残暑の厳しい秋の午後。

 

乃梨子は薔薇の館で、祐巳にお茶を出している。

 

学園祭の時期も疾うに過ぎ、10月の半ばだというのに・・・・・・

 

「暑いね、乃梨子ちゃん」

 

祐巳はテーブルに力なく伏している。

 

「祐巳さま、暑いと言うと、余計に暑く感じますよ?」

 

乃梨子は冷静な顔で答えるが、当然暑いと思っている。

 

 

『心頭滅却すれば火もまた涼し』

 

 

このことわざが出来たころは、冷房なんて存在していなかった。

 

だからこそ、気を紛らわすだけで耐えられたのだろう。

 

だが、文明の利器に頼りすぎた我々現代人には、世迷い言にしか聞こえない。

 

とはいえ暑いと言われれば、余計に暑く感じるのは人の悲しい性なのか。

 

「それで・・・・・・紅茶はどうしますか?ホットしかないですけれど」

 

「あ、飲む飲む」

 

たとえ暑くても、ここに来たら紅茶を飲まなければ。

 

たしなみにも似た習慣が、祐巳に紅茶を求めさせた。

 

そんな祐巳に乃梨子は苦笑しつつも、自分の分も入れて祐巳に給仕した。

 

「ありがとう、乃梨子ちゃん」

 

祐巳はいつもどおり、砂糖のスティックを2本入れてかき混ぜる。

 

乃梨子はストレートだ。暑いときに甘いものを飲むと、余計にだれてしまう。

 

二人で紅茶を飲んでいると、祐巳がふと思いついたように質問した。

 

「そういえば乃梨子ちゃんって、中学校は公立だったんだよね?」

 

「あ、はい。普通の公立中学校でしたよ。それが何か・・・・・・?」

 

突然の質問に、乃梨子は目を丸くしながらも答える。

 

「私ね、幼稚舎からリリアンだったから、普通の中学校とかどんな風になってるか知らないんだ。

せっかくだから、乃梨子ちゃんの中学時代のお話が聞きたいなって思ったの」

 

祐巳は、少し目を輝かせながらそう言った。

 

乃梨子は腕を組んで『う〜ん』と少し唸る。

 

それからひとつ息を吐くと

 

「いいですけれど・・・・・・面白く無いですよ?」

 

「なんで?」

 

祐巳は首をかしげた。だが、乃梨子は少し曖昧に笑うと

 

「だって私、友達なんてほとんどいませんでしたから・・・・・・」

 

「えー!?嘘でしょ!?」

 

祐巳は驚いて、机から乃梨子の方へ身を乗り出した。

 

だが乃梨子は真面目な顔をしたまま答える。

 

「本当ですよ。だって私はつまらない人間ですから」

 

「うーん、乃梨子ちゃんほど面白い人もいないと思うけど・・・・・・」

 

「祐巳さまがそれを言いますか・・・・・・」

 

乃梨子は祐巳の発言にため息を吐く。

 

「それは置いといて・・・・・・でも、友達はいたんだよね?」

 

「友達・・・・・・と言うほど親しくも無かったですが、そうですね」

 

乃梨子は、少し懐かしむような表情をして話し始めた。

 

 

 

 

 

ちょうど1年くらい前・・・・・・

 

 

『で、x=3という解が・・・・・・』

 

ピロリロリロ・・・・・・ピロリロリロ・・・・・・

 

数学の授業中、携帯電話の音が鳴り響いた。

 

その音に、解説している数学教師の口は止まり、眉をひそめた。

 

乃梨子は、またか・・・・・・と思った。

 

1年のとき、携帯電話の持ち込みは禁止だった。

 

しかし世間の流れで、3年次には持ち込み自体に文句は言われなくなった。

 

とはいえ、公然と使っていたらさすがに注意される。

 

ましてや授業中に鳴らしたとなれば、取り上げられても文句は言えない。

 

現に今まで、携帯を鳴らした人間は例外なく没収されていたのだ。

 

(学習能力無いなぁ・・・・・・)

 

心の中でため息を吐いた。

 

こういう程度の低い人間が、乃梨子は苦手だった。

 

『おい、今携帯鳴らした者・・・・・・正直に手を上げろ』

 

誰も手を上げないのを見て、先生はジロリと全員を見回した。

 

そして、ある人物のところでその視線は止まり・・・・・・

 

『佐倉・・・・・・ポケットに突っ込んだ左の手を、そのまま出せ』

 

その言葉に、佐倉と呼ばれた男子生徒の顔が引きつった。

 

乃梨子は、おや?と思った。

 

佐倉直人・・・・・・彼は全国大会を制覇した野球部のエースだった人間だ。

 

成績優秀で、人柄も真面目なはずで・・・・・・おおよそこんなことをするとは考えにくかった。

 

しかし先生は、直人の席まで歩いていき、彼の左腕を掴んで引き上げた。

 

そして、彼の手に握られていたものは・・・・・・

 

 

 

「携帯電話・・・・・・じゃなかったの?」

 

「そう思いますよね?でも、それが違ったんですよ・・・・・・」

 

 

 

ポケットから出てきたものに、先生は目を丸くした。

 

そして、クラスメイトも同じようにあっけに取られていた。

 

彼のポケットから出てきたものは、おおよそ携帯とは程遠いもので・・・・・・

 

『その・・・・・・すみません・・・・・・』

 

直人は少し恥ずかしそうに、その物体を机の上に置いた。

 

彼がポケットに入れていたもの、それはグリッパーと呼ばれる握力強化のトレーニング道具だった。

 

すっかり毒気を抜かれた先生は

 

『佐倉・・・・・・トレーニングもいいが、授業中くらいは休め』

 

そのままグリッパーを教壇へ持っていった。

 

直人は没収されたグリッパーを、悲しそうな目で見つめていた。

 

 

 

『あんた・・・・・・馬鹿でしょ?』

 

授業が終わり、ようやく先生から返してもらったグリッパーを嬉しそうに握る直人に、

乃梨子はため息をつきながら言った。

 

『二条・・・・・・トレーニングは日々の積み重ねが重要なんだぞ』

 

『だからって、取り上げられたら世話無いんだけど』

 

『あのとき携帯鳴らしたやつが恨めしい・・・・・・』

 

直人には、まるで反省する様子が感じられない。

 

『で・・・・・・佐倉。あんたなんで私のところに来るわけ?』

 

『ん?・・・・・・そうだな、強いて言うならなんとなくだ』

 

『私のところに来なくたって、佐倉と話したい人なんていっぱいいるのに』

 

 

 

 

「へー、直人さんって言う人、かっこよかった?」

 

祐巳が興味深々な表情で尋ねる。

 

乃梨子は、そんな祐巳に苦笑した。

 

いつも祥子さま言ってても、やはり女の子なのだな、と思う。

 

乃梨子は簡単に直人のことを説明した。

 

 

身長185cm83kg 成績優秀、そして野球部のエース。

 

さらに、精悍な顔をしていて・・・・・・笑顔の素敵な人間だ。

 

それでいて、人当たりがいい。

 

 

「・・・・・・それは友達多いよね」

 

口を開けたまま祐巳は感心していた。

 

「いえ。それでも致命的な欠点があったんです・・・・・・」

 

 

 

 

『・・・・・・そうなのか?』

 

乃梨子の言葉に、直人は心底意外な顔をした。

 

どうやら彼は、自分が人気者であることに気が付いていないようだ。

 

『そうだね、佐倉はそういう人だったよね』

 

彼は鈍感を絵に描いたような人間である。

 

それこそ野球一筋、と言えばとても聞こえはいい。

 

だが、それに泣かされた女性の数はもはや数え切れないほどだ。

 

この前も、彼は女の子に体育館裏に呼び出されたときに・・・・・・

 

『俺・・・・・・何か悪いことしたのかな』

 

と、まるでお礼参りの前の教師のような、青ざめた表情をしていたくらいだ。

 

これがわざとなら、殴られても文句は言えないところだが、彼は天然だ。

 

そんなところが反って、彼の人気を高める要因にもなっていた。

 

乃梨子も、そんな彼だからこそ気軽に話せる相手ではあった。

 

 

小学校の卒業文集で、仏師になりたい、ということを馬鹿にされた一件以来、

クラスメイトとは一線を画してしまった。

 

だが、彼はそんな乃梨子の夢に対し

 

『二条・・・・・・仏師は、きっと大変だぞ?』

 

真剣な顔をしてそういう彼に、乃梨子は理由を尋ねた。

 

『仏師ってことは、精進料理だろ・・・・・・。三度の飯という人生の最大の楽しみを・・・・・・』

 

直人はこぶしを振るい、目にうっすら涙を浮かべてそう力説する。

 

どうやら、大いなる勘違いをしているようだが、馬鹿にしているわけでは無いようだ。

 

『あんたと一緒にしないで欲しいんだけど・・・・・・』

 

乃梨子はため息をつくが、そんな彼に・・・・・・

 

 

 

「乃梨子ちゃん、その人のこと好きだったの?」

 

「へっ!?いえ、言うなら気の合う友人ですね」

 

乃梨子は腕を組んで、少し考えるような顔で答える。

 

「ほんとうにそうなのかな?」

 

と、何故か目の前の祐巳ではなく乃梨子の後方から声が聞こえた。

 

乃梨子は驚いて振り向くと・・・・・・

 

「本当のところはどうなのよ?」

 

由乃が、すごく楽しそうな笑みを浮かべていた。

 

それも祐巳だけではない。祥子や令、それに志摩子までもがいたのだ。

 

「あ、あの・・・・・・みなさん、どの辺りまでお聞きになられて・・・・・・」

 

「携帯電話・・・・・・の辺りかしら・・・・・・?」

 

志摩子は頬に手を当てて、にこにこして答えた。

 

それを聞いた乃梨子は、すっかり茹で上がったタコのように真っ赤になった。

 

だが、そこで遠慮して話を終わりにするような方々ではない。

 

「乃梨子ちゃん、続きは?」

 

祐巳は、まるで何も無かったかのように続きを要求した。

 

「続き・・・・・・と言われましても・・・・・・わかりました、話しますよ・・・・・・」

 

話さないと、とても今日は帰してくれないだろう。乃梨子は諦めたように話し始めた。

 

 

 

2月・・・・・・推薦で高校へ進む生徒を除けば、中3は受験対策に追われている。

 

乃梨子は、電車一本でいける上、駅から近い花園台高校という公立の進学校を志望していた。

 

本来なら、千葉大付属高校にいけるだけの力があるのだが、確実に公立へ行くためだ。

 

理由は、公立試験の前日、20年に一度の玉虫観音像がご開帳されるとのことだった。

 

その渡航費用捻出のために、私立の受験費をつぎ込み、実質公立一本となるからだ。

 

それに、間違っても大叔母の薦めるリリアンには行きたくない。

 

お嬢様学校な上に、カトリックの学校だ。冗談ではない。

 

ちなみに願書提出は、その学校を受ける人間の代表がまとめて、高校へ持っていく。

 

乃梨子は、花園台高校を受験する代表として願書を持っていたのだが・・・・・・

 

『なんで佐倉の願書があるの・・・・・・?』

 

願書を提出したとき、リストチェックがあり、そのときに『佐倉直人』の名前があった。

 

乃梨子が驚いた理由は、野球部の顧問が野球名門高校の監督として、赴任が決まったことに付随する。

 

岩井監督というその先生は、徹底したスパルタの管理野球で生徒を育ててきた。

 

そして、全国制覇を成し遂げて、甲子園常連高校からお呼びがかかったのである。

 

野球部は、キャッチャーを除いてレギュラー全員が3年生だった。

 

それで、岩井先生は、レギュラーだった部員全員を自分の赴任する高校へ呼び寄せているのだ。

 

(佐倉・・・・・・行かなかったんだ・・・・・・)

 

帰りの電車の中で、乃梨子は何故彼が誘いを断ったのか考えた。

 

確かに彼の頭があれば、高校は選べるだろう。

 

将来を考えて、頭のいい高校へ行こうと思ったのだろうか。

 

だが、もしかしたら同じ高校へ行ける、という喜びが乃梨子の中にあった。

 

そんな想いに気が付いたのは皮肉にも、

 

受験日前日、大雪の中で動かない新幹線に、ため息を吐いているときだったのだが・・・・・・

 

 

 

 

「まあそんな感じで、彼は受験に受かり、私はこうしてここにいるわけです」

 

ふう・・・・・・と、乃梨子はため息を吐くが、慌てて言葉をつなげた。

 

「あ、別にここに来たことを後悔しているんじゃないよ、志摩子さん」

 

「ふふ、わかっているわよ」

 

志摩子は乃梨子の頭を撫でる。

 

「でも何でその人は、野球の名門校へ行かなかったの?」

 

「それは後で聞いたんですけど、『自分の求める野球とは違う』って言ってました」

 

その言葉にみんなは一様に考えるが、やはり分かるはずも無かった。

 

「でも、乃梨子ちゃんも勿体無いなぁ・・・・・・そんな素敵な人のこと、気にならないの?」

 

「いえ、ですからそんな関係じゃないんですってば、祐巳さま・・・・・・」

 

「その方の行かれた高校は、今年どうだったの?」

 

祥子が乃梨子に尋ねた。

 

「あー、残念ながら3回戦で負けました。彼は投げてませんでしたし・・・・・・」

 

乃梨子の言葉に、全員が思った。

 

(なんだ、やっぱり気になっているんじゃない・・・・・・)

 

と。

 

 

 

 

1年後の夏、2年になった乃梨子は、スタンドで試合を見ていた。

 

ベスト8を決める試合で、彼は投げていた。

 

最後のバッターを三振に取り、彼はマウンド上でガッツポーズをして叫んだ。

 

そんな彼を見て、乃梨子の胸はとくん・・・・・・と、高鳴ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


あとがき

  

今回は、マリみてのお話です。

とはいえ、オリジナルのキャラクターが出ているわけですが・・・・・・。

乃梨子は普通の中学生でしたし、恋をする機会もあったかも知れない、と思います。

高校名とかを聞いて、「ん!?」とか思った人・・・・・・

ええ、気にしないでください。これはあくまでフィクションっすw

 

それではまた別の未来・・・・・・もしくは世界で会いましょう。

ごきげんよう・・・・・・




こういう話も良いね〜。
美姫 「本当にほのぼのするわね」
うんうん。こんな話が書けるなんて、羨ましいな…。
美姫 「素晴らしい作品をありがとうございます」
本当にありがとうございました。
美姫 「それじゃあ、この辺で」
ではでは。



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