『スペードの女王』
第一幕 愛か、それとも死か
ロシアの黄金時代の一つと言われているエカテリーナ二世の時代。この時代はロマノフ王朝において華やかな貴族文化が花咲いた時代であると言われている。
それはこの時のロシアの主であるエカテリーナ二世の資質と人柄によるものが大きかった。ドイツの貴族の家に生まれた彼女はロマノフ家に嫁入りした。すぐにプロイセンかぶれで兵隊の人形を集めてはごっこ遊びに興じてばかりの精神、知能、発育いずれも異常な夫とは疎遠になりその分を文学、そしてロシア語、哲学等に向けた。その結果彼女は教養溢れる英邁な女性となったのであった。
この夫はピョートル三世となったが殆どの者が予想した通り愚行を繰り返した。前の女帝エリザベータが心の奥底から憎悪し、その全身全霊を以って打倒しようとしていたプロイセンのフリードリヒ大王と講和してしまったのだ。
この講和は七年戦争での講和であったが実はこの戦争は女性陣にとっては極めて因縁のあるものであった。
元々はオーストリア、即ち神聖ローマ帝国皇帝への即位に端を発するものであった。オーストリアは男子継承であったがこの時の当主は女性のマリア=テレジアであったのだ。これに領土的野心や神聖ローマ帝国皇帝の玉座に野望を持つ周辺国家が一斉に異議を唱えた。そしてオーストリアに宣戦を布告した。所謂オーストリア継承戦争である。
オーストリアに戦争を売ったのはプロイセン、バイエルン、そして長年の宿敵フランスである。フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家といえば不倶戴天の敵同士である。欧州ではまたしてもこの二つの家の戦いかと思われた。
だが今回は主役が違っていた。一方の主役はオーストリアであったがもう一方はプロイセンであった。プロイセンの王はあのフリードリヒ大王。優れた軍人である彼はオーストリアに攻め込みシュレージェンを奪った。これにマリア=テレジアが激怒したのである。
若しマリア=テレジアがごく普通の女性だったならば次の七年戦争も起きなかったであろうしエカテリーナもロシアの女帝にならなかったかも知れない。だがこの女帝はすこぶる優秀な女帝であった。後にハプスブルク中興の祖とさえ呼ばれている。オーストリア継承戦争をイギリス、そしてロシアと結んで凌いだ後は優れた人材を抜擢し内政、そして軍隊を整えると共に夫であるロートリンゲン公フランツ=シュテファンを神聖ローマ帝国皇帝とし、さらに敵をプロイセンに定めその台頭を苦々しく思っていた諸国と同盟をとりはじめたのだ。
スウェーデン、ザクセン、そして何と宿敵だったフランスとも。この思いの寄らぬ同盟は外交革命とさえ呼ばれた。ハプスブルクは新たな宿敵プロイセンを倒す為にかっての宿敵と手を結んだのである。
ここのフリードリヒの人間性が問題となる。彼は確かに英邁な君主であり偉大な軍人であったが同時に女性蔑視主義者であった。これがマリア=テレジアの怒りを買った理由の一つであった。
この大王にとって悪いことにフランスの当時の外交顧問はポンバドゥール夫人であった。平民出身ながら王の愛人、そして政治顧問にまでなった彼女は言うまでもなく女である。当然フリードリヒを好く筈がなかった。これでオーストリアとフランスの同盟は成った。
そしてロシアであるが。エリザベータ女帝は西で勢力を伸張するプロイセンを目障りに思っていた。しかもフリードリヒを人間的にも嫌い抜いていた。むしろこちらの方が大きかったかも知れない。何しろ目の前で話をしただけで不機嫌になってしまったという話がある程なのだ。彼女がプロイセン潰しに加わったことは言うまでもない。
オーストリアのマリア=テレジア、フランスのポンバドゥール夫人、そしてロシアのエリザベータ女帝。この三人に囲まれたフリードリヒは絶体絶命に追い込まれた。この同盟を『三枚のペチコート』と呼ぶ。そして三国がプロイセンに挑んだ戦争を七年戦争と呼ぶ。三国は終始プロイセンを追い込んでいた。
だがよりによってエリザベータ女帝が急死する。彼女は最後の最後までフリードリヒを倒すことを叫んでいたという。それ程までに彼を憎んでいたのだ。
だが次のピョートル三世はどういう頭の構造なのかわからないがプロイセン崇拝主義者だった。そして即位して早速プロイセンと講和した。しかも勝っている戦争なのにプロイセンに一方的に有利な条件でであった。あと一歩でプロイセンを倒せたというのにだ。オーストリアもフランスもこれには呆れてしまった。結果としてこれでフリードリヒもプロイセンも生き残り女性達は彼を仕留めることが永遠に出来なくなってしまったのであった。
しかもこの皇帝の頭の構造はさらに奇怪で軍服をプロイセン風にしながら給料は払わなかった。財政をそちらに注ぎ込んだからだ。前の女帝の政策を冷笑し全否定したがその政治は滅茶苦茶だった。しかもデンマークと戦争をしようとする。これで軍が彼を見離した。
それに擁立されたのがエカテリーナである。彼女は素早く軍を動かすとすぐに帝位を奪った。この時の軍服を着た彼女の絵がサンクトペテルブルグに残っている。
この無能な夫はすぐに暗殺された。彼女に暗殺されたというがこれも仕方ないと言えるような人物であった。妻でもある彼女をほったらかしにして肥満してお世辞にも美人とは言えない愛人と遊んでいたのだ。やはり何処までも異常な皇帝であったと言えよう。
そしてエカテリーナだが彼女は内政を整備しトルコと戦争をして領土を拡大した。文化にも重点を置き今だに粗野な空気が漂うロシアを西欧風のみらびやかな文化で飾った。とりわけフランス文化を愛し彼女自身もフランスの思想家ヴォルテールと交流を持っていた。宮廷はフランスの服着た貴族達がフランスの料理とフランスの音楽に耽溺し、フランス語を話していた。ロシア人がこよなく愛するバレエもフランスから入ったものである。
こうした華やかな貴族文化の中心は首都であるペテルブルグであった。北にあるこの首都は寒冷の地にありながらもまるで西欧の街の様に美しい。
赤や橙のブロックの建物が並び女帝の宮殿がそびえ立っている。エルミタージュからは美しい音楽が絶えることがない。人々はその中を歩いている。
今は春だった。長い冬が終わりようやく春が訪れた。ピョートル大帝が造らせた夏の庭園に今子供達が集まって賑やかに遊んでいた。
「ほらこっちこっち」
「ボールはあっちだよ」
ボールを手にしてそれを蹴ったり投げたりしている。縄跳びに興じている子供達もいる。
そんな子供達を見守るのは母や姉達。彼女達も春の到来を喜んでいた。
「この街の冬は長くて厳しいけれど」
その中の一人が述べた。
「それでも春は」
「いいものよね」
「ええ。子供達もずっと家の中に閉じ篭っていたけれど」
「春になると違うわ。こうして外に出て」
「私達もね」
彼女達もにこやかな顔で言い合う。
「楽しみましょう」
「今日は怒ることもなく」
「朗らかにね」
「ねえお母さん」
子供達が今度は母親達に声をかける。
「兵隊さん達が来たよ」
「あら」
「本当」
「一、二、一、二」
子供達が早速兵隊の真似をして歩きはじめた。行進をはじめる。
そこに見栄えのいい軍服を着た兵隊達が規律よくやって来た。銃を持って堂々と行進してきている。
子供達はそれの真似をしているのだ。先頭にはしっかりと指揮官までいる。
「行くぞ、勇敢なる兵士達」
その少年は笑顔で言う。
「我がロシアの敵をやっつけろ」
「そうだ、ロシアの敵を」
他の子供達も言う。
「僕達がロシアの敵を倒すんだ」
「敵を倒すのは僕達の務め」
「武器を手に立ち向かい」
「敵共を懲らしめてやるのだ」
「いざ陛下の下に」
言うまでもなくエカテリーナ二世のことである。実際にロシアはこの頃トルコと戦争をしていたしプガーチョフの乱も経験する。女帝の後継者であるサレクサンドル一世はナポレオンと激しく争った。実際に彼等も戦場に行くことになるのだ。
「偉大なる女帝」
「賢明なる女帝」
子供達は口々にエカテリーナを讃える。実際に彼女はロシアそのものであるかの様に君臨して治めていた。農奴への圧迫はあったにしろ彼女は善政を敷き民衆から尊敬されていたのであった。
「我等が母なる女帝、ロシアを治められる女帝に栄光あれ!」
「陛下の為に!」
「僕達も!」
「あらあら、立派な兵隊さん達ね」
母や姉達はそんな子供達を見て目を細める。
「これならどんな敵が来ても安心ね」
「トルコでもタタールでも」
この時代でもタタールは脅威であった。少なくとも無意識下にまで浸透していた。
「やっつけてくれそうね」
「そうね、ロシアの敵も陛下の敵も」
「頼もしいわ」
「ええ」
女達も目を細めてそんな話をしている間に二人の貴族がやって来た。春の光の下で彼等は何か話をしていた。
「スーリン君」
金髪の男が黒髪の男に声をかけてきた。
「昨日の勝負はどうだった?」
彼はそう尋ねた。
「ああ、昨日はさっぱりさ」
その黒髪の男スーリンは金髪の男にそう答えた。
「全然だったよ」
「そうだったのか」
「チェカリンスキー君、君は来ていなかったね」
「ああ、昨日はね」
チェカリンスキーは彼に対して述べた。
「子供がね。風邪をひいて」
「大丈夫だったかい?」
「ああ、今朝は元気だったよ。大したことはなかったようだ」
「そうか、それは何よりだ」
「うん。ところで」
ここで話が変わった。
「どうした?」
「彼は昨日も来ていたのかい?」
「彼?ゲルマンのことかい?」
「ああ、やっぱり彼はいたのかい?」
「いたよ」
スーリンは隠すこともなくそう述べた。
「そうか、やっぱり」
「相変わらずさ」
そしてまた言った。
「勝負がはじまってから終わるまで。ずっとテーブルにいたよ」
「ワインを飲みながらか」
「ああ、そこまでいつも通りさ」
「他の人間の勝負を見るだけで」
「そう、そこも同じだったよ」
スーリンは言う。
「全部ね。相変わらずさ」
「変わっているな、相変わらず」
「そうだね。相変わらず彼は変わり者だ」
「勝負をせずに」
「見ているだけ」
「何でまたそんなふうになっているんだろうな」
チェカリンスキーにはそれが不思議でならなかった。
「何か倹約の誓いでもしているのかな」
「ああ、彼はあまり裕福な家ではないからね」
「そうなのかい?」
「本人が言うにはしがない貴族の家の次男坊で。食う為に軍人になったそうだ」
「食う為にか」
「まあ他に行くところがなかったということだな。それで士官になった」
「それでも。貧しいのか」
「軍人の給与なんてたかが知れてるさ」
スーリンのこの言葉は事実であった。ロシアでは軍人の給与は決して高くはない。士官も貴族なのでその給与に頼らなくても充分にやっていけるからだ。むしろそちらの方が収入はずっといい。軍人は言うならば個々の責務や名誉なのである。だが例外も当然おり、ゲルマンがそれであった。彼は貧しいので軍人になったが結局貧しさは変わらなかったのである。それも若い将校ならば尚更だ。彼はずっと貧しいままであったのだ。
「だからか」
「ああ、そうさ」
「しかしずっと見ているだけというのも」
「おかしな話だ」
「そうだな・・・・・・んっ」
チェカリンスキーはここで公園にやって来る。二人の軍人に気付いた。一人は顔を上げ、もう一人は俯いている。その俯いた顔は整っているが非常に暗く塞ぎ込んだものであった。
「噂をすればだな」
「そのゲルマンか」
「ああ、相変わらず陰気だな」
「そうだな。まるで何かに取り憑かれたみたいだ」
二人はその俯いた男を見てそれぞれの口で言った。
「昨日の夜もああだったよ」
スーリンは彼を見ながらそう述べた。
「ずっとあんな様子でね」
「そうか」
「しかし。あのままで大丈夫かな」
スーリンはゲルマンのその顔に只ならぬものを感じていた。声には不吉を感じるものがあった。
「彼は。明らかにおかしい」
「そうだな。いずれ恐ろしいことになるかも知れない」
「それが破滅でなければよいけれど」
だがゲルマンにそんな話は耳には入らなかった。彼は俯いたままで同僚と共に歩いていたのであった。
赤い髪をした長身の男が彼に声をかけていた。目は青で凛々しい顔をしていた。彼の名をトムスキーという。
「なあゲルマン」
彼は心配そうにゲルマンに声をかけていた。
「最近どうしたんだ?」
「いや、別に」
奇麗な金髪をなびかせた緑の目の男がゲルマンであった。白く中性的な顔をしていてそれが実に悩ましげだ。身体は細身であり軍服はまるで貴族の礼装の様にも見える。軍人というよりは俳優の様な感じた。美しい。だがそれ以上に暗い影が彼を覆っていた。
「そうか?僕にはそうは思えないが」
トムスキーはさらにゲルマンに対して言った。
「前に比べてずっと暗くなったし賭博場に通い詰めで。何かあったとしか思えないんだが」
「そう見えるのかい?」
「ああ、見えるね。何か悩みでもあるのかい?」
「あるっていえばどうするんだい?」
トムスキーにその沈んだ顔を向けて問うてきた。やはり理由があった。
「それを聞かせて欲しい」
トムスキーはそれに応えて言った。
「何が理由なのかをね」
「恋さ」
ゲルマンはまた俯いて答えた。
「恋・・・・・・」
「そうなんだ、実は」
「そうだったのか」
「意外かい?」
またトムスキーに顔を向けて尋ねてきた。
「僕が誰かを好きになるのが」
「いや、そうは思わない」
トムスキーはそれは否定した。
「だが。それは誰なんだい?」
「それがわからないんだ」
その問いに空しく首を横に振った。
「何処の誰かさえね」
「そうなのか」
「彼女が他の誰かといるんじゃないかと思うとそれだけで嫉妬に狂う。どうしても彼女と一緒にいたいんだ、まだ名前も知らないっていうのに。自分でもどうしていいかわからない程なんだよ」
「ゲルマン・・・・・・」
トムスキーはそれを聞いて提案してきた。
「それなら告白してみたらどうだい?」
「告白・・・・・・」
「そうさ。そして彼女を手中に収めればどうかな」
「無理だ」
だがゲルマンは友の言葉に首を横に振った。
「どうして」
「彼女はかなり身分が高い。それに裕福だ。僕にはとても」
貧乏貴族の己の出自を呪わずにはいられなかった。
「じゃ諦めるしか」
「それは嫌だ」
だがそれにも首を横に振る。
「彼女を諦めることなんてできるものか、僕には」
「ゲルマン、君は本当にあのゲルマンなのかい?」
思い詰めた彼に問う。
「あの落ち着いた君とは思えない。どうしたんだ」
「これが本当の僕なんだ」
トムスキーに応えて言う。
「今までの僕は本当の僕じゃない。本当の僕はこうして恋に身を焦がす僕なんだ。もう止められはしない」
彼は言う。
「自分でも。わかってはいるんだ、けれど」
「それ程までにその人を」
「ああ、もう他の女性のことは目に入らない」
後ろでは母や姉達が子供達を前にしてお喋りに興じている。だがゲルマンは本当にそれも目に入ってはいなかった。
「こんな心地よい日は久し振りだよ」
そこには老女達もいた。ロシアに相応しく太った身体を持つ老婆達である。彼女達は若い母親や娘達に対して語っていた。
「今のうちにね」
「太陽の光を浴びておくんだよ」
「太陽の光をですか」
「そうさ、浴びれる時に浴びておく」
「食べたい時に食べ、蓄えられる時に蓄えておく」
「それが生きる知恵ってやつなんだよ」
所謂生活の知恵を語る。ロシアではお婆さんが何かと生活の知恵を教えてくれるものであるがそれはこの時代でも同じであった。
「ほら、周りを見てみなよ」
「周りを」
「どうだい?皆楽しんでいるだろう」
「はい」
若い女達は老婆達の言葉に頷く。
「兵隊さんも学者さんも並木道の間で楽しそうに」
「だから私達も楽しんで」
「さあ、気持ちよく」
「遊べばいいのですね」
「そうそう」
「邪魔な亭主や彼氏のことは忘れてね」
「ぽかぽかと」
そんな話も今のゲルマンの耳には入らない。子供達の声も。彼はその女性のことしか見えてはおらず、考えられなくなってしまっていた。
「だがゲルマン」
トムスキーは思い詰める彼にまた言った。
「その女は君のことを知っているのかい?」
「いや」
ゲルマンはその言葉に首を横に振る。
「多分・・・・・・」
「そうなのか」
「知らないと思う。けれどそれでも僕は」
気持ちが抑えられないというのだ。
「彼女を忘れることなんてしない。忘れる位なら死んでやる」
「そこまで言うのか」
「僕は本気だ」
やはり思い詰めた顔であった。
「何があっても」
「わかった」
そこまで聞いたうえでトムスキーは言った。
「では彼女は何処にいるんだい?いつも」
「よく寺院にいる」
「寺院に」
「聖イサーク寺院でよく見る」
「じゃあ今からこちらへ行こう」
「ついて来てくれるのかい?」
そう問う。
「僕も乗りかかった船だ、同行しよう」
「すまない」
「いいさ、君には仕事で結構助けてもらっているしね」
ゲルマンは軍人としては評判がいい。真面目で実直な将校として知られている。
「だから。行くか」
「うん」
二人は庭園を後にして金色のドームのある寺院に向かった。大理石と花崗岩でできている荘厳な趣の寺院である。言うまでもなくロシア正教の寺院である。
「ここなんだね」
「うん、この時間でもよく見る」
ゲルマンは答えて言う。
「それじゃあ」
「もう少し待っていれば・・・・・・あっ」
「どうしたんだい?」
「彼女だ」
ゲルマンは青いドレスを着た小柄な女性を見て言った。
「間違いない、彼女だ」
「そうか、彼女なのかい」
「うん」
その女性は楚々とした外見に白い顔をしていた。茶色がかった黒髪はやや巻いており黒い目には何故か憂いがあった。何処か儚げな女性であった。
「彼女なんだ」
ゲルマンは言う。
「彼女が僕の」
「そうだったのか」
「彼女を見たことはあるかい?」
「いや」
それには首を横に振った。
「ないね。悪いけれど」
「そうなのか」
「ただ・・・・・・んっ!?」
寺院から赤い服を着た金髪のがっしとした体格の大男が出て来たのを見た。トムスキーは彼は誰なのかは知っていた。
「エレツキー公爵だ」
「エレツキー公爵!?」
「そうだ、女帝の部下であったからだ」
「そうか、陛下の」
エカテリーナ女帝は多くの愛人を持ったことで知られている。美男子を愛し、その中にはロシアの名将セバストポリ公爵ポチョムキンもいた。愛人でもあり腹心の部下でもあったのだ。
見ればエレツキー公爵も美男子である。少なくとも女性の眼鏡に適う顔ではある。ゲルマンとはまた違った美男子である。
「彼もここに来ていたのか」
トムスキーは彼を見て呟く。
「何かあるのかな。あまり教会には来ない人物だというのに」
「誰かの付き添いなんじゃないかな」
ゲルマンは何気なくこう応えた。
「それなら」
「そうかもな。じゃあ・・・・・・んっ!?」
「どうしたんだい?」
「いや、その公爵だけれど」
トムスキーは言う。
「見ろ、彼女の方に」
「まさか・・・・・・えっ」
その通りだった。公爵は彼女の方に歩いて行く。
「どうして公爵が彼女に!?」
ゲルマンは声をあげる。
「どういうことなんだ」
「待て」
トムスキーは声をあげる友を制止した。
「ここは静かに。いいな」
「・・・・・・ああ」
ゲルマンもそれに従った。そして様子を見ることにした。
「公爵」
その少女は公爵ににこやかな顔を向けてきた。
「あの笑顔」
ゲルマンはそれを見ただけで顔を歪めさせた。
「僕のものであればいいのに」
「静かに」
そんな彼をトムスキーは窘めた。
「いいな」
「あ、ああ」
頷く。そしてまた彼女を見る。
「如何ですか、御気分は」
「実にいい気持ちです、リーザさん」
「リーザというのか」
トムスキーはその名を聞いて呟いた。
「聞いたな、ゲルマン」
「・・・・・・ああ」
ゲルマンは物陰でこくりと頷いた。二人は物陰に隠れてそのリーザと公爵を見ていた。今隠れたのである。
「彼女はリーザというそうだ」
「リーザ・・・・・・いい名前だ」
ゲルマンはその名を呟いていた。
「覚えたよ、その名前」
「そうだな。それで」
「貴女の御婆様には感謝しておりますよ」
公爵はそんな二人に気付くことなくリーザに対して述べた。
「私達の婚約を許して下さって」
「はい」
「婚約だって」
それはゲルマンが最も聞きたくない言葉であった。
「そんな・・・・・・彼女が他の男のものになるなんて」
「だから落ち着けって」
トムスキーはまた彼を止めた。
「ここで騒いだらもっと大変なことになる。いいな」
「・・・・・・ああ、わかった」
ゲルマンはまたその言葉に頷いた。
「今は大人しくしろということだね」
「そうだ。いいな」
「ああ」
二人はまたリーザ達を見た。そこに一人の黒いドレスを着た老婆がやって来た。
奇麗な白髪を飾っている。年老いているのがわかる皺だらけの顔だがその顔は今でも整っている。皺さえなければとても老婆とは見えないであろう。青い目は湖の様でありそれがとても印象的であった。目そのものは鋭く、切れ長であった。美しいが何処か険のある面持ちであった。そして全体の雰囲気は黒いドレスのせいか近寄り難く、威圧的なものと禍々しいものを含んでいた。まるで魔女の様に。
「御婆様」
リーザは彼女に顔を向けてにこやかに笑ってきた。
「どうされたのですか?」
「いや、何も」
だが彼女は辺りに何かを感じているように剣呑な雰囲気で見回していた。
「何だろうね、暗い影が見えるよ」
「暗い影が!?」
「不幸をもたらすようなね。何なのあろう」
「あの老婆は」
ゲルマンも彼を見て呟いた。
「あの青い目の中に僕を見ているのか?そして何を望むというんだ」
「あの若者は」
伯爵夫人は物陰にいるゲルマンに気付いた。
「私を見ている?いやリーザを」
「気付いたのか?」
ゲルマンも伯爵夫人の視線を感じた。
「まさか」
「不吉な目の光。暗い情熱を宿した瞳」
「駄目だ、彼女の青い目に睨まれたら」
二人はそれぞれ呟く。
「何か恐ろしいことを引き起こす」
「僕を破滅へと誘うような。どうしてなのだ」
「ゲルマン」
トムスキーがここでまた彼に声をかけてきた。
「何だい?」
「とりあえず彼女のことはわかった」
「ああ」
「まずは挨拶をしよう」
「挨拶だって!?」
「何を驚いているんだ?」
トムスキーは逆にゲルマンに問うた。
「彼女に近付ける機会じゃないか」
「しかし彼女は」
「いいか、ゲルマン」
トムスキーはいぶかるゲルマンに対して言った。
「今は彼女と会うのが一番いいんだ」
「婚約者がいてもか」
「そうさ。それにもう君は彼女に婚約者がいても問題じゃないだろう」
そこまで思い詰めていることを既に読んでいたのだ。
「違うかい?」
「それは・・・・・・」
その通りである。否定出来なかった。
「・・・・・・その通りさ」
俯いて答えた。
「僕は彼女を」
「ならいい。じゃあ行こう」
「まずは彼女を知ってからか」
「そうさ、彼女に顔を知ってもらう」
彼はまた言った。
「まずはそれからだ。いいね」
「わかったよ。じゃあ」
「行こう」
二人は前に出た。そして心地よく公爵達に挨拶をした。
「やあ公爵」
「おや、君は」
公爵はトムスキーの顔を知っていた。
「トムスキー君かい?近衛軍の」
「はい、お久し振りです」
「そうだね。何時ぞやの夜会以来か」
「あの時はどうも」
二人は知り合いであった。もっとも一度会ったという程度であるが。
「暫く会わなかったけれど元気みたいだね」
「ええ、お陰様で」
トムスキーはにこやかに答えた。
「私も大尉になりました」
「そうか、それは何より」
「それでこちらが」
ここでゲルマンを紹介してきた。
「私の同僚のゲルマン君です」
「はじめまして」
ゲルマンはそれを受けて前に出た。それから一礼した。
「ゲルマンと申します」
「はい、こちらこそ」
公爵は彼に挨拶を返した。
「ゲルマンさんですか」
「ええ、宜しくお願いします」
二人は握手をしながら挨拶を交あわせた。
「士官の方ですね」
伯爵夫人は既に彼を見ていた。警戒する目をしながら彼に問うた。
「はい、彼と同じく近衛軍にいます」
「左様ですか」
「それが何か」
「いえ、何も」
答えはしたがまだ警戒する目をゲルマンに向けたままであった。
「ところで奥様」
今度はトムスキーが伯爵夫人に声をかけてきた。
「何か」
「今日はどうしてこちらへ」
「孫についてきまして」
「そうだったのですか」
「はい」
この挨拶自体はつつがないものであった。
だが。伯爵夫人は相変わらずゲルマンを見ている。ゲルマンの方もそれに気付いていた。
(やっぱり僕を見ている)
彼は心の中でその視線を感じて呟いた。
(不吉な印象の人だ。その黒いドレスといい)
(不気味な男)
伯爵夫人の方もそれを感じていた。
(一体何を考えているのか)
(僕の心を読もうというのか)
(一体何をするのか)
(僕を告発するのか。彼女を想っていると。まさか)
「ところで」
二人にとってはいいことに公爵がここで話を切り出してきた。
「奥様は以前スペードの女王と呼ばれていたそうですね」
「ええ」
ゲルマンから目を離して答えた。
「もう遠い昔のことですが」
「スペードの女王!?」
トムスキーがその名を聞いて声をあげる。
「それは一体」
「トランプのカードのあれです」
「ああ、あれですか」
一旦は公爵の言葉に頷いた。
「それがこの方の渾名となっていたのですよ」
「それは初耳ですね」
まだ怯えが残っているゲルマンを置いてトムスキーが応対していた。
「どうしてその様な渾名に」
「それは」
「私がお話しましょう」
伯爵夫人が自ら名乗り出て来た。そして公爵を制した。
「貴女がですか」
「はい、あれはパリでのことでした。私はあの頃ペテルブルグのヴィーナスと呼ばれていました」
「ほう」
それは凄いことだとトムスキーは声をあげた。やはり当時のロシア人にとってフランスは憧れの国でありパリといえば文化そのものであったのだ。
「私に声をかけてくれる殿方も大勢いらっしゃいました。その中に」
「その中に」
「あのサンジェルマン伯爵もおられたのです」
「あの方がですか」
トムスキーも彼のことは聞いていた。
「はい」
サンジェルマン伯爵とは歴史に名高い謎の人物である。錬金術を極めた賢者だとも詐欺師だとも言われている。知らぬことはないとまで言われていた。彼がどれだけ生きているのかは誰も知らない。全てが謎の人物でありこの時代においてもそれは同じであったのだ。
「あの方に教えて頂いたことがありまして」
「それは一体」
「どんなことですか、御婆様」
「あの時私はカードで負けてしまいまして」
「カードにですか」
カードのことを口にしたのだった。
「それで当時親しかった伯爵に教えて頂いたのです。それも無償で」
「無償で!?」
「あの方はお金も女性も全く興味の無い方でしたので」
「どうやらそうらしいですね」
トムスキーはその話を聞いて述べた。
「あの方は何でも金を作り出せたとか」
「そうです」
「それは本当なのかい!?」
ゲルマンはそれを聞いて友に問うた。
「そんなことが可能なのか」
「彼はね」
トムスキーはそう答えた。
「それだけじゃない。他にも色々出来たそうだ」
「そうなのか」
「あくまで噂だと思っていたけれど本当だったのか」
「そして女性もまた」
「そうでしょうね。不死身なら」
トムスキーは伯爵夫人に応えた。
「そうした煩悩とは無縁になれるでしょう」
「そうです。ですから善意で教えて頂いたのです」
「またそれは運がいい」
「カードの秘密を」
伯爵夫人は言った。
「カードの秘密!?」
「賭け方です。三枚のカードを使った」
「それでどうされたのですか?」
「それを使ってそれまでの負けを取り戻したのです」
伯爵夫人は静かに述べた。
「成程」
「全てはあの方のおかげでした」
伯爵夫人は何故かここで顔を綻ばせなかった。不吉なままである。
「そのことから私がスペードの女王と呼ばれるようになったのです」
「そうだったのですか」
「ですが」
彼女はここでさらに言おうとする。だが。
急に天気が悪くなってきた。それまでの青空が嘘の様に暗い空に変わっていく。
暗雲が立ち込めていく。それを見て人々は残念そうな顔になっていった。
「あら、折角の小春日和だったのに」
「これじゃあ仕方ないわね」
「さあ帰りましょう」
子供達に声をかけて手を取る。
「そしてお家でね」
「ちぇっ」
子供達は母や姉の言葉に唇を尖らせていた。
「久し振りのお外だったのに」
「もうお天気が悪くなるなんて」
「続きはまた今度よ」
「いいわね」
「はぁい」
「わかったよ、お姉ちゃん」
渋々ながらそれに従う。人々は次々と自分の家に帰って行った。
寺院の前には誰もいなくなった。公爵もリーザと伯爵夫人に声をかけた。
「では私達も」
「はい」
まずはリーザが頷いた。
「奥様も」
「ええ」
最後にまたゲルマンを見た。そして一礼して去って行く。
リーザも伯爵夫人もその場を後にした。そこにはもうゲルマンとトムスキーしかいなかった。
「名前は聞いたな」
「ああ」
ゲルマンは友の言葉に頷いた。
「リーザさんと仰る」
「そして伯爵家の御令嬢か」
「婚約者がいるな」
「そうだな」
だがここでの返事は素っ気無いものであった。
「で、どうするんだ?」
「それはこれから考える」
ゲルマンは答えた。
「そうか。じゃあ帰るか」
「ああ」
「僕の家はこっちだから」
そう言って寺院の前で別れようとする。
「君の自分の家に急ぐんだ。もうすぐ降るぞ」
「わかっているよ。じゃあ」
二人は別れた。だがゲルマンはここで一人寺院の前に残った。
雨が降りはじめた。激しい雨が。空には雷も鳴り響いている。嵐と雷の中でゲルマンは一人立っていた。
「三つのカードの秘密・・・・・・」
彼は今聞いたそれを反芻していた。
「それさえあれば僕は大金持ちになれる。そして」
彼が望んでいたのは資産だけではなかった。
「彼女も。その金で地位を得られたら僕は彼女に見合うことができる。そうだ、どうなんだ」
彼は嵐の中で一人呟いていた。
「三枚のカード、全てはそこにある。彼女を僕のものに!」
嵐はさらに強くなる。彼はその中で叫んでいた。
「嵐が何だ!全ては彼女の為だ!資産を得て彼女を!今僕は誓うぞ!」
叫びながら空を見上げた。
「雷よ、雨よ、突風よ!彼女のを僕のものにする。さもなければ死だ!」
今彼は誓った。その嵐に。これがゲルマンの全ての終わりのはじまりであった。
リーザは邸宅に帰るとその中で詩を読んでいた。その隣には金髪碧眼の長身の美女がいた。彼女の従姉妹であるポリーナである。
広々とした部屋であった。女友達が集まって歌や詩を楽しんでいる。リーザが呼んだもので彼女達は朗らかな笑みを作ってそこにいた。
「ねえリーザ」
ポリーナが彼女に声をかける。皆安楽椅子に腰掛けてにこやかに笑っている。
「最近いい詩を見つけたのよ」
「どんな詩なの、ポリーナ」
「ええ、ジェコフスキーの詩なんだけれどね」
彼女は言う。
「読んでみる?私はもう覚えたから」
「ええ。どんなのかしら」
「これよ」
そう言って一冊の本をリーザに手渡した。リーザは早速それを読みはじめる。
「今はもう夕べの刻」
「雲の端は暗く染まり」
ポリーナがそれに続く。
「塔を背に、夕べの光は失われていく」
「どう、いい詩でしょ」
「ええ。もっと詠んでいい?」
「どうぞ。リーザの声は聞きたいわ」
「わかったわ。それじゃ」
リーザはそれを受けてさらに詠んでいく。
「水面に浮かぶ一条の煌きは空と共に消えかかる」
「かぐわしき香り、燦然たる木々より立ち昇る」
またポリーナが続く。
「岸の傍ら、静けき中、水面に撥ねる水音の何と甘くそよぎわたる風の何と密やかなこと」
最後の一行は自然と二人一緒になった。
「柳はたおやかに揺れ揺れる」
詠み終わった。それからポリーナはリーザに問うた。
「どう、いいでしょ」
「ええ」
リーザはにこりと笑って頷く。
「これはロシア語なのね」
「そうよ。ロシアの詩だっていいでしょ」
「そうね」
「フランスのばかりだと。何か飽きちゃうから」
とにかくこの時代のロシア貴族はフランス文化ばかり見ていた。西欧文化への憧れはピョートル大帝以来だがこの時代はエカテリーナ二世がそもそもフランス文化を偏愛していたので自然とそうなっていた。これは今でも変わらずとかくロシアという国はフランス文化を偏愛し国が落ち着くとフランスと仲良くしたがる。政治的な理由が多分にあるがロシアがフランスを好きなのは事実である。ちなみにアメリカや中国、日本、トルコ、イギリスといった国は嫌いであり徹底的な態度を取る。これもまたロシアである。
「ロマンスだってあるのよ」
ポリーナはさらに言う。
「バーシュシコフの詩でね」
「ロシアのね」
「そうよ。それはね」
「歌ってくれるの?」
周りの女友達も彼女に視線を集めてきた。
「じゃあ歌って」
「是非」
「わかったわ。じゃあ」
ポリーナはそれを受けて立ち上がった。そして歌いはじめる。
「いとしい女友達よ、無邪気な貴女は」
「いい歌よね」
「そうね。私達も」
「リーザも立って」
皆立ち上がりはじめた。リーザもそれに誘われる。
「民謡よ、民謡」
「ロシアのね」
「たまにはフランスの気取った歌を忘れて」
「楽しいロシアの歌を歌いましょうよ」
「いいわね」
ポリーナも笑顔でそれに応えた。
「じゃあ皆で」
「お尻の下に両方の手を入れて」
本当にその仕草をする。
「軽いステップでね」
「一、二、一、二」
「リズムを取って」
軽やかな笑顔で言い合う。
「ママが尋ねたら楽しいって」
「叔母さんに尋ねられたら飲んでいるのって」
歌詞を口ずさむ。
「そして楽しく踊って」
「女の子同士で賑やかにね」
踊りはじめる。だがそこにえらくキザな服装にキザな顔立ちの女がやって来た。女でもかなりキザでしかも一目見ただけでえらく高慢で鼻持ちならない人物であるのがわかる。かなり性格が悪そうであった。
「皆さん、何をしているのですか」
彼女はいきなりおかんむりといった様子であった。
「あっ、先生」
リーザは彼女を見て先生と呼んだ。リーザの家の音楽の先生なのである。フランスからわざわざ呼んでいる人である。
「ロシアの歌に踊りだなんて。はしたない」
「御免なさい」
先生に怒られて皆しょげかえる。当時は何事もフランスがもっとも素晴らしくロシアは野蛮だと考えられていたのである。少なくともこの先生はそうであった。
「いつも上品に、エレガントに」
「はい」
自分達のベルサイユ宮殿があちこち糞尿まみれだったのは言わない。
「社会常識をわきまえて、そしておしとやかに」
「わかりました」
フランス貴族の浮気、不倫三昧も言わない。これは国王が率先してやっていても。
「淑女には馬鹿騒ぎは不釣合いです。宜しいですね」
「じゃあ何がよいのですか?」
「決まっているではありませんか」
思いきりふんぞりかえって言い出した。
「フランスの歌と踊りこそが最高なのです」
「フランスが」
「そう、フランスです」
オーストリアなどとは口が裂けても言わない。
「何もかも。宜しいですね」
「じゃあ民謡は」
「もっての他です」
きっぱりと言い切る。
「民謡なぞは貴族のものではありません。宜しいですね」
「はあ」
「では今日はこれまで」
先生は言った。
「皆さん、お家へ帰りましょうね」
「わかりました。じゃあリーザ」
「また明日ね」
「ええ。また」
「私もね」
「ええ」
こうして皆帰って行く。先生は彼女達を見送りに行き残ったのはリーザとポリーナだけになったのであった。広い部屋に二人だけとなった。
「ねえリーザ」
ポリーナは二人になると彼女に声をかけてきた。
「何?」
「今日はどうしたの?」
怪訝な顔をして彼女に問う。
「何かおかしいけれど」
「別に」
だがリーザはそれは言わなかった。俯いて黙ってしまう。
「今日は公爵様とお祝いに言ったのよね」
「ええ」
「それでそんな顔になって。どうしたのよ」
「だから別に」
それでもリーザは言おうとはしない。従姉妹であるポリーナに対しても。
「言えないのね。じゃあいいわ」
彼女を気遣ってそれ以上は尋ねはしなかった。
「また明日会いましょう」
「ええ」
ポリーナもまた屋敷を後にした。そして自分の部屋へと戻る。フランス風の装飾で飾られた部屋であった。この装飾は自分でしたのではない。あの音楽教師の教えである。まずエレガントさは普段の生活からと言ってこうしたのである。彼女は何でもかんでも自国の文化を一番だと思っている。だからリーザに対してもそう教えていた。フランス人らしいといえばらしく、嫌味と言えば嫌味であった。
だが彼女は今はそのロココ調の様々な装飾にも目がいかなかった。開けられたバルコニーから見える夜空を見ているだけであった。
その空は澄んで清らかな闇をたたえていた。彼女はそれを見上げて物思いに耽るのであった。
思うことは一つしかなかった。昼に出会った彼のことであった。
「何かしら、あの人は」
ゲルマンの名は知らない。だが妙に心に残ったのだ。
「少し見ただけなのに心に残る。あの悩ましげな顔が」
公爵のことは頭には残ってはいなかった。残っているのはどういうわけかあの男のことだけであった。それが何故なのかは彼女にもわかりはしなかった。
「あの方がおられるのに。素晴らしい方が」
公爵のことである。彼が非常に素晴らしい人物であるのは彼女もわかっていた。だが人はそれだけでは満足しないのだ。魅力はそれだけではない。光だけが魅力ではないのだ。
「裏切りなの?これは」
ゲルマンのことを思う自分自身に問う。
「夜の空だけは聞いてくれるかしら。私の懺悔を。私はあの人のことを今思っている」
ゲルマンのことを。
「堕天使にも似たあの方を。夜の闇の中に誘い込む悪魔の様な姿のあの人のことを。安らぎと平安が奪われた闇に沈む私の心を」
そこまで言うとバルコニーから顔を離す。そしてそこに背を向けて俯く。だがここでバルコニーから物音がした。
「!?」
その物音に振り向く。するとそこにその堕天使がいたのであった。
「貴方は・・・・・・これは夢!?」
「いえ、夢ではありません」
軍服の上からマントを羽織ったゲルマンが。そこにいたのである。そして彼女を見ていた。
「どうしてここに」
「理由を言わなければなりませんか?」
部屋に入りながらリーザに問う。
「どうしても」
「人を呼びます」
リーザは怯える声で近寄るゲルマンに対して言った。
「それ以上近付いたら」
「では呼んで下さい」
ゲルマンは思い詰めた顔でそれに返した。
「呼んで下さるのなら。もとより覚悟のうえです」
「覚悟のうえ」
「ええ。貴女に御会いする為にここまで来たのですから。最後に」
「最後にって」
「貴女はもう決められた方がおられます」
「ええ」
こくりと頷く。公爵のことだとすぐにわかった。
「僕はその前から貴女をお慕いしていたのです。気付かれていなかったでしょうが」
「そうだったのですか」
「はい。ならば僕にはもう生きている意味がない」
リーザの目を見据えて言う。
「死ぬだけです。全ては潰えてしまったのですから」
「そんな・・・・・・」
「ですが僕はあえて手に入れたい。貴女を」
「私を・・・・・・」
「そうです。その為にここに来たのですから」
そしてまた言った。
「全てを手に入れるか全てを失うか」
「その全ては」
「それこそが貴女なのです」
またリーザを見据えた。
「貴女は僕の全てなのですから」
「リーザ」
ゲルマンは歩み寄ろうとする。だがここで伯爵夫人の声がした。
「いるの、リーザ」
「御婆様」
「スペードの女王」
ゲルマンはその声を聞いて呟いた。
「彼女が今扉の向こうに」
「いたら返事をしなさい。そこを開けて」
「はい、只今」
それに応えながらゲルマンに顔を向ける。咄嗟のことに思い詰めた顔になっていた。
「まずはこちらへ」
「ええ」
「いるの?いないの?」
「います、今行きます」
(早く)
応えながら小声でゲルマンを急かす。
(あそこへ)
そう言ってカーテンの中に隠した。ピンクの、やはりフランスから持って来たカーテンである。何処までもフランス風であった。
ゲルマンを隠した後扉を開ける。そして祖母を部屋に迎え入れた。
「すいません」
「どうしたのですか、いるならいると」
「うとうととしていまして」
「それならよいですが。それなら」
「はい」
「バルコニーは閉めておきなさい」
「あっ」
言われてはっとした。あまりのことにそんなことすら忘れてしまっていた。バルコニーが開いていなければそもそもゲルマンも入っては来ないからだ。彼女は忘れていた。
「いいですね」
「わかりました」
「それでは。お休みなさい」
「お休みなさい」
挨拶の後で伯爵夫人は部屋を後にした。リーザはそれを見送ってから扉を閉めた。そしてカーテンの奥に隠れているゲルマンの方に顔を向けた。
「もういいですよ」
「ええ」
(伯爵夫人、また)
ゲルマンは扉の方を見ていた。そしてあの伯爵夫人をそこに見ていたのである。
(三つのカードの秘密。それさえわかれば)
「それで」
「はい」
カードの考えは中断した。そしてゲルマンはリーザに顔を戻した。
「さっきのお話ですけれど」
「ええ」
「私に何をお望みなのですか?」
俯き加減に問う。
「私に出来ることは」
「僕の運命です」
彼はそこにはリーザを見ていた。だが同時に三枚のカード、即ち伯爵夫人も見ていた。もう何を見ているのは自分でもわからなくなっていようとしていたがそれは彼にも気付いてはいなかった。
「貴方の運命」
「はい、そうです」
彼は答える。
「僕の運命なのです」
「それは・・・・・・」
だがリーザはそれを言えなかった。心では違っていたが彼女は貞節をまだ重んじたかった。堕天使を前にしてそれは儚いものであったが。
「僕は貴女がなければ」
「その先は言わないで下さい」
「では」
「・・・・・・・・・」
言葉が出ない。だがそれはほんの一瞬のことでしかなかった。リーザも遂に折れた。そして口を開いた。
「私で宜しければ」
「よいのですね」
「・・・・・・はい」
こくりと頷いた。それでリーザは堕天使の中に落ちたのであった。
「貴方と共に」
「ええ、貴女と共に」
二人は抱き合う。だがその後ろで雷が鳴り響き夜の中で暗雲が立ちこめていた。それは不吉な未来を知らせるように闇の中にあった。
うーん、中々怪しい感じの始まりだな。
美姫 「リーザの事を思いつつ、カードの秘密の方にも興味を抱いたみたいね」
これから先、どうなっていくんだろうか。
美姫 「次回もお待ちしてますね」
ではでは。