――聖ヨト暦三三〇年、レユエの月、黒、いつつの日、朝。

 

『ユートさま、あの時以来、剣の声がするということはありませんか?』

朝の食事中に突然、エスペリアが切り出した。

あの時とは、おそらく悠人がアセリアを押し倒してしまった時のことだろう。

『ん? あ、ああ、大丈夫だよ。それよりも剣の力が使えないことのほうが問題かな』

何の前触れもなくエスペリアに訊ねられ、サラダを口に含んでいた悠人はそれを飲み込んでから口を開く。

まるで最初から用意していたかのようにすらすらと紡がれる単語の羅列に、隣に座る柳也は複雑な視線を悠人に向けた。

――…どう贔屓目に聞いても、嘘にしか思えんよなぁ。

今朝も隣の席で元気そうに食事を頬張る友人の顔は、憔悴にひどくやつれているように見える。アセリアを押し倒したあの日の後も、幾度となく〈求め〉の声に苛まれている証拠だった。

柳也に対しても、悠人は〈求め〉の声について何も言わなかった。一方の柳也も、悠人が真実を隠そうとする気持ちは痛いほどわかるので、あえて自分から追及をしようとは思わなかった。

できることなら何とかしてやりたいと思うが、残念ながら自分に悠人のためにしてやれることは何もない。柳也は無力な自分が、悔しくて仕方なかった。

『本当ですか? お顔の色が優れません』

『パパ、びょーき?』

オルファが心配そうに悠人の顔を覗き込む。

不安に揺れる赤い瞳を眺めているだけで、柳也の胸は痛んだ。

『いや、違うよ。病気じゃないさ。ただ寝付きがなんか悪いんだよ』

『神剣は場合によっては心を蝕みます……その欲求に答えないと…』

『いや、コイツはただ俺を苦しめたいのか、頭痛をさせるだけさ。ちょっときついけど大丈夫だよ』

続くエスペリアの言葉を遮るように、有無を言わさぬ語調で悠人は言った。

たしかに、強引にでも話を切り上げないと、エスペリアの追及はやみそうになかった。

『本当に……大丈夫なのですね?』

表情が曇る。

聡明なエスペリアのことだ。彼女はすでに悠人の嘘を見抜いているのかもしれない。

悠人は思わずエスペリアから目を逸らした先で、オルファと目を合わせる。

『パパ、だいじょうぶ?』

幼いが、悠人のことを心から心配する炎の眼差し。

悠人は努めて明るい口調と表情で口を開いた。

『大丈夫さ、みんな心配性だなぁ。さ、速く食べないと次の訓練に遅刻しちまうぞ』

『そうだな。次の指導教官はヨゴウ殿だし…五分の遅れで、大分追加メニューが増えるぞぉ』

実際にはまだ次の訓練までには十分な余裕があったのだが、これ以上、言葉を取り繕う悠人を見ていたくなくて、柳也はしきりに頷いた。

『それに悠人だって、本当に辛くなったら自分から言うだろう。いくらなんでも、悠人だってそこまで馬鹿じゃないはずだ』

『馬鹿…って、ひどい言い草だなぁ…』

『事実だろう? 数ヶ月前、後先考えずにお前、謁見の間で何したよ?』

柳也は焼き魚の骨を、バリバリ、と噛み砕きながら、隣の友人に笑いかけた。

『う…あ、あの時はカオリが捕まっているってことだけで頭に血が上って……って、それを言うんだったらお前だって相当無茶したじゃないか!』

『あん? そうだったか?』

『……一国の王に刃を向けておいてこの男はいけしゃあしゃあと…』

悠人は呆れるような眼差しで柳也を見た。

柳也はかんらかんらと笑った。

いつの間にか場の空気に混ざってオルファも笑っている。

アセリアはといえば、いつも通りの無表情で食事の方に集中していた。

ただ、エスペリアだけが釈然としない表情を浮かべて、柳也達のことを見ていた。

エスペリアの視線を感じながら柳也は、

――でも、いつまでも誤魔化しきれるものじゃないぜ、悠人…。

と、思った。

 

 

 

 

 

永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

第一章「有限世界の妖精たち」

Episode17「魔龍討伐」

 

 

 

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、

 

室内での戦闘訓練を行なうべく、王城内の訓練施設に足を運んだ柳也達は、そこで見知った顔を見つけた。

先日、ラキオスの戦士として、またスピリット隊の訓練士として制式に登録されたモーリーン・ゴフ……もとい、セラス・セッカだ。ラキオス軍制式のチェイン・メイルに身を包み、ショート・スピアーの扱いを新兵と思しき十名ほどの一団に教えている。つい先日、ラキオス軍に軍籍を置いたばかりのセラスだったが、本人の実力とリリアナの紹介者という背景もあって、すでにその地位は一ヶ月少々で小部隊の隊長を任されるほどにまでなっていた。

元々マロリガンで騎士を務めていただけあり、セラスは剣に限らず槍や弓、はては馬の扱いにも長けていた。これだけの技能を持った戦士というのはラキオスでも稀有な存在であり、この国はまさに有力な人材を手に入れたといえるだろう。

セラス・セッカの正体がモーリーン・ゴフであることは、ドラゴン・アタック作戦にたずさわった柳也とエスペリアしか知らない。立場上は自分達の上官にあたる訓練士を前にして、二人の後ろに続く悠人達の表情が引き締まったものになるのも、当然といえるだろう。もっとも、アセリアだけはやはり相変わらずの態度を貫き通していたが。

『精が出るな、セッカ殿』

『リュウヤに…スピリットたちか』

柳也達がセラスのもとに近寄ると、向うもこちらに気づいて手本の動作を止める。

頭部をすっぽりと覆うグレイト・ヘルムの窓から、相変わらず憎たらしいほどに端正な眼差しが覗いていた。

『貴様らがこちらの訓練所の方に来るとは珍しいな?』

セラスが槍を中段に構えた姿勢を保持したまま、口を開く。柳也達も見慣れたラキオス式ではなく、マロリガン式の構えに我流のアレンジを加えたと思わしきその構えは、見ていて気持ちの良いほど洗練され、威風堂々としていた。

強大な攻撃力を持つスピリットの訓練は、普段は野外の訓練施設で行うことの方が多い。これは差別対象であるスピリットと人間の兵士を引き離すためというよりは、安全面からの処置という性格の方が強かった。

『いやさ、万が一、王都に敵が攻めてきた場合と、市街戦になった時の用心のために、室内での戦闘訓練をと思って』

『ほぅ…』

セラスは中段の構えを解く、柳也の背後に居並ぶ四人に視線を走らせた。

グレイト・ヘルムの仮面の下、その顔はどんな表情を浮かべているのか。

『……見たところ、まだ室内戦闘が可能なほど熟達した戦士は貴様を含めて三人しかいないようだが』

『それを、これから五人に増やすんだよ』

セラスの遠慮のない発言に苦笑しつつ、柳也は腰の大小の柄頭を軽く叩いた。

『あのぅ……』

その時、それまでセラスの背後で黙していた新兵達のひとりが、おずおずと口を開いた。セラスと同じデザインのチェイン・メイルを着込み、同じ寸法の槍を携えている。防御力には優れるが視界の悪いグレイト・ヘルムは被っておらず、紀元前ギリシアの兵士が使用していたようなトラキア式の兜を頭に着けていた。

『セッカ隊長、そいつらはもしや……』

『ああ。我が国の誇るエトランジェ殿と、精鋭スピリット部隊だ』

『桜坂柳也だ。よろしく頼む』

柳也は人懐っこい笑みを浮かべると右手を差し出した。握手の習慣は欧米から輸入された文化で、これはお互いに武器を持っていないことを証明するための儀式である。欧米人の場合は、話し合いをするにしろ、友達になろうとするにしろ、まずは互いに武器を捨て、敵意がないのを示すことから始めねばならない。

柳也は日本人だったが、ミリタリー・オタクのこの少年は欧米の文化についても研究熱心で、そうした儀式には慣れていた。結局のところ戦争は人間が起こすものであり、そこには当事者達の民族性、文化が大きく反映される。

柳也は右手を差し出したが、新兵はそれを取らなかった。

嫌悪感を露わにした表情で一歩身を引き、柳也のことを睨みつける。

柳也は宙ぶらりんになった自分の利き手に複雑な視線を落とすと、続いてセラスを見た。

『俺達は俺達で勝手にやるからさ、セッカ殿達も自分の訓練を進めていてくれ。…なるべく、そちらには迷惑にならないようするから』

『わかった』

柳也の言葉にグレイト・ヘルムが縦に揺れ、セラスは再び槍を中段に構えた。

柳也はセラスに背中を向け、悠人達の顔を見回した。

『それじゃあ、俺達も始めようぜ』

柳也の言葉に、全員が頷く。

ゲットバック作戦で途中から戦闘指揮を執って以来、柳也はエスペリアに次いでみなのまとめ役を務めることが多くなっていた。

言うまでもないことだが、室内での戦闘は野外でのそれと比べて制限が多い。

まず戦闘可能な空間そのものが限られているため、野外の戦闘では有利な間合いの長い武器を振り回すことができず、戦闘は常に近距離で始まると考えてよい。野外での戦闘以上に素早い状況判断と敵味方の識別能力が求められ、また高度な戦闘技術が要求される。さらには建物崩壊の危険性から強力な神剣魔法が使えず、特にレッドスピリットにとっては不利な戦いを強いられることになってしまう。考えなしに神剣魔法を使って崩壊した建物の瓦礫に飲まれる可能性が最も高いのは、魔法を使う本人なのだ。

ラキオス王城は廊下にせよ、部屋にせよ、間取りと天井を大きめにとっているのであまり気にする必要はなかったが、それでも人間の兵士とともに訓練しているから、魔法の使用は厳禁だ。その意味ではアセリアもあまり強力なパワーは発揮できない。室内での戦闘は、純粋に経験とテクニックがものを言う勝負の場となる。

訓練は柳也とエスペリアが主導になって行なわれた。

アセリアもエスペリアも得物が大きいだけに、室内での戦闘には支障が生じるかと思われたが、そこはやはり熟練の戦士。二人とも長大な間合いの武器を器用に扱い、いささかの戦力の低下も見られなかった。柳也も、同田貫と脇差を使い分けながら、アセリアとエスペリアを相手に一歩も引かぬ健闘を繰り広げた。

問題は経験の浅いオルファと、悠人だった。

レッドスピリットのオルファは最初に懸念されたように、思うように神剣魔法が使えぬために苦戦をよぎなくされた。それでなくとも、まだ身体が成長しきっておらず、白兵戦での不利は免れられない彼女だ。単独での戦闘は難しく、万が一の事態には誰かがサポートに回ってやる必要があるだろうと、結論づけられた。

オルファについてはペアを組むことで一応の解決策が出されたが、悠人については問題が残った。

なんといっても、ファンタズマゴリアに召還されるまでは普通の生活を送ってきた身だ。柳也のように剣術を習っていたわけでもなく、せいぜい剣に関わる武術で、経験があるのは剣道くらい。それも、学校の体育で僅かな時間学んだのみだ。実戦経験云々以前の問題として、そもそもの基礎の力が足りないのだ。

まして今、悠人は神剣の力を使えないでいる。神剣による強化なしの悠人の体力では、四半刻もすれば立っているだけで限界だった。

さらに四半刻が過ぎ、いよいよ立っているのも苦痛といった様子の悠人を見て、柳也とエスペリアは彼を戦闘訓練からはずし、基本の稽古をさせることにした。

柳也とエスペリアが交代で指導することにし、基本的な技術の習得と基礎体力作りを徹底させる。悠人は悔しげに素振りを繰り返していたが、こればっかりは柳也にもどうしてやることもできない。下手に指導の手を甘くして、いざ実戦で命を落とすのは悠人本人なのだ。

さらに半刻が経ち、訓練開始からきっかり二時間後、だいぶアセリアも息切れが目立ち始めた辺りで、柳也達は一旦休憩を挟むことにした。

『それじゃあ、三十分の休憩にしよう』

柳也の宣言に、悠人とオルファがほっとしたような表情を浮かべる。神剣の使えない悠人だけでなく、いつものように神剣魔法を多用できない特殊な状況でストレスの溜まっていたオルファも、体力のほとんどを消耗していた。二人とも床の上に直接尻持ちを着き、青色吐息で汗を拭う。

『動いた後にすぐ尻を着くと痔になるぞ?』

『……なんで柳也はあれだけ動いてそんなに平気そうなんだよ?』

悠人が、焦点の定まらぬ視線で恨めしげに見上げてくる。

手拭いを首に巻いて見下ろす柳也もまた多量の汗をかき、息をついてはいたが、そのサイクルは規則的で、疲労は悠人達ほどではない。

『鍛え方が違うんだよ。もともと俺は神剣を手にする前から二時間くらいは、普通にぶっ続けで稽古してきたし、今は〈決意〉がいるからな。持久力だけは分けてやるほどあるぜ?』

『…だからあんなに大飯食らいなのか』

〈求め〉を杖代わりに、のろり、と立ち上がる悠人。

柳也は玉のような汗が浮かぶ額や首を重点的に拭きながら、快活に笑った。

『ああ! だから、ハイペリアに居た頃は食費がかさんで苦労した。…本気で追いつめられた時は、山に登って山菜を探したり、兎を追った』

『…ウチも両親はいないけど、そこまで逼迫してはいなかったな』

『高嶺家には佳織ちゃんが居たからな。二人暮らしだと、同居人に迷惑をかけたくないからって遠慮も出るし、我慢もできる。けど、生憎と俺は一人暮らしだ』

柳也は廊下の窓から、ふっ、とどこか遠くの方を見た。

雲一つない晴れ渡った空に、猛禽の嘶きが滑っている。

『ミリタリー・オタクは金がかかるんだよ。最終的に国内の情報だけじゃ満足できないから、海外の出版物にも手を出すだろ? ただでさえミリタリー関連の書籍は普通の書店じゃ取り扱ってねぇしよぉ。電車乗って、遠くの街まで出ないといけない。模型やモデルガンなんかに手を出そうものなら、たった一回の買い物で月のバイト代の何割かが吹っ飛んでいく。軍装一式揃えようと思ったら、苦学生には高い買い物だ。これに加えて生きていくための出費は避けられない。…食費を削るしか、ないんだよ!』

柳也は無念そうに拳を握ると、熱の篭もった口調でまくし立てた。

『しかし俺は知っての通り大飯食らいだ。外食は当然厳禁。自炊にしても、素材を厳選し、極力、光熱費を節約せねばならん。だがそれとて限界はある。日本という国家社会で生きていくには、どうしても金を使わねばならない。八百屋のおばちゃんが十円で売ってくれる大根の葉っぱも、毎日買えば一ヶ月で三〇〇円、一年で三六五〇円だ。これは大きな出費だ。

……以前、一度だけ理性のタガをはずしすぎ、享楽の世界にどっぷり浸かってしまったことがあった。第二次世界大戦でアメリカ軍が使った、M1ガランドライフルのブローバック・モデルガンだ。“コンバット!”を見て胸を高鳴らせた男なら、絶対に入手しておきたい一品だ。そして俺は、ケリーが大好きだった。……買うしかなかったんだ!』

柳也はシェイクスピアの悲劇の主人公さながらに頭を抱えた。

その隣では、悠人の米神がヒクヒクしている。

それに気付かず、柳也は己の過去を振り返って目尻に涙を浮かべる。よほど辛い、苦闘の日々だったのだろう。

『当時、M1ガランドは新品で三万ちょいした。無論、この貧乏苦学生に新品が買えるわけがない。セコハンだ。それでも、一万二千円した。けれど、俺は喜んだね。なんせ、当時の俺は他にガバメントを持っていた。俺の友人のミリタリー・オタクの男はブローイングBARを、別な友人はM1カービンを持っていた。さらに十歳年上の戦友は、トンプソンを持っていたんだ。俺達は、これで一人の欠員を出すこともなく、“コンバット!”ごっこが出来るようになったんだ!!

……しかし、その代償はあまりにも大きかった。俺はその後、その月を先月の三分の二の食費で切り抜けねばならない状況に陥ってしまったんだ。父さんと母さんが遺してくれた遺産はたしかにまだ十分残っている。しかし、それはできることならば使いたくなかった。俺は頑張った。学校に二リットルのペットボトルを一ダース持ち込み、毎日、水道水を入れては持ち帰った。充電式の乾電池はすべて学校で充電し、いつもは十円の大根の葉っぱを、五円に値切った。サンマは一尾五十円という最安値だったのを、四十円に値切った。だが、そんな努力にも限界が訪れた。とうとう我が家の家計は、両親の遺産に手を出さねばやばいところまで来ていた。俺は苦渋の決断を迫られた。しかしその時、俺に天啓が下ったのだ。神様が俺に、こうせよと、進むべき道を教えてくれたのだ!」

『…………で?』

『瞬に頼んでキャンプ用のテントを借り、木刀を片手に山に篭もった。いやあ、あの時は大変だったが、良い体験をしたものだ。最初はあまり美味いとは思えなかった兎も、最終的には極上の懐石料理に思えたほどだ。……まぁ、俺は懐石料理など生まれてこの方、一度も口にしたことはないが。まさに、空腹に勝る調味料はないということを実感した月だった。焼いてみると、意外にも美味いんだよ、ネズミが』

『…そうか』

悠人は盛大に溜め息をついた。呆れのあまり怒りすら湧いてこない。

見ると、話の端々に登場する理解不能な単語はともかくとして、柳也の食生活の凄惨さにエスペリアもオルファも、アセリアでさえ彼から五歩ほど距離を置いている。

『…ん? あれ、どうしたんだみんな? なんで俺からそんなに離れているんだ?』

『い、いえ、あの…リュウヤさまは、もう少しご自身の食生活について見直した方が良いかと思います』

『……テントを返しに行った日に、瞬にも言われたな、それ』

『ネズミがどうした?』

背後から聞き知った男の声。

柳也が振り返ると、グレイト・ヘルムをはずしたセラスが立っていた。どうやらこちらの方も、訓練に一段落をつけたらしい。

『いや、別に何でもないさ。ネズミが美味いって話をしていただけだ。…そっちの出来栄えはどうだい? セッカ殿?』

柳也はセラスの背後で疲弊しきっている男達を顎でしゃくった。新兵達は血気盛んな若者達ばかりだが、セラス・セッカの鬼の訓練を二時間以上も受け、立っている者は一人もいない。

セラスは溜め息をつくと渋い眼差しを一団に走らせた。

『…まだ訓練を始めたばかりの連中だ。なんとも言えん。一ヶ月前に徴兵されたばかりの連中だから、技術がないのは当然だが、全員、私よりも若いくせに体力がないのが痛い』

『この世界じゃ実際に戦うのはスピリットだしな。その辺は仕方ないだろ』

『しかし、万が一ということもありうる』

セラスは悠人達に視線を走らせると、声を潜めた。

『…先のドラゴン・アタック作戦のような事態が、もう二度と起きはしないとは、誰にも言えん』

たしかに、ドラゴン・アタック作戦の時のように、敵の主力がスピリットではなく人間の戦士だった場合、対抗するにはこちらも人間の戦士か、スピリットと違って人間に攻撃のできるエトランジェをぶつけるしかない。いくら足掻いたところで戦争の主役にはなれないとはいえ、そうした事態に備えて練度を高めておくことは重要だろう。あのような非常事態がそう何度も起こるはずがないと考え、準備を怠るのは都合の良い願望だろう。

『当分は基礎体力の強化と、基本的な戦闘技術の習得に専念するしかあるまい』

『けど、長々と訓練しているわけにはいかないだろう? 三年だっけ? ラキオスの兵役期間は』

王政国家であるラキオスでは、兵役制度は基本的に徴兵制によって成立している。一応、志願枠も設けてはいるものの、人数でいえば徴兵された兵の方が圧倒的に多い。

ファンタズマゴリアで三年といえば七二〇日だ。この七二〇日の間に、セラス達上級の軍人は素人新兵を一人前の兵士にしなければならない。日数が限られているからあまり多くの事は詰め込めないし、かといって効率良くスケジュールを組んでいかねば、三年などあっという間に終わってしまう。

『三年なんてあっという間だぜ? 基本もたしかに大切だけど、俺達と違って日数が限られている身だ。多少練度が低くても、実戦である程度は戦えるような戦術も、教えておいた方がいいと思うが』

『何かアテがあるのか?』

『あるにはある……』

柳也は訓練所のそこかしこに視線を走らせると、練習用の武具が並ぶ倉庫へと足を向けた。セラスらをその場に残して目当ての物を探す。やがて目的の武具を見つけた柳也は、それを手にしてセラス達の前に立った。

『これは俺の世界で考案された戦術陣形なんだが』

そう前置きしてから、柳也は両手に持った武具を見せた。

柳也の右手と左手には、それぞれ攻めるための武器と、守るための防具が抱えられていた。石突から穂先まででゆうに四メートルはあろうかという長柄の槍と、直径一メートルはあろうかという円形の盾を、二つずつ持っている。

『この際、機動力は最初から考えないことにするぞ。…悠人、ちょっと手伝ってくれ』

『あ、ああ』

悠人は怪訝な顔をしながらも首肯した。

柳也から槍と盾を手渡され、少し考えてからそれらの武具を武装する。円形の盾はグリップの他に、腕を通して固定するためか、巨大な盾を肩から提げるためのバンドがあり、悠人は盾を肩から提げることにした。そして両手で槍を持つ。

一連の作業を見届けた柳也は、自分もバンドの長さを調節して盾を肩から提げ、槍を携えると、悠人の横に並んだ。

二人の姿を見つめるセラスの目が、僅かに動く。

『ファランクスっていう陣形だ。本当はもっと大人数でやってこそ効果を発揮する代物だが、この際、十人くらいでもそれなりに効果があると思う』

『…なるほど。長柄の槍で敵を牽制し、巨大な盾で自分のみならず、隣に並ぶ仲間をも守る、か』

『密集しての戦闘が基本だから、機動力には劣るが、前面の攻撃力と防御力を高くできる。集団戦法だから個人の技量はあまり関係なく、ある一定の戦力が確保できるし、なんといってもチームの連携が物を言うから、必然的に部隊内の結束力も高まるって寸法だ。俺達の世界でも、ギリシア式とマケドニア式の二種類があったけど、今やっているのはマケドニア式だ』

『“ぎりしあ”式はどうなっている?』

『ちょっと、待っていてくれ』

柳也は長柄の槍を地面に置くと、バンドの長さを調整して、左腕を通し、グリップを握った。悠人も、柳也に習って左手で盾を持つ。当然、両手で構えなければまともに穂先を敵に向けることも困難な長柄の槍は構えられない。その代わり、左手で持った直径一メートルの盾は隣に並ぶ友の左半身をすっぽりと覆っている。

『ギリシア式の場合は右手にショート・スピアーを持つ。普通は二本携行して、一本を投げ槍に、もう一本を格闘戦用に使う。マケドニア式よりも古いファランクスだが、基本は変わらない』

『ふむ…』

セラスは両腕を組むと熟慮の眼差しを向けた。どうやら、一考する価値ありと考えたらしい。

『マケドニア式の場合は槍の間合いで敵を牽制できるから、その前に弓兵や投石兵を置いてもいい。基本は守るための陣形だから攻勢に出るほどの機動力はないが、人間が戦わなければならない非常事態っていうのは、こちらが守る側だろ?』

『そうだな……よし、サムライよ、そのファランクスなる陣形を私に教えてくれ』

リリアナの影響か、セラスも時折柳也のことをサムライと呼ぶ。

柳也は二つ返事で快諾すると、早速、悠人の分の盾と槍をセラスに渡した。ギリシア式の練習のため、ショート・スピアーも新たに三本用意する。

セラスが新しいショート・スピアーを用意している間に、悠人が口を開いた。

「なんで…」

「ん?」

「なんで、〈求め〉は柳也じゃなくて、俺なんかを選んだんだろうな……?」

悠人は悔しげに唇を噛みながら、呻くように呟いた。

「俺なんかじゃなくて、柳也が〈求め〉の主だったら、きっとアセリアたちにも迷惑かけなかったのに…なんで、俺なんかが……」

「悠人…」

「それは違う…」と、口にしようとした慰めの言葉を、柳也は慌てて飲み込んだ。

柳也には悠人の肩が、泣いて震えているように見えた。

剣の声を恐れ、剣の声に苦しめられている悠人。そしてそれゆえに剣の力を引き出せない悠人。

神剣を使いこなせる自分が、今の悠人にかけられる言葉はない。かける言葉はすべて、持たざる者への優越の意味しか持たない。

悠人を見つめる柳也の瞳は、いつしか悲しげに揺れ動いていた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、ひとつの日、昼。

 

重要な作戦発表があるということで呼び出された悠人達は、午前の訓練も程々に、急遽謁見の間へと足を運んだ。

――なんだ、この感じは…?

王座の前で跪いた柳也は、いつもと様子が違う謁見の間の空気にふと気が付いた。

周囲から注ぐ相変わらずの好奇と嫌悪の目に加えて、今日は心なしか同情的な眼差しを感じる。さっと周りに視線を走らせると、ある一定の地位を境目に、大臣や兵士達が明らかに他とは異なった態度を示していた。高級官僚でも泰然自若としているのはレスティーナとダグラスくらいのもので、歴戦のリリアナですら緊張に表情を引き締めている。どうやら彼らは件の重要な作戦について何か知っているようだが…。

『エトランジェよ。時は満ちた……。さぁ、我々のために働いてもらう時が来たぞ』

王座に着くラキオス王は、白い髭を撫でながら低い声で語り出した。

『この王都より北に向かった、リクゥディウス山脈に龍が住む洞窟がある。そこに赴き、マナを解放してくるのだ』

鮮烈に言い放った王の命令に、周囲のみなが騒然とした。

おそらく身分がかなり高いと思われる初老の男などは、明らかに目を剥いて辛辣な抗議を口にしている。深い皺が刻まれたその顔には、その“龍”と呼ばれる存在に対する畏怖の念が、ありありと浮かんでいた。

――龍、か…。

龍という存在がいまいち理解できない異世界の少年達も、周囲の反応に漠然とした恐れを抱く。

王座の背後に掲げられたラキオス国旗に描かれた白銀の眼差しが、今日は奇妙な威圧感を放っていた。

『静粛に、皆の者。これは既に決定された事なのだ』

ラキオス王の言葉は静かではあったが、反論を許さない冷たい圧迫感に漲っていた。

王政国家において、王の発言は神の声にも等しい。それ以上、声が続くことはなかった。

『確かに…いままでリクゥディウスの龍は我が国の守り龍として代々祭られてきた。しかし、すでにそんな無意味なものを存在させておくことはできない時代となったのだ』

『…………』

ラキオス国旗に描かれた守護神から視線を下ろした時、柳也の視界に、王の隣に立つレスティーナの姿が映じた。

――ん…?

一瞬、その紫紺の瞳に嘲りとも哀れみともつかぬ色が浮かんだように見えて、柳也は小首を傾げる。レスティーナはラキオス王を見ていた。

なぜ、彼女はあんなにも悲しげな眼差しを実の父に向けているのか。

『国を護ることも出来ない龍など。存在させておく価値が本当にあるとは思えぬ。龍を倒せば大量のマナが解放される。あの山脈はもちろん我々のエーテル変換の領域である。それに…』

ニヤリ、と口元を歪め、ラキオス王は悠人に視線を投げかける。

ちょうど顔を上げていた悠人と王の視線が交差した。

『そのためのエトランジェなのだ…』

王はゆっくりと悠人を指差した。

たったそれだけの仕草と言葉だけで、先ほどまで不安そうな表情をしていた人々が、安堵と歓声の混ざった声をあげる。

実行するのが自分でないとわかった途端、柔和な表情を浮かべる無責任な彼らに、しかし柳也は腹を立てなかった。逆の立場であればきっと自分も安堵していたと思うし、そうした人々の中にも、リリアナのように人間でない自分達に苦渋の眼差しを送ってくれる者もいる。

たとえ僅かであったとしても、自分達の身を案じる視線が、柳也には嬉しかった。

『エトランジェよ、無論、やってくれるな?』

再び王に視線を向けると、そこには歪んだ笑顔があった。

反射的に隣の悠人を見るや、案の定、友人は今にも怒りを爆発させそうな表情で、王のことを睨んでいた。

柳也は小さく口を開いた。

「悠人、ここは抑えろよ」

「……ああ、わかっている」

悠人は小さく頷いた。

見ると、後ろから彼の服の裾が引っ張られている。悠人の後ろにはエスペリアが控えているはずだ。どうやら彼女も、悠人の怒りを感じ取って、自分と同じ事を考えたらしい。

そういえば、謁見の間に足を運ぶ直前に、エスペリアは特に悠人に対して、決して怒りを爆発させぬよう念を押していた。それが今は佳織のために、なにより悠人自身のためになると言って。

友人は微細な動作で後ろを振り返って、笑顔を向ける。

柳也も小さく振り向くと、エスペリアは安心したように微笑んでいた。

再び前へと顔を向けた悠人は、努めて感情を押し殺しつつ、王を見た。見上げるその眼差しに、もはや怒りのうねりはない。

『ラキオス王の命…しかと承りました。我々は全力をもって、リクディウスの龍を討伐し、ラキオスにマナを持ち帰ります』

胸に手を当てて、はっきりとした口調で悠人は宣言した。

ファンタズマゴリアに召還される直前、悠人は文化祭の出し物の演劇の練習をしていたという。その真摯な演技は、迫真に迫るものがあった。

鷹揚に頷くラキオス王。

しかし悠人を見下ろすその視線に、一瞬、恐怖の感情が垣間見えたのは、柳也の気のせいだったか。

再度、隣に視線を向けると、どうやら柳也にだけ見えた見間違いではなかったらしい。悠人はいい気味だ、とばかりに侮蔑の視線を向けていた。

『うむ。よく言った。それでこそ我が国が誇るエトランジェ』

ラキオス王は悠人達を見回した。

『スピリットと共に、明朝出立せよ』

『ハッ!』

『解っているとは思うが…失敗の報告など、受け付けぬぞ』

『はい、解っております!!』

悠人は深々と頭を下げた。

『我が剣〈求め〉に誓い、龍討伐の命を果たします』

腰に佩いた〈求め〉を掲げ持ち、声高に宣言。

柳也もまた、それに習って同田貫を抜き、その切っ先をラキオス国旗に描かれた守り龍の絵へと向けた。

『ラキオスに勝利を』

『うむ。では、準備をしっかり行なうように…それから、リュウヤよ』

『ハッ』

突然の名指しに僅かに訝しげな表情を浮かべ、柳也は慇懃に跪いた。

『せっかく張り切っているところ残念だが、今回の任務にお主は参加させぬ』

『はい…は、は?』

柳也は思わず顔を上げた。

王の発言に、柳也自身のみならず周囲の廷臣達も困惑した眼差しを向ける。

『陛下、守り龍に対してはこれまでにも何度となく討伐隊を編成し、しかしその度に壊滅させられてきました。ここは戦力を出し惜しみするべきではないかと思われますが…』

ラキオスの剣術指南役にして軍事顧問でもあるリリアナが、当然の反論を口にする。戦力の集中、意志の集中は兵法の基本中の基本だ。

しかしラキオス王は『別に出し惜しみをするわけではない』と、首を振った。

『エトランジェ・リュウヤには、別の任務を遂行してもらう』

『……別の任務、ですか?』

柳也の眼差しが自然と細まった。

リリアナの言葉や周囲の人間の反応からも、守り龍が強大な存在であることは明白だ。これに対して戦力を分散させるというのは、愚策以外の何者でもない。それを承知の上で別任務を自分に与えるということは……つまり、そういうことなのだろう。

――特殊作戦に類するものか…。

人質救出やカウンター・テロなど、一般の陸軍部隊では到底やらないような特殊作戦。守り龍の討伐も特殊作戦といえなくもないが、この世界の常識ではそれも正規の軍事行動に類するらしい。

はたして、自分に与えられるのは如何なる任務なのか……?

俄然、興味が湧いたが、そもそも特殊作戦というのは秘匿性の高いものだ。その存在をチラつかせこそすれ、このような公衆の場で内容にまで触れることはないだろう。

『追ってお主にも指示を下す。…それまでは、本隊の準備を手伝うなど貢献せよ』

『ハッ』

『うむ。…下がってよいぞ』

『はい』

悠人達は立ち上がったその時、それまでずっと口を紡いでいるばかりだったレスティーナが、不意に口を開いた。

『エトランジェよ……』

『あ、はい!』

『なんでしょうか?』

完全に虚をつかれる形で言葉をかけられた悠人は素で、一方の柳也は冷静に返事をする。

『あなたたちの身体はこの国全体のもの…。必要とされている。必ず無事に、帰ってくるように…』

『…………』

必要とされている。

その言葉の陰に、佳織の存在があるのは明らかだった。

悠人にしても、柳也にしても、佳織のためならば命を落としてもよいという覚悟はある。しかし、本当に佳織のことを考えるなら、自分達は生きて帰らねばならない。

自分達が死亡するか、あるいはラキオスが自分達の価値を認めなくなったとしたら、人質としての佳織の役割は終わる。そして果てに待っているのは、最悪の未来でしかない。下手をすれば今度は、佳織がエトランジェとして戦うことになるかもしれないのだ。

『はい、殿下。ありがとうございます。必ず戻ります』

『私もこのような場所で死ぬつもりは毛頭ございません』

『わかればよい…。では成果を期待する』

『はいっ!』

全員で一礼し、王座に背を向けて歩き出す。

悠人を先頭に、柳也、そしてエスペリア達が続いた。

先頭を進む悠人の歩みに、迷いは感じられなかった。

 

 

――同日、夕方。

 

『……やはりユートは耐え続けていますか。強制力は自我を壊すほど強いものと聞いています。どこまで耐えられるものなのでしょう?』

レスティーナとエスペリアは王城の訓練棟にいた。

辺りに人影はなく、一目で密会の類であることが窺い知れる。

話題はもっぱら悠人のこと。

毎晩のようにうなされている悠人の身に生じている異変を、エスペリアが気付かぬはずがない。

神剣の意志……その欲求に答えなければ持ち主をも害すことは、すでに知られていた。

『はい。…前にも言いましたが、あの〈求め〉は、神剣の中でも高位です。ゆえに求める力や代償もまた大きいかと。

私どもはスピリット。ユートさまたちハイペリアの方々の心の強さはわかりませんが……』

『四神剣の口伝通りであれば、契約者を通して望むものは…』

『〈求め〉が欲しているものは、私たちの身体と、破壊と、マナの充足です』

エスペリアは悲しげに言った。

『ユートさまも気付いているでしょう。それでも必死に耐えておられます。私たちを傷つけまいと……』

悠人が耐え続けて、苦しんでいること。

それでも、悟られまいと自分たちに必死な笑みを向けていること。

そして悠人の心を守るために、悲壮な覚悟を決意した、柳也の笑み。

一つ一つの行動から彼らの優しさが、彼の恐怖が痛いほど伝わってくる。それゆえに、エスペリアは切なく、また苦しかった。

『………………』

レスティーナは目を伏せ、しばらく思案する。

そして、感情を断ち切るように唇を噛み、冷静に話し始めた。

『これより、より大きな戦いへと発展するでしょう。必然的に〈求め〉の力はより必要となります。エトランジェとしての責務を果たさなければなりません。解っていますね?』

『……解っております。ユートさまのお心も、リュウヤさまの決意も、アセリアたちも、私が楯となりお守りします』

その声には、毅然とした決意が篭められていた。

『私は汚れています。いまさら何をためらうことがありましょう』

エプロンドレスの裾を、きつく握り締める。

その顔には、決意と諦めの色が濃くあった。

 

 

――同日、夕方。

 

「…追って指示を下す、って言ってたよな」

謁見の間でのラキオス王の言葉を思い出し、柳也は溜め息混じりに呟いた。

窓際から見上げる空はすっかり茜色に染まり、黄色とも赤ともつかない空の境界では、薄っすらと星の輝きが浮かびつつある。すでに国王による重大発表が下されて六時間が経っていた。しかし、柳也のもとに使わされるはずの伝令は、一向に姿を見せなかった。

国王に言われた仲間達の手伝いはとうに終わっている。

今や悠人達に残された仕事は夜の作戦会議に出席するだけとなり、柳也は暇を持て余してしまった。

自分の準備を整えようにも、任務の内容がわからないままでは、あれこれ妄想して不要な物を持っていくことになりかねない。人質救出のように、特殊作戦の全てが必ずしも短期間で終わるとは限らない。下手をすれば何ヶ月間も敵地での威力偵察に明け暮れるという、危険な任務も考えられる。携行する装備の選択は、任務の正否以前に生還する上で重要な要素なのだ。

不適切な装備を持っていってしまったがために、大した成果を挙げぬまま終わってしまった軍事作戦の例としては、大規模なものではロシアに進出したナポレオン、小規模なものではガダルカナルに支援砲撃を加えた連合艦隊などがある。

ロシアの冬が厳しいことは、子どもでも知っている常識だ。それなのに冬用の装備を持たぬまま進出したナポレオン軍は脆弱な補給体制もあってロシア遠征に失敗してしまった(同様の失敗は、以後も日露戦争で日本軍が、第二次世界大戦でヒトラーが犯している。ただし、日露戦争ではなんとか辛勝を果たした)。

ナポレオンの失敗については高校の世界史の教科書にも掲載されているくらいなので、今更多くを説明する必要はないだろうが、ガダルカナルでの支援砲撃については少し説明が必要だろう。

昭和十七年十月、『ガダルカナルは海軍のヘマから始まった戦いなのに、海軍は何もしないのか』と陸軍が海軍を突き上げた結果、高速戦艦“金剛”、“榛名”の二隻による艦砲射撃が決定された。帝国海軍戦艦中最速の二隻は夜中に沖合から突入し、米軍飛行場に九一八発の砲弾を撃ち込んだ。当時、ガダルカナルの飛行場は火の海になったと報道され、陸軍師団参謀の『戦艦一隻の砲撃は野砲一〇〇〇門に優る』との電報もあって、国民は熱狂した。しかし、実際の戦果は火の海とは程遠いものだった。

一般的に戦艦の艦砲射撃は強力というイメージが強い。たしかに、その認識は間違いではない。ガダルカナルに砲撃を加えた金剛、榛名は、金剛型戦艦の同型艦で、三五・六センチ連装砲を四門持っていた。三五・六センチ砲弾の一発の重量は徹甲弾の場合で六七三キログラムもあるから、一斉射で十トン以上の砲弾を叩き込むことができる。単純な重量だけでいえば、B-29爆撃機の一編隊分ほどの威力だ。それを一分ごとに続けて撃ち込んでいくのだから強力でないはずがない。

しかし、これらの考え方はあくまで総論であって、個別具体論で考えると、少なくともガダルカナルにおいてはほとんど意味のない攻撃だったといえる。ガダルカナルで使用された九一八発の砲弾の内訳は、三式通常弾一〇四発、九一式徹甲弾六二五発、零式通常弾一八九発で、このうち効果があったのは僅かに零式通常弾だけだった。最も数多くぶち込んだ九一式徹甲弾は、約六〇パーセントが不発弾となって、ガ島の軟らかい土に埋まってしまった。もともとは、敵艦の硬い装甲を貫くための砲弾である。三式通常弾はたしかに飛行場を火の海に変えたが、それは当時の飛行場が枯れ草を敷き詰めていたからで、それが燃えただけだった。

これがもし、九一八発の全部が零式通常弾であれば戦果も違っていたであろうが、史実ではさしたる戦果を挙げられぬまま、第二回の支援砲撃が実施された。艦砲支援から一ヶ月が経ち、また『海軍は何をやっている』との突き上げがあったのだ。

当時の連合艦隊長官・山本五十六は第二回の実施命令を下したが、一部の部下達は猛反対を示した。天皇も、同じ事を二度もして大丈夫かと聞かれるが、はたして、大丈夫ではなかった。すでに一度米軍は攻撃を受けている。二度目の攻撃に備えて警戒を敷くのは当然だった。その警戒網に正面から突撃させられ、金剛型の比叡と霧島が沈んだ。

――ガ島と同じ徹を踏むわけにはいかない。俺にはまだ、生き続けなければならない理由がある。

柳也は部屋の片隅に置かれた背嚢を見た。米軍のアリスパックなどと違い、機能性や耐久性を考えず、単に収納スペースだけを大きく取っただけの粗末な代物だ。必要な時に、必要な物を素早く取り出せるか否かは、扱う者の性格と技術に依存するといっていい。

この中に、いったい何を、どのような配置で入れておくか。ファースト・エイド・キットは無論のこと、サバイバルのための装備も一応は必要だろう。固形エーテル燃料とランプも必要だ。糧食は何日分必要か。しかしフリーズ・ドライ製法の確立されていない世界だから、糧食は必然的にかさばってしまう。何を持っていくかも重要だ。

すべての持ち物は任務の内容によって決まるといっていい。

そしてその内容を知らせてくれるはずの伝令がなかなか来ないので、柳也は苛立ちを覚え始めていた。

「…悠人のところにでも行くか」

いつ伝令が来るかわからないので、館からは動けない。すると必然的に暇を潰す方法は、ひとり黙々と鍛錬に励むか、気の許せる友人のもとへ行くかの二択になってしまう。

柳也は後者の選択肢を選んだ。

理由は本当になんとなくだったが、後から考えてみると、自分はこの時、虫の知らせのようなものを感じたのかもしれない。

柳也は一階の自室から階段を上って悠人の部屋へと向かった。

扉を二度ノックし、自分のことを伝えて返事を待つ。

しばらくして入室を許可する返事があり、柳也はドアノブをひねった。

「邪魔するぞ」

『あ、リュウヤ、いらっしゃい』

てっきり悠人一人かと思って入室してみると、そこにはオルファもいた。

『なんだ、オルファも来ていたのか。…もしかして、本当に邪魔をしてしまったか?』

『…んなわけないだろ。オルファとは普通に話していただけだよ』

『そうそう。パパとのお喋りは楽しいよ〜』

『……やっぱり、邪魔をしてしまったような気もするが』

柳也は眉と眉の間に縦皺を刻んで言った。

『まぁ、個人の趣味嗜好に関してとやかく言えるほど俺も高尚な趣味を持ち合わせているわけではないが、悠人、人の道だけは踏み外すなよ?』

『…柳也が俺のことを普段どう見ているのか、よくわかったよ』

悠人は軽く睨みつけるように柳也を見た。

『その体勢で言われてもなぁ』

射るような悠人の眼差しを軽く受け流しつつ、柳也は苦笑を浮かべた。

今、悠人は膝の上にオルファを乗せている。おそらくはオルファが勝手に乗ったのだろうが、その行為を受け入れたのは悠人自身だ。その気になれば、いくらでも拒絶できる。

――オルファが佳織ちゃんに近いからなのか、単純に悠人がアレだからか…。

オルファを膝に乗せる悠人の表情も満更ではなさそうだ。もしかすると、かつての佳織に対しても、同じようなことをしてやっていたのかもしれない。佳織は芯の強そう娘に見えて、わりかし甘えん坊なところがあるから、ありえない話ではない。

『ねぇ、パパぁ…』

屈託のない笑顔を悠人に向け、オルファが口を開く。

見下ろす悠人の顔をぺたぺたと触る様子は、本当の親子のようだ。

『ん? どうした?』

『さっき王様の前のとき、カッコよかった〜! へへ、惚れ直したよぉ♪』

『なんか変だな、その言い方…? 惚れ直したって、なに?』

『そうかなぁ…言葉通りなんだけどな? でもホントにパパ、カッコよかったよ!』

所在なさげに足をぶらぶらとさせながら、にっ、と笑ってオルファは悠人を見上げる。

つられて微笑む悠人だが、その表情にはどこか力がない。

『さんきゅ、オルファ。でも俺、本当はちょっとビビってるんだ』

『えぇ? なんでなの?』

『自分で言っておきながらだけど、龍退治なんて、さ…』

別に悠人はオルファを不安にさせたいわけではないだろう。

しかし、本音を誰かに聞いてもらいたいというのもまた、事実だったに違いない。

――はっきり言って、ゴジラと戦うようなもんだもんな。

実際に龍とは戦わない柳也ですら、その存在に対しては漠然とした不安と恐怖を抱いている。実際に戦う立場にある悠人の不安や恐怖は比べ物ではないだろう。まして現在の悠人には、〈求め〉という問題も圧し掛かっているのだ。

『パパ……』

悠人の雰囲気を察したか、オルファが彼の頬を優しく撫でた。

『だいじょうぶだよ♪ だって、パパ強いんだもん』

オルファは無邪気に笑った。そこには、悠人に対する純粋な信頼があった。

『ありがとな、オルファ…でも、俺はそんなに強くないよ』

謙遜でもなんでもなく、本心からの言葉。

しかし悠人の発言に、オルファは首を横に振った。

『そんなことないよぉ〜。オルファ、わかってるんだから』

『…そうかな?』

悠人は小首を傾げた。

オルファはにっこりと笑って、怪訝な問いに頷いた。

『うん! ホントのホントだよ?それに、みんなも解ってるよ』

『みんな? みんなって誰のことだ?』

『アセリアお姉ちゃんも、エスペリアお姉ちゃんも。それに…』

指を折りながら、オルファは名前を挙げていく。

ずり落ちそうになるその身体を両手で支えながら、悠人の表情が徐々に穏やかになっていくのを、柳也は見た。

『カオリも…きっと王女さまもだよ♪』

自信たっぷりに言うオルファ。

悠人自身は到底そんな気にはなれなかったが、自分を勇気付けようとする少女の心遣いが、彼には嬉しかった。

『勿論、俺もな』

柳也は快活な笑みを浮かべた。

『悠人はまだ何も知らないだけだ。経験を積めば、俺はいつか悠人は大成すると確信している』

悠人を元気付けようという打算もあったが、それは偽らざる柳也の本心だった。

実際、高嶺悠人という少年には、親友と同じで、本気で取り組めば何でもできてしまいそうな、どこか底知れぬところがあった。

『そっか…じゃあ頑張らなくちゃな!』

オルファと柳也からの賛辞に、悠人は照れたように苦笑して言う。

『でも、みんな俺を買いかぶってると思うぞ』

『かいかぶってるって、な〜に?』

『本当よりも、その人を凄いって思うことだよ』

『そんなことないもん♪ オルファの目は確かだよぉ』

『なんだ、それ?』

『ふっふぅ〜、オルファの目ってスゴいんだよ?』

指折り名前を列挙していた時以上に、自信たっぷり、得意たっぷりの笑みをこぼし、オルファは小さく胸を張った。

『そうなのか?』

『敵さんだって、見るだけで大体の強さがわかっちゃうんだから!』

『あ、それは俺もなんとなくだけどわかる』

柳也もオルファほど自信に満ちたものではないが、柳也も笑顔で頷く。

『相手の構えとか、所作とかで、大体実力の見当がつくんだよ。これは今の俺より弱い。こいつは俺よりもはるかに強い…って。だいたい、的中率は八割くらいかな』

『へぇ〜…二人ともそんな特技があるんだ。意外だなぁ』

『えへへ…すごい? スゴイ?』

目をキラキラさせて悠人に問いかけるオルファ。

二人の少年は微笑ましい気持ちになり、悠人などはくしゃくしゃとその頭を撫でた。

『凄いな、オルファ。そんな特技があるなんて知らなかった。意外だよ』

『意外はひどいよ〜。ほら、“コーボーも筆の誤り”! うん、うん、そんな感じ〜♪』

『…どんな感じだ、それ…』

『それからオルファ、残念だがそのことわざの使い方、まったく間違っているぞ』

『あれ? そうだっけ』

唇を尖らせて少し怒った表情から一転して笑みを浮かべるオルファ。

『まぁいいや♪ 気にしない気にしない♪』

『いや、あんまり考えなしなのもどうかと思うが…』

異様にサバサバとしたオルファの発言に、柳也は僅かに不安にかられた。

いつまでも失敗を引き摺らないのは良いことだが、あまり気にしなさすぎるのも問題のような気がする。柳也はつい、オルファの先行きを心配してしまう。

『ね、パパは恐い? 明日の龍さん殺しに行く作戦』

先ほどまでの話題など本当に忘れてしまったかのように、唐突にオルファが言った。

『不安じゃないって言ったら嘘になる…な。失敗するのは恐いし、戦うこと自体も恐い』

『そっか……。あ! そーだ』

何かを思いついたらしいオルファが、悠人の膝の上でモゾモゾと動き始める。

『ん…しょ、よいしょ…っと』

膝の上からにじり寄って、大腿の中腹辺りまで近寄ったオルファの両手が、悠人の頬を挟んだ。小さな膝小僧が悠人の両脚に挟まれている。

『ふぁ、ふぁに?』

『パパ、ちょっとこっちに頭下げて〜』

『なんだなんだ…? 急に』

『いーから、いーからぁ♪』

オルファの意図するところが読めぬまま、しかし一応は彼女の手つきに従って、悠人は頭を僅かに傾ける。

柳也も、これから何が始まるのか興味津々といった様子で何も言わずに二人を見守っていた。

『うん。はい! じゃあ、ちょっとそのままでいてね〜♪』

左右からの軽い圧迫。オルファが足に力を込めたのがわかった。

これからいったい何をしようといのか、悠人がそう言おうと思った瞬間、少女は両手で悠人の頭を撫で始めた。

まるで幼子を抱く母親のように優しげな手つきの指の間を、癖っけの強い悠人の髪が滑っていく。

『お、おいおい……オルファ、いいって!』

年下の少女からの行為が恥ずかしいのか、羞恥に頬を染めながら抗議しようとする

悠人の唇を、オルファは人差し指を立てて制した。

『し〜っ! ……こほん…』

ひとつ咳払いをして、少女の赤い瞳がゆっくりと閉じられる。

『暖かく、清らかな、母なる光…』

ゆったりとしたリズムが、小さな唇から紡がれる。

『すべては再生の剣より生まれ、マナへと帰る』

綺麗な歌声が、部屋の隅々にまで染みていく。

軽く瞼を閉じ、穏やかな微笑みを浮かべながら歌うオルファ。

『たとえどんな暗い道を進むとしても…』

紡がれる旋律はこの上なく美しく…

『精霊光は必ず私たちの足下を照らしてくれる』

しかし、耳の奥に溶ける調べはどこか儚げで、悲しい……

『清らかな水、温かな大地、命の炎、闇夜を照らす月…』

世界の森羅万象を語り、

『すべては再生の剣より生まれ、マナへと帰る』

冷たい運命へ至る道を語る。

『どうか私たちを導きますよう…』

どこで生まれ、どこからやってきたのか。

そして金色の霧となって、どこへ行くのか。

スピリットたちの一生を語る歌。

スピリットたちの魂を守る歌。

悠人も柳也も、いつしか時間を忘れて、その歌声に聴き入っていた。

『マナの光が私たちを導きますよう……』

静かに、オルファの祈りの歌は終わっていく。

柳也も悠人も、すぐには声が出ない。

それほどまでに、歌っているオルファの姿は神々しかった。年下の少女に頭を撫でられているという羞恥はたちまち消え去り、異世界の虜囚という立場さえ忘れさせる。オルファの歌声に、二人は魂を揺さぶられたのだった。

『えへへ…、これで、終わりっ♪ ね、ね、どう? 元気出た?』

歌い終えたオルファは、笑顔で訊ねてくる。

歌っている最中の大人びた表情からは一転して、幼い活力を振り撒くその笑みに、二人もつられて満面の笑顔を返した。

『うん…ありがとう、オルファ。元気でたよ』

『ああ…なんていうか、すっげぇ幸せな気持ちになれた。…とこで、一体、なんの歌なんだ?』

『んーと、これはね、私たちのお祈りなんだって!』

『スピリットのお祈りなのか…。気持ちが落ち着いたのはそのせいかもな』

悠人は感慨深げに言った。

声が少し震えて聞こえるのは、いまだその感動が残っているからかもしれない。

『そうかも〜。オルファもエスペリアおねえちゃんから教わったんだよぉ♪』

『この国のスピリットだけが歌ってたのかな…』

『う〜ん、わかんない…あ、でも、ず〜〜〜っと昔からあるお祈りみたい』

『スピリット達の、スピリットのための祈り…か』

『すべては再生の剣より生まれ、マナに帰る……』

この歌…いや、祈りを作ったのは、いったいどんなスピリットだったのか。彼女はこの祈りに、どんな想いを篭めたのか。

柳也は反射的に窓の外を見た。

名前も顔も知らないスピリットの歌う姿が、茜色の空に浮かんで見えた。

『オルファね…これ大好きなんだ♪』

『そっか…そうだな。俺もこれ、好きだよ』

『やったぁ♪ ね、ね、リュウヤは?』

『俺か? …うん。俺も気に入った』

『うん。この歌を聴くと優しい気持ちになれるし…なんか懐かしい気持ちになるんだ…』

深い知性をたたえた真紅の瞳が、うっとり、と細まる。

オルファの言葉に耳を傾けていると、不思議と切なげな気持ちにかられた。

スピリット達の祈り。それは生まれながらに決まった絶望の道中で、一筋の光明を探して進み続ける決意の表れのようにも思える。ほんの僅かな希望を信じて、暗闇を歩き続けていこう……もうこの世にはいないであろう彼女の、願いが篭められているような気がした。

『パパの不安なんて飛んでっちゃえ〜! って気持ちでお祈りしたんだよ?』

『ああ、ありがとなオルファ…もう大丈夫だ。ほーら! どっか飛んでちゃったぞ!』

膝の上のオルファを軽く持ち上げ、悠人はにっこりと微笑む。

まるで本当の親子のようなやり取りに、柳也は、くすり、と笑みをこぼした。

『ホント? よかったぁ〜♪』

『…あのさ』

『??』

『今度、佳織に会ったらさ…それ、あいつにも聞かせてやってくれよ。きっと喜ぶからさ』

『そうだな。佳織ちゃんならきっと喜ぶ』

『うん♪ わかったぁ!』

満面の笑顔で応じるオルファ。

その笑顔をなんとなく見ているだけで、幸せな気持ちが湧いてくるのは柳也だけではあるまい。彼女の肩に手を置く悠人も、久しぶりに心から優しい笑顔を浮かべていた。

その時、不意に柳也の頭の中に、一つのアイディアが浮かんだ。考えれば考えるほど、それは最良のグッドアイディアに思えた。

『…ふむ。オルファからは素敵なプレゼントをもらってしまったな。よし、ここは俺も、ハイペリアの音楽を一つプレゼントしよう!』

『なッ!!?』

『え? ホント??』

慄然と顔を引き攣らせる悠人と、興味津々といった様子のオルファが、同時に柳也の顔を見つめる。

柳也は会心の笑みとともに胸を叩いた。

『ああ! 俺は歌にはちょっとした自信があってな。その昔、町内のカラオケ大会で観客席のみんなを美声で悶絶させたという伝説が…』

『伝説だけにしておいてくれ。頼むから』

悠人は必死の形相で叫んだ。彼は複数の情報ソースから柳也の歌声の素晴らしさについて、幾度となく聞かされていた。

まず、幼馴染の佳織曰く、

『柳也先輩の歌い方ってちょっと独創的っていうか…万人受けしないんだよね』

とのこと。

さらに佳織の親友の小鳥曰く、

『柳也先輩の歌って、普段はただうるさいだけなんですけど、テンションが最高潮になると声でガラスを割るんですよねぇ』

と、いみじくも語っていた。

件のカラオケ大会の時も、周囲からはやし立てられて有頂天になった柳也は、その凄まじい歌いっぷりで観客を気絶させると同時に、電照を三つほど割ったという噂が悠人達の町内にも伝わってきたくらいだ。

また、学園に入学したばかりの頃、合唱部への入部を希望していた柳也が入部テストで一曲歌ったところ、その日から部長がノイローゼに陥ったというエピソードも伝わっている。ちなみにその話を耳にした本人は、

『部長には悪いことをしてしまったなぁ。まさか数日経っても耳に残るなんて…やっぱり俺って歌の才能があるんだな』

と、学内新聞部のインタビューに答えていた。当然、柳也は合唱部の入部テストに落ちた。彼はいまや帰宅部のレギュラーである。

柳也の歌の凄まじさを知っている悠人は、なんとか彼を思い留めようと必死になだめすかす。

一方、その膝の上で、柳也の歌の凄まじさを知らないオルファは、目をキラキラと輝かせて、

『スゴイ! スゴ〜イ!』

と、はやし立てる。

カラオケという言葉の意味を知らないオルファだったが、その場の雰囲気で彼女ははしゃいだ。

そしてその態度が、己に酔っている柳也の気分をさらに昂揚させた。今や柳也のテンションは最高域に達しようとしていた。

『よっしゃあッ! それじゃあいくぜ。…桜坂柳也で、“歩兵の本領”!!』

『やっぱりそっちの路線か!?』

悠人は悲鳴をあげた。

このままでは自分達の鼓膜が大変なことになるばかりか、ハイペリアの文化を誤解されかねない。なんとしても、柳也の暴挙を阻止しなければ。

悠人が固く決意したその時、

「万朶の桜か襟の色……」

【主よ、奴が来るぞ……!】

「……ッ!」

柳也の頭の中に、直接響く暴力への警告。

たちまち柳也の表情が緊迫し、己に向けられていた関心は、すぐさま隣に座る友人へと向けられる。

「〜〜〜…ッッ!!!!!」

突如として豹変した柳也の眼差しに悠人の表情が、きょとん、としていたのも束の間、次の瞬間、彼の表情が苦しげに歪んだ。声にならぬ悲鳴が唇から漏れ、全身の筋肉が目に見えて伸縮を刻む。

柳也は、己の眼前で膨大なマナが湧く、冷たい感触を覚えた。圧倒的な暴力の匂いが漂い、途方もない憎悪の炎が弾け飛ぶ。黒いマナの気配が、柳也の神経を撫でていく。

反射的に走らせた目線の先で、壁に立てかけられた〈求め〉の刀身が薄く輝いていた。

「くそ…。また…あの、声が…ッ」

額に浮かぶ玉の汗が、ぽたり、ぽたりと膝の上のオルファの顔に落ちる。

悠人の様子が尋常でないことは、オルファの目にも明らかだった。

『パパッ! しっかりしてぇ、パパ!』

目尻にいっぱいの涙を浮かべ、不安そうに悠人を揺さぶるオルファ。

意識が朦朧としているのか、焦点の定まらぬ視線は、膝の上の少女のことを見ていない。いやもしかすると、今の悠人にはオルファの声すら聞こえていないかもしれない。

状況からして、〈求め〉の声が強襲を仕掛けてきたのは間違いなかった。

荒い息遣いのまま、悠人は苦悶に瞼を閉じる。

喉が渇くのか、ヒューヒュー、と危ない呼吸を繰り返すその都度、一瞬にしてびっしょりと濡れそぼったブレザーの肩が大きく上下した。

だがその動きは、徐々に小刻みに、規則正しいものになっていく。

やがて呼吸も安定していき、止め処なく浮かんでいた脂汗が、一気に引いていった。

烈々たる波動をもって激しく活性化していたマナの気配も、まるで何事もなかったかのように落ち着きを取り戻し、安定する。

『パパ、パパぁ…! ね、どーしたの!? ねぇ〜!』

ブレザーの袖を掴み、必死に悠人を揺さぶるオルファ。

ぽたり、とまた悠人の額から雫が落ち、少女の流す涙に溶ける。

まるでそれが合図だったかのように、悠人の瞼が、ゆっくりと開いた。

焦点の定まらぬ視線が、部屋の中を這い回る。

『ゆ、悠人……』

柳也は僅かに不安を孕んだ眼差しで悠人を見つめた。

悠人の意志が神剣の欲望を跳ね除けたか、〈求め〉の意志が友人の肉体を乗っ取ったか。

ただ茫然と辺りを見回す悠人の様子から、その解答を得ることは難しい。また安定したマナの波動からも、判断を下すのは困難だ。

柳也は、ごくり、と息を飲んだ。

緊張の瞬間が、長く、そして静かに続いた。

永遠にも似た一瞬の間に、悠人は柳也を見、継いでオルファに目線を落とした。

少女の紅い視線と少年の黒い視線が絡み合い、やがて悠人は、酷薄に唇を歪めた。

「……さぁ……頂くとしようか」

悠人は、彼のものとはとても思えぬひび割れた声で呟いた。

日本語で紡がれたその響きの持つ意味を、膝の上のオルファは理解できなかったが、その背後の柳也はたちまち理解した。同時に、悠人の中で起こった変化についても。

『ちょっと待ってて! エスペリアお姉ちゃん呼んで来るっ!』

『待て……』

膝から降りようとするオルファの細腕を、素早く掴もうとした悠人の右手首を、懐に忍び寄った柳也の右手が掴む。

一瞬、きょとん、となったオルファを乱暴に引き離し、柳也は手首を支点に悠人を投げ飛ばした。少林寺拳法や合気道で発達している、片手投げだ。

普通ならこの後、相手は背中から地面に突っ込んで、痛みで動けなくなってしまうはずだが、悠人の場合はそうならなかった。

攻撃の最中、悠人は素早く身体を捻るや床に着地し、あまつさえ柳也の拘束を解いて反撃を試みた。

コンパクトなフックをスウェーで避けた柳也だったが、反撃までの一連の動作は熟達した戦士のそれだった。とてもではないが、素人の悠人にはできない動きだ。悠人の身体を、他の何者かが操っている証拠だった。

『パパ? リュウヤ?』

刹那の攻防をまざまざと見せつけられ、オルファは慄然と二人の少年の顔を見比べる。

柳也は悠人の横をすり抜けて、オルファを庇うように立った。

『パパ……じゃない…!? だれっ…』

『〈求め〉だ』

柳也は言葉短く答えると、一歩、前に出た。

右手が腰に伸びることはない。柳也は今、肥後の豪剣二尺四寸七分も、無銘の業物一尺五寸五分も佩いていなかった。父の形見の大小は、今は一階の自分の部屋にある。

ファンタズマゴリアに召還されてすでに四ヶ月近くが経って、館の中をすっかり安全地帯だと思い込んでいた。常在戦場を心がけていなければいけない剣士として、恥ずべき失敗だった。

――迂闊…ッ。

己の軽率さを呪いつつ、柳也は〈求め〉に支配された友人の顔を見る。

『〈宿命〉の奴隷か……』

『…前にも俺のことをその名前で呼んだな。それ、どういう意味だよ?』

『…………』

『答える気はなし、か…』

柳也は不敵に微笑んだ。

無言の友を叩く言葉の数々は、興奮のためかやや上擦っている。強敵を前にした堪えようのない興奮が柳也の身体を包んでいた。

獲物を前にした猛禽のような獰猛な目つきが、悠人を射る。徒手空拳で戦力が半減しているとはいえ、柳也の戦意は旺盛だった。

しかし剥き出しの闘気をぶつけられている当の悠人は、邪悪に滾る炎の眼差しをオルファにばかり注いでいた。

柳也の存在などまるで眼中にない様子で、じりじり、とオルファに近付いていく。

『マナを…快楽を……』

『!!! まさかっ…! だめぇ…パパぁ〜!!』

オルファリルの悲痛な叫びが部屋に響いた。

『ひっく…戻ってきて、パパ…剣なんかに…取り込まれちゃヤダぁぁぁぁッ!!!』

『……ぬぅッ!!?』

その時、〈求め〉に支配された悠人の歩みが、ぴたり、と止まった。

顔から険が抜け落ち、一瞬、茫然とした表情が浮かび上がる。

「! …なんだ? 俺は、どうして……」

「悠人、お前…大丈夫なのか?」

柳也は猛禽の眼差しを変えぬまま、怪訝に問うた。

悠人の中から〈求め〉の気配が消えている。いや、消えたと思ったのはほんの一瞬で、また再び圧倒的な憎悪の炎、どす黒いマナの波動が、悠人の中で荒れ狂うのを柳也は感じ取った。

「ぐあぁ…ッ!」

悠人がまた苦しげに呻いた。

床に膝をつき、そのまま前のめりに倒れて、床の上を転げ回る。壮絶に顔を歪め、頭を抱えながら、掠れた声で必死に自分の名前を呟いていた。

「俺は…高嶺……高嶺…悠人…俺は…俺!」

目を閉じ、自我を保つことだけに専念する悠人。

友人の頭の中にしか響かない〈求め〉の誘いが、自分のところまで聞こえてくるようだった。それほどまでに凄まじい膨大な量のマナが、悠人の中で暴れ回っているのが感じられた。

「うるさ…いッッ! 俺は俺だ! お前のものにはならない!!」

掠れた、小さな叫びが悠人の唇から迸る。

それは紛れもなく、高嶺悠人の雄叫びだった。

『…! 悠人……!』

柳也は警戒を解くと悠人に駆け寄った。

背後のオルファも、迷うことなく飛び出して、倒れる悠人を抱きしめた。

『パパ…パパぁ…! ダメぇ…がんばって…っ!』

その意識をその場につなぎ止めるように、小さな身体で、ぎゅっ、と悠人を抱きしめる。

柳也もまた、悠人の手を力強く握ると、必死に呼びかけた。

『がんばって! 負けないで………パパぁ〜ッ!!』

『悠人! 戻ってこい。……剣に、負けるんじゃないッ!』

【!? なぜ…声が届く…? …たかがスピリットの声が…】

その時、握った掌から明らかな狼狽が伝わってきた。無論、悠人の声ではないし、オルファの声でもない。柳也が初めて耳にする、〈求め〉の声だった。〈決意〉との付き合いでお馴染みの、動揺のイメージが友人の掌から自分の意識へと流れ込んでくる。同時に、悠人の心を蝕む拘束力が緩んだのを、柳也は知覚した。

【今だ、主よ! 奴の力が弱った。今のうちにその剣を破壊せよ!!】

――馬鹿野郎! そんなことできるか…ッ。

相変わらず無茶な注文を要求する相棒を怒鳴りつつ、柳也は悠人の手をひときわ強く握り締めた。

――戻ってこい…高嶺悠人……!

強く、友人の手を握る握力よりも強く、そう念じる。

その時、柳也の耳の奥で、何かが砕けるような軽い音が鳴った。

そしてその直後、友の体内で荒れ狂う膨大な力がまるで嘘のように消滅していき、悠人の身体から、ありとあらゆる力が抜けていった。

悠人の呼吸が一瞬止まり、見開かれた瞳に理性の光が戻る。

一度だけ、ビクン、と全身が硬直した後、悠人は床に身を投げ出した。

小刻みに筋肉が伸縮運動を起こすが、徐々に呼吸が規則正しく、そして大きく、深くなっていく。

「……っふ…ぅ〜〜〜」

やがて、ひときわ大きく深呼吸。

異常な発汗は止まり、疲弊の重さかゆっくりと瞼が開く。

「ゆ、悠人…」

『ひ…っく……パパ………パパぁ〜…』

脱力した悠人に、オルファはまだしがみついていた。

ギュッと目をつぶり、彼の身体を強く抱きしめ続けている。

胸に顔を埋めているために、少女は悠人の目が開いたのを気付けなかった。

やがてゆっくりとではあるが、柳也に掴まれていない方の手が、膝の上から胸の上に移動した少女の髪に、そっと触れた。

オルファが、はっ、としたように泣きはらした顔をあげる。

瞳や髪だけでなく、顔まで真っ赤にさせてしまった少女に、悠人は掠れた、しかししっかりとした口調で言った。

『ありが、とう…オルファ……。もう…大丈夫…』

『ぇえっ!? あ、パパ? もうだいじょうぶ? 痛くない? 苦しくない?』

『ああ…今はもう、大丈夫だよ…ありがと…な』

僅かに震える悠人の指が、オルファの長い髪をぎこちない手つきで梳いていく。

まだ心配そうに悠人を見上げるオルファ。

また悠人の意識がどこかに行ってしまうと思っているのか、身体を抱く力を緩めようとしない。悠人はそんな彼女に、優しく微笑みかけた。

その隣で、柳也は未だ不安に沈む眼差しで悠人を見下ろしていた。

『本当に、悠人なんだな?』

『ああ…正真正銘、俺は高嶺悠人だ。……ありがとう、二人のおかげで、戻ってこれた』

しっかりとした悠人の返答に、ようやくその事実を認めたか、柳也はほっと安堵の表情を浮かべる。

指先が白くなるほど強い力で握った手からゆっくりと指をはずすと、悠人は嗚咽を漏らすオルファの頭を撫でさすった。

『もうどこにも、行かないって…。心配かけた……ごめん』

『うぅ…し、心配したんだよぉ〜…? ホントによかったぁ……』

安心したからか、オルファはまたくしゃくしゃと泣き出して、悠人の胸に顔を埋める。

頭を撫でながら、悠人は小さな背中をポン、ポン、と、軽く叩いた。

どれくらいそうしていただろうか。

やがてしゃくりあげるオルファの声が落ち着きをみせ、ある程度回復したか、悠人がとつとつと口を開く。

『……俺さ、実はオルファの声が聞こえたから…戻って来れたんだ』

『っ……そ、そうなの? でもよかった…よかったよぉ〜〜』

『本当に、感謝してる。ありがとな』

『ううん、オルファ…パパが…いなくなっちゃうほうがヤだもん…』

再び悠人に強くしがみつくオルファリル。

悠人も、今度はその身体を強く抱きしめる。

『ごめんな……怖い思いさせて…』

『いいよぉ…そんなの……オルファ、パパがいてくれれば…』

小鹿のように大きな両目から、また涙がほろほろとこぼれ落ちる。

自分の身の危険よりも、悠人の事を気遣うオルファに、今度は悠人の目尻が潤んだ。

鼻をすすり上げ、悠人はオルファをもう一度、強く抱きしめた。

『な、オルファ…俺さ……』

『ふぇ?』

『俺、明日は頑張るよ。頑張ってみんなを守るからさ…見てて欲しいんだ』

『うん……わかった。でもパパ、どうしたの? 急に…』

怪訝に目を見開いたオルファが、悠人を見上げて問いかける。

『なんか、さ…このままじゃダメだと思ってさ』

悠人の顔を見上げて、一瞬驚いたような顔をするオルファ。少年の浮かべる微笑みには、その穏やかさとは裏腹に、強い決意の影が潜んでいた。

すぐに目尻に溜まった涙を拭い、満面の笑顔を浮かべてみせた。

『うんっ! 頼りにしてるねっ…パパ♪』

この笑顔を守るためにも…

佳織を救うためにも…

強くならなくてはならないと、友人の心の底からの決意を感じ取った柳也は、ふっ、と優しい笑みで悠人を見下ろした。

『明日は、俺はいないかもしれないぞ?』

『大丈夫。柳也の分まで、ちゃんと活躍してきてやるよ』

『こいつ…』

柳也はいまだに汗でぬめる悠人の額を軽くこづいた。

〈求め〉を破壊しろ……と言う〈決意〉の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

 

 

――聖ヨト暦三三〇年、ホーコの月、緑、ふたつの日、朝。

 

スピリット隊出立の朝、レスティーナは隣室で軟禁されている佳織のもとを訪ねていた。

リクディウス山脈の龍を倒すために、ラキオス軍スピリット隊が派遣されるということは、佳織もオルファから聞いてすでに知っている。昨晩は寝付く事もできず、不安に押しつぶされそうな一夜を過ごしたのを、レスティーナは隣室で悟っていた。

『カオリ、ユートを信じましょう。大丈夫ですよ……エスペリア達も一緒です』

レスティーナは、悠人達が無事に帰ってくるとは言わなかった。簡単にできる励ましなど、何の価値も持たないことを彼女は心得ている。

悠人達が挑もうとしている試練は、あまりにも巨大で険しい。

そっと両手ではさんだ肩は小さく震えていた。佳織の恐怖が伝わってきて、レスティーナは痛々しい気持ちに包まれてしまう。

――この娘、ユートも、そしてリュウヤも戦っている……私は…。

訴えかけてくる視線。レスティーナはそれから逃げるわけにはいかなかった。

ただ、同じ理由で明らかに心配そうな佳織に、気休めを言うことも許されない。

レスティーナは多少迷った後、香りの言葉を先回りして言った。

『今まで龍と戦ったものは……帰ってきていないのです…本当にごめんなさい、カオリ。…私たちに出来るのは、祈ることだけなのです』

『…………』

佳織は小さく手を握り締めた。

呪術的な意味があるのか、奇妙な造形の帽子が悲しげに揺れている。

――私には何ができるの? 何をすればいい?

兄のことを想って不安に胸を苛む、目の前の少女。なぜか会う度に不思議に心を安心させてくれる、異世界からのエトランジェ。

この娘のために自分にできること。王女として、自分がしてやれることはいったい何なのか。

いくら考えても、その答えは今は出なかった。

 

 

――同日、朝。

 

国家の行く末を握る大事の作戦の出発の朝、城門の前に詰め寄る人の姿はなく、スピリット隊の五名だけが粛々と準備を進めていた。長丁場の行軍に備えて用意した大荷物の採集点検を行なう悠人達に混じって、柳也が作業の手伝いをしている他は、城門を預かる門番の二名しかいない。その二人も、スピリットと関わることを避けようとしてか、積極的に悠人達に話しかけてくることはなかった。

唯一の見送りの柳也は、数日にもわたる登山経験のない悠人に、山岳地帯での行軍の要訣を教えていた。といっても、ロック・クライミングやラペリングといった専門技術は柳也も聞きかじりの知識だけで、実際に行なった経験はない。そもそもそうした専門技術を、出発前の限られた時間で教えるなど不可能だ。

出発前の数十分で柳也にできることといえば、山の天気は変わりやすいから気をつけろとか、山の移動は体力の消耗が激しいから休憩は余裕を持って行なえ、といったアドバイスを送るくらいだ。しかし、それらも事前にレクチャーしておくのと、そうしておかないのとでは生還率がぐっと違ってくる。

山岳地帯で最も恐ろしいのが高山病だ。ただでさえアップ・ダウンの激しい地形に加えて、高地では酸素が薄いから、登山者は著しく体力を消耗してしまう。酸素不足は体力の減退のみならず、思考能力の低下といった症状も引き起こすため、下手をすれば命を落とす危険性もある。神剣の作用で心肺器官が強化されているとはいえ、人間に対して山岳地帯が敵対的環境であることに変わりはない。

「多分、想像以上に体力の消耗が激しいから、小休止・大休止のタイミングは時間よりも身体と相談してはさんだ方がいい」

「ああ、わかった」

「食事はなるべく高カロリー、ミネラル・バランスに気をつけろ。あと、野営の際には焚き火を欠かすな。野生動物っていうのは、俺も経験があるからわかるが、小型でも敵に回したらこれほど厄介な存在はいない。野生動物の反射神経は、稲妻と思え」

「それも了解。…っていうか、全部、昨晩話した内容じゃないか」

同じ事を二度も言うのかと、ややうんざりとした様子の悠人。

昨夜は講習の後もよく眠れなかったようで、疲れているのはわかるが、同じ注意事項を伝える柳也の表情は真剣そのものだ。自分の言葉ひとつで友の生還率が違ってくるから、見送る彼も必死である。

「こういう話は一度聞いただけじゃ身につかんものだからな。何度も繰り返し伝えておくべきなんだ。…フランス、ドイツ、スペイン、イタリア、世界先進各国の陸軍が、山岳旅団や師団を通常の歩兵師団とは別口に抱えているのは何のためだと思う? それだけ、山岳地帯での行軍が難しいからだ。本当なら今回みたいな任務は、山慣れした専門の部隊が行なうべきなんだよ」

「そういうものか?」

「そういうものなんだよ。幸いと言っていいのか、悪いのか、今回の敵は洞窟内にいる龍だ。移動中に戦闘に陥るなんて事態はまずないだろう。それだけでも、幸せと思え。

…とにかく、エスペリア達の言う事をよく聞いて行動すること。龍退治っていっても、そも龍のところに辿り着けなくては意味がないんだからな」

再三、柳也が口を酸っぱくして言っても、悠人はいまいち危機感が薄いように思える。たかが山登りくらい…と、思っていることは明白だ。それよりも今、彼の頭は龍のことでいっぱいなのだろう。

人間というものは自分自身が経験しなければ、他人の教訓を自分のものとして取り入れないことがままある。どんなに過去の山岳戦闘の事例を持ち出してその過酷さを語ったところで、実際に山に登って痛い目を見なければ分からないこともある。柳也は最後の方になると半ば諦めた様子で準備作業を手伝った。

四人を見送るためにやって来た柳也のいでたちは、スピリット用の戦闘服にラキオス軍制式のトラウザー、帯に父の形見の大小という、訓練時・戦闘時と変わらぬものだった。ラキオス王が追って下すと言った指示がまだこないため、彼は常に臨戦態勢を余儀なくされている。悠人達のように大荷物こそないが、その気になればいつでもラキオスから移動できる状態だった。

やがて悠人達の出発の刻限が迫ってきた。

その頃になると、城門の付近もにわかに騒がしくなってくる。

別に見送りの人数が増えたというわけではない。普段は外敵の侵入を防ぐために閉ざされている城門を開くため、数人の作業員がやって来たためだ。

エーテルという、方向性によっては電気よりも便利な万能エネルギーの技術を持つファンタズマゴリアだが、城門の開閉は昔ながらの人力、滑車を使った方式だ。ラキオス王城の城門は、小さなものでも縦十メートル、横六メートルはある。当然ながらそれを動かす綱は太く、作業に従事する者達の腕もまた太い。

男達の野太い掛け声を聞き流しつつ、柳也はエスペリアのもとに歩み寄った。

エスペリアは城門の方を向いたまま、その時を待っているようだった。

『エスペリア』

『はい』

男達が綱を一度引くその都度、城門が僅かずつ開いていく。

朝の透明な日差しが路面を照らし、エスペリア達の視界に、広大なリクディウスの森の一端が見えた。ラキオス王城は城下よりも高地の山を切り拓いて築かれた。僅かに見下ろせる風景は、野生の緑が自然な姿のまま、そこで寝そべっている。

そんな自然の姿を背景に振り返ったエスペリアを、柳也は真摯な眼差しで見つめた。

『悠人のこと、頼んだぞ』

『はい。私たちの命に代えても、ユートさまはお守りいたします』

強い決意を感じさせる瞳が柳也を見返し、少年もまた頷き返す。

『頼む。それから、エスペリア達も……絶対に、帰ってきてくれ!』

己にとっては悠人もエスペリアも、優先順位などつけられないほど大切な存在だ。無論、アセリアも、オルファもそうだ。

これ以上、自分の側で大切な人にいなくなってほしくない。父と母を失ったあの日、強く思った。この世界に召還されたあの日、強く願った。

柳也の強い口調に、エスペリアは一瞬戸惑いの表情を浮かべるが、すぐににっこりと笑って、

『お任せください。アセリアも、オルファも、私が守ってみせます。勿論、私自身も』

『帰ってきたら、いい加減、台所の使い方を教えてくれよ。今までのお礼に、ハイペリアの料理を作ってやりたいからさ』

『はい! 楽しみにしています』

すでに城門は七分咲きといったところか。

その時、柳也の背後で軍馬の嘶きが轟いた。

振り返ると、鐙に両足をかけた鎧甲冑の騎士が、こちらに近付いてくる。二本の投げ槍に騎兵用の弓矢。近接戦闘用のロングソードに巨大な盾と、完全武装の重装騎兵だ。

グレイト・ヘルムは、着けていない。

露出した顔は、柳也のよく知った人物だった。

『セッカ殿!』

『サムライ、待たせたな』

セラス・セッカが言いながら手綱を引くと、馬は見事に柳也の目の前で、ぴたり、と止まった。見事としか言い様のない手綱捌きだ。

セラスは左足を鐙から離すと馬から降りた。

地上の人となったセラスに、柳也が声をかける。

『セッカ殿、見送りにきてくれたのか』

『いや、そういうわけではない』

完全武装のセラス・セッカは、チェイン・メイルの上に羽織ったラキオス軍の仕官服のポケットをまさぐると、一通の書状を取り出した。

『昨日、陛下がおっしゃられた貴様への指示だ』

『ようやく来たか…それにしても、セッカ殿を伝令に使うとはまた……』

柳也は困惑とも苦笑ともつかぬ複雑な表情を浮かべると、指令書を受け取った。

その場で書状をまとめる紐を解き、紙面を広げて目を通す。

『…………』

柳也は無表情のまま無言で指令書を読み進めていった。

ファンタズマゴリアに召還されてから四ヶ月、今では柳也も簡単な文章なら詠むことができる。

いったいいかなる内容が書かれているのか、背後の悠人達は興味を抱くも、柳也の身体に隠れて内容を読み取ることができないでいる。

仔細残らずすべての内容を読み終えた柳也は、指令書をパタンと二つ折りにすると、己の懐にしまった。そして悠人達を振り返る。

『それじゃ、行こうか?』

『……は?』

柳也の誘い文句に、悠人が間抜けな返事をする。エスペリアらも、柳也の発言の意味がわからず唖然とした様子だ。

柳也はそんな彼女達に、にっこり、と微笑みかけると、朗らかに告げた。

『どうやら俺の特別任務も、途中までは悠人達と一緒らしい。俺と、それからセッカ殿の行き先は……エルスサーオだ』

城門の扉は、完全に開き切っている。

かくして、悠人達の魔龍討伐の旅、そして柳也の特別任務が始まった。

 

 

 

 


<あとがき>

 

柳也「悠人が犯罪に走っちまったー!!!」

 

悠人「待て! なんでオルファを膝の上に乗せていたくらいで犯罪者呼ばわりされなくちゃならないんだ!?」

 

瞬「おのれこの変態めッ!」

 

光陰「悠人……いつかはやると思っていたが、まさかこんな異世界でなぁ…」

 

悠人「光陰、お前がそれを言うか?」

 

柳也「先回のあとがきで変質者扱いされた苦しみを思い知ったか」

 

北斗「……なんというか、ネガティブな始まり方のあとがきだな」

 

タハ乱暴「このあとがきでどんどん柳也のイメージが悪くなっていくっていうね。……ハイ、永遠のアセリアAnother EPISODE:17、お読みいただきありがとうございました!」

 

北斗「今回もまた原作のエピソード配分が大きな話だったな」

 

タハ乱暴「まぁ、今回の話は、次回は好き勝手やるぞぅ、って布石を打つための話だったからな。オリジナルのエピソードはちょい控えめ」

 

北斗「あったとしても柳也と悠人の絡みがほとんどだったな」

 

タハ乱暴「うん。今回の話は次回への布石であると同時に、悠人と柳也の友情がいまどの段階にあるか、っていうのを見せるための話でもあったから」

 

北斗「ともに両親を事故で失ったという過去、ともにエトランジェという同じ境遇、ともに肩を並べて戦う戦友という二人だからな。二人がどのような形で絆を築いていくかは、読者の方々も気になるところだろう」

 

タハ乱暴「作家の腕の見せどころってね。あと、今回柳也を非常にシリアスに書いたけど……」

 

北斗「……そうだったか?」

 

タハ乱暴「そうだったんだよ。これは、前回のパパラッチでの柳也のイメージを払拭させようと思って意識して書いていた。やっぱ主人公だから、色んな顔を見せたいし」

 

北斗「……残念ながら無駄だったと思うぞ?」

 

タハ乱暴「なんで!?」

 

北斗「今回の軍オタネタは酷かった。アレで柳也の人気がかなり下がったと思うんだが?」

 

タハ乱暴「人気? 柳也にそんなものあったっけ?」

 

北斗「……そういえば始めからなかったな」

 

タハ乱暴「だろう?」

 

北斗「……それでいいんだろうか、主人公?」

 

タハ乱暴「……さあ?」

 

北斗「…………」

 

タハ乱暴「…………」

 

北斗「…………」

 

タハ乱暴「…………ハイ! 永遠のアセリアAnotherEPISODE:17、お読みいただきありがとうございました!」

 

北斗「次回もまたお付き合いしていただければ幸いです」

 

タハ乱暴「ではまた次回のあとがきでお会いしましょう!」

 

 

柳也「……俺、主人公なのに人気ないの?」

 

タハ乱暴「ついでにまだ絵もないっていう」

 

柳也「うがー! そろそろ怒るぞーー!!」




まだまだ悠人も頑張るな。
美姫 「乗っ取られたら最悪だものね」
それにしても、柳也への別任務っていうのは一体。
美姫 「とっても気になるわね」
ああ。勿論、悠人たちと龍との対決も気になるけれどな。
美姫 「次回が楽しみね」
うんうん。次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



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