――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、よっつの日、夕刻。

 

桜坂柳也がセラス・セッカとともにエルスサーオに滞在するようになって、三日目に突入していた。

午前中はエルスサーオ方面軍のスピリット隊との通常訓練、そして午後は陣地構築というハードなスケジュールにもだいぶ慣れてきた柳也達だったが、陣地構築の進捗は相変わらず芳しくなく、方面軍司令部との連携も上手くいっていないのが現状だった。

スピリットが戦争に投入されるようになって三〇〇年以上、多くの軍事技術が廃れてしまっているから、防衛陣地の構築に時間がかかるのは仕方がないと柳也も割り切っている。しかし、相変わらず非協力的なヤンレー司令の態度は、柳也達が正論をぶつければぶつけるほどに不機嫌になっていき、彼らの悩みのタネとなっていた。

今日も一日の作業を終えた柳也は、あてがわれた兵舎に戻ると、溜まった疲労を熱湯で洗い流そうと、食事の前に浴場へと足を運んだ。

柳也は風呂好き日本人の身に心地良い熱さの湯に浸かると、思わず、

「ふぉぉおお……い、生きかえ、るぅぅ……」

と、声を震わせながら呟いていた。ラキオスのスピリットの館に備え付けられていた大浴場ほどではないが、それでも、ゆっくりと手足を伸ばせる大きな風呂釜だ。柳也の他に利用者はなく、今は広い浴槽を思いっきり独り占めすることができる

弛緩しきった全身の毛穴から、汚れと一緒に疲労さえもが流れ出ていくような心地良い感覚が、柳也の頭をしびれさせた。

湯船に浸かるその瞬間だけは、諸々の悩み事を忘れられる。

両手で湯を掬って顔を洗うと、疲れた身体に意識が冴え渡っていった。

すると、明晰な思考力の宿った頭に思い浮かぶのは、いつやってくるか分からない敵に対する備えについての事だった。

――さあて、どうしたものかな……。

連日、酷使し続けている筋肉を熱い湯の中で揉みながら、柳也は一転して難しい顔になった。

――南側の防御については明日一杯使えば完成するだろうが、問題は敵が迂回機動を取った場合の北と東に対する防御だ。

敵の目的はエルスサーオの占領でも、方面軍の壊滅でもない。敵軍の最終目的はあくまでエルスサーオの背後にあるリクディウスの魔龍にある。龍退治を最優先に迂回機動を取られれば、畢竟一個小隊の悲しさで、南側を守っているうちに北から、あるいは東から通過されてしまう可能性がある。そのような事態を防ぐためにも、北と東側にも落とし穴を配置するべきだが、何度もいうように、人手不足の上、こちらには時間がない。敵が攻めてくるのは明日かもしれないのだ。

北と東の両面で同時に作業を進行するためには、最低でも人足が二十人は必要だ。しかしヤンレー司令から与えられた兵士はたった七人。自分やセラス、戦闘要員のスピリットを含めても、十一人にしかならない。これでは、北と東の同時進行など到底、不可能な事だった。

――どちらか一方にしか労働力を集中できない以上、優先順位を着けるしかない。先に北をするか、東から取り掛かるか。

普通は迂回距離が短く、より脅威度の高い東側から先に取り掛かるべきだが、敵はその裏を突いて北側から攻めてくる可能性もある。かといって北側を優先して作業に取り掛かれば、セオリー通りに敵が攻めてきた場合、対処しきれない。

――結局は、敵の侵攻が一日にも遅いことを祈るしかないか…。

落とし穴とは別に、またその事でも柳也は頭を悩ませる。

機動戦術で攻めてくるであろう敵の動きを、いかにして素早く知るか。神剣の気配が感じ取れるほどに接近された頃には、もう手遅れの可能性が高い。かといって偵察部隊を出して哨戒線を構築するほどの戦力の余裕は、こちらにはない。

【鳴子でも設けてみるか?】

「ん〜…いいアイディアだが、それはそれで設置に時間がかかるだろうしなぁ」

鳴子は農作業でも用いられる警報装置だが、この世界の軍人にとっては落とし穴よりも設置の難しい代物だろう。

最も簡単な手段としては、耳の良い者を地面に張りつけておくことだが、これは神剣のレーダーよりも索敵範囲が劣る上に、音を発しているのが本当に敵なのかどうか確認の術がない。

――落とし穴を全部完成させたとしても、問題は山積みか。

柳也はもう一度湯の熱さを頬に馴染ませると、深々と溜め息をついた。

その時、浴場と脱衣所を隔てるガラス戸が不意に開いた。

湯煙を纏わりつかせながらやってきたのは、ギャレット・リックスだった。

『おおっ、リックス殿か……』

柳也は暗い面持ちを湯で拭ってさっぱりさせると、片手を挙げた。

リックスは流し目で柳也の姿を捉えただけで、無言のまま柳也の目の前を通り過ぎていった。浴槽の中央に陣取っている柳也から少し離れた所に腰を下ろすと、噴き出しから湯を掬って浴びる。それから、糠袋を握って身体を揉み始めた。どうやら、浴槽に浸かる前に身体を洗うタイプらしい。そのまま、柳也に背を向けて黙々と糠袋で肉をしごいていった。

かすかな物音でさえ大きく反響する浴室に、滴る雫の音と、糠袋が肌を滑る音だけが響く。

柳也は無言でリックスの裸身を見つめた。肉体美という言葉とは、縁遠い体つきだ。岩を削ったような硬い筋肉層に覆われた身体は、特に肩甲骨と上腕、そして胸筋が発達している。その太い腕から放たれる一撃を想像しただけで、柳也は熱い湯の中にあって身震いした。

『背中を流そうか?』

沈黙に耐えかねた柳也が、やがて口を開いた。

しかし、リックスはその申し出に対してもただ無言で背中を向けるばかりだった。

柳也はリックスが寡黙な性格であると同時に、妖精差別主義者であることを思い出した。

やがてリックスは糠袋の手を止めると、桶で何度か湯を掬い、自らにかけた。

そしてそのまま立ち上がり、浴室を出て行こうとする。

『湯に浸かっていかないのか?』

浴室を去ろうとするその背中に、柳也が声をかけた。

今度も無視して立ち去るかと思われたリックスは、しかし立ち止まって、首だけこちらを振り向いた。射るような三白眼の奥に、どこまでも暗い炎が滾っている。

『エトランジェが浸かって汚染された湯になど、入れるわけがない』

『……』

柳也は思わず息を呑んだ。

こんなにも強烈な憎悪の念をぶつけられるのは、生まれて初めての経験だった。

額に、脂汗が浮かぶ。差別を受けているという怒りが胸の内でわだかまっていたが、それ以上の戦慄が彼の身体をがんじがらめにしていた。

『この際だからはっきり言っておくがな……』

リックスは戦慄の重圧を託した声で言った。

『俺にしてみればエトランジェもスピリットも一緒だ。汚らわしい害虫にすぎん。本来ならば、害虫に汚染された空気の中に一秒とていたくもない』

『……』

『どうやってあの騎士に取り入ったかは知らんが、忘れるな。貴様らは人間じゃない。家畜だ。家畜は家畜同士寄り添って生きればいい』

リックスはそう言って踵を返すと、浴室を辞去していった。

あとに残された柳也は、ふぅっ、と息をついてから、湯船に身を預けて天井を見上げる。

「家畜は、家畜同士で寄り添って、か……」

柳也は呟くと、ニヤリと笑った。

「それもいいかな」

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode20「ドリームのようなバスルーム、Part2」

 

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、いつつの日、夕刻。

 

『……というわけで、風呂を貸してほしい』

『……はぁ』

突然、スピリットの詰め所にやってきて開口一番柳也の言葉に、アイシャ・レッドスピリットは要領の得ない返事を返した。何の説明もなく『……というわけで』と、言われても、何がなんだかまるで見当がつかない。

どうやら自分達の詰め所の浴場を借りたいらしいが、いったいどうしたというのだろう。

『え、ええと…とりあえず上がってください』

どう応対すればよいやらわからず、本当にとりあえずの暫定的処置として食堂に通すと、突然のエトランジェの来訪に、みんな驚いた表情を浮かべた。

席に着くと、柳也は自分がここに来た背景をとつとつと語った。

自分達が厄介になっている兵舎に強烈な妖精差別者がいるということ。その彼に「エトランジェの浸かった風呂になど入れるか」と、厳しい言葉をぶつけられたこと。柳也は名前こそ口に出さなかったが、彼が口にした“第二兵舎”という単語から、アイシャは件の妖精差別主義者が誰なのか、瞬時に悟った。おそらく、第二兵舎の寮長を務めているギャレット・リックスだろう。エルスサーオ方面軍の正規兵の中でも、特に強烈な妖精差別主義者で知られる男だ。

『…なるほど、そういうことだったんですか』

『そういうことなのですよ』

ようやく得心したアイシャの目の前で、柳也は差し出された茶を美味そうに飲んだ。アイシャの管理する詰め所ではニムントールに次ぐ最年少……セシリア・ブルースピリットが淹れたハーブティーだ。

そのセシリアは柳也の隣で彼がカップを口に運ぶ様子を嬉しそうに眺めている。セシリアは五日前に柳也が始めて来訪した時にも茶を淹れて、彼から感想を求めていた。おそらく、今回もそのつもりで隣に控えているのだろう。スピリットが家畜同然の扱いしか望めない時勢ではまず叶わない望みだったが、彼女の夢は将来本格的にお茶の淹れ方について勉強することだった。

聞くところによると異世界からやって来た少年は、まったくの無一文だという。財布に一銭もないのでは、湯屋に行くこともままならないだろう。かといって他の兵舎やスピリットの詰め所で風呂を借りるためには理由を説明せねばならず、自分がエトランジェだということを明かさねばならない。しかしそれでは、行動が大きく制限されてしまう。

『…わかりました。そういう理由ならどうぞこの館のお湯を使ってください』

アイシャはハーブティーのカップを置くと言った。

すると、柳也の表情が、ぱあっ、と輝いた。相当な風呂好きなのか、早くも糠袋と桶を小脇に抱えている。

アイシャは慌てて付け加えた。

『ですが、今は他の者が入っていますので…』

『それは勿論。さすがに知っていて行くのはセクハラだ』

セクハラという言葉の意味は分からなかったが、とりあえずすぐに向かうのは思い留めてくれたようで一安心だ。

『…それで、今は誰が入浴中なんだ? それから、あと何人が入っていない? 突然邪魔してきた身だから、入るのは最後でも構わないんだが、待ち時間くらいは知っておきたい』

『今は、アリス・ブルースピリット、リアナ・ブルースピリット、それからハンリエッタ・レッドスピリットが入浴中ですが…』

アイシャは詰め所に一つしかない食堂の置時計に目線をやった。

現在入浴中の三人が食堂を後にした時間、そして彼女達のいつもの入浴時間から、待ち時間の見当をつける。

『大体二十分くらいお待ちください。今、入浴中の者達で、とりあえず最後ですから』

『とりあえず?』

『はい。まだ、ファーレーンとニムントールが残っていますので』

『そういえば二人の姿が見えないようだが……』

柳也はきょろきょろと辺りを見回した。食堂には現在入浴中の三人と、この場にいない二人を除いて、詰め所の住人全員が揃っている。

『あの二人は只今訓練で出払っています』

『訓練中? だって、もう正規の訓練時間は過ぎているだろ?』

『はい。ですから自主的に』

アイシャはここ数日間午後の訓練に出られない二人が、自主的に訓練時間を増やしていることを柳也に教えた。

『それは…二人に悪いことをしてしまったな…』

二人が午後の訓練に出られない理由を作っている張本人……柳也は、眉間の間に深い縦皺を刻んで表情を曇らせる。なんでも特別任務とやらでファーレーン達の時間を奪っている柳也は、二人に対して少なからぬ負い目を感じていたらしい。

『べつにリュウヤさまが気にすることではないと思いますが』

『いや、二人を拘束しているのは他ならぬ俺だ。俺が彼女達を縛っているために、彼女達の本来の訓練が遅れているというなら、それは俺の責任だよ』

『ですが、それが任務なんでしょう?』

柳也が従事している作業は特別、秘匿性の高い任務ということで、詳細についてはアイシャ達も教えられていない。だが、毎日疲れきった姿で帰ってくるファーレーン達の様子から、その任務がたいへん過酷なものであろうことは窺えた。であれば、責任はそんなたいへんな任務を柳也に任せた上層部にあり、さらに言えばファーレーン達に押し付けたヤンレー司令にある。柳也に咎はむしろ少ない。

それに、二人がここ数日、自主的に訓練時間を増やしているのは、何も訓練の遅れだけが原因ではなかった。

『それに、二人が訓練時間を増やしたのは、何も訓練が遅れているからだけじゃありません』

『ん?』

『ここ数日、二人の訓練には毎朝リュウヤさまが付き合ってくださっているでしょう? 二人とも……特にファーレーンが言っていました。“今の私たちとリュウヤさまとでは実力差は歴然としています。せめてリュウヤさまの足手まといにならないくらいには強くならないと…”と。あまりにも力量に差がありすぎる者同士だと、上手い連携はできませんから』

『足手まといなんて、そんな……』

『足手まといですよ。…たぶん、私がファーレーンの立場だったとしても。リュウヤさまの技量は、私たちも毎朝目にさせていただいています。リュウヤさまとまともな部隊行動が取れるのは、首都直轄部隊くらいでしょう』

『…みんな俺を買いかぶりすぎだ』

柳也は複雑に笑うと、ハーブティーを飲み干した。

眉間の間のクレバスが、先ほどよりも溝を大きくしているのは、独特なハーブの香りのせいだけではないだろう。

『ですから、二人はまだしばらく帰ってこないと思うので、今入浴中の三人が出てきたら、先に入ってしまってください』

『…そうだな。じゃあ、そうさせてもらおうか』

柳也は眉間に深い縦皺を刻んだまま頷いた。

 

 

――その二十分後。

 

『それじゃあ、借りさせてもらう』

『はい。ごゆっくり』

件の三人が入浴を終え、柳也は意気揚々と糠袋と手拭を入れた桶を片手に浴室へと向かった。

 

 

――さらにそれから十分後

 

『ただいま帰りました』

『あら、ファーレーン。お帰りなさい』

食堂の出入り口からかけられた声に反応してアイシャが振り向くと、そこには訓練を終えて帰ってきたファーレーンが立っていた。

熱の篭もる仮面をはずし、運動後の火照った顔を外気に晒している。汗で輝く珠の肌はいつ見ても綺麗で、同性でありながらアイシャは思わず見惚れてしまった。

『お帰りなさい、ファーレーンさん』

柳也が使ったカップを洗いながら、キッチンからセシリアが顔を覗かせる。

『すぐに何か飲むものを用意しますね』と、にこやかに言った彼女は、再びキッチンへと引っ込む前に、あることに気付いた。

『ところで、ニムちゃんはどうしたんですか?』

セシリアに指摘され、アイシャも気付く。

いつもファーレーンにべったりのニムントールの姿が、先ほどから見えない。一緒に訓練に出て行ったのならば、帰ってくるのも同じ時間帯のはずだが。

『ニムなら先にお風呂に入りましたけど』

訓練の後で汗に濡れた衣服が気持ち悪かったのか、ニムントールは詰め所の框を踏むなり浴場へと向かっていってしまった。

『…え″』

突然の来客を知らないファーレーンの返事に、アイシャとセシリアが同時に濁り気を帯びた声を上げた。

 

 

「海路一万五千余里〜、万苦を偲び東洋に〜♪」

かすかな音さえ大きく反響する浴場に、調子外れのメロディが響いていた。

ざぶざぶと揺れる湯船に遠い故郷の日本海の姿を思い浮かべつつ、日露戦争『日本海海戦』の軍歌を口ずさむ柳也は、今や連合艦隊旗艦・戦艦“三笠”の艦橋に立つ、東郷平八郎提督の気分だった。

時これ明治三八年。狭霧も深き皐月末、三笠艦橋の幹部達の耳に「敵艦認める」との報告が入り、柳也はすかさず各員に命令を下す。

壮烈な海軍魂とともに今日までの訓練を乗り切った船員は、みな司令長官の言葉に対して迅速なる行動を示し、やがて、三笠のマストにZ旗が掲揚される。

「皇国の興廃この一挙、かぁ〜く員奮励努力せよ♪」

日本海海戦の五番までを歌い終え、柳也は湯を掬って顔を洗う。女所帯のためか湯の熱さは昨日までの風呂と比べるといくぶんぬるい。しかし、それでも全身の毛穴が広がっていく感覚が心地良かった。

「しかし、よくよく考えると、この湯はアイシャやセシリアが身を浸した後の残り湯なんだよな」

バルチック艦隊との激戦から心を離して、柳也は改めて両手で掬った湯をじっくりと見つめる。

そして真剣な表情で、ポツリと一言、

「……とりあえず飲んどくか」

【主よ、それは人としてどうかと思うぞ……】

頭の中に〈決意〉の泣きそうな声が響いた。

柳也はごつごつとした両手で作った受け皿を崩し、「いや、さすがに冗談だって」と、呟く。かんらかんらと笑う彼の額に、ぽたり、と、天井から水滴が落ちた。

とは言いながらも、柳也とて若い男だ。剣の道に酒と女は禁物との先人の言葉を大切に思いつつも、時には我欲に溺れたくなる時もある。

「アイシャに、セシリアかぁ…」

柳也はこの浴槽に身を浸したであろう少女らの姿を頭の中に思い浮かべた。正確にはその裸身を。やがて頭の中に次々と浮かんでくる肢体は、この湯に身を浸していない者達へと波及していく。

――やっぱりエスペリアはいいよなぁ。戦士とは思えない細い手足に、メイド服越しにも魅力的なあの胸……。

【主よ、あのように出るとこの出た娘よりも、あの赤毛の娘のほうが魅力的ではないか?】

――赤毛の娘……って、オルファのことかよ。〈決意〉、お前そんな趣味が……?

相棒の意外な嗜好に驚きながらも、柳也の妄想は止まらない。

やがて柳也の瞼の裏側に、まだ一度しか素顔を見ていない少女の、まだ見ぬ裸身が浮かび上がった。

――ファーレーンはきっと着やせするタイプだな。細身に見えて意外と胸とかが、こおう……。

【ふむ。我はあの緑の髪の妖精のほうが好みだが】

特殊な趣味の〈決意〉に言われて、頭の中にニムントールの裸身が浮かんだ。ほっそりとした身体の輪郭に狭い肩幅。自分よりも三十センチ以上背丈の低い小さな身体は父性本能を刺激し、また白いうなじは男の嗜虐心を駆り立てる。凹凸に欠けたボディラインが、なんともたまらなかった。

――ニムントールかぁ。あのちっこい身体もそれはそれで…って、いかん! いかん! 新しい世界の扉が開いてしまう!

〈決意〉に頭の中を汚染されたか、柳也は慌てて大きく頭を振って雑念を追い払う。一瞬、頭の中に浮かんできたニムントールの想像上の裸身が非常に魅力的に思えてしまったことは、自分だけの秘密だ。

その時、柳也は扉のほうに気配を感じた。

柳也の手が、自然と脇差に伸びる。悠人が〈求め〉に意識を奪われかけた時の教訓から、脇差だけは常に肌身離すまいと湯殿に持ち込んだ物だった。

扉のほうから殺気は感じられない。しかし、用心に越したことはないだろう。柳也が浴槽から立ち上がり、脇差の鯉口を切った次の瞬間、ガラリと、浴室の扉……否、新しい世界の扉が開いた。

『…………』

浴場へとやって来たのは、つい先ほどまで柳也が想像していたのとまったく同じ裸身だった。

てっきり誰もいないと思っていたのだろう、ニムントール・グリーンスピリットはタオル一つ持たずに、この場にいるはずのない男の登場に唖然としている。

一方の柳也も唖然とした様子でニムントールを見つめた。突如として視界に飛び込んできた一点のシミもない綺麗な肌に眼を奪われるあまり、状況が上手く飲み込めない。

二人は状況把握のため揃ってきょろきょろと目線だけを動かした。

やがて柳也と目線と、ニムントールの目線とがぶつかり合う。

さらにニムントールの目線は移動し、剥き出しの柳也の下半身へと落ちていった。他人の家の風呂を借りているというのに、柳也は相変わらず前を隠していない。

ニムントールの顔が、ぼっ、と真っ赤に染まる。

ついでに柳也の顔も赤くなった。

柳也の口が、わなわなと震えながら開き、音を漏らす。

『ど、ドリームのようなバスルーム、Part2!!!』

『!!!!!』

柳也が大声で叫ぶと、ニムントールも負けじと大声を張り上げた。

いや、それはもはや声としての形をなしていなかった。

顔だけでなく裸身全部を炎のように赤くしたニムントールの両手には、いつの間にか彼女愛用の槍型の神剣〈曙光〉が握られていた。

格下の神剣とは思えぬほど圧倒的なマナの奔流を敏感に感じ取った柳也は、剣士としての本能で脇差を片手に浴場の窓から逃げ出そうとしたが……それよりも速く、彼の視界を、緑色の稲妻が席巻した。

 

 

……それからのことは、よく憶えていない。

どうやら柳也は直後に気を失ってしまったらしく、気が付くと自分はセシリアの部屋のベッドで眠っていた。

それ以前のことを思い出そうとすればなぜかキリキリと頭が痛み出し、回想を妨害しようとする。また自分を介抱してくれていたセシリアに事情を訊いても、なぜか知らぬ存ぜずの一点張り。〈決意〉にいたっては、何があったのかを訊くと怯えたように口を閉ざしてしまう始末だった。

いったいあの後、自分の身にいったい何が起こったのか。

今となっては知る術を持たない柳也だったが、ただひとつ、ベッドから起き上がろうとした時、ひどく全身が痛かったことを追記しておく。

 

 

――同日、夜。

 

『申し訳ありませんでした!』

二階にあるセシリアの部屋から一階の食堂へと降りると、柳也はいきなり恐縮しきった様子のファーレーンに頭を下げられた。

浴場での一件がすっかり頭の中から抜け落ちてしまっている柳也は何のことか分からず、唖然とした表情を浮かべる。

まさか柳也の記憶が一部消滅してしまっているとは知らないファーレーンは、腰を折ったまま動こうとしない。

救いを求めるように目線を走らせると、ひとり憮然とした態度で椅子に座っているニムントールと目が合った。しかし、すぐに顔を背けられてしまい、柳也の混乱はますます深まるばかりだった。

『ええと……』

柳也は困った顔でファーレーンとニムントールを交互に見比べる。特に、自分に対してどうも冷たい印象のニムントールを注視する。

ここの最近の自分の行動について思い返してみるも、思い当たる節がまったく見つからない。ファーレーンに謝られるような事も、ニムントールに嫌われるような事もしていないはずだ。

――な、なあ〈決意〉、俺、ニムントールに何かしたっけか?

【ワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイ……】

ほとほと困り果てた柳也は一心同体の相棒に問いかけたが、相変わらず〈決意〉は怯えきった様子で同じフレーズを繰り返すばかりだった。なにやらよほど恐ろしい経験をしたようだが…。

『あ〜……とりあえず、ファーレーンは顔を上げてくれ』

つい先日も同じ事を口にしたなと思いながら、柳也は仮面のファーレーンを諭した。詳しく事情を訊ねようにも、このままではまともな会話にすらならない。

『何がなんだかよくわからないが、とりあえず、ファーレーンは悪くない。悪くない……はずだ。うん。悪くない……と、思う』

記憶が存在しないためいまいち確信が抱けなかったが、少なくとも自分が気を失った件に関してファーレーンは無関係のように思えた。根拠のない直感だったが、柳也にはなぜかそう思えてならなかった。もしかしたら、これを読んでいる第三者の意識に精神を乗っ取られたのかもしれない。

柳也に言われてしぶしぶファーレーンが顔を上げたその時、柳也の腹の虫が盛大に鳴いた。

そういえばまだ夕食を摂っていなかったことを思い出し、柳也は莞爾と笑う。

『いかん。俺の腹の虫が空腹でデモを起こし始めやがった』

朗らかに言った柳也の言葉に、ファーレーンが噴き出した。

するとそれまで二人のやり取りを緊張の面持ちで見ていたアイシャが、

『それなら、晩御飯もご一緒しますか?』

と、誘ってきた。

柳也の視界の端でニムントールがなぜか気まずそうな表情を浮かべる。

柳也はニムントールの表情の変化には気付かないふりをして、アイシャに笑いかけた。

『みんながよければ、相伴にあやかろうかな。…覚悟しとけよ〜。俺は、半端じゃなく食うぞ』

『望むところです』

詰め所のおさんどんらしいセシリアが力強く言い切り、みんながどっと笑った。

しかし、ニムントールだけが笑わなかった。

食事の最中も、ニムントールだけは終始不機嫌そうに柳也のことを睨んでいた。

 

 

――同日、夜。

 

首都直轄軍所属のスピリット隊と違い、エルスサーオ方面軍のスピリット詰め所では一つの部屋を二人で折半して使っている。

このように書くと、首都直轄軍と比べて方面軍の待遇が劣っているように思えるかもしれないが、軍隊ではむしろ一部屋を複数人で共有し合うことの方が一般的だ。

軍隊、とりわけ大所帯の陸軍では、最下級の一平卒一人々々にまで個室を用意していたら予算が回らないし、土地も足らない。もっとも、ハイペリアと比べて人口が少なく、軍の主兵もスピリットというファンタズマゴリアの軍隊では、現代世界のそれとは少々事情が異なっていた。

一国の総人口が(たとえ正確な数字でないとしても)一万人という異世界では、そもそも軍隊の巨大化自体が置きにくい。仮にスピリットが軍の主兵でなかったとしても、総人口一万人では戦時動員兵力はせいぜい三〇〇〜四〇〇といったところが限界だろう。不足するのは予算ばかりで、土地は十分すぎるほどに有り余っていた。

首都直轄軍のスピリット達に個室が割り当てられていたのは、詰め所の原形が元は没落した貴族の屋敷だったからだった。財の困窮を原因に件の貴族が二束三文の値段で国に売り払ったものを、改築したのが現在の首都直轄軍の詰め所である。新築に比べれば改築にかかる費用は三分の一以下で済むという会計部の試算を耳にした軍は、大喜びで早速屋敷の改築に取り掛かった。かつては住み込みの使用人が何人も働いていたのであろう詰め所は部屋数も多く、異世界からの少年二人が転がり込んできてもなお余裕がある。方面軍の待遇が劣っているというより、首都直轄軍の詰め所が例外というべきだろう。

エルスサーオ方面軍の詰め所はすべて新築で、基地内に四軒が建てられていた。一軒当たりの定員は十八名で、浴場や台所といった公共の場を除くと部屋の数は各十部屋。一部屋を倉庫兼不意の来客に備えての客室とすると、使える部屋は九部屋になる。ほとんどの詰め所は定数割れを起こしていたが、全員に平等な部屋割りにしようと思うと、一部屋折半はやむなき事だった。

ファーレーンとニムントールの二人は一つのベッドの上で一枚の毛布にくるまり、仲睦まじく言葉を交わしていた。

部屋にはもう一つ同じサイズのベッドがあるが、シーツに皺はなく、また毛布にも目立った乱れはない。ここ数日使っていないことは明らかであり、それは毎夜二人がもう一つのベッドで夜具を共有していることを意味していた。

『……それにしても今日の夕食は楽しかったわね』

側にいるのがニムントールだけとあって、仮面をはずしたファーレーンはつい数時間前の出来事を思い出して、優しく微笑んだ。

『ハイペリアのお話もたくさん聞けたし。…ふふっ。リュウヤさまったらあんなに楽しそうにお話なされて……』

宴会とも呼べないささやかな夕食の席での熱弁が、数時間が経った今も耳に残っている。彼には生まれついて弁論家としての才能があるのかもしれない。時に冗長に、時に情熱的に語られる異世界の憧憬に、同席していたみんなの心は鷲掴みにされていた。

柳也の話は自らの経験を底辺にして構築され、実際に見ることのできない異世界の姿をファーレーン達はリアルに感じ取ることができた。様々な事象に精通した柳也のことを、セシリアは『博学なんですね』と、褒めたが、彼自身は『好奇心が旺盛なだけさ。なんにでも興味を持ちたがる、ただの節操なしだよ』と、笑って応じていた。

また自分から話すばかりでなく、柳也はファーレーン達からも話を求めた。スピリット達にとってハイペリアが未知の世界であれば、柳也にとってのこの世界もまた未知の世界。エルスサーオにはこんなものがある、あの魚はこうすると美味しい、といった他愛のない話を、柳也は両手を叩いて喜んでくれた。

快活に笑う柳也のことを思い出すと、自分まで楽しい気分になってくる。僅か数時間前の思い出を語るファーレーンは楽しげだった。

その一方で、ニムントールは姉と慕う少女に冷ややかな眼差しを向けていた。

先ほどから姉の口から出てくるのは見知らぬハイペリアの情景と、そこに暮らしていた一人の少年にまつわる話ばかり。夕食の席に着く以前から、柳也に対して憮然とした態度を取り続けていたニムントールとしては、姉が楽しそうにあの男について話すのは聞いていてあまり面白いものではなかった。

『……お姉ちゃん、さっきからハイペリアと、あいつのことばっかり話してる』

我知らず、姉に投げかける言葉の端々に不機嫌さが滲むのも無理もない。

大好きな姉が、目下(一方的)敵視中の男のことについて、楽しげに語っているのだ。実際にそんな事はありえないと頭ではわかっていても、裏切られたような気分になってしまう。それに最近、柳也とファーレーンは妙に仲が良い。なんだか姉を柳也に盗られたような気分が重なって、二重に腹が立った。

『ニム、もういいかげんに機嫌を直したら?』

話題が柳也のことになると辛辣になるニムントールを、ファーレーンは苦笑とともにたしなめる。

『お風呂場での事は事故でしょ? リュウヤさまだって悪気があったわけじゃないのだし…』

『でも、あいつはニムに一言も謝らなかった』

何より腹が立つのはその点だった。いくら事故とはいえ、あの男は自分の裸を見たのだ。謝罪の一つくらいあってもいいようなものだが、あの男はそれをすることなく帰っていった。

『ムカつく』

『こら、そんなこと言わないの。単に謝るのを忘れていただけかもしれないでしょう?』

『普通、忘れちゃいけないことだと思うけど』

真実は謝罪することどころか、謝罪するべき事件そのものを忘れてしまっているのだが、それを知らない二人は憶測でものを言うしかない。

ファーレーンにしても、自分に対してあれほど誠実だった柳也が、ニムントール相手に限って謝罪の言葉を述べなかったことは不可解でならなかった。

たった数日の付き合いとはいえ、ともに落とし穴を掘ったあの夜以来、ファーレーンは桜坂柳也という少年のことをそれなりに知ったつもりでいた。柳也は人によって対応の仕方を変えるような輩ではない。そう確信しているだけに、今回の柳也の態度には解せない点が多すぎた。

――でも……。

と、ファーレーンは胸の内で生じた疑念を振り払う。仮に柳也が自分相手には誠実に振舞い、ニムントール相手には傲慢に接するような二面性を持ち合わせていたとして、剣士として、そしてまた軍人としても優秀な彼が、この大事の時に貴重な戦力の士気を挫くような行動を取るだろうか。

この基地の未来、そしてリクディウス山脈を登っているという友のことを思えば、むしろあの場は素直に謝るべきだった。それをしなかったということは、決して謝れぬ何らかの事情があったか、本当にいま自分が言った通り、謝罪することを忘れてしまったかのどちらかのはずだ。

桜坂柳也の人間性については、付き合いの短い自分には計りかねる部分もあるだろう。しかし、軍人としての桜坂柳也のことは、全面的に信頼できた。

『ニムだって分かっているでしょう? リュウヤさまは誠実なお方よ』

『でも、あいつはニムの裸を見た』

『それはニムだって一緒でしょ』

『…………』

それを言われると、ニムントールも黙るしかない。性差による認識の差はあれど、被害者はニムントールだけではないのだ。

『明日、もう一度ちゃんと謝りましょうね』

ファーレーンは妹の髪を梳くような手つきで撫でてやると、優しげな笑みとともに言った。

ニムントールはまだぶつくさ言っていたが、それでも、コクン、と首を縦に動かした。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、黒、ひとつの日、朝。

 

午前の訓練が始まって、柳也はニムントールとファーレーンの前で自らの学ぶ剣術の御技を披露していた。

『いいか? 今から見せるのは俺がファンタズマゴリアで学んでいた直心影流に伝わる組太刀“法定”の型だ。本来は二人一組で行なうものだが、今回は俺が仕太刀の動きをする。

“法定”は直心影流に伝わる型の中でも基本中の基本で、それだけに流派の技の極意が数多く詰まっている。組太刀の数は四本。それぞれ“八相発破”、“一刀両断”、“右転左転”、“長短一味”という。この四つの基本は、それぞれの特徴から春夏秋冬に例えられる。…異世界の剣術だが、参考程度に見ておいてくれ』

柳也はそう言って同田貫を直立正上段に構えると、気息を整えた。

腹を練り、足腰を練り、呼吸を練り、技を練る。

やがて柳也は、柳也の目にしか映らない打太刀の攻撃に真っ向から挑んでいった。

“八相発破”は万物が発揚する“春の気”の型。

“一刀両断”は激しい“夏の気”の攻めの型。

“右転左転”は臨気に応じる“秋の気”の型。

“長短一味”は呼吸を極めた“冬の気”の型。

日本の剣術で初めて防具を本格導入した直心影流の型は、多くが撃剣の最中に繰り広げられる。一方的に仕太刀が打ち込むだけではないから、仕太刀が必ず勝てるとは限らない。隙あらば打太刀も攻撃を加え、仕太刀に臨機応変な対応を求めてくる。

基本の型だからといって、決して簡単に習熟できるものではない。独特の呼吸法、運歩、気組み、技を練れて初めて出来る型稽古だった。

すべての技を披露し、正面から打ち込んだ柳也は、そのまま相手の顔色を覗う。

柳也にしか見えない幻の柊園長が「それでよい」とばかりに笑顔で頷き、柳也は戦いの構えを解いた。

『……とまあ、こんな具合だ』

四本の技を披露した時間は、わずか二分にも満たない短い時間だった。しかし二人を振り向いた柳也の額には、早くも珠のような汗が浮かんでいる。幻の相手とはいえ、柊園長との撃剣稽古は彼に凄まじい消耗を強いていた。

『異世界の剣術だからあまり参考にならないだろうが、それぞれの型に篭められた春夏秋冬の気位はあらゆる戦闘に通じる理念だと俺は思っている。攻めるべき時は夏の気をもって容赦なく攻める。敵がこちらの思いもよらぬ行動を取ったら、慌てることなく秋の気をもって対応する…。これを考え出した方は天才だな。山田平左衛門様のことだが』

ファーレーンとニムントールは柳也の話を黙って聞いている。

直心影流は、戦国時代の後の天下太平の時代に生まれた剣術だった。流祖山田平左衛門光徳が生まれた一六三九年の時点ですでに島原の乱は戦後処理の時代に入り、大きな合戦は世の中から消滅しつつあった。直心影流は殺しのための剣ではなく、あくまで危機管理のための剣として生まれた。

そんな太平の世に生まれた剣術流派だけに、直心影流の理念は合戦が日常的出来事であった時代の剣術流派とは趣を異としている。戦乱の時代に生きるスピリット達にとって、そんな剣術との出会いはむしろ新鮮だった。

『いま言った事は頭の片隅にでも留めておいてくれ。……それじゃあ、訓練を始めようか』

柳也は同田貫に〈決意〉を流し込むと二人に笑いかけた。

ここ数日、三人の訓練内容は、基礎的な強化・戦闘訓練はもとより、部隊行動を主とするものにシフトしていた。

なんといっても想定される敵の兵力はミニマムでさえ二四人。連携行動と優れた指揮によっては、実際の戦力は二倍三倍となるこの相手を、こちらはたった三人の兵力で迎撃しなければならない。そのためには部隊内の連携を強化し、三の兵力をその十倍にも、二十倍にも匹敵する戦力にすることが肝要だった。

『ねぇ、リュウヤ…』

これから訓練を始めようという時に、不意にニムントールが口を開いた。階級上は上官にあたる柳也に対しても敬称は付けない。これは何も昨晩からに限ったことではなく、エルスサーオに来てからお馴染みの呼び方だった。

昨晩からどこか様子のおかしいニムントールに話しかけられ、柳也はそちらに注意を向ける。彼女の声を耳にしたその瞬間、一瞬、〈決意〉から怯えたような気配が伝わってきたのは気のせいだろうか。

『午前の訓練が終わったら、ちょっと話がしたいんだけど…』

『……はい?』

ニムントールに言われ、柳也は一瞬、唖然としてしまう。

ただでさえエルスサーオにやって来て以来、彼女のほうから自分に話しかけてくることなどなかっただけに、この発言は予想外の内容だった。

『あ〜〜…それって、今じゃ、駄目か?』

すぐに正気を取り戻した柳也だったが、その返答は彼らしくない、はっきりとしないものだった。

柳也の質問に、ニムントールは、

『それは……』

と、口を開いてから、辺りを見回して、『やっぱり後で』と、答える。どうやら人目を気にするような内容らしい。自分の側にはファーレーンとニムントールの二人しかいないが、ちょっと離れたところでは他のスピリット達も訓練を行っている。

ニムントールの返事に、柳也は困ったように表情を歪めた。

『申し訳ない。今日はこの後、用事があるんだ』

『用事?』

『…ああ』

柳也はちょっと言いづらそうに黙ってから、ゆっくりと言った。

『午後の訓練と作業を潰して、ちょっと、やりたい事があってな』

柳也は軽い愛想笑いを浮かべると言った。

二人が怪訝な表情で柳也の顔を見つめてくる。

『ここ連日、毎晩のように考えていたことがあった。いかにして迅速に、かつ正確に相手の動きを察知するか。絶対的に兵力で劣るこちらに、哨戒・偵察に出せるほどの手勢はない。だが昨晩、ひとつ妙案が浮かんだ。それをちょっと試しに行こうと思う』

『妙案、ですか…?』

『ああ』

柳也は自信ありげに応じた。

『哨戒・偵察・監視に割くほどの人手がないなら、人手を使わずにやればいいんだ』

 

 

――同日、昼。

 

午前の訓練を終えた柳也は、エルスサーオの街から南東へと七キロ……落とし穴による防衛陣地よりもさらに五キロほども先の辺りまで足を運んでいた。

彼を取り巻く周囲の景色は相変わらず特徴の薄い平地が広がっており、変わった点といえば群生する植物の種類が幾らか増えたぐらいだ。周囲の草原はモンゴルの大平原を連想させるほど圧倒的でなく、彼は街道を出ると草むらの中へと分け入っていった。

地面を注意深く見回しながら、整然と並ぶ草の床を踏み荒らしていく。

きょろきょろと動き回る目線が不意にある一点で止まり、柳也は立ち止まった。その場にしゃがみ込み、中止していたソレを掴む。

拾い上げたのは掌ですっぽりと包み隠せるほどの小石だった。さすがのミリタリーオタクの少年も鉱物についての知識はないが、普通角閃石の一種だ。

柳也は右手に握った小石を握り締めると、その中に〈決意〉の一部を寄生させた。

そして元の位置に戻すと、柳也はそこから正確に四〇〇メートルを歩く。ハイペリアにいた頃、サバイバルゲームで知り合った戦友達とともに訓練を重ねた柳也は、百五歩でかなり正確に百メートルを歩くことができた。

きっかり四〇〇メートルを歩いた柳也はそこで立ち止まると、また付近で小石を探した。

適当な小石を見つけた柳也はそれにも〈決意〉を寄生させて、今度は自分の足下へと置いた。

「……さて、実験を始めよう」

柳也は〈決意〉にしか聞こえない呟きを漏らすと、一心同体の永遠神剣のコントールに全力で臨んだ。

頭の中に、〈決意〉と一体化している自分、そして〈決意〉を寄生させた二個の小石の位置関係が、三次元的なビジョンとして浮かび上がる。小石に寄生した〈決意〉の一部は、いまや自分の意識と常に深い部分と繋がっている。たとえ四〇〇メートルの距離を隔てていようが関係ない。かつて同田貫を王城の兵士達の手に渡した時と同じように、柳也は小石の位置を正確に知ることができた。

そよ風が頬を薙いでいった。風の小さな指が、毛穴の一つ一つを愛撫していく。永遠神剣操作のための極限の集中が、人外の知覚を可能にさせていた。

――…よし、やってくれ、〈決意〉……!

柳也は胸の内で相棒に向かって叫んだ。

すると次の瞬間、柳也の知覚が爆発的に広がっていった。

それは言葉でははっきりと表現できない感覚だった。草原地帯のあらゆる景観が同時に見え、またあらゆる音が同時に聞こえた。

柳也の目線は下を向いている。しかし柳也は、晴天の青空、その海を漂う雲の動きを見ることができた。背中を向けている街道の様子も見える。そればかりか、普通ならば到底見ることのできない、草木の表皮、葉緑体の活動が、目に見えてわかった。さらに己の体内で脈打つ心臓の鼓動、緩やかに流れる風の音、雑草の陰に身を隠す昆虫の吐息などが、明瞭に、確実に聞こえた。

それは柳也自身が目で見て、耳で聞いている情報ではなかった。

小石に寄生した〈決意〉が見て、聞いて、感じているあらゆる情報だった。

柳也が昨夜一晩をかけて周辺の哨戒・偵察のために考案した秘策……それは〈決意〉の一部を寄生させた小石や、枝などの物体による監視網の構築だった。先述したように〈決意〉を寄生させた小石と柳也の意識は、常に深い部分で繋がっている。距離を隔てていてもマナの流れを上手くコントロールしてやれば、監視カメラやソノブイのような使い方をすることができた。

一個の小石がカバーする範囲は半径二〇〇メートル四方。柳也はその範囲内のあらゆる感覚情報をリアルタイムに得ることができた。

柳也の頭の中に、小石の見ている空や草花の景観、小石の聞いている風や大地の音、神剣の気配の有無についての情報などが、個別具体的に、それでいて総括的に流れ込んでくる。

柳也の額に、無数の脂汗が浮き上がった。

轟々と流れ込んでくる膨大な情報量に、脳が悲鳴をあげていた。

無数の映像。無数の音像。容赦なく数多の中を蹂躙する情報の奔流が、柳也から前後左右上下の平衡感覚を奪おうとしてくる。

柳也はたまらず片膝をついた。しかし、いまの柳也には自分が立っているのか、座っているのかもわからなかった。そんな中で意識だけは失わなかった。

「ぐ、ううう……」

苦悶の呻きが唇から漏れた。それが三〇〇メートル先の草の陰に潜むトカゲの吐息と重なって、柳也の耳に轟いた。

――う、ううう…くっ……し、視聴覚情報、九五パーセント遮断。神剣レーダーの情報のみを選択抽出して、送ってくれ……!

【領解した。主よ】

ガラスのひび割れるような音が、頭の奥で鳴った。

するとそれまで視界の中で、耳の中で、鼻腔の中で、肌の上で狂奔していた情報の数々が、波が引くようにいっせいに消滅していった。

情報過多による頭痛が急速に回復へと向かい、頭の中には、二つの小石と自分自身が感じる一つの神剣の気配についての情報だけが残った。勿論、感じている神剣の気配とは柳也自身の気配だ。

「……実験は、一応、成功したな」

息も絶え絶えに、わざわざ声に出して呟く。今度は、自身の声を正常に聞き取ることができた。

「あ、あとはこの石と同じ監視装置を…七キロ圏からエルスサーオまで、範囲重複がないように用意してやれば……」

【しかし主よ、昨夜も言ったが。我は、できることならば主にこの方法を取ってほしくはない。たった二つの監視装置でこれだけ疲労しているのだぞ? 一基が二〇〇メートル四方を監視するとしても、一キロ四方だけで二五基以上必要になる。ここからエルスサーオまでをくまなく監視しようと思えば、装置の数は十や二十ではすまぬ。それだけの数の装置から一度に情報を取り入れては、主の精神が耐え切れぬ】

「そんなもの、情報量を制限すればいいだけだ」

だいぶ落ち着いてきたのか、柳也の発声がしっかりとし始めた。

片膝をついていた彼は立ち上がると、遠いリクディウス山脈の姿を見た。

「いま、その山のどこかで、悠人達は頑張っている。あいつらは自分達のなすべき事をしている。それなら、仲間である俺も、自分のやるべき事、俺にしかできない事をするべきだと思う」

【……我が主は妙なところで頑迷よの】

〈決意〉が呆れたように言った。頭の中に鳴り響く声のイメージには、僅かに諦めの感情が篭もっている。

いまだ頭痛の鳴り響く頭で、柳也はにっこりと笑った。

「今頃気付いたか? 俺は半端じゃなく頑固だぜ。特に、友人関係についてはな」

【我としては、主にはもう少し自身を自愛してほしいものだが…】

やれやれ、と、〈決意〉の溜め息混じりの呟きが頭の中で響いた。

言葉にこそしないが、文字通り自分と一心同体となっているこの相棒は、契約者の我侭に付き合わされてさぞ迷惑がっていることだろう。いまや己の肉体は、自分自身だけのものではない。自分の肉体、そして精神に寄生している〈決意〉にとって、柳也が感じる痛みは彼の痛みでもあるのだ。それでも、文句一つ言ってこない相棒に、柳也は心から感謝した。

「今回の任務が終わったら、せいぜい養生させてもらうよ。……〈決意〉にも、良い思いをさせてやる」

柳也にとっての苦痛は、〈決意〉にとっての苦痛でもある。同様に、柳也にとっての快感は、〈決意〉にとっての快感でもある。マナを与えてやる以外に相棒が喜びそうな事など思いつかない柳也だったが、そうすることが〈決意〉に恩を返すことに繋がると、彼は信じた。

「さて、実験は無事に成功したことだし、石拾いを始めようか」

〈決意〉との会話を続けている間に、情報過多による疲労はすっかり身体から抜け落ちていた。

ぐるぐると肩や膝の関節を回して調子を確かめつつ、柳也は表情を引き締めると、〈決意〉に、そして自身に言い聞かせるように口を開いた。

「どんなに上手く気配を消したとしても、二〇〇メートルの距離まで近付けば神剣の気配は嫌でも分かる。とりあえず、この小石と同じものを一〇〇個用意しよう。単純計算で約一万二五〇〇平方キロメートルをカバーできる」

これに加えて柳也自身の神剣レーダーを併用すれば、かなりの広範囲を高精度で監視できるはず。まさか敵もこちらが体内寄生型の永遠神剣を所有しているとは予想すらしていないだろうから、発見はこちらのほうが断然早いものと考えてよいだろう。

――七キロの辺りで敵を発見できれば、余裕をもって迎撃態勢を整えることができる。五キロ辺りまでの発見なら、接敵までに防衛陣地付近まで進出することも可能なはずだ。

いかに素早く正確な敵の行軍に関する情報を得るか。

下した結論は柳也にとって決して益ばかりをもたらすものではなかったが、彼の決意は固かった。

 

 

――同日、夕方。

 

ホーコの月も黒の週に入り、曇り空がさほど珍しいものではなくなり始めていた。

太陽光を遮る灰色の雲は昼の時間を短くし、夜の訪れを早くする。雨季だから仕方がないといえばそれまでだが、午後の訓練が終わって四半刻もすると、辺りはすっかり暗くなってしまった。

携帯エーテル灯の光を頼りに夜道を独り歩いていたニムントールは、灯火の光が明滅し始めたのを見て足を止めた。ウェストポーチから新しい固形エーテル燃料を取り出し、エーテル灯にくべる。するとお腹を空かせていたエーテル灯はすぐにまた元気を取り戻し、頼りがいのある光を灯し始めた。

調節ネジで光量を調節し、程よい明るさを見つけると、ニムントールは一路、人間の兵達が暮らす兵舎棟への歩みを再開した。目指しているのは方面軍基地に四軒ある兵舎のうち、首都圏からやって来た二人が宿泊しているという兵舎だ。勿論、面倒くさがり屋の彼女がわざわざ足を運ぶその目的は、昨日の一件について柳也に謝るためである。

午前の訓練を終えてすぐに基地を発った柳也は、結局、午後の訓練が始まっても帰ってこなかった。それどころか訓練が終わって日が暮れても戻ってこず、昨夜、柳也への謝罪をファーレーンと約束してしまったニムントールは、その最初の機会を失ってしまった。

そこで二度目の機会を得るべく、一度詰め所に戻って携帯エーテル灯を片手に柳也が泊まっている兵舎に足を向けたニムントールだったが、その道中で、彼女は早くも足を動かすことが億劫になり始めていた。

「……めんどくさい」

柳也達が宿泊している兵舎は平行四辺形状に建てられた四軒のうち、最も北側に位置している。ニムントール達が暮らす詰め所からは、最も遠い位置にある兵舎だ。

エーテル灯に照らされてなお世闇に溶け込んでいる夜道は長く、いくら歩いてもその果てが一向に見えてこない。実際には同じ基地内に建てられているのだから、それほど遠いはずがなかったが、生来の面倒くさがり屋の彼女には、それがはるかハイペリアへと続く道のりよりも長く思えた。

かといってここで引き返すのも面倒臭い。それに姉と約束した手前もある。心ならずも裸を見てしまったと、いつまでも柳也に負い目を感じているのも癪だった。

なんのかんのと理由をつけて時分を納得させながら、結局、ニムントールは前へと足を運ぶ。

いつも彼女にべったりなファーレーンの姿はない。ニムントールが同行を断ったからだ。プライドの高い彼女は、たとえそれが姉と慕う少女といえども、自分が謝っている姿を他人に見られたくなかった。だからこそ柳也に話しかける機会は何度もあったにも拘わらず、午前の訓練中には謝ろうとしなかった。午前の訓練では常に姉の目があったし、同じ詰め所で暮らしている仲間の目があった。ファーレーンもそんな妹の性格を知っているため、無理に同行しようとはしなかった。

エーテル灯の明かりを絞って歩を進めることかれこれ五分、ニムントールの視界に、木造二階建ての洋館が映じた。四軒の兵舎のうち、最も南側に位置している兵舎だ。いよいよ目的地が近くなってきたとあって、自然とニムントールの足運びも勇んだものになる。と同時に、ニムントールはここまで来て、兵舎に向けて足を動かすことに躊躇いを感じ始めていた。

これから自分が向かうのは、人間の兵達が生活を営んでいる空間だ。本来ならばスピリットの自分が軽々しく訪問できるような場所ではない。まして件の兵舎には妖精差別主義者で有名なギャレット・リックスも暮らしている。その事に対する不安が、今更ながら思考の海に湧き上がってきた。

もし柳也がまだ帰ってきていなかったら、という不安もあった。その時は彼が帰ってくるまで待たせてもらうつもりだったが、柳也と部屋を折半しているというセラス・セッカについて、ニムントールはよく知らない。首都圏からやって来たこの騎士が、リックスと同じような妖精差別主義者だったら、と思うと、不安でたまらなかった。

それでも勇み足で進んでいくと、目的の兵舎まではあっという間だった。世闇に溶け込んで先の見えない道のりの終着は思いのほか早く訪れ、ニムントールは洋館の入口の前に立った。

エーテル灯の明かりを消し、玄関の戸をノックしようとして、一瞬、躊躇する。

スピリットの訪問者ということで軽く見られ、門前払いを受けたらどうしようか、という不安が先立った。

ノックのために伸ばした腕が止まり、力なく垂れ下がる。

『……おい』

その時、背後から魂さえ凍らすような、ドスを孕んだ声がかけられた。

突然かけられた声に心臓が、ドクン、と、大きく跳ね上がる。

慌てて振り向くと、そこにはニムントールが最も会いたくない人物……ギャレット・リックスが立っていた。

顔が土で汚れている。どうやら、防衛のための障害作りから帰ってきたところのようだ。背後にも同じように服と身体を土と泥で汚した兵達が続いている。

『邪魔だ』

絶大な戦闘力を持つスピリットが素足で逃げ出したくなるような威圧感をたたえた三白眼が、こちらを見下ろしていた。

暗い憎悪の炎を孕んだ声に、ニムントールの顔が恐怖に歪む。思わず一歩後ずさるも背後の壁にぶつかって、その歩みは止まってしまった。

『聞こえなかったか? 邪魔だ、と言っている』

リックスの声が、凄絶さを宿した。その声を耳にした途端、一気に気温が下がったようにニムントールは錯覚し、激しく震え出す。言われた通りにその場から動こうとしても、恐怖のあまり、足が動かなかった。

『言っている事の意味が分からないか? スピリットは相当な馬鹿なのだな』

侮蔑を含んだ眼差しがニムントールに注がれた。

リックスは無造作に丸太のような右腕を振るった。まるで目障りなハエを叩き落すかのように、躊躇なくニムントールを薙ぎ倒す。恐怖のあまり金縛り状態にあったニムントールは、受け身すら取れずにその場に倒れ込んだ。

ニムントールの表情が恐怖から苦痛を原因に歪み、また恐怖によって歪む。

倒れた状態のままリックスを見上げる目線と、爛々と輝く獰猛な目線とがかち合った。

『…………』

ふんっ、と鼻を鳴らして、リックスはニムントールを見下した後、戸を開けて中に入った。背後の兵達も後に続く。誰もニムントールを助け起こそうとはしなかった。それどころか、同情的な眼差しひとつよこさない。いつもは気丈なニムントールの釣り目が、知らず潤み始めた。

――やっぱり、帰ろう。

やはりここには来るべきではなかった。

最初の兵舎が見えた時に、素直に引き返すべきだった。

ニムントールは力なく立ち上がると、身体についた砂埃を払った。その際、スカートの部分が破れていることに気付いた。どうやら薙ぎ倒された際に、先の尖った石に引っ掛けてしまったらしい。

神剣魔法の力で傷を治すことはできるグリーンスピリットも、服の破損を修復することはできない。

砂埃に汚れ、服も破れ、そんな自分の姿を見下ろして、ニムントールは惨めな気持ちで胸がいっぱいになってしまう。いっそのこと声をあげてわんわん泣きたいくらいだったが、プライドの高い彼女はそれを許さなかった。

きつく下唇を噛み、ニムントールは無言で洋館の玄関に背を向けた。

『待て』

その時、また背後から声がかかった。リックスの声ではない。

言われた通り立ち止まり、振り返ると、そこには……

『せめて服の裾を直してから行け。針と糸を貸してやる。上がれ』

騎士、セラス・セッカが立っていた。

 

 

柳也達のガンルームは、ニムントール達スピリットに与えられている部屋より四割は広いかと思われた。調度品などの備品にも高級感がある。ツインのベッドが並び、セラス・セッカは出入り口により近いほうのベッドの側に荷を降ろした。

『紅茶がいいか? それともコーヒーがいいか?』

いさかか緊張した様子のニムントールに、セラス・セッカは茶葉の入った瓶を勧めた。

『ううん……じゃなくて、いえ、結構です』

『そうだったな。それよりも先に針と糸だった』

自分から言っておいてそれはないな、と、セラス・セッカは苦笑する。

瓶をベッド脇の小さな戸棚の上に置くと、彼はラキオス軍制式の多目的ポーチに手を入れた。針と糸の入ったケースを取り出して、ニムントールに渡す。

おそるおそるといった手つきで受け取った彼女は、手元のケースとセラスの顔、そして破れてしまったスカートの裾を見比べて、おずおずと口を開く。

『あ、あの……』

『ん?』

ニムントールは緊張と困惑が入り混じった複雑な表情でセラスの顔を見つめた。頭の中の普段使わない部分を必死に動かし、慣れない敬語を紡いでいく。

『ええと…その、後ろを向いていてくれませんか?』

小石を引っ掛けて裂いてしまったのはスカートの後ろのほうの裾だった。つまりは臀部を覆っている部分だ。この部分に針を通すためには、ワンピース状の戦闘服を脱がなければならない。そして戦闘服の下には、下着しか身に付けていない。

『…し、失礼した!』

ニムントールの言葉の意味するところに気が付いたセラスは、途端、顔を真っ赤にして後ろを向く。どうやら女性に対して免疫がないらしい。耳まで真っ赤にした彼の様子がなんとなく可愛くて、ニムントールは自分の緊張がほどけていくのを感した。

ニムントールは側にあった椅子に腰掛けると、ベッドの上で禅を組み、背中を向けているセラスにしきりに目線を配りながら服を脱いだ。

使い古された針の穴に糸を通し、針仕事に専念する。丈夫な戦闘服の生地に針を刺すのはそれなりに力のいる作業だったが、指が痛くなるほどではなかった。さすがに年頃の娘として、ほとんど知らない他人の側で服を脱いでいることに抵抗があるのか、針を進める手つきは素早い。

『…サムライに会いに来たのか?』

針を進めるニムントールの手が、一瞬、止まった。セラスの口にした“サムライ”が誰のことか、分からなかったのだ。

『リュウヤに会いに来たのか?』

背後から何の反応もないことに気付いたセラスが言い直した。ニムントールも、ようやくサムライとは柳也のことだと気付き、『はい』と、返事を返した。

『あの男はまだ帰ってきておらぬぞ。いつ帰ってくるかもわからん』

『どこに行ったのかは…?』

『さてな。あの男には霞のように捉えどころのない部分がある。あの男、この私にも詳細を語ることなく基地を出て行きおった』

セラスの背中が溜め息をついた。

それとほぼ同時に、スカートの修繕が終わった。まだ仮縫い程度の補修だが、これで帰るまでは大丈夫だろう。本格的な修繕は、詰め所に戻ってから改めてファーレーンかセシリアに頼むつもりだった。

ニムントールは余りの糸を噛み切ると、いそいそと着替え始める。

衣擦れの音がガンルームで歌う中、セラスの唇から経文が漏れた。耳を真っ赤にして口ずさんでいるのは、すぐ後ろにいる少女の裸身を想像すまいと、己を戒めているのだろうか。

『あの…もう、後ろを向いても大丈夫だから……じゃなくて、ですから』

『む、む? そうか』

セラスは羞恥に火照る頬を見せながら、ベッドの上に座りなおした。

どうやら彼にはスピリットに対する差別意識が薄いらしい。騎士という身分にありながらスピリットに寛容というのは意外な気もしたが、そうでなければエトランジェの柳也と組まされなかっただろうと、ニムントールは納得した。

『ありがとうございました』

『いや、同じ軍人として破れた衣服はすぐに修繕したい気持ちはよくわかる』

針と糸を納めたケースを受け取って、セラスが言った。

訓練の最中に柳也から聞いた話では、ラキオス軍に入隊する以前、セラス・セッカは武者修行のために諸国を巡り歩いていたという。武者修行の旅では、土を枕に眠ったこともあっただろう。そうした不衛生な環境では、衣類のちょっとの破損が命取りになりかねない。

『お前たちスピリットはこの国の大切な財産だ。この程度のことで兵のモチベーションを維持できるのであれば、願ったり叶ったりだ。…ところで、これからどうする?』

『……リュウヤ…さまが帰ってくるまで、外で待っていようかと思います』

『この暗い空の下でか? それも一人で?』

セラスの視線が窓の外へと動いた。

灰色の雲は空のほぼ九割を覆い隠し、月の光も、星の光すら通すまいとして、地上は暗闇に包まれている。この空の下、いつやって来るかもわからない待ち人を待つというのは、たしかに寂しそうな気がした。

『私もサムライとは話さねばならぬ事がある。あやつが帰ってくるまで、少し、話し相手になってはくれぬか?』

『ニムと……ですか?』

ニムントールは目を丸くした。スピリットの常として、ニムントールもまた人間から途方もない無理難題を吹っかけられることは幾度となくあったが、話し相手になれ、なんて命令は初めてだった。いくらスピリットに寛容といっても、これは行き過ぎではないだろうか。

――…こいつ、もしかして妖精趣味…?

家畜同然のスピリットと情を交わすことは妖精趣味と呼ばれ、世間一般からは蔑まれ、タブー視されている。しかしそれだけに禁忌を破った者だけが得られる背徳感と、そこから生じる快感は、言語に尽くしがたいものがある。ゆえにスピリットを求めようとする男は決して少なくない。

訝しげに眉をひそめるニムントールの様子から、彼女が何を考えているか気付いたか、セラス・セッカは口元に苦笑を浮かべた。

『不信に思うか? スピリットと一緒にいることに抵抗のない私の態度を』

『…………』

ニムントールは答えなかった。人間の騎士を相手に、答えられるはずがなかった。しかし、答えがないことが逆に答えを示していた。

だがセラスは不機嫌そうな表情ひとつ浮かべることなく、莞爾と笑った。

『安心しろ。私は女性の好みに関しては比較的ノーマルなほうだ。…生憎、今日まで気の合う女性との出会いはなかったが』

ニムントールを安心させるためか、最後のほうはおどけた調子で言う。

先ほど自分が服を脱いだ時の様子からして女性に対する免疫は弱そうだったが、どうやら本当にいままでこれといった接触を持たずに生きてきたらしい。もしかすると、彼にとって自分とのこの会話が、人生で初めての女性経験なのかもしれない。もっとも、自分はスピリットだが。

『話し相手になれ、と言ったのは、単にお前が同じ任務に就いている部下だったからだ。人の上に立つ騎士たる者、常に下の者の言動・行動には気を配るよう、学問の師から教わった。まして騎士として軍人の道を歩むのであれば、時に命を預けることにもなろう部下とのコミュニケーションは盛んに取るべきと、剣の師からも教わった』

『でも、ニムはスピリット……』

『スピリットだろうと人間だろうと、優秀であればそれで良い。…そうではないか?』

『…………』

まったくもって正論を投げかけられ、ニムントールは返す言葉をなくしてしまう。

ニムントールが黙ってしまったのを見て、セラスは薄く笑った。

『…もっとも、この考えに関しては、私もそうそう割り切れておらぬところがあるが』

『……?』

自らの前言を否定するかのような発言に、ニムントールは眉をひそめる。

セラス・セッカは穏やかに笑うと、隣のベッドを指差した。

『私にこの考え方を教えてくれたのは、このベッドを使っている人間だ』

『それってリュウヤ…さま、のことですか?』

慣れない敬称に一瞬、躊躇しながら問う。

セラスは、うむ、と頷いた。

『あの男と最初に出会った時、私は、初めリュウヤがエトランジェとは知らずに戦った』

『戦った?』

『ああ。私と、リュウヤは、最初、敵同士だった』

驚くニムントールに、セラス・セッカ……否、マロリガンからの騎士モーリーン・ゴフは、自分とリリアナ・ヨゴウ、そして桜坂柳也との関係について簡単に語った。いまだ公式な作戦として認められていないドラゴン・アタック作戦については触れることなく、彼は巧妙に自分の正体を隠しながら、ガストン・シュピーゲイルの死、信頼していた仲間の裏切り、柳也達との共闘について述べた。

『……最初、あの男は自分がエトランジェであることを名乗らずに我らと戦い、そして勝った。また、あの戦いの中でリュウヤがみせた戦術眼には目を見張るものがあった。しかしそれらの技や戦術も、最初にエトランジェと紹介された上で見せられたならば、驚きは少なかったろう。異世界からやって来た勇者なのだから、これぐらいは出来て当然、と思ったに違いない。そう思い至った時、私は気付いたのだ。

エトランジェだ、スピリットだ、という色眼鏡をかけて物を見ることが、いかに愚かしい行為なのかを、な。とりわけ軍隊では身分の差より、実力を重視するべきだ。その意味で、桜坂柳也はラキオスでも有数の戦士といえよう。だが、あれはエトランジェというだけで実際よりも能力を低く見られてしまう。エトランジェというだけで、不当な差別を受けている』

『…………』

『私もリュウヤに会うまでは気が付かなかったのだが、奇妙なことに、我々の世界の軍隊ではそんな当たり前の理がまかり通っていないのだ。それに気が付いた時、私は…せめて私だけは、スピリットだからといって先入観を持たずに、一人の軍人として見ていこうと思った』

『もっとも、ほとんど成果は上がっていないがな』と、セラスは自嘲気味に付け加えた。

長年親しんできた差別意識はそう簡単に忘れられるものではない。どんなに公平な立場でものを見ようとしても、必ずどこかで、そうした差別の感情が邪魔をしてしまう。いまのところセラスが正当に評価を下せるのは、リュウヤとエスペリアの二名だけだった。

『私は優秀な兵士は好きだ。お前のことは、リュウヤから話を聞かされている。訓練途中の兵としては比較的優秀な部類に入る、とな。私も、少し話してみたくなった。…面倒だったら言え。命令という形を取りはしたが、無理にとは言わん』

『面倒だなんて、そんな……』

『言っただろう? リュウヤから話は聞かされている、と』

セラス・セッカは冷笑を浮かべた。

どうやら自分のこの面倒臭がり屋な性格は、柳也を通じて知っているらしい。陰口を叩かれているようで少し腹立たしかったが、同時に、柳也が自分についてセラスにどのように話したのか、気になりもした。

『……わかりました』

人間とこんなに長い間、言葉を交わすのは久々だった。

一瞬の逡巡の後、ニムントールはゆっくりと頷いた。

ニムントールの反応に、セラスが笑う。

『無理に敬語を使わなくてもよいぞ』

『…………』

どうやら自分が敬語を苦手としていることも、柳也を通じて知れ渡っているらしい。

ニムントールはしばしの沈黙の後、

『…わかった』

と、呟いた。

 

 

結局、柳也が帰ってきたのはそれから三十分ほど後のことだった。

いままでどこで何をやっていたのか、障害作りの作業から帰ってきたセラス達よりも汚れた装いで帰ってきた柳也は、『いやあ〜まいった、まいった』と、ひどく疲れた様子で部屋のドアを開けた。

『石拾いをしている最中に蛇と遭遇してな。小腹が空いたものだからちょっと食べてやろうと火を起こしたんだが、そうしたら小火になって慌てた、慌てた』

『……お前はこの世界に犯罪に手を染めるためにやって来たのか?』

かんらかんらと笑って言う柳也に、セラスが呆れたように溜め息をつく。

汚れた上着を脱ぎながら部屋に入った柳也は、そこでようやく同居人とは別な人の気配に気が付いた。

『ニムントール?』

『……邪魔してる』

本来ならばここにいるはずのない相手との遭遇に、柳也は目を丸くする。

軽く片手を挙げて挨拶してくる少女に返事をすることも忘れて、柳也は腕を組んだ。上を見て、下を見て、左右に首を振り、もう一度右を見て、ポン、と手を叩く。

『……もしかして、お邪魔でした?』

『なぜ、そのような発想になる?』

セラス・セッカがまた呆れた溜め息をついた。

それから、隣に座るニムントールの背中をそっと押してやった。

『彼女はお前に話があるそうだ』

『俺に?』

訝しげに視線を送ってくる柳也に、ニムントールは小さく頷いた。

セラスに背中を押されるがままに、ゆっくりと柳也の前へと歩み寄り、やがて意を決したように口を開く。セラスがすぐ側にいたが、なぜか、彼の目は気にならなかった。

『…昨日は、ごめんなさい』

深々と腰を折って謝罪する。

セラス・セッカも、柳也も、目を丸くしてニムントールを見た。

一瞬の沈黙。

やがて柳也の口が、ゆっくりと開く。

『…………は?』

だが柳也の返事は、要領を得ないものだった。

『昨日って……昨日、なんかあったっけか?』

『……え?』

柳也の口から紡がれた信じられない言葉に、思わず顔を上げる。

忘れてしまった? まさか、あんな出来事を?

二人のやり取りの成り行きを見守っていたセラスが、怪訝な表情で柳也に問う。

『サムライ、昨日、彼女に何かされたのか?』

『いやあ…何もされてない、と思うんだが……』

昨日一日分の記憶が詰まったおもちゃ箱をいくらひっくり返しても、思い当たる節が見つからない。念のため、〈決意〉にも訊ねてみるが、

【ワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイワレハナニモミテナイシラナイ……】

と、恐慌状態に陥りながら、同じフレーズを繰り返すばかりだ。

『……〈決意〉も、何も知らないし、見ていないって言っている』

『ふむ……』

要領を得ない柳也の返答に、セラス・セッカは腕を組んで考え込む。なにやら、不穏な空気が漂い始めてきた。

『サムライとニムントールの接点というと、訓練の時か、昨日でいえば風呂を借りに出かけた時くらいか』

『ああ。…そういえば、昨夜、風呂を借りに行った時に、なんでか分からないんだが、ファーレーンに謝られたな』

『謝られた?』

『うん。ただ、これもなんでだか分からないんだが、どうも前後の記憶が存在しないんだ。だから、なんで謝られたのか、理由はさっぱりわからん』

『記憶が存在しないだと? 強く頭でもぶつけたか?』

『いやあ、そんなことはないと思うんだが……』

『前後というと、風呂に入っている間くらいからか』

『うん。それくらいだと思う。…足でも滑らして、頭、打ったか、俺?』

同じように腕を組み、眉の間に縦皺を刻んで考え込む柳也。

他方、ニムントールはなぜか奇妙に頬を引き攣らせていた。昨晩、ベッドの上でファーレーンと話していたように、どうやら本当に柳也には昨日の一件についての記憶がないらしい。しかも柳也の口から語られる内容を聞いていると、どうやら彼の記憶が失われてしまった原因は、自分にあるようだ。

なおも思考の海を泳ぎ、失われた記憶を深海から引き揚げようとする柳也に、慌てた様子で声をかける。

『お、憶えてないなら、無理に思い出さなくても…』

『いや、そういうわけにもいかないだろ。人間を含めてもたった十一人のチームなんだ。そのうちの二人の間に何かしらのしがらみを残したままじゃ、大きな戦力の減退だ』

『サムライの言う通りだな。少人数の部隊では、たった二人の関係が部隊全体の戦力に大きく影響してくる。問題は早いうちに解決しておくべきだ』

まったくの正論を二人の口から矢継ぎ早に告げられ、ニムントールは次の言葉をなくす。

昨晩、裸を見られて怒り心頭した自分が、〈曙光〉の柄でさんざん柳也の頭を殴打した、という事実の発覚に、怯えながら。

『…はっ! ま、まさかキャトルミューティレーション!? お、俺は宇宙人にさらわれて、頭をいじられ、記憶を失ってしまったのか?! そんでもってアメリカの独立記念日にF-16戦闘機に乗ってUFOと戦わねばならないのか!?』

『……何を言っているんだ、お前は?』

…もっとも、柳也がその真実に到達するまでには、少し時間がかかりそうだったが。

『……どうやら失われた記憶の扉を開く鍵は、俺が風呂に入っている間、何が起きたのかにあるようだな。そういえばセシリアも、俺が何を訊ねても知らぬ、存ぜずの一点張りだった』

思えば、昨日の夕食の席では、セシリア始め詰め所のみんながしきりに自分の頭のことを心配してくれていた。ファーレーンなどは『傷の具合はどうですか?』と、露骨に自分の身を案じる言葉を口にしていたのだから、その時点で何かあったと気付くべきだった。

『ふうむ、記憶喪失とはまるで物語の主人公になった気分だ。一種のドリームだぜぇ……んん? ドリーム?』

聞き慣れない異世界の単語にニムントールとセラスが首を傾げる。

どうしたわけか、柳也は自身口にした“どりいむ”なる言葉に、何か引っかかりを覚えたらしい。

『ドリーム…ドリーム……ドリームのような、バスルーム……Part……2……ぬおおぅッ!!』

その時、闇に閉ざされた柳也の頭の中に、一条の光明が差し込んだ。そして同時に、足並みを揃えた軍馬の進軍の如く、怒涛の勢いで、失われた記憶が鮮烈に蘇える。網膜に焼きついたあの小さな裸身が、脳裏に刻み込んだあの艶やかな肌が、そして魂を揺さぶるほどのあのささやかな胸の膨らみが! 後悔の念とともに、柳也の視界に蘇える。

柳也はがっくりと膝を折った。

握り拳を床に叩きつけ、何度も、『なんということだ! なんということだ!』と、吐き捨てるように呟く。

『なんということだ…。俺は、何故、忘れていたんだ? あんな美味しい……もとい、あんな愚かしい行為を忘れていたなんて! ……ニムントール!』

柳也が、がばっ、勢いよく上体を起こす。そしてもう一度、頭を下げた。土下座だ。男らしい。

『申し訳ない、ニムントール! 故意ではなかったとはいえ、俺はお前の裸を見てしまった』

『なにッ? 裸を?』

セラス・セッカの眼光が鋭く光る。女性に対する免疫の強弱以前の問題として、騎士である彼は婦女子の裸身を覗き見るような輩は唾棄すべき対象と見なしていた。

『本当に、申し訳ない』

『い、いいよ、そんなに謝らなくても…』

まさかこんなにも大仰に謝ってくるとは思ってもみなかったニムントールは、異世界日本が生んだ最上級の謝罪作法を前にしてたじろいだ。土下座という行為の意味や言葉は知らなくとも、額を床にこすりつけるようにして謝る柳也の態度からは、彼の誠意がひしひしと伝わってきた。

『そ、それに見た、見られただけなら、ニムだって…その……リュウヤの裸、見ちゃったし…』

『なにッ! 裸を見られただと!?』

昨夜、目にした男の裸身を思い出してか、僅かに赤面したニムントールの呟きに、セラス・セッカが目を剥いた。婦女子の裸を見るような不逞な輩は許せなかったが、その逆……男の裸身を見る婦女子という存在が、純粋培養された騎士である彼には信じられなかった。

『そ、それにニムはリュウヤの裸を見ただけじゃなく、頭まで叩いちゃったし……』

『…え? 叩いたの?』

聞き捨てならないニムントールの言葉に、チーク材とフレンチキスを交わす寸前だった柳也が顔を上げる。

どうやら柳也は昨日の一件について全部の記憶を思い出したわけではなかったらしい。

それに気が付いたニムントールは、しまった、というような表情を浮かべ、慌てて口を閉じたが、すべては後の祭りだった。

身体を起こした柳也は、得心した様子でしきりに頷く。

『…そうだったのか。それで昨日の記憶が一部飛んでいたのか。ファーレーンが謝っていたのも、ニムントールが今日、謝りにきてくれたのも、それでだったんだな』

『う、うん…』

しゅん…、と、しょげた様子で俯き、肩を落とすニムントール。目線を柳也と合わせようとしないのは、彼に対して後ろめたさを感じているからだろう。

一方の柳也は昨日からの疑問が解けて晴れ晴れとした表情だ。

『わざわざ謝りに来てくれてありがとうな。おかげさまで、昨日から胸につっかえていたものが取れた』

『…え?』

想像していたよりも明るい柳也の声に、ニムントールが顔を上げる。てっきり、上官に暴行をはたらいた自分に対して、怒り心頭しているかと思っていたのだが。

『……怒ってないの?』

『そりゃあ、頭を殴られたんだ。多少は怒っている。だが、それは裸を見られたニムントールだって一緒だろ?』

『う、うん…』

『なら、荒立てて大事にする必要はない。今回の件に関していえば、俺にも非はあるし、ニムントールにも非がある。それで、お互い謝った。それでいいんじゃないか?』

柳也は莞爾とした笑みを浮かべると、ニムントールに問うた。

その笑みからは、彼女の取った行動に対して怒りを覚えている様子は微塵も感じられない。

『それに、俺はニムントールに感謝したいくらいなんだぞ?』

莞爾とした笑顔から一転して、柳也が邪悪な笑みを浮かべる。彼はいやらしさを感じさせる風に唇を歪めると、パンパン、と両手を二度叩き、ニムントールに拝むようなポーズを向けた。

『いやあ、良いものを見せてもらいました。眼福、眼福♪』

『〜〜〜!!』

ニムントールが声にならない悲鳴をあげた。その顔が、真っ赤に染まっている。

『か、帰るッ!』

僅かに声をわななかせて、ニムントールは真っ赤な表情のまま部屋のドアへと向かう。

柳也の横を素通りし、ドアノブに手をかけたその時、柳也の声が、彼女の背中を撫でた。

『ニムントール・グリーンスピリット!』

突如として名前を呼ばれて、ドアノブに手をかけたままニムントールの動きが止まる。

彼女は、首だけ動かして後ろを振り返った。

『怒っている原因がわかってよかった。明日から、またよろしく頼む!』

振り返って見たその表情に、いやらしさを感じさせる笑みは浮かんでいない。

騎士セラス・セッカがラキオス有数の戦士と認めた男は、自分に対して厚い信頼の眼差しを注いでいた。腹立たしいことに、その瞳に見つめられると、期待に応えてやろう、という気持ちが湧いた。

『当然』

ニムントールは改めて柳也達に背中を向けると言った。

にやついた顔を、他人に見られたくなかった。純粋に信頼されることがこんなに嬉しいとは思わなかった。

ドアノブを回し、ゆっくりと引く。

『おやすみ、セラスさま、リュウ…』

退室の間際、ニムントールは二人に一瞥を送った。

柳也の顔が、一瞬、虚を衝かれたように呆けたものになる。少しだけ溜飲が下がった。

だが彼はすぐにまたにこやかな笑みを浮かべると、

『ああ。おやすみ。……ニム』

と、去り行く彼女の背中に手を振った。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、黒、みっつの日、夕方。

 

執務室の置時計が午後六時の時刻を示し、トティラ・ゴートは作業の一区切りとばかりに、ぐっ、と、背伸びをした。あまり根をつめていたので、目が疲れている。肩も首も凝っていた。自分も今年でもう六二歳。長時間のデスクワークが苦痛になり始めていた。

デスクの上には処理済の書類と未処理の書類とがきちんと分別されて、それぞれ山を作っていた。

一軍の将ともなると一日の間に目を通さねばならない書類が文字通り山積みとなっている。それでなくともここ数日は情報部主導の下、立案された“例の作戦”絡みで書類の量が増えていた。昼食を摂ってからかれこれ四時間、さすがに少し疲れていた。

『…お疲れのようですね』

『うむ…』

秘書官のバクシーが、濃いコーヒーを差し出してきた。

バクシーとはトティラが第三軍の司令として就任して以来、二十年の付き合いになる。平民の出だが、トティラはこの男のことを気に入っていた。頭の回転が速く、なによりよく気の利く男だった。痒いところに手の届く男だ。

『馬鹿な情報部と、その情報部の長官との熱愛が噂されている王妃様のおかげでな。最近、書類仕事が増えてたまらん』

『またそのような事を口に出して……私以外の者に聞かれたら、どうするつもりです?』

バクシーが口元に苦笑を浮かべて言った。

二十年来の付き合いだけに、スア・トティラと呼ばれるこの国の英雄に対しても遠慮なく話しかけてくる。

『どうもせんさ。王妃様に対する不平不満は、この国の軍人であれば誰もが思っていることだ。儂一人が陰口を叩いたところで、みな冗談と聞き流してくれる』

カップを口元に運び、芳醇な香りを味わう。バクシーはコーヒーを淹れるのも上手い。さして高級でもない豆が、バクシーの魔法の手にかかると嘘のように美味しくなる。

真っ白なカップに満たされた黒色の液体を口に含んで、深みのあるその苦味にトティラは陶酔する。淹れたてだけに、コーヒーはまだ熱い。飲み干す際の喉を焼く感触が、またたまらなく心地良かった。

コーヒーを飲み終えて一息ついた時、バクシーが口を開いた。

『急ぎの書類はすべて終わっていますし、一時間ほど気分転換でもしたらどうですか?』

『ふむ、そうだな…』

肩と首をぐるぐる回しながら、トティラは深い溜め息とともに頷く。

たしかに、ちょうど休憩を挟みたい気分だった。といっても残る書類の量を考えると、バクシーの言うように休憩は一時間程度が限界だろう。また、緊急の場合に備えて執務室の外に出るわけにはいかない。気分転換といっても、室内でできることでなければ。

『……手紙を書くか』

周囲からは猛将の呼び名で名高い彼だったが、トティラは筆まめだった。特に、首都サモドアの本邸で暮らしている家族に対しては、月に一度、必ず近況を訊ねた手紙を送っている。

『それは良い考えですね』

トティラの言葉に、バクシーは人懐っこい笑顔で賛同した。

『きっとみなさん、喜ばれますよ』

トティラには最愛の妻と、子どもが七人、そして孫が三人いた。彼は家族を誰よりも愛し、また信頼していた。長兄のキャシアス、三男のアタナリック、四男のファルコはトティラ同様バーンライトの軍人で、ファルコについては先頃、昇進が決まったばかりだった。

バクシーの言葉に頷き返し、早速、トティラは手紙を書く準備を始める。インクとペンを用意し、デスクの引き出しから二種類の便箋を取り出した。一つは家族へ宛てた手紙、そしてもう一つは、家族への手紙とは別に妻へ宛てた手紙用だ。

トティラが手紙を書く準備を整えている間、バクシーは自身の仕事道具をまとめ、退室の準備をしていた。トティラを一人にさせるためだ。文章を書くときに誰か側にいては、時として邪魔になることがある。

バクシーの心遣いに感謝しつつ、トティラはまず家族への手紙を書き出した。

まず自分の近況について記し、次にファルコの昇進について触れる。それからは、家族一人々々に対して思い思いのことを書いた。

家族の手紙が書き終わった頃、バクシーは音もなく退室していた。

家族への手紙を封筒に入れ、続いてトティラは最愛の妻サラに対しての手紙を書き始める。聖ヨト暦二九九年にラキオスとの間で起きた一年半にわたる戦争の最中、激務に追われ、肋膜炎で倒れたトティラを看病してくれたのが、当時、看護兵だったサラだった。サラと初めて出会ってからもう三十年近く経とうとしているが、彼女への特別な手紙を書く時だけは、トティラは三十年前の出会った当時の気持ちになることができた。

聡明で、負けん気の強い彼女は、ベッドから抜け出して前線に向かおうとする自分をいつも捕まえては説教をした。バーンライトの英雄スア・トティラに対して、真正面から説教してきたのは彼女だけだった。病院からの脱走回数が十回を数える頃、トティラはサラのことを意識するようになっていた。

部屋のドアが二回ノックされた。

『誰だ?』と、声をかけるまでもなく、バクシーが、

『オディール・グリーンスピリットが面会に来ています』

サラと出会った日のことを思い出して満面の笑みを浮かべていたトティラの岩石を削ったような相貌が、不機嫌に歪んだ。

『入れ』

『失礼します』

ドアが開き、訓練を終えたばかりといった様子のグリーンスピリットが入室してきた。

急いで来たのか、浅く息を継ぐ度に均整の取れた乳房が上下している。男ならば思わず涎を垂らしてしまいそうな美乳だが、妖精差別主義者のトティラには視界を邪魔する異物でしかない。

トティラの前までやって来たオディールは、略式に敬礼をした。今日、トティラがオディールと会うのはこれで二度目だ。正式な敬礼は一度目の対面の時に交わしているから、略式でも何ら問題はない。

『オディール・グリーンスピリット、トティラ将軍の出頭命令に従い、参上いたしました』

『うむ』

深々と頷いてから、苦渋した表情を浮かべる。

たしかに本日中に執務室に来るよう出頭命令を下したとはいえ、何もこんな時にやって来なくてもよいだろう。おかげで良い気分だったのが台無しではないか。

理不尽な怒りを抱きつつも、トティラは黙ってデスクの引き出しから一枚の書類を取り出す。今朝、サモドアからやって来た通信兵が届けたものだ。アィギス王による実行許可のサインが書き殴られたその命令書をオディールに渡すと、彼女の顔は見る見るうちに緊張したものへと変わっていった。

命令書を読み進めていくオディールに、トティラは口を開く。

『……特殊作戦部隊の様子はどうなっている?』

『十分な休息を取らせてありますので、士気は旺盛です。命令さえあれば、今日中にも出撃準備を整え、明朝、リーザリオを発つことができるでしょう』

命令書に目線を落としたまま、オディールが言った。

その返答に一瞬だけ不機嫌な表情を消したトティラは、『結構』と、呟いてから、読み終えたオディールの手から奪うように命令書を取った。翻った紙面にはリクディウスの魔龍討伐作戦開始の日付とともに、詳細な命令が記されていた。作戦開始の日時はホーコの月、黒、よっつの日、早朝。つまり、明朝である。

『それでは、すぐにでも侵攻のための準備を始めろ。リクディウス山脈に着くまでに必要な糧食・物資はすでに用意してある。物資の運搬については、詳細は煮詰めてあるのだろうな?』

『はい』

『ならばいい。リーザリオを発ってからの指揮はすべて貴様に一任する。存分にやれ』

『はい、お任せください』

『貴様に渡したい物がある』

オディールが頼もしい返事を耳にして、頷いたトティラは立ち上がる。一九〇センチの彼が立ち上がり、動くと、まるで彫像が歩き出したかのようだった。

トティラは執務室に備え付けられた押し入れの前に立つと、中から風呂敷包みの荷物を取り出した。会議用のデスクの上に置き、包みを解くと、中から出てきたのはエーテル技術勃興以前の、人類の持てる技術の結晶が、姿を現した。

それは重厚な造りの鎧だった。鎧といっても不完全なもので、最も肝心な胴回りの部分は欠け、あるのは肩当てと篭手だけだ。足拵にいたってはそもそも存在すらしていなかったのかもしれない。肩当ては主に金属製だが、動物の皮や骨も貼り付けている。使い古された具合から相当な年代物と推測されたが、不思議なことに、皮や骨の部分に劣化の痕跡は見られなかった。

『それは……』と、オディールが口を開くよりも早く、トティラは言った。

『エーテル技術とスピリットが存在しなかった時代、聖ヨト王国建国以前の時代に、ゴート家の先達が、龍を討伐した際、その寝床としていた洞窟から採掘された金属で造った鎧だ。名を、ドラゴニック・アーマーという。伝承によれば、退治した龍は寿命の尽きかけた弱った状態だったらしいが、それでも多くの犠牲を出しての勝利だったという。

長い戦乱の時代の中で、鎧のほとんどのパーツは失われてしまったが、奇跡的に肩当てと篭手だけは残った。長年、龍の住んでいた洞窟で掘られた金属を使っているせいか、数百年経っても材質に劣化が見られん。そればかりか、まるで龍のマナに守られているかのように、大概の攻撃に耐え、今日まで原形を留めてきた。ゴート家の宝の一つだ。もっとも、儂自身は着たことがないがな。家宝を相続した頃には、もうこの鎧を着れるような体形ではなかった』

『……すごいですね』

オディールの唇から、震えた声が漏れた。

数百年を経ていまだに原形を保ってきたという事自体驚きの一つだが、スピリットのいない時代に、寿命で弱っていたとはいえ、人間だけの力で龍を倒したということも驚きだった。今回の任務にも、希望が見えてきたといえる。

『これを貴様に貸し与える』

『え?』

『勘違いするなよ。くれてやるわけではない。今度の任務の間、この肩当てと篭手を貴様に貸してやるだけだ』

肩当てと篭手をいとおしげに撫でながら、トティラは続けた。

『今回の作戦は情報部の馬鹿どもが名誉挽回のために立案した、三度目の正直を狙っての作戦だ。できることならば、このような愚かな作戦に、貴重な兵力を失いたくはない。…さすがに特殊作戦部隊全員にこの鎧を用意することはできん。だが、指揮官の貴様さえ生きていれば、撤退命令はいつでも下すことができる』

『トティラさま……』

『儂個人の意見としては、貴様らスピリットの命などどうだっていい。だが、バーンライト王国軍第三軍の司令、トティラ・ゴートとしては、陛下より預けられた貴重な戦力を無駄に死なせるわけにいかん』

トティラは肩当てと篭手を風呂敷で包み直すと、オディールに手渡した。巌のような、トティラ将軍の手だった。

『グリーンスピリットの貴様には不要かもしれんが、気休めにはなるだろう』

『はい。それでは、ありがたく使わせていただきます!』

オディールが、その美貌に明るい笑みを浮かべて頷いた。

手渡された風呂敷包みを大切そうに抱えるオディールに、トティラは先祖伝来の鎧を貸したことを少し後悔した。

 

 

 

 


<あとがき>

注)今回のあとがきでは他作品の批評のような文章が多々登場しますが、それら批評はすべてタハ乱暴の個人的主観に基ずく評価であり、必ずしも世間一般の評価とは合致いたしません。

 

柳也「なあ、タハ乱暴?」

 

タハ乱暴「んう? うした?」

 

柳也「もしかしてさ、ネタ尽きたか?」

 

タハ乱暴「な、何をいきなり藪から棒に言っているかな?!」

 

柳也「いや、だってよぉ……二回目だぜ? 二回目? 風呂場で鉢合わせも二回目だし、入浴シーン覗いてボコられるのも二回目。これじゃあ、読者の皆さんに『タハ乱暴、ついにネタが尽きたか』って、思われても仕方ねぇよ」

 

タハ乱暴「ち、違うぞぅ。今回のドリームのようなバスルームは話の構成上必要不可欠だったからであって、決してネタ切れ起こして二回目ってわけじゃないぞぅ」

 

北斗「そのわりには否定が必死だな。まるで、自分に暗示をかけているようだぞ?」

 

タハ乱暴「ち、違うんだ! ネタが尽きたわけじゃないんだー! ……そうだよな、自分!?」

 

北斗「やはりネタ切れだったか……」

 

柳也「そういやこの間、『そろそろ横文字人名のストックが尽きてきた』って、友人にぼやいていましたよ」

 

北斗「どうなるんだろうな? この物語は……さて、気を取り直して、あとがきに入るとしよう。

永遠のアセリアAnotherEPISODE:20、お読みいただきありがとうございました!」

 

柳也「アセリアAnotherも今回で連載20回目(仮面ライダーは除く)! ってなわけで、今回のあとがきはいつもと違ったノリでいこうと思います。題して!」

 

 

「永遠のアセリアAnotherが出来るまで〜@桜坂柳也が生まれるまで〜」

 

 

柳也「……です!」

 

北斗「つまり今回は永遠のアセリアAnotherの製作裏話トークをするというわけだな?」

 

柳也「そういうこと。それじゃ早速、そもそもタハ乱暴がこの話を書こうと思ったきっかけから……タハ乱暴?」

 

タハ乱暴「違うぞ。ネタ切れじゃないぞ。俺のネタはまだ尽きていない。俺は天才だ。生まれ付いてのシリアスストーリー職人なんだ! ネタが尽きるなんて絶対にありえないんだ!(自己暗示中)」

 

北斗「……我らの敬愛するべき父君は、自己暗示で忙しいそうだ」

 

柳也「なんだかなぁ……仕方ない。ここはアセリアAnother登場人物からサポーターとして手伝ってもらおう」

 

北斗「そうだな……では早速サポーター最適任者のニムントール君を」

 

柳也「おいこら、ちょっと待て。そこのロリコン。助手を自分の趣味で決めるな。ここはやっぱりアセリア屈指の説明役に登場してもらうのが一番だろう! ……というわけで、カモーン、エスペリアー!」

 

 

エスペリア「……というわけで呼ばれました」

 

柳也「Oh! エスペリア! 相変わらずの美人だぜ。メイド服が綺麗だぜ。マイすうぃーとエンジェルひゃっほーい!」

 

北斗「結局、貴様も趣味ではないか。さてエスペリア君、君には説明役として今回のあとがきに協力してもらうことになるんだが……そもそも、今回のアセリアAnotherが執筆段階に至った経緯の説明から頼む」

 

エスペリア「かしこまりました。……今回の二次創作、永遠のアセリアAnotherの構想をタハ乱暴が練り始めたのは20041月のことでした。永遠のアセリア発売前、デモムービー公開の時点でこの作品に引き寄せられたタハ乱暴は、実際にゲームをプレイした後、激しい衝撃と感動に襲われました。というのも、当時のタハ乱暴は、18PCゲーム業界に本格的なファンタジー作品は存在しない、という偏見を持っていたからです。それがアセリアとの出会いによって、考え方が一八〇度変わってしまいました。以来、タハ乱暴は友人たちに、『アセリアは美少女ゲーム業界のダレンシャンだ』と、公言して憚らないようになりました」

 

柳也「ダレンシャン?」

 

北斗「ハリー・ポッターや指輪物語ほど一般受けはしないが、一部に熱狂的な支持層を持つという点では、アセリアもダレンシャンも同じだからな。さしずめハリー・ポッターは……『ドラゴン・ナイト』シリーズか、『うたわれるもの』あたりだろう」

 

エスペリア「永遠のアセリアをプレイし終えた直後のタハ乱暴は、激しい執筆意欲にかられました。自分もファンタジーを書きたい。でも、一からファンタジー作品を作るには膨大なエネルギーが必要になる。そこでタハ乱暴は、アセリアの二次創作を書くことを思い立ちました。

永遠のアセリアはファンタジーSLG作品としては優秀でしたが、いくらかの粗も目立ちました。また、題材に戦争を取り扱っていながら、軍事面の描写が未熟だったことも、軍事オタクのタハ乱暴には不満でした。これら不満点を解消する意味も篭めて、タハ乱暴はアセリアの二次創作の構想を練り始めます」

 

北斗「ところが、だ。アセリアは長編物で、タハ乱暴が書こうとしていた二次創作も長編物。短編ならばまだしも、プレイ直後の感動と衝動だけで最後まで書き切れるような話ではなかった。プレイ直後の衝動から冷めるに従い、タハ乱暴の計画は凍結されてしまった。衝動のみで作り上げた構成、設定には多くの粗があった」

 

エスペリア「ちなみにこの時点で、現在のアセリアAnotherにおけるリュウヤさまのようなオリジナル・キャラクターは存在していました」

 

北斗「いわば柳也のプロトタイプのような存在だな。当時の原案がこれだ」

 

戦部零人

 

辛い過去を背負った主人公。悠人達のクラスメイト。軍事知識に精通し、高い戦闘力を誇る。悠人とは光陰経由で知り合った。美男子だが女性恐怖症で、女所帯のスピリット隊でひーひー言いながら戦う。名前は省略すると零戦になります。

 

柳也「フッ、いまの俺とは比べようもないくらいどうしようもない男だな」

 

北斗「……いまにして思えば、なにゆえタハ乱暴はこのキャラを没としたのかはなはだ疑問だな」

 

エスペリア「それはさておき、2004年の1月に執筆を思い至ったアセリアAnotherは、同じく2004年の1月中に構想段階の時点で執筆を断念されてしまいました。原案を記したノートだけは保管して。当時のタハ乱暴の力量では、衝動から長編を書くほどのプランニングは出来なかったのです。

この時点で当時のタハ乱暴は、いまこうして再びアセリアを書くためにパソコンの前に座ることになるなどとは思ってもいませんでした。しかし3年後の20078月、事態は急変します」

 

北斗「当時、ゆきっぷう宅にて、あの男が購入した『聖なるかな』初回限定版に付属していたアセリアのプレイを見たタハ乱暴は、かつて自分が書こうとしていたアセリアの二次創作の存在を思い出した。勢いだけで原案を練り、そのまま凍結させてしまった黒歴史を……。そして奴は思ったわけだ。今がその時だ! と」

 

柳也「そうして出来たのが、この俺だーーーー!!」

 

 

エスペリア「少し補足をしておきますと、再度アセリアの二次創作への創作意欲に燃えたタハ乱暴は、何よりもまずかつて封印した原案ノートを探しました。この原案ノートには、これまでタハ乱暴が書いた作品、書いてもネットには上げなかった作品、原案だけで結局書かなかった作品のすべてが記録されています」

 

北斗「ちなみにタハ乱暴は、小説自体は中学生の頃から書き始めていた。現在、この原案ノートはvol.12まである。アセリアはこのうちのvol.8に記されていた」

 

柳也「原案ノートvol.8を発掘したタハ乱暴はアセリアのページを開いて思わず呟いた!」

 

<回想シーン>

 

タハ乱暴「ひ、ひでぇ……」

 

<回想シーン終了>

 

北斗「簡単に説明すると、当時タハ乱暴が考えていた原案では、最終的に戦部零人はこれまたオリキャラの一之瀬隼人(一式戦闘機隼)とタッグを組んで瞬を倒して悠人を倒すという話だった」

 

柳也「……は?」

 

北斗「いやだから、瞬を倒して、悠人を倒す話だった。……永遠存在になった二人を」

 

エスペリア「3年の時を経てそれなりに成長していたタハ乱暴は、原案ノートvol.8を使えないものと判断し、新たにvol.10に現在のアセリアAnotherの原案、基本的な設定を書き込んでいきました」

 

北斗「ちなみにこれがその原案ノートから抜粋した最初期の柳也の設定だ」

 

桜坂柳也

 

辛い過去を背負った主人公。悠人と同学年で、瞬のクラスメイト。瞬と佳織とは幼馴染の間柄。剣術家で軍オタ。女好き。「ドリーム」と「恋をしてしまった」が口癖。性格はやや破綻気味。十人並みよりやや上くらいのルックスの持ち主だが、周囲に美形が多すぎるため十人並み以下にしか見られない。そのため、顔のことを指摘されるとぐれる。

 

柳也「……あれ? 良いトコ一つもないよ?」

 

エスペリア「いまにして思えば、やはりこちらの方を採用して正解だったように思います」

 

北斗「実際、タハ乱暴も過去の戦部零人と現在の桜坂柳也とでは柳也の方を気に入っている。曰く『書いていて楽しい。あまり頭を悩ませないでも勝手に動いてくれる。非常に扱いやすいキャラクター。あ、勿論、愛着もあるよ』だそうだ」

 

柳也「チョット待てィ! なんか最後のついでっぽいぞ!」

 

エスペリア「原案で満足のいくものが出来た時点で、タハ乱暴は本格的な構想に入りました。やがてリュウヤさまも、現在のような色々な顔を持つキャラクターとなっていたのです」

 

北斗「ちなみに、柳也の剣術が直心影流に決まったのは本格的な構想用のノート、通称『永遠ノート』を書き始めてから決まった。他の候補としては柳生新陰流などがあったが、それじゃあまりにベタすぎるということで、直心影流に決まったという経緯がある」

 

エスペリア「リュウヤさまのキャラクター造形については、『主人公としてあらゆる意味で掟破りの破天荒なキャラ』という基本コンセプトが根底にありました。また、『読者の皆さんを飽きさせない、色々な顔を持ったキャラ』というのも意識していたそうです」

 

北斗「単に辛い過去を持っているだけならば小学生でも書ける。やたらめったら強いだけのキャラクターなら中学生でもOKだ。碇シンジのような悩む主人公なら、悩み多き年頃の高校生が適任だろう。真の意味での熱血漢は大学生くらいでないとつかめないだろうが……それだけでは読者が面白くない。アセリアにはすでに悠人という主人公がおり、アセリアを始めとする魅力的なキャラクターがいる。そんな中に今更ステレオタイプのオリキャラを登場させたところで、いかに話が良かろうと面白さは半減だ」

 

エスペリア「破天荒なキャラを。原作のアセリアには登場しない、また他の二次創作作家の方々が書いたことのないようなキャラを。そう考えて、タハ乱暴はリュウヤさまを作りました」

 

北斗「第七位の永遠神剣持ちという点も、アセリア二次創作に登場するオリキャラのステレオタイプを嫌った結果といえる。タハ乱暴は極めて早い段階の時点で、柳也には六位以上の神剣を持たせる考えを捨てていた。永遠神剣の魅力はその位からくる戦闘力ではなく、一個のキャラクターとして成立した人格と、所有者との関係だとタハ乱暴は考えている。あの男にとって、永遠神剣の位はさして問題にはならなかった」

 

柳也「だから〈決意〉は第七位っていう、中途半端な位の神剣になった。第四位ほどのパワーもなけりゃ、第九位ほど弱小でもない。本当に中途半端な位の神剣だ」

 

北斗「ちなみに戦部零人時代に考えていた神剣はナイフ型で第五位だった。名前は〈隔絶〉。あの男も、この3年で考え方をがらりと変えたらしい」

 

 

エスペリア「……以上が、永遠のアセリアAnotherの執筆経緯と、リュウヤさまが生まれるまでのすべてです」

 

柳也「一人のキャラクターが生まれるまでの壮絶なドラマ……まさにドリームだぜぇ。……あれ? そういや、俺の名前の由来は? まったく説明がなかったようだけど」

 

北斗「…………うぐっ」

 

柳也「あれ? うしたんだ?」

 

タハ乱暴「柳也……いま、お前は北斗にとっての黒歴史に触れてしまったんだよ」

 

柳也「おお! タハ乱暴!」

 

エスペリア「自己暗示が終わったようですね」

 

タハ乱暴「ふっ、仮にも心理学部出身のこの俺様! 自己暗示、自己催眠について一通りの知識くらいは持っている。生まれ変わった俺は、最初からクライマックスだぜ!」

 

柳也「クライマックスはともかく、黒歴史って」

 

北斗「あぁ…いや……その…………」

 

タハ乱暴「もともと桜坂柳也っていう名前は俺が昔書こうとして、結局没にした『桜吹雪』っていう話の主人公の名前だったんだよ。ただ、この『桜吹雪』の主人公以前に、とある作品の原案段階で初めてこの名前が登場したんだよなぁ」

 

エスペリア「とある作品とおっしゃりますと?」

 

タハ乱暴「『Heroes of Heart』」

 

二人「え!?」

 

タハ乱暴「いやだから、桜坂柳也って名前の初出は『Heroes of Heart』で、もともと誰の名前だったかというと……」

 

北斗「……俺だ」

 

二人「えぇ?!」

 

北斗「原案段階の俺の名前は桜坂柳也、それが闇舞狂夜になり、闇舞北斗になったんだ」

 

タハ乱暴「その意味で、柳也と北斗は兄弟なんだよな。北斗が長男で柳也が三男。次男はさっき言った『桜吹雪』版の柳也」

 

柳也「う、嘘だろ?」

 

タハ乱暴「いや、本当。……読む? 原案ノートvol.5

 

柳也「よ、よこせ! …………あ」

 

エスペリア「……しっかり、桜坂柳也と銘記されていますね」

 

柳也「……俺と、北斗さんが兄弟。こんなロリコンと……兄弟?」

 

タハ乱暴「いま明かされる衝撃の事実ってね。……さてさて、読者の皆様、今回も永遠のアセリアAnotherをお読みいただき、本当にありがとうございました!」

 

北斗「前回はファーレーンのターン。今回はニムントールのターン。そして次回はいよいよ奴らが来るか!?」

 

タハ乱暴「次回のEPISODE:21でもお付き合いいただければ幸いです。それでは!」

 

柳也「おで、ロリコンの血縁者……」

 

<原案ノートvol.5抜粋>

 

桜坂柳也

 

オリキャラ。とらハメンバーと特撮ヒーローとの架け橋としての役割を持つ。正体はショッカーライダーの0号試作型で、廃棄処分となりかけたところをダブルライダーに助けられたという過去を持つ。酒好き。




柳也、日に日に可笑しな方向にキャラが向いて行ってないか?
美姫 「果たして、湯を飲むのは本当に冗談だったのかしらね」
決意が何も言わなければ飲んでいたんじゃないだろうか、とも思ってしまうな。
そう言えば、その決意も決意だな。
美姫 「まさにこの主にして、この神剣ありかしら」
いやいや趣向は個人の自由だからね。
犯罪にさえ走らなければ良いんじゃないかな
美姫 「寧ろ、柳也をそっち方向に開眼させようとしたりしてね」
それはそれで面白いかも。
美姫 「今回、あとがきでは誕生秘話が語られているわね」
まさにキャラクターに歴史ありだな。
美姫 「さて、そんな愉快な柳也が次はどんな顔を見せてくれるのかしらね」
次回も楽しみにしてます。
美姫 「待ってますね〜」



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