『薔薇の騎士』




                    第一幕  止まらない時間

 白い静かな寝室であった。絹と羽毛の大きなベッドがありその上にも白い天幕がある。ベッドは穏やかな乱れの後を残している。寝台の近くには三重の中国式のやはり白のカーテンがありその陰には女もののやはり白い服がある。この服もまた絹のものであった。貴族の服であった。
 部屋の中央にはやはり白い木のテーブルがあり同じく白い椅子が二つ置かれていた。そこに金と白の豪奢な服に身を包んだ少年が座っている。胸元はまだ開いていて汗が少し残っている。少女を思わせる青い目の顔は中性的であり湖の青をその白い顔に見せている。唇は紅く小さくやはり少女のそれである。その身体つきもまた中性的な感じであり黄金色の髪は豊かで見事な輝きを見せている。秀麗な貴公子であった。
 彼の名はオクタヴィアン。このオーストリア帝国の名門ロフラーノ家の嫡子であり今年で十七になる。ウィーンでも評判の貴公子だ。その彼がテーブルに腰掛けてこれまた白いカップを手にしてココアを飲んでいる。その黒がまた部屋の白を映えさせていたのであった。
「小鹿よ」
 オクタヴィアンはうっとりとした顔でまずはそのココアを一口含む。それからベッドの方に顔を向けて言うのであった。
「素敵です」
 声もうっとりとしていた。
「貴女はいつも素敵です」
「素敵なのは貴方よ」
 その白いベッドから豊かなプラチナブロンドの髪にアイスブルーの瞳をした妙齢の美女が起き上がった。乱れた寝巻きを着ておりその顔はたおやかな気品に満ち溢れ整った顔にもその気品を溢れさせている。それでいて濃厚な色香を漂わせそれは声にも含ませていた。
 彼女はマリー=テレーズ。ヴェルテンベルグ公爵夫人であり夫が元帥であることから元帥夫人とも呼ばれる。やはりウィーンの名門に生まれ修道院で教育を受けた後十七で公爵の下に嫁いだ。今は三十二歳、その美貌はさらに艶やかさを増しているというのが周囲の意見である。本人はどう考えているかはわからないが。
「カンカン、貴方の方が」
 オクタヴィアンをカンカンと呼ぶのであった。
「いえ、それは貴女の方です」
 またオクタヴィアンが言ってきた。
「貴女がどれだけ素晴らしいかは僕だけが知っている。御主人も知らないけれど」
「主人のことは言わないで」
 それは断るのだった。
「今はいないのだから」
「では話を変えます」
 オクタヴィアンは彼女にそう告げてきた。
「貴女とは何でしょうか」
「貴女とは?」
「そうです。貴女と僕は何なのか」
 それを元帥夫人に問うのだった。
「しかも意味があるのか。言葉に過ぎない。ですが」
「ですが?」
「その言葉にも意味がある。眩暈に引き寄せ、憧れ、愛撫、身を焦がし炎となる」
 次々に言葉を述べていく。
「僕の手が貴女のところに行くように貴女に引き寄せられます。それが僕なのです」
「それが貴方なのね」
「はい」
 また元帥夫人の言葉に頷くのだった。
「僕は貴女にとって坊やなのかも知れません。けれど貴女を見ることも聞くこともできなくなったら僕はどうすればいいのでしょうか」
「貴方は私のものよ」
 その彼に対して元帥夫人は静かに述べた。
「恋人なのよ」
「はい、そうです」
 その言葉にも頷く。
「けれどどうして昼間が来るのか。僕は昼が憎い」
 こうも言う。
「昼は何の為にあるのか。昼には貴女があの人の、いえ皆のものとなる」
 それを嫌そうに告げる。
「僕は夜が欲しい。永遠の夜が」
 そう言うが夜は来ない。朝になるだけであった。
「ベルが」
 この時ベルが聞こえてきた。
「鳴った。一体何が」
「お客様ね」
 元帥夫人はそう考えた。
「誰かしら」
「手紙や挨拶状を持って来た使いの者でしょう」
 オクタヴィアンはこう考えた。
「ザーラウから?ハルティックから?それともポルトガルからか」
 この時代のオーストリアはマリア=テレジアの時代である。プロイセンとの対立を背景に積極的な外交を行っていた時代である。だから各地か人々が行き来していたのだ。
「何処からか」
「あっ」
 元帥夫人が声をあげると扉をノックする音が聞こえた。夫人は扉の方に顔を向けて問う。
「誰なのかしら」
「僕です」
 小さな男の子の声であった。
「フリッツね」
「はい」 
 声がまた返って来る。
「チョコレートを持って来ました」
「そう、入って」
「わかりました」
「けれど少し待って」
 だがここでそのフリッツを制止する。それからオクタヴィアンに顔を向けて言うのだった。
「隠れて」
「隠れるのですか」
「剣も持ってね。ベッドの上に置いたままにしないでね」
「わかりました」
「女の寝室に置きっぱなしにするものではなくてよ」
 大人の女の柔らかな忠告であった。
「わかったわね」
「はい」
 オクタヴィアンはそれに応えながら部屋のカーテンの中に隠れる。元帥夫人はそれを見届けてからあらためてフリッツに声をかけるのだった。
「入って」
「はい。それでは」
 それに応えると扉が開いた。そうして黄色い派手な服を着た小さな黒人の男の子が入って来たのであった。その手にチョコレートが入れられた椀を持って。
「ココアですのでこれにしました」
「そう、有り難う」
 フリッツのその言葉を受けて微笑む。
「ああ、そうそう」
 ここでまた言うのだった。
「置いたらそれで下がっていいわよ。ご苦労様」
「わかりました」
 チョコレートを置いて部屋を後にする。それを見届けてからベッドを出てカーテンの向こうに隠れているオクタヴィアンに声をかけるのだった。
「もういいわよ」
「そうなのですか」
「ええ、出て」
 また彼に声をかける。
「一緒に朝御飯を食べましょう」
「はい、それでは」
 二人はカーテンの側で並びそこからテーブルのところに来た。そうしてそこに二人並んで座りそれから仲睦まじい様子でココアとコーヒーを楽しみだした。その中でまたオクタヴィアンが元帥夫人をうっとりと見ながら言うのだった。
「小鹿よ」
「カンカン」
 二人はうっとりとしてこう呼び合う。オクタヴィアンはその中でまた言う。
「元帥は今はクロアチアです」
 出陣ではなく軍事視察だ。元帥ともなれば多忙を極めるものなのだ。
「そこで熊や山猫を狩っているのかも。しかし僕はここで小鹿を」
「だから主人のことは言わないで」
 それは拒むのだった。
「昨日夢に見たのだから」
「昨夜ですか?」
「そう、昨日」
 その美麗な顔に憂いを漂わせて答える。
「夢は自分の意志で創り出せるものではないのだから」
「そうだったのですか」
「ええ。うちにいたわ」
 こう告げる。
「馬や人達の騒がしい声がして。けれどそれで目が覚めて」
「嫌な夢ですね」
「夢は嫌なものであることの方が多いわ」
 これもまた彼女にとってはそうなのであった。
「どうしてもね」
「遠くクロアチアにおられる筈なのに」
「人の行き来は早いもの」
 こう呟く。
「けれどさっきのベルは」
「それに今」
 部屋の向こうから物音が聞こえたのだ。
「まさかあの人が」
「だからクロアチアにおられるのでは?」
「いえ、違うわ」
 夫人は不安に覆われた顔になったその音がする方を見て言うのだった。
「だって衣装部屋の方からの音よ」
「それがどうかしたのですか?」
「他の方なら控え室の方から来られるわ」
 この屋敷の造りではそうなるのだ。
「けれどあの人だけは衣装部屋から来られるのよ。夫婦だから」
「では間違いなく」
 オクタヴィアンは危機を察した。それで慌ててまた剣を手に取って今度は部屋を出ようとする。だがそれを夫人が止めるのだった。
「そっちは駄目よ」
「どうしてですか!?」
「控え室なのよ」
 そうなのだった。
「召使達が大勢いるから。こっちへ」
 今度は反対側に案内する。しかし。
「駄目、音が近付いて来るわ」
「今度は何処から」
「もう衣装部屋に入ったのね」
 音が近くなったのでそれがわかるのだ。
「隠れるしかないわ。だから」
 そう言ってベッドの陰に案内する。
「この中に隠れて。いいわね」
「はい。じゃあ」
「まずは危機をやり過ごさないと」
 今度はこうオクタヴィアンに告げた。
「何もならない。だからこそ」
「まずは危機をやり過ごすのですね」
「そうよ」
 また彼に対して告げた。
「私はナポリの将軍ではないから立つべき場所に立っているわ」
 なおナポリは後にハプスブルク家の得意とする婚姻政策によりハプスブルク家のものとなる。マリア=テレジアが娘を嫁がせたのである。彼女はこの時オーストリアの偉大なる国母であったのだ。
「召使達が気を回してくれればいいけれど」
 そうも願う。
「あらっ」
 だがここで元帥夫人はふと気付くのだった。
「あの人ではないわ」
「そうなのですか?」
「ええ、男爵様と言っているから」
 明るい顔になってきた。その顔でオクタヴィアンに対して述べる。
「違うわ。よかったわ」
「そうですか。しかし男爵というと」
「あの馬鹿でかい声は」
 元帥夫人は衣装部屋の方から聴こえるその声にそば耳を立てて探りながら述べる。
「オックスだの」
「オックスといいますと」
「私の従兄のレルヒェナウ男爵よ。何の用かしら」
 それはわかったが疑問があった。それは。
「どうしてわざわざ領地からこのウィーンまで。あっ」
「また何か」
 思い出したような顔になる夫人に対して問うた。
「あれよ。ほら、一週間前のことを憶えているかしら」
「私がですか」
「そうよ、一緒に馬車に乗っていた時」
 オクタヴィアンに対して話す。
「一通の手紙が届けられたわね」
「そんなこともあったでしょうか」
 その辺りのオクタヴィアンの記憶は曖昧なものであった。彼はいぶかしむ顔で首を傾げている。それが何よりの証拠であった。
「そうよ。私も手紙の内容は憶えていないけれど」
「それはまた」
「一体何の用かしら」
 また考える。
「まあいいわ。それはそうとして」
 オクタヴィアンに顔を向けての言葉であった。
「何なの、その格好は」
「奥様」
 見ればオクタヴィアンは召使の格好をしている。若い娘のメイドの格好だ。黒い服に白いエプロンと帽子のそれが実によく似合っている。少なくともそれは彼を男には見せてはいなかった。
「私はこの家に入ってまだ間がありませんので」
「ふざけないで」
 メイドの礼で一礼するオクタヴィアンに対しての言葉だ。だがその顔は笑ったままだ。
「とにかく。男爵が来るから」
「お通ししてとは言っていないのに」
「強引な人なのよ」
 ここでは困った顔を見せる。
「だからね。今はメイドのふりをしてね」
「わかりました。それでは」
「いやいや、奥様」
 その野太くて馬鹿でかい男の声がもう扉の前に来ていた。夫人はオクタヴィアンを隠してからそちらに顔を向けて応える。
「どなたですか?」
「貴女の忠実な僕です」
 一応言葉は丁寧である。
「入って宜しいでしょうか」
「少し待って」
 見れば服は寝巻きのままである。乱れを慌ててなおしてガウンを羽織る。こうして何とか体裁は整えるのであった。少なくともフランスでは朝この格好で客人と会うのも普通だというからこれでもいいだろうと思ったのだ。マリア=テレジアの時代にようやく長年の宿敵フランスとも友好関係になったのである。これもまた婚姻政策でだ。嫁いだのはあのマリー=アントワネットである。
「いいわ。入って」
「わかりました。それでは」
 夫人の家の使用人達が少し憔悴した顔で扉を開ける。どうやら男爵を押し留めるのに必死だったらしい。
 その男爵だが白い鬘を被って赤と金の豪奢なフロックコートとズボン、白い絹のブラウスに靴下、それと編み上げ靴といったいで立ちだ。如何にもといったフランス風の格好である。
 結構変わった印象を与える感じの男であった。顔は粗野な趣に満ちているがそれでも中々端整で太めではあっても生気が感じられにこやかに微笑んでさえいる。黒い目の光も強く鼻も高い。大柄で背が高くやたらと強そうな印象も見せる。彼がそのオックス男爵である。歳は三十五、元帥夫人の父方の従兄である。
「お久し振りです」
 まずは三度フランス風のおじぎをしてみせる。その動きも中々さまにはなっている。
「お元気そうで何よりです」
「奥様も」
 顔を上げてからこう夫人に述べる。そこからまたおじぎをする。
「朝に申し訳ありません」
「いえ、それは構いません」
 このやり取りは社交辞令であった。お互いそれはわかっている。
「フランスではそれが普通のようですし」
「フランスのマナーでいくのはどうかとも思いましたが」
 ここでオックスは少し複雑な政治背景について言及した。
「何しろあそことはヴァロワ家の頃からの関係ですからな」
「それは確かに」
 これは元帥夫人も知っていることだ。オーストリア、即ちハプスブルク家とフランス、即ちブルボン家との関係はマクシミリアン一世の頃よりの激しい対立関係にある。ヴァロア家が断絶しブルボン家になってからもそれは同じであった。オーストリアとフランスは欧州における宿敵同士でありその対立が欧州の政治の一つの基軸なってさえいたのだ。彼等の間にプロイセンという共通の敵ができるまでそれが続いていたのだ。なおこの時代オーストリアにとって最大の敵はそのプロイセンであった。オーストリア継承戦争においてもそれに続く七年戦争でも激しく争っている。実質的なオーストリアの主であったマリア=テレジアはプロイセン王であるフリードリヒを激しく憎んでいたことでも知られている。
「それにあのサンスーシーの老人もフランス風を尊んでいるようです」
「あの御仁の話は止めにしましょう」
 実は彼女もプロイセン王が嫌いである。女性蔑視主義者であり女性をことごとく遠ざけているあの王は当時女性から徹底的に嫌われていたのだ。当時のロシアの女帝であるエリザベータにしろルイ十五世に代わって実質的にフランスを切り回していたポンバドゥール夫人もまた彼が嫌いであった。理由は簡単で利害が対立しているだけでなく彼が女嫌いだからだ。嫌わば嫌われるというわけである。
「不愉快なだけですし」
「そうですな。私も政治の話をしにきたわけではないので」
 男爵もそれに乗って話を止めるのであった。
「それではですな」
「はい。ええ、そこに」
 家の者達が三つの小さなソファーを持って来ていた。置く場所をそこでいいと告げたのである。
「ゆっくりとお話しましょう」
「わかりました。それでは」
 テーブルも置かれた。朝あった木製の白いテーブルと椅子は下げられている。オクタヴィアンは何気なくベッドをなおしている。それをメイドと見た男爵は興味深そうな目で彼女、いや彼を見ていた。
「可愛い娘ですな」
「新しく入った娘です」
「そうなのですか」
「ところでですね」
 男爵に左の席に座るように手で告げてからあらためて彼に問う。自分は右側の席の前にいる。中央の席はわざとあけていた。
「どうしてこちらに」
「手紙のことで」
 ちらちらとオクタヴィアンを見ながら答える。
「手紙のですか」
「一週間程前に着いていると思いますが」
 外見に似合わず計算が上手かった。
「その内容にある通りです」
「左様ですか」
「はい」
 答えながらもまたちらちらとオクタヴィアンを見ている。次第に好色さがそこに加わってくる。
「いいな。可愛いな」
「確か結婚されるんですね」
「そうです」
 夫人に顔を向けて答える。だが目はやはりオクタヴィアンの方を始終向いている。
「確か」
「ファニナル家の娘です」
「そうでしたわね」
 話を聞いてそれに頷く。実は手紙の内容を憶えていないとは流石に言えない。
「ファニナル家といえば」
「貴女の御主人の推薦で貴族になった家で」
「そうでしたわね。それで」
 実はあまりよく知らなくて話を合わせているのである。
「ネーデルラントにいる我がオーストリア軍に調度品を供給している家です。貴女は私とあの家の娘の婚姻にいささか御不満のようですが」
「それは別に」
「こう言っては何ですが」
 話す間に夫人はオクタヴィアンに目で部屋を出るように促す。オクタヴィアンもそれに頷く。オックスは話す間もずっとちらちらとそのオクタヴィアンを見ている。
「私は男爵です」
「ええ」
 言うまでもなく爵位では一番下である。
「それに田舎者ですし」
「そんなに卑下されなくとも」
「己の分際をわきまえているということです」
 それもまた貴族である。厳然とした階級社会なのだ。
「ですから家柄は別に気にしてはいません」
「それはいいのですがそれだけではありませんので」
「彼女の年齢ですか」
「そうです。まだ」
 夫人は言う。
「十五歳ではないですか」
「ええ。そして私は三十五歳」
 かなり開いていると言わざるを得ない。
「しかも修道院から出たばかりではないですか」
「そうです」
「いささかまだ。無理があるのでは」
「ですが奥様」
 ここで男爵はしっかりと夫人に顔を向けて述べてきた。
「お言葉ですがそれは多くの御婦人方も同じこと。そして貴女も」
「ええ。それはわかっています」
 それは否定できない。多くの貴族の娘が彼女と同じ様な境遇で妻となっているのである。それは彼女もよく知っていた。公爵夫人として。
「しかもです」
 夫人はさらに言う。
「このホーフに宮殿を持っておられて」
「はい」
 ホーフとはウィーンの街のことである。
「ヴィーデンには家を十二軒も」
「その通りです」
 ウィーン郊外のことである。
「しかも一人娘。いいお話だとは思いますが」
「だからなのです」
 声に少し好色さと粗野さが見られた。同時に気品も混ざっているが。
「私もまた。あっ、ちょっと」
 ここで男爵は不意にオクタヴィアンが化けたメイドに声をかけるのであった。狙っていたのは言うまでもない。
「チョコレートとココアを下げるのは」
「もう冷えていますので」
 夫人が彼に言う。
「ですから」
「申し訳ありませんが」
 男爵はその夫人に顔を戻して述べる。
「実は私はまだ朝を食べていないのですよ」
「でしたら後でパンでも」
「それもいいですがやはりここは」
「チョコレートがお好きで」
「大好きです」
 本当に好きらしい。子供みたいに無邪気な笑顔を見せてきた。
「特に領地の家の者や農民達に与え共に食べるのが最高です」
「そうなのですか」
「緑にか困れそこで農夫の姿の彼等とですな」
 どうも領地ではそれなりにいい領主であるらしい。
「そこで採れたワインもハムも共に食べるのです。これがよいのです」
「それはそれで美味しそうですね」
「ウィーンもいいですがレルヒェナウもまたいいものです」
 さりげなく自分の領地の宣伝もする。
「是非一度おいであれ。それでは」
 そう言ったあとで半ば強引にチョコレートとココアを拝借する。食べ方は少し荒っぽい。
 それを腹に入れながらやはりオクタヴィアンを見る。そうして彼女、いや彼に囁くのだった。
「ふむ、間近で見るとさらに可愛い」
「マリアンデル」
 咄嗟に夫人がつけたオクタヴィアンが化けているメイドの名前だ。
「もう行って」
「いえ、奥様」
 しかし男爵がそれを制止する。
「そう仰らずに。娘さん」
 一応は優雅にオクタヴィアンに声をかける。
「私は今夜白馬亭にいてな」
「はあ」
 オクタヴィアンの声が女のそれに非常に似ているのでここは助かった。
「だから今日会わないかな」
「今日ですか」
「嫌ならいいのだが」
 無理強いはしない。最低限のエチケットはわきまえてはいた。
「だがそれはそれとして薔薇の騎士」
「それですね」
 今度は夫人が頷く。何かとやり取りが忙しい。
「花嫁に銀の薔薇を贈る薔薇の騎士ですが」
 これはウィーンの貴族達の風習である。まず花婿の銀の薔薇を花嫁に贈る。それを花嫁に手渡す、つまり仲介人になるのが薔薇の騎士なのである。それを選ぶことがまずは婚姻の第一歩なのである。
「その名誉ある役を担うのは誰にしましょうか」
「そう、それなのです」
 またオクタヴィアンを見ながらも夫人に述べてきた。
「一体誰にするべきか。是非奥様に御意見を御聞きしたくて」
「それが本当の御用件なのですね」
「手紙に書いてあった筈ですが」
「そうでしたね」
 また話を合わせる。読んでいないとは言えない。
「ですから」
「さて、誰にするべきか」
「ここは奥様にお任せ致します」
 にこやかな笑みを作って述べてみせた。
「女性の方に従います」
「そうですか。それではそれで」
「はい。ではそういうことで」
「では今宵ですが」
「はい、今宵は」
 やはりオクタヴィアンから目を離さないが話はするのだった。
「お話の為に夕食を御一緒したいのですが」
「今宵ですか」
「駄目ですか?」
「いえ、別に」
 こうは答えながらも残念な顔になる。実はオクタヴィアンを誘うつもりだったのだ。
「それで明日にでも」
「いえ、明日も宜しいかも」
「どちらなのですか?」
「今考えているところです」
 言葉をはぐらかすがこれはオクタヴィアンを守る為である。
「それでですね、男爵」
「はい、何か」
「契約書もありますし」
「結婚契約書ですね」
 なおオーストリアはカトリックが主流である。神聖ローマ帝国皇帝家であるハプスブルク家が主なのでこれは当然であった。カトリックの擁護者というわけなのだ。形骸化はしていたが。
「それはこちらの書記にやらせておきます」
「ではそのように」
「さあマリアンデル」
 今のうちにとすぐにオクタヴィアンに声をかける。
「貴女はもう」
「はい。それでは」
「いや、行くのか」
「何かおありで?」
「あるわけではないですが」
 それは否定する。顔にもう出てしまっているが。
「まあ。可愛い娘ですな」
「ウィーンの生まれです」
 こう答える。
「ほう、それはまた」
「さあ、だからマリアンデル」
 また彼を行かせようとするがここでまた扉をノックする音が聞こえてきた。控え室の方からである。
「どうぞ」
 入るように言うと端整に黒い制服を着た初老の男が入って来た。公爵家の執事である。
「奥様」
「丁度いいところに来たわね」
 彼の姿を見て笑顔になるのだった。
「書記はいるかしら」
「はい、控え室にもう」
「そう。ならいいわ」
 それを聞いて笑みになるのだった。
「管理人もコックも。あと歌手に演奏に笛吹きも」
「用意がいいわね」
「都合がつきましたので」
「わかったわ。男爵」
 見ればまたオクタヴィアンに言い寄っている。優しげな笑みを作って口説きにかかっている。
「わしの領地の男達は皆逞しくて景色はよくてな」
「左様ですか」
「皆わしの誇りじゃよ」
 本当に領民には親しみを感じているらしい。
「娘達は奇麗で母親達はしっかりしている。学生は勉強好きだし子供達は元気だ」
「いい人達ばかりなのですか」
「わしの宝物じゃ」
 離す顔が本当に楽しそうである。
「それも見せてやりたいのじゃよ。ウィーンもいいがそこもまたいいぞ」
「あの、男爵」
 また夫人は彼を窘めてきた。
「御領地のことはわかりましたので」
「おっと、左様ですか」
 釘を差されたのですっと引き下がる。そのうえで礼儀を整える。
「失礼しました」
「下がって」
「はい」
 夫人はまずは執事を下がらせた。そうして彼が下がってからまた男爵に声をかけた。
「あまり御自身のことを仰るのはどうかと思いますが」
「すいません。ですが」
 彼はまた言うのだった。
「ここはいい場所ですな」
「またどうしてですか?」
「こう言っては何ですが落ち着いた雰囲気です」
 こう夫人に対して述べるのだった。
「スペイン風の物々しい振る舞いも不要ですし」
「主人は今のスペインは好きではないですので」
 かつてはハプスブルク家のものだったがスペインのハプスブルク家が断絶し代わりにその因縁あるフランスのブルボン家が入ったのである。スペイン継承戦争の時のことだ。
「あえてそうしております」
「そうなのですか」
「はい。それでですね」
 夫人はさらに言葉を続ける。
「あまりマリアンデルには近付かないで下さい」
「別に近付いてはいませんが」
「本当ですか?」
「私をお疑いになるので?」
「別にそうではありません」
 言葉の外に真意を隠してやり取りをする。
「ですが。彼女はまだ十七ですし」
「可愛い年頃ですな」
 ここでそのマリアンデルことオクタヴィアンはそっと男爵の後ろに来る。
「むっ、まるで山猫の様に」
 そのオクタヴィアンを横目で見てまた笑う。
「またいい感じに」
「何だか怖いわ」
「あら」
 ここで夫人はオクタヴィアンもそのマリアンデルになりきっているのを見た。それを見て心の中では笑う。
「カンカンもやるわね」
「この方の側に寄るとどうなるか。奥様、怖いです」
「わしを怖れることはないんだよ」
 男爵は男爵でこうそのマリアンデルに囁く。
「わしのところには奇麗な草原があって枯草にも藁にも困らない」
 別に家畜の餌としてだけ言っているのではない。
「鹿も雉も元気だし木には果物があるし麦も一杯ある。何よりも皆わしの誇りとするいい者達なのだよ」
「男爵、ですから御自身のことは」
 夫人もオクタヴィアンに合わせて男爵に言う。
「ジュピターになってしまいますわよ」
「千の姿で千の娘に声をかける」
 ジュピターは好色な神である。少なくともそれで有名である。
「それもまたよしですがな」
「ですが花には時として棘がある」
 そっと薔薇を出してきた。
「御気をつけあそばせ」
「中々きついお言葉で」
 流石に今の言葉にはさしもの男爵も動きを止めた。
「では自慢はこの位にしておきます」
「はい。そういうことで」
「しかしですな」
 言った側からまた言う男爵であった。中々めげない御仁ではある。
「奥様、このメイドですが」
「マリアンデルが何か」
「私の花嫁の側に置きたいのですが」
「どうしてまたそれを」
「見れば賢そうな娘です」
 一応はそれを理由にした。しかし目が好色そうなそれになっていたのであまり説得力はない。
「ですから是非」
「あちらにももう側にいる娘達がいますが」
「それでもです」
 だが彼はまだ言う。負けはしない。
「一人知っている人間がいれば違います。私もまたそうですし」
「貴方もですか」
「ええ。息子をですね」
 つまり私生児というわけである。夫人もオクタヴィアンもそれを聞いて驚かなかったことは私生児という存在は当時の貴族社会では普通だったからだ。とりわけブルボン王家の貴族社会では普通であった。そもそも結婚が縁組のビジネスに過ぎないから不義もまた当然の世界であったのだ。
「レルヒェナウの顔がよく出ていますが私の従僕長にしております。気が利く可愛い奴です」
「そうなのですか」
「いずれ騎士にしてやるつもりです」
 さりげなく親馬鹿ぶりも見せる。
「機会があれば御会いして欲しいものですが」
「ええ、またの機会に。それではマリアンデル」
 今度はオクタヴィアンを自分のところに招き寄せて保護した。そのうえで彼女、実は彼に言う。
「あのメダイヨンを」
「!?テレーズ」
 夫人の通称の一つである。
「一体何をするつもりなの?」
「任せて」
 にこやかに笑ってオクタヴィアンに囁く。
「いいわね」
「わかったよ。それじゃあ」
 彼女のその言葉に頷く。そうして彼女の芝居に合わせるのだった。マリアンデルに戻って。
「レルヒェナウ家は修道院も建立しましたし代々領民を守り愛したのです。それが我が家の誇りでして」
 またそれを自慢しだす。
「ケルンテンやヴィンディッシュ=マルクの世襲執事長でもありました。私もまた領民の為には本当に心を砕いているつもりです。少なくともフランスの貴族達のような真似はしませんぞ」
 離している側からオクタヴィアンが小室に入ってそこからメダイヨンを持って来ていた。夫人はそれを見ながらまた男爵に述べてきた。
「それで薔薇の騎士ですが」
「それは誰にされますか?」
「私の若い従弟でして」
「ええ」
「オクタヴィアン伯爵です」
 つまり彼女はオクタヴィアンとはそういう関係なのだ。従姉と従弟の関係なのである。
「お名前は聞いたことはあります。これ以上はない高貴な存在ですな」
「それで宜しいでしょうか」
「はい。伯爵様には感謝致します」
 こう答えてきた。満足したようである。
「このことには」
「そう。ではこれを」
「メダリヨンですか」
「ここにある顔ですか」
 そう言いながら男爵にそのメダリヨンを見せるのであった。そこにあるのは。
「似ていますね」
「ええ、確かに」
 そこにあるのはオクタヴィアンの顔であった。そう、オクタヴィアンのである。男爵はマリアンデルを見て交互にそのメダリヨンの顔も見て目を白黒させていた。
「いや、本当にそっくりで」
「この伯爵殿はロフラーノ家で」
「それはもう御聞きしましたが」
「侯爵閣下の二番目の弟殿なのです」
 それがオクタヴィアンなのであった。つまりは三男なのだ。
「その方です」
「私にとっては願ってもない方」
 爵位の関係と礼儀作法のうえからへりくだっての言葉であった。
「実はこの娘もその縁者ですし」
「おや、貴族の」
「彼の遠い親戚なのです。帝国騎士の娘でして」
「そうなのですか」
「ですから側に置いています」
 こうも述べた。
「おわかりですね」
「お言葉ですが奥様」
 釘を刺す夫人に対して反論する。
「私はこれでも貴族であるつもりなので女性に対しては紳士であるつもりです」
「本当ですか?」
「女性にかけるのは言葉だけ」
 ここはあくまで強調してきた。それが彼のもう一つの誇りであるようだ。
「腕力にも策にも訴えるようなことは決してしませんので」
「その言葉信じさせてもらいます」
「是非共。レルヒェナウ家の名にかけて」
「ではレルヒェナウ男爵」
 あえて彼をその名で呼んでみせてのあらたな言葉であった。
「家の者をここに入れたいのですが」
「ええ、どうぞ」
 その言葉を静かに受けた。
「それでは」
 まずは洗面器やタオルを持った老婆が来た。男爵はまだオクタヴィアンが変装している次女に興味があったが夫人に気を使ってかまたしてもフランス風の礼をしてからその場を後にした。夫人はそれを見てほっとしてオクタヴィアンを去らせる。夫人と老婆がカーテンの奥に隠れて身支度に入るうちに他の従者達が部屋を屏風などで飾る。それが終わり夫人も身なりを整え白い絹の質素でありながら華やかなドレスに身を包んで出て来た時にはもう髪も化粧も整っていた。その彼女の前に様々な者達が来ていた。
「奥様、犬はどうでしょうか」
「そうね。じゃあ一匹」
「わかりました」
 動物屋の連れている大きな犬を飼う。執事が彼女の側に立ってその言葉に頷いていた。
「あとは鳥も。アフリカの珍しい鳥ですよ」
「どうしようかしら」
「奥様」
 今度は三人の小さな子供達だ。貧しい身なりをしている。彼女達にもお金を幾らか私それからそこに来ていた帽子屋から羽帽子を買う。それが終わってから彼等が去るとまた男爵を呼んだ。またしても一礼した彼に対して一人の男を紹介した。整った身なりをした年輩の男である。
「貴方にこの書記を紹介しますわ」
「こちらの若い男ですね」
「ええ。彼に何か任せてね」
「わかりました。そういえば」
 ここで夫人の後ろにいる男達のうちの一人を見た。
「どうかしたのですか?」
「いえ、そちらの」
「私でしょうか」
 小さな丸眼鏡をかけ黒い帽子と長い服に分厚い服を持った男が応えてきた。一目見ただけで彼が学者であるとわかる。実際にそうである。
「いや、悪いが君ではない」
「そうなのですか」
「君だ」
 その隣にいるひょろ長くて出っ歯の男を指差した。見れば細く抜け目なさそうな目をしていてにやけ顔だ。やけに調子がよさそうである。
「私ですか」
「そうだ。名前は何といのかな」
「ヴァルツァッキでございます」
 彼は一礼してから男爵に述べた。礼は貴族風に恭しくしてはいる。
「新聞屋です」
「ヴァルツァッキさん」
 夫人がその彼に不機嫌な声をかけた。
「もうあんな記事は書かないで下さい。事実かどうかわからないものを」
「事実ですよ」
 彼はこう夫人に反論してみせた。
「私は嘘オは申しません」
「ではアレオーレ子爵が死んだ話は何なのですか?」
「あれはただの噂話」
 笑ってこう答えた。
「それだけです」
「その噂話がどれだけ多いのか」
 こう言ってまた不機嫌な顔になる夫人であった。
「全く」
「まあまあ」
「ウィーンには面白い新聞があるのですな」
「もっといものがありましてよ」
 そう言って男爵の注意を他に向けた。
「歌などはどうでしょうか」
「歌ですか」
 男爵は歌と聞いてその目を少し動かした。
「ふむ。私も嫌いではありません」
「それではイタリアの歌なぞを」
「イタリアのですか」
「如何ですか?」
「はい、是非」
 にこやかに笑って夫人に答えるのだった。その後ろでは今まで夫人の身支度をしていた老婆や衣装係、理髪師等が去っていた。後始末を終えていたのだ。
 それを後ろに一人の若々しい顔立ちに黒い髪の男が出て来た。燕尾服を着たその彼がイタリア人であることはその顔からわかった。男爵はその彼を見てまた夫人に言うのだった。
「本場からわざわざ来たのですね」
「はい、ミラノから」
「ほう、それはまた」
 ミラノと聞いてさらにその目を輝かせた。ミラノは当時オーストリア領でありこの時代にマリア=テレジアが歌劇場を造っている。これがあのスカラ座である。
 そのミラノから来た歌手が一礼する。そうしてゆっくりと歌いだした。
「固く武装せる胸もて我は愛に逆らえリ」
 まずはこう歌いだす。
「されど二つの美しき目を見るとき我は忽ちのうちに打ち負かされリ」
 愛の前に破れたのである。
「ああ、氷の心も炎の矢に遭わば何の抗いを為さん」
「愛は尊いもの」
「その通りです」
 男爵は拍手をしながら夫人に述べる。それと共に夫人も応えその間に書記が彼のところに来た。すると彼はすぐにその書記に囁くのであった。
「それで話は」
「何でしょうか」
「支度金の贈りは私はしたが」
「ええ」
「こう言っては何だがあちらからはあるのかな」
「さて、それは」
 書記はそれには首を傾げる。
「どうなものでしょうか」
「持参金より前にあれだ。ガウナースドルフの城と領地だが」
「それは無理では?」
「そうかな」
「おっと、男爵」
 書記にとって都合のいいことに笛吹きが序奏をまた鳴らす。歌手と共にいる者のうちの一人だ。他にはバイオリンもいる。中々凝っている。
「また歌が」
「むっ、そうか」
「では話はまた後で」
「いやいや、それでもだな」
「歌の時は歌を聴くものですぞ」
 にこやかに笑って男爵をかわす書記であった。
「それではそういうことで」
「仕方ないな。それでは」
「なれど我が苦しみは貴く我が傷は甘し」
 愛の苦しみと傷であった。
「されば苦痛は我が満足にして平癒はむしろ虐待だ。氷の心もまた」
「話は後にしてだ」
 男爵は呟きながら考える。実際のところ歌はあまり聴いてはいない。
「どうしたものかな、これから」
 歌は終わった。すると夫人はすぐに執事を下がらせる。男爵はそれを見てまた呼び止めようとするが夫人がまた言うのだった。
「彼も忙しいですので」
「そうですか」
「はい、また後で」
 そう言って止める。
「それにしても」
 そして顔を歌手達に向けた。笛吹きとバイオリン奏者にもまた。
「よい出来でした。有り難う」
「いえ。こちらこそ」
「それでは」
 執事に顔を向けて金を渡させる。彼等はそれを受け取ってまた夫人に対して一礼するのであった。その間にあのヴァルツァッキともう一人何か小柄で色の黒い女が来た。
「さっきの」
「ヴァルツァッキです」
「アンニーナです」
 女も名乗ってきた。
「男爵様、以後お見知りおきを」
「うむ。宜しくな」
「実はですね」
「よいお話が」
 すぐに彼に対して囁いてきたのだった。
「よい話だと」
「悩んでおられませんか?」
「見たところ」
 男爵が支度金の話を自分に都合よくまとめられないのでふてくされているのを見抜いたのである。そうした目は実に抜け目がない。職業柄であろうか。
「まあそれは」
「事実ですね」
「それではですね」
「では聞きたい」
 ここで彼は二人に対して問うた。
「何でしょうか」
「この家にいる娘だが」
「はい」
「マリアンデルという娘を知っているか」
「マリアンデル!?」
「この家にも出入りしているのだな」
「はい、そうです」
 それは事実である。ヴァルツァッキが頷いてきてみせた。
「それが何か」
「では知っているな。奥様のメイドで」
「メイドで」
「いるな」
「おい、アンニーナ」
 ヴァリツァッキは怪訝な顔でアンニーナに顔を向けて問うた。
「知ってるか」
「さあ」
 相方の問いに首を傾げる。二人が知らないのも無理はない。しかしそう簡単にお金の匂いから離れる彼等ではない。こう言い繕ってきたのであった。
「知っていますよ」
「あの娘ですよね」
「そうか、知っているのか」
 男爵もこれまたあっさりと二人に騙されてしまった。彼が一番知らないのだから無理もないことではあったが。
「知っているのなら頼むぞ」
「はい、それでは」
「是非」
 こうして彼等の話は終わった。二人は去り男爵はここで扉をノックした音を聞いたので入るように言う。するとすぐに彼のところに数人の男が来た。その中の一人は見れば男爵そっくりの若者であった。男爵もその若者の顔を見てにこやかに笑う。
「よく来たな、ロイボルト」
「はい、父上」
 彼もまたにこやかに言葉を返す。その息子というわけだ。
「あのケースを持って来ました」
「うむ御苦労。それではな」
「はい」
 こうして男爵の手にそのケースが渡った。彼はそのケースを夫人に対して見せたうえで述べるのであった。
「ここに銀の薔薇があります」
「その薔薇がですね」
「そうです。それで」
 またマリアンデルを探しだした。
「あの娘は」
「今忙しくて」
 こう彼に対して告げた。
「ですが御心配には及びません」
「そうなのですか」
「オクタヴィアン伯爵には私からお話しておきますので」
 このことに話を変えるのであった。
「それで宜しいですね」
「ええ、まあ」
 男爵としてもそれには異存はない。だから穏やかに頷いた。
「私の為にもあの方は貴方の騎士としてその薔薇を花嫁さんの所へ持って行く仕事を果たすでしょう」
「では私は安心していいのですね」
「そうです」
 こう告げて彼の関心をそちらにやる。
「ではこれでまた」
「そうですね。それではまた」
「御会いしましょう」
 こうして話を終えた。男爵は我が子と従者達ににこやかな笑みを見せていから夫人に一礼した後でその場を後にした。他の者達も去っていく。一人になった夫人はようやく静かになったことにほっとしたのかまずは溜息をついた。最初に呟いたのは男爵のことであった。
「全く。どうしたものかしら」
 今日の男爵のことを思って呟く。
「いつもいつも何かと騒がしい人。子供の頃から」
 実は二人は幼い頃からの知り合いなのである。
「あんな感じで。けれど私も」
 翻って自分のことも考える。
「変わらない。いえ」
 すぐに考えを改める。
「変わったわ。娘からもう」
 立ち上がりベッドのところにオクタヴィアンが置いたままにしてあった手鏡を取った。それで己の顔を見て憂いに耽るのであった。
「女になって。このまま」
 寂しく哀しい気持ちに覆われた。
「お婆さんになって。老マルシャリンになって」
 また呟く。
「どうして。歳を取ってしまうの。若さは永遠ではない。そしてその『どうして』の中に全部の相違があるのだから。本当に私はこのまま歳を取ってしまって」
「どうされましたか?」
「カンカン」
 そこにオクタヴィアンが戻って来た。服も男のものになっている。優雅な白と銀の貴族のものであった。
「とても悲しそうですが」
「はしゃいだかと思えば悲しみに沈んだり」
 そのオクタヴィアンからそっと顔を離して呟く。
「それが私だから。いつものことじゃない」
「いえ、僕にはわかっています」
 だがオクタヴィアンはここで言ってきた。
「貴女は驚いて不安だから悲しいのですね」
「私が!?」
「そう、私のことが心配だったのですね」 
 彼はこう思っていた。
「だからですよね」
「少しはね」
 こうは言うが彼がわかっていないことは言わなかった。
「でも私は心をしっかりさせてそんなに心配することはないと思うことにしたの」
「そうなのですか」
「実際にそうよね」
 他ならぬオクタヴィアンに顔を向けての言葉であった。
「従姉としてですか?」
「そうかも」
 その言葉に頷く。
「私は」
「奥様」
「今は駄目」
 歩み寄ろうとした彼に対して制止の声を出して止めた。
「あまり抱くのが多過ぎては駄目よ。何でも長くは手に入れてはいられないものよ」
「けれど貴女は僕のもの」
 それでもオクタヴィアンは歩み寄ろうとする。
「だから」
「今はそう情熱的にならないで」
 また言うのだった。
「大人しく。他の殿方みたいにはならないで」
「他の殿方?」
「主人やさっきの男爵みたいには」
 そういうことであった。
「だから」
「他の人がどうかは僕は知らない」
 オクタヴィアンが知る筈もないことであった。
「けれど僕はわかっています」
「何をなの?」
「貴女を愛していることが」
 こう言ってまた歩み寄ろうとする。しかしそれも夫人の手で制止された。
「ビシェット、他の人達が貴女を他人にしたのですか?私の貴女は何処に」
「私はここにいるわ」
「それなら私は貴女を逃しはしない」
 オクタヴィアンは何とか彼女を掴むように言う。
「僕は貴女を抱いて自分で誰のものなのかわかるようにする。僕は貴女のものだし貴女は僕のものだから」
「頼むからわかって」
 側まで来て抱き締めようとする彼から逃れての言葉だった。
「私の今の気持ちは違うのよ」
「違う」
「そうよ。時と共に流れていくものがどんなに弱いか」
 こう彼に語りだした。
「感じないではいられないのよ。このことが私の心に深く入り込んできているのよ」
「貴女の心の中に」
「そう。何かを留めておくことも掴んでもいられないの。全てが指の間から漏れて手を出して捕まえようとするものは消えて」
「そして」
「霞と夢の様に消えていくのよ」
「そんな悲しいことを仰らないで下さい」
 オクタヴィアンもそんな夫人の声を聞いて悲しみに包まれる。無念そうに首を横に振る。
「貴女にとって私が大したものではないとでも」
「カンカン、わかって」
(この子もいずれは私の前から去るのに。この子を慰めなければならないのね)
 それが結ばれない恋の終幕である。わかってはいたが。
「今何と」
 だが今の言葉はオクタヴィアンの耳にも入っていた。夫人は不覚にも己の心を言葉に出してしまっていたのだ。
「いずれはなんて。誰が貴女の耳にそんな言葉を」
「それは」
「嘘ですよね」
「いい、カンカン」
 夫人はあえて優しい声でそのオクタヴィアンに言うのだった。
「時は全てのものを変えはしないの」
「はい」
「けれど時は不思議なもの」
 しかしこうも言うのだった。
「ただ夢中で生きている時は全く無に過ぎないの。けれど突然時の他何物も気に留めないようになるのよ」
「そうなのですか?」
「そうなのよ。時は私達の周りを囲み私達の中にもいるわ」
 また言うのだった。
「顔の中に時はざわめいて鏡の中にもざわめいて」
「一体何が」
「あらゆるものの中にも流れているわ。私と貴方の間にも」
「僕と貴女の間にも」
「そうなのよ。音もなく砂時計のように」
 ここで部屋の片隅にあった砂時計の砂が完全に落ちた。それで終わりであった。
「カンカン」
「はい」
「私は時々時が流れるのを聞くのよ」
「時をですか」
「そうなのよ」
 悲しげに俯いて呟いた。
「絶え間ないその流れる音を。それで私は」
 また夫人は呟いた。
「夜中に起き上がって時計を全部止めてしまうのよ」
「それ程までに」
「時のことを恐れる必要はないのかしら」
 またこうも呟いた。
「時もまた神の創られたもの、ほかのあらゆるものと同じなのに」
「強いて悲しまれようとしているのですか?」
 オクタヴィアンは時を恐れてはいない。だから言うのだった。
「私が側にいてその指が貴女の指と絡み合っているのに。私の目が貴女の眼差しを探しているその時に。貴女と私が共にいる時にどうしてそう思われるのですか」
「貴方は何時か私のところを去るわ」
 夫人はまたオクタヴィアンに告げた。
「私よりもっと若くもっと美しい人の為に私の前から去るのよ」
「嘘だ」
 オクタヴィアンはそれを信じない。
「そんな筈がない。何があっても」
「いえ、来るわ」
 夫人はわかっていたのだ。だから言うのである。
「その日は必ず。黙っていても来るものなのよ」
「そんな日は絶対に来ません」
 それでも彼はわからなかった。どうしても。
「そんな日が来るとしても考えたくはない。僕はそんな恐ろしい日は見たくもないし考えた雲ありません。どうしてそんなことを言って僕と貴女自身を苦しめられるのです?」
「貴方を苦しめるつもりはないわ」
 夫人はそれは否定した。
「私はただ貴方と私のことを言っているだけ。本当のことを」
「嘘だ、それは」
「本当なのよ。それに優しく堪えたいから」
 声が優しいものになった。目も潤んでいた。
「軽い気持ちで軽い手で受け取って支えて逃がしてやる」
 達観したような言葉になってきた。その中で。
「それができないと駄目なのよ。人というものは」
「まるで司祭様みたいだ」
 オクタヴィアンは今の夫人の言葉をこう受け取った。
「何が言いたいのか。僕には全くわかりません」
「もう行って」
 今度は突き放した。
「私は教会に行くから」
「教会に」
「そして伯父様のところに。グライフェンクラウの伯父様のところに」
「あの伯父様ですね」
「そうよ」
 彼のことはオクタヴィアンも知っていた。
「もう身体が満足に動かなくなっているから私が顔を見せると喜んでくれるの。だから」
「そうですか」
「午後に使いをやるわ」
 オクタヴィアンにも気遣いを見せる。
「プラーターへ行くかどうかね」
 ウィーンの公園のことである。
「私の馬車の傍に馬を持って来て。けれどそれまでは」
「それではまた」
 オクタヴィアンもフランス風のお辞儀をして夫人の前を後にする。夫人はその彼を見送るが暫くしてあることを思い出してまたその顔に憂いを漂わせるのだった。
「最後に接吻を」
 忘れてしまっていたのだ。それでベルを鳴らして従者達を呼ぶ。しかし。
「もう行ってしまわれました」
「もうなの」
「はい。門の前ですぐに馬にお乗りになりました」
 彼等はこう答える。
「馬丁が待っておりましたので」
「まるで風の様に速く馬にお乗りになり」
 彼等はこう夫人に述べる。
「そのまま去られました」
「そう、わかったわ」
 それを聞いて頷く。オクタヴィアンは朝に来たことになっていたので話はこれで済んだ。だがここでまた黒人の少年を呼んで彼に手渡すのだった。
「これを。オクタヴィアン伯爵のところにね」
 それは一通の手紙であった。
「わかったわね」
 少年は無言で頷いてその場を後にする。夫人はそれを見届けてから大きく溜息を吐き出しソファーに座り込んだ。それでその場は憂いの中に沈むのであった。



今回投稿して頂いたのは薔薇の騎士というお話なんだけれど。
美姫 「今回のはタイトルだけでも聞いた事がないわね」
ああ。だから、どんな話かも分からない。
美姫 「騎士とあったから戦記みたいなのかと思ったんだけれど」
ちょっと違うみたいだぞ。果たして、今回はどんなお話になるんだろう。
美姫 「次回も待っていますね」
待ってます。



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