1月4日 (水) PM 1:45
海鳴市桜台。
そこは海鳴市でもやや高台に位置しており、近くにある展望台からは海鳴市全域を見渡すことができる。
ゆるい傾斜になっている道端にはわずかに雪が残っており、冬らしく冷え込むものの、空は晴れている。
その道を一人歩く女性がいた。
手に持つ荷物から彼女が旅行者であると窺わせる。だが、そんなことに関係なくすれ違う者は皆、自分でも分からぬ衝動に突き動かされてその女性を振り返っていた。
別段、彼女の容姿がおかしいわけではない。
ただ、彼女の纏う雰囲気――オーラとでもいうのか、それが否応なく周囲にそうさせるのだ。
だが、その女性自身は周囲の視線など無視して、手元のメモと周囲の地形を照合しながら歩いている。
その足がある住宅の前で止まった。
「ここかな」
手元のメモと見比べて確認する。
間違いない。
ここが、今日から彼女の住処となる住居だ。
もう一度、その建物を見上げる。
表札には『さざなみ寮』と書かれている。
第2話 「〜無刃〜 さざなみ寮」
1月4日 (水) PM 1:48
「ふんふーん。ふふーん」
軽快に鼻歌を歌いながら、ここさざなみ寮の管理人、槙原耕介は空き部屋の掃除をしていた。
その発端は、年末にさざなみ寮にかかってきた一本の電話だ。
――年明けから、何ヶ月か部屋を貸してほしい。
突然電話でそんなことを言われて、正直困った。そこらのホテルとかじゃあるまいし、こういうことは何ヶ月か前から話をつけておくものじゃないだろうか。実際、管理人になってから何年か経つがこんなことは前例がない。
どうしたものかと考えたが、答えは思いのほか早く出た。
結果は、応。ちょうど空き部屋もあったし、オーナーである愛の許可も出たので、部屋を貸すことになった。
時期的に珍しいとは思うが、それについては前例がないわけじゃないのでそう深くは詮索しない。……まぁ、その前例でもあるリスティは勝手に詮索するだろうけど。
そして、その女性が、今朝連絡してきた。
今日の昼にここに来ると。
そういうわけで、耕介は今この部屋の掃除をしているのだった。
「ふぅ。とりあえず、このくらいかな」
もともと年末に一度大掃除していたので、そう手間はかからなかった。念のため程度に掃除機をかけただけだ。
見上げる。部屋に備え付けの時計は二時を指そうとしている。
今朝の連絡どおりならそろそろ――
ピンポーン。
「…………」
まるで狙ったかのようなタイミングでインターホンが鳴った。
一週間前に電話だけの契約といい、予定の時間ぴったりに来るところといい、いったいどんな人なんだろうか。いい加減なのか几帳面なのか、さっぱり読めない。
とりあえず、応対に出ようか。今来ているのが今朝の電話の人でも他のお客さんでも、今さざなみ寮にいるのは自分だけのはずだ。
掃除していた空き部屋から出て、とりあえず、使っていた掃除機を廊下の隅に置いておく。
階段を下りていくと、玄関に見慣れない女性が一人立っていた。
乱雑に着込んだ白いジャケットと青いジーンズ。うなじの辺りで適当にまとめられた栗色の髪。
それらにより受ける印象は活発そうな女性といったところか。
だが、なにより目を引くのは彼女の左目を隠す眼帯だろう。
十分綺麗といえる整った顔立ちをその眼帯一つで台無しに……というより分かりにくくしている。
どういった経歴があるのか、いくらか気になったが今は先にすべきことがある。
「君が今朝連絡をくれた人かな?」
「……そうだけど」
女性は眉をひそめて答えた。
「はじめまして。さざなみ寮へようこそ」
朗らかに、歓迎の意を伝える。
だが、女性はそれに応えずに、不審の視線が手にしたメモと耕介との間を何度か往復して、
「……ここは女子寮のはずだけど……?」
「あ、俺はここの管理人をやってる槙原耕介。よろしく」
「管理人? 君が?」
女性は困惑の顔を浮かべた。たぶん女子寮に男性がいて、しかも管理人を名乗ったということに対してだろう。
いつものことだ。
毎年新しい寮生が入ってくる度にそれが問題となるのだが、耕介自身の人柄によりなんとか解決している。
しばらくその女性はじっと耕介を見詰めていた。その視線がゆっくりと下り始め、その視線はやがて、耕介の足元へと到達する。そして今度は下から上へ、ゆっくりと上ってきて、ふたたび耕介と視線が合う。
それから数秒、耕介の顔をじっと見詰めて、
やがて諦めたのか納得したのか、ため息を一つ吐き、
「まあいいか、他の人たちが認めているなら。あたしが反対することじゃないし」
やけにあっさりと認める。それからもう一度、しっかりと耕介の顔を見据えて、
「今日からここで世話になる、比良坂志乃。よろしく」
名乗りながら右手を差し出してきた。
その意味するところは考えるまでもない。察するままに、自分も手を動かす。
握手。
ぎゅっと握り返してくる彼女の手は、女性らしい小さくて柔らかいものではなく、岩のようにゴツゴツとして鮫肌のようにザラザラとしている。こんな手は他には恭也くらいしか心当たりがない。ということは、彼女も剣術かなにかをやっているのだろうか?
「呼び方、耕介くんでいいかな?」
握った手を離しながら志乃はそう言った。
見た感じだと、彼女の年齢は二十代前半。間違いなく自分より年下だろう。となると、大抵はさん付けだったりするのだが――
だけど、なぜか自然とそれを受け入れてしまった。
「ああ、いいよ。じゃあ俺は――」
「呼び捨てでいいよ。その方が、わたしも分かりやすい」
どういう意味だろう。一瞬怪訝に思ったものの、あまり深く考えず聞き入れる。
「じゃあ……志乃」
「うん」
はにかむように彼女は笑った。
その笑みに見惚れる。まさに、花が咲くようなといった表現が似合う笑顔だった。
「とりあえず、部屋に案内しようか」
そんな自分の内心を誤魔化すように提案する。
階段を先に立って上り、さっきまで掃除していた部屋――203号室のドアを開けて中へと志乃を通した。
彼女は躊躇うことなく踏み込み、部屋の真ん中に荷物を置いて、そのまま換気のために開けておいた窓から外を見渡した。
そしてじっと止まる。
たぶん、これが彼女なりの新しい環境への馴染み方なのだろう。
そうは思っても、さすがに間が持たない。
「よければ、下でお茶でも用意しようか」
ちょっとわざとらしいかとは思ったが、志乃はそれを気にすることはなく、そして振り向くこともなく、
「うん。少ししたら行かせてもらうよ」
その返事を聞いて、階段へと向かう。
だが、その歩みはすぐに止められた。
背後から志乃に掛けられた言葉によって。
「ああ、今のうちに一つ忠告しておくよ」彼女は振り返らずに指を一本だけ立てて「君が管理人ということに反対はないけど、あたしに変なことはしないように。ひょっとすると殺しちゃうかもしれないから」
……どうやら、新しい入寮者はなかなか過激な人らしい。
1月4日 (水) PM 7:02
その日の夜。
「それでは、え〜っと、比良坂志乃さんの入寮を歓迎して、かんぱ〜〜い!」
「「「かんぱ〜〜い!」」」
「「かんぱ〜〜い」」
「……乾杯」
やはり、いつものように、今日は志乃の歓迎会が開かれていた。
こんな風になにかと理由をつけては催される宴会は、もはやさざなみ寮名物と言っても過言ではないだろう。
しかし当の志乃はというと、初っ端からの異様に高いテンションに呆気にとられたらしく、困ったように苦笑している。
「じゃあまずは自己紹介といこうか。俺はもう済ませたから、愛さんからどうぞ」
そう言って、耕介の隣に座るショートカットの女性を促す。
「あ、はい。このさざなみ寮のオーナーの槙原愛です。昼間は動物病院で働いてます」
そして次に、その隣に座る銀髪の女性。
「204号室のリスティ・槙原。警察関係の仕事をしてる」
「……槙原?」志乃は呟いて、呆れたような困ったような表情を浮かべ「多いんだね、槙原って」
「ああ。俺と愛さんは夫婦で、リスティは養子なんだ」
「そう……」
とりあえず納得するみたいに頷き、そのまま手にしたグラスの中身を舐めるように口をつけて顔を上げる。
そこにはなにか、他人には理解できない葛藤があった。
そして、次に名乗りを上げるのは、古参の一人。
「あたしは205号室の陣内美緒。山乃瀬学院の高等部二年生なのだ」
気合の入った自己紹介だが、志乃がそれを聞いてる様子はない。眉をひそめてじっと美緒を――というか美緒の頭の辺りを見詰めている。
「なに?」
「いや、なんでもない」
明らかになんでもなくないのだが(ついでに心当たりもあるのだが)、本人に喋る気がまったくないようで、訝りながらも美緒の追及の視線も力をなくす。
その次はもう一人の古参。
「仁村真雪。ここじゃ一番の年上だから、なにかあったらいつでも相談しな」
「うん」
今度は志乃も特に反応することはなかった。
そして最後の一人。
「202号室の神咲那美です。そして、この子は友達の――」
そこで志乃が久遠をじっと見ていることに気づいた。
「その狐……」
そう呟いてじっと久遠を見詰める。その目は穏やかなようだが、どこか覗き込んでいるような印象を受ける。
やがて、志乃は顔を上げて、
「珍しいね。『神咲』が妖狐を連れてるなんて」
その言葉に、全員が反応した。
その言葉はつまり、那美が『神咲』の一族であること、久遠が普通の子狐ではないことを見抜いていることを意味する。
久遠が変化の妖狐だということはさざなみ寮生の全員が知っているが、それでも一目見て言い当てたものはいなかった。
そんな周囲の困惑をよそに、志乃は久遠へと手を差し出した。撫でようとしているのか、おいでおいでと、その手は誘っている。
だが久遠はその手に対して警戒をあらわにしてじりじりと距離をとり、いきなりダッと駆け去った。
志乃はその反応を見て困ったように笑って、
「なんでこう、嫌われるかなぁ……」
「いつもああなんですか?」
「動物とか子供とか、理性より本能で動くような相手には決まって嫌われる」
今の対応を見ると動物は好きな方だろう。それでああも嫌われるのは同情するものがある。
「じゃあ最後に、志乃の自己紹介といこうか」
耕介の指名で全員の視線が集中する。しかし、その本人は――
「あれ?」怪訝そうな声を上げ「もう一人、いると思ったけど違うのかな?」
「……えっと、確かにもう一人いるんだけど、今実家に帰ってるよ?」
あと一人の寮生、我那覇舞は冬休みを利用して帰省していて、こっちに戻るのは8日の予定と聞いている。
その説明に志乃は怪訝そうな顔をするものの、
「……気のせいか」
ポツリと、ただ自分を納得させるためだけのように彼女は呟いた。
「それじゃ、あたしの番だったね」ごほん、と間を取るように咳払いを一つして「比良坂志乃。旅の途中で立ち寄っただけだからいつまでいるか分からないけど、よろしく」
一通りの自己紹介を終え、その後は質問を主軸にした世間話になった。
だが忘れてはいけない。
ここはさざなみ寮。
相手が初対面だろうと余計な遠慮は一切ない。
早速リスティが、一番気になるけど訊きづらいことを質問した。
「さっきから気になってたんだけど、キミ、その左目どうしたんだ?」
「これ?」
そう言って志乃は眼帯を抑えた。リスティはうんと頷き、
「ケガ?」
「ううん、生まれつき。ちょっと左右で視力が違っていて両目だとよく見えないから……」
「へぇ。……どのくらい悪いの?」
「まず、まっすぐ歩くこともできないくらい」
そう言って苦笑する顔は欠片も蔭を帯びていない。きっともう、自分なりに割り切っているのだろう。
ならばこちらも、それについて気を使うのはやめておいた方がいいかもしれない。
那美がおずおずと質問する。
「あの……なんで久遠が……その、妖狐だって分かったんですか?」
「え? ああ……」指を顎に添えて「昔は物の怪退治で生計を立てていたこともあるから……そのときに養った観察力……かな」
……今なにか、おかしな言葉が聞こえた気がする。
だが、聞き違いかと疑うより早く、真雪が訊いた。
「なんだそりゃ? 神咲の同業者か?」
「まったく……と言うほどでもないけど、違う。神咲が引き受けるのは悪霊や霊障。でも、あたしが討ってきたのは物の怪。一番分かりやすい違いは、実体が在るか無いか」
確かに、そう言われると分かりやすい。
しかし、だとすると――
「ひょっとして、久遠を退治するなんてことは……」
「ない」
一切の迷いのない即答。
「あたしが相手するのは、あたしに害を為すか報酬をもらえる場合だけ。ただそこにいるだけでいちいち相手するほど、見境なしじゃないよ」
言ってることは結構冷酷だけど、それでも当面危険はないようだ。
「旅の途中って言ってたけど、なにか目的でもあんの?」
「いや別に。行く当ても帰る場所もない、流れ者だよ」
あははと笑いながら、本当になんでもないように彼女は言う。
「自分探し、とかそーいうやつ?」
「違うよ。まぁ、似たようなことはやってるけど」
「へぇ……なに?」
「絵を描くこと。一時期は写真にも手を出してみたけど、ぜんぜん馴染まなくてやめた」
「上手いの?」
「どうだろう? 誰かに見せたことはないし、完成したらさっさと破り捨てるから」
「なんで? もったいない」
「あたしは、残すことに興味がない」
きっぱりと言い切った。
その答えに、全員が怪訝な顔になる。
「絵を描くなんてのはただの手段に過ぎないから。本当の目的は、世界を木の葉の一枚や石の一粒までしっかりと見ること」
そのために旅をしてるんだ、と言う彼女の顔はとても眩いものに見えた。
そういったいろいろな質問の末、歓迎会の開始から、すでに三時間が過ぎた。
今起きているのは耕介、真雪、リスティ、そして志乃の四人。
他の三人はすでに酔いつぶれている。
というか、未成年にまで普通にアルコールを飲ませるのはどうかと思う。毎回そう思っていて止められない自分もなんだけど。
それはともかく、大酒飲みの耕介と真雪、マイペースに飲んでいたリスティはいいとして――
勧められるまま、たぶん一番飲んでいる志乃が、一番素面な状態なのはなんでだろう?
その疑問がこもった視線を受けて察したのか、
「ああ、あたしは平気だよ。今日の倍くらい飲んだこともあるけど、酔ったことがないしね」
顔の前でひらひらと手を振りながらそんなことを言ってみせた。
……強いとかそういうレベルじゃない。単に、酔ったことを覚えていないだけではとも思うが、今の状態を見るにその言葉が嘘とも思えない。
見れば真雪とリスティも、今の志乃の発言に唖然としている。
そんな三人を尻目に、志乃はパン、と膝を叩き、
「ま、あたしはそろそろ休ませてもらうよ」
そう言って立ち上がった。その様子にも、やはり危なっかしいところはない。
「あ……ああ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
そうして――
彼女のさざなみ寮での一日目は終わりを告げた。
1月9日 (月) PM 9:38
「ただいま」
玄関を開けて言う帰宅の常套句。ほんの数日でその科白が馴染んでしまった事実が可笑しいような恐ろしいような不思議な気分。
靴を脱ぎ、そのまま階段を上がろうとしたところで、リビングから耕介が顔を出した。
「あ、おかえり。いまちょうどつまみ作ったところだけど、どう?」
それはちょっと魅力的な誘いだ。だけど――
「後にする。ちょっと部屋で休んでから」
ちょっと疲れたような笑みを演出。実際、その表情ほどではないが疲れているのも確かだ。
「そうか。まぁ、気が向いたら来なよ。早めに来ないとなくなっちゃうけど」
その申し出に苦笑のまま頷き、階段を上がって、自室へと入る。
当然だが、部屋の中はこれ以上ないほどに殺風景だ。あるものといえば自分が持ち込んだ荷物と、さざなみ寮で備え付けのベッドと机のみ。
それに不便を覚えることはないし、構いもしない。どうせここにいるのは数ヶ月の予定なのだから。
窓を開ける。冬の冷たい空気が入ってくるがそんなこと気にしない。一面の曇天で闇に染まった空が、自分の吐く息で白く染まる。
深呼吸。
肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んで、三秒ほど静止。さっきまで自分を突き動かしていた憎悪と殺意を燠火の欠片も残さぬよう鎮める。
それから次は、吸い込んだ空気と一緒に疲れも吐き出すような、大きなため息。
そのまましばらく止まっていたものの、ややしてから動き出す。空を仰ぐように顔を上げ、すっと眼帯を左目から右目へと移す。
鷹のように鋭く、氷のように冷たい左目が開かれる。
それだけで、志乃の目に映る世界は一変した。
以前、この寮の人たちに教えた『左右の視力が違う』というのは事実だ。それを皆はほとんど見えないと解釈していたようだが、それは違う。
志乃の左目の視力は、人間の上限をはるかに逸脱している。昼間であれば三里の彼方まで見通せるし、夜の闇も月と星の明かりか街の灯があればなんの苦もない。
その目の奥には、まだ先刻までの憎悪が残っている。
そして、殺せなかった男の顔を思い出し、舌打ちをした。
別に、なにか目的があったわけではない。
ちょっと夜の散歩と洒落込んで、せっかくだからと近くの展望台まで足を伸ばして、どうせならと視界を左目へと切り替えて――
そして、見つけてしまった。
間違えるはずもない、長い間探し続けてきた仇。
その発見は本当にただの偶然だった。だが、だからといって見過ごす気分にはなれなかった。
しかし、あの男の化け物ぶりは永い時を経てもなお相変わらずだった。『影の矢』と『猟犬の牙』は見切られ、『硬い稲妻』は相殺されてしまい、あとはもう『星の光』だけが頼みとなり――
さすがにそれをどうにかできるほどにあの男も神懸かった強さではなかったらしい。
『星の光』に距離という概念は関係ない。射ると同時に着弾するその矢は、実質、回避も防御も不可能。
その力を以って腕を潰し、心臓を潰し、そしてあと一撃で頭を潰して終わりにするはずだった。
だが、一つだけ誤算だったのは、那美と久遠がその場にいたということだ。(久遠のあの姿は初めて見たが、たぶん間違いないだろう)
さらに久遠は、あの男を庇うような真似までした。
その姿を見て、それまで自分を突き動かしていた憎悪が一気に萎えてしまった。バケツで冷水でもかけられたみたいに。
消えてしまったわけではない。またあの男を目にしたら、今夜と同じくらいの憎悪をたぎらせ殺しにかかることは確信できる。
しかし――
友の仇とあの男を殺すのだ。
そのために他の誰かを犠牲にすることはできない。
それはつまり、今夜はもう手を出せないということ。もしも最後の一矢を放ち、あの男の頭を潰したなら、あの場にいた人間は皆死んでしまうのだから。
標的を前にしながら手を出せないという葛藤。その口惜しさに苛立ちが募る。
まあいい。
あの男はこの地を『開かれた霊穴』と言っていた。
ならば、またあの男を見つけることはありえる。それはそういう場所だ。
復讐という負の情熱に思いを馳せ、口元を笑みの形に吊り上げる。
ああそうだ。言われるまでもなく、迷いも躊躇いもない。あの男は必ず――
「おーーい。下りないのかー?」
緊張感の欠片もないその声が、志乃の意識を現実へと引き戻した。
ドアの外から呼びかけてきたのは仁村真雪。この一週間で、彼女が漫画家だと知ったときは結構驚いたものだ。
「あ、今行く」
眼帯を左目から右目に移して答える。その声にはもう、さっきまでの暗い情熱は欠片もない。
その声を確認したのか、ドアの前から人の気配が離れていった。
それにしても――
ここは不思議な場所だと、本気でそう思う。
所詮は赤の他人に過ぎないはずの集まり。それがまるで、『家族』のように触れ合う。
自分が遠い昔に夢見た、願うことさえできなかった温もりが、ここには当たり前のようにある。
これもまた、『開かれた霊穴』の恩恵だろうか。
だとしたら悪くない。ぬるま湯につかるような不思議な気分を感じながら、そう思う。
部屋のドアを開けながら、考えるのは唯一つ。
願わくば――
このささやかな幸福が、どうか一日でも長く続きますように。
この話は都合上、日付が遡ってて読みにくいかもしれませんが、仕様です。我慢して読んでください。
……さて、しなくてもよさそうな言い訳も済んだところであとがきに移りましょう。
二人目のオリジナルキャラ、比良坂志乃(無刃は二つ名)に場面は移りお送りしました。
読んだ方はもう分かっているでしょうが、彼女はいくつかの事情から一人目のオリジナルキャラ、神雷に敵対する立場にいます。その事情についてもやはり今後の話を乞うご期待、という感じです。他のオリジナルキャラたちとの絡みも込みで。
ですが、最近のアニメとかでは主人公は対立する陣営にいる二人とか、よくある話です。最近携帯機に移植された某RPGは主人公が14人とかいう設定らしいですし。(ちなみに、わたしはそれについて納得していません。出番は後半で固有イベントもないバーサーカーまで数えるのはどうかと……)
では解説の方を。
・耕介視点
私は寮というのがどういうところか詳しくは知らないんですが、少なくともこういう借り方はできないのでは? と思います。
それでもやったのは主に話の都合から。ついでにリスティという前例もいるのでそう無理もないかと。
そして、この話を書くために最近になってとらハシリーズに手を出したというのは……聞かなかったことにしてください。……いや、以前のパソコンでは数年前から持ってたDVDエディションができなかったからなんですけど。
・耕介視点その2
さざなみ寮といえば宴会、のイメージから来る場面ですね。
とりあえず、ここで現在さざなみ寮に誰がいるかを暗示しようとしたのですが、2の頃からあまり変わってません。この話を書くために部屋と住人を確認してみたらこんな形になってしまいました。
じつは、この時点ではさざなみ寮には奈緒という美大生がいるらしいです(とらハ3のおまけシナリオ『お正月だよ全員集合』に名前だけ登場)。けど、名前だけなので見なかったことにして書き進めています(期待していた人ごめんなさい)。
しかし、四人以上の会話は誰がなにしゃべるかさっぱり分からない……。
・志乃視点
序章第4話裏みたいな時間軸になってます。
今さら言うまでもなく、彼女が序章で神雷を狙撃した張本人です。
序章ではいきなり現れて、そして消えるという謎の人っぷり全開だったので書いてみました。
ただ、一つ知っておいてほしいのは、志乃には志乃なりの考えや価値観、信念があり、単純に悪役や敵役という立場に立っているわけではない、ということです。(むしろ殺人数では神雷がオリジナルキャラで一番だったりします)
ちなみに、那美と久遠は彼女が狙撃者だということには気づいていません。
あと、前回もやったようにオリキャラの外見データ。今回は志乃の分です。
身長 167cm 、体重 51kg
外見年齢 二十代前半(本人の弁によると二十三歳)
髪 背の中ほどまで伸びている栗色の髪をうなじの辺りで適当にまとめている。
目 左右で目つきと瞳の色が違う。右は茶褐色で穏やかな雰囲気だが、左は鳶色で鷹のように鋭い。
その他 服装は主に、白いジャケットとジーンズという感じで動きやすさを重視。それと作中にもあるように、左右の目の違いを隠すために常に眼帯(医療用)を付けている。
狙撃者の登場。
美姫 「彼女は彼女でどんな物語を見せてくれるのかしらね」
神雷に敵対する理由とかもその内明らかになるだろうし。
美姫 「これからどうなっていくのかしら」
それでは、また次回をお待ちしてます。
美姫 「それじゃ〜ね〜」