『連隊の娘』
第一幕 命の恩人
ナポレオン=ボナパルトがまだ将軍であった頃のこと。今スイスのチロルのある村の者達は遠くから聞こえる大砲の音に戦々恐々であった。
「おい、まただぞ」
「あ、大砲の音がまた」
のどかな村である。麦畑がありその麦畑と家々が青や白の美しい山に覆われている。そして村には牛や羊達が多くいて村人達がその世話をしている。そののどかな筈の村の遠くから大砲の音が聞こえてきているのである。
「ひっきりなしだな」
「もうすぐここに来るのか?奴等」
「フランス軍が」
彼等はこう話して不安げな顔になっていた。そうしてこうも言うのであった。
「フランス軍っていえばな」
「ならず者の集まりだ」
彼等はフランス軍をこう思っていたのだ。確かにフランス軍はあまり行儀のいい軍隊ではなかった。むしろこの時代の欧州では軍といえば大抵行儀の悪いものであったが。
「そんな連中が村に来れば」
「それこそわし等は」
こんなことを話しながら不安な顔になっていた。中には神に祈っている老婆もいる。そんな中に濃い青のドレスに身を包み茶色の髪を編んで丁寧に後ろで団子にした黒い目の女がいた。
顔立ちはやや面長であり肌は白い。その肌はもうそれなりの歳だが奇麗なものでシミ一つない。黒い目は大きくやや垂れている。その彼女も砲声を聞きながら不安な顔になっていた。
「フランス軍が来たら私達も」
「奥様」
その彼の後ろにいる黒いタキシードに白髪と白い口髭の太った男が彼女に声をかけてきた。
「御安心下さい」
「大丈夫だというの?ホルテンシウス」
「はい」
ホルテンシウスと呼ばれた彼は彼女の問いに静かに答えた。
「私がいますので」
「そうね。執事の貴方がいるから」
「私がいる限り奥様に危害は加えさせません」
彼は強い声で述べた。
「ですから何がありましても」
「わかったわ」
彼にこう言われて幾分か落ち着きを取り戻したようであった。表情が落ち着き白い日笠を持つその手の震えも収まってきていた。
「それでは」
「ベルケンフィールド侯爵夫人ともあろう方がです」
ホルテンシウスはここでにこりと笑って彼女に告げた。
「動揺されては笑われますぞ」
「そうね。折角気ままな旅を楽しんでるのだし」
「そうです。ですから」
「落ち着くわ。それで楽しむわ」
気を取り直してこう述べたのだった。
「この旅をね」
「そうして下さると有り難いです」
「それにしても」
ここで彼女はあらためて村を見回す。確かに人々は砲声に戦々恐々であるがのどかで実に美しい村である。
「スイスというのは噂以上にいい場所ね」
「そうですね。確かに」
ホルテンシウスも目を細めさせて彼女の言葉に答える。
「それも実に」
「ええ。それで宿は」
「はい、それですが」
ここで侯爵夫人に対して説明しようとする。しかしここで。村に若い農夫が駆け込んで来た。そうして村人達に対して大声で叫ぶのだった。
「やった、助かったぞ!」
「助かった?」
「フランス軍が帰ったのか」
「ああ、そうだ」
そうだというのである。大声でさらに告げる。
「わし等は助かったんだ。奴等が帰ったからな」
「そうか。それは何より」
「わし等は助かったのか」
「フランス軍は来ない」
このことを心より喜んでいる言葉であった。
「こんないいことがあるか」
「全くだ。兵隊が一番迷惑だ」
「暴れるし女の子にちょっかいを出す」
こうした見方は本当に何処でもであった。後に義和団事件という騒動が清で起こるがその時に日本軍が驚かれたのはそううしたことを全くしないからだ。逆説的に言えば軍隊というものはそうしたことをする連中の集まりだと思われていたのである。そうした時代だったのだ。
「そんな連中に来てもらってたまるものか」
「そうだそうだ、来るな」
「絶対にな」
「また随分な言われようだな」
しかしここで、であった。フランス軍の青い軍服と白いズボンのやけに目立つ格好の大男がやって来た。顔は岩の如くであり顔は見事な黒い髭があり髪は後ろでリボンでくくっている。しかも耳にはピアスをしている。
「我が栄光あるフランス軍も」
「げっ、蛙だ!」
「蛙共が来たぞ!」
村人達はその大男を見て一斉に悲鳴を挙げた。蛙というのはフランス人への蔑称だ。青い軍服で蛙を食べるからこう呼ばれるようになった。これに対してフランスの宿敵イギリス人は赤い軍服を着てロブスターを食べるからザリガニと呼ばれているのである。
「逃げろ、何されるかわからんぞ!」
「娘を隠せ!逃がせ!」
「待ってくれ」
しかし大男は厳しい声で逃げさろうとする村人達に対して告げた。
「私は怪しい者ではない」
「兵隊程怪しいというか危ない連中がいるか!」
「逃げろ!」
「だからだ。話を聞いてもらおう」
しかし彼はさらに言うのであった。
「我々はだ」
「食い物はやらんぞ」
「娘に手を出すなよ」
「そうしたことはしない。誓って言う」
こう村人達の言葉に対して告げるのだった。
「このシェルピス軍曹の名にかけて」
「へえ、あんた軍曹だったのか」
「そうだったのか」
村人達はようやく僅かだが彼の話を聞きはじめた。
「その軍曹さんがどうしてこの村に?」
「食い物も娘もいらんというのなら」
「我々は平和をもたらしに来た」
そのシェルピスはこう村人達に対して話す。
「山ではならず者達と戦っていたのだ」
「ああ、あの山の」
「山賊共か」
実は近辺のある山に山賊達が昔から巣くっているのである。彼等とこの村人達は非常に仲が悪かったのである。
「あの連中を退治してくれたのかい」
「だからさっきまでの砲声は」
「そうだ。山賊達は全て降した」
軍曹は言った。
「後は我々が更正させるから安心するのだ」
「わかったさ。それじゃあ」
「安心させてもらうよ」
「第二十一連隊はフランス軍の中でもとりわけ立派な軍隊だ」
シェルピスはここで胸を張って述べた。
「悪事は一切しない」
「そりゃどうも」
「そういう軍隊ならいいよ」
「さて。それではだ」
「あの、軍曹」
ここで彼のところに一人の若い娘がやって来た。見ればブロンドに青い目のふっくらとした若い娘である。青い目の光は穏やかでかつ澄んでいる。青いフランス軍の軍服とふわりとしているが如何にも動きやすそうな白いスカートを着ている。その彼女が彼のところに来たのである。
「ここにいたのね」
「おお、マリー」
シェルピスはその若い娘の姿を認めて顔を崩して笑顔になった。岩の如き顔が彼女を見ただけで瞬く間に優しい笑顔になってしまった。
「来てくれたのか」
「皆ももうすぐ来るわ」
「それは何よりだ」
「あれ、その娘さんは」
「誰なんだい?」
「またえらく別嬪さんだね」
村人達は彼女の姿を認めて言ってきた。
「あんたの妹さんかい?」
「それとも娘さんかい?」
「強いて言うなら娘だな」
シェルピスはその優しい笑顔のままで村人達の問いに答えた。
「この娘はね」
「強いてって」
「また変わったことを言う」
村人達には今の彼の言葉の意味がわかりかねた。それで首を捻るのだった。シェルピスはその彼等に対してこう話すのであった。
「この娘は戦場で拾った娘なんだよ」
「戦場でかい」
「じゃあ孤児だったのかい」
「私は赤ちゃんの時にこの連隊に拾われたんですよ」
そのマリーがにこりと微笑んで皆に話す。話す笑顔がまるで太陽の様に明るい。
「それで育ててもらったんです」
「両親が誰なのかはわかっている」
シェルピスはこのことはわかっていると話す。
「しかし今では」
「連隊の皆が私のお父さんでありお兄さんです」
「おやおや、また随分とお父さんにお兄さんが多いな」
「何千人じゃないかい」
村人達は彼女の言葉を聞いて一斉に言った。
「それだけいるのかい」
「じゃあちっとも寂しくないじゃないか」
「私のいる酒保はいつも人が来てくれて」
マリーはそのこともにこにことして村人達に対して話すのであった。
「朝から晩までいつも周りに皆がいてくれるの」
「そりゃいいねえ」
「この軍曹さんの顔はやけに怖いけれど」
「顔のことは言わないでもらいたい」
シェルピスはこのことを言われるといささか不機嫌な声になった。表情はあまりにも厳しい顔なのでよくわかりはしない。
「決して」
「あら、気のいい兵隊さんなのね」
「その様ですな」
侯爵夫人もホルテンシウスもここで安全とわかりこれまで遠くにいたのを近くに寄ってそれでシェルピスとマリーを見はじめる。
「何かと思ったけれど」
「若い娘さんもいるし」
「大丈夫のようですな」
こんな話をしながら村人達の中に入ってそのうえで様子を窺いだしたのであった。
シェルピスとマリーは陽気に話している。ここでシェルピスはふとマリーに対して尋ねるのだった。
「ところでマリー」
「どうしたの?」
「最近兵達を避けて誰かと会っていないかい?」
こう彼女に尋ねるのだった。
「このチロルに来てから」
「ええ、そのことだけれど」
それを問われたマリーはすぐに答えてきた。
「実はね」
「うん、実は」
ここで話すマリーだった。その会っている者とは。
「チロルの人なの」
「このチロルの」
「ええ。それで私の命の恩人なのよ」
「命の恩人!?」
彼女の言葉を聞いて思わず少し大きな声を出してしまったシェルピスだった。そう言われても彼にはぴんと来ないものだったからである。
「マリーの命の恩人だけれど」
「おお軍曹」
「それにマリーもここにいたのか」
しかしここでその兵隊達が来た。誰もがその手に銃を持ち黒い帽子に青い上着、それと白いズボンという格好である。誰もが髭を生やし髪を後ろで束ねている。フランス軍の格好そのままである。
「丁度よかった」
「不埒者を捕らえました」
「不埒者!?」
それを聞いてすぐに眉を動かすシェルピスだった。
「そんな奴がいたのか」
「オーストリアかプロイセンのスパイか」
「はたまたイギリスの回し者か」
どちらにしろフランスの敵である国々だ。
「そうした輩かと」
「怪しいことこの上ありません」
「チロルにオーストリアやプロイセンの者がいる」
シェルピスはそれを聞いてまずは首を傾げさせた。
「そんなことがあるのか」
「わかりませんよ」
「スパイは何処にでもいますから」
兵達はこうそのシェルピスに対して返す。
「ですから」
「念の為に捕まえました」
「そのスパイとやらは何処にいるのだ?」
シェルピスはこのことも彼等に尋ねた。
「それで一体」
「はい、ここです」
「ここにいます」
すると村人の服を着た若者が連れられて来た。茶色の髪を丹念に後ろに撫で付けており彫のある整った顔をしている。目もはっきりとして窪んでいる。チロルというよりはパリやウィーンにいるような、そうした何処か気品さえ感じさせる若者が連れられて来た。
「放して下さい」
若者は縛られながらも必死に懇願していた。
「僕は何も」
「では何故我が連隊の周りをうろうろしていた?」
「何かを探るようにして」
「あの人は」
マリーはその若者を見てあっと驚いた顔になった。一瞬のうちに。
「まさか。こんなことに」
「言え、何故だ」
「何故我が隊の周りをうろうろしていた」
兵達は彼を囲んで問い詰める。彼はその彼等の剣幕にいささかたじろぎながらもそれでもこう返すのであった。
「それはですね」
「うむ、どうしてだ」
「ことと次第によっては命はないぞ」
「連隊にいる娘さんに会いに来たのです」
こう兵達に答えるのであった。
「だからです」
「娘!?」
「娘というとまさか」
「ええ、そうよ」
ここでマリーが言った。すぐに若者の前に立ち彼を護る様にして兵達に言う。
「この人はトニオというの」
「トニオ!?」
「このスパイの名前か」
「トニオはスパイじゃないわ」
マリーは兵の一人の何気ない言葉にきっとした顔になって返した。
「この人は絶対にね」
「ふむ。マリーが言うのならな」
「そうなのだろうな」
「そうだな」
彼等はマリーの言う言葉にはすぐに頷いた。彼女のことを絶対に信頼していることがここからわかった。髭だらけの怖い顔ばかりではあったがそれでもだった。
「しかし何故」
「マリーに会いにきたのだ?」
しかしまだ疑問はあった。兵達は今度はこのことをトニオに対して問うのだった。
「マリーと知り合いの様だが」
「何故知り合ったのか」
「ある夜のことよ」
マリーがそのこと兵達に説明するのだった。
「私がお酒を飲んで涼みに外に出た時だけれど」
「何っ、それはまずいぞ」
「そうだ。スイスはフランスとは違うんだ」
兵達はマリーの今の言葉を聞いて一斉に声をあげた。
「何処に断崖絶壁があるのかわからないのに」
「落ちたらただじゃ済まないぞ」
「ええ。その通りよ」
マリーはここで顔を曇らせた。
「もう少しで落ちるところだったわ。絶壁にね」
「それ見たことか」
「スイスは危ないんだ、あちこちにそういうものがあるんだからな」
所謂クレバスである。スイス名物の一つでもある。あまりいい名物ではないがそれでも名物なのは紛れもない事実である。実際に存在しているのだから。
「全く。それでどうして助かったんだ」
「この若者が助けてくれたのかい?」
「そうよ」
その通りだと答えるマリーだった。
「私が今にも絶壁に落ちそうになって木の枝に必死に捕まっていたけれど」
その絶壁のところに生えているその木の枝にということである。
「たまたまトニオが通り掛って私を引っ張り出してくれたのよ」
「何と、その絶壁から」
「マリーを救い出してくれたのか」
「自分も落ちるかも知れないのに」
そうしたというのである。絶壁で人を助けるからには自分も落ちるかも知れない。しかし彼はそれでもマリーを救おうとしたのである。
「そうしてくれたのよ」
「そうだったのか」
「マリーを助けてくれたのか」
「それなら」
兵達はマリーの話を聞き終えてまずは。トニオの縄を解きそのうえで暖かい声をかけるのであった。
「御前は仲間だ」
「俺達の仲間だ」
「マリーを助けてくれたんだからな」
「そうですか」
つい今さっきまでえらい剣幕で囲まれていたので今の態度に驚きを隠せないトニオだった。
「僕がですか」
「そうよ」
今度はマリーが優しく彼に告げる。
「貴方は私達の仲間よ」
「マリーの仲間」
彼女に言われると明るい顔になるトニオだった。
「そうなんだ、僕は」
「そうよ。それでね」
「乾杯だ」
マリーに続いてシェルピスが言ってきた。
「皆ワインはあるか」
「ええ、ここに」
「ありますよ」
兵達が笑顔でワインの瓶を次々と出して来た。
「山賊達を成敗した祝いで持って来ていたんですよ」
「皆で飲もうと思って」
「そうか。それは好都合だ」
彼等の言葉を聞いて満足した笑みになるシェルピスだった。やはりここでも実にいい笑顔である。
「それならだ」
「飲みますか」
「連隊の歌を歌いながら」
「うむ、では歌おう」
「我等フランス軍の中でも」
早速乾杯しながら歌いだす彼等であった。その中で村人達にも杯を手渡していく。
「さあどうぞ」
「一杯やりましょう」
「あっ、こりゃどうも」
「御親切に」
「ですから」
ここでまた村人達に言うシェルピスだった。
「我々は戦争をしに来たのではないのですから」
「平和をもたらしにですね」
「そして山賊を」
「そういうことです」
このことは確かに言うのであった。
「ですから御安心下さい」
「ええ、それじゃあ」
「そういうことで」
村人達と兵士達は仲良くそのワインを飲みはじめた。暫く談笑していたがやがて遠くからまた大砲の音が聞こえてきた。村人達はそれを聞いてシェルピスに問う。
「あの砲声は」
「まだ山賊がいるのですか?」
「いえ、あれは点呼の合図です」
彼はそれだと答えた。
「それなのですよ」
「点呼のですか」
「それなのですか」
「はい。ですから一旦戻ります」
彼はすぐに兵士達に顔を向けた。そうして重厚な声で告げるのだった。
「では一旦戻るぞ」
「はい、それでは」
「一旦戻りましょう」
「それではまた」
兵士達は村人達に一先ず別れの挨拶を告げてその場を後にした。その時トニオも連れて行こうとした。
「御前も来てみるか?」
「一回覗いてみたらどうだうちの連隊を」
「えっ、僕もですか」
話を振られた彼はまずは目をしばたかせた。
「僕もっていいますと」
「マリーが好きなんだろう?」
「じゃあマリーのいる場所を見てみたらどうだ」
「悪い場所じゃないからな」
彼等は笑ってトニオに告げてきた。
「だからな」
「ちょっと来て見るんだな」
「はあ」
トニオは彼等に言われるままだった。しかしここでシェルピスが言うのだった。
「まだいいだろう」
「いいんですか」
「別に」
「兵隊でもない人を連れて行くのもどうかと思うしな」
こうも言うのだった。
「だからな。止めておこう」
「そうですか。それじゃあ」
「そういうことで」
「じゃあな」
彼の言葉を受けて一旦トニオを解放する彼等であった。
「またな」
「後でな」
「ええ、じゃあ」
トニオはとりあえず解放されて兵士達はシェルピスに連れられて一旦その場を後にする。村人達も彼等が去るとそれぞれ背伸びをしたり首を回して鳴らしてから言うのであった。
「じゃあまた兵隊さんが戻って来るまでは」
「仕事するか」
「そうしましょう」
こう話してそのうえでそれぞれの持ち場に戻る。後に残ったのはマリーとトニオ、それに侯爵夫人とホルテンシウスだった。ここで夫人はホルテンシウスに対して言うのだった。
「ねえ」
「どうされましたか?」
「あの娘だけれど」
彼女はマリーを見て言うのだった。
「何処かで見たと思うけれど」
「そうなのですか」
「もっと見てみたいわ」
そしてこんなことも言った。
「もっとね」
「どなたかに似ておられるとか」
「そんな気がするのよ」
首を傾げながらまた述べた。
「だからね。あそこにでも隠れて」
「はい」
側の民家の物陰を指差してホルテンシウスに告げる。
「それで見てみましょう」
「わかりました。それじゃあ」
こうして二人は物陰に隠れて彼女を見ることにした。マリーとトニオはそんな彼等のことを知らず今はそれぞれにこにことして見詰め合っているのであった。
まず口を開いたのは。トニオであった。
「ねえ」
「どうしたの?」
「マリーっていったよね」
「そして貴方はトニオね」
そのにこにことした顔でトニオを見上げての言葉であった。
「名前はもう覚えたわ」
「僕もだよ。ねえマリー」
トニオはマリーの顔を見詰めながら彼女の名前を呼んでみたのであった。
「よかったらだけれど」
「どうしたの?」
「一緒にいていいかな」
こう彼女に言うのだった。
「一緒に。これからね」
「私となのね」
「勿論だよ。二人だから言うけれど」
少しだけ勇気を出して。それから言葉として出したのであった。
「好きだから」
「わかってたわ」
マリーはにこりとして彼の今の言葉に応えた。
「さっき皆が囃し立てていたし」
「あの兵隊さん達がだね」
「いい人達よ」
このことも言うマリーだった。
「皆ね」
「そうだね。最初は怖かったけれど」
問い詰められた時のことを苦笑いと共に思い出しての今の言葉である。
「今はわかるよ」
「そうでしょ。それでね」
「うん。どうしたの?」
「私もなの」
今度は彼女からの言葉であった。
「私も。トニオのことが好きよ」
「えっ、そうなの」
「私が好きだからずっと連隊の周りにいたのよね」
「うん。まあ僕はね」
ここで自分のことも話すトニオだった。
「羊飼いの家の次男でね」
「羊飼いなの」
「多いんだよ、また家の羊が」
ここでも苦笑いになっていた。
「何百といてね。その世話がね」
「羊がそんなにいるなんて」
「だから生活には困ってないよ。兄さん夫婦も元気でやってるし父さんや母さんもいるしね」
家族のことも話すのであった。
「大きな家だしね」
「そうだったの。暮らしはいいの」
「そうなんだ。けれど」
ここまで話したうえでまた言うトニオだった。
「恋人は今までいなくて」
「私じゃ駄目かしら」
今のトニオの言葉にすぐに入った形であった。
「私じゃ。どうかしら」
「それはもう」
返事は決まっていた。彼にとっては。
「喜んで」
「私もよ」
返事が決まっていたのは彼だけではなかった。彼女もであった。二人は笑顔のままで見詰め合い続けている。
「喜んでね」
「そうだね。二人ずっと一緒にいようよ」
「じゃあ連隊に入るの?」
「家族には伝えてね」
それからだというのだった。
「入るよ、君と一緒にいられるのなら」
「ええ。だったら」
「君とずっと一緒に」
「貴方とずっと一緒に」
ここで二人は抱き合った。
「こうしてね」
「何時までも一緒にね」
侯爵夫人達が見ていることには気付いていない。しかし別の人間が来たことには気付いたのだった。
「あっ、いけないわ」
「どうしたんだい?」
「軍曹が来られたわ」
最初に気付いたのはマリーだった。シェルピスの姿を見たのである。
「離れましょう、今はね」
「うん、じゃあ」
二人は何もなかったように離れた。夫人達はそんな二人を今まで見ていたがここでホルテンシウスが主に対して言うのであった。
「それで奥様」
「どうしたの?」
「このフランス軍ですが」
「ええ」
「確か妹様の御主人がおられましたな」
「ええ、そうよ」
物陰から出ながら彼の言葉に頷く。
「それは貴方もよく知ってるじゃない」
「それはその通りです」
彼もまた頷きながら物陰から出る。そうしながら話を続けていく。
「あの娘も何所かで会ったのではと仰っていますし」
「そのこととつながりがあるとでも?」
「まあそんなことはまずないことですが」
このことは頭ではわかっていることであった。
「それでもですね」
「まさか。あの娘は死んだ筈よ」
しかし夫人はここでこう言うのだった。
「だってあの人も妹もあの戦いで」
「そうですか」
「その時にあの娘も」
「御遺体は見つかっていませんが」
「赤ちゃんの亡き骸なんて小さいから何処にでも消えるわ」
夫人は希望を打ち消すようにして返した。
「そんなのは」
「それはそうですが」
「あまり過剰な希望を持っても不幸になるだけよ」
夫人は寂しい顔でホルテンシウスに告げた。
「そんなことをしてもね」
「左様ですか」
「けれど」
ここまで話したうえで話を変えてきた夫人であった。
「旅はもうね」
「止めておくべきですか」
「フランス軍も来ているし何だかキナ臭いわ」
「このフランス軍は別に戦争をしているわけではないようですがな」
「けれどよ」
それはわかってもまだ言うマリーだった。
「絶対に何かあるわよ。フランス軍がここまで来るということは」
「やはり戦争ですか」
「そうだと思うわ。だから巻き込まれないように帰りましょう」
「左様ですね。それでは」
「残念だけれど」
右手の日笠を寂しそうに見ての言葉であった。
「それではですね」
「帰りましょう」
「いえいえ、その前にです」
何気なく言った主をここで止めたホルテンシウスであった。
「確かにお嬢様は見つかりませんでした」
「ええ」
「それでもです。奥様に何かあってはいけません」
「戦争に巻き込まれてはなのね」
「ついでに私もです」
自分のことを言うのも忘れないホルテンシウスであった。
「だからです。ここはです」
「どうするつもりなの?」
「丁度あちらに軍曹殿がおられます」
「相変わらず怖い顔ね」
そのシェルピスを見ながら話す二人だった。
「とてもね」
「ですがあの方を頼りましょう」
彼の提案はこうしたものだった。
「是非共」
「是非共、なのね」
「はい」
また主に告げるホルテンシウスであった。
「如何でしょうか、それで」
「そうね」
彼の言葉を聞いてまずは考える顔になる夫人だった。
「それじゃあそうしましょう」
「それでは。あのですね」
彼は夫人の言葉を受け早速シェルピスに声をかけるのであった。
「あの、軍曹さん」
「何でしょうか」
「御願いがあるのですが」
こう言ってから申し出るのであった。
「私達はこれから帰りたいのですが」
「それで我々に護衛を頼みたいというのですね」
「駄目でしょうか」
「いえ、構いません」
シェルピスは微笑んで快くその申し出を受けるのだった。
「無論隊長から許可は必要ですが今我が連隊は前線にはいませんので」
「それで宜しいのですね」
「はい。それでですが」
ここで彼は言うのであった。
「どちらまで帰られたいのですか」
「ベルケンフィールドまでです」
夫人が彼に告げた。
「そこまでです」
「ベルケンフィールドとは」
その城の名前を聞いて眉を動かしたシェルピスであった。そしてこう言うのであった。その間にトニオとマリーは兵達のところに向かっていて今はいない。
「懐かしい名前ですな」
「懐かしいとは?」
「いえ、実はですね」
ここで話をはじめるシェルピスだった。
「私が入隊した頃部隊にロベール=ベルケンフィールド大尉という方がおられまして」
「ベルケンフィールドですか」
「そうです。その方がです」
「あの人がおられたのね」
それを聞いてこっそりと呟く夫人だった。
「何という奇遇」
「その方のことを思い出しました」
「そうですか。実はですね」
軍曹の話を聞いてからここで言う夫人であった。
「大尉と私・・・・・・いえ妹にですけれど」
「はい」
「二人の間に女に子がいまして。大尉は戦死されましたが」
「ええ。残念なことに」
「実はその前に私に娘を託してくれたのです」
こう軍曹に話す。
「その娘は我が家の家名と財産の相続人ですけれど」
「大尉の娘さんでしたら」
「もう死んでますよね。召使い・・・・・・いえ妹に預けてそのまま夫に会いに前線に出てそこで巻き込まれて」
「生きていますよ」
しかし軍曹は言うのであった。
「その娘でしたら」
「えっ!?」
「えっ、でなくです」
大いに驚いて目を見開いた夫人に対してまた言ってきた。
「その通りですが」
「生きているのですか。娘が」
「ああ、丁度いいところに」
こう言うとだった。そこにマリーが来たのであった。
「この娘がそうですが」
「ではこの娘が」
「間違いありませんな」
ホルテンシウスは主の問いに対して答えた。
「この娘さんが奥様の娘・・・・・・いえ」
「そうよ」
「姪御様です」
何故かこう言い換えるのであった。
「間違いありません」
「何という奇跡」
夫人は最早天にも昇る有様であった。
「こんなことが起こるなんて」
「マリー、いいところに来たな」
「どうかしたの?」
「御前の家族が見つかったのだよ」
にこりと笑ってマリーに告げるのだった。
「御前のね」
「私の?何言ってるのよ」
こう言われてもからかわれてると思って笑うマリーだった。そしてそのシェルピスに対して言うのであった。
「軍曹も冗談を言うのね」
「いや、これが冗談ではなくてだな」
「私の家族はこの連隊じゃない」
マリーにしてみればまさにそうであった。だからこその今の言葉であった。
「それで何でそんなことを言うのかしら」
「冗談ではありませんよ」
その彼女に対して夫人は何とか姿勢を保って告げた。
「マリー=ブレスフィールドですね」
「何で私の名前を知ってるのかしら」
マリーは夫人を見てまずはこう思った。
「そういえば貴女村の人達の中にいたけれど」
「私は貴女の母」
「お母さん!?」
「いえ、伯母です」
咄嗟に言い繕う夫人であった。
「貴女は私の妹の娘だったのです」
「嘘よ。まさかそんなことが」
「いや、間違いないことだ」
信じようとしない彼女に対してシェルピスが告げた。
「私もまだ信じられないのだがな」
「嘘、そんなことが」
「遂に見つかったのね」
夫人は今も天にも昇る様子であった。
「娘が・・・・・・いえ姪が」
「ようございましたな、奥様」
「全くよ。ではマリー」
「はい?」
「貴女を引き取らせてもらいます」
こう彼女に申し出てきたのであった。
「それで宜しいですね」
「私を?何故?」
「我がブレスフィールドの家名と財産の相続人だからです」
マリー本人にもこのことを告げるであった。
「それに何より」
「何より?」
「貴女は私の姪なのですから」
今度はすぐに言えた。
「だからです」
「いいえ、それはできないわ」
しかしマリーは彼女の言葉を聞こうとはしなかった。
「私はこの連隊の娘よ。貴族の生活なんて柄じゃないわよ」
「柄とかそういう問題じゃないのよ」
「左様です」
拒もうとする彼女に対して言う夫人とホルテンシウスだった。
「貴女に戻ってもらわないと」
「私もです」
「だから私は」
マリーは聞こうとしない。あからさまに嫌そうな顔になってそのうえで言うのであった。
「そんな柄にもないことは」
「いや、マリー」
しかしその彼女にシェルピスも言ってきた。
「やはりだな。親戚のところにいる方がいい」
「軍曹までそんなことを」
「御前は女の子だ。やはり軍にいるのはどうかとも思う」
このことは今まで隠していた考えであった。
「だから。もうな」
「この人のところに」
「家名も財産も手に入るのだぞ」
「そんなことには興味がないけれど」
あくまでそうしたことには何の関心も見せないマリーだった。
「だから別に」
「まあそう言わないでだ」
シェルピスは優しい声でそんな彼女を説得する。
「親戚の人と共に暮らすことだ」
「そうよ。是非ね」
「御一緒に」
夫人だけでなくホルテンシウスまで言うのであった。
「暮らしましょう」
「是非共」
「さあ、だからだ」
「軍曹も言ってくれるし」
「何ならわしも一緒にいよう」
彼はここでこんなことを彼女に言ってきた。
「わしもな。それならいいか」
「軍曹もっていうと」
「マリーの側にいよう。それでいいか」
「軍曹が来てくれるのなら」
幼い時から一緒にいてくれている。その彼が共なら。ここでマリーも遂に心が動いたのであった。
「わかったわ。じゃあそういうことでね」
「よかったわ」
それを聞いて心から喜ぶ夫人とホルテンシウスであった。
「それじゃあ今すぐに」
「戻りましょう」
二人は早速城にマリーを連れて行こうとする。しかしここで、であった。
「やあ只今」
「お待たせしました」
兵達も戻って来た。トニオも一緒である。彼等の姿を認めてそれまで仕事をしていた村人達も戻って来たのであった。忽ちのうちに皆戻って来た。
「ではまた飲みましょう」
「今度はわし等が」
村人達がビールを差し出す。皆それを飲みだす。その中で兵達がマリーに対して言うのであった。
「マリー、喜べ」
「いいことがあったぞ」
「いいこと?」
「そうさ、
「実はトニオがだ」
彼等はトニオをマリーの前に出して言うのであった。
「今我が連隊への参加が正式に認められたんだ」
「もっとも家族へ届出が必要だからそれをしないといけないけれどな」
「そうなんだ」
「それでもだよ」
だがトニオはそれでも満面の笑顔でマリーに話す。
「僕は今とても幸せなんだ」
「幸せ?」
「友よ、戦友達よ」
兵士達を見回しての言葉である。
「何と楽しい日なんだ、今日は」
「入隊できたからだな」
「マリーと一緒にいられるから」
「マリーといつも一緒にいられるというだけで」
まさに天に昇りそうな顔になっているのであった。
「もうそれだけで充分だよ」
「それじゃあ我々も君に協力しよう」
「君は我々の弟だ。つまり」
兵士達もにこりと笑ってトニオに話す。
「マリーと一緒になれるぞ」
「いつもな」
「そう、いつもだ」
トニオは彼等の言葉を受けてさらに上機嫌になる。
「いつも一緒なんだ、マリーと」
「あの、トニオ」
その有頂天になっていると言ってもいいトニオにマリーは申し訳なさそうに言おうとした。
「それでだけれど」
「何だい?」
「あのね」
「いや、マリー」
しかしここでシェルピスが出て来たのだった。
「言わなくていい」
「けれど」
「わしが言おう」
こう言って彼女の前に出るのであった。
「御前では言いだろうからな」
「軍曹、けれど」
「いいのだ。それではだ」
マリーの前に出たうえでトニオに向かい合う。そうして彼に対して話すのであった。
「トニオ、君にとっては真に申し訳ないことだが」
「何かあったんですか?入隊はできましたけれど」
「そう、君は入隊することができた」
シェルピスはそれは確かだと話した。
「しかしマリーは」
「マリーは?」
「去らなくてはならなくなったのだ」
「えっ、去るっていうと!?」
そう言われてまず声をあげたのはトニオだった。
「それは一体」
「だよな」
「どういうことなんだ?」
彼だけでなく他の兵士達もそれぞれ顔を見合わせて怪訝な顔になった。
「マリーが去るって」
「何処をだろう」
「この連隊をだ」
シェルピスが今度言ったことはトニオだけでなく連隊全体に衝撃を走らせるものだった。
「去ることになった」
「えっ!?」
「そんな」
「嘘だろう!?」
「わしが嘘を言ったことがあるか?」
シェルピスは驚くトニオ達に対して重厚な声で告げた。
「なかったな、それは」
「確かにそうだが」
「しかし」
「マリーの伯母さんが見つかったのだ」
「はじめまして」
ここで侯爵夫人が出て来て皆に対して頭を下げた。
「マリーの伯母でベルケンフィールドといいます」
「侯爵夫人であられる」
「侯爵夫人っていうと」
「貴族か」
「そういうことだ」
またトニオ達に対して告げるシェルピスだった。彼等はまだ驚きを隠せない様子でまさに鳩が豆鉄砲を受けたような顔になってしまっている。
「これでわかったな」
「頭ではわかったが」
「それでも」
彼等にとって急にとんでもないことを言われたので納得はできなかった。それでまだ驚いた顔でそれぞれ顔を見合わせてそのうえで言い合っていた。
「こんなことになるなんて」
「それも急に」
「御免なさい」
マリーは心から申し訳なさそうに皆に頭を下げた。
「私はこれで」
「マリー・・・・・・」
「トニオ」
とりわけトニオに対してはであった。
「貴方には本当に悪いけれど」
「それなら僕が入隊したことは」
「まあ待つのだ」
嘆こうとする彼に対してシェルピスが声をかけた。
「入隊したならばそう簡単に抜け出すことはできないがだ」
「そうですよね」
そのことはトニオもわかっていた。軍隊という場所は生半可なものではない。それは彼もよくわかっていることであったのである。
「それは」
「しかしだ」
トニオは項垂れる彼にさらに告げた。
「希望はあるぞ」
「あるんですか」
「君が武勲を挙げてそれをマリーの前に差し出せばだ」
「それで一緒になれるんですね」
「そうだ。マリーが貴族の御令嬢になったとしてもだ」
それでもだというのである。武勲を挙げればだ。
「都合のいいことに今我が軍は忙しい」
「戦争で、ですね」
「オーストリアにプロイセンにロシアにイギリスだ」
ほぼ欧州中を相手に戦争していたのである。革命が起こった直後のフランスは。そしてその中からナポレオンという男も出て来るのである。
「武勲を挙げるべき相手は幾らでもいるぞ」
「それじゃあ僕は」
「頑張るのだ」
こう言って彼を励ましたのであった。
「わかったな」
「はい、やってみせます」
入隊して早々意気込むことになった。
「そして隊長になります」
「将軍にもなれるぞ」
この時のフランス軍はそうであった。武勲を挙げれば将軍になれたのである。実際にナポレオンもしがない砲兵将校から瞬く間に将軍になっている。
「わかったな」
「よくわかりました」
「じゃあ皆」
ここでマリーが涙を流しながら皆に告げる。
「さようなら」
「さようなら、マリー」
「元気でな」
兵士達も別れを惜しむ顔で彼女に告げる。
「また会おうな」
「その時にまた飲もう」
「ええ、心ゆくまで」
「じゃあマリー」
侯爵夫人が彼女の横からそっと声をかけてきた。
「帰りましょう、私達のお城へ」
「ええ、伯母様」
伯母の言葉にこくりと頷く。そうして彼女は連隊を後にした。トニオ達に涙ながらに見送られながら。
何ていう偶然なんだろう。
美姫 「まさか、亡くなったと思われた子が無事に成長していたなんてね」
娘なのか姪なのかはちょっと怪しい感じもするけれど、兎に角引き取る事にはなったみたいだな。
美姫 「ここからどうなるのかしらね」
折角連隊に入ったのにトニオはマリーと離れる事になったしな。
美姫 「続きが気になるわね」
うんうん。次回も待ってます。