無償の奇跡は存在しない

 あるのは、代償を果たす契約のみ

 我は力を――

 汝の望みを叶える力を、持つ者なり









 佳織の両親が死んだ日。

 それは同時に、俺が二回目に両親を失った日でもあった。





 まだ最愛という言葉の意味も知らぬほど幼かったあの日。

 俺は両親というかけがえのない存在を一遍に失った。





 飛行機事故なんてめったに起きるものじゃない。





 交通事故なんて世界中にごくごくありふれた悲劇のひとつでしかないだろう。





 だがそんな運の悪い飛行機に、

 俺の家族たちは『たまたま』乗り合わせていた。





 しかし、事故の当事者からしてみれば、

 その悲劇は唐突に人生の終わりが来た瞬間も同じで、





 ただ、それだけのこと。





 あの事故が、俺の人生のひとつの転機になったことには間違いない。





 皆で田舎のバアちゃんの家にいく途中の出来事だった。

 一足先に行っていた俺だけが、事故を免れたのだ。





 なぜ、一緒に乗り合わせていた俺だけが生き残って、

 なぜ、絶対に失いたくはないと思っていた両親が死んでしまったのか。





 幼い俺は、未だ生死の境を彷徨う佳織の無事を必死に祈り続けていた。





 “死”という事象が自分には無縁のことと思い込んでいた幼少の折、両親の死を受け入れられず、ただただ俺は混乱して、何もできなかった。





 ――俺に残された、たった一人の家族。





 ただひとり、幼い俺を助けるために自分達が逃げる時間までも削って、挙句の果てに死んでしまった両親たち…。





 本当に最後の家族……それが、義妹の佳織なのだから。





 家族をすべて失った俺が憶えている、本当の両親の最後の言葉。





『誰でもいい…僕の命と引き替えだっていい。なんでもする。だから…』

 心からの祈り。

 佳織が助かるのなら、何を引き替えにしたって構わない。





『強い男になれ。どんな時でも、大切なものを守れる強い男になれ』

 炎上する車の中で聞いた、父の、最期の言葉。





『だから、誰か……佳織を助けて……!!』

【…ちか…と………わ…の】

 ふと、声が聞こえてきた。

 空気を震わせない、直接頭に響く声。





『優しい男の子になって。大人になっても他人を思いやる心を忘れない、そんな強い人になって』

 恐怖に震える子を抱きながら言った、母の最期の言葉。





 意味があるものか、そもそもそれが言葉なのかもわからない。

 だが、俺はその声の主にすら願ってしまう。

『佳織を助けて! 何でもするから、佳織を!』

 必死になって、深く深く祈りを捧げる。

 いつしか、小さな俺と今の俺の思考が重なっていく。





 まだ十歳にも満たない歳で、よくあの恐怖の空間の中でこうも鮮明に憶えたものだと、我ながら感心してしまう。

 そして、あの燃え盛る車内で取った両親の行動にも、俺は彼らの息子として……そして、ひとりの人間として敬服している。

 父だって死の恐怖がなかったわけではないだろうに。母だって、あの炎の中で熱くなかったわけがないだろうに。

 俺はあの事故の日、初めて知ったのだ。





 俺は祈った。

 佳織のために。

 ……ただ、祈り続けた。





 人は誰かを守りたいと強く思った時、自分の命すら投げ打って、その誰かを助けようとすることができる……。

 俺はいつしか、将来あの日の両親のような生き方をしてみたいと思うようになっていた。

 大切なものを守るための強さと、優しさ。

 そして俺は、今でもあの日の両親の言葉を胸に刻んで、今日を、生きる……





永遠のアセリア

-The Spirit of Eternity Sword Another-

序章「白い翼の少女」

Episode01「桜坂柳也」





 ――二〇〇八年一二月一六日、午前六時。

 桜坂柳也の一日は、早朝五時半に起きて、六時からのランニングから始まる。

 まるで隠居した老人のような生活スタイルだが、そのことについて本人が気にしていたのは最初の二・三日だけで、何年も続けて今や日課にすらなっている現在では、当人に特別早い時間帯に起きているという意識はなくなっていた。

 「今日も精が出ますね」なんて言われて、すれ違う女学生の集団に軽く会釈しながら挨拶するのも、もうお馴染みの光景だ。近々控えている地区のマラソン大会の本番へと向けて猛練習を重ねる一団の中には、柳也がこの早朝ランニングを始めた頃から見知っている、いわゆる幼馴染と言ってよいような顔ぶれもある。

 柳也がこの日課を始めるようになったのは、もう十年も前からのことだった。

 今は亡き両親の葬儀が終わって数日後、両親の最期の言葉を忠実に守ろうとした彼は、しかしやはりまだ幼かった。柳也は父の言葉……『強い男になれ』という言葉を、単純に『身体を鍛えろ』と解釈し、父に言われたような“強さ”を身に付けるため、まずは基礎体力を作ることから始めた。警察官であり、剣術の達人でもあった父の影響もあったのだろう、幼い柳也にとって“強さ”というのは、鍛え抜かれた肉体に宿る“力”のことだった。

 さすがにもうすぐ成人を迎えようという今では、柳也もそこまで短絡的には考えていない。

 しかし、身体を鍛えること自体は決して損にはならないし、一度始めたことを今更やめるのも……という思いもあって、彼はこのランニングを都合十年続けていた。

 最初は開始七時だった時間も今では六時に引き下げられ、当初は町内の公園を何周かするぐらいの距離でしかなかったコースは、今では軍隊のランニング並みに過酷なトレーニングとなっていた。

「はっ…はっはっ……」

 一歩進むその都度火照る身体を浅い呼吸でどうにか冷やしながら、お決まりのコースを進んでいく。

 アパートを出てすぐのところにある川の土手を走り、橋のすぐ側に設けられた階段を登って商店街へ。平坦な道を抜けると土の上よりもはるかに走りづらいコンクリートの坂道を上っては下り、上っては下り。瞬発力を鍛えるのに適した長い石段を登って、近所の神社の境内へ。

 特に立派な社が建っているわけでもなければ、荘厳な鳥居が出迎えくれるわけでもない。

 平均的な大多数の日本人と一緒で、特に宗教というものを信仰していない柳也にとって、神木神社は早朝ランニングの通過点という印象しかない。神社の建立よりも古くから湧き出していると伝えられる湧き水はたいへん美味で、魅力的だが、せいぜい印象に残っているのはそれぐらいだ。

「ん?」

 駆け足で石段を上っていると、ふと視線を感じた。

 立ち止まって振り向くと、境内の売店の方で巫女服に身を包んだ女性が、古めかしい竹箒で玉砂利を整えながらこちらを見ている。遠目にだが、顔立ちから推察される歳の頃は柳也とそう変わらないだろうか。女性……というよりは、まだ少女といったあどけなさが残っている。少女から一人前の女になる途中……といったところか。

「おはようございます」

 にこやかな笑顔で、挨拶された。

 柳也から売店までは五メートルほどあるが、透き通ったよく聞こえる声だ。

「おはようございます」

 柳也も、軽い会釈とともに答える。

 たぶん、初対面のはずだ。この神木神社をランニングのコースに取り入れるようになってもう四年になるが、この神社で彼女のような巫女の姿を見かけたことは一度もない。

「今日も朝から精が出ますね」

 ……と、思ったが、どうやら彼女の方は違ったらしい。

 彼女は「今日“も”」と言った。ということは、少なくとも相手の方はごく頻繁にこちらのことを見かけているということだろう。

「えっと…初対面、ですよね?」

 控えめに訊いてみる。

 絶世の美女というわけではないが、なかなかの美少女だ。一度会っていれば、そうそう忘れられるような美人ではない。
 
 はたして、柳也の問いに彼女は頷いた。

「はい。柳也さんと直接話すのは、今日が初めてです」

「そう…ですよね。よかった。俺の記憶が衰えたわけじゃなかったか」

 柳也は人見知りするタイプではない。冗談っぽく笑う仕草には、すでに何年来の友人に対する親しみの色すら浮かんでいた。

「こんな美人と知り合っておいて、それを忘れていたなんて知ったら……後悔で夜も眠れないところでした」

「まぁ、お上手ですこと」

 わずかにはにかむ長髪の巫女。

 幼い顔立ちからはちょっと想像できないような上品な仕草で微笑む彼女に、柳也は一瞬ドキッとしてしまう。

 しかしそれを表に出すことはなく、柳也は二歩近付くと、折角整えた玉砂利の領域へ足を踏み入れないように立ち止まって、気さくに笑いかけた。
「桜坂柳也です。勝手に境内、使わせてもらってます」

「はい。知っています。直接話したのは今日が初めてですけど、時たま見かけていましたから」

「あ、だから俺の名前を…」

 この神社にはランニング以外にも時折足を運ぶことがある。いくら無宗教無宗派といっても、日本人として初詣にぐらいは来るし、もしかしたらその時に名前で呼ばれていたのを見ていたのかもしれない。

 少女はまた頷くと、今度は胸元に手を当てて、自分の名前を名乗った。

「倉橋時深です。この神木神社の巫女として派遣されてきました」

「……巫女さんって、派遣社員制だったんですか?」

「いえ、そういうわけではないのですが…」

 思わず口をついで出たとんちんかんな質問に苦笑する時深。

 なんとなく気恥ずかしくなったのと、息継ぎ以外に身体が冷え始めてきたので、柳也は手を挙げた。

「それじゃ、そろそろ行きますんで」

「はい。それでは、ご機嫌よう」

 時深の言葉を背中に受けながら、柳也は来た時と同じペースで石段を駆け下りていった。






 くすくす。

 くすくす……と、いかにも愉しげな笑い声が、どこからか風に乗って神社の境内に響いていた。

 単なる風のいたずらか、それとも誰かの言葉を風が拾ってきたのか。

 少女ような、老女のような、年齢の判然としない、ただ女のものとだけ分かる笑い声。

 境内にひとり残る時深は、柳也と言葉を交わしていた時とは一転、どこか神秘的とすら取れる荘厳なオーラを纏いながら、凍る刃のような眼差しを虚空へと向ける。

《あの子が、そうですか…》

 また、声が、

 今度は、はっきりとした意味を伴った言葉が……

 神社の境内に、響き、こだまする。

《本来の時の流れに従えば、次の戦いでは私達が敗北するのでしょうけど…》

「彼を、巻き込むつもりですか?」

 凛とした、少女のものとは思えない声。

《あの少年は、良い剣士になるでしょうね。〈誓い〉の守り手として、〈求め〉の討ち手として…》

「これ以上、私が干渉させるとでも思いますか?」

《あなたがどう邪魔をしようと、もう私達の行動は止められませんわ。他にお仲間のいないあなたと違って、私には頼りになる臣下が何人もいますから》

「……」

 風が指摘することが事実であるだけに、時深は沈黙せざるをえない。

 たしかに自分は現在孤立無援。自分以外に他に手勢はなく、たったひとりでそれぞれ別行動を取っている“彼ら”の動きを全て牽制するには、ひとつしかない肉体ではあまりにも困難な作業だ。

《あの坊やは……桜坂柳也は、必ずやあなたの想い人を討ちますわ》

「そんなことは絶対にさせません」

《それでしたら、止めてごらんなさい。ですけど、リュトリアムの時のようにはゆきませんわよ》

くすくす、くすくす……と、異形の風が神社の境内を吹き抜け、巫女の姿もまた消えた。






 ――同日、午前八時十分。

「あ、桜坂先輩、おはようございますー」

 早朝ランニングから帰宅して制服に着替え、簡単に朝食を取って家を出た柳也の背中を、元気の良い……というより、良すぎる甲高い声が包む。

「ぬぅッ! この朝にも拘わらず元気の良く、威勢の良いこの声は……小鳥ちゃんかぁ!?」

 背中から声をかけられた時点で誰だかはすぐに分かったが、あえてそう口に出して言ってみる。

 ポーズをつけながら勢いよく振り向くと、そこには案の定柳也の後輩の、夏小鳥がいた。

「おおお! その南洋の豹を思わせる俊敏な動作、キレのある手の返し、輝くような白い歯と爽やかな笑顔! 今日の先輩のキメポーズは……」

「キメポーズは?」

「……十三点ですかね?」

「なんでやねん!」

 それだけ煽っておいてその点数はないでしょう、小鳥さん。

 彼女曰くのキレのある手の返しのまま柳也は軽くツッコミを入れた。

「おはよう、小鳥ちゃん。今日も朝から元気だねぇ」

「さっきも言いましたけどおはようございます、桜坂先輩。今日も朝からとばしてますねぇ」

「そりゃ、元気だけが取り柄の男だからな」

 柳也はからからと笑いながら言った。

 夏小鳥は柳也が通う学園の付属校の生徒で、本校に通っている彼の後輩にあたる。付属校と本校の生徒とでは同じ敷地内に校舎があるとはいえ、接点は極めて少ないのだが、彼女の場合は昨年、柳也がいたクラスに、彼女の親友の兄と彼女が尊敬する先輩がいたので、しばしば本校の教室に顔を出すことも多く、それがきっかけで柳也とは知り合っていた。

「この時間に登校ってことは、今日は朝練はなかったのか」

 小鳥は件の親友と一緒に吹奏楽部に籍を置いている。初めてその事実を聞かされた時、柳也は彼女と吹奏楽のイメージが合わずに苦笑したものだ。

「どっちかっていうと、運動系のイメージだもんな」

「? 何の話です?」

「いや、こっちの話」

「桜坂先輩はこの時間ってことは、今日はランニングですか」

「そう。…っていうか、俺はいつもこの時間じゃないか」

 格別、秘密の特訓というわけでもないので朝のランニングについては小鳥にも教えている。

 柳也は朝起きるのは早いが日課のランニングやら朝食やらで、だいたい学校に着くのは遅刻タイムリミット十五分前というのが常だった。朝五時半に起きて六時からランニングを始めて、七時前に帰宅して一時間で朝食の準備、摂取、後片付けを、一人で行うとどうしてもその時間になってしまうのだ。

「大変ですよね、一人暮らしって。寝坊とかした日は、どうするんですか?」

「ん…そういう日はだいたい、ランニングを早めに切り上げて、対処しているが」

「走るのをやめるっていう選択肢はないんですかね?」

「ないな」

 柳也はきっぱりと告げた。

 当初は父の遺言に従って、半ば義務的にやっていたランニングだが、いつの間にやら身体を動かすこと自体好きになっていた現在では、生活に欠くことの出来ない行事となっている。

 両親が死んで以来、一時は施設に身を置いていた柳也だったが、小学校を卒業すると同時に、施設の先生の手助けや両親が遺した財産もあって、今の学校からほど近い場所に所在するアパートで一人暮らしを始めていた。小鳥の言うように大変は大変な生活だが、なんといっても人間慣れである。

 柳也に両親以外の親族はいない。もともと父親は柳也の祖父がかなり遅くにつくった子で、祖父母ともに前世紀中に逝去している。母はほとんど駆け落ち同然に父とくっついたらしく、母方の親戚とは今も絶縁状態が続いていた。

「でも、お掃除とかお料理とか面倒じゃありません?」

「そりゃ、時にはね。けど、料理だって慣れれば大した労働じゃないし、そりゃ夏場は辛いが、なんといっても外食する金がないからな。仕方がない。……あ、でも、掃除はそうでもないな」

 柳也に限らず、一人暮らしの若い男というのは意外に綺麗好きが多い。

「なんというか、最低限部屋を整頓しておこうと思ってると、いつの間にか綺麗好きになってるんだな、これが」

「そういうものですか?」

「そういうものなのですよ」

 小鳥の問いに、柳也は神妙に頷いた。

 すると小鳥は柳也をからかうように口を開いた。

「じゃあじゃあ、今度私が料理とか作りに行きましょうか?」

「あ〜……気持ちは嬉しいが、そういうのは、好きな男ができたらにしなさい」

「むぅ…その好きな男の人がやらせてくれないから、予行練習でって言ってるんじゃないですか」

「……高嶺のやつ、相変わらずの鈍感なのか?」

 柳也は昨年クラスメイトだった男子生徒のことを思い出しながら訊ねた。

「鈍感も鈍感、チョー鈍感ですよ! 悠人先輩ってば、わたしがいくらモーションかけても全然気付いてくれないんですから!」

 小鳥は口を尖らせながら、不機嫌そうに頷いた。

 二人の言う『高嶺』、『悠人先輩』こと高嶺悠人は、小鳥の親友……高嶺佳織の義理の兄で、小鳥の想い人だ。世間一般の尺度から見てもなかなかの二枚目で、性格的にもこれといった問題はなく、むしろ大半の人は好感が持てるタイプだ。小鳥のように彼に想いを寄せる女子生徒は多く、実際、柳也のクラスにも何人かいる。

 しかし、件の彼がそうした女子生徒達の想いに少しでも応えてやっているかといえば、答えはNoだ。柳也と小鳥が口にしたように、高嶺悠人という少年は、こと自分に向けられる女性からの好意に関して果てしなく鈍感で、ちっとも気付きやしない。加えて、本人は否定しているがかなりのシスコンでもあり、基本的に義妹の佳織以外の女の子は、ほとんど眼中にあらず……といった感じだ。そういった事情もあり、小鳥のように陰で涙を流す娘は意外と多かった。

「あ、あそこに見えるは悠人先輩! 悠人せんぱ〜い! おはようございま〜〜す!!」

 ふと、隣を歩く小鳥が飼い主を見つけた子犬のように、物凄い勢いで駆け出した。

 小鳥が駆け出した方に視線を向けると、そこには長身の男子生徒が2人と、それぞれ本校の制服と付属校の制服に身を包んだ少女が2人の、4人グループが歩いていた。全員、柳也の見知った顔でもある。

 柳也が「おーい!」と、声をかけると、相手もそれに気付いたらしい。小鳥が、「桜坂先輩、速く速く」と、せかしてきた。

「おはよう、高嶺、碧、岬。それから、佳織ちゃん」

 小鳥に追い着き、居並ぶ面々に順番に挨拶していく。

 先ほど小鳥との話題に上っていた高嶺悠人と高嶺佳織、そして2人の幼馴染であり、昨年まで柳也のクラスメイトであった碧光陰と岬今日子の4人組だ。

「おはよう、桜坂くん!」

「おっす、桜坂」

「よう、桜坂」

「おはようございます、桜坂先輩」

 最後に佳織がぺこりと頭を下げて柳也の挨拶に返してくる。

 うむ。相変わらず礼儀正しい娘だ。思わず頭をなでなでしたくなってしまう。

「なで…なで……っと」

「……おい、なにやってんだ、桜坂?」

 ドスを孕んだ……というより、殺気すら含んだ声音で、周囲の気温が二度ほど下がったような気がした。発生源は分かっている。佳織が被っている不思議な生き物の帽子……愛称『ナポリタン』に手を置いた辺りから血走った眼でこちらを睨んでいる針金頭君からだ。

「桜坂、今すぐその手を離せ」

 半ば脅すような声量で悠人に言われ、柳也は素直に佳織の頭から手をどかす。佳織の頭の上から手を移動させても、柳也がその手をズボンのポケットにしまい込むまで、悠人はまだ手を睨み続けた。

 これぞ碧光陰曰く、『危険領域に達している』という高嶺悠人のシスコンぶりだ。友人の後輩という身内びいきを除いても佳織は比較的可愛い部類で、付属にも彼女を狙っている男子生徒は多いのだが、悠人のこの恐るべきシスコンぶりと、別なもう一つの理由によって、大半の男子生徒はそれを断念させられている。もっとも、本当にごくわずかな一部の生徒ではあるが、そんな悠人の障害にもめげずになおも佳織を狙っているチャレンジャーも、いるにはいる。

「……ったく、桜坂は相変わらず命知らずなヤツだよな」

 そのチャレンジャーのひとり、碧光陰はニヤニヤと笑いながら、睨む悠人とそれを受け流す柳也を交互に見比べた。

 長身の部類に入る悠人より背が高く、一八二センチの柳也と同じか、それ以上はある光陰は、真冬の最中にブレザーの袖を肘までまくり、その下には薄手のシャツを一枚着込んでいるだけの軽装だった。薄いシャツ越しに見える体つきは逞しく、その長身にどこか野生的な印象すら与えている。短く刈った茶髪は天然ではなく、後から着色したものだろう。その証拠に、根元の方は黒い。

 己が無精ひげを撫でながら、光陰は言った。

「悠人の目の前で佳織ちゃんの頭を撫でるなんて……今夜、夜道に気をつけろよ」

「ああ。高嶺は佳織ちゃんのためならたとえ火の中、水の中、矢の降る戦場さえ駆け抜けては、鍛え抜かれた兵士のように佳織ちゃんに寄り付く悪い虫をばっさばっさと切り捨てるような冷酷非道な男だ。…碧、もし明日俺が学校に来なかったら、川の土手の下のダンボールで密かに飼っているぺー介を頼む!」

「うむ。任せろ。たとえ犬畜生といえどもすべての命に御仏の慈悲を注いでやることこそ、俺たち仏門にある者の務めだ」

「な〜に、馬鹿なこと言ってんのよ」

 柳也と光陰の言動に、悠人に勝るとも劣らぬつんつん頭の少女が呆れたように言った。

 岬今日子は男達に時計を見せつけると、

「ほら、もうすぐ予鈴が鳴る時間よ。折角今日は悠が珍しく早起きして遅刻しなくてすみそうだってのに、ここで長話して遅刻したら馬鹿みたいでしょ」

 と、言った。

 たしかに、見れば時計はもう予鈴まで五分を切っている。正面玄関からほど近い本校の校舎が目的地の柳也達はともかく、敷地内に入っても少し歩かねばならない小鳥達付属生徒にはちょっと危ない時間帯だ。

「…そうだな。俺も皆勤賞がかかっているし」

「だな。じゃ、そろそろ教室に行くとするか」

 柳也が言い出し、光陰が応じてその場は解散となった。

 彼らの通う学園の掟では、遅刻、違反、成績不振がある一定のレベルに達した者は、例外なく放課後の掃除当番を強制されることになっている。朝の弱い悠人と、それに付き合って登校することの多い光陰、今日子、佳織、小鳥の五人は、遅刻名簿の常連組だ。

 一方、柳也は件の一定レベルまでまだマージンはたっぷりあったが、本人も言っているように皆勤賞を狙っているため一度として遅刻するわけにはいかなかった。






 ――同日、午前八時二四分。

 悠人達と別れて自分のクラスの教室に入ると、そこは廊下の喧騒とは一転して、どこか緊張した空気で満たされていた。なんというか、まるで酸素ボンベもなしに何分も水の中にいるような息苦しさを覚える、淀んだ空気だ。

 予鈴がなるまであと一分もないというのに、教室にいる生徒はまばらで、明らかにその着席率の低さはこの空気を嫌ってのことと考えられた。

 柳也が構わずに突き進むと、彼の入室に気付いた何人かのクラスメイトが振り向き、まるで救世主を見つけたかのような輝く表情で彼と挨拶を交わした。

 暗い雰囲気は、窓際の席に座りひとりの少年から放たれていた。一見して線は細く見えるが、剃刀を仕込んだ鞭のような剣呑さを感じさせる少年だ。銀糸とまごうほどの白髪を長く伸ばし、繊細に整った顔立ちの中で、紅に輝く眼差しがただひたすらに窓の向こう側の世界を見つめている。

 柳也は少年の隣の席に着くと、彼に声をかけた。

「朝っぱらから、辛気臭い空気を出すなよ、瞬」

「……放っておいてくれないか」

 血のように紅いルビーの瞳が、ジロリと一瞬だけこちらを向く。

 睨みつける視線を苦笑で受け流し、柳也は鞄を開いた。

 秋月瞬。柳也の昔からの友人で、この学園における彼のいちばんの親友だ。気さくな柳也とはまるで正反対の性格だが、そうであるがゆえに互いに惹かれ合った間柄である。

「今朝は何があったんだよ? お前がそんなだと、みんな恐がって教室に入ってこれないんだが?」

 “うんうん”と、背後でクラスメイト達が頷く。だが、決してその感情を言葉に出すことはない。この教室にいるクラスメイト達は……いや、この学園にいるほとんどの人間は、この少年のことを、明らかに恐れていた。

 裕福な名門の家に生まれ、勉強も運動もずば抜けていて、その上エリート意識が強く、異常なほどプライドが高い瞬は、学園における小皇帝だった。私立の学園において、多額の寄付金を納めている父兄は絶対的な権力を有することになる。秋月の苗字を持つ彼には、教師でさえ迂闊に逆らえない。そんな彼を、立場的には教師よりも無力な生徒達が恐れないはずがなかった。

 そんな人間関係の中で、唯一例外的にこの少年と対等に話し合えるのが柳也だった。

 昔から気の知れた幼馴染ということもあるが、両親を失い、頼れる親類もなく、もう失うものが何もない柳也は、秋月の権力にへつらうことなく、いつも体当たりでこの少年にぶつかっていた。そんな柳也を、瞬は最初戸惑いがちに、そして徐々に受け入れていったのだ。

 柳也の皮肉たっぷりの言葉を、瞬は無視した。

 間もなく予鈴が鳴ろうとする寸前、柳也は突然自分の席から立ち上がると、未だ空席の瞬の前席へと腰を下ろした。

 彼は窓の外を指さし、

「こっから何が見える?」

「……さっき、校門の辺りでお前、悠人達と話してただろう」

「そういうことか」

 瞬の席からは校門の辺りがよく見える。

「ガキか、お前は?」

 柳也は呆れたように言った。

 名家の子として生まれたその出自ゆえに、幼少の頃から彼の背後にある秋月の名しか見ない大人や、大人に利用されている子どもとしか触れ合ってこなかった瞬は、コミュニケーション能力がかなりの部分欠如している。早い話が人付き合いというものが、かなり苦手なのだ。人間関係に対する意識が、幼稚といってよいかもしれない。

 小さな女の子などは仲の良い同性のお友達が他の子とお喋りしているのを見ると、やきもちをケースがままある。まだ幼いために、友情と恋愛感情がごちゃまぜなのだ。

 おそらくは今の瞬もまた、それに似たような心境なのだろう。

 その旨を伝えると、意外にも瞬は首を横に振った。

「……そんなんじゃない。柳也が、悠人達と話していたのが、気に入らなかったんだ」

「そっちか!」

 ……なるほど、仲の良いお友達が、自分の嫌いな相手と話しているのが、気に食わなかったわけだ。

「どっちにしろ、ガキじゃないか」

 予鈴が鳴って、柳也の呟きは掻き消された。

 秋月瞬と高嶺悠人の犬猿の仲を、学園の関係者で知らぬ者はいない。そしてその関係の中心には、いつもひとりの少女の存在が関わっている。

 高嶺佳織。今朝、柳也も楽しく言葉を交わした、彼らの後輩の少女。瞬は彼女のことを、十代の少年としては異常なほどの執着をもって愛していた。そんな瞬と、すでに危険領域に達しているとすら言われるほどのシスコンである悠人が顔を合わせれば、そこに剣呑な空気が生まれるのはいつものことだった。加えて、佳織のこととは関係なしに瞬も悠人も、互いのことを嫌っているから話は余計ややこしい。

 二人の諍いは当事者だけでなく周囲の人間をもしばしば巻き込むため、間に入って仲介する柳也や光陰が、いつも大変な役回りを負うのだった。

 教室内の空気が、にわかに騒がしくなってきた。

 さすがに予鈴が鳴って、廊下に非難していたクラスメイト達が戻ってきたのだ。

 隣の教室から帰ってきた瞬の前席の女子生徒に座席を明け渡すと、柳也はまだ窓の外を見つめている瞬の肩を叩いた。

「仲良くしろよ……とまでは言わないけどさ、もうちょっと大人になれよ。でないと、いちばん迷惑かかるのは、佳織ちゃんなんだから」

「…うるさい」

 顔を見ずに言う瞬だったが、本当に柳也が自分のことを思って言ってくれていると分かっているから、その声音から刺々しさは、最初の時より大分取れていた。






 ――同日、午後四時二十分。

『わ〜かめ〜…わ〜かめ〜〜……放課後〜〜〜』

「あれ? ここ、セクシーコ○ンドー部とかある学校だったか?」
授業終了を告げる不気味なチャイムが鳴って、手早く帰り支度を終えた柳也に、ようやくある程度まで機嫌を直した瞬が声をかけた。

「柳也、一緒に帰らないか?」

「あ〜…悪い。今日は施設の方に顔出す日なんだわ」

 両親が死んでから小学校を卒業するまでの間、柳也が世話になっていた施設に、彼は週に一度、足を運ぶようにしていた。目的は今もなお私生活で世話になっている先生達に少しでもラクをしてもらうためで、彼は毎週月曜日になるとボランティアで子ども達の面倒を見ていた。

 ようやく機嫌の良くなりかけていた瞬だったが、その言葉を聞いた途端、また不機嫌になってしまう。

「お前、よく毎週々々、あんな所に行けるな」

「あんな所って……一応、小学校卒業するまで俺の面倒を見てくれた場所なんだが?」

「それにしたって、もう卒園して六年も経っているじゃないか。何でまだ通っているんだ?」

「なんだかんだで施設の先生達には今もちょくちょく世話になってるしな。その恩返しってところだ。……それに、ガキどもの面倒見るのは、嫌いじゃないしな」

「僕は嫌いだ。子どもなんて、口やかましいだけのうるさいハエじゃないか」

「おいおい、そのうるさいハエは、俺と同じ施設で育った、言わば血の繋がらない兄弟なんだぞ」

 実のところその兄弟達のことを柳也はかなり気に入っている。毎週欠かさず施設の方に顔を出しているのも、世話になっている恩師達に恩返しをしたいという思いと同じぐらいの強さで、彼らに会いたいという思いがあった。

「それに、お前だって子どもは嫌いだ、嫌いだなんて言ってるけど、佳織ちゃんと付き合って、最終的に結婚までしたら、いつかはできるぜ、子ども」

「僕は佳織と、お前さえいればそれでいい」

「……嬉しいこと言ってくれるな」

 柳也は複雑な表情で笑った。自分のことを好きと思ってくれるのは嬉しいが、そんな小さなコミュニティでは、瞬の〈世界〉は広がらないと考えたのだ。

 柳也は鞄を背負うと瞬に言った。

「途中まで一緒に帰ろうぜ。んで、途中でアイス買っていこう」

「コンビニのアイスか?」

「そうだけど?」

「お前、よくあんな不味いもの食べられるな」

「瞬の舌が肥えすぎてるんだって」

 軽く額をこづくという、周りのクラスメイト達であればやろうとすら思わない友人同士のコミュニケーションを取り、柳也と瞬は並んで教室を出た。






 ――同日、午後五時。

 “しらかば学園”は柳也にとって第二の我が家とでもいうべき場所だった。第一の我が家はかつて両親とともに暮らしていた一軒家で、第三の我が家は現在暮らしているアパートだ。

 学園の敷地内に一歩踏み入れると、彼の存在に気付いたひとりの少女が、大きく口を開いた。

「あ! 柳也おにーちゃんだッ!!」

 その後は、津波が襲ってきた。しかも普通、波は寄せては返すものだが、柳也に襲ってきた波は寄せるばかりで返っていかない。柳也は自分より一回りも年下の少年に足をつかまれ、手をつかまれ、小学生の少女には抱きつかれ、ひっちゃかめっちゃかになっていた。

「やあ、柳也くん」

 そんな柳也に、穏やかに声をかけるひとりの男性。一六〇センチもない身長ながら、広い肩幅とがっしりとした体格が大柄な彼は、まだ四歳の少年に頬を引っ張られて局地的に顔の表面積が増大している柳也を見て、にっこりと品のある笑みを浮かべていた。

 しらかば学園園長・柊慎二は、柳也にとって第二の父といっても過言ではない存在だった。柊園長はかつて柳也の父と同じ部署に所属していた警察官で、両親が亡くなる二年ほど前に母親の跡を継いでしらかば学園の園長となり、柳也の両親が死んでからは、父の元同僚という繋がりで柳也は彼の運営する施設で厄介になっていた。

『僕はね、君のお父さんにたいへん世話になったんだよ』

 両親を失ったばかりで、まだ気持ちの整理がついていなかった柳也に、柊園長は少年の知らない父親の姿をよく語って慰めてくれた。
父のことだけでなく、柊園長は柳也に色々なことを教えてくれた。人として生きる上で大切なこと。社会で生きていく術。本当に、色々なことを教えてくれたものだ。

「毎週々々、足を運んでもらってすまないね。ありがとう」

「園長先生、好きでやってることなんですから、そんな礼なんていりませんよ」

 物腰柔らかに微笑む第二の父に、柳也は満面の笑みを浮かべた。

「それに弟達の面倒を見るのは、兄貴の務めでしょう」

 まだ柳也がこの施設に来たばかりの頃、両親を失った悲しみで心を塞いでいた彼を救ってくれた兄達。しらかば学園で育った子は、みんな園長先生の子どもで、みんな兄弟なんだ。彼らの言った言葉を口に出して、そして胸の内で反芻して、柳也は自分の足元に寄ってきたいちばん幼い男の子……まだ五歳になるかならないかという少年を、そっと抱き上げた。

「さて、今日は何して遊ぼうか?」

 同じ視線の高さまで持ち上げた彼に、柳也はそっと優しい視線を向ける。

「柳也お兄ちゃん、おけーこしよ。おけーこ」

 男の子は元気良く答えた。






 今でも時折訪れる、他のしらかば学園のOBOGと違って、柳也には彼にしかできない遊びがある。

 それが男の子の言う「おけーこ」……すなわち剣術の稽古だった。

 柳也の父と同じで、剣道の達人でもあった柊は、自分が園長になると同時にしらかば学園に剣道場を私費で増築していた。かつては柳也もこの道場で毎日のように汗を流し、少しでも亡き父に近付くため……そして父の遺言を守るため、日々切磋琢磨したのだった。

 しらかば学園では現在三十名の子ども達が暮らしているが、道場のスペースは二十人が入ればほとんど余裕はなくなってしまうほどしかない。増築した当時はこの広さでも十分機能していたのだが、柳也が毎週水曜の施設通いを始めて時折生徒達に稽古を施すようになってからというもの、道場では肝心の門弟達が一部外に出なければならないという事態がしばしば発生するようになっていた。幸いにも、本日道場で稽古をすることになったのは十八人で、師範代の柳也と師範の柊園長を含めて、ちょうど二十人だった。

「じゃあ、柳也くん、始めてくれたまえ」

 剣道着に着替えた柊園長は、柔和な笑みを崩さぬまま言った。

 しかし柳也には自分を見つめるその眼差しが、一週間前に来た時よりどれだけ自分が進歩したか、正確に測るため鋭い眼光を放っているのを見逃さなかった。

 柳也はコクリと頷くと、「まずは素振りの練習から始めよう」と、言って、巨大な棍棒のような素振り武具を中段に構えた。すると彼の目の前の門弟達も、下は四歳の少女から、上は十五歳の少年まで、それぞれの身の丈に合わせた、普通の木刀や竹刀からは遠くかけ離れた素振り武具を手にした。
この素振り武具こそ、柳也や柊園長が修める剣術“鹿島神傳直心影流”の特徴的な素振り武具〈振棒〉だった。その形状は一見すると戦国時代の大柄が城門破壊などに用いたとされる八角棒を連想させる。大きさは柳也の持つ物で全長一五五センチ、重量十六キロ。直心影流の鍛錬では、この巨大な〈振棒〉を一日に五百本も千本も素振り、昔はそれができて初めて技の稽古を許された。この〈振棒〉は女子供の門弟も振るわねばならず、人によって回数や〈振棒〉の大きさ・重さは異なるとはいえ、それはそれは大変な修練だった。

 この〈振棒〉を自在に操り、五百本も千本も素振りするためには、単に腕力だけでなく腰の力、さらには呼吸と全身の運動の一致や、全身の力を最大限に発揮する術を身につける必要がある。また〈振棒〉の素振りはあらゆる武術において最も重要な要素である足腰の力を鍛え、無事に千本の素振りが出来るようになってから普通の竹刀や木刀を持てば、太刀捌きは羽根のように軽くなり、重く軽妙な一撃を放つことができるようになる。
柳也はこの〈振棒〉を、一日に二千本素振りすることができた。彼は直心陰流の二段で、柊園長は六段、逝去した柳也の父は免許皆伝者だった。
道場の狭い空間に、まだ声変わりの終わっていない者も多い高い気合の声が轟く。

 少年剣士達はみんな真っ赤な顔をしてそれぞれの〈振棒〉を振るうが、彼らに手本を示している柳也は、汗をかきはしたが特に疲れた様子もなかった。
やがて百本の素振りを終え、全員の身体が程よく温まってきたところで柳也は「やめ」の声をかけた。

 道場に、若武者達の息遣いだけが荒い静寂が訪れる。

「それじゃあ、そろそろ立会い稽古といこうか」

 ニヤリと笑った師範代のその言葉に、若武者達の歓声が響いた。

 実戦方式の立会い稽古は剣者にとって何にも増して自分のためになるし、素振りなどの稽古と比べて格段に楽しい。時には酷い怪我を負うことにもなるが、そのギリギリのスリルがまたたまらない。

 若武者達は〈振棒〉を手放すと袋竹刀を手にとって相手探しを始めた。みな防具は身に着けない。直心影流は幕末以降スポーツ化する剣道の波に乗ることができた数少ない古流剣術のひとつで、稽古具の一つとして防具を考案した流派とされているが、柳也達が習うのは昔ながらの古流剣術で、防具を着ける習慣はない。

 柳也もまた〈振棒〉から袋竹刀へと持ち替える。

 すると柳也のもとに、年のころは十三、四歳と思われる少年剣士がやってきた。

「兄さん、僕に稽古をつけてくれますか?」

 袋竹刀を片手に摺り足で寄ってきた所作からは、若さを感じさせぬ鋭さがある。風見達人は柳也が十歳の時に施設にやってきた弟で、オレンジジュースで義兄弟の杯を交わした仲でもあった。

「おうおう、弟の頼みとあっては断れんな」

 柳也は芝居のかかった仕草で応じた。

 両者は袋竹刀を相正眼に取った。

 達人が構えを取った瞬間、柳也の唇から「ほぅ…」と、感嘆の吐息が漏れた。

「達人、ずいぶんと腕を磨いたようだな」

 弟分と最後に剣を交わしたのは一ヶ月も前のことだ。先週、先々週は、学校の用事で達人は稽古に顔を出していなかった。

 両者は静かに間合いを計っていた。

 柳也は、達人が仕掛けるのを待っていた。

 そして達人はそのことを承知していた。

 しかし、柳也が巌のように屹立して、飛び込んでいけなかった。

 威圧されているという風ではない。

 まるで巨大な霞の壁が、達人の行く手を塞いでいるかのようだった。

 ――すごい……。

 達人は、一ヶ月ぶりに対峙した義兄の強さを改めて思い知らされていた。

 この一ヶ月で自分はかなり腕を上げたと自負していたが、それは柳也もまた同じことだったのだ。

 とてもではないが、敵う気がしない。

 ――勝つことを考えては駄目だ。あの壁に、正面から挑んでいこう。

  そう考え、チラリと視線を対峙する柳也ではなく、ただ傍観に徹している柊園長に向けると、柊園長もまた(それでよい…)と、ばかりに頷いた。

「面――ッ!!」

 汗と熱気で湿った道場の空気を、よく透き通る少年の気合が切り裂いた。

 柳也を仮借のない鋭い面打ちが襲った。

 柳也がそれを払う。

 達人の面は胴打ちへと移り、さらには小手へと変化した。

 悠然たる連鎖の攻撃を、柳也は恬然と受け続けた。

 互いに強い信頼関係で結ばれた兄弟弟子同士だからできる、濃密にして緊迫した応酬だった。

 やがて五分が過ぎ、十分が過ぎた。

 歳若い少年の太刀筋に疲れが見え始め、竹刀の使い方が雑になり始めた。

 三つ年上の兄に疲労の色は見えず、玉散る汗がむしろ心地良くすら感じられた。

 さらに十分が過ぎ、とうとう達人が音を上げた。

 自ら間合いをはずすと、袋竹刀を傍らに正座した。

「に、兄さん。もう限界だ」

「なんだ、だらしのない。稽古をつけてくれと頼んできたのはお前の方じゃないか」

「兄さん、そういじめないでくれよ」

 達人が立つ瀬がないといった風に言い、それを見ていた何人かがどっと笑った。

 柳也は自らも構えを解くと、達人に訊ねた。

「お前の〈振棒〉は三キロだったな?」

「うん、そうだけど」

「今、何本触れるようになった?」

「一日二百本が限界だよ」

「これからは三百本振れるように頑張れよ。そうしたら、二十分でも、三十分でも、棒振りができるようになる」

「柳也くん」

 背後から声をかけられて、柳也は振り返る。

 柊園長が、赤樫の木刀をふた振り手に携えていた。

「久しぶりにやらないかい?」

「えっ、兄さんと園長先生がやるんですか?」

 達人の言葉に、道場の視線という視線が柳也と柊園長に集中した。

「……園長先生とは、もう半年も打ち合っていませんか」

「それぐらいになるね」

「それでは、稽古をつけていただけますか?」

「それはこちらの台詞かもしれないな」

 柊園長が柔和な笑みを浮かべ、柳也の表情が嬉しそうに輝いた。

 直心影流の六段が木刀を放り、二段の若者が受け取った。

 木刀による木剣稽古はよほどの信頼関係がなければ大怪我をする。また受けに回った者の技量が優れていなければ、稽古は成り立たない。

 その意味ではしらかば学園の生徒全員に、木剣稽古の資格があるといえる。柊園長を始めとする親代わりの先生達の下、同じ屋根の下で育った彼らは兄弟同然で、血の繋がりはなくとも強い絆で結ばれている。

 木刀を手に師弟が間合い一間(約一・八メートル)で対峙した。

 直心影流では仕太刀は初心者、下位の者を指し、打太刀は熟練功を積んだ者、上位の者を指した。しかし、二段と六段の段位の差はあれど、今の柳也と柊園長の脳裏には上下の位は存在しなかった。

 最初に動いたのは柳也だが、それを受けた柊園長が流れる水のように打ち込みへと転じ、攻守が緩やかにも阿吽の呼吸で交替した。

 その攻防には一時の停滞もなく、かといって目まぐるしい攻め合いがあるわけでもない。能楽の達者が万物の千年の営みを一瞬に想像させて舞い動くように、二人の剣士はゆっくりと打ち合い、受けあった。その一つひとつの動作には、凝縮された理があった。

 互いに相手に斬り込みつつ、己の心に分け入っているのが傍観する弟子達にも分かった。

 師弟は、親子は、剣士と剣士は、木刀を振るい合いながら会話を楽しんでいた。

 やがて一時間も淀みのない動きを見せていただろうか、柳也がさっと木刀を引き、柊園長もまた何も言わずに木刀を引いた。

 両者は自然と正座すると、静かに、深々と頭を下げた。

 顔を上げた二人の顔には玉のような汗と心地の良い疲労の色、そして笑顔があった。

「よい勉強をさせていただきました」

 柳也が、息も絶え絶えに言った。初老の柊園長よりも若い柳也の方が、疲労の色は濃かった。

 柳也の礼に、柊園長は首を振ると、

「いや、こちらこそ。稽古をつけようと思ったが、逆にこちらがつけてもらったようなものだよ」

「いいえ。俺なんて、園長先生の足下にも及びませんよ」

 柳也の偽らざる本心だった。

 第二の父・柊慎二の剣はただ強いだけでなく深い。柳也は己が慎二の境地まで辿り着くにはあと二十年はかかるだろうと見繕っている。

 いや、警察官というかつての慎二の職業を考えれば、もっとかかると考えるべきかもしれない。剣の道とは同時に人の道だ。人の善い面も悪い面も、等しく両方を見てきた慎二の剣は、柳也にとっては神域も同然だった。

 柊園長との立会いの熱が冷め切らぬ柳也の下に、小学二年生の小山明弘が飛んでいき、

「柳兄ぃ、今度は俺に稽古つけてくれよ」

と、願った。

 柳也は爽やかな笑みを浮かべると、

「おうおう、いくらでもかかってこい」

と、答えた。






 ――同日、午後七時三十分。

 水曜日の施設通いの日は、柳也は施設で夕飯をご馳走になっていくのが習慣だった。

 いつものように兄弟達と一緒に和気藹々と食卓を囲み、早い夕食を食べて、帰りに銭湯に寄って一日の疲れを洗い流す……それが、毎週水曜日の柳也の夜の過ごし方だ。

 だが、その日柳也は夕食の後、柊園長に呼ばれて園長室へと足を運んでいた。

 警官時代に柊園長が上げた数々の武勲を示すトロフィーや賞状だけが唯一部屋を飾っている質素な執務室に招かれた柳也は、いささか緊張して皮のソファに腰掛けていた。

「……それで、俺にどういったご用ですか?

 供された茶を飲みながら問う柳也の様子に、どこか落ち着きがないのは彼がこの部屋を敬遠している証拠だ。

 今でこそ温厚な性格で、誰に対しても隔てなく優しく接する柳也だったが、施設にやってきたばかりの頃は問題も多く、その度この部屋に呼び出されていた。そうした過去の嫌な思い出が多くあるだけに、園長室は彼が敬遠したい場所のひとつだった。

 明らかに落ち着きのない柳也の態度に、対峙する柊園長は苦笑を浮かべていた。

「何もそう畏まらなくても大丈夫だよ。べつに柳也くんを叱るために、ここに呼んだわけではないから」

「いや、これはなんというか…そのぅ……身体が、勝手に……」

 柳也はますます恐縮しながら言った。

「…実は、柳也くんに渡したい物があってね」

 柊園長はそう前置きして茶を一杯飲むと、目の前の若者の反応を待った。

「俺に、渡したいものですか?」

「そうだ」
 
「見当もつきませんね。いったい、何なんです?」

 柳也は少しでも早くこの部屋から出たいために、話の続きを促した。

「実はね、これなんだが……」

 そう言って柊園長は、執務室に置かれた巨大な業務用デスク……その脇に置かれたショーケースの前に立った。ショーケースの中には柊が警官時代に購入したのだという大小の拵えがひと組飾られており、彼はデスクの引き出しから鍵の束を取り出すと、その中から一つ選んで鍵穴に差し込んだ。

 柳也は(まさか……)と、思ったが、彼の予想ははずれた。柊園長が差し込んだ鍵穴は、ふた振りの太刀が納められているショーケースではなく、その下の収納スペースの鍵穴だった。かなりの長期にわたって、閉めっぱなしにしていたのだろう。柊園長が引き戸を開けた瞬間、柳也の場所からもはっきりと大量の埃が舞うのが見受けられた。

 ごほごほ、と咽ながら、柊園長が暗い収納スペースの奥へと手を伸ばす。

 園長は両手に、埃のかぶった縦長の麻袋に包まれた長い木箱を、ふたつ抱えて戻ってきた。

 再び柳也と園長が対峙する形でソファに座り、間にあるテーブルにコトリと、片方の箱が置かれる。麻袋に包まれてなお甲高いその音から、中身はかなりの重量があると柳也は予想した。

「……拝見しても?」

 柊園長が無言で頷き、柳也は慎重に麻袋をほどいた。そして、中に収められた木箱を見て、はっと緊張を露わにした。

「これは……!」

 麻袋に包まれていたのは、刀箱だった。もう一度園長に目配せをして開封の許可を得ると、柳也は麻袋をほどいた時以上に慎重な指使いで、木箱を開けた。

 中からは、案の定、刀袋が収められていた。『同田貫』と、金糸で刺繍されている。

 身を包む袋をさらに取り除くと、中から白木の鞘に収められた一刀が現れた。ずしりとした重さが、柳也の掌に不思議な感動とともにのしかかってくる。

 柊園長が、無言で刀剣の鑑賞道具一式を取り出し、机に置いた。

 柳也は懐紙を咥えるとまるで魅力的な女の服を脱がすように、誘われるように白木の鞘を滑らせた。

 直進する稲妻を裸身に描く豪剣の輝きが、部屋の照明に照らされてまばゆく光る。反りは浅く、身の広い、頑丈な作りこみの、刀身二尺四寸七分(約七五センチ)の豪壮なる刃だった。

 柳也はまるで刀の魅力に取り憑かれたように立ち上がると、軽く振ってみた。

 見事な調和で、両の掌に重さがかかって心地良い。

 ソファへと座りなおし、机に並べられた鑑賞道具の中から目釘抜きを取ると、刀から柄をはずした。すると、茎に銘が刻まれていた。
表に、

『九州肥後同田貫上野介』

と、刻まれており、

 裏には、

『為桜坂雪彦君』

 と、ここ最近の間に――少なくとも、ここ二十年の間に――新しく刻まれたと思わしき、銘があった。

 銘に刻まれていたその名前に、柳也は心当たりがあった。

 桜坂雪彦……それは、柳也の父の名前だった。

「これは、まさか……」

 柳也が次の言葉を口にするよりも先に、柊園長が頷いた。

「もうひと振りは無銘なんだけどね。柳也くんのお父さん……雪彦さんの、形見の品だよ」

「父さんの……」

「こちらの、箱に入っているのもそうだ」

 そう言うと、柊園長は抱えていたもう片方の刀箱……同田貫が収められていたものよりもやや短い、おそらくは脇差が入っていると思わしき木箱を机の上に置いた。

「雪彦さん達が亡くなった後、特に親族のいない桜坂家の財産や遺品を、弁護士さんと一緒に僕が整理したのは、柳也くんも知っているね?」

 柳也は頷いた。

 まだ十歳にも満たない年齢だった当時の彼に、両親の遺した遺産を整理するのは不可能だった。

「その中に、この刀があったんだ。もし、柳也くんが雪彦さんと同じように剣道か、剣術を学ぶようになったら、いつかそのまま渡すつもりで。そうでなかった場合でも、処分して現金化して渡すつもりで、預かっていた」

「それを……どうして、今、俺に?」

 柳也は、柊園長の真意が読めなかった。

 父の遺品、形見とでもいうべき品を、息子が成長するまでその友人である柊園長が預かっていたというのは分かる。しかし、なぜ、その「いつか」が、今なのか。

 柳也の質問に、柊園長はしばし沈黙し、瞑目した。

「……柳也くんは、虫の知らせというものを信じるかい?」

「…………は?」

 柳也は一瞬、自分が何を質問されたか分からなかった。

「えっと、信じない、方ですけど……」

「そうか。……実は僕は、その種の物事は信じる性質(たち)でね。僕には特別な霊能なんかはないはずなんだが、ここ数日、その僕の直感が、自分自身にこう告げているんだ」

「……」

「『近い将来、柳也くんは雪彦さんの形見の刀を、使う時がくる』と……」

「……まさか」

 柳也は柊園長の言葉を笑い飛ばそうとした。

 しかし、自分の感じた虫の知らせについて語る第二の父の表情は真剣そのもので、とても冗談のようには聞こえなかった。

「自分でもおかしな話だとは思うよ。この国から武士という職が消えてもう百年以上が経って、その上この国が最後に戦争をしてからもう六十年が経っているというのにね…。なんで今更、こんな物が必要になるのか、僕自身見当もつかない。でも、どういうわけか、今、このタイミングで、柳也くんにこれを渡さなければならない。これを渡さなければ、きっと後悔するようなことになる。近いうちにこれを柳也くんが必要とする日が、きっとくる……。そう思えて、ならないんだよ」

「……」

 柊園長の言葉を、柳也は無言で聞いていた。

「……受け取って、くれるかな?」

 柊園長が、少し躊躇いがちに訊いた。

 平成の世に生きる剣士にとって、真剣を譲り渡されるというのは人生の一大イベントだ。何の心の準備もなしに、生半可な気持ちで受け入れられるような
出来事ではない。

 ましてその背景にあるのが自分でも与太話としか思えないような虫の知らせだなんて……憤慨した柳也が、父の形見を拒否するのも無理はないだろう。

「……わかりました」

 しかし、柊園長の心配は杞憂に終わった。

 柳也にとって目の前のふた振りは父の形見であり、息子である自分が手元で管理しなければならぬ代物だった。

 また柳也は、剣を執って己を貫くような時代ではないとはいえ、まごうことなき剣士だった。剣士にとって真剣を持つということは、この上ない喜びだった。

「ありがたく、頂戴いたします」

 柳也は、時代のかかった仕草で笑った。






 ――同日、午後八時五十分。

 しらかば学園からの帰り道、ちかちかと明滅する電灯と、冬の夜空の煌めきだけが照らしている路上を、柳也は自宅へと歩き進んでいた。その両腕には、柊園長から譲渡の手続きを終えた父の形見の大小がある。

 夕食をご馳走になった後、道場で流した汗と一日の疲れを洗い流すために銭湯に寄る予定だった柳也は、しかし譲渡された父の遺品を一旦アパートに持ち帰るべく帰路を急いでいた。

 彼の暮らすアパートに備え付けの風呂はなく、身体を洗うためには近所の銭湯に行かねばならない。その銭湯は、最近流行りの健康ランドなどと違って料金こそ安いものの営業時間がすこぶる短く、夜の九時には閉まってしまう。

 現在の時刻は午後八時十分。アパートから銭湯までは五分だが、しらかば学園からアパートまでは歩いて二十分かかる。帰路を急ぐ柳也の歩調が速くなるのも当然といえた。

 歩きながら柳也は、先ほど園長が父の遺品を渡す際に言っていた“虫の知らせ”について考えていた。

 ――園長先生は、俺が近いうちにこの刀を抜くような事態に巻き込まれるようなことを言っていたが……。

 三百年昔ならともかく、今の時代に刀を抜くことになるような事態が起こるなんて、普通は考えられない。いやたしかに、海ひとつ越えた向こう側では毎日のように凶悪犯罪が起きているが、少なくともこの日本でそのような事件がすぐに起こるとは考えにくい。

 しかし柳也はそこで頭を振った。

 ――いや……。

 予断は捨てるべきだろう。

 最悪の悲劇というのは、いつも唐突にやってくるものだ。

 自分の家族に襲い掛かった不幸が、そうだったように。

「……」

 思索にふけっていた柳也だったが、稽古を終えたばかりでもあり、剣士としての神経は鋭敏に機能していた。

 ちかちか、と明滅する電灯。

 小さな蛾の羽によって時折遮られてしまうほど弱々しい光に照らされて、人影がひとつ。

 やけに静かな夜で、周りを取り囲む人家からは物音ひとつ聞こえてこない。

 静寂の中を、蛾の羽音と電気の切れかかった電灯の断末魔の悲鳴、そしてふたつの息遣いだけが支配する。

 牡の蛾だったのか、隣の電灯にもう一羽の仲間を見つけて、移動した。

 その瞬間、たった一羽の蛾にも遮られていた電灯の明かりが、人影の全身を照らした。

 柳也は、思わず見惚れてしまった。

 同性の柳也をしてそう思わせてしまうほど、その青年は美しかった。彫刻のように整った顔立ちは優しげで、鼻梁はすっきりと通り、唇の形もまた完璧といってよいだろう。長身のわりに小柄な体格だが、貧相というよりは引き締まった体つきで、ぴっちりとした異国の服から窺える体躯はかなり鍛えられていた。

「……ッ!」

 その美青年の容姿に、柳也が見惚れていたのは一瞬だった。

 剣士の習性か、一瞬のうちに相手の力量を測るべく這わした柳也の視線は、美青年が両手にしたふた振りの刃に釘付けとなっていた。刀ではない。その形状はいずれの刃も西洋の剣に近く、両刃を携えている。拵えは映画の撮影で使われる物のように流麗で、美しい。

 しかし、美青年の持つそれがフェイクでないことは明白だった。

 電灯に照らされて反射する刀身の輝きは鈍く、撮影用の物ならもっとぴかぴかと輝いているはずだ。その方が映像にした際の見栄えが良い。

「お前は……」

 柳也は、油断なく身構えた。

 こんな夜更けに抜き身の真剣を携えて歩いているなんて、普通の神経の持ち主でないことは明らかだ。剣を携えているという点では柳也も同じだが、彼の場合は抜き身ではない。ちゃんと白鞘に納めているし、刀袋にも入れている。

 ――映画の撮影……じゃ、ないよな?

 最近ではよりリアリティを求めるために真剣を使っての撮影を行うケースもあるという。しかしそれだったら自分という存在は撮影において邪魔な異物のはずで、とっくの昔に撮影陣から声がかかっているはずだ。

 ――まさか、園長が言っていたのって、これか……?

 そんな考えが、柳也の脳裏を一瞬かすめる。

 しかしまさか、こんなに早くそんな事態が起ころうとは……。

「桜坂柳也くん、ですね……」

 それが誰の口から出た言葉だったのか……極度の緊張状態にあった柳也は、最初、目の前の美青年が喋ったのだと分からなかった。

 柳也は険も露わな表情で、

「何故、俺の名前を知っている……?」

「……」

 美青年は答えない。

 答える代わりに、見栄え見事なるも実戦的な双子剣の一刀を振り上げる。この動作により、青年の意図は明らかとなった。

 その、隙だらけのようで隙のない構えに、柳也は慄然とした。

 ――とてもではないが、敵わない!

 となれば、やることはひとつしかない。

 ――三十六計逃げるにしかず。

 柳也は腰を低く落とすと、だっと駆け出した。幸いにも、柳也が立っていたのは住宅街の十字路の分岐点だった。彼は左手に跳躍すると、後ろを振り向くことなく全速力で駆け出した。周囲の景色が高速で流れる中を、柳也は無心でただ走り続けた。

 だが……

「ッ……!」

 猛然と進む柳也の走りは、次の十字路で止められる。

 柳也の前に、先刻背を向けた十字路に置き去りにしてきたはずの美青年が立っていた。

 ――逃げることすらままならないかッ!!

 立ち止まった柳也は内心でひとり吐き捨てる。

 美青年は、先ほどと同じように双子剣の一刀を構えていた。

「安心してください。殺すつもりはありませんから」

 美青年が、口を開いた。しかし形の良い唇から紡がれた言葉には、歌うような響きがありながら、一切の感情が欠落しているようだった。

「……個人的には、きみの悲鳴が聞きたいのだけど」

 最後に、そう付け加えた部分にだけ、明らかな感情の起伏が窺えた。

 明らかに、柳也を殺すことができないのを残念がっている。逆にいえば、本心では柳也を殺したがっている。

 なぜ、柳也を殺せないのか……その疑問もまた重要だったが、今の柳也にはそれよりもこの状況を打開する方法を考えることの方が重要だった。浮かんできた疑問は、次の瞬間には頭の片隅へと追いやられた。

 柳也は抱えた短い方の刀袋を地面へと置いた。無論、足を屈めるその最中も油断の素振りは微塵も見せない。

 柳也は、残るもう一刀の刀袋を取り払うと、白木鞘に納められた九州肥後同田貫上野介を抜き放った。

 ――戦うしかない!

 相手の全身から発せられている闘気とでも形容すべきオーラ。その隙のない所作。到底、目の前の彼が柳也の太刀打ちできるような相手でないことは明白だ。しかし、逃げ道を絶たれた今となっては、戦いの中から起死回生の手段を見出すしかない。

 また、自分にも剣士としての意地がある。むざむざとただやられるだけでありたくはない。

 白鞘を、隙のない所作で地に置く。

 使い手の腕次第では鉄の鎧兜をも斬割する豪剣が、平成の現代に稲妻の刃紋を煌めかせた。

「直心影流、桜坂柳也……」

 剣術が全盛を極めた過日のように名乗りを上げて、柳也が名も知らぬ青年に跳躍した。

 飛び込みざまに放たれた必殺の胴斬りが、刃を振り上げ、無防備な青年の脇腹へと吸い込まれるように送られる。

「……この世界では、相手から名乗られたら、こちらも名乗り返すのが礼儀でしたね」

 が、柳也が放った一撃は、彼の視認できる速度を何倍も、いや何十倍も上回る太刀捌きによって阻まれていた。

「僕の名前は〈水月の双剣・メダリオ〉――――」

 美青年の、水晶のように透き通った蒼い瞳と、柳也の視線が絡み合う。

 額と額が触れ合うほどの距離での鍔迫り合いで、柳也は相手の剣を弾くように一歩身を引いた。

 狙いすましていた青年……メダリオのもう一刀が、柳也の眼前の虚空を薙いでいく。

 ――間一髪のところだった……!

 回避した柳也はそう安堵しかけだが、それは勘違いだった。

「なっ……!」

 一歩身を引いただけの柳也の身体は、なんと近くの電柱に叩きつけられていた。

 背中を襲った突然の衝撃に混乱する柳也に、いつの間にやら三間もの間合いを隔てていたメダリオが、目にも留まらぬスピードで接近する。

 ――馬鹿な! 今の、風圧だけで、五メートル以上も吹き飛ばされたっていうのか!?

 メダリオの放った斬撃について思いを巡らせる柳也。

 そんな彼が思考を中断し、今は目の前の敵の次の行動に気を配らねばと決意した時、すでにメダリオの剣の切っ先は、柳也の無防備な胸板の、一寸手前にあった。

「しまっ……!」

 己の落ち度に後悔する瞬間すら、与えられなかった。

 “ズブリ…”と、柳也の胸のちょうど中央からやや左寄りの位置……心臓のある場所に、メダリオの刃が鋭く埋まっていく。

 間近で起きているその光景に目を見張る柳也には、編集されたスローモーション映像のように、ゆっくりと直刀の刃が体内へと侵入していくように見えた。

 やがてメダリオの刃が、心臓へと到達する。到達したという実感が、柳也にはあった。

 そして痛みは、後から襲ってきた。

「あ、ああ……ああああああ――――――ッ!!」

 ようやく突き立てられた刃の痛みを知覚した直後、柳也は、彼のものとは思えぬ絶叫をあげた。

 柳也の体内で、言葉に形容しがたいほどの猛烈な痛みが、狂奔していた。

 身体が熱い。

 燃えるように熱い。

 着ている制服のシャツが真っ赤に染まり、ブレザーが赤黒く汚れていく。

 電柱に打ち付けた背中からも血が流れ、柳也の世界が、赤く染まる……。

 刃で貫かれた際に飛散した彼自身の血が、柳也の瞳を赤く燃やした。

「大丈夫……」

 何もかもが赤く、何もかもが熱く、何もかもが痛いその状況で、メダリオの冷静な声はむしろ耳に心地良く、陶然と響いた。

「ちょっとだけ痛いかもしれないけど、きみは死なないから……。きみの体内に、〈流転〉の力を少しだけ送り込むだけですから」

 赤黒く染まった視界の中で、一瞬だけ彼の持つ剣が光ったような気がした。

 メダリオの声が甘く耳の奥へと滑り込み、メダリオの持つ剣から己の体内へと、“何か”が流れ込むのを実感する。

 その声のなんと甘く、なんと切なく、儚げなことか。

 その正体不明の“何か”が流れ込む確かな感覚の、なんと頼りがいのあることか。

 死の恐怖に怯え、堪えがたい痛みに泣き叫び、全身の感覚が徐々に麻痺しつつある柳也は、混乱する頭でその声に、その感覚にすがりついた。

 メダリオの両腕をしっかりと掴み、彼の胸板に顔を埋めようとした。

「っ!」

 メダリオが、予想外の苦痛の吐息を漏らした。

 メダリオの両腕にすがろうとする柳也の手には、未だ抜き身の同田貫が握られていた。

 メダリオは、最前チクリと痛んだ己の頬に指を這わす。

 そっと撫でてから離して見ると、細い指の腹に、人ならざるものの血液が付着していた。

「きみ……」

 無表情なメダリオの双眸が、狂気に輝いた。

「僕の顔を、傷つけたな……!」

 どこまでも優しげだったメダリオの表情が、凶悪に歪む。

 今や柳也は、そんなメダリオの些細な表情の変化にも気付かない。

 ただメダリオの持つ双剣……〈流転〉から己の体内へと流れ込む“何か”に、陶然と身を任せていた。

 ――俺の中に、“何か”が、入り込んでくる……。

 あらゆる感覚が消えていこうとし、今やこの身を焼く痛みすらも徐々に薄れつつある中で、この確かな感触とメダリオの発する言葉だけが、柳也に生きているという実感を与えてくれる。

 心地良かった。

 これまでにない快感だった。

 今日初めて出会った怪しい男に、身体を刺し貫かれているという異常な事態の渦中にいるはずなのに、不思議にも柳也はそんな気持ちを抑えることができなかった。

「貴様ぁ――――――ッ!!」

 そしてその“何か”の流出が止まった時、もはやメダリオの声すら聞こえなくなりつつあった柳也の意識は、ぷつり、と途切れた。






 柳也の体内から〈流転〉のひと振りを引き抜いたメダリオは、到底、人間のものとは思えないような凍てついた、しかし狂気に燃える視線で気を失った柳也を見下ろしていた。

「……」

 切れ長の双眸が細まり、それに呼応するかのように薄らぼんやりと光輝を纏っていた〈流転〉の刀身が、より強い輝きを放ち始める。そのことは、青年の持つ〈流転〉なる直刀が人ならざるモノの手によって打ち鍛えられた武具であることの証明といえた。
異形の剣を持つ、尋常ならざる者。

 メダリオは〈流転〉の切っ先を天高く月が浮かぶ夜空へと向けると、今度は柳也の頭蓋に振り下ろそうとして……

《……お待ちなさい》

 ……太刀を振り抜こうとするのを、止めた。

 メダリオの耳元で、少女のような、老女のような、奇妙な声が囁きかけてきた。

《折角選んだ〈誓い〉の守り手を、こんなところで討つつもりですか? 〈流転〉からの注入も不完全なまま終わってしまったようですし、あなたに任せたのは失敗だったかもしれませんわね》

 メダリオはわずらわしそうに眉をひそめた。

 しかし、その眉の下にある双眸には声に対する畏怖の色がはっきりと浮かんでいた。

《もういいですわ。早く戻ってきなさい》

「……わかりました」

 つまらなそうに呟くと、メダリオはたっと踵を返した。

 そんな何気ない仕草にすら優美さと気品がある。おそらくは天性の舞台役者か、王侯貴族の所作を身につけているのだろう。

 メダリオは再び、ちかちか、と電灯が揺れる道へと身を運んだ。

 電灯がまたわずかな間光を失い、それを取り戻した時、メダリオの姿は、どこにもなかった。






《……桜坂、柳也》

 異形の声は、なおも電柱に寄りかかって朱に塗れる少年を下ろしながら、呟く。

《直撃ではなかったとはいえ、メダリオの一撃を受けて、なお刀を手放さなかったなんて……》

 おそらく、柳也は自分が無意識のうちに取った行動が、いかに凄いことが気付かぬまま意識を失ったのだろう。

 メダリオの……自分達の放つ攻撃を、手加減していたとはいえこの世界の普通の人間が受けて、意識的にしろ、無意識的にしろ、なお肉体がわずかに動くことができたということは、普通はありえないことなのだ。

《うふふふ……本当に、良い剣士になりそうですわね》

 声は、愉しげに笑う。

 くすくす、くすくすと……。

 やがて呼吸すら失った柳也の前に、小さな白い影が現れた。

 このような夜更けに一人で歩くにはあまり褒められない、幼い少女だ。

 顔立ちから推察される年齢以上に小柄な身体にゆったりとした法衣を纏い、紅葉のように愛らしい手にはおよそこの年頃の少女の持ち物とは思えない錫杖が握られている。あどけなく、無邪気な表情。つぶらな瞳。花びらのような唇。しかしそれらは、邪悪な本性を隠すための偽装にすぎない。

「メダリオは、しくじってしまったようですけど……」

 錫杖を人家の壁に立てかけ、少女は赤く染まる柳也の頬に、そっと小さな両手を添える。

「仕方ありませんね。不足分の“マナ”は、わたくしが注いでさしあげましょう」

 静かに、少女が顔を近づける。

 徐々に熱を失いつつある乾いた唇に、そっとついばむように少女の唇が重なる。

 一度唇を離し、少女は……少女は、少女のものとは思えない妖艶な笑みを浮かべて、柳也の顔を見つめた。

「これであなたはもうこちら側の人間ですわよ? 〈誓い〉の守り手・桜坂柳也。いえ……」

 もう一度、唇を重ねる。

 今度は深く、より強く。

 重なる唇の隙間から、柳也の口内に伸びる少女の舌が見えた。

 未だ柳也の握る同田貫が、わずかに光を帯び始めた。

 再び、少女が重ねた唇を離す。

「永遠神剣第七位〈決意〉の柳也……」

 少女の唇が厚い吐息を漏らし……

 柳也の握る同田貫がまばゆい光輝を放って……

 柳也の眉が、ぴくりと動いた。




<あとがき>

タハ乱暴「『永遠のアセリア-The Spirit of Eternity Sword Another-』、EPISODE01、お読みいただきありがとうございました!」

北斗「他の連載を放り出して、また己の首を締めるようなことを…」

タハ乱暴「う、うるさいわい! 俺は作家だぞ? 書きたいから書くんだい!」

北斗「それもしたってなにゆえアセリアを選んだ? 『聖なるかな』が出たばかりではないか?」

タハ乱暴「いやあ〜…最近、まともにゲームをプレイする時間がないんだって」

北斗「……小説を書く暇はあるのにか?」

タハ乱暴「タハ乱暴的事物の優先順位は、三にゲームがきて、二に物書きがくる」

北斗「……一番は?」

タハ乱暴「サバイバルゲームとフィールドワーク」

北斗「やはり貴様は作家でない!」




永遠のアセリア〜。
美姫 「オリジナルの柳也が加わる事で、物語はどんな風になっていくのかしら」
しかも、悠人に敵対する位置として何やらされているみたいだが。
美姫 「どうなるのかしらね」
うんうん。次回も待っています。
美姫 「それじゃ〜ね〜」



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