『さまよえるオランダ人』




                          第三幕  永遠の救済

 港。岩の多い入り江だった。そこには多くの船が停泊している。ダーラントの船もある。その前で皆が明るく陽気に酒を飲み騒いでいた。向こう側にはオランダ人の暗い船もある。
「舵取りよ見張りを止めよ!」
「舵取りよ我のところに来たれ!」
 船乗り達は両足を派手に踏み鳴らしながら歌っている。
「帆を降ろせ錨を留めておけ」
「今日は楽しく一杯だ!」
「美女にブランデー」
「御馳走もあるぞ!」
 そう言い合って派手に騒いでいる。するとそこに娘達も来た。
「あら皆」
「もう出来上がっているの」
「遅いぞ!」
「もう皆飲んでいるぞ」
 彼等は口々に娘達に告げる。
「わかったら早くここに来い」
「飲むぞ飲むぞ」
「わかってるわよ、早く行かないと」
 娘達はそれに応えて言う。
「お酒も御馳走もなくなってしまうわ」
「そうなったらお話にならないわ」
「じゃあ早く来い」
「飲むぞ食うぞ騒ぐぞ」
「それはいいが」
 ここで舵取りが出て来てふと言う。
「どうしたの?」
「舵取りさん今日はやけに神妙な顔ね」
「あれだ」
 ここで彼はオランダ人の船を指差した。その周りだけがしんと静まり返っている。
「あの船はどうしたんだ?」
「物音一つしないな」
「ああ、全くだ」
 船乗り達もそれに頷く。
「中には大勢いる筈だが」
「どういうことなんだ、これは」
「声をかけてみる?」
 娘達はこう提案した。
「少し」
「そうよね。声をかけないと駄目よ」
「それじゃあ。あの」
 そうして声をかけた。
「どうですか?宜しければ」
「私達と楽しく」
 だが返事はない。灯りもついていない。娘達はそれを見て首を傾げるのだった。
「返事がないわ」
「どうしたのかしら」
「聞こえなかったのか?」
「まさか」
 これには船乗り達も首を捻った。騒ぎが収まっていた。
「しかし本当に声がしないと」
「灯りもないしな」
「おかしい」
 彼等は言う。
「妙だな」
「そういえばあの連中」
 ここで船乗りの一人が言った。
「酒も飲まないし何も食わないぞ」
「そうなの」
「ああ、そういえばそうだ」
「歌も歌わないしな」
 船乗り達は次々に気付いた。思えば不思議なことばかりだった。
「妙な連中だ」
「人間なのか?」
「何言ってるのよあんた達」
「そうよ」
 娘達はその彼等に対して言う。
「人間でなかったら何なのよ」
「何だっていうのよ」
「幽霊なんじゃないのか?」
「そうだよな」
 船乗り達はこう考えて述べる。述べていて次第にそのことを自分達の中で正しいと思うようになってきていた。そういうふうに考え出していたのだ。
「幽霊だったら何も食わないし何も飲まないさ」
「そうそう」
「だから。そんな馬鹿なことある筈ないじゃない」
「冗談も程々にしたら?」
「ねえそちらの方々」
 娘達はオランダ人の船に対して声をかける。
「早くこっちに来て」
「御馳走もお酒もあるわよ」
 しかしその言葉に対する返事は何もなかった。何もないまま沈黙だけが支配した。娘達もそれを見て遂に船乗り達と同じことを思うようになった。
「やっぱりこれは」
「あの船にいるのは」
「なっ、幽霊だろ?」
「そうだろ」
 船乗り達はここぞとばかりに娘達に言うのだった。
「さまよえるオランダ人の話は本当だったんだ」
「あの船こそが」
「そうだったら」
 娘達はさまよえるオランダ人の話を聞いてその顔を一斉に青くさせた。彼女達もその話は知っていたのだ。海の携わるのなら誰でも知っている話だった。
「大変よ、起こしたら駄目」
「若しそのさまよえるオランダ人だったら」
「おおい」
 だがここで船乗りのうちの数人がオランダ人の船に声をかけるのだった。
「一つ聞いていいかい?」
「君達に聞きたいことがあるんだ」
 こう彼等に対して尋ねるのだった。
「君達は海で岩や岩礁に困らないのかい?」
「どうなんだい?」
「やっぱり」
 娘達は返事がないのでまた確信するのだった。
「返事はないし灯りもない」
「どういうことなの?」
「手紙はないのかい?」
 船乗り達はまた彼等に問う。今度は数が増えていた。
「だから彼等は幽霊だから」
「もう」
「帆をあげてみないかい?」
 水夫達はまた船に問う。
「さまよえるオランダ人の船の速さを見せてくれ」
「早くな」
「だから止めてって」
「何が起こるかわからないわよ」
 娘達はいい加減怖くなって船乗り達を止める。
「わし等でやるか?じゃあ」
「そうするかい?」
「どうしたらいいの?」
「やっぱりここにいたら危ないんじゃ」
 娘達は不安な顔になって言い合う。不安と恐怖が彼女達の胸を支配していた。
「帰った方が」
「何を言ってるんだ」
「怖気付くなんてな」
「おおい、こっちに来てくれ!」
 また彼等は声をあげた。
「お隣さん、早くこっちに来な!」
「お酒に御馳走があるぞ!」
 こう歌って勧めるのだった。やはり足をステップさせている。
「見張りを止めてこっちに来て楽しくやろう!」
「塩水じゃなくて美味い酒を飲もう!だからこっちへ!」
 そう歌っているとここで。遂にオランダ人の船に灯りが宿った。しかしそれは青白い、朧な火だった。その火を見て船乗り達も娘達も驚きの声をあげた。
「あの火は」
「やっぱり」
 確信が断定になったその瞬間に。オランダ人の方から不気味な声が聞こえてきたのだった。まるで海鳴りの様に聴こえてきたのだった。
「何だあの声は」
「まるで」
「嵐は陸に向かって吹く、帆を上げよ錨を掲げよ入江の中に船を入れよ!」
 彼等は口々に歌う。断末魔の海鳴りの声だった。
「黒き船長よ陸に!嵐は結婚の音楽を奏で大洋はそれに合わせて荒れ狂う。耳を傾けよ。悪魔が口笛を吹いている!」
 口々に歌う。不気味な歌を。
「船長よ沖に!」
「成功しなかった救いに乾杯!」
 歌が続く。その不気味な歌が。
「どれだけ嵐が喚こうと我等の帆はびくともしない。悪魔が我々を不死とした。我々は永久に死ぬことはないのだ!」
「何という歌だ」
「今の歌は」
 オランダ人のその歌を聴いて皆身震いせずにはいられなかった。最早酒も醒めていた。
「そんな歌ではない、我々と一緒に歌えばいい!」
「さあ、だからここで!」
 しかしそれも適わない。悪魔の如き歌が続く。そうしてその歌がまた歌われ。船乗り達も娘達も遂に恐怖に包まれその場から逃げ出したのだった。
 後に残ったのはまずは亡霊達の哄笑とその後の沈黙。後には何も残ってはいなかった。不気味な沈黙だけがそこにあった。
 ゼンタの家の前。彼女が家を出るとそこでエリックがやって来た。すがるようにして彼女に声をかけてきた。
「ゼンタ、ここにいたんだ」
「エリック、何なの?」
 ゼンタはそのエリックに顔を向けるのだった。
「何かあるの?」
「ゼンタ、話は聞いたよ」
 怯えるような顔でゼンタにまた言う。
「お父上が連れて来たあの男と」
「それのこと?」
「それのことってつまり」
 エリックはもうこれだけでわかった。それだけで。
「やっぱりそうか、そうなんだ」
「あの人のことが。どうしたの?」
「エリックに関係はないわ」
「関係ある。君はあのはじめてこの港に来た男に対して」
「そんなことは」
「だから言っているじゃない。貴方はもう」
「もう!?」
 強張った顔でゼンタに声をあげた。
「もう。何なんだ」
「私はもう貴方を見てはいけないの」
 エリックから顔を背けさえする。
「だから来ないで欲しいのよ」
「貞節を誓っているのか?」
「貞節!?そうよ」
 エリックの言葉に頷いてみせる。
「私は誓って言うわ。私の貞節はあの方にだけ」
「あの方にだけ!?そうか」
「ええ、そうよ」
 ゼンタも少しムキになっていた。
「だからもう」
「思い出してくれ、ゼンタ」
 絶望に支配されながらも哀願する顔でゼンタに言ってきた。
「あの谷に君が私を呼び寄せたことを。君の為に高山の花を危険を冒して採って来たことを」
 そのことを話すのだった。
「君を頼むとお父上に言われた時。君は言った筈じゃないのか?」
 そしてまた言う。
「お互いに手を握って言ってくれたじゃないか」
 必死に言うのだった。だがそれはゼンタには届かない。それよりもそこに偶然いたオランダ人がそれを聞いて発作的に叫ぶのだった。
「終わりだ、もう終わりだ」
 頭を抱えて叫びだした。
「やはり私は幸せは」
「何っ、まさか」
 エリックはその声がした方に顔を向けた。するとそこには。
「やはり、オランダ人」
「ゼンタよ、さようなら」
 オランダ人はゼンタに別れを告げて走り去ろうとする。だがそこを素早く回り込んだゼンタは彼の前に出て必死に止めるのだった。
「待って下さい、不幸な方」
「ゼンタ、何をする気なんだ」
「海へ」
 オランダ人は絶望した顔で叫ぶ。
「永遠に海に戻る。私の救済を捨てて」
「救済を捨てて」
「そうだ」
 その絶望した顔で述べた言葉だった。
「これでいいのだ、貴女にとっても」
「やはりあの男は」
 エリックは彼の叫びを聞いて確信した。
「貴方は言ってはいけません」
 ゼンタはその彼を必死になって止める。
「私がいるから」
「帆を上げよ!」
 だがオランダ人はそれに構わず港に見える己の船に告げるのだった。
「錨を掲げよ。この国に永遠の別れを!」
「永遠の別れ!?」
「そうだ!」
「あっ、お待ち下さい!」
「ゼンタ!」
 オランダ人はゼンタを振り切り港の方へ駆けて行く。ゼンタはその彼を必死に追いエリックはそのゼンタを追う。そうして瞬く間に港に辿り着いたのだった。
「海に出てまたさまようのだ」
 オランダ人は絶望した声で呻く。もう己の船のすぐ側に来ていた。
「それが私の運命なのだから」
「私を疑うのですか!?」
 ゼンタももうそこに来ていた。エリックもそこにいた。
「恐ろしい。ゼンタ、君は」
「全ての貞節は失われた」
 オランダ人の絶望がさらに深まった。
「だからもう。私は」
「いえ、私は護ります」
 それでもゼンタはオランダ人に対して言う。彼女もその固い心で。
「ですから」
「では言おう」
 オランダ人は遂に名乗りだした。
「我が名を。我が名はさまよえるオランダ人!」
「やはり!」
 エリックはそれを聞いてやはりと思うと共に顔を強張らせた。
「そうだったか。さまよえるオランダ人!」
「数え切れぬ程の死さえも私にとっては快楽、一人の女性だけが私を呪いから解放する。死に至るまでの貞節を守る女性だけが!」
「それは」
「貴女は貞節は誓ったがそれは永遠のものではなかった」
「いえ、それは」
「言うな。それが貴女を守ったのだ。私に誓った貞節を破った者には永遠の劫罰が襲う。私はそれを幾度も見てきたからだ」
 それがオランダ人の宿命だったのだ。貞節を求めそれが破られた時の劫罰を見てきた。それこそが彼が味わってきた宿命だったのだ。
「さらば!」
 オランダ人は踵を返して叫ぶ。
「我が救済よ、永遠に失われよ!」
「大変だ!皆、来てくれ!」
 去ろうとするオランダ人に対してエリックは必死で助けを呼ぶ。
「ゼンタが!ゼンタが!」
「どうした!」
「どうしたエリック!」
 それを聞いてダーラントもマリーも皆も出て来た。出て北誰もが驚愕の色をその顔に思い浮かべる。そこに見てはならないものを見たからだ。
「待って下さい!」
 だがゼンタは一人その中でオランダ人を呼び止めていた。
「貴方の運命はよく知っています。もうそれは既に」
 そのことを言うのだった。
「貴方の苦しみが終わる時が来たのです。永遠の貞節を持っているその女こと私です。貴方を救う女性こそが私なのです」
「助けてくれ!皆!」
 エリックはゼンタがオランダ人を見る中で必死に皆に声をかけ続けている。
「亡霊が!亡霊が!」
「ゼンタ、行くな!」
「恐ろしいことになるぞ!」
「見て、あの船!」
 マリーが蒼ざめた顔でオランダ人の船を指差した。そこにあるのは。
 黒い漆黒のマストが高々とありその帆が赤い血の色になっている。青白い炎を宿らせたその船を。今その船の錨が掲げられた。
「さあ、出港だ!」
「いえ、なりません!」
 船に飛び乗ったオランダ人に対して叫ぶ。
「貴方の天使の心を御覧下さい!」
 港の一際高い場所、岸壁にその身を置いた。
「私はここで貴方に死までの貞節を誓います!」
「ゼンタ!」
「ゼンターーーーーーーーッ!」
 エリック達の声も聞かず一人その岸壁から身を乗り出した。すると嵐が起こり海を荒れさせる。その中にオランダ人の船だけが沈められる。そしてその嵐が一瞬で消えて何と海の中から船が浮かび上がる。船は高々と空に昇っていき天界へと消えていく。全ては救われた。遂に永遠の貞節がさまよえる男を救い出し彼を天国の平和へと誘う。エリック達はただその光景を見ているだけだった。暗雲を裂いてそこから覗き込む黄金色の光に導かれ空を昇るオランダ人の船を。救済が適えられたのを見ていた。


さまよえるオランダ人   完


                           2008・6・6





本当に幽霊だったのか。
美姫 「呪いと言っていたけれど、ゼンタのお蔭でやっと解放されたのね」
とは言え、ゼンタはその身を。
美姫 「こういうお話だったなんてね」
これもまた一つの幸せと言えるのだろうか。
美姫 「投稿ありがとうございました」
ありがとうございます。



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