――聖ヨト歴三三〇年、シーレの月、青、ひとつの日、朝。

 

 

高嶺悠人率いるスピリット・タスク・フォースがエルスサーオ・リーザリオ間国境線監視所に赴いたその四日前。

バーンライト王国軍第三軍司令トティラ・ゴートは、彼専用の会議室で副官のバクシーと難しい顔で議論を交わしていた。議題は勿論、先の魔龍討伐作戦ですり減らした第三軍の戦力の回復状況と、その運用についてだ。

「先月初めに閣下が陛下に打診してくださった兵力が、先頃ようやく到着いたしました」

「うむ。報告は受けている」

手元の資料に目線を落としながら話すバクシーに、トティラは重々しく頷いた。

「赤と緑のスピリットが三体ずつであったな。そしてそのうちの半数が外人部隊と」

「はい。正確には赤の二名と、緑の一名が外人部隊です。全員、即戦力としての運用が可能ですが、なにぶん、第三軍にやって来てまだ日が浅い。当面は第三軍の空気に慣れてもらうため、連携を重視した訓練を課すべきでしょう」

「うむ。その六体についてはお前に任せる。……先月正規軍に上がってきた五体はどうだ? もう一ヶ月が経つが?」

トティラ将軍の言う五体とは、魔龍討伐作戦失敗後に、訓練部隊から急遽正規軍に編成されたスピリットのことだ。急造の弱兵だが、あれから一ヶ月が経ち、どの程度使える戦力になっているのか。

はたして、トティラの問いに、バクシーはしかめっ面を作った。

「正直に申し上げて、かんばしい成果は得られておりません。なんといってもまだ一ヶ月です。外人部隊のスピリットを十とすれば、正規軍のスピリットが七、新参スピリットが五といったところでしょう」

「ふぅむ……」

トティラ将軍は重々しい溜め息をこぼした。他の将兵が見ている前では出来ない、バクシーの前だから出来る態度と仕草だ。

魔龍討伐作戦発令以前は外人部隊と合わせて三一体もの正規戦力を保有していたトティラ・ゴートの第三軍が、情けない限りだ。

現在の第三軍の戦力はスピリットが二四体。数だけを鑑みれば、あの大敗北からかなりの部分、立ち直ったように思えるかもしれない。しかしそのうちの五体は先頃正規軍入りを果たしたばかりの弱兵で、さらに六体はまともな連携が出来るかどうかも不安な存在だ。さらに一体は、いまだ先の作戦での精神的ショックが尾を引いて、戦えないときている。

「まともな戦力としてカウントできるのは僅か一三。いま攻め込まれれば、敗北は必至だな」

「はい……ですが、そうならないための、リーザリオ軍事演習です」

バクシーは真剣な面持ちで呟いた。

猛将の副官の手には、各部隊から提出された報告書の他に、一冊の冊子が握られていた。麻のロープで綴られた羊皮紙の表紙には、聖ヨト語で、“リーザリオ軍事演習要綱”と記されている。

リーザリオ軍事演習。それは、戦力不足に悩むトティラ将軍が打ち出した苦肉の策だった。

客観的に省みて、現状の第三軍の防衛戦力では、雲霞の如く攻めてくるであろうラキオス軍からリーザリオを守り抜くのは難しい。もし自分がラキオス王であれば、この好機を見逃すことなく、何らかの理由をつけて開戦に踏み切るだろう。そうなれば、リーザリオは瞬く間に敵に占領され、バーンライト侵攻の橋頭堡として利用されるにあい違いない。サモドア山脈への入り口でもあるリーザリオは、戦略上の重要な拠点だった。

繰り返し言うが、いまの第三軍の戦力ではリーザリオの防衛は難しい。しかし、だからといってトティラ将軍に背負わねばならない責任から逃げるという選択肢はなかった。

トティラは考えた。いまの第三軍ではリーザリオの防衛が困難だというのなら、逆にいまの第三軍には何が出来るのか。第三軍の現状を鑑みて、ラキオスに対しどんな有効なアプローチが取れるか。

将軍の出した答えは、簡潔にして明快だった。

「ラキオスを開戦させないこと。それが、バーンライトを守る最良の手だ」

リーザリオを、ひいてはバーンライトを守るために、最も有効な手段。いまの第三軍でも実行可能な、会心の一打。

「ラキオスのバーンライト侵攻の意志を挫く。ラキオス側に、リーザリオの第三軍いまだ侮り難し、と、印象付ける」

「そのために、危険を覚悟で国境線ぎりぎりの地点で、大規模な軍事演習を行う。第三軍の戦闘力を、ラキオス側に見せつける」

演習は、“演”の字を使っていることからも分かるように、日頃の成果を披露する行為だ。

リーザリオ軍事演習は、敵国ラキオスの国民を観客とした演習であり、その目的は、第三軍の戦闘力を見せつけて王国の開戦意欲を奪うことにあった。

すなわち、軍事力の持つ抑止力の側面を前面に押し出す作戦だ。

「守りに徹しているだけではラキオスには勝てぬ。ここは、積極果敢な姿勢を見せねばならぬ」

無論この軍事演習は、国境線ぎりぎりの地点で執り行う以上、ラキオス側に、『バーンライトに侵略の意図あり』と言いがかりをつけられても仕方がない。転じて、『バーンライトを討つべし』との国民世論を湧かせかねない行為だ。現代世界で言い換えれば、これは中国海軍が日本の領海ぎりぎりで、原潜を含む艦隊が戦闘演習を行うようなもの。トティラ将軍も、その点は覚悟の上だった。覚悟の上で、リーザリオ軍事演習の件を、王国軍上層部に報告しなかった。

もし、“何か”があった時のために。

もし、ラキオス側が第三軍の行動を見て武力制裁を加えようとした時のために。

『本軍事演習について、王国政府は何の関与もしていない。すべては、現地第三軍司令の暴走が招いた事故である』

と、弁明して、自分一人の首を差し出すだけで事が済むようにするために。

トティラ将軍は、何の報告もしていなかった。

「バクシー、分かっているとは思うが……」

「はい。軍事演習について、私は何も聞いていないし、見てもいない。ある日突然に閣下から、陛下の承諾は得ている、と唆された上で、軍事演習実行のための資料を収集した。……そうでしたね?」

「うむ。お前には、ワシの暴走が明らかとなった時、ワシの首を取り、以後の第三軍を取り纏めてもらわねばならぬ」

出来れば、残す家族のことも託したい。言葉にはしなかったその想いを、二十年以上の付き合いになる副官は正確に汲み取ってくれた。

「お任せください」と、力強く頷いたバクシーに、トティラ将軍は頼もしさを感じた。

すべての責任を一人で背負おうとするトティラ将軍の考えを聞いて、いちばんに反対したのが他ならぬバクシーだった。猛将の説得を受け入れてからは、彼の計画を支援する細大の協力者として、この老体を支えてくれている。

「すまんな。お前には苦労をかける」

「そう思うのならば、此度の軍事演習を必ず成功させてください。王国のために。なにより、閣下ご自身のために」

「分かっておる」

トティラ将軍は数秒の間、考えをまとめるかのように瞑目すると、やがて瞼を開いて呟いた。

「決行は四日後。シーレの月、青、いつつの日。一三時。一時間……いや、三十分前には、第三軍の全員が国境線監視所に詰められるようにする」

「はい」

「当日はワシも指揮を執る。馬の手配を忘れるなよ?」

「誰に物を言っているのですか?」

バクシーは余裕の笑みを見せた。

「私はあなたの副官ですよ? 当日は、最高の駿馬を用意しましょう」

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-

第二章「蠢く野心」

Episode40「リーザリオ軍事演習」

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、青、ひとつの日、夕方。

 

トティラ将軍からリーザリオ軍事演習についての説明があったその日、アイリス・青スピリットを始めとする外人部隊の面々は興奮から歓声を上げた。

特殊作戦部隊の失敗以来、第三軍の取る軍事作戦は負け戦が続いている。

一度負け癖のついた軍隊ほど厄介な組織はない。負け癖のついた軍が再び勝利の栄光を得るには、多大なエネルギーを必要とする。事実、第一次世界大戦の実質的な敗北によって、フランスは再び世界の強国となるために七十年の歳月を要した。

今回の軍事演習は、新型エーテル変換装置奪取作戦以来、沈みがちになっている第三軍の士気を高める意味で恰好のイベントだった。

――リーザリオ軍事演習はこれまでの演習よりもはるかに規模の大きなものとなる。この演習で一定の成果を上げれば、正規軍は失われた自信を取り戻すことが出来る。

また、リーザリオ軍事演習は、王国軍のスピリットだけでなく、外人部隊にとっても有意義なものとなるはずだった。

教導隊としての側面が強い外人部隊では、通常の任務や訓練で外人部隊同士が連携することは少ない。

トティラ将軍の言によれば、リーザリオ軍事演習には第三軍の戦力の中核たる二四名のスピリット全員が参加することになるという。

詰め所では顔を合わせても、日頃組む機会のない外人部隊間の連帯を深めるという意味でも、アイリスは今回の軍事演習には賛成だった。

「アイリスは愛しのオディールと久しぶりに一緒の任務に就けて嬉しいものね?」

「ば、馬鹿を言うなっ」

外人部隊専用の詰め所。夕食の席。

唐突にかけられたオディールのからかい口調に、アイリスは顔を真っ赤にして反論した。

「公務に私情を挟むつもりはない。……そ、そんな発想が出てくるオディールこそ、色惚けしているんじゃないか?」

トティラ将軍のサモドア行きに随伴して以来、将軍を見るオディールの目が以前と違っていることは、外人部隊の間では有名な話だった。オディール自身、特に親しい者に対して「わたしは閣下の家族になりたい」と、こぼしていたほどだ。

将軍に向けた感情が、その言葉通り家族への親愛に近いものなのか、それとも女が惚れた男に向けた情愛なのかは、アイリスには判断がつかない。しかし、いずれにせよ第三軍外人部隊のナンバー2が、猛将スア・トティラに特別な感情を抱いていることは明らかだった。

「軍事演習では閣下自らが指揮を執られるそうじゃないか。オディールこそ、閣下に良いところを見てもらおうと企んでいるのではないか?」

「あら、当然でしょ?」

しかし、反撃のつもりで口から出たその言葉は、余裕の笑みを浮かべたオディールに受け流されてしまう。

「親愛なる将軍閣下に日頃の訓練の成果を見てもらいたい、と思うのは当然のことでしょ?」

「む……」

「それに、わたしが閣下に特別な感情を抱いていることはべつに隠すようなことでもないしね」

わざわざ公にするべきことではないが、特別、隠すようなことでもない。

いくらスピリットへの差別が著しい有限世界とはいえ、個人の思想や感情を規制する法はどの国にも存在しない。それならば、自分がトティラ将軍に好意を抱いたとしても何ら問題はない。

たしかに、スピリット差別主義者のトティラ将軍のこと、オディールの秘めた想いを知れば嫌悪を露わにするだろう。しかしそれはトティラ将軍の都合であって、想いを抱く分には関係ないことだ。

あまりにもあっさりと言ってみせたオディールの態度に、アイリスは二の句を失ってしまう。

逆にオディールは、自分の思いと考えを正直に語って勢いづいたか、畳み掛けるようにアイリスに言った。

「わたしは閣下に最高の演習を見せたいと思っている。これはたしかに私情よ。公務に私情を挟んでしまうのは認めるけど、でも、仕事に感情を持ち込むのはスピリットなら仕方のないことでしょ? むしろ、そうすることで成果が上がるなら、この感情は、決して悪いものでないと思うな?」

スピリットであれ、人間であれ、知性を持ち、感情を持った生き物ならば、仕事に気持ちが入ってしまうのは当然のことだ。仕事に熱を入れることで上手くいくケースもある。当然、その逆のこともあるだろうが、頭ごなしに否定するのは、それこそ間違いなのではないか。

そう言って、オディールはアイリスのサファイア色の瞳を覗き込んだ。

そして、にっこり、と上品な笑み。

なぜだろう、対面に座る彼女の表情はあくまでにこやかなのに、不思議と有無を言わせぬ威圧感を覚えてしまう。

奇妙な息苦しさを感じたアイリスは返すべき言葉を吐き出せずに唸り続けるばかりだった。

「むむむむむ……」

「あはは、これは完璧にアイリスお姉さまの負けですね」

隣でサラダを食べていたオデットが口を挟んだ。

最愛の妹分はアイリスが口で言い負かされているのを見て、にこにこ、と微笑んでいる。

その微笑がなんとも小憎たらしく、思わず小突いてやりたい気分に駆られたが、これではいつものパターンではないか、と思いいたって、アイリスはやめた。

剣の腕では二人に勝るアイリスも、口の上手さでは二人に負ける。議論の果てに口では勝てぬと悟ったアイリスが手を出して、二人がまたその件について口で攻撃する、というのが、三人のいつものやり取りだった。

もっとも今日に限っては、アイリスが手を出さずとも、二人には彼女にさらなる言葉の打撃を浴びせかける口実があったが。

「それにしても酷いです、アイリスお姉さま。久しぶりにアイリスお姉さまと一緒の任務に就けてわたしは嬉しかったのに……お姉さまはそうじゃなかったんですね!?」

明るい笑みから一転して暗いトーンの口調、加えて泣き真似をして、オデットが言った。先ほどのアイリスの発言を種とした、明らかなからかいの言葉。他ならぬアイリスも“そう”と分かったが、オデットをぞんざいに扱っているかのような発言をしたのは事実であり、思わずうろたえてしまう。

「む。いやしかし、それは……」

反論しようと開きかけた口は、続くオデットの言葉に遮られてしまう。

「わたしは寂しかったんですよ? 特殊訓練部隊の時も、お姉さまが帰ってきてからも、任務も訓練もいつも別々で……その分、夜は貪りましたけど」

最後の方で、ぽつり、と呟かれた一言に、アイリスは気を落ち着かそうと飲んでいた茶を思わず噴き出してしまいそうになった。

「こ、こら、いまは夜の話は関係ないだろう!」

「……アイリス、貪られる側なの?」

「ちがっ……わない、が」

訝しげなオディールの眼差しに、アイリスは真っ赤な顔で俯いた。オデットの言っていることはすべて事実だ。剣の腕では妹分に勝る彼女も、口での戦いと同様、ベッドの上ではオデットに勝てた試しがなかった。

「とにかく、わたしは寂しかったんです。それに、不安でした。わたしの知らないところでお姉さまが傷ついていないか、わたしの知らないうちにお姉さまが消えてしまうんじゃないかって、すっごく不安だったんですから」

「オデット……」

妹分の言葉に、アイリスは顔を真っ赤にして俯いた。

先ほどは恥ずかしさから、いまは嬉しさから。

アイリスはオデットのことを卑怯者だと思う。からかいの言葉の中に、巧妙に本音を織り交ぜることで、自分を黙らせている。そんな言葉を、そんな泣きそうな顔で紡がれては、自分に反論の術などない。嬉しさから言葉を失い、素直な気持ちになってしまう。

「……わたしだって、そうだ」

アイリスはか細く呟いた。

頬を空け色に染め上げ、耳まで赤くしてオデットを見る。

「わ、わたしだって寂しかった。オデットと一緒にいられなくて、すごく、辛かった」

オデットと一緒に行動出来ずに寂しさや不安を感じていたのはアイリスとて同じだ。

言葉にこそしていないが、特殊訓練部隊の関係でリーザリオを離れたときは、一日とてその存在を忘れたことはなかった。自分のいない間に、哨戒任務に就いたオデットが消滅する悪夢を見て飛び起きたのは一度や二度ではない。触れられない熱を想って自らを慰めたことも、一度や二度ではない。

「本音を言えば、わたしもオデットと一緒に行動出来ることは嬉しく思っている。しかし、分かってほしい。わたしはそれを公言出来る立場にないんだ」

周囲の目と耳を気にしてか、アイリスは声を潜めて言った。

セーラ・赤スピリット亡きいま、ダーツィからの外人部隊の代表は自分ということになっている。プライベートでの発言の数々が、公人のそれと取られかねない立場だ。外人部隊の代表が、特定のスピリットを贔屓していると周囲に思われるのははなはだ不味い。自分とオデットの関係を知っている外人部隊の面々はともかくとして、正規の王国軍スピリットへの示しがつかない。

「……アイリスお姉さまはわたしへの気持ちよりも、ご自分の立場を優先するんですね」

ムッ、とした様子でオデットが呟いた。その口調にからかいの感情はなく、憤慨が半分、拗ねの気持ちが半分といったところか。

なるほど、自分よりも周囲の目線やいまの立場を優先されて、恋人としてはあまり良い気はしないだろう。もし逆の立場だったら、アイリスでも怒ったに違いない。

しかし、怒りの所在が分かったからといって、優しい言葉をかけてやることは出来ない。

いまのアイリスは公人で、その言葉と行動は公人のもの、してやれることといえば、ただただ謝ることのみだ。そしてただただ、許しを請うことのみだ。

「すまない。だが、信じてほしい。わたしも思うところはオデットと一緒だから」

やはり声を潜めて、そしてテーブルの下で彼女の手を取って、アイリスは真摯に訴えた。

オデットは無言でアイリスのことを見つめてくる。

真紅の瞳に映じた自分の姿から、相手が己の双眸を見ているのは明白だった。

目は、口ほどに物を語る。ましてや、アイリスとオデットの関係は昨日今日の付き合いではない。相手が何を考えているか、相手の発する言葉が嘘か真かは、目を見れば分かる。

オデットは自分の瞳を見ることで、その真意を探っているらしかった。

しばしの沈黙を挟んだ。

やがてオデットは溜め息をひとつこぼして、

「……わたし、いまちょっと意地悪な娘でしたね」

呟いて、にっこり、と微笑んだ。

アイリスが大好きな、オデットの笑顔だった。

掴んだその手を握り返す力が強くなる。握り返すその握力が、嬉しかった。

「勿論、信じますよ。アイリスお姉さまの言うことですから」

「オデット……」

「でも、不満なのは本当ですからね? お姉さまには、今夜、わたしを不安にさせた責任を取ってもらいますから」

「う……わ、わかった」

自分と同様、声を潜めて紡がれたオデットの言葉に、アイリスは不承不承と頷いた。

今夜はこれからオデットに貪られることになるだろう。可愛い顔をして、オデットの性欲には容赦がない。明日の朝、ベッドから出るのに苦労するであろうことは確定だった。

「痴話喧嘩は終わったかしら、お二人さん?」

ふと目線をオデットからはずせば、対面に座るオディールがニヤニヤと笑いながらこちらを見ていた。

声を潜めていても、アイリスが入隊して以来の付き合いになるこの同僚には、意思疎通の内容は筒抜けだったらしい。

「あぁ〜、でも、今夜は失敗したわ」

アイリスとオデットの顔を交互に見比べて、オディールは軽く溜め息をついた。

怪訝な表情を浮かべて見ると、オディールはニヤリ、と唇の端を釣り上げて、

「今夜は激しくなるんでしょう? こんなことだったら、もっと精のつく料理にすればよかった」

と、なおもからかい口調で言った。

この発言を受けてアイリスがまた頬を朱色に染めたのは、言うまでもない。

 

 

「そういえばちょっと気になったんですけど……」

夕食を終えてまったりとした団欒の空気が漂う食堂。

不意に口を開いたオデットは、食後のコーヒーを楽しむアイリスとオディールを見た。ちなみにオデットの手元には砂糖たっぷりの紅茶で満たされたカップが置かれている。姉貴分二人と違い、オデットはコーヒーが苦手だった。

「今回の軍事演習ってやけに駆け足の予定ですよね?」

トティラ将軍からリーザリオ軍事演習について説明があったのが、本日シーレの月の青、ひとつの日。演習の開催日が青、よっつの日だから、準備期間は実質二日しかない。

通常、演習というものは観客がいるという特殊な状況から、普通の訓練よりも準備期間を長く取る。演習では観客の安全面にも十分な配慮せねばならないからだ。また、場所や時間の選定にも、時間を要する。軍隊にとって、演習とは実戦以外ではいちばんの晴れ舞台だ。当然、場所や時間の選定にも慎重にならざるをえない。

演習の好例が、自衛隊が毎年八月に実施している富士総合火力演習だ。平時における自衛隊の最大の見せ場ともいえる演習で、開催する年にもよるが、砲兵部隊による迫力の砲撃、戦車部隊による怒涛の大進撃、攻撃ヘリによる対戦車ミサイルの発射などが実施される。無論、すべて実弾での実演だ。これだけの規模の演習だから、富士演習の実施には一ヶ月以上の準備期間を必要とする。

スピリットの持つ火力は、総合的に見れば現代兵器のそれには及ばぬものの、白兵戦に限っていえば近い威力がある。安全面の点を踏まえても、最低十日の準備期間が必要なのは、この世界の軍人であれば共通の認識のはずだった。

しかし先述したように、今回のリーザリオ軍事演習の準備期間はわずか二日にすぎない。

トティラ将軍は「すでに場所の選定や時間の設定などの手続きは終わっているからだ」と言ったが、それにしてもこの二日という数字はいささか勇み足が過ぎてはないだろうか。

不審な点は他にもある。

演習の実施場所と、観客についてだ。

「それに、これは演習ですよね? 演習ならそれを見る観客がいるはずですけど……」

演習の目的や意義は、観客が誰になるかでその性格が決まる。

例えば富士演習は民間にも広く公開しているが、これには国民の自衛隊に対する理解を深めたいという意図があるからだ。また、民主主義の国では、税金の用途を公表しなければならない義務がある。この義務を果たす意味でも、富士演習は民間人を観客にする必要があった。

トティラ将軍の言葉には、その観客についての説明が欠けていた。「当日のお楽しみ」だ、と彼らしからぬ言を紡いで、第三軍司令はそれっきり司令室に篭もってしまった。

「今回の演習はラキオスの国境線付近でするんですよね? そんなところまで足を運んでくる観客って、誰なんでしょう……?」

少なくとも民間人を対象にした軍事演習ではあるまい。民間人が対象であれば、もっと安全で広い場所がバーンライトにはいくらでもある。わざわざ危険な国境線付近に民間人を招待する必要はない。

であれば観客は軍人か。しかし、これも同様の理由から可能性は低い。王族にいたっては論外だ。

そもそもトティラ将軍は、何を思って国境線近くという危険な場所を、演習の舞台として選んだのか。下手をすれば示威行為と取られ、ラキオスに開戦の理由を与えかねないというのに。それともスピリットには及ばないような、深い考えがあるのか。

「……まさしく示威行為そのものでしょうね」

オデットの呈示した疑問に、オディールはさも当然のように答えた。

「友好国との間でやるのならまだしも、敵国の側でやるのよ? 示威以外の何物でもないわね」

「だろうな。もっとも、示威というよりは威嚇に近いだろうが」

示威とは、優位にある者が自らの力を誇示するためにする行為だ。

他方、威嚇は、下の立場にある者が上の立場にある者へ自らの力を見せつけることで、窮鼠猫を噛む、との印象を与えて荒事を回避する手段に他ならない。

もしトティラ将軍の考えがアイリスの推測通りだとしたら、すでに第三軍の司令は、自らに与えられた軍では太刀打ち出来ぬことを悟っているのかもしれなかった。

 

 

――同日、夜。

 

司令室。

トティラ将軍はひどく不機嫌な様子で部下からの嘆願書を眺めていた。

陳情の内容は、要約すると以下のようなものだ。

〈赤スピリットが一体、自らの処刑を希望している。処刑は閣下の御心にあらずと言っても話を聞いてくれない。閣下の口から直接説得してほしい〉

嘆願書の内容を一瞥しただけで、トティラ将軍は二種類の不快感を覚えた。

一つは自力で説得しきれなかった部下の能力に対する不満。そしてもう一つは、説得のためとはいえ件の赤スピリットと直接会話せねばならない将来への不満だ。

第三軍の司令が生粋の妖精差別主義者だということを知らない人間は、このリーザリオにはいない。それにも拘らず、なにゆえ自分を当てにするのか。これも将軍の責務の一つだとしたら、こんなに割に合わない商売はない。

「次に生まれ変わる時は、将軍職だけは御免被りたいな」

副官で秘書役のバクシーを相手に愚痴をこぼしながら、トティラ将軍は自ら処刑を希望しているというスピリット……ジャネット・赤スピリットに出頭するよう命令を発した。

といっても、通信技術の未熟なファンタズマゴリアの軍隊でのこと。

命令を発してから本人がそれを受理し、行動に移すまでにはそれなりの時間を必要とする。

ジャネットがやって来るまでの間、トティラ将軍は家族への手紙をしたためることで時間を潰すことにした。手紙だけでなく、先日購入した本や、珍しい羽織などを一緒にして行李を一つ作る。すぐに郵便科の通信兵を呼び、それを託す。

「私事で悪いが儂の留守宅に届けてくれ」

「はい。かしこまりました」

将軍の依頼を、通信兵は二つ返事で受け入れた。リーザリオ軍事演習を前にして、将軍が身辺の整理を始めたことを敏感に察したらしく、宝物を扱うように行李を受け取る。

ついで、通信兵はバクシーを見た。

将軍が身辺整理を始めた以上、副官の彼からも何か託されるかもしれない。

しかし通信兵の推測ははずれ、「私はいいから」と、バクシーは首を横に振った。

そんな二人のやり取りを眺めて、トティラ将軍は口を挟む。

「いいのか? 故郷で待っている六四歳の恋人とは、もう半年近く顔を見せていないのだろう?」

「母にはつい二週間ほど前に文をしたためましたから」

「ではレフィーナには?」

トティラはバクシーに好意を寄せている長女の名前を口にした。胸に秘めている一途な想いゆえに、数々の見合いの話があるにも拘らずいまだ独身を貫いている愛娘だったが、強い好意とは対照的に彼女は奥手だった。

想い人の男と、文通一つまともに出来ないでいるのだ。

手紙を書けない最大の原因は、本人曰く「恥ずかしいから」。

別に男女の仲にある二人が交わすような文面でなくともよい。友人同士が文をやり取りする程度の意識で書けばよいではないか、とトティラは何度も言ってきたが、レフィーナは決まって、恥ずかしい、の一点張りで、「出来ない」と、続けた。

そんな彼女の手元に、他ならぬ想い人からの文が届いたとしたらどうか。

娘を想う将軍の援護射撃に、バクシーは怪訝な表情で小首を傾げた。

「レフィーナ様にですか? たしかに最後に連絡を取ったのは四月前のことですが、いますぐ便りを送らねばならぬようなことがありましたでしょうか?」

レフィーナのことを嫌っていて、そう言っているわけではない。バクシーは真実、心の底からそう考えているらしかった。

猛将スア・トティラの有能なる副官バクシー・アミュレット。世が世であれば万の軍勢を指揮させたいと、トティラ将軍が思う男は、なぜか女性からの好意に対してひどく鈍感だった。いくらレフィーナが奥手だといっても、十年以上も向けられている好意に気付いてもいないあたり、筋金入りだ。

極めつけが、

「それに、私ごときがレフィーナ様に文を送るなど、先方に迷惑というものでしょう」

と、このような発言をこぼす始末だった。

トティラ将軍は苦々しく嘆息する。

「やれやれ。無自覚なのも度が過ぎると罪だな」

「は?」

「……閣下、バクシー様は用向きがないご様子ですので、そろそろ」

「うむ。頼むぞ」

自分と同様呆れ顔の通信兵に改め郵便物のことを頼み、トティラ将軍は、行ってよし、とゴー・サインを下した。

通信兵と入れ代わるようにしてノックの音がしたのは、その時だった。

「誰か?」と、問うと、扉の向こう側からは、

「ジャネット・赤スピリットです」

と、黄色い返答があった。

トティラ将軍はすかさずバクシーと行李を受け取った通信兵に目配せした。

バクシーはその場で頷き、通信兵は「では失礼します」と、恭しく頭を垂れた。

通信兵がドアを開ける。赤毛のスピリットがわずかに驚いた表情を浮かべて立っていた。慌てて通信兵に挙手敬礼し、恐る恐る室内を覗う。

「入れ」

そんな彼女に、トティラ将軍は言葉短く言った。

緊張した面持ちでジャネットが入室する。

トティラ将軍の前までやって来た彼女は、まず第三軍の司令に、ついで彼の副官に挙手敬礼を向けた。

「ジャネット・赤スピリット、命令により出頭いたしました」

「うむ」

トティラ将軍は億劫そうに頷くと、スピネルの原石を溶かし込んだセミロングの髪が特徴的な妖精を真正面から見据えた。

ねぎらいの言葉をかける必要はない。目の前の彼女は、自分の命の価値も分からないような、どうしようもない愚か者なのだから。

ジャネット・赤スピリットの名前はトティラ将軍にとって耳慣れない発音ではなかった。

あの魔龍討伐作戦に参加したスピリットの一人で、かつてない特異な形態の戦闘で戦場恐怖症に陥り、戦えなくなってしまった。そのことにより、兵達の間に「処刑するべし」との議論が起こったのを、将軍直々に却下したのはそう遠い記憶ではない。

経験は何物にも増して貴重な宝だ。現代世界でも、軍艦一隻を造るだけならば一年で済むが、その扱いに慣れた一人前の兵を育てるには、最低でも二〜三年はかかる。その宝を捨ててまでマナを得ることを、トティラ将軍は良しとしなかった。

また、スピリットは国王よりトティラが賜った国の宝だ。将軍としても、個人的にも、あたら失いたくはなかった。

それに、彼女を処刑したくない理由はもう一つある。

「早速だが用件を言うぞ。訓練士から報告があったのだが、貴様、処刑処分を望んでいるそうだな? それはどういう了見でのことだ?」

トティラ将軍は単刀直入に切り出した。

彼なりに平静を装ったつもりだが、どうしても語気に重いものが宿ってしまう。

無理もないだろう。トティラ自身が一度救った命を、いままた本人が捨てることを望んでいるのだ。内心の忸怩たる思いは否定出来ない。

「そ、それはわたしが不必要な存在だからです」

バーンライト最強の猛将の視線に射抜かれたジャネットは、緊張した面持ちで口を開いた。口調に、やや怯えが滲んでいる。

人前で話すことに慣れていないのか、ジャネットは時折つっかえながら、訥々と続けた。

「わたしはスピリットでありながら戦えません。あの魔龍討伐作戦以来、剣を持つと一歩も動けなくなってしまいました。剣を持つと、あの夜の光景ばかりが目に浮かんで、手も足も、動かなくなってしまうんです」

湿り気を帯びた声。見れば、ジャネットは言葉を吐き出しながら、涙を流していた。

戦えなくなってしまった自分が不甲斐なく、そして悲しいのか。

ジャネットは続ける。

「何度克服しようとしても駄目でした。わたしはもう、スピリットとしては無価値な存在なんです。……いいえ、無価値どころか、いまのわたしはみんなに迷惑ばかりかける害悪そのものなんです」

最前線リーザリオ・エルスサーオ間の国境線近くに拠点を持つ第三軍の結束は固い。

ゆえに、ジャネットが戦えなくなったからといって、彼女を責めるスピリットは第三軍には一人としていない。むしろ戦えない彼女のことを慮って、力になりたいと申す者がほとんどだった。しかしジャネットには、その優しさがかえって辛かった。

自分が不甲斐ないばかりに、戦友たちに迷惑をかけてしまっている。

自分の存在が、戦友たちの負担になってしまっている。

辛かった。

たまらなく辛かった。

なにより迷惑しかけられない自分自身が情けなかった。

いっそ役立たずと罵られていたなら、どんなに気が楽だったろう。しかし現実には、彼女達が自分を罵ることは一度としてなかった。罪悪感ばかりが募った。

「お慈悲をください。いっそのこと、一思いに死なせてください」

ジャネットは切々と訴えた。

スピリットは戦うための存在だ。戦えなくなったスピリットは、乳の出せなくなった牛も同然の身。処分するのは有限世界の習いだった。

正式な処刑処分となれば、ジャネットがそれまで蓄えていたマナは解放され、その分、他のスピリットを強化することが出来る。魅力的な提案だ。しかしトティラ将軍は、米神に青筋を立てて目の前の少女を睨みつけた。

「……言いたいことはそれだけか?」

ドスを孕んだ声。岩石を削ったかのような強面の相貌が、憤然と怒りに歪んでいた。

かたわらでバクシーが息を飲む音が聞こえた。

こんなに怒りを滾らせたのは、久しぶりだった。

第三軍の司令という肩書きの重みが、急速に軽くなるのを自覚する。

理性は霧散し、怒りの感情だけが、五体を支配した。

「この愚か者がぁッ!!」

気が付けば裂帛の怒号が迸っていた。

齢六二歳の老いが忍び寄る男の声だ。しかし吐き出された声は稲妻の如く鳴り響き、ジャネットの肩を震わせた。

死線を潜り抜けてきたはずの女の顔が、恐怖に歪む。

拳こそ振り上げていなかったが、烈火の如き怒りを露わにした猛将を前に、完全に萎縮していた。

「自分が無価値だなどと……自分が害悪にしかならないなどと……そんなに自分で自分を貶すことが楽しいか?」

「か、閣下……」

「貴様らスピリットはいつもそうだな。スピリットだから文句を言われても仕方がない。スピリットだから罰せられても仕方がない。スピリットだから死ねと言われても仕方がない。スピリットだから差別をされても仕方がない。スピリットだから。スピリットだから……。

お前達スピリットは、何かあるとすぐに自虐的に考える。だから儂はスピリットが嫌いなのだ。自分達の存在を低く位置付けて、しかもそのことに何ら疑問を抱いていない。初めから考えることを放棄して、差別と戦おうともしない。惰弱だな。虫唾が走る。反吐が出る!」

トティラ将軍はジャネットを睨んだ。

「貴様らは奴隷か? 一個人としての誇りがないのか? ……おそらくはないのだろうな。誇りがあれば、そのような軟弱な考えは持つまい。誇りがあるならば、自分自身をもっと正等に評価出来るはずだからな」

返す言葉がなかった。

誇り。

スピリットには無縁の言葉だ。

しかしトティラ将軍は「一個人としての誇り」と、言った。

スピリットでも、エトランジェでも、人間でもなく、確たる人格を持った一個人……ジャネットとしての誇りがないのか、と問いかけていた。

誇り。スピリットとしてではなく、ジャネットという一個人としての誇り。これまで、考えたこともなかった。いや、考えようともしなかった。スピリットとして生まれた時点で、誇りや人権、自立した意思なんてものとは、縁無く過ごすものと思い込んでいたから。

出来ることならば、ある、と答えたい。

しかし、はたして本当に、自分の生き方に誇りと呼べるものがあるのか。

数秒の沈黙を挟んだ。

第三軍司令としての肩書きを脱ぎ捨て、一個人トティラ・ゴートとして不機嫌な態度を隠しもしない将軍が、さらなる言葉を投げかけた。

「迷惑をかけている、と思っているのであろう?」

「…………はい」

「迷惑をかけている、と自覚しているのであろう?」

「……はいっ」

「ならばなぜ、生きようとしない?」

トティラ将軍は吠えた。

「迷惑をかけている。負担になっている。その自覚があるのなら、なぜ生きようとしない? 生きて、恩に報いることを考えない? 誇りある人間ならば、生き恥を晒してでも仲間達に恩を返すべきであろう」

将軍の口調には、次第に熱いものが宿っていった。

トティラ将軍の脳裏では、三〇年前の鉄の山戦争で己の犯した愚行について思い返されていた。

戦争終結直前、当時三一歳だったトティラは、停戦条約が結ばれたにも拘らず王国政府の命令に背いてラキオスへの侵攻を続行しようした。

先王アタナリックのとりなしにより、最悪の事態こそ回避されたものの、命令に背いたトティラは、以後周囲からの蔑みの眼差しに耐えて過ごさねばならなかった。

つまり、生き恥を晒したのだ。

プライドの高かった若いトティラにとって、何にも勝る屈辱だった。

それでも、死を考えなかったのは、自分達を救ってくれたアタナリック王への恩返しのため。生きて、彼の愛した王国に尽くしたいその一心からに他ならない

血気盛んな若年将校達の暴走を止めるべく、前線を訪ねた先王は、戦争を止めただけでなく、誰よりも停戦条約の締結を苦々しく思うトティラ達の心を救ってくれた。

その恩を返したい。その恩に報いたい。

それが六二歳の老将を、いまだ前線へと駆り立てるいちばんの動機だった。

「それとも貴様は、自分が死んだ方が恩返しになると……貴様の仲間達が、その死を望んでいるとでも思っているのか?」

トティラ将軍はデスクの引き出しを空けた。

目的の書類を引っ張り出すと、目の前の愚か者にそれを突きつける。

紙面には、いくつも名前が記載されていた。トティラだけでなく、ジャネットにとっても見知った人物らの名前だ。アイリス、オディール、オデット……。先日リーザリオに到着した六名と、ジャネット自身を除いて、第三軍の全スピリットの名前が記されていた。

書類の頭には、嘆願書の文字。願いの内容は、ジャネット・赤スピリットの処刑をしないでほしい、という旨の要請だった。代表者の欄には、オディール・緑スピリットとある。

「…………」

突きつけられた紙面を精読して、ジャネットは茫然と立ち尽くした。

この嘆願書に記載された署名の数こそが、トティラがジャネットに処刑処分を課さなかったもう一つの理由だった。

「以前、貴様の言うように、戦えなくなったスピリットは生かす価値なし、と将兵達の間で貴様の処刑を提案する声が上がった。その話を聞きつけたスピリット達がな、提案の翌日にはこの署名を出しおった。

貴様は先ほど自分が無価値だと言ったが、こやつらにとってはそうでないらしい。貴様の戦友は、無価値な貴様に生きていてほしいと願っているぞ?」

「閣下、わたしは……」

ジャネットはトティラ将軍を見つめた。

真紅の瞳は涙で潤み、声音はすっかりしぼんでしまっている。

死ぬしかないと思った。死んだ方が彼女達のためになると。それなのに、彼女達は自分に生きてほしい、と願っている。

そして目の前の猛将は、己の誇りの有り様を問うている。

スピリットとしてではなく、ジャネットという名前を与えられた一個人として、仲間のために死を選ぶのか、仲間のために生きようとするのか。

どんな決断を下せば、仲間のために、なにより自分自身のためになるのか。

「自分の誇りに問うてみろ。どんなことがあろうと、自分だけは己を裏切らん。余人は関係なく、自分が本当はどうしたいか、訊いてみるといい」

自分の誇り。自分が本当は、どうしたいのか。生きたいのか、それとも死にたいのか。

生きたいに決まっている。生きて、みんなともっと笑い合いたいに決まっている。言葉を重ね合いたいに決まっている。

「自分の命だ。いつ死ぬかは決められぬが、どう使うかくらいは自分で決めろ。それが、誇りある人間の生き方だ」

スピリットを前にしたトティラ将軍は、例によって不機嫌そうに呟いた。

他方、ジャネットは猛将の言葉を静かに咀嚼している。

思えば、トティラにしてもジャネットにしても、こんなにも多くの言葉を応酬し合うのは初めてのことだった。スピリットを相手に、そして人間を相手にして、本音を語るのも。

「わたしは……」

低く、呻くような呟き。

その声は、先ほどまでとは違った種類の湿気を帯びている。

やがて意を決したか、ジャネットはトティラ将軍を真っ直ぐ見つめた。

「わたしは、生きたいです」

「そうか、生きたいか」

王国軍最強の猛将は、忌むべきスピリットを真正面から見据えた。

「ならば儂は、儂の誇りに掛けて宣言しよう。儂は貴様を生かす。処刑などは許さん。貴様を生かすことは、陛下へのわが忠孝の証だ」

力強い宣言。

それを耳にしてジャネットは、声を押し殺して泣いた。

人間の前では、許可なしには涙さえ流せないスピリットが、泣いた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、青、よっつの日、朝。

 

軍事演習当日の朝、トティラ将軍の姿は馬上にあった。

普段はなかなか着る機会を得られない板金の鎧に身を包み、荒鷲の意匠を頂いた兜を被っている。腰からは護身用の短剣とショート・ソードを提げており、戦装束ここに極まれり、といった風情だ。

勿論、これらの装いは国境線に程近い現場にて演習の指揮を執るためで、宛がわれた軍馬は長時間の騎乗にも耐えうる健脚を自慢とする血統馬だ。有限世界にはいまだサラブレッドの概念はないが、五代前までその血統を遡ることが出来る。ちなみに、現代世界におけるサラブレッドの定義は、八代にわたってサラブレッドが交配された馬のことをいう。また、体型や能力はサラブレッドに間違いないが、血統書の紛失などにより八代前まで遡れない馬は、サラ系と分類される。

トティラ将軍の馬はこの日のためにバクシーが用意してくれた馬で、名をレヨエタスといった。聖ヨト語で流星を意味し、普段は通信部隊の伝令馬として運用されている。

大人しい性格の優駿は、老齢に差し掛かっているトティラをして扱いやすく、運動神経抜群の老将は、早くも一日でこの馬を乗りこなしてしまった。

トティラ将軍とレヨエタスの側には、演習に参加する第三軍のスピリット総勢二四名が隊列を整えて集まっていた。

その陣容は、

青スピリット……八名、内外人部隊三名

赤スピリット……七名、内外人部隊四名

緑スピリット……九名、内外人部隊三名

というものだ。

このうち青一名、赤二名、緑二名の計五名は、先頃初等訓練を終えたばかりの新参スピリットで、さらに赤三名、緑三名は、第二軍から送られてきた補充兵だった。

これら十一名のスピリットは第三軍の戦力に組み込まれてまだ日が浅く、既存戦力との本格的な連携は今回の演習が初めてのことになる。

トティラと二四名のスピリットを見送る者の姿は少ない。これはリーザリオ軍事演習の実施があまりにも唐突だったため、ほとんどの兵は都合がつかなかったことによる。

そんな数少ない見送り人の一人に、トティラ将軍は馬上から声をかけた。

「では、行ってくる」

「はい。留守はお任せください」

副官のバクシーは恭しく一礼すると、携えていた指揮杖を将軍に手渡した。

指揮杖は階級・役職とともに国王から直々に渡される物で、トティラが取ったそれには、第三軍の司令を示す黄金のストライプが入っている。金が最も重要な金属なのは、有限世界も変わらない。

将軍に指揮杖を渡したバクシーは、腰に佩いたショート・ソードを鞘から抜き放つとトティラの目の前で一閃した。王国軍の兵士達の間で昔から伝わっている儀式の一つだ。力士が塩を撒いて土俵を清めるように、剣を一閃することで邪気を祓い、出陣前のその身を清める意味合いがある。

「閣下……」

バクシーの清めの儀式が終わったのを見て、かたわらに控えていたジャネットが馬上のトティラに声をかけた。

あの司令室でのやり取りから、すでに二日が経過している。

いまだシェル・ショックの後遺症に日々苦しんでいる彼女は、今回の演習でもバクシーらともに司令官不在の第三軍の留守を任されることになっていた。

他ならぬスピリットに声をかけられたトティラ将軍は、馬上で渋面を作った。勿論、他のスピリット達には気取られぬよう、十分な注意を払って、だ。

過日の一件でジャネットに妖精差別主義者としての本音を晒して以来、トティラは彼女の前では自分を偽ることをしなくなった。一度本音で語り合ったことで、そうする必要がなくなってしまったためだ。

他方ジャネットも、将軍より誇りある人間としての生き方を教えられて、以前よりも堂々とした態度で、積極的にトティラに話しかけるようになっていた。あの日以来、ジャネットの口から処刑や、それをほめのかすような言葉が飛び出したという話は聞いていない。

「ご武運のあることをお祈りします」

「大袈裟だな。別に合戦に行くわけでもあるまいに」

「それでも、危険な場所へ向かうのに変わりありませんから」

永遠神剣の力を解放したスピリット同士が、全力で激突する。

所定のプログラム通りに事運ぶ演習とはいえ、これは非常に危険なことだ。訓練中にスピリット同士がぶつかり合うエネルギーの余波に巻き込まれ、重症を負った訓練士の事故の事例は各国枚挙に暇がない。

ジャネットは携えていた己の永遠神剣の鞘を払った。

第七位〈紫雲〉。双剣型の神剣で、二尺三寸の刀身がシャムシャールのように湾曲しているジャネットの相棒だ。

以前はおしゃべりで陽気な性格の神剣だったが、あの魔龍討伐作戦以来、その声は久しく聞いていない。ジャネットが戦場恐怖症に罹ってからというもの、その声は、ぱったり、と途絶えてしまった。

神剣の方が契約者に愛想を尽かしたわけではない。魔龍討伐作戦の際に負った心の傷が原因だろう、契約者のジャネットの方が剣の声を聞けなくなってしまったのだ。

これは、単に神剣との対話が出来なくなったというだけの話ではない。剣の声が聞こえないということは、〈紫雲〉の持つ一切の武力が行使出来ないということに通じる。

永遠神剣は単なる武器ではなく、一個の人格を持った、生きた兵器だ。その力を引き出すためには、何らかの形で、剣とのコミュニケーションが必要となる。そのコミュニケーションが、いまのジャネットには取れなかった。

また、スピリットにとって、相棒の神剣と対話が出来なくなることほど辛い経験はない。

この世界に生を受けたその瞬間から永遠神剣とともにある彼女達にとって、剣は己の半身であり、家族も同然の存在だった。剣との対話が出来なくなるということは、ある日突然に家族から絶縁状を叩きつけられるにも等しい。そこには身が引き裂かれるような苦しみが伴う。

筋力強化の恩恵を得られないいまの細腕に、双剣の〈紫雲〉は、ずっしり、と重かった。

両腕で、というよりは、身体全体で双剣を支えようと腰を低くしたジャネットは、両手を添えてなお余る柄を大きく振りかぶった。

邪気祓いの儀式。歴史の浅い王国軍に伝わる、戦士達の伝統。これから戦場へ向かう戦士に、留守を任された戦士が送る最上の敬意だ。

勿論、ここでいう戦士とは、人間の兵士のことを意味している。有限世界おける戦士の定義は、第一に人間でなくてはならない。これは、バーンライトに限らず大陸共通の考え方だ。人間は守るために戦うが、スピリットは奪うために戦う、という差別思想が、その根底にはある。

邪気祓いの儀式にしても、穢れたスピリットの手でやろうものならばかえって邪気を呼び込み、武運を失いかねない。

しかしトティラ将軍は、ジャネットの放つ斬撃を待った。

いま、自分の目の前にいるのは一個の武人だ。奴隷同然の生き方をよしとする惰弱なスピリットなどでは、断じてない。己の誇りに生き、その誇りに誓って仲間のために懸命に生きようとするいまの彼女は、人として尊敬するべき一個人だった。

そんな人物からの敬礼を、受け取らない理由はなかった。

腰を据えて中段に構えたジャネットの手元で、閃光がひた走った。

馬上のトティラを洗い清めるべく、斬撃の乱舞が雨あられと降り注ぐ。

その一閃々々は、トティラの記憶の中にある斬撃よりもいくぶん鈍く、正確さに欠けていた。

しかし勢いのある堂々としたものだった。

肌を刺す刃風の感触を無言で楽しみながら、老将は薄く笑っていた。

戦場慣れしたトティラにはなんとも心地良い、凶暴な風だった。

 

 

客観的に見て、それは心温まる光景だった。

邪気祓いの太刀筋を披露するジャネットと、その洗礼を無言で受け入れるトティラ将軍。片や赤スピリットの同僚は久しく見ていなかった活き活きとした表情で剣を振るい、他方、六二歳の老将は馬上にて静かに刃風を感じている。トティラも、ジャネットも、互いを見つめるその顔は穏やかに安らいでおり、この時間を心から楽しんでいるようだった。

そんな二人の様子に、演習に参加するスピリット達――特に、魔龍討伐作戦の生き残りの面々――は、嬉々とした眼差しを向けていた。

ジャネットの放つ邪気祓いの太刀筋は、かつての彼女が得意としていたそれと比べると、何倍も鈍く、また何倍も精緻を欠いている。

しかし、湾曲刃を振り回すその立ち振る舞いは毅然としており、勢いに乗った太刀行きは堂々風を切っていた。

一時期は剣を握っただけで戦場の幻影に悩まされ、顔を引き攣らせていたジャネットだった。

魔龍討伐作戦以来の塞ぎ込みようを知っている少女達は、彼女が剣を執っている事実がなにより嬉しかった。よくぞここまで回復してくれたと、感慨から目尻を押さえる者までいる。

多くのスピリットにとって、戦えなくなるということは死よりも辛い恐怖だ。ジャネットが感じた苦しみは、周りの妖精達にとって他人事ではなかった。

少女達の多くは、みなと一緒に戦場に立てなくなってしまったことに苦しみ、自ら死を望んだジャネットに、自分を重ねていた。

そんな彼女が剣を執っている事実は、妖精達に回復の兆しを予感させ、その心を勇気付けた。

オディール・緑スピリットもまた、戦場恐怖症に苦しむジャネットに自分を重ねていた一人だった。

しかし彼女の場合は、同僚の回復を喜ばしく思う一方で、そんな彼女を嫉ましくも思っていた。

ジャネットに回復の兆しが見え始めたことは真実嬉しい。

しかし、それとは別に、妖精差別主義者のトティラ将軍が、ジャネットの邪気祓いを受け入れて微笑を浮かべていることが、オディールには悔しくてならなかった。

彼女の記憶にある限り、六二歳の猛将が自分に対し、斯様に安らいだ様子で微笑みかけてくれたことは一度としてない。それはおそらく、自分がスピリットだからだろう。だが、それならばなぜ、トティラ将軍はスピリットのジャネットに向けて笑みをたたえたのか。

なぜ、ジャネットだけを特別扱いするのか。

なぜ、あの微笑みを向けられているのが自分ではないのか。

特に親しい者に対しては、自ら「トティラ将軍の家族になりたい」と、公言して憚らないオディールだ。

自分にも微笑みを向けてほしい、と。

自分にも、その優しい眼差しを注いでほしい、と。

そう思考が運ぶのは、むしろ当然の帰結だった。

そして、トティラ将軍を思えば思うほど。将軍を求める欲が強くなれば強くなるほど。オディールは目の前の光景を素直に喜ぶことが出来なかった。

――嫌な女ね、わたし……。

オディールは幼い嫉妬心からジャネットを正視出来ない自分を恥じた。

ジャネットの回復は無論嬉しい。嬉しいと感じているのに、喜ぶことが出来ない。そんな自分に、ほとほと嫌気が差した。

――駄目。気持ちを切り替えないと。

これより自分達が向かうのはまごうことなき戦場だ。演習とはいえ、敵国国境線付近では何が起こるか分からない。

こんな気持ちのまま出陣しては、なにより自分の首を絞めかねない。いや自分の首を絞めるだけならばまだいいが、己の感情のために仲間達を危険な目に遭わせるような愚を犯すわけにはいかない。

エメラルド色の視線をトティラ将軍とジャネットに固定したまま、オディールはそっと自らの肩に手を伸ばした。

冷たい硬質感。ゴート家の家宝ドラゴニックアーマーの金属部分の感触だ。魔龍討伐作戦の際にトティラ将軍から貸し与えられた防具を、オディールは今回の演習でも愛用していた。

ゴート一族の戦いの歴史が刻まれた装甲を指で撫で、深呼吸を二回。肩当てに宿った大いなる龍のマナを自らの肉体に溶かし込むイメージで、心を落ち着ける。

瞼を閉じた。

静かな瞑目。

そして、開眼。

瞼を押し上げたオディールは、ジャネットを真っ直ぐに見つめた。

嫉妬の感情も、羨望の気持ちも湧いてこない。大丈夫、自分はいたって冷静だ。あるいは、こんな風にいちいち手順を踏んで確認している時点で、自分はすでに冷静さを欠いているのかもしれないが。

「オディール」

自分を呼ぶ声に振り返った。

見ると、戦装束を身に付けたアイリスが、憂いを帯びた眼差しを向けていた。ラピスラズリの原石よりも深い群青色の瞳に、いまだ複雑な表情を浮かべた自分が映じている。

思えば、自分とアイリスとはかれこれ十年近い付き合いになる。ともに過ごした時間の長さだけならば、彼女の恋人のオデットよりも多いほどだ。付き合いが長いだけに、お互いいま何を感じているのかくらいは、言葉を交わさずとも理解出来る。

どうやらこの戦友には、自分の感じた嫉妬心などお見通しだったらしい。

「あまり考えすぎるな。ジャネットはジャネット、お前はお前だ」

アイリスは真っ直ぐに自分を見つめて言った。

言葉足らずな提言。しかし、オディールには長年の戦友の言わんとすることがすぐに分かった。

アイリスの言う通り、ジャネットはジャネット、自分は自分だ。どんなに羨ましがったところで、自分はジャネットにはなれない。ジャネットのような特別扱いはしてもらえない。

そんな自分が出来ることといえば、努力することだけだ。今度は自分がトティラ将軍より微笑みをかけられるよう、特別扱いを受けられるよう、頑張ることだけだ。

アイリスの発したアドバイスは実に簡潔で、しかしなにより自分を勇気付けた。

「ええ。ありがとう、アイリス」

オディールは莞爾と微笑んで礼を述べた。

「礼を言われるほどのアドバイスではない」と、照れ隠しか、ふいっ、とあらぬ方角を向いたアイリスに、オディールは胸の内でまた「ありがとう」と、告げた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、シーレの月、青、よっつの日、昼。

 

トティラ将軍率いる第三軍のスピリット二四名が、エルスサーオ・リーザリオ間の国境線監視所に併設された簡易兵舎に到着したのは、太陽が天頂に昇りきらない午前十時半のことだった。監視所の置かれた地点は、かつての鉄の山戦争でトティラ達の大隊がエルスサーオ侵攻のための野営を張った場所であり、将軍にとって三十年ぶりに訪れる懐かしの地だった。

「あの戦争から三十年が経った。しかし、ここはあの日からまるで変わらんな」

レヨエタスの馬上から辺りの地形を見渡して、トティラ将軍は懐かしげに呟いた。

六二歳の猛将の脳裏では、戦友とともにこの地を駆け抜けた、あの戦争の光景がまざまざと蘇っていた。

――三十年の昔を懐かしむとは、我ながら歳を取ったものだ。

妻を娶り、六人の子どもを儲けた。そのうち一人はすでに結婚し、いまでは三人の孫までいる。歳を取るのも当然か。

自嘲気味に苦笑したトティラ将軍は、二四名のスピリットに交代で大休止の許可を与えた。一個大隊が休憩している間は残る一個大隊が警戒し、一時間休憩したら担当を交代するという指示だ。演習の安全面を考えれば、当然の命令だった。

「やけに張り切っているな、オディール?」

大休止の最中、アイリス・青スピリットは着々と演習の準備を進めるオディールに声をかけた。

振り返った同僚の緑スピリットは、「当然よ」と、磨いたエメラルド色の瞳に強い意気込みの炎をたたえて言う。

「閣下が見ているのよ? 意気込むのは当然でしょ。……それに、あの男も見ているかもしれないし」

オディールは険を帯びた強い眼差しで遠くエルスサーオ側の監視所を見た。

「守護の双刃のリュウヤ。あの男がまだエルスサーオ防衛の任に就いているとしたら、ここで演習を実施すれば、あの男の目に留まる可能性は高い」

オディールは激しい憎悪を滾らせた口調で呟いた。

アイリスはそんな彼女に、憂いを含んだ視線を向ける。

出来ることならば、今回の演習では守護の双刃に出張ってもらいたくはない、というのがアイリスの本音だった。

魔龍討伐作戦が失敗してからの三ヶ月間、オディールが打倒守護の双刃の一念で己を鍛え続けてきたことは彼女も知っている。しかしそれだけに、アイリスにはいまの戦友が酷く危うい状態にあるように思えた。

こんな精神状態で守護の双刃を前にしたら、いかに屈強な外人部隊の戦士といえど、冷静さを失いかねない。

普段冷静なオディールだけに、感情の赴くままに行動した時の危険を、アイリスは恐れた。

大休止の二時間が過ぎた。

監視所に備え付けられた時計が示す時刻は十二時半。演習の開始のゼロアワーまで、あと三十分といったところだ。

リーザリオ軍事演習では個人戦技披露の他、小隊同士の戦闘演技、果ては大隊対大隊の模擬戦も内容に含まれている。戦闘の大規模化、想定したフィールドの広範囲化は免れられない。

残る三十分間で、演習そのものの準備を進めるとともに、広い戦場の安全確認をしなければ。

「再度戦場の安全を確認する。総員、神剣レーダーの準備をせよ」

トティラ将軍の号令を受け、二四名のスピリット達は各々の永遠神剣を構えた。

本番を控えたその横顔が、みな緊張に強張っているのも無理なきことだ。ここは敵国との国境線近く。いつ、ラキオスの哨戒部隊がこちらの存在を捕捉するか分からない。

緊張を隠しもしない妖精達に、トティラ将軍は言う。

「案ずるな。こちらの存在を捕捉されたとしても、所詮は哨戒部隊。せいぜい二個小隊の戦力だ。向こうから手を出してきたならば、鎧袖一触にしてやればいい」

歴戦の猛将が腹の内に抱える豪胆さを窺わせる重々しい言葉。

かつての鉄の山戦争で、劣勢だった戦局を盛り返すべく将兵を鼓舞した時と同じように、トティラ将軍は続ける。

「かといって敵を侮るな。向こうも貴様らと同じだ。国王の意のままに動く全体主義の奴隷などと舐めてかかるな。奴らも我々と同じように祖国を愛し、同胞を愛している。

……ゆえに、もし敵と遭遇したならば、奴らに最高の敬意を払い、細心の注意を持って、皆殺しにしろ」

いわゆる名将、名宰相と呼ばれる男達の中には、演説に長けた者が少なからずいた。

彼らの言葉に、人は恐怖を忘れ、胸にわだかまる悶々の情を慰撫し、その崇高な心に勇気を漲らせた。

石の壁、猛将スア・トティラもまた、そうした演説の名手だった。

皆殺しにしろ、とは簡潔にして明瞭な命令だ。しかしそれだけに、麾下の将兵スピリットは迷うことなく行動出来る。

トティラ将軍はみなの顔を見回した。

緊張はある。しかしそこには微塵の恐怖もない。双眸には貴き勇気の炎。出陣に際してはベストな状態だ。

トティラ将軍は、うむ、と頷いて、

「総員、神剣レーダーを起動せよ」

と、全軍に命令した。

走査する方角は無論、ラキオス領。

第三軍のスピリットはその方角に意識を集中して、

「「「「「「「「「「!!?」」」」」」」」」」

全員が、愕然となった。

エルスサーオとリーザリオ間の国境線を監視するために、相互に築かれた監視所。

ラキオス側にも設置されたそこから、十近い神剣の反応があった。

「閣下ッ!」

最初に悲鳴じみた声を発したのはオディールだった。

血相を変えて己の名を呼んだ彼女の態度から、何事か尋常でない事態が起こっていると察したトティラ将軍は、「何事か?」と、叫んだ。

「エルスサーオ側の国境線監視所に、スピリットの気配を十以上感知しました」

「なにッ!?」

トティラ将軍は驚愕に苦みばしった表情を浮かべた。

かくして、トティラ将軍の会心の策、リーザリオ軍事演習が始まった。

本来の想定とは、まるで異なる状況の下に。

 

 


<あとがき>

 

柳也「……………………」(←茫然自失の体で今回の台本を読んでいる)

 

北斗「その……まぁ、なんだ。元気を出せ、主人公」

 

柳也「おで……おで、主人公なのに……出番が……出番が……」

 

北斗「あぁ……ほれ。あれだ。あの偉大なる名作、ドラゴンボールですら、主人公不在の回があったじゃないか? しかしそれでも、ドラゴンボールの主役は孫悟空に変わりなかった。それと同じだ。たとえ今回一切出番がなかろうと、この物語の主役はお前だ。だから泣くな!」

 

タハ乱暴「……はい! 永遠のアセリアAnotherEPISODE:40、お読みいただきありがとうございました! いやぁ、記念すべき四〇回目ですよ〜」

 

柳也「その記念すべき四〇回目なのに……おで、出番なし? 主人公なのに?」

 

タハ乱暴「いやぁ、まぁ、それは……話の、進行の都合上、仕方がなかったんだよ。ほら? 戦争って、やっぱり人間同士がするものだから。相手方の描写なくして、成り立たないんだよ。あえて描写しない場合もあるけど。今回は、その“あえて”をする必要がなかった。たまたまなんだよ? 本当に。たまたま、記念すべき第四〇回が、お前の出番がない話になったんだ」

 

柳也「んな……んな説明で納得出来るかぁぁぁぁ!!」

 

北斗「納得する他あるまい。……さて、タハ乱暴? 結局、今回の話の主役はいったい誰とするべきなんだ? 一見したところトティラ将軍に思えるが……解釈次第では、主人公不在の群像劇にも見える。はっきりさせておいた方がいいんじゃないか?」

 

タハ乱暴「いやぁ、書いてて俺も思った。これ、読む人によっては本気で主人公不在話だよなぁ、って。まぁ、やっぱり主役を一人に絞るならトティラ将軍だけど。オディールはヒロイン? いやそれとも、ジャネットがヒロインか?」

 

北斗「ジャネットといえば、今回、処刑の話が出てきたな? 初代PC版アセリアでは、プレイヤーの意志で処刑コマンドが実行出来たが、この話ではその辺りはどう考えているんだ?」

 

タハ乱暴「ううん……深くは考えてないんだけど、基本的に処刑実行の裁可は軍の最高指揮官のみが下せるもの、って考えている。つまり、ラキオスやバーンライトの場合は国王だな。かつての“帝国”軍が天皇の軍隊だったように、“王国”軍は国王の軍隊だから。アセリアAnotherでは、原則、将軍の任命権や、スピリットを処刑する権限なんかは国王が持つもの、としている。

ただ、いくらあの世界の軍隊が小型とはいえ、王の目が届く範囲は限られているから、いくつかの権力は各軍の将軍に一部委譲されている。スピリットの処刑に関する判断なんかもそう。言葉は悪いけど、スピリットは兵器だから。壊れた兵器を直すか、解体して使える部品を回収するかの判断は、ある程度は現場任せでも良いと思う。あくまで、ある程度だけど」

 

北斗「なるほど。だから今回の話でも、バクシーはトティラ将軍に伺いを立てたわけだな」

 

柳也「雷は恐いねぇ……」

 

北斗「む? 何だ柳也? 藪から棒に……」

 

柳也「鳴るほど!」

 

北斗「…………」

 

タハ乱暴「ああ。なるほど、ね」

 

北斗「……この男、今回出番がなかったことが相当ショックだったらしいな。錯乱している」

 

タハ乱暴「なんだかんだで、柳也はガラス・ハートの持ち主だからなぁ……さて、読者の皆様、今回も永遠のアセリアAnotherをお読みいただきありがとうございました!」

 

北斗「この作品が四〇話も連載出来ているのは、読者の皆様の応援あってこそ。まこと嬉しく思います」

 

タハ乱暴「今後も執筆に励んでいきたいと思います。それでは、次回もまたお付き合いいただけることを祈りつつ……」

 

北斗「ではでは」

 

 

 

 

 

<おまけ>

 

ある次元の裂け目にて――――――。

秩序の永遠存在の中でも五指に入る有力者……法皇テムオリンの右腕を自認する黒き刃のタキオスは、地球人の時間感覚でここ数日、眠れぬ日々を送っていた。

不眠症の原因は分かっている。ストレスからくる自覚症状だ。ストレッサーの原因も、大体の察しがついている。

タキオスはこの数日間、とある男のことで頭を抱えていた。

自分の主たる法皇が、予想される不都合な未来を変えるために練り上げた計画に組み込んだ、ある男。本来ならば今頃龍の大地で神の剣を振るっているはずの男は、自分の手違いによってまったく別な世界に飛ばされてしまった。そして、消息不明となった。

己の過失が招いた現状を憂いたタキオスは、配下のミニオン達に、ただちに男を捜すよう命令した。

しかし、無限に広がる平行宇宙、さらにその中で無数に存在する次元世界から、一人の男を探し出すなど不可能に近い。砂漠の中で一粒の砂を探すようなものだ。

そもそも、かの男が地球型惑星に召喚されたとも限らない。召喚先の世界の酸素が薄く、すでに死亡してしまっているケースすら考えられる。

人海戦術とローラー作戦を多用して、ミニオン達はすでに八万の惑星を調査していた。しかし、捜索は当然のように難航した。

そんなある日のこと、タキオスのもとに一人のミニオンが報告を携えてやって来た。それは彼が待ちに待った一報だった。

「桜坂柳也の居所が判明しました」

「なにッ!? それは本当か!?」

報告を耳にしたタキオスは思わず声を荒げた。

反射的に身を乗り出した反動で、卓の上の笊が揺れる。

ちなみにいまの彼はコタツでぬくぬくしながら茶をすすっていた。笊の中身は勿論蜜柑だ。傍らに置いたブラウン管では、雪化粧された自然の中、眼鏡が凛々しい男優さんが雪だるまに隠した指輪を恋人役の女優さんにプレゼントしている。冬○ナだ。彼の対面で同じく茶をすすっていたテムオリンが、煎餅を齧りながら「ヨ○さま……」と、呟いている。頬がやや赤い。なんとも平和な秩序の皆さんだった。

「それで、どの世界のどの惑星だ?」

「我々の識別コードでNEXTON-901宇宙、BASESON-180銀河団に所属する惑星0190です。別名が、『始まりの外史』」

「『始まりの外史』だと!?」

タキオスがまた声を荒げた。

野生のバイソンを思わせる猛々しい双眸に、驚愕の色が滲む。

テム様が煎餅を、パリパリ、食べた。唇の周りについた食べかすを拭い取る仕草が、なんともチャーミングだ。おまけでこんな繊細な描写を書いているタハ乱暴は、末期かもしれない。

「タキオス、知っているのですか?」

「えぇ。まぁ……」

タキオスは躊躇いがちに口を開いた。

「……『始まりの外史』。私の兄……もとい、姉がいま、暮らしている世界です」

タキオスの口調には、身内の恥を晒さねばならない屈辱感が滲んでいた。

 

 

永遠存在の皆さんがほのぼのよろしくやっていたその頃、反董卓連合はついに敵将董太尉の根城……洛陽の都へと迫った。

洛陽を目前にした連合軍はそこで一旦停止、此度の戦いでは何気に大活躍の公孫賛軍から、偵察のため先遣隊が出されることとなった。

「これは好都合だ。僕たちの大好きな伯珪ちゃんに頼み込んで、先遣隊に俺達を混ぜてもらおう」

ジョニー・サクラザカ軍の大将……桜坂柳也は、そう言ってジョニー軍の主要メンバーに加えて、呂布、華雄の両名を連れ、僕たちの大好きな伯珪ちゃんの陣へと赴いた。

伯珪ちゃんの陣へやって来た柳也たちの存在に最初に気が付いたのは、公孫賛軍の中でも古参の兵……ではなく、先頃、降将として同軍に降った張遼将軍だった。

「おぉ! 華雄に恋やん。三日ぶりくらいやなぁ〜」

「張遼! お前も捕まっていたのか!?」

「……なんやその言い方だと、董卓軍の武将はみんな捕まっとるみたいやなぁ」

「……霞、元気そう」

「おう! ウチは元気やったで〜。……ところで、その後ろに見えはるんはもしかして……」

「……いかん。思わず恋をしてしまった」

扇情的な装いに垣間見えるこれまた扇情的なボディ・ラインを舐めるように眺めた柳也は、思わず歓声を上げた。虎牢関で呂布と死闘を繰り広げた人物とは思えない緩みきった表情で、彼女を見る。

「初めまして。俺がジョニー・サクラザカ軍の大将、桜坂柳也ジョニーだ。姓が桜坂。名が柳也。字がジョニーだ」

「ウチは張遼や。姓が張で、名が遼。字は文遠言う。よろしゅうな〜」

同じ戦いを愛する者同士どこか通じる部分があるのか、初対面の二人は和気藹々と言葉を交わした。

張遼に案内された一行は、僕たちの大好きな伯珪ちゃんがプライベートで使っているという天幕へと向かった。ちなみに、赴いたメンバーの名を列記すると、ジョニー、鈴々、朱里、程遠志(アニキ)、管亥(チビ)、高昇(デブ)、恋、華雄といった陣容だ。愛紗がいないのは、勿論仕様だ。ジョニーの「よ〜し、愛紗をはばにしよう」発言は、ジョニー軍の全員の心に浸透していた。仲間はずれにされていじける愛紗を眺めるのが、柳也の楽しみなのだ(外道)。

「お〜い、白ちゃん? ジョニー軍の大将さんが挨拶に来たで〜」

「な、なに! サクラザカが!?」

天幕の前までやって来た張遼が言うと、中からは、どたんばたん、と大きな物音が。「ちょっ、待っていろ」とか、「紅はどこだ!?」とか、柳也のロマンティック・ハートを刺激する発言がダダ漏れだった。

五分ほど待たされたか。

超特急でメイクを終えたらしい公孫賛が、天幕の内に招き入れてくれた。

照れくさそうに笑いながら、柳也達を迎える。

「よ、よう、サクラザカ。よく来たな」

「伯珪将軍、突然の訪問にも関わらず、お顔を拝見させていただき、光栄に思います」

柳也は恭しく礼をした。漢から与えられた役職でいえば、公孫賛は複数の県を統治する郡守の立場、大県令の柳也の方が格下となる。普段の柳也であれば、こうした官位の差など気にも留めないが、いまは恋や華雄、張遼といった軍同士の友好関係を知らない者の目がある。

柳也は早速用件に入った。同席している張遼も董太尉の現状を知っているとのことだったから、遠慮なく喋った。赤裸々に語った。調子に乗って、自分の好みの女性のタイプについても語った。熟女好きで痴漢プレイを好む事実が、ばれてしまった。

「そうだったのか、ジョニーのアニキは痴漢ぷれいが好きだったのか……ん? 痴漢?」

「にゃにゃ、チビ、そこは疑問に思っちゃ駄目なのだ。電車のない三国時代で痴漢が出来るのか、とか思っちゃ駄目なのだ!」

「……鈴々」

平然とした口調で痴漢がどうのと口にする鈴々に、柳也は澎湃と涙を流した。

子どもには健やかに、穢れを知らぬまま育ってほしい。そんな風におもふジョニーであった。

それはさておき、先遣隊に自分達を混ぜてほしい、という無茶な願いを、伯珪将軍は受け入れてくれた。その際、張遼将軍の口添えがあったことは言うまでもない。

柳也は伯珪ちゃんの両手を取ってにこやかに笑った。必然、二人の距離は狭まる。

「ありがとう、伯珪将軍! お礼と言ってはなんだが、俺に出来ることがあれば何でも言ってくれ。なんとあれば、この場で正式な同盟関係を結んだっていいぜ? 何なら一緒に、婚姻の儀を結んでも……」

「あ、いや、その……そ、その言葉だけで十分だ」

「くぅぅぅ……なんて懐の広い女性なんだ! 惚れた。惚れ直した!」

「そ、そんな面と向かって言わないでくれ。……照れるだろ」

まともに柳也の目を見られないらしい伯珪ちゃんは頬を染めて呟いた。

かくして、ジョニーと愉快な仲間達は洛陽先遣隊への参加が決まった。

 

 

洛陽への侵入に成功した先遣隊一行は、そこで異様な静寂と遭遇した。

仮にも漢の中心地だというのに、あまりにも静かすぎる。兵はおろか、民間人さえ見当たらない。人っ子一人、猫の子一匹気配がない。かといって虐殺の後や、董太尉が行っていたとされる暴政の痕跡はなく、建物もほとんどが無事な姿のまま残されていた。

市内の異様な状況に戸惑いつつも、公孫賛軍の先遣隊八〇名は、洛陽市街の偵察という目的のため、それぞれが散っていった。

同伴した柳也達も、自分達の目的のため別行動を取った。

柳也達一行は約束通り、真っ先に恋の家の確保を急いだ。

ちょっとした動物園が開けそうなほど多種多様な動物達が集まった彼女の邸宅は大きく、小規模部隊の司令部としては十分な広さを有していた。柳也達はまずそこを先遣隊の本部とした。

「……これで条件の一つは守れたかな?」

「…………」

頷く呂布は、もう柳也の言葉など聞こえていない。

動物達と戯れる彼女の姿を、柳也は優しい眼差しで見つめていた。

いまの恋の姿からは、戦場であれだけの武勇を誇った呂布奉先の印象は浮かびにくい。戦場では見られない猛将の別な側面は、心温まるものだった。

斥候に出ていたデブこと高昇が敵の襲撃を知らせたのは、そんな和やかな空気が漂い始めた頃のことだった。

「ジョニーのアニキ、大変なんだな。いつの間にか、この屋敷を包囲されてるんだな」

「なに!?」

「ジョニーのアニキ!」

デブとともに周囲の斥候に出ていたチビこと管亥が、やや遅れてやって来た。

「大変ですぜ。程遠志のアニキが貴人らしい女の子を乗せた馬車を保護したんですが、そこに、突然白装束の一団が現われて、乱入してきやがった!」

「華雄将軍!」

柳也は反射的に華雄を見た。

すでに得物の金剛爆斧を構え、気息充溢、臨戦態勢を整えていた華雄は、柳也の顔を見るなり頷いた。

「間違いない。奴らだ」

「恋の言っていた白い奴らか……デブ、周りを取り囲んでいる連中というのは!?」

「多分、そうなんだな。俺が見た連中も、白い恰好をしていたんだな」

「ジョニーのアニキ、いま、馬車の方は程遠志のアニキが守っていやす。ですが、いくらなんでも、ありゃ、多勢に無勢ですぜ。このままじゃ、程遠志のアニキが……!」

「分かっている。鈴々、チビ、華雄将軍の三人はアニキの援護に回れ。保護した一般人を守ることを優先しろ。後の面子は、邸宅の防衛と、三人の突破口を確保に努め……ッ!」

その時、柳也の後頭部に激痛が走った。

まるで金槌で思いっきり殴られたかのような衝撃。

思わずよろめき、膝を着く。

傍らの朱里が悲鳴を上げた。

「ご主人様っ!」

「な、に……!!」

かつてない悪寒を覚えた。

周囲の気温が、一気に十度近く下がったように感じた。

全身の汗腺が一斉に開き、気持ちの悪い汗を分泌する。

頭が痛い。目が痛い。舌が乾く。鼻が、何の臭いも感じない。

頭の中で、〈決意〉の緊迫した声が、がんがん、響く。

【主よ……!】

「こ、れ……はぁ!?」

強大なマナの気配。

空から、降ってくる。

どこまでも暴力的で、どこまでも暗く、どこまでも鋭い。なにより、あまりにも巨大だ。まるで大陸が一つ……いや、星が一つ、降ってくるかのようだ。

記憶にある、気配だった。

柳也は、己が頭上を睨みつけた。

蒼空に、黒点が一つ。

真っ直ぐ、こちらに向かって落ちてくる。

黒い……どこまでも黒い、流星だった。

「朱里……逃げろっ!」

柳也は反射的に朱里を突き飛ばした。

普段の柳也ならば絶対しないであろうその行動に、突き飛ばされた本人も、周りのみなも目を丸くする。

そんな周囲からの眼差しにも反応せず、柳也は、上空の一点を睨んだまま、同田貫を抜き放った。

「〈決意〉ィ!」

【現在の戦闘用マナの貯蓄量と周囲からの吸収では、全力戦闘は一六秒間が限界だ。それ以上は、主の肉体を構成するマナを……主自身の命を削らねばならぬ】

「構わん。全開でいくぞ!」

体中に力が漲った。

柳也は、勢いよく地面を蹴った。

周りのみなが、また目を点にする。

垂直に跳躍した柳也は、あっという間に二〇メートルの上空に身を躍らせた。

空からの襲撃者の顔の輪郭と、初太刀の軌跡が、はっきり、と見えた。

地擦りに構えた肥後の豪剣二尺四寸七分を、一文字に振るう。

振り抜きながら、男は叫んだ。

襲撃者も、叫んだ。

「タキオ――――――――スッ!!!」

「桜坂柳也ぁぁッ!!!」

天から降り注ぐ流星と、天へと昇る龍。

両者の初太刀が、激突した。

そして、龍は地に堕ちた。




トティラ将軍が主役の今回(笑)
美姫 「柳也たちばかりでなく、敵対するバーンライト側の事情なども分かって良いわよね」
だよな。何故、あんなにも多くのスピリットが居たのか判明したし。
美姫 「こちらにはこちらで色んな人間関係があったりするというのがはっきりと読めるしね」
記念すべき四十話だけれど、今回は柳也には泣いてもらって。
美姫 「その分、おまけで出番があると思えば」
何気におまけ側も結構凄い事になっているんだけれど。
美姫 「どっちも続きが気になるわね」
うんうん。次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」



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