『メリー=ウィドウ』
第一幕 まずははじまり
パリにあるポンテヴィドロ公使館のサロン。二つのホールが奥にありみらびやかな光に照らされたこの部屋において今華々しい顔の面々が笑顔でいた。それぞれドレスやイブニングで着飾り楽しく談笑している。
「いと楽しき紳士淑女の方々」
着飾った踊り娘の一人が言う。赤いみらびやかなドレスを着ている。
「この度は皆で祝いましょう」
「はい」
その中の一人である黒い髪と瞳の男が述べる。端整な中年の男だ。彼の名をツェータ男爵という。パリにおいても中々の名士である。絹のイブニングを着ている。
「さあそれでは」
踊り娘達はまた言う。
「男爵の為に乾杯を」
「さあシャンパンを」
「いえ、皆さん」
ところが男爵はここで言うのだった。
「今宵は我が陛下の為」
実は彼はフランス人ではない。ポンテヴェドロ公国の者だ。欧州の小国の一つでありスラブ系の古い国だ。伝統的にオーストリアとロシアの強い影響を受けている国である。
「ポンテヴェドロ公国の者として公爵の誕生日を祝いましょう」
「おお、それでは」
「皆で」
踊り娘達もそれに応える。そうして言うのだった。
「乾杯を」
「ポンテヴェドロ公爵に」
「乾杯!」
皆ここで乾杯する。男爵はそれを見て笑顔になる。
「どうもどうも。ところで」
男爵はふとあることに気付いた。
「家内はどちらへ」
「奥様ですか」
「はい、姿が見えませんが」
男爵はそう客人の一人に述べる。見れば黒い髪と目の東洋人の客人である。言葉の訛りから日本人であることがわかる。
「どちらに」
「あれ、先程までおられましたが」
日本人はそう答える。
「そういえばおられませんね」
「お酒を楽しまれているのでは?」
やけに大柄で顔の赤い男が出て来た。ロシア大使館からの客人である。言うまでもなくこの場においても酒を大いに楽しんでいた。
「今宵もまた」
「いえ、家内はお酒は」
しかし男爵はそれを否定する。
「お酒は」
「ああ、そういえば」
もう一人東洋人が出て来た。切れ長の目をしてすらりとした身体をしている。彼は日本人ではない。中国人である。彼も呼ばれているのだ。
「ロジョンさんとお話をされていましたな」
「ふむ、それはいけませんな」
金髪で青い目の明るい雰囲気の男がそれを聞いて怪訝な顔をわざと作ってきた。彼はアメリカ人だ。何と四国の客人が呼ばれもしないのに来ているのだ。呼ばれたのは日本だけだが後の三国は呼ばれもしていない。しかしいるのが彼等らしいといえばらしい。
「閣下、若しかすると」
「いや、それはありません」
しかし男爵はそれを一笑に伏す。
「我が妻に限ってそんなことはありません」
「そうでしょうか」
「はい。ほら」
そのフランス人ロジョンと右手の部屋で楽しく話す妻ヴァランシェンヌ男爵夫人を指差して言う。彼女は元々パリの踊り娘であり赤い髪と緑の目、はっきりした顔立ちの美女である。かつてはパリで名うての踊り娘であった。実は結構浮名も流してきている。
「つつましやかに話しているではありませんか」
「そうでしょうか」
「さて」
四国の代表達はそれを聞いて首を傾げさせていた。
「あまりそうは見えませんが」
「閣下、やはりこれは」
「あいや、それは邪推というものですぞ」
四人の言葉を笑顔で否定する。
「御覧になられればわかります、それは」
「まあそう仰るのなら」
「我々はこれで」
四人は引き下がる。男爵も笑顔で宴に戻る。しかし夫の目が離れると男爵夫人は早速昔の手馴れた手つきをフランス外務省きっての女殺しカミーユ=ロジョンに見せていた。ブラウンの髪と目でやけに嫌味ったらしく着飾って涼しげで傲慢そうな笑みの二枚目だ。如何にもフランスのエリートといった感じである。嫌いな人間はあくまで嫌い抜きそうな、そうした独特な顔立ちの二枚目であった。
「さて、マダム」
気取った声で男爵夫人に声をかけている。
「私は貴女に申し上げたいことがあります」
「それは何でしょうか」
「はい。私は今恋をしております」
お決まりの言葉を平然と述べる。
「誰にでしょうか?」
「女神に」
じっと男爵夫人を見詰めて言う。
「宜しいでしょうか」
「さて、女神とは結ばれませんが」
男爵夫人はそんな彼の言葉をまずはかわしてきた。
「それはどうでしょうか」
「だからこそです」
しかしカミーユも負けない。また男爵夫人に顔を向けて言うのだった。
「私はその女神の心を手に入れたいのです」
「女神は火遊びはしないもの」
「アフロディーテは火遊びが好きでしたが」
ギリシア神話の愛の女神を出す。笑ってこう述べる。
「それはどうでしょうか」
「女神にも色々ありますわ」
夫人はまた笑って応える。
「それは御存知では?」
「さて」
その言葉にはとぼけてみせる。
「そんなことは記憶にありません」
「では御存知あそばせ」
また笑って返す。
「それについても」
「では教えて下さい」
カミーユは負けない。そう言ってすかさず男爵夫人に問う、
「別の場所で」
「どうしましょう」
はぐらかしはするが隣の部屋に目をやる。
「それについては」
「光の中と闇の中では世界も違うもの」
詩人のようにして言う。
「今は光の中でのお言葉ですが闇の中では」
「どうでしょうか」
「それを知りたいものですが」
「あらあら」
そんなことを話していた。男爵は男爵で四国の者達と話をしていた。
「然るに男爵」
「はい」
日本人の言葉に顔を向ける。
「大使閣下はどちらでしょうか」
「今はここにはおられません」
男爵はそう日本人に告げる。
「残念ですが」
「それはまたどうして」
「ははあ、わかりましたぞ」
中国人がここで思わせぶりに言う。
「クラブですかな」
「するとですな」
ロシア人がそれを聞いて楽しそうに笑う。
「恋人のところで」
「いや、閣下も隅には置けない」
アメリカ人もここで笑う。
「ああ見えて」
「実はですね」
男爵はここで言ってきた。
「伯爵は相思相愛の方がおられたそうでして」
「ほう」
「それは初耳です」
四国の者達はそれを聞いて目をしばたかせてきた。
「しかし夢破れて」
「といったところでしょうかな」
「まあそこまでは存じませんが」
男爵はここでは言葉尻を捕まえられるのを気にしたのかとぼけてきた。そのうえで話を変えようとしてきた。
「それでですな」
「いやいや」
「この話はもう少し」
四国の外交官達は話をさらに聞こうとする。多分に興味本位である。しかし彼らにとってより興味のある話が自分からやって来たのであった。
「男爵」
若い大使館のスタッフが彼のところにやって来た。
「あの方が来られました」
「あの方が」
「はい」
スタッフは男爵の言葉に頷く。すると男爵だけでなく四国の外交官達の顔色も変わってきた。
「来られましたな」
「ええ、遂に」
彼等は顔を見合わせてそれぞれ話をはじめた。仲良くというよりは互いに抜け駆けを許さない、そうした感じで話を進めていた。
「グラヴァリ夫人が来られるとはな」
男爵はあの方の名をここで口にした。
「それでどうされますか?」
「まさかお断りするわけにもいくまい」
そうスタッフに述べる。
「何しろ我が国最大の富豪だ。若しも機嫌を損ねたら」
「大変なことになりますからな」
「そうだ」
彼は言う。
「だからだ。いいな」
「わかりました」
スタッフもその言葉に真剣な顔で頷く。
「それでは」
「うん、御呼びしてくれ」
スタッフを呼びに行かせる。男爵はあれこれと周りに指示を出して場を整えさせる。四国の者達はなおもあれこれと話をしていた。
「そういえば貴国は公国にかなりのODAを」
「貴国は援助を」
日中の外交官同士が言い合う。
「貴国は帝政の頃から縁がおありで」
「貴国はロビイストで公国の方が多いとか」
今度は米露が。日米でも日露でも米中でも中露でもそれぞれ言い合う。大国である彼等は公国と何だかんだで関係があるようである。実は彼等がここに来ている理由はそれなのだ。
「あの四国に注意してくれ給え」
男爵はそtっと秘書に囁く。
「グラヴァリ夫人の財産を狙っているから」
「援助の代金としてですか」
「そうだ」
男爵は秘書に答える。
「日本はある程度で済ませてくれるだろうが後の三国はな。丸々持って行かれると」
「それは大変です」
秘書はそれを聞いて顔を顰めさせる。
「そういえばオーストリアの方はここにはおられませんな」
「かわりにあの四国だ」
「迷惑な話です」
「だからだ。いいね」
真剣な顔で秘書に囁く。
「間違っても夫人をあの四人の誰かに渡さないように。さもないと我が国は破産だ」
「わかりました」
どうやら夫人の財産は公国を左右する程のものであるらしい。だからこそ男爵はそれの確保に躍起になっているのだ。当然四国も。彼等は彼等で事情があるのだ。
「それでは皆さん」
日本の外交官が言う。彼が音頭を取り三人がそれに応える。
「はい、伊藤さん」
「宜しいですかな、マックリーフさん」
「はい」
アメリカの外交官が頷く。
「李さん」
「ええ」
今度は中国の外交官が。
「グリーニスキーさんも」
「約束は守りますぞ」
ロシアの外交官が答える。その後で日本人はまた音頭を取るのだった。
「はい、それでは抜け駆けはなしで」
「勝利者が類稀なる未亡人と」
「財産を祖国にもたらし」
「それを公国との友好の証とする」
随分と虫のいい友好の証だが彼等は本気だった。そこにスラブ風のドレスを着た長身で気品のある顔立ちの美女がやってきた。
「グラヴァリ伯爵夫人が来られました」
「おおっ」
彼等はその夫人を見て感嘆の声をあげる。青い目は湖の如く澄んで黄金色の髪は黄金をそのまま溶かしたようであった。気品のある顔立ちはその生まれを感じさせスラブ風のその白いドレスが実によく似合っていた。四国の外交官達は彼女を見て思わず近寄ってきた。
「何とお美しい」
「これはまた」
「有り難うございます」
流麗なフランス語で挨拶を返す。その笑みもまた気品のあるものであった。
「けれど私はポンテヴェドロの田舎娘。そのような賛辞は」
「いやいや」
「そんなことはありません」
彼等はそれでも言う。
「この様な美しい方は」
「全くです」
「やっぱりな」
男爵は四国の者達を見て顔を顰めさせていた。
「大金持ちの未亡人、しかも美女と来ては」
「男が言い寄らない筈がありませんか」
「そうだね」
秘書に対して応える。クラヴァリ伯爵夫人、ハンナはクラヴァリ伯爵の未亡人である。若くして資産家の老人と結婚したのだがその夫が程なくして死んだのだ。それで今や公国きっての資産家となったのである。その彼女の美貌と財産を狙って四国がわざわざ来ているのだ。
「だからこそ」
「わかっています」
秘書は男爵の言葉に頷く。
「だからこそ」
「警戒しよう」
彼等の言葉をよそに四国の者達はハンナに相も変わらず言い寄っている。しかしそれでも彼女は慇懃に彼等の誘いをかわし続けている。
「御世辞は我が国ではあまり」
「いえいえ、お世辞ではありません」
ロシア人が言う。
「本当の言葉ですぞ」
「左様」
日本人がそれに頷く。
「私もです」
「日本の方は慎み深いと聞きましたが」
「では私とダンスを」
日本人をかわすとそこにアメリカ人がいた。
「御一緒に」
「いえ、お茶でも」
そこに中国人が入る。
「如何でしょうが」
「折角ですが」
しかしハンナはにこやかな笑みでそれもかわし四人の誘いを全て断った。そうしている間に男爵のところに男爵夫人が来て何時の間にかカミーユも何食わぬ顔で来ていた。男爵は四人を離す為に夫人と共にハンナのところに来た。
「奥様」
四人を牽制するように声をかける。
「宜しいでしょうか」
「これは男爵」
ハンナは男爵に顔を向けてきた。ここでほっとした笑みを見せる。
「申し訳ありません。挨拶が遅れました」
「いえいえ」
男爵は笑って彼女に応える。そのうえで言う。
「それでは奥様」
そっと手を出してきた。
「踊りましょう。折角の宴ですし」
「はい」
「それではあなた」
ヴァランシェンヌこと男爵夫人は何食わぬ顔で夫に対して言う。
「私はロジョンさんと」
「うん」
夫としてにこやかにそれに応える。カミーユがそっと出て来て手を差し出す。
「では奥様」
「ええ」
にこやかに笑ってそれに応える。四国の者達はここでカミーユと男爵夫人を見てヒソヒソと話をはじめた。実は彼等は気付いているのである。
「御主人は気付いていないようですな」
「どうやらそのようで」
「しかしこれは何時か」
「面白いことになりそうですね」
音楽が奏でられ踊りがはじまろうとする。しかしここで金髪を見事に後ろに撫でつけ凛々しい顔をした長身の男がやって来た。タキシードを着ているが軍服も似合いそうな男であった。碧眼からも端整な光が放たれている。
「おお、閣下」
「間に合われましたな」
「うん」
大使館のスタッフ達に応える。彼こそこの公国のフランス駐在大使であり伯爵でもあるダニロ=ダニロヴィッチである。彼は宴の場に入るとちらりとハンナを見た。
ハンナも同じである。お互い何か言いたげだったがそれは決して口には出さない。口には出さないまま話をすることもなくダニロは男爵に対して言ってきた。
「戻って来たが。随分楽しい宴になっているね」
「はい」
男爵はにこやかに笑ってダニロに応える。
「その通りです」
「夜は外交官にとって大切な時間」
ダニロはここで言う。
「おしゃべりは禁物で書類はいつも山積み。仕事をしなければならないのに仕事にはいつも巻き込まれる」
「そうなのですか?」
「さあ」
四国の者達はダニロの言葉に首を傾げさせる。
「外交はのらりくらりとすればいいのに」
日本人の言葉である。
「強引に押し通せばいいのに」
他の三国の言葉である。
「巻き込まれるものではなく巻き込むもの」
「そうである筈なのに」
これは四国の事情であり公国の事情ではない。大国と小国ではそこも違うのだ。
「夜に私はマキシムに出掛けて楽しく過ごします。そうして英気を養い一旦は祖国を忘れてまた祖国に戻る。いやいや、これが中々大変でして」
「それで閣下」
そこまで聞いて男爵はダニロに声をかけてきた。
「何かな、男爵」
「早速パーティーの主催を」
「いや、ちょっと待ってくれ」
だふぁここでダニロは手も使って制止してきた。
「少し休みたいんだ」
「はあ。そうですか」
「とはいっても」
ここで宴の場を見回す。そうしてこ待った顔を浮かべる。
「机がないね。困ったことに」6
「机!?」
「何故そんなものが」
四国の者達はそれを聞いて思わず目をしばたかせる。ダニロは彼等に対しても言うのであった。
「いや、これは簡単なことで」
「簡単なこととは」
「私は便利な体質でして。事務用机を見ればもうそれだけで」
「それだけで?」
「眠くなってしまうのです」
「何と」
これには四国の者達は流石に驚いた。幾ら何でもそれはないだろうと思った。
「それでは閣下」
男爵が隣の部屋の一つを指し示してきた。
「あちらへどうぞ」
「おお、いい机があるね」
そこに机があるのを見て言ってきた。
「これはいい。それじゃあ」
「はい、ごうぞごゆっくりと」
「うん」
彼はすぐに部屋へと向かう。結構上機嫌な顔であった。扉を閉めるとすぐにいびきが聞こえてくる。四国の者達はそれを聞いて首を傾げるばかりであった。
「あんなので大丈夫なのですかな」
「さて」
とても大丈夫とは思えない。他人事ながらこの国の外交が心配になったりもしていた。
それと入れ替わりにハンナが部屋に戻って来た。あれこれと公国の外交官達と雑談に興じていたらしい。割かし機嫌よく帰ってきた。
「あら!?」
部屋に帰るとあることに気付いた。
「大使がおられた筈だけれど」
「ええ、先程までは」
男爵がそれに答える。
「ところが今は」
「何処なの?」
「ゆっくりとお休みです。あちらの部屋で」
そう述べて扉の方を指差す。
「ごゆっくりと」
「実はですね」
ここでハンナは真顔を作って言う。
「大使に御用がありまして」
「おや、何事でしょうか」
「火急の用件です」
真面目な顔で言うと説得力があるように見える。見えるだけだが。
「御呼びして下さい」
「わかりました。それでは」
公国きっての資産家の言葉なぞ無碍にはできない。すぐに部屋の中に向かいダニロを呼ぶ。起こされた彼は不機嫌な顔で部屋に戻って来たのであった。
「一体どうしたんだい?」
不機嫌な顔で部屋に来て問う。
「折角気持ちよく寝ていたのに」
「実は閣下に御会いしたい方がおられまして」
「美人かい?」
「とびきりの」
男爵も洒落てそう言葉を返す。
「如何でしょうか」
「美人ならいいよ」
伊達男を気取って応える。確かに容姿はまあ伊達男である。もっとも本当の伊達男とは自分でそれを信じて演じきれる男のことなのであるが。
「それで誰だい?」
「こちらの方です」
男爵が指し示したのは当然ハンナである。ダニロは彼女を見て顔を強張らせる。
「悪いけれど急に眠くなったよ」
「いえ、そんな」
戻ろうとするダニロを必死に止める。
「そんなことを仰られても」
「僕には関係のない話みたいだし」
「いえいえ、それがあるのですよ」
しかし男爵はこう言うのだった。
「これがですね」
「どうあるんだい。僕にはないよ」
「何と勿体ない」
「全く」
四国の男達はダニロの言葉を聞いて半ば憤慨して呟いている。
「そんなことを仰るとは」
「とにかく僕はだね」
「閣下」
ハンナはあえて他人行儀を作ってダニロに声をかけてきた。
「私今悩んでいまして」
「それは大変です。神父様に相談をされては」
「それは後で」
澄まして言葉を返す。
「実は。ある大切なことを考えておりまして」
「何をですかな?」
「結婚です」
「むっ」
「何と」
その言葉を聞いて皆緊張を走らせる。これこそが誰もが狙っていることだからだ。
「ほう」
ダニロは微妙に表情を変えながらそれに応える。
「それはいいことですな」
「ですね。それでですね」
ダニロをじっと見て言う。
「この楽しいパリで。どなたかを選ぼうかと」
「ふむ。しかしですな」
ハンナの視線を感じながらもあえてとぼけて言うのだった。
「私は結婚は一度だけにしたいものです」
「さて」
ハンナはその嫌味に口の端だけをひくつかせながら応えてきた。
「それは何のことでしょうか」
「奥様。私の伯父は」
それが他ならぬグラヴァリ伯爵であったのだ。中々複雑なものである。
「平民の娘を愛され。そうして」
「結婚して。その日のうちになくなってしまいましたわね」
「残念なことです。式の直後で」
「それはまた早い」
「夜にならないうちにとは」
四国の者達はそれを聞いて言う。
「私は人妻には興味はありませんので」
「未亡人は?」
「明るい女性が好みです」
「明るい未亡人なら?」
「それでも人妻ではないですか」
とぼけながらハンナに対して言葉を出す。ハンナも引き下がらない。
「私はそういうことには五月蝿い男でありまして」
「わかりました。それでは」
ハンナも気取ってそれに応える。後ろで二人のやり取りを見守っていた。四国の者達に顔を向ける。それからゆっくりと微笑みを送ってきたのだった。
「どなたか御一緒しませんか?」
「それでしたら奥様、私が」
そっと中国の男が出て来た。
「いえ、私が」
続いてアメリカの者が。
「いえいえ、私が」
「私なぞは」
ロシアと日本の男達も。四人はかち合ってそこから顔をお互いに見合わせてきた。
「抜け駆けはいけませんな」
「いえ、これはそうではありません」
彼等は言い合う。
「これは恋でありまして」
「そう、何を隠そう私も」
「私もですぞ」
ハンナはそんな四人のやり取りを楽しそうに見守っている。男爵はここでそっとダニロにまた囁いてきた。
「あのですね、閣下」
「あの四人の方々なら安心していいよ」
笑って男爵に対して言う。
「お互いに牽制し合って動けないから。何時でも何処でもそうなんだな」
「あのですね、彼等はどうでもいいのです」
困った顔でまたダニロに述べる。
「いいのかね」
「はい、それよりも我が国です」
こう囁いてきた。
「宜しいですか?」
「あまり」
「そんな風に仰らずに」
冗談めかすダニロにきっと真面目な顔で囁く。
「あの方々だけではありません。ここはパリですよ」
「もう誰でも知っているよ」
「それでです。パリの男といえば」
軟派男ばかりだと言いたいのだ。パリジャンといえば昔から遊び人で女好きと決まっている。ジゴロといえばフランスでありパリだ。男爵の危惧はハンナに対して向けられていた。
「グラヴァリ夫人もまた」
「あのね、男爵」
ここでダニロは言う。
「僕の哲学は知ってるかな」
「私の専攻は政治学でしたのでそれは」
首を横に振ってみせる。
「それに閣下は士官学校だったのでは?」
「だからだよ。モットーなんだ」
こう言い換えてきた。
「女には惚れてもいい。婚約はたまに、けれど結婚は」
「結婚は?」
「絶対にするな」
「面白くないジョークですな」
男爵はそれを聞いて憮然とした顔になる。
「生めよ満ちよ」
それから聖書の言葉を出してきた。
「そうではなかったのですかな?」
「確かね」
唯物史観でも何でもないがその言葉にもとぼけてきた。
「それでも僕は自分からは動かないよ」
「それはまた困ったことです」
目を顰めさせ憮然とした顔で言う。
「こうしたことは御自身から」
「そうだったかな」
「そうなのです。ですから」
何とかダニロに言わせようとする。かなりの努力と忍耐を使って。
「ここは」
「どうしろと?」
「最後まで言わずともわかる筈ですが」
「いや」
男爵の言葉にまた首を振る。
「わからないけれど」
「御冗談を。いいですかな」
「おっと、またお客さんだ」
男爵にとって都合の悪いことにまた客が来た。パリの踊り娘達である。
「マキシムの娘達だよ」
ダニロは笑顔で男爵に説明する。
「僕の行きつけのね」
「左様ですか。これはまた」
あでやかな美女達ばかりである。そうしてにこやかな笑みをたたえている。
「さあ、男爵」
ダニロは彼にも声をかける。
「卿も踊り給え」
「いえいえ、私は」
ここで彼は誇らしげに言ってきた。
「妻がおりますので」
「それでいいのかね」
「はい、そうです。だからこそ」
「だといいがね。じゃあ僕は」
「どうしますの?」
ここでまたハンナが出て来た。
「御婦人が大勢いらっしゃいましたけれど」
「さて」
ダニロは彼女に対してとぼけてみせる。
「どうしましょうか」
「一人空いていますが」
「それは皆さん同じこと」
またそう言ってとぼける。
「では。誰にしようか」
「これは抜け駆けではありませんな」
「そうですな」
四国の者達はお互いそう言い合って必死に美女を物色していた。
「誰がいいのか」
「さて、選り取りみどり」
「全く」
カミーユはそんな彼等を見てシニカルに笑っていた。
「やはり余所者にはフランスの美女に溺れてしまうようだな。慣れていないとそれに溺れる」
笑いながら言う。
「僕のように全てを遊ばないとね」
「いやいやこれはまた」
「お美しい」
その前で四国の者達は相も変わらず楽しい思いをしようと躍起になっていた。
「実は我が国はですな」
「貴国とはかねてより」
「ああした欲の皮が突っ張った方々はともかくとしまして」
男爵は妻を隣に置きながらダニロにまた言っていた。
「閣下、貴方は是非共」
「政治的な理由でかい?」
「といいますと」
「確かにね。僕は貴族だ」
政略結婚が当たり前の社会である。これは今でも同じだ。
「しかししがらみはできるだけ減らしたいとも考えている」
「それでは閣下、伯爵夫人とは」
「気楽にいきたいんだよ」
そう男爵に述べる。
「わかったかね、それで」
「まあそうね」
それを聞いてハンナも言う。
「私は政治はどうも」
「ちょっと、奥様」
男爵はハンナまでもが言い出したのでいよいよ慌てだした。
「そんなことを仰られると」
「お待ちになって下さい」
しかしハンナはそのにこやかな笑みでまずは男爵を制止してきた。
「政治は殿方の御心を悪くさせて女の魅力を失わせますわ」
「そうでしょうか」
「恋はあくまで恋」
そう主張する。
「ですから」
「楽しみましょう」
「しがらみなぞ忘れて」
マキシムの娘達はこう言う。
「さあ皆さん」
「楽しく」
そう四国の男達に述べる。彼等はもう鼻の下を長くさせていてそのつもりになっていた。
「いや、全く」
「左様で」
「またえらく単純だね」
カミーユはそんな彼等を見て呆れたように呟く。
「どうしたものだろう」
「閣下はどうされるのですか?」
ここで彼女達はダニロにも楽しげに声をかけてきた。
「私と一緒に踊って頂けますか?」
「それとも私と」
「そうだね」
遊び慣れている彼はにこやかに彼等に応える。ちらりとハンナの方を見やりながら。
「どうしようかな」
「まあ遊びですので」
秘書が横から言う。
「誰でも宜しいですが」
「おや、政治的に言うつもりかい?」
「いえ」
秘書はそれには首を横に振る。一応はそうではないと述べてきた。
「ただ。御気をつけを」
「ふふふ。それじゃあ」
「さあ」
ハンナもハンナでその場にいる者達に対して述べてきた。
「ワルツを。どなたか」
「張るには花の咲くように、色とりどりに咲くように甘いワルツの響きを」
ダニロは楽しげに歌う。
「ヴァイオリンの音はあでやかにまた情熱込めて歌う時」
「閣下」
「それは一体どなたの歌で」
「祖国の民謡です」
そう四国のものに答える。
「わりかし新しい曲でしてね。如何でしょうか」
「いや、素晴らしい」
「奇麗な曲ですな」
四人はそれに頷く。酒と美女のせいだが先程よりもさらに機嫌をよくさせている。
「誰が踊らずにいられよう。若者よ、たじろぐことなく情熱込めて踊るのだ。踊ることこそが君の甘い務めなのだから」
「ささ、伯爵もそう仰っていますし」
「皆さん」
またマキシムの女達が皆を誘う。
「甘いワルツと共に」
「憂いなぞ消し去って」
「夜の仕事は楽しく」
ダニロはまた歌う。
「朗らかに」
「できればお昼もそうして欲しいものですが」
「全く」
秘書と男爵はこっそりと話す。しかしダニロは一切気にはしていない。これが彼のやり方なので当然と言えば当然であった。
「選ばれないのですね」
男爵夫人はそんな中でハンナにそっと囁いてきた。
「御自身では」
「選んで頂けないと」
彼女もまたちらりとダニロを見て言う。
「意味がありませんわ」
「そうですわね。けれど私は」
にこりとカミーユの方を見た。それから手をゆっくりと差し出す。
「カミーユさん」
彼の名を呼んだ。
「宜しいでしょうか」
「はい」
カミーユは笑顔でそれに応える。こっそりと彼女の目を見詰める。
「私でよければ」
その手を受け取って言う。
「御願いします」
「この方はポルカがお上手ですの」
彼の手を握ってハンナに述べる。
「そしてマズルカも。右へも左へもステップされて」
「本当にお上手なのですね」
「ええ。それに今からはじまるワルツだって」
「奥様、あまり褒めないで下さい」
まんざらでもない笑顔で男爵夫人に言う。
「照れてしまいます」
「あら、これは失礼」
男爵夫人も思わせぶりに笑ってそれに返す。
「それでは」
「ところで奥様」
カミーユは真面目な顔でハンナに言ってきた。
「何か」
「鞘当ては女性がするもの」
こう言うのだった。
「それはお忘れなく」
「え、ええ」
少し戸惑いながらそれに応える。
「わかりましたわ。それでは」
「はい」
二人はそのままカップルになる。すっぽかされた男爵は仕方なく踊り娘の一人と組む。何か周りからは何があるかわかるような流れであった。
四国の者達も秘書も他の客人達も踊る用意を整えていた。しかしダニロだけは相変わらず一人で平気な様子を装って立っているだけであった・
そんな彼にまた秘書が声をかけてきた。
「幾ら何でも主催の方がそれでは」
「僕も自分からは声はかけないよ」
「僕も?」
「いや、失礼」
またハンナをチラリと見てから言い変える。
「僕は、だったね。御免御免」
「それではずっと御一人でおられるおつもりですか?」
「さて、どうしよう」
「どうしようって閣下」
困った顔でダニロに言ってきた。
「あまりそうふざけられてはですな」
「別にふざけてはいないけれど」
「ふざけています」
口が咎めるものになってきていた。
「全く。何を考えておられるのか」
「別におかしなことは考えていないよ」
「それならばです」
さらに言ってきた。
「もう少しですな」
「まあまあ」
ここで何気ないのを装ってハンナがやって来た。
「秘書さんもそんなに怒られることはないではありませんか」
「奥様」
「私はパートナーにですね」
ここでまたダニロを見る。
「私を構わないふりをしておられる方を」
「誰でしょうか」
またダニロはとぼける。
「その方は」
「さあ」
ハンナも負けじととぼけてきた。
「どなたでしょうか」
「誰かわかりませんが意地っ張りのようで」
「全くです」
微かに火花を散らしながら言い合う。
「私としては奥様と踊る権利を」
「私と踊る権利を?」
「一万フランで誰かにお売りしましょう」
「何っ、一万」
「それはまた」
皆それを聞いて動きを止めて口を動かしてきた。
「閣下、本気ですか!?」
「勿論だよ」
笑顔で男爵に答える。
「だからね。心配しないで」
「心配どころじゃないですよ」
男爵は困った顔でそう言い返す。
「また突拍子もない」
「だからいいんじゃないか。そういうのが面白いんだよ」
「私はそうは思いません」
男爵は今度は憮然とした顔で述べてきた。
「そんなものを受け入れる人が」
「やっぱりいないか」
「当然です」
きっぱりとダニロに答える。
「全く。何かと思えば」
「そういえば誰も名乗りをあげないな」
四国の者達まで見回して言う。
「彼等の国では大した額じゃないと思うけれどね。大国なのだろう?」
「大国とかそうした問題ではありませんから」
またダニロに告げる。
「それだけの額を遊びに使うなぞ」
「おや、そういえば」
ダニロはここでまた楽しそうに言う。
「夫人は何処かへ」
「私の妻ならここに」
「いやいや、伯爵夫人だよ」
笑ってそう男爵に言葉を返す。
「ほら、いないね」
「まあ当然でしょうね」
顔を思い切り顰めさせてダニロに対して言ってきた。
「とんでもない侮辱ですから」
「ふん」
「それにです」
彼はさらに言う。
「皆帰っていますよ。場が醒めたから」
「いいじゃないか、静かに眠れる」
「外交的にはとんでもない失敗になりますが」
「いやいや、すぐに挽回できるよ」
しかし彼はこう言って平気な顔をしたままである。
「すぐにでもね」
「だったらいいのですがね」
「あなた」
男爵に妻がそっと囁いてきた。男爵はにこやかな顔になって妻に問う。
「何だい?」
「私達もそろそろ」
「おっとそうだね、それじゃあ」
「それじゃあね」
ダニロの方から彼に別れを告げる。
「また明日」
「今後どうなっても知りませんから」
男爵は去り際にこう釘を刺してきた。
「いいですね、どうなっても」
「どうなってもこうなってもなるがままになるさ」
「貴方も私も更迭されますよ」
「そうならないようにはするさ」
相変わらずの涼しい顔で返す。
「じゃあお休み」
「お休みなさいませ」
ダニロには思いきり剣呑な顔を見せる。しかしその顔は妻に対しては非常ににこやかな顔になるのだから実に不思議なことではある。
「じゃあヴァランシエンヌ」
「ええ」
夫婦仲良く帰る。妻のことには全く気付いていない。
場はあっという間に掃除され整理され奇麗なものになる。ダニロは一人そこに佇んでいたがそこにハンナが不機嫌そのものの顔でやって来た。
ダニロは涼しい顔で彼女を見ている。それからしれっとした顔でこう言ってきた。
「解放されましたよ」
「そうね」
声も不機嫌そのものだった。その声で言う。
「よくもまあこんなことを」
「何かあるのかい?」
「けれどあの時僕と踊るつもりじゃなかったんだよね」
「相手は一人しかいなかったじゃない」
ハンナは憮然としてそう返す。
「しかも一万だなんて。誰も払わないわよ」
「僕はその一万を今この手に持っているよ」
そう言いながらそっとハンナの後ろに来た。そうして彼女の顔を覗き込もうとする。
しかしハンナはその顔をさっと逸らす。まるで遊ぶかのように。
「さて、この一万だけれど」
「演奏は何もないわね」
「演奏は無くても踊れるさ」
ダニロはそう言ってきた。
「そうじゃないかい?」
「では伯爵」
他人行儀に声をかけてきた。
「そのお手を」
「ええ」
ダニロはそっと手を差し出す。ハンナもまた。
何もない、演奏も舞台も何もない場所で踊りだす。ハンナはじっとダニロの顔を見ていた。
「とても酷い人だけれどダンスは相変わらずね」
「一人で踊る機会が多かったからね」
ここで二人は微かに笑い合う。しかしそれはあくまで微かで。まだ本気ではなかった。
ダニロとハンナって……。
美姫 「ある意味、似た者同士なのかしら」
うーん。それにしても、ここからどんな話になっていくんだろう。
美姫 「ちょっと分からないわね」
ああ。次はどうなるのかな。
美姫 「次回も待ってますね」
ではでは。