その出会いは偶然だったのか、それとも必然だったのか。

 

 ある日、傷を負った。

 理由はたいしたことではない。他の獣と糧の奪い合いになり、負けてほうほうの体で逃げ延びただけのことだった。

 しかし、その場はそれで生き延びても、その後のことが問題だった。狐はもともと単独で生活する生物である。だから、傷を負い満足に動けなくなっても誰を頼ることもできない。

 その傷が癒えぬまま数日が過ぎ、まともに糧を得られず、まともに動くこともできないくらいに衰弱していた。

 このまま飢えで死ぬのが先か、狼たちの餌になるのが先か。どちらにせよ、死はそこまで迫っていた。

 そのとき――

 

――お前、死ぬのか?

 

 不意に聞こえた声。

 その声はなぜか、死にかけの頭にすとんと落ちた。

 最後の力を振り絞り見上げれば、そこには黄金の瞳の人間が見下ろしていた。

 

――……生きたいか?

 

 その問いの意味を考えることはなかった。

 ただ生物としての本能だけが『是』と答えた。

 

 

 その答えは正しかったのか、それとも間違っていたのか。

 今になっても、それさえも分からないけれど、その答えに後悔だけはないと信じている。

 

 

 ただ、それだけの出会いだった。

 そのはず、だったのに……

 

 

 

 

 

 

      第7話  「眷属(前編)」

 

 

 

 

 

 

   久遠view  八束神社

 

 

「な、んで……」

 

 信じられなかった。

 というよりも、信じたくなかった。

 なんの前触れもなく、なんの覚悟の暇もなく、最悪の決断のときを迎えてしまったのだから。

 その釘付けになった視線の先にはじんらいがいる。

 ちょっとあの人の雰囲気には合わないけど、参拝客のように石段をゆったりを上ってきていた。

 

「なんでここに……」

 

 その動揺の間に、じんらいは石段を上りきり、鳥居をくぐって少しの場所で一度足を止めた。

 

「ここに満ちている霊力の持ち主を探していたんだが……」

 

 そう言って、神社を見渡すように首を振る。その霊力の持ち主とはざからのことだろう。今もまだ晴れることなくこの場に満ちる霊力は他にない。

 だがその視線が一点で――くおんを捕らえて止まる。

 

「まぁいい。お前がいるなら十分だ」

 

 その目は、初めて会ったときと同じ、心の奥底まで覗き込まれるような瞳。

 

「なにを……」

「覚えて――いや、思い出しているだろう? 俺とお前の契約を」

 

 そう、思い出している。

 ほんの一ヶ月くらい前まではそんなこと記憶の端にも残っていなかった。だけど、最初になのはの家にじんらいが現れた夜、その姿を見た瞬間に全てを思い出していた。

 三百年前にこの人と出会っていたこと。

 死にそうだったところを助けてもらったこと。

 そして二人の間に交わされた契約も。

 

「俺はお前に生と力を与えた。その対価として、俺の眷属となり俺の願いを叶える。それが俺たちの間で交わした契約」

「……うん。おぼえてる」

 

 忘れてなんていない。だからこそこんなに苦しい。

 だってその叶えるべき願いというのは――

 それ以上は考えることさえ拒否した。とりあえずここは――

 

「『命令』だ。逃げるな」

 

 その思考を見透かしていたのか、先手を取るその一言で逃げようと力を込めた足が縫い止められる。

 

「どうして……」

 

 つい口にするがその答えは知っている。

 

 主が己の眷族に対して持つ絶対命令権。

 死ねと命じられればこの世で最も無残な死に方さえ選び、戦えと命じられれば世界の全てをも躊躇いなく敵に回す。

 そんな理不尽を言葉のままに実現してしまう呪いが、くおんとじんらいの間にはある。それを教えられるでもなく知っている。

 

 それでもまだ逃げようと足掻くくおんを見つめてじんらいは不思議そうに言う。

 

「何故逃げようとする。不破恭也から聞いていなかったか? 次に会うときは契約を果たしてもらうと」

 

 聞いていた。きょうやは意味が分からないみたいだったけど、それはくおんにとって最悪の意味を持つ言葉。

 だってそれは、くおんがじんらいを殺さなければいけないということだから。

 だから会いたいのに会えなくて、どうすればいいのか答えも分からなくて。

 そして今、出会ってしまった。

 答えなんてなにも見つかっていないのに。

 

「……どうした?」

 

 その動揺を見て取ったじんらいは言う。

 

「なにを躊躇う? かつては『祟り』とまで呼ばれた大妖怪が人一人消すことに罪の意識を感じるのか?」

「それは……」

 

 あの頃はただ憎しみでいっぱいで、でもそれが憎しみだと気づくことはなく、それが罪だと知ることはなく、ただ荒ぶる心のままに暴れて……そうして気がつけば大妖怪と呼ばれるほどに悪業を重ねていた。

 でも、今は違う。

 

「でも、もうくおん、『たたり』じゃないよ」

 

 そう。『祟り』と呼ばれるまでに一匹の狐を駆り立てた負の情は、もうくおんの中にない。

 大切な人を失った悲しみは忘れることはできないけれど、それよりも大好きな人と生きる喜びの方がずっと大切だと。

 それをたくさんの人たちに教えられた。気づかされた。

 そしてその大好きな人の中には今目の前にいるじんらいも入っている。

 だから殺したくなんかない。

 なのに、

 

「そうだな……」じんらいの眼前に掲げた手が凶悪なまでの雷を帯び「だったら、お前の縁者全ての首を集めればやる気になるか?」

 

 今度こそ、息が止まった。

 

「……なんでそんな」

「理由はない。単に、そうすればやる気になるかという、それだけのことだ」

 

 それを淡々と語るじんらいの目がとても冷たくて、冗談などではないと悟る。

 なみやなのはやきょうやや……他にもたくさん、どれだけの人がその犠牲になるのか。

 じんらいはやると言ったらやる。昔野盗に襲われたとき、一人の例外もなく、一つの容赦もなく殺しつくした姿は、今もはっきりと思い出せる。

 そのじんらいに狙われて誰が生き残れるというのか。この最強にして最凶の鬼の悪意に抗える者などいない。

 だけど――

 

「そしてそれを止める方法は……分かるだろう? お前が俺を殺せば――」

「いや!!」

 

 涙混じりの叫び。それが今自分にできる精一杯の抵抗。

 でも、もしも契約を盾に『命令』されたら逆らえない。それは三百年の忘却と今の硬直が証明している。

 

「……その我が儘を振りかざして、全てを失くすか?」

 

 じんらいの一言、一言に精神が磨り減っていく。

 それでも真ん中に残るのは、命よりも大切なもの。死んでも守りたいと願う宝石のように煌くもの。

 

「いや! くおん、じんらいのことすき。だからころしたくないのに……、それはそんなにわるいことなの?」

「……そうか」

 

 気がつけば、一歩ずつ近づいていたじんらいがとうとう目の前に。そしてその右手が、頭の上に乗せられた。

 これで終わり。

 じんらいには容赦も情けもない。敵対するなら殺し、不要と分かれば切り捨てる。

 だから、言うことを聞かない悪い子の自分はここで殺される。

 その瞬間――殺されることより要らないと言われるときの目が怖くて、ぎゅっと強く目を瞑る。

 でも、いつまで待っても(実際には数える程度だったけど)なにも起こらず、それどころか、

 

「……強情な奴だ」

 

 呆れたのか、それとも(考えにくいけど)褒めているのか、ため息を吐くように言った。

 恐る恐ると目を開けると、掴むように頭に置かれた手でわしわしと乱暴に撫で回される。

 

「まぁ、そういう奴は嫌いじゃない」

「あう〜〜」

 

 目が回りそうなくらいに乱暴な手つき。でも、こんな風にしてくれたのは初めてじゃないだろうか。

 その手のひらに感じるのは、さっきまでの怖い雰囲気じゃなくて、昔一緒にいた頃と同じおひさまの匂い……。

 

「ぁ……」

 

 ひとしきり撫でてから離れていく手を名残惜しく見詰める。

 けど、じんらいはそれきりくおんに興味をなくしたようにくおんの横を通り過ぎて社の階段に座り込み、全身で大きな、体の中を全部絞り出すようなため息を吐いた。なんだか疲れたおじいさんみたいになって「どうしたものか」なんて呟いている。

 その姿に何度か躊躇して、

 

「じんらい……」呼びかけて向けられる視線に少し怯え「くおんに『めいれい』しないの?」

 

 そうすればそれで終わってしまうのに。つい先ほどまでそれを恐れていただけに、そうしない理由が分からないのは不安でしかない。

 だけど、返ってきた答えはあまりに予想外。

 

「ああ、知らなかったか? 俺はお前に、『俺を殺せ』と命令できない」

「え?」

「眷属として命を与える、というのはそういう契約だ。俺は絶対の庇護を、お前は絶対の忠誠を。それなくして眷属の契約は成立しない」

「あぅ〜〜……?」

 

 正直意味は分からないけど、じんらいはくおんに殺すように命令できないらしい。それが分かっただけでも肩から重たいものが下りた感じで、この一ヶ月の間の緊張はなんだったのかと脱力しそうな気分。

 でもじんらいはそれに気づく様子もなくなにかを考え込んでいる。

 それは一分にも満たなかったのか、それとも一時間以上も過ぎていたのか。

 時間の感覚が麻痺するほどに重い空気の中で、指一本動かせずじんらいの次の動きを待つ。『命令』がなくても彼が脅威であると同時に慕うべき相手であるのは変わりない。

 やがて、じんらいはもう一度ため息を吐いてから立ち上がった。

 そしてくおんを見詰めて、

 

「我が眷属、久遠に告げる。現時点を持ってお前との契約を破棄する」

 

 ……今、なんて言った?

 言葉が難しかったのもあるけど、その内容を頭が理解しようとしない。その困惑さえ置き去りに、じんらいはそれきりくおんを気にする様子もなく去ろうとする。

 

「ぁ……」

 

 気がつけば去ろうとする背に手を伸ばし、がしっと両手でコートの裾を掴んで止めていた。

 

「……なんだ?」

「くおん、もういらないこ?」

 

 それだけはどうか許して欲しいと、懇願するように見上げる。

 でも現実は無情だった。じんらいは、意表を突かれたようにぱちくりと目を瞬かせてから、

 

「当然だろう? 俺がお前を眷族にしたのは寂しかったからじゃない、叶えたい願いを叶えるための手段の一つにするためだ。それを拒むというのなら、後はもう好きに生きて、好きに死ね」

 

 目の前が、真っ暗になった。

 さっきまでの殺すことになるかもしれないという恐怖とは違う。

 要らないものとして捨てられる恐怖。かつては記憶を消されて、目が覚める前に姿を眩まされていた。それを思い出してさらに恐怖は大きくなる。

 その恐怖が無意識に、コートの裾を掴んでいる手に力を入れる。

 

「……離せ」

「あぅっ!」

 

 あっさりと手は振り解かれ、勢いあまって前のめりに倒れる。

 それからすぐに起き上がったけど、もう手は届かないところまで行ってしまっている。

 

「じんらい!」

 

 せめて呼び止めようと必死の声を上げても、じんらいはその声に応えることはなく、一度も振り返ることもなく、行ってしまった。

 

 

 

      *   *   *

  ■■view  八束神社石段

 

 

 もう話すこともないだろう。

 背後でくず折れる気配を心眼で感じ取り、そのまま石段を下りていく。

 

 これで可能性の一つは潰えた。

 なにを犠牲にしようとも、たとえ世界を滅ぼそうとも、それでも叶えたい願いがある。

 だが、この千五百年の間ずっと同じだ。その願いを叶えるために――不死の呪いを解くために可能性を探し、求め、そして叶わぬ願いとしてまた次の可能性を探す。あるかどうかも分からないそれのために、あらゆる手段、あらゆる可能性を試した。

 三百年前に一匹の子狐を眷属に変えたのも、その一つでしかなかった。

 あらゆるモノに死を与える自分自身の黒の力も、自分にだけは効果を成さない。

 それは当然の理だ。すでに死んでいるモノをもう一度殺すことはできない。

 だが、もしもその力を使える者が他にいたなら?

 その可能性の答えを求め導き出した手段こそが、『眷属』。それは命を分け与えると同時に、異能の力も受け継ぐことがある。

 そしてそれは久遠に――一匹の子狐のみに求めたものでもない。数百年に渡り何匹もの獣を眷属へと変えてきた。だが――

 ある者は、与えられた命の力を受け止められずに朽ちた。

 ある者は、異能の力を発現させることなくただ生きて死んでいった。

 その中で久遠は、他にないほどの適格者といえる。求めたもの――黒い死の力ではなくとも雷の力をあれほど強く受け継ぎ、『祟り』と呼ばれるまでになった眷属。

 だからこそ正直、期待のようなものはあった。もしかしたらアイツなら俺を殺せるんじゃないか、と。

 だがそれは、あんなにも必死になって拒絶されたわけだ。

 

「……まぁいい」

 

 予定外の再会で調子はずれたが、自身の目的も今後の方針も変わりはない。

 不死の呪いを解く。そのためならなんだってする。なんだってできる。

 そのために次は、さっきの場所に満ちた霊力の持ち主でも探し出して――

 

「じんらい〜〜!!」

 

 ゴツッ!

 

 突如、大声とともに後ろから視界の両側へ突き出てくる二本の腕。直後、後頭部に叩きつけられる衝撃と、全身にぶつかってくる子供一人分の質量。

 完全に油断だった。階段という狭い足場で踏ん張る余裕もない不意打ち。

 踏み出そうとしていた一歩が目標をずれて踏み外し、体の傾きがあっという間に修正できないほどになってそのまま転げ落ちそうになり――

 

 歩法、『天駆』。

 

 咄嗟に、大気中の霊子を収束し即席の足場に仕立てる。それも一瞬で崩れるが、次の一歩の布石には十分。その足場が消える前にトンッと強く跳び、傾いた体を直すために前にグルンと一回転して、そのまま残っていた石段を一気に一番下まで跳び越えて――

 着地の衝撃は予想以上だった。

 足の裏から雷の速さで脳天まで突き抜ける衝撃を歯を食いしばって耐える。今の衝撃で両足の骨に軽くヒビが入ったみたいだが、そんなものはすぐに治る。その上でしっかりと地面を確かめて、大きく息を吐き出し、そして首だけで振り返った。

 

「お前……」

 

 後ろから首にしがみつかれているので首しか回せないが、振り返ってみれば(予想通り)息もかかるほどの近くに久遠の顔があり、その額が赤くなっている。さっき後頭部にぶつかってきたのはこれか。

 

「…………ないで……」

 

 こんなにも近くなのに、それでも聞き取れないくらい小さな声でなにかを呟いた。

 

「……わがままいわないから。すきになってくれなくていいから……。だから、くおんをおいてかないで……」

 

 涙を零しながら、たどたどしく紡がれる言葉は必死の色を帯びている。

 分からない。

 なぜこの子狐は、こうまで俺に執着するのか。

 実を言えばこういうことは初めてではない。数百年の間に幾度か生み出した眷族の半数以上が同じように別れを拒んだ。特に、千年前に生み出した最初の眷族である神無にいたっては、今なおその想いを見せている。

 その反応を見るたびに、疑問を持ってきた。なぜ、そうまでこの悪鬼との絆に執着するのだろうと。それを一度たりとも理解したことはなかった。

 だからこそ、知りたくなった。

 

「なぜだ……?」背中にへばりついている久遠の肩を引っ張るようにして正面に引きずり出し「なぜ、お前はそうも俺に執着する?」

 

 その問いに久遠はただきょとんとして見返すばかり。

 その反応を見て、一つの仮説が生まれる。

 もしかしてなにも考えていないのではないか?

 昔誰に聞いたのだったか、子供や動物は理屈ではなく本能で相手を評価するという。どれだけの言葉を尽くそうとも、本能で怖い人と認めてしまえばもうなにも届きはしない、と。

 それがこの答えなのだろうか。もしそうだとしたら――

 

「はっ……」

 

 呆れたように笑いが漏れる。

 なんのことはない、『心』を持たず、湧き上がる衝動を知らず、全てを理屈の上で片付けてしまう自分では、本当の意味では決して理解できないもの。

 

 禁忌を犯した罪には、終わらぬ罰を。

 永劫消えることなく、地獄の業火はこの魂を責め続ける。苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて、それでも生きて、なお苦しめ、と。

 なればこそ、大切なものは捨てていくと決めたのだ。

 犯してきた罪は自分だけのもの。血塗られた道を往くのは己のみでいい。本当にそれを大切と思うなら、守りたいと願うなら、それこそ連れて行けるはずもない。

 それが、千五百年前から続けてきた己の在り方。絶対の不文律。

 

 それでも、思う。

 もし違う生き方を――鬼ではなく人として生きることができたのなら、

 それはどんなに素晴らしいことだろうと。

 そうして思い浮かべるのは一人の人間の姿。

 恥じることも臆することもなく、己の一生を掛けて人生の宝物を見つけたいと謳ったあの人間。

 その理念は死を求める自分とは真逆にあるものと言えよう。

 それは死者であるこの身には望むべくもない光。とうの昔に終わりを通り過ぎたはずの枯れて朽ちた身だが、生きていたときにさえ考えたこともなかった存在理由。

 だからこそ憧れた。

 そんな風に、俺も生きたかった――

 

「じんらい……?」

 

 呼ばれた声に、現実へと意識が戻される。

 振り返れば久遠が不思議そうな目で見上げている。その目の奥には一切の負の情は感じられず、そして手はしっかりと俺のコートの裾を握り締めている。

 

「……そんなに俺を望むのか?」

「うん」

 

 迷いなく首を縦に振った。きっとその決意は変わらない。止めようというならば、それこそ命を奪うしかないだろう。

 

「ならば、問おう。今よりお前は、俺の敵を排する雷となり、俺と共に道を往く眷属として生きるか?」

 

 その問いに、久遠は一度きょとんとしたものの、またも首を縦に振った。

 

「……分かっているのか? それを選べば、もうまっとうな命ではいられないぞ」

「……うん。それでもくおん、じんらいといっしょにいたい」

「そうか……」

 

 その道が血塗られたものであると知り、なおその覚悟を背負うというのなら、誰にそれを否定できよう。

 その道が難くとも険しくとも、自ら進むと決めるのなら、少なくとも俺にはなにも言えることはない。

 そう悟ってしまえば、簡単なものだった。肩の荷というにはやたらと軽くなった反動か、

 

「物好きな奴だな、お前も」

 

 自分でも意外なほどに穏やかな声でそう言っていた。

 その声の違いを感じたのだろう、久遠は無邪気に笑んで見せ、その頭を俺はさっきもしたようにがしがしと髪が乱れるほどに撫でる。乱暴というなかれ、慣れた行為ではないので力の加減が分からないだけだ。しかしそれすらも嬉しくて仕方ないというように、久遠は笑っている。

 

 だから、魔が差したのだろう、と後になって思う。

 

 頭を撫でていた手でそのまま久遠をぐっと引き寄せ、

 

「ならば教えよう。そして心に、魂に刻み込め。千五百年前に失った俺の名を――本当の名を」

 

 耳元で囁くように告げた言葉に、久遠は一瞬体を強張らせ、驚いた顔で俺を見る。なんだろうかその顔は。まさか《神雷》というのが俺の本当の名だと思っていたのか。

 ……しかしそれも当然のこと。この千年、その二つ名で通してきたのだから。

 本当の名はもう俺が名乗ってはいけないものだから。

 それでも教えるのは、久遠を真に眷属と認めた証拠に他ならない。

 

「俺の名は――」

 

 

 

  2月6日  AM 10:43

   志乃view

 

 

 展望台を目指してのんびりと歩く。

 早いものであの殺し合いからすでに一週間が過ぎた。

 あの夜負った右肩の傷も表面だけはほぼ治っている。(とはいえまだ中身はボロボロで、布で吊っているけど)

 動かそうとするとまだ軽い痺れはあるけど、それでも治りつつあるのも事実。そろそろリハビリ代わりに絵でも描いてみようかと思い、画材一式(とは言ってもスケッチブックと鉛筆のみ)を抱えて坂を上がっていた。

 その途中、右肩の疼きがいろいろなことを考えさせる。

 

 神雷をはじめとしてこの街での戦いのこと。

 あたし自身の不死のこと。

 この街に住む異能持ちのこと。

 そしてこれからの展望のこと。

 

 どの問題についても正しい答えなど誰も知るはずもなく、ただ自分の思うままを信じるしかないという結果。早い話が成り行き任せ。なんとも頼りない。

 まぁ、それでもなんとかなるだろう。これまでもほとんどそうしてきたんだから。

 傍から見ればかなり暢気な考え方といえるだろう。それでも気分は落ち着いている。その理由を考えようとして……やめた。知ってどうなるものでもない。

 結局思考はそこへと行き着き、足を止めないまま空を見上げて冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んで、

 ざわり、と、肌が――いや、魂が芯から粟立った。

 この感覚は知っている。『呪い憑き』の魂に刻まれた殺戮の宿命。つまり……近くに『呪い憑き』がいる。

 誰だろう? あすかちゃんか、神雷か、それともまだ見ぬ『呪い憑き』か。

 すぐに自身の状態を確認。右腕はまだ満足には動かない。でも、『ヒヒイロノカネ』は問題なく起動できる。けれど『万里』がないのだから精製する金属はよほどの異能を付加しないと戦いにならない。

 そして周囲への警戒。あたしが感じたというなら、近くにいる何者かも同じように気づいたはずだ。感覚を鋭敏化させ、周囲を探る。視覚を左目へと切り替える前にまず今露わにしている右目で周りを見回して――

 猫の鳴き声。

 そちらへ振り返って見れば、あたしの来た方向から紅虎がこっちへ来ていた。

 

「紅虎、危ないよ」

 

 そう注意はしてみても相手は猫。人間の言葉で告げてその意味を相違なく受け取ってもらえるわけもなく、紅虎は無邪気な様子で道路を渡りあたしの方へと近づいてくる。それを、どうしようかと迷ったのが直後の運命を決めたのかもしれない。

 

 それに気づくのは、遅すぎた。

 坂道の上の方から、おそらくは法定速度無視で一台の車が走ってくる。そしてその車の走る進路には――

 紅虎も、車も、止める暇もなかった。

 車は少しだけ進路をずらし、それでも止まることはおろか速度を落とすこともなく走り去ってしまった。

 

 後に残されたのは、赤くぶちまけられた染みとそこに横たわる一匹の猫。

 一目で理解できる。さっきの車に紅虎が轢かれた。

 その判断が間違いとは言わない。猫一匹を避けるためにハンドルを切り、それ以上の災害を生み出すという可能性を考えれば、犠牲の天秤がどう傾くかは自ずと分かる。

 でも、その道理を理解しても、こんな結果は……

 ギシリと胸の内でなにかが軋むのを感じる。その正体を理解しているが、それどころではないと無理に自分を落ち着かせ一瞬で他の車の往来を確かめてから、早足に駆け寄る。

 

「紅虎!」

 

 呼びかけてはみたが、反応があるとは思っていなかった。だけど――

 

「ぁ……ぁぉ……」

 

 驚くべきことに、紅虎はまだ生きていた。

 しかし即死でないのは奇跡と言えるだろうほどに、傷はひどい。なにせ下肢が潰されていた。かろうじて頭部や重要な臓器は残っているが、いっそ死なせてやるのが慈悲なのではと思えるほどに息は弱い。

 もしこのコを、今すぐ愛の動物病院に連れて行ったとしてどうなる?

 まず間に合わない。出血が多すぎる。連れて行く途中で事切れる。

 万が一間に合って、命を取り留めたとしても、これほどの傷を負ってはもう立ち上がれないかもしれない。

 それは救いになるのだろうか。ただいたずらに期待を弄び、より深い悲哀に堕ちるだけではないのか?

 そう思ってしまえば紅虎の弱りきった姿に、過去に何度も見てきた姿が重なる。これはもう何度も――それこそ数え切れないくらいに経験してきたことだ。あたしが不老不死である以上、誰かの死を看取る側にしかいられない。

 それが分かっていても、何度経験しても、それでも慣れるなんてことはない。いつだって出会いは別れのためにあると、そんなことを受け入れたくはない。

 けれど、現実はいつだって無慈悲で、どれだけ強くて大きい力を持っていても、それでできることは誰かを傷つけること。

 本当に助けたい誰かを助けることも、救うこともできない。

 本当に望むことこそを叶えられない、それを再度認識し悔しさに打ち震える。

 あたしは、無力だ……

 その間にも時間は過ぎ、刻一刻と紅虎の命は削られていく。だけど、このまま見殺しにするのかと自分を叱咤しても、体は動かない。

 

「べにとら!」

 

 呆然として上手く回らなくなった頭にその声はよく響いた。

 その声の主を振り仰げば、そこにはこちらへと走ってくる金髪の少女がいる。

 

「久遠ちゃん……?」

「べにとら、どうしたの? なんでこんな……」

 

 見れば分かるだろうことを――いや、分かっていて訊いているのか。悪趣味というわけではなく、純粋に信じたくないだけなのだろう。

 

「ごめん。あたしがもっと気をつけてれば……」

 

 つい先刻の一瞬が脳裏によみがえる。そう、あのときなにができたかは分からないけど、なにかをしていればこんなことにはなってなかったかもしれない。

 その後悔でなにも言えなくなったあたしと紅虎の間を久遠ちゃんの視線が何度もさまよい、

 

「しの、なおしてあげないの?」

 

 なにか、意味不明なことを言い出した。

 治す? なにを当然のように言い出すのか。あたしの持つ力は命を金属へと変える異能。それで今できることなど、せいぜい紅虎の命を取り出してナイフ一本を作るくらいのことだ。それには断じて、治すなどという言葉は適用しない。

 しかしそれを懇切丁寧に教えるような精神的な余裕はないので、自分にはできないとだけ教える。

 その答えを聞いて久遠ちゃんは、とうとう追い詰められたような勢いで叫んだ。

 

「ツ――ッ、じんらい!」

 

 久遠ちゃんが振り返って呼んだ名前に、ざわりと心が粟立つ。

 その方向へと目を向ければ、そこにいたのは白い髪と黄金の瞳の男。さっき感じた『呪い憑き』の正体はこの男か。

 その男は、無感情な目であたしたちを見下ろしている。それこそまさに、路傍の石ころでも見るような目だ。(思うのだけど、この男のどこに久遠ちゃんをそうも惹きつける要素があるのだろう?)

 そのまま数秒、止まったように見ていたと思えばようやく口を開いて、

 

「その猫を助けたいのか?」

 

 その言い方に苛立ち、ギリッと歯が軋むほどに強く噛み締める。  

 なにを当然のことを。誰が大切な人や親しい人に死んでほしいなんて考える? 君のような冷血人間ならそうかもしれないけど、あたしは違う。この千年、一度だって失くしたくなかった。死んでほしくなかった。それが叶わぬ願いだとしても、その願いを諦めるなんてそんなことしたくない。

 それだけのことが頭に浮かび、どれ一つ言葉にできず俯く。

 この瞬間に首を落とされてもおかしくないが、それならそれで構いはしない。

 正直なところ、いいかげんに疲れていたのだ。あてもなく、なにを残せるわけでもないのに永く生きてきた自分の在り方に。それでも誰かとの絆を糧に、言い訳に、生き永らえてきた。それももう……

 

「じんらい……」

 

 泣きそうな久遠ちゃんの声。

 俯いていた顔を上げて見てみれば、神雷はあたしと紅虎と久遠ちゃんとを見渡して、

 

「……仕方がないか」

 

 なにが仕方がないのか、いい加減堪忍袋が限界にきて口を開き――

 

 ドスッ!!

 

 それを察知する暇などなかった。

 目にも止まらぬ一瞬、稲妻のような速さで神雷は手にしたナイフであたしの左手を刺し貫いていた。

 そのナイフはすぐに抜かれたけど、よほどいい場所を刺したのか痛みは少ないくせに傷口からはドクドクと血が溢れ出る。

 

「なにをっ……!?」

「黙っていろ」

 

 突然のことに困惑するあたしに有無を言わせず、神雷は傷を負ったあたしの左手を掴んでその手を紅虎の傷へと押し付ける。

 その直後、あたしの手を掴んだ神雷の右手が銀色の光を発する。

 そしてその光の中で紅虎の傷が目に見て分かる速さで癒えていく。

 なに、これ……?

 この男の持つ異能の力はあの黒と銀の雷だと思っていた。超常の迅さや戦神の如き剣腕は千年の練磨で作り上げたこの男自身の技量なのだろうと。

 でも、それはあたしの思い違いじゃないだろうか?

 あたし自身も傷の治りは普通の人に比べて早いから、それは『呪い憑き』の特性なのだろうと思っていた。

 けれど、それと比較してもなおあり得ない早さ。もしかすると、これこそがこの男の持つ本当の異能では……?

 そのまま三分も経たずして紅虎の傷は全て癒えた。それと同時に、さっき貫かれたあたしの手も一緒に治っている。

 

「これでいいだろう。だが、とりあえず医師に見せておけ。俺の力では失った血と体力までは戻せない」

 

 言われた通り、もうできることはないだろう。呼吸は弱いけどここから悪化することもなさそうだ。

 でも――

 

「なんで君がここまで……」

 

 その理由が分からない。あたしたちは『呪い憑き』であるゆえに殺しあう宿命を背負っている。その殺しあうはずの相手にこんな情けをかけられる覚えはない。しかも一週間前に殺し合いをした相手に、だ。

 

「そうだな……。この猫が死のうと知ったことではないが、眷属の頼みとなれば無碍にはできまい」

 

 そう言い、傍で見守っていた久遠の頭を掴んで振り回す。

 

「あぅ〜〜」

 

 その扱いに対して久遠は嫌がる様子を見せない。(むしろ嬉しそう)

 

「それに、これでお前に貸しが一つ、だ」

 

 まっすぐに見て言われたその言い分にぐっと押し黙る。事実、この男がいなければ紅虎は助からなかったし、助けたことを余計なこととは思えない。

 それでも、馴れ合うつもりはない。今でも胸の中でくすぶる炎は、目の前の男を殺せと叫んでいるのだから。

 

「……お礼は言わないよ?」

「構わん。いずれ一つ、俺の言うことを聞いてもらう。そういう取引だ。破棄したければそれを殺せばいい」

 

 それは決して間違ってはいないのだが、押し付けるような言い方やわざわざ弱みを突くような内容が気に入らない。今、改めて認識する。あたしは絶対に、この男とは相容れない。

 それでも神雷の忠告通りにまだ起き上がれない紅虎を抱き上げて愛のやっている動物病院に連れて行こうと歩き出し、背後から神雷の声が届く。

 

「最後に一つ。その猫はお前の『眷属』となった。その責任をお前はどう果たすのか、見させてもらおう」

 

 ……どういう意味だろう? 『眷属』とは久遠が神雷との関係を指して使っていた言葉だ。それがあたしと紅虎にもあてはまる?

 その『眷属』というものについて知るべきとは思うものの、これ以上あの男と話すのも気に入らないのであえて無視して早足に歩く。

 その背中に突き刺さる視線がすぐに消えたことにも、警戒こそすれさしたる興味を示すこともなく歩き続けた。

 

 

 その後、愛のやっている動物病院に連れて行ったが、診察の結果は問題なし。ただ、少し衰弱しているから今夜はここに入院させようという話が出た。だけど、ちょっと気になることがあると、そう無理に言って連れ帰ることにした。

 それに対し愛は少し渋ったものの最後には承諾。同じ寮に住んでいるからもしものときはすぐに処置できると判断したんだろう。

 だから、今夜ばかりは同じベッドの中。

 こうまでした理由は一つ。あの男の言葉が気になって消えないからだ。

 あの男は紅虎があたしの『眷属』になったと言った。『眷属』という言葉の意味するところも役割も知らないけれど、久遠ちゃんと同じというなら妖怪化したということかもしれない。しかしそれについて正確な認識ができない。(久遠ちゃんに訊いてもその答えは要領を得ない)

 やっぱりあのとき訊いておくべきだったのかな……

 今になってそんなことを考えても後の祭りだが、そんなことを考えても仕方がない。

 なんにせよ、本来ならあたしには救うことができず死ぬはずの運命を助けられた命。それを今度こそ、あたし自身の手で守り抜こう。

 そう決意を新たに、眠りに就いた。

 

 

 翌朝……。

 さて、これはどういうことだろう。

 目が覚めたら、目の前に覚えのない女の子がいた。




 お久しぶりです。遅筆っぷりがどんどん悪化しているような気のするダメ物書きのシンです。そして、

久遠(以下久)「きょうはくおん、よばれたの」

 はいご苦労様。まずは勘違いを告白。久遠は会話文に漢字は使わないと思っていたんですが、原作のゲームでは会話文に漢字を使っているんです(『リリカルおもちゃ箱』海鳴ハイパークイズで確認)。この作品では少し舌ったらずな印象を与えるために全部ひらがなにしてるんですが……

久「? なにかいけないの?」

 悪くはないだろうけど、つまり原作を熟知しているわけではないと馬脚を現した、という感じなのがなんというか……

久「うん。でもきにしないでいい、きにしてもどうにもならない」

 ……まぁ、とりあえずそういう方向で進めておこう。しかし、作中の時間は第一話からようやく一ヶ月が経った。ここまで長かった。

久「うん、ながかった」

 色々あったものの久遠は神雷へのベタ惚れっぷりを披露。神無に見られたら恋敵云々で殺されそうな――

久「ちがうよ、おとーさん」

 ……は?

久「じんらいはくおんの、おとーさん」

 なにか? つまり、設定の固有資質のところに『ファザコン:S』とかついてしまうような感じか?

久「? よくわかんない」

 ……それならそれでいいか。それにしても、ようやく名前だけでなく正式に神雷に眷属として認められた、と。

久「うん!!」

 元気でよろしい。そして同じく志乃の眷属として紅虎も妖怪化してしまうという事態に……。割と最初から考えていたけどかなり強引な展開かな?

久「そうなの?」

 そう。まぁその辺の判断はいつもどおり読者に任せるとして、一つ補足。紅虎の人型の姿は、血が繋がってるだけあって小虎によく似てるとだけ言っておこう。

久「くぅ……?」

 まぁ、あとのことは次回に持ち越そう。さて、次回では眷属となった紅虎がさざなみ寮でどう騒動を起こすのか、後編をお楽しみに。




やはり目の前に現れた女の子は眷属となった……。
美姫 「かもね。だとしても、いきなり眷属を持たされる事になってしまったのよね」
しかも、志乃は眷属というのをよく分かっていないみたいだし。
美姫 「さてさて、どんな騒動が巻き起こってしまうのかしら」
何故、嬉しそうなんだ……。
美姫 「それじゃあ、この辺で」
ではでは。



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