『売られた花嫁』




         第三幕  最後は幸福に


 イェニークのことはすぐに村中に広まった。それを聞いて憤りを覚えない者はいなかった。
「とんでもない話だな」
「全くだ」
「マジェンカが気の毒だ」
 彼等は口々にそう言い合う。だがその中で一人別のことを考えている者がいた。
「どうなるのかなあ」
 ヴァシェクは自分のことだけを考えていた。そして一人溜息をついていた。
「母さんも父さんも反対するに決まってるし。僕に味方はいないのかな」
「あら、ヴァシェクじゃない」
 そこに黒い髪の小柄な女性がやって来た。赤い民族衣装に身を包んでいる。その顔立ちは如何にも利発そうで可愛らしいものであった。美人ではなかったがよい印象を受ける顔であった。
「あ、先生」
「どうしたの、こんなところで」
 黒い翡翠の様な目で彼を見上げる。ヴァシェクはそれだけで胸の鼓動が高まるのを感じていた。この黒い髪と目の女性がエスメラダである。ヴァシェクの想う人である。
「ちょ、ちょっと考えていまして」
「何を考えていたのかしら。言ってみて」
「けど」
 だがヴァシェクは口篭もってしまっていた。
「先生にはあまり関係のないことですし」
「私には関係のないこと」
「は、はい」
 彼はそう言って誤魔化した。
「そうなの。何だかわからないけれど」
 それ以上聞こうとはしなかった。気にはなったがとりたてて聞くまでもないと思ったからだ。
「まあいいわ。それじゃあね」
「はい」
「それにしても。私も早く身を固めたいわ」
 そう言いながらエスメラダは何処かへ行ってしまった。ヴァシェクはその後ろ姿を見送り一人溜息をついた。
「ああ」
 そして側にあった切り株の上に腰掛ける。それからまた溜息をついた。
「はっきり言えたらなあ。どうして言えないんだろう」
 彼にとってそれがッ最大の悩みであり苦しみであった。
「何とかしたいけれど。何にもできないな」
 困っていた。だがそんな彼を神は決して見捨ててはいなかった。
「あれか」
 それを遠くから見る一つの影があった。
「話には聞いていたけれどあまり活発そうじゃないな。どうやら噂通りみたいだ」
「先生に何とか告白したいけれど」
「先生?ははあ」
 その影はそれを聞いてその先生が誰かすぐにわかった。
「あの人か。何だ、あいつはあいつで困っていたのか」
 影はそれに気付いてにんまりと笑った。
「これは好都合だ。あいつを先生と一緒にさせればさらにいい」
「けれどどうやって先生と一緒になろうか」
「そんなのは簡単だな」
「ああ、どうすれば」
「頭は抱える為にあるんじゃないさ。考える為にあるんだ」
 そう言うとヴァシェクの前に出て来た。黒い上着と白いズボンの若者であった。
「君は?」
「僕かい?この村の者さ」
「そうだったの。はじめまして」
「はじめまして。ところで君はヴァシェク君っていうんだね」
「はい」
 ヴァシェクは答えた。
「ミーハさんとこの娘さんと結婚する予定らしいね」
「ええ」
 それにも素直に答えた。なお素直さは時として命取りにもなる。
「けれどあまり嬉しそうじゃないね。どうしてだい?」
「それは」
 彼はここで口ごもった。
「エスメラダ先生と結婚したんだろ、本当は」
「えっ」
 思っていたことを言われてギョッとした。
「何でそれを」
「わかるさ。君の顔に書いてあるから」
「僕の顔に」
「そうさ。君は結婚したいんだろ、先生と」
「はい」
「けれどそれはお父さんとお母さんが反対するから言えないんだな」
「わかりますか」
「わかるさ。僕は君のお父さんとお母さんも知っているからね」
 お母さんと言ったところで彼の顔が一瞬だが歪んだ。しかしヴァシェクはそれには気付かなかった。一瞬であったしぼんやりとした彼には気付かないことであったからだ。
「それでも本音じゃ何とかしたいだろ」
「はい」
「けれどどうしたらいいかわからない。違うかな」
「どうしてそんなことまでわかるんですか?」
「僕は何でも知っているのさ」
 若者はにこりと笑ってそう答えた。
「何でもね」
「まるで嘘みたいだ」
「嘘じゃないさ。僕は君に対しては嘘はつかないよ」
「本当ですか?」
「ああ。だから僕の言うことをよく聞いてね」
「はい」
 ヴァシェクは頷いた。
「お願いします。どうしたら先生と一緒になれますか?」
「それはね。ケツァルさんがいるね」
「結婚仲介人の」
「彼に言うんだ。この村の娘さんと結婚するって」
「けどそれじゃあわからないんじゃ」
「わかっていないね。この村の娘さんだよ?」
「それが何故」
「君はマジェンカと結婚する予定だね」
「はい」
「マジェンカはこの村の娘さんだね」
「ええ、そうですけど」
「そしてエスメラダ先生も。この村の生まれだよね」
「あっ」
 そこまで言われてようやく気付いた。イェニークはそれを見て心の中で思った。
(やはりとろいな)
 しかしそれは心の中だけであった。外見上は冷静にそのまま言葉を続ける。
「これでいいんだ。後は先生をどう納得させるかだけれど」
「それはどうすればいいですか?」
「またケツァルさんにお願いしよう」
「ケツァルさんに」
「そう。あの人にエスメラダ先生のことを頼むんだ。確かあの人もそろそろ身を固めたいと思っていた筈だし」
「都合がいいですね」
「人間の世界ってやつはね、神様に都合よくできているのさ」
 イェニークの言葉は少しシニカルであった。
「要は神様がどう考えて何をしたいのか、それをわかっていればいいんだよ」
「そうなのですか」
「そうさ。じゃあいいかい」
「はい」
「先生にはね、こう言ってもらうんだ。この村で自分を真剣に愛してくれる若者と結婚したい、とね」
「自分を真剣に愛してくれる若者」
「それは君のことさ。これでわかったね」
「成程、そういうことだったのですか」
「そうさ。まあそっちはそれで大丈夫かな」
「はい、有り難うございます」
「ちょっと待った」
 だがイェニークはここでヴァシェクを呼び止めた。
「ケツァルさんにはね、いい話があるって言って切り出すんだよ」
「いい話が」
「そうさ。あの先生はお金が好きだから。儲け話には飛びついてくるよ」
「本当に貴方は何でも知っているんですね」
 ヴァシェクは思わず感嘆の声を漏らした。
「素晴らしいです。どうしてそんなに」
「色々とあったからね」
 ここでまた表情が一瞬曇った。だがヴァシェクはそれには気付きはしない。
「色々と」
「うん。まあそれは君には関係ないことさ」
「そうですか」
「だから気にしなくていいよ。それより」
「はい」
「後肝心なのはマジェンカのことだけれど」
「マジェンカ」
 それを聞いたヴァシェクの表情が一変した。イェニークもそれに気付いた。
「どうしたんだい?」
「彼女とだけは嫌です」
「何かあったのか」
「あったと何もとんでもない女の子らしいですね」
「とんでもない」
「はい。我が儘で浮気者だとか。僕そんな人と一緒にはなりたくはないです」
「おやおや」
 話を聞きながら好都合だと思った。だが彼はここで別のことを考えていた。
(誰かに吹き込まれたのかな)
「ねえ」
 彼はヴァシェクに尋ねた。
「そのマジェンカのことは誰から聞いたのかな」
「誰から」
「うん。何かとんでもない娘みたいだけれど」
「可愛らしい娘さんからです」
「可愛らしい娘さんから」
「はい。小柄で青い目に金色の髪の。ぽっちゃりとしていました」
(ああ、彼女か)
 イェニークにはすぐに見当がついた。
(向こうも向こうで動いていたか)
 それがわかり内心ほくそ笑んだ。中々面白いことになっていると思った。
「その娘に言われたんだね」
「ええ。それは本当でしょうか」
(何と答えようかな)
 ヴァシェクを見ながら考える。彼は如何にも不安そうにしている。それを見て決めた。
「その通りさ」
 ここは彼女の言う通りにした。
「そうなんですか」
「そうさ、だから絶対に止めた方がいい」
「絶対に」
「彼女と結婚したら君は不幸になる」
「不幸に」
「人生は滅茶苦茶になってしまう」
「そんなに」
「そうさ。だから彼女との結婚は絶対に止めた方がいい。わかったね」
「は、はい」
 真っ青になってそれに頷く。ぶんぶんと首を急かしく縦に振る。
「これでわかったね。君はエスメラダ先生と結婚するべきだ」
「はい」
「間違ってもマジェンカと結婚しちゃ駄目だよ。いいね」
「わかりました」
「それならよし。じゃあ行ってくれ」
「何処に」
「ケツァルさんのところだよ。すぐに行った方がいい」
「わかりました」
 こうしてヴァシェクもすぐに姿を消した。行く先は決まっていた。イェニークは彼を見送って一人ほくそ笑んでいた。
「これで手は全て打ったかな」
 しかしまだやるべきことはあった。そして彼は動いた。
「最後はやっぱり彼女を何とかしないとな」
 そう言いながら彼も何処かへ去った。後には誰も残ってはいなかった。次の騒ぎの前置きであるかのように沈黙がそこを支配していた。
 
 ケツァルに話をしエスメラダにそう言ってもらったヴァシェクはまた一人ぼんやりと考えていた。
「これで僕と先生は結婚できるのかなあ」
 そう思うと嬉しいがやはり不安はあった。
「できたらいいけれど」
 もしできなかったならば、そう思うと不安で仕方ないのである。
 それでも考えずにはいられない。そこへケツァルがやって来た。
「ヴァシェク君、ここにいたか」
「あ、ケツァルさん」
 彼はケツァルに顔を向けた。
「どうしてここに」
「どうしてって君を探していたんだよ」
 彼はそう答えた。
「僕をですか」
「そうさ。まずはエスメラダ先生だけれど」
「はい」
「この村で自分を真剣に愛してくれている人と結婚するそうだ。快く承諾してくれたよ」
「本当ですか!?」
「ああ。そして君のことだけれど」
「はい」
「この村の娘さんと結婚するんだね」
「はい」
 ヴァシェクはそれに頷いた。
「間違いありません、その通りです」
「ふむ、ならいい」
 彼はそれを聞いて納得した。
「何か引っ掛かるが」
「気のせいですよ」
 慌ててそう返す。
「そうかな」
「そ、そうです」
 さらに慌てて言い繕う。
「だから気になさらないで」
「だといいけれどね」
 半信半疑ながらとりあえずは納得することにした。そして話を進めることにした。
「あの娘がこの村の娘であることには変わりないしな」
「ええ」
「じゃあこれにサインをお願いできるかな」
 そして懐から新しい契約書を出した。そこにはヴァシェクがこの村の娘と結婚すると書いてあった。クルシナの娘ではなくなっていた。だがミーハの息子の部分だけは同じであった。
「いいかい」
「はい」
「おお、そこにいたのか」
 しかしここで地味だがパリッとした民族衣装に身を包んだ中年の男女が姿を現わした。見れば男は何処かヴァシェクに似た顔をしていて髪はイェニークのものと同じ色であった。女の方は髪と目の色がヴァシェクと同じであった。
「あ、お父さんお母さん」
 ヴァシェクは二人を見てそう言った。
「どうしてここに?」
「どうしてって探したんだぞ」
 二人はとぼけた様子のヴァシェクに対してそう言葉を返した。
「一体何処に言っていたのか。心配したんだ」
「そうだったの」
 ヴァシェクはそれを聞いて申し訳なさそうな顔になった。
「御免なさい、心配かけたね」
「わかればいいんだけれどな」
「結婚するんだから。もう少ししっかりして欲しいわね」
「いや、ミーハさんハータさん」
 だがケツァルはそんな二人を安心させるように穏やかな声で二人の名を呼んだ。
「何か」
「御心配には及びませんよ。私がヴァシェク君についておりますから」
 そう言って胸を張った。次にその胸を左の拳でドンと叩く。
「そうですか」
「はい、ヴァシェク君は絶対にマジェンカさんと結婚できますよ」
「マジェンカと」
 それを聞いたヴァシェクの顔が青くなった。
「そうなったら僕は不幸に」
「何かあったのかい?」
 ケツァルだけでなく彼の両親もそんな彼を見て心配になった。
「何かあればお言いよ」
 ハータは特に心配そうであった。母親であるが為か。
「う、うん」
「御前には絶対に幸せになって欲しいからね」
「幸せに」
「そうさ。だからしっかりしておくれ。いいな」
「うん」
 ヴァシェクは母親に言われながらもその顔を青くさせたままであった。だがここで先程の若者と新しい契約書のことを思い出した。そしてその青い顔を元に戻した。
「わかったよ。僕幸せになる」
「そう、そうなっておくれ」
 ハータはそれを聞いてようやくほっとしたようであった。
「そうでなければ困るから」
「善人は幸せにならなければなりません」
 ここでケツァルはこう言った。
「ヴァシェク君、だから君は幸せになるんだよ」
「なれますか」
「神様がそうしてくれるさ」
「間違いないですね」
 彼は急に元気になってそう問うてきた。ケツァルはそれに少し面食らいながらも言葉を返した。
「勿論だよ」
「そうか、なら大丈夫ですね」
「少なくとも君にはね」
「はい。じゃあ僕は結婚します」
「うん」
「この村の娘と。そして幸せになります」
 ここで彼は村の娘とだけ言った。ケツァルもミーハもハータもそれはマジェンカのこととばかり思っていた。だがそれは果たしてどうなのか。彼等はよく考えてはいなかった。
 
「なあマジェンカ」
 マジェンカの家の前でクルシナとルドミラがマジェンカに話をしていた。わりかし立派な家である大きく、しかも新しかった。煉瓦の家であり小屋に水車もあった。
「信じてくれないか」
「どうして信じられるのよ」
 マジェンカはむくれた顔で両親にそう言葉を返した。
「お父さんもお母さんも嘘を言っているのよ」
「嘘だと思うのかい?」
 ルドミラが娘にそう尋ねた。
「親が娘を騙すとでも思うのかい?」
「わし等が御前に一度でも嘘をついたことがあるか?」
「うう」
 その通りであった。二人は村でも正直者として通っている。マジェンカに対してもそうであった。彼女は両親が嘘をついたことを見たことも聞いたこともなかった。
「確かにそうだけれど」
「ならわかるな」
「いえ」
 しかし首を横に振った。
「それでも信じられないわ」
「どうしてなんだい」
「わしはこの目と耳で確かめているのだぞ」
「それはわかるけれど」
 マジェンカは戸惑いながら言った。
「それでもどうしても信じられないの」
「わし等の言うことでもか」
「だって」
 マジェンカはまた言った。
「イェニークが私を売ったなんて。それもお金で」
「しかし本当のことなんだよ」
「彼はお金にはあまり執着していないわよ」
「しかしだな」
「いつも頭を少し使えば手に入れられるって言ってるし」
「頭を使えば、だな」
「ええ」
 マジェンカは父の言葉に頷いた。
「いつも言っているわよ。それが何かあるの?」
「それだ」
 クルシナはその言葉を指摘してきた。
「頭を使えば、と言ったな」
「ええ、確かに」
「それなんだ。あいつは悪知恵を使ったんだ」
「悪知恵を?」
「そうさ。それで御前を売ったんだ。金を手に入れる為にな」
「まさか」
「しかし本当だとしたら?」
「そんな筈ないわ」
 狼狽しながらもそう答える。
「だって彼は」
「わしの目と耳が証人だ」
「お父さんの言葉を疑うのかい?」
「そんなことはないけれど」 
 マジェンカの顔が次第に困ったものになってきた。暗い雲が覆いはじめていた。
「けれど」
「否定しきれるか?」
「・・・・・・・・・」
 マジェンカは遂に答えられなくなってしまった。父が嘘をついているとは思えないからだ。
「な、わかったろ」
 クルシナはここで娘に対して言った。
「御前は売られたんだ、あいつに。裏切られたんだ」
「もうあんな男のことは忘れておしまい。それが御前の為なんだよ」
「そうなの」
「そうさ。いいね、マジェンカ」
 ルドミラの声がさらに不安に覆われていく。
「大人しくミーハさんの息子さんと結婚しなさい。少なくとも御前を騙したりはしないから」
「私を騙すなんて」
「もう一度言うぞ」
 クルシナの声が険しくなった。
「私が御前に嘘をついたことがあるか!?」
「・・・・・・いえ」
 頷いた。遂にそれを認めたのであった。
「お父さんが私に嘘をつくなんて。考えられないわ」
「そういうことだ」
「マジェンカ、わかったね?」
「・・・・・・ええ」
 母の言葉にも頷いた。
「よく考えてみる。それで結論を出すわ」
「そうだ、それがいい」
「本当によくお考えよ。人間ってのは心が一番大事なんだから」
「心」
 マジェンカは呟いた。二人は彼女を一人にした。よく考えさせる為であった。
 一人になった。そして考えようとしたができなかった。かわりに涙だけが零れてきた。
「こんな・・・・・・」
 その青い目から大粒の銀の涙が零れる。
「こんなことって・・・・・・」
 信じられなかった。だが嘘ではない。それがわかっているからこそ辛かったのであった。
 泣いていた。悲しかった。これ程悲しかったことはこれまでなかったことであった。
 涙が止まらない。それでも何とか考えられるようになった。しかしそれでも信じられなかったのである。
「嘘よ、イェニークが」
 彼が自分を売る筈がないとまだ思っていたのであった。
「彼から直接話を聞かないと。何もわからないわ」
 だが何処にいるのか。それすらもわからなかった。
 何とかしたい、だができない。そのジレンマが彼女を苦しめていた。
「彼がいなくなるだけでも耐えられないのに。そんなことが信じられる筈もないのに」
 言葉を続ける。
「二人なら何処にいても平気なのに。私は夢を見ているの?恋の薔薇が散ってしまったの?一体何が起こったというの?私を不幸が覆っているの?これはどういうことなの?」
 混乱してきた。それでも涙は零れ続ける。それでもう服が濡れそぼってしまっていた。
 彼女は何処かへ去った。真実を知る為に。その真実が残酷なものであるかどうかはもう考えることができなくなっていたのだが。
 そしてイェニークを見つけた。彼は教会の側の酒屋で一人黒ビールとソーセージを楽しんでいたのであった。彼がどういった時にそれを口にするのか彼女も知っていた。
「やあマジェンカ」
 彼は今の彼女が何を思っているのか知らないのか軽やかに声をかけてきた。
「どうしたの、そんなに焦って」
「焦ってなんかいないわ」
 マジェンカは憔悴した顔で彼にそう答えた。
「イェニーク、話は聞いたわ」
「話!?」
「とぼけないで。三〇〇グルデンのことよ」
「ああ、あれか」
「!!」
 それを聞いて真実だとわかった。彼女の顔が割れんばかりに壊れた。
「本当だったの・・・・・・」
「マジェンカ」
 イェニークの顔が急に真摯なものとなった。そして彼女に声をかけてきた。
「話を聞いて」
「嫌よ!」
 だが彼女はそれを拒絶した。
「それは本当だったのね!」
「ああ」
 彼はそれを認めた。それがマジェンカの心をさらにかき乱した。
「署名したのね!」
「君に嘘は言わない」
「売った癖に!」
「売ってなんかいない」
「それが嘘なのよ!」
「マジェンカ」
 イェニークの声がさらに真面目なものとなった。
「本当に話を聞いて欲しいんだ」
「私の耳は嘘は聞こえないの!」
 彼女はそう叫んだ。
「そして私の口は真実しか言わない!」
「マジェンカ・・・・・・」
 イェニークはそれでも諦めない。何とか話を聞いてもらおうと努力していた。
「本当のことを聞いてくれないのかい?」
「それはお父さんから聞いたから」
「クルシナさんから?」
「そうよ」
 彼が正直者であることはイェニークも知っていた。話がさらにややこしくなると思った。だがそれでも彼は言った。
「それでも聞いてくれないか」
「まだ嘘を言うの!?」
「嘘なんかじゃないんだ」
「それを嘘って言うのよ!」
 そして言った。
「もういいわ、決めたわ」
「何を?」
「私結婚するわ、ミーハさんの息子さんと」
「ミーハさんの息子と」
 それを聞いたイェニークの顔が急に晴れやかになった。マジェンカはそれを見てさらにいきりたった。
「それがおかしいっていうの!?貴女と結婚しないのよ!」
「君は今自分が何を言ったのかわかっているね」
「勿論よ」
 キッとしてそう返した。
「何度でも言うわ。ミーハさんの息子さんと結婚するわ。また言いましょうか?」
「いや、いいよ」
 彼はにこりと笑ってそれを制止した。
「ミーハさんの息子さんとだね。よくわかったよ」
「やっぱり」 
 マジェンカの顔が赤から青に変わった。怒りのあまり血の気が引いてきたのだ。
「私を売ったのね」
「それは違う」
「違わないわ!」
「だから聞いてくれって」
「聞くことなんか!」
「まあ待ちなさい」
 騒ぎを耳にしてケツァルが仲介にやって来た。
「事情はどうあれ喧嘩はよくないですぞ」
「あ、ケツァルさん」
 イェニークは彼の姿を認めて言い争いを止めた。
「丁度いいところへ」
「人々が必要とされるところに現われるのが私ですから」
 彼はにこやかに笑ってそう返した。
「それで何のことでそんなに言い争っておられたのですか?」
「いえ、何」
 イェニークは落ち着いて彼に言った。
「契約書のことでね。三〇〇グルデンの」
「何て白々しい」
 マジェンカはそれを聞いてまた怒りはじめた。だがイェニークは冷静であった。
「あれは間違いありませんね」
「ええ、勿論です」
 ケツァルは笑顔でそれに応えた。
「確かに。マジェンカさんはミーハさんの息子さんと結婚する」
「はい」
「そして貴方は三〇〇グルデンでその権利を譲った。確かにそうあります」
「そうですね。それはケツァルさんもよくわかっておられますね」
「ええ。イェニークさんの御好意は忘れません」
「好意!?何てこと」
 マジェンカは怒ったままであった。
「私を売っておいて」
「まあマジェンカさん」
 ケツァルが宥めるが一向に聞こうとはしない。
「私は彼をもう二度と見たくないわ」
「それで」
 イェニークはそれを聞いて一瞬だけであるがその緑の目を悲しくさせた。しかしそれは一瞬だったのでマジェンカにもケツァルにもわからなかった。
「ミーハさんの息子さんで間違いはないんですね」
「何度でも申し上げますよ」
 ケツァルは上機嫌であった。
「イェニークさんは承諾して下さいました」
「そう」
「三〇〇グルデンで」
「またお金の話!」
 マジェンカはもうお金の話なぞ聞きたくもなかった。
「マジェンカさんとミーハさんとこの息子さんの結婚を認めて下さいました。それに間違いはありません」
「そうです。マジェンカ、聞いたね」
「裏切りを聞かせるつもりなの!?」
 マジェンカは怖い顔になった。まるで魔女のようであった。
「違う、そうじゃない」
「私にはそうとしか思えないわ」
「信じてくれ」
「どうしたらそれができるのか私の方が知りたいわよ!」
「そうじゃない。はっきり言おう」
「何を!?」
 イェニークを睨みつける。
「ミーハの息子は君のことを愛していると。これでもまだわからないのかい」
「そんなに私をあの男と結婚させたいの!!」
 さらに怒りが増した。これも当然であった。どう見ても火に油を注いでいるだけであるからだ。ケツァルもそれを見て流石に首を傾げてしまっていた。
「彼は何を考えているのだろう」
 それが最初の感想であった。
「こんなにあの娘を怒らせて。怒らせても何にもならないというのに」
 彼の考えも当然であった。普通ならそう思う。だがイェニークは全く違ったのである。これは彼が普通ではないからなのであろうか。どうも違うようである。
「いい加減にして!」
「だから信じてくれ!」
「人を呼ぶわよ!」
「呼べばいい!」
 殆ど売り言葉に買い言葉であった。
「それで君がわかってくれるのなら」
「わかる必要はんてないわ!」
「いや、待ってくれ」
 ここで誰かの声が聞こえてきた。
「え!?」
 それを聞いてマジェンカが少し落ち着いた。
「マジェンカ、まあ落ち着いて」
「気持ちはわかるけれど」
 見れば村人達であった。彼等も騒ぎを聞きつけて集まってきたのである。
「皆」
「話は知っているよ。イェニーク」
「うん」
 彼は不思議な程落ち着いていた。少なくとも村人やマジェンカからはそう見える。
「本当に御前さんはとんでもない奴だな。まだ言うか」
「見損なったよ。ここまで腐った奴だったなんて」
「女の子を泣かして楽しいか?」
「別に泣かしてはいないよ」
 彼はしれっとした態度でそう答えた。
「僕はマジェンカに本当のことを言いたいだけなんだ」
「一つ言っておくよ」
 村人の一人がそれに応えた。
「本当のことはな、時として人をどん底に落すものなんだ」
「人間なんてそんなもんだしね」
 それに他の者も頷いた。
「知らなくていいことだって一杯あるんだ」
「それを無理にでも教えようとするのは悪魔の行いだ」
「ましてやあんたは。売ったことをそれ程言い募りたいのか?どこまで恥知らずなんだ」
「そうだそうだ」
 他の村人達もそれに同意する。
「あんたみたいな奴を見たことがない。何処まで卑しいんだ」
「恋人を売って。そしてまだ騒ぎたてるなんて。それでもこの村の人間か」
「イェニーク!」
 マジェンカも叫んだ。
「私このことを忘れないから!私を売ったことを死ぬ程後悔させてやる!」
「えっ、マジェンカ!?」
 そこへヴァシェクもやって来た。彼はそれを聞いて驚きの声をあげた。
「あの」
「あれ、君は」
 イェニークはヴァシェクを見て彼に顔を向けた。
「貴方は」
 ヴァシェクの方も彼に気付いた。
「何かあったんですか?それにこの女の人は」
「まずい」
 マジェンカはヴァシェクの顔を見て苦い顔をした。
「僕にクルシナさんとこの娘さんのことを教えてくれた人なんですけれど」
「!?どういうことだ」
 村人達はそれを聞いて眉を顰めた。
「なあヴァシェク君」
「はい」
 ヴァシェクに問う。彼は正直にそれに顔を向けた。
「君さっきこの娘さんからマジェンカについて聞いたと言ったね」
「ええ」
「それは本当なのかい?そしてどんなことを聞いたんだい?」
「本当です。そして浮気者で怠け者で派手好きなとんでもない人だと聞きました。だから絶対に結婚はしない方がいいと。これははっきり覚えていますよ」
「そうなのか」
 村人達はそれを聞いて頷いた。
「マジェンカはヴァシェクとは結婚したくないのか」
「何か話がややこしくなってきたな」
「いやそうじゃないな」
 しかしイェニークだけが笑っていた。
「これはかえって好都合だな。なあヴァシェク君」
「はい」
 ヴァシェクに話を振ってきた。
「何でしょうか」
「君は本当は誰と結婚したいんだい?正直に言ってくれ」
「えっ」
 それを聞いて戸惑った顔になった。
「けれど」
「僕が君の安全を保障する。それでも駄目なのかい?」
「本当ですね?」
「勿論だ」
「本当かね」
「まさか」
 村人達は誰も信じようとはしない。だがヴァシェクは違った。何と彼はイェニークを信じることにしたのだ。
「わかりました」
「へっ!?」
 それを聞いて皆眉を奇妙な形に曲げた。
「何だって!?」
「ヴァシェク、正気かい!?」
「はい」
 彼は迷いもなくそう答えた。
「僕にもよくわからないけれど」
 彼は戸惑ったままそう答える。
「この人は信じられる。そう思うんです」
「馬鹿な」
「どうやったらそうそう考えられるんだ」
 村人達は口々にそう言う。だがヴァシェクはイェニークを信じたのであった。
「僕の好きな人は」
「君の好きな人は」
「エスメラダ先生です。先生を真剣に愛しています」
「よし」
 イェニークはそれを聞いて会心の笑みを浮かべた。そして村人とケツァルに対して言った。皆あまりのことに目をパチクリとさせていた。
「今の言葉、聞きましたね」
「聞きましたね、って」
「何が起こったんだ。これは一体どういうことなんだ」
 それはマジェンカも同じだった。怒りを忘れて呆然としていた。
「これはどういうことなの!?ヴァシェクがそんな」
「マジェンカ」
 彼は前に出て来た。そしてマジェンカに声をかけてきた。
「何!?」
「あらためて言うよ。ミーハの息子は君を愛していると。この世の何よりもね」
「何よりも。けれどそれは誰なの!?」
 彼女にはもうわけがわからなくなっていた。他の者もである。
「どうなってるんだ!?」
「さあ」
 もう誰にも何が起こっているのかわからない。イェニーク以外には。
「落ち着いてね」
「またその言葉を」
 マジェンカはさらに訳がわからなくなった。
「どうして私にそんなに落ち着けっていうの!?本当にわからないわ」
「君に真実を言う為さ」
「それも」
 彼女にはわからないことばかりであった。他の者も。
「もう一度言う。ミーハの息子は君を愛しているんだ」
「けれどそれは僕じゃない」
「そうさ」
 ヴァシェクに対してそう答える。
「君はマジェンカとは結婚したくはないんだね」
「はい」
「何っ」
 それを聞いて驚いたのはケツァルであった。
「これは一体どういうことなんだ」
「ケツァルさん」
 ヴァシェクが彼に顔を向けてきた。
「何だい」
「僕は村の娘さんと結婚するって言いましたね」
「ああ」
「けれど僕はマジェンカとは結婚するつもりはないんです」
「それはどういうことなんだ!?」
 ケツァルもさらにこんがらがってきた。
「話がわからないのだが」
「僕にわかっておりますよ」
 イェニークだけがその中で冷静だった。
「そのミーハの息子は」
「誰なの?」
 マジェンカが問うた。
「今君の目の前にいる」
「えっ!?」
「けれど僕じゃない」
「そうさ。ヴァシェク、聞いたことはないかい」
「何をですか?」
「君のお父さんは今のお母さんと結婚する前に結婚していたね」
「あ、はい」
 それはヴァシェクも聞いていた。
「そういえばそうでした。お父さんから聞いたことがあります」
「うん。もう亡くなってしまったけれど」
「はい。凄く綺麗な人だったって。お父さんが話していました」
「そのお母さんのことで聞いたことは他にないかい?」
「他にですか」
「そうだ。覚えているかな、何か」
「ええと」
 そう問われて考え込んだ。必死に思い出していた。
「確か」
「確か?」
「僕のお兄さんがいたとか」
「えっ!?」
 それを聞いたケツァルが驚きの声をあげた。
「そんなことは聞いてはいないぞ」
「それは貴方の落ち度ですよ」
 イェニークはやんわりとそう答えた。
「ちゃんと調べておくべきでしたね」
「何と。それは嘘だと思っていたのに」
「それでヴァシェク君」
「はい」
「そのお兄さんはどうなったかは聞いているかな」
「そうですね」
 彼はまた考え込みながらそれに答えた。
「確か死んだとか。流行り病で」
「そう聞いたんだね」
「はい」
「けれどそれは嘘だ」
「えっ!?」
「彼、君のお兄さんは死んではいないんだ」
「そうなんですか」
「何でそれを知っているのかね!?」
 ケツァルが不安を抑えきれずイェニークにそう問うてきた。
「君が」
「何故だと思いますか?」
「まさか」
 マジェンカは余裕に満ちた笑みを浮かべるイェニークを見て気付いた。だが村人達は呆気にとられたままである。あまりにも色々と進んでいるので完全に取り残されてしまっていたのだ。
「何が何だか」
「そういえばミーハさんとこにいたような」
 年配の者の中にはそう呟く者もいる。だが皆混乱していて何が何だかわかっていないのが実情であった。
「そのミーハさんの死んだとされちえる息子は」
「息子は」
 皆ゴクリ、と息を飲んだ。固唾を飲んでイェニークの次の言葉を見守る。
「それは」
「それは」
 だがここで場の空気が変わった。よりによってクルシナとルドミラ、そしてミーハとハータが来たのであった。
「マジェンカ、そこにいたのか」
「ヴァシェクも」
「お父さん」
「どうしてここに?」
「どうしてもこうしてもじゃないよ」
 ミーハは息子に対してそう言った。
「好都合だな」
 イェニークはミーハとハータの姿を認めて一人ほくそ笑んでいる。だがそれは誰にも気付かせはしなかった。周到であった。
「ヴァシェク、御前契約書の文章を変えてもらったそうだな」
「うん」
「村の娘さんと結婚するって。どういうことだ」
「それは・・・・・・」
「説明してくれ。何故そうしたんだ?」
 口ごもる息子に対してそう問う。
「怒らないから。言ってくれ」
「そうだよ。御前のことなんだからね。頼むよ」
「それは僕が説明しましょう」
「あっ!」
 二人はイェニークの顔を見て思わず叫んでしまった。
「御前、どうしてここに!?」
「この村に帰っていたのかい!」
「ええ」
 イェニークはにこりとして二人に対して答えた。
「この前に久し振りだね」
「やっぱり」
 マジェンカはそれを見てわかった。顔が急に晴れやかなものとなっていく。だがケツァルはそうではなかった。彼はまだわかってはいなかった。
「どういうことなんだ!?」
 首を傾げていた。
「久し振りだなんて。知り合いだったのだろうか」
 ミーハの息子のことには頭がいかなかった。そこが迂闊であった。
「戻ってくるなと言った筈だよ」
 ハータがイェニークを睨みつけてそう言った。
「それでどうして」
「それは僕の自由なので」
 イェニークは涼しい顔でそう言葉を返す。
「別に法律で追い出されたわけじゃないんだからね。違うかな」
「くっ」
「確かにそうだな」
 ミーハは困った顔をして彼にそう述べた。
「だがな」
「言いたいことはわかってるよ」
 イェニークは手で彼を制しながらそう言う。
「けれど僕は言わせてもらうよ」
「何をだ!?」
「何を言うつもりなんだ、彼は」
 村人達はさらに戸惑いの声を囁き合っていた。今はイェニークとマジェンカだけが冷静であった。
「マジェンカ」
 イェニークはマジェンカを見ていた。
「イェニーク」
 マジェンカもイェニークを見ていた。二人は互いを見ていた。
「今やっと言えるね」
「そうね、ずっと気付かなかったわ」
「まさか」
 それを見てケツァルも村人達もようやく気付いた。
「彼は」
「ミーハさんとこの」
「君と一緒になりたい。いいかな」
「ええ、喜んで」
 マジェンカはイェニークを受け入れた。これで決まりであった。
「な、ど、どういうことなんだ」
 ケツァルは憑き物が落ちたように騒ぎはじめた。
「彼がミーハさんの息子だなんて。こんなことがあるものか」
「言いませんでしたっけ」
 ミーハは少し驚いた顔をして彼に問うた。
「いえ」
「あれ、おかしいな」
「私が言わなかったのよ」
 ハータは苦虫を噛み潰した顔でそう言った。
「どうしてだい?」
「この村にいないと思ったから。いなかったでしょ」
「確かに」
 ミーハはそれに頷いた。
「少なくともわしが今知るまではそうだったな」
 どうもヴァシェクは彼に似たようである。見れば表情までそっくりであった。これが遺伝というものであろうか。
「だが一つ問題ができたな」
「何?」
「ヴァシェクのことだよ。イェニークがマジェンカさんと結婚してしまった。ヴァシェクには相手がいなくなった」
「ヴァシェク、御前はそれでいいのかい?」
「よくはないよ」
 彼は母にそう答えた。何故か落ち着いていた。
「僕はマジェンカさんと結婚する予定だったみたいだから。けれどね」
「けれど。何だい?」
「ヴァシェクの相手はちゃんといるからな」
「うん、兄さん」
 彼は今ここではじめて彼を兄と呼んだ。
「また兄さんの力を借りたいけれどいいかな」
「ああ」
 兄は弟に対して快く頷いた。そしてケツァルに顔を向けた。
 彼は我に返っていたが怒りに震えていた。まんまと出し抜かれたからに他ならなかった。言いくるめたつもりが逆に罠にかかっていたからであった。彼は人を罠にかけたりするのは好きなタイプであるかも知れないが罠にかけられるのは嫌いであった。
 そんな彼に声をかける。
「ケツァルさん」
「何ですかな」
 ケツァルは不機嫌そのものの顔をイェニークに向けてきた。明らかに怒っていた。
「お話があるのですが」
「私には貴方のお話を聞く耳はありません」
 彼はそう返した。声も怒っていた。
「そう言わずに」
「聞こえませんね」
 耳を両手で塞いだ。
「ほら、こうしていますから」
「お金の話でもですか?」
「何!?」
 どうやら耳に栓をしていてもお金の話は耳に入るらしい。不思議な耳である。
「今何と仰いました?」
「ですからお金の話と。お仕事の依頼ですよ」
「仕事の」
「はい」
 イェニークは頷いた。
「どうでしょうか」
「額は」
「三〇〇グルデン」
「三〇〇グルデン」
 それを聞いたケツァルの顔が一変した。
「それは本当ですか!?」
「はい」
 イェニークはにこやかに頷いた。
「ヴァシェクとこの村の小学校のエスメラダ先生の結婚を仲介して欲しいのですが」
「三〇〇グルデンでですか」
「はい。如何でしょうか」
「喜んで」
 ケツァルはにこやかに笑ってそれを引き受けた。
「ヴァシェク君とエスメラダ先生ですね、それならお安い御用です」
「そんな簡単にいくんですか?」
 ミーハは怪訝そうな顔をして彼に尋ねる。
「勿論です」
「確かヴァシェクとマジェンカの時もそんなことを言っていたような」
「今回は確実です」
 彼も商売人である。自分のミスはそうおいそれとは認めない。
「何故なら今回は契約書に抜け道はないのですから」
「ほう」
「いいですかな」
 彼は胸を張って言いはじめた。
「ヴァシェク君はこの村の娘さんと結婚する」
「はい」
「抜け道まみれじゃないですか」
 ハータがそれを聞いて突っ込みを入れる。だがケツァルは平然としていた。
「話は最後まで聞いて下さいね」
「はあ」
 それに頷くしかないハータであった。彼は説明を再開した。
「エスメラダさんは彼を真剣に愛する者としか結婚できない。そしてその若者とは」
「僕です」
 ここでヴァシェクが名乗りをあげた。
「僕も今ここで言います。エスメラダ先生を心から愛しています。そして先生と結婚したいです」
「何と」
「ヴァシェクも言ったぞ」
「あのはにかみ屋が」
 村人達はまた驚きの声をあげた。
「何とまあ」
「驚き過ぎて心臓が破裂しそうだよ」
 ミーハもハータも驚きを隠せないでいた。そこにまた誰かが現われた。
「話は聞いたわ」
「おっ」
 皆その誰かの姿を認めて楽しそうな声をあげた。
「よく来てくれた」
「真打ち登場だな」
「どういたしまして」
 誰かは村人達の声ににこやかに応えた。それは他ならぬエスメラダであった。
「先生」
「ヴァシェク君」
 エスメラダは戸惑うヴァシェクに対して問う。両手首の付け根を腰の横にあて首を少し左に傾けている。
「話は聞いたわ」
「は、はい」
 ヴァシェクはドギマギしながら彼女に応える。
「私と結婚したいそうね」
「え、ええ」
 彼は震えていた。
「その通りです」
「さっきケツァルさんからもらった契約書だけれど」
「はい」
「私を心から愛してくれる人ってあるわね」
「ええ」
「それは誰なのかな、って思ったけれど君だったのね」
「駄目でしょうか」
「そうね」
 エスメラダはここでくすりと思わせぶりに微笑んだ。
「一つ私からも聞きたいんだkれど」
「何ですか?」
「もし駄目って言ったらどうするの?」
「それは・・・・・・」
 ヴァシェクはそれを聞いただけで泣きそうな顔になった。
「言わないで下さい、そんなことは」
「じゃあもう決まったわね」
 エスメラダはそう言ってにこりと微笑んだ。
「私が結婚相手に求める条件はね」
「はい」
 ヴァシェクは顔を思いきりエスメラダに近づけてきた。それだけでもう首がちぎれそうである。
「一つだけなの」
「一つだけ」
「そうよ。私を愛してくれているかどうか」
「えっ」
 それを聞いて声がうわずった。
「それは一体」
「聞こえなかったかしら。愛しているかどうか、私が必要なのはそれだけ。ヴァシェク、貴方はどうなの?」
「どうなのって言われても」
 内気なヴァシェクはまごまごしている。
「あの、その」
「私を愛しているの?どうなの?」
「答えていいんですか」
「私は答えが聞きたいの。さあ早く」
「それなら」
 ヴァシェクは意を決した。そして言った。
「先生が好きです。この世で一番好きです」
「本当に?」
「僕が嘘を言ったことがありますか?」
 それがヴァシェクの取り得の一つであった。
「先生もそれをよく御存知だと思いますけれど」
「まあね」
 エスメラダはまた悪戯っぽく笑った。
「だからここに来ているのだし。貴方が正直なのは皆知っているわ」
「はい」
「じゃあ決まりね。ヴァシェク」
「は、はい」
「貴方と結婚するわ。仲介屋さん、それでいいかしら」
「私の方は」
 ケツァルはにこやかに頷いた。
「お金が入るのなら。例え火の中水の中」
「そういうことね」
「三〇〇グルデンも戻ったし。しかしですな」
「何か」
 クルシナが彼に問う。
「よくよく考えれば」
「はい」
「私は今回はただ働きなのでは?三〇〇グルデンにしろ元々はイェニーク君に払ったものですし」
「そういえば」
「その三〇〇グルデンにしても」
「何かあるのですか?」
「ミーハさんからのお金です。結局私は今回一文の得もしていないのではないかと思いましてね」
「いや、それは間違いですよ」
 ここでイェニークが前に出てそう言った。
「君に言われても納得しないよ」
「まあそう仰らずに」
 不機嫌な顔を作ってみせるケツァルにあえて笑顔でそう返す。
「お金は大事ですよね」
「それは何度も言っています」
「けれどよく考えて下さい」
「考えるとお金が出ますか?なら幾らでも考えますよ」
「いや、お金から離れて」
「お金から離れると私のおっかない妻が瞼に浮かんできます」
 ケツァルはさらに不機嫌になった。
「それだけは勘弁願いたいですな」
「奥さんだけですか?」
「まさか」
 ケツァルはイェニークの言葉を一笑に付した。
「こう見えても私には子供がありましてね」
「ほう」
「初耳ですな」
 クルシナもミーハもそれに驚いているようだ。
「子供達の姿も思い浮かびます。そしてその子供達に温かいシチューを作ってやっている心優しいわたしの妻」
「そう、それです」 
 そこまで聞いたイェニークが声をあげた。
「えっ」
「お子さんにシチューを作ってあげているのは貴方の奥さんですね」
「ええ」
「それですよ。何だ、ちゃんと奥さんを大事に思っているじゃないですか」
「むむむ」
「自分の心に嘘はつけませんよ。違いますか」
「確かに」
「ケツァルさん、あえて言います」
「はい」
「お金は確かに大事です。けれどそれは実はあまり重要ではない」
「頭さえ使えば手に入れられるからね」
「ああ」
 マジェンカの言葉に頷く。
「けれど愛はそうはいかない」
「ええ」
「愛は簡単には手に入らない。そしてそれを手に入れられる者は」
「本当に幸せな人なんだ」
 ヴァシェクが言う。その隣にはエスメラダがいる。
「その幸せを手に入れたならば」
「絶対に手放してはならん」
 クルシナとミーハが言う。
「罰が当たるわよ」
 ルドミラとハータも。ハータも息子の結婚が決まりホッとしていた。彼女もまた母親であることには変わりはない。その彼女がイェニークに声をかけてきた。
「イェニーク」
「何」
「ヴァシェクのことだけれどね」
「うん」
「有り難うね。おかげでほっとしたよ」
「弟だからね」
「弟」
「そうさ」
 イェニークはそれに答えた。
「弟の為なら一肌脱ぐさ。それが兄だからね」
「兄なのかい」
「じゃあ僕はヴァシェクの何なんだい?」
「いや」
 ハータは口ごもった。
「それじゃああたしは一体何になるのか。あんたを追い出したあたしは」
「お母さんさ」
 イェニークはにこやかに笑ってそう答えた。
「過去は色々あったけれど。貴女は僕にとってお母さんだよ」
「そう言ってくれるのかい?」
「うん」
 彼はにこやかな顔で頷いた。
「あらためて言わせてもらうよ、母さん」
「・・・・・・・・・」
 ハータはそれを聞いて何も言えなかった。今までの自分のあさましい行動が後悔となって全身を打ち据える。それでもう耐えられない程であった。
 何も言えなかった。ただ涙だけが出る。そこにミーハがやって来た。
「いいんだよ、もう」
 彼は妻に対し優しい声でそう語り掛けた。
「わかったのなら。わかればいいんだ」
「そうなの」
 ハータは泣きながらそれに応えた。
「わかればいいのね」
「ああ」
 ミーハはまた言った。
「イェニーク」
 ミーハはイェニークに対し顔を向けた。
「お帰り」
「只今」
 こうして彼等は親子に戻った。皆それを温かい目で見ていた。
「さて、と」
 ここでケツァルがまた動いた。
「それでは皆さん、早速はじめますか」
「何をですか」
「決まっているではないですか、結婚式です」
 彼はにこやかに笑ってそう答えた。
「二組の若者達の。場所は村の教会で」
「それが終われば酒場で祝杯を」
「そうです。如何ですかな」
「喜んで。では行きますか」
「ええ。それでは」
 村人達も動きはじめた。そしてイェニークとマジェンカ、ヴァシェクとエスメラダを取り囲んだ。
「主役達もおいで」
「はい!」
 彼等もその中に入った。彼等の親達も。こうして一時の騒ぎが終わり祝福の時が来るのであった。

売られた花嫁   完



               2005・6・23





という訳で、無事にハッピーエンド〜。
美姫 「うんうん。良かったわね」
ああ。で、坂田さんに原作の方も教えてもらったんだけど。
美姫 「最後が違うのよね」
うん。いやー、原作の方も原作の方で味があって面白いよ。
美姫 「こっちのアレンジの方も皆幸せで良いわよね」
ああ。坂田さん、ありがとうございました〜。
美姫 「お疲れさまです」



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