あすかview
ザクザクと雪を踏みしめて、倒れている子供に近づく。
倒れているからはっきりとは分からないけど、背丈はわたしや久遠と同じくらい。だとして年の頃も私たちと同じくらいになるのか。(わたしたちは見た目どおりの年齢じゃないけど)
髪の色は灰色。全体は短めなのにうなじの辺りの一房だけやたらと長い。
横向けに倒れてるからツイテナイのを確認できる。そんなわけでこの子供は女の子のようだ。
けどそんなことよりも、この雪降る寒空の下で一糸も纏わぬ裸という異様としか言いようのない状況。触ればひんやりと肌は冷えている。こうなればとりあえず――
「ふっ……」
意識を集中して、わたしとこの子供を中心に半径二メートルくらいの空気を春のそれに変える。それでもすでに積もっている雪への影響は少ないけど、降り続けている雪は暖められた空気の影響で避けるように流れを変えて落ちていく。
「久遠、この子供どう――」
とりあえず意見を聞いてみようと横を振り向くけど、そこに久遠はいなかった。
まさかと思い、グルリと体ごと捻って後ろを振り返れば案の定、この子供を見つけたところから動いていなかった。
「どうした、久遠? そんなところに固まって」
「だってそのこ、にんげんじゃない、よ」
「……はぁ?」
なにを言ってるんだか。こっちは不死の子供と妖狐の二人組だ。『人間じゃない』なんて理由で恐れるような相手など、この世界のどこにいるというのか。
だけど今、久遠の警戒は全力でこの子供に向けられている。ついさっきまで動物の唸り声に怯えていたのに、今は目の前にいるこの子供こそがその元凶だと言わんばかりに厳しい目を向けて――
……まさか、この子供が?
少しだけ、警戒心が生まれる。
この子供はどう見ても人間だけど、人と獣の二つの姿を持つ例は今まさに目の前にいる。(それにさざなみ寮には人と刀の姿を持つのもいる)
だとしても放っておくのもどうかと思う。せめて目を覚まして落ち着くまでくらいは――
「うっ……」
今の久遠との会話で気がついたのか、小さく呻いて身じろぎをした。
起きるかと思ったけど、その子供の目は閉じられたまま開かない。
けれど今の身じろぎで髪が動いて、その下に隠れていたものが見えるようになった。
それはその子供の額を裂くように走る、大きな傷跡。
第3話 「少女」
2月1日 (水) AM11:24
耕介view さざなみ寮
「はぁ……」
やや熱めに淹れたお茶を一口、喉に流し一息つく。動いて温まっていたとはいえ、やっぱりこんな天気の日は熱いお茶がうまい。
目の前にあるのはすでに食べ終えて空になった皿。真雪さんに作るついでに、俺もちょっと早いけど昼ご飯を済ませておいたのだ。
「は〜〜、食った食った。ごっそさん」
その俺の対面で大盛に作ったキムチチャーハンをきれいにたいらげて、真雪さんも満足そうに合掌。言葉は少なくともその雰囲気だけで作り手としても気分がいい。
「真雪さんはこの後はどうします?」
「寝る」
即答だった。まぁ徹夜明けの後は大抵この調子で、出来上がった原稿は翌日持って出るのがパターンだからなんとなく分かってたけど。
「そう言うお前はどうすんだ?」
「そうですね、午前中の仕事が全部残ってますからやっちゃわないと」
主に雪かきで時間を潰されてなにもできてない。寮内の掃除と洗濯、それに帰ってきたらあすかちゃんたちの昼ご飯も作らないといけないし。
「そうかい。……ところで、あのチビッ子どもはどこに行ってんだ?」
「さあ……? まぁ、この天気ですから外で遊んでるんじゃないですか?」
とは言ってみたものの、実際はどうだろう? なにせあの二人は俺たちの数倍の時間――千年と三百年を生きた子供たちなのだから。今さら雪が降ったくらいではしゃぐものだろうか?
そんなことを考えるが、そうでもないかもしれない。久遠は子供形態のときは同じく精神も幼いし、あすかちゃんも普段は外見相応に子供っぽい。言葉遣いはちょっと大人ぶってるけど。
まあ、千年も生きてるんだから大人ぶった態度くらいはおかしくない。けれど、あの子のそれはそれだけじゃないような気もする。
そんなあの子の過去にどんな悲しい思い出が隠されているのか。いまだあの子の昔の話は聞かないから分からないけど、いつかきっとそれを話し、心を開いてくれると信じている。ここは――さざなみ寮はそういう不思議な縁のある場所だから。
まあそれはそれ。とりあえず、あと一杯お茶を飲んだら仕事を始めようか。
そう思ったのだが、急須から器に注げたのは半分ほど。ちょっと物足りなさを一緒に味わいつつ、それを飲み干す。
「さて、んじゃあたしは寝るわ」
真雪さんも自分の分のお茶を飲み干して立ち上がった。
「あ、はい。おやすみなさい」
それに釣られるように一緒に立ち上がり、まずは洗い物から始めようかと目の前の食器に手を伸ばし、
「こうすけ!」
外から大声で呼ばれた。
振り返れば庭の垣根の向こうから、久遠が必死な様子で走ってくる。
「どうした? くお――ッ!」
言い終わるより先に、体当たりのように抱きつかれた。それはいつものスキンシップのようなものとはどこか違う。
どうしたのかと問うよりより早く、続く声。
「久遠! それに耕介も」
久遠に遅れること数秒、その後ろからあすかちゃんも姿を現した。
「……どうしたんだ、二人とも?」
ただならない雰囲気を察して問うが、二人とも全力で走ってきたからか、息を整えようとしてすぐには答えない。
その息も落ち着いてきた頃、なにかあると感づいたのだろう、真雪さんが俺の後ろから尋ねる。
「なにがあった、そんなに焦って?」
「あっちにある湖に……子供が……倒れてて……」
まだ少し息を切らせながらあすかちゃんが指差したのは、たま湖のある方向。あそこは一応とはいえ私有地のはずだけど、なんでそんな場所に。
まぁいい、そういう疑問は後回しだ。
つまるところ、子供が倒れているけど自分たちでは運べないから大人を呼びに来たということだろう。
「分かった。すぐに準備するから、そこまで案内して」
とりあえず部屋からコートを取ってこようと踵を返して、
「その必要はない」
それをあすかちゃんが呼び止めた。
「その子供は、ここにいる」
そう言って大きく腕を広げ、四枚二対の黒い翼――『ディス・レヴ』が姿を現す。そして――
キィン。
高く響く音。
その音が合図のように、なにもなかったところにいきなり裸の子供が現れた。
広げられた腕の中に現れたその子供を地面に着くより早くあすかちゃんが抱き止める。
今なにが起きたのかという疑問は、あすかちゃんの背中のリアーフィンを見てすぐに分かった。
アポート。
それはHGS患者の使える超能力の一つ。瞬間移動系の能力で、ものを手元へと引き寄せるタイプのもの。
しかしあすかちゃんがこの能力を使うところは初めて見るけど、相手が子供とはいえ人間一人を引き寄せるとは……能力の強さはリスティや知佳並ということか。フィリスなんかは数グラム程度のものしかできないというのに。
ともかく、今あすかちゃんが呼び寄せたこの子供、いったい何者だろう? こうして見るだけで膨大な霊力を感じる。ここまで凄いのはちょっとお目にかかったことがない。
なんにせよ、その霊力に気圧されてしまったんだろう、不意打ちを受けたように止まってしまった俺に真雪さんが檄を飛ばす。
「耕介。ぼさっとしてんな!」
「え? あ、はい!」
そう。改めて確認するまでもないことだが、その子供は裸――服を着ずにこの雪の中にいたということなのだ。
「お前は風呂を温めに沸かしとけ。久遠は一緒に行ってタオルをたくさん持ってこい。チビッ子はそのままその子の周りを暖めてろ」
テキパキと指示を出す。普段は『さざなみ寮のセクハラ大魔王』の二つ名を欲しいままにしているが、こういうときのリーダーシップは侮れない。
しもやけの応急処置は温めのお湯でじっくりと温めることだ。だから俺に風呂のことを指示したと理解し、その準備ができるまで乾布摩擦でもして温めようと久遠にタオルを取ってこいと指示したのだろう。
「久遠」
「……うん」
少し躊躇いを見せたものの、久遠は俺の後をついてくる。その様子になにか違和感を感じる。この子は普段からこんな調子だったか?
そんな疑問を抱きはしたが、今はそれどころではないとばかりに脱衣所で大きめのタオルを少し多めに取り出して持たせる。人手は三人だし、濡れていた体を拭いてから乾布摩擦するならこれで足りるだろう。
それからいつものように風呂釜に火をつけて湯船にお湯を溜める。 指示は温めにということだから、温度は後で水を足して調節しよう。
そして五分もする頃には十分な量のお湯が溜まった。そのお湯に手を入れて温度を確認。このくらいなら問題ないだろう。
「真雪さん、お風呂用意できましたよ!」
リビングに聞こえるように声を張り上げる。
「おう。ほら、チビッ子ども、手伝え」
リビングの方からのしのしと、女の子を抱きかかえて真雪さんが歩いてきた。そしてその後ろにはあすかちゃんもついてくる。でも――
「久遠はどうしたんです?」
「さあな。なんてーか、この子供を怖がってるように見えたが」
なるほど、それはさっき俺が久遠に感じた違和感を表すのに合った言葉だ。
たぶん久遠も気づいているんだろう。この子が持っている膨大な霊力に。そしてそれは久遠の妖狐という性質にとって天敵めいたものになるのかもしれない。
「……で、お前はいつまでここにいる気だ?」
「はい?」
「さっさと、出てけーー!!」
聞き返した途端、脱衣所から蹴り出された。
それもそうだ。さっきから今にかけての様子から見るにおそらく真雪さんがあの子を風呂に入れるだろうし、そしてそんな場所に男の俺がいるわけで。
それはさすがにやばいか。それにかつて一部で囁かれたあだ名『ロリコンジャイアント』再び、なんてことになるのはさすがに勘弁。
となれば俺は、とりあえずなにか適当に着せるものを用意して、それとフィリスにも一応連絡を入れておこう。あの子の状態からしてたぶんワケありかもしれないし、病院に連れて行くより医者に来てもらう方がいいだろう。
そしてあの子については真雪さんに任せて問題ないだろう。さすがにあんな小さな寝ている子供にセクハラはしないと思う……たぶん。
風呂から上がった後は……昨日ようやく片付けの済んだ元神奈さんの部屋に寝かせておくとしよう。
2月1日 (水) PM 9:21
■■■view
覚醒は唐突だった。
睡魔の残滓は欠片もなく、自分が今起きたとはっきりと認識できた。
だが、目に映るのは一面を塗り潰したような闇だけ。思わず顔に手を当てて、自分の目が閉じてないことを確認してしまう。
「ここは……?」
意味がないと分かっているが、見えもしない周囲を見回す。当然、闇に覆われていてなにも見えない。
それでもほんの数秒で闇にも目は慣れた。
ぼんやりとした輪郭だけとはいえ、周囲の状況を確認して、全く見覚えがない場所であることに少し戸惑う。なにせ、目に映る全てが全く見覚えのないもの。
空も風もないことからどこかの屋内であることは分かる。だがそんなことが分かったところでなんの気休めになるというのか。
そもそも、我は何処にいた?
思い出そうとするが、はっきりとした答えを特定できない。
記憶の喪失……ではなく、混乱。
覚えていることを時系列で整理できない。いくつもの景色が脳裏に浮かんでは消え、しかしそれがいつのことだか分からない。(その景色のほとんどが戦場に見えるのは気のせいだろうか)
しかしそれに焦りを覚えることはなく、なんとなく持ち上げた手で額に触れ、その手に感じるザラリとした違和感。
それが我の口を無意識に動かした。
「骸……」
呟いてから思う。骸とは誰だ?
自問して浮かぶのは一人の男の姿。
だがそれが我にとってのなんなのか、それを必死に思い出そうとするが思い出せない。なにか大切なものがあったはずなのに……
不意に泣きたくなるような衝動に駆られる。だがそれは力ずくで抑え込み、状況把握に戻る。
我の過去についてなにも分からないというのは分かった。なら今については?
体を起こしてもう一度周囲を見回すがやはり見覚えなど欠片もない。
続けて自身の内へと意識を向けて感じるのは、喉に刺すような痛みと腹に鈍い痛み。それを意識してようやく、自分が空腹だと気づいた。今になるまで気づかないとは、すでに空腹を通り越してなにも感じなくなっているのかもしれない。
そうと――否、それだけ分かれば結論は簡単だった。
とりあえず、なにか適当に捕まえて喰らおう。
立ち上がってみる。二本の足で立つことになんとなく違和感を感じるが立つこと自体は問題ない。
それよりも全身を覆う布がいやに鬱陶しい。けれどどう引っ張っても脱げも破れもしないので諦めた。思うに、空腹のせいで力が入らないのだろう。
それよりも今は水と糧。
おそらくあそこが戸のある場所だろう、光が細い線になって四角く区切っているから分かる。
そこに近づいて手探りで取っ手らしいものを見つけて掴み、
横に動かす。動かない。
押してみる。動かない。
引いてみる。動かない。
……なんだこれは、どういう絡繰りだ? そのまま横に奥に手前にと悪戦苦闘することしばらく、ちょっと力の向きを変えてみようと手首を回し、するとガチャリと音を立ててあっけなく戸は動いた。
「…………」
なんと言おうか、あまりに間抜けだろう己の姿を思い言葉もない。ただ回せばよかったとは……
しかしすぐに頭を振りその呆然から立ち直る。そして戸を開けた瞬間、目に飛び込んできた光に反射的に目を閉じた。今敵がいたなら致命的な隙だったところだ。だがそんなことはなく、そこには誰もいない通路があるだけ。
ところで、こんなに明るいとは今は昼か? さっきまで闇に慣れた目にはこの程度の光さえ痛い。そのせいでまともに目を開けられないが、問題はなかった。耳と鼻の二つがすぐ近くの戸の向こうに人の気配と話し声を感じている。
そろりそろりと気配を消して忍び足で歩き、その戸の前に立つ。
そこで改めて意識を集中。耳はそこに八人、鼻はそこに七人いると答えを出す。……なんだ、この誤差は? さらに直感とでも言おうか、それがそこになにか得体の知れないものがいるとも告げている。
どうやら迂闊に踏み込んではいけない場所らしい。
だが、今の我の状況を知るには多少の危険も仕方がない。虎穴に入らずんば虎児を得ず、だ。
さっきの戸の経験を生かし、今度は一回で絡繰りを解除。戸を開き中に踏み込めば、そこにいる全員が振り向いた。その中の一人が宙に浮いているのを見て先の耳と鼻の誤差の理由を察する。まさか幽霊がいるとは思わなかった。
そしてそこにいる女の一人が声を発した。
「あら、目が覚めた?」
* * *
愛view
「あら、目が覚めた?」
そこにいるのはあすかちゃんがお昼に連れてきたらしい女の子。
いつまでも裸のままでいさせておくわけにもいかなかったから美緒ちゃんのお下がりを着せておいたんだけど、見た感じサイズはちょうどいいみたい。
その女の子はキョロキョロとリビングの中全部を見回してから、私をまっすぐ見つめて、
「お主がここの主か?」
「はい?」
聞き慣れない言葉遣いに戸惑う。
だけど意味は分かるので咄嗟に答えた。
「あ、ええ、そうです。私がこのさざなみ寮のオーナーの槙原愛です。あなたは――」
「ああ、少し待て」
そう言った途端、女の子が消えたような気がした。
「え……?」
でもそんなことはなく、ちゃんとそこにいる。ただなんとなく、ものすごく存在感がなくなったというか……
他の皆も同じように感じてるのかもしれない、驚いた顔や警戒している顔でその子を見ている。
そんな視線の集中を受けて、その子は無造作に歩く。
そのままズンズンと歩き、初めての相手に触られるにしては不思議なほどに無抵抗でいる猫ちゃんを鷲掴みにして、大きく口を開け――
「ちょ……、それはダメ!」
すんでのところでピタリと止まった。あとちょっとで頭からパックリいきそうな形で止まり、その状態になってやっと掴まれている猫ちゃんも気づいたようにもがきだした。
よかった。なんでいきなりこんなことをしようとしたのか分からないけど、止まってくれた。
でもそれはちょっと違った。止まったまま動かない女の子を怪訝に思うのと同時に、視界の隅でフィリスがリアーフィンを展開しているのに気づく。たぶん今、あの子はフィリスのサイコキネシスで止められているだけなのだ。
その止まった女の子の手から美緒ちゃんが猫ちゃんを取り上げた。
それで安全と思ったのか、フィリスのリアーフィンが消えてサイコキネシスが解ける。
そして開口一番、女の子は叫んだ。
「なぜ阻む!?」
「なんでって……。ダメだよ、こんなこと」
「なにを言う。殺して喰らうは世の理だろう」
それが当然とばかりに、なんの疑念も持たない様子で言った。そしてそれはさっきの行動の意味とそれに対する自分の考えをはっきりと表している。
「お腹が空いてるなら俺がご飯を作るから。だからそんな風にまだ生きている命を食べたりしたらダメだ」
耕介さんが諭すように言っても、女の子は難しい顔をして、
「……そういうものなのか?」
確認を取るように周りを見回す。それに対して(あすかちゃんを除く)ほぼ全員が首を縦に振って肯定する。
「……そういうものか」
釈然としない様子で繰り返す。今は収めてくれたみたいだけど、なんだかまた同じことをしそうな感じ。
「ならば我は、どうやってこの飢えと渇きを埋めればいい? そう都合よく屍骸が転がっているわけでもあるまい」
「……分かった。ちょっと待っててよ。簡単に作っちゃうから」
そう言い残して耕介さんはキッチンへと向かい、手早く料理を始める。
「ほら、作ってくれるまでの間、座って待ってましょう」
「む……」
背中を押すようにして椅子に誘導し座らせる。
そして私、真雪さん、フィリスが一緒に食卓の席について他の皆はリビングの方に移動。いきなり大勢で囲むのはあまりいい気分ではないかもと話していた結果、こういう形になった。
「じゃあまず、あなたの名前を教えてくれますか?」
「なま……え……?」
それをまるで、初めて聞いた言葉のように反復した。
「はい」
「名前……」
その意味を思い出そうとするように、もう一度呟く。そのまま数秒経過してから、
「名前……。我の名は……イチハ……」
「イチハちゃん、ですね」
確認をとると女の子――イチハちゃんは、まるで自分にそう思い込ませるようにゆっくり大きく頷く。
どんな字を書くんだろう。『一葉』、かな? でもこれだと『かずは』になっちゃうような。
まぁそういう疑問は置いておこう。今は他にも話さないといけないこともある。
「それでイチハちゃんは、自分がどこにいたのか覚えてますか?」
「……問いを返すが我は何処にいた?」
「えっと、それは……」
「ここからちょっと離れたところに湖があってな、そこに素っ裸で倒れてたんだと。あそこのチビッ子がおまえを見つけてここに連れてきたから、あたしも現場は見てねーけど」
私も聞いた話でしかないのでちょっと言葉に詰まった隙に、真雪さんが説明した。
それにしても、その説明の『あそこの』の部分で真雪さんが指したあすかちゃんを見たとき、イチハちゃんの体が少し強張ったように見えたけど……
「それで、あなたの体に異常がないかわたしも呼ばれたんですよ」
わたしは医者ですから、と最後に添えてフィリスが続ける。
「そうか……」
そう呟き目を閉じて黙考する。その姿は(言葉遣いも併せて)見た目の歳からはちょっと不釣合いに見える。
そう考えると、小さな疑惑が私の中に生まれた。ひょっとしてこの子もまた、あすかちゃんや志乃さんと同じ――
「はい、お待たせ」
私の考えを遮ってその言葉とともにイチハちゃんの前に置かれるのはケチャップで味付けしたチキンライス。
「これは……食い物か?」
「ああ、そうだけど……。ひょっとして初めてかな?」
それには答えず――そもそも聞こえてないのかもしれない、そう思わせるほどに真剣な目で目の前のお皿を凝視している。お皿に添えてあるスプーンを使わずに一つまみ手に取ってじっくりと観察し、匂いを嗅いで、ペロッと一舐めして、それから恐る恐る口の中に入れて、
驚いたように目を大きくした。
その後はもうすごい勢いで、さっきの警戒振りが嘘みたいに、手の隙間からポロポロと零れていくのも気にせず、手づかみで口に詰め込んでいく。その様子は子供らしいというか、微笑ましいものがある。
そしてその勢いのおかげで食事はすぐに終わった。子供向けには少し多めじゃないかと思ったけどそれを難なく全部食べて、さらに指やお皿まで舐めようとした。(それはさすがに行儀が悪いので止めたけど)
「それで、さっきの話の続きだけど……」
イチハちゃんが落ち着いた頃を見計らってフィリスが切り出す。
「雪の中で倒れていた、ということらしいですが、しもやけなどの心配は問題ないようです。それどころか、簡単な検査ですけど怪我や異常はまったくなし。発見が早かった、ということでしょうね」
「その辺はあのチビッ子に感謝だな」
「むぅ……」
その反応がなんだか不本意を表しているように感じるのは――そして見つめる眼が得体の知れないものを見るように見えるのは気のせいだろうか。その理由に思い当たるだけに、気になる。
さっき私は、この子もあすかちゃんたちと同じ、不老不死の『呪い憑き』とかいうのの一人かと思った。
でも今までのあすかちゃんの様子を見るとその可能性は低い。というか、確実に違うと言えるだろう。
なにせ初対面で志乃さんと目を合わせただけであんなに暴れる子が、この子にはそんなことをしなかった。それだけで理由として十分。
イチハちゃんは『呪い憑き』じゃない。
だとして、いったいどうしてあんなところにいたのか。そしてなんであすかちゃんに敵意みたいなものを向けるのか。
それが気になったけれど、それを訊くより早く耕介さんが口を開く。
「ところで、君の家の連絡先を教えてもらえないかな? 迎えに来てもらうかそれともうちに泊まっていくか、どちらにしても一度電話しておいた方がいいだろうし」
実際にイチハちゃんが起きてくる前は、今日中に起きなかったら警察に連絡しようかと話していたのだ。それが起きてきたというのなら連絡しておくべきだろう。家族だって心配するだろうし。
でもイチハちゃんの答えは、
「分からぬ」
「え?」
「我は我が何処から来たのか分からぬ、と言った。つい先程目を覚まして、その前の記憶がまともに思い出せん」
「え、でも名前は覚えてたんでしょう?」
「その名は問われてただ思い浮かんだだけの言葉だ。真に我の名かどうかは知らぬ」
なにか問題があるかと逆に咎めるようにきっぱりと言い切った。
そこで改めて目に付いたのは、前髪で隠れそうでありながら、その存在をはっきりと誇示している大きな傷跡。
……ひょっとしてこの傷のせいで記憶喪失に?
でもそれは違うだろう。見ただけで分かる。その傷は昨日今日にできたような新しいものじゃないと。それで最近の記憶まで消えているのは考えにくい。
それにしても記憶をなくしているなんて、なんだか既視感を覚えるような……
隣では真雪さんがむーっとなにかを考えて、
「記憶が、か……。フィリス、ちょっと見てやれ」
「はい? わたし、ですか?」
「ああ。できるだろう、お前なら」
「あ、はい」
それで真雪さんの言いたいことを察したようで、フィリスはイチハちゃんの隣の席に移って、
「それじゃあ目を閉じて、楽にして。ちょっと変な気分になるかもしれませんが、問題はないので気にしないでください」
「……分かった」
それだけ答えてイチハちゃんは素直に目を閉じた。
そして再びフィリスの背に浮かぶ、三対六枚の妖精を思わせる金色の羽。
「んっ……」
眉をしかめて小さく呻く。たぶん今テレパシーをされているのだろう。私も昔、リスティに何度かされた覚えがあるけどあのときは目の奥が痺れるみたいな、今のイチハちゃんと同じ反応をしていたと思う。
そのままじっとすること数秒、フィリスのリアーフィンが消える。
「はい、もう目を開けていいですよ」
そう言われて、イチハちゃんも目を開ける。
「どう、なにか分かった?」
「ダメですね。わたしのテレパシーではちょっと無理みたいです」
「フィリスじゃ無理ってことは、リスティならどうかな?」
「……いえ、たぶんリスティでも無理です。この子にもあすかちゃんみたいになにかテレパシーを阻害する力が働いているようですから……」
「ああ、そういやボウズも志乃さん相手には無理だったって言ってたしな」
「となると、手掛かりはなし、か……」
耕介さんが残念そうに呟いた。
「まぁいいじゃねーか。前に似たようなこともあっ……たっけか?」
真雪さんが自信なさそうに言ったそれは、さっき私が思ったことと重なる内容で――
「真雪さんもそう思いますか? なんだか俺もそんな気分で……」
「耕介も?」
耕介さんと美緒ちゃんがそれに便乗する。
どうやらその変な気分を感じているのは私、耕介さん、真雪さん、美緒ちゃんの四人。他の皆は『なんのことだろう』って感じの顔で私たちの成り行きを見てる。
それを空気を読まない一声が遮る。
「おい」不満そうにジト目になって「我を蔑ろにしてなにを話している」
「ああ、ごめんごめん。前にも君みたいに記憶をなくした子がいたような気がしてさ」
「ほう? そいつはどうなった?」
「………………」
沈黙が下りる。
「どうした?」
「いや、それがどうもはっきりと思い出せなくて」
確かに耕介さんが言ったように、前にも記憶をなくしたという人がいたような気はする。
でも、それがいつ、誰だったのか、それを思い出せない。誰もなにも言わないということは、他の皆も覚えていないみたい。
「……まぁ、よい。馳走になった」
「うん。お粗末さま」
その受け答えを横目に、椅子から飛び降りるようにして床に立つ。そしてそのままスタスタと庭の方へ――
「あれ? ちょっと、どこへ行くのかな?」
そう訊かれても、イチハちゃんは止まる様子も見せずに、
「……骸、という男を知っているか?」
どこかで聞き覚えのある名前。でもそれもさっきと同じように思い出せない。
「目覚めてからずっとその名が我の頭でちらつく。なにか大切なものを忘れている気がする。だから、探しに行く」
「ちょっ……探しに行くってこんな時間に?」
もう夜も更けて外は暗い。しかも雪も積もっていて寒い。
でもそれを分かっていて、この子はそう言っている。そう確信させるくらいに、イチハちゃんの声にある決意は強く感じる。
「当然だろう。今我を知る手がかりはその名だけだ。草の根分けても探し出す」
「そんなそこまで気負わなくても――」
「気安く言うな! お主に分かるのか? 己が何者か判然せぬということがどれほどの不安と恐怖をもたらすものか!」
その叫びはとても苛烈なのに、泣きそうなのを我慢しているようにも聞こえる。
だから、想像してみた。
自分の記憶が頼りにならないとなると、自分の好きな人、嫌いな人、自分を愛する人、憎む人。その誰になにを言われても、なにをされてもどう対応すればいいのか分からない。失くしてしまった記憶の中で自分がなにをしていても責任を持てないし、自分がなにをされていても責任を問えない。
私の場合だったらさざなみ寮の皆との『家族』という繋がりが私の中で失くなってしまうということと同じだろう。
そう考えると、それはとても怖いことだと思う。
だからこの子の今の悲痛な声も、自分を知る人を探そうとするのに必死な姿も納得できる。それに、その目に宿る意志も前へと進む足取りも揺れることはなくしっかりしていて、この様子だと引き止めるのはまず無理みたい。ならせめて、なにか手伝うくらいは――
「あっ――」
ゴンッ。
「ッ……むぅ?」
それに気づいて注意する間もなく、イチハちゃんはさっきまでの勢いそのままにガラスにぶつかった。それが納得いかなかったのか怪訝そうな声を出してカーテンを横ではなく上に捲り上げてそこに隠れていたガラスを確認する。そのガラスは外が暗いので半分鏡みたいにリビングの中を映している。
「……この向こうは外で間違いないか?」
「ええ、そうですけど……。でも今夜は雪が降ってますよ?」
「ふむ」
今の答えでなにを納得したのか、コンコンと軽くノックしてから大きく振りかぶって、
ガシャアアァァァン!!
と、派手に叩き割った。
そうして足元に残った細かいガラスをまったく気にせず踏みしめて歩き、外へと出て積もった雪の上に立つ。
そしてイチハちゃんは最後に、一度だけ振り返って、
「ではな。縁があればまた会うこともあろう」
それだけ言い残して、大きく跳んだ。
その姿はあっと言う間に闇の中へと消えて見えなくなってしまった。
2月1日 (水) PM 11:46
■view
「ここは……」
どこか見覚えのある雑木林に立ち尽くし、無意識に呟いた。
「私は何故また……」
前回のことは覚えている。
封印の番人としての使命を忘れて、今と同じようにこの世に顕現した。
そこで出会った優しい人たち。与えてくれた温もり。全部覚えている。
だけどあのときは、いつかあの子に相応しい『乗りこなす者』が現れることを信じて、あの子と共に眠りについたはずだった。
それが今、再び目覚めている。
あれから幾歳の時が流れたのだろうか、この場でそれを確認する術はない。
しかしなにより先に確認するべきは間違いなくあの子の状態だろう。前回のときは私が目覚めてからあの子が目覚めるまで多少の時間があったけど、今回もそうとは限らない。もしまだ眠っているようなら即刻再封印しなければならない。
そう決意して、かすかに感じる力の気配から湖の方向を見当をつけて歩く。
それから間もなく、正面――湖の方向(と思ってる方向)からパタパタと飛んでくる生き物(?)。
「きゅる〜〜」
「氷那」
それは白い体毛に覆われた丸い体に、耳か羽か分からないものがついている姿をしている。
けれどその正体はあの子の封印の要石となっているはずの、氷那社の御神体。
この子までもう目覚めてるなんてまさか――
湖へと急ぎ見てみれば危惧した通りすでに結界は消えており、そこにいたはずのあの子はもういない。周囲を見回しても、それらしい姿はなく力も感じない。
「どこに行ったの? ……ざから」
さて、第3章第4話をお届けしました。そして数えてみれば、今回で通算30話。よくがんばった、自分
イチハ(以下イ)「その程度でいちいち己を褒めるな。見苦しい」
いいじゃないか。確かにまだ予定の半分も済んでいないけど、一つの区切りみたいな感じで
イ「……そういうものか」
そういうことにしておけ。信じる者は救われる。……まあそれはそれとして簡単な解説に移ろうか
イ「うむ。まずはあすかの目からか」
ここは前話の続きという形だな。
イ「まだ我は寝ていたからこの辺はどうでもよい。だが唯一つ、気になるのだがこの二人の態度の違いはどういうことだ?」
それは、あすかには久遠と違って霊感はないから。もしあったとしても、いざというときは一瞬で灰にできるという自信もあるし
イ「恐ろしい子供だな」
否定できないな。まぁ、そうやってしか生きてこれなかったというのもあるんだけど。……そしてその次から舞台はさざなみ寮に移り、耕介の視点から
イ「まだ我は目覚めぬか。しかし、あすかといったな。この娘、異能の力を使うことにまったく躊躇しないとは……どういう場所だ、ここは?」
まぁ本人も夢中だったんだろうよ。それにフィリスやリスティのような同類がいて、しかも一回全力出しても迫害されなかったということで注意が緩んでいるんだろうし。そんな風に、受け入れる、ということに関してはたぶん海鳴一かもしれない場所だから
イ「ふむ……。となれば、我がそこに連れ込まれたのは僥倖だったか」
そうかもしれないな。その後、夜になってとうとう君が目覚める、と
イ「うむ。しかしなぜ我の記憶がおかしくなっている?」
そりゃ三百年も寝てたんだから、少しくらい寝ぼけてもなぁ……(ボソッと)
イ「なにか言ったか?」
いや、気にしなくて結構
イ「そう言われて気にせぬ者はおらぬ。それよりも、我が知りたいのは――!」
まぁ正体は今さら隠すまでもないんだけどな。それがなんで『イチハ』と名乗るかは前に一度伏線を張っておいたけど……意味あったのかな?
イ「いつの話だ、それは?」
いつだろうなぁ? とりあえず、恭也か志乃か神雷がそこにいれば、正体に行き着いていただろう、とだけ言っておく
イ「また訳の分からないことを……。そう勿体ぶるのはお主の悪い癖だな。隠す意味がないなら隠さずともよいだろうに」
ま、そこは演出ってやつ? さて、それでは頃合もいいので恒例の次回予告。次回ではある懐かしの人物がさざなみ寮を訪れ、本人のいないところでイチハの正体について暴かれる予定になります
イチハという新たな少女。
美姫 「何者なのかしら」
しかも、彼女が口にした骸という言葉。
美姫 「それに最後にはざからという言葉や氷那まで出てきているし」
うーん、何が起ころうとしているんだろうか。
美姫 「それでは、今回はこの辺で失礼しますね」
ではでは。