開かれた視界に、最初に飛び込んできた色は白だった。
まだぼやけた意識のまま視線だけを動かして周囲を見てみる。天井、壁、カーテン、全て白。その中で窓の外の青い空、白い雲、枯れた木だけが色を持っている。そこまで確認してからまず最初に浮かぶ疑問。
ここは、何処だろう?
たぶん、病院だと思う。だとして、何処の病院なのか、なんでこんなところにいるのか、分からないことはいくらでもある。とりあえず、最近の記憶から思い出そうとして――
赤い髪の少女の顔が、脳裏をよぎった。
そしてそれと共に、全てを思い出した。
――見られてしまった。
でも、どうしようもなかったと思う。ああしなければ、あの子は車に轢かれていた。そうなっていたら、あんな小さな子供すぐに死んでいただろう。
他にやりようがあったなら教えて欲しいとも思う。でも迷うことなど許されないあの一瞬で、選べる答えはあれだけだった。
だからわたしは――
「あ、目が覚めましたか?」
柔らかな雰囲気の声に視線を向ければ、そこに銀髪の女性がいた。
第2章 「呪われし者たち」
第1話 「覚醒」
1月17日 (火) PM 3:17
それは本当に偶然だった。
午前中は外科の外来、午後からは入院患者の回診が今日のフィリスの予定だった。
それらを無事に終わらせて、スタッフルームに戻ろうとする途中で思い立って、ちょっと様子を見に来てみたら、少女は丁度目が覚めたところらしいかった。
まだぼんやりとした目で、しかししっかりとフィリスの姿をその目に収めて少女は口を開いた。
「こ……こ、は?」
小さな、しわがれた声で問いかけてくる。
この数日の意識不明の間、点滴だけで栄養補給していたからか。喉が涸れて、喋るだけで痛みを感じているように、少女は顔をしかめた。
どうしようかとちょっとだけ考えて、部屋の中に備えてあった水差しからグラスに水を注いで、
「ここは海鳴大学病院です。あなたは何日か前に救急車で運ばれてきたんですよ」
答えながら少女の体を起こし、ゆっくりと、体に染み込ませるように飲ませる。
三回に分けてグラスの中身を全部飲んで、少女は大きく息を吐いた。
「すまない……」
それが礼を言ったということに、少し遅れて気づいた。このぐらいの子供にしては、ちょっと珍しい言葉遣いだ。
「いいえ。それより、体は大丈夫ですか? どこかおかしいところとかは……?」
「?」
少女は怪訝そうな顔をするものの、寝転んだまま体を揺すってみたり、何度か手を握ったり開いたりして、
「あれ?」
「どうしました?」
「……鈍い」
言いながら、少女はまだ手の動きを確認している。
確かにそれはゆっくりとした動きだが、寝起きだからとか薬が効いてるからとかで片付けられる程度だ。
だから、フィリスもそう思った。
――そうでは、なかった。
けど、その本当の理由をフィリスが知るのは、一月近く後の話になる。
ともあれ、それだけならそう問題はないだろう。精密検査でも問題はなかったし。とりあえず気に留めておいて、時間が経っても治らないようならもう一度ちゃんと診てみよう。
そう判断して説明してから、次の質問に移る。
「あなたのお名前、訊いてもいいですか?」
「……あすか」
「あすかちゃん、ですか……。いくつか訊きたいことがあるんだけど、今大丈夫?」
相手の歳相応に、砕けた口調に変える。このくらいの子供ならこっちの方が相手も話しやすいと思っての対処。
「ああ」
そしてあすかもそれを気にする様子はない。
「じゃあ、まずは……」いくつか聞いておくべきことを浮かべて「あすかちゃんは、自分のおうちがどこか分かる?」
実は、この少女が入院したその日に、捜索願いが出ていないかと警察に問い合わせてみていた。
でも、そのときの結果はなし。そして今日になっても連絡はない。
ちょっと不信に思ってリスティに調べるように頼んでみたけれど、やっぱり出ていないらしい。
じゃあこの子は、いったいどこから来たのか?
しばらく待つが、あすかは喋らない。それも、分からない、という風ではない。唇を震わせて、それが言ってはならない言葉であるかのように、視線は虚空を見詰めている。
ちょっと質問を変えようかと思ったところで、不意に口を開き、
「――…………」
呟いた言葉を、聞き取れなかった。
「え?」
「……ない。帰る場所なんて、ない。だって、母様は、わたしが……」
なにかに耐えるように顔を俯かせ、視線はぎゅっと握り締めた両手を見つめて動かそうとしない。
その反応から、それは彼女の心の闇であると推測するのは、そう難しいことではない。
「ごめんなさい。それと、思い出したくないなら無理に思い出さないで。なにも、あすかちゃんを追い詰めるために聞きたいわけじゃないから」
「……ああ」
そう答えはしたものの、雰囲気はどんよりと重いままだ。
「じゃあ、次の質問ね」
暗くなった空気を振り払うように、努めて明るい声を出す。
「あすかちゃんは自分のこと、どれくらい分かってる?」
「どれくらい……とは?」
「あなたの、翼について――」
それ以上は言えなかった。
一瞬であすかの顔が恐怖に彩られた。
「見たのか?」
それは確認というより、ただそうあってほしくないという祈りにも似た縋るような声。
でも――いや、だからこそ、本当のことを言うしかなかった。
「……ごめんなさい。あすかちゃんが運ばれてきたときに一度だけ……」
そう、一度だけ。
それでも、今でもまだはっきりと覚えている。目を閉じて、まぶたの裏にその姿をくっきりと思い出す。
数は四枚二対。一対は烏の、もう一対は蝙蝠のような黒い翼。
見ようによっては堕天使と悪魔の翼にも見えるその翼は今もフィリスの脳裏に焼きついている。
リアーフィンの形状は遺伝もあるが、最終的には本人の心根が影響する。いったいどんな心の持ち主に許されるか分からないが、いかにも悪役なその形は、どう見てもろくなものじゃないだろう。
けれど、その翼を、美しいと思った。
善悪も美醜も関係なく、ただ美しいと。
なぜそう思ったのかは自分にも分からない。ただ直感がそう叫んだとしか言いようがない。
ほんの二、三秒だけ、その姿を思い返してから目を開ける。
そこで、気づいた。
こっちを見詰めるあすかの目が、尋常でないほどの恐怖を映している。
なににそう怯えているのか。普通逆だろう。特殊な力を持つHGSは普通の大多数の人にとって恐怖の対象になりえる。それはフィリス自身も経験してきたことだ。
だから、HGSの彼女がなぜそんな反応をするのかが分からない。
けれど、翼を見られたことがその恐怖の原因というなら――
「怖がらなくてもいいですよ」ポケットに片手を入れて「わたしも、あなたと同じですから」
言って、ポケットの中のコントローラを少し操作する。
キィィィィ……ン、とかすかな音を響かせ、金色の、三対六枚の翼が背中に現れる。
能力を使うわけではなく、ただ翼を具現化させるだけ。だが、効果は十分にあった。さっきまで恐慌に陥っていていたあすかが今は驚いた顔でフィリスの翼を見詰めている。
でも、次に来る言葉は予想できないものだった。
「おまえも、呪われてるのか?」
「え?」
呪われてる……?
予想外の言葉に戸惑うものの、とりあえず事実の説明をする。
「この羽はHGSという病気の特徴ですよ。知らなかったんですか?」
「え……? でも……だって……」
いったいどんな葛藤が渦巻いているのか、あすかの言葉は要領を得ない。
一度深呼吸をして、椅子に座ってあすかと目の高さを合わせて、ゆっくりと説明する。
「さっき同じと言ったのは、あすかちゃんもHGSなんです。初めて見る翼の形と酷い自虐性の副作用ですが、間違いありません」
「わたし……も?」
信じられないのか、その声に力はない。
「はい。あなたが眠っている間にも少し検査をして確認しました」
それからさらに、一つずつ説明していく。
HGSというのは数万人、数十万人に一人の割合で存在する遺伝子の病気だということ。
HGSの患者は総じて、念動や精神干渉――俗に超能力と呼ぶ特殊な能力と、放熱や能力制御を行う光の翼『リアーフィン』を持つということ。
あすかのHGSは、リアーフィンの放熱能力が弱く、おそらくなにかの能力を使った副作用で高熱を出して倒れて、運ばれてきたのだろうということ。
それらを丁寧に、分かりやすく説明していく。
その説明のついでに自分の『トライウイングス・r』も展開して、ボールペンを引き寄せたり浮かせたりと実例も見せてみる。一応、幼児死亡率が非常に高いなど、不安を生むだけの説明は避けたけど、その間あすかは、心ここにあらずという感じでフィリスの説明を聞いていた。
やがて――
「違う……」
ぽつりと、あすかは呟いた。
「わたしのは違う。病気なんかじゃない、呪いだ。母様がそう言っていた。だから、わたし……わたしは……!」
必死に、目に涙さえ浮かべていやいやと首を振って否定する。
なにがこの少女をこうまで追い詰めるのか。
なぜこうも呪いだと思い込もうとするのか。
それは分からない。分かるはずもない。
でも――
「落ち着いて。なんでそんな言い方をするか分からないけど、そんなに自分を追い詰めるようなことは言わないで」
こんなにも震えて泣きそうな子供を、放っておけるわけがなかった。
抱き寄せて優しく髪を撫でる。
あすかは最初、きょとんとしてなにをされているのか分かっていないようだったが、すぐにその顔も崩れた。
嗚咽が漏れた。
泣き顔を見られたくないのか、もぞもぞと動いて胸に顔を押し付ける体勢になって、それでも必死に声を押し殺して泣き出した。
それを止めることも咎めることもなく、フィリスはただ胸の中の少女を撫で続けていた。
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやくあすかの嗚咽も収まり、今はその残滓のようにスンスンと鼻を鳴らしている。
きっとこの子は、ずっと耐えてきたのだろう。
家族がいないということ。
自分だけが違うということ。
自分が呪われているということ。
それをずっと、こんな小さな少女が一人だけで。
不幸自慢するわけではないが、フィリスもそれなりに汚いものを見てきたし、苦しい思いもしてきた。
一緒に生まれたクローンの姉妹たちとの殺し合い。
HGSであるゆえの敬遠。
それでも、救いだってあった。だから今の自分がここにいる。
それと同じように、自分はこの子を救ってあげられるだろうか。
あすかが、ぐっと引き離すように押してきた。それに逆らわずに距離をとって、
「もう大丈夫?」
「ああ。……すまない、情けない姿を見せた」
「そんなことないわよ。あすかちゃんくらいの子供なら、まだお母さんに甘えていたい年頃でしょう?」
「いや、そんなことは――」
くきゅぅぅ〜〜〜。
可愛らしい音が鳴った。
見ればあすかが、赤い顔をさらに赤くして俯いている。
「おなか、空いたの?」
コクン、と小さく頷いた。
数日寝たままでいた間、当然何か食べているはずがない。となると今この少女の胃の中は空っぽも同然だ。
「じゃあ、ちょっと待ってて。なにか軽く食べられるものをもらってくるから」
一度頭を撫でて離れる。
それからちょっと、今後のことを考えてみる。
数日で退院になるだろうけど、そのときは一度さざなみ寮に連れて行ってみようか。
なにせ、あそこはHGSのような変わり者も簡単に受け入れてしまう場所だ。それにフィリスだけでなく、(聞いた話でしかないが)リスティや知佳の人格形成にも大きく貢献している。
そんな場所だから、きっとあすかも自分の翼を病気と認めたうえで受け入れられるようになるかもしれない。
それと、アリサちゃんにも連絡をしておかないといけない。
あの子がどれだけこの子のことを心配していたのか、この目でしっかりと見ている。今から連絡しておけば、学校の帰りにでもお見舞いに来るかもしれない。
そんなことを考えながら病室から出て――
「あら?」
そこに、なんとなく見覚えのある、赤い髪の女の子がいた。
* * *
あの夜から何度思っただろう。
なんでアイツは、あんなことを――
あの自分勝手な行動に憤りを覚える。見つけたらまず一発ぶん殴ってやる。それから思いっきり文句も言う。それから――
その後のことは、それから考えよう。
乱暴だというのは言われなくても分かっている。でも、他にやり方が分からないというのも本当だ。
今まで生きてきた永い時の中に『主』や『仲間』はいた。でも『友達』はいなかった。なのはたちも今は『仲間』よりの感がある。
だから、あの日「友達などできるはずがない」と言ったアイツを見て、どこかで共感したのかもしれない。
だから、放っておけなかったんだと思う。
でも、アイツは消えた。
その後も探してみたけど、結局見つからずじまい。
シャマルに探してもらうというのも考えたけど、無理と言われた。相手は魔導士でもない、普通の女の子。直接会っていないから、何を手がかりに探せばいいのか分からないということ。
苦肉の策として簡単な探査魔法を教えてもらった。自身の周囲に結界を張ってその中に探し物があれば分かるという、実用レベルとしては微妙なものだが、自分にすぐ使えるものとなるとこのぐらいが精一杯。
もうあとは運と足に任せるしかない、というそんな状況だった。
それでこの日、たまたまはやての定期健診に一緒に来て、たまたま待合室で一緒にいて、
――いきなり、教えてもらった探査魔法に反応があった。
「え!?」
予想外といえば予想外の反応に一瞬戸惑うものの、その後の行動に迷いはなかった。
「はやて、ゴメン。アタシちょっと用事!」
「は? ちょっと、ヴィータ!?」
「ヴィータちゃん!?」
後ろからはやてとシャマルが呼び止める声も振り切って走り出す。もう頭の中にはあすかのことしかない。
怪訝そうな顔をする患者や医者や看護士の横を通り抜け、入ったこともない建物の奥の方まで入って、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた立て看板を無視して突っ切る。
辿り着いた。後は目の前の扉を開けるだけだ。
けれど、その扉を開けようと取っ手に手を伸ばしたところで、扉は内側から開かれた。
「あら?」
白衣を着た銀髪の女が出てきて、不思議そうな声を出した。
見覚えはあるような気はするが、話をしたことはないし、そもそも名前も知らない。
そんなことよりも今は、
「なぁ。この中――」
扉の隙間は銀髪の女が塞ぐように立っていて、部屋の中は死角になっている。
覗き込もうと近づくと、
「ダメじゃないですか。ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ?」
そう言って止められた。
そんなことはどうでもいい。今知りたいのはそんなことじゃない。
ていうか、百聞は一見にしかず。自分の目で直接確かめようと、女を押しのけるようにして踏み込む。
そこに、探していた人物の姿を見つけた。
「あすか!」
「え?」
「よかった。おまえ――」
それ以上は言えなかった。なぜなら、ヴィータの呼びかけにベッドの上のあすかが振り返って、
その顔が一瞬で恐怖に染まったのだから。
「ひっ……あ……うあ……」
お化けでも見たように、引きつった顔で必死にベッドの上を後退さる。
けれど、その先は――
「あ、おい!」
それに気づいて呼び止めたときはもう遅かった。
後退ずさるために体を支えていた手が、ベッドの縁からはみ出てむなしく空を掴み、
「え?」
それに気づいてあすかも振り返るが、その反動さえ加速にするようにして――
ズゴッ!
勢いよく後ろに転がり落ちた。しかも、床で頭を打ったと思える音はかなり景気よく響いた。
ベッドの縁から下半身だけ、逆さまに生えているような間抜けな格好にどう声をかけていいか迷う。
しかしその体勢も長くは続かず、やがてズルリと横に傾いて倒れた。
ベッドを回り込むと、あすかはそこで屈みこんで頭を抑えていた。
一気に熱が冷めた。さっき考えていた殴るとか文句を言うとか、そんな気分は綺麗さっぱり消えてしまった。
「……大丈夫か?」
「う゛〜〜……いたい……」
落ちたときに打ったらしい部分を押さえたままあすかは顔を上げて、
バッチリと、目が合った。
瞬間、再びあすかの顔に恐怖の表情が浮かび、四枚二対の黒い翼があすかの背に現れる。
「!」
あの夜のことを思い出す。あの夜も、その翼を背に出した状態で突然消えた。
「ちょっ……待っ……」
今度もまた消えられてはたまらない。そう思い、咄嗟に引きとめようと声を出して、
でも、今回はそうはならなかった。
「え……、なんで?」
本人も戸惑った声を出している。その焦った様子からまた同じように逃げようとしていたと想像するのは難くない。
でも、それが今回は上手くできないらしく焦っている。
それに、その翼もなんだか違って見える。前に見たのが夜であることを考えても、今あすかの背中にあるそれはやけに薄くなって見える。
「ダメです。今は抑制剤が効いてるから、能力は使えません」
後ろから、さっきの銀髪の女があすかに早足で近寄りながら、そんなことを言った。
その意味はよく分からないけど、ここが病院で、抑制剤とか言うことはつまり――
「ひょっとしてお前、病気なのか?」
「違う」
「そうですよ」
同時に即答。あすかは否定、でも銀髪の女は肯定。どっちだよ。
「でも、よかった。いきなり消えたから、心配したぞ」
立ち上がるのを手伝おうと手を差し出す。
「……なんで?」
「なんでっておまえ……友達があんなふうに消えたら誰だって――」
「そうじゃなくて……」
あすかは感情が欠落したような無表情で差し出した手を見詰めて、
「それはなんだ? 同情か? 憐れみか? それともただいい人ぶりたいだけか?」そう言って痛みを堪えるように顔をしかめて「そんなものなら、わたしに構うな。惨めなだけだ」
唖然とした。
いったいなんで、こいつはこんなことを言うのだろう。
あたしはそんなこと考えてない。ただ友達になろうと、なりたいと思って……
なのに、こいつは人の言うことを聞かず人の努力を見もせず、周りの迷惑など知らないとばかりに自分のワガママを押し通そうとして、
その姿が、かつての自分――主の命令の遂行と闇の書の頁の蒐集のみに生きた、昔の自分を見せ付けられているようで。
キレた。
――だから、そんなつもりは、なかったのだ。
バチィッ!
気がついたら、渾身の力でびんたをかましていた。メチャクチャいい音が病室に響く。
「あ……」
一瞬で冷めた。あたし今、なにやった?
自分のしたことが信じられず呆然とする。
でも、手の平にジンジンと残る痺れが今自分がやったことが現実だと、決して否定できない事実だと何度も訴えてくる。
そして、とどめの言葉。
「これが、おまえの答えか……」
あすかは赤くなった頬を見せ付けるように、そのまま動かない。
「…………ッ」
いろんな言葉が、浮かんでは消えて声にならない。それでも何か言おうと何度も口を開いて――
結局、何も言えないまま病室を飛び出した。
後ろから銀髪の女が呼ぶ声を無視して、廊下を全力で走って、最初の角を曲がったところで足が止まる。
「はぁ……ッ、はぁ……ッ、……」
信じられなかった。
紅の鉄騎と呼ばれ、永い時を戦い抜いた自分がこうも無様に逃げ出すなんて。戦闘ならこんなことはありえないのに。
けど、そんな屈辱のはずの思いすら霞むほどの後悔がヴィータの胸を占めていた。
逃げてはいけなかった。本当にあすかを友達と思っているなら、あの場ではっきり言うべきだったのだ。
ごめん、と。
そして、あたしは友達になりたいと思ったからこうしてる、と。
でも、もう遅い。きっともう、どんな言葉も届かない。言う資格が自分にはない。
そんな状態を招いた自分が、殺したいほど憎い。
壁にもたれるように額を押し付けて、一言呟く。
「バカだ、あたし……」
* * *
ヴィータが飛び出してからもしばらく、あすかは動かなかった。
たっぷり一分ほど床にへたり込んだまま固まっていたが、その後のろのろと動いてなんとかベッドの上に這い上がる。
「あすかちゃん……」
まだいたのか、フィリスが痛ましげな表情でこっちを見ていた。
けれど、それに応える余裕もない。
思考を占めるのはただ一つの疑問。
なんで、こうなってしまうのだろう。
ちょっと前か、ずっと前かも定かではない、意識を失う前も同じことを考えた気がする。
何度も何度も、こうやって差し出された命綱を自分で断ち切ってしまう。その先にあるかもしれない非情と裏切りを疑ってしまう。
少なくとも、ヴィータは善意と友情からああ言ってくれたのだと、分かっているのに。
……いや、なぜなどと、いまさら考えることでもない。
友達が欲しいと思った。
家族が欲しいと思った。
こんな自分を受け入れてくれる温もりが欲しいと思った。
それは嘘偽りない自分の本心だ。
けれど、この身に宿る『翼』の呪いともう一つの呪いは、そんなことを許しはしない。
だから、いつか失うくらいなら、この程度で壊れるくらいなら、最初から無い方が、きっといい。
それにわたしは、この手で母様を殺しているのだ。
いまさら、人並みの幸せなど求めてはいけない。そんなこと許されない。
それでも、なにかが違っていたら、ひょっとしたら――
そんなことを考えてしまう。
そんな自分に心底嫌気がさす。
「わたしの、バカ……」
1月17日 (火) PM 7:05
「そうなんですか? よかったぁ……」
アリサは自室で、かかってきた携帯の内容に安堵の息を漏らした。
電話はフィリス先生から。
何日か前に連れて行った子が、今日目を覚ましたということらしい。
それとほとんど同時に、赤い髪の『ヴィータ』という子がそのこのところに来たということも教えてくれた。
間違いなく、はやてのところのあの子だ。まだ数える程度しか会ってないけど、あんな特徴的な外見すぐに覚えられる。
けどそっちの内容は呆れるものだった。病院の立ち入り禁止区画に入り込んで、目を覚ましたばかりのあの子と口論(?)して、しかも最後はびんたして逃げ出したとか。
いったいなにをやってるんだろう……
そんなことを考える間も、会話は続く。
「あ、ええ、はい……。じゃあ、お見舞いは…………そうですか。…………あ、はい、お願いします。……はい、失礼します」
携帯の通話を切る。
数日は検査で忙しくなるだろうから、お見舞いはまだダメらしい。
でも、お見舞いできるようになったらすぐ教えてくれるということだから、そのときはその日にでも行ってみよう。
「あ、そうだ」
お見舞いの件、先に皆に確認しておこう。いつになるか分からないから事情の説明をするくらいしかできないけど。
それに、今日学校であったことも聞いておきたい。授業の方はどうとでもなるけど、もしかしたら心配させちゃったかもしれないし。
結果、学校の方はおおむね平穏だったらしい。ただ、皆揃って何か隠してるような気がする。それが何かは分からないし、気のせいかもしれないけど。
そうして最後になのはとの電話が終わったときには、時計はもう九時になろうとしていた。それからお風呂に入って、明日の予習もして、ベッドに入ったのは十時前。
部屋の明かりを消して、真っ暗な天井を見上げながら考える。
今日は休んじゃったけど、明日はちゃんと学校行こう。今日は一日退屈だったし。
ちょっと不謹慎だとは思うけど、本当のことだから仕方がない。やっぱり一人でいるより、皆といた方が楽しい。
さて、もう眠ろう。そろそろまぶたも重くなってきたし。
「ジョンソン、ベン。おやすみなさい」
隣で眠る愛犬たちに声をかけてから目を閉じた。
――なんだろう、これ……
霞がかった意識で、不思議な気分を漂う。
景色がぐにゃぐにゃ揺れて、でもふわふわしてていい気持ち。ちょっと前にパパのお酒を少し飲んだときもこんな感じだったっけ。
やがて揺れていた視界がはっきりしてくる。それはいつもの自分よりずっと高い視線で、なんだか新鮮な感じだ。
けれど、目に入ってきた光景は新鮮なんて言葉で片付けられるものではなかった。
それは普段だったら目を逸らして――いや、逃げ出してしまうほどの光景。
何人かの男の人たちと一緒になって、女の人を囲んでいた。それが暴行の最中だということは、女の人の服の乱れや怪我、足元に垂れてる血の跡から分かった。
涙と鼻水と涎と血、顔から出てくる全部を垂れ流した顔で、女の人がなにか叫んでいる。
その声は聞こえないけど、その顔はなんて言うか……スゴかった。人間の内面がすべて出ているというか、普段なら絶対に外には出そうとしないものが全部さらけ出されていた。
それが面白くて、笑ってしまう。
たぶん、助けてとか、やめてとか、懇願してたのかもしれない。
でもダメ。やめられない。
だって、あたしがやろうとしてるんじゃないし、しようと思ってもないのに暴力は続いているんだから。
先が赤くなるくらい熱くした鉄の棒を何箇所も押し付けていくつも火傷させて、そして最後に――
「!! …………ッ」
目が覚めた。
それでまず目に入ってくるのは暗闇。
そこが自分の部屋と気づくまでも、目が慣れるまで少しの時間が必要だった。
「……なに、今の?」
夢……にしてはやけにリアル過ぎる。
でもそれ以外考えられない。ネグリジェが汗でぐっしょりと濡れて気持ち悪いけど、変なところといえばそれだけ。他はベッドに乱れもないし、隣で寝ている愛犬たちもおとなしくしている。
でもなんでこんな夢を――
「……って、アイツのせいよね。絶対」
昨日、帰り道で会った白い髪の男。
その男がいきなり自分の目玉を抉らせたのだ。言い過ぎた自分にも問題はあるとして、それでもあれはヒドイとしか言いようがない。
今日学校行かなかったのも、そのときのショックを引きずってたからだ。
だって、仕方がない。どんなに強がっても大人ぶっても、まだ九歳の子供にあんなことやらせて――
「……あれ?」
今の夢の影響か、白い髪の男に対する恐怖はほとんど消えていることに戸惑いながら気づく。その代わり、嫌悪や苛立ちはむしろ増しているけど。
たぶん、時間が経っていくらか落ち着いたからだろう。どう間違えたって、許すとか忘れるとか、そんなことはありえないから。
そうだ。そうに決まってる。そう、決めた。
「はあ……、もう寝よ」
目を閉じて、今度こそ眠りにつく。
もう夢は見なかった。
――この夜、一つの事件が起きていたことを、アリサは知らなかった。知るはずもなかった。
その夢の中に現れた女性が、翌朝、死体で見つかった。
今回から、あとがきの形式を変えてみます。
各話のMVPをゲストに呼んでの対話形式といった感じに。
というわけで、記念すべき(?)第一回は、身体は子供、頭脳は大人、のフィリス・矢沢。
「って、誰が身体は子供ですか!」
いや、だって、あなた八歳でしょう。
「うっ……でも戸籍は二十一歳……って、どこを見て言ってるんですか」
どこって……胸? 『バチィッ!』 ぎゃーす!
「失礼な! それはセクハラですよ。……まぁ前置きはこれくらいにして、本編の話に移りましょう」
思いっきり電撃やっといて軽く流すのか。
「なにか?」ギロリッ
いえ、なんでも。……まぁ、いつまでも漫才しているわけにもいかないし。今回は第1章で意識不明のまま終わったあすかが目覚めるシーンでした。目覚めてすぐフィリスとヴィータが現れたのは、ご都合主義ってやつ?
「ずいぶんいい加減ですね」
気にするな。話を書いていくとこういう風になるんだから仕方がない。
「仕方がないって……。なんでそんな下手な腕前なのに投稿とか考えたんです?」
勢いってやつだ。
「……そうですか。それにしても最後、アリサちゃんの扱いですけど、またひどくないですか?」
いや、最初からこうする予定だったし。アリサは『バニングス』を基本にするとして『ローウェル』の方の設定を使うには、と考えた結果こうなったわけだ。
「それってもしかして……」
そう。そしてそのきっかけは前々話で神雷の血に触れたこと。つまり、非難轟々っぽいあの残虐シーンは必要な通過儀礼というわけで。
「でもやっぱりやり過ぎですよね。ついでに言うと今の説明もなんだかズレてますし」
ぐっ……。それは分かってるから、あまり言わないで。
「……はぁ。まあいいです。そろそろ時間のようですし」
おお、もうそんな頃合い? じゃあ最後に次回予告。次回は解決編その一みたいな内容になる予定。神無の口からいくつかのオリジナル設定について語られる……ハズ。
おお、様々な動きが。
美姫 「うーん、ヴィータがちょっと気になるかな」
俺はアリサの夢が気になるな。
美姫 「確かにそれも気になるわね。これからどうなるのかしらね」
いや、本当に。
美姫 「次回も待ってますね〜」
ではでは。