『オテロ』
第四幕 オテロの死
デズデモーナの寝室。今そこにある祈祷台の前に白い寝巻きを着たデズデモーナが座っている。その少し離れた場所に天幕ベッドがある。だが彼女はそこを水に祈祷台の前に座り込んでいる。髪を下ろしこの上ない悲しい顔で。
彼女の横にはエミーリアが控えている。デズデモーナを気遣って声をかけるのだった。
「奥様」
「ええ」
デズデモーナはエミーリアの言葉に応えた。エミーリアは心から彼女を心配していた。
「旦那様は」
「落ち着かれたみたい」
「そうですか」
デズデモーナの言葉を聞いてまずは安心したようだった。
「それは何よりです」
「床について待っているようにと仰ったのよ」
「左様ですか」
「それでね。エミーリア」
沈んだ顔のままでエミーリアに告げた。
「何でしょうか」
「婚礼の時のガウンをベッドの上に広げておいて」
「ガウンをですか」
「ええ。それで」
さらにエミーリアに告げるのだった。
「聞いて欲しいことがあるのだけれど」
「何でしょうか」
「私は貴女より先に死ぬことがあれば私が着ていた服のどれかに包んで葬ってね」
「奥様、それは」
デズデモーナの今の言葉に不吉なものを感じずにはいられなかった。
「そんなお考えは追い払って下さい」
「私は悲しいのよ」
沈んだ顔でまたエミーリアに言ってきた。
「昔のことだけれど」
「何でしょうか」
「昔家に一人の女中がいたの」
「女中がですか」
「バルバラといってね。奇麗な娘だったわ」
こうエミーリアに語る。
「ある人を愛していたけれど捨てられて」
「捨てられて」
言葉を続ける。俯いたまま。
「いつも同じ歌を歌っていたの。柳の歌を」
「柳の歌ですか」
「単調なふしの歌だから覚えているの。それを思い出して」
静かに。その歌を歌いだしたのだった。
「寂しい荒野に歌いながら泣く悲しげに泣く女。柳よ柳よ」
こう歌う。
「女は腰を下ろし項垂れて。柳よ、柳よ。陰気な柳が私の花冠に」
「悲しい歌ですね」
「もうすぐ」
歌を止めて呟きだした。
「オテロ様がここに来られるのよね」
「はい」
デズデモーナの言葉に頷いた。
「その通りです」
「小川は花咲く丘の間を流れる。破れた心は呻き睫毛からは心の嘆きの苦い涙の波がほとぼしり出る。柳よ、柳よ、柳よ」
また歌いだした。
「歌いましょう。陰気な柳が私の花冠に」
さらに歌を続ける。
「小鳥達は暗い枝から甘い歌の方へ飛び下りて来るそしてその日富は岩も心を動かす程悲しくて。彼は栄光の為に生まれて私は愛の為に生まれて」
「愛の為に」
「ええ。バルバラはいつもこの歌を歌っていたのよ」
もうガウンは開かれベッドの上に置かれていた。既に。
「ところで」
「はい。何でしょうか」
「戸を叩いているのね。誰なの?」
「風です」
デズデモーナにはそれもわかっていなかったのだ。
「ただの風です」
「そう、風なの」
「さようなら、エミーリア」
静かな声で述べた。
「さようなら」
「・・・・・・はい」
エミーリアはデズデモーナに一礼してその場を後にした。デズデモーナは一人になった。彼女は椅子から降りて祈祷台の前に跪いた。そのうえで祈るのだった。
「恵み溢れる聖母マリア。貴女様は多くの妻達、乙女達から選ばれました。その貴女様から生まれた主よ。罪ある者の為に祈って下さい。弱く虐げられた者にも力ある者にも」
祈りは続く。
「不幸なる者の為にも侮辱に額を垂れる者の為にも邪悪な運命の下にいる者達に対しても。祈りを救いを御願いします。どうか」
そして最後に深い祈りを捧げた。それが終わってから立ち上がり寝台に入り眠りに入る。暫くすると部屋の中にオテロが入って来た。まずはテーブルの上に剣を置きそれから蝋燭を少し躊躇いを見せてから消した。それから寝台に近付きデズデモーナを見る。唇を噛み締めながら彼女の眠っている顔を見る。暫く彼女の顔を見たまま考え込んでいたがやがてその唇に三度接吻をした。それが終わってから顔を上げた。するとデズデモーナが目を覚ました。
「オテロ様?」
身体を起こしながらオテロに対して問う。オテロはその彼女を見ているうちに顔を見る見るうちに険しく不吉なものにさせていくのだった。
「祈りは済んだか」
「お祈りですか」
「そうだ。御前が何か罪を思い出したら」
彼は言う。
「神の恵みを願いすぐに祈るがいい」
「何故ですか?」
「急げ」
オテロはまた言い詰める。
「わしは御前の心まで殺したくはないのだ」
「殺す・・・・・・」
「そうだ」
闇の中で目が血走っていた。憎しみに燃えていた。
「わかれば。祈れ」
「そんな・・・・・・私は何も」
「御前の罪を考えるのだ」
憎悪に満ちた声で述べた。
「御前の罪をな」
「私の罪を」
「そうだ。それは何だ」
「愛したことです」
それしか考えられなかった。デズデモーナには。
「それ以外は何も・・・・・・」
「そうだ、愛だ」
憎悪に満ちた声で今愛だと言った。
「御前はそれ故に死ぬのだ」
「では貴方を愛したから私を殺すと仰るのですか?」
「御前はカッシオを愛した」
オテロの言葉だ。
「そんな、それは・・・・・・」
「さあ、死ぬのだ」
有無を言わせぬ言葉だった。オテロはそれ以外に言葉を知らないかのようだった。
「今すぐここで」
「今日だけでも」
そうすればわかると思った。だが。
「駄目だ」
憎悪がそれを拒んだ。
「今すぐだ」
「一刻だけでも」
「駄目だ」
やはりそれも拒む。
「ほんの一瞬でも」
「駄目だ」
これも駄目だった。
「お祈りを捧げるその間は」
「駄目だ!」
遂に叫び。そしてデズデモーナの首に両手をかける。
「死ね!今すぐここで!」
「オテロ様、どうして私を」
「黙れ、黙れ!」
寝台の上で倒れていくデズデモーナの上で叫ぶ。その両手で彼女の首を絞める。デズデモーナはそれを抵抗することもなく受けるだけだった。
「ここで死ね。わしの手で!」
「オテロ様・・・・・・」
デズデモーナは意識を失った。死んだと思った。そう思ったオテロは顔を上げた。次にベッドから出る。そのうえで肩で息をしながら呟くのだった。
「墓場のように静かだな」
だがその静寂は一瞬だった。扉を叩く音が聞こえてきたのだ。
「誰だ」
「奥様」
エミーリアの声だった。
「エミーリアか」
「大変でございます、大変でございます」
「どうしたのだ?」
「その声は旦那様ですか」
「そうだ、わしだ」
オテロは答えた。
「それで一体どうしたのだ?」
オテロは自分から扉に近付き開けた。するとそこからそのエミーリアが肩で息をしながら入って来たのだった。まるで恐ろしいものを見たかのように。
「大変なこととは」
「カッシオ様がですね」
「カッシオがイヤーゴに」
「違います」
オテロのその言葉はすぐに否定された。
「カッシオ様がロデリーゴ様を殺されたのです。夜道に襲い掛かって来られたロデリーゴ様を」
「馬鹿な、あいつが生きている」
オテロははそれを否定した。
「そんな馬鹿な。それに」
エミーリアはここで心の中に不吉なものを感じた。慌てて部屋の中を見回すと。
「奥様は何処に」
「エミー・・・・・・リア?」
その時だった。不意にデズデモーナの弱々しい声が聞こえてきた。
「その声は・・・・・・奥様」
「私は・・・・・・」
ベッドの方から声がするのがわかった。血相を変えてそこを見るとそこには仰向けに弱々しく倒れ伏すデズデモーナの姿があった。エミーリアは彼女のその姿を見て血相を変えた。
「奥様!」
「私は無実の罪で死ぬわ」
「え・・・・・・そんな」
「誰の罪でもないの。だから気にしないで」
「気にしないでと言われても」
そんなことは無理だった。デズデモーナにとっては。
「そんな・・・・・・奥様」
「さようなら」
一言だけだった。
「今まで有り難う」
「どうして・・・・・・どうしてこんな」
「わしが殺した」
オテロはデズデモーナに背を向けて言うのだった。
「わしがな」
「何故そんなことを」
「あの女はカッシオの情婦だった」
「そんなことは有り得ません」
「いや、確かだ」
しかし彼はまだ言う。
「イヤーゴに聞けばわかる。御前の夫にな」
「主人が。まさか」
「しかし本当のことだ」
オテロはこの時までもイヤーゴを信じていた。
「わしは本当に聞いたからな」
「そんなことは有り得ません」
エミーリアは夫よりもデズデモーナを信じていた。だからそれを聞いても信じなかったのだ。首を横に振ってから言うのだった。
「貴方は愚か者です」
「わしを愚かだというのか」
「ええ。何度でも言いますよ」
デズデモーナの遺体の前に立っていた。ベッドの上に青い顔をして目を閉じて横たわる彼女の前に。そうしてオテロを見据えていた。
「貴方は馬鹿です。この人殺し!」
「何!」
「旦那様が奥様を殺された!誰にでも言いますよ!」
「貴様!」
「何だ!?」
「今度は何事だ!?」
その時だった。オテロとエミーリアの言い争いを聞きつけたカッシオとロドヴィーゴ、モンターノ、そしてイヤーゴが幾人かの兵士達を引き連れて扉から部屋に駆け込んで来た。彼等はオテロとエミーリアの間に入ってまずは呆然としていた。ただイヤーゴの顔は仮面だ。
「ねえあんた」
エミーリアは不吉なものを感じさせる顔で自身の夫に顔を向けて問うた。
「あんたに聞くよ」
「何だ」
「旦那様に奥様が不義を働いているって言ったのかい?」
「違うのか」
「何を証拠に」
「ハンカチだ」
オテロがここで言う。
「ハンカチによってだ。わしがあれにやったハンカチをカッシオが持っていたのだ」
「旦那様、貴方は本当に」
エミーリアはそれを聞いて完全にわかった。それと共に呆れ果てた。
「よくもまあそんな簡単に騙されて。何を見ていたのですか」
「あれの醜い心をだ」
「そう見えるのなら本当に貴方は愚かな方です」
徐々に怒りがこみ上げてきているのを自分でも感じていた。その中でまた言うのだ。
「あのハンカチは」
「おい」
イヤーゴはここでエミーリアに対してすごんだ。
「黙っていろ」
「いえ、言うわ」
「黙っていろ」
「どうしたのよ、あんた」
エミーリアもまたイヤーゴの素顔を知らなかった。しかしそれでも言うのだった。
「言うわ。奥様の為に」
「だから黙っていろ」
「あのハンカチは私が拾ってそれを主人に頼まれて渡したものです」
「何っ!?」
それを聞いたオテロの顔が曇った。
「どういうことだ、それは」
「ですからその後は」
「くっ・・・・・・」
イヤーゴはエミーリアに怪訝な顔で問うオテロの後ろで歯噛みしていた。そしてここで言うのはカッシオだった。
「私はそのハンカチを部屋で」
「ますますわからん。何なのだ」
「閣下!」
ここで扉に兵士の一人が飛び込んで来た。
「どうした」
「大変なことです。ロデリーゴ殿が最後に仰ったのですが」
「うむ」
その兵士の言葉を一同聞く。だがイヤーゴはその中で何とかその場から逃れようとしていた。陰険な悪魔の顔で。
「イヤーゴ殿がデズデモーナ様との縁を取り持つからと。カッシオ様を暗殺されよと。手伝うからと」
「そういえば」
カッシオがまた声をあげた。
「あの時刺客は二人いた。それでは」
「では、だ」
オテロはここで全てがわかった。
「わしにデズデモーナのことをそそのかしたのは」
「あと閣下」
またカッシオがオテロに言う。
「私は。ビアンカという女と」
「それでは」
「そうだ。あんたが」
エミーリアもまた。全てがわかった。また血相を変えてイヤーゴを見る。
「全部。仕組んで」
「違う!」
「そうじゃないかい。全部!」
「黙れ!」
遂に感情を爆発させた。剣を抜きそれで自分の妻を切り捨てた。そのうえで逃げようとする。しかし。
「馬鹿だった」
オテロは俯いて呟いていた。
「馬鹿だった。わしは馬鹿だった」
「閣下・・・・・・」
「だが。あの男は逃がさん」
しかし目は生きていた。顔を上げるときっとイヤーゴを見据える。
側の兵士に顔を向ける。そして彼に言った。
「槍を渡せ」
「槍をですか」
「そうだ。これで」
兵士から槍を受け取ると。それをイヤーゴに向かって投げた。槍はイヤーゴの背を貫きそのまま心の臓まで貫き通した。イヤーゴは前に倒れていく中で最期の呪詛の言葉を漏らした。
「おのれ・・・・・・」
「悪魔は死んだ」
モンターノはそれを見て呟いた。
「実直な顔は仮面だったか。全ては」
「閣下」
ロドヴィーゴが今槍を投げたオテロのところに来て。静かに告げた。
「申し訳ありませんが」
「何を言われるか」
しかしオテロはその彼に対して言うのだった。
「例えまだほかに武器を持っていたとしてもわしを恐れる者はいません」
「それはどういう意味ですかな」
「オテロの旅は終わったのです」
そう彼に告げると静かにデズデモーナのところに歩み寄った。苦渋に満ちた顔で妻の死に顔を見ている。
「何と蒼ざめていることか。疲れてもの言わず美しくそれでいて不運の星の下に生まれた女よ」
妻へのことアだった。
「清らかな女。汚れのないその生涯の様に冷たく天に昇る女、デズデモーナよ」
そう妻の亡骸に告げると。懐から剣を出した。皆が止める間もなくその剣を己の胸に突き刺すのだった。
「閣下!」
「何故!」
「言った筈。わしの旅は終わった」
ベッドに倒れ込む。その中での言葉だった。
「デズデモーナ」
前にいる妻び呼び掛ける。
「最期に口付けをしたな。今また再び、わしの最期に・・・・・・」
何とか妻に近寄ろうとするがそこで力尽きた。ロドヴィーゴがその彼のところに歩み寄り自分の手でその目を閉じさせオテロとデズデモーナの手を握り合わさせた。人々はその二人の亡骸を囲んで静かに胸で十字を切るのだった。二人の魂の鎮魂に。
オテロ 完
2008・4・10
イヤーゴの思惑通りに進むかと思ったけれど。
美姫 「妻の言葉によって全て暴かれたわね」
だな。とは言え、ちょっと遅かったような。
美姫 「何とも言えない結末ね」
だな。夫を裏切っていないと証明されても、な。
美姫 「色んな策略が絡み合うのは面白かったけれどね」
確かに。投稿ありがとうございました。
美姫 「ありがとうございました」