――二〇〇八年一二月一七日、午前五時五四分。

 最悪の寝覚めだった。

 よくは憶えていないが、どうも悪い夢を見ていたらしい。

 いつものように五時半には目を覚まし、いつもと違ってズキズキとわずかに痛む頭を抱えながらも、柳也は毎日の日課のランニングを始めることにした。

 ベッドから起きると昨夜は自分にとってかなり寝苦しい夜だったのか、べっとりと嫌な寝汗で気持ちの悪いパジャマを脱ぎ捨て、彼はジャージに着替えて軽く顔を洗う。

 と同時に、今朝の己の顔を見てみて……彼はびっくりした。

 ――なんか、ずいぶんと顔色がよくないか?

 寝覚めが最悪のわりには妙にすっきりとした顔だった。なぜか血色は良く、目の下には隈もない。不思議なことに、昨日まで毎朝鏡で見た顔とは思えないほど、自分は健康的な顔をしていた。

「……何も、なかったよな?」

 昨日一日の自分の行動を思い出す。これといって、特別な出来事はなかったはずだ。昨日はいつものように日課のマラソンをやって学校に行って、その帰りにしらかば学園に寄って兄弟達に稽古をつけ、夕飯をご馳走になって園長先生から父親の形見だという刀を頂戴して……

 ――その後、一旦家に帰って、銭湯に行って、もう一度帰宅して寝てそれで終わり……の、はずだが。

 柳也はひとり鏡に映る自分に向かって小首を傾げた。

 しいて挙げるなら柊園長から父の形見の日本刀を受け取った事が特別な出来事といえばそうだが、いくらなんでもそれとは関係ないだろう。あるいは、ご馳走になった夕飯に栄養ドリンク剤のようなものを一服盛られたか……。

「まさか、なあ……」

 苦笑して、頭を振る。いくらなんでもそれはありえないだろうと、そんな危ない考えを頭の外から追い出す。

 特に原因の思いつかなかった柳也は、特に気にすることでもないかと一度鏡の前を離れた。昨日のうちに用意しておいた米をセットしておいた電気炊飯器のスイッチを押し、歯を磨き終えて再び洗面台へ。相変わらずの血色の良い自分の顔を拝んでいると、時刻はちょうど良い頃合を迎えていた。

 柳也は窓を閉め、唯一の扉の鍵を閉めると、二階にある自分の部屋から階段を下ってランニングコースの出発点へと進んだ。

 そんな毎日々々、すでに何百回、何千回と繰り返し行っている動作の最中に、柳也はふと昨日までとは違う己の変化に、また気がついた。

 最初は気のせいかとも思ったが、違った。

 おもむろに肩や腰を回して、具合を確かめる。

 なぜか、いつもよりも体が軽かった。

 ――本当、今日の俺はどうしたんだ?

 冷静に考えれば、今朝鏡の前に立った時、そして今感じている自分の変化は、取り立てて問題にするようなことではない。しかし柳也は、自分の身体の中で起きているその何らかの変化を、どうしても無視することができなかった。

 彼はまるでよちよち歩きを始めたばかりの赤ん坊のように慎重な足取りで、一歩、また一歩と、自分の身体を前へと進めた。しかしその歩みは段々と早く、次第に腕の振り幅は大きく、掲げる膝の位置は高くなっていった。

 やはり己の体は、自分のものとは思えぬほど軽く、調子が良かった。

 暗鬱とした気分とは裏腹に、身体の調子はすこぶる快調で、柳也は今の自分ならいつもよりも速いペースで、どこまでも走っていけそうな気すらしていた。

 ――少しだけ、ペースを上げてみるか。

 昨日と同じように、すれ違う女学生らの集団にぺこりと頭を下げた辺りで、柳也は決意すると走行のペースを上げた。

 少しだけ……と、思っていたが、気が付くと彼はいつの間にかほぼ全力疾走に近い速さで、もう何キロも走っていた。しかも、それでいて体には疲労の色がまったく見えない。滴る汗はいつも通りの量だし、疲労感はむしろいつもより軽い。

 ――おいおい、いくらなんでも、このペースでこれだけの距離を走れば…。

 今日の自分は、明らかに何かおかしい。

 今日は早めに切り上げるかと柳也が思い始めたとき、彼はいつの間にか百段近い神木神社の石段の前に差し掛かっていた。

 反射的に左手首に巻いた腕時計で時間を確認する。数少ない父の遺品のひとつは、今日の到着が昨日よりも十分ほど早かったという事実を示していた。

「ははっ……やっぱり今日の俺はなんか異常だわ」

 これが夢ではないことはほんのわずかとはいえ身体にのしかかっている心地の良い疲労感が証明している。

 乾いた苦笑をひとり漏らした柳也は、今日はもう帰ろうと思い踵を返そうとして…………しかし、思いとどまった。

 ――折角、ここまで来たんだから、時深さんに挨拶ぐらいしとくか…。

 昨日、正式には初めて会ったばかりの巫女の少女。今日もまた会えるかどうかは分からなかったが、不思議と柳也は今日も彼女に会えるような気がしてならなかった。根拠のない不確かな確信だったが、虫の知らせは信じない方のはずの柳也は、どういうわけかその確信に突き動かされるように、気が付くと石段を上り始めていた。

 ――彼女に会いたい…いや、会わなければならない。

 石段を一段上がるにつれて、なぜか一種の義務感のようなその思いが、柳也の心の中でより大きく、より強くなっていく。

 その思いはいつしか本人に、自分の身体の異常を忘れさせてしまうほど巨大なものとなって、柳也の身体を突き動かしていた。

 彼女とは……時深とは、まだ昨日わずかに言葉を交わしただけの、間柄でしかないというのに。

 ――…一目惚れでもしたか、俺?

 いつの間にか駆け足で石段を上っている自分に気が付いて、柳也は苦笑した。

 まぁ、それも仕方がないと、自分を納得させる。

 なにせ自分は……

「巫女さんって、結構、俺のクリティカルだしな」






永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

序章「白い翼の少女」

Episode02「柳也と瞬」





 ――二〇〇八年一二月一七日、午前六時二〇分。

 百段近い石段を一息で上りきり、境内に辿り着くと、そこはまだ無人だった。

「……アテがはずれたか?」

 きょろきょろと辺りを見回してみるも、時深の姿は見当たらない。

 少しだけがっかりした様子の柳也だったが、そこは持ち前の明るさでなんとか持ち直し、

「折角だし、その辺ぶらぶら歩いてみるか」

 と、自分の体調のことなどすっかり忘れたかのような発言をした。

 とはいえ、神木神社にはよく足を運んでいるが、いつも早朝ランニングの途中に寄るか、年始めの初詣に来るぐらいでしかないので、柳也も近所のこの神社の全貌は知らない。これからも頻繁に訪れるとなれば、散策するのも損にはならないだろう。

 神木神社は少し小高い山の稜線に沿うように石段があり、森を切り開いて作った平地に鳥居やら社やらを築く形で建っている。東西南北の二方向を森林で囲まれ、柳也はいつも南側の石段を上って境内へ入り、東側の道を下ることで神社をランニングコースの中継点としていた。

 柳也はいつもなら見向きもしない社の裏側とか、境内の奥の方まで見て回るつもりで歩を進めた。

 かつて子どもだけで探検隊を結成した過日の頃のようにワクワクした気持ちで、歩調も緩やかに歩き進む。

「……こういう場合、森の奥の方へ進むと滝があって、神社の巫女さん達が早朝の禊を行っているところに主人公が出くわすっていうのが、お約束のパターンだが」

 ……考えていることは、童心とは少しかけ離れているようだったが。

 柳也はまさかそんな美味しい出来事はあるまいと思いながらも、森の方へと足を運んだ。べつにぴっちりと肌に張りついて、透けた巫女服に身を包む乙女達のあられもない姿を見たかったわけではない。いや、その気持ちも少しはあったが、彼の頭の中の大部分を占めていたのは、今度からこの森もランニングコースに取り入れようかという実際的な考えだった。柳也はここ最近、今のランニングコースを走ることに少し物足りなさを覚えていた。

 もし、この森をランニングコースとするならば、最も過酷なのはどういた道のりだろうか……そんなことを考えながら歩いていた柳也の耳に、不意に“どどどどど……っ”と、激しく水が落下する音が届いた。

「……滝が、あるのか?」

 この街に滝があるとは知らなかった。

 滝壺に裸身の身を晒す“水垢離修行”は、よくテレビなどでも紹介される精神修行のひとつだが、柳也はまだやったことがない。平成の世に生きる剣士のひとりとして、柳也も興味はあるのだが、やりたくとも手近な場所に滝がなくてできなかったのだ。柳也の住んでいる地域から水垢離ができるような滝がある場所は、最も近いので電車で片道一時間はかかる。よく、『継続は力なり』というが、修行の一環である以上、厳しい寒中に何度も足を運ばねば意味がない。

 柳也は自分が、一から十を学べる天才だとは思っていなかった。ゆえに彼は効果的だが回数をこなせぬ修行よりも、地道であっても何度でも行うことのできる修練を好んだ。学生である柳也には、石神井川などかつて多くの剣士達が修練を積んだような場所に、長い間滞在する時間も、まして経済力もなかった。

 しかし、近所に滝があるとなれば話は別だ。耳膜を打つ音の大きさからして決して大きな滝壺ではないだろうが、真冬の寒中に行うとなれば大きさは関係ない。

 柳也は音のする方に近付くにつれて、はやる気持ちを抑えつつ慎重に歩を進めた。普段、人が歩くような場所でないため、森の中はうっかり足を滑らせると変な方向に筋や骨を痛めかねない障害物が多い。

 冬場とあって、特別に生命力の強い昆虫以外見かけぬ茂みをやっとことで抜けると、柳也の視界いっぱいに、幻想的な光景が……

「あら……」

「むお……」

……ある意味で、幻想的な光景が、広がっていた。

 ぴっちり、と肌に張りついた薄い襦袢。両手にした小さな手桶が冷水を汲み上げ、水しぶきが飛ぶその都度少女の身体がわずかに震える。しっとりと濡れた長い黒髪と、薄く透けた肌がなんとも艶めかしく、扇情的で、柳也は思わず、その光景に目を奪われる。

 それはまた相手も同じだったのだろう。

 まだ早朝の六時二五分、八月でさえ滅多に人の寄り付かない境内裏の森の奥に、まして真冬のこの時節に、誰が好き好んで出入りしよう。誰も見る者はいないと安心しきり、巫女の務めを果たすため禊にいそしむ巫女の前に何の前触れもなく現れた少年に、思わず少女の視線は釘付けとなる。

 互いの姿に目を奪われる少女と少年。

 やがて桜坂柳也と、倉橋時深の目が、合った。

 しばし茫然と無言で見つめ合う二人。

 やがて柳也が、

「……わあい! お約束の展開だー!」

 わざと台本の台詞を棒読みする舞台役者のように、抑揚のない声で言った。

 ………………

 …………

 ……

「きゃ、きゃああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

「No〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」

 何が“違う”のか、タハ乱暴にはさっぱり分からない。

「誤解です! 六階です!! ああ〜〜、我ながらなんてベタなギャグを……! と、ともかく、決しておいどんは、おまはんの柔肌を覗き見するつもりでここまでやってきたわけは……」

「そう思うのならその極限まで見開いた上に血走った眼を覆うか、後ろを向くかしてください!」

 ごもっとも。

 身体の調子のみならず口調までおかしくなってしまった柳也の顔面に、時深の投げた手桶が炸裂する。そして衝撃の後から柳也の耳膜を打つ、“ビューン”という何かの飛来音。

 どうやら時深の投げた手桶は、音速を超えていたらしい。

 薄れゆく意識の中、柳也は、(ああ、やっぱ巫女さんっていいな……)なんて、そんなことを考えていた。






 柳也が意識を失っていたのはほんの四、五分にすぎなかった。

 さすがに普段から身体を鍛えているだけあって、目を覚ました時にはもう彼はけろりとしていた。

「うぅ……意外と、肩がお強いんですね。時深さん」

 身体の方はけろりとしていたが、投擲された手桶の直撃を受けた顔面はまだヒリヒリと痛む。特に額の辺り。真っ赤になったそこを水飲み場の冷水を染み込ませたタオルで冷やしながら、柳也は売店の奥で申し訳なさそうに身を小さくしている時深を振り向いた。

「本当に、すみませんでした……」

「いや、俺にもまったく下心がなかったといえば、嘘になりますし……」

 自分がなぜあの森に入ったのか、柳也はその理由を正直に話していた。

 普通なら正直に話すと一歩身を引くような“水垢離修行”についても、時深はちゃんと話を聞いてくれていた。

『今時、自分から進んで水垢離なんて……柳也さんは本当に剣術がお好きなんですね』

 そう言った巫女の少女は、呆れを通り越して感心すらしていた。

 なぜか時深は、柳也の名前ばかりか彼が剣術をやっていることまで承知していた。普通は、毎朝ランニングしているのを見かけているだけでそこまで分かるものではないはずだが、柳也はそのことについてあえて追求しなかった。追求できるような立場に、いなかったのだ。
 柳也の身長は一八二センチメートル。それに対して時深の身長は目測で約一五〇センチ半ばほど。ふたりの身長差は、三十センチ近い。

 しかし、申し訳なさそうに身を縮める時深以上に、今の柳也は小さく見えた。

 嫁入り前の娘の、ほとんど裸同然のあられもない姿を見てしまったという罪悪感が、柳也の身長を五十センチ以上小さく見せていた。

「それに、謝らないといけないのはむしろ俺の方です。いや、本当に、まこともって深くお詫び申し上げます」

 柳也は玉砂利に前髪がつかんほど地面に顔を近づけて、土下座した。

「……ですので、もう、そろそろ売店の中から、出てきていただけないでしょうか?」

 天岩戸に篭もった天照大神のように、柳也が目覚めた後、時深は売店に篭もりきりになっていた。柳也が目を覚ますまでの間は彼を介抱してくれたのだが、彼が目を覚ますと、まともに顔を合わせるのが恥ずかしくなってしまったらしい。

「あ、あんな恥ずかしい姿を見られて……今は、まともに顔を合わせられません!」

 透明なプラスチックの板で外界と区切られた売店の受付の窓口から、声だけが顔を出す。

「男の人に裸を見られるのって、初めてだったんですよ」

 厳密にいえば裸身を晒したわけではないのだが、あれでは裸も同然だ。

 巫女だから……というわけではないだろうが、時深は今時珍しいぐらいの貞操観念の持ち主らしく、そしてそのことが柳也の中の罪悪感を煽る一因にもなっていた。さすがの柳也も「じゃあ、俺が責任を取りましょう」などと軽々しく言えるほど、ふてぶてしくはなれない。

 八方塞の状況でのこの“お隠れ”は、柳也の頭をひどく悩ませていた。

 天岩戸神話では天照大神を岩戸から出すために、他の神々は天照大神が自ら岩戸の扉を開けて出てくるよう彼女の気を惹くべく、盛大な宴会を開いたというが、残念ながら柳也はそんな多芸多才ではない。柳也にできることといえば、ただひたすらぺこぺこ頭を下げることばかりだった。

 柳也は左手に巻いた腕時計で時間を確認した。そろそろ家に戻らないと、朝食はおろかあまりのんびりしていると学校にも遅れそうな時間だ。

「すいません、時深さん。俺、そろそろ戻らないと、時間やばいんで…」

 時深は未だ売店から出てくるはおろか、受付の窓口にも姿を現してくれない。

 柳也としてはたいへん心苦しく、後ろ髪の引かれる状況だったが、まさか学生である自分が授業を放棄するわけにもいかない。

「本当に、申し訳ありませんでした。……それじゃ、そろそろ、俺は行きますんで」

 罪悪感が、柳也の胸を重くする。

 柳也は最後に深々と土下座し、一応の断りを入れてから、立ち上がった。

「今夜……」

 踵を返した彼の背中に、声がかけられた。

 柳也は思わず振り向いたが、彼の期待に反して売店の窓口に、時深の姿はなかった。

 落胆に再びしょげかける彼に、売店の奥から時深の凛とした声が響いてくる。

「今夜までには、ちゃんと柳也さんの顔を、見られるようにしておきますので…」

 それが、散々平伏した柳也に対する、時深の結論だった。

「それって……」

 柳也は思わず頬を赤らめた。

 時深の言い草が、まるで今夜自分が来るのを待っているかのように聞こえたからだ。

 我知らず火照りだす顔。我知らず熱くなっていく身体。

「じゃ、じゃあ……今夜にでも、改めて謝りにきます」

 柳也はそれだけ言うと、無人の窓口にもう一度深く頭を下げ、たっと踵を返して駆け出した。そろそろ急がないと、本格的に朝食を摂る時間がなくなってしまう。

 石段を駆け下りながら柳也は、自分の心が軽くなっていくのを実感していた。






 ――同日、午前一二時五分。

 三限目の授業が終わって、教師にとっても生徒にとっても、憩いのひと時となる昼休みがやってきた。

 高嶺悠人は最愛の義妹の手作り弁当で腹を満たそうと鞄の中をまさぐったが、なぜか見つからない。と、そこでようやく彼は、自分が今朝、佳織から弁当を受け取り忘れていたことを思い出した。

「あちゃ〜…やっちまったか」

 今朝は昨日とは打って変わって遅刻寸前の慌しい時間帯での登校であったために、すっかりその事を忘れていた。

 自分の犯した失態に、悠人は思わず顔をしかめる。

 よく下級生が上級生の教室に顔を出すのには勇気がいるとされるが、上級生が下級生の教室に顔を出すのにも、別の意味で勇気がいる。なんといっても上級生が下級生の教室に行くということは、それだけでかなり気恥ずかしい。それが他ならぬ妹のいる教室となると、恥ずかしさは倍増だ。あらぬ誤解を、受けるかもしれない。

 ――けど、行くしかないよな。

 席を立った悠人は、ひとり胸のうちで呟いた。

 残念ながら現在の高嶺家に食堂や購買部で腹を満たすほどの経済的な余裕はないのだ。

 悠人と佳織はもうずいぶん前に両親を亡くしており、現在は両親が遺してくれた財産と、悠人のバイト代で、高嶺家の台所事情は賄われている。いくら必死に働いたところで、学生の悠人のバイト代は高が知れていたし、両親の遺産にしても無尽蔵にあるわけではない。贅沢なんてとてもできない。節約できるところは、節約せねば。

 それに折角作ってくれた佳織の弁当を、わざわざ腐らせることもない。ここは多少の恥は覚悟で、行くべきだろう。

「行くか」






 ――同日、午前一二時一六分。

 かつて、この国には軍歌というジャンルの音楽があった。昨今こそ右翼団体が街宣車でさかんに流して活動しているが、戦前、そして戦中と、軍歌は普通の国民に広く親しまれていた、ごくごく普通の音楽だった。

「エンジンの音〜轟々と〜♪」

 廊下の喧騒と情景を引き裂くように、とんでもないテンポとリズム、正式な五線譜から上へ下へとふたつは音のはずれた音程で、迷惑にも軍歌を歌いながら、柳也は陽気に廊下を歩いていた。

 それなりの音感の持ち主がそれなりのテンポとリズムに沿って歌えば耳通りの良い躍動感溢れる曲も、柳也が歌うと途端にやたらやかましく、聴いていて不快なだけの騒音になってしまう。

 壊滅的な音楽センス……音痴であることは、桜坂柳也の数多い弱点のひとつだった。しかも、お約束のように本人自身はそのことに気付いていない、というプラスアルファ付きである。

 彼とすれ違った生徒達は、そのやかましくも不快な音程にあからさまな嫌悪感を表情に滲ませ、すでに後ろにある柳也の背中を睨みつけるも、注意するまでには至らない。そればかりか、彼のことをよく知る一部の生徒達の表情には、嫌悪以上に諦めの色の方が強かった。どうやら彼のこの近所迷惑な行為は、すでに日常的な情景になってしまっているらしい。

 悠人や佳織達と同様に、父も母も失って安アパートでひとり暮らしをしている柳也もまた、節約できるところは節約するべしと、朝昼晩の食事を大抵自炊していた。そればかりか彼の節約ぶりは徹底しており、学校のある日は水道代を節約するために空のペットボトルを持ってきて学校の水飲み場で水を汲み、それで一日やり過ごすことも少なくなかった。

 昼食の弁当を食べ終え、水飲み場から教室への帰り道を進む彼の両手には、水道水で満たされた二リットルのペットボトルが片方の手に二本ずつあった。合わせて四本計八リットル。しかし重さ十六キロの〈振棒〉を一日に二千本も振り、直心影流の二段の実力者である柳也にとって、たったそれだけの水を教室まで運ぶことはちょっとした労働にすらならなかった。

「よ〜くに輝く日の丸の〜胸に描きし、あ〜か鷲の……♪」

 まさか加藤建夫戦隊長も、自分達の隊歌がこのようにして歌われることになろうとは、思ってもいなかっただろう。

 何もかもが滅茶苦茶で、その上はた迷惑にも大声を上げて、公衆の面前の前で歌い続ける柳也の顔は、素晴らしく輝いていた。

 やがて歌は最終の五番の後半部へと差し掛かり、気持ちよさげに歌う柳也の声にも無駄に力が入り始める。

「あ〜らたに興す大アジア〜〜♪」

 ちょうど教室の戸をくぐろうとしたその時、柳也の横を、クラスメイトの女生徒が二人、通り過ぎる。

「えー? それって痴話喧嘩?」

「違うよ。ほら、秋月君がまたあの後輩の女の子と……」

 柳也の歌が、ぴたり、と止まった。

「お、おい!」

 クラスメイト達が、つい先ほどまで歌に熱中していたはずの柳也に唐突に大声で呼ばれ、ギョッとして振り向く。

「え、え? 桜坂くん?」

「その話、いったいどこで……?」

 柳也は抱えていたペットボトルを自分の席に放ると、教室を飛び出した。






 ――同日、午前一二時二十分。

 佳織達の東棟へ向かう途中で、悠人は聞き覚えのある声を耳にした。

「い、いやっ! 秋月先輩、離してください!」

「なんで嫌がるんだ? 僕が佳織に酷いことをするわけないだろう?

 佳織に聞いてもらいたいことがあるだけだよ」

「痛いっ!」

 佳織の手首を強引に掴んでいる瞬の姿が視界に飛び込む。

 その光景を目にした瞬間、ほとんどタイムラグなしに悠人は自分の頭に血が上るのを感じた。

「瞬、何しているっ!!」

「あ……お兄ちゃん……」

 義兄の声に佳織が振り向き、眼鏡の奥に見える小鹿のように大きな双眸が安堵の色を宿す。

 他方、やってきた悠人の姿を見て瞬は、明らかな嫌悪の色を表情に滲ませる。切れ長の赤い双眸がまるで親の仇を見るように釣りあがり、薄い唇の隙間から覗く白い歯が鳴らす歯軋りは、騒然とした廊下でなお響くかのようであった。

 瞬は、舌打ちすると悠人を睨みつけた。

「チッ! また貴様か……どうして僕と佳織の邪魔をする?」

「邪魔だと? よくそんなことが言えたものだな! その手を離せっ! 佳織が嫌がっているだろうが」

「フン。なんだ? 佳織の本当の気持ちが貴様にわかるのか?」

 尊大な態度で吐き捨てるも、悠人に言われたからではあるまいが、瞬はパッと佳織の手首を掴んでいた手を離す。最愛の少女が嫌がっているかどうかはさて置いて、瞬としても、佳織の白く細い手首に自分の握力によって赤い跡など残したくはなかった。

 瞬の手から解放され、佳織がほっと息をつく。瞬に手を掴まれている間、よほどの恐怖にかられていたのだろう。緊張が解けた瞬間、彼女はぶるりと身を震わせた。

「お、お兄ちゃん……大丈夫だよ。秋月先輩とお話してただけだから」

 ひと呼吸、間を置いて自分を落ち着かせると、いささか興奮気味の義兄を安心させようと、佳織は隣に立つ先輩と悠人の顔を交互に見比べて言った。

 実際は昼食を摂っているところを無理矢理教室から連れ出され、和やかに「お話していただけ」とは到底言えないような状況だった。だが性格的に争いを好まず、性根の優しい彼女の言葉は、悠人の怒りがこれ以上高ぶらないよう穏やかに脚色がなされていた。

 悠人と瞬が、出会ったその日から今日に至るまでずっと犬猿の仲であり続けていることは、佳織も承知している。しかし佳織にとって悠人は大切な兄であるし、瞬もまた小さい頃から自分のことをよく知る幼馴染だ。間に挟まれている佳織としては、どちらにも争ってほしくないというのが本音だった。

「そうだ。貴様はいちいち出てくるな」

 しかし、諍いを避けたいと思う佳織の意図を知ってか知らずか、瞬はわざわざ悠人を煽るような口調で吐き捨てるように言った。

 そして悠人もまた、そんな佳織の嘘を瞬時に見破った。

「佳織っ! 嘘をつくな! なんでコイツを庇うんだ」

「!!」

 悠人は、言ってから思わず(しまった……!)と後悔する。

 衝動的に強い口調で言ってしまい、そんなつもりは毛頭なかったはずなのに、肩をすくめる佳織は怯えるような眼差しを悠人に向ける。
胸に途方もない罪悪感が去来するも、それでも、自制が効かなかった。

「こっちにくるんだっ!」

「う……うん」

 脅迫するような悠人の怒鳴り声に、とうとう涙目になった佳織が恐ろしげに頷く。

 瞬はフンと鼻を鳴らすと、悠人にあからさまな嘲笑を向けた。

「それが貴様の本性だな。佳織を強引に従わせる。佳織はお前のものじゃないんだ」

「なんだと?」

「貴様のしていることは自己満足だ。佳織をつかって、自分を肯定しようとしている……」

「お前が言えたことか!」

「お兄ちゃん……もう、やめよ? ね?」

「黙っていろ!」

 佳織の必死の制止も、感情が制御しきれない今の悠人には届かない。逆に強い言葉をぶつけられ、佳織の表情は恐怖に染まる。

 しかし悠人は、それ以上声を張り上げることは佳織を怯えさせるだけだと分かっていながら、自制することができなかった。

「ご、ごめん……なさい」

 消え入りそうな声。

 少し泣きそうな顔で俯く佳織を背中に、悠人は瞬の前に立った。

「そうやって、力で佳織を押さえつけるのか。所詮は育ちが悪い男のすることだな。貴様に佳織の側にいる資格などない。地べたに這いつくばって生きているお前などにな!」

 怒りが心を支配していく。

 瞬の一言一言が、悠人の心をどんどんと冷たくしていった。

「黙れ。これ以上、佳織に近づくようなら……」

 拳を強く握る。

 そして強い殺気を込めて、瞬を睨み付ける。

「……お前、殺すぞ」

 その瞬間、二人の上級生を取り囲む生徒達の間に漂う空気が、凍りついた。

 義兄の口から飛び出した言葉が信じられず、必死に悠人の制服の裾にしがみつく佳織が息を飲む。

 殺気を向けられた瞬は、わが意を得たりとばかりに、会心の笑みを浮かべた。

「ハッ! それがお前の本性だ。佳織、よく憶えておけ」

 そう前置きし、瞬は悠人に果てしない憎しみの篭もった憎悪の視線を、悠人の後ろに隠れる佳織に、途方もない優しさの篭もった視線を向けた。

「疫病神の本性だ。そうやって周りを殺していくのか?」

 悠人にとって、その一言が決定的だった。

 これまで、かろうじて最後の一線で保たれていた理性の糸が、ぷつりと音を立てて弾け飛ぶ。

「それだけか……?」

 静かに、悠人の声が問う。

「言いたいことはそれだけかぁッッ!!」

 ――もう我慢できない!

 あの青白い顔を殴りつけ、血まみれにしてやりたかった。

 佳織を見つめる目が許せない。

 佳織に話しかける口が許せない。

 息をしていることすら――瞬という存在自体が、許せなかった。

 悠人は、彼のものとは思えぬ禍々しい声で瞬を怒鳴りつけると、身体を前傾させた。

 だがその瞬間―――――

「だめぇーっ! お兄ちゃん! だめえーっ!!」

「やめんかこの馬鹿者どもがぁッ!!」

「ッ……!」

「な……!?」

 廊下中に響き渡る気合の一喝。

 若くして直心影流二段の実力者が腹の底から放つ、怒声一番であった。

 廊下の喧騒がしんと静まり、渦中の三人のみならず、遠巻きにこの諍いを見ていたすべての野次馬達が一斉に視線を声のした方に向ける。

 そこには……

「柳也……」

 そこには、黒々とした太い眉の下、大振りの双眸を烈火の如く滾らせる、六尺豊かな若武者が立っていた。






 ――間に合ったか!

 柳也が現場にかけつけた時、事態はまさに最悪の展開を迎えようとする寸前だった。

 瞬に挑発された悠人が、今にも彼を殴りかかろうとしている……仮に最悪の事態が起こったとして、この一件、秋月の家が背後に控えている瞬は何のお咎めもなく終わるだろうが、殴った当の悠人は停学処分か、最悪、秋月の家が動き出せば退学処分は免れないだろう。

 柳也にとっては悠人も瞬も大切な友人だ。そんな事態になることだけは、絶対に避けなければ……。

「何をやっている、高嶺、瞬!?」

 直心影流の二段の実力者が腹の底から発する恫喝は、質問を投げかけられた二人だけでなく、周りの生徒達すら怯ませる。いやそればかりか、柳也の叫びは騒ぎを聞きつけてやって来るも、当事者のひとりに“秋月”がいると分かった途端、不干渉を決め込む腰の引けた教師陣すら金縛りにする威力を持っていた。

「さ、桜坂先輩……」

 佳織の怯えと困惑、そして安堵の入り乱れる視線が、柳也の頬を撫でる。

 亡き父に大切なものを守るための強さを身につけよと、亡き母に誰しもに慈愛の心を向けられる優しき人になれと、両親の遺言を忠実に守ってきた柳也は、滅多に人に怒るということをしない。しかしそれだけにひとたび怒りに燃えた際の彼は、阿修羅のように恐ろしい。

 瞬の幼馴染であると同時に、柳也ともまた幼馴染である佳織は、そのことをよく知っていた。

「……もう一度訊く。いったい何をしている? 瞬、高嶺」

 彫りの深い精悍な顔立ちが鬼の面を被り、熱い視線を二人に注ぐ。

 初めて見る柳也の怒りに、悠人は思わず視線を逸らし、瞬は悲痛に顔を歪めた。

「あ、あの桜坂先輩、これにはちょっとした事情が……」

「俺は瞬と高嶺に……きみのお兄さん達に訊いているんだ」

 助け舟を出そうとする佳織の言葉をぴしゃりと阻み、柳也は言った。

「途中から来たゆえ、事の全貌がいまいちつかめん。俺の見たところ、瞬が高嶺を挑発して、それに乗った高嶺が瞬に暴力を振るおうとしていたようだが……」

 柳也がまず瞬を睨み、続いて悠人を睨んだ。直心影流の使い手が発する眼力は凄まじく、初見の悠人はもとより、見慣れているはずの瞬ですらその眼光にひと睨みされると金縛りにあってしまう。釈明しようにも、柳也のひと睨みで喉はからからに渇いて、言葉が上手く出なかった。

 柳也はしばし二人からの返答を待った。

 しかし彼の気迫に声もない二人は、ただただ無言で立ちすくむばかりだった。

 いつまで経っても事情の説明はおろか言い訳のひとつもない状況に、やがて柳也は溜め息をつくと、

「……この際、どちらが悪い、悪くないという話は聞きたくない。高嶺を挑発した瞬にも咎はあるし、軽率にもそれに乗って、直接的行動に出ようとした高嶺にも、同等の罪がある」

 そこで柳也は一度言葉を区切り、少しだけ声色をやわらげた。

「そして俺にも、だ」

「え?」

「……」

 驚きに見開かれた視線が、ふたつ柳也に集中した。

 周りの生徒達も教師も、柳也の言葉に唖然とした視線を向ける。

「お前達を止めるため仕方なかったとはいえ、俺の怒声で昼休みの廊下の空気をだいぶ壊してしまった」

 柳也は背筋をしゃんと伸ばし姿勢を正すと、三人に、そして柳也達を取り囲む全ての者に向かって腰を折ると、深々と頭を下げた。

「怒鳴ってしまって、悪かったな。それから、迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ない」

「そんな…桜坂が謝るようなことじゃ……」

「柳也は何も悪いことなどしていない。佳織も、僕も。…悪いのはコイツだけだ」

「瞬……」

 瞬の言葉に、悠人が何か言いかけるも、顔を上げた柳也のひと睨みで、二人は押し黙る。

 そんな二人に、柳也はふっと表情から険を削ぎ落とすと、いつもの調子で、

「もうすぐ昼休みも終わる。二人とも、そろそろ教室に戻ろうや。……佳織ちゃんも、早く戻ったほうがいいぜ」

 晒し者になりたくなければ……そんなニュアンスを孕んだ言葉を口にする。

 佳織は頷くと、

「わかりました。……あの、桜坂先輩」

「ん?」

 悠人と瞬を連れて立ち去ろうとする柳也の背中を、佳織の声が呼び止める。

 首だけ動かして振り向く柳也に、佳織はぺこりと頭を下げた。

「お兄ちゃんと秋月先輩のこと、よろしくお願いします」

「……」

 柳也はそれには答えず、無言で手を振った。

 今回はなんとか最悪の事態の一歩手前で押し留めることができたが、悠人と瞬の関係ついては、軽々しく口約束ができるようなことではなかった。






 ――同日、午後五時一八分。

「悪かったな…」

 放課後、夕暮れで山吹色に染まる二人だけの教室で、瞬は柳也に言った。

 突然の謝罪にわけの分からない柳也は、一瞬、だらしなく惚けた顔をしてしまう。

 何か自分は、瞬に謝れるようなことをしただろうか……最近の記憶を検索して、柳也はようやく今日の昼休みの時間中の一件について思い出した。

「なんのことだ?」

 一応、確認のため訊ねてみる。

「判っているくせに、柳也も意地の悪いやつだな。僕がこうして、謝っているんだぞ」

「冗談だよ。謝る時も、尊大なのな、瞬は……」

 柳也は苦笑すると、教室の窓から差し込む夕日に照らされて、わずかに赤く染まる瞬の顔を見つめた。

「今日、バイトのある俺を、こんな時間まで教室に居残らせたのは、それを言うためか?」

「……ああ。柳也が来てくれて、本当に助かった。お前が来てくれなかったら、きっと僕は佳織の前で醜態を晒すことになっていた」

「もう、十分晒しちまったと思うがね」

 柳也は昼休みの時間中に汲んできたペットボトルの水を一口含むと、ゆっくりと喉を湿らせてから、言葉を続ける。

「俺と、お前と、佳織ちゃんは、昔からの幼馴染だぜ? 瞬の善い面も悪い面も、瞬のかっこ良い面もかっこ悪い面も、佳織ちゃんはもう全部知ってると思うけどな」

「…それでも、好きな人には自分の良い面だけ見せたいって思うのは、当然だろう?」

「さぁてね、その辺のことは、俺にはよく分からん。……なにせ、俺はそういう意味で人を好きになったことがないからな」

 柳也は少し寂しげに笑った。

「好きな人には自分の善い面も悪い面も全部曝け出したい。好きな人には自分の善い面だけを見てもらいたい。……どちらが本当に正しいのか、そもそも、正しい正しくないの是非なんてあるのかどうか、それさえ分からん」

 柳也にはまだ恋愛経験はなかった。

 父の言葉に従って強さを求め、母の言葉に従って優しさを大切にし、毎日を忙しなく過ごし、生きてきた柳也は、特別誰かを好きになるという余裕を持ちうることができなかった。また、仮にも剣士である彼の頭の中には、『酒と女は修行の妨げになる』という、過去の剣聖の言葉があった。

 ゆえに柳也は、生まれてもうじき二十年近くが経とうとしているが、人生の伴侶はおろか初恋の人すら見つけられずにいた。

「だから俺には、佳織ちゃんに対する秋月の気持ちは、いまいちよく理解できない。…とはいえ、高嶺に対するあの態度は、ちょっと行き過ぎているんじゃないかとは、たまに思うがな」

「……お前も、碧のやつや岬今日子みたいに、僕に説教するつもりなのか?」

「ああ、そのつもりだ」

「……」

 柳也はきっぱりと言い切った。

 ここまで真正面から宣言されると、瞬も無下には断れない。

「……聞いてやるよ」

「そうか、聞いてくれるか。なら、話そう。

 ……俺が不思議なのは、高嶺悠人はお前が好きになった佳織ちゃんの兄貴なのに、その兄貴に取り入って得こそすれ、敵対してわざわざ損ばかり被ろうとするお前の態度が、どうも奇妙でならないんだよ」

「悠人は僕から佳織を奪った。佳織は、僕のものなのに」

「佳織ちゃんは物じゃないっての…」

 瞬は、柳也の発言は無視して言葉を続けた。

「佳織は僕のものだ。あいつが僕達の前に現れるずっと昔から、佳織の笑顔は…佳織の眼差しは……僕と、柳也の二人だけに向けられたものだったんだ」

「さすがにそれは、自意識過剰すぎると思うが……」

「それなのに、後からノコノコやって来たあいつが…佳織の両親を殺し、佳織を泣かせたあいつが……! 僕から、佳織を奪ったんだ。佳織のことを、何も知らないくせに、佳織から全てを奪ったんだ」

 瞬の口調は、次第に熱の篭もった、激しいものへとなっていった。

 瞬は、この場にいもしない高嶺悠人に対して、異常なほどの怒りの感情を吐き出そうとしていた。

「あいつに……後からやってきた悠人のやつに、佳織の何が分かる!? 僕と、佳織と、お前の何が分かる……!? あいつは僕から佳織を奪っただけでなく、佳織からも全てを奪った。あの疫病神は、佳織から両親を奪い、佳織の自由を力で拘束し、今また佳織の才能までも潰したんだ……!」

「志倉への推薦のことを言っているのか?」

 柳也の問いに、興奮しながらも瞬は頷く。

 吹奏楽部に籍を置く、佳織のフルートの腕前が並々ならぬものであることは、壊滅的音楽センスの持ち主である柳也も知っていた。何度か耳にしたその音色は耳に甘く心地良く、その技術と才能が、他の部員と比較してもずば抜けて高いレベルにあることは、誰の目にも……いや、誰の耳にも明らかだった。

 そんな佳織のもとに、音楽の名門校として有名な志倉付属音楽学校への推薦入学の話が舞い降りてきたのは当然の帰結といえた。志倉付属音楽学校は全寮制で、音楽の英才教育に関してはこの国でもトップクラスのものがある。推薦入学の話が持ち上がった時、学園の誰もが佳織ならば当然だろうと思ったものだった。

 しかし結局、佳織はその話を断った。吹奏楽部の顧問や担任の先生が何度推薦を薦めても、佳織は首を横に振るばかりだった。

「…たしかに、あの推薦拒絶の裏には、あの超絶シスコンの高嶺が、佳織ちゃんを自分の手元から手放したくなかったからっていうのが、もっぱらの噂だが……」

 しかし、それは所詮、噂に過ぎない。

 柳也はそんな根も葉もない噂で人を評価することを避けていた。

 たしかに佳織が志倉付属への入学の話を断った事実については柳也も残念に思っているし、惜しいことのしたものだとは思う。だがそこは、最終的には彼女自身の意志の問題だ。余人があれこれ口出しするべきことではないし、また音大への進学となればかなりの費用がかかるはずだ。両親を亡くしている高嶺家にそれだけの蓄えがあるとは思えないし、そういった経済的な側面から、佳織は推薦入学を諦めたのかもしれない。

「予断をもって考え方ひとつに絞るのはやめとけよ。志倉の話だって、佳織ちゃんに直接訊いて確かめたわけじゃないんだろ?」

「それはそうだが……しかし、そうに決まっている」

「ったく……」

 柳也は思わず頭を抱えた。

 瞬のこの妄執ともいえる佳織への執着は今に始まったことではない。しかし悠人が絡むとなぜかこの親友の言動や行動は途端におかしくなる。いくら唯我独尊の小皇帝といっても、瞬にだってそれなりの常識はあるし、分別もある。だが、悠人が絡むとそういった常識や分別、理性といったものがまるで効かなくなってしまう。ただただ敵愾心を剥き出しにして、それこそ瞬曰く「育ちの悪い男」のように突っかかっていく。

 子どもっぽい独占欲だ……と、一言で片付けるのは簡単だ。

 しかし、瞬の悠人に対するそれは、自分から大切なものを奪っていく存在に向けている敵意というよりは、むしろ悠人本人に対して憎悪を抱いているように思えてならない。

 少なくとも柳也には、瞬が悠人を嫌うのには、佳織の存在は関係ないように思えた。

「……仮定の話なんだが」

 柳也は、ひとつ呼吸を置いてから話し始めた。

「そんな仮定に意味はないし、考えたくもないって、思うかもしれない。けど、ちょっと考えてみてほしい。もし、俺と高嶺の立場が入れ替わったとして、俺がお前から佳織ちゃんを奪うような真似をしたら……瞬は、俺のことを殺したいほど憎いって、思うか?」

「それは……」

 柳也の言葉に、瞬はしばし無言で考える。

 柳也は昔から自分のことを知っている親友だ。何も知らずに後からやって来た悠人とは違う。それに柳也は、自分から佳織を奪っても、佳織の全てを力ずくで奪うような真似はしないだろう。あくまで佳織には優しく接してくれるはずだ。

「……憎みはするだろう。けれど、それは悠人ほどじゃない」

「だったら、もうひとつ仮定の話だ。もし、この世界に佳織ちゃんという存在がいなかったとしたら、お前と高嶺の関係は、仲が良いとまでは言わないでも、どうなっていたと思う?」

 ――悠人!

 その名前を聞いた途端、瞬の頭に血が上った。

 身体の内側を熱い炎が駆け巡り、怒りの感情が、ふつふつと皮膚を焼く。

 あいつさえいなければ、佳織が奪われることもなかった。

 あいつさえこの世に存在しなければ、柳也にこんなお説教を喰らうこともなかった――――――

「何も変わりはしない! 悠人は…あいつだけは……!!」

 瞬は、はたと気が付いた。不思議なことに、今日に至るまでずっと気が付かなかった。

 はっとした表情になる瞬に、柳也はにっこりと笑みを向けた。

「ようやく気が付いたか…」

「あいつが、僕から佳織を奪おうとするから、悠人のことが憎い。けれど、僕とあいつの間に佳織という繋がりがなくても……僕はあいつのことが、殺したいほど憎い」

「それって、佳織ちゃんがいてもいなくても、変わらないよな?」

「……」

 どうして今まで、そんな簡単なことに気が付かなかったのだろう。

 愕然と立ち尽くす瞬の肩を、柳也は軽く叩いた。

「……大丈夫だ」

「柳也……」

「相性か、それとも前世からの因縁でもあるのか……それは分からないが、瞬が高嶺悠人を憎いと思う気持ちは変わらない。けど、瞬が佳織ちゃんを好きだって思う気持ちも変わらない。……だろ?」

 柳也はニヤリと唇を歪めると、穏やかな表情で瞬に励ますように今度は背中を叩いた。

「自信を持てよ、秋月瞬。お前は、その気になれば何でもできる男だろ? 勉強も、運動も、昔からそうだった。俺はお前なら、〈世界〉をその手で統べることも、不可能じゃないって思っているんだぜ? …そのお前が誠心誠意を込めて尽くせば、佳織ちゃんだってきっとお前を好きなる」

「……」

「ただ、瞬と高嶺が諍いを起こすことによって、周りの人達や、佳織ちゃん本人に迷惑がかかるのもまた、事実なんだ。勿論、俺にもな。そこのところを念頭に置いて、これからは行動してくれよ」

 柳也はそう締めくくると、薄い鞄と、なぜかペットボトルが四本も入った紙袋を抱えた。

「説教、終わり。じゃあな、瞬。また、明日」

「……またな」

 瞬が小さな声で別れの言葉を告げると、「おうおう、可愛い別離の言葉だな」なんて、言って、柳也は背中を向けた。

 その背中がなんとなくこ憎たらしくて、小突いてやろうかと思った時、実行に移す前に教室の扉は閉じてしまった。

 自分以外無人の山吹色の教室の窓際の席で、瞬は椅子に座りながら壁によりかかる。

 夕日の浮かぶ空を見上げる彼の薄い唇からは、思わず呟きが漏れていた。

「誠心誠意尽くせば、か……これ以上どうしろというんだ? この僕に」






 ――同日、午後九時十二分。

 バイト先からの帰り道、好きな漫画が三つしかないので、毎週立ち読みですましている青年漫画雑誌を目当てにコンビニへと立ち寄ると、柳也はそこで見知った顔を見つけた。

「いらっしゃいませー……って、桜坂?」

「高嶺…なんだ、お前ここのコンビニでバイトしていたのか」

 全国にチェーン店を構えるコンビニの制服に身を包み、レジに立つ悠人は店内では珍しい知り合いの客の来店に戸惑いを隠せなかった。

「桜坂…どうしてここに……」

「どうしてって……実は、毎週欠かさずに読んでいる雑誌があるんだよ」

 柳也は雑誌コーナーの方を指差すと、お目当ての漫画雑誌の名前を告げた。

「ああ…あれならさっき最後の在庫が売れていったけど」

「なにッ!?」

 柳也は驚愕と落胆の入り乱れる複雑な表情を浮かべた。

「も、もう売り切れたのか? だってあれ、週刊とはいえ今日発売だぜ?」

「いや、特集で最近人気のグラビアアイドルの写真が載っていたから…多分、それでだよ」

「ぬぅぅ……残念」

 本気で地団駄を踏んで悔しがる柳也の様子に、苦笑する悠人。

 それっきり、二人の会話は途切れてしまう。

「……」

「……」

 気まずい沈黙が、二人の間に訪れる。

 つい数時間前に“あんな事”があっただけに、怒鳴った方も、怒鳴られた方も、どう相手と接するべきか、まだ心の準備がついていなかった。

 今、店内には柳也の他に客はおらず、店員も悠人と正社員の店員が一名の、二人しかいない。

 刻々と時間だけが過ぎていき、柳也が来店して、五分が経とうとしていた。

「なあ、桜坂……」

 縦縞のストライプが入った制服を着た悠人が、おもむろに口を開く。

 何か大切な事を言おうとしているその決意の表情に、柳也は反射的に身構えた。

「……何、やってるんだ?」

「あ、いや、つい、反射的に……」

 呪うべきは悲しき剣士の性か。

 思いつめた悠人の表情に気圧されてして、思わず半歩身を引き、拳を固め、いつでもカウンター越しにでも鉄拳を叩き込める姿勢を取る直心影流二段の若武者。そしてその怪しげな行動は、すべて防犯カメラに捉えられている。

「なぁ、高嶺…。後であのカメラのデータ、消しといてくれないか?」

「悪い。うちの店のカメラ、テープ式だから」

 一介のアルバイト風情が、そう簡単に手出しできるような場所には保管されていないらしい。

 ふと、柳也は気が付いた。先ほどまで気まずい沈黙に支配されていた空間に、いつの間にか和やかな空気が流れ込んでいる。
話しかけるなら、今しかない。

 そう思った柳也が口を開くよりも早く、悠人が深く腰を折った。

「今日は、すまなかった……!」

「……へ?」

 柳也は思わず素っ頓狂な声を上げた。

 自分から話しかけようと思っていた矢先に機先を制され、あまつさえ悠人が柳也に言った言葉は、そのまま柳也が悠人に言おうとしたことでもあったからだ。

 昼休みの一件を知るはずのないもう一人の店員が、何事かと緊張した表情で訝しげな眼差しを二人に向ける。

 両目を丸くする柳也に、悠人は言葉を続けた。

「あの場に柳也が来てくれなかったら、俺は今頃学校にいられなくなっていただろうし、佳織も大変なことになっていたと思う。それなのに、昼間は謝りもせずに……本当に、すまなかった」

「高嶺……」

 高嶺悠人もまた、秋月瞬と同じで決して悪い人間というわけではない。ただ、彼もまた佳織や瞬のこととなると周りが見えなくなってしまい、冷静な判断力を喪失してしまう。だから時間が経って冷静にさえなれれば、こうして罪を悔い認めることができる。

 柳也は顔の見えぬ悠人の針金頭に向かってにっこりと笑みを浮かべた。それは、今日の悠人の非、すべてを許した、何の翳りもない笑顔だった。

「瞬もお前も、こと佳織ちゃんと、互いに嫌いな相手のことになると、周りが見えなくなるからな…」

「桜坂……」

「瞬にも言ったけどよ、お前達が諍いを起こすことでいちばん迷惑を受けるのは、他ならない佳織ちゃんなんだ。仲良くしろとは言わないが、もう少し大人になって行動してくれ。……もし、それができないなら、もっと俺ら、周りの人間に頼ってくれよ」

「……」

「周囲の大人が信用できない…っていうのは、俺もよく理解しているつもりだ。佳織ちゃんから、聞いているだろ? 俺のことは」

「……ああ」

 悠人はやや暗い面持ちで柳也の顔を見た。

 柳也は、満面に浮かべた笑顔を崩すことなく、

「俺も、父さんと母さんが亡くなって、苦労した。それまで絶縁同然だった母方の親戚が、財産目当てに集まってきた。不安になったし、連中の欲にくらんだ目を、俺も恐れたよ。……けど、それでも柊園長先生は俺に優しくしてくれたし、しらかば学園の人たちはみんな俺の味方になってくれた」

 佳織の幼馴染の彼が背負っている過去については、悠人も少なからず知っている。

 この一見して明け透けなほど明るい男は、その軽薄そうな態度の裏に、人の痛みに誰よりも気付いてやれる鋭敏な感覚を持っている。かつて、両親を同時に失ったという、自分達兄妹に襲い掛かった悲劇と同じ出来事が、彼をそうさせたのだ。

 自分達も味わった心の痛み。決して消し去ることのできない胸の痛み。しかし、誰かとの絆によって軽減できる痛み。柳也は、そのことを経験で知っているから、その“誰か”になることができる。そして、なろうとする。

「佳織ちゃんほど俺は世の中の人間全員を信頼することはできない。佳織ちゃんのように、世の中に本当に悪い人間はいない……とまで、俺は言い切れない。けれど、それでも世間の大多数は基本的にみんな善人だ。碧然り、岬然り。高嶺悠人然り」

「俺は…そんな……」

「俺が言えた義理ではないが、もうちょっと大人になれ。それから、もう少し俺達を頼れ。……俺からは、それだけだよ」

 暗い雰囲気を払拭するかのように、明るい声音で柳也が言った。

「しかし、何も買わないでこのまま帰るというのもアレだしな……ん。友人の好だ。ここは少し売り上げに貢献してやろう」

 そう言って、柳也は店内をぐるりと見回した。と言っても、目当ての漫画雑誌は売り切れてしまった。貧乏学生の柳也に、あまり高価なものを買う余裕はない。

「ん〜〜〜……むお?」

 視線が留まった菓子コーナー。最近の食頑が精巧な造りをしているとは聞いていたが、まさか、これほどとは……

「んじゃ、これを買っていこう」

「……桜坂って、こういうの、好きな人間だったのか?」

「いけないか?」

「いや、俺としてはべつに構わないけど」

「男の子はみんなこういうのに憧れるものなのですよ」

「俺も、男なんだけど……まぁ、いいや。一点で三一五円になります」

「ん……」

 財布の中から千円と二十円を取り出し、悠人に手渡す。釣り銭の六〇五円を受け取って、柳也は片手を挙げた。

「んじゃ、仕事頑張れよ、高嶺。また、明日な」

「ああ。……おやすみ」

「ん、おやすみ」

 遠ざかっていくその広い背中。

 自分の時には、両親を失ったといってもそばにはいつも義妹がいてくれた。しかし、彼の時にはいなかった。柳也が、しらかば学園に入るその日まで、あの広い背中はずっと孤独だった。

 人と人との繋がりが、どれほど大切で、尊いものなのか……それを知る男の背中を、悠人はずっと見送り続けた。






 コンビニの自動扉を出て、柳也は素早く外に設置されているゴミ箱の側まで移動する。

 先刻買ったばかりのパッケージを開け、ビニール袋に封入された、精巧な造りのソレを取り出して……柳也は舌打ちした。

「九〇式野砲か……これで三つ目だぞ」

 直心影流剣士・桜坂柳也。

 彼は剣をその手に執る男であると同時に、戦車に心躍らせるミリタリー・オタクだった。






 ――同日、午後九時三二分。

「……ずいぶん遅くなっちまったな」

 神木神社の石段の前までやって来て、柳也はひとり苦渋に顔を歪ませながら呟いた。

 父の形見の腕時計が指し示す時刻は午後10時。本当はあと一時間は早くここにやってくるつもりだったのだが……

 ――ぬぅぅぅ……まさか、あんなところで工事現場に出くわすとは。

 朝のランニングの時にはそんな予兆もまるでなかったのに。気が付くと柳也が神社まで通うのにいつも使っている道は封鎖され、彼は大きく迂回して行かねばならなかった。

「……さすがにもう待ってないよな」

 今夜改めて謝りに行く……自分で言った軽率な言葉を、自分で呪う。

 まだ深夜というほどではないにしろ、こんな時間まで彼女が神社の境内にいるとは思いがたい。まして今は真冬の季節。冷たい夜風の吹く外に、好き好んで一秒でも出ていたいと思うような女はいないだろう。

「でも、一応、行ってみないとな」

 今朝の一件では双方に非があったとはいえ、どちらの方により重い罪があったかといえばそれは紛れもなく自分の方だ。そのことについては散々謝っているし、一応、時深の許しも得ている。

 しかし、顔を合わせない謝罪を自分が良しとしなかったもまた事実だ。

 そしてその上で『今夜、改めて謝りに行くので神社で待っていてください』という旨の発言を自分がしてしまったことも、事実だ。

 時深が未だ境内で待ってくれているにしろ、もう居ないにしろ、柳也には確かめねばならない義務があった。

 ――待ってくれていない方が、こっちとしてはありがたいが…。

 この寒空の下だ。巫女服がどんな生地で作られているのかは知らないが、あの衣装が防寒性に優れているようには見えない。自分を待っていたがために風邪でもこじらしたら、それこそ自分は腹でも切らなければならない。いや、さすがに切腹は大げさだが、自分は悔やんでも悔やみきれないだろう。

 風邪を引かれるよりは、諦めて帰ってくれた方がまだマシだ。悪人はやってこなかった柳也ひとりで、元気な姿の時深に糾弾されるのならそれで良い。
柳也は百段近い石段を一息で上りきった。

 冬の寒空の下で目立った発汗はなく、呼吸にもあまり変化はみられない。

 石段を上りきって境内に出た柳也は、改めて今日の自分の身体の調子を確かめた。

 ――やっぱり、なんか調子良い……っていうか、良すぎだよなぁ。

 同年代の他の若者達と比べて、幼少の頃から体を鍛えている自分の身体能力が高いレベルにあるという自負は柳也にもある。しかし、それにしたって今日の自分は別格だ。まるで、自分の身体ではないような錯覚すら覚えてしまう。

  二限目の体育の時間でのことが思い出される。

 冬のマラソンというのは、大半の生徒達にとっては人気のない運動だが、普段走ることに慣れ、足腰の力の重要さを知っている柳也としては、臨むところだと思いこそすれ、億劫だ、手を抜こうなどと思うようなことはない。そして一周一五〇メートルのトラックを十周したとき、計測した柳也のタイムは……

 ――ありえないだろう。自己ベスト三十秒更新の上に、過去の体育大会記録第二位って。

 身体の調子が悪いのなら医者に行けばよい。

 しかし、身体の調子が良すぎる場合は、どこに行けば良いのだろうか。

 ――昨日、本当に何もなかったのか……?

 水飲み場の前までやってきて再び昨日の記憶を追想する。

 早朝のランニングは……いつも通りだった。

 登校時の小鳥との遣り取り……いつも通りだった。

 悠人達との会話……いつも通り。

 瞬の態度……いつも通り。

 しらかば学園での稽古風景……これもいつも通りだ。

 柊園長から父の形見を譲り渡されたこと……これだけが、いつもとは違った。

 そして、学園からの帰り道は……いつも通り、だったか?

 ――ん?

 なぜだろう。それまでの記憶は鮮明なのに、しらかば学園からの帰り道の記憶だけが、すっぽり靄に覆われているかのように判然としない。

 ――刀を貰った興奮で、忘れてしまった?

 いや、そんなことはないはずだ。事実、今朝、自宅で回想した時にははっきりと鮮明な記憶を思い出すことができていた。それなのに、神木神社で思い出せないなんてことが、あるだろうか……?

 柳也は一度深く深呼吸をして、もう一度頭の中の記憶を洗いざらい探ってみる。いつも稽古でそうしているように、臍下丹田に気力を篭め、意識を、剣士としての意識を、極限まで集中する……。

 ちかちか、と明滅する電灯。

 飛び立った蛾の軌跡。

 はっきりと鮮明に憶えている。

 断末魔の電灯が光を注ぎ、視界によぎった、あの人影……。

 ――俺は、昨日、誰かと会っていた?

 ズキリ、と、なぜだか分からないが胸が痛んだ。

 ズキズキ、ズキズキ、と柳也が昨日のことを思い出そうとするのを邪魔するかのように、彼の集中を途切れさせようと激しい痛みが生じた。

 焼けるような痛み。

 不意に蘇る甘い声。

 そして……この唇に残る、凍った感触……。

「ぐ…うぅ……」

 動悸が激しい。

 息が苦しい。

 喉がからからに渇く。

 細胞の一片々々が、まるで太陽になったかのように熱い。

 ぽたぽた、と玉のような汗が額から流れ落ち、石畳の上を汚す。

 痛みに耐え切れなくなった柳也は、ついに膝を着いた。

 頭の中で、過去の記憶の再生とは別な、声が響く。

【心を、決めよ……】

 痛い。痛い。

 胸だけではない。

 なにより、頭が、そして心が、痛い。

【大切なものを……守る。……そのための、〈決意〉を…】

「だ…れ……だぁッ!?」

 頭の中が、何かに侵食されていく。

 そんなあり得ない感覚が、柳也の心を凍らせる。

「お前…はぁ……いったい……」

【〈誓い〉を…守るための……〈決意〉を……】

 ――〈誓い〉? なんのことを言っている? 〈決意〉? なんのことを言っている?

 頭の中で、言葉にならぬ情報の羅列が流れていく。

 己の大切なもの……高嶺、碧、岬、小鳥ちゃん、佳織ちゃん、園長先生、しらかば学園の兄弟たちの顔が、軍馬の如く駆け抜けていく。

「瞬……」

 最後に、最大の友の顔が視界によぎり、柳也の意識は深淵の闇に……

「……呑まれて、たまるかぁーーッ!!」

 額を、痛烈な痛みが襲った。

 最後の力を振り絞った柳也の、必死の抵抗だった。

 水飲み場の排水溝の段差にぶつけた額が、じくじくと痛む。

 鼻梁の岸壁に阻まれて、ふた筋に分かれた血流が、ぽたぽたと、排水溝の中に吸い込まれていく。

 頭の中の声は、いつの間にか消えていた。

「柳也さん!」

 耳膜を、知った声が打つ。

 だがしかし、胸の痛みに消耗し、頭の痛みに消耗し、自らの額をぶつけることでトドメを刺した柳也の意識は、すでに朦朧としていた。

 ――……誰だ?

 透き通った声。

 どこかで聞いたことのある、高い声。

 ――ああ、時深さんか……。

 それがいったい誰のものであるか思い出した時、柳也の意識は、今度こそ深淵の闇に……

 ――俺のこと、待っていてくれたんだ。……ありがとうございます。それから、

「……申し訳、ありません」

 ……呑まれていった。






「第七位とはいえ、神剣の強制力、“エターナル”の忘却の術に、これほど耐えるなんて…」

 気を失った柳也を見下ろす時深は、驚嘆に眉目を揺らしていた。

「柳也さん、あなたは……」

 時深の経験上、“彼ら”の施した忘却術にこれほどまでに抗えた人間はほとんどいない。決して皆無とはいわないが、それでも数百年に一度の逸材だ。

 桜坂柳也。〈誓い〉の守り手として、“彼ら”の手によって〈運命〉を操作された少年。しかし、この少年であれば己の行く末に課せられた〈宿命〉すらも乗り切り、未来を変えられるかもしれない。

 〈誓い〉の主とともに〈求め〉を討ち、〈世界〉を築く運命を、変えられるかもしれない…。

「……」

 失敗した際のリスクは大きな賭けだが、試してみる価値はある。

 決意した戦巫女は、未だ気を失い続ける柳也の額……境内の石畳と同じ材質の石にぶつけてできた傷口に、そっと指を這わせた。

「永遠神剣第三位〈時詠〉の主として命ずる……」

 その言霊は光輝を帯び、傷口に触れた指先からはあふれんばかりの光が泳ぐ。

 生命の輝きが柳也を包み、やわらかな風が、境内に吹き込んだ。






 同じ頃、無人の柳也の部屋で、“カタカタ…カタカタ……”と、震える刃がひと振り。

 父の形見と譲り渡された刀の、より短き方……同田貫と違い、無銘の脇差は、荘厳に光り輝いていた。

 そしてそれに呼応するかのように、押入れに大切に保管された、同田貫の刃も、激しく震え、光を灯す…。

 互いに牽制し合うような輝きは、やがて不意に徒然なるままに止まった。

 鍵を閉め、無人のはずの柳也の部屋に、白い影が現れた。






 神木神社の境内で、長髪の巫女はひとり呟く。

「柳也さん……これであなたの中には〈流転〉と〈秩序〉、そして私の〈時詠〉のマナが存在することになりました」





 無人の柳也の部屋で、白の少女はひとり呟く。

「時深さん…あくまでわたくし達に抗うつもりですのね」





 神代の時代より生きる戦巫女は、その少年の行く末を思い憂いの表情を浮かべ、

「柳也さん、あなたのこれからはおそらく辛い道のりになるでしょう……」





 それよりもはるか過去より生きる法皇は、この部屋の主の未来を思い邪悪に笑う。

「ですが、所詮、あなたが今手出ししたところで、何も変わりませんわ」





 巫女は、少年に希望の眼差しを、

「ですが、柳也さんならその道を無事に突き進んでくれると信じています。未来に待つ、悲しい〈宿命〉を、切り開いて進んでくれると……」





 法皇は、少年に悪魔の望みを、

「桜坂柳也はわたくし達の望む未来の通りに行動してくれるでしょう。その先に待つ、避けられない〈運命〉に、従容と従って……」





 互いにはるかな距離を隔てて、ふたつの永遠存在は、その小さな少年に己の想いを託す。

 そして少年の名を呼ぶふたつの言霊は、奇しくも同じ時に重なり合う。






「どうか、あなたの〈運命〉に負けないで。……永遠神剣第七位〈戦友〉の柳也」

「ねぇ、そうでしょう? 永遠神剣第七位〈決意〉の柳也」





 ふたつの言霊が爆ぜて、押入れの中のふた振りが再び光を放つ。

 〈決意〉の刃と、〈戦友〉の刃が、互いを牽制し合うように、不気味に輝いていた。



<あとがき>

柳也「エンジンのお〜と〜ごお〜ごぉおおぉと〜……隼がゆく〜…くぅもぉのはぁて〜〜!」

タハ乱暴「……ハイ! というわけで」

北斗「何が、“というわけ”なんだ?」

タハ乱暴「いや、書いている自分もよく分からないが……とにかく、永遠のアセリアAnother EPISODE:02、お読みいただきありがとうございました!」


北斗「今回はまた柳也という男の色々な面を見せる話だったな。巫女さんクリティカルに始まり、軍オタという結論で終わる」

タハ乱暴「つまるところ普段のタハ乱暴とあんま変わらないっていうね」

北斗「しかし、普通ならば今回のように主人公の多様な顔を見せるという手法は、第一話でやるべきではないか?」

タハ乱暴「うん。普通ならね。でも、ほら、タハ乱暴は普通じゃないから」

北斗「自分で言いやがって、この男は…」

柳也「それよりタハ乱暴、前回に引き続き今回のラストはなんなんだ? 二話連続で俺、気を失っているぞ? 二回目なんだから、もうちょっと捻りのある終わり方にしろよ」

北斗「たしかに、あの引きの仕方はワンパターンというか…もう息切れしたか? と、思われかねんぞ」

タハ乱暴「いや、まぁ…他に手法が思いつかなかったし……二連続くらいなら読者の皆様も容赦してくれるかなぁ〜…って」

北斗「読者を甘く見るなッ!」

タハ乱暴「はぅッ!」

柳也「読者に甘えるなッ!」

タハ乱暴「あべしッ! …痛切なお言葉、心に染み渡ったぜ…」

柳也「本当かよ? …これでもし、次回も気、失って終わりなんて結果だったら……」

タハ乱暴「その時はほら、あれだ。柳也は貧血持ちってことで」

北斗「そんな主人公が刀を持って暴れまわれるかぁッ!!」




もしかして、神剣を二つなのか。
美姫 「でも、それぞれに違う役割を柳也に求めているわよね」
さてさて、どうなるのか。
美姫 「次回も待っていますね〜」
ではでは。



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