『ニュルンベルグのマイスタージンガー』




                             第一幕  聖堂にて

 十六世紀中頃のニュルンベルグ。この街は商人と職人の街でありその自治により繁栄していた。その街にある教会の一つカタリナ教会。今そこで神を讃える歌が歌われていた。
「主は汝の下に来たりて」
「喜びて汝の洗礼を行いし時に」
 歌っているのは街の娘達だ。その中に奇麗な金髪をおさげにした小柄でふくよかな少女がいた。まだ幼さの残る明るい顔立ちをしており空の色の瞳が実に美しい。くすんだ緑のスカートに茶と緑が合わさったような色の上着を着ている。ドイツの服を着たドイツの少女であった。
 その少女は時折教会の後ろを見ていた。見ればそこには一人の背の高い若者が立っている。凛々しい顔立ちをしており見事な金髪に湖の色をした目を持っている。顔立ちは整い精悍でありそこにも凛々しさがある。白いマントを羽織り黒いズボンに上着といういでたちだ。その手には同じく黒の羽帽子を持っている。黒の中に羽根の白が見事なまでに映えている。
 歌は続く。少女が彼を見ている間にも。
「身を生贄の死に捧げ」
「我等に救済の戒めを垂れて言われる」
 歌が歌われていく。その間少女はちらちらと彼を見続けている。そうして歌が終わり教会を去ろうとしたその時に。彼が声をかけてきたのだった。
「お待ち下さい」
「あっ、いけないわ」
 少女はここでふと何かに気付いたように声をあげた。そして隣にいる背の高いすらりとした同じか少しだけ年長と見られる女に顔を向けた。女は茶色の髪に緑の目をしており細い顔をしている。鼻が高く目も細いものであり何処か知的な、修道女にも似た印象を与える顔をしている。服は青いスカートに白のシャツでエプロンを着けている。
「マグダレーネさん」
「はい」
 女は少女に名前を呼ばれてすぐに応えてきた。
「申し訳ないけれど」
「何かありますか?」
「ええ、ネッカチーフを忘れてしまったみたい」
 実はスカートのポケットの中からその端が見えていた。マグダレーネもちらりとそれを見たがわざと見ていないふりをするのだった。
「だから。ちょっと見て来て欲しいの」
「わかりました。それでは」
 マグダレーネは一礼してから教会の席の方に戻った。こうして少女と若者を二人きりにするのだった。若者は少女と二人きりになるとすぐに言ってきた。
「フロイライン」
「はい」
「礼儀作法に背きますがお許し下さい」
 若者はまず頭を垂れてこう述べてきた。
「ですが是非知りたいことがありまして」
「御知りになられたいことですか」
「そうです。生か死か」
 彼は思い詰めた顔で言葉を出しはじめた。
「恵みか呪いか。人ことだけ仰って頂けば」
「お嬢様」
 ところがここでマグダレーネが帰って来るのだった。
「ネッカチーフを見つけてきました」
「あら、嫌だわ」
 しかし少女はここでまたわざとらしく言う。
「留金が」
「落とされたのですね」
「御免なさい」
 髪からそっと取り出して懐の中に入れながら応える少女だった。
「だから」
「わかりましたわ。それでは」
 マグダレーネはこの時も見ていたがやはり何も見ないことにして席の方に言った。こうして二人はまた見詰め合うことになるのだった。
「光や喜びか」
 若者はまた思い詰めた顔で語る。
「それとも闇や墓場か。それを知りたいのです」
「留金は・・・・・・あら、いけないわ」
 マグダレーネは今度は自分から引き返す。
「今度は私が聖書を忘れてしまったわ。それでは」
「その一言をです」
 わざと姿を消すマグダレーネをそのままに彼は言うのだった。
「私の運命を決める一言をです」
「貴方のですか」
「そうです。はいかいいえか」
 言葉はさらに思い詰めたものになっていく。
「それだけを。是非」
「それではです」
「はい」
 少女の言葉を待って若者の喉がごくり、と鳴った。
「それでは」
「お待ち下さい」
 またしてもであった。マグダレーネが戻って来た。しかも今度は若者に対して声をかけてきたのだった。
「騎士殿とお見受けしますが」
「その通りです」
 若者はここでマグダレーネに対しても一礼してから答えた。
「ヴァルター=フォン=シュトルツィングです」
「フォン=シュトルツィング様ですね」
「そうです」
 マグダレーネの言葉に対して頷いてもみせる。
「それが私の名です」
「ではフォン=シュトルツィング様」
 彼女の言葉はここでは真面目なものであった。
「まずはここでは」
「話すべきではないというのですね」
「あまり長くはよくないと思いますので」
 畏まったうえでまたヴァルターに対して述べた。
「場所を変えられては如何かと」
「まって、レーネ」
 しかしここで少女が言うのだった。
「そんな話ではないのです」
「そうなのですか?エヴァ」
 マグダレーネもここで彼女の名を呼んだ。
「そうよ。私は何とお答えしていいかわからないの」
 その背の高いヴァルターの顔をうっとりと見上げての言葉だった。
「夢の中にいるような気持ちだから」
「それはまた」
「今は。どうするべきか」
「だからこそなのですよ」
 ここでまたマグダレーネはエヴァに対して告げた。
「ですから。場所をお変えになられて」
「いえ、まずはです」
 しかしここでまたヴァルターが言うのだった。
「御返事を」
「その御返事を」
 エヴァもまた言おうとする。しかしここでマグダレーネは聖堂の中に一人の若者が入ってくるのを認めた。茶色のズボンに青と白のストライブのシャツを着ている。茶色の髪を粋に撫でつけ目は黒い。そしてその表情はとても明るく愛想のよいものだった。よく見れば背も高い。マグダレーネは彼の姿を認めて言うのだった。
「ダーヴィットじゃない」
「言えないわ」
 そのマグダレーネの横で困った顔になって俯いているエヴァだった。
「レーネ、御願いだから」
「わかっていますよ。騎士様」
「はい」
 マグダレーネがエヴァに代わって言うのだった。
「エヴァ=ポーグナーは婚約しています」
「それでは」
 それを聞いたヴァルターの顔が一気に曇り絶望のものになる。しかしここでエヴァがすぐに言ってきた。
「けれど相手は決まっていません」
「!?」
 ヴァルターは今のエヴァの言葉に思わずその整った目を顰めさせた。そしてすぐに問わずにはいられなくなった。
「それは一体どういう意味ですか?」
「それは明日決まるのです」
「明日と」
「はい。この街に来られて間もないようですが」
「ええ、それは」
 マグダレーネの今の言葉に対して素直に頷いた。
「その通りです」
「では明日のことも御存知ないですね」
「お祭があるとは聞いています」
「それです。そのお祭の場で素晴らしい歌を歌い」
「その方がですか」
「そうです。その審判でそのマイスタージンガーがお嬢様の花婿となるのです」
 こう彼に教えるマグダレーネだった。
「そういう意味なのです」
「そしてです」
 エヴァもヴァルターに対して告げる。
「花嫁がその手で花婿に勝利の枝を手渡すのです」
「成程」
 ヴァルターはとりあえずエヴァのことはわかった。しかしであった。
「ですが」
「ですが?」
「マイスタージンガーとは何ですか?」
 いぶかしむ顔でエヴァとマグダレーネに対して問うのだった。
「それは一体」
「では」
 エヴァは今のヴァルターの言葉を聞いて不安な顔になった。
「貴方はマイスタージンガーではないのですか?」
「そして求婚の歌を歌うのですよね」
「はい、審判の前で」
 今度はマグダレーネが彼に答えた。
「その通りです」
「その審判は誰ですか?」
「マイスター達です」
「そして花嫁が選ぶのは?」
 何もかもがわかっていないヴァルターであった。彼にとっては全く別世界の話であった。
「もう何が何なのか」
「貴方を選びます」
 エヴァは我を忘れて言った。
「さもなければ。他の人を」
「あの、お嬢様」
 マグダレーネはわかっていたが本人の口から聞いてより驚いてしまった。
「その御言葉は」
「ねえレーネ」 
 エヴァは怪訝な顔でマグダレーネに言ってきた。彼女が言う前に。
「このこと。何とかして欲しいの」
「はじめて御会いしたのにですか?」
「ずっと前から見ていたから」
 ここで聖堂の壁にかけてある絵を見た。それは見事な青年だった。腰に剣を下げ石をその手に持っている。ヴァルターに非常によく似たこの青年はニュルンベルグの守護者とされるダビデだった。
「だから。もう」
「一目惚れですか」
「自分でもまさかと思うけれど」
 思い詰めた顔でマグダレーネに答える。
「けれど。もう」
「あのダビデのようにですか」
「そうよ。このデューラーが描いたような」
 エヴァはまたそのヴァルターによく似た若々しいダビデを見て述べる。
「この方を」
「困りましたわ。ここは」
 マグダレーネは他者の力を借りることにした。そうして彼を呼ぶのだった。
「ねえダーヴィット」
「何だい?」
 仲間達と共に聖堂の中で何か席や舞台を作っていた彼はすぐにマグダレーネの言葉に顔を向けてきた。
「何かあったのかい?」
「何をしているの?」
 まず尋ねたのはこのことだった。
「ああ、マイスターの人達の言いつけでね。席の準備をしているんだ」
「席?ああ、今日はここで歌うのね」
「そうさ、だからその為にね」
 こうマグダレーネに答えるのだった。
「準備をしているんだ」
「そうなの」
「今日は試験だけだけれどね」
 このこともマグダレーネに答えた。
「歌の規則に少しも違反せずに歌えると」
「合格なのね」
「そうさ、無事卒業してマイスターさ」
 このうえなく明るい声で言うのだった。
「どうだい、いいだろう?」
「それじゃあ」
 マグダレーネはダーヴィットの言葉を聞いて明るい顔に戻った。そうしてまた言うのだった。
「騎士様は丁度よいところに来られたのね」
「そうね。じゃあレーネ」
 エヴァもまた希望を取り返した顔になってマグダレーネに言う。
「後は」
「ええ。ダーヴィット」
 またダーヴィットに声をかけるマグダレーネだった。
「この騎士様のことを御願いしたいのだけれど」
「こちらの方の?」
「いいかしら」
 ダーヴィットに目を向けて問う。
「それで」
「それで何のことを?」
「今日の試験のことよ」
 そのマイスターになる試験のことであった。
「それをね。この方に教えて欲しいのよ」
「この方にかい」
 ここでようやくヴァルターを見るダーヴィットだった。
「また立派な方みたいだね」
「そうよ。とても立派な方だからね」
「ダーヴィットさん、御願い」
 エヴァも彼に対して言う。
「この方をマイスターにしてあげて」
「後で美味しいものをあげるから」
「おっ、そりゃいいね」
 マグダレーネの今の言葉に目を喜ばせるダーヴィットだった。
「じゃあ。それでね」
「若しこの方がマイスターになれたらもっといいことがあるわよ」
 マグダレーネはにこりと笑ってさらに人参をちらつかせた。
「だからね。御願いね」
「わかったよ。じゃあね」
「ええ、くれぐれも御願いね」
「では騎士様」
 エヴァはうっとりとした顔でヴァルターを見つつ声をかけた。
「また」
「きっとです」
 ヴァルターもまた強い言葉で彼女に応える。
「剣でなく歌で」
「はい、歌で」
「マイスターになります」
 彼はここで誓うのだった。
「そして貴女を」
「お待ちしていますわ」
「貴女の為に詩人の聖なる心を」
「ではお嬢様」
「はい。それではまた」
 マグダレーネに誘われ聖堂を後にするエヴァだった。ヴァルターとダーヴィットは二人になった。しかしここでダーヴィットの仲間達が彼に対して言うのだった。
「おいダーヴィット」
「何さぼってるんだよ」
 こう彼に対して言うのだ。
「審判席造るの手伝ってくれよ」
「早くな」
「僕さっきからずっとやってるじゃないか」
 彼はまず顔を顰めさせてから仲間達に対して言い返した。
「少し休ませてくれよ。それに」
「それに?」
「今はちょっと用事があるんだ」
 こう彼等に告げた。
「だからそれが終わるまではね」
「まあそれならいいけれどな」
「早く終わらせろよ」
「うん、わかってる」
 こうしたやり取りの後でまたヴァルターに顔を戻す。そうしてまずこう叫ぶのだった。
「はじめよ!」
「はじめよ!?」
 ヴァルターはこれまで物思いに耽っていた。考えているのはやはりエヴァのことだった。しかしここでこの言葉を聞いて不意にはっとしたのだった。
「何をはじめよと!?」
「まずは記録係がこう叫ぶのです。それから歌います」
「記録係?」
「御存知ありませんか」
「はい」
 呆気に取られた顔で答えるヴァルターだった。
「それは一体」
「あの、歌の審判に出られたことは」
「いいえ」
 ダーヴィットの問いに首を横に振って答える。
「何も」
「ではマイスターのことは」
「とりあえず職人の歌手達ですよね」
「そうです。貴方は詩人ですか?」
「いいえ」
 また首を横に振った。
「では歌人ですか?」
「それでもありません」
「職人であったことや弟子であったことは」
「全く聞いたことがありません」
 そしてそれが何故かも言うのだった。
「今までずっと領地にいましたので」
「それですぐにマイスターになられるおつもりですか」
「そんなに難しいことなのですか?」
 ヴァルターはきょとんとして彼に問い返した。
「それ程までに」
「あのですね」
 ダーヴィットは彼が何も知らないことがわかってまずは内心溜息をついた。そうしてそのうえで彼に対してあらためて語るのだった。呆れた表情を何とか隠して。
「マイスタージンガーには一日じゃとてもなれませんよ」
「そうなのですか」
「はい。私は靴屋の職人でして」
 自分のことも語るのだった。
「そしてハンス=ザックス師匠について一年ですが」
「一年」
「そう、一年です。それでやっと職人、まあ徒弟です」
 己のことをこう語るのだった。
「靴を造るのも詩を作るのも私は一緒に習うのです」
「その二つは一緒なのですか」
「そうです、一緒です」
 彼はまた語った。
「靴を平らに打ちなめしたら母音や子音の使い方を習って糸や蝋を固くしながら韻の押し方を会得します」
「それもですか」
「そうです、どれが男性韻か女性韻か」
 さらに語る。
「寸法はどうか、数は幾つか、靴型を前掛けの上において」
 話は続く。
「そして何が長いか短いか、固いか柔らかいか明るいか暗いか」
 これだけではなかった。
「孤児とはだにとは、糊の綴音とは、休止とは、穀物とは」
「まだあるのですか」
「花とは茨とは」
 本当にまだあった。
「私はこういったものを全部学び取ったのですよ」
「それで上等の靴もですか」
「はい、ここまで辿り着くだけでも大変です」
 また述べるダーヴィットだった。
「一つの詩の大節は多くの中節等から成っていて正しい糸で上手に縫うものは正しい規則をよく知っていて」
「ふむ」
「よく出来た小節やそういったもので底を固めます」
 さらに言う。
「その後でようやく終わりの節が来るのですがそれは長過ぎても短過ぎてもいけません」
「どちらでもですか」
「そうです、どちらでもです」
 彼はさらに語る。
「そして韻の踏み方も同じでないといけません。そしてこういったものを全部覚えてもまた真っ当な靴屋の親方にはなれないのですよ」
「これは驚いた」
 ヴァルターはここまで聞いて唖然としてしまった。
「私は靴屋になるのではなく歌の芸術が」
「それもなのですよ」
 何とそこにもあるのだった。
「多くのものがありまして」
「歌にもですか」
「私もまた歌手ではないのですが」
 マイスタージンガーのジンガーのことだ。
「どんなに骨が折れるものかといいますと」
「はい」
「マイスタージンガーの用いる音や節の種類はその名前だけでも大変な数です」
「それもですか」
「強いものもあれば弱いものもあり」
 まずはこの二つからだった。
「短いものも長いものもとても長いものも」
「他には?」
「青い字の用紙」
 今度はこんな単語だった。
「黒インキの節。赤、青、緑の音」
 また続くのだった。
「きんざしにわがぐき、ういきょうの節。柔らかい、甘い、または薔薇の音」
「音ももそれだけ」
「はい、それに短い愛に忘れられた音。万年ろうや匂いあらせいとう、虹、鶯、白蟻、肉桂皮、新鮮な橙、緑の菩提樹のそれぞれの節」
「今ので節はどれだけ」
 しかも節はこれだけではなかった。
「蛙、子牛、まひは、死んでしまった獣、めりさ花、まよらな、黄色いライオンの皮、忠実なペリカン、てかてか光るてり糸の節」
「それで終わりですか」
「後はひばり、かたつむり、犬吠えの音です」
「それだけあるのですか」
 もうヴァルターは唖然とするばかりであった。
「これはですね」
「はい」
「名前だけなんですよ」
 また言うダーヴィットだった、
「ここからその歌い方を学んで」
「歌射方もですか」
「そうです。正しく、師匠が定めたように」
 こういう具合だった。
「声をあげる所でも下げる所でも」
「今度は声の上げ下げか」
「はい、それもあるんです」
 何とそれもなのだった。
「全ての言葉や音ははっきりと響かせないといけません」
「それはわかるけれど」
 歌の基本だった。
「声域が充分届くように」
「それもだね」
「そうです。そして歌いだしは」
「待ってくれ、はじまりにも決まりがあるのかい!?」
「はい、高過ぎないよう低過ぎないよう」
 今度はこれだった。
「息が乏しくならないよう、ことに終わりで声が出なくならないよう」
 終わりもなのだった。
「呼吸は節約して」
「その仕方もない」
「雑音は出さずに。言葉の終わりにならないように」
「他には?」
「装飾音やコロトゥーラの場所では師匠の教えた通りに」
 細かい技巧も注釈があるのだった。
「若しそれを間違えたり取り違えますと」
「どうなるんだい?」
「始末がつかなくなって歌い損ないとなります」
 こうヴァルターに教えた。
「私もかなり勉強しましたがまだまだです」
「そこまで覚えてか」
「親方が歌う革紐打ちの節を何回歌っても私は駄目です」
「何回歌ってもか」
「そうなんです。それでいつも親方に怒られて」
 ここまで言ってしょげかえった顔になるダーヴィットだった。
「その時はいつもレーネに口添えしてもらってパンと水だけの節を歌わなくて済むようになるのです。
「そんなに大変だったのか」
「おわかりになられましたか?」
「無茶苦茶な規則ばかりじゃないか」
 ヴァルターはこれまでのダーヴィットの話を思い出せるだけ思い出したうえで呟いて難しい顔になった。
「何でまたそんなに」
 こうして考え込んでしまう顔になった。するとここでまたダーヴィットの仲間達が彼を呼んできた。今度は先程より声が大きいものであった。
「おおい、ダーヴィット」
「まだかい?」
「もう終わったか?」
「あっ、もう少しだ」
 ダーヴィットは彼等に顔を向けて答えた。
「だから待っていてくれよ」
「いい加減終わらせてくれよ」
「こっちも忙しいんだからな」
「わかってるさ。ちょっと待っていてくれって」
 こう彼等に言ってまたヴァルターに顔を戻す。そうしてそのうえでまた説明するのだった。
「そして詩人はです」
「うん」
「まず貴方が歌手になられ」
 まずはそれだった。
「師匠の歌を正しく歌えてそのうえ韻や言葉を揃え」
「それは本当に重要なんだね」
「そうです。正しい場所にきちんと配置し師匠の調べにそれ等が合えば詩人の誉れが得られるのです」
「それもかなり長そうだな」
「だから早く来い」
「もう待てないぞ」
 また仲間達の声がダーヴィットを呼ぶ。
「早く来いって」
「手伝ってくれよ」
「わかったよ、じゃあ今行くさ」
 ダーヴィットは舌打ちしながら彼等に応えた。
「それじゃあ今からな」
「それでマイスタージンガーは」
 ヴァルターは考え込んだままの顔で問うてきた。
「最後に教えてくれないか?それは一体」
「騎士様、それはですね」
 ダーヴィットは行きかけたところで彼の方を振り向いて答えを返してきた。
「自分でよく考え、言葉や韻を自分で作り」
「うん」
「新しい旋律を編み出した人がマイスタージンガーなのです」
「それがか。それでは」
 ヴァルターはここで意を決した顔になった。そうして誓うように言うのだった。
「私はそれになてみせよう。必ず」
「それで君達」
 ダーヴィットは仲間達の方に向かって駆けながら言っていた。
「何してるんだよ」
「そんなの見たらわかるだろ?」
「見てわからないか?」
「わかるさ。だから言っているんだよ」
 彼等のところに来てまた言う。
「椅子や記録板の位置だって」
「これでいいんじゃないのか?」
「違うのか?」
「違うよ。今日はただの試験なんだよ」
 こう言いながら早速記録板を外して聖堂の端に行って小さな記録板を出してきた。
「こんな大きなのじゃなくていいし」
「そうなのか」
「机と椅子だって」
 今度言うのはこの二つだった。
「もっと簡単なのでいいし椅子は」
「十二個だよな」
「そうそう」
 今度は納得した顔で頷いてみせる。
「十二個だよ。マイスターの席にはね」
「それで試験を受ける人の為に一つ」
「これでいいよな」
「それでいいよ。あっ、椅子の数は合ってるね」
 それは合っているのだった。
「だったら後は黒板に」
「あいよ」
「これでいいな」
「うん、そこでいいよ」
 壁にそれが掛けられていく。
「それでチョークもね、用意して試験官が隠れるカーテンも用意して」
「これでいいな」
「万全だよ。さて、これで万端整ったよ」
「やっぱりダーヴィットがいると違うな」
「そうそう」
「こりゃ歌手になる日も近いかな」
 半分やっかみではあったがそれでもダーヴィットを褒めてはいる。
「打たれるの韻はすらすら飲み込んでるし貧乏と空腹もいけるしな」
「特に踏み蹴りはそうだよな」
「ザックスさんからいつもやられてるからな」
「そうそう」
 ここで皆わざとダーヴィットの前でその踏み蹴りの動作をしてみせる。
「こんな感じでな」
「仕込が違うからな」
「親方そんなことしないよ」
 ここでダーヴィットは口を尖らせて彼等に反論した。
「とても優しい人なんだからな。滅多に殴られたりしないよ」
「おや、そうなのか」
「結構怒られてないか?」
「あれは教えてもらってるんだよ」
 こう彼等に反論する。
「それに言葉遣いだってきつくないじゃないか」
「まあザックスさんはそんな人じゃないけれどな」
「それはな」
 実際のところ彼等もわかっていた。あえて言っているのである。
「まあとにかく。今日試験を受けるんだろう?」
「本当に歌手になれるぞ」
「いや、僕は今日は止めておくよ」
 ここで彼は右手を前に出して制止する動作でそれを否定した。
「それはね」
「じゃあ誰なんだ?」
「御前じゃないっていったら」
「今日はこちらの騎士殿が受けられるんだ」
 こう言ってヴァルターを手で指し示す。ヴァルターもそれを受けて徒弟達に対してさっと礼をする。
「こちらのね」
「へえ、そうなのか」
「そちらの騎士殿が」
「生徒でもなく歌手でもなくて」
 ダーヴィットは仲間達にすぐにヴァルターのことを説明しだした。
「詩人でもない。けれどすぐに親方になろうとね」
「マイスタージンガーに?」
「すぐに?」
 これには徒弟達も驚きを隠せなかった。
「おいおい、本当か?」
「それはまた凄いな」
「だから皆注意してくれよ。記録席はそこでいいよ」
 今カーテンに囲まれて設けられた席を見て言う。
「うんそうそう。それでですね」
 今度はヴァルターに顔を戻して述べた。
「あのカーテンに包まれた席に記録係が座るんです」
「それで歌を採点すると」
「その通りです。間違いをチョークで記録しまして」
「うん」
「間違いは七つまで許されます」
 ここで右の人差し指を立てて説明してきた。
「七つ以上は」
「どうなるんだい?」
「歌い損ねで落第です」
 静かにヴァルターに告げた。真面目な顔で。
「ですから気をつけて下さい。マイスターの方々の採点は厳しいですから」
「そんあになのかい」
「はい、ですが合格したら」
 今度はあえて薔薇色の未来を語ってみせる。
「絹で作られた花の冠が贈られます」
「そう、絹の冠なんですよ」
「栄光の冠ですよ」
 徒弟達もまたヴァルターに対して話すのだった。あれこれしている間に舞台は整いそれぞれの椅子にクッションも置かれる。このようにして準備が整った時に二人部屋に入って来た。
 一人はやけに大柄で謹厳な顔は聖職者を思わせる。白髪を丁寧に後ろに撫で付け青い目は強い光を放っている。丈の長い焦茶色の上着に白いシャツ、それに黒いズボンといった格好だ。
 もう一人は彼に比べるとやや小柄だがやはり背はある。四角く人懐っこい顔で高慢ぶってはいるようで何故か愛嬌も備わっている。目が少し斜め上に吊り上がっている。茶色の髪をこれまた後ろに撫でつけていて少し上で巻かせてもいる。黒い服は何処か知的であり学者を思わせる。仕草は何処か気取っていて勿体ぶったものを見せている。黒い目がかなりせわしく動いている。
「それでです」
「はい」
 大柄な男がその気取った男に話をしていた。
「ベックメッサーさん、私の誠意を無駄にしないでその取り決めをお役に立てて下さい」
「それはわかっています」
 ベックメッサーと呼ばれたその男はやはり何処か気取った動作で彼の言葉に頷いた。
「ポーグナーさん、それはもう」
「貴方は勝たなければなりません」
 その大柄な男ポーグナーはまたベックメッサーに対して告げた。
「それは是非共」
「しかしです」
 ところがベックメッサーは何かを心配する顔になってポーグナーに対して言うのだった。
「私は恐れています」
「何をですか?」
「エヴァさんが望まれれば求婚者を拒むことができるのですね」
「はい、そうです」
 ポーグナーもそれを認めて頷く。
「その通りです」
「では私のマイスタージンガーの名誉も何もならないのではないでしょうか」
「それは貴方が娘をその気にさせるかどうかです」
 しかしポーグナーはこう彼に反論するのだった。
「違いますか?それは」
「それはそうですが」
 ベックメッサーもこう言われては渋々ながら認めるしかなかった。その彼に対してポーグナーはさらに言うのだった、まるで攻めるように。
「それにそれができなければ」
「できなければ」
「そもそも娘を妻になぞできないのではないですか?」
「それは真にその通りです」
 まさに正論なのでベックメッサーも反論できない。
「だから今ここで御願いしているのです」
「何をでしょうか」
「お嬢さんには貴方からよしなに」 
 つまり口添えであった。
「御願いします」
「はい、それでしたら」
 生返事だった。ベックメッサーはそれを聞いて心の中で呟いた。
(困ったな、これでは難しいぞ)
 そんなことを考えているとヴァルターがポーグナーの姿を認めて。それで彼に対して言うのだった。
「貴方は確か」
「あっ、ヴァルター殿ですか」
「はい、そうです」
 ヴァルターもまたポーグナーに対して答える。
「貴方は確か」
「この街の金細工師です」
 にこりと笑ってヴァルターに答えてきた。
「そして明日の花嫁の父であります」
「そうですね」
 ポーグナーという名前からそれは察しているのだった。
「はい、そうです」
「女達がわしの歌を理解していればいいのだが」
 二人の後ろではベックメッサーが腕を組んでうろうろと歩いていた。
「だが彼女達は本当の詩よりも下手なほら話の方が好きだからな」
「私が国を出てこのニュルンベルグへ来たのはです」
 ヴァルターは明るい顔でポーグナーに対して語っていた。
「ひたすら芸術を愛しているが為です」
「そうなのですか。芸術をですか」
「はい、ですから申し上げます」
 そして高らかに言った。
「マイスタージンガーになりたいのです」
「それでは今日の試験を」
「はい、受けさせて下さい」
「まあ手段は講じるか」
 ベックメッサーは相変わらずうろうろとして考える顔で俯いて呟いていた。
「それでも成功しなかったら歌だな」
 そしてこんなことを言うのだった。
「静かな夜にそっと彼女にだけ聴かせて」
 意外とロマンを重視するようである。
「やってみるか、それでな」
 ここでふとヴァルターに気付いたのだった。
「むっ!?」
 そして彼に顔を向けて呟いた。
「この男は誰だ?騎士のようだが」
「私は嬉しいのです」
 ポーグナーはベックメッサーの呟きに気付かずヴァルターに対して目を細めさせて述べていた。
「まるで古い時代が戻って来たようで」
「どうもいけ好かないな」
 ベックメッサーは今度はヴァルターを見て呟いていた。
「貴族なぞ。所詮はただの家柄だからな」
「それでです」
「何をしようというのだ?」
 ポーグナーとベックメッサーがそれぞれ言う。
「適えて差し上げましょう、是非」
「明るい目をしているな」
 ベックメッサーはポーグナーとヴァルターの目を見て呟いた。
「またしてもな」
「御領地の売却も済んでいましたね」
「はい」
 また頷くヴァルターだった。
「確かそれは」
「私の家の者が細かいことをしてくれたそうで」
「その通りです。ここに来てわかったことですが」
「やはり注意するべきか」
 ベックメッサーはまたヴァルターを見て呟いた。
「この男には」
「あの時は有り難うございました」
 ヴァルターはまたポーグナーに対して礼を述べた。
「さて、私がマイスタージンガーを名乗り得る名誉を得られることですが」
「それですか」
「それは今日のうちにも出来るでしょうか」
「何ということを言うのだ」
 今のヴァルターの言葉にはベックメッサーも絶句だった。
「そんなこと出来る筈がないだろうに」
「騎士殿」
 しかしポーグナーはそのヴァルターに対して穏やかに告げるのだった。
「このことには規則がありまして」
「はい」
「今日は丁度試験の日です」
 ダーヴィットと全く同じことを言っていた。
「貴方にマイスタージンガー達を紹介させてもらいましょう」
「マイスタージンガー達をですか」
「そうです。丁度集まってきております」 
 見ればもうであった。それぞれの弟子達を席の後ろに従えて座っていた。もう席はその殆どが埋まってしまっていたのだった。
「いい具合に」
「さて、皆さん」
 その中の茶色の髪を短く刈り見事な髭を口にたくわえた鋭い目の男が声をあげた。目は黒く知的な光をたたえている。青と白の縦縞のシャツに茶色のズボンをはいている。職人というよりは学者に見える、そうした雰囲気を醸し出している初老の男であった。
「おられますか?」
「おや、ハンス=ザックス」
 ベックメッサーは彼に目をやって悪戯っぽく笑う。
「今日も来られましたな」
「おかげさまで。書記殿もですね」
「私は何時でもおりますよ」
 愛想笑いを浮かべてザックスに答えるのだった。
「いつも通りね」
「左様ですか」
「それではです」
「はい、ナハティガルさん」
 皆今声をあげた禿頭の男に応える。
「宜しいでしょうか」
「はい、集まっておりますよ」
「ここに」
「それではです」
 それを受けていかつい顔の男が口を開いてきた。随分と背が高く身体つきも立派だ。
「まずはこの末席を汚すフリッツ=コートナーが」
「はい、コートナーさん」
「点呼を取りましょう」
「是非」
 皆で言い合う。そうしてこのポーグナーが点呼を取りはじめた。
「クンツ=フォーゲルザングさん」
「はい」
 先程の禿げた男が頷いた。
「こちらに」
「そしてヘルマン=オルテルさん」
「どうも」
 小柄な男が応える。
「いつも出席です」
「バルタザール=ツォルンさん」
「ここですよ」
 肥満した男が笑顔で名乗り出る。
「欠席したことはありません」
「コンラット=ナハティガルさん」
「ええ、ここに」
 茶色の髪の男だった。
「いつも通りさえずります」
「アウグスティン=モーザーさん」
「欠席はしない男」
 勿体ぶった男であった。
「ここに参上」
「ニコラウス=フォーゲルさん」
「おや?」
「あれ?」
 しかしここでマイスター達が周りを見回すのだった。
「おられない?」
「今日は?」
「風をひいておられまして」
 ここで徒弟の一人が述べてきた。
「それで今日は」
「それは残念」
「御大事に」
「そして」
 コートナーはフォーゲルの欠席を確認してからまた述べた。
「ハンス=ザックスさん」
「はい」
 ところがここでダーヴィットがにやにやとして名乗るのだった。
「こちらに」
「こらっ」
 ザックスはそれを聞いて自分の後ろに立っているダーヴィットを咎める目で振り向いたのだった。
「私が名乗る。変なことはするな」
「あっ、すいません」
「全く。とにかくいますので」
「わかりました。そして」
 また話を進めるコートナーだった。
「シクストゥス=ベックメッサーさん」
「いつものザックスさんのお隣で」
 そのザックスの隣で笑っていた。
「青春の韻を学んでおります」
「おやおや、お若い」
 コートナーも彼の今の言葉を聞いて笑う。
「それではウルリッヒ=アイスリンガーさん」
「ええ」
 青い目の老人であった。
「ここに」
「ハンス=フォルツさん」
「どうも」
 中年の男である。
「おりますよ」
「ハンス=シュワルツさん」
「こんにちは」
 無愛想な雰囲気の男だった。
「殿を」
「これで皆さん揃っておられますね」
 コートナーは点呼を終えて述べた。
「それでは記録係の選挙に移りましょう」
「いえ、それは」
 ここでフォーゲルゲザングが言うのだった。
「明日のヨハネ祭の後でいいのでは?」
「やけに急いでおられませんか?」
 ベックメッサーも首を傾げさせてコートナーに問う。
「何でしたら私の役ですからすぐにでも」
「それはいいとしまして」
 ここでポーグナーが口を開いてきた。
「皆さん、宜しいでしょうか」
「はい、どうぞ」
 コートナーが彼の言葉に頷いた。
「お話下さい」
「御存知の通り明日はヨハネ祭です」
 彼もまたこのことを言うのだった。
「緑の野にも花咲く茂みにも」
 そうしてさらに語るのだった。
「人々は集い歌い踊り」
「実にいい日ですな」
「日頃の気懸かりを忘れ胸に喜びを讃え誰もが楽しむ日です」
 こう言うのである。
「マイスター達もこの時は教会の生真面目な稽古を中断しそのうえで街中に繰り出し」
「そうです。実にいい日です」
「それが明日です」
「広々とした牧場で即興に歌い人々に聴いてもらいます。そして」
 言葉は続く。
「求婚の歌合戦では勝利の賞がかけられます」
「それだな」
 ベックメッサーはここでまた言った。
「その賞だ」
「その賞もその歌も後の世の語り草になります」
 このことを強調するポーグナーだった。
「私は神の恩寵を得て富裕の身となりましたが与えることのできる者は分に応じて与えるべきとすれば」
「その場合は」
「どうされるので」
「私自身の恥にならぬように何を与えたらいいかと考えました」
 他のマイスター達に対して述べていく。
「それで私が思いついたことですが」
「はい」
「私がこのドイツを旅してしばしば見て残念に思ったことは」
 また言うポーグナーだった。
「市民達の評判がよくないのです」
「それは残念なことです」
「全くです」
 マイスター達はそれを聞いて顔を曇らせた。
「我等の評判がよくないとは」
「また心外な」
「諸国の宮廷や庶民の間でも」
 ポーグナーはさらに言う。
「私が嫌になる程聞いたのは市民は商売や金銭以外には何の興味もない」
「誹謗中傷ですな」
「全く」
 マイスター達を顔を顰めさせずにはいられなかった。
「我等は芸術を愛しているというのに」
「そうです。このドイツの中で」
 ポーグナーはマイスターの一人の言葉にここぞとばかりに応えた。
「我々だけがまだ芸術を守っているというのに。それを名誉にしているというのに」
 ここで悲しそうな顔になるのだった。
「誇らかな勇気を以って美と善を尊重し」
 彼はまた話す。
「芸術の尊さと意義とを高めていることを世間に示したいと思っているのです。そして」
「そして?」
「私はこの祭の歌合戦で優勝した者には」
 ここで高らかに言うのだった。
「私の財産全てと一人娘のエヴァを差し上げましょう」
「何と素晴らしい」
「流石はポーグナーさんです」
 マイスター達はポーグナーの言葉を聞いて高らかに彼を讃えるのだった。
「これ程素晴らしい贈り物はない」
「ニュルンベルグの誇りだ」
「全くだ。しかしな」
「そうそう、僕達皆彼女がいるし」
 徒弟達は残念そうに述べた。
「それはね。親方達もね」
「殆ど結婚してるしね」
 皆ここで何気にザックスを見たりもしていた。
「じゃあ誰が一体」
「いるんだろうな」
「私の贈り物は娘です」
 またポーグナーが言う。徒弟達のザックスへの視線はあえて無視してだ。
「審判はマイスターの組合が決めますがその賞は結婚です」
「だよなあ」
「考えてみれば凄いよな」
「全くだ」
 皆口々に言うのだった。
「師匠達の決定を花嫁が承諾するかどうかは如何でしょうか」
「それはどうでしょうか」
 ベックメッサーがここで口を入れてきた。
「マイスターを貶めるものでは?」
「そうですな。それはどうも」
 コートナーがベックメッサーのその言葉に応えて言ってきた。
「私達を娘さんの配下に置くようなものでして」
「やはりこれは危険ですな」
 また言うベックメッサーであった。
「このような事態は」
「娘さんが賛成されなければです」
 コートナーはまた言った。
「マイスター達の判断は何にもならないことになります」
「いっそのことです」
 ベックメッサーは少し投げやりになってまた言った。
「娘さんに選んでもらっては?試験なしに」
「まあそういうことを仰らずに」
 ポーグナーはここでまた周りの騒ぎを止めて述べた。
「マイスター達が賞を与えようとするその者を娘は拒むことができます」
「それが問題なのです」
 ベックメッサーは口を尖らせて指摘する。
「それはマイスターをです」
「しかしその者はマイスターでなくてはなりません」
 ポーグナーはこうも注釈を入れるのだった。
「決して。いいですね」
「マイスターでないといけない」
「マイスタージンガーと」
「そう、それ故貴方達が勝利者と定めた者とだけ結婚できるのです」
 ポーグナーはここまで語った。それを聞いたザックスはここで周りに対して言うのだった。
「お待ち下さい」
「ザックスさん」
「何か」
「皆さんの御意見ですが」
 ここでまずはベックメッサー達を制止する。
「行き過ぎです」
「行き過ぎ!?」
「我々が」
「そうです。行き過ぎです」
 こう彼等に告げるのだった。
「乙女の心とマイスターの芸術とは同じ情熱に燃えているとは限りません」
「同じではないと」
「そう仰るのですか」
「そうです」
 ザックスはまた言うのだった。
「教えを受けていない女性の感覚は民衆の感覚と同じと思われます」
「やはりそれが問題なのでは?」
「ですなあ」
 マイスター達は今のザックスの言葉を受けてまた言い合う。
「やはりそれこそが」
「問題です」
「貴方達が芸術を高く尊重されることを民衆の前に示そうとなさり」
 ザックスはさらに語る。
「娘さんに洗濯の権利を与えるにしても皆さんの決定に背くことを欲しないというのなら」
「そうならば?」
「どうされると」
「民衆を審判にされてはどうでしょうか」
 ザックスの提案はこれであった。
「彼等はきっと娘さんと同じ審判を下されるでしょう」
「またそれは」
「ちょっと」
 マイスター達は今のザックスの提案にかなり困った顔になった。とりわけコートナーはこう言うのだった。
「それは意味がないです。民衆に規則を委ねても」
「よく聞いて下さい」
 しかしザックスは粘り強く語りだした。
「貴方達は御存知の筈です。私がマイスターの歌の規則を心得ており、またこの組合のことを心から考えていることを」
「それはそうですが」
「その通りですが」
「しかしです。その規則は年に一度は吟味されるべきです」
 今度の提案はこうであった。
「習慣の惰性によって力と生命が失われていないか。自然の道を歩んでいるか」
「それですか」
「そう。それを告げるのはただ作歌規則を知らない人達だけです」
「幾ら何でも無茶では?」
 ベックメッサーは首を捻ってザックスに反論した。髭のない彼が髭の濃いザックスの横で動くとさらに目立った。
「それは」
「ですな。確かに」
「それは」
 マイスター達はザックスの今の提案にはしゃごうとする弟子達をそれぞれ目で見回して制止させながら言い合った。
「だからです」
 ザックスはまた語る。
「毎年ヨハネ祭の時にはマイスター達が民衆に来いと呼び掛けるのではなく」
「そうではなく」
「自ら雲の上から降り」
 マイスター達をこう表現するのだった。、
「そのうえで民衆に向かって行く。これなら決して悔いることはないでしょう」
「ううむ」
「そういうものでしょうか」
 マイスター達の中には今の彼の言葉に頷きかけようとしている者も出て来ていた。
「そうです。皆さんも民衆を満足させようと為さるのですから」
「それがいいと」
「民衆が楽しめたかどうか言ってもらうことがようのではないのでしょうか?」
 さながら使徒達に囲まれた主のようになっていた。
「人民と芸術が共に栄えることを貴方達も望まれている、私はそう思います」
「もっともなのはその通りですが」
 フォーゲルザングは全面的に賛成しなかった。
「賛成できませんな」
「それなら私は黙ります」
 コートナーとナハティガルは明確に反対だった。
「芸術が民衆の好みに従うと衰退と屈辱に脅かされます」
「その通りです」
「ザックスさんも最近」
 ベックメッサーはとりわけ難しい顔をして腕を組んで述べてきた。
「民衆に迎合されていませんか?それはどうかと思うのですが」
「ザックスさん」
 ポーグナーも彼に言うのだった。
「私の言うことが既に新しいことです」
「はい」
「一度にあまり進んだことを言ってもよくはないと思いますが」
 こう彼に告げたうえで他のマイスター達に対しても言ってきた、
「贈り物と規則はそれでいいでしょうか」
「はい、それで」
「いいと思います」
「私もです」
 ベックメッサーもここでは賛成するのだった。満場一致であった。
「花嫁が最後の決定をするというのなら」
 ザックスも言う。
「私はそれで」
「仕方がないな」
 ベックメッサーはそれでも本心は別だった。
「ここは」
「それでです」
 またコートナーが口を開いてきた、
「誰が求婚者に?独身でなければなりませんが」
「だったら」
「やっぱり」
 ここで徒弟達はまたザックスを見るのだった。
「だよな、この人しか」
「そうだよな」
「如何ですか」
 ベックメッサーは少しシニカルな声でザックスに問うてきた。
「貴方は。もう長い間御一人ではないですか」
「いえ、私は」
 しかしザックスは右手を前に出して制止する動作でそれを拒むのだった。
「エヴァさんが求婚者に賞を与えるというのなら」
「それならば?」
「その人は私や貴方より若くはないと」
「私より若いと」
 ベックメッサーは今のザックスの言葉に顔を顰めさせた。実は彼も結構長い間一人でいるのだ。妻は今は亡くなってしまっているのだ。
「それはどうかと思いますがね」
「まあまあ」
「それはいいとしまして」
 他のマイスター達がベックメッサーを宥める。それが整ってからポーグナーがまた口を開くのだった。
「今日の試験ですが」
「はい」
「それですね」
 一息置いてから話しはじめた。
「この試験に若い騎士殿を推薦したいのです」
「騎士殿ですか」
「そうです。今日マイスタージンガーに選ばれたいと仰っています」
 こう一同に説明する。
「ヴァルター=フォン=シュトルツィング殿です」
「やっぱりな」
 ベックメッサーは彼の今の言葉を聞いてまたしても苦い顔になった。
「そんなことだと思ったよ、全く」
「騎士殿が!?」
「マイスターに!?」
 他のマイスター達もこれには驚きの顔になってそれぞれ見合う。
「それはまた」
「喜ぶべきことかはたまた警戒するものか」
「どうなるのか」
「それだとしてもです」
 コートナーは真面目な顔でポーグナーに対して顔を向けてきた。
「騎士殿を迎える為には色々と御聞きしたいことがあります」
「はい」
 ポーグナーも正面から彼の今の言葉を受けた。
「私は騎士殿の成功を望みますが規則を無視することはありません」
「では騎士殿」
「はい」
 ここでヴァルターはマイスター達の前に出て来た。それまで聖堂の隅で控えていたが遂に彼等の前に出て来たのである。
「御聞きしたいのですが」
「まず何をでしょうか」
「お生まれは。自由で正統なものでしょうか」
「フランケンのシュトルツィング家の者です」
 ヴァルターは静かにその問いに答えた。
「城を後にしてこのニュルンベルグに参り市民になりたいと考えています」
「成程」
「御身分は確かですな」
 マイスター達にもそれは伝わった。
「貴族なんてな」
 その中でベックメッサーは一人愚痴っていた。
「貴族や農民というのは問題ではありません」
 ここでまたザックスが言った。
「それは前から我々の中で決め手いたのでは?」
「それはそうですがね」
 ベックメッサーもそれは認める。
「マイスタージンガーになろうとする者は」
「芸術によって決まる」
 ベックメッサーも続く。
「その通りですな」
「そうです」
 彼等の今の話はこれで終わった。コートナーはその間にさらにヴァルターに対して尋ねてきていた。
「それで御師匠はどなたですか?」
「冬の日の静かなろばたで家も屋根も雪に埋もれる時」
 ヴァルターはコートナーの問いに対してまずはこう述べた。
「春が優しく微笑んだことを、その春がまた間も無く目覚めることを知りました」
「その御師匠にですか」
「はい。祖先から伝わる古い書物で幾度も読みました」
「古い書物!?」
「どういうことですかな?」
「ヴァルター=フォン=フォーゲルヴァイデ」
 かつてのミンネジンガーの一人であった。
「彼が私の師匠でした」
「あの伝説のミンネジンガー」
 ザックスは彼の言葉を聞いて感嘆を込めて呟いた。
「いい師匠を持たれていたのですね」
「しかしですぞ」
 ベックメッサーはその横で口を尖らせていた。
「もう遥か前の人ではないですか。どの様にして規則を学ばれたのか」
「そしてです」
 コートナーはさらに彼に問うた。
「どのようなところで学ばれたのですか?」
「野や畑に露が消え」
 またこうしたところから話すのだった。
「再び夏が訪れる時」
「はい」
「かつて長い冬の夜に古い書物から学んだものです」
 またそこからなのだった。
「美しい森に響き渡り高らかな歌声を聞きフォーゲルヴァイデ、そう小鳥の棲む原で私は歌ったのです」
「そうだったのですか」
「そうです」
 穏やかな声で述べるのだった。
「そこで私は学んだのです」
「つまり鳥から学んだ!?」
 ベックメッサーはまた口を尖らせた。
「何ですか、それは」
「いけませんか」
「人から学んではいないではないですか」
 ベックメッサーはヴァルターに対してそこを言うのだった。
「それではどうにも」
「しかしです」
 ところがここでフォーゲルゲザングは言う。
「今この方は二つのよく出来たシュトルレンをよくまとめておられますよ」
「ちょっと待って下さい」
 ベックメッサーはその彼の賞賛にも目を顰めさせてきた。
「それではです」
「何か?」
「フォーゲルゲザングさんの御名前を褒められるのですか?」
 フォーゲルゲザングが鳥の歌という意味なのとかけていた。
「それは少し贔屓ですぞ」
「それはちょっと苦しいのでは?ベックメッサーさん」
「いつもの駄洒落にしても」
 他のマイスター達がすぐに苦笑いで彼に突っ込みを入れた。
「そうです、それはちょっと」
「無理がありますよ」
「ううむ。そうですかな」
 彼はかなり本気だったがここでは冗談として引っ込めることにしたのだった。場が悪いと見てだ。
「それではそういうことで」
「皆さん」
 コートナーがまた一同に問うてきた。
「質問はこれで終わりで」
「そうですね」
 ザックスが最初に彼に賛同した。
「やがて証明されることですし」
「やがてですか」
「そうです。騎士殿が正しい芸術の持ち主であって」
 彼を信じているかのような言葉であった。
「そしてそれが実際に証明されるならば」
「それならば?」
「誰に習ったかは問題ではないでしょう」
「それではです」
 コートナーはその謹厳な顔でヴァルターに対して問うた。
「貴方は御自身の詩と旋律でマイスターゲザングの新曲を今ここで即興に示すことができますか」
「冬の夜や美しい森や本や野か私に教えたもの」
 彼はそれを受けて早速歌いはじめた。
「詩の不思議な力が密かに啓示しようとしたもの。騎馬の蹄の音や楽しい祭のロンド」
「!?」
「これは」
 今の彼の歌を聞いて殆どのマイスター達は目を顰めさせだした。早速だった。
「これが私の耳を傾けさせたのです。そして今」
「今、何と」
「歌によtって人生の最高のものを得なければならないとすれば私自身の言葉も調べも私の口から流れ出て」
 まさに自然と流れ出る感じだった。
「マイスターザングとなって師匠方の御耳に入るでしょう」
「何だこれは」
 ベックメッサーは聴き終えるとすぐに言葉を出した。
「どうしたものか」
「大胆だし」
「これは珍しいというか」
 マイスター達もその殆どが顔を顰めさせる。
「何というかな」
「では皆さん」
 その中でコートナーはまた言った。彼も顔を顰めさせてはいたがそれでも公を優先させたようである。
「記録審判の用意を。そして騎士殿」
「はい」
 またヴァルターに声をかけた、
「神聖な素材の歌は」
「私にとり神聖なるは」
 それを受けて早速また歌いはじめた。
「愛の旗、この旗を振り懸命に歌います」
「それがこの試験の誓いになります」
 コートナーはそのヴァルターに告げてからそのうえでベックメッサーに顔を向けて告げた。
「ではベックメッサーさん」
「ええ」
「御願いします」
「全く。困ったことだ」
 ベックメッサーはここでは公として考えていた。
「マイスターとして。こうした歌を採点せねばならんとはな」
 こう言ってから立ち上がりヴァルターに顔を向けて言うのだった。
「では騎士殿」
「はい」
「このシクトゥス=ベックメッサー、今ここに誓います」
 これは彼に対してだけでなくあらゆるものに、とりわけ芸術に対して誓った言葉だった。少なくとも彼自身はそう信じていたものだ。
「記録係となって物言わず厳格な審判を致します」
「わかりました」
 ヴァルターもまたそれに頷く。
「間違いは七つまで」
 そしてこのことも彼に告げた。
「七つまでは許されますがそれ以上は許されません」
「それもわかりました」
「それでははじめさせてもらいます」
 こう言って記録席に向かう。
「それでは」
 またコートナーが言う。今度は立ち上がって。
「騎士殿」
「はい」
「宜しいですね」
 言葉はさらに謹厳なものになっていた。
「それで」
「わかりました」
「それではです」
 コートナーは立ち上がったまま言葉をはじめた。
「まずマイスタージンガーの大節は中節からなり一定の規則を持っています」
 歌のことを言うのだった。マイスタージンガーの。
「そして」
「そして」
「一つの中接は同じ旋律を持つ二つの小節となり」
 次はそれであった、
「一つの小節は若干の詩句を連結するものとします」
「いつも聞いてもなあ」
「だよな」
 徒弟達はコートナーの言葉を聞きながら顔を見合わせ言い合うのだった。
「難しいよな」
「一回聞いたら絶対に覚えられないよな」
「全くだよ」
「詩句はその終わりに韻を持ちます」
 しかもまだあるのだった。
「その後に終わりの節が来ますがこれは数詩句の長さでしかも小節とは断ります」
「よく覚えてるよ」
「本当に」
 また徒弟達は顔を見合わせて言い合う。
「そこまでな」
「覚えていられるものだよ」
「固定の旋律を持ってはならずマイスターの歌曲はこれを全てかかる規則によるバールを持ちます」
「全てですね」
「そうです」
 ヴァルターの問いにも答える。
「新しい歌を作る時は綴りは四個以上」
 この決まりもあるのだった。
「他人の旋律を犯さないならばその歌は師匠の誉れを得ます」
「さあ、騎士殿それでは」
「こちらに」
 ここで徒弟達が席をマイスター達の前の中心に置くのだった。
「お座り下さい、ここに」
「そしてここでお歌い下さい」
「そこでですか」
「そうです」
 また彼等に対して述べるのだった。
「どうぞここで」
「歌曲の会の習慣です」
「それでは」
 そしてヴァルターもそれを受けるのだった。
「座らせて頂きます」
「はい、そういうことで」
「御願いします」
 これで話は決まった。ヴァルターは席に座った。するとすぐにコートナーが記録席に向かって言うのだった。
「歌い手が着席しました」
「わかりました」
 ベックメッサーもそれに応えて言う。
「はじめて下さい」
「はじめと春が森に我等を誘い寄せる音が響く」
「むっ!?」
「これは」
 マイスターの殆どが顔を顰めさせるとチョークの音がした。しかしその中でどういうわけかザックスだけは彼の歌を感心する顔で聞いていた。
「これは。まさか」
「彼方より来る波のように速やかにその声はやって来て」
 またチョークの音がした。
「遠くから膨れ上がり」
「またこれは」
「ここでそれは」
 チョークの音は二つした。しかしその中でもザックスは真剣な顔で聴いている。
「森中に木霊する。力強く近寄って来て膨れ上がり響きあがり」
「いい。そうだ」
 ザックスは頷くがここでまたチョークの音がする。
「このままいけばだ。いいな」
「優しい声と混ざり合い明るく大きく響きは近付き」
 またチョークの音だった。
「何と膨れ上がること。鈴の音のように喜びは迫る」
 チョークがまた。
「森はその呼声に応え新しい命を与える」
 チョークがここでも。
「甘い春の歌に声を合わせて歌え」
「やっぱりおかしいな」
「マイスターの歌じゃない」
「そうだ」
 またマイスター達は言い合う。
「これではな」
「全く違うぞ」
 彼等に同調するかのようにチョークの音が次々と響くのだった。ヴァルターはその音を聞いて不機嫌な顔になる。しかしそれでもまだ歌い続ける。
「茨の垣根の中で妬みと怨みに蝕まれ」
 またチョークだった。
「冬は怒りに燃えてこの身を隠さなければならない」
「何か感情が露わになってきたぞ」
「やはりマイスターではない」
 これは彼等の常識の中での言葉であった。
「どうしてもな」
「何だというのだ?全く」
「枯れた葉のざわめきに囲まれ冬は狙っている」 
 チョークが続く。
「あの楽しげな歌をどのようにしてかき乱してしまおうかと」 
 そしてここで椅子から立ち上がるのだった。
「何っ、立ち上がった!?」
「歌の途中で」
「そうだ」
 ザックスだけはこの動きに頷くのだった。
「そこで立ち上がってこそだ。心を見せる時だ」
「しかしはじめよと我が胸に呼ぶ声がした時私はまだ愛が何かを知らなかった」
「何と奔放な歌だ」
「こんな歌ははじめてだ」
「全くです」
 また言う彼等だった。
「しかも立ち上がって」
「こうして歌うとは」
「作法ではない」
「ただ夢から目覚めさせられたかのように胸深く蠢くものを感じ私の心は震えときめき」
 歌をさらに続ける。
「胸の空間を満たす。血は力強く沸きあがり未知の感情によってふくれあがる」
 またチョークの音がした。
「暖かい夜の中から溜息が群れをなして強く湧きい出て」
 ここでもであった。
「海となり快い気持ちの荒々しい波を起こす」
「そう、波だ」
 また頷くザックスだった。しかしここでもチョークだった。
「胸は快楽に満たされその呼ぶ声に応える。新しい命は生まれ出て新しい愛の歌に合わせて歌え」
「もう終わりですか!?」
 チョークをここでは四回入れたところでベックメッサーが幕から出て来た。
「これで」
「何故聞かれるのですか?」
「もう黒板は埋まってしまいましたよ」
「これからです、まだ」
「ではもう他の場所で御一人で歌って下さい」
 たまりかねた声で記録席から出て言うベックメッサーだった。
「こんな歌ははじめてだ。マイスターの歌ではありません」
「マイスターの歌ではないと」
「そうです」
 ヴァルターを見据えての言葉だった。
「こんなもの。何から何までマイスターのものではありません」
「そう、確かに」
「はじまりか終わりかもわかりませんでしたな」
「数や結び方は?」
 それもなのだった。
「短過ぎたり長過ぎたり」
「再現もないし節もなかった」
「何なんだこの歌は」
「だからです」
 ベックメッサーの言葉は憤慨したものだった。
「段切れもないですしコロトゥーラもありません」
「そうだ。マイスタージンガーの歌ではない」
「聞いている方が不安でしたぞ」
 ベックメッサー以外のマイスタージンガー達もやはり彼と同じ意見であった。あえて中立になっているポーグナーと考える顔になっているザックス以外は。
「内容もない」
「椅子からも立ったし」
 コートナーも言う。
「全くの滅茶苦茶というか」
「何だったのでしょうか」
「そういうことです」
 ベックメッサーもまだ言う。
「これではとても」
「いえ」
 しかしここでザックスが言うのだった。
「皆様方急がずに」
「急がずにですと」
「そうです」
 彼は言うのだった。
「誰もが貴方達と同じ意見ではありません」
「といいますと」
「貴方はどうお考えで」
「騎士殿の詩と節ですが」
 こう同僚達に述べるのだった。
「新しいものとは思いますが混乱しておりません」
「乱れてはいないと」
「そうです。我々のやり方ではありませんが」
 マイスターのやり方だけではないというのだった。
「歩みはしっかりとしていて迷いはありません」
「迷いはですか」
「はい、ありません」 
 また言うのだった。
「それを規則に従っていないものを規則に照らそうという場合には」
「その場合には?」
「自分達の規則は忘れてしまって新しい規則を求めなければなりません」
「そうではないでしょう) 
 しかしベックメッサーは強硬に彼に反論してきた。
「そうではありません」
「違うというのですか」
「これは歌ではありません」
 こうまで言うのは相変わらずだった。
「最早」
「マイスターの歌ではないからですか」
「そうです。もうそれではありませんから」
 だから歌ではないと言い切るベックメッサーであった。
「最早。もうこれは」
「最後まで聴かれればおわかり頂けると思いますが」
「もう試験の結果は出ました」
 ベックメッサーは突っぱねるようにして言い返した。
「一度出た判定を覆すのはどうかと思いますが?」
「私の希望するところが規則に逆うのは申し訳ありませんが」
 ザックスは自分でもそれは言った。
「しかしです。規則には書いてあります」
「何と?」
「記録係は愛憎に捉われることなく判断すべきと」
 ザックスが今度出したのはこのことだった。
「彼が求婚者の席に座った時にその歌が好ましくなかったからと」
「私の歌をそれで」
 ヴァルターもそれを聞いて顔を顰めさせた。
「まさか」
「そうした個人的な主観で判定を下されたのではないのですか?」
「お待ち下さい、ザックスさん」
「今の御言葉は」 
 マイスター達は今のザックスの言葉に目を顰めさせた。
「言い過ぎでは?」
「それはベックメッサーさんへの中傷ですぞ」
「そうです」
 ベックメッサーもまた不機嫌な顔でザックスに言ってきた。
「私は少なくともマイスターの信義に乗っ取っていますよ」
「そうです。ベックメッサーさんはそんな方ではありませんよ」
「その通りです」
「まあお待ち下さい」
 ここでポーグナーが一同を制止する。
「言い争いは何も生みません」
「私はそれよりもです」
 ベックメッサーはザックスに対して勿体ぶった様子を見せつつ言ってきた。
「靴のことで」
「靴ですか」
「そうです。私の行きつけの靴屋さんは」
 言うまでもなくザックスのことである。
「どうも履き心地が悪くて困ります」
「おや、それは失礼」
「詩句や韻、芝居だとか茶番だとかそういうものはいいのです。ですが靴はです」
「靴はですか」
「そうです。明日までにちゃんとしておいて下さいよ」
「それは御心配なく」
 ザックスもこれは自分の本職なのではっきりと答える。
「ですが馬子の靴の底には格言を書き入れますが博識の書記さんには」
「何か?」
「靴の底に何か書かないでおくというのも礼儀に適うことではないでしょう」
 こう言うのだった。
「私のったない歌心からは貴方様に相応しい格言も今のところ浮かんできませんが」
「ふむ」
「それで」
「騎士殿の歌を聴いた後なら何かよいものが思いつけそうです」
 こう言うのである。
「ですから騎士殿には妨げなく歌ってもらいましょう」
「それでは」
 ヴァルターはザックスの言葉を聞いて興奮して思わず立った。
「是非。私も」
「ですから結果は出たではないですか」
「そうです」
「その通りです」
 言うのはベックメッサーだけではなかった。
「終わりにしましょう」
「もう」
「さあ騎士殿」
 それでもザックスはヴァルターに歌わせようとする。
「お歌い下さい」
「あのですね」
 ベックメッサーがたまりかねた口調でザックスに反論する。
「黒板にどれだけ間違いがあります?連結のはじまりに語り得ぬ言葉に粘着綴音に悪い韻」
 次々と並べ立てていく。
「あいまい語に間違った場所の韻、それにつぎはぎに意味の取り違え、あと不明瞭な言葉に韻の不揃い、他には不用意の誤り。まだありますぞ」
「そうです、あまりにも酷い」
「何処がマイスターの歌ですか?」
 ポーグナー以外のマイスター達もベックメッサーに続く。
「この試験ではもう結果が出ています」
「仲間に入りたいからいいというわけではありません」
 こんな意見も出て来た。
「だからです。ここはです」
「もう騎士殿には」
「困ったな」
 ポーグナーは立場上何も言えず困った顔になっていた。
「騎士殿の顔色は悪い。皆反対している」
 こう呟きながらヴァルターを見るのだった。
「婿殿には大変結構な方で喜んで迎えたいがこの周りの声では」
「暗い茨のまがきから梟が一羽ざわめきい出て」
 ここでヴァルターはまた立ったまま歌うのだった。
「その騒がしい鳴き声で烏の群れを呼び覚まし烏達は胴馬声の合唱をする」
 こう歌うのだ。
「すると夜の闇の中を群れを為し様々な鳥達が鳴く。そこで一羽」
「一羽、そうか」
 ザックスだけが真面目な顔で聴いて頷いている。
「そこで一羽か」
「黄金の翼を広げて舞い上がり空高くその羽根を煌かせ楽しげに宙に舞う」
 歌いながらさらに上記していく。
「飛べと私に合図する。心は甘き苦しみに忽ち膨れ上がり翼も生え出ずにはいられなかった」
「よし、大胆でいい」
 ザックスはまた頷く。
「感動させるものがある、いい感じだ」
「そこで羽ばたきも軽く大胆に舞い上がり町の穴倉から懐かしい丘に飛ぼう」
「皆さん」
 ザックスは感動して他のマイスター達に告げる。
「是非この歌を聴きましょう。これは素晴らしい歌です」
「この師匠ヴァルターに教えを受けた緑のフォーゲルヴァイデに行こう。そこで私は声高らかにいとしの方を讃えて歌う」
「ベックメッサーさんも落ち着かれて。これを聴かなければ詩人でも歌手でもありません」
「そうは言うが」
「もう試験は終わったのですぞ」
「その通りです」
 周りの面々はまだ反論する。
「ですからもう」
「何を申し上げても」
「烏の師匠達は忌み嫌うにしてもそこに清らかな愛の歌が生まれる」
 ザックスはさらに興奮を感じていた。
「この歌は勇気があります。歌い続ける勇気が」
 ヴァルターの歌を聴きながら述べる。
「本当の詩人の勇士です。ハンス=ザックスは詩と靴を作りますが」
 今度は自分自身のことを述べた。
「彼は騎士にして詩人です」
「そうだよな、いい歌だよな」
「あれっ、御前もそう思うか?」
「御前も?」
 ダーヴィットも他の徒弟達もここでヴァルターの歌について言い合うのだった。
「だよな。何か今までにない歌だしな」
「ちゃんと歌えてるよな」
「確かにマイスターの歌じゃないかも知れないけれどな」
「マイスターの歌ではないから駄目だ」
 ベックメッサーは一喝するようにして彼等の意見を切り捨てた。
「どちらにしろもう結果は出ました。終わりです」
「そうだ、終わりだ」
「失敗です」
「不合格です」
 口々にこう言うマイスター達だった。皆一斉に席を立ちそれぞれの弟子達を引き摺るようにしてその場を後にする。ポーグナーも止むを得なく席を立ちヴァルターも歯噛みしながら憤然と姿を消した。
 しかしザックスだけは残り一人座り込んでいた。そうしてここで呟くのだった。
「さて、どうしたものかな」
 何か考えているようだったがやがてその思考を止め彼も席を立った。そうして彼も自分の家に戻るのだった。



賞品が娘とは。
美姫 「何としてもヴァルターには勝って欲しかったけれどね」
試験で不合格とは。
美姫 「ままならないわね」
本当に。これからどうするんだろうか。
美姫 「ザックスが何か考えていたみたいだけれど」
良い案が浮かべば良いけれどな。
美姫 「次回も待っていますね」
ではでは。



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