『皇帝ティートの慈悲』




                          第二幕  大いなる慈悲

 己の罪を告白したセスト。彼は今取調べを受けていた。それが行われている一室で彼は今は親友であるアンニオと二人で立ちながら話をしていた。
「セスト、一つ言っておこう」
「何をだい?」
「君はあの方を殺してしまったと思っているな」
「違うのかい?」
 アンニオの顔を見てそれを問う。
「僕はその罪を犯したのではなかったのかい?」
「あの方は生きておられる」
 少し笑ってセストに告げた。
「騒ぎから逃れられ。宮殿に戻っておられる」
「そうだったのか」
「そうだ。僕が嘘をつくかい?」
 毅然としてセストに対して述べた言葉だった。
「君に対して。それはどうだい?」
「いや、ない」
 親友の言葉を疑うセストではなかった。そして彼のこともよくわかっていた。
「では君はやはり」
「真実を言っているのだよ」
 静かに微笑んで彼に述べた。
「あの方は御無事だ」
「そうか。それは何よりだ」
 まずはそのことに安心するセストだった。
「だが僕は」
「君の罪のことか」
「これは拭い去ることができない」
 俯いての言葉だった。
「あの方を害しようとしたのは紛れもない事実なのだから」
「悔やんでいるんだね?」
「悔やまない筈がない」
 言葉にもそれが滲み出ていた。
「祖国を。陛下を裏切ったその罪は」
「君は。あの方が助かったのにまだ己を」
「そういう問題ではない筈だ」
 彼は己の罪を何処までも責めていたのだった。今もである。
「僕はあの方を殺めようとしたのだから」
「それはそうだが」
「アンニオ」
 親友の顔を暗い顔で見据えて告げた。
「あの方を頼む。何があっても」
「何があってもか」
「そうだ。僕はあの方を裏切った」
 何処までも己を責めるセストだった。
「だが君はあの方を裏切ることはない。だから」
「いや、駄目だ」
 しかしここでアンニオは親友に対してあえて強い言葉をかけた。
「それは駄目だ、僕はそんなことは許さない」
「許さない?僕の罪をだね」
「いや、違う」
 それもまた否定するのだった。罪を許さないのではないと。
「君は戻らなければならないのだ」
「何処に?」
「わかっている筈だ。あの方のところだ」
 今までで最も強い言葉をセストに告げた。
「そして己の罪を幾度でも償わなければならない」
「僕にその資格はない」
「いや、ある」
 言葉が厳格な鞭になっていた。それがセストを撃つ。
「君にはそれだけの忠誠心があるのだから」
「今の僕にはそんなものは」
「僕にはわかる」
 なおもセストを撃つ。
「その忠誠心を示す行いを幾度でも見せるのだ。あの方に」
「惨い言葉だ」
「惨いのは承知のうえだ」
 言葉が鞭になっているのは彼もわかっていたのだ。それでも言うのだった。
「君の苦悩が辛ければ辛い程あの方への憧れがあるのだから。だからあの方のところへ戻ろう」
「行くか留まるべきか」
 セストの心がアンニオの言葉によって遂に揺れ動くことになった。今度はそれに悩まされることになるのだった。
「僕は。もう」
「いえ、駄目です」
 だがここで姿を現わしたのは。ヴィッテリアであった。彼はすぐにセストの傍に来て彼に告げるのだった。アンニオは彼女の目には入っていなかった。
「ヴィッテリア様」
「どうしてここに」
「逃げるのです、セスト」
 アンニオを無視してセストを見据えて言うのだった。
「貴方は。逃げなければなりません」
「ヴィッテリア様、何を」
「貴方には関係ないことです」
 彼女は止めようとしたアンニオを退けた。その冷然とした気迫で。その気迫は確かに皇帝の血を持つ女のものであった。紛れもなく。
「下がりなさい。宜しいですね」
「いや、僕は」
「下がるのです」
 反論は許さなかった。その気迫にアンニオも押されてしまっていた。
「私に何かを言えるのは陛下のみ。それはわかっている筈です」
「くっ・・・・・・」
「わかったのなら下がりなさい。いいですね」
「・・・・・・わかりました」
 気迫には逆らえなかった。彼も頭を垂れるしかなかった。
「ではこれで。セスト」
「彼に声をかけてはなりません」
 ここでもヴィッテリアに敗れてしまった。
「早く下がりなさい。いいですね」
「わかりました。では」
 止むを得なく下がるしかなかった。彼が退いたのを見届けてからヴィッテリアはあらためてセストに対して言うのであった。冷然とした態度はそのままに。
「貴方の命を私の名誉を守る為にです」
「逃げよと」
「そうです」
 セストより小柄な筈なのにセストよりも大きく見えた。
「貴方が見つかれば私の秘密は公になってしまうのですから」
「いえ。それは御安心下さい」
 だがここでセストは強い決意の顔でヴィッテリアに述べた。
「私は決して話すことはありません」
「信じよというのですか」
「そうです」
 言葉も強い。
「ですから。御安心下さい、私は何があっても」
「私は私以外の誰も信じません」
 ヴィッテリアの偽らざる本音であった。
「その私に。貴方を信じよと」
「そうです」
 やはり言葉は強いものだった。
「どうか。この僕を」
「果たしてそうなるか」
「そうなるかとは?」
「私は誰も信じません」
 このことをまた告げたのだった。
「だからです」
「貴女は・・・・・・」
「セスト」
 またプブリオが彼に顔を向けてきた。それを見てヴィッテリアはすっとセストから離れた。
「君は陛下を殺めたと思ったな」
「はい」
 彼の言葉にこくりと頷いた。
「それが違ったなどと」
「あの方は間違いなく生きておられる」
「しかし僕はあの方を」
「剣で刺したと言いたいのだな」
「そうです」
 その感触は他ならぬ自分の腕にあるからこその返答だった。
「それでどうして」
「その時君は辺りをよく見てはいなかった」
 だがプブリオはこのことをセストに告げた。
「よくな」
「!?それでは」
「君はただ宴の場の肉を刺してしまったのだ。あの方ではない」
「間違える筈がありません」
 その可能性はすぐに否定するセストだった。
「あの時。僕は」
「煙と喧騒の中で見えなかったのだ」
 理由はプブリオの方がよくわかっているのだった。実際は。
「だからだ。わからなかったのだ」
「そうだったのですか」
「そうだ。それでだ」
 それを語ったうえでまたセストに告げた。
「君は召喚されている」
「元老院にですね」
「そうだ、私がいる元老院だ」
 彼が元老院議長であるということは変わらないのだ。
「だからだ。私は君を元老院に連れて行くのだ」
「そうですか」
「わかるな、それは」
 セストを強い光の目で見据えての言葉だった。
「私は。君を絶対に元老院に連れて行く」
「拒むつもりはありません」
「その心、褒めさせてもらおう」
 セストの素直な心をまずは褒めるプブリオだった。
「だが。それだけに」
「私はどうなるのか」
 二人のやり取りを聞きながらヴィッテリアは顔を強張らせていた。
「何処に身を隠すべきか。後悔も恐怖も不安も襲い掛かる」
「君の苦渋の涙は見た」
 プブリオはセストの心を確かに見ていた。
「だが。それでも元老院の長としての務めからは逃げることはない」
「それもわかっています」
 元老院はローマにおいてはかなりの力を持っている。共和制の時代はまさに国家の最高決定機関であった。皇帝が治めるようになってからもその皇帝ですら無視することが出来ない場所だったのだ。様々な問題があるがそれでも議会として機能していたのである。
「ですから。さあ」
「行こうか」
「はい」
 二人はその場を後にした。様々な感情に責め苛まれるヴィッテリアだけが残ったが彼女もやがて姿を消した。後には誰も残ってはいなかった。
 この時生きていたティートは宮殿の前で民衆の礼賛の声を受けていた。それは熱狂的なものがあった。
「皇帝陛下万歳!」
「神よ陛下を御護り下さい!」
「私は生きていた」
 ティートは彼等のその声を聞きながらまずはそのことに感謝していた。
「だが。私は」
「陛下」
 ここでプブリオが彼のもとにやって来た。
「皆集まっております」
「コロシアムにか」
「はい、そうです」
 そのことを彼に伝えに来たのである。
「ですから。今すぐに」
「よし。では行こう」
 真剣な顔でプブリオの言葉に頷くティートだった。
「元老院は彼の言葉を聞いた筈だ」
「はい」
 ティートの言葉に対して頷く。
「おそらくは」
「同時に彼の心も知った筈だ」
 己を殺そうとした者だったがそれでも彼を信じていたのだった。
「彼は無実だ」
「私もそう思います」
 これはプブリオも信じていることだった。
「彼はその様なことをする者ではありません。きっと黒幕が」
「それが問題だ」
 伊達に皇帝になっているわけではなかった。それだけのことを見抜く目もまた備えているティートだった。彼は政治家として確かな目を持っているのだ。
「だがまずは彼を」
「では私も」
 プブリオも同行するつもりであった。
「心配です。急がなければ」
「その通りだ。では」
「ただ。問題は」
 ここでプブリオの顔が曇る。
「元老院の者達がどう思うかです」
「元老院がか」
「そうです」
 元老院は議会だ。だから様々な者がいるのだ。それがよい部分であるが同時に弊害もないわけではない。議会という組織の問題点はこの時代からあったのだ。
「彼等がどう思うかです」
「彼等がセストを疑うというのか」
 これはティートにとっては信じられないことだった。
「まさか。彼の心は」
「御言葉ですが陛下」
 ここでプブリオは暗くそれでいて強張った顔でティートに告げた。
「誰もが貴方の心を持っているわけではないのです」
「私の心を持っていないというのか」
「百人いれば百人の心があります」
 ローマにおいてもこのことは同じであるのだ。
「忠誠に欠けるということを一度も知らぬ方は裏切りに気付くのが遅いのです」
「何っ!?それはどういう意味だ」
「真実にして名誉に満ちた心には不思議なことではないのです」
「彼等がセストを疑うというのか」
「そうです」
 怪訝な顔になったティートにまた述べる。
「他の全ての心を不忠でなど有り得ないと信じたとしても」
「セストは邪悪な者ではない」
 否定するティートの声が強くなる。
「私は。わかっているのだ」
「陛下」
 ここで今度はアンニオがやって来た。すぐにティートの前に片膝をついて顔をあげてきた。
「御願いがあり参りました」
「セストのことだな」
「その通りです」
 毅然とした顔で彼に答えた。
「ですから。どうかそのお慈悲を」
「慈悲をか」
「なりませんか?」
「それは私としてもだ」
 そうしたいと言おうとしていた。しかし二人が話しているその間にプブリオは場に来た一人の兵士から一枚の紙片を受け取っていた。そこに書いてあるものを見て顔を顰めさせた。そのうえで暗い顔をしてティートのところに来て彼に対して沈痛な声で告げたのだった。
「陛下、残念なことをお伝えしなければなりません」
「残念なこと?」
「セストのことです」
 セストの名前を聞いてティートとアンニオの顔が強張った。
「まさか」
「それはまさか」
「彼は全てを認めました」
 そのことをティートに対して告げたのだった。
「全てを。認めました」
「まさか。それは」
「そうです。その結果元老院は決定しました」
 彼はさらに言葉を続ける。
「セストを猛獣刑に処すと」
「猛獣刑だと!?」
「そうです」
 このことをまた告げるプブリオだった。
「元老院の判決は下りました。コロシアムで行われる処刑に彼も引き出されるのです」
「コロシアムでか」
 コロシアムはこの時代はキリスト教徒や死刑囚を猛獣の餌にする見世物が行われることがあったのだ。キリスト教徒へのこの処刑はカリギュラが考え出したと言われている。
「そうです。後は」
「私の署名だな」
 死刑判決には皇帝の署名が必要なのである。
「後は」
「既に元老院は決定しました」
 プブリオもこの言葉は言いたくはないがそれでもであった。元老院の決定がどれだけ重要なものであるのかは彼が最もわかっていることだった。
「ですから後は」
「陛下っ!」
 アンニオの声が血がほとぼしり出るようなものになっていた。
「どうかここは」
「私は」
「もうコロシアムには市民達が集まっています」
 またプブリオが告げる。
「最早」
「私の署名だけか」
「確かにセストは罪を犯しました」
 元老院の判決は絶対だ。このことはアンニオもわかっている。皇帝ですら逆らえないことが多々あるのが元老院の決定なのだということを。
「貴方様を裏切りました。ですが陛下の御心で」
「私のか」
「私の妻になるべき人の兄です」
 今度は血縁も出した。
「ですから。何としても」
「セストは。後は私の署名だけでか」
「御願いです!」
 アンニオの目からは嘆願の涙が流れていた。
「どうか。ここはお慈悲を」
「陛下、署名を」
 プブリオも告げる。
「後は陛下の御署名だけです」
「二人共。頼みがある」
 だがここでセストは静かな声で二人に対して言うのだった。
「私を一人にしておいてくれないか」
「一人にですか」
「そうだ」
 また二人に対して告げる。
「一人にだ。ここは」
「アンニオ」
 プブリオがティートの言葉を受けアンニオに声をかけてきた。
「ここは去ろう」
「去るというのか」
「そうだ」
 言葉が少し強いものになっていた。
「今は陛下を御一人にしよう」
「しかし」
「警護なら問題はない」
 これはプブリオが保障するのだった。
「まずはこの部屋は調べたな」
「うむ」
「そして宮殿の中も外も既に兵士達で固めている」
 これもまた言う。
「だからだ。警護は万全だ」
「それはそうだが」
「それにだ」
 これが本題であった。
「今陛下は悩んでおられる。だからこそ」
「御一人にというのだな」
「わかったな。それではだ」
 もう一度彼を諭す。
「ここは部屋を去ろう。いいな」
「わかった」
 考えた末にプブリオの言葉に頷くアンニオであった。
「ではそうしよう。僕も」
「わかってくれたか。では陛下」
 アンニオをわからせたうえでまたティートに顔を向けてきた。
「私達はこれで」
「済まない。それではな」
「はい、ごゆっくりと」
「陛下」
 アンニオは部屋をプブリオと去りつつ彼に声をかけた。
「何だ」
「信じております」
「済まない」
 こうしてティートは一人になった。一人になった彼はまずは大きく天を仰いだ。そのうえで苦渋に満ちた声をその喉から絞り出すのであった。
「何という戦慄、何という裏切り」
 まずはこう言った。
「彼が私を殺そうとしていた。親友である彼が」
 言うまでもなくセストのことである。
「後は私の署名のみだ。しかし」
 ここで彼は元老院の判決文を見るのだった。プブリオが彼に差し出した。そこにはしっかりとセストに対する判決と処刑が書かれていた。
「極悪人は死を」
 ローマにおいてもこれは変わらない。
「親友を裏切った者には死だ。しかしだ」
 ここで彼の中で二つの心がせめぎあった。
「このままでいいのか。彼の話を聞かずに」
 セストのことを思ったのだった。
「それは。どうなのか。いや」
 元老院のことを思い出した。
「元老院が聞いた。そのうえでの判決だ。ならば問題はない筈だ」
 そういうことになるのだ。ローマにおいて元老院は時として皇帝や軍部ですら凌ぐ力を見せるからだ。あのネロも元老院と対立し失脚している。
「しかし。秘密があるのではないのか」
 彼が次に思ったのはこのことだった。
「彼には。私に隠さなければならない秘密が。それが若しあったなら」
 そのことも考える。
「そうだ」
 ここで彼は考えた。すぐに呼び鈴を鳴らす。すると一人の将校が入って来た。
「何でしょうか」
「頼みがある」
 まずはこう彼に告げた。
「いいか、セストを」
「セスト様を」
「私のところへよこすように。いいな」
「畏まりました」
 将校は彼のその言葉に頷いて答える。
「それではそのように」
「頼むぞ。ではな」
「はい」
 将校は一礼してから退室しまたティート一人になった。その顔は先程と比べればまだ幾分か明るくはっきりとしたものになってはいた。
「皇帝になるということは不幸だ。他の者が許されることが許されない」
 それだけ窮屈で制約があるということだ。
「宮殿にいても命は保障されない。穏やかな眠りもない」
 むしろ寝られる時がないと言っていい。
「常に誰かを見ていなければならず見られる。命も何時消えるかわからないのだからな。思えば何と苦しく不安な玉座なのだろうか」
 皇帝の座のことを考え俯く。するとここで先程の将校に案内されたセストが部屋に来たのだった。彼はティートの姿を認めまずは驚きの声をあげた。
「陛下、ここで御会いするとは」
「セストか」
 ここで彼等は互いの顔を見た。そしてそれぞれの顔を見て思うのだった。
「何と恐ろしい御顔になっておられるのか」
「何と俯いているのか」
 互いに思う。
「恐ろしい。僕は」
「罪の為か」
「やはりな」 
 ここにはプブリオも来ていた。彼はティートの顔を見て察したのであった。
「陛下は今心の中で葛藤されている。だがまだセストを信じておられるな」
「セストよ」
「はい」
 既に将校は退室し部屋にいるのは気心の知れた三人だ。ここでティートはセストに対して声をかけたのであった。セストもそれに応える。
「こちらへ来てくれ」
「恐ろしい声だ」
 今ではこう思うのだった。
「この声は」
「来てくれ」
 またティートは言うのだった。
「こちらへ」
「苦しい」
 行きたくとも行けないセストだった。脚が震えて動かないのだ。
「ここにいるのは三人だけだ」
「ええ」
「プブリオのことは気にしなくていい」
 彼についても言及するティートであった。
「信用できる人物だからな。君もそれは知っているな」
「ええ、それは」
 プブリオもまたセストの親友だ。だからその心はよく知っていたのであった。だから今のティートの言葉に頷くことができたのだった。
「よく存じております」
「それではだ」
 それを確かめたうえでまたセストに声をかける。
「話してくれ、君の心を」
「僕の心をですか」
「そう、君の心を」
 セストの目を見て語っていた。
「言ってくれ、この私に」
「陛下にですか」
「私のことも知っている筈だ」
 暗に友情を出した。
「だからこそ。今ここで」
「それは」
(陛下か、それともヴィッテリア様か)
 セストの心もまた葛藤していたのだった。顔には汗でしか出ていないが。
(ヴィッテリア様のことは言えない。どうすれば)
「言ってくれ」
 またティートは言ってきた。
「私に」
「元老院の判決の通りです」
 セストはヴィッテリアを選んだ。沈痛な顔の裏で。
「私が申し上げるのはそれだけです」
「言うことはないというのだな」
「そうです」
 ティートの問いに対しても答えた。
「ですから。もう」
「言わないのか」
「ですから元老院で申し上げた通りです」
 やはり言わない。
「これ以上は」
「わかった。それではだ」
 これ以上の話は無理だとわかりティートはまた呼び鈴を鳴らした。すると今度は数人の兵士達が部屋に入って来たのであった。
「セストを連れて行け」
「陛下、宜しいのですね」
「仕方ない」 
 プブリオに対しても答える。
「言わないのだからな」
「陛下」
 兵士達に囲まれたセストはここで。ティートに顔を向けて言ってきたのであった。
「私達はかつては熱い友情を持っていました」
「うむ」
 これはティートも認めた。
「その通りだ」
「だからこそ貴方のお怒りはわかります。その悲しみも」
「むっ!?」
 ここでプブリオはあることに気付いた。
「今の言葉は。若しや」
「慈悲は求めません」
 だがプブリオが考える前にセストはまた口を開いた。
「それがさらに貴方の怒りを掻き立てるでしょう。それは私を悲しみのうちに死なせます」
「どうやら彼は」
「私は絶望のうちに死に向かいます」
 セストはさらに言う。プブリオの目をよそに。
「死ぬことは恐れません。ですが貴方を裏切ったというこの思いが」
 これだけ言って姿を消した。後にはティートとプブリオが残る。ここでプブリオはティートに対して告げたのだった。
「陛下、若しやです」
「どうした?」
「セストは主犯ではないのかも知れません」
 探る顔でティートに告げた。
「若しかして」
「若しかしてか」
「そうです」
「だが。そうだとしても」
 ティートの顔が暗い。その暗い顔で語る。
「背信だ。私は復讐の心を己の中に感じる」
「復讐をですか」
「この様な忌まわしい心は消え去れ」
 そうした考えは彼の嫌うところであった。
「セストは罪を犯した。確かに死ぬべきだ」
「はい」
「しかしだ」 
 彼は迷い思い詰めた顔をプブリオに見せていた。
「私は。やはり赦すべきではないのか」
「セストをですか」
「そうだ。私の心を占める大きなものが私に語っている」
 それが何であるのか。ティートはもうわかっていた。
「やはりそれに従おう。だから」
 あの判決文を手に取る。そして。
 一気に引き裂いてしまった。これで終わりだった。
「これでいい」
「陛下、それでは」
「主犯あろうとなくともだ」
 もうそれも問題ないというのだ。
「彼には生きていてもらう。例え不実であっても」
「不実であっても」
「これにより私が世から神々から批判されようとも」
 覚悟は出来ているということであった。
「私は慈悲を取る。今」
「左様ですか」
「そうだ。それの証がこれだ」
 引き裂いた文書をプブリオにも見せる。もうそれは床に散りゴミとなっていた。
「こういうことだ」
「では」
「行こう」
 もうそこには迷いはなかった。
「帝位には厳しい心が必要か」
「帝位にはですか」
「そうだ。どう思うか」
 真剣な顔でプブリオに問うてきた。
「これについては」
「それは」
「私は今思う」
 その顔のまままた語る。
「神々はそれにより私から帝位を取り上げるか別の心を与えて下さるのかと」
「どちらかですか」
「そしてだ」
 さらに言う。
「帝権への忠誠を愛によって確かなものにするものでなければならないな」
「それはその通りです」
「恐怖がもたらす忠誠であってはならない」
 これは彼が以前から持っている考えであった。
「何があろうともな」
「ではその御心を今」
「そうだ、見せよう」
 言葉と共に顔をあげた。
「私の心をな。皆に。そして」
「セストにですね」
「うむ。それではな」
「ええ」
 こうして二人は場を後にした。この時ヴィッテリアはアンニオ、そしてセルヴィリアと会っていた。二人はヴィッテリアに対して懇願していた。
「ヴィッテリア様、御願いがあります」
「どうか」
「セストのことですね」
「そうです」
「その通りです」
 ヴィッテリアに対して今にも泣きそうな顔で頷く二人であった。
「御願いです、どうか」
「彼を救う為に」
「私がそれについて何ができるか」
 だがここでヴィッテリアは顔を曇らせるだけであった。その顔を見て二人はさらに顔を暗くさせるのであった。
「それは」
「やはり」
「やはり?」
「貴女様は陛下の御后様です」 
 アンニオが言うのはこのことであった。
「ですから。貴女様の御言葉で彼は救われるのです」
「わたしはまだそうではありません」 
 こう言って逃げようとするヴィッテリアであった。
「まだ。それは」
「ですがもう決まっています」
「そうです」
 だがそれでも二人はすがる。彼等とて必死だ。
「それは間も無く」
「ですから」
(それでは) 
 今の二人の言葉を聞いてヴィッテリアはあることに気付いたのであった。それは他ならぬセストのことであった。
(彼は話さなかった。私のことを」
「アンニオ」
「はい」
 無意識のうちに言葉が出た。
「セルヴィリア」
「はい」
 そしてまた。無意識のうちの言葉であった。
「行きなさい」
「行けとは」
(何処に行くというの?)
 言った本人がそれを把握していなかったのであった。言った側から内心で戸惑いを覚える。
(私は。何処に)
「私は後から行きます」
(また)
 だが。またしても言葉が出てしまった。
(どうして。こんな)
「ヴィッテリア様」
 セルヴィリアは今の彼女の言葉に涙し。そして彼女に対して言ってきた。
「涙する以外の何事も彼の為にするのならそれは何にもなりません」
「確かに」
「貴女様が感じておられるその憐れみと冷酷さは同じものです。ですから」
「動いて欲しいのですね」
「その通りです」
「ですから」
 二人はまたヴィッテリアに懇願する。
「どうかセストの為に」
「御願いします」
「わかっています」 
 またしても無意識からの言葉だったが今度は断言であった。
「ですから先にお行きなさい。いいですね」
「信じてもいいのですね」
「私とて皇室の血を引くもの」
 彼女のその唯ならぬ誇りの拠り所であり絶対のものだ。
「これだけ言えば。おわかりですね」
「では。御願いします」
「どうか」
「ですから先に行くのです」
 このことをまた二人に告げた。
「宜しいですね」
「それでは。その御言葉のままに」
「私達は」
「何度も言うことは好きではありません」
 否定するつもりはないということであった。
「宜しいですね」
「有り難うございます」
 セルヴィリアが涙して頭を垂れた。
「ではその御心を受け取らせて頂きます」
「私もです」
 そしてアンニオもそれは同じであった。
「どうか。御願いします」
「ええ。それでは」  
 二人は先に行った。一人になったヴィッテリアは。まずは強い決意の顔で呟くのだった。
「いよいよね」
 その顔で言う。
「私の心の強さを試す時が。充分な勇気を見せる時よ」
 その勇気を見せる相手もわかっていた。
「自分の命よりも私を選んだセストの為に。醜い私の為に全てを捨てようという彼の為に。今その勇気を見せなければならない」
 そう決意するのだった。
「正義に欠ける私に真心を捧げている。その彼を犠牲にして后となろうとも私は自分を許せない。それならば后の座なぞいらない」
 そしてさらに言う。
「花で愛の鎖を作る婚姻の神の姿ではなく太い処罰の鎖を持つ冥府の神が見える。しかしこの不幸も私が招いたこと」
 だからいいというのだった。
「さようなら、私の野望」
 もう野望は捨て去った。
「今から私は勇気で己の罪を償いに行く。今から」
 最後にこう言い残して姿を消した。夕刻になるとコロシアムではもう観客達が詰めていた。そこにはティートもいてアンニオやプブリオ、セルヴィリアを伴ってコロシアムの皇帝の席から協議の場、今は処刑の場にいるセストに対して言葉をかけていたのであった。
「セストよ」
「はい」
 まずは彼の名前を言うのであった。セストもそれに応える。
「わかっていると思う。何故ここに自分がいるのか」
「無論」 
 毅然としてティートの言葉に頷く。
「その通りです」
「罪は償われるべきもの」
 ティートは厳かに彼に告げる。
「とりわけローマを騒がせた罪は重いと言っておこう」
「仰る通りです」
「アンニオ」
 セルヴィリアは今の二人のやり取りで顔を暗くさせアンニオに顔を向けた。
「このままじゃ」
「信じよう」
 不安に苛まれる彼女を慰めるのであった。
「あの方を。今は」
「そうね。それしかないのね」
「絶対に来られる」
 彼はヴィッテリアの言葉を信じていた。その誇りから出た言葉を。
「だから。待とう」
「ええ、それじゃあ」
 そしてここで。その彼女が来たのだった。
「来られた」
「遂に」
「陛下」
 ヴィッテリアは今にも死にそうな青ざめた顔でティートの前に姿を現わした。その顔はまさに冥府の女王ペルセポネーのものであった。
「ヴィッテリア。どうしてここに」
「お話したいことがあります」
「私にか」
「そうです」
 その死にそうな声でティートに語る。
「彼ですが」
「セストか」
「そうです」
 セストに顔を向けて語る。セストは意識してヴィッテリアから視線を逸らしていた。
「彼は無実です」
「無実だというのか」
「その通りです」
 語るその顔がさらに青ざめる。最早死者の顔そのものであった。
「真の罪人は他にいます」
「他にか」
「そう、私は知っているのです」
 何とか言葉を出した。喉が潰れそうになったが。
「その邪悪な陰謀の張本人を。私は知っています」
「誰だそれは」
「そうだ、誰だ」
「セスト様が犯人でないとすると」
 ヴィッテリアの今の言葉を聞いてコロシアムにいる市民たちも騒ぎ出した。最早処刑も協議もそれどころではなくなってしまっていた。
「誰なのだ?」
「それは」
「そしてそれは誰だ」
 ティートはまたヴィッテリアに問うた。
「そなたが知っているというその張本人は」
「信じて下さいますね」
 まずは念押しをしてきた。
「私の言葉を」
「無論」
 毅然として返した言葉であった。
「ローマ第一の市民の名にかけて」
 プリンキケプスということだ。ローマ皇帝はまずはローマの民主制を守らなくてはならないとされている。だから元老院もかなりの力を持っているのである。
「それを誓おう」
「わかりました。それでは」
 ここまで聞いたうえで覚悟を見せたのだった。己の揺るぎない覚悟を。それは。
「その張本人ですが」
「それは誰だ?」
「私なのです」
 告白する瞬間は顔が強張っていた。
「この私なのです」
「何っ!?」
「何だと!」
 皆それを聞き一斉に驚きの声をあげたのだった。まさかと思わずにはいられなかった。
「ヴィッテリア様がか!」
「そんな!」
「嘘ではないな」
「先程申し上げた通りです」
 そこにある強い決意は不動であった。
「貴方様に忠誠と友情を誰よりも持っていたセストを唆し」
「私を殺させようとしたのだな」
「彼の私への想いを利用しました」
 このことも告白したのだった。
「私は。自分の為に」
「何故その様なことを」
「私が后になれないと思ったからです」
 これについてはティートも心当たりがあった。確かにこれまで皇后を選ぶにあたって二転三転していたからだ。だがそれがヴィッテリアの邪心を起こしたとは気付いていなかったのだ。
 彼女はさらに言う。
「それ故です。それで怨みの心を抱き」
「それでか」
「その通りです。全ては私が」
「私はセストを赦すことを決めていた」
 ティートは俯いて述べたのだった。
「だがまた一人罪を犯した者が出て来た。これは私に冷酷になれと神々が言われているのか」
 こうもさえ思った。
「まさか。いや」
 だがここで彼はまた決意したのであった。
「私は常に決意している。ならば」
「では陛下」
「どうされるのですか?」
 ここで誰もがセストに対して問う。
「赦されるのですか?」
「それとも」
「言った筈だ」
 ティートの言葉にはもう迷いはなかった。
「先程な。それは」
「ではやはりここは」
「赦す」
 一言であった。
「私のこの心が不変であることを。今ここで宣言しよう」
「陛下・・・・・・」
 コロシアムを歓声が包み込む。皇帝を讃える歓声だ。だがその中でセストは。半ば呆然としながらティートに対して言うのであった。
「貴方様は私を許して下さいました」
「うむ」
 セストのその言葉に対して頷いてみせる。
「私はもう決めていたのだから。それに従ったまでだ」
「ですが私の心は私を許しません」
 これはセストの良心故の言葉だった。
「心は過ちに対して涙していくことでしょう。この記憶のある限り」
「真実の後悔はそなたがそれを為すならばより大きな価値がある」
 これはティートがセストにかける言葉であった。
「少しも揺るがぬ忠誠によって」
「永遠の慈愛よ讃えられよ」
「この御方によりローマに幸福を得させて下さい」
「若し私が間違っているならば」
 人々の讃える声の中ティートは一人呟いていた。
「全ての罪は私が背負おう。その時には」
 その心で以っての全ての慈悲であった。ティートはその覚悟によりセストもヴィッテリアも許したのだった。それが正しいのかをまだ迷いつつも。だがそれを変えるつもりはなかった。己が正しかったと信じたかったからだ。この慈愛が。


皇帝ティートの慈悲   完


                          2008・8・17



一応、丸く収まったかな。
美姫 「タイトル通り、慈悲の心ね」
ヴィッテリアが真実を告げて、それでも尚赦す事を選んだのか。
今回も面白かったです。
美姫 「投稿ありがとうございました」



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