――聖ヨト暦三三〇年、コサトの月、黒、ひとつの日、昼。
バーンライト王国リーザリオ第三軍の各部隊に与えられた野外訓練場は、ラキオスのそれに比べると広く、それでいて狭い。
この矛盾した形容は決して間違いではなく、単純に敷地面積だけで言うのであれば、第三軍の野外訓練場は、ラキオスのそれと比べて二割増しで広かった。しかしその一方で、実際に訓練場として使えるスペースは狭く、それはすなわち訓練場の整備が行き届いていないことを意味している。
何も無精をしているわけではない。ラキオス王国軍と比べて、バーンライト王国軍の予算が絶対的に少ないためだ。ない袖を振ることは出来ない。
第三軍のスピリット達は今日も今日とて文句の一つもこぼさずに訓練に励んでいた。もっとも、スピリットが人間に文句を言うなど、出来るはずのないことだったが。
ダーツィ大公国からの外人部隊オディール・緑スピリットは、正面と左右の三方から殺気を向けられていた。
敵役のスピリットは全員バーンライト王国軍の訓練兵で、正面の相手が青、左右からの相手が、それぞれ緑と赤という編成だ。
全員、誕生のその瞬間から携えていた己だけの得物を両手に、攻撃の機会を覗っている。
三対一という数の不利に加えて、半包囲されているという立ち位置の不利をも抱えるオディールは、攻防一体の下段の構えで正面を牽制しつつ、同時に左右の相手にも目線を配っていた。
自身の不利は明らかなのにも拘らず、その瞳に諦めや焦りの感情は薄い。むしろ、油断のない視線には強い自信の色さえ覗えた。
現に、自分を包囲する彼女たちの実力は、まだ初等訓練も途上とあって全員オディールより一段……いや三段は劣っていた。
薙刀状の永遠神剣〈悲恋〉を構える足場は平坦に均されており、動きを縛る要素は何一つない。
致命的な隙さえ見せなければ、数の不利も立ち位置の不利も覆してやれるだけの自信が、オディールにはあった。
正面の青スピリットが、左右の二人と何やらアイ・コンタクトを交わした。
直後、包囲の中心にあるオディールのもとに、剣気が殺到した。
正面から青スピリットの少女が上段から必殺の打ち込みを放ち、やや遅れて左の緑スピリットが中段から喉の位置を目掛けて槍を突いてきた。右の赤スピリットは、素早く呪文詠唱を始める。時間差をつけての攻撃は、同士討ちを考えてのことだろう。
――けど……!
戦いとは、本来、捨て身の覚悟で挑むべき大事だ。訓練とはいえ、同士討ちを恐れるような半人前に、外人部隊の自分が負けてやるわけにはいかない。
オディールは正面の敵に向かって下段から斬り上げた。
上段からの容赦ない打ち込みを払い除けつつ、右足を軸に半回転、返す刀で右からの刺突を斬り伏せる。
そしてそのまま背後に向かって、石突を突き出した。
オディール自身が身体の向きを変えたことで、いまや背後の敵となった赤スピリットは、まさかこんなにもあっさりと同輩達の攻撃がいなされるとは思っていなかったのだろう。
詠唱の途中でマインド・シールドの展開出来ない無防備な鳩尾に、〈悲恋〉の石突は吸い込まれるように炸裂した。
「かっ、はぁ……!」
赤スピリットが目を剥いて呻き声を発した。
呪文詠唱の最中で腹筋に力を篭める余裕さえなかったか、急所を突き上げられて赤髪の少女は、くたり、とその場に座り込む。
なりふり構わず相棒の永遠神剣を放り投げ、両手で腹をさすった。どうやら胃痙攣を引き起こしたらしい。内容物こそ吐瀉しなかったものの、口から滴り落ちる胃酸が地面を汚した。
戦場で最も頼るべき自分の得物を手放した時点で、赤スピリットは戦闘を放棄したも同然だった。
オディールはそれっきり背後の敵から関心を失い、改めて意識を前面の二人に集中する。
青と緑の二人は、がちがちに緊張しきった様子で身構えていた。
一人倒されたとはいえ、いまだ数の上では二対一。実力差があるといっても、無駄なく連携して追い詰めれば、決して勝機が見出せないわけではない。
しかし、必勝だと思い込んで放った連携技をいとも容易く破られ、二人はすっかり戦意を喪失していた。
ただでさえ実力に大きな隔たりがある上に、気の持ちようでも負けているのだ。
もはや二人がオディールに勝利する方法は、何一つなかった。
◇
模擬戦を見事勝利の二文字で飾ったオディールは、しかし重い溜め息をついた。
三対一という兵力差を撥ね退けての勝利は喜ばしいことのはずだが、なぜかその表情は暗い。
訓練兵を相手取った模擬戦では、オディールが満足できる結果は得られなかったようだ。
――……駄目、これじゃ、全然足りない。
相手の力量も。自分自身の力量も。この程度ではまだまだ足りないと、オディールは憂いの色濃い眼差しで、自身の両手を見つめた。
三人のスピリットを次々と戦闘不能にしてやった手応えは、模擬戦が終わってもまだ残っている。
それは本来、戦士ならば勝利の優越感を伴う心地良いはずの感触だったが、いまのオディールには焦燥を募らせる要因でしかなかった。
届かない。まだこの手応えでは足りない、と。オディールの美貌に失望の陰りを差すだけの、むしろ邪魔な手応えだった。
――この程度の力じゃ、あの男には届かない。
あの男。
特殊作戦部隊による魔龍討伐作戦で、一対八という圧倒的な戦力差を撥ね退け、自分達を破ったあの男。守護の双刃のリュウヤ。
あの雨の戦場で見た男の戦いぶりを、オディールは二ヶ月近く経とうとしているいまでも、胸の屈辱とともにまざまざと思い出すことが出来る。
討伐作戦が失敗し、リーザリオに帰還して以来、オディールは打倒守護の双刃の一念で訓練に励んでいた。
しかし、強くなろうと努力すればするほど、彼女はあの男との実力差を思い知らされていた。
あの戦場で、柳也は同時に五人のスピリットを相手取って互角以上に戦ってみせた。
他方、自分はといえば、討伐作戦の失敗から一ヶ月以上が経つというのに、いまだ三人を相手にするのが手一杯だ。目指すべき相手との実力差を、痛感せざるをえない。
――ラキオスにいるのは守護の双刃だけじゃない。リクディウスの魔龍を倒した〈求め〉の勇者と、蒼い牙もいるのに。
戦いはより多くの兵を集めた方が勝つという兵法の大原則を、いとも容易く突き崩す可能性を秘めた危険因子が、この三人だった。
そのうちの一人にも及ばない事実が、オディールには辛く、悔しかった。
――もっとよ。もっと強くならないと。
散っていった仲間達の仇を取ることが出来ない。
この胸に深く刻まれた屈辱を晴らすことが出来ない。
失敗の責を咎めることなく、命を救ってくれたあの方の恩に、報いることが出来ない。
「オディール」
背後からの声が、耳朶を撫でた。
声の主が誰なのかは、振り返らずともすぐ分かる。
慣れ親しんだ声は、オディールが祖国で勤務していた頃からの同僚のものだった。
「アイリス、帰ってたのね」
二日ぶりに会う戦友の壮健な様子を見て、オディールは優しい微笑みとともに彼女を迎えた。つい今しがたまで感じていた苛立ちが、たちまち消えていくのを実感する。
アイリス・青スピリットと彼女を隊長に頂く一個小隊は、一昨日の晩から国境線警備の任務でリーザリオを空けていた。その交代要員が出立したのは今朝早くのこと。どうやら代打を迎えて、ちょうど帰ってきたところらしい。
帰ってきて早々立ち寄ったのが訓練場というのは、色気を求めてのことか。
「アイリスお姉さま!」
遠くの方から黄色い声が聞こえてきた。
見れば、オディールと同様、今日は王国軍スピリットの訓練を担当していたオデットが、アイリスの姿を認めるや脱兎の如く駆け寄ってくる。
訓練とはいえスピリット同士の戦いは周囲に広範な被害をもたらしかねない。オディールらの班と距離を取って稽古に励んでいたオデットが、最愛の姉のもとに辿り着くまでにはわずかな時間があった。
「お姉さま、お帰りなさい!」
アイリスの側までやって来たオデットは、開口一番、満面の笑みとともに彼女の帰還と無事を喜んだ。戦友であり、上官でもある少女の壮健な様子を見て顔を綻ばせるのは、オデットも自分と変わらない。
そしてアイリスもまた、「ただいま」というオデットへの返答に続くのは、二人の無事を喜んでくれる言葉だった。
「二人とも元気そうでなによりだ」
相変わらずの男口調で呟き、アイリスは小さく微笑んだ。
アイリス自身、今朝まで警備をしていた国境線付近ほどではないとはいえ、ラキオスとの開戦の機運が高まり続けている現在のリーザリオは、危険の可能性を煮詰めている鍋のようなものだ。遠方に残した友の身を案じる気持ちは、誰もが等しく抱くものだった。
ましてやその友の中に最愛の人が含まれるとなれば、心配と不安はひとしおだったことだろう。
「いつ帰ってこられたんですか?」
「ついさっきのことだ。担当官に報告を済ませてから、飛んできた」
アイリスはそう呟いて、冗談めかした口調で笑う。
だが、おそらくそれは比喩ではないだろうと、オディールは考えた。
青スピリットのアイリスは、ウィング・ハイロゥを展開することで空を飛べる。事実、彼女の周りにはハイロゥ展開後の残滓ともいえるマナの輝きが、かすかにちらついていた。つまりは、それほど急いでいたということだ。
「それは、愛しの彼女に会うためかしら?」
オディールはからかうように訊ねた。
「勿論、オディールにも会いたかったさ」
「愛しの、のところは否定しないのね」
相変わらずオデットに対しては甘々なアイリスの態度に、オディールは苦笑をこぼした。
それから、思い出したように〈悲恋〉を掲げて、アイリスに言う。
「せっかく来たんだし、一本やっていく?」
オディールは帰還したばかりの戦友を模擬戦に誘った。
普段の彼女なら警備任務を終えて戻ってきたばかりの同僚の疲労を気遣って、「ゆっくり休め」と言うところだが、今回はいつもと状況が違う。いまのオディールには、一刻も早く、少しでも強くなりたいという焦りがあった。
セーラ・赤スピリット亡きいま、ダーツィ最強のスピリットは間違いなくアイリスだ。
打倒守護の双刃の執念を掲げるオディールにとって、親友の青スピリットは最高の訓練相手だった。
オディールから誘われたアイリスは、討伐作戦の失敗以来、彼女が守護の双刃なるラキオスのエトランジェに対して、復讐の執念を燃やしていることに気付いていた。
本人は極力平静を装って、胸の内から湧き出す感情を隠そうとしているが、付き合いの長い自分にはわかる。
オディールは、この場にはいないエトランジェの影に怯え、恐れ、そのために焦っていた。少なくともアイリスにはそう見えたし、以前そのことを指摘した時も、彼女は自分の意見を否定しなかった。
アイリスは徹夜明けの疲労と親友の役に立ちたいという思いを天秤にかけ、おもむろに〈苦悩〉を鞘から抜き放った。
それが、アイリスの答えだった。
◇
「……なかなか壮観な眺めだな」
野外訓練場の視察に訪れた第三軍司令トティラ・ゴートは、訓練場の其処彼処で繚乱するマナの輝きを見て、苦い表情を浮かべた。
スピリットが戦う姿などこれまでに嫌というほど見てきたが、原生命力たるマナを振り絞って戦う彼女達の姿は、何度見ても慣れない。
特に赤スピリットが神剣魔法を使う様子は、まるでおとぎ話に登場する悪魔が火を噴くようであり、長く眺めていると不快感を催した。
リーザリオ第三軍では月に一度、軍司令自らが各部隊に足を運んでの、抜き打ちの視察が恒例の行事として実施されていた。
軍司令自ら抜き打ちの視察をすることで将兵・妖精の一人々々の気持ちを引き締め、命令を下す軍司令と実際に命令を実行する将兵との間に団結を生むのが主な狙いだ。
古来より、強い軍隊には団結・規律・士気の三要素が不可欠である。
このうちのいずれかが欠けても、精強な軍隊は作れない。
どんなに強力な装備を揃え、どんなに強力な猛者を揃えたとしても、団結や規律がなければ、それは単に数が多いだけの集めただけの群衆に過ぎない。軍隊どころか、組織としてのまとまりすら危うい集団だ。当然構成員の士気は低く、必然的に強さとは程遠い軍隊となるのは当然の帰結といえよう。これは軍隊に限らず、あらゆる組織にいえる。
指揮官が部隊を訪問するのは、将兵の間にある溝を浅くするのと同時に、部下を知るという意味合いも含んでいる。
いわゆる適材適所という言葉は上に立つ者が部下の能力や性格を知って初めて成立する。
『勇気をもって部下の言葉をよく聞け。金は大地の下に隠れている』とは、佐賀藩の祖にして“龍造寺の仁王門”の異名も名高い鍋島直茂の言葉だが、これはまさに正鵠を射ていた。
一般的に軍隊の指揮官は、部隊を訪問するとき、最低指揮階層の二段下の部隊までを訪問しなければならないとされている。軍団司令官ならば師団と、その指揮下の連隊まで、師団長であれば連隊とその指揮下の大隊まで、という具合だ。
これを徹底したのが、硫黄島の戦いで有名な旧陸軍の栗林忠道中将(硫黄島防衛中に大将に昇格。本人はそのことを知らぬまま戦死)だ。
栗林中将は小笠原兵団の司令で、指揮階層二個下の連隊長までを訪問すれば十分だった。そればかりか、硫黄島に直接赴く必要さえなかった。小笠原兵団長の彼は、もっと安全な――といっても、あくまで硫黄島に比べればという意味だが――父島に兵団司令部を置いて指揮することも可能だった。
しかし栗林中将は最前線硫黄島に司令部を置き、自ら現地の将兵を指揮した。ゲートルを巻き、水筒を提げ、指揮杖を突いて島中を歩き回り、軍務に就く将兵すべてに分け隔てなく言葉をかけた。最下級の二等兵にまで、である。最高指揮官から激励を受けて、奮起しない兵は硫黄島にはいなかった。
軍役三十年のトティラ将軍も、最高指揮官の自分が声をかければ、兵はみな士気を上げ、奮起するのは経験から知っていた。
抜き打ち視察の有効性も、頭では理解している。
しかしこの抜き打ち視察は、トティラが出来ることならば避けて通りたいと考える行事の一つだった。
理由は簡単で、視察となれば嫌でもスピリットと顔を合わせねばならないからだ。
トティラは軍人になったのを後悔したことはないが、スピリットと同じ職場で働くことについてだけは、いまだ納得出来ずにいた。
――顔を合わせて、声をかけてそれで終わればそれで良い。しかし……。
トティラは胸の内で呟いて顔をしかめ、天を仰ぐ。
快晴の空。
老いた瞳に空の青さが染みて、猛将は現実を見つめ直した。
「あ、閣下! おはようございます」
「閣下、今日は視察ですか?」
「閣下、軍服の裾がほつれてますよ?」
「閣下、先日王都の方から珍しいお茶を取り寄せてみたんですけど……」
入れ代わり立ち代わり、自分の姿を見つけるなり次々と声をかけてくるスピリット達。
トティラがこの世で最も嫌悪し、唾棄すべき対象としている彼女達。
しかしその彼女達から声をかけられ続け、六二歳の老将は辟易と溜め息をつく。
――なぜ向こうから声をかけてくるのだ?
自分が妖精差別主義者だということは、第三軍では暗黙の常識となっている。
それにも拘らず、眉目秀麗な少女達はみな人目をはばかることなく気さくに声をかけてきた。今回に限ってのことではない。第三軍のスピリット部隊では、トティラが抜き打ち視察を行う度に、このような光景が見られた。それもごく頻繁に。
――ええいっ、鬱陶しい!
いっそのことそう言って、群がる彼女らを払い除けることが出来たらどんなに楽だろうか。
しかし自分は仮にも第三軍の最高指揮官だ。自分の言動は、すべて彼女達の士気に影響するものと思わねばならない。最高指揮官がスピリットを邪険にして、団結が生まれるわけもない。
ゆえにトティラ将軍は、背筋を走る嫌悪感に身悶えしながらも、極力平静を装って、彼女達から嫌われぬよう努めるのだった。
「ああ。みなもおはよう。察しの通り、今日は視察に来た。みなの普段からの研鑽の程、このトティラがとくと拝見しよう。……裾がほつれているとは気が付かなかった。指摘してくれたこと、感謝する。茶の方は……また、いずれ機会があったら、な」
トティラ将軍は必死に友好的な笑みを作って、妖精達の言葉一つ一つに答えてやる。
「閣下にお礼を言われちゃった♪」
そして、こうしたトティラの対応が、第三軍のスピリット達の間で、将軍への信頼感を生み、結果として話しかけるという行為に繋がっていることに、彼は気付いていなかった。
隣で爆笑が上がった。
トティラはそちらを、じろり、と睨みつける。
秘書官のバクシーは妖精達に囲まれて抜き差しならぬ状況に置かれている上官の様子に、込み上がる笑いを隠そうともせずにいた。
「……バクシー、司令権限で減俸に処すぞ?」
「くっ…くっ……い、いえ。失礼いたしました」
バクシーは必死に笑いを堪えながら、トティラに微笑む。
「相変わらず見ていて飽きない見世物だと思いまして。……サラ様が見たら、何と言うでしょうかね?」
「サラには言うな。あれはスピリットが相手でも嫉妬する」
「閣下も、サラ様も、老いてますます盛んですからな。仲の良い夫婦で羨ましい」
「茶化すな」
猛将は二十年以上の付き合いになる秘書官に、不機嫌そうに呟いた。
しかし直後には口調を改め、視線をスピリット達の訓練風景へと戻す。
「今日の訓練は第一大隊の一部と、訓練兵の部隊だったか」
「はい。……先の討伐作戦で多くのスピリットを失いました。現在は急ピッチで、戦力の回復に努めているところです」
将軍の口調の変化に呼応して、バクシーも態度を改めた。
スピリット達の戦闘訓練を見る眼差しにも、鋭いものが宿る。
先の討伐作戦とは勿論、魔龍討伐作戦のことだ。あの作戦の失敗が第三軍に与えた損害は大きく、トティラの第三軍は、五割以上の兵力を失っていた。
バクシーが口にした通り、現在の第三軍はあの手この手で戦力の回復に努めている状態だ。
「訓練部隊からは来月にも五名、正規兵としてスピリットを上げてくるそうです」
「しかし、急造仕様の弱兵だろう?」
「訓練の不足は仕方がありません」
トティラ将軍の指摘に、バクシーは呻くように呟いた。トティラの秘書官である彼は、同時に第三軍の副司令のような立場でもある。
「いまはとにかく数を合わせることが重要です」
「分かってはいるが、な。……リモドアの第二軍に打診した兵力抽出の要請は?」
トティラ将軍は自分より十歳年下の第二軍司令の顔を思い浮かべながら訊ねた。
バーンライト三大都市の中でも、敵国から最も遠いリモドアに本拠地を構える第二軍は、三軍の中でも兵の消耗が最も少ない。それゆえに規模も最小だが、スピリットの二個小隊を回せるくらいの余裕はあるはずだった。
「相変わらずですよ」
しかし、トティラの望みを打ち砕くように、バクシーは小さくかぶりを振った。
「再三の要求にも拘らず、いまだ第二軍の軍司令からは、『抽出の可能性については考慮中。しばし待たれよ』とのことです」
「しばし、か。……最初の返事をもらってから、どれくらいになる?」
「一月半といったところでしょうか?」
「長いしばし、だな」
トティラ将軍はそこで一旦言葉を区切ると、自分の預かる第三軍の現状を憂いて溜め息をついた。
「訓練部隊から上がってくるという弱兵を加えても、兵力として数えられるのは一九体か」
「実質的には一八名です」
バクシーが淡々とした口調で言った。
トティラ将軍は岩石をそのまま削ったかのような顔に渋面を作る。
「ジャネット・赤スピリットだったか。……やはり、あれは元には戻らないか?」
トティラ将軍は討伐作戦の最中にシェル・ショック(戦場恐怖症)に陥った赤スピリットの名前を呟いた。
リーザリオに帰還してから、ジャネットは人間用の軍医に診せたが、作戦終了より二ヶ月近く経ついまでも現場復帰には至らないでいる。
ジャネットの容態を訊ねるトティラに、軍医からの報告を受けていたバクシーは、はたして答えた。
「軍医の話では、根気良く治療を続ければ望みはなくもない、ということです」
医学の未発達なファンタズマゴリアの医者の口から出た、曖昧な発言だった。
とはいえ、この種の精神病の治療法は我々の住む現代世界でも確実性のあるものが成立されているとは言いがたい。精神病の治療には医学だけでなく、高度な心理学の知識も必要となる。有限世界の医師にそこまでの技術を求めるのは、酷というものだろう。
「そうか」
トティラは残念そうに呟いた。
畳み掛けるように、バクシーが問う。
「それで、いかがなさいますか?」
「何をだ?」
「ジャネット・赤スピリットの処分です。兵達の間では、戦えないスピリットなど不要な存在、生きる価値はない。処刑して、得られたマナで他のスピリット達を強化するべきだ、という意見も出ておりますが?」
「現状維持だ」
トティラ将軍は迷うことなく答えた。
「軍医には引き続き診せてやれ。それに、戦えないといっても後輩の教育くらいは出来るだろう。敗北の経験談を、作戦に従事していなかった者達に聞かせてやれ。敗者の意見は、それだけで有用だ。自分が勝者になりたいと思うのなら、敗者の意見は迷わず聞くべきだ。あれの存在は、無価値などではない」
「かしこまりました」
バクシーは恭しく頭を下げた。
老将の意見に頷く彼の顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「兵達にはそう伝えましょう」
「いや待て。儂の口から直接伝えよう。……それから、第二軍の戦力抽出要請だが」
そこでトティラは表情を引き締めた。
大振りの双眸に、強い決意の輝きが見て取れる。
「近々、サモドアへ行こうと思っている」
「王都に、ですか?」
「うむ」
老将は重々しく頷いた。
「このまま返事を待つばかりの受身の姿勢では、いつまでも先延ばしにされかねん。国王陛下に願い出て、直接命令書をしたためてもらうことにする」
「それはよろしいかと思います」
トティラ将軍の提案に、バクシーもにこりと笑った。
いくら情報部と結託したラフォス王妃が政治の実権を握っているとはいえ、王政国家のバーンライトでは国王の命令がなによりも優先される。
国王直筆の命令書が一枚あれば、いかに頑迷な第二軍の司令とて、第三軍に兵力を回さざるをえないはずだ。
それに、王都にはトティラの家族が暮らしている。
軍人という職業に格別の誇りを持って挑んでいる猛将が、家族と最後に顔合わせの機会を設けたのが半年も前になることを、バクシーは知っていた。
「ついでに家族の方と会ってきたらどうでしょう? みなさん、喜ばれると思いますよ」
トティラ将軍の家族とは、バクシーもまた家族ぐるみの付き合いをしている。
六二歳の猛将を父親のように慕っている彼は、父の幸せを願った。
「ふむ、サラ達にも会っておくか……しかし、あまり長く基地を空けるわけにもいくまい」
ラキオスとバーンライトの関係はここ一ヶ月の間で急速に悪化の一途をたどっている。
ただでさえ第三軍の戦力が激減している状態だ。いつ開戦してもおかしくない情勢下で、軍司令が何日も不在というのははなはだ不味い。
「ご安心ください。閣下が不在の間は、私が代行を務めます」
バクシーは屈託のない笑顔で言った。
「もともと、そのつもりで私に話しかけたのでしょう?」
たしかに、バクシーに王都へ向かう意向を告げたのは、自分が不在の間、彼に司令代行を務めてくれるよう願うためと、スケジュール調整を依頼するためだった。
とはいえ、トティラの考えでは、リーザリオを離れるのは二日間の予定にすぎない。家族と顔を合わせるのも程々に、すぐに踵を返してリーザリオに戻ってくるつもりだ。
しかしバクシーのこの口ぶりは、それ以上の滞在を望んでいるように聞こえた。
「いっそのこと二週間くらい滞在してきてください。その間、第三軍は私が守ります。それとも、私では役不足ですか?」
「いや……」
トティラは諦めた表情で首を横に振る。現在の王国軍の中で、バクシー以上に優秀な軍人をトティラは知らなかった。
かつての聖ヨト王国分裂期や、鉄の山戦争に従軍した歴戦の猛者達は、そのほとんどが逝去しているか軍務から退いている。経験というただ一点を除けば、バクシーは間違いなく王国最高の軍人の一人だった。
トティラ将軍は細く溜め息を漏らした。
そして、重たげに口を開いた。
「……一週間だ。それ以上は空けられん」
「おや、信用がないのですね?」
「違うな。バクシー、お前だから一週間も任せられるのだ」
いまの王国軍に第三軍を任せられる人間は、少なくともトティラが知る限りバクシー以外にいない。
バクシーは穏やかに微笑んで見せて頷いた。
「そうと決まれば、早速スケジュールを調整しなければなりませんね。護衛の選定も必要でしょう」
「護衛だと? そんなもの必要なかろう」
「いいえ。閣下は第三軍の柱です。ラキオスとの開戦近しと目される現情勢下で、閣下の身に何かあっては困ります」
正論を口ずさむバクシーに、トティラは憮然とした態度ながら苦笑した。
「そうだな。お前の言う通りにしよう」
後にバーンライと王国の猛将スア・トティラは、この時の判断を後悔することになる。
そしてその“後”とは、存外早く訪れるのだった。
◇
――聖ヨト暦三三〇年、ソネスの月、青、ひとつの日、昼。
「ご、護衛を務めるオディール・緑スピリットです」
「…………」
トティラは思わず顎がはずれるかと思った。
それくらいの驚愕が、彼の背骨を突き抜けていた。
やや緊張気味のオディールの背後で、バクシーがニヤニヤと笑っている。
「この際なので、スピリット嫌いのその性格を直してきてください」
「バクシィィ――――――!!」
六二歳の猛将の、天を貫く絶叫が轟いた。
永遠のアセリア
-The Spirit of Eternity Sword Another Story “Twin Edge of Protection”-
第一・五章「開戦前夜」
Episode37「猛将の休日」
――聖ヨト暦三三〇年、ソネスの月、青、ひとつの日、昼。
ガタガタと揺れる馬車の荷車の座上で、六二歳の猛将は十歳も老けたようにやつれ、肩を落としていた。
顔は青ざめ、土気色に染まっている。
――なぜだ……?
「あの、トティラ様? 大丈夫ですか?」
対面に座るオディールは、いつになく生気を感じられない老将が乗り物酔いになってしまったかと、憂いの表情で彼を気遣っている。
しかしトティラ将軍は、そんなオディールの気遣いにも反応出来ないでいた。
――なぜ、この儂がスピリットなんぞとともに旅をせねばならんのだ……。
妖精差別主義者のトティラ将軍だった。
スピリットと同じ空気を吸っているのも嫌なのに、こんな狭い場所に閉じ込められて二人きり。嫌悪という感情はすでに通り過ぎ、いま覚えるのは怒りという感情のみだ。
しかしその怒りを、目の前のスピリットにぶつけるわけにはいかない。
自分は第三軍の司令官で、彼女はいまや第三軍の貴重な戦力だった。一時の感情に身を任せて暴言を吐いて、彼女の心を傷つけて戦力ダウンという事態だけは避けなければならない。
かといって、このまま苛立ちに揺れる怒りの感情を抑え続けているのはあまりにも不健康だ。軽い鬱すら覚えてしまう。
「も、もう限界だ! お、降ろせ。儂はサモドアまで歩いていく!」
鬱屈した苛立ちがとうとう限界を迎えたか、トティラが叫んだ。
馬の手綱を握る御者の者、そして身の回りの世話をするために随行する兵が、老将をなんとか宥めるべく負けじと声を張り上げる。
「か、閣下、何を言っているのですか!?」
「おやめください、閣下!」
「ご乱心! 閣下がご乱心!」
馬車が揺れた。
道路事情とは関係なく、揺れた。
「ええい! 離せっ、離さぬか!」
「スピリット、お前も閣下を止めないか!」
「あ、は、はい。閣下、失礼します」
御者の兵に言われて、慌ててオディールがトティラを押さえようとその二の腕に手をかけた。この時、彼女の頭の中から、目の前の猛将が妖精差別主義者だという事実はすっかり抜け落ちていた。
「む、むぅぅおおおおお――――――!!」
トティラ将軍が悶えた。
べつにスピリットの怪力に腕を押さえられた痛みに苦悶しているわけではない。
オディールが二の腕に触れた途端、この上ない嫌悪感が首筋を、ぞくり、と這い上がり、思わず呻いてしまったのだ。
「あ……」
まるで駄々っ子のように「離せ、離せ」と連呼するトティラの様子に、オディールが声を上げた。
奇妙に頬が朱に染まっているのは、はたして兵の見間違いだったか。
――こんなことを言うのは男性にとって失礼かもしれないけど……いまの閣下、なんだか可愛い。
オディールはどこか楽しそうな様子で、ぎゅっ、と二の腕を押さえる力を強めた。
たわわな双球を押し付けるようにして、暴れる猛将を抱き締める。
「…………う」
猛将が白目を剥いた。
そのまま、バタリと、仰向けに倒れる。
背中を向けずに倒れたのは軍人としての意地か。
トティラ将軍は、それっきり動かなくなってしまった。
◇
トティラ将軍が気を失っている間に、ここで一度バーンライトという国と、その軍隊について整理しておこう。
すでにEPISODE:11でも同様の紹介をしているが、確認のため、また新たな情報もお伝えするため、読者諸兄にはほんの少しお付き合い願いたい。
バーンライトを含む北方の五国は、もともと聖ヨト王国の領土だった。それが聖ヨト暦二五〇年代に起こった四王子の王位継承争いによって国力が衰退、分裂し、バーンライトは現在の国土を抱えて独立したのである。
主要産業はサモドア、ラジードの両山脈から産出される鉱物資源を取り扱ったもの。ただし、バーンライトは全般的にエーテル技術が未熟なため、折角の鉱物も自力では加工出来ず、もっぱら輸出するに留まっている。
バーンライトがラキオスを敵視する背景には、敵国の高度に発達したエーテル技術を奪う目論見がある。
その王国を守る軍隊は、三個軍からなる。バーンライト王国の場合、通常一個軍はスピリット二個大隊を基幹戦力に、人間の将兵数百名で編成される。この二個大隊にはダーツィからの外人部隊も含まれている。また、王都サモドアに拠点を置く第一軍は、通常のスピリット大隊とは別に、山岳大隊を一個抱えている。各軍の拠点と主要な戦力は以下の通り。
第一軍
拠点:王都サモドア
基幹戦力:スピリット大隊二個、山岳大隊一個(スピリット:約四〇体)
人間兵士定数:七〇〇人
第二軍
拠点:リモドア
基幹戦力:スピリット大隊二個(スピリット:約三〇体)
人間兵士定数:二〇〇人
第三軍:リーザリオ
拠点:リモドア
基幹戦力:スピリット大隊二個(スピリット:約三〇体)
人間兵士定数:四五〇人
但し、これらの数字は聖ヨト暦三三〇年開始時点でのもので、新型エーテル変換装置奪取作戦や、魔龍討伐作戦の失敗により、特に第三軍はその戦力を大きく損なっていた。
かつては三〇体以上のスピリットを抱えていた大所帯は、いまや保有戦力一九体にまで痩せ細り、その中でもまともに戦闘が可能なのは一三体しかいない有り様だ。
トティラ将軍のサモドア帰還は、そんな状況を少しでも是正するために必要なものだった。
◇
――同日、昼。
バーンライト王国の王都サモドアは、同市と同じ名前のサモドア山脈を背負う形で、山脈のふもとに築かれた城砦都市だった。
もともとは聖ヨト王国の領土だった時代に、山脈で採れた鉄鉱石などの集積地として整備されたのを起源とし、現場監督を務めた貴族や、鉱山で働く人夫達が、現在のサモドア住人の祖になったとされている。
バーンライト王国の英雄スア・トティラを生んだゴート家は、サモドアが聖ヨト王国の領土になる以前より同地に根を張り続ける、いわゆる名家だった。
もとは現在のサモドアの半分ほどの領地を有した地方豪族で、あの偉大なる聖ヨト王が遠征を開始してからは、その圧倒的な軍事力を前に恭順の意を示し、臣下に降ったという。
現在のバーンライト領が聖ヨト王国のものになると、以降は数多くの政治家を輩出し、トティラ将軍はその次男坊、当代の当主は彼の長兄が務めていた。
名門ゴート家の次男として生まれ、政治家ではなく軍人の道を選んだトティラ将軍の邸宅は、長兄達が暮らしている本家の屋敷に比べるとだいぶ小ぶりで小柄だった。
英雄と呼ばれているトティラだったが、その俸給は軍が規定している薄給だ。軍人の給金では大きな屋敷など望むべくもない。
トティラ将軍の自宅は七、八メートルはあろう小高い崖を背負う形で高台に建つ、二階建ての洋館だった。六二歳の老将とその妻が二人で暮らす分には十分大きな屋敷だが、子ども達も一緒に暮らしているとなると窮屈な印象は否めない。
既婚者の長兄夫婦と三人の孫こそ別居していたが、闘将が不在の間は、五人の子どもと、彼の愛する妻が留守を預かっているはずだった。
「妻のサラとは、鉄の山戦争の時に出会ったのだ」
庭で作業していた家政婦に帰宅を告げ、門の前で待たされること三分、トティラ将軍は家族について訊ねるオディールに答えた。
「占領下に置かれたリーザリオ奪回戦の折りに、儂は過労から肋膜炎にかかってしまったのだ。その時、儂を看病してくれたのが衛生兵のサラだった。
気の強い女だった。儂が何度大丈夫だと言っても許さずに、あれは儂をベッドに縛り付けおった。儂もあの頃は若く、血に逸っていた。少しでも多くの武勲を挙げたかったのだ。儂は何度も脱走を繰り返し、戦場に立とうとした。そしてその度に、あれは儂をベッドの中に連れ戻そうとした。脱走の回数が十度を数えた頃、儂の方が折れた。妻はスア・トティラの岩の壁を破った、唯一の女だ」
「……素敵ですね」
王国民であれば誰もが知っている英雄のエピソード。他ならぬトティラ自身の口から聞かされたオディールは、素直な気持ちで呟いた。
スピリットとはいえ、オディールとて女の身だ。誰もが羨むような恋愛をしてみたいという気持ちはある。
ゴート邸の戸が開いた。
玄関の方から、若い男が駆け寄ってくる。齢は二十歳前後か。トティラにとっては馴染みの、オディールにとっては初見の顔だった。トティラ将軍の四男坊ファルコだ。
「父上!」
ファルコは父の顔を見るなり嬉しそうな表情を浮かべて駆け寄ってきた。装いはバーンライト王国軍の制服で、彼もまた父親同様軍人の身であることが窺える。
オディールは思わず隣に立つ老将と近付いてくる若者の顔を見比べた。
岩石をそのまま削ったかのような相貌のトティラ将軍とは対照的に、息子のファルコは舞台役者のような甘いマスクをたたえていた。まだ少しあどけなさを残す人懐っこい微笑みを見ていると、意図せずして頬が火照るのを覚えてしまう。
「子ども達はみな母親似なのだ」
オディールの視線が意図するところを悟った将軍は、憮然として呟いた。
「親としては健やかに育ってくれさえすればそれで良い。しかし、父親としては、息子が自分に似ないというのは少し悔しくもある」
将軍の呟きにオディールは、今度は「はぁ……」と、曖昧に頷いた。
子の生めない身のスピリットの少女には、長男の妻も含めれば七人の子どもを持つ父親の気持ちは上手く理解出来ない。
トティラ将軍もそれに気付いたか、彼はそれっきりオディールに関心を向けるのを止めて、近寄ってくるファルコを見た。自邸の敷地を踏み、駆け寄ってきた息子を両手を広げて迎える。
「お帰りなさいませ、父上!」
「ただいま、ファルコ。息災なようでなによりだ」
「父上も、お変わりないようで」
父と子は、しばし再会の抱擁を交わした。
会えなかった時間を埋めるように、硬く、強く。
「手紙を読んだぞ。昇進したそうだな。手紙にも書いたが、昇進おめでとう」
「ありがとうございます」
「儂も昔経験したが、山岳大隊の勤務は辛いぞ?」
「望むところですよ」
「うむ。それでこそ儂の息子だ」
久しぶりに会った息子の頼もしい返事に、トティラは顔を綻ばせる。
彼はファルコとの抱擁を解くと、玄関の方に目線をやった。
親子の再会の邪魔をせぬようにとの配慮から、ひっそりとたたずむ貴婦人の姿があった。将軍と同世代と思われる年配の女性だ。頭には白髪が混じり、顔には積み重ねた歳月と苦労の分だけ、深い年輪が刻まれていた。しかし老将の顔を見て浮かべた柔和な微笑みはコデマリの花のように優雅で、その美貌と気品は若い頃と比べてもいささかの衰えも見られなかった。
「サラ……」
トティラ将軍は万感の想いを言葉に載せて、彼女の名前を呼んだ。
長年連れ添ってきた猛将の妻は、彼が戦地から帰還する際にはいつもその柔和な笑みで出迎えてくれた。彼女の笑顔は、父親不在のトティラ家をいつも支えてくれた。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ。ただいま帰った」
二人は短く言葉を交わして、互いに見つめ合った。
互いに交わした言葉は少なく、またファルコの時のような抱擁もない。
しかし長年連れ添ってきた二人には、たったそれだけのやりとりで十分だった。
短く言葉を交わしただけで、二人は百万の言葉を費やしてなお味わえないであろう再会の喜びを感じることが出来た。
「今回は何日滞在していられるのですか?」
「一週間を予定しておる」
「孫達にも会ってやってくださいな。みんな、あなたが帰ってくると知って会いたがっています」
「うむ。そうしよう。……その前に、まずは陛下に挨拶をせねばなるまいが」
今回のサモドア帰還の主目的たる国王への謁見は、今日の午後を予定している。
バクシーの弁によれば、自宅の方に迎えを寄越してくれるとのことだが、時計の小型化に成功していない有限世界でのこと、王城からの遣いがいつやって来るか、正確な時間は誰にも分からない。
「……しばらくは、足腰をいたわるとするか」
いつやって来るか分からない来客の予定を待つより、いまは家族との団欒を楽しむ方が先決だ。
「サラ」
「お仕事前のお酒は駄目ですよ?」
「分かっている。茶の用意を頼む。儂と、お前達と……」
トティラ将軍はいまだ門のところで控えているオディールを振り返った。
なんのかんのといって、道中彼女には迷惑をかけてしまっている。同席はさすがに抵抗があるものの、茶を振る舞うくらいはしてやっても良いだろう。
「あれの分を」
◇
――同日、昼。
バーンライト王国王都サモドアの王城は、敵国ラキオスの王城と瓜二つの外観、構造をしている。これは両宮殿を設計したデザイナーが同一人物だからで、聖ヨト王国時代、二つの王国が一つの国家だった事実を示す歴史的証拠ともいえる。
王城からの迎えに連れられて馬車に揺れること約十分、トティラ将軍と護衛のオディールは国王の待つ王宮へと招かれた。無論、謁見の間に入ることを許されたのは王国の英雄たるトティラ一人で、スピリットのオディールは外で待つように命じられた。
謁見の間に通されたトティラ将軍は、しばしの間下座にて国王の到着を待った。
サモドア王城の謁見の間は、造りこそラキオス城のそれとまったく同一だが、内装については一段劣っているといわざるをえない。両国の経済力の差が、王室の予算にも如実に表れている。
「国王陛下のおでまし」
どこからか声がかかった。
見れば奥の方から、近衛兵四名を従えて三十代前半と思わしき男性と、それよりだいぶ年上の女性が、謁見の間に並んで入ってきた。
二人とも、よく見知った顔だ。バーンライトの現王アイデス・ギィ・バーンライト国王と、その正妻のラフォス王妃だった。
ラキオス王国同様王政を敷いているバーンライトの王室は、その起源をラキオス王室と同じくする。すなわち、偉大なる聖ヨト王の血を引く家系であり、バーンライト王室の祖は聖ヨト王の実兄だったとされる。
それが何代か後になって南方の異民族の血を取り入れるようになり、聖ヨト王室の中枢から遠ざけられるようになった。神聖なる聖ヨトの血筋に異民族の血を入れるとは何事かという頑迷固陋な老人達に追いやられ、一族はサモドアの地に島流し同然に飛ばされて、そこの統治を委任されるようになった。
聖ヨト正統の血を引くラキオスの王族が、常に王国政治の中枢にあったのとは対照的である。
もともと、バーンライトの名は、南方を治める有力豪族の家名だった。
現王のアイデス王は南方異民族の血を色濃く受け継いでいるらしく、浅黒い肌と人懐っこい瞳が特徴的な人物だった。容姿端麗というわけでもなく、中肉中背のいたって普通の男だが、どこか憎めない存在感を放っている。先王から受け継いだ金糸の刺繍も見事なローブが、妙に似合っていた。
アイデス王とは対照的に、自身の容姿に優れ、真紅のドレスで着飾ることでその美貌をいっそう際立たせているのがラフォス王妃だった。アイデス王よりも十歳以上年上で、すでに五十代も半ばにあるというのに、年月をかけて熟成された女の色香は国王本人さえも圧倒する存在感を発揮している。睫毛も長い涼しげな眼差しに見つめられれば、並の男であればそれだけで相好を崩したことだろう。
ちなみに、トティラとラフォスは互いに昔からよく知る幼馴染の関係にあった。ゴート家とラフォス王妃の生家は、社会的立場においても、また家の地理的な位置においても近く、幼い頃、二人は兄妹のように遊んだものだった。
――ラフォスはあの頃から美しい娘だったが……。
国王夫人を見つめるトティラ将軍の眼差しには、昔を懐かしむ感情は一切なく、むしろ険すら滲んでいた。
ラフォス王妃と情報部長官との不義の噂が一般の国民にまで広く膾炙されるようになって、すでに五年が経っている。
先の新型エーテル変換装置奪取作戦も、魔龍討伐作戦も、もともとは情報部が練ったプランを、ラフォス王妃が国王をそそのかしてゴー・サインを出させた。
トティラの第三軍が現在窮地に陥っているのも、もとを正せば情報部と、それに通じているラフォス王妃に責を見出すことが出来る。
幼馴染に向ける視線がきつくなるのも無理なきことだった。
アイデス王は将軍が内に抱えるそんな負の感情を知ってか知らずか、幼子のように邪気のない笑みをトティラに向けた。
「トティラ将軍!」
「閣下……壮健のようですな」
時分の顔を見て表情を輝かせたアイデス王に、トティラ将軍もまた優しい微笑を浮かべた。
先代の国王であり、自身の三男の名前にもしたアタナリック王の代から王家に仕えるトティラ将軍にとって、目の前の男はバクシー同様息子のような存在だった。顔を合わせれば自然と笑みがこぼれ、言葉を交わせば、五体に活力が漲ってくる。
「将軍も息災のようで何よりだ。バクシーは元気にしているか?」
「はい。憎らしいくらいに五体壮健にございます」
「ははは。そうか。憎らしいくらいにか。トティラも歳を取ったものだな」
「そのお言葉には頷きかねますな」
喉を鳴らして笑うアイデス王に、トティラは憮然と呟いた。
「このトティラ・ゴート、鉄の山戦争で武勇を振るったあの日から、いささかも衰えてはおりませぬぞ?」
「陛下、そろそろ本題に入ってはいかがですか?」
トティラの言葉に続けようとしたアイデス王を遮って、ラフォスが言った。
彼女は幼馴染の将軍を、厳しい眼差しで睨みつける。
「将軍も、陛下はお忙しい公務の合間を縫って貴重な時間を割いているのです。不要なお喋りに費やす暇は……」
「失礼いたしました、王妃様」
ラフォス王妃に最後まで言わせることなく、トティラ将軍は謝意を示した。
トティラの兵を死地に追いやる原因となった憎い女だが、言っていることは正論だ。いまはプライベートな話をする時間でも、またここはしてよい場所でもない。
それに、これ以上ラフォスの声を聞いていたくなかった。
トティラの幼馴染は昔からきんきんと口やかましく、猛将はそんな彼女を煩わしく思っていた。
「王妃様のおっしゃる通り、本題に入りましょう」
トティラは表情を引き締めて上座のアイデス王を見上げた。
アイデスは委細すべて承知しているとばかりに頷いた。
「まずは陛下に謝罪せねばなりません。先の戦では得るものなく、陛下からお預かりした貴重な戦力を無駄に消耗するだけの結果に終わってしまいました」
「まったくですわね」
下座にて平伏するトティラに、ラフォス王妃は冷たい眼差しを向けた。
貴重な時間を無駄話に費やすなどとんでもないと言っておきながら、自ら無駄話をしようとしている。
「王国の英雄スア・トティラともあろうものがなんたる体たらくでしょう」
「面目次第もございませぬ」
「ラフォス、言いすぎであろう。それに、過ぎたことをとやかく言っても詮無きことだ。……第三軍が直面している現状についての報告は、余の耳にも届いている。だいぶ苦労しているようだな」
アイデス王は幼少の頃から顔見知りの老将をいたわった。
「特に、スピリットの補充に苦労しているとか」
「はい。武器は失えば買うか作るかすればよい。しかし、人材についてはそうはゆきませぬ」
「ふむ。戦のことはよく分からぬが、そういうものなのか」
前代のアタナリック王と違い、アイデス王は実戦を知らない男だった。
一応、一通りの軍事教練を受けてはいるものの、それらはほとんど身に着いておらず、武人としての才覚は無きに等しい。軍政よりも民政に長け、民政よりも芸術に深い関心を寄せていた。
アイデス王の呟きに、トティラ将軍は「左様にございます」と首肯した。
一人前の兵士を育て上げるには、それなりのコストと時間を要する。
別の部隊から人材を引き抜くにしても、その手続きには多くの手間がかかる。
特に後者の手続きを簡素化するために、トティラはアイデス王に懇願した。
「何も一個大隊を寄越せと申しているわけではありません。二個小隊で結構。ですが、早急な戦力回復のために、陛下には第二軍司令に宛てて一筆したためていただきたい」
もともとリモドアに司令部を置く第二軍には、王都第一軍や最前線第三軍に何かあった時のための予備兵力としての意味合いが強い。先の魔龍討伐作戦で失った戦力を第二軍から補充しようと考えるのは当然の帰結だった。
ちなみに、トティラの本音としては、出来ることならば第二軍の全戦力が欲しかった。手負いとはいえダーツィ最強の青スピリットを抱えている第三軍と、第二軍を合体すれば、仮に開戦に至ったとしても敵軍の侵攻をかなり防ぐことが出来るとトティラは考えていた。
「第三軍の危機はわが国の危機か。うむ。将軍の言う通り第二軍の司令には、早速そのように手紙を書くとしよう」
「お待ちください陛下」
トティラの願いに快く頷いたアイデス王に、ラフォス王妃が言った。
情報部長官との不義が噂される幼馴染は現王と違って軍事にもある程度精通している。
「私は将軍の意見に反対です。第二軍は王都に何かあった時のための予備戦力。それをいたずらに分散するのは賛成しかねますが」
「……失礼ながら王妃様は予備は積極的目的のために使えという戦場の原則をご存知ないようですな」
トティラ将軍は呆れたように溜め息をついた。軍事に精通しているといっても所詮は戦場にその身を置いたことのない王族、程度は女の浅知恵止まりということか。
「予備の兵力にどのような役割を与え、どのタイミングで投入し、どの方面に進出させるか。この貴重な戦力を、いま以上に動かすべき機がありましょうか?」
ラフォスの言う“何か”が起こってからでは、予備の戦力を動かしてももう遅い。“何か”の予兆を敏感に察知し、有効な運用が出来なければ、予備の意味がない。
そしてトティラはいま、様々な情報からラキオスとの開戦が近いことを予感していた。
ラキオスとの戦端を開いてから部隊を動かしても、すべて手遅れなのだ。
「それに……」と、トティラ将軍は付け加える。
「懸念事項が一つあります」
「懸念事項?」
「はい。……報告書に記載した、守護の双刃なるエトランジェについて」
先の魔龍討伐作戦はもともと成功の公算が低い戦いだったが、それでも、特殊作戦部隊はエルスサーオを突破するだけの戦力を有していた。それがリクディウス山脈までたどり着けなかったのは、たった一人、その男の存在を知らなかったことに起因する。
「現地で実際に戦ったオディール・緑スピリットの報告によれば、この男は第七位に相当する細身の神剣を二振携え、自身の武勇に優れると同時に部隊の統率力にも長けるといいます。旧時代の遺産とでもいうべき落とし穴や弓矢のトラップなどを仕掛けたのもこの男でしょう。この男の率いた部隊は、わずか一個小隊で二個大隊を撃退したのです。……八対一という戦力差を撥ね退けて」
かつての鉄の山戦争で、トティラは三倍の敵に対して一歩も引くことなくこれを撃退した。しかし件の守護の双刃とやらは、さらにその二倍以上の戦力差の中で勝利を収めた。
「私が恐れるのはこの男が再び大隊規模の部隊を率い、龍を討ったという〈求め〉のエトランジェとともに攻め込んでくることです」
一個小隊を指揮して、二個大隊を撃退してみせた闘将、守護の双刃のリュウヤ。八対一の戦力差を撥ね退けたこの男が、もし一個大隊の指揮権を得たとしたら……今度は二個軍を投入しても、勝てないかもしれない。
「私が実際に会ったわけではないのでこれは推測になりますが、スピリットどもの話から判断するに、守護の双刃は守勢の将ではなく、攻撃でこそ真価を発揮する将のよう。仮に第三軍が十全の状態だとしても、苦戦は必至でしょう。まして現状戦力の低下している第三軍では……」
「トティラ将軍にそこまで言わせるほどの男なのか、その守護の双刃とやらは?」
「スピリットどもの報告から判断するに」
アイデス王の重い呟きに、トティラ将軍はゆっくりと頷いた。
戦乱の時代に生まれた芸術王は、しばしの沈黙を挟んだ後、ひとつ頷いて、おもむろに口を開いた。
「……ラフォスよ、余はやはり命令書を書こうと思う。異論はないな?」
「陛下がよく考えた末に下した結論なら」
ラフォス王妃はしぶしぶといった様子で頷いた。
それを見てトティラ将軍は恭しく頭を垂れた。
◇
サモドアにやって来た最大の目的を達成したトティラは、その後、アイデス王に呼ばれ彼の執務室を訪ねていた。
代々の国王が不自由なく政務に専念出来るよう設けられたその部屋は王城の高所に位置し、バルコニーからは城下を一望することが出来る。このバルコニーからの風景をスケッチすることが、アイデス王の日課だった。
バルコニーにテーブルとティーセットを並べた二人は、対面に座ると朗らかに微笑み合った。
「将軍とこうして二人きりで会うのは一年半ぶりだな」
「左様にございますな。陛下の方はお変わりなく、このトティラ、安心いたしましたぞ」
最後に会った時と変わらぬ壮健な様子を見て、トティラ将軍は莞爾と微笑んだ。
王政国家バーンライトでは軍の最高指揮官は国王になる。一五歳の若さで王国軍の下士官に就いたアイデスを鍛えたのが、トティラ将軍だった。
そうした過去の経緯もあって、国王に対する将軍の忠義は誰よりも厚い。
「余が変わらないでいられるのは将軍のおかげだ。将軍達第三軍がこの国を守っているおかげで、変わらず絵を描くことが出来ている」
アイデス王は白磁の器に手ずから茶を注ぎ、忠臣の前に差し出した。
琥珀色の水面からは湯気がのぼっている。トティラ将軍は鼻で香りを堪能した。
「……懐かしゅうございますな。第三軍の勤務をしていていちばん不自由なのはサモドアの味を楽しめないことでした。リーザリオは、肉は美味いが茶もコーヒーも、酒も不味い。補給科の連中に言って取り寄せようとはしているのですが、なかなか前線近くの基地にまでは回ってこない」
「嘘を申せ」
アイデス王はニヤリと笑った。
「基地にまで、ではなく、自分にまで、であろう? そなたが酒などの嗜好品が送られてきても、部下や兵達に優先的に回していることは知っているぞ。結果、第三軍司令が飲める酒量は微々たるものになる」
「嗜好品は明日を生きる力ですからな。儂が一日休肝日を作ることで兵達の士気が上がるのでしたら是非もありません」
「そうか……そなたは相変わらずだな」
アイデス王はティーカップを舐めた。
そうしてから一旦言葉を区切ると、彼は真剣な口調で「トティラ将軍……」と、猛将に切り出した。
「立場などは気にせず、正直に答えてほしい。バーンライトとラキオスは、開戦すると思うか?」
「……おそらく、開戦は避けられないかと思われます」
トティラ将軍は、しばしの沈黙を挟んだ後、静かに呟いた。
アイデス王は「そうか」と、溜め息をつくと、ティーカップを置いて、難しい顔で手を組んだ。
「では、わが国はラキオスに勝てるか?」
アイデス王は上目遣いにトティラの目を見つめた。
その眼差しを正面から受け止めて、老将は目の前の国王が忍び寄る戦争の気配に怯えていることに気が付いた。そしてその戦争を切り抜けるために、三〇年前の鉄の山戦争で勇名を馳せた男の正直な気持ちを欲していることにも気が付いた。
「……正直に申し上げて、勝率は三割に満たない、といったところでしょうな」
トティラ将軍は、またしばしの沈黙を挟んでから言った。
「経済力で劣り、技術力で劣り、魔龍討伐に成功したことで、マナの量でも劣るようになりました。なにより、ラキオスには戦力として数えられるエトランジェが二人もおります。もはやかの国のわが国とでは、勝てる要素を探す方が難しいでしょう」
「そうか……そして、負ける公算の方が高いか」
「残念ながら。……かといって、外交政策による戦争回避は不可能でしょう。ラキオスには風見鶏のダグラス・スカイホークを初め、レスティーナ国防大臣など優秀な政治家が揃っています。わが国にこれと対抗出来る政治家はおりませぬ」
「そうか。人材でも負けているのか、わが国は」
「おそらくは」
アイデス王は呟いて、席を立った。
バルコニーに備え付けられた手すりに両手を付き、白亜の街並みを見下ろす。
トティラ将軍もその方を見た。
鉱山資源の集積地として始まったサモドアは区画整備が進んでおり、石造りの建物が整然と並んでいた。昼を少しすぎたばかりの時間帯、城下には人が溢れ、時折、市民達の甲高い声が聞こえてきた。
「……勝つにせよ、負けるにせよ、余は王として、彼らの暮らしを守らねばならぬ」
アイデス王は自分達バーンライト王家に四十年近く仕える忠臣に振り向いた。
「戦争に負ければスア・トティラの名声は地に落ち、民からは王国を敗北に導いた愚将と蔑まれることになるだろう。……それでも、手伝ってくれるか? 余のために。民のために」
軍人はなによりも面子を大切にする生き物だ。どだい勝ち目の薄い戦争に赴き、敗北したとなればトティラの軍人としてのプライドはズタズタに引き裂かれるだろう。
アイデス王の懸念は、当然といえば当然のことだった。
「愚問にございます」
しかし国王の問いに対し、トティラ将軍は毅然とした態度で言い放った。
「民を想う陛下のお気持ちは、私自身共通に抱いているものです。それに、私はかつて誓いました。王族への絶対の忠誠を」
トティラ将軍はそう言って、いかつい顔に穏やかな笑みを作った。
サモドアの城下を眺めながら、遠い記憶を掘り起こす。
猛将スア・トティラの名前を世間に知らしめた、あの鉄の山戦争の記憶だ。
聖ヨト暦二九九年、シーレの月、黒、みっつの日。ラキオス軍の突然の越境によって始まった鉄の山戦争は、翌三〇〇年エハの月、青、ひとつの日に、両国間で停戦条約が結ばれたことで一応の終結を迎えた。
この当時、三一歳のトティラ・ゴートは自分の指揮する軍団とともに戦場にあった。奇襲攻撃により陥落したリーザリオを奪回した彼は、戦時特別措置により一軍の将に大抜擢され、逆にエルスサーオの方面軍を制圧し、王都ラキオスに肉迫していた。
停戦条約が結ばれたのは、トティラが王都への侵攻準備を進めるまさにその最中の出来事であり、この話を耳にしたトティラは憤慨した。停戦条約の中に、トティラ達が苦労して陥落させたエルスサーオの統治権をラキオスに返還する条項が設けられていたからだ。
――中央の政治家どもは何を考えているのだ!
長年の敵対国をここまで追い詰めながら、それ以上の戦いを禁じられてしまった。のみならず、文字通り血を流して手に入れた領土まで手放せという。
条約締結直後のトティラの怒りは天を貫かんばかりだった。
実はこのとき、バーンライトはすでに攻勢限界点を迎えつつあった。
バーンライト側の予想外の反撃を受けたラキオスはエルスサーオ方面軍で時間を稼ぐと同時に、ラセリオ、ラースに分散配置していた戦力を王都に集め、一大決戦を挑むつもりで待ち構えていたのだ。
一方のバーンライト側はリーザリオ奪回戦、エルスサーオ制圧戦と立て続けに大きな戦闘を行い、将兵妖精の練度はともかく、第二軍、第三軍ともに兵力を大きく消耗していた。また、奪回したリーザリオ、制圧したエルスサーオでは、焦土作戦もやむなしという判断を下したラキオス軍の手によって、物資の大半を焼かれてしまった。トティラの軍は食糧の補給もままならぬまま、侵攻の準備を続けていたのである。
このまま王都侵攻作戦を実施すればどちらに軍配が上がるか、冷静に客観視すれば誰の目にも明らかだった。
『エルスサーオに駐屯する侵攻軍はただちに撤兵せよ』
かくして王国政府は現地のトティラ将軍に命令を下す。
しかしトティラ将軍は、中央政府より届いた命令書を破り捨てた。
「あと少しで長年の宿敵を屈服させられるのだ! 総員、侵攻の準備は遅滞なく進めよ」
トティラ将軍はエルスサーオを占領したすべての将兵に向かって言い放った。彼は中央からの指令を反故したのである。
いまでこそスア・トティラの異名を持つトティラだが、当時の彼は若く、血気盛んで、勲功を上げることに執念を燃やしていた。彼は若い将校にありがちな、兵站戦術の認識欠如の愚を犯していた。
そんなトティラの行動を止めるべく前線に赴いたのが、当時のバーンライト国王アタナリック・ギィ・バーンライトだった。
功を焦る若い将校の暴走を諫めるために国王自らが前線に赴く。バーンライト王国史上初めての出来事に、トティラは戸惑った。
アタナリック王はトティラの肩を叩いて、彼を諭した。
「ここで貴官が攻撃に踏み切ればたしかに長年の大敵を倒せるかもしれない。しかし、そうなった場合、わが国は今後数百年、条約破りのならず者国家として、各国から後ろ指を指されることになるだろう。大陸に存在するどの国家からも信用されず、一国の力のみで道を切り開いていかねばならぬようになる。そしてそれだけの力を……残念ながら、いまのわが国は持ちえていない。貴官の行動はわが国を奈落の底へと引きずり込む愚行である。貴官にはわが国に住む九万の未来を背負う覚悟があるか? 今後悪人のレッテルを貼られることになるであろう、ここにいる将兵らの未来を背負う覚悟があるか?」
「ならば陛下、あなたには我ら前線将兵の怒りを背負う覚悟がおありか? 血を流し、汗を流し、涙を流し、戦友の屍を踏み越えて、ようやく手にしたこの場所から撤兵しなければならない兵達の憤りを背負う覚悟が!?」
「ある」
後に王国最高の英雄と詠われることになるトティラ将軍と、王国史上最高の名君と呼ばれたアタナリック王の会談は、侵攻軍の主な将兵達の目の前で公然と行われた。
この時、アタナリック王は、トティラ将軍の問いに対する回答として、懐から一振の短剣を取り出した。
「その怒りの捌け口として、わが身を使うがよい。その短剣を以って最初に貴官がわが身を刺せ。そしてこの場にいる将兵全員にその短剣を順番に持たせよ。この場にいる将兵全員で我が身を串刺しにし、野に晒せ。そうすれば貴官らの溜飲も少しは下がるだろう」
アタナリック王の力強い発言を受けた将兵らは激しく動揺した。
王の発言と行動が、本当に命を張る覚悟を固めた上でのものなのか、ただのパフォーマンスにすぎないのか、判断に迷ったためだ。
トティラ将軍も判断に窮した一人で、彼は熟慮の末、短剣を取った。
そして、国王の頬目掛けて突き出した。
――陛下の覚悟が本物であれば、短剣の刃は血と肉をすするはず。
逆にアタナリックの覚悟が中途半端なものであれば、彼は公人としての恥も外聞も投げ捨てて、短剣による突きを避けようとするだろう。
はたして、トティラが突き出した刃は、アタナリックの左頬を抉った。それも深く。頬の丘を滑る一筋の赤い滴りが、顎のラインを伝って零れ落ちる。
アタナリックは、トティラの攻撃を避けなかった。避けないことで、自らの決意と覚悟を将兵らに見せつけた。
国王は自分の命を賭けてこの国を、この国に住む八万の民の未来を守ろうとしている。そしてなにより、血気はやる自分達の未来を守ろうとしてくれている。
たとえ百万の言語を費やしたとしても伝わりにくいそのことを、国王は無言のうちに、雄弁に語っていた。
アタナリック王は頬を流れる血を拭いもせず、じっ、とトティラの顔を見つめ続けた。
やがて、トティラ将軍は短剣を放り捨てた。
そして、血を流す王の前に跪いた。いやトティラだけでない。それまで会談の成り行きを見守っていた将兵達もまた、一人残らず国王に向かって平伏していた。
「陛下のお心とお言葉、このトティラの胸をたしかに叩きましたぞ」
トティラ将軍の言葉は、その場にいる将兵全員の胸中を代弁するものだった。
かくして、侵攻軍の暴走は大きな問題に発展する前に止められた。
自分達の都合で軍を動かそうとした……すなわち、軍隊を私物化しようとしたトティラ達には当然、厳罰が待っていた。しかし課せられた処罰を、彼らは淡々と受け入れた。
罰を受け入れることで軍を私物化しようとした者達の末路を見せつけ、王室の権威を守ったのだ。
すでにこの時、トティラを始め、鉄の山戦争の英雄達は国王への絶対の忠誠を誓っていた。トティラ達は自ら前線に赴いたアタナリックの姿に、理想の王を見出したのである。
そしてその忠誠はアタナリックの死後、当代のアイデス王の治世に移っても、なんら風化することなく、トティラ達を動かす原動力となっていた。
亡き国王が遺した一粒種……アイデスのために。そして、彼が愛した王国のために。
トティラ将軍は親子ほども歳の離れたアイデス王を振り返った。
両者の立つ位置の関係上、猛将の視線は自然と室内に飾られた肖像画に向く。国王専用の執務室には、歴代の王の肖像画が並べられており、その中にはトティラが忠誠を誓った、アタナリック王の顔もあった。
「戦いましょう。陛下のために。勝ちましょう。この国の民のために。そして挑みましょう。この国の未来を信じて」
左の頬に裂傷を残す先王の顔を流し目に、老将は年齢を感じさせぬ太い声で言い放った。
聞く者の心を安心させる言葉を受けて、アイデス王は静かに腰を折った。
「……ありがとう」
王が家臣に向けて頭を下げる。君主たる者のプライドを疑われかねない行動を取ったアイデス王に、しかしへりくだった様子はなく、むしろその態度は毅然としていた。
かつてのアタナリック王を思わせる堂々とした態度に、トティラ将軍は、「やはり血は争えぬな」と、ひとり苦笑した。
◇
――同日、夕方。
王城での用事を済ませたトティラ将軍達が帰宅すると、そこには猛将の家族が勢ぞろいしていた。妻のサラや四男のファルコは言うに及ばず、現在は別居している長男夫婦とその孫達まで顔を並べている。
驚くトティラに、ファルコはくすりと笑って、「みんな、父上が帰ってきたのを知って集まったんですよ」と、告げた。
その晩、ゴート家の食卓はちょっとした宴会の席となった。主賓は勿論トティラ・ゴート将軍で、パーティの目的は彼の帰還を祝うことにある。
食卓には将軍の好物が所狭しと並んでいた。
パンとカボチャのパイを筆頭に、シカ肉のステーキ、七面鳥の丸焼きなど、卓上は様々な料理によって埋め尽くされ、カチャカチャ、と食器の鳴る音がいつまでも絶えないでいる。
酒もたっぷり用意された。スタンダードな赤ワインの他に蒸留酒のボトルがいくつかと大壷を満たすマムシ酒が出てきた。マムシを一匹まるごとどぶろくに漬け込んだ酒で、強烈な味がする。それに強い。
第三軍の司令という立場もあって、普段はなかなか飲酒の機会に恵まれないトティラだったが、その実、彼は酒飲みで、酒好きだった。宴が始まって一時間が経つ頃には、ワインボトル二本とウィスキーのボトルをもう空にし、マムシ酒にも手を出している。
しかし、その態度はいたって平然としており、呂律が回っていないということもない。腹はちくちくし出したていたが、酔いは一向に回ってこなかった。生まれつきアルコールへの耐性が強いのだ。そしてその遺伝子は、彼の息子達にもしっかりと受け継がれていた。
ゴート家の男達はみな顔を真っ赤にさせながら談笑にふけった。
「このシカは今朝、山岳大隊のみなで狩ったものなんですよ」
シカのステーキを上手そうに頬張りながら、ファルコが言った。
こうした宴会の席で、無粋な仕事のことが話題に上るのは、ファンタズマゴリアの男達でも一緒だ。
「山岳大隊ではそんな猟師の真似事みたいなこともするのか?」
三男のアタナリックがファルコに訊ねた。バーンライトの先王と同じ名前のこの息子は、聖ヨト暦三〇七年に先王が逝去した翌日に生まれた。トティラはこれを先王の生まれ変わりだと信じ、アタナリックと名付けた。
今年で二三歳になるアタナリックは、第一軍の需品部隊に務めている。トティラの息子達は次男のウィリアムを除いてみな軍人だった。
そのウィリアムも、王国の軍政に携わる官僚の身であり、やっている仕事は五十歩百歩といったところだろう。
「山岳地帯での行軍では補給が滞りがちになる。ある程度、自分達で自給自足する術を身に付けておかねば、軍事的な作戦行動はおろか、通常の生活を送ることすらままならん」
アタナリックの疑問に答えたのはトティラ将軍だった。
ウィリアムが思い出したように言う。
「そういえば父上は昔山岳大隊に所属していたのでしたね」
「うむ。鉄の山戦争が起こる前のことだな」
トティラ将軍は懐かしそうに呟いた。王国軍ではサモドア、ラジード両山脈の戦略価値の重要さから、将軍職に就く者には山岳大隊での二年以上の勤務が義務づけられている。
「辛いことの方が多かったが、それでも、良い経験の日々だった。ファルコ、辛い経験は人生の宝、良い経験は人生のよき友だ。これからも精進せよ」
「……やれやれ、どうしてこう、殿方というのは、こんな祝いの席でも仕事のことを忘れられないのかしら?」
長姉のレフィーナが溜め息混じりに呟いた。
母親譲りの美貌の持ち主で、聡明な、気の強い女だった。トティラ将軍自慢の娘で、英雄の愛娘というブランドもあって、王国宮廷社会では密かに個人的交際を求めてくる貴族も少なくない。しかし、三十路手前の二八の身でいまだ独身を貫き通しているのは、サモドアより遠方の地に、密かな想い人がいるからに他ならなかった。
「ねぇ、お父様、そんなつまらない仕事のお話より、もっと他のことを話しません?」
「ほかのこと?」
「ええ。……たとえば、お父様がリーザリオに居らしたときの思い出話とか」
酒を飲んでいるせいだろうか、レフィーナの頬はやや赤い。
ワイングラスの赤い水面を揺らしながら訊ねてくる長女に、トティラ将軍は意味深に苦笑した。
「儂の思い出話でよいのか? バクシーのことではなく?」
愛娘の長姉が、第三軍の副将兼猛将の秘書官に、密かな恋心を抱いていることをトティラ将軍はかねてより察していた。
ストレートにバクシーのことを訊ねず、父の思い出話から想い人の近況を聞き出そうとするあたり、なんともいじらしい。
トティラ将軍はマムシ酒を舐めた。
「あれは相変わらずだ。色恋にかまけるようなこともなく、ひたすら仕事に没頭している」
「そ、そう……」
レフィーナは安堵と寂寥の混ざった複雑な溜め息をついた。
想い人の女性関係が潔白なことに安堵しつつも、仕事にばかり熱を注いでいるバクシーに寂しさを感じているらしい。複雑な女心だ。
「とはいえ、あまり安心はしていられないぞ?」
トティラは愛娘に諫言する。
「あれはいい男だ。平民の出ではあるが、それゆえに実力や人格は正統に評価される。貴族からも、庶民からも、あれを婿に、旦那にしたいという声は絶えん」
実際、バクシーは女性にモテた。
トティラ将軍の後継者と目されていることも影響しているのだろう。将軍との繋がりを求めた貴族からの見合いの話も多く、その意味でもバクシーは優良株だった。
いまのところ、そうした見合いの類は仕事を理由に断っているが、ちょっと押しの強い女性が現れたら危険だろう。
「誰とも交際をしていないからといって慢心は出来んぞ。あれもいい歳の男だ。うかうかしているうちに誰かに取られかねん」
「そ、そうよね……」
「むぅ」と、レフィーナは腕組みをして唸り声を発した。
「第一、これはお前が招いた事態でもあるのだぞ?」
トティラ将軍は畳み掛けるように言った。
「お前がもっと早くに交際を申し込んでおれば、周りも騒ぎ立てなかったのだ」
実はレフィーナがバクシーに想いを寄せるようになったのは最近のことではない。
恋慕の期間はすでに十年近くになり、それなのにこの娘は、いまだバクシーに自らの想いを打ち明けられずにいた。猛将の血を引く娘も、こと恋愛に関しては奥手らしい。そういえば長兄のキャシアスも、プロポーズの際には苦労したという。
「あれはお前のことを憎からず思っている。お前があれの妻になれば、回りも諦めがつくだろうに」
「それが出来たら誰も苦労していませんよ」
レフィーナはやや怒った口調で言った。
トティラは父としての余裕を見せ、莞爾とそれを受け流す。
「恋も戦も先手を握ることが肝要だ。その点、お前はすでに大きく立ち遅れている。見合いの申し込みや交際の申し込みをした娘らの方がまだ優勢だ」
「父上の言う通りですね」
アタナリックが真剣な表情で頷いた。
ゴート家の三男坊はバクシー・アミュレットのことを実の兄のように慕っている。
そのバクシーと姉が夫婦になるのなら、それは彼にとっても幸福なことだった。
「すでに姉上は後手に回っております。その姉上がバクシーさんのことで主導を握ろうと思ったなら、思い切った行動が必要だと思いますが?」
「思い切った行動……」
アタナリックの言葉を受けてレフィーナが何を思ったのか。
本人でないトティラにそれを知る術はなかったが、突如として茹でダコのように顔を真っ赤にした様子から、大体のことは察せられた。
そんなレフィーナに微笑ましげな眼差しを向けながら、将軍はアタナリックの言った「思い切った行動」について考えた。なぜならばその発言は、トティラが現在抱えているある問題についても言えることだったからだ。
すなわち、リーザリオの防衛である。
――陛下の命令を受けた第二軍が、戦力抽出の要請を受け入れたとしても、もはや第三軍にかつての力は存在しない。そんな戦力で捲土重来してくるであろうラキオスの軍勢を撃破するには、いっそのこと思い切った行動を取るべきではないのか?
思い切った行動。敵も味方も、あの守護の双刃さえも予想していなかった、奇襲中の奇襲。失敗すればいま以上に第三軍の戦力をすり減らすことになり、その代わり成功すればあの守護の双刃さえも打ち倒せるだろう。
それすなわち、迫り来るラキオス軍を迎え撃つのではなく、攻撃する。
先制の一撃を、こちらから加えてみせる。
――すまぬな、バクシー……。
トティラ将軍は、いまも第三軍の司令室で軍司令代行として指揮を執っているであろうバクシーに詫びた。
――これから忙しくなる。我々にもう、枕を高くして眠れる日は来そうにないぞ。
トティラ将軍はほろ苦く笑って、溜め息をついた。
◇
宴会の席から少し距離を置いた場所で、オディールは上官とその家族の団欒を眩しそうに眺めていた。
オディール達スピリットの多くは、家族愛というものを知らないまま一生を過ごす。母の胎内から生まれず、ある日突然に出現する彼女らには、そもそも家族という概念すら理解出来ない者の方が多い。
オディールもそんなスピリットの一人で、しかし、それゆえに、目の前の家族の団欒に憧れの念を抱いていた。羨望と言い換えた方が適切かもしれない。
オディールは食卓を囲むトティラ達を、何か尊い宝物を見るかのような熱い眼差しで見つめた。
――閣下、楽しそう……。
子ども達に囲まれ、孫と顔を合わせ、妻と肩を並べている。
家族の中にいるトティラ将軍は、安らぎに満ちた表情を浮かべていた。
オディールが初めて見る表情だ。いつも第三軍の司令室で憮然としているトティラ将軍しか知らない彼女にとって、猛将のそんな顔は驚きに値するものだった。あの岩石のような面構えの男に、こんな笑みが浮かべられたのかと、微笑ましくも思ってしまう。
また同時に、家族に囲まれているトティラ将軍を見て、オディールは奇妙な寂しさを感じていた。
どうしてあの中に自分がいないのか。
どうしてあの微笑みは自分に向けられたものではないのか。
そんな愚にもつかない疑問が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消え、実際の現実がそうでないことが、どうしようもなく残念に思えてしまう。
そして、そんなありもしない現実を本気で残念がっている自分に気が付いたオディールは、思わず自嘲的な笑みをこぼした。
――馬鹿ね。わたし達スピリットが、家族を求めるなんて……。
羨ましいとは思っても、求めてはならない。求めたところでどうしようもない。求めたところで、スピリットの家族になど誰がなりたいと思うだろう。
オディールが欲しいと思う家族は、実際には絶対に手に入るはずのないものだ。
ましてやトティラ将軍の家族になりたいなど……おこがましいにも程がある。あの方は第三軍の司令で、バーンライトの英雄で、生粋の妖精差別主義者なのだ。
しかし、とオディールの目線は自然とトティラ将軍、そしてその娘のレフィーナに向かってしまう。
――でも、いいな……レフィーナ様。
優しい言葉をかけてもらえて。
優しい笑顔を向けてもらえて。
自分もトティラ将軍の家族になりたい、と。自分もあの人の側にいたい、と。そう、思ってしまう自分を、オディールは否定出来なかった。
レフィーナに羨望の視線を送るオディールの顔色が、不意に変わった。
家族の団欒を邪魔しては悪いと自ら距離を置いている彼女のもとに、他ならぬトティラの家族が近寄ってきたからだ。
トティラの長男アタナリックの息子――つまり、将軍から見て孫に当たる――シーヴァルだった。まだ五歳のほんの子どもで、人間とスピリットの違いも完全には理解していないのだろう、自分に対しても、物怖じせず近付いてくる。
「ねぇ、おねーちゃん」
一瞬、誰のことを呼ばれたのか分からなかった。
人間の、それもこんな子どもから「おねーちゃん」などと呼ばれるのは、オディールにとっても初めての経験だった。
「私のこと?」と、おずおず、と訊ねてみると、少年は「うん!」と、活き活きと頷いた。
それから、子どもらしい邪気のない笑顔で、
「おねーちゃんもご飯食べたいんでしょ? 一緒に食べようよ」
と、オディールからしてみれば、なかなか頷きづらい申し出をしてきた。
どうやらシーヴァル少年は、離れたところからずっと自分達を見ていたオディールのことを、一緒に食事がしたいのだと思い込んでしまったらしい。当たらずも遠からずの答えに、緑スピリットは思わず苦笑する。
そうしてから、オディールは食卓に座す大人たちの顔色を覗った。トティラ将軍を始め、ゴート家の人間はみなあからさまな嫌悪の表情を浮かべていたが、わずかに三人……トティラの二人の孫と、彼の妻だけは、にこにこ、と笑っていた。
「ねぇ、一緒に食べようよぉ」
シーヴァル少年が自分の手を引いた。
子どもとはいえ、訓練士以外で人間に手を握られるのは、初めての経験だ。オディールは戸惑いを隠せない。少年の積極的な誘いにどう返事をするべきか、判断に窮してしまう。
「シヴァ」
ファルコが強い語調でシーヴァルの名前を呼んだ。
忌々しげにオディールを見ると、口調をやんわりと改め、諭すように言う。
「その女はスピリットなんだ。スピリットと人間が顔を合わせて食事を摂るなんて、あってはならないことだ」
「えぇぇ〜! どうしてぇ?」
シーヴァルは不満げに喉を鳴らした。まだ幼い彼には、大人達の口にするスピリット差別の考え方は理解出来ない。
「どうしても何も、人間とスピリットは昔からずっとそうやって暮らしてきたんだ。それがこの世界のルールなんだ」
「ファルコ」
今度はトティラ将軍がファルコのことを強い語調で呼んだ。
「シヴァはまだ幼い。難しいルール云々について語っても仕方なかろう」
「しかし父上、だからといってシヴァのわがままを許すのは……」
「わがままがまかり通るのはいまのうちだけだ。ここはシヴァの思う通りにさせてやろう」
トティラ将軍は憮然として呟いた。さすがの猛将も孫の笑顔には弱いか、シーヴァルを見つめる眼差しはどこまでも優しい。
子どもというのは不思議な存在だ。あの強烈な妖精差別主義者が、胸中はどうあれスピリットとの相席を許してしまうとは。
「……やれやれ、父上はシヴァを甘やかしすぎだ」
ファルコが肩をすくめて呟いた。
隣の席のアタナリックも同意するように頷く。しかしその表情は、スピリットと相席せねばならないというのにどこか明るい。
「美人と見ればスピリットでも食事に誘う……か。シーヴァルは将来女を泣かせるだろうな」
冗談めいた口調で言って、アタナリックは笑う。そして、オディールを見た。
「それでスピリットよ、お前自身はどうだ? 母上の料理は美味ゆえ、スピリット如きにくれてやるのは惜しいが、父上がああ言うのなら仕方がない。お前が相伴に預かるというのなら、もう一セット、食器を取ってくるが?」
「あ、あの……本当によいのでしょうか?」
オディールは、質問を投げかけたアタナリックではなく、トティラ将軍を見て訊ねた。
彼女の上司は、彼女がよく知る憮然とした態度で、「好きにしろ」と、ぶっきらぼうに言った。
オディールは嬉しそうに微笑んで、「はい」と、頷いた。
◇
――同時刻。
夜。
ダグラス・スカイホーク通産大臣の執務室では、部屋の主たるダグラスの他、桜坂柳也、リリィ・フェンネス、そしてラキオス王が、テーブルを囲んでいた。
例によって密会を開くためだが、以前、柳也がレスティーナに三人の関係を勘ぐられたことから、対外的にはダグラス主催の茶会兼勉強会ということになっている。
その建前について柳也は、「バーデンバーデンの密約みたいだな」と、苦笑した。
「そのうち、誰かが暗殺されるかもしれないな」とは、意外にも日本史に詳しいダグラスの弁。彼自身は冗談で言ったつもりのようだったが、三人とも立場が立場だけにその可能性は十分にありうる。笑えないジョークだった。
「本日お集まりいただいたのは他でもありません」
会議の口火を切ったのは柳也だった。本日の密会をセッティングしたのは彼だった。
「以前より研究を進めていた対バーンライト戦略が、ようやく一つの形になりましたので、そのご報告をいたします」
三人のこうした密会が始まったばかりの頃、ラキオス王は柳也に、王国軍の戦略研究室とは別に対バーンライト戦を想定した作戦計画の研究を命じていた。王国軍の優秀な頭脳が作成したプランと、異世界人ならではの発想から生まれたプランとを比較して、より良い作戦計画を練るのがその狙いだ。公式な会議の場では発言力の低い柳也の意見を、ラキオスの大方針に反映させるため必要な措置でもあった。
柳也は正面に座る二人に羊皮紙の資料を手渡した。勿論、件の対バーンライト戦略について書かれた資料だ。植物繊維から作られる紙は高価だから、あまり非公式な文書には使えない。
「クルセイダーズ・プラン、か。洒落ているな」
和式に綴じた資料の表紙を見て、ダグラスが苦笑した。
クルセイダーズとは聖十字軍を意味する単語だ。もともと、バーンライトはかつての聖ヨト王国の領土だった。奪回戦という名の侵略戦争の計画には、ブラック・ジョークが過ぎるネーミングだった。
「聞かせてもらおうか? この資料は当然読むが、お前の口から内容を聞きたい」
ダグラスが言うと、ラキオス王も同意とばかりに頷いた。
応じた柳也が懐から地図を取り出して卓上に広げた。北方五国の勢力図だ。ここ数日は毎晩眺めた物で、すでにいくつかの書き込みがされている。
柳也は対面に座る二人の顔を交互に見た。
「このクルセイダーズ・プランの立案には、前提条件として、開戦に至るまでの手続きに以前お話ししたオディール・緑スピリットの名前を使うことを考えています。まずは、その点を承知していただきたい」
「うむ。以前、お前が言っていた案だな」
「わが国の領土を侵犯したオディール・緑スピリットの引き渡しを盾に、謀略をも併用して開戦に至る。この戦争は侵略戦争ではなく、先にわが国の領土を侵したバーンライトに対する報復戦……国家が国民の安全を保障する上で正統な、積極的攻勢を心がけた防衛戦争である。なかなか、あくどいことを考える男だと感心したわ」
ラキオス王の冷笑を受けて、柳也は微笑むと、言の葉を滑らせた。
「このクルセイダーズ・プランは、大きく分けて四段階のステップで構成されています。
詳細は資料に譲りますが、まず、第一段階では、わがスピリット・タスク・フォース(STF)とリーザリオ方面軍の合同軍で、リーザリオを陥落させます」
「ほぅ……」
ラキオス王の双眸が、鋭く光った。
リーザリオの第三軍といえば鉄の山戦争の英雄トティラ・ゴートが守っている岩の壁だ。トティラ将軍がリーザリオの第三軍に着任してすでに一五年以上、ラキオスはこの男の統括する軍隊に何度も煮え湯を飲まされてきた。ゆえにラキオス王の第三軍に対する敵愾心は高い。
その第三軍を撃破してリーザリオを落とせるとあれば、その表情に残忍さと好色さとを併せ持った冷笑を浮かべるのも無理なきことだった。
「リーザリオを落とす、か……」
一方のダグラスは難しい表情を浮かべていた。
この場にいる四人の中では最も軍事に疎い彼だったが、その彼をしてトティラ将軍麾下の第三軍の勇名は知っている。その彼らが守るリーザリオを、そう簡単に落とせるものなのか。ダグラスの双眸には疑念が滲んでいた。
「はたして、そんなことが可能なのか?」
「リーザリオを落とすための具体的な作戦や戦術はまた後ほど。とりあえずいまは、第一段階が成功したという前提で、話を進めたく思います。
第二段階では、占領したリーザリオに速やかに王都直轄軍を運び入れ、この地を以後の戦いの橋頭堡、前線基地とします」
現在、ラキオス王国軍には戦力として数えられるスピリットが、エトランジェ二人を含めて九八名いる。STFとエルスサーオ方面軍に王都直轄軍を加えた戦力は七四名。スピリット一人当たりの戦闘力を人間の兵士一〇〇人分とすれば、七四人ながら一個旅団に匹敵する戦力だ。兵力集中の大原則は、有限世界でも有効だった。
「第三段階では、リーザリオに集中させた大兵力を以ってリモドアを制圧します。ここまでくれば、第四段階で何をするのかはお分かりですね?」
「ここまでヒントを出されれば、子どもでも気が付くぞ」
ラキオス王は冷笑を浮かべた。
「バーンライトの王都サモドアの制圧、だな? あえてラセリオ方面軍のことに触れなかったのは、敵がサモドア山道の門を開いた時に備えてのことか」
「その通り!」
柳也は指を、パチン、と鳴らして屈託なく笑った。
「つまるところこのクルセイダーズ・プランは、ラキオス王国の完全なる安全保障を目指したものだ。隣に敵国があるから、わが国の領土は侵犯された。それならば、隣接国を武力を以って併合すれば、敵の侵略を受ける心配もなくなる。国民の安全を守るのが国家の最大の義務だ」
「国民を守るために、隣接国すべてから敵をなくす、か。世界征服の大義名分としては、あまりにポピュラーなロジックだな」
「でも、嫌いじゃないだろう?」
柳也が好意的に微笑んでみせると、ダグラスとラキオス王は肩をすくめた。
「当然だな。男としてこの世に生まれた以上、この世界のすべてを掌中に収めたい気持ちは否定出来ぬ」
「ましてや儂らにはそれを実行するだけの力がある。権力がある。心躍らぬ道理はない」
「よくもまぁ、こんなに好戦的な男が二人揃ったもんだ」
「……二人、ですか?」
呆れた口調で呟くと、密会では黙りっぱなしが常のリリィが怪訝な顔で呟いた。
珍しいこともあるものだと、柳也は隣に座る彼女を見る。
「二人だろ? ダグラス閣下と、陛下の二人」
「…………」
何を今更当然のことを訊くんだ、とばかりに二人を顎でしゃくると、リリィはなんとも言えない眼差しをこちらに向けてきた。
これは……どのような言葉で表現するべきだろうか。睨まれている、とも、怪訝に思われている、という様子でもない。じろり、と注がれる視線は鋭いが、まったく凄みが感じられなかった。「あなたかがそれを言うのか?」と、言わんばかりの強い眼差しだ。
――なんとなく湿気めいたものを感じさせるな。こう……じとっ、とした感覚というか……ジト目、って言えばいいのか? これは?
だとしても、なにゆえ自分は斯様な視線を向けられねばならないのか。
考えれば考えるほど、いまいち意図の読めないリリィの視線だった。
それはさておき、
「最大の難所は、言うまでもなく第一段階のリーザリオの陥落です」
と、柳也はひとつ空咳をこぼして意識を改めると、話をクルセイダーズ・プランの件へと戻した。
「戦争は最初の一撃でどれだけの勝利を収められるかで以後の展開が、がらり、と変わります。ファースト・アタックでラキオスが戦いの主導権を掌握するためには、誰が見ても大勝利と思えるよう戦果を挙げる必要があります」
「なるほど。それでリーザリオの陥落、か。……トティラ将軍麾下の第三軍を撃破し、リーザリオを、落とす。たしかに、客観的に見てもこれ以上に王国の勝利を内外にアピール出来る宣伝材料はないな」
ラキオス王が酷薄な微笑を口元にたたえて言った。
卓上の勢力図を凝視したまま身を乗り出し、柳也に言う。
「では、そなたの考える作戦計画を教えてもらおうか? スア・トティラを破る秘策、考えてきたのであろう?」
「勿論です、陛下」
柳也は芝居がかった仕草で恭しく一礼すると、リリィを一瞥した。
最近では隣に居ないことの方が少なくなりつつある密偵の少女は、目配せ一つで自分の意図を汲み取ってくれる。
柳也の合図を受けたリリィは、持参した軍用鞄の蓋を開くと、中から和式に綴じた書類を二部取り出した。それぞれをラキオス王とダグラスに手渡す。
書類を受け取ったラキオス王が、表紙を眺めて、おや? と怪訝な表情を浮かべた。
他方、ダグラスは、どこか懐かしそうな視線を手元に落とし、小さく微笑んだ。
書類の表紙には柳也の直筆で、ダグラスにとっては懐かしく、ラキオス王にとっては見慣れない形状の文字が記されていた。英語だ。滑らかな筆記体のアルファベットが、連なるように並んでいた。
ラキオス王が、書かれた文字の内容を問おうと顔を上げる。
柳也は、ラキオス王が言葉を発するよりも早く、にっこり、微笑んで口を開いた。
「要は、第三軍の撃破とリーザリオの攻略をセットで考えるから、問題が難しくなるのです。いっそのこと分けて考えましょう。第一段階で第三軍を壊滅状態に追いやり、第二段階でリーザリオを攻略する。
幸い、BOL作戦で敵第三軍の戦力は激減しています。兵数自体は回復していても、その内容は全盛期の頃と比べれば練度の点で明らかに劣っていることでしょう。これを開戦とほぼ同時に急襲し、叩き潰す。敵の防衛力が減衰したところで、リーザリオを占領する。そのための具体的な作戦計画を、こいつにまとめてきました」
柳也は二人の手の中の資料を示すと、ニヤリ、と笑った。
「オペレーション・スレッジハンマー。説明しますので、しばしご清聴を」
おどけた態度で呟いて、柳也はこの国の最高権力者たちに自らの腹案を披露した。
開戦の時が、近付いていた。
<あとがき>
アイリス「タハ乱暴!」
タハ乱暴「んう? どうしたアイリス? そんな藪から棒に怒鳴り散らして」
アイリス「いや、壁から釘だ……っと、そんな粗忽の釘なネタはどうでもいい! 今回の話はいったいどういうことだ?!」
タハ乱暴「は? どういうことだと言われても……久々のバーンライト編だが?」
アイリス「そうだ。久々にわたし達バーンライト勢の動向が描かれた素晴らしい回だ。それなのに……それなのに、わたしよりオディールの出番が多いとはどういうことだ?! これでは完全な脇役ではないか!」
柳也「コラァ! そんなこと言ったら俺なんて今回完全チョイ役だぞ? チョイ役!」
北斗「貴様ら、俺なんぞは本編に一行たりとも登場していないんだぞ?!」
タハ乱暴「いや、北斗は出たら駄目だから。……はい。永遠のアセリアAnother、EPISODE:37、お読みいただきありがとうございました!」
北斗「今回の話はいかがだったでしょうか? 久々にバーンライトの連中を書いたので、この男が非常に不安がっています」
タハ乱暴「キャラ変わってないかなぁ……とか。特にアイリスは、日常生活でよくゆきっぷうとネタにするから、知らないうちに性格変わっていないかって、戦々恐々」
柳也「新しい一面を見せるのと、キャラが変わるのとじゃまったく意味が違うもんなぁ。……かく言う俺は、『とりあえず飲んどくか』発言で、新しい世界を開いたわけだが」
アイリス「わ、わたしだって読者のみなに新しい一面を見せていきたいぞ。こんなあとがきではなく、本編で!」
タハ乱暴「まぁ、そのうちね」
アイリス「返事軽っ?!」
柳也「はいはいはーい! 俺もまた新たな一面を読者に提供したいです!」
タハ乱暴「ところで北斗」
柳也「スルー!? 主人公なのに俺スルー?!」
北斗「どうしたタハ乱暴?」
柳也「スルー!? このスルー発言すら無視か!?」
タハ乱暴「まぁ、柳也は放っておいて、次回のアセリアAnotherは、いつもとはちょっと違った形式でお送りしようと思っているんだ」
北斗「というと?」
タハ乱暴「うん。小さな短編を何話も連ねていく、いわゆるオムニバス形式でいこうと思っているんだよ。その宣伝と、あとがきの締め導入をよろしく」
北斗「ふむ。いいだろう。
……次回の永遠のアセリアAnotherは、いつもとは少し違った雰囲気でお送りするオムニバスストーリー! ヘリオン師匠と柳也の鍛錬。ネリー達との新たな関係。神の手を持つ男の登場。リリィの新しい一面。ダグラスの正体といった内容盛りだくさんのストーリーだ。是非、次回もお付き合いいただけたら嬉しい」
タハ乱暴「それでは今回も、永遠のアセリアAnother、EPISODE:37、お読みいただきありがとうございました!」
北斗「本編は終わってもおまけは続く! そちらも付き合っていただければ嬉しいです」
タハ乱暴「ではでは〜」
<おまけ>
勝負と形容するのが躊躇われるような一方的な戦いと、その結末に相応しい一方的な敗北だった。
柳也の放った上段斬りは空を裂くだけに終始し、他方、方天画戟の豪撃は、男の巨躯を宙へと追いやり、その果てに地面へと叩きつけた。
凄まじい衝撃だった。肋骨のことごとくを砕いた圧倒的なエネルギーは柳也の全身を駆け巡り、穴という穴から鮮血を噴出させた。のみならず、呂布奉先の一撃は血管ばかりか筋繊維や其処彼処の神経さえも寸断し、彼からあらゆる運動機能の自由を奪った。
手も、足も、指先の自由さえも失った柳也は、ただただ仰向けに倒れ、空を仰臥することしか許されない。
その空も、眼球周辺の毛細血管が破裂したらしく、暗い朱色に映じていた。
茫洋とした視線を注ぐ蒼空は、いまの彼には腐界の夜空のように思えた。
虎牢関に集まった諸侯らは、粛、として声も出ない。
呂布とともに虎牢関を飛び出した張遼隊と激戦を展開する公孫賛さえもが、戦いの手を休め、茫然とそちらの方を眺めている。
桜坂柳也という男の持つ剣の才が非凡なものであることは、反董卓連合に集まった有力な将・軍師の誰もが認めるところだった。なんといっても、たった一人で曹操・袁紹の軍勢を壊滅させてしまった男だ。天より愛された男とまではいかずとも、並外れた武の持ち主であることは疑いようがなかった。
しかし、中華大陸最強の飛将軍・呂布奉先の武力は、その柳也すら圧倒していた。
というより、歯牙にもかけぬ強さだった。柳也達は最初、自軍の最強戦力たる関雲長と、張飛翼徳の三人掛かりで挑んで、一撃も命中させられなかった。
「同じ、人間か……?!」
はたして、その呟きは誰の口から迸ったものだったか。
戦慄。人間が生み出した言語などという不完全なツールでは到底言い表すことの出来ない圧倒的な恐怖が、兵達の五体を拘束していた。
胆力に優れる勇将でさえ、迂闊には動けなかった。
将を統率する王さえもが、視線の先で茫洋とたたずむ小柄な少女を恐れずにはいられなかった。
呂布奉先は動かない。
トドメを刺すか、刺すまいか迷っているのか、青色吐息の柳也を見つめている。
やがて、その光景を眺めていた諸侯達の口から、どよめきの声が上がった。
困惑が、戦場の空気を支配する。
声が。
戦場に、笑い声が響いていた。
寒々しいから笑いではない。
猛々しい歓喜の産声だった。
反董卓連合の諸侯が、いまだ戦いを続けている公孫賛と張遼が、そして呂布奉先が、茫然と声のする方向を見る。
甲高い笑い声は、傷を負い、いまや身をよじることも困難な男の口から、血反吐とともに迸っていた。
柳也は底抜けに明るい表情で、満面の笑みを浮かべていた。
腹の底から、思いっきり、嬉しそうに声を張り上げ、屈託のない、心からの笑顔で、山を、荒野を、朱色の空を、子どものように輝く眼差しで眺めていた。爆笑だった。
時折、激しく咳き込みながら、柳也は嬉々とした眼差しを呂布に向けた。
口から、鼻から、目から溢れ出す赤黒い濁流が、笑顔とあいまって凄絶な表情を作っていた。
「……くくく。いや、申し訳ない。あんまりにも良い気分だったから、思わず笑ってしまった。……べつに、気がふれたとかではないから、そんな目で見ないでくれ。君みたいな美人にそう見つめられると、流石に照れる」
込み上がる笑いの衝動を必死に噛み殺しながら、柳也は己を見下ろす少女に言った。
時折、激しく咳き込んでは溢れ出した鮮血を手の甲で拭う。
「良い、気分?」
少女が首を傾げた。少女には柳也の気持ちが理解出来なかった。
「お前は負けた。……なんで、良い気分?」
「ん? なんで良い気分かって? 決まっていらぁ……」
柳也は血の滲む唇を一舐めして、続けた。
「……面白い戦いが出来たから、だよ」
虎牢関の戦場を、静寂が支配した。
誰もが、柳也の発言を一字一句聞き逃すまいと、耳目に全神経を集中させていた。
この男はいったい何を言っているのか。この男はいったい何を考えているのか。この男を突き動かすものは、いったい何なのか。呂布の疑問は、同時にこの戦場に集まったみなの疑問でもあったからだ。
負け戦の末に、心地良い気分になった。その理由が、面白い戦いだったから。
常人には理解出来ない言葉、理解出来ない考え方。その尋常ならざる人格を、少しでも知るために。
彼らは、彼女らは、感覚を研ぎ澄ませた。
「呂布奉先……君は最高だ。俺がこれまで戦ってきた、どんな敵よりも強く、美しい。獲物を狙う肉食動物特有の冷徹な、それでいて野生的な眼差しは、男の本能を、魂を、これ以上なく揺さぶってくる。君は最高に強く、そして、最高に良い女だ。その最高の女と、俺は、数えて六合、刃を叩き付け合った。最高の情事じゃないか!」
人間の原始的な本能だった。食べる。寝る。異性と情を交わす。それらの行為には、すべて快楽が付随する。極論を展開すれば、人間の三大欲求などは、そうした快楽を希求するエネルギーに他ならない。すなわち、快を求めるということは、動物の本能に根ざした普遍的な行動なのだ。
そして、桜坂柳也という男にとって、戦いとは、食事や睡眠、セックスと同じレベルの、快楽を追求する行為だった。まさしく、本能が求める行為だといえる。
始めから、人間の薄っぺらな理性などで理解出来る、行動原理ではなかったのだ。
「たしかに、酷い負け戦だったなぁ。……けど、いっそ清々しいくらいに文句のない、完敗だったし……。むしろ、君みたいな強豪と六合も渡り合えた自分を褒めてやりたいくらいだ」
よっ、と上体に力を篭め、体を起こした。
周囲から、またどよめきの声。
中華大陸の大気のマナの濃度は、現代の日本のそれと比べても希薄だ。それでも、永遠神剣の契約者になったその瞬間からマナに再構成された肉体は、常人と比較すれば驚異的な速さで再生・回復を始めていく。出血量は、目に見えて少なくなっていった。
掌を握る。そして、開く。剣は、まだ握れた。
「ん? どうした?」
気付けば、目の前の少女は唖然とした眼差しを自分に送っていた。視線には純粋な驚きが含まれていた。
「お前、何で、動ける?」
「あん?」
「恋、たしかにお前を突いた。恋にやられて立ち上がった奴、いない」
「鍛えてますから♪」
挙手敬礼のため持ち上げて右手を米神の辺りで一回転、指を二本立て、チャオ、とばかりに柳也は呟いた。
彼は転倒の歳に取り落とした大刀の柄を握ると、浅い呼吸を一つ、またぞろ好戦的にぎらついた眼差しを、呂布に叩きつける。
「さぁ、第二戦といこうぜ?」
「第二戦?」
「ああ。こんな面白い戦い、一度で終わらせるなんて勿体無い」
かます切っ先を目の前の少女に突きたて、男は、静かに吼えた。
「さぁ、続けようぜ。……面白い戦いをよぉ!」
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蛇足。
この<おまけ>における現時点の反董卓連合の兵力を計算してみる。
正史における董卓連合発足時の総兵力は二〇万とも三〇万ともいわれている。しかし当時の兵站システムや連合に集った諸侯らの動員兵力を考えると、実際の戦闘要員は十万人程度だったと推測される。仮に総兵力二〇万としても、大部分は後方支援要員だった可能性が高い。
そこでこの<おまけ>では反董卓連合の総兵力は二〇万だが、戦闘要員は一〇万程度とする。このうちジョニー・サクラザカ軍は兵力一万、戦闘要員は八〇〇〇とした。
どの諸侯がどれだけの兵力を送っていたかは、色々な資料を漁るも正確な数字はいまいち不明。但し、その主力は袁紹の軍だったのは確実だろうから、当時の袁家の国力から動員したのは六万程度と推測。曹操は三万ほどか。僕たちの好きな公孫賛は一万五〇〇〇くらい?
最初の軍議で柳也が二回暴走。それぞれ袁紹軍の三分の一、曹操軍の半分が消滅したため、この時点ですでに連合軍の総兵力は一六万五〇〇〇、戦闘要員は八万二五〇〇。約二割の損害。このまま水関の戦いへ。
水関では実質、ジョニー・サクラザカ軍のみが董卓軍と交戦した。
恋姫本編の描写では、主人公達が戦線に投入されるまでは、主に曹操と孫権の軍が戦っていたようだが、この<おまけ>では曹操軍はすでに壊滅状態。よって、曹操軍の代わりに馬騰の軍が前線に進出していたと考える。損害は多く見積もっても全軍に死傷者六〇〇〇程度か。この値はすべて戦闘要員へのダメージとする。
水関戦後、多数の捕虜が発生した可能性が高い。当然、この時代ジュネーブ条約はないから、捕虜の人権を守る必要はないが、それでも、かなりの数の敵兵が収容されたと考える。そのうちのいくらかは、連合がそのまま徴用したと考える。この数字は約一万程度。
よって、水関後の連合軍の兵力は一六万九〇〇〇、戦闘要員は八万と計算。但し、捕虜の監視に戦闘要員が必要なので、実質の戦力は七万五〇〇〇程度と計算する。
なお、敗残兵を取り込んだジョニー・サクラザカ軍はこの時点で一万六〇〇〇にまで兵力増大。さすが主人公補正。ジョニーカード。但し、増えた人員全員が即戦力となるはずがないので、それまでの消耗も加味して戦闘要員は六〇〇〇と計算した。
ここまでのまとめ。
反董卓連合
総兵力:一六万九〇〇〇 戦闘要員:八万 実戦力:七万五〇〇〇
内ジョニー・サクラザカ軍
総兵力:一万六〇〇〇 戦闘要員:六〇〇〇
以上の戦力で、現在連合は虎牢関を攻略中。
初期の八五パーセントの兵力、七五パーセントの戦力だが、ほとんどは柳也の暴走によるものだった。
バーンライト側がメインのお話だったけれど。
美姫 「アイリスが本当にちょっとしか出番がなかったわね。あ、後主人公も」
ついでのように言うなよ。主人公だぞ、柳也。
それはそうと、オディールというキャラに段々と愛着が湧いてきたんだが。
美姫 「そろそろ戦端が開かれようとしているこの時期に」
彼女たちはどうなるのだろうか。とは言え、次回はまだ攻め込んだりもないみたいだし。
美姫 「もう暫くは日常と言うか、そういう感じの話みたいだものね」
ああ。本当にこの先どうなっていくんだろうか。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
待ってます。