『椿姫』
第三幕 夜会
パリの夜は長い。そして華やかである。それはかつて貴族達が繁栄を謳歌していた頃からであり今もそうであった。それはこのフローラの屋敷においてもそうであった。
みらびやかな屋敷であった。豪華な色とりどりの装飾が部屋や廊下を飾り宴の部屋は天井に豪奢なシャンデリラがあった。そしてその周りには天使達の絵が描かれている。その何処か中性的な顔で下を見下ろしている。まるで宴を見守るかのように。
壁にもまた絵が描かれていた。それは宴を謳歌するローマ貴族達の絵であった。寝そべり、風変わりな食べ物を口にする貴族達。彼等は今の宴を当時のローマ貴族達になぞらえているのであろうか。
確かにそこには繁栄があった。楽しく、優雅であった。
だが同時に空虚であった。何時終わるかわからない宴。それが夜の世界の宴であったのだ。
それを現わすかのようにこの宴の間には賭博用のテーブルが存在した。そこにはカードが置かれている。その隣には食事や酒が置かれたテーブルがある。食事自体は軽食がメインであったが酒は多かった。これがこの宴の性格を如実に現わしていた。そこに正装した紳士淑女達がいた。彼等はそれぞれ宴を楽しんでいた。まるで花に集まる蜂や蝶の様に。
「皆さん」
屋敷の主であるフローラが言った。
「楽しんで頂いているでしょうか」
「勿論です」
彼等は皆そう答えた。
「今宵は尽きることのない憂いを晴らしましょう。そして束の間の楽しみを」
「永遠のものとしましょう」
それにガストーネが応えた。
「ええ」
客達はそれに頷いた。そしてフローラは宴の中に入って行った。
「ところで」
「はい」
フローラはガストーネの言葉に顔を向けた。
「今宵の宴にヴィオレッタとアルフレードを招待したそうですが」
「ええ、それが何か」
「これは聞いた話ですが」
ガストーネはそう前置きをしたうえで言った。
「あの二人は別れたそうです」
「まさか」
だがフローラはそれを聞いても信じようとはしなかった。
「昨日二人の家に言ったのですけれど」
側にいた客の一人が言った。
「物凄く仲がよかったですよ。はたから見ても羨ましい程」
「あくまで聞いた話ですが」
「しかし」
それでも彼等は何か信じ難かった。
「あの二人に限って」
「まあそれはすぐわかることでしょう」
ガストーネはこう言った。彼等の後ろでは催しがはじまっていた。
「星に願いを計れば」
ジプシーに扮した若い娘達が歌いながら踊っていた。
「どんなことでもわかりましょう。未来も何もかも」
「そう、未来ですな」
ガストーネはそのジプシーの歌に応えるかのように言った。
「もうすぐわかる未来です、全ては」
「それはそうですが」
「全てはヴェールに覆われていても」
ジプシー達の歌は続いていた。
「神は全てを御存知なのです」
そう歌いながらその場から去って行く。そして後から今度は闘牛士が姿を現わした。
「ほう、マタドールですか」
「ええ」
フローラはガストーネの言葉ににこりと笑って頷いた。
「趣きを変えまして」
「我等ははるばるマドリードから来ました」
「何の為に」
客達は歌い踊るマタドール達に対して問うた。
「騒ぎを楽しむ為に。パリは素晴らしいところと聞きましたので」
「確かにその通りです」
彼等はそれを認めた。
「その楽しさに心打たれてお話したいことがあります」
「それは一体」
「我々の恋のことです。我々は今まで恋をしてきました」
「どのような恋を」
「スペインの情熱的な娘達を。この娘達は言ったのです」
「何と」
「一日で五頭の牛を倒して欲しいと。もしそれができたならば妻になると」
「それはまた凄いお話で」
「そして我々はやりました。それぞれ一日で五頭の牛を倒しました。そして娘達を妻としました」
「それは素晴らしい」
素直に賛辞の言葉を贈った。
「それが闘牛士なのか」
「そう、闘牛士は愛と戦いを好むもの」
彼等はそう歌った。
「他にも楽しむものがあります」
「それは何ですかな」
「酒です」
彼等はニコリと笑ってこう言った。
「そしてカードを。これから如何でしょうか」
「是非共」
客達はそれに頷いた。
「それでは御一緒に」
「はい」
こうして客達はマタドール達と共にカードと酒に入って行った。先程のジプシー達も出て来てそれに加わる。正装の紳士や淑女と風変わりだがみらびやかな服の者達が混ざり合う。そして彼等は共に楽しむのであった。
「宴もたけなわですな」
「ええ」
フローラはガストーネの言葉に頷いた。
「後はヴィオレッタとアルフレードですね」
「二人で来ますよ」
「さて」
だがガストーネはそれには懐疑的だった。悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「それはどうでしょうか」
「なら賭けますか?」
「いいですね」
ガストーネはそれに乗ってきた。
「では賭けるのは金貨一枚」
「宜しいのですね」
フローラはガストーネが財布から取り出したその金貨を見ながら問うた。
「はい、それでは」
「賭けましょう」
こうして二人は賭けることになった。程なくして使用人の一人がフローラのもとにやって来た。
「アルフレード様が来られました」
「ヴィオレッタも一緒ね」
彼女は自信があった。そうに違いないと思っていたのだ。
「いえ」
だが彼女は首を横に振った。
「残念ながら。御一人です」
「そうなの」
彼女はそれを聞いて驚きを隠せなかった。
「それじゃあ」
「私の勝ちですね」
ガストーネは話を聞き終えた後でフローラに対してこう言った。
「ではお約束の」
「ええ」
フローラは頷いた。そして金貨を一枚取り出し彼の手に渡した。
「どうぞ」
「有り難うございます」
ガストーネは受け取った後で部屋の入口に顔をやった。フローラもそれは同じであった。やがて正装したアルフレードが姿を現わした。
「ようこそ」
「はい」
アルフレードはフローラ達に対して挨拶をした。
「あの」
「何でしょうか」
彼にフローラが声をかけてきた。
「ヴィオレッタは」
「さて」
そう言ってとぼけてきた。
「知りませんが」
「知らないとは」
フローラはその言葉がとても信じられなかった。
「そんな筈が」
「そのうち来るでしょうね」
まるで他人事のように返す。
「その時に挨拶をされるとよいでしょう。まあ今はカードに興じたいのですが」
「そういうことでしたら」
ガストーネはそれを聞いて楽しそうに声をあげた。
「お相手致しますぞ。何が宜しいですかな」
「ポーカーを」
彼は表情を変えることなくそう答えた。
「それでどうでしょうか」
「わかりました。それでは」
「はい」
こうして彼はカードのテーブルに向かった。そしてガストーネ達と共にポーカーをはじめたのであった。
「一体どういうことなのかしら」
フローラは何食わぬ顔でポーカーをするアルフレードを見ながらこう呟いた。
「やっぱり何かあったのかしら」
「そう思うしかないようですね」
客の一人がそれに頷く。
「別れたのでしょう、おそらく」
「何故」
フローラはそれを否定したかった。だからこう言った。
「あんなに仲睦まじかったというのに」
「人の関係なぞわからないものなのです」
その客人はフローラに対してそう答えた。
「人の心は風の中の羽根のようなもの」
「しかし」
「しかしでもです。移ろい易いものであることは貴女も御存知でしょう」
「確かにそうですが」
「それならばおわかりの筈です。よくね」
「はい」
頷くしかなかった。
「それよりも彼女も招いたのですよね」
「ええ」
フローラはそれを認めた。
「こんなことになっているとは思いもしませんでしたから」
「大変なことになりますよ」
客人はそう囁いた。
「何とかそれを避けないと」
「どうしましょう」
「まずはアルフレードに注意することです」
「アルフレードですか」
「ヴィオレッタはわきまえた方ですが」
彼はヴィオレッタのことをよく知っていた。そしてアルフレードのことも。
「彼はまだ若い。ああ見えて激情家でもあります」
「そうだったのですか。それじゃあ」
「そうです。とにかく彼には注意して下さい」
彼はそのうえでまた言った。
「何をするかわかりませんよ」
「わかりました」
フローラはその言葉に頷いた。そしてアルフレードを見た。
「まさかとは思うけれど」
「奥様」
ここで使用人が彼女の側にやって来た。
「何かしら」
「ヴィオレッタ様が来られました」
「そう」
彼女はそれに頷いた。
「一人かしら」
「いえ」
だがこの使用人はこれには首を横に振った。
「ドゥフォール男爵と御一緒です」
「そう」
それを聞いて外面上は静かに頷いた。
「どうしたものかしら」
「?何か」
「あっ、何でもないわ」
呟きにはっとして尋ねてきた使用人に対してこう返した。
「有り難う。じゃあ休んでいていいわ」
「有り難うございます」
この使用人にチップを与えたうえで下がらせる。そしてヴィオレッタを迎えた。彼女は薄い水色の絹のドレスを身に纏いその胸には白い椿を飾っていた。そしてその隣に背の高い立派な外見の男を連れていた。彼がドゥフォール男爵である。
「マダム」
彼は部屋に入ると隣にいるヴィオレッタに声をかけてきた。
「はい」
「彼がいますよ」
(えっ)
その言葉にはっとなり部屋の中を見回す。するとカードのテーブルのところにアルフレードが座っているのが見えた。それを見て顔が一挙に蒼ざめる。
(そんな)
ヴィオレッタはこの時この宴に来てしまった自らの迂闊さを呪った。だがそれは顔には出さない。男爵はそんな彼女に声をかけてきた。
「御気をつけ下さい」
ヴィオレッタを気遣う言葉であった。
「彼には近付かないように。宜しいですね」
「はい」
ヴィオレッタは蒼い顔のままそれに頷いた。そしてフローラの前にまでやって来た。
「ようこそ」
「はい」
フローラに挨拶をする。
「まずはこちらに。色々とつもるお話がありまして」
「わかりました」
フローラはヴィオレッタを自分の下に寄せ二人で話をしようとした。
「どうやら私はお邪魔なようですな」
男爵はフローラがヴィオレッタを護っているのを見て安心した。そしてこう言った。
「それではこれで。席を外させて頂きます」
「有り難うございます」
フローラは彼のそんな気遣いが有り難かった。にこりと笑って彼に下がってもらった。そしてヴィオレッタと二人になった。
「あちらでお話になられませんか?」
フローラは奥の部屋を指差してこう声をかけてきた。
「ここでは何ですし」
ヴィオレッタを護る為であった。
「御気持ちは有り難いですが」
しかし彼女はこれを断ろうとした。
「今はここにいたいのです」
「そうですか」
それを聞いて残念そうな顔になった。その間にアルフレードはポーカーで勝ち続けていた。
「よし、ファイブカードだ」
「ちぇっ、負けだよ」
ガストーネは苦い顔をして自分のカードを放り出した。
「ワンペアが二つか。今日はついていないな」
「逆に僕はついている」
アルフレードはニヤリと笑ってこう言った。
「カードにはついているね」
「それは何より」
「もっとも恋にはついてはいないけれどね」
(まずいわね)
フローラはそれを聞いて悪い予感がした。そしてヴィオレッタの方を見た。
「あの」
「何か」
だが彼女は素知らぬ顔でフローラに顔を向けてきた。とりあえず動揺した顔は彼女には見せなかった。それを見てフローラもそれ以上言おうとはしなかった。
「いえ、何も」
「そうですか」
アルフレードはその間にも勝ち続けていた。そしてシニカルに笑い続けていた。
「人間とは欲しいものは手に入らないものなんだね」
「お金は欲しくはないのかい?」
「最初は欲しかったさ」
彼は言った。
「けれどもっと欲しいものがあったんだ」
「それは?」
「恋さ」
ヴィオレッタの方をチラリと見て言う。
「不実な人の恋をね。不実な人にそんなものがあるのかどうかは疑問だけれど」
「浮気女にでも恋をしたのかい?」
事情を知らない客の一人がこう尋ねてきた。
「その通りさ」
(私のこと)
ヴィオレッタはそれを聞いてまた顔が青くなるのを感じていた。
(わざと言っているのね)
その通りであった。アルフレードはなおも言う。
「そんなものに全てを捧げるのはね。馬鹿なことだと気付いたんだよ」
「それでここに来たのだね」
「そういうことさ。浮気女にはそれ相応の報いを与えてやる」
「それがいい」
その事情を知らない客がまた言った。
「不実な女には思い知らせてやれ」
「そうするとしよう」
(何をする気だ」
それを聞いたフローラと男爵は不吉なものを感じた。そしてヴィオレッタを気遣わざるにはいられなかった。
「男爵」
フローラは男爵に声をかけてきた。
「わかっております」
男爵はそれに頷いた。そして静かにカードのテーブルのところにやって来た。そして言った。
「あの」
「あっ、男爵」
「これはようこそ」
客達は彼が参加するものと思い早速席を一つ作った。
「男爵もどうですか」
「確かお好きでしたよね」
「ええ」
彼はあえてにこやかな笑みを作りながらそれに応じた。
「それでは御一緒させて頂いて宜しいですかな」
「どうぞ」
「共に楽しみましょう。ポーカーで宜しいですね」
「はい」
彼は答えながらもその心はポーカーには向けられてはいなかった。アルフレードに向けていた。
「ではまずこれだけ」
そう言いながら札束を出す。
「コインに換えて下さい」
「わかりました」
ディーラーが言われるままその札束をコインに換える。こうして彼の前にコインの柱が何本も立った。黄金色に光るそれはまるで天界の灯火のようであった。
「では賭けるか。ジェルモン君」
「はい」
アルフレードは自分の名が呼ばれて彼に顔を向けてきた。
「いいかね」
「こちらは何時でも」
彼は不敵に笑ってこう返した。
「いいですよ。それではやりますか」
「うむ。まずはこれだけ」
そう言いながら柱を三本程前に出す。
「これでどうですかな」
「願ったり適ったりです」
彼は笑いながらこう返した。
「これで暫くは生活には困らない」
「御二人でですかな?」
「まさか」
彼はこれにはシニカルに笑った。
「一人でですよ。不実な女のことなんて」
彼は笑いながら言う。
「どうだっていいですよ、もうね」
「そうですか」
彼はあえてこれ以上突っ込もうとはしなかった。
「それではいいです。ではまずは私から」
「はい」
彼はカードを交換した。続いてアルフレードが。
「私はいいです」
男爵は自分のカードを見てこう言った。
「もういいのですか」
「はい」
表情を変えずにこう答える。
「貴方は」
「僕は引かせてもらいましょう」
だがアルフレードはまだ引いた。
「運が来るように」
「わかりました」
こうして二枚引いた。そのうえで彼は言った。
「僕もこれで」
「わかりました。それでは」
まずは男爵がカードを見せた。
「フルハウスです」
「おおっ」
客達はそれを見て声をあげた。
「男爵の勝ちかな」
「アルフレードも遂に運の尽きかな」
そんな話をしていた。だがアルフレードは一人笑っていた。
「フルハウスですか」
「ええ。それが何か」
「それでは僕の勝ちです」
そう言いながら自分のカードを見せた。ストレートフラッシュであった。
「何と」
客達はそれを見てまた驚きの声をあげた。
「またアルフレードが勝った」
「神の御加護か」
「振られた男には神の御加護があるようですね」
「それはどうでしょうか」
だが男爵はそれには懐疑的に返した。
「そうともばかり言えませんぞ」
「おや」
アルフレードはその言葉に挑発的なものを含めて返す。
「そうですかね」
「少なくともそこには誠意がなくては」
「誠意がない相手ならば」
「よく見極めてから言われるのですな」
そう忠告してきた。
「案外見えていないものがあるかも知れません」
「それは確かに」
認めるふうな言葉をここで出してきた。
「ですがそれは悪いものもあるでしょう」
「勘違いでは、それは」
「そうともばかり言えませんよ」
その口調がさらにシニカルなものとなった。
「元々そうした人であったならばね」
「それは侮辱ですかな?」
「ほう、誰に対する?」
男爵は次第に怒りがこみあげてくるのを感じていた。そのうえでこう言ってきたのだ。
「宜しければお話して頂きたいのですが」
「わかりました」
売り言葉に買い言葉であった。彼も言い返した。
「それでは」
「皆さん」
だがここで全面的な衝突とはならなかった。フローラの執事の声がしてきたのである。
「お夜食の準備が整いましたが」
「おお」
客達はそれを聞いて声をあげた。
「今日はヒラメをメインにしましたが」
「ヒラメですか」
「とびきり活きのいいのがふんだんに手に入りましたので。シェフが腕を振るいました」
「それは楽しみですな」
「ええ」
フランス人の美食好きはこの時でもそうであった。かつてメディチ家から嫁いできたカトリーヌ=ド=メディチが広め、そして美食王とまで謳われたルイ十四世の時に確立されたと言ってもよい。もっともナポレオンはあまり味わうタイプではなく異様なまでの早食いであったらしいがそこは人それぞれであった。
「では行きましょう、そのヒラメに会いに」
「マダム、期待しておりますぞ」
「是非御期待あれ」
こうして客達はフローラに案内され多くが奥の部屋に入って行った。宴の場には僅かな客達だけが残った。その中にはアルフレードと男爵もいた。
アルフレードは人がめっきりいなくなった部屋の中を見回した。だがここには目当ての者はいなかった。
「誰かをお探しですかな?」
「いえ」
アルフレードは男爵の言葉に首を横に振った。
「何も」
「それでは続けますか、それとも」
彼はアルフレードに問うてきた。
「食事に向かわれますか」
「もう充分過ぎる程勝ちましたし」
彼は涼しい顔でこう言った。
「もう満足です。今度は別のものを満足させるとしましょう」
「わかりました。それでは」
「はい」
こうして彼等も夜食に向かった。暫らくして誰かが宴の間に戻ってきた。見ればそれはヴィオレッタであった。
「何てことでしょう」
彼女は青い顔でこう呟いた。
「お話しなければならないのにあの御様子では。どうなるやら」
人を介してアルフレードと話をしたいと言ったのである。だが当人がそれを受けたかどうかは疑念があるのである。
「あれだけ怒っておられるとなると。何が起こるのか」
思うだけで恐ろしかった。彼女はこれから起こるかもしれないことに悩んでいたのだ。
「けれど」
彼が来ない場合も考えられる。それならせめても、と思ったがそれでは何も解決したりはしない。だがその複雑な願いは消えてしまった。
「御呼びでしょうか」
奥の部屋の扉が開いた。そしてアルフレードがやって来たのだ。
「僕に何か御用でも」
一見恭しく礼儀正しい。だがその声は聞いただけでわかる程の棘があった。
(来たのね)
絶望が心の中に差した。だが同時に決意もした。それを固めて彼女はアルフレードに顔を向けた。
「はい」
彼女はアルフレードを見た。そして身体も向けた。
「ここから引かれることはないですか」
「何故」
アルフレードはヴィオレッタの言葉に口の片端を歪めて応じた。
「何故僕がここを下がらなければならないのです?」
「貴方に危機が迫っていますから」
「また妙なことを」
今度はシニカルに笑った。
「僕に危機がですか」
「はい」
ヴィオレッタは頷いた。
「ですから。すぐにでも」
「それは貴女のことではないのですか?」
アルフレードは聞き入れようとしない。逆にこう返してきた。
「私の?」
「ええ。貴女は自分のことしか考えておられません」
辛辣な口調でこう言う。
「自分のことしかね。僕の時もそうだった」
「それは」
「何か間違いでも」
「それは・・・・・・」
言いたかった。だが言えなかった。その理由は彼女ともう一人だけしか知らない。それだからこそ言うことができなかったのである。
「言えないのですね」
「・・・・・・・・・」
アルフレードから顔を背けて沈黙する。そうするしかなかったのだ。
「やっぱり。僕のことはどうでもいいと」
「私のことは忘れて下さい」
力ない声でこう言うのがやっとだった。
「そして幸せに暮らして下さい。そうすれば」
「どうなるというのですか」
声に怒りが篭ってきた。
「私にはもう」
「僕を捨てて新しい男に抱かれているんだ」
「・・・・・・・・・」
その質問には答えようとしない。顔も背けたままであった。
「相手は誰ですか?」
「それは」
アルフレードの問いにも答えようとしない。アルフレードは少なくともそう感じていた。だが実は違っていたのだ。答えられなかったのだ。
「答えられないのですね」
「いえ」
もうこうするしかない、と思った。心にもないことでもこう言うしかなかった。
「それは」
「男爵ですか!?」
アルフレードは問うてきた。
「ドゥフォール男爵ですね、そうですね」
「はい・・・・・・」
顔を背けたまま頷く。
「彼を愛しているんですね」
「それは・・・・・・」
心にもないことを言うことはできなかった。かって夜の世界にいた時には言うことができたというのに。もう戻ってきても言うことはできなかった。彼女はこうした意味でもう夜の世界にその身は置いていなかったのである。
「どうなんですか、また嘘を仰るつもりですか」
「いえ」
嘘という言葉に反応してしまった。こうなってしまっては後に退くことはできない。
「では仰って下さい、本当のことを」
「言います」
応じはしたがやはり顔は背けたままであった。
「では」
「愛しています」
それを言うだけで心が辛くなった。
「あの方を」
本当は別の者をまだ愛していた。しかしそれを口にすることはもう許されていなかったのだ。それを知らないのはアルフレードが愚かだったからではなかった。だが彼は愚かな行動をとってしまった。
「よくわかりました」
アルフレードはそれを聞き怒気を露わにした声でこう言った。
「貴女のことが。それでは僕も覚悟を決めましょう」
こう言って先程自分が出て来た扉に顔を向けた。そしてこう叫んだ。
「皆さん」
この宴に参加している全ての者を呼んだ。
「来て下さい、すぐに」
「!?」
扉の向こうから気配がした。夜食を摂っている者達がそれに反応したのだ。
「すぐに。御見せしたいものがあります」
「一体何ですか、ジェルモンさん」
客達は扉の向こうからアルフレードに問う。
「何があったというのですか?」
「すぐにわかります」
彼はそう答えた。そしてまた言った。
「すぐにこちらに。お願いします」
「わかりました」
客達はそれに応えた。そしてどやどやと宴の部屋に戻ってきた。そしてアルフレードのところに来た。
「何の御用件ですかな」
「この女を御存知でしょうか」
アルフレードはヴィオレッタを指差しながら客達に対して言った。ヴィオレッタはうなだれている。
「ええ、勿論」
「彼女がどうしたのですか?」
「貴方達はこの女のことを知っているのですね」
「それはまあ」
「しかしそれが何か」
「わかりました。それでは話を続けましょう」
アルフレードは言った。
「この恥知らずな女のことを」
「おい、君」
それを聞いた男爵が前に出て来た。
「彼女を侮辱するつもりか」
「侮辱などではありませんよ」
彼は怒りに満ちた声で答えた。もう怒りを隠そうともしなかった。
「彼女はかって僕に全てを捧げてくれました」
「それは知っている」
男爵は言った。
「自分のものを全て売って。だが僕はそれに気付かなかった」
「それはよくあることでしょう」
フローラが宥めるようにして言った。
「そんなことで怒られるのは」
「分別がないと仰るのでしょうか」
「そうだ」
男爵はそれに頷いた。
「彼女の行動に気付かないのは仕方のないことだ。だが今の君の行動は」
「今行動と仰いましたね」
「それが何か」
「僕は迂闊でした。彼女の行動に気付かなかったのだから。そして今も」
「何をするつもりだ」
「何を?」
声の怒りが増した。
「決まっていますよ」
そう言いながら懐から財布を取り出した。そしてその中の札束を取り出す。先程のポーカーで勝った分だ。見ればかなりのものがあった。
「彼女に受けた恩を返すのですよ」
「恩を」
「そう、この金でね。貴方達には証人になってもらいます」
そう言いながら客達を見渡した。
「宜しいですね」
「何をするつもりなんだ?」
「何をですか」
彼はまた言った。
「こうするのですよ!」
「ああっ!」
アルフレードはヴィオレッタにその札束を投げつけた。ヴィオレッタはそれを受けて叫んだ。そしてあまりのことに気を失ってしまった。
「ヴァレリーさん!」
フローラが慌てて駆け寄る。そしてヴィオレッタを助け起こした。
「何てことをするのですか!」
フローラは顔をキッとあげアルフレードに対して叫んだ。
「それでも貴方は人ですか!」
「そうだ!」
客達も叫んだ。そしてアルフレードを非難する。
「何ということをしたのだ君は!」
「女性に対して何ということを!」
「なっ・・・・・・」
アルフレードは呆然となった。最初は何故非難されているのかわからなかった。だがここに彼をよく知る者が姿を現わしたのであった。
「アルフレード」
「お父さん」
ジェルモンであった。彼は険しい、だが悲しみを帯びた顔で息子を見ていた。
「全て見ていた」
そして彼は息子に対してこう言った。
「全てな。何ということをしてくれたのだ」
「・・・・・・・・・」
彼の全てを知る父に言われようやくわかった。自分が何をしてしまったのかを。
「彼女は御前にどんなことをしてくれたのか。忘れたのか」
「・・・・・・・・・」
「そして御前の知らないこともあったのだ。それは秘密にしておこうと思っていたのだが」
「僕の知らなかったこと」
「そうだ」
父は言った。
「私は彼女が御前を愛しているということを知っている」
「愛している?」
過去形ではないことに気付いた。
「彼女はもう夜の世界の住人ではなかったのだ。御前の側にいたかったのだ」
「では何故」
「全ては御前の為だったのだ」
彼は沈痛な声でこう言った。
「そして娘の為」
「妹の為」
「身を引いてもらったのだ。それは決して言うまいと思ってたが」
「何でそれを」
「言えると思うか?悲しい話だ」
父はまた言った。
「それを言うと彼女が余計に惨めになる。どうしてそれを言えようか」
「けれど」
「けれども何もない。全てはよかれと思ってやったことだが」
そう言いながらアルフレードとヴィオレッタを見た。
「こんなことになるとはな。後悔しても何にもならないが」
「・・・・・・・・・」
アルフレードは沈黙してしまった。その間に客達はヴィオレッタの周りに集まっていた。そして彼女を気遣う。
「どうか御気を確かに」
「さあ、目を開けられて」
客達の言葉で彼女は気付いた。そしてようやく目を開けた。
「よかった」
「気を取り戻されましたか」
「はい」
彼女は弱々しい声で頷いた。だが顔は蒼白なままである。
「何とか」
「ジェルモン君」
男爵はそれを見届けた後でアルフレードに顔を向けてきた。
「君は大変なことをしてくれた。彼女の名誉を汚してくれた」
「・・・・・・・・・」
「私はこれを見過ごすことはできない。そしてそれを正してやる」
そう言いながら懐から何かを取り出した。白い手袋であった。
それをアルフレードに対して投げつける。それで決まりであった。
「いいな」
「はい」
アルフレードは頷いた。彼もそれから逃げる程愚かではなかった。
「では明日の正午に。場所はルーブルの裏だ」
「わかりました」
アルフレードは応えた。
「いいな。逃げることは許されない。私は剣を持って行く」
「では僕も剣を」
「そうだ。彼女の名誉を晴らす。それでいいな」
「わかりました」
こうして決闘が決まった。ヴィオレッタはその間に何とか立ち上がった。フローラが彼女を支えている。
「アルフレード」
彼に声をかける。だが彼は答えられなかった。自分にはその資格がないのだとさえ思っていた。
「今は言えません。けれど」
彼女は振り絞るようにして言う。
「何時かは。その時は必ず来ます」
「・・・・・・・・・」
「アルフレード」
ジェルモンは沈黙するしかない息子に対して声をかけてきた。そしてこう言った。
「行こう。今の御前はここにいてはいけない」
「はい」
それに頷くのがやっとであった。顔は蒼白となり遂先程までの怒りは何処かに消え去ってしまっていた。
「明日だ」
男爵が彼に対してまた言った。
「君の罪を償う時は。いいな」
「ええ」
それには応じた。だがそれが最後であり彼は父に連れられ屋敷を後にすることになった。二人で寂しく後にした。
「貴女は」
フローラがヴィオレッタに声をかけた。
「私ですか」
「まだ顔が青いです。休まれた方が宜しいかと」
「いえ」
それを断ろうとする。だがそれを周りの者が止めた。
「駄目です」
「けれど」
「今は御聞き下さい。お願いですから」
「・・・・・・わかりました」
誠意ある言葉であった。それにあがらうことは彼女にはできなかった。こくり、と頷いた。
そしてその場を後にした。そのまま屋敷を後にする。こうしてこの宴の主役達は全て姿を消した。だがこれで全てが終わったわけではなかった。むしろその最後の幕を告げる序曲のようなものであった。
何とも悲しいお話だな。
美姫 「ヴィオレッタ、可哀想よね」
この後はどうなるんだろうか。
事情をしったアルフレード。
美姫 「決闘という事になったみたいだけれど」
これからどうなるんだろうか。
美姫 「次回も待っていますね」
待ってます。