣る相手と、しかも疲れている相手と戦っても、面白くもなんともない」
「なにを……!」
「それに、もう、お前さん達が勝てる要素は、ないぜ?」
柳也は嘯きながら、同田貫を握る右手の親指を立てて背後を示した。
東の方角から接近してくる、十の神剣の気配。どうやらようやく、ラセリオで待機していた残りの戦力が駆けつけたらしい。
これで兵力はこちらが一四。敵の兵力を上回った。
「兵力差が二倍以上で、かつ我が方は疲労している。しかも、敵の一人はエトランジェだ。悪いことは言わない。大人しく投降しろ」
「ぐっ……」
柳也が言う間にも神剣の反応は迫り、やがて十人のスピリットが戦場に到着した。
無論、ラセリオ方面軍に所属する、二〇二スピリット大隊の皆だ。彼女らの中には伝令に差し向けられた赤スピリットの姿もあった。人間の姿はない。どうやらスピリットだけで、とるものもとりあえず駆けつけたらしい。
現場に到着した彼女らは、疲労困憊したセリアとナナルゥ、六人にまで減った山岳大隊、そして柳也とヘリオンに交互に視線を向けた。
自分達が駆けつけるまでに、いったい何が起こったのか。
現状の把握に努める彼女らだったが、視界から得られる情報量があまりにも多すぎるせいか、困惑している様子だった。
柳也はそんな彼女らに、大声を発して、手早く状況を説明する。
「王都直轄軍所属、STF副隊長、エトランジェ・リュウヤだ。二〇一大隊はセリアとナナルゥを残して全滅した。俺と、そこにいるヘリオン・黒スピリットは、迅雷作戦をくじくために駆けつけた身だ」
「エトランジェ様でしたか!」
二〇二大隊の長と思しき緑スピリットが、歓声を上げた。ウェーブのかかった髪が特徴的な、見目麗しい美人だった。
「私はチェルシー・緑スピリットです。二〇二大隊の隊長はマット・ランズフォード様ですが、今回の戦闘では何よりもスピードが肝要と判断し、スピリットだけで先行してきました。現在、二〇二大隊の指揮は、私が執っています」
「了解だ、チェルシー。この戦いが終わったら、後で食事でもどうだ?」
「ええ、是非」
ラキオスに降り立った二人のエトランジェのうち一人が、好色な人間だという噂は、いまや王国軍の一部では有名な話だ。ましてや柳也は、かつてラセリオに自ら赴いたこともある身だった。
チェルシーは柳也の言葉に莞爾と微笑みながら応じた。目の前の男が女好きだと認識した上での反応だった。
他方、敵の増援を見た山岳大隊の面々は、みな一様に悔しげに絶望した表情を浮かべた。
先刻、あのエトランジェが言った通り、いまや自分達は寡兵で、消耗し、正面から戦える力は残っていない。なんといっても、大隊長のローザまでもが撃破されてしまった。いまの自分達に残された選択肢は多くない。
投降か。死か。あるいは撤退か。
撤退するにしても、敵との戦力差は大きい。追撃され、挙句の果てに全滅という可能性も、十分あった。
――もはやこれまでか。
山岳大隊の生き残りの六人は、等しくそう思った。
撤退が駄目となれば、残る選択肢は無様な生か、それとも死を目指して戦うか。
山岳大隊の誰もが、相棒の神剣を握る両手に力を篭めるべきか、それとも抜くべきか迷う、その時だった。
ラキオス、バーンライト問わず、その場に集まったすべての神剣士の表情が硬化した。
強いマナ。
攻撃的で、大きな神剣の気配が、物凄い速さでこの場所に向かってきている。
速度は、時速四〇〇キロは出ているだろうか。どうやらウィング・ハイロゥを展開した、青スピリットのようだった。南東の方角……すなわち、バーンライトの領内から、近付いてくる。
「……リュウヤ様、この気配は!」
ヘリオンが、不安げな表情を浮かべて柳也を見た。
柳也は険しい表情のまま、「ああ」と、頷いた。
接近する神剣の気配に、二人は覚えがあった。特に柳也は、忘れようはずがない。二度、戦場で会い、二度、戦った。そして二度、引き分けた。忘れるはずがない。そしてまた、間違えるはずがない。これは、あの女の――――――
「この、マナの気配、間違いない!」
柳也は言い放つや、視線を上へと向けた。いまだ戦闘中で、敵山岳大隊は寡兵とはいえ健在だというのに。あろうことか、地上の敵から目線をはずした。
もはやこの男の関心は、新たに出現した“敵”へと向けられていた。
猛然とこちらに迫る、“敵”の存在へと。
蒼空に、一条の流星が煌いた。
流星は、柳也の視界に映じたかと思うと、真っ直ぐ柳也を目指して向かってきた。
風を振りきり、大気を引き裂きながらの急降下。
稲妻を纏ったウィング・ハイロゥが圧倒的な推力を生み、女の身体を亜音速の領域まで加速させる。
そして、男の目の前で、静かに着地。
瞬間、大地に亀裂が走り、地面が陥没した。
大地が激しく痙攣し、ヘリオンやセリアが、思わずその場に手を着く。
その一方で、ほぼ爆心地たる場所に立つ柳也は、両の二刀を体側に腰を据え、下肢に力を篭めて地震を耐え凌いだ。
やがて激震が収まり、柳也は、目の前に現われた女を見据えた。
青い髪。凛とした端整な美貌。女の細腕だというのに巨大なバスタード・ソードを片手で携え、静謐な眼差しを自分に注いでくる。かつての戦いで自分が傷つけた鎧は、新しい物を支給されたのか、傷一つなかった。
口元に、思わず好色な笑みが浮かんでしまう。表情がにやけてしまうのを、止められなかった。
心臓が高鳴る。
これから待っている戦いへの期待で、全身の細胞が熱を帯びる。
この女とはかつて再戦を誓い、互いに打倒を誓った。
魂が、早く、早くと、その時を求めて叫んでいた。
この女と、また刃を交わす時間を。
そして、今度こそこの女の肉を断ち、骨を砕き、生き血を啜るその瞬間を……。
逸る気持ちを必死になだめすかし、柳也は、現われた女に気さくに声をかける。
「よぉ。リーザリオ以来だな。元気にしてたか?」
まるで古い友人と再会を果たしたかのような物言い。相手の体調を気遣う言葉の裏には、壮健な状態の彼女と戦いたい、という欲望が見え隠れしていた。
対する女は、人懐っこい微笑を浮かべる男に、酷薄な冷笑を以って答える。
「ああ。そうでなくては、お前を殺すことなど出来ないからな」
激震の影響覚めやらぬヘリオンが、両手両膝を地面に着けたまま、茫然とした面持ちで呟く。
「アイリス、ブルースピリット……」
「アイリス……って、ダーツィのアウステート!?」
ヘリオンの呟きを耳にしたセリアが、愕然と呟いた。
アイリス・青スピリット。ダーツィ大公から、唯一アウステートの称号を与えられた、北方五国最強のスピリットの一人。
柳也の登場にもかなり驚いたが、今回の衝撃もまた凄まじかった。絶望感を伴う、驚愕だった。
◇
桜坂柳也。
アイリス・ブルースピリット。
かつてリーザリオを巡る戦いで二度遭遇し、二度戦い、二度とも引き分けた宿敵同士は、僅かに一間の距離を隔てて対峙していた。
ともに手には抜き身の愛刀、愛剣が握られている。
いつ激しい斬り合いが始まってもおかしくない状況の中、二人はしばし静かに見つめ合った。
互いに無言のまま、冷笑を浮かべて、互いの目を、顔を、見つめ合う。
まるで再会を喜ぶ恋人同士が、無言のうちに幸せを噛み締めるかのような静寂が、戦場に訪れた。
――なんなの……この二人……?
見つめ合う二人を眺めて、ヘリオンと同様いまだ地面に膝を着くセリアは、胸の内で呟いた。
戦場という狂乱の坩堝たるべき場所にあって、突如として訪れた静寂の時間。背筋が寒くなるほどの静けさに、セリアは恐怖さえ感じてしまう。
――まるで時間すら一瞬、止まったような……。
セリアは、見つめ合う両者が、かつてリーザリオで二度戦った事実を知らない。
無知ゆえに、対峙する二人が浮かべた冷笑の意味が分からない。
互いに相手の打倒を誓った者同士が、再会に際して得た歓喜の感情を、窺い知ることが出来なかった。
やがて、静穏の時を先に破ったのは、凶悪な面魂を残忍に歪めて好色に笑う男の方だった。
「どうして、ここに?」
「サモドアでお前を見かけたからな」
アイリスが、冷たい声音で言った。
彼女の口元にも、再戦に向けて好戦的な冷笑が浮かんでいた。
「へぇ。追いかけてきてくれたのか。……そいつは嬉しいねぇ」
「私も嬉しく思う。よもや、こんなにも早く、お前を殺せる機会がやって来ようとは」
「これも俺達の日頃の行いが……良いわけないな。こんな、人殺しの行いが、良いわけない」
「違いない」
諧謔を含んだ口調で紡がれた柳也の言葉に、アイリスが苦笑をこぼし、それを見て男の方もまた柔らかに笑った。
「……リーザリオ戦以来、俺は、この瞬間をずっと待っていた。お前ともう一度戦える時を、心待ちにしていた」
「私もだ、リュウヤ。私も、もう一度お前と戦える時を待ち望んでいた。今度こそ、お前を殺せる瞬間をな」
「ははっ。どうもお互い、本気で相手に惚れ込んじまったみたいだなぁ……」
柳也は、からから、と喉を鳴らして、目の前の女に満面の笑顔を向けた。
どこまでも朗らかな、いまこの瞬間を心から楽しんでいる心情が窺える、屈託のない笑顔だった。
「今度こそ、勝つぜ」
「今度こそ、殺してやる」
柳也の言葉に、アイリスが応じて言い放った。
刹那、両者のマナが爆発的に増大した。ともに極限まで剣気が研ぎ澄まされ、相手を射抜く眼光にすら威力が宿る。
周辺のマナは戦いに備える二人によって吸い尽くされ、あっという間に地面が干上がっていった。
「殿は私が務める。お前達は、サモドアを目指せ」
抜き身の〈苦悩〉を正眼に、アイリスは背後に並ぶ山岳大隊に言った。
迅雷作戦に向けて山岳大隊を鍛えたのが、他ならぬアイリスだった。
教官役のスピリットに言われて、山岳大隊の面々は顔を見合わせた。だがすぐに決然と頷くや、彼女らはアイリスの背中に向けて叫んだ。
「ご武運を!」
「ああ。祈ってくれ。マナの加護のあらんことを」
「マナの加護の、あらんことを!」
「なっ、させるか!」
サモドア山道の方へと引き返す山岳大隊を追撃せんと、二〇二大隊から一個小隊が動いた。チェルシーも、この場において最も位の高い柳也も命令を下していない。功を焦った、独断専行だった。
向かっていったのは青、赤、緑という、極めてオーソドックスな編成の一個小隊。
彼女らは山岳大隊を追おうとして、当然のように、自ら殿を買って出たアイリスにその歩みを阻まれる。
正対していた柳也を放り出し、味方の退路を確保するべく三人の前に、アイリスはたった一人で立ちはだかった。
バスタード・ソードの〈苦悩〉を両手で保持し、八双に取る。
その背では、猛禽類を思わせる長大なウィング・ハイロゥが展開していた。
腰を据え、目線を据えたその表情からは、三人がかりで襲ってくる敵に対する恐怖など微塵も感じられなかった。
他方、獲物を前にして進路を塞がれた小隊のスピリット達は、前進の歩みは止めぬまま、各々の得物を構えて言い放つ。
「いかにダーツィのアウステートといえど!」
「三対一なら!」
「これで、大戦果はいただくわ!」
次々と紡がれた彼女らの発言から、柳也は独断専行の根底にある感情を知った。
自分の練ったクルセイダーズ・プランにおけるラセリオ方面軍の役目は、バーンライト第一軍への牽制で、どちらかといえば裏方的な役割だった。主役はなんといっても王都直轄軍やエルスサーオ方面軍で、迅雷作戦さえなければ、戦闘を経験しないはずの軍だった。戦場で華々しく活躍することを封じられた部隊。そんな鬱屈した感情が、彼女らを先走らせたのか。
向かってくる三人のスピリットに対し、アイリスは高圧的に嘯く。
「……お前達如き、Speak modeを使うまでもない」
「ほざけ!」
先頭を行く青スピリットが、ロングソード・タイプの神剣を上段に取るや跳躍した。
リープアタックの、苛烈な打ち込み。
後続の赤スピリットが神剣魔法を唱え、緑スピリットが援護に備える。
青スピリットの初太刀で牽制し、その隙に赤スピリットが神剣魔法を叩き込む。アイリスが反撃してきたら、緑スピリットが防御の盾を展開する。なかなか手堅い作戦だ。並のスピリットでは、単独で破ることは難しいだろう。
――だが、アイリスは並のスピリットではない!
あの女を打ち破るには、自分か、アセリアの技量が必要だ。あるいは、第四位の〈求め〉の圧倒的なパワーで、有無を言わさず攻め立てるしかない。
先頭の青スピリットの打ち込みが、アイリスを襲った。
轟、と吹きつける刃風が、アイリスの前髪を撫でる。
上段からの真っ向斬りは、正確にアイリスの正中線を狙っていた。
アイリスが、ふわり、と右へ跳んだ。
リープアタックの一撃が、虚しく空を斬割する。
直後、右に跳んだアイリスが、バスタード・ソードを袈裟に振るった。
逆風剣。
相手の斬撃に応じて左右に跳び、攻撃の直後で防御も反撃も困難な状態の敵の隙を衝いて袈裟に斬る、アイリスの得意技だ。オペレーション・スレッジハンマーの緒戦では、柳也も苦しめられた。
単に右に跳ぶではなく、右斜めへと跳躍したアイリスの袈裟斬りは、相手の頚動脈を狙った精緻な斬撃だった。
もし必中すれば、青スピリットの命脈はそこで絶たれていただろう。
しかし、攻撃の直後で無防備な瞬間の隙を、補ってくれる仲間が彼女にはいた。
背後を進む緑スピリットが、青スピリットの左側方にアキュレイド・ブロックを展開した。
さしものアイリスの斬撃も、緑スピリットの強力な防御の前には歯が立たない。打ち込みを弾かれてしまう。
しかし、これこそがアイリスの巧妙な作戦だった。
斬撃を弾かれたアイリスはその反動を利用して上段に振りかぶるや、今度は左に跳んだ。
アキュレイド・ブロックの覆っていない、正面へと回り込む。
慌てて下段に構えた青スピリットが、ロングソードを摺り上げた。
中途半端な刀勢の、精細さに欠ける斬撃だった。
アイリスは上段に振りかぶった〈苦悩〉を、真っ向に振り下ろした。
天から地へ。
落雷の如き素早く、鋭い打ち込みが、青スピリットの斬り上げを封殺した。
すかさず、アイリスは腰を落とすや、勢いよく前へと踏み込んだ。
相手の斬り上げを封じた下段からの刺突。
青スピリットの薄い胸板が貫かれ、絶叫が、アイリスの耳膜を激しく叩いた。
致命傷の確かな手応えを、手の内に感じる。
アイリスはそのままウィング・ハイロゥの推力を利用して強引に前進した。
刺殺した青スピリットの肉体が完全に消滅せぬうちに、その背後で控えていた緑スピリットへと迫る。
両者の間合が、あっ、という間に縮まった。
猛然と突進するアイリスを前に、迎え撃つ緑スピリットは槍を下段に構えた。
しかし、こちらに向いた槍の穂先は僅かに震えていた。同胞の身体を盾にされて、思うような反撃が出来ない様子だった。
そしてそれは、緑スピリットの背後で神剣魔法を放とうとしていた赤スピリットも同様だった。牽制役の青スピリットが瞬く間に倒され、魔法を撃つタイミングを逃した彼女もまた、この事態に即応することが出来なかった。
緑スピリットが自らの前面にアキュレイド・ブロックを展開した。
しかし、紺碧の防御壁は咄嗟のことでマナの集中が足りておらず、見るからに脆そうだった。
――オディールなら、この僅かな時間でももっとマシな壁を作れるぞ!
胸の内で吠えながら、アイリスは青スピリットの胸部を突き刺したままの〈苦悩〉の切っ先を眼前のアキュレイド・ブロックに突き立てた。
先ほど放った斬撃は、緑スピリットの防御壁に弾かれてしまった。
しかし、此度放つ一撃は、エネルギーを一点に集中させた刺突。
また、アキュレイド・ブロック自体、先ほど自分の攻撃を阻んだものよりも薄い。
はたして、マナを注ぎ込んだ剣身は、敵の防御壁を易々と貫いた。一瞬、水に濡らした薄紙を突き刺すかのような抵抗を手の内に感じたが、それだけだった。
敵の防御を突破したことを認めるや、アイリスはその場に踏み止まった。
突き出した〈苦悩〉を素早く引き戻し、振りかぶる。
その頃には、もう青スピリットの肉体は完全に消滅していた。
バスタード・ソードの〈苦悩〉が、軽やかに躍って空中に円弧を描く。
袈裟懸けに振り抜かれた一刀が緑スピリットの胴を薙いだのは、彼女が反撃の刺突を放とうとした直後だった。
苦悶の絶叫とともに、緑スピリットがもんどり打って倒れる。痙攣。そして、果てた。
「おのれ!」
と、赤スピリットが咆哮しながら、激昂のファイアボールを撃ってきた。
特大の炎球をぶっ放すと同時に、ダブルセイバーを振り上げ、自身もアイリスへと迫る。
両者の間合は、四メートルも離れていない。
大気を焼きながら進んでくるファイアボールを回避することは、アイリスの機動力を以ってしても不可能かと思われた。
だが、アイリスは表情一つ変えぬまま、後ろに跳んだ。
向かってくるファイアボールに対し、僅かに距離を稼ぐ。
死の瞬間を先延ばしにするための行為ではない。
この窮地を打破するための一手に、必要な準備期間を設けるための跳躍だった。
後方へ飛び退きながら、アイリスは素早くマナを練った。
彼女の前面の空間から、急速に熱が奪われていく。
「アイスバニッシャー!」
言霊が、爆ぜた。
アイリスの前面の空間が氷結し、魔法陣が出現。魔法陣の中心から、氷の魔法弾が撃ち放たれた。
アイスバニッシャーの魔法弾と、ファイアボールの炎球が、空中で激突する。
瞬間、炎の熱気が消滅した。
ファイアボールの後に続いていた赤スピリットが、突然の事態に面食らう。
面を狙った左右からの斬撃が遅速し、一方のアイリスは遅滞のない足裁きで後退した。
回避。
刃風が頬を叩く感触に冷笑を浮かべながら、アイリスは〈苦悩〉を脇に下げた。
赤スピリットのダブルセイバーが伸びやかな弧を描き、胴を目掛けて一文字に走った。
回し斬りの遠心力を刀勢に活かしたスウィングの一打。
轟、という風を断ち切る音が、アイリスの耳朶を叩く。
――だが、所詮は赤スピリットの非力な一撃だ。
嘲笑。
地から天へと、龍が昇った。
脇に取っていた苦悩の刃が、赤スピリットの薙ぎ打ちを払い上げる。
重い金属音。
天へと上った龍が踵を返し、返す刀が真っ向斬りを狙う。
アイリス・青スピリットの十八番、疾風剣の連撃だ。
初太刀で相手の攻撃を弾き、返す刀で致死の一刀を叩き込む。しかも一の太刀は、斬り上げとはいえ、青スピリットの一撃だ。初見でこの連続攻撃を打ち破れる者は、そうはいないだろう。
「初見であれば、な……!」
その時、男の重い声が、アイリスの耳朶を撫でた。
次いで、重い金属音と、オーラフォトンの光芒が、彼女の耳目をかき乱した。
一連の攻防の終わり際になって、横から割り込んできた柳也の同田貫が、アイリスの打ち込みを阻んだのだ。
柳也はそのまま相手に向けて体当たり。
六尺豊かな巨躯のすべてを武器として叩きつけられ、アイリスの小柄な身体が吹っ飛んだ。
しかし、そこはウィング・ハイロゥを持つ青スピリット。
すぐに空中で体勢を整え着地。バスタード・ソードの〈苦悩〉を、正眼に置く。
柳也もまた、〈決意〉を宿した肥後の豪剣を、正眼に置いた。
相手を見据え、凶悪な面魂を好戦的に歪める。
嬉々とした声音が、唇から漏れ出た。
「おいおい、俺の存在を、忘れてくれるなや。……寂しいだろうが」
「べつに忘れていたわけではない」
獲物へのトドメを邪魔されたアイリスは、憮然とした表情で応じた。
「私達の戦いの邪魔をしようとした無粋な輩に、灸をすえようとしただけだ」
「灸……って、こっちの世界にもあるのか?」
「ということは、貴様の暮らしていた世界にも?」
「ああ。しかも、その言葉の使いどころも一緒だ。……ヘリオン!」
柳也から突然の指名に、いまだ背後で膝を着くヘリオンが肩を強張らせた。
一瞥。
いまからの戦いに余計な茶々を入れるな、という峻烈な意志を篭め、ヘリオンを睨む。
柳也の流し目に、ヘリオンはどこか諦観した面持ちで、こくり、と頷いた。
満足げに頷いた柳也は、次いでこの場に集結したラセリオ方面軍のスピリット達に向けて、大声を発した。阿吽の呼吸で常日頃から心肺器官を鍛えている直心影流剣士の、腹の底からの咆哮だった。
「ラセリオ方面軍の全スピリットに告げる。これからの二人の戦いに、余計な手出しはしてくれるな。つまんねぇ真似をした奴ぁ、味方であっても、容赦なく叩き斬るぜ?」
「そんな……!」
悲憤の声を上げたのはセリアだった。
桜坂柳也という男の好戦的な性格までは知らぬ彼女は、語気を荒げて言う。
「理解出来ません! ここは総力を挙げてアイリス・青スピリットを速やかに撃破し、追撃をかけるべきです!」
「うん。そうだな。百点満点の戦術展開だ。……けど、俺はそんなつまらない流れを望まない」
「つまらないって! 戦争をつまるつまらないで語るなんて……」
「うるせぇ」
柳也は短く呟いて、セリアを睨んだ。
炯々たる眼光。
底冷えするような冷気を発する眼差しに見据えられ、セリアは続く言葉を見失う。
恐怖が、胸の内で暴れていた。
セリアは目の前のこの男に、はっきり、とした恐怖を抱いた。
震えが止まらない。
冷たく燃える黒檀色の視線が、たまらなく恐ろしい。
思わず身震いしたセリアに、ふっ、と優しく微笑んで、柳也は正面のアイリスを見た。
「ちょっと、黙ってろ。いま、俺ぁ、すんげー良い気分なんだ。あんまつまらないこと言って、この気分に水を差してくれるなや。
たしかに、いまここで山岳大隊を追撃すれば、ラキオスは今後有利に戦争を進めることが出来る。そんなことは、俺だって分かっている。
けど、それ以上に重要なことが、目の前に転がっているんだ。この女との戦い、っていう、美味しい食い物が転がっているんだぜ? 放っておけねぇよ」
「……軍の未来よりも、自分の欲望の方を優先する、か。なんという自分本位な男だ。まるで獣だな」
アイリスが嘲笑するように言った。
柳也は莞爾と微笑んで答える。
「獣で結構。……知っているか? 男はみんな、狼なんだよ」
言い捨てて、柳也は同田貫を上段に移した。
充溢した闘気がいまにも爆発しそうな、烈火の構えだった。
また、アイリスの口元に嘲笑が浮かぶ。
「上段、か……一度は破られたその構えを、また取るとは」
「生憎、俺にはこれしかないんでね。物心ついた頃から学んできた、直心影流の業しか、俺にはない」
柳也は酷薄に笑いながら言い放った。
脳裏に、今日まで過ごした鍛錬の日々が蘇る。
重量一六キロの振棒で、千本、二千本と連日素振りを繰り返した、過去の己。
振棒を使った上段からの打ち込み、一日二千本。一年間で、七三万本。それを、十年以上続けてきた。五体が刻んだ運動量は、一千万本をとうに超えている。
一度、破られたからといって、それがどうしたというのか。
己の真っ向斬りには、それだけの蓄積がある。
自信を胸に、もう一度振るえばよいだけの話だ。
「俺の最強の一刀だ。一度破ったからといって侮ると、痛い目、見るぜ」
「……貴様を侮るような、愚かな真似はしない」
アイリスの背中で、ウィング・ハイロゥがはためいた。
長大な猛禽の翼に、稲妻が纏い出す。Speak Mode。神剣に自我が飲み込まれる限界点ギリギリまでハイロゥの出力を搾り出す、アイリスの切り札だ。消耗は激しいが、パワーとスピードを飛躍的に高めることが出来た。
「しかし、そうだな……先の発言は、失言だった。許せ。侘びといっては難だが、貴様には、この私の最強の剣を振る舞おう」
アイリスの構えが、変わった。
左足を前に、右足を引く。両腕も引き、剣を胸の前で水平に構えた。
およそ日本の古流剣術には見られない、刺突のみに特化した構え。
剣の柄を保持する両手をあえて後ろに引いたその姿勢からは、矢をつがえた弓の弦を目一杯引くことにも通じるものがあった。
力を溜め、矢を発射するその瞬間を、静かに待っている。
これまで、逆風剣や疾風剣といった、後の先を得意としていたアイリスが、ここにきて初めて見せた、先の先の構え。
柳也の顔に、歓喜の笑みが灯った。
ともに構えは先の先を狙うもの。
睨み合いの時間が、静かに火蓋を切る。
一秒。
二秒。
五秒。
十秒。
互いに剣は動かさず、剣気だけをぶつけ合う対峙が続く。
その中で、柳也は至福を感じていた。
身体の内に、熱を自覚した。
心臓が、魂が、愉悦に燃えていた。
全身の細胞が、恐怖の快感に泥酔する。
死の恐怖に、本能が怯え出す。
死にたくない、と心から思った。
生への渇望が、命を燃やした。
五体に、かつてない力が満ち溢れる。
生きたい、と願う原始生命の炎が、己を突き動かす。
死を、近くに感じた。
生を、遠くに感じた。
生と死の、境界が薄くなるこの瞬間。
それを感じられることへの、幸福感。
鼓動が、ひときわ高鳴った。
ぞくぞく、と粟立つ肌が、質的に変わっていくのを自覚する。
皮膚が、骨が、筋肉が、より強く、より硬く、より強大なパワーを生み出せるよう、変わっていく。
覚えのある感覚だった。
あのリーザリオでの戦闘で、異形の右腕から覚えたものと、同質の感覚だった。
「……やめろ」
低く、重く、呟きが、唇から漏れた。
「何が起こっているのか、知らねぇが、いま、すんげー、良い気分なんだ。水、差すんじゃねぇよ」
この女は、自分の力で倒してみせる。
余人の力など、借りたくはない。
ましてや、自分を困らせてばかりの得体の知れない力など、迷惑千万だった。
ぞわり、ぞわり、と己の身に起きていた変化が、ぴたり、と止まった。
皮膚が、骨が、筋肉が、弱く、脆く、変わっていく。
アイリスが、動いた。
風の如く、前へと踏み込んだ。
柳也も、動いた。
大地を踏み荒らし、進撃した。
永遠神剣第六位〈苦悩〉の切っ先が、稲妻を纏って柳也の喉を狙う。
「雷鳴剣!」
アイリスが、吼えた。
その名の通り、まさしく雷の如く閃く刺突だった。
額を突く。
オーラフォトン・シールドを局所展開する。
弾いた。
アイリスは怯むことなく剣を引き、また突いた。
今度は心臓。
二度目の刺突は、バリアを展開して防ぐ。
アイリスはさらに剣を引いた。
三度目の刺突。
次なる狙いは、喉元。
ここまでで要した時間は、コンマ〇五秒。
なんとアイリスは、一秒間の二十分の一ほどの間に、三度の突きを放ったのだった。
これこそが、アイリス・青スピリット最強の攻めの剣、雷鳴剣の真髄だった。
最初の一撃を防がれても二撃目。
二撃目を防がれても、三撃目が、敵の命を絶つ。
シールドを使い、バリアを使った柳也に、もはや三度目の刺突を防ぐ術はない。
かといって、避けることは不可能だ。
三度の刺突はそのすべてが音速を超えていた。
柳也に出来ることといえば、顎を引いて、死の瞬間を先延ばしにすることくらいか。
否。
断じて、否!
柳也には、
己には、まだ手が残っている。
「おおおおおお――――――ッ!!!」
獅子吼。
顎を引いた柳也は、咆哮した。
迷いなく突き出された〈苦悩〉の剣尖が、男の口の中へと吸い込まれる。
金属を叩く音が、鳴った。
アイリスの双眸が、愕然と見開かれる。
アイリスの放つ三度目の刺突を、柳也は防いだ。
己の顎の力と、歯で。
なんと雷鳴剣の三度目の刺突を、柳也は歯で受け止めていた。
〈苦悩〉の切っ先を噛んで止め、それ以上突き込むことも、引くことも許さない。
「おおおおおお――――――ッ!!!」
二度目の獅子吼。
首の筋肉のみならず、全身の肉を、骨を、血を連動させ、出しうるパワーのすべてを、ただ一つの目的のために集中する。
首を振り回し、首ごと、アイリスの剣を振り回し、剣ごと、アイリス自身をも振り回す。
そして、投げた。
地面をもんどり打って転がるアイリス。
その瞬間、Speak Modeが解け、ウィング・ハイロゥから雷鳴の雄叫びが消えた。
柳也は彼女に向かって、突進した。
闘牛の爆走だった。
アイリスが必死の形相で立ち上がる。
地擦りに取った〈苦悩〉で狙うのは、疾風剣のカウンターか。
柳也の脳裏に、リーザリオでの戦闘の様相が鮮明に蘇った。
あの時、のびやかに弧を描く地擦りの剣に、己の放った刺突は撥ね上げられてしまった。
あの時と同じ轍を踏むわけにはいかない。
柳也の決意に〈決意〉が呼応し、豪剣の刀身に峻烈な炎が灯った。
柳也は振り上げた同田貫を振り下ろした。
真っ向斬り。
銀色の稲妻が、大地へと落下する。
対するアイリスの手元でもまた、銀色の龍が飛翔した。
落雷と、昇龍
天から地へ。
地から天へ。
鋼と鋼が激しくぶつかり合い、血煙が、舞った。
アイリスの胸から。
天へと昇る一の太刀を強引に叩き落した豪剣は、女の纏った鎧を破断し、その内側にある彼女の身を傷つけたのだった。
致命傷ではない。
しかし、大きなダメージだった。
斬撃の衝撃で吹き飛ばされたアイリスは、応戦のため立ち上がろうとして、失敗した。
どんなに気を篭めてみても五体からは力が抜け、まともに立っていられなくなってしまう。
剣を支えに膝を着く彼女に、柳也は誇らしげに胸を張った。
極限の緊張を伴う激しい運動の直後、浅い呼吸を繰り返しながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「……へ、へへ……今度こそ……俺の、勝ち、だ……」
勝ち誇った口調から感じられるのは、途方もない疲労感。
振り返ってみれば、敵地サモドアを行軍してすぐ戦闘に突入。ただでさえ心身ともに消耗していたところ、最後の最後で宿敵アイリスとの死闘を繰り広げた柳也だった。
もはや男の五体には、敵にあと一太刀を浴びせかけるほどの力しか残っていなかった。
柳也は、のろのろ、と緩慢な歩調で、アイリスに近付いた。
五体に残る最後の力を振り絞り、トドメの一刀を叩き込む腹積もりだった。
「こんなところで、死んでたまるか!」
接近する柳也を前にして、アイリスが叫んだ。
怒りの絶叫だった。
その背中で、長大なウィング・ハイロゥがはためく。
空を飛んでこの場から離脱するつもりか。
振り返ってみれば、オペレーション・スレッジハンマーの時も、アイリスにはそうやって逃げられている。
柳也は、そうはさせじ、と加速した。
体力のすべて、気力のすべてを燃やして、宿敵に迫った。
狙うは渾身の力を篭めた刺突。
腕力、膂力のみならず、全身の筋肉を躍動させ、柳也は突進した。
しかし、彼の踏み込みは僅かに一瞬、遅かった。
はたして、柳也の放った刺突はアイリスに届かなかった。
かます切っ先が炸裂する寸前、青スピリットの少女は翼を羽ばたかせ、飛翔した。
まさに瞬きほどの一瞬のうちに、二〇フィート上空へと移動する。
それは同田貫の剣尖が届くまで、あと一寸ほどの間合での出来事だった。
さしもの柳也も、空を飛ぶ相手に対しては手出しが出来ない。
トドメのはずの一撃が不発に終わったことを認めるや、その場に踏み止まった彼は、悔しげに上空を睨んだ。
豪剣のかます切っ先が、あと一寸長ければ。
あるいは、柳也の踏み込みが、あと一寸深ければ。
思っても詮無きことを考えずにはいられない。
もう少しで。
あと少しで、あの女の生き血を啜り、命を啜ることが出来たかと思うと、残念でならなかった。
――……いいや、残念というばかりでも、ないか!
柳也は小さくかぶりを振った。
そうだ。たとえ今回逃げられたとしても、それはそれでまた楽しみが一つ増えたということだ。
この女と。
この、強敵と、また戦えるという、楽しみが……。
最後の刺突に精根尽き果てたか。柳也は同田貫を支えに、なおも高度を上げて離脱を図るアイリスを見上げた。その横顔には、嬉しげな冷笑が浮かんでいる。
「アイリス! アイリス・青スピリット!」
柳也は高空の敵に向かって叫んだ。
腹の底からの咆哮に、二人の戦いを眺めていたスピリット達が緊張する。
離脱を図るアイリスが、苦渋に強張った顔でこちらを見下ろした。
「テメェにそうやって逃げられるのは、これで三度目になるな……だが、前の二回と違って、今回は誰がどう見ても俺の判定勝ちだ! これで戦績は一勝一敗一引き分けだな。
前に言ったよな? お前は、俺が倒すってよぉ? ……次だ。次、会った時こそが、俺と、お前の総決算だ。今度は判定勝ちなんかじゃねぇ。お前を、正面から、完膚なきまで、ねじ伏せてやる! その時を、楽しみにしていやがれ!」
「リュウヤ……!」
憎悪の眼差しが、頬に心地良い。
憎しみに滾る覇気が、魂に心地良い!
柳也は饒舌に、楽しげに、自分を睨むアイリスに言った。
「強くなれ、アイリス・青スピリット。今日よりももっと……ずっと強くなれ! そして俺をまた、楽しませろ!」
「殺す……貴様だけは、私の手で殺す……!」
殺意の怨嗟は、高く、遠く。
煌く星々の彼方へと消えゆくアイリスの後ろ姿を、柳也はいつまでも眺めていた。
◇
――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、黒、いつつの日、深夜。
国境線を巡る一連の戦闘が終結し、日付も改まった時分、国境線監視所に、ようやく、ラセリオより二〇二スピリット大隊の隊長がやって来た。
馬に乗って悠々やって来たその人物はマット・ランズフォード大隊長。壮年の小男で、見るからに線の細い顔立ちをしていた。軍服を着ていればこそ、一目で軍人と見分けがつくが、そうでなければ詩人か、茶人とまごうような容貌の人物だった。
国境線監視所に到着したランズフォード大隊長はまず状況の把握に努めた。
監視所のバラック小屋に主要なメンバーを集め、卓を囲む。
その顔ぶれは、二〇二大隊からランズフォード大隊長とチェルシー、二〇一大隊の生き残りの三人、そして柳也とヘリオンの計七名だ。
ランズフォード大隊長は、チェルシーから二〇一大隊の壊滅を知り、柳也とヘリオンからサンダーボルト作戦についての説明を受けた。敵地サモドア山道を通過する、という大胆不敵な作戦に、ランズフォード大隊長は仰天した。
「貴公は、怖くはなかったのか? 敵の本拠地を通過することが、恐ろしくはなかったのか!?」
「いえ、勿論、恐かったですよ」
ランズフォード大隊長の驚嘆の声に、柳也はあっけからんと答えた。
「恐ろしかったので、逆に敵地を楽しむことにしました。いやあ、なかなかどうして、楽しい土地でしたよ、サモドアは。作戦がてら、見物もしましてね。隊のみんなへの土産に、向こうの地酒なんかも買ってきました。……折角ですし、飲みます?」
戦闘の後、林の中から回収した麻袋をまさぐった柳也は、ウィスキー・ボトルを二本取り出すと、ランズフォード大隊長に微笑みかけた。
これには、以前から柳也のことを知るセリアも、呆れた様子で溜め息をついた。
男の隣ではヘリオンが苦笑している。
ナナルゥは、無表情のまま席に着いていた。
唖然とした表情を浮かべながらグラスを取ったランズフォードは、続いてチェルシーら二〇二大隊のスピリット達に、国境線警備の任に当たるよう命令を下した。
従容と頷いてチェルシーが退出し、バラック小屋には大隊長と、二〇一大隊の三人、そして柳也とヘリオンの六人が残った。
ランズフォード大隊長は、改めて柳也とヘリオンを見た。
「これから貴公らはどうする? 私の立場では、王都直轄軍に所属する貴公らに命令をする権限はない。次の行動を、自分達で考えてもらえると助かるが……」
「山岳大隊を撃退したことで、当面の脅威は去ったと判断します」
柳也は淀みのない口調で答えた。
自分とヘリオンが悠人達STF の本隊よりも先に到着し、迅雷作戦の阻止に成功した場合、柳也はあらかじめ次に取るべき行動を決めていた。
「ラセリオで、STF 本隊の到着を待ちます。仲間達に、サンダーボルト作戦が成功したことを伝えなければなりません。……それに、いい加減、身体も休めたいですし」
柳也はちょっと動かしただけで、ばきばき、悲鳴を上げる肩や腰を揉みながら言った。
ランズフォード大隊長が首肯する。
「よかろう。貴公らが方面軍の施設を使えるよう、手配する。……さて、次に決めねばならんことは……」
ランズフォード大隊長は、視線をセリアら二〇一大隊の生き残り三人に向けた。
「貴様達の処遇をどうするか、だな。ラースに派遣した一個小隊が無事とはいえ、此度の戦闘で二〇一大隊は、大隊としての機能を失った。戦力の半分を失い、壊滅状態に陥った。こういった場合、通常は戦時特別措置で、貴様達は我が二〇二大隊が引き取ることになるが……」
「それについて、ちょっと提案があるんですけど」
その時、ランズフォード大隊長の言葉を遮って、柳也が挙手をした。
エトランジェの口による横槍に、あからさまな嫌悪を表情に浮かべつつ、大隊長は「なんだ?」と、訊ねた。
柳也は愛想の良い笑みを浮かべながら、ランズフォードに言った。
「提案……っていうか、お願いなんですけどね。どうでしょう? セリア・青スピリットと、ナナルゥ・赤スピリットの二名を、我がSTF 隊で引き取らせてはいただけないでしょうか?」
「なに?」
ランズフォード大隊長が、怪訝に訊き返した。
この場にいる全員の眼差しが、柳也に集中する。バラック小屋に入ってからというもの、もっぱら会話には無関心を貫いていたナナルゥさえもが、柳也の顔を見ていた。
いったいこの男は何を言っているのか。
いったいこの男は、どういう意図の下で、斯様な発言を口にしたのか。
自分に注がれる注目の眼差しに、照れくさそうに苦笑しながら、柳也は続けた。
「勿論、いまこの場にいる顔ぶれだけで、決定出来ることでもありません。STF の隊長やとも相談しなければなりませんし、軍をまたいでの人事異動ですから、陛下の許可も必要です。何より、本人達の同意も得ねばなりません。
ただ、先の戦闘で一緒に戦っていて、私はこの二人を、欲しい、と感じました。この二人を我がSTF 隊に編入すれば、大きな戦力アップに繋がると、直感したんです」
自分達の援護があったとはいえ、立て続けに二体のスピリットを撃破したセリア。
広域神剣魔法のフレイムシャワーを、短時間で詠唱したナナルゥ。
彼女らの戦いを間近で見て、柳也は、これからも彼女らとともに戦いたい、と思った。
彼女らを迎え入れれば、STF はいまの二倍の活躍が出来る、と確信出来た。
彼女らとなら、もっと面白い戦いが出来る、と本能が叫んでいた。
「どうでしょう、ランズフォード大隊長? 実現するか、しないかはさておいて、一考してはいただけませんか?」
「むぅ……」
壮年のランズフォード大隊長は腕を組み、考え込んだ。
ラキオスに召喚された三人のエトランジェのうち、守護の双刃を名乗るこの男のことを、ラキオス王が贔屓にしている噂は、彼もまた聞き及んでいた。
ここで彼の提案を受け入れれば、自分に対するラキオス王の株も上がるのではないか。
瞬時に打算が頭の中をよぎり、ランズフォードは、気が付くと頷いていた。
「いいだろう。二〇一大隊の隊長とも相談せねばならぬが、少なくともその二人については、いまこの場で我が隊に吸収するのはやめておこう。……ちなみに、他の四人はいらないのか?」
「あとの四人については、実際に戦いぶりを見ていないので、やめておきます」
平時であればいざしらず、戦時下の現在、未知の要因を内に抱え込むことは大きなリスクを背負うことになる。
言葉は悪いが、実戦でプルーフされていない兵器ほど信頼の置けぬものはない。ラースへ派遣された三名のスピリットはもとより、柳也はもう一人の生き残りの赤スピリットを信用していなかった。
「しかし、貴公はいま、奇妙なことを口にしたな……」
ランズフォード大隊長が、珍妙なものを見る目つきで言った。
柳也は怪訝な表情を浮かべた。
はて、自分の発言の中に、奇妙に取れる単語があっただろうか。
小首を傾げる柳也に、ランズフォード大隊長は言った。
「貴公はいま、本人達の同意も得ねばならぬ、と口にしたが、スピリットの意見など、いちいち聞く必要なかろう。淡々と命令だけすればよいものを、なぜ、そのように面倒なことをするのだ?」
「…………」
柳也は小さく溜め息をついた。
なるほど、そういうことか。
この世界の人間にとって、スピリットは家畜にも満たない存在、言ってしまえば、ただの道具に過ぎない。道具の保管場所を移動させるのに、いちいち道具の意見を聞く必要は、たしかにないだろう。
――先は長いなぁ……。
現在、有限世界を支配するスピリット差別の常識を、少しでも是正したいと考えている、柳也だった。そのために、現在自分とダグラスは、水面下で様々な活動に手を染めている。ダグラス達がリュウヤ改革と揶揄する軍制改革案は、その鋒矢だ。
しかし、それらの活動が実を結ぶのは、相当、先のことに思えた。
思えて、ならなかった。
ふと、真向かいに座っていたセリアと目が合う。
ランドフォード大隊長の発言を受けて、険を帯びた表情を浮かべる彼女に、柳也は何も言ってやることが出来なかった。
◇
――同日、夜明け。
サモドア山脈の上空を、ひたすら南西に向かって、アイリスは飛んでいた。
すでに胸からの出血は止まっていた。肉体の疲労も、山脈上空のマナを吸っているうちに、ほとんど感じなくなっていた。
しかし、王都への帰路を急ぐ彼女は、苦痛に苛まれていた。
肉体的な痛みではない。
心が、苦悶を訴えていた。
「リュウヤ、サクラザカぁ……」
唇からこぼれ落ちるのは、怨嗟の呟き。
憎しみが、アイリスの胸を焼き焦がしていた。
三度戦い、二度引き分け、一度負けた。
アイリスの軍人生活の中で、こんな経験は初めてのことだった。
屈辱だった。
ただただ、屈辱が、アイリスの胸を苛んだ。
「リュウヤ、サクラザカぁ……」
また、怨嗟の呟きが、唇からこぼれた。
凄絶な表情。
途方もない、憎悪の感情。
〈苦悩〉の柄を握る手に、知らず力が篭もる。
アイリスの激情に呼応して、広げたウィング・ハイロゥが禍々しい光を放った。
続くアイリスの呟きは、冷たい夜気に溶け込んでいった。
「貴様は……貴様だけは…………」
「私が、殺してやる!」
アイリスの背後で、顔を出した太陽が輝いていた。
<あとがき>
柳也「俺が、主人公だぁぁぁぁ――――――っ!!」
北斗「……なにを突然、藪から棒に叫んでいるんだ、この男は」
タハ乱暴「いや、壁から釘だ」
北斗「はいはい、粗忽の釘ネタはどうでもいいから」
タハ乱暴「いやさ、たぶん、アレだ。ここんところ、主人公らしい活躍、してなかったもんだから……ゼロ魔刃の方でも、EPISODE:28からEPISODE:32まで、まるで良いところがなかったし」
北斗「ああ、なるほど。そんな不遇な中で、ようやく巡ってきた、今回の話、というわけか」
柳也「HAHAHA! 見たか、アイリス! 見たか、ギーシュ君! これが主人公の力だ! 俺がこの作品の主人公、桜坂柳也様だぁ!!!」
北斗「……ギーシュ君?」
タハ乱暴「ああ、うん。EPISODE:30から、32までは、誰がどう見ても、ギーシュが主人公だったから。実際、俺もその気で書いたしね。……さて、読者の皆さん、おはこんばんちはっす。タハ乱暴でございます」
北斗「闇舞北斗です。今回もアセリアAnotherをお読みいただき、ありがとうございました。今回の話は、いかがでしたでしょうか?」
タハ乱暴「今回はあれだな。バトルばっかの話だったな。気の優しい読者には、憤慨ものの内容だ!」
北斗「自分で言うな、自分で。……まぁ、たしかに、今回は戦ってばかりの話だった」
柳也「セリアVS山岳大隊、ヘリオンVSローザ! そして最後にこの俺、アセリアAnotherの主人公、ビバ・主人公! 桜坂柳也VS脇役のアイリスというカードだった。いやぁ、いいねぇ、いいねぇ。燃えるね。楽しいね。やっぱ戦いは、良いわぁ〜。っていうことタハ乱暴? そろそろゼロ魔刃でも、俺に戦いの場を……」
北斗「それはさておき、今回の話で柳也はアイリスと通算三度目の戦いを終えたわけだが、戦績はいまのところ、一勝一敗一引き分けといったところか?」
タハ乱暴「そうだね。一回目のバトルは、アイリス優勢で始まって、途中で柳也が逆転しかけたけど、トティラ将軍の決断で逃げられた引き分け。二回目のときは、例のアクシデントがなければ、間違いなく柳也が負けていただろう。柳也本人の中では、あれは敗北。そして今回は、最終的に逃げられたとはいえ、とりあえずかつてない大きなダメージをアイリスに負わせた。そういうわけで、今回の勝負は、柳也にとって初の白星なわけですな」
北斗「なるほど。……さて、今回の勝利が、次に控えるアイリスとの戦いにどう影響するのか?」
タハ乱暴「対バーンライト最終決戦、サモドア攻略作戦は、その辺りのことも注目していただきたいものです。はい」
北斗「まぁ、実は(ピ―――――――――ッ)なんだがな」
タハ乱暴「そうだね。実は、(ピ―――――――ッ)なんだけどね。さて、読者の皆様、今回も永遠のアセリアAnotherをお読みいただき、ありがとうございました」
柳也「次回もお付き合いいただければ、幸いです」
北斗「ではでは〜」
<おまけ>
易京城南部の大平原にて対峙するジョニー・公孫賛連合軍と袁紹軍。
ともに相手の出方を窺い、睨み合うこと一刻ほど。やがて先に動き出したのは、ジョニー・公孫賛連合軍だった。攻撃に適した横隊での進軍。敵の狙いは正面からの決戦にあり、と判じた袁紹軍は、自分達もまた横隊に構え、前進を開始した。
ともに正面の相手を目指して進軍。両軍の間合は、みるみる迫っていった。
「……あれ?」
最初に違和感を覚えたのは、袁紹軍中央軍の指揮を執る顔良だった。敵連合軍の先鋒を務める騎兵部隊の動向を注意深く観察していた彼女は、あるとき、頻繁に機動する彼らの背後で、中央軍と左翼部隊の行軍が遅れていることに気が付いた。隣を行く右翼ジョニー軍各部隊に比べて、徐々に、しかし確実に遅れ始めている。
――中央軍と左翼軍を率いているのは、公孫賛さんと、従妹の公孫範さんのはず……。
人の群れの中央に立ち、たなびく旗から敵の指揮官をそう予想した顔良は小首を傾げた。
公孫賛も公孫範も、北方の異民族烏丸を相手に、実戦経験は豊富なはず。特に公孫賛は、白馬将軍の異名を取るほどの勇将だ。その彼女らが指揮する部隊が遅れるなど、考えにくいことだが。
――もしかして、敵の作戦なのかな……?
一般に前衛部隊の役割には、情報の入手、主力の警戒・援護、主力の構えの偽騙、敵の拘束、の四つが挙げられる。顔良が注目したのは、このうち主力の偽騙であり、彼女は、前衛騎兵部隊が頻繁に機動するのは、背後の歩兵部隊の動きから注意をそらすためではないか、と考えた。
――もしそうだとしら、注意するべきは前衛の騎兵隊よりもその後ろにいる歩兵部隊! 彼らの動きが鈍いのはわざとで、罠を張っているから!
敵がどのような罠を張っているかは分からないが、気をつけるに越したことはない。
顔良は同僚の文醜にも注意を促すべく声をかけた。
しかし、文醜の返答は豪快にして希望的観測に富んだものだった。
「おおっ、本当だ。敵の中央と左翼が遅れてる……こりゃあ、あれだな。兵士達の足並みが揃ってないんだ。なんだよ〜、公孫賛のやつ。白馬将軍だなんだって言っても、結局、この程度かよ。喜べ、斗詩。相手は自分んトコの兵士もろくに鍛えられない愚将だぞ。これは勝ったも同然だ」
同僚の溌剌とした笑顔を前に顔良は思わず頭を抱えた。
敵の誘いを好機と捉えた友人は、真正面から攻め込む考えを崩さない。もともと彼女は猪突猛進のきらいの強い猛将だった。
そしてその傾向は、総大将たる袁紹にも言える。
顔良は一応、袁紹にも自分の考えを述べてみたが、総大将は彼女に雄々しく、華麗に言い放った。
「たとえ罠が張られていようと、罠ごと食い破るのが袁家の兵士ですわよ! さあ、顔良さん、文醜さん、張コウさん、雄々しく、華麗に、やっておしまいなさい!」
袁紹の命令は簡潔にして明瞭だった。すなわち、正面からの突撃。
この命令を受け取った顔良は、泣く泣く軍団の突撃を命令した。
◇
他方、馬鹿正直に正面から攻めてくる袁紹軍の様子を知って、柳也は複雑な表情を浮かべていた。
反董卓連合の軍議の場で見聞きした袁紹の性格から、凝った仕掛けよりも単純な誘いの方が効果的だ、と断言したのは自分だが、まさかこうもツボに嵌まってくれるとは……。
「あれだな。ワーテルロー会戦の勝利がイートン校の校庭で決まっていたように、この易京の戦いの勝敗は、反董卓連合最初の軍議の席で、もう決まっていたわけだ」
「ご主人様?」
隣で両軍の機動の様子を眺めていた朱里が、自分の声に反応して怪訝な表情を浮かべる。
柳也は、「何でもない」と、かぶりを振ってから、
「それで、伯珪ちゃんの中央軍と、公孫範殿の左翼軍の展開は?」
と、隣のはわわ軍師様に訊ねた。
朱里は嬉々とした笑顔で柳也に応じる。
「私達の右翼軍に比べて、中央軍の進軍速度が遅れ始めています。左翼軍は、さらに遅れがちになっているようです」
「そうか。……予定通りだな」
遅れがちな進軍こそが予定通り。そう呟いた柳也に、朱里は笑顔を以って応じた。
「はい。予定通り、袁紹軍から見てわたし達の布陣は、左斜め向きになりつつあるはずです。このままいくと、敵軍と最初に戦闘状態に陥るのはわたしたち右翼担当の軍となります」
「うん。順調々々。順調すぎて、かえって恐いくらいだ」
柳也は苦笑を浮かべると、冗談混じりに言った。
戦場にあって、適度に緊張を和らげようとする主君の気遣いに、朱里は微笑を以って応える。
「ですね。……あ、そろそろ敵左翼軍との間合が近付いてきたみたいですよ?」
朱里に言われて、柳也は前方に視線を向けた。
なるほど、我が方の前衛騎兵隊と、敵の左翼部隊及び騎兵部隊が、いまにも接触しようとしている。
柳也は敵左翼部隊の中央にたなびく牙門旗に神経を集中させた。
マナの希薄な中華大地にあって、神剣士としての能力をほとんど失っている柳也だが、それでも、基本的な身体能力は卓越している。ここでいう身体能力の中には、視力や聴力といった五感の能力も含まれる。柳也の人知を超越した視力は、十数キロメートル先にたなびく敵将の旗に記された文字を正確に読み取っていた。
「張の文字。袁紹軍で張といえば……張コウ将軍か」
柳也は嘆きと歓喜の入り混じった複雑な溜め息をついた。
強敵を相手にしなければならないことに対する憂いと、強敵と戦える喜びが、この男の本能を熱く刺激していた。
「念のため、程遠志のアニキと管亥のチビに、注意するよう伝令出すか」
側決するや柳也は伝令兵を呼んでその旨を二人に伝えるよう命令した。
◇
やがてとうとう、ジョニー・公孫賛連合軍と、袁紹軍が激突する瞬間が訪れた。
袁紹軍左翼、張コウ将軍率いる二万の歩兵と、それを援護する騎兵部隊三三〇〇が、ジョニー軍の前衛に展開した騎兵部隊に迫る。一〇〇〇騎の騎兵隊はすぐさま散開するや、そのまま敵と戦うことなく中央軍前衛へと合流した。代わって前に出た程遠志のアニキ麾下の重装歩兵七〇〇〇と、管亥のチビ麾下の歩兵四六〇〇が、敵の初撃を受け止める。
「殺せ。殺せ殺せ殺せ! 高覧の仇だ! あいつのもとに、一人でも多くの魂魄を送ってやれぇ!」
先立つ戦闘でジョニー軍に同僚の高覧将軍を討たれ、その復讐に燃える張コウは自ら前線を駆け抜け、兵を叱咤した。
その猛烈なる気迫を宿す第一刀をなんとか堪えた程遠志のアニキは、敵将に負けじと味方を奮励する。
「いいか、俺達重装歩兵隊の仕事は、敵の攻撃を正面から受け止め、正面から敵を押し潰すことだ! 他のことは考えるな。とにかく前進しろ。進め、進め、進みやがれ!」
とても将とは思えない伝法な言葉遣いの命令に、しかし重装歩兵隊七〇〇〇は奮起した。桜坂柳也発案のこの部隊は、構成員の多くを元黄巾党出身者で固めていた。ゆえに、格調高い厳格な口調の命令よりも、同じ黄巾族出身のアニキの命令の効果は強かった。
重装歩兵隊が敵の初撃を凌ぎ、反撃に転じようとするその隣では、管亥のチビが手持ちの兵力をよく使い、防御に徹していた。兵力で敵に劣り、また重装歩兵隊ほど装備の充実していない管亥隊が取れる戦術は限られている。管亥隊は濃密な槍衾を作り、敵の突撃を凌ぎ続けた。
そんな管亥隊を背後から援護するのは柳也が直接指揮する本隊一〇〇〇と、高昇隊三〇〇〇だ。彼らは威力に優れる弩ではなく、通常の弓を使って管亥隊を圧迫する敵陣に矢を射かけた。弩は射程、威力の両面で弓を上回るが、発射速度の点では劣る。今回のケースでは、敵の攻撃の矛先を鈍らせるために数が必要だった。
強力な管亥隊の防御を突破するために、敵歩兵部隊は密集した隊形を組んで一点突破を狙ってきた。
さしもの管亥隊も、敵の集団が一丸となって突っ込んできたら危うかったろうが、後方から飛んでくる数千の矢が、彼らの窮地を救った。
頭上より殺到する矢の雨を恐れた敵兵は密集隊形を解き、ばらばらに管亥隊を襲った。しかし、エネルギーの分散した攻撃では、管亥隊の防御は崩せない。かといって再び密集隊形を組めば、弓兵の矢の餌食になってしまう。ジレンマに囚われた袁紹軍は、抜き差しならぬ状況のまま、成果の上がらぬ膠着状態に陥ってしまった。
他方、左側では、程遠志のアニキ麾下の重装歩兵隊が、じっくりと、しかし確実に敵を蹴散らしていった。
左側では膠着し、右側では徐々に押されつつある。自軍の陥った劣勢を知った張コウは、この状況を打破するべく騎兵部隊三三〇〇の投入を命令した。騎兵部隊の機動力と突進力を以って、まず管亥隊を側背から切り崩し、次いで敵重装歩兵隊を包囲殲滅する作戦だった。
直ちに騎兵部隊が左側方に回り込み、管亥隊を襲おうとした。
袁紹軍のこうした動きに対し、柳也は温存していた張飛隊四五〇〇、華雄騎兵隊五六〇を動かした。
ジョニー軍最強の打撃力を誇る張飛隊と、ジョニー軍最速の華雄騎兵隊に機動を阻まれた袁紹軍騎兵部隊は、まずこれらとの戦闘を余儀なくされてしまう。
張飛隊が正面から攻撃を受け止めている間に、華雄隊が側背に回り込むという、シンプルだが手堅い戦術展開の前に、袁紹軍騎兵部隊は被害甚大。保有する戦力が一二〇〇騎ほどになった時点で、これはたまらない、と潰走していった。
◇
右翼方面でジョニー軍が敵騎兵隊を蹴散らしたその頃、中央でも戦闘が始まっていた。
右翼方面と同じように、袁紹軍の矛先が迫るや否や、前衛騎兵隊は散開して、一戦も交えることなく後退する。代わって前に出た公孫賛率いる歩兵部隊一万五〇〇〇は、客将趙雲の力戦もあって、兵力で勝る袁紹軍を相手に一歩も譲らぬ戦いを繰り広げていた。
しかし、なんといっても敵の兵力は二万。正面からのぶつかり合いでは、兵力劣勢な方が徐々に、しかし確実に疲弊していった。
「くそっ、いかんせん数が多すぎる!」
「白蓮殿、兵達が見ております。弱音を吐きなさるな」
愛用の槍を振り回し、敵を払い、時に突きながら、趙雲は公孫賛にそう諫言する。
自らも剣を振るい、一個の武人として戦う公孫賛だが、名門の財力に物を言わせて装備を整えた袁紹軍の兵は一人々々が強く、趙雲ほど卓越した武を持たぬ彼女には苦戦が続いていた。
そんな時、自分達が戦っている場所から二〇〇メートルほど離れた場所で戦う部隊より、一人の伝令兵が駆け込んでくる。曰く、「袁紹軍の猛将、顔良、文醜の両将軍が自ら打って出て、自分達の大隊を圧倒している」。
報告を耳にした公孫賛は、隣の趙雲を見た。
「あの二人が相手じゃ、並の兵士では刃が立たない。いくぞ、星!」
「心得た!」
二人の将は、敵軍の誇る二大将軍を迎え撃つべく、戦場を駆け抜けた。
◇
敵騎兵部隊の脅威を取り除いたジョニー軍は、いよいよ全部隊が反撃に打って出ていた。
これまで守りに徹して管亥隊が反撃に転じ、敵騎兵隊を蹴散らした張飛隊、華雄隊が、敵歩兵部隊の側背へと回り込む。重装歩兵隊の進撃は留まるところを知らず、張コウ将軍麾下の歩兵部隊は、すでにその半数を失っていた。
――このままでは全滅してしまう。全滅したら、高覧の仇が取れない!
自軍兵士の悲鳴と、敵軍兵士の喚声が轟く中、張コウ将軍は悔しさに歯噛みしながら、全軍に撤退を命令した。
しかし、戦力のほぼ半数を失ったいま、それは撤退というより、潰走同然の逃走だった。
背を向けて逃げる敵を、ジョニー軍は全速力で追い討った。
戦意を喪失した敵を蹴散らすことほど、容易な戦はない。
ジョニー軍の各部隊は、次々と戦果を挙げていった。
◇
右翼方面の潰走劇は、苦戦する中央公孫賛隊を勇気付け、優勢だった袁紹軍の心胆を凍りつかせた。
左翼の張コウ隊が壊滅したいま、右翼ジョニー軍が自分達を包囲する可能性が出てきた。このままでは、中央軍が壊滅的な打撃を受けてしまう。
顔良と文醜はすぐさま撤退を命令した。
しかし、実戦経験豊富な公孫賛が、袁紹軍のこうした動きを見逃すはずがなかった。
公孫賛はここに来て白馬騎兵隊三〇〇〇を攻撃に投入した。
背中を向けた敵を、猛然と追いかける。
袁紹軍は、敵の間合いからなかなか逃れることが出来なかった。
それもそのはず、右翼ジョニー軍に対して遅れがちな中央公孫賛隊を攻めた顔良達は、知らぬうちに敵の懐へと誘い込まれていたのだ。
顔良・文醜麾下の中央軍が、後方の袁紹本隊と合流出来たのは、張コウ隊の潰走が始まってから一刻も経った頃のことだった。
◇
もっと悲惨だったのは、袁紹軍右翼部隊だった。
中央の公孫賛隊よりもさらに遅れていた左翼公孫範一万の歩兵部隊と、袁紹軍右翼軍が矛を交わしたのは、張コウ隊の潰走が始まった直後のことだった。続いて中央軍の後退を目にした右翼軍は、ほとんど戦わぬまま撤退を余儀なくされてしまう。
何のため前進したかも分からぬまま背中を向けた敵兵を、公孫範は当然、追い討った。
最も遅れていた公孫範隊を追った袁紹軍右翼部隊は、敵陣の最も奥へと誘い込まれていた。当然、離脱までに要した時間は最も長く、袁紹軍右翼部隊は、まともに矛を交わしていないにも拘らず、七〇〇〇近い損害を受けた。
対する公孫範隊の損害は約二〇〇〇。自軍の損害に対し、三・五倍の大戦果だった。
◇
絶対の自信を以って送り込んだ六万六〇〇〇以上の戦力が、ボロボロ、になって戻ってくるのを見た袁紹は吃驚仰天した。直ちに帰還した将兵を集め、戦闘の推移と、自軍の被った損害の報告を受け取った彼女は、そこでさらなる驚きに目を剥いた。名門袁家の精兵達が敗北し、冀州を発ったときには十万を誇った兵力が、いまや三万六〇〇〇にまで減ってしまっている。
話だけなら到底、信じられるものではない。しかし、目の前に広がる現実は残酷だった。突きつけられた敗北の事実に、袁紹は一瞬、思考停止状態に陥ってしまった。
――いったい、どこで……。
いったい、どこで間違えてしまったのだろうか。
絶対の自信を抱いて臨んだ幽州征伐。袁家の名声と財が作り上げた十万の軍団は、泥臭い戦い方がお似合いの公孫賛軍や、新鋭のジョニー軍など鎧袖一触出来るはずだった。それが、どうして、こんな……。
「袁紹様、ここは一旦、軍を退くべきです」
茫然と立ち尽くす袁紹の耳朶を、軍師の田豊の声が撫でた。
「緒戦で高覧将軍が敗北し、此度の戦闘でも我が軍は敗北しました。一度負け癖のついてしまった軍隊を立て直すのは容易なことではありませぬ。ここは思い切って敵から、うん、と距離を取るべきです」
「田豊殿、袁紹様、それならばこの私めに策がございます」
田豊の献策を前提に言葉を継いだのは、同じく軍師の逢紀だった。
「これより南方のありまする楽成城を、殿として使いましょう」
「楽成城? しかし、あの城の城主黄忠殿は、中立の立場を宣言しておられたはずだが?」
「ええ。ですので、楽成城を速やかに乗っ取り、そこにいる兵どもを殿部隊とするのです。たしか、黄忠殿には大切にしている一人娘がおったはず。中立を宣言している油断を衝いて城内に兵を潜伏させ、その娘御を確保してしまえば、黄忠殿も、その兵達も、我らの言うことを聞かざるをえませぬ」
逢紀の発言に、田豊は言葉を失った。
同時に、自らと同様古くから袁家に仕える同僚の正気を疑う。
地獄の鬼畜生にも劣る下劣極まりない作戦を口にする同輩の顔色は、いたって平然としていた。
「おぬし……」
「袁紹様、ジョニー・公孫賛連合は間もなく全軍挙げての追撃戦に入ろうとしております。あまりお時間はありません。速やかなご決断を」
自分を睨む田豊の視線を冷然と無視し、逢紀はいまだ茫然としている袁紹に言った。
名門袁家の軍勢が、弱小勢力の連合に破られた。
高きプライドゆえに、いまだその事実を理解出来ていない袁紹は、冷酷な献策の内容の吟味もすることなく、こっくり、と頷いた。
◇
易京の戦いの勝者が誰なのか。
それは袁紹軍左翼張コウ隊が潰走を始めた時点で明らかだった。
柳也は朱里に早いうちから戦果と損害の集計を始めさせ、袁紹軍右翼部隊が戦場から離脱する頃には、もう彼のもとに報告が挙がってきていた。
「戦死二一二五、負傷三七二五か……やはり正面きって戦いを挑んでくれたアニキの重装歩兵隊の被害が一番だな」
「はい。いくら厚い鎧を身に付けているといっても、限度がありますから」
自軍の被害を表す数字だ。竹簡に記してしまえばただの四桁の数字の羅列にすぎないが、そこには人間一人々々の死に様、生き様が篭められている。
暗い表情で呟く朱里の頭を軽く撫でながら、柳也は続いて気になる数字に口を差す。
「この、行方不明の三〇四名だが……」
「はい」
「逃亡か、戦死か、それとも敵に捕まったのか。部隊を見失っただけなのか。なるべく早く結論を出してくれ」
「はい」
「もしかしたら、俺達のために死んでいったかもしれねぇ連中だ。行方不明なんて気持ちの悪い結果は、なるべく減らせよ」
「御意」
柳也の言葉に朱里が頷いた時、二人のいる天幕に、伝令兵が駆け込んできた。
公孫賛軍の兵士で、連絡の内容は逃げる袁紹軍の追撃をどうするか、というもの。
柳也は、「無論、追撃する」と力強く宣言した。
◇
かくして、後に易京の戦いと呼ばれる会戦に、連合軍は勝利した。
この戦いで連合が負ったダメージは、戦死六二六三、重傷者一万二六九〇、行方不明九九四という甚大なもの。このうち、ジョニー軍の被った損害は、戦死二一二五、重傷三七二五、行方不明三〇四の、計六一五四だった。ジョニー軍の残存兵力は、重装歩兵が約五三〇〇、通常の歩兵が約八八〇〇、騎兵が約四八〇。他方、公孫賛軍の残存兵力は歩兵一万二三〇〇、騎兵一九〇〇だった。
かくも多量の出血を強いられた連合だが、その出血量に比して、得られた戦果は奮ったものだった。
此度の戦において、連合軍は約一万一〇〇〇の首級を挙げた他、重傷者を含む約一万八〇〇〇の捕虜を獲得した。また、何よりの大戦果として、幽州領土の安全が守られた。名門袁家といえど、十万の兵力を揃えるのは容易なことではない。袁紹が再び幽州征伐を企図するにせよ、それはずっと先のことになるはずだった。
この好機を逃してはならない。袁紹軍主力部隊に大打撃を与えたいまこそ、守りから攻めへと転ずる時だ。
ジョニーと公孫賛の意見は一致していた。
両雄は、逃げる袁紹軍に対して追撃を仕掛けることにした。
いまだ各地に潜伏する黄巾族残党の過激派勢力や、烏丸らへの備えとして、易京城に公孫範と兵力五〇〇〇を残し、南皮へと逃げる袁紹軍を追う。
やがて、袁紹軍を追う柳也達の眼前に、楽成城が見えてきた。
久しぶりに柳也が活躍していたな
美姫 「確かにね。とは言え、今回もアイリスを逃がしてしまったわね」
完全決着とはいかなかったが、どうにか勝ちを得たな。
美姫 「アイリスはアイリスで更に憎悪を増しているみたいだし」
中々良い感じに。生き残ったセリアたちの引き抜きはまだ分からないけれど、戦力増強の可能性も出てきたしな。
美姫 「これからどうなるのか、更に楽しみね」
ああ。次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」