『トリスタンとイゾルデ』




                           第一幕  コーンウォールへの船

 アイルランドとコーンウォールを隔てる海。今その海を一隻の船が進んでいた。
 大きく帆も見事な船である。船から船乗りの唄が聴こえてくる。
「目は西の方へ向くが船は東に進む」
 まずはこう歌われる。
「風は故郷に向かって爽やかに吹く。アイルランドのあの娘は今どうしているだろう」
 さらに歌われる。
「帆を膨らませる風は彼女の溜息か。風よあの娘の為に吹け」
「あの歌は」 
 船の奥の一室。そこは船室だがベッドもあればいささかの装飾品も置かれている。そうしたものを見る限りここにいるのはかなりの身分であることがわかる。見ればそこにいるのは黒い、まるで夜の国の女王の様な服に身を包んだ夜よりも黒くそれでいて艶のある長い髪に黒檀の輝きを持つ瞳に白い肌を持つ女だった。顔立ちは幽玄でありこの世のものとは思えぬ美貌があり背は大きい。その美女の言葉だった。
「私をからかっているの?」
 いささか取り乱した様子で顔をあげて言うのだった。何処か金属的な、高い女の声だ。しかしその声を発する顔はやつれ蒼ざめている。まるで妖精の様に。
「ブランゲーネ」
「はい」
 今度は共に部屋にいた緑の服に黄金の髪と青い瞳の女に声をかけた。彼女は黒い服の女よりは小柄で顔は小さくそれでいて彼女よりも大人びていた。その彼女がやって来たのだった。
「どうされました?イゾルデ様」
「私達は今何処にいるの?」
「東のほうに青い光の輪が上がってきました」
 こうイゾルデに告げるのだった。
「船は穏やかに早く東に進んでいます。コーンウォールには夕方に着くかと」
「夕方なのね」
「おそらく」
 またイゾルデに答えた。
「コーンウォールの緑の浜に着きます」
「嫌よ」
 だがイゾルデはそれを聞いて顔を背けた。
「今日でも明日でもそれは」
「ですがそれは」
「堕落した家系、先祖の名誉に値しない」
 イゾルデはその背けさせた顔でまた言った。
「海や嵐を動かす力は何処に。私が使える術は薬だけ」
 嘆きながら言葉を続ける。
「この胸から大きな力は生まれては来ない。躊躇う風よ、私の願いを聞いて」
 上の方を見ての言葉だ。
「戦いの為に荒れ狂い嵐を起こし竜巻を起こして」
「何故そのような」
「この夢見る海を眠りから揺り起こし呻く欲望を海底から呼び起こすのです」
「イゾルデ様」
 ブランゲーネが止めるのも聞かない。
「それ以上は」
「この強情な船を打ち砕きこの船にいる全ての者を飲み込むのです」
「何故今になってそのようなことを」
 ブランゲーネはそんなイゾルデの肩を抱きながら彼女に言う。
「御父上や御母上の御前ではそのようなことは仰らず涙一つ流されなかったのに。けれど今は冷たくおし黙って蒼ざめた御顔で碌に食事もされず」
 言葉を続ける。
「眠られず。もう見てはいられません」
「窓を開けて」
 イゾルデはそのブランゲーネに対して言った。
「そこの窓を。早く」
「窓をですね」
「ええ」
 またブランゲーネに告げた。
「早く。そこの窓を」
「わかりました。それでは」
 イゾルデに言われるままその窓を開ける。するとそこから青い海と空が見える。だがその蒼はそれぞれ違っていた。イゾルデはその青を見るのだった。
 そこにまたあの歌が聴こえてきた。
「爽やかな風は故郷へと吹いていく。アイルランドの娘は今何処に」
「あの男は何処に」
 イゾルデはその窓から目を離してまたブランゲーネに問うてきた。
「私に選ばれ私から失われ気高くして健気でかつ勇敢な、それでいて臆病なあの男は」
「それは一体」
「死に捧げられた心と身体を持つあの男は」
「誰のことですか?」
「この船にいる勇士のことよ」
 またブランゲーネに話した。
「あの黒い髪と瞳の男は」
「トリスタン様のことですか?」
 ブランゲーネは少し考えたうえでイゾルデに対して尋ねた。
「それは」
「そうよ」
「あの素晴らしい御方のことですか」
「勇士ではありません」
 イゾルデはまずこのことを否定した。
「己の主君の為に死骸の花嫁を得た故にいつも何かされはしないかと逃げているような男は」
「また何を仰っているのですか?」
「この意味がわからないのならあの男をここに」
 またブランゲーネに告げた。
「呼んで来るのです。主人である私の元へ」
「その様な御無体なことを」
「名誉の挨拶を忘れ礼をないがしろにし私の眼差しを避けているあの男を。それが何故かは自分自身が最もよく知っているというのに」
「あの方に貴女に挨拶するように御願いするのですか?」
「主人たるイゾルデが召使たる臆病者に命じるのです」
 あくまで彼を勇士とは認めないのだった。
「さあ、早く」
「わかりました」
 ブランゲーネはその言葉を受けて意を決した顔になって一旦部屋を出た。そうして船の指揮の場所にいる濃緑の、森の色を思わせる服とズボン、マントを羽織った男に声をかけた。彼は背は高く逞しく黒く豊かな髪に澄んだ黒い瞳を持ち顔は引き締まりそれでいて気品がありまさに英雄の顔であった。その彼に声をかけたのである。
「イゾルデ様が私に」
「そうです」
 ブランゲーネはイゾルデに告げた。
「御呼びです」
「貴女を通じてですね」
「そうです。御会いしたいと」
 またトリスタンに話した。
「是非にと」
「間も無く上陸です」
 トリスタンはいささかいぶかしむようにしてまずこう話した。
「長い旅路が終わるというのに姫様は塞ぎこまれたまま。その姫が」
「姫は望まれています」
 ブランゲーネはさらに彼に話す。
「ですから」
「この青い海から間も無くの緑の陸地では王がお待ちです」
 トリスタンの声は落ち着き良識のあるものだった。
「その王の下に姫をお連れするのが私の役目ですが」
「ですが姫は今貴方に」
「私は何処にいても女性の最高の誉れであるイゾルデ姫にお仕えしています」
 恭しく述べる。
「しかし今ここを離れたら」
 舵を見る。
「船は無事にコーンウォールに辿り着けるでしょうか」
「しかし姫は」
「いえ、それはなりません」
 ここでトリスタンよりいささか小柄で白い髪を短く切った初老の男が出て来た。警戒そうな暗灰色の服とズボンを着ており飄々とした顔に緑の目を持っている。
「クルヴェナール殿」
「よいですか、ブランゲーネ殿」
 ブランゲーネにクルヴェナールと呼ばれた彼はさらに言葉を続けてきた。
「コーンウォールの王冠とイングランドの富をアイルランドの姫君に委ねられる役をされるトリスタン様はそのアイルランドの姫様の意のままにはなりません」
「それはどういう意味ですか?」
「トリスタン様は王の甥です」
 それだけ高貴な者というのだ。
「そのトリスタン様はコーンウォールの名誉そのものですから」
「だから従えないと」
「クルヴェナール」
 トリスタンは彼の言葉を目で制しようとするがクルヴェナールはさらに言葉を続けるのだった。
「あのモロルト卿は我がコーンウォールから貢物を得ようと海を渡って来られたがトリスタン様に倒された」
 このことを話しだした。いささか挑発する顔で。
「イングランドの勇士、アイルランドに誓った姫様がいたこの方はトリスタン様の納められた貢物を受け取られたのです」
「モロルトはアイルランドで倒れた」
 ここで船員達もクルヴェナールに続いて言う。
「これがイングランドに納めた貢物。トリスタン様の納められた素晴らしい貢物」
 これが返礼だった。ブランゲーネは止むを得なくその場を後にしイゾルデの側に戻った。そうしてこのことをイゾルデに対して話すのだった。
「コーンウォールの者達はそのようなことを」
「はい」
 痛々しい声でイゾルデに答えた。
「そうです。トリスタン様も」
「何ということ」
 イゾルデはブランゲーネにもたれかかるようにして嘆きの言葉を出した。やはりブランゲーネはその彼女を支えている。
「そして私はアイルランドからの貢物だと」
「あのクルヴェナール殿が」
「従者の言葉は主の言葉も同じ」
 当時の欧州ではそれが常識だ。
「彼等が私に嘲りの言葉をかけたからには私もそれで返しましょう」
「嘲りでですか?」
「みすぼらしい小舟がアイルランドの岸に辿り着きその中から一人の傷付いた男が現われた。このイゾルデの術で傷を癒す為に」
 この言葉をさらに続ける。
「タントリス。けれどその素性はその壊れた剣でわかった。素晴らしい剣が壊れたのはあの方との勝負の結果であるとわかったから」
「おわかりになられたと」
「白刃で消そうとしたけれど私は慈悲によりそれを止めた。傷付いた者を害することはしなかった」
 思い詰めた顔での言葉であった。
「モロルト様がつけられた傷口を治してやり帰した。あの時は」
「そうです」
 またブランゲーネに答えた。
「あの時の騎士こそが」
「貴女も先程聞いたようにあのトリスタンこそが」
 イゾルデは衰弱しきった顔だったが目の光は強かった。
「あの時の男です」
「まさかそうだったとは」
「あの時は何度も感謝と忠誠を誓ったというのに今ではこうです」
 忌々しげに語る。
「タントリスとして帰したのにトリスタンとして現われ」
 忌々しげな言葉はさらに続く。
「しかも誇らしげに船を操り己の伯父の為にアイルランドの世継ぎの姫たる私を運ぶ」
 何故かこの言葉には屈辱はなかった。あるのは何かしらの迷いや腹立たしさ、そういったものであった。だがブランゲーネはこの不思議な言葉の色には気付かなかった。
「イングランドの勇士にして私と将来を誓ったモロルト様がおられれば」
 この言葉にも迷いがあった。
「コーンウォールの方が貢物を差し出したでしょうに。しかしこれも」
「これも?」
「全て私の撒いた種」
 忌々しさは健在だった。
「全て。私の撒いた種」
「どうしてそこまで」
「思わずにはいられません」
 その黒い瞳は下の、船の甲板を見ている。しかし甲板は見えてはいなかった。
「どうしても」
「そこまで思い詰められていたとは」
 ブランゲーネはそれに気付かなかった己の迂闊さを呪った。
「申し訳ありません」
「謝る必要はありません」
 イゾルデはそれはよいとした。
「ただ」
「ただ?」
「この目は盲目で心は愚かで」
 思い詰めた言葉は変わらなかった。
「そして躊躇い沈黙していた私」
「姫様・・・・・・」
「その私が秘めていたことをあの男は誇らしげに言う」
「トリスタン様が」
「黙って私に助けを求め一言も言わず。私がモロルト様の仇を討つことを諦めたことも意に介さず。そして王にも意気揚々と語ったのでしょう」
「それは考え過ぎでは?」
「考え過ぎではありません」
 イゾルデはそう確信していた。
「私を貶めそのうえでアイルランドからの捧げものにすると。あの破廉恥な男が」
「落ち着いて下さい」
 ブランゲーネはそのイゾルデに告げる。
「お気持ちはわかりますが」
「だから何だというの?」
「ですがトリスタン様も貴方に恩義を感じておられるからこそコーンウォールの冠を貴女に捧げるのではありませんか?」
 こうイゾルデに言うのだった。励ます為に。
「あの方は伯父である王の下僕」
「ええ」
「そしてあの方はコーンウォールの跡継ぎでもあられました」
「今は違うというのね」
「貴女が后になられるのですから」
 だからだというのである。
「そのうえで貴女にお仕えするというのですよ?どうしてその様な方を拒まれるのですか」
「私は。そんな」
「お嫌ですか?」
「認めないわ」
 首を横に振っての言葉だった。
「私は。その様なことは」
「それにコーンウォール王は御身分も御気性も立派で」
 今度は王、マルケ王に対して語る。
「権勢も名誉も持っておられます。その様な御方です」
「コーンウォール王は」
「トリスタン様はその王にお仕えしています」
 またこのことをイゾルデに告げる。
「何も御心配がありません」
「愛されもせずにその様な気高き人を傍らに見るのは」
「愛されてもいない等と」
 またイゾルデを抱き締め励ます。
「姫様を愛されなかった者がいますか?」
「私を?」
「姫様を見て至幸の愛を感じない者はいません。例え王が冷たい方で魔に覆われていても愛の力に勝つことはできません。それに」
「それに?」
「母上の御力をお忘れですか?」
 今度はこのことをイゾルデに囁いた。
「母上の御力を」
「お母様の」
「そうです。私はお母上によくして頂きました」
「それは知っているけれど。お母様のことも」
「そうです。その私が今ここにいりますし」
「ではブランゲーネ」 
 イゾルデは俯いたままそのブランゲーネに告げた。
「あれを」
「あれ?」
「そうです。あれを」
 またブランゲーネに告げる。
「あの箱を持って来て。あの黄金の箱を」
「あの箱をですか」
「お母様が私に授けてくれた妙薬よ」
 こう言うのだった。
「傷や痛みにも毒にも効くその妙薬を」
「これですか」
 ブランゲーネはイゾルデの言葉を受け早速部屋の端にある黄金色の箱を持って来た。そうしてそれを開けてイゾルデの前に差し出す。するとイゾルデはそこから小瓶を一つ取り出したのだった。
「それは」
「これこそがその妙薬」
 イゾルデは蒼ざめた声を出しつつその小瓶を取り出したのだった。ブランゲーネはその瓶を見て顔を強張らせた。
「今の私にとっては」
「姫様、それは」
 ブランゲーネが何か言おうとする。しかしここでクルヴェナールが部屋に入って来た。
「姫様」
「何ですか?」
「間も無くコーンウォールです」
 こう二人に告げるのだった。
「上陸の用意を。お早めに」
「わかりました」
 まずはブランゲーネが彼に応える。イゾルデはその彼女から離れクルヴェナールに顔を向けていた。
「それでは」
「そして我が主からの御託です」
 彼は続いてこう言ってきた。
「王に会われることをお楽しみにと」
「わかりました。それでは」
「はい」
 クルヴェナールはイゾルデの言葉を受けた。イゾルデは言葉をさらに続ける。
「トリスタン殿にお伝え下さい」
「何と?」
「王の前に御一緒に出られることを望まれるのなら礼に適った方法で済んでいない償いをしてからにして欲しいと」
「我が主にですか」
「そうです。さもなければ貴方の案内でコーンウォールには向かいません」
 言葉は強かった。やつれてはいたが。
「王の御前に出るつもりもありません。礼に適った方法で私の厚意に求めない限りは」
「わかりました」
 クルヴェナールはとりあえずはイゾルデのその言葉に頷いた。
「そう申し上げておきましょう」
「御願いします。ここに来られるよう」
 最後にこう告げた。クルヴェナールは一礼してからこの場を後にした。イゾルデはまたブランゲーネと二人になるとその蒼ざめた顔を彼女に向けつつ言うのだった。
「ではブランゲーネ」
「どうされるおつもりですか?」
「ここであの男を待つのよ」
 まずはこう答えた。
「あの薬で」
「そんな・・・・・・」
 ブランゲーネはイゾルデの言葉を聞きその唇を強張らせた。震えてさえいる。
「あの薬は」
「あの妙薬を黄金の杯に一杯」
 こう言うのだった。
「一杯。注ぎ込んで」
「本気ですか?」
 ブランゲーネはイゾルデが持っていたその瓶を受け取りつつイゾルデに問う。
「そしてそれは」
「私を欺いたあの男に」
「トリスタン様に」
「そう。罪の償いの為に」
 イゾルデは言う。
「いいですね」
「何と恐ろしいことを」
「お母様の下された最高の妙薬。どの様な傷や痛みにも」
 イゾルデの言葉は続く。
「毒にも効く妙薬を。あれこそがお母様の下された妙薬なのですから」
「それだけは」
 ブランゲーネは必死にイゾルデを止めようとする。
「なりません。何があっても」
「聞くのです」
 だがイゾルデは聞こうとはしない。
「私の。この言葉を」
「それは」
「いいですね」
 ブランゲーネが返答に困っているとその時だった。またクルヴェナールが部屋に戻って来た。そしてこう二人に告げるのだった。
「トリスタン様が来られます」
「どうぞ」
 イゾルデはブランゲーネから顔を離しトリスタンに部屋に入るように告げた。するとすぐにそのトリスタンが部屋に入って来たのであった。
「御呼びでしょうか」
「はい」
 イゾルデ以上に蒼ざめてしまい絶望しきった顔で項垂れた倒れ伏さんばかりになるブランゲーネから目を離してトリスタンに応える。
 クルヴェナールは部屋から去る。イゾルデはトリスタンを見据え続ける。そしてそのうえで立ち上がり彼に対して告げるのだった。
「私の望みを知っていながらそれを果たすのが恐ろしく私の目を避けていたのですね?」
「敬いの気持ちで遠ざかっていました」
 トリスタンは表情を顔に出すことなく言葉を返した。
「それだけです」
「敬いの代わりに嘲りではないのですか?」
 だがイゾルデはこう言葉を返した。
「そうではありませんか?」
「服従の心から控えていただけです」
「王は御自身の花嫁にその様な無礼を教えるのですか?」
「それは誤解です」
「私の住んでいた国では花嫁を護る場合には護衛者は離れるべきだとされているのです」
「どうしてですか?」
「それがしきたりです」
 あくまで突き放すようにして言葉を返すのだった。
「コーンウォールの」
「ではトリスタン殿」
 イゾルデは強張り今にも壊れそうな顔のままでまたトリスタンに告げてきた。
「私も一つしきたりをお教えしましょう」
「何をですか?」
「敵と和解する為には敵も誉める程の立派な態度を」
 これをトリスタンに告げた。
「宜しいですね」
「敵とは」
「貴方の御心に尋ねられることです」
 イゾルデはトリスタンを見据えていた。
「私達の間には血の罪があるのですから」
「アイルランドとコーンウォールの間のそれは償われました」
「私達の間ではまだです」
 イゾルデの言葉はトリスタンにとってよくわかる言葉だった。
「違いますか?」
「それは皆のいる前で復讐を断つ誓いが為された筈です」
「私がタントリスという男を匿っていた時誓いは為されませんでした」
 絶望しきり項垂れるブランゲーネを他所に言葉を続ける。
「あの時あの男は立派にも誓いましたが私は誓いませんでした。口をつぐむことにしたのです。あの何もできなくなっていたあの男に対して」
 こう言ったうえでまた言う。
「ですが今」
「今?」
「今それを果たすのです」
 声はやつれてはいても強くなってきていた。
「私は。今ここで」
「それが姫の誓いですか」
「そう。仇を取ること」
 それを今言い切った。
「それこそが」
「左様ですか」
「その仇を取ることこそが私の願い」
 イゾルデの声はさらに強いものになった。
「そう、今ここで」
「ではそうされるといいでしょう」
 トリスタンもまた覚悟を決めたようにして言葉を返した。
「貴女が望まれるのなら」
「言いましたね」
 イゾルデもその言葉を聞き逃さない。
「今確かに。ですが」
「ですが?」
「貴方は王の甥にして無二の忠臣」
 コーンウォールにとっては柱そのものである。トリスタンあっての国とさえ言われている。
「その貴方が王信頼をどう思われているのか」
「王の」
 トリスタンも王を話に出されると弱かった。
「それは」
「私は平和を愛します」
 イゾルデは不意にという感じで言葉を変えてきた。
「怨みは平和を害するもの」
「それはその通りです」
「だからこそ」
 部屋の隅にいたブランゲーネに顔を向けた。
「私は今この償いの美酒を共に」
「償いの美酒を?」
「そうです」
 ブランゲーネに目を向けながらまた言うのだった。
「だからこそ。貴方と共に」
「私もまたなのですね」
「そうです」
 トリスタンに対して有無を言わせない声を投げ掛けた。
「何か言うことはありますか?」
「貴女には」
 だがトリスタンは言うのだった。
「沈黙があります」
「それがどうかしましたか?」
「貴女の沈黙は私も沈黙せよという意味」
 こう言うのである。
「私は貴女の沈黙を理解し、貴女の理解しないことを沈黙します」
「それは償いをすることを恐れているということですか?」
 イゾルデはあえて皮肉を込めてみせた。
「そうではないのですか?」
「違います」
「船乗り達の声が聞こえます」
 間も無く上陸なので機嫌よくしているのだ。
「王の御前も間も無くです。そして私を王に捧げるといいでしょう。私の過去を話しながら」
「私はそのことには沈黙を守ります」
 先程の己の言葉を受けての言葉である。
「それだけです」
「逃げるわけではないですね?」
「アイルランドの不思議な術のことは知っています」
 トリスタンはイゾルデの言葉に応えるようにしてこのことを話しだした。
「薬のことも」
「それが何か?」
「だからこそ受けましょう」
 ブランゲーネがここで差し出した黄金の杯を受け取った。渡すその手が震えているのも見えていたがあえてそれは無視するのだった。
「償いの誓いの為に」
「受けられるのですね」
「トリスタンの名誉は最高の忠誠」
 イゾルデに応えて今また告げた。
「そして苦痛は大胆な反抗と心の偽り」
「だから受けられると」
「予感の夢、永遠の悲しみの唯一の慰め」
 さらに話す。
「今名誉の為に忘却の妙薬を恐れることなく飲み干しましょう」
「欺瞞は許されません」
 イゾルデもまた言う。
「半分は貴方が」
「はい」
「そして半分は私が」
 イゾルデは今度はこう言う。
「飲みましょう」
「わかりました。それでは」 
 二人は見合ったまままずはトリスタンが杯の中にある酒を飲んだ。彼が半分飲むとその後でイゾルデが杯を受け取って飲んだ。飲み干し杯がブランゲーネの手に戻るその間二人は動きを完全に止めていた。それから次第に身震いしだして見詰め合い。まずはイゾルデが口を開いた。
「トリスタン」
 彼の目をじっと見ていた。その黒い目を。
「イゾルデ」
 そしてそれは彼も同じだった。黒い瞳を見ていた。
「不実にして優しき人」
「至高の人」
 二人はそれぞれ言うのだった。
「今私は心に従うことに」
「なろうとは」
 見詰め合いながら言葉を交えさせる。しかしここで。
「着いたぞ!」
「コーンウォールだ!」
 甲板の方から声がする。
「万歳!万歳!」
「王に栄光あれ!」
「姫様、着きました」
 ブランゲーネは忠実な従者としてマントを持ってイゾルデに近寄った。
「ですから。これを」
「トリスタン様」
 クルヴェナールもまた部屋に来た。
「王が来られています。花嫁を迎える喜びにあふれて?」
「誰がだ?」
 だがトリスタンはイゾルデから名残惜しそうに視線を離してからそのクルヴェナールに問うた。
「誰がいるのだと」
「王です」
 クルヴェナールは素直に答える。
「王ですが」
「どの王だ」
「何を言われるのですか?」
 クルヴェナールには今の主の言葉の意味を察しかねたがそれでも答えるのだった。
「この声を御聞きになれば」
「万歳!万歳!」
「マルケ王万歳!」
「伯父上が・・・・・・」
「あの呼び声は一体」
 イゾルデもまたトリスタンから名残惜しそうにトリスタンから視線を離してブランゲーネに対して問うた。
「何ごとなの?」
「姫様、何を」
 ブランゲーネはいぶかしむ顔でそのイゾルデに問い返した。
「何を仰っているのですか?」
「私が飲んだのは苦しみのない湖の中へ向かう妙薬の筈」
 イゾルデは己が仕込んでいた魔術の薬のことについて考えた。
「けれど。どうして」
「まさか。その妙薬とは」
 ブランゲーネは恐る恐るその薬について考えた。
「死への誘いのものではなく愛への」
「トリスタン・・・・・・」
 もう薬のことは考えられずトリスタンをじっと見詰めた。
「私は」
「イゾルデ・・・・・・」
 そしてそれはトリスタンも同じだった。彼もまた熱い目でイゾルデを見て離れない。
「私もまた」
「私は生きなければならないの?」
 今にもトリスタンに倒れかからんばかりに語る。
「このまま苦しい光の中で」
「企みの喜び」
 トリスタンもイゾルデを今にも抱き締めんばかりになっていた。
「欺瞞の生んだ幸いよ」
「万歳!万歳!」
「コーンウォール万歳!
 熱く、それでいで苦しく辛い目で互いを見る二人。しかし今船はコーンウォールに着いたのだった。光が二人を迎えるが彼等はその光を忌々しげに見るのだった。



トリスタンとイゾルデは過去に会っているみたいな事を言っていたな。
美姫 「みたいね。で、一旦国に帰った後、伯父である王の妃としてまた来たって事みたいね」
何やらややこしい事になりそうな感じなんだが。
美姫 「そうよね。今回のお話はどんな結末を迎えるのかしら」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」



▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る