『ニーベルングの指輪』
第一夜 ワルキューレ
第三幕 父の告別
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ホヨトーーーホーーーー!」
白い岩山の頂上において乙女達の声が木霊する。見ればブリュンヒルテと同じく羽根のある兜に黒い皮の服を身にまとった女達がいた。やはり右手には槍を持ち左手には透き通った水晶を思わせる楯がある。それを手にそれぞれ楽しそうに叫び合い言葉を交えさせている。
「ヘルムヴィーデ、ここよ!」
「ゲルヒルデね!」
「そうよ、私よ!」
まずはこの二人がいた。
「ここにいらっしゃい!」
「ホヨトーーーホーーーー!ホヨトーーーホーーーー!」
ヘルムヴィーデがそのゲルヒルデのところに来た。そのうえで二人でまた言い合う。
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ホヨトーーーホーーーー!」
ワルキューレの叫びだ。それを叫んでいると今度は二人来た。
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ワルトラウテ!」
「それにシュヴェルトライテも!」
「私もいるわよ」
すぐにもう一人来た。これで五人だった。
「オルトリンデ!」
「貴女も戻って来たのね!」
「ええ、戻って来たわ」
オルトリンデはにこりと笑って姉妹達に答えた。
「やっとね」
「それでオルトリンデ」
ワルトラウテが彼女に声をかけてきた。
「貴女が今日ヴァルハラに送ったのは誰なの?」
「ヘーリングのジントールよ」
彼だというのである。
「彼よ」
「私はイルミングのヴィティヒよ」
ワルトラウテは彼だというのだ。
「彼を連れて来たわ」
「あら、だったら」
ゲルヒルデはワルトラウテの今の言葉を聞いて笑いながら言ってきた。
「離れ離れにしないと」
「そうよね、二人は仇敵同士だったから」
「側にいると喧嘩をしてしまうわ」
「皆そこにいるのね」
また一人来た。
「今日の仕事は終わったの?」
「ええ、ジークルーネ」
「貴女もなのね」
「そうよ」
ジークルーネも来た。
「終わったわ、今日も多くの英雄が集まったわ」
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ホヨトーーーホーーーー!」
ワルキューレ達はジークルーネの言葉を喜びまた叫ぶ。その手の槍を高々と掲げて。
「後の二人は?」
「ロスヴァイセとグリムヒルデね」
「そうよ、その二人よ」
彼女達は後二人だと話をしだした。
「何処にいるのかしら」
「あっ、来たわ」
「今戻って来たわ」
しかしここで何人かが上を見上げて言った。するとすぐに残る二人も来たのだった。
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ホヨトーーーホーーーー!」
「ロスヴァイセ!」
「それにグリムヒルテも」
「貴女達は今日一緒だったの?」
「どうだったの?」
六人が早速今来た二人に対して問うのだった。
「今日は」
「最初は別々だったわ」
「けれど途中で一緒になってね」
「そうだったの」
「それでなの」
「ええ、そうなの」
「それでなの」
二人はこう姉妹達に答えた。
「それでここに来たのよ」
「二人でね」
「そうだったの。それじゃあ」
「残るはブリュンヒルテだけね」
「あの娘は?」
ここで八人のワルキューレ達は言い合うのだった。
「何処に行ったの?」
「誰を連れて来たのかしら」
「あっ、見て!」
ここで一人が天を指差した。
「あそこよ」
「?何あの速さ」
「物凄い速さよ!」
それはブリュンヒルテだった。一目散に飛んで来ていた。
「グラーネをあんなに飛ばして」
「どうしたのかしら」
「グラーネは息を切らしてるけれど」
実際にその通りだった。グラーネは激しく息をしている。
グラーネを岩山の後ろにやって姿を消した。八人はそれを聞いてさらに怪訝な顔になって言葉を交えさせた。
「私達に挨拶をしなかったね」
「あんなブリュンヒルテははじめて」
「何があったのかしら」
彼女達は首を傾げさせていた。
「それに連れていたのは英雄ではなかったわ」
「そういえば」
「男ではなかったわ」
それもまた彼女達にとっては問題なのだった。顔に浮かんでいる怪訝な色をさらに強くさせてそのうえで話を続けるのであった。
「乙女ね」
「若い女だったわ」
「一体」
「あっ、来たわ」
「ブリュンヒルテよ」
その彼女が慌しい様子で来た。息を切らして顔を汗で濡らしていた。
「それもあんなに焦って」
「本当にどうしたの?」
「皆、助けて!」
ブリュンヒルテは必死の顔で姉妹達に告げてきた。
「どうか私を」
「どうしたの?」
「そんなに汗をかいて」
「それに逃げ去るみたいに」
「私は追われているの」
姉妹達の中に入って必死に息を整えながら述べた言葉だ。
「今。だから」
「追われているって」
「貴女が?」
「そうよ。生まれてはじめて」
こう答えるのだった。
「御父様が」
「御父様が?」
「何故!?」
ワルキューレ達はヴォータンが彼女を追っていると聞いて血相を変えてそれぞれの顔を見合わせたのだった。
「どうして御父様が?」
「あっ、あれは!」
「嵐が!」
その時だった。何と天空を嵐が覆いそれが彼女達に近付いてきていたのである。さしものワルキューレ達もそれを見て顔を青くさせる。
「暗い雲が起こっているわ」
「あれはまさしく」
「どうか私を守って」
ここでまた姉妹達に願うブリュンヒルテだった。
「どうか。この人を」
「えっ、この人は」
「さっきの」
ワルキューレ達はここでジークリンデに気付いたのだった。
「何故ワルキューレが女の人を連れているの?」
「どうして?」
「彼女はジークリンデよ」
「ジークリンデ」
「確かそれは」
「ええ、ヴェルズングの一族よ」
こう姉妹達に話すのだった。
「そしてジークムントの妹よ」
「ジークムントの妹を」
「何故彼女をここに」
「御父様は私にジークムントをヴァルハラに連れて来るように告げたわ」
今このことを姉妹達に教えた。
「けれど私は自分の楯で彼を守ってその命に逆らったの」
「何故そんなことをしたの!?」
「どうして?」
ワルキューレ達は怪訝な顔になって問い返したのだった。
「そんなことをして」
「何を考えてるの?」
「けれど御父様は自らジークムントを倒して」
「そして貴女は何故」
「そのジークリンデを」
「私は彼女を守る為にここに来たの」
その為だというのだ。
「それでここに」
「それでなのね」
「それでここに」
「ええ、そうなの」
ブリュンヒルテは今すがるような目で姉妹達を見ていた。
「どうかこの人を」
「何てことをしたの?」
「御父様に逆らうなんて」
ワルキューレ達は彼女がしたことにその顔をさらに青くさせていた。
「そんなことをしたら本当に」
「あの嵐は荒れ狂っているわ」
黒い雲が今荒れ狂っていた。その中心に誰がいるかはもう言うまでもなかった。
「御父様が近付いてきている」
「どうするの?一体」
「御父様がこの人を見つけたら何もかもが終わるわ」
ジークリンデをその後ろに庇っている。
「ヴェルズングの血脈はもう」
「けれどどうするの?」
「その人を庇うって」
「この人を遠くに逃す為に」
ブリュンヒルテはそのすがる顔で姉妹達に告げる。
「どうか一番速い馬を」
「けれどそれは」
「御父様に逆らうことになるわ」
「そうよ。それは」
できないというのだ。彼女達は皆怯える顔になっている。
「私達まで」
「そんなことをしたら」
「ロスヴァイセ」
ブリュンヒルテは彼女にすがってきた。
「貴女の馬を」
「無理よ」
しかしロスヴァイセは首を横に振った。
「私の馬でも御父様のスレイプニルには追いつかれるわ」
「ヘルムヴィーデ」
「駄目よ」
彼女は駄目だと言った。
「私は御父様には逆らえないわ」
「グリムヒルテ!ゲルヒルデ!」
今度は彼女達に声をかける。
「貴女達は!?」
「私も。私の馬でも」
「御父様には」
「シュヴェルトライテ!ジークルーネ」
「駄目」
「私も」
二人も駄目なのだった。
「どうしてもあのスレイプニルには」
「御父様の怒りは」
「あの怒りに触れたら」
「どうにもならないわ」
「ワルトライテ、オルトリンデ」
最後の二人にも声をかける。
「貴女達もなの?」
「御免なさい」
「私達も」
彼女達も顔を俯けさせた。
「どうしてもそれは」
「御免なさい」
こう言うだけだった。姉妹達は誰も助けられなかった。
「そんな。それじゃあ」
「いいのです」
ジークリンデが困り果てた顔になったブリュンヒルテに告げてきた。
「私の為に苦しまなくても」
「いえ、貴女は」
「私は死ぬべきでした」
自分に顔を向けてきたブリュンヒルテに俯いて述べるのだった。
「あの場所でお兄様と共に」
「いえ、それは違うわ」
ブリュンヒルテは今の彼女の言葉を打ち消した。
「貴女は生きないと」
「けれどもう私は」
何もかもを捨て去った顔だった。今の彼女は。
「何もかもが」
「いえ、貴女は生きないと駄目なのです」
だがブリュンヒルテはこう彼女に言うのであった。
「何があろうとも」
「何があろうとも」
「貴女に宿った命の為に」
こう言うのだった。
「どうか。生きて下さい」
「命・・・・・・」
「そうです」
それだというのだ。
「貴女とあの戦士の子です」
「あの人との子が私の中に」
「だから生きて下さい」
だから生きろというのだった。
「どうかここは」
「子供の為にも」
「どうか。だから」
ブリュンヒルテも必死だった。
「生きて下さい」
「わかったわ、ブリュンヒルテ」
「もう私達も」
今の二人の言葉を聞いてだった。他のワルキューレ達も遂に意を決した。そのうえで二人に対してそれぞれ告げるのであった。
「その人を逃がして」
「早く」
「皆・・・・・・」
「その人だけは逃がせるわね」
「そうよね」
こう告げるのであった。それぞれ。
「だったらすぐに」
「今すぐに」
「私はここに残ります」
ブリュンヒルテは今もジークリンデの前に立っている。そのうえでの言葉だ。
「その間に貴女は」
「貴女は一体」
「ここで御父様の怒りを引き受けます」
彼女もまた覚悟を決めていた。毅然とした顔であった。
「貴女はその間に」
「有り難うございます」
「東へ行って」
「そうよ、そこよ」
「そこが一番いいわ」
ワルキューレ達はジークリンデに対して告げた。
「そこには森があるわ」
「ファフナーがいる森が」
「あそこね」
ブリュンヒルテにもその森が何処なのかわかった。
「あの森なのね」
「ええ、あそこよ」
「あの巨人が竜に姿を変えて指輪を守っているわ」
「けれどあそこは」
ブリュンヒルテはその森のことを聞くうちに顔を曇らせてしまった。そのうえで言うのだった。
「女の人にとっては」
「けれどあそこなら」
「御父様でも」
「あの竜には誰も近寄れないから」
神でさえもということだった。
「だからあの森しかないわ」
「そうよ」
「それに」
また空を見る。するとだった。
「あの雲はもうすぐそこまで」
「だから急いで」
「わかったわ」
ブリュンヒルテはそれを見て意を決したのだった。そのうえでジークリンデに再びその顔を向けて告げた。
「東に逃げて下さい」
「東にですね」
「そうです」
こう彼女に告げるのだった。
「勇気を出して耐えれば苦難に耐えることができます。あらゆる災厄に耐えて下さい」
「災厄に」
「そうです」
その言葉は変わらなかった。
「どして貴女の中にいる」
「私の中にいる」
「もっとも高貴なる英雄を生まれさせるのです」
こう彼女に告げるのであった。
「そしてこの剣の破片を」
「それはまさか」
「そう、ノートゥングです」
今は壊れてしまったその剣をジークリンデの前に見せたのだった。それは今は確かに壊れている。だが紛れもなくノートゥングだった。
「これを持って逃れて下さい」
「わかりました」
「そして生まれてくる子供は」
その子のことも話した。
「ジークフリートと名付けて下さい」
「ジークフリート・・・・・・」
「そう、ジークフリートです」
それがその英雄の名前だというのだった。
「それこそが勝利を喜ぶ人です」
「それでは私はこれから」
「早く」
行くように急かした。
「今ここに」
「はい、有り難うございます」
今ジークリンデはその東に向かった。
「では」
「さようなら」
二人は最後に微笑み合った。そのうえで別れる。ジークリンデが逃げ去ったその後で遂にヴォータンが姿を現わしたのであった。
「ブリュンヒルテ、いるな!」
「来たわ!」
「御父様が!」
ワルキューレ達はその声を見てまたその顔を蒼白にさせた。
「隠れてブリュンヒルテ!」
「早く!」
「私達の中に!」
すぐに彼女を取り囲んでしまい隠したのだった。
「これで何とか」
「隠せたわ」
「何処だ、何処にいる!」
ヴォータンはワルキューレ達のところに来た。そのうえで彼女達に問うのだった。
「いるな、ここに!」
「一体何が」
「何があったのですか?」
「誤魔化すことは許さん!」
右手の槍をワルキューレ達に突きつけての言葉だった。
「ブリュンヒルテは何処だ!」
「彼女は私達のところにです」
「ですがここはどうか」
「お怒りを鎮めて下さい」
彼女達も決意していたのだ。何としても姉妹を守ろうと。だから必死にヴォータンに対して告げるのだった。
「御願いです」
「是非共」
「御前達は勇敢で堅固な心を持っている」
ヴォータンはその娘達に対して告げた。
「その様なことを言う筈ではないな」
「ですが」
「どうかここは」
「ブリュンヒルテは神の命に逆らった」
だがヴォータンの言葉は変わらない。
「このわしのだ。その罪は逃れられないのだ」
「ですが御父様の娘です」
「私達と同じ」
「だからこそだ」
だからだとも言うヴォータンだった。
「許されることではないのだ。出て来るのだ」
「それでも」
「敢えて」
「出て来るのだ」
ヴォータンの言葉は有無を言わせぬものだった。
「ここにな。出て来るのだ」
「わかりました」
それに応えてだった。ワルキューレの中から声がした。
「それでは。私は」
「駄目よ!」
「出てはいけないわ!」
ワルキューレ達は自分の輪の中に顔を向けて叫んだ。
「今出て来ては貴女は!」
「それでもう」
「いえ、私は逃げないと決めたから」
先程ジークリンデに告げた言葉そのものだった。
「だから。もう」
「そんな・・・・・・」
「それじゃあもう」
「これで宜しいのですね」
ブリュンヒルテは父と対した。嘆く姉妹達を後ろにして。
「御父様」
「御前の罪を償わせる」
ヴォータンは厳かな声でそのブリュンヒルテに告げたのだった。
「いいな」
「私の積荷対してですね」
「わしに逆らいあの男を守り」
そのことに他ならなかった。
「そして運命を運ぶのではなく」
「はい」
「運命を選んだ」
このことも言うのだった。
「御前自身が英雄を鼓舞した。既に御前はワルキューレではないのだ」
「ワルキューレではない」
「そうだ。最早ヴァルハラの使いではない」
そうだというのである。
「御前はもうな」
「そんな、ずっと九人だったのに」
「私達は九人なのに」
ワルキューレ達にとってそれは受け入れられないことだった。ヴォータンがブリュンヒルテに告げた宣告にただおろおろするばかりだった。
「それでこんな」
「何と恐ろしいこと」
「私は神ではなくなる」
「そうだ」
またブリュンヒルテに告げるヴォータンだった。
「その通りだ。いいな」
「神ではなくなる。私が」
「あの岩山の上にだ」
東のさらに彼方にあると奥の岩山を右手の槍で指し示した。
「あの上に御前を呪縛する」
「あの岩山に私を」
「そこで人の男に御前を授けることになる」
「そんな、ブリュンヒルテが人のものになるなんて」
「何て恐ろしいこと」
このこともまたワルキューレ達にはとてつもなく恐ろしいことだった。何故なら彼女達もまた神に他ならない存在であるからだ。人ではないのだ。
「その様な恐ろしいことを」
「されるというのですか」
「これが報いだ」
しかしヴォータンは彼女達に対しても返す。
「この娘へのな」
「神でなくなるだけでなく」
「人のものになることが」
「わかったなら去れ」
そして八人の娘達に対して告げたのだった。
「去れ。この場からな」
「去れと」
「ブリュンヒルテの前から」
「そうだ」
まさしくそれだというのである。
「御前達は去れ。いいな」
「ブリュンヒルテ・・・・・・」
「もう私達は」
「ええ」
お互いに向かい合い泣き濡れていた。
「これでお別れね」
「永遠に」
「さようなら、気高い姉妹よ」
こう言い合って別れるしかなかった。ワルキューレ達が去り残ったのは二人だけだった。そのブリュンヒルテが父に対して言ってきたのだった。
「御父様」
「何だ?」
「私の罪はそれだけ深いものなのでしょうか」
正面からその父を見ての言葉だった。
「それはそれだけ恥ずべきことだったのでしょうか」
「恥か」
「そうです」
項垂れていなかった。恐れてもいなかった。昂然として顔をあげている。それはまさに嵐の神の娘に相応しい見事な態度であった。
「全ての名誉を奪われ不名誉を受ける程。それだけ重い罪なのでしょうか」
「それは御前自身に聞くのだ」
ヴォータンもまた昂然として娘に返した。
「御前の罪をだ」
「私は貴方のいいつけをしたのです」
「ヴェルズングの味方になれと」
ヴォータンはまた告げた。
「わしは命じたか」
「戦場を支配する者としての貴方は」
ブリュンヒルテは既にヴォータンの本当の考えはわかっていた。
「そのように命じられました」
「だがわしはそれを翻した」
ヴォータンは己の真意を隠していた。
「違うか」
「義母様が貴方の心と違い貴方がそれに従われた時」
あの夫婦での言い争いのことである。
「貴方は貴方御自身の敵となられました」
「わしは御前がわしを理解したと考えていた」
ここでも真意を隠すヴォータンだった。
「だが御前はわしを臆病で愚かと考えた。違うか」
「はい、違います」
「では御前がわしの怒りを受けるに値しなければ」
「どうだと仰るのですか」
「御前の反逆を罰する必要はなかった」
「私は知っていました」
それでもブリュンヒルテは言うのだった。
「貴方がヴェルズングを愛されていることを」
「知っていたというのか」
「そうです」
知っていると、はっきり答えたのだった。
「そしてそれを忘れようとするその心の葛藤も」
「どうだというのだ」
「知っていました」
また知っていると告げるブリュンヒルテだった。
「ですが貴方はその愛と違ったことをしなければなりませんでした」
「それは戯言だ」
「いえ、戯言ではありません」
それもわかっているからこそ言える言葉だった。
「貴方御自身がジークムントへの加護を求められたのです」
「それで御前は助けようとしたのか」
「そうです。そして」
「そして。何だ」
「私は一つのことを忘れませんでした」
こう言うのだった。
「彼に背を向けたのは止むを得ない事態のせいだったと」
「それによるというのだな」
「そうです、貴方の背中を守る私だけが貴方も見ることができなかったことを」
「見たというのだな」
「はい」
父の言葉にこくりと頷いてみせた。
「そのうえでジークムントと会い」
「どうしたのだ?」
「彼の前に現われ死を告げその目を見て言葉を聞き」
言い続けていく。
「英雄の聖なる危機を知りました」
「ジークムントのか」
「はい。勇者の嘆きが耳を打ち愛の恐ろしい苦しみと心の力強い犯行を聞いたのです」
そのジークムントと会った時のことも話すのだった。
「それが私の目と耳に届き」
その言葉は続く。
「胸は痛み聖なるおののきを感じたのです」
「それで裏切ったのか」
「裏切ったのではありません」
それも否定するブリュンヒルテだった。
「私は彼のために。ジークムントと運命を共にすることこそが」
「御前の運命だというのだな」
「そう感じました。そのことを私に教えた人」
ブリュンヒルテは言う。
「ヴェルズングと私を合わせたその愛」
「愛か」
「この人の真心に忠実でありたいと」
彼女は言った。
「私は貴方の命を拒んだのです」
「わしがやりたいことをやったというのか」
ヴォータンの目が鋭くなる。
「予測する事態がわしにそれをさせまいとしたことを」
言葉を続けていく。
「燃えるような痛みが我が心を打ち砕き厭うべき苦しみがわしに憤怒を湧かせる時」
「その時は」
「喜びがそう容易くわしの心に起こると思うのか」
こうブリュンヒルテに問うのだった。
「ある別の世界の為に苦痛にあえぐ心の中で愛の泉は一つの世界を救う為に塞がれているのだ」
「一つの世界を」
「己に逆らい傷つけ振り向きそのうえで無力を自覚する苦痛」
彼は言うのであった。
「怒りに燃えて立ち上がった時焦土の希望の荒れ狂う欲望が」
「御父様御自身を」
「そうだ。わしの心を激しく駆り立て」
こう述べていく。
「自分自身の世界の瓦礫の中で我が永遠の苦しみを終わらせようとしたのだ」
「そうだったのですか」
「だが御前は」
ここまで話したうえでブリュンヒルテに告げた。
「甘美な喜びに浸り快い感動に陶然と身を委ね」
「私がそれに」
「微笑みつつ愛の美酒を飲み干したのだ」
「美酒をですか」
「わしが苛むばかりの苦渋を神の苦しみとして飲まなければならない時に」
じっと娘を見続けての言葉だった。
「御前の軽はずみな心を御前自身が導くのだ。しかし」
「しかし?」
「御前はわしから離れた」
また娘に告げたのだった。
「わしは御前を避けなければならん。これから永遠にだ」
「永遠に。しかし」
「しかし?」
「私は確かに貴方を理解しませんでした」
そこまで深くはということだった。今の言葉は。
「私自身の忠告が唯一のことを告げたのです」
「唯一のだと」
「そうです。貴方が愛したものを愛せと」
じっとヴォータンを見続けている。
「私が貴方の前から去りそぬえで貴方自身の半身を御自身で離されるのなら」
「わし自身の半身を」
「かつて彼女の全てが貴方のものであったことを忘れないで下さい」
「・・・・・・・・・」
「永遠に貴方の一部であるもの、その貴方の名誉を汚したこの女を」
沈黙するヴォータンにさらに語る。
「私を貶めないで欲しいのです」
「だが御前は喜んで愛の力に従った」
ヴォータンはここでも己の真意を隠していた。ここでもだった。
「御前が愛さねばならぬ者に従えばいい」
「私自身が」
「そうだ」
「では私はどういった者に」
「御前が選ぶ権利はない」
今は突き放してみせたのだった。
「全くな」
「ですが貴方は」
必死の顔で娘に告げる父だった。
「高貴な一族を作られました」
「ヴェルズングのことか」
「そうです、あの一族からは臆病者は出ません」
そのことは彼女もヴォータンもよく知っていたのだった。
「ジークムントもヴェルズングから出たではありませんか」
「あの一族のことは話すな」
だがヴォータンはまた彼女の言葉を拒んだのだった。
「御前から去ったわしはあの一族からも去るのだ」
「ヴェルズングからも」
「そうだ。そして」
言葉に微かに忌々しげなものが宿った。
「あの一族は最早滅びるしかないのだ」
「いえ」
しかしそれでも。ブリュンヒルテは首を横に振るのだった。
「貴方から引き裂かれたその人こそがです」
「何だ!?」
「一族を助けたのです」
「ジークリンデがか」
「そうです。あの人は今英雄を宿しています」
ヴォータンに必死の顔で告げる。
「あの人は如何なる女性も感じたことはない程苦しみ嘆きつつ」
その顔で父に告げていく。
「その宿している子を産むでしょう」
「その女の保護をわしに求めるのか」
「いいえ」
それは否定するブリュンヒルテだった。
「貴方がジークムントの為に作ったあの剣」
「ノートゥングか」
「そうです」
まさにそれだというのだ。
「彼女はそれを持っています」
「わしはあの剣を折った」
他ならぬ自分自身がしたことだ。
「わしは己の決意を変えない。御前の上に架かるその運命を受けよ」
「私に」
「わしにそれを選ぶことができない」
言葉が次第に苦いものになっていく。
「わしから離れた女から離れるのだ。そしてわしは」
「御父様は」
「その女の望むことを知ってはならぬのだ。ただ罰せられるところだけを見るだけだ」
「では私に対して何を」
「御前を深い眠りに閉じ込める」
このことを告げるのだった。
「護りなき女を目覚めさせた男がだ」
「その男だ」
「そうだ、御前を妻とするのだ」
「それならせめて」
ビリュンヒルテはまた必死にヴォータンに告げた。
「ただ一つ御聞き下さい」
「何をダ」
「眠るその私をです」
自分自身のことを指し示しての言葉だ。
「何人も恐れさせるもので御護り下さい」
「何人もか」
「そうです。それで」
護って欲しいというのである。
「恐れを知らず最も自由な英雄だけが」
「御前を妻とするのだな」
「この岩山に私を見出せるように」
右手を己の胸にやっての言葉である。
「どうかそれだけを」
「せよというのかわしに」
「それだけは。どうか御願いします」
その時だった。ヴォータンの目に何かが見えた。だがそれはブリュンヒルテには見えなかった。しかしここで彼は言うのだった。
「今思い出したが」
「何をですか?」
「ローゲは御前と親しかったな」
「ローゲ様ですか」
「確かそうだったな」
このことをブリュンヒルテに問うてきたのだ。
「はい、そうですが」
「思い出した、それを」
「他の方や姉妹達はあの方を好いてはおられませんでしたが」
「あれと仲がよかったのはわしと」
まずはヴォータンだった。彼にとってローゲはまさに助手だったのだ。
「そして御前だけだった」
「色々と思うところがあったようで今はおられませんが」
「それも仕方ないことなのだろう」
今はそのローゲの側に立って言うヴォータンだった。
「だがわしは今決めた」
「それで何をですか?」
「御前ならばあれも戻ってくれよう」
こう言うのだった。
「では眠るのだ」
「御父様、それでは」
「御前は一人の英雄の妻となる」
これまで以上に優しい言葉だた。
「今それを告げよう」
「有り難うございます、それでは」
「眠るのだ」
安堵した娘にまた告げた。
「そしてさらば」
「はい」
「勇気ある輝かしき娘よ」
娘に告げ続ける。
「我が心の聖なる誇りよ、御前と別れの時が来たのだ」
「もうこれで」
「わしの愛の言葉も挨拶も許されん。最早共に並んで馬を駆ることも蜜の酒を御前から受けることもなくなった。愛した御前を失わなければならん、しかしだ」
「しかし?」
「花嫁の炎が御前の為に燃え上がる」
こう告げるのであった。
「どの様な花嫁も得たことのない程の炎を」
「その炎が私を」
「そうだ。今それが御前を包み」
彼は言う。
「弱い者を退ける」
「有り難うございます、それでは私は」
「神たるわしよりもさらに自由である者が御前を手に入れるのだ」
そして最後に娘をいとおしげに見て言うのだった。
「輝く二つの目よ、わしはそれに愛をもって微笑みかけ」
その手に触れる。最後に。
「戦いの喜びをもって口付けをしその言葉を聞いた。それも終わりだ」
「もうこれで」
「わしに希望を与え不安を消し去ってくれたその瞳にも別れ新たな男に与えよう」
まさに花嫁への言葉だった。
「こうして神は御前から去る。父もまた」
「さようなら。永遠に」
「眠れ」
静かに告げた。ブリュンヒルテはその場に横たわる。そのまま槍と楯を横に眠りだす。その娘の前に立ちヴォータンはその槍をゆるりと回した。
すると槍に炎が宿る。炎は槍の動きに合わせてブリュンヒルテを包み込んだ。ヴォータンはその炎に対して厳かに告げるのだった。
「ローゲよ、聞け」
その炎への言葉だった。
「わしが御前に会った時御前は燃え上がる炎だった」
このことを炎に告げるのだった。
「そしてわしの前から去る時は彷徨う炎だった。そして今」
言葉を続けていく。
「御前と共にあった時の様に今御前をここに呼び出す」
ローゲの姿ではない。炎だ。その炎に言っていくのだった。
「揺らぐ炎よ燃え上がれ、そしてブリュンヒルテを覆え」
槍を巡らせながらこう告げていく。
「御前が大事に思っていたブリュンヒルテを気高き英雄に与え祝福する為に」
炎が完全にブリュンヒルテを包み込みヴォータンの前からも消えた。彼は見えなくなった娘をまだ見つつローゲの紅蓮の光をその身に受けながら。最後に言った。
「我が槍の穂先を恐れる者、この炎を越えることなかれ!」
この言葉を述べると炎に背を向けた。そうしてそのまま去るのだった。
ワルキューレ 完
2009・9・2
聞いた事のある名前が出てきたな。
美姫 「未来に生まれるであろう英雄って所かしら」
そして、眠りにつくブリュンヒルテ。
美姫 「どうなるかしらね」
楽しみだな。次はどんな話になるんだろう。
美姫 「次回も楽しみにしてますね」
待ってます。