『タンホイザー』
第一幕 ヴェーヌスベルク
モミの木々に覆われた山の奥深くにその洞窟があった。暗く深いその洞窟を入って行くとその一番奥深くにあるのは泉だった。青い泉には日光が差し込み鮮やかな緑の滝が見える。湖の中には裸体の乙女達がいる。それは水の妖精達だった。彼女達は不思議な形をしながらも赤や黄色の艶やかな美しさを見せる植物を撫で回し微笑んでいる。日の光は紅く柔らかいが淫靡な光である。その赤と青、緑と黄色が混ざり合った世界の中で水の乙女達にバッカスの巫女達が裸かほぼ裸の淫らな姿で踊り森の精霊や山の精霊達と触れ合っている。互いの肌を感じ合い葡萄酒や果物に溺れている。退廃と快楽の世界がそこにある。
人間達もいる。若く美しい男女が入り乱れ精霊達と共に触れ合っている。そうしてその中で人も精霊も乱れ合い触れ合い互いに淫らな宴の中に入る。霧も泉の中にありそれは淡い赤と紫の二つの色である。その世界の中であの美女エウロパもいた。
エウロパは白い牡牛に乗り何処かへ去りその彼女を海の乙女達と海の神々が迎える。彼等は海に似たその泉の中で悦楽に溺れている。やはり何処までも退廃の悦楽に満ちた世界であった。
「岸辺に、岸辺に」
水の妖精達が唄う。
「岸辺で貴方と共に」
「快楽を楽しみましょう」
薔薇色のもやの中でまた快楽を貪るのだった。他の精霊達も人間達もその中に消えていく。そしてその中央にいるのは薄い紅の衣を着た妖艶な女だった。その紅の衣は薄く肢体が透けて見えている。豊かな胸も脚もその殆どが見え黒い髪は身体を覆わんばかりに長く波打っている。黒い垂れ気味の瞳の左、その端にはほくろがある。唇は大きめでやはり紅い。その紅が顔と肌の白をさらに引き出させていた。妖しいまでに美しい美女であった。
その彼女の枕元に一人の騎士がいた。黒い髪を後ろに撫で付け端整な彫の深い顔をしている。背は高く緑の丈の長い服に同じ色のズボンを身に着けている。剣も持っているが何よりも目につくのは。そのあまりにも大きな竪琴であった。女は彼の名を呼んだ。
「タンホイザー」
まずはこう呼んだ。
「ハインリヒ。起きていますか」
「その声はヴェーヌスか」
タンホイザーと呼ばれた騎士はその声で目を開けるのだった。黒い目が見える。
「貴女が私を呼んだのですか」
「そうです。歌を」
ヴェーヌスは彼にせがんだ。彼女こそはヴェーヌス、この泉ヴェーヌスベルクの主であり愛欲の女神である。その彼女が今ここにいるのであった。
「歌を聴かせて下さい。貴方の歌を」
「いや」
しかしタンホイザーは首を横に振る。何故かそれを断るのだった。
「もういい」
「もういい?」
「そう、もういい」
起き上がりつつ言うのだった。
「もういいのだ。愛欲の歌は」
「何を言うのですか」
ヴェーヌスは怪訝な顔で彼に言葉を返した。
「何を。このヴェーヌスベルクで愛欲を否定するとは」
「その愛欲こそがもういいのです」
だがタンホイザーはさらに言う。
「それこそが。もう」
「馬鹿な」
ヴェーヌスも今のタンホイザーの言葉を受けて立ち上がる。そうして彼を問い詰めるのだった。
「貴方は忘れたのですか。どうしてここに来たのかを」
「ヴェーヌスベルクに」
「私は誰にも無理強いはしない」
ここには彼女の確かな決意があった。
「誰であっても。そして」
「そして」
「ここに来る者は誰もが愛欲を求めて来ています」
言葉には絶対の自信があった。
「誰一人として例外はなく。だからこそ」
「私もまたここに」
「何年になりましょう」
タンホイザーを見据えての言葉だった。
「貴方がここに来てもう何年か」
「それは」
「そう、答えられない程長くです」
これが答えであった。
「それだけ長くいたというのに離れるのですか。あれ程愛欲を求めておられた貴方が」
「日や月もなく天上の優しい星達もない」
タンホイザーはここで嘆くようにして言うのであった。
「新しい夏がもたらす新鮮な緑の茎もない。春を告げてくれるうぐいすの鳴き声もない」
「その様なものの何がいいのでしょうか」
「貴女が私の為に作り出した幸福な奇跡を讃えよう」
竪琴を奏でつつ唄う。
「貴女の愛からほとぼしり出た甘美な喜悦が私の曇りなき完備の叫びと混ざり合う。私の喜びや歓楽を楽しむ心はそれにより満たされた」
「そえれこそがヴェーヌスの加護」
ヴェーヌスは告げた。
「だからこそ私は貴方を」
「貴女はかつて神々に与えたものを私に下された。しかし人である私にはその愛はあまりにも大きい。私は人間であるから」
「人だから何だというのです?」
「人は神ではない」
彼は唄う。
「私は変化を望む人間だ。歓楽だけを求めない」
「では何を求めるというのですか?」
「苦痛を」
何故かこの言葉が出されたのだった。
「苦痛も求めるのだ。喜びの中から」
「愚かな。苦痛を求めるなどと」
「だからこそ愛の女神よ」
歌は他ならぬヴェーヌスに向けられたものであった。
「行かせて欲しいのだ、もう」
「何という歌」
歌を聴き終えたヴェーヌスは不快感を露わにさせていた。
「その様な歌を私に聴かせるなんて」
「しかし」
「くぐもった不愉快な歌」
彼女にはこう聴こえるのだった。
「貴方の歓喜は何処に行ったのか。私の愛が緩んでしまったのか」
「それはない」
「なら何故」
タンホイザーに対して問う。
「貴方はこうも嘆くのですか」
「貴女の愛には心より感謝している」
タンホイザーはまた竪琴を手にして唄う。
「貴女の愛は讃えられるもの、その傍らに留まることこそ永遠の降伏」
「ならば何故」
「しかし私は人間に過ぎない」
言う言葉はまたこれであった。
「神が身の情熱と奇跡、薔薇色の香りより」
「それよりも」
「空の澄んだ青に牧場の新鮮な緑、小鳥の愛らしい歌を愛したいのだ。あの鐘の懐かしい親しい響きを。私は今愛してやまないのだ」
「不実なこと」
ヴェーヌスは今度は言い捨てた。タンホイザーを見据えて。
「私の愛を嘲り拒もうとするのか」
「それは違う」
タンホイザーはそれは否定する。
「だが。私はそれでも」
「違うというのですか?」
「違う」
タンホイザーはそれは確かに言う。
「決して。その様なことは」
「私の愛に飽きたとでも」
ヴェーヌスが次に思ったのはこのことだった。
「愛の女神である私の」
「愛の女神の愛は飽きることがない」
タンホイザーはそれもまた否定する。
「それもまた断じて」
「ならば一体」
「何度も言う。私は人間だ」
これはどうしても変えられないものだった。どうしても。
「だからこそもう」
「裏切り者」
ヴェーヌスの言葉が剣になっていた。
「そうして私の下から去るのですね」
「貴女の愛は大きい。しかし人である私には」
「行ってはなりません」
剣がさらに鋭いものになった。
「何があろうとも」
「だが私は」
「さあ、御覧なさい」
ヴェーヌスはここで泉の奥を指差した。淡い赤に覆われた青い世界を。そこには限りない愛欲と歓楽の世界が広がっていた。
「あの世界を」
「愛欲の世界」
「そうです」
ヴェーヌスの言葉から剣ではなく愛が出て来ていた。
「薔薇色の優しい霧に覆われた歓喜の世界です」
「かつて私が欲してやまなかった」
「そして今でもです」
ヴェーヌスの誘惑であった。
「今でも。貴方は」
「私は」
「タンホイザー」
また彼の名を呼んだ。
「来るのです」
「何処に」
「決まっています」
彼の心の直接語り掛けた言葉だった。
「この世界に。私の腕の中に」
「しかしもう私は」
「岸辺へ」
またここで水の乙女達の声が遠くから聴こえてきた。
「岸辺に近付きましょう」
「さあ、御聞きなさい」
彼女達の声を背景にまたタンホイザーに告げる。
「あの声を。そして思い出すのです」
「貴女の快楽をと仰るのか」
「その通り」
甘いが厳かな響きの声であった。
「我が唇よりまた我が目より味わったあの神の酒の味を」
「ネクタルの味を」
「思い出すのです。それこそが神の喜びであり愛の宴の歓喜」
タンホイザーへの言葉が続く。
「さあ愛しい人よ、私の下へ」
「だが私はそれでも」
タンホイザーの言葉は強かった。
「私は自由が欲しい。奴隷であるというのに」
「戯言を」
奴隷という言葉にヴェーヌスのその美麗な眉が歪んだ。
「人の世界、いやあの神の世界こそ奴隷の世界」
「だが」
「わかっている筈です」
今度の言葉は宣告に近かった。
「人の世のことは。貴方こそが」
「いや、私が」
「どうしてもというのですね」
「私はもう留まることはできない」
ヴェーヌスから目を逸らした。
「もう。私は」
「ならば行きなさい」
そのタンホイザーから目を離すことなく告げた言葉であった。
「私はもう引き止めない。この快楽の世界へ」
そしてさらに言う。
「あの神が支配する陰気なる妄想の世界からこの神々の麗しい泉に来たというのに再びまたあの世界に戻りたいというのなら。しかし」
「しかし」
「人は冷たいもの、いや」
タンホイザーに対して言葉を代えてきた。
「あの神は冷たいもの。救済を求めようとも救済を得られぬ世界へ」
「そんなことは」
「あるのです」
神らしい有無を言わせぬ宣告であった。
「貴方が離れた者達の慈悲を願いそして拒まれるのです。その時にわかるでしょう」
「何が」
「貴方の居場所が」
またしても厳かにタンホイザーに告げてみせた。
「果たして何処なのかよ」
「それがここだと仰るのですか」
「ここはいずれ全ての人間達が戻って来る場所」
今の彼女の言葉には絶対の自負さえあった。
「追い出され呪われた貴方もまたあの神の下からここに戻って来る。私は、いや神々は」
「神々は」
「誰も拒みはしない」
神の言葉であった。
「誰であろうが。決して」
「そう、必ずだ」
タンホイザーもまたその言葉に反応してヴェーヌスに言葉を返した。
「私ももう二度と戻るつもりはない。決して」
「何とでも言うのです」
最早ヴェーヌスは全く動じてはいなかった。
「そう、何とでも」
「何故そこまで自信に満ちておられるのか」
「言った筈です」
タンホイザーにこう問われても女神の自信は揺らいでいなかった。
「ここには全ての人間達が帰って来るのです」
「全ての」
「そしてこれも言いました」
厳かな言葉がまた戻っていた。
「貴方は必ず私のところに戻って来る。不実な貴方は」
「もう私は」
「これもまた言いましょう」
逃れようとしたタンホイザーにさらに告げる。
「あの神は救いなぞ与えはしないと」
「それはない。きっと」
「救いを与えるのは女神のみ」
その女神の言葉である。
「それ以外にはありません」
「女神が救いを」
「そうです」
再び厳かな声をタンホイザーにかけた。
「あの世界に女神はいないのですから」
「それは違う」
タンホイザーはヴェーヌスの今の言葉をはっきりと否定した。
「救いを与えてくれる者、それは」
「女神以外にはない」
「だからそれは違うのだ」
またしてもヴェーヌスの言葉を否定した。そして遂に言うのであった。
「聖女」
彼は言った。空を見上げ。
「聖女こそが私を救ってくれるのだ。全てを」
「ならばその聖女を探すがいい」
ヴェーヌスはここで遂に己の姿を消していった。
「決して見つからぬそれを」
こう言い残して完全に消え去ってしまったのだった。彼女が消えると同時に泉もまた消えていった。タンホイザーは一人モミの森の中に残されたのであった。
モミの森から離れた何処かからか牧童の声が聞こえてくる。
「ホルダの女神が降り谷や野原を歩き回る」
古い牧童達の歌だった。
「私の耳は甘い響きを聞き目は見たいものが多い。幾つかの夢を見て目を開くと五月がそこにいた」
幻想的な歌であった。まるでここにはいないかのように。
「五月が来たのだ。シャルマイを吹いて祝福しよう、この美しい五月を」
「我が主よ」
牧童の歌と混ざり合ってまた別の歌が聴こえてきた。
「我々は貴方に憧れる。巡礼の望みよ」
「美しく清らかな聖母よ讃えられてあれ」
巡礼の歌であった。ローマまでの。彼等は巡礼の歓びを味わっているのである。
「罪の重荷が我々を押さえ耐えられぬ」
「だが休息を選ばず喜んで辛苦を選ぶ」
「慈悲の高き祭典のこの日に私は罪を謙虚にあがなう」
贖罪もまた謡われる。明らかにこちら側の歌であった。
「信仰に忠実なる者には恵みを。懺悔と悔恨により救われん」
「幸あれ」
牧童の声が彼等を祝福する。
「ローマへ行く人達よ幸あれ、私の哀れな魂のこともどうか」
「戻って来たのだ」
タンホイザーはこの二つの歌を聴いていた。どちらの歌も一段落ついたところで呟いたのであった。
「私は。この世界に戻って来たのだ」
「我が主よ」
「そう、主だ」
巡礼の言葉に今この世界のことを実感した。
「主によって私は救われるのだ。聖女によって」
跪き静かに祈りはじめた。巡礼も牧童もその声を森の中に消していった。やがれ森の中に狩人の服を着た立派な男達がやって来た。彼等はすぐに祈っているタンホイザーに気付いた。
「むっ!?」
最初に気付いたのは先頭の初老の男だ。濃い立派な口髭を生やし非常に大柄で立派な体格をしている。左手に持っている弓が小さい程だ。
「あれ一体」
「伯爵、一体」
「どうされました?」
「あれだ」
この男チューリンゲン辺境伯であるヘルマンはここでその男を指差したのであった。
「あの男だが」
「懺悔していますな」
金髪に青い目の若い男が彼に答えた。この辺り、いや帝国の中で最も有名なミンネジンガーであるヴァルター=デア=フォン=フォーゲルヴァイデである。
「どうやら」
「うむ、そうだな」
ヘルマンはヴァルターのその言葉に頷いた。
「どうやらな」
「外見を見ますと」
白髪の男もいた。この男もミンネジンガーでありビテロルフ=フォン=グローセヒルドという。
「騎士のようですが」
「では我々と同じか」
赤い髪に黒い目の若い騎士が述べた。ラインマル=フォン=ツヴェーターである。やはり彼もミンネジンガーである。へルマン以外にここにいるのは全てそうであった。
「騎士か」
「それにしても」
また一人のミンネジンガー、黒い髪にブラウンの目の最も若い男が口を開いた。ハインリヒ=デア=シュライバーという男だ。
「何処かで見たような」
「そうだな、確かに」
ヘルマンもハインリヒの言葉に頷く。ここで茶色の髪に緑の目の最後の一人が口を開いた。この中では最も優れたミンネジンガーと言われているヴォルフラム=フォン=エッシェンバッハである。
「お待ち下さい、領主よ」
「どうした?」
「あの男はまさか」
その騎士を凝視して語る。
「ハインリヒではないでしょうか」
「何、ハインリヒといえば」
「まさか」
今のヴォルフラムの言葉にヴァルターとビテロルフが反応する。
「タンホイザーか」
「あの男が」
そしてラインマルとハインリヒも。誰もが今のヴォルフラムの言葉に驚きを隠せない。
「間違いない、彼だ」
「まさか今頃」
「戻ってきたというのか」
「領主よ」
ラインマルがヘルマンの側に来て囁く。
「確かに遠目には似ています。いや、何よりも」
「うむ」
ここで彼等はその騎士の服も見た。緑の服とズボン、それに同じ色のマントと大きな竪琴。どれも彼等がよく覚えているものである。
「あの服装はやはり」
「ハインリヒ、いやタンホイザーのものだな」
「間違いありません」
ビテロルフもまた言う。
「タンホイザーです、あれは」
「戻って来たのか、遂に」
ハインリヒは感慨を込めて呟く。
「このチューリンゲンに」
「呼ぼう」
ヴァルターが提案した。
「彼を。ここに」
「そうだな。よし」
ヘルマンは彼の言葉に頷いた。そうして判断を下したのであった。
「呼ぶぞ」
「はい」
「タンホイザー!」
それぞれの口でこう呼んだ。
「タンホイザー、君なのか!」
「その声は」
果たしてその緑の騎士はその呼び声に立ち上がった。そのうえで周囲を見回し彼等の姿に気付いたのであった。
「貴方達が。どうしてここに」
「それは我々の言葉だ」
皆タンホイザーのところに近付いてきていた。ヘルマンが彼等を代表して彼に告げた。
「何故卿がここにいるのだ」
「そうだ、我等を捨てたのではなかったのか?」
「それがどうしてだ」
騎士達も口々に彼に問う。
「それがまたどうして」
「ここにいるのだ」
「講和か」
ビテロルフがタンホイザーに直接問う。
「それとも戦いか」
「友として来たのか。それとも」
ヴァルターもビテロルフと同じことを彼に問う。
「敵か」
「タンホイザー、我々はここにいる」
ラインマルの問いは敵か味方ではなかった。
「そして君もここにいる」
「どちらなのだ、君は」
ハインリヒは彼に返答を求める。
「味方か。それとも敵か」
「いや、待て」
しかしここでヴォルフラムが仲間達に告げた。
「彼の素振り、これが高慢の素振りか」
「敵の?」
「そうだ、敵ではない」
一同に告げてからまたタンホイザーに顔を向けて言う。彼はタンホイザーに問うてはいなかった。
「大胆な歌手よ、よく戻って来た。我々の中に君の席だけが空いたままだった」
「そうだ、平和の心があるならば」
「タンホイザー、我々は君を歓迎しよう」
「友人として」
「だから。ここに帰って来るのだ」
「タンホイザーよ」
騎士達に続いてヘルマンも彼に声をかける。
「私も卿を歓迎する。だが」
「だが?」
「卿は何処にいたのだ」
彼が問うのはそのことだった。
「何処にいたのだ、一体」
「遠い世界を」
何故かこう答えるのだった。
「遠い世界で。私はそこに安らぎを見出せなかった」
「休息を得られなかった?」
「それは一体」
「それは聞かないでくれ。だが私は君達と戦う為に来たのではない」
「では我々のところに帰って来るのだな」
「違うのか」
「いや、違う」
首を横に振って彼等に答える。
「私は行かなければならない。ここにはいられないのだ」
「いや、それは駄目だ」
ヘルマンは強い声で彼を呼び止めた。
「ここに留まるのだ。戻るのだ」
「そうだ、ここに留まるのだ」
「我々の仲間として」
「だが私は」
「いや、駄目だ」
タンホイザーは彼等を振り切ろうとするがそれはヘルマンと騎士達によって止められる。しかしタンホイザーの決意は固かった。
「私は。ここにいてはならないのだ」
「何故だ、何故それ程まで拒む」
「ならばどうしてここに戻って来たのだ」
「私はただ前に行くだけ」
ローマの方を見て呟く。
「ただそれだけだ。振り返ることは許されない」
「友よ」
その彼にヴォルフラムが一際強い声で彼を呼んだ。
「待っているのは我々だけではない」
「では誰が」
「エリザベート姫が」
彼は言った。
「姫が待っておられるのだ」
「エリザベートが」
「そう、姫がだ」
またエリザベートという名を出すタンホイザーだった。
「姫が待っておられる。君のことを」
「エリザベート」
彼はその名をまた呟いた。
「姫が待っているのか」
「そうだ、姫もまた君のことを待っておられるのだ」
そしてまた言うのであった。
「君は大胆な歌い方で我々に挑戦しある時は君が勝ちある時は我々が勝った」
「どれも素晴らしい勝負だった」
「よき思い出だ」
「しかし栄冠は君だけが得た。いつも君だけだった」
騎士達も言いヴォルフラムもさらに言葉を続ける。
「君の魔力と純粋さが混ざり合った歓喜と苦痛に満ちた歌は貞節な乙女の心すら虜にしてしまい君が去った後秘めの心は最早歌を聴こうとはしなかった」
「歌をか」
「そうだ。蒼ざめた姫の御心は君の歌だけを欲していたのだ。だから友よ」
タンホイザーを見て語る。
「姫の為に戻るのだ。彼女の星がまた新たに我々を照らすように」
「そうだ、タンホイザーよ」
「戻るのだ」
騎士達もヴォルフラムと共に彼を呼ぶ。
「戻れ、ここに」
「帰って来るのだ」
「友人として」
「あの殿堂に」
「争いも不和も終わったのだ」
ヘルマンが厳かに彼に告げる。
「だからこそ。戻るのだ」
「私は。あの殿堂にいていいのか」
「そうだ、戻るのだ」
ヘルマンもまた強い声で彼を呼んだ。
「この世界へ」
「エリザベート」
彼はまたエリザベートという名を呟いた。
「私が去った世界。この美しい世界にまた私は」
「帰って来た、緑の騎士が」
「素晴らしい騎士が」
「天は私を見下ろし草原は豊かに飾られている。春の限りない優しい響きは歓喜をあげて私の中に入っていく」
エリザベートを想いつつ歌う。
「甘美に、そして激しく私のこの心は彼女の下へ」
「彼の不遜を砕いた優しき心を讃えよう」
ヘルマンと騎士達も歌う。
「さあ我等の歌を人々の耳に響かせよ。陽気に生気ある響きとなって全ての者の胸から歌われるのだ」
ヘルマンが角笛を吹くと森全体からそれに応える角笛の声が返って来た。タンホイザーは今森と殿堂に帰って来たのだった。かつて彼が去ったその世界に。
この世とは別の世界に居たみたいだけれど。
美姫 「女神とか愛欲とか出てきたけれど、このまま何事もなく済むのかしら」
それとも、何かされるのか。うーん、今回はどんな話になるんだろうか。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。