『ニュルンベルグのマイスタージンガー』




                            第二幕  夜の街の喧騒

 ニュルンベルグの街は表通り等主な道以外は全て湾曲したり狭くなったりして入り組んでおりさながら迷路である。ザックスの家もそんな場所にあり前にはポーグナーの立派な家がある。二人の家の間はかなり大きな広場になっており菩提樹が大きく茂っている。ザックスは今その家の前に一人椅子とテーブルを出し座り月明かりを頼りに靴を作っている。俯いて何かを考える顔になっている。
「親方」
 その彼に家の扉から出て来たダーヴィットが声をかけてきた。
「ちょっと散歩に行って来ます」
「ああ、すぐに帰るようにな」
「はい」
 こう言って彼は家を出て少し離れたところに向かう。そこにはマグダレーネが待っていた。
「誰にも気付かれなかったわよね」
「うん」 
 しかしこう答えた矢先であった。
「ヨハネ祭、ヨハネ祭」
「明日が楽しみだよ」
 ダーヴィットの仲間達の声であった。
「花もリボンも欲しいだけ」
「欲しいだけあの娘にあげよう」
「げっ、まずいな」
「そうね」
 二人は彼等の声を聞いて思わず背を縮めさせた。
「まさかここに来るなんて」
「どうしようかしら」
「とりあえずよ」
「うん」
 二人は小声で話を続ける。
「あの騎士さんどうなったの?」
「エヴァお嬢ちゃんが見ているあの騎士殿だよね」
「ええ、あの人だけれど」
「ちょっとね」
 しかしここで彼は首を横に振るのだった。
「まあ何ていうかね。あれはね」
「どうだったの?」
「駄目だったよ」
 難しい顔で答えるダーヴィットだった。
「失敗だったよ」
「歌い損ね?それとも全く駄目だったの?」
 マグダレーネは失敗と聞いてさらに彼に問うた。
「どうだったの?そこは」
「それが君に関係あるのかい?」
 言いながら今彼女が持っているその籠を見るのだった。
「そこにあるのはその絹の冠かい?」
「駄目よ、見たら」
 ダーヴィットが見ているのを見てすぐに引っ込めるマグダレーネだった。自分の後ろに隠す。
「これはあの人の為に作ったから」
「お昼のことだな」
「そうだね」
 徒弟達は二人に気付いていた。そうしてその二人をこっそりと見ながら言うのだった。
「けれどダーヴィットはどうかな」
「マグダレーネもまんざらじゃないのわかってるのにな」
「もうちょっと押せばいいのにな」
「全くだ」
「っておい」
 ここでダーヴィットもその彼等に気付いた。怒った声で言ってきた。
「何を見てるんだよ、一体」
「いやいや、たまたまだよ」
「通り掛かりでな」
「そうそう」
「一体何時まで遊んでいるんだよ」
 彼等の足取りを見ればわかることだった。結構以上に酔っている。ダーヴィットはそれを見て言うのだった。
「全く。今日もそんなに」
「今日は特別だよ」
「なあ」
 また彼等は口々に言うのだった。そのふらふらした足取りで。
「明日はお祭だからな」
「年寄りが若い娘さんに求婚し」
 ふざけた言葉は続く。
「若い男が年増に言い寄る」
「私が年増ですって!?」
 マグダレーネは今の彼等の言葉にむっとした顔になる。
「幾ら何でもその言葉は許せないわよ」
「ははは、例え」
「そう、例えだよ」
 マグダレーネのむっとした言葉にもこんな調子であった。
「気にしない気にしない」
「気にしたら駄目だよ」
「そうそう」
「全く。何て調子のいい奴等だ」
「本当に」
「おい、こら」
 ここで騒ぎを聞いてかやって来たザックスが後ろから自分の弟子に対して言ってきた。
「何を騒いでいるんだ?」
「これは親方」
「また喧嘩でもしているのか?」
「いいえ、酔っ払い連中からからかいを受けているんで」
 その酔っ払い達を指差しての言葉だ。見れば彼等は今度はその千鳥足でダンスを踊っている。賑やかに歌いながらそうしているのだ。
「この通りの有様で」
「酔っ払いは相手にするな」
 ザックスは今はこう言うだけだった。
「それよりももう遅い」
「はい」
「寝るんだ、早く」
 こう弟子に対して言うのだった。
「いいな」
「あっ、もうそんな時間ですか」
「とっくにだ」
「歌の稽古は?」
「今日はない」
 右手で制止する動作で告げた言葉だった。
「昼のでしゃばりの罰だ」
「あっ、それですか」
「反省するのだ」
 目を少し怒らせて弟子に告げてきた。
「いいな。新しい靴を型にはめて置いてくれたらそれで終わりだ」
「わかりました。それじゃあ」
 こうしてダーヴィットは家に戻りマグダレーネも分かれた。ザックスも家の中に入るがそれと入れ替わりにポーグナーとエヴァが家に戻ってきた。どうやら散歩をしていたらしい。
「ザックスさんはおられるかな」
 ポーグナーはザックスの家を見て述べた。
「まだ」
「ザックスさんがどうかしたの?」
「うん、ちょっとな」
 娘に顔を向けて答える。
「お話したいことがあってな」
「おられるみたいだわ」
 エヴァはそのザックスの家を見て父に述べた。
「どうやらね」
「そうなのか」
「窓から灯りが見えるわ」
「確かに」
 見れば確かにその通りだった。
「ではやっぱりいるのか」
「では入ろうか。いや」
「いや?」
「やっぱり止めておくか」
 口元に手を当てて俯いた顔になって述べるのだった。
「ここは」
「どうかしたの、お父さん」
「わしはやり過ぎたか」
 不意にこんなことも言うポーグナーだった。
「幾ら旧習を破ったとしてもそれはあの人のやり方ではなかったか」
「!?」
 エヴァは父の言葉の意味がわからず首を傾げた。
「本当にどうしたのかしら」
「意味のないことか」
 また言うポーグナーだった。
「やはりこれは」
「どうしたのかしら」
「エヴァ」
 ここでようやく娘に顔を向けて問うた。
「御前は何故黙っているのだ?」
「従順な娘は聞かれた時にだけ話すものよ」
 エヴァはくすりと笑って父に告げた。
「だから」
「ううむ、確かにな」
 ポーグナーは一旦エヴァの言葉に頷いた。
「それはその通りだ」
「それで何なの?」
「まずは聞いてくれ」
 言いながら菩提樹の側の石のベンチに座った。そうしてエヴァは父のその隣に座る。そうしてそこから話をはじめるのだった。
「涼しい夜ね」
「そうだな」
 まずはそこから話すのだった。
「それで何なの?お話しは」
「明日どういった幸福が御前に訪れるか」
 月を見上げながら語るのだった。
「そのことを考えてな」
「私のことなのね」
「そうだ」
 また娘に語った。
「御前の心のときめきが御前に語ってくれる」
「そうなの。私の」
「そうだ。ニュルンベルグの町の皆が市民と岩誰といわず御前の前に集まり」
 彼はまた言う。
「そして栄誉の若枝を夫となるその人に与えるのだ」
「租してその人は」
「御前の選んだマイスターのその人を」
 ここでマイスターという言葉が出て来た。
「御前の心は告げないのだろうか」
「その人はマイスターでなければならないのね」
「そうだ」
 また娘に対して答える。
「それは御前の選んだマイスターだ」
「そう。私の選んだマイスターなの」
 エヴァもまたその言葉を聞いて俯いてしまった。
「その人と私が」
「そうだ。それは聞いているね」
「ええ。けれど」
 エヴァは父の言葉に応えてまた述べた。
「それは。もう一人しか」
「そうだな。それもわかっているが」
「それでお父さん」
 父に対して尋ねてきた。
「あの騎士さんは?」
「あの方か」
「ええ。あの方はどうだったの?」
「どうもな」
 首を傾げて言うポーグナーだった。
「何と言うのか」
「何とって?」
「悪くはなかった」
 ポーグナーもザックスと同じものは感じているのだった。
「しかしだ」
「しかし?」
「駄目だ。答えられん」
 首を横に傾げて言うのだった。
「どうもな。何が何なのか」
「わからあないの?」
「頭の中がこんがらがっている」
 こう言うしかないポーグナーだった。
「これでな。どうにもならない」
「そうなの。それで」
「今日はもう休もう」
 遂に諦めたかのように立ち上がるポーグナーだった。
「これでな」
「ええ。それじゃあ」
 ポーグナーは家に入って休んでしまった。しかし彼と入れ替わりのように家の裏口からマグダレーネが出て来た。そうしてまだ座っているエヴァの横に来て言うのだった。
「お嬢様」
「レーネ」
 エヴァは彼女姿を認めてすぐに問うてきた。
「何か知ってるの?」
「いいえ」
 残念そうに首を横に振るだけであった。
「失敗されたとしか」
「そうなの」
 それを聞いてまた俯くエヴァだった。父の言葉の感じからそれは薄々わかっていたのだ。
「あの人は」
「はい。そうみたいです」
「どうしようかしら」
「そうですね。ここはです」
 ここでマグダレーネは何かに気付いたかのように言うのだった。
「ザックスさんに御願いしてみては」
「ザックスさんに?」
「そうです。あの人にです」
 また言うマグダレーネだった。
「御願いして。如何でしょうか」
「そうね。あの人なら」
 エヴァは彼女の言葉を受けて気持ちを取り直したように顔をあげた。
「私を子供の頃から可愛がってくれたし」
「はい」
「きっと力になってくれるわ」
「けれどです」
 だがここでマグダレーネは言葉を入れてきた。
「気付かれないように」
「お父さんに?」
「はい。家にいないとなるとです。不安に思われます」
 このことを注意するのだった。
「それは宜しいですね」
「わかったわ。それはね」
「じゃあ。後は」
「ええ。お話ししてみるわ」
「その間は私が」
 そっと家に戻りながらエヴァに告げる。
「変装してきますので」
「御願いね。それじゃあ」
「はい。そういうことで」
 マグダレーネは家の中に戻りエヴァも一旦それに続く。それとまた入れ替わりにザックスとダーヴィットがまた家から出て来て外で仕事をしだした。そのうえでザックスはダーヴィットに対して言うのだった。
「御苦労だったな」
「まあこの程度は」
 何とでもないといった感じのダーヴィットだった。
「朝飯前ですよ」
「少なくとも夕食の後の運動にはなったな」
「そうですね」
「ではもう寝るのだ」
 またこのことを告げるザックスだった。
「明日も早いからな」
「そうですね。明日も」
「よく寝て疲れを取って」
 弟子を気遣う言葉であった。
「そして明日はしゃんとしてな」
「はい。ところで」
「何だ?」
「親方はまだお仕事をされるんですか」
「そうだ」
 椅子に座り机の上に靴を置くザックスに対して問うたのだ。
「少しな。やることがある」
「そうなんですか」
「そうだが。どうした?」
「いえ」
 ここでダーヴィットは周りを見回すのだった。夜の町を。
「いないな、あいつ」
「あいつ?」
「あっ、何でもありません」
 ザックスに問われ即座に言葉を返すのだった。
「何でも。気にしないで下さい」
「そうか」
「まあこれで」
「うん、それじゃあな」
 こうしてダーヴィットは渋々家の中に戻る。そうして一人になったザックスは仕事をはじめた。しかしここで呟きだしたのだった。
「にわとこが何と柔らかく強く香っているのか」
 まずはこう呟く。今の机と椅子のことだ。
「その香りで私の手足は柔らかくなりそのうえで歌いたくなる」
 一旦機嫌はよくなる。
「だが」
 しかしここで機嫌が変わるのだった。
「それが何になるのか。私の歌には何の価値があるのか」
 自問するのだった。
「感じるが上手くはいかない」
 そしてこうも言うのだった。
「何だ。あの感覚は。あの若者の歌は」
 ヴァルターのことが脳裏に浮かぶ。
「皮を打ち伸ばすだけの私には測ることができないのか。あの歌はそう」
 さらに言葉を続ける。
「どんな規則も合わないのに謝りはない。まるで五月の鳥の歌のように」
 彼は言った。
「古くそれでいて新しく響いていた」
 さらに呟き続ける。
「鳥の歌を聴いてそれ意味せられ真似て歌う者が嘲りと恥を受ける」
 やはりヴァルターのことである。
「春のたえがたき魅惑、甘きやるせなさ、それが私の胸に溢れ」
 さらに言葉を続けていく。
「歌わずにはいられないように歌った。だから彼は歌えた」
 ヴァルターのそのことを思う。
「それはわかった。マイスター達は不安を覚えたようだが私は気に入った」
 そんなことを呟いた後で仕事に戻ろうとする。するとそこにエヴァがやって来て言うのだった。
「親方」
「おお、エヴァちゃんか」
 そのエヴァに応えて言う。
「何の用かな」
「まずはこんばんは」
 ここで挨拶を思い出してするエヴァだった。
「こんばんは」
 ザックスもそれに応える。
「靴のことかい?」
「それじゃないの」
 そうではないと答えるエヴァであった。
「それよりもね」
「うん」
 ザックスは頷いてから自分からエヴァに問うてきた。
「何かあるみたいだね」
「花婿のことだけれど」
 ちらりとザックスを見ながら言った言葉だった。
「誰なのかしら」
「わしは知らないよ」
 ザックスはその言葉におどけた感じになって述べた。
「そんなことはね」
「じゃあどうして私が花嫁になることを知っているの?」
「そんなことは町中が知っているよ」
 こう言い返すザックスだった。
「そんなことはね」
「そうね。それはね」
 言った本人もそれは認めた。
「その通りよ。ザックスさんがそれを保証される位にね」
「その通りだよ」
「けれどよ」
 ここでまたザックスをちらりと見ながら言うエヴァだった。
「私ザックスさんがもっとよく御存知だと思っていたのよ」
「わしが?」
「ええ、そうよ」
 思わせぶりにザックスを見ながら言う。
「ザックスさんが。私の方から言わないと駄目なのかしら」
「わしがか」
「賢く私に言わせるの?」
「そんなこともないよ」
 このことには首を横に振るザックスだった。
「別にね」
「ザックスさんには判らないの?それとも仰らないの?」
 ザックスを見て問うエヴァだった。
「ザックスさん、私にもよくわかったわ」
「何をだい?」
「樹脂が密蝋ではないということを」
 つまり期待しても無駄なことを期待していたということだ。あえて皮肉として言ったのである。当然ザックスに対しての言葉なのは言うまでもない。
「もっと細かい思いやりのある方だと思っていたけれど」
「おやおや、エヴァちゃん」
 ザックスはハンマーを手にしたまま呆れたような声で言うのだった。
「密蝋も樹脂もわしには馴染みのものなんだよ」
「そうなの?」
「そうさ。密蝋を絹糸に塗りそれであんたの可愛い靴を縫ったし」
 話すのはここでも靴のことである。流石は靴屋だ。
「今日はこの靴を太い糸で縫うけれど樹脂はこうした糸に相応しいしね」
「それは誰のことかしら」
 あえてとぼけるエヴァだった。
「私にはわからないけれど」
「そうなのかい?」
「けれどそうするのが本当なのね」
「わしもそう思うよ」
 ザックスもエヴァと駆け引きをするように述べた。
「マイスターは明日勝利を得ようと大得意で求婚者になるんだ」
「マイスターってどなたが?」
「この靴の依頼主さ」
 こうエヴァに話す。
「ベックメッサーさんさ」
「それならよ」
 ベックメッサーと聞いて顔を一気に曇らせて言うエヴァだった。
「樹脂を沢山つけて」
「どうしてだい?」
「あの人の足がその中に貼り付いてしまって私に構わないようにして」
「あの人は歌に勝利を得てあんたを勝ち得ようとしているんだよ」
「それでもどうしてあの人が?」
「今独身だからね」
 彼が長い間男やもめなのも誰もが知っていた。
「だからだよ。それに」
「それに?」
「あそこで歌おうという独身の人は少ないからね」
「それはそうだけれど」
 エヴァもよく知っていることだった。この町にいるからだ。
「男やもめならもう一人」
「その男はあんたには歳を取り過ぎてないかい?」 
 エヴァの目線をさっとかわしての言葉だった。
「少しばかりね」
「重要なのは芸術でしょ」
 マイスター達の石頭ぶりは彼女も知っているので皮肉を言ったのだ。
「歌の芸術を知っている人が私に求婚したらいいじゃない」
「エヴァちゃん、あんた」
 むっとした顔をしてみせての言葉であった。
「わしをからかっているのかい?まさか」
「いいえ」
 エヴァは首を横に振ってそれは否定した。
「からかっているのは私じゃないわ」
「じゃあ誰なんだい?」
「貴方よ」
 じっとザックスを見て言うのだった。
「誤魔化してしまうの?貴方だって心変わりすることを」
「何が何なのか」
「はっきり言ったらいいのに」 
 頬を膨らませてまたザックスに告げる。
「今貴方の意中の人が誰か神様にしかわからないけれど」
「いないけれどな」
「何年かの間私がいたのだと思ったけれど」
「ああ、そうだったね」
 おどけた調子で応えるザックスだった。
「あんたをよく抱いてあげたからね」
「それはザックスさんにお子さんがいなくなったからでしょう?」
 ザックスは妻も子もなくしてしまっている。それを考えれば確かに孤独な男やもめなのだ。
「それは」
「まあそうだね」
「それに私は大きくなったし」
「大きくなったし奇麗になったね」
 ザックスはエヴァの目を見て言った。
「本当にね。大きくなったら」
「大きくなったから考えたのよ」
 また言うエヴァだった。
「貴方は私を子供として」
「うん」
「そして妻として入れて下さるのではなかったの?」
「おお、それだったら」
 ザックスは今のエヴァの言葉を相変わらずおどけた調子のまま受けて言葉を返した。
「わしは子供と妻を同時に手に入れるわけか」
「そうよ」
「それは結構いいな。確かに」
「どう思うの?それについて」
「中々いいことを考えたものだ」
 感心したように頷きながらの言葉であった。
「うむ、確かに」
「私のことを笑っていらっしゃるのね」
 エヴァはザックスは本気ではないのを見て取ってまた言い返した。
「だから明日ベックメッサーさんが皆の前で私を平気で奪い取るようなことがあっても黙って見ているのね」
「あの人が歌で成功したら」
 ザックスはまたベックメッサーの話をした。
「誰も彼の邪魔をできないよ」
「そうよ、誰もね」
「それについてはあんたのお父さんが考えているんじゃないのかい?」
「マイスターの方々はどう考えておられるの?」
 エヴァは自分の父親よりも彼等の方が問題だと思っていた
「家で助言が得られるならここには来ないわ」
「まあそれもそうか」
 今のエヴァの言葉には何かに気付いたようであった。
「今日は色々とあって頭の中に何かがこびりついているようだ」
「今日の歌の試験のことよね」
「その通りだよ。困ったことがあったからね」
「それをすぐに話して下さったらよかったのに」
 今度は口を尖らせたエヴァであった。
「そうすれば話が早かったのに」
「そうだったな。確かにね」
「それでザックスさん」 
 身を乗り出してザックスに尋ねてきた。それでエヴァが座っている椅子が少し揺れた。
「誰が名乗りをあげられたの?」
「騎士殿だ」
「騎士殿!?それでどうなったのですか?」
 さらに身を乗り出し問うエヴァだった。
「その方は」
「駄目だったよ」
 しかしザックスはここで首を横に振るばかりだった。
「大変な騒ぎになったよ」
「大変なって?」
 エヴァは身を乗り出したまま顔を青くさせてしまった。
「どうなったの?それで」
「救い難い程だったよ」
 あえて本心を隠し眉を顰めさせるザックスだった。
「それで落第だったよ」
「そうだったの」
「お嬢様」
 ここでポーグナーの家の二階の窓が開いてそこからマグダレーネが出て来て声をかけてきた。
「ちょっと」
「救い難い程って」
 しかしエヴァはそれどころではなかった。今のザックスの言葉に狼狽していた。
「何とかできなかったの?マイスターに合格させる手立てがなかった程酷かったの!?」
「もうあの騎士殿を救う手立てはないよ」
 ザックスは眉を顰めさせたまままた言った。
「どの国へ行ってもマイスターにはなれないよ」
「そんな・・・・・・」
「例えマイスターに生まれていたとしても」
「ええ」
「マイスターの中で一番下だね」
「そんな・・・・・・」
 そこまで言われて余計に青い顔になるエヴァだった。しかしここでまたマグダレーネが彼女を呼ぶがやはりそれは耳に入っていなかった。
「それでお嬢様」
「もう一つだけれど」
 しかしやはり今の彼女の耳には入っていないのだった。
「あの人の味方になってくれたマイスターの方はおられなかったの?」
「それは悪いことではない筈なんだが」
 項垂れた顔になって言うザックスだった。
「彼の前では誰もが小さく感じる程だった」
「それじゃあ」
 才能がある、そうとしか聞こえない言葉だった。
「やっぱり」
「あの誇り高き騎士殿は行くままにさせるべきだ」
 こうエヴァに告げるのだった。
「世界の何処でも戦っていくことのできる方だ」
「何処でもなの?」
「そうさ。我々が苦心して学んだもので息を入れている間に行ってしまう」
 やはりヴァルターの才能は認めていた。
「だからあの方は何処かで花を咲かされるべきだ。ここでは積み上げられたものを蹴散らさなければいいのだからね」
「じゃあつまりよ」
 いい加減頭にきて言い返すエヴァだった。
「貴方達のような人の妬む人達のところにいるより」
 ザックスに向けた怒りの言葉であった。
「何処か他所でってことよね」
「そうさ」
「陰険で下らない親方達のいる所より人の心が暖かく燃えるところがいいのね」
「お嬢様」
 いいタイミングでまたマグダレーネが声をかけてきた。
「宜しいでしょうか」
「あっ、そうね」
 ここでやっと彼女に気付いたエヴァだった。
「レーネ」
「はい」
「今いくわ」
 こうマグダレーネに顔を向けて告げてからまたザックスに顔を戻して言う。
「ここでは何も慰めはなかったわ」
「済まないね」
「ここはたまらない樹脂の匂いがするわ」
 ドイツの言葉で辛い運命に落ちたという意味である。
「むしろ火が点いて燃える位なら」
 そしてさらに言うのだった。
「幾らか暖かくなるでしょうにね」
 もっと酷いことになれば同情する人も出るという意味であった。エヴァはここまで言うと怒った顔のまま立ち上がりそのうえで自分の家に戻ろうとする。マグダレーネはもう家の前に立っていてそのうえでエヴァに対して声をかけるのだった。
「こんな遅くまで」
「御免なさい」
「旦那様が御呼びですよ」
「お父さんに言って」
 ここでマグダレーネに対して頼むエヴァだった。
「私は部屋で休んでるって」
「それは駄目よ」
「けれど」
「それに困ったことになっていまして」
 マグダレーネはここで困った顔をエヴァに見せて告げるのだった。
「ベックメッサーさんがですね」
「あの人が!?」
 ベックメッサーの名前をここで聞いてさらに不機嫌になるエヴァであった。
「また何て?」
「私に言ったのです。お嬢様がですね」
「ええ、私が」
「夜お部屋の窓のところに立っていて欲しいって」
「どうしてなの?」
「歌です」
 マグダレーネが述べたのはこれであった。
「何か素晴らしい歌を歌ったり演奏したりしてお嬢様の関心を得たいそうで」
「そんなことなの」
 話を聞いて溜息のエヴァだった。
「嫌よ、そんなの」
「そうですか」
「そんなことをしても私の気持はね」
「わかりました。ところで」
 ここで周りを見回しだしたマグダレーネだった。そのうえで怪訝な顔で言うのであった。
「ダーヴィットは何処に」
「ダーヴィットさん!?」
「はい。何処に」
 心配する顔になってまた言うのだった。
「いるのかしら」
「私に言われても」
 わかる筈がないと返すエヴァだった。
「ちょっと」
「さっききつ過ぎたから」
 籠のことを反省しているのだった。
「ですから」
「それであの人を探しているのね」
「はい」
 エヴァの言葉にこくりと頷くのだった。
「だからです」
「それでも見えないのね」
「何処に行ったのかしら」
「もう寝たのではなくて?」
 自分もそうだからこう述べたエヴァだった。
「そうじゃないかしら」
「そうでしょうか」
「ええ。それにしても」
 ここで顔を曇らせるエヴァだった。
「ベックメッサーさんね」
「はい、あの人ですけれど」
「どうしたものかしら」
「そうですね。どうしたものでしょう」
 二人はここでお互い腕を組んで首を捻り合う。そうしているうちにエヴァはふとこんなことを思いつきそのうえでマグダレーネに対して言うのだった。
「そうだ」
「何か思い付かれましたか?」
「ええ。レーネ、貴女がね」
「私がですか」
「そうよ。私のかわりに窓に出て」
 こうマグダレーネに提案するのだった。
「そうしてね」
「そうしたらダーヴィットが見たら焼き餅を焼きますけれど」
「大丈夫よ、ベックメッサーさんに貴女が興味がないのは誰でもわかってるし」
「はい」
 これもまた省周知のことであるのだ。
「その貴女にあの人が歌を贈ってもよ」
「ダーヴィットは私に怒らずに」
「そうよ、あの人に対して怒るわ」
 ここまで見ているのだった。
「これでどうかしら」
「そうですわね。それでしたら」
「レーネ、何処だい?」
 ここで家の中からポーグナーの声がしてきた。
「レーネ、何処にいるんだい?」
「あら、いけないわ」
 マグダレーネはポーグナーのその声を聞いて言った。
「旦那様が御呼びです」
「じゃあもうこれで」
「はい、それじゃあ」
 これで二人は家の中に入ろうとする。ところがここで町の中央の方から一人やって来たのだった。それが誰かと見れば何と。
「あの方だわ」
「あの方?」
「ヴァルター様よ」
 こうマグダレーネに話すのだった。
「あの方が来られたわ」
「騎士殿がですか」
「ええ、そうよ」
 こうマグダレーネに対して答えるのだった。
「あの方が」
「ではどうされますか?」
「少し御話がしたいわ」
 エヴァは真剣な顔でマグダレーネに答えた。
「ここはね」
「それではです」
 マグダレーネはここではエヴァの言葉に頷くのだった。
「ここは私にお任せ下さい」
「協力してくれるの?」
「何言ってるのですか。私はお嬢様にとって何ですか?」
「お友達よ」
 にこりと笑って問うてきたマグダレーネに対して答えるのだった。
「それ以上のものかも知れないわ」
「そうですわね。それではです」
「いつも有り難う」
「御礼はいいんですよ。それでは」
「ええ、頼んだわよ」
「はい、これで」
 マグダレーネはエヴァに対して右目でウィンクしてからそのうえで家に戻った。エヴァはそのこちらにやって来たヴァルターを待つ。こうして二人はここでまた出会うのだった。
「フロイライン」
「騎士様」
 互いにそれぞれ言い合うのだった。
「お話は聞きました」
「そうですか」
 ヴァルターはエヴァの今の言葉を聞きまずはその顔を強張らせた。
「それをですか」
「はい。ですが」
 しかしここでエヴァは言うのだった。
「貴方は優勝の勇士です」
「馬鹿な、私は」
「いえ、私にとってはです」
 ヴァルターを見上げそのうえで見詰めての言葉だった。
「貴方がそうであり」
「はい」
「そして私の友人でもあります」
「友人ですか」
「そしてその両方なのです」
 彼にこうも告げるのだった。
「貴方こそが」
「私こそがですか」
「その通りです」
「いえ」
 しかしヴァルターはエヴァの今の言葉に首を横に振って項垂れるのだった。
「私はです」
「私は?」
「貴方の友人ですが優勝の資格はありません」
 こう言うのである。
「マイスターにはなれませんでした」
「ですが」
「私の心の感激は嘲りを受けるだけでした」
 忌々しげに呟くのだった。
「私の心の人の手を望んではいけないことは私にも判っています」
「そのようなことを」
「ですが事実です」
 彼にとっては認めるしかないことであるのだった。
「それは」
「いえ、違います」 
エヴァは項垂れるその彼に対してまた告げた。
「この私の手が賞を渡します」
「私にですか」
「そうです。私の心は貴方のいさおしを褒め称え」
 ヴァルターに対して告げていく。
「貴方にだけ小枝を捧げようとしているのです」
「貴方の手はまだ誰と決まってはいません」
 しかしヴァルターはエヴァのその言葉を否定した。
「お父上の意志に結ばれています。私には失われたも同じです」
「失われたのと」
「その通りです」
 こうエヴァに言うのだった。
「婿はマイスタージンガーに限ります」
「それは私も聞いています」
「それが何よりの証拠です」
 あくまでこう言いエヴァの言葉を退ける。
「御父上が仰ったこの言葉。あの方が今これを引っ込めたいと思われましてもそれはできません」
「できないと?」
「私はその言葉に励まされ全て馴染みのないことでしたが愛と情熱に溢れて歌い」
「はい」
「マイスターの位を得ようとしました」
 このことも語った。
「ですが」
「ですが?」
「あのマイスター達が」
 言葉が忌々しげなものになった、
「あのマイスター達が言う色々なものが」
「それがですか」
「その落とし穴に誘い込まれたかと思うともうそれだけで」
「虫唾が走ると言われるのですね」
「そうです。心臓が止まってしまいそうです」
 偽らざる彼の本音であった。
「自由の天地へ」
「自由の?」
「そう。私がマイスターでいられるその場所こそ私の天地です」
 この町ではないというのである。
「貴女の求婚が今日でならぬというのなら」
「それなら?」
「御願いします」
 エヴァの目を見詰めての言葉だ。
「逃げて下さい」
「この町からですか」
「そうです。望みはなく」
 さらに言うヴァルターだった。
「選択の余地もありません。どちらを見ても」
 その言葉は続く。
「悪霊の如く私を嘲ろうと群がっているマイスター達がいます」
「あの方々がですか」
「彼等は高慢に頷きながら貴女を取り囲んで見下ろしつつ」
 ベックメッサーが全体に見えてしまっているのだった。
「鼻声や金切声で貴女に求婚し」
「そして」」
「そして歌手席に立って色男ぶりながら貴女を賛美するのです」
 もう耐えられないといった感じであった。
「貴女を取り囲んでです」
「だからですか」
「そうです。私は耐えられない」
 今にも腰の剣を抜きそうな顔になっていた。
「そう。ですから」
「一緒にですか」
「そうです。むっ!?」
 ここで自分が先に歩いたその道に誰かがいるのに気付いたのだった。
「あれは」
「安心して下さい」
 エヴァはそっと警戒するヴァルターに対して告げた。
「あれはです」
「はい、あれは」
「夜の見回りの人です」
「巡検のですか」
「はい、そうです」
 こう彼に説明するのだった。
「ですから安心して下さい」
「そうですか。それじゃあ」
「あまり怒ってはいけません」
 エヴァは落ち着きを取り戻したヴァルターに対してそっと告げた。
「それよりも今は」
「今は?」
「こちらに」
 道の菩提樹へと導くのだった。
「こちらへ隠れて下さい」
「はい、それでは」
 ヴァルターは彼女の言葉に従い身を隠す。そうしてそこからエヴァに対して尋ねるのだった。
「ところで貴女は」
「はい」
「逃げられないのですか?」
「では逃げなくていいのですか?」
 逆にエヴァの方が微笑んで問い返してきた。
「私は逃げなくても」
「では身をそらされるのですか」
「はい、マイスタージンガーの歌審判には」
「お嬢様」
 ここで窓からそっとマグダレーネが言ってきた。
「もう帰る時間です」
「ええ、わかったわ」
 エヴァはその言葉に頷き家に戻る。ヴァルターがその菩提樹の中に身を隠しているとやがてその夜の巡検が来て言うのだった。黒い服にランタンを持っている。
「皆さん十時の鐘が鳴りました」
 こう町の人々に告げるのだった。
「何処にも災難のないように。火の用心を御願いします」
 火が注意されるのは何処でも同じだった。
「神を賛美致しましょう」
 こう言うとその場を後にした。ザックスはその間家の扉の向こうから二人の話を聞いていた。そうしてそのうえで一人呟くのだった。
「駆け落ちか。それはよくないな」
 二人の言葉が何を意味していたのかわからないザックスではなかった。
「それだけはよくない。ここは注意しておくか」
「さて」
 そしてここでヴァルターの菩提樹の後ろから言うのだった。
「不安だが。むっ」
「騎士様」
 そのエヴァが家の裏から来てヴァルターのところにやって来たのだった。
「それでは。参りましょう」
「私は今マイスタージンガーになった」
 ヴァルターはほっとしたように言うのだった。
「貴女がここに来られたのだから」
「けれど今は」
「わかっている」
 自分の前に来たエヴァに対して頷いてみせた。
「ここから」
「はい、ここから」
「この横町を通っていけば」
 ヴァルターはエヴァを抱き締めつつ己の横にあるその横町を見るのだった。
「城門の前で人夫も馬も見つかる。それで」
「はい、町を出て」
 二人はそのまま駆け落ちしようとする。しかしここでザックスが扉を開けてランタンを出しそのうえで二人を照らすのだった。二人はその光を浴びて驚きの顔になった。
「ザックスさんが」
「ザックス!?あの靴屋のマイスターか」
「そうです。あの人が見つけたら」
「それでは逃げる道は何処に」
「あの通りを行けば」
 ここでエヴァはヴァルターが見ていた横道とは逆の道を指し示すのだった。
「あの通りを行けば」
「あの通りを」
「ええ。けれど」 
 だがここでエヴァは暗い顔になるのだった。
「あの道はややこしいから。それにあそこから巡検の人の角笛が聞こえるし」
「見つかるのか」
「はい。ですからあそこは」
「それじゃあ横道を」
「けれどザックスさんが」
「どくように言おう」 
 ヴァルターは強硬手段を考えた。
「これなら」
「いえ、それもいけませんわ」
 その強硬手段に出ようとする彼を必死に止めるエヴァだった。その身体を抱き締めて。
「あの人に姿を見られては」
「そうか。私の姿を知っているから」
「はい。あの人は貴方をよく知っています」
 ヴァルターを見上げるその顔は彼を心から心配するものだった。
「ですから」
「あの人は私の味方だと思ったのだが」
 そんなことを言っているとそのうちにリュートの音が聴こえてきた。二人がそのリュートの音が聴こえる方に顔を向けると彼がいるのだた。
「あれは」
「ベックメッサーさんね」
 エヴァは顔を顰めさせて言った。
「まずいわね、こんな時に」
「どうする?靴屋は光を引っ込めたけれど」
「やっぱり来たな」
 ザックスは扉の向こうからベックメッサーの姿を認めてまた呟いた。
「案の定だ」
「ベックメッサーというと町の書記の」
「はい」
 エヴァはヴァルターの言葉に対して頷いた。
「そうです。あの人です」
「あいつだけは許せない」
 怒りに満ちた声で腰の剣に手をかけるのだった。
「今ここにいるのなら。それなら」
「どうするのですか?」
「成敗してやる」
 彼の言葉は騎士のものだった。
「今ここで」
「お止め下さい」
 エヴァはここでもヴァルターを必死に止めるのだった。
「そんなことをしたら父が目覚めてしまいます」
「御父上が」
「ベックメッサーさんは一曲歌ったらそれで帰ってしまいます」
 こうした時の常である。
「ですからこの木の陰に隠れていましょう」
「またここに」
「はい。そうして」
「わかった。それでは」
「御願いします。それでも」
 ここでエヴァは呟かずにはいられなかった。
「どうして男の人達はこんなに面倒をかけるのかしら」
 溜息を出しながらもそれでもヴァルターと共に菩提樹の陰に隠れる。そうしてそのうえでベックメッサーの様子を見守る。ベックメッサーはしきりに窓の方を見上げながらそのすぐ下に来る。焦ってリューロを引っ掻いてしまうが何とか歌おうとした時に。また家の外に自分の机と椅子を出してきてそこで仕事をはじめたザックスが叫ぶのだった。
「イエールムイエールムハラホロヘーーーー!」
 奇妙な叫び声であった。
「オ、ホ、トラライ、オ、へ!」
「何ですかな、それは」
 ベックメッサーはその叫び声を聞いてすぐにザックスに顔を向けた。言うまでもなくその顔は思いきりしかめられザックスを睨んでさえいた。
「その御言葉は」
「トラライ!」
「ですから何ですか、それは」
「神に楽園から追放されたエヴァがです」
「はい、エヴァが」
 何時の間にかザックスのペースに入ってしまっているベックメッサーだった。
「裸足で歩く時に彼女の足は激しく痛み」
「それで神はそれを哀れに思い」
「その通りです」
 ベックメッサーの言葉に頷きながら言い続けるザックスだった。
「彼女の足をいたわて天使を呼んだのですよ」
「あの歌は?」
「聴いたことがあります」
 こうヴァルターに告げるザックスだった。
「ただの靴屋の歌ですけれど何か他に意味があるような」
「哀れな罪の女に靴を」
 さらに歌うザックスだった。
「またアダムも足を怪我しているがまだ遠く歩かなければならない。だから」
「靴を」
「そうです」
 歌いながらベックメッサーの言葉に対して頷く。
「それがこの歌です」
「まずいな」
 ヴァルターはザックスとベックメッサーのやり取りを見ながら顔を曇らせていた。
「このまま時間だけが過ぎていくぞ」
「しかしザックスさん」
「何でしょうか」
「また随分と遅くまで仕事されていますな」
 ザックスの方に歩み寄りつつ言うのだった。
「あまり根を詰められても」
「それは貴方もですぞ」
「まあ私は」
 誤魔化そうとするがここでザックスはそれより先に言うのだった。
「それにこの靴はです」
「靴ですか」
「これは貴方のものです」
 こう言うのだった。
「注文されていた」
「そうですか。私のです」
「そうです」
 にこりと笑ってベックメッサーに述べるザックスだった。
「ですから今こうやって」
 言いながら早速ハンマーを持ってまた歌うのだった。
「イエールムイエールムハラハロヘ!」
「またその歌か」
「オ、ホ!トララライ!オ、ヘ!」
 ベックメッサーのうんざりとした声をよそにまた歌うザックスだった。
「エヴァよエヴァよ悪い女よ」
「確かにエヴァは悪い女だが」
 原罪のはじまりだからだ。キリスト教世界の常識である。
「それでもこの歌は」
「人間の足が痛む度に天使が靴を作らないとならない」
「あれは私達のことだろうか」
 ヴァルターは彼の歌を聴きながら首を傾げさせていた。
「それともあの書記か。どちらに当てこすっているのか」
「私達三人全てに対してですわ」
 こうそのヴァルターに言うエヴァだった。
「困りました、これでは」
「御前が楽園に留まったならば砂利で足を痛めることもなかった」
 ザックスの歌は続く。
「御前の若気のいたりで私は針と糸を操らないとならない」
「その割には楽しく歌っていますな」
「アダムの気弱のおかげで靴底を打ち樹脂を塗る」
 ベックメッサーの嫌味をよそに歌うザックスだった。二人はそんな彼を見ながらまた言うのだった。
「よくないことが起こりそうだわ」
「私の可愛い天使よ」
 不安になるエヴァをそっと抱き締めるヴァルターだった。
「どうかここは」
「不安になってしまいます」
「私は貴女が側にいてくれるだけで」
 いいというヴァルターだった。しかしザックスの歌はそうした彼の浪漫をよそにさらに続くのだった。
「これでもわしが天使にならなきゃ悪魔が靴屋になる」
「それはいいのですが」
 ベックメッサーはたまりかねたようにまたザックスに声をかけてきた。
「あのですね」
「はい、何か」
「その歌は御見事です」
 とりあえずザックスを褒めはする。
「ですが真夜中にその歌はないでしょう?」
「私がここで歌ったとしても書記さんに関係があるのですか?」
 しかしザックスはしれっとしてベックメッサーに対して言い返すのだった。
「何か。そもそもこの靴はですね」
「私の靴ですよね」
「そうです。それができないと困るのは」
「ならお家の中でお仕事をされては?」
 正論で攻めることにしたベックメッサーだった。
「せめて」
「夜なべは辛いものでして」
 しかしそれにはいそうですかと聞くつもりは最初からないザックスだった。
「せめて元気に仕事をする為にです」
「その為に?」
「こうして新鮮な空気と楽しい歌」
 こう言うのである。
「それが必要なんですよ」
「だからだというのですか?」
「はい、ですから」
 ここでも自分のペースで言うザックスだった。
「聴いて下さい、是非」
「お断りしたいのですが」
「まあまあ。第三節もできましたから」
 言いながらこれ見よがしに糸に蝋を塗ってそれから歌うのだった。
「イエールムイエールム!」
「だからその歌はですな」
「ハラハロヘ!」
 ベックメッサーを無視して歌いはじめる。
「オ、ホ、トララライ!オ!へ!」
「ワルキューレになったつもりか」
 ベックメッサーはいい加減うんざりとしていた。
「そんなに叫んで。こんな歌は私の歌ではない」
「はい、わしの歌です」
「それはわかっております」
 すぐにむっとして言い返すベックメッサーだった。
「こんな歌は」
「さて」
 その間にもザックスは歌い続ける。
「楽園を追放された」
「また私ね」
 エヴァはまた言った。その楽園を追放された最初の女と自分の名前が同じだからだ。だからわかることであった。彼女にとっては癪なことに。
「私の嘆きを聞くのだ。この苦しみと悩みを」
「嘆き?苦しみと悩みを」
「靴屋の作った芸術品を人々は足で踏む」
「それは当然では?」
 歌の意味がわからないベックメッサーは話を聞いても首を捻るだけだった。
「靴なら」
「同じ仕事を課せられた天使が私を慰めてたまには楽園に呼んで下さらないと」
 ベックメッサーの今の言葉には構わずまた歌うのだった。
「靴屋の仕事を辞めてしまいたくなる」
「それはそれで困るのだが。あんたの靴はまあそれなりに」
「だが天国に置いて下されば世界はわしの足元にある」
 ここでもベックメッサーに構わない。
「ハンス=ザックスは安心して靴屋で詩人でいるだろう」
「おや、窓が」
 ザックスが自分に構わないので周囲を見ているとここでポーグナーの家の二階の窓が開いた。ベックメッサーもそれを見るのだった。
「開いたな」
「もう聴いていられないわ」
 エヴァは自分に向けられている歌だとわかっていたので苦しい顔で言った。
「これ以上はもう」
「こうなっては」
 ヴァルターはその彼女を見てまた剣に手をあてるのだった。
「最早」
「それはお止め下さい」
 それはまた止めるエヴァだった。
「それだけは」
「あの靴屋にではない」
 見ればヴァルターは彼は見ていなかった。
「あの書記だ」
「ベックメッサーさんですか?」
「そうだ。貴女に求愛しようとしている」
 リュートを手にまた窓のすぐ下に来た彼を見て言うのだった。
「あれだけは」
「いえ、それも」
「止めるべきだと言われるのか」
「そうです」
 剣を持つ手を必死に掴みながらの言葉であった。
「それだけは。どうか」
「言われてみればそうか」
 ヴァルターはここでエヴァの言葉を聞き入れて述べるのだった。
「あの様な男は斬る価値もないか」
「せめてそれだけはです」
「わかった。それではだ」
 エヴァの言葉を聞き入れ遂に剣を収めるヴァルターだった。
「これでな」
「有り難うございます」
「何はともあれだ」
 ベックメッサーはその間にもリュートを持って歌おうとしていた。
「早く歌うとしよう」
「ところでフロイライン」
「はい」
 ヴァルターはエヴァに対して問うのだった。
「レーネです」
「マグダレーネさん?貴女の家の」
「はい、そうです」
 こうヴァルターに対して答えるのだった。
「彼女がです」
「そうか。それなら今は」
「はい。様子を見ましょう」
「そうするとするか」
 こうしてヴァルターは今は様子を見ることにしたのだった。その間にもベックメッサーは歌う準備をしている。それを進めながらザックスに対して言ってきた。
「それでザックスさん」
「はい、何でしょうか」
「何はともあれ私は貴方を尊敬してはいます」
 これは彼の偽らざる本音である・
「人としても靴屋さんとしても」
「それはどうも」
「そして芸術家としても」
「早く逃げ出したいのだけれど」
「あの二人がいる限りは」
 二人のやり取りを顔を曇らせて聞いているエヴァとヴァルターだった。しかし二人のやり取りはそのまま彼等にとっては延々と続くのだった。
「ですから貴方の批評は大いに歓迎します」
「ほう、そうなのですか」
「ですから御願いです」
 自信に満ちた声でザックスに告げる。
「どうかこの歌をですね」
「はい、今から歌われる歌を」
「聴いて下さい」
 恭しく一礼してからまた述べるのだった。
「是非。明日はこれで勝利を得るつもりですから」
「だからなのですね」
「そうです」
 そしてまた答えるのだった。
「御気に入るかどうか知りたいですから」
「ほう、それはまた」
 ザックスは彼の言葉を聞いておどけたふうを装って応えるのだった。
「貴方は私のうぬぼれ心を掴まれるというのですか」
「まあそう考えて頂いても結構です」
 はっきりと言うベックメッサーだった。
「それならそれで」
「靴屋が詩人と自負するから靴の方がさっぱりになる」
 ザックスはここでこんなことを言ってきた。
「貴方によくこう言われて叱られているではありませんが」
「ですからそれは」
 確かにいつも言っているから分が悪いベックメッサーだった。
「まああれです。励ましですよ」
「励ましですか」
「そうです、その通りです」
「句だの韻だのを家の中に引っ込めて悟りとか知恵とか知識も置いて」
「そのうえでですか」
「はい、靴を仕上げます」
 つまりベックメッサーの歌を無視するということだった。
「私のことは構わずに」
「いえ、それでは困ります」
 ザックスの態度にいよいよ弱るベックメッサーだった。
「ですから民衆から尊敬を受けあのお嬢さんとも縁のある貴方です」
「尊敬や縁が関係あるのですか」
「そうです。だからです」 
 ベックメッサーはさらに言うのだった。
「明日は私は晴れの場所で彼女の為に歌います」
「そのおつもりで?」
「そのつもりです。ですから確かめて下さい」
 こうザックスに対して願う。
「私の歌が駄目だったらどうしようもない。ですから御聞き下さい」
「また随分強引な」
「私の歌が御気に召されたかそうでないか」
 何と言われても引き下がらないベックメッサーだった。
「それを教えて頂ければ私も歌をなおします」
「いえいえ」
 しかしまだ引き受けないザックスだった。
「私が作るのは大抵あれではないですか」
「あれとは?」
「町の流行の歌ばかりです」
 これもベックメッサーが彼にいつも言うことだった。気取り屋の彼と飾らないザックスの違いがここにはっきりと出ているのだった。
「ですから私はですね」
「どうされるというのですか?」
「街に向かって歌い靴底を叩くだけです」
 こう言って早速また叫ぶようにして歌うのだった。
「ハラハロヘ!オ!ホ!トララライ!オ!ヘ!」
「くそっ、わかってやっているな」
 その通りである。それがわかっているからこそ忌々しいと感じるベックメッサーだった。
「あの樹脂と油で一杯の歌でこんがらがせてくれる。全く」
「イエーレム!イエーレム!」
「ですから近所迷惑です」
 また言うベックメッサーであった。口を尖らせて。
「その歌は」
「いえいえ、御安心を」
 しかしザックスは平然として彼に返すのだった。
「近所の方々は慣れておられますので」
「そうして近所の人達が慣れるまでこうしたことをですか」
「いけませんか?」
「いい筈がありません」
 ここでも口煩いところを発揮するのだった。
「全く。近所迷惑とはこの方は」
「ですから」
「何ですか。それで」
「他人が何かをするとそうして意地悪をされるような」
「意地悪ではありませんが」
 やはり平然としてベックメッサーに言葉を返すのだった。
「ですから毎晩こうしてです」
「余計に悪いです」
 また口を尖らせるのだった。
「そんなことではそのうち町の皆さんから嫌われますぞ」
「ですから皆さん慣れておられますので」
「私の目の黒いうちはです」
 その頭にきた顔で言うのだった。
「歌の韻が口についている限り」
「はい、その限りは」
「そして私がマイスタージンガー達の間で尊敬を受けている限り」
 その自負は確かにあるのだった。
「ニュルンベルグが花咲き栄えている間は」
「では永遠ですな」
「そう、永遠にです」
 右手の人差し指を立たせて激しく振りながら言葉を続ける。
「貴方の勝手や暴挙は許しませんぞ」
「暴挙とはまた極端な。いえ」
「いえ?」
「それが今の書記さんのお歌ですか?」
「今のが?」
「そうです。お世辞にもあまり規則には合っていません」
 こうベックメッサーに告げるのだった。
「ですが大変誇らしく聞こえます」
「残念ながら今のは歌ではありません」
 憤然とした顔でまた言い返す。
「ですがそれでもです」
「それでも?」
「私の歌を聴いて下さいますね」
「おや、まだそのことを」
「何度でも言います」
「そうですか。それではですね」
 ザックスはここで言葉の調子を変えてきた。ベックメッサーはそれを見てやっと折れてくれたのかと思ったがそれは甘い予想であった。
「御一人で歌って下さい」
「何と」
 これには呆気に取られてしまったベックメッサーであった。
「私一人で」
「そうですが」
「いや、ですから評価をですね」
「私は仕事がありますから」
 突き放すように告げるザックスだった。
「ですから」
「ですから評価をですね」
「そんなに聴いて頂きたいのですか?」
「はい、そうです」
 またザックスに顔を向けて言う。自然と首が突き出される。
「問題はその奇妙な掛け声ですが」
「ではまた出しましょうか」
「それだけは止めて下さい」
 半分切れてしまっているベックメッサーだった。
「それだけは」
「おやおや。では仕事は」
「それは続けて下さい」
 それとこれとは話が別だというのである。
「是非共」
「はい、それではです」
「ただ。評価は」
「それではです」
 ザックスは内心ベックメッサーが上手くかかってくれているとほくそ笑みながらそのうえで言うのだった。全ては彼の計算通りであるのだ。
「いい方法がありますよ」
「何ですか、それは」
「二人が一つになるのですよ」
 また奇妙なことを言い出すザックスだった。
「二人が一つにね」
「!?」
 ベックメッサーは今のザックスの言葉にまた首を捻った。
「二人が一つ?」
「人にとってはそれが最上です」
 今度はこんなことを言い出すザックスだった。
「つまりですね」
「はい」
「私は仕事をしなければなりません」
「その通りです」
 自分の靴を作ってくれているのだから彼としてもそれで異論はない。
「しかしです。貴方は是非歌を評価して頂きたいと」
「そうです。是非」
 しつこいまでにこだわりを見せるベックメッサーだった。
「それは重ね重ね」
「わかりました。それに私もです」
 そしてここで言うザックスだった。
「何時か記録係になるでしょう」
「でしょうな。ある程度順番ですから、これは」
「そうです。ですからその技術も学びたく」
 あれこれと理由をつけるがこれはまさにただの理由付けだった。
「その点で貴方は非常にいい記録係です」
「マイスタージンガーの歌は絶対なのですぞ」
 胸を張ってそのうえで気取った仕草で述べるのだった。
「何があろうとも」
「ですからです。貴方の歌を聴いて記録します」
 真意はここでも隠している。
「それで宜しいですね」
「やっとその気になって頂けましたな」
 ザックスが引き受けてくれたと見てほっとした笑顔を見せるのだった。
「全く。ごねるのもあまりよくはありませんぞ」
「ただしです」
 しかしここでまたザックスは言うのだった。
「靴ですが」
「それはどうされるおつもりですか?」
「記録はこれを作りながらということで」
「靴で!?」
「そうです。靴底を叩いてそれを記録としましょう」
「何が何だか」
 ベックメッサーはまたザックスの言っていることがわからなくなった。彼が何を考えているのかもまたわからなくなってきたのだった。
「わからないのですが」
「さあ、はじめますか」
 リュートを抱くようにして腕を組んでザックスの考えが何なのか思案しているベックメッサーを急かしてきたのだった。
「いよいよ」
「ですがです」
 ザックスの考えがわからないまま彼は言うのだった。
「ちゃんと御願いしますよ」
「ええ、靴屋の知っている規則に従い」
「そう、マイスタージンガーの名誉にかけてです」
「靴屋の勇気を以って」
「そうです。それに誓って」
 二人はここでは真面目になっていた。
「やりましょう」
「是非。それでは」
 早速ベックメッサーにまた声をかけるザックスだった。
「やりましょう。ただ」
「ただ?」
「貴方がミスを犯さないと靴ができませんが」
「そこはちゃんと機転を利かせて下さい」
 今はこう言うベックメッサーだった。何はともあれそのうえで歌いはじめる。ヴァルターは今の彼等のやり取りを見て首を捻るばかりだった。
「何をやっているんだ?」
「では」
「あれ、そちらでですか」
 ザックスは窓の下に立つベックメッサーを見てまた言ってきた。
「御側ではないのですか?私の」
「私はここでいいのです」
 ベックメッサーは少し意固地になって彼に言い返す。
「それに記録席が見えないのと同じにしたいですから。これなら見えません」
「相変わらず律儀な方だ」
「伊達に町の書記をやってはおりません」
 またむっとして言い返すのだった。
「とにかくです。はじめます」
「何なのかしら、今の流れは」
「さて」
 エヴァもヴァルターも何が何なのかさっぱりわからないのだった。
「どうなっていくのかしら」
「それは私にも」
「それではです」
 そしてザックスがまた言う。
「はじめ」
「はい」
 ベックメッサーは歌いはじめる。しかしこれまでのやり取りでいささか気を乱しておりそれがいきなりリュートの弾き間違いを出させてしまったのだった。
「私はその日の訪れを見る」
 いきなりハンマーだった。つまり間違いだというのだ。
「私に喜びをもたらすその日」
 またハンマーだった。ベックメッサーはその音に眉を顰めさせるが気を取りなおしてまた歌う。
「我が心はよき」
 ハンマー。
「爽やかなる気分を迎えたり」
 ハンマーがまた。ここで遂にベックメッサーは怒ってザックスに対して言うのだった。
「何処が悪いのですか?今ので」
「ここはこの方がいいのでは?」
「どういう風にですか?」
「我が心は爽やかなるよき気分を迎えたり」
 これは詩であった。
「こうではどうですか?」
「それでは韻に合いません」
 ベックメッサーは韻を考えていたのだった。
「それもいいですがあえてです」
「それでは節がよくないのでは?」
 ザックスも負けてはいない。
「音楽と言葉が合わなければ」
「それはそうですが」
「ではまたはじめて下さい」
 ザックスはまたベックメッサーを急かしてきた。
「さあ、どうぞ」
「はい、それでは」
「ハンマーは三回止めておきますので」
「御好意ですかな」
「そう受け止めて下さって結構です」
 こうベックメッサーに述べる。
「ですからさあ、どうぞ」
「有り難うございます。それでは」
 こうしたやり取りの後でまた歌うベックメッサーだった。咳払いをしてから歌う。まずは先の詩を歌うが確かにその間ハンマーはなかった。ところが新しい場所に入ると。
「死等はおもいも寄らず」
 ハンマー。
「それよりも若き娘の手を勝ち得んとす」
 ハンマー。
「何故おそらくこの日こそ最も美しき日なるぞ」
 ハンマー、強く。
「私は全ての人に告げる」
 ハンマー。
「美しき娘が」
 ハンマー二回。
「彼女の愛する父上により」 
 またハンマー。そのハンマーに賛成するかのようにまたハンマー。
「彼女の誓いし如く」
 小さいが多くハンマー。
「花嫁と定められたり」
 ハンマー五回。少し怒ったようであった。
「我と思わん人は」
 ハンマー。
「来たりて見よ」
 ハンマー。
「ここに美しき処女あり」
 ハンマー二回。
「私は彼女に切なる望みがあり」
 ハンマー。
「されば今日は美しく青く」
 数多く打たれる。
「私ははじめに言ったように」
 また多く打たれていく。ここでベックメッサーは遂に切れてきっとした顔でザックスを見て問うのだった。
「何処が悪いのですかな、一体」
「何も言っていませんが」
 平気な顔で言うザックスだった。
「私は何も」
「いえ、そのハンマーがです」
「ですから記録係の練習として」
「そんなに酷いですかな、私の歌は」
「採点中ですよ」
 穏やかな顔でベックメッサーに言うだけであった。
「ですからお話は後で」
「後で、ですか」
「そう、後で」
 また言うザックスだった。
「さあ、それよりも今はです」
「そうですな」
 憮然としながらもベックメッサーも従うのだった。やはりマイスタージンガーとしてここは記録係に従うしかない。彼もマイスタージンガーとしての誇りがあった。
「それもその通りです」
「その間に靴はできていきますし」
「それに」
 ここで窓の方を見るとエヴァ、実はマクダレーネが去ろうとしている。ベックメッサーはそれを見て慌てて窓の下に戻りまた歌いだすのだった。
「また歌いますぞ」
「はい、どうぞ」
 彼等はそれぞれ言い合いそのうえでまた歌いはじめるのだった。
「今日私の心は踊り」
 ハンマー。
「若き乙女を求めんとす」
 ハンマー二回。
「だが父上はそれに」
 ハンマー。
「一つの条件を出せり」
 数多くのハンマー。
「彼の後を継がんとし彼の美しき娘を手に入れる為に」
 ハンマー二回。
「父上は条件を定めたり」
 ハンマー数多く。
「この町の見事なマイスタージンガーにしてかの娘をせつに愛し」
 ハンマー数多く。
「芸術にもその才の優れたるを示し」 
 ハンマー間断なく。
「マイスターの歌の道に賞を得る者ならずば彼の婿とはなりがたしと」
 ハンマーが続く。ベックメッサーはむっとするがそれを無視して歌を続ける。
「今や芸術のいさおしを示し人々の同情を得て」
 まだハンマーが続く。
「いとうべき妄念のもやを払い」
 ハンマーがまだ続く。
「誠の情熱を以って乙女を求める者に乙女を得んとする者に」
 ザックスは首を横に振ってそのうえでもういちいち誤りを指摘することを諦め靴型の楔を抜く為にハンマーを打ちまくっていくのだった。 
 ベックメッサーはその間ずっと不快な顔をしている。しかしマグダレーネがまた消えようとするので困惑した顔になる。ここで歌が終わった。するとザックスがすぐに声をかけてきた。
「終わりですか」
「はい」
 顔を顰めさせて答えるベックメッサーだった。
「それが何か?」
「御覧下さい」
 ザックスはさも嬉しそうに彼に靴を掲げて見せるのだった。
「これこそまさに記録係の靴ですぞ。どうでしょうか」
「それがですか」
「そうです。長く短く刻み込まれ」
 こう言葉を出していく。
「靴底に書かれたこの言葉」
「それは何ですかな」
「よく読んで忘れずに御心に刻んで下さい」
 こう前置きしてからまた言うのだった。
「よき歌には拍ありてこれを砕く時は筆を持つ書記殿の為に靴屋が皮を打つ」
「どんな意味ですか、それは」
「いい靴ができたということです」
 明るく述べるザックスであった。
「靴底は拍を保って書記さんの足は痛むことなし」
「随分と嫌味ですな」
「嫌味ではありませんよ」
 今度は涼しい顔になるザックスだった。
「そのままの意味で」
「私とてマイスタージンガーです」
 何とか己を保ちつつ言葉を出すベックメッサーだった。身体をワナワナと震わせながら。
「九人のミューズを呼び出し我が詩の英知を高めんとす」
「それで何と」
「私は全ての規則を心得ています」
 胸を張ってザックスに告げる。
「長短も数も韻も護り若き乙女の手を得んとすれば」
「それよりもこの前尼僧院を出られた院長さんなんかどうですか?」
 さりげなくベックメッサーにそちらを薦めるのだった。
「そちらの方が書記さんには」
「心はやりて愛を求めれば心はまた躊躇いに迷い」
 言葉を続けていく。
「躊躇、転倒もあろうとも」
「ですから院長さんも丁度お相手を」
「名誉も職も品位もパンもかけて」
「全てではないですか」
「そう、全てを」
 かなり意固地になってしまっていた。
「乙女も我をこそ選び乙女も我をこそ選び御身等の喝采を得んことを」
「そうですか。まあ頑張って下さい」
「応援ということですかな」
「少なくとも反対はしません」
 またザックスは言ってきた。
「努力はいいことですから」
「全く。貴方には何かというと色々ありますな」
 不機嫌そのものなのはそのままだった。ところがそんな話をしているとここで先程よりさらに酔っている徒弟達が来たのだった。
「夜遅くに随分歌っているのがいたな」
「ああ、こっちだな」
「そうだな。こっちだ」
 へべれけになりながら来てそれぞれ言うのだった。
「確かこっちだ」
「一体誰だ?」
「近所迷惑だぞ」
「全く。騒がしいな」
 そしてダーヴィットも家から出て来て目をこすりながら言っていた。
「誰なんだ、全く・・・・・・ん!?」
 ここでポーグナーの家の窓にマグダレーネがいることに気付いた。
「あれはレーネじゃないか。それに」
 その下を見る。そうして顔を見る見るうちに紅潮させるのだった。
「誰だあいつは、レーネに言い寄っているのか!」
 そうして我を忘れて飛び出た。マグダレーネもそれに気付いてあっとなる。
「大変、本当に出て来たわ!」
「やい、こら!」
「こら!?」
「誰だ御前!」
 こう言って何も知らずおっとり刀で振り向いたベックメッサーをいきなり殴り飛ばした。見事なアッパーカットで身体をのけぞらすベックメッサーだった。
「うわっ!」
「御前か、レーネを!」
「レーネ!?何を言ってるんだ?」
「しらばっくれるなこの野郎!」
 何が何だかわからないベックメッサーをさらに殴り飛ばす。アッパーの次はストレートだ。
「よくもレーネを!」
「だから何だというのだ!」
「誤魔化すつもりか!」
「誤魔化すも何もだ!放せ!」
「ああ、放してやる」
 掴み掛かってもいたがここで手を放すダーヴィットだった。
「ただしだ」
「ただし?」
「手足をばらばらにしてからだ!死ね!」
「だから何だというんだあんたは!」
「成敗してやる!」
「何だ成敗だの何だのと」
「おい、何をしているんだ?」
 徒弟達だけでなく騒ぎを聞いたマイスター達まで出て来たのだった。皆寝巻きと普段着をごちゃ混ぜにした訳のわからない格好になっている。
「喧嘩か?」
「いや、そんなものじゃないぞ」
「おい、何だ何だ?」
「騒ぎが起こっているのか?」
 町の皆が出て来た。そうして口々に言い合うのだった。
「喧嘩か?」
「酔っているのか?」
「あそこで喧嘩があるぞ」
「何なんだ、あいつ等は」
 ここでそのダーヴィットとベックメッサーに気付いたのだった。
「やけに暴れているけれどな」
「何をしているんだ?」
「だから喧嘩だろ」
「それはいかん!」
 ここでやっと気付く者もいた。
「止めるぞ、早く!」
「やっと気付いたか」
「何?」
 今度はこちらで不穏な空気が漂いだした。
「やっととは何だやっととは」
「だからやっと気付いたかって言ったんだ」
「わしを馬鹿にしているのか?」
「他にどう聞こえるんだ?」
「貴様!」
 ここでも掴み合いになりだした。
「もう一回言ってみろもう一回!」
「ああ、何度でも言ってやる!この間抜け!」
「もう許さんぞ!」
「おい、止めろ!」
「止めるんだ・・・・・・うわっ!」
 止めようとした一人の腕が誤ってもう一人を殴ってしまった。するとまた。
「御前か、やったのは!」
「違う、俺じゃない!」
 闇夜の中なので相手がよく見えず別の人間に殴りかかる。
「御前だろう、他に誰がいる!」
「何っ、やるのか!」
「ああ、やってやる!」
 騒ぎが大きくなり一人がまた別の一人の足を踏んで。
「御前がやったな!」
 彼も喧嘩に入る。騒ぎはさらに激しくなっていった。
「靴屋か!」
「仕立て屋か!」
「パン屋か!」
「何処のどいつだ!」
「貴様か!」
 最早マイスターも徒弟も何もなかった。それぞれ殴り合い掴み合い蹴り合う。その中でベックメッサーは何とかダーヴィットから逃げるがその時何人かを突き飛ばしそのうえで足を踏んでしまい。これがまた騒ぎを引き起こしてしまったのだった。
「今踏んだな!」
「突き飛ばしたな!」
「御前がやったな!」
「許さないからな!」
 めいめいそれだと思った相手に喧嘩を売る。そうして騒ぎはさらにうるさくなり町の人間をさらに呼んでニュルンベルグの夜は大混乱に陥っていた。
「桶屋が!」
「肉屋が!」
「鍛冶屋が!」
「御前等、うちの親方に何をする!」
「そっちこそうちの弟子にだ!」
 親方同士で殴り合う者もいれば身分を越えて殴り合う者達もいた。
「何をするんだ!」
「放せ!」
「殺すぞ!」
「こっちにいるのは床屋か!」
「頭をちょん切ってやるぞ!」
 切るかわりに掴んでいた。
「禿頭にしてやる!」
「雑貨屋!ここにいたか!」
「御前は菓子屋の息子か!」
「不良品なんぞ売りつけやがって!」
「そちこそ糞まずい菓子売りやがって!」
「鼻血流せ!」
「耳を千切ってやる!」
 最早何が何なのかわからない。
「逃がすかこの野郎!」
「逃げるものか!」
「蝋燭屋がいたぞ!」
「錫屋か!」
 また店同士の喧嘩になる。
「御前がやったのか!」
「そこにいるのは鋳掛屋か!」
「毛織職人か!」
「貴様は麻の!」
「皆集まれ!」
「親方を救え!」
 中には棍棒まで持ってそのうえで殴り合う者達まで出て来ていた。
「弟子をやらせるか!」
「死ね、その手を放せ!」
「天罰だ、これは!」
「何やってるのこれ!?」
 今度は女達が出て来て騒ぎに声をあげるのだった。
「この騒ぎ」
「あれはうちの人じゃない!」
「うちの息子が。何をしているの!?」
 闇夜の騒ぎの中に家族を認めて皆あっと驚く。
「早く止めないと。大変なことになるわよ!」
「水よ水!」
 そして誰かが叫んだ。
「水をかけないと」
「水!?」
「どうしてなの?」
「それで頭を冷やさせるのよ!」
 そういうことであった。
「だからここは早く!」
「水をなのね?」
「そうよ、お鍋でも壺でも瓶でもやかんでも!」
 とにかく水が入っているのなら何でもであった。
「早くかけて。騒ぎを止めて!」
「ダーヴィット、何処なの!?」 
 マグダレーネも喧騒の中で恋人を探していた。
「何処にいるの、一体」
「まだ追ってくるのか!?」
「あいつは何処だ!」
 その中でまだ逃げ惑うベックメッサーに探し回るダーヴィットだった。
「何てしつこい奴なんだ!」
「逃がしてたまるか!」
 とはいっても相手が何処にいるのかさえわかっていなかった。
「何処にいやがるんだ、あの野郎」
「ちょっとダーヴィット」
 マグダレーネもとにかく必死にダーヴィットを探し回っていた。
「その人は違うのよ」
「あれ!?レーネの声?」
 ここでダーヴィットはふと立ち止まって周囲を見回すのだった。
「何処だ?何処にいるんだ?」
「この野郎!」
「御前か!」
 その彼にも相手を間違えて殴り掛かって来る者がいるのでそれも大変だった。
「うわっ、また来たよ!」
「さっきはよくもやってくれたな!」
「これはお返しだ!」
「何でこんな場所に!」
 喧嘩は滅茶苦茶でありダーヴィットもどうしようもなかった。それでもマグダレーネは必死に彼に対して叫ぶ。しかし彼の姿は見えてはいない。
「あの人はベックメッサーさんなのに」
「書記さん?」
「あの人までここにいるのか?」
「まずい、見つかったか」
 ベックメッサーは自分の名前が出て来てぎょっとなる。
「まずいぞ、このままじゃ」
「エヴァ、大変だぞ」
 その中でポーグナーが家の中で言っていた。
「この騒ぎは。ちゃんと戸締りをして寝なさい」
 彼女が家の中にいるとばかり思っているのだった。
「いいな、ちゃんとな」
 こう娘に告げたと思ってからそのうえで家の外に出た。彼は寝巻き姿だったがそれでも出て来ていた。この時ザックスは騒ぎがはじまってすぐに家の中に一旦身を隠していたが扉をそっと開けて様子を伺い続けていた。ヴァルターはエヴァを自分のマントに多い菩提樹の陰に身をひそめていた。
「全く。何でこんなことに」
「戦争より酷いわ」
 ヴァルターもエヴァも呆然とするばかりで動けない。その間ポーグナーもマグダレーネを探していた。
「水よ、早く水をかけて!」
「持って来たわ!」
「私も!」
 ここで皆やっと水を持って来た。そうしてそれを思いきりかけるのだった。
「うわっ、今度は何だ!?」
「これって一体!?」
 しかしこれで皆頭が冷えそのうえでやっと我に返った。そうして落ち着きそのうえでそれぞれ家に帰っていく。ザックスはそれを見てまずは呆然となっているダーヴィットを見つけ頭をがつんとやってからそのうえで家に放り込み返す刀で菩提樹の陰のダーヴィットとマグダレーネを見つけそのうえで二人も家の中に入れてしまった。
「さあ、こっちへ」
「えっ!?」
「今度は何!?」
 二人には何が何だかわからない。しかしそのまま家に入ってしまった。マグダレーネはポーグナーにエヴァと間違えられ彼の家に引き入れられた。
「さあ、寝よう」
「あれっ、私はこっち?」
「何かよくわからないが寝よう、もう」
「はい。それじゃあ」
 彼女も何が何なのかわからないまま家の中に入る。何はともあれ騒ぎは終わるのだった。
 ベックメッサーも散々に打ち据えられた姿でほうほうのていで退散する。服も帽子もリュートもぼろぼろでよれよれになって去っていく。一人寂しくであった。
 暫くして何も知らない巡検が来る。そうして言うのだった。
「皆さん、鐘が十一時を告げました」
 町の喧騒の結果は何故か目に入っていない。
「悪魔に魂をおかされぬよう幽霊や妖怪に御用心」
 いつもの言葉である。
「神を讃えましょう」
 こんな話をしてから場を去るのだった。ニュルンベルグの町の騒ぎは何事もなかったかのように終わり後には何も残ってはいなかった。


ザックスとベックメッサーのやり取りが中々楽しいかも。
美姫 「終いには夜なのに五月蝿くして大騒ぎになったわね」
ここだけ見れば祭りみたいだけれどな。
美姫 「エヴァがね」
どうなるんだろう。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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