『売られた花嫁』
第二幕
二人の若者
村の外れの森の側。そこに一人の若者が座り込んでいた。
茶色の髪に赤っぽい顔をしている。童顔でそれ程男前とは言えない。顔立ちは悪くはないが何処かぼんやりとした感じを与える。大人しそうな顔だ。
青い服に白いズボンを身に着けている。服から見るにわりかし裕福な生まれのようである。それ故か本当にぼんやりとした若者であった。
「お、そこにいたか」
切り株の上に座り込んでいる彼に樵が話し掛けてきた。
「ヴァシェク、またどうしてこんなところにるんだい?」
「あ、おじさん」
ヴァシェクは名前を呼ばれて顔を上げた。
「ちょっとね、考え事をしてたんだ」
「一体何についてだい?」
「うん、ちょっとね」
ヴァシェクは樵に困ったような顔をして応えた。
「今僕のお父さんとお母さんが僕の結婚のことで話を進めてるよね」
「ああ」
「それがね、心配なんだ」
「どうしてだい?」
「僕の好きな人が相手じゃないんじゃないかなあ、って。もしそうなったらどうしよう」
「何だ、相手のことを知らされていないのかい」
「うん」
ヴァシェクは力なくそう答えた。
「一体どんな人なのかなあ。エスメラダ先生だったらいいけれど」
村の学校の先生である。ヴァシェクより少し年上だ。気が強いが頭の回転が早い美人だ。ヴァシェクは彼女に密かに憧れているのである。
「できたら先生と一緒になれたら」
「それは御前さんの親父さんとお袋さんに言うべきじゃないのかい?」
「うん」
ヴァシェクはまた頷いた。
「僕だって言いたいけれど。何か怖いんだ」
「どうしてだい?」
「反対されるから。そうしたら何もかもお終いだし」
「おいおい」
樵はそれを聞いて呆れたような声を出した。
「そんなんじゃあ何をやっても駄目だぞ。いいかヴァシェク」
見るに見かねた樵が彼に対して語りはじめた。
「男ってのはなあ、度胸だ」
「そうなの?」
「御前さんにはまだないがな。度胸が全てなんだ」
樵は胸をドン、と叩いてヴァシェクに対してそう言った。
「度胸なんだ、いいな」
「そうなんだ」
「それで女なんてのはな、押し通せばいいんだよ。一に押す、ニに押す」
「押してばかりなんだね」
「そうさ。三も四も押す、そして最後まで押し通すんだ。俺はそれで今のかみさんを手に入れたんだ」
ここで自慢気に笑った。
「どうだ、わかったか」
「ううん」
しかしよくはわかっていないようであった。首を傾げる。
「そうなのかなあ。僕にはよくわからないや」
「わからないでは樵どころかかみさんの貰い手もねえぞ」
「わかってるけど」
「じゃあ話を変えよう。心だ」
「心」
ヴァシェクはそれを聞いて顔を上げた。
「そう、心だ。御前さんは少なくとも心はいい」
「うん」
「それを使え。そうしたら幸せになれるぞ」
「そううまくいくかなあ」
それでも不安であった。
「御前さんは鈍臭いからなあ。けれどまあ神様は見ていてくれているからな」
「神様が」
「ああ。少なくとも神様は見捨てやしないさ。御前さんみたいなのは」
「だといいけれど」
「はっきり言っちまうとな、度胸や頭がなくても心さえよければ生きていけるのさ。だから御前さんだって大丈夫だ」
「うん」
「だから安心しな。今回のことだって大丈夫だからな」
「だといいけれど」
「そんなにエスメラダ先生がいいのなら神様がそうしてくれるさ。それを待ってな」
「わかった」
ヴァシェクは頷いた。
「じゃあ神様にお願いしてみるよ。有り難う」
「ははは、神様にそれは言いな」
樵は笑って手を振りながら森の中に入って行った。ヴァシェクはそれを見送るとまた座って考えだした。
「神様かあ」
樵に言われたことをぼんやりと思い出しながら考えていた。
「お願いすると先生と一緒になれるのなら」
空を見上げながら言う。
「お願いしよう。先生と一緒になれますように」
空に向かって祈った。純真な祈りであった。
そんな彼の側に一人の少女がやって来た。彼とは違って利発そうな可愛らしい少女であった。
「あれがヴァシェクね」
それはマジェンカであった。彼女は物陰からヴァシェクを覗いていた。
「何かあんまり賢そうじゃないわね。悪い人じゃないみたいだけれど」
一目でヴァシェクを見抜いていた。そして彼の様子を見る。
祈りを終えたヴァシェクは側に置いてあった弁当の蓋を開けた。そしてパンや果物を食べはじめた。丁度おやつの時間であった。
「うっ」
マジェンカはそれを見て空腹を覚えた。彼女も育ち盛りなのですぐにお腹が減るのだ。
だがここは我慢が必要であった。ぐっとこらえてヴァシェクの方へ歩み寄った。
「ねえ」
「何?」
ヴァシェクに声をかける。すると彼は顔を上げてきた。
「貴方がヴァシェクね」
「うん」
彼は答えた。
「そういう君は?」
「私のことはいいわ。それよりね」
「うん」
ここで突っ込むべきだったのであろうがぼんやりとしているヴァシェクはそれをしなかった。それが迂闊だった。
「貴方確かクルシナさんとこの娘さんと結婚するのよね」
「そういうことになってるね」
ヴァシェクは浮かない顔でそう答えた。
「あまり気が乗らないけれど」
「あら、どうして?」
マジェンカはそれを聞いてしめた、と思った。
「僕はね、実は好きな人がいるんだ」
「誰かしら」
「それはちょっと」
「誰にも言わないから教えてくれないかしら」
「誰にも言わない?」
「ええ」
マジェンカは頷いた。
「約束するわ。誰にも言わないわ」
「それなら」
それを聞いて納得した。そして言った。
「エスメラダ先生だよ」
「エスメラダ先生?ああ、あの人ね」
マジェンカにもそれが誰なのかわかった。この村の学校の先生であった。気が強くて頭もいいしっかりした女の人であった。
(成程ね)
それを聞いて頷くものがあった。
(彼には確かに似合っているかもね)
「ねえ」
ヴァシェクはあらためて尋ねてきた。
「どう思うかな、君は」
「貴方と先生のこと?」
「そうだよ。先生と一緒になりたいのだけれど」
「いいと思うわ」
心の中で私じゃないから、と呟きながら言う。
「そう思う?」
「ええ。少なくともクルシナさんとこの娘さんよりはずっとね。いいと思うわよ」
「ところでさ」
「何?」
「そのクルシナさんとこの娘さんだけどどんな人?君は何か知ってるみたいだけれど」
「聞きたい?」
「うん。どんな人なのかなあ」
「ここだけの話だけれどね」
あえて声を顰めさせた。
「うん」
「最悪よ」
「最悪!?」
ヴァシェクはそれを聞いて思わず声をあげた。
「ええ。あれはとんでもない女よ。絶対にやめた方がいいわ」
「そ、そうなの」
マジェンカのことを知らないヴァシェクはそれを聞いて大いに驚いた。
「あら、知らなかったの?村では有名だったけれど」
「し、知らないよ」
ヴァシェクはブルブルと首を振ってそれに答えた。
「そんなに酷いの」
「底意地が悪くて怠け者でお金に汚くて。しかも浮気者よ」
よくもまあ自分のことをそれだけ悪く言えるものだとひそかに感心していた。
「どう、先生とマジェンカ、どっちがいいかしら」
「そんなの答えるまでもないじゃないか」
ヴァシェクは少し興奮しながらそう言葉を返した。
「先生だよ、絶対に先生がいい」
「嘘じゃないわね」
「僕は神様に誓っているんだ」
彼は強い声でそう返した。
「絶対に嘘はつかない、悪いことはしないって。神様だけじゃなくて誰にでもそう約束できるよ」
「じゃあわかったわ」
マジェンカはそれを聞いて満足そうに頷いた。
「貴方は先生と結婚しなさい。いいわね」
「うん。けれど一つ問題があるんだ」
「何かしら」
「母さんのことなんだ」
ヴァシェクは弱々しい声でそう漏らした。
「お母さんの?」
「うん。それをどうするか」
「ねえヴァシェク」
マジェンカはヴァシェクに問うてきた。
「何?」
「貴方このままそのとんでもない女と一緒になりたいのかしら」
「そ、それだけは嫌だよ、絶対に」
またブルブルと首を横に振る。
「絶対に。何とかならない?」
「じゃあお母さんは関係ないわね」
「うん」
ヴァシェクは頷いた。
「そういうことよ。貴方がやることは一つよ」
「一つ?」
「ええ。お母さんにね、言うのよ」
「何て言えばいいの?」
マジェンカに顔を向けて問う。
「この結婚は嫌だって言うの。マジェンカとなんか結婚したくはないってね」
「それだけでいいんだね」
「それだけよ。それで貴方は幸せになれるわ」
そして私もね、とまた心の中で呟く。
「いいかしら、それで」
「うん、うん」
彼は何度も強い調子で頷いた。
「じゃあ決まりね。先生には貴方から言えばいいわ」
「僕から?」
そういわれて急に弱い顔になった。
「何かあるの?」
「そんなこと言えたら最初からこんな気持ちにはならないよ」
彼は沈んだ顔と声でマジェンカに対してそう言った。
「僕はね、言えないんだ」
「あら」
「先生にも誰にも。これも凄く困っているんだ」
「そうね。じゃあ先生には私から言っておくわ」
「頼めるかな」
「任せて。私そうしたことは得意なんだから」
自分の為にも絶対に何とかしなければならないと固く思った。本音ではエゴだが今はそれは隠した。ヴァシェクを助けることが結果として自分自身を助けることになるとは皮肉なものだと思ってはいるが。
「それでいいわね」
「うん。お願いできるかな」
「任せて。それじゃあね」
「さよなら、親切な娘さん。君のことは忘れないよ」
「ありがと。それじゃあね」
別れながら悪い印象は受けなかった。あまり頭の回転は早くはないようだがどうにも悪い人物ではない。むしろ素朴で善良な人物だ。そんな若者を騙すのは気が引けるがここは自分の為であった。
(それが同時に彼の為でもあるなんて)
それが今一つわからなかったがここは動くことにした。何はともあれ自分自身の幸せの為であった。マジェンカは果敢に動くことにした。
その頃イェニークは先程の酒場でケツァルと二人で話していた。仲間達とは別れ彼等は今はもう別の場所に楽しく
やっている。
「ケツァルさんと仰いましたね」
「はい」
二人はテーブルに向かい合って座っている。酒も食べ物もなく話に専念していた。
「僕に用件とは」
「他でもありません。貴方の恋人のことですが」
イェニークはそれを聞いておおよそのことは見当がついた。だがそれは顔には出さなかった。
「それが何か」
「いえね、お願いがありまして」
「はい」
「別れて頂けないでしょうか」
「面白いことを仰いますね」
イェニークはそれを聞いて不機嫌な顔を作った。
「一体何の権限があって僕にそう言われるのか」
「権限ですか」
「ええ。大体貴方は何者ですか?」
「私?結婚仲介人ですよ」
「ああ、礼金を謝礼としておられるのですね」
「左様。以後お見知りおきを」
そう言って頭を垂れる。
「宜しくお願いします」
「残念ですが僕は貴方のお世話にはならないでしょう」
「何故ですか?」
「僕はもう決めた人がいるからです。それがマジェンカです」
「つまり断る気はないと」
「ええ」
「どうしても」
「どうしても、です」
彼は強い声でそう答えた。
「左様ですか。ふむ」
ケツァルはここでビールを注文した。
「喉が渇きましたな。ご一緒にどうですか」
「貴方のおごりですか」
「勿論です。私がお話している立場なのですから」
商売人としてのツボは押さえている。ここは彼をおごることにした。
「ささ、どうぞどうぞ」
黒ビールが運ばれてきた。二人は杯を打ち合ってからそれを飲んだ。濃厚なビールの味と香りが二人の口の中を支配した。
「美味いですな」
「ええ。ここの店のビールは評判なんですよ」
イェニークはそれに答えた。
「美味しいとね。それでは話を続けましょうか」
「ええ。彼女は約束したのですよ」
「彼女が約束したのではないでしょう?」
「ま、まあそれはね」
ケツァルはイェニークのその言葉に戸惑いながらも答える。
「彼女の両親がですよ。あと花婿の両親が」
「花婿の両親は誰ですか?」
「ミーハさんです」
「ミーハ?ああ、あの二人ですね」
イェニークはそれを聞いて表面上は何もなかったように頷いた。だが心の中では笑っていた。
ケツァルは非常に用心深く見ていれば彼の顔が僅かに変化したことに気付いたであろう。だが残念なことに彼は別のことを考えていてそれには気付かなかった。
「御存知ですか?」
「名前だけはね。確かこの村で一番の長者さんです」
「はい、その通りです。そのミーハさんと約束したのですよ」
「何と?」
「彼女とミーハさんの息子を結婚させるとね。ほら」
そう言いながら懐から契約書を出してきた。
「あ、貴方字は読めますか?」
「ええ」
イェニークはそれに頷いた。
「ふむ」
そしてその契約書を読みはじめた。確かにそこにはクルシナの娘とミーハの息子を結婚させるとある。確かにそう書かれていた。
「確かに書いてありますね」
「はい。クルシナさんの娘さんとミーハさんの息子さんですね。確かに」
「クルシナさんの娘さんはマジェンカさんお一人ですね」
「ええ」
「そしてミーハさんの息子さんはあのヴァシェク君だけ」
「あれ」
だがここでイェニークは思わせぶりに笑いながら首を傾げてみせた。
「何か不都合でも?」
「いえいえ」
だがイェニークは左手を横に振ってそれを否定した。
「何もありません。お気になさらずに」
「そうですか。それで宜しいですね」
「まあそうでしょうね。それでですね」
「はい」
「そのヴァシェク君は一体どのような若者ですか?」
「気のいい若者ですよ」
ケツァルはそう答えた。
「性格はね。かなりいいです」
嘘は言ってはいなかった。だが肝心な部分は何一つ言っていないのである。こうした話の常ではある。そうしたところでも彼は商売人であった。
「そうですか」
「ええ。彼のことは御存知ない」
「そうですね」
イェニークは答えた。
「名前だけは聞いたことがありますけれど」
彼もまた肝心なことは言わなかった。イェニークはケツァルのそれには気付いていたがケツァルはイェニークのそれには気付いてはいなかった。これが大きな差であった。
「左様ですか。では本題に入りましょう」
「はい」
二人はビールをまた飲んだ後で話を再開した。
「それでですね」
「はい」
「彼女と別れてはくれませんか」
「ミーハさんとこの息子さんと結婚させる為ですね」
「そうです。おわかりになられましたか」
「一応は。ですが」
「貴方はまだお若い。相手なぞ幾らでもおりますよ」
彼はそう言ってイェニークを宥めにかかった。
「それにそれだけ男前なのですから」
「男は顔じゃありませんよ」
イェニークは笑ってそのお世辞に返した。
「男は心ですよ。真心です」
「いや、お金ですよ」
「お金なんてものはね」
彼は言った。
「ちょっと頭を使えば幾らでも手に入りますから」
「強気ですな」
「それが世の中というものです。さて」
「はい」
ケツァルは彼に顔を向けた。
「どうやって僕に引いてもらうつもりなのですか?仰って下さい」
「何だと思いますか?」
「さて」
彼はとぼけてみせた。
「暴力ではないのは確かですね」
見たところケツァルにそんな力はない。ひょろ長い身体をしており見るからに力はない。武器といえば傘だけだ。だがこれが何の役に立つだろうか。精々雨をよけるだけしか役に立たない。
「私は暴力は嫌いです」
彼の方でそれはきっぱりと否定した。
「何しろうちのやつに毎日ひっぱたかれておりますから」
「そうだったのですか」
「ええ。ですからそんなことはしません」
意外にも恐妻家であるらしい。そう言われてみればそんな感じもしないわけではない。
「私はあくまで仲介屋です」
「はい」
「私の信念はお金にあります」
「お金に」
「お金ですか」
「そう、そしてそのお金を使うことにしましょう」
要するに買収である。これは実によくあることであった。
「幾らならよいでしょう」
「ちょっと待って下さい」
イェニークは不機嫌な顔を作ってみせた。
「何か」
「僕を買収するつもりですか」
「それは人聞きの悪い」
「では何故」
「私からのほんの気持ちですよ。ほんの気遣いです」
「気遣いですか」
「ですから是非受け取って下さい。宜しいでしょうか」
「ふむ」
イェニークはそれを聞いて考えるふりをした。あくまでふりである。
「マジェンカの家には何があるか御存知でしょうか」
「勿論」
ケツァルはイェニークの問いに快く答えた。
「かなりの資産家でありますな」
「僕はそれよりも彼女の方が大切ですけれどね」
「またそんな。彼女だけですか?」
「僕はそうですよ」
臆することなくそう返す。
「先程も言いましたがお金とかは頭を使えば出て来るものですから」
「ふむ。強気ですな」
「それは貴方だって同じだと思いますが」
「私も?」
「ええ。貴方は紙と舌で仕事をしておられますね」
「ええ」
「だったら同じですよ。人間というのはそういうものです」
「今一つ意味がわかりませんが」
ケツァルは首を傾げながらそう述べた。
「ですがお話を続けてよいですね」
「ええ、どうぞ」
「二匹の子牛、子豚、家鴨にガチョウ、それに田畑までありますな」
「よく考えればどの家にでもありそうなものですね」
「むう」
ケツァルは言葉に詰まったがすぐに返した。
「それに食器も。それはどれだけの価値があると思われますか」
「そうですね」
イェニークはまた考えるふりをした。そしてケツァルに問うてきた。
「貴方はどう思われますか?」
「私ですか?」
「ええ。幾らの価値があると思われますか」
「そうですな」
ケツァルは真剣に考えながら自分の意見を述べた。その顔は本当に真剣なものであった。
「一〇〇グルデン程でしょうか」
「何だ」
イェニークはそれを聞いて呆れた声を出した。
「それだけの財産がそれだけか。いや、マジェンカを忘れるのにその程度で」
「不ですかな」
「不服ではありませんよ」
ムッとしたケツァルにそう言葉を返す。
「ただその程度か、と思っただけです。マジェンカを忘れるのにたった一〇〇グルデンとは。いやはや」
「では二〇〇ではどうですかな」
ケツァルはお金を倍にしてきた。そしてイェニークを見据えた。
「それなら文句はないでしょう」
「単に倍にしただけではありませんか」
しかしそれに対する彼の声は冷ややかなものであった。
「それで誰かを納得させられるとでも?僕も含めて」
「うぬぬ」
ケツァルの顔が怒りで赤くなった。
「ではどれだけあればよいのですかな」
「お金の多さではないのですよ」
イェニークはそう述べた。
「誠意です」
「誠意!?」
「そう、貴方のね。誠意を見せて頂きたいのです。宜しいでしょうか」
「・・・・・・・・・」
ケツァルはそれを聞いて沈黙してしまった。今まで赤くなっていた顔が急に白くなってしまった。どうやら落ち着きを取り戻したようである。
「わかりました」
そしてそう答えた。
「私も結婚仲介人です。では誠意を見せましょう」
「その誠意とは」
「三〇〇グルデンです」
それが誠意であった。
「これではどうでしょうか。貴方にとっても充分な誠意の筈ですが」
「ふむ」
イェニークはまたしても考えるふりをしてみせた。だがやはりケツァルはそれに気付かない。
「誠意ですね、確かに」
「はい」
ケツァルはそれを聞いてニヤリと笑った。勝ったと思ったからだ。
「私の誠意、理解して頂けたようですね」
「はい。ですが誓約書に書かれている言葉ですが」
「はい、これですね」
ケツァルはまたイェニークにその誓約書を見せた。イェニークはそこのある部分を指し示した。
「ここですね」
「ここ」
「そう。ここにクルシナの娘はミーハの息子と結婚するとありますね」
「はい」
「ミーハの息子と。これに間違いはありませんね」
「勿論です」
ケツァルは胸を張ってそう答えた。張りすぎて帽子がずれ頭の一部分が見えてまぶしい程であった。
「私は嘘は申しません」
「わかりました」
今度はイェニークがニヤリと笑った。
「それではそこをとりわけ覚えておいて下さいね」
「はい」
ケツァルは得意満面でそれに頷く。
「喜んで」
「わかりました。それでは僕もそれに誓いましょう」
「何と誓われるのですか?」
「マジェンカはミーハの息子以外の誰の妻にもならない、とね。これを誓いましょう」
「わかりました」
二人は互いにニヤリと笑ってそう言い合った。だがその笑いはよく見るとそれぞれ全く違うものであった。それに気付いていたのはやはりイェニークだけであった。
「これで満足でしょうか」
「まだあります」
「何でしょうか」
それを聞いたケツァルの顔が急に不機嫌なものになる。だがイェニークは言った。
「ミーハの息子とマジェンカが婚礼をあげそれを神が承認されたならば」
「はい」
「ミーハの父親は棄権しなければならない。宜しいですね」
「何だ、そんなことですか」
彼はそれを聞いて安心して笑顔になった。また金でも取られるのかと内心警戒していたからである。
「それならいいですよ。それでは」
契約書にそう書いた。
「あとその棄権はクルシナからの借金について。それもいいですね」
「ええ」
それも書いた。ケツァルはそれをイェニークに見せてまた問うた。
「これで宜しいですね」
「確かに」
イェニークは遂にそれを認めた。
「僕は三〇〇グルデンを手に入れた。これでいいですね」
「はい。私も。それではイェニークさん」
「はい」
「ご機嫌よう。新しい恋を見つけられるように」
「わかりました。ではこれで」
「はい」
ケツァルは帽子をとって彼に一礼した後で酒場を後にした。後にはイェニーク一人が残っていた。彼は何食わぬ顔でまずはビールをまた注文した。
「どれにしますか?」
「黒を」
彼はにこりと笑ってそう答えた。
「今は黒がいい。何か腹黒い気持ちになれるから」
「おやおや」
おかみさんはそれを聞いて思わず笑ってしまった。
「また変なことを言うね。一体どうしたんだい?」
「ははは、洒落さ」
イェニークは笑ってそう返した。
「けれど黒が飲みたいのは本当だよ。たっぷりとね」
「あいよ」
「あとはソーセージをね。茹でたやつを」
彼の好物である。何かいいことがあった時はいつもこれを食べるのである。そう、いいことがあった時には。黒ビールも同じであった。
「さてと」
彼は黒ビールとソーセージを前にして一人意を決した顔になった。
「あのおじさんはとりあえずはこれでいいな」
木のフォークを手にし、一本のソーセージにブスリと突き刺す。肉汁がその中から溢れ出てきた。
それを口に入れる。腸を噛み破ると口の中に肉の旨味が広がっていく。そしてそこには玉葱のものもあった。この店のソーセージは中に玉葱も入れているのだ。
それを食べた後でビールを口にする。ソーセージの旨味とビールの苦味が口の中で混ざり合った。
「問題は皆をどうやって信じさせるかだな」
彼はここでひとまずフォークを置いた。
「皆僕をマジェンカを売ったと思っているな。恋人を売った卑しい奴だと」
ソーセージから湯気が出ている。それを見るとまた食べたくなった。
またフォークを手にとりそれを食べる。そしてまたビールを飲む。飲みながら考える。酒が頭の回転を助けてくれていた。急に頭の中が回りはじめる。
「マジェンカを売ったと思われるのはしゃくだけれど」
実はそれは彼にとっても本意ではなかったのである。
「それをどうするか、だな。さて」
ソーセージとビールを味わいながら考える。
「お金と恋なら恋の方がずっと大事に決まっている」
その信念は変わらない。
「お金なんて幾らでも手に入る。だけれど恋はそうはいかないんだ」
恋は人によっては決して見つけることができないものである。手に入れられない者すらいる。偶然手に入る場合もあればどうやっても手に入れられない場合もある。恋の神というのは非常に気紛れな存在でありその心は移ろいやすい。イェニークにもそれはわかっていた。
「恋程価値のあるものはない。お金なんかで買えはしないのはわかっている」
今の自分と矛盾する行為であってもだ。
「三〇〇グルデンなんかで売れるものか。マジェンカを失う位なら死んだ方がましだ」
だが彼はケツァルからその金を受け取ることになった。それは何故か。
「恋を捨てるのなんて論外だ。恋は手に入れようとすれば逃げてしまう。望んでもこちらにはやって来ない。そんなものをどうして売れるというんだ」
矛盾していた。そしてその矛盾については彼もよくわかっていた。
「マジェンカの為だ、全ては」
どうやらその三〇〇グルデンもまたマジェンカの為であるらしい。真相はまだ彼にしかわからないが。
それを今わかっているのは彼だけであった。そう、ケツァルもマジェンカもわかってはいなかった。マジェンカに至っては今の時点では売られたことすら知らないのである。
「マジェンカ、見ていてくれ」
彼は最後にまた呟いた。
「君の為に僕は戦っているんだ。それは最後でわかる」
「皆さん」
ここで店の外からケツァルの声がした。
「来たか」
予想通りであった。彼はケツァルがここに戻ってくることを予想していたのだ。しかも証人達を連れて来て。彼は一人密かに身構えた。
「ここですよ、ここに彼がいます」
「しかし本当ですか」
店の外で男の声がする。
「何がですか?」
「イェニークのことですよ」
「それですか」
「ええ」
もう声は扉のすぐ前にまで来ていた。
「彼がそんなことを。信じられません」
「信じられるも信じられないもこれは事実です」
ケツァルはそう答えながら扉に手をかけた。
「それを今から皆さんに証人になって頂くのです。宜しいですね」
「わかりました」
そして扉が開かれた。ケツァルの後ろには大勢の村人達がいた。
(来たな)
イェニークはそれを見て心の中で身構えていた。
「やあイェニークさん」
ケツァルは勝ち誇った顔で彼に話し掛けてきた。満面に笑みを浮かべている。
「先程のお話のことですが」
「はい」
彼は顔を向けてきた。顔はビールのせいでほんのりと赤くなっている。
「さっきのお話ですか」
酔っているふりをしてみせた。ケツァルを油断させる為である。
「はい。それも宜しいですね」
「ええ。三〇〇グルデンに関して」
「皆さん、聞きましたか」
彼はそれを聞くと村人達に嬉しそうな顔を向けた。
「彼は今三〇〇グルデンと言いましたね」
「ええ」
村人達は何が何かわからないままそれに頷いた。
「それでは話を続けましょう」
そしてまたイェニークに顔を戻した。
「イェニークさん」
「はい」
彼は座ったまま答える。
「そちらの席に戻って宜しいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
彼はそれに応えた。
「構いませんよ、どうぞこちらに」
そして先程まで彼が座っていた目の前の席を薦めた。ケツァルはそれに従いそこに着いた。その周りを村人達が取り囲む。イェニークも囲まれる形となった。
「それでは」
ケツァルは席に着くと懐に手を入れた。
「まずは先程の契約書ですね」
「はい」
イェニークはビールを飲みながらそれに応える。目はケツァルに向けている。
「これですが」
そしてそれをイェニークの前に出してきた。村人達が見やすいようにわざわざ広げる。
「ここに書いてあることに間違いはありませんね」
「ええ」
ビールを飲みながら素っ気なく答える。
「確かに。間違いありません」
「クルシナの娘は」
ケツァルは嬉しそうに言う。字の読めない者に言って聞かせる為だ。
「マジェンカのことだな」
皆それを聞いてヒソヒソと囁き合う。
「ミーハの息子以外とは結婚することはできない」
「ヴァシェクのことか」
皆それを聞いてまた囁き合った。
「これで間違いありませんね」
「はい」
イェニークは頷いた。
「確かにその通りです」
「何!」
村人の中にはそれを聞いて激昂する者までいた。
「イェニーク、それは本当か!」
「嘘じゃないんだな!」
「まあまあ皆さん」
ケツァルはそんな彼等をここは宥めた。
「怒られないように。これはもう決まったことですから」
「ううむ」
彼等はそれを聞いて何とか感情を抑えた。だがその顔は怒ったままであった。何とか理性で抑えているといった感じであった。
「詳しいことはこちらに」
ケツァルは契約書を見せながら村人達に対して言う。
「読めない方は読める方に聞いて下さい」
読める者がそれを見る。そこには確かにケツァルの言ったことがそのまま書かれていた。間違いはなかった。
「イェニーク」
村人達はあらためて彼を睨みつけた。
「そんな奴だったんだな。見損なったぞ」
だが彼は涼しい顔でソーセージを食べビールを飲んでいる。批判なぞ何処吹く風といった様子であった。
「自分の恋人を売るとはな」
「しかもはした金で。そんなに金が欲しいのか」
「皆さん」
ケツァルはここで善良そうな顔で一同に対して言った。
「お金は何よりも大切なものですが」
「あんたにとってはな」
彼等は冷たくそう言い放った。
「だがこいつは違っていたんだ。少なくとも今まではそう言っていた」
「それが急にマジェンカを売ったんだ。どういうことかわかるな」
「よくあることです」
だがケツァルの声は素っ気ないものであった。
「そうではないですか」
「あんたにはどうやらわからんみたいだな」
「人生を長くやっていればわかりますよ」
それでもケツァルの答えはシニカルなものであった。
「かみさんと長くいるとね」
恐妻家故の言葉であった。
「まあいいでしょう。イェニークさん」
「はい」
「サインがまだでしたね。サインをして頂けますか」
「わかりました」
ケツァルからペンを受け取った。鳥の羽根のペンである。
「ここですね」
「はい」
指差したところにペンを持ってくる。既にインクはつけている。
「イェニーク」
村人の中にはクルシナもいた。彼はイェニークを睨みつけながら声をかけてきた。
「クルシナさん」
「確かに俺はマジェンカとミーハさんの息子さんとの結婚を承諾した」
「はい」
「だがあんたのことは認めてきたつもりだ。しかしそれは誤りであったみたいだな」
「そうですか」
イェニークの返答はやはり素っ気ないものであった。
「あんたみたいな恥知らずは知らん。一体どういうつもりなんだ」
「そうだそうだ」
他の村人達もそれに続いた。
「イェニーク、見損なったぞ」
「御前はそんな奴だったのか」
「おい答えろ」
「返事をしろ、どうなんだ」
「ケツァルさん」
だがイェニークはそれに答えずにケツァルに顔を向けていた。そして彼に問うた。
「それではサインをしますね」
「ええ、どうぞ」
彼はニンマリと笑っていた。そしてイェニークがサインをするのを見守っていた。
「これでよし」
「はい」
サインをした紙をケツァルに見せる。これで決まりであった。
「本当にしやがったよ」
「信じられないわね」
「とんでもない奴だ」
村人達は口々に言う。だがイェニークは涼しい顔をしたままだ。そのままケツァルに対して言葉を続ける。
「間違いないですね」
「はい」
ケツァルもほくほく顔で頷く。
「これで間違いなく。いやあ、助かります」
「マジェンカはどうなるんだ」
クルシナはそれを見て忌々しげに呟いた。
「呆れた話だ。こんなことがあってたまるか」
「その通りだ」
村人達も彼と同じ意見であった。
「そんなに金が大事か」
「恥知らずが」
彼等は口々にそう非難し続ける。だがイェニークはやはり涼しい顔をしたままであった。
さてさて、一体どうなるんだろうか。
美姫 「多分なんだけどね…。イェニークって、実は」
やっぱりそうかな。まあ、次回でそれが分かるはずだよ。
美姫 「そうね。次回を楽しみに待ちましょう」
そういう事だ。
それでは次回を待っています。
美姫 「それじゃ〜ね〜」