『スペードの女王』
第三幕 狂気の破滅
リーザと別れたゲルマンは自身の宿舎に塞ぎ込んでいた。まるで病人の様になり軍務からも離れていた。人も寄せ付けず部屋の中で一人陰気な顔をして酒に溺れていた。リーザのことを想ってである。
まだ春だというのに空は暗い。深夜だからではない。雲と風がそうさせているのだ。彼はその中で一通の手紙に目を通していた。
「今夜か」
ゲルマンは手紙を読み終えて呟いた。彼は今部屋の中の粗末な椅子の上に座ってランプの薄暗い灯りを頼りに手紙を読んでいた。その横にはボトルが一本、床には空のボトルが数本無造作に置かれていた。
「今夜運河の橋の上でか。リーザ」
その手紙はリーザからのものであった。彼と会いたい、会えなければ・・・・・・と。思い詰めた彼女の心が露わになった手紙であった。
「僕の為に。僕は一体何をしているんだ」
そう思ったところで急に何かが耳に入ってきた。
「これは・・・・・・」
それはレクイエムであった。死者の魂を慰める歌であった。
「まさかこの歌は」
ゲルマンはその歌に怯える顔になる。
「伯爵夫人の。だが彼女はもう死んだ」
「そう」
「誰だ」
声がした。窓の方からだった。
ゲルマンはそこを見る。するとそこにあの女が立っていた。青い顔をして立っていた。
灯りが消えた。すると何処からか差し込む不気味な光によって彼女は照らし出された。青い顔で彼を見ているのであった。
「僕を連れに来たのか!?」
ゲルマンは怯える声で彼女に問う。椅子の上で震えていた。
「地獄へ」
「違う」
その女伯爵夫人はそれに答えた。
「私は御前の為に来たのだ」
「僕の為に!?」
「そうだ」
「どういうことなんだ」
彼には訳がわからなかった。
「後で聞いた。御前にとって僕は三人目の男だったんだな」
「如何にも」
「御前の命を奪う男だと。その僕の為にどうして」
「リーザの為だ」
「リーザの?」
「そうだ。御前はリーザが好きなのだろう」
「全てはリーザの為なんだ」
彼は言う。
「彼女を手に入れる為なら僕は悪魔にだって」
「その言葉真だな」
「僕は嘘は言わない」
だがその目には狂気が宿っていた。伯爵夫人はもうそれに気付いているがゲルマンは気付いていない。自身の狂気をまだ知りはしなかった。
「彼女を手に入れないのなら破滅してやる」
「破滅か」
「そうだ、死んでも構わない」
「わかった」
伯爵夫人はその言葉に頷いた。そして言った。
「では教えよう。カードの秘密を」
「カードの」
「賭けていくのだ」
「賭けて」
「まずは一だ」
「一」
「そう、一だ」
ゲルマンの復唱に応える。
「そして次は三」
「三だな」
「そう、三だ」
「三なのか」
「よいな、ここまでは」
「ああ、覚えた」
彼女を見て答える。
「そして最後だが」
「最後は」
「七だ、いいな」
「七か」
ゲルマンはこの数字を呟く。
「間違っても他のカードは賭けないことだ」
「わかった、他は」
「特に」
「特に!?」
ゲルマンは狂気に取り憑かれていた。その為ここで彼は間違えてしまった。
「スペードの女王は賭けるな」
「どうしてだ?」
「それが破滅の証だからだ。私の仇名でもあったそのカードだけはならない」
「それを賭ければどうなるんだ?僕は」
「完全な破滅だ」
恐ろしい声であった。実に。
「そうか」
「だから。決して賭けてはならない」
「スペードの女王」
それが頭に残る。これが破滅のはじまりであった。
「いいな」
「わかった」
頷きはしたが心は虚ろになっていた。
「スペードの女王はだ」
「わかった、スペードの女王なんだな」
賭けるべきか賭けないべきかもわかってはいなかった。
「それだけだ。ではリーザを幸せにするのだ」
「わかった、リーザを」
ゲルマンはそれに応える。
「何もかもを僕の手に」
伯爵夫人が消え去るのを見ながら呟く。既にその背中には破滅の黒い翼があることに気付かないまま。彼は一人呟いていたのであった。
このペテルブルグという街はピョートル大帝が北極圏の湿地帯に築いた街である。港を得る為と西にいるスウェーデンへの対策、そして新しい西欧文化を取り入れた街を築く為であった。
この街を築くのに多くの者が犠牲になった。極寒の北極圏に都市を築くのである。過酷な気候と労働、そして疫病により多くの者が倒れた。その為この街は人骨都市とも呼ばれる。屍の上に築かれた街だと言われている。
湿地帯に築かれたこの街の特色は運河が多いことである。冬の運河もまたそのうちの一つである。運河が縦横に走っているがその一つ一つに名がつけられている。それがこの運河の名前なのである。
遠くにペトロハバロフスク要塞が見える。中央には寺院がありそこに歴代の皇帝、皇后の棺が置かれている。要塞は政治犯の監獄ともなっている。その要塞がやっと見えてきた月明かりに照らし出されて夜の世界に白く浮かび上がっていた。
リーザはその要塞を後ろにして橋の上に立っていた。青いマントとフードで身体を隠し青い顔をしていた。
「もうすぐね」
暗い顔で呟く。
「もう真夜中。もうすぐあの人が来る筈よ」
彼女はゲルマンを待っていた。手紙で呼んで待っていたのだ。
「昼も夜も考えるのはあの人のことだけ。彼に全てを捧げてしまった」
心はもう彼のものとなってしまっていた。リーザはそれを感じていたがゲルマンはそうではなかった。ゲルマンは手に入れたものにすら気付いてはいなかったのだ。
「それに疲れ果ててしまったけれど。それでも私は」
ゲルマンを待つのであった。俯いて、暗い顔で彼を待っていた。
「時計がもうすぐ十二時を告げる」
要塞の時計である。
「早く来て。さもないと私は」
姿を見せないゲルマンに対して語り掛ける。
「貴方がいないと。もう生きてはいけない」
心に恨みが宿る。
「私は貴方しかもう見えないのだから。だから」
そして闇に向かって言う。
「来て、愛しい人」
だが時計の音が無慈悲に聴こえた。リーザに死の宣告をするかの様に闇の中に鳴り響いた。
「そう、やっぱり」
その時計の音に絶望せざるを得なかった。
「これが私の運命なのね。あの人にまで裏切られて死ぬのが」
彼女は生きている意味を失ったと思った。そのまま暗い川へと目をやる。その時だった。
「リーザ」
「ゲルマン」
側にゲルマンが姿を現わした。まるで舞い降りるかの様に。
「来たよ」
「来てくれたのね」
「うん」
笑顔を見せる彼女に対して頷く。
フードを外してその顔をまじまじと見る。青くなり、やつれてはいるがその青さとやつれが彼女の儚げな美貌をさらに浮かび上がらせていた。
「来ないかと思っていたわ」
「済まない」
「けれどそれはもういいわ。来てくれたのだから」
リーザは言う。
「それだけでもういいの。貴方が側にいるだけで」
「リーザ・・・・・・」
二人は抱き合う。だが温かくはなかった。冷たい抱擁だった。それは夜のせいであおるか。それともそれとは別の。だがそれは二人にはわかりはしなかった。
「これは本当のことなのね」
「そうさ、僕達が一緒にいることは」
「来ないかもと思うのは悪夢だったのね」
「そうさ、眠りの中の只の悪夢だったのさ」
「そう、じゃあ」
「うん、これからが本当なんだ」
ゲルマンは答える。
「苦悩も涙ももうない、僕は天使と一緒なのだから」
「何処までも。私達は」
「そうさ、じゃあ行こう」
「何処へ?」
リーザはその場所を何処か問う。
「何処かって?決まってるじゃないか」
「私達の愛の巣じゃないの?」
「賭博場さ」
ゲルマンは答えた。
「賭博場だって」
「僕は夢を掴むんだ。そこで夢を」
「何を言っているの、ゲルマン」
リーザは行こうとするゲルマンの裾を握った。
「行っては駄目よ、今の貴方は」
「そこに僕の全てがあるんだ、何もかも」
「私だけじゃ駄目なの?私は貴方さえいれば」
「リーザも何もかも。そう、僕はリーザを手に入れる為に賭博場へ」
「私はここにいるわ」
必死に訴える。だがゲルマンの目にはもう現実の彼女の姿は映ってはいなかった。
「三枚のカードの秘密を知ったから。それで僕は」
「待って、行かないで」
「行くんだ、リーザも夢もそこにあるから」
「どうして、私が見えないの!?」
「見えるさ、そして聴こえる」
見ているのは遥か遠くだった。もう現実も夢幻も彼には同じものとなっていた。全てが怪奇に混ざり合い一緒になってしまっていたのだ。
「彼女が」
「どういうことなの・・・・・・私の声まで聴こえないの!?」
「リーザ、今行く!」
そう言ってリーザの手を振り解いた。
「今君を手に入れる為に。待っていてくれ!」
「ゲルマン!」
そして橋から去り停めてあった馬に乗った。蹄の音が遠くに去っていく。それが彼が去っていく音に他ならなかった。
「どういうことなの・・・・・・」
リーザは橋の上に倒れ込み呟く。
「もう私のことは・・・・・・現実には目に入ってもいないし耳にも聴こえていないというの?」
もうゲルマンは狂っていた。この世界にはいない。それを今感じずにはいられなかった。
「全てが終わるのね。もう彼がここにいないから」
それを悟った。ふらふらと立ち上がる。
「それなら・・・・・・もう」
泣いていた。涙が川に落ちる。そして。
リーザもまたその身を落とした。暗い川の中に。今ゲルマンは天使を失った。しかし彼がそれに気付くことはなかった。その天使を手に入れる為に今向かっていると自分では思っていたのだ。
賭博場もまたフランス風であった。当時のフランス貴族達の間では賭博が優雅な遊びとされていた。ロシア貴族達もそれに倣ってロココ調の装飾の部屋で今賭博に興じていた。
酒と美食、そして煙草と倦怠の香りが立ち込める部屋の中で緑と黒の卓を囲んでいる。トランプのカードがその上で乱れ飛んでいた。
「そう来たか」
「どうだい?」
スーリンとチェカリンスキーがポーカーに転じていた。チェカリンスキーは自身のフルハウスを見せて不敵に笑っていた。
「僕はもうストップだよ」
「そうか」
「君はどうするんだい?ストップかい?」
「いや」
その言葉に首を横に振る。彼も何かを決めているようである。
「もう一回引かせてもらうよ」
「そうか、何枚だい?」
「一枚だ」
「わかった、じゃあ引き給え」
「ああ」
頷いてカードを一枚交換する。目の前でカードを五枚揃えてから言う。
「ストップだ」
「よし、見せ給え」
「うむ」
表情を変えず五枚のカードを見せる。ストレートフラッシュであった。
「僕の勝ちだね」
そしてここで不敵に笑ってみせた。
「そうだね、見事だ」
「一か八かだったよ」
「君はそれに勝ったと」
「ああ、正直フルハウスを見た時は駄目かと思った」
「僕は勝ったと思ったよ」
「生憎だったな。おや」
「どうした?ゲルマンでも来たかい?」
「いや、公爵だ」
「セバストポリ公爵かい?」
ポチョムキンのことである。
「いや、エレツキー公爵だ」
「彼が。まさか」
公爵は女帝の愛人であったが堅物として知られていた。賭け事に現を抜かす男ではない。だからチェカリンスキーも他の者もそれをいぶかしんだのである。
「いや、本当だ。彼だ」
「どういうことなんだ、これは」
「公爵、どうされたのですか?」
「いや、ちょっとね」
公爵はトムスキーの問いに答える。浮かない顔をしていた。
「憂さ晴らしに」
「憂さ晴らし!?」
「そうなんだ、実はね」
「はい」
「婚約を解消してしまって」
「何故」
(まさか)
トムスキーはふと気付いたがそれは口には出さなかった。
「まあちょっとね。悪いけれどそれ以上は聞かないでくれ」
「わかりました」
「それでは」
賭博場にいた者はそれは聞かなかった。公爵はそれを受けたうえでまた口を開いた。
「いい気分転換になるかなって思ってね」
「わかりました。それでは」
「まずは一杯」
「フランスのワインですね」
「いえ、トカイです」
チェカリンスキーがにこりと笑って答える。
「トカイですか」
「はい、まあたまにはフランス以外のものもいいと思いまして」
「これはいけますよ」
「わかりました。では」
スーリンにも薦められてグラスを乾かす。
「素晴らしい、こんなワインははじめてだ」
「そうでしょう」
「では気持ちが落ち着いたところで。トムスキー」
「何だい?」
「どうだい、歌でも」
「今はちょっと」
まずは断ってみせる。
「歌う気には」
「では君にもトカイを」
チェカリンスキーがワインを出してきた。
「これでいいかな」
「仕方ないな。じゃあ」
「明るい曲を頼むぞ」
「公爵をにこやかにさせるような」
「よし、じゃあ」
それに応える形で場の中央に出て来た。
「覚えたてだけれど」
「それでいいよ」
「はじめてくれ」
「よし」
それを受けて朗々と歌いはじめた。
「若し可愛い乙女達が小鳥の様に空を飛んで木の枝に止まるなら」
「どうするんだい?」
「僕は枝になりたい。何千人もの乙女を枝に止まらせよう」
「おお、いいねえ」
「もう一曲」
客達が囃し立てる。賑やかな歌に皆乗ってきていた。
「乙女達を枝に座らせて歌わせよう。巣を作らせてあげよう」
「寛大だね、また」
「君らしい」
「僕の枝は決して曲がったりしなったりしないから。そのまま彼女達を抱いて僕は永遠に幸せを味わうのさ」
「よし、乗ってきたぞ」
「じゃあ楽しくやろうか」
「公爵、どうぞ」
「うん、何をしているのかな」
公爵は薦められた席に座りながらスーリンに尋ねた。
「ポーカーですよ」
「ポーカーなのかい」
「御存知ですよね」
一応のいであった。
「こうしたところでははじめてだけれどね。結構好きだよ」
「それは何より」
「それでははじめますか」
「うん、まずは」
「おおい、ワインだ」
「ケーキを頼む」
周りでは酒に美食が頼まれる。煙草の煙がくゆらぎ部屋の中を覆っていた。公爵はその中でカードを選んでいた。
「まずは一枚」
「はい、一枚」
向かいにはトムスキーがいる。仲介はチェカリンスキーだ。
「伯爵」
公爵はカードを受け取りながらトムスキーに声をかけてきた。
「はい」
「今考えていることなんだけれどね」
「ポーカーのことではなく」
「それとは別のことだけれどね」
「それは一体」
「うん、若しかしたら君に立会人をお願いするかも知れない」
「立会人ですか」
トムスキーはそれを聞いて心の中でやはりと思った。さっきの予想が当たったと感じた。
「君にお願いしたい。いいから」
「ええ、宜しいですね」
真剣な顔で頷く。
「ではその時になりましたら」
「お願いするよ」
「よお、君も来たか」
「今日こそは遊ぶのかい?」
「・・・・・・公爵」
トムスキーは周りの声を聴きながら公爵に声をかけてきた。
「それは今すぐかも知れませんね」
「そうだね。来たか、ここに」
「おい、ゲルマン」
チェカリンスキーがゲルマンを迎えていた。
「顔色が悪いな、どうしたんだ?」
「ああ、いつもよりもずっと。何処か悪いのか?」
「何でもないよ」
ゲルマンは白いマントを脱ぎながらスーリンに応えた。見ればその顔は真っ白でまるで死人のそれの様になっていた。
その顔で席にやって来る。途中で公爵と視線が会った。
「貴方もここに」
「うん、気が向いてね」
心の中に剣を隠しながらのやり取りであった。互いを見据えていたが奥底にあるものは隠し合っていた。
「君もするのか?」
「うん」
トムスキーの声に頷いた。
「まずは一枚」
「遂にゲルマンが賭けるか」
友人達は彼がデーブルに着くのを眺めながらにこやかに話をしていた。
「いよいよだな」
「ああ、どうなるかな」
「僕はとりあえずは」
公爵は席を立った。それで様子を見るつもりなのだ。
「幾ら賭けるんだい?友よ」
「四万」
「なっ」
問うたチェカリンスキーの方が沈黙してしまった。
「おい、四万だって」
「そうさ、四万だ」
「いいのか、それで」
「いい、頼む」
「わかった、じゃあカードは」
「一だ」
こう告げた。
「一か。それでいいんだな」
「ああ、それでいい」
チェカリンスキーの言葉に頷く。何かに憑かれたかの様な虚ろな顔で。
「頼むよ」
「よし」
カードが配られる。そしてゲルマンのところに出たのは。
「一だな」
ゲルマンはそれを見て表情を変えずに呟く。
「僕の勝ちだ」
「おい、勝ったぞ」
「これはまた運がいい」
「運じゃないんだ」
だがゲルマンは友人達の声に対して呟く。
「これは決して」
「じゃあ何なんだ?」
「君は今日おかしいぞ」
「おかしくもないさ」
だがそう返すゲルマンの声は何処か憔悴したものになっていた。
「僕は何処もね」
「いや、やっぱりな」
「ああ」
友人達は口々に言う。
「どうしたんだい?本当に」
「何も憑いてはいないよな」
「何もないさ。じゃあまた賭けよう」
ゲルマンは言った。
「次は三だ」
「三だな?」
「ああ」
「わかった、三だ」
カードが配られる。ゲルマンが引いたのは三であった。
「よし」
彼はそのカードを見て不敵に笑う。まるで地獄の堕天使の様に。
「また僕の勝ちだ」
「ゲルマン」
最も親しい友人であるトムスキーが彼に声をかけてきた。
「これで止めておけ」
「どうしてだい?」
「何かおかしい。これ以上やると恐ろしいことになる」
「そんなことはない」
だがゲルマンはそれを否定する。
「もう一枚で全てが終わるんだ」
「もう一枚?」
「そうだ、それだけなんだ、後は」
虚ろな目が次第に充血していく。すぐに死霊の目の様に真っ赤になった。蒼白の顔に浮かび上がるその紅の目はまさに死の目であった。
「それで全てが」
「だからもう」
「トムスキー」
さらに言おうとする彼をチェカリンスキーとスーリンが止めた。
「もう駄目だ」
「駄目とは」
「彼は憑かれている」
チェカリンスキーはゲルマンの姿を見て彼に言った。
「救われない。このまま側にいては駄目だ」
「そんな・・・・・・」
「恐ろしいことが起こる。僕達はそれを見守るしかできない」
スーリンの顔は何時になく強張っていた。
「このまま」
「ゲルマン・・・・・・」
「さあ、次だ」
ゲルマンは言う。
「次に僕とカードをするのは誰だい?」
「では私が」
公爵が前に出て来た。
「貴方が」
「宜しいかな、ゲルマン君」
ゲルマンを見て言う。彼の為に婚約が破棄されたことは知っている。だがその怒りは今は表には出さない。じっと見据えているだけである。
「それで」
「はい」
ゲルマンはそれを受けた。
「僕達の人生はゲームですね」
「確かに」
公爵は彼の言葉に頷きながら席についた。そして向かい合う。
「善も悪も全ては儚い夢。愛も金も名誉も地位も何もかも」
「そういうものなのか」
「そうですよ。それでもそういったものを手に入れる為に僕達はこうして生きているんですよ。運を頼りに」
「運だけか」
「そう、運だけ。それがなければどうにもなりはしない。唯一つ同じなのは」
「それは?」
「死です」
彼がそう言った瞬間場が凍った。何か得体の知れない冷気が覆ったのだ。
「やはり」
「これは」
皆その冷気の中に魔性を見ていた。
「ゲルマン、彼はもう」
「救われないぞ」
「死こそ僕達の避難場所。その魅力に勝るものはありません」
「成程。では破滅は」
「それも甘美なもの」
「公爵」
友人達が彼を止めに入る。
「止めておかれた方が。このままでは」
「いや、いいです」
だが公爵は逃げようとはしなかった。
「このままで。破滅をするのは僕か。それとも」
ゲルマンを見やる。
「彼か。もうすぐわかりますから」
冷気と妖気に耐えながら述べた。背筋を悪寒が襲うが何とかそれに耐えていた。
「配ってくれ」
ゲルマンは言った。
「カードは?」
「女王」
ゲルマンは言う。
「スペードの女王だ」
「わかった。公爵、貴方は」
「ではキングを」
彼はそれを言った。
「それで」
「わかりました。では」
カードが配られる。ゲルマンと公爵それぞれに。ゲルマンはそのカードをめくった。そして勝ち誇った笑みをその白い顔に浮かべた。
「勝った、スペードの女王だ」
「違う」
だが後ろで見る誰かが言った。
「それは七だ」
「何だと!?」
見ればそうであった。そこにあったのは七のカードであったのだ。
「そんな・・・・・・」
「スペードの女王はここだ」
公爵が自分のカードを見せる。確かにそれがスペードの女王であった。
「そんな・・・・・・馬鹿な」
「僕の勝ちだ」
「馬鹿な、こんなことが・・・・・・」
「やはり」
「なっ」
「誰だ!?」
辺りが急に暗闇に包まれた。そしてその闇の中からあの老婆が姿を現わしたのであった。
「御前は破滅した」
「伯爵夫人・・・・・・」
「死んだ筈なのに」
「どういうことなんだ、これは」
「御前はカードを間違えたのよ」
伯爵夫人は表情を変えず冷たい声でそう述べた。
「僕がか」
「そう、最後に賭けるべきは七だった。だが御前はスペードの女王を選んでしまった」
「馬鹿な、どうして・・・・・・」
「それこそが運命だったのだ。堕天使は破滅する運命」
「僕は・・・・・・破滅する運命だったのか」
今それを悟ったゲルマンだった。しかし。伯爵夫人は彼にまた言ってきた。
「そうなる。甘美な破滅に」
「甘美な破滅・・・・・・」
「リーザはここにいるわ」
伯爵夫人はゲルマンに対して囁いてきた。
「リーザが?」
「そうよ。それだけは伝えておいたわ。それじゃあ」
伯爵夫人は姿を消した。場は元に戻った。
ゲルマンはその中でふらふらと立ち上がった。赤い目の光は消え空虚なものとなっていた。
「リーザ・・・・・・そこにいるのか」
そして恋人の名を呟いた。遂に。
「なら・・・・・・僕はそこに行こう。君の側で安らかな死を」
「あっ!」
「ゲルマン!」
懐からナイフを取り出し胸に刺した。赤い血の海の中崩れ落ちた。
ゲルマンは甘美な破滅を迎えその場に崩れ落ちた。その周りにはトランプのカードが舞い降り彼の亡骸を覆った。誰も何も言えなかった。ただその破滅を見届けただけであった。
スペードの女王 完
2006・10・20
悲劇だな。
美姫 「よね。リーザの心は既に決まっていたのに」
哀れというか……、本当に。
美姫 「今回はこういう終末だったのね」
破滅に突き進むか。さて、これでこのお話も終わりみたいだな。
美姫 「みたいね。それでは、この辺で」
ではでは。