『メフィストーフェレ』
第一幕 若返り
天界。青い空の下に白い雲が広がり眩いばかりである。太陽の光は黄金色でその中で天使達がその清らかな声を奏でさせていた。
「我等が神よ」
「天におられる神よ」
「幸いあれ」
こう歌っていくのだった。
「黄金の翼で飛び交う」
「宇宙の未来の永劫の調和にはじまり」
「青い大空に滲み込む」
歌はそのまま続いていく。
「至高の愛の歌声が響き」
「この歌声は主の御前に紺碧の深い大気を抜けて
「妙なる楽の音となって立ち上る」
「幸いあれ!」
さらに歌う彼等だった。
「幸いあれ!」
「我等の主よ!」
「さて」
その中に場違いと思える存在がやって来た。赤いタキシードに蝶ネクタイ、それに赤いバイオリンケースに靴、の男である。ワックスで八の字に固めた口髭にやはり奇麗に固めた顎鬚、髪は端整なオールバックである。髭も髪も黒い。目は吊り上がり顔は険しい感じである。その彼が出て来たのであった。
「あっ、メフィストだ」
「メフィストーフェレ」
「何の用なのかな」
「さて天界の主よ」
メフィストはまず恭しく一礼してから述べてきた。優雅で礼儀正しい仕草である。足も揃えバイオリンケースはその足元に置いたうえでの一礼である。
「宜しいでしょうか」
「仕事でここに来たのかな」
「やっぱりここに」
「そうなのかな」
「まずは近頃私が神の御名を言わないのをお許し下さい」
このことを言ってきたのである。
「それはです」
「それは悪魔だからね」
「まあ仕方ないんじゃないかな」
「そうだよね」
小さな天使達がその彼のことを話す。
「それは」
「悪魔だと」
「私の頭にはもうあの輝きはありませぬ故」
その光輪のことである。
「それで口笛を鳴らしたら御容赦を。そして」
「そして?」
「今度は何かな」
「近頃です」
こう話してきたのである。
「地上は何かと物騒なことですがそれでも何かと賑やかではあります」
「人間達の話だね」
「そうだね」
そのことを言う天使達だった。
「そのことを言ってるけれど」
「その人間達を誘惑するのが仕事じゃないのかい?」
「悪魔のね」
「そうだよね」
「理性やそういったものにこだわっています。それもどうかと思うのですが」
「メフィストよ」
ここで神秘的な重厚な声が聞こえてきた。
「ファウストを知っているか」
「帝国にいるあの老学者ですか」
「そうだ、あの男だ」
「はい、知っております」
こうその声に応えるのであった。
「あんな変わり者はおりません」
「変わり者だというのだな」
「その変わった性格に相応しいやり方で貴方様にお仕えしています」
そうしているというのである。
「抑え切れない知への熱望が彼を不幸と焦燥に駆り立てていますが」
「若い頃だな」
「そうです。彼はです」
ここでメフィストの言葉は醒めたものになった。
「そのまま出来るなら人を超えたいのでしょうが」
「人をですか」
「そうです、人をです」
そうだというのだ。
「どんな学問でも限りはあります。どれだけ思おうとしてもです」
「それには気付かないのか」
「私はそんな彼にです」
ふとファウストに興味を抱いた言葉である。
「網にかかるようにできますが」
「出来るならすることだ」
声はこう言ってきた。
「それならだ」
「それでは」
メフィストはそれを聞いて我が意を得た顔になった。そのうえでまた述べた。
「では私はそうしましょう」
「好きにするがいい」
「さて、主の御考えはわからぬが」
メフィストはそのことへの詮索はあえてしなかった。ただし企む笑みはそのままであった。
「それでもよい。それでは早速仕事にかかるとしよう」
「さてさて、どうなるか」
「面白いことになってきたけれど」
「最期はどうなるかな」
天使達メフィストがバイオリンケースを手に取ったのを見てからまた話した。
「それで」
「一体」
「天使達の声はだ」
メフィストはその彼等の声を聞きながら呟いた。
「どうも肌に合わないな。長い間聞いているが」
「そういう君だってかつてはここにいたじゃないか」
「そうだよ」
「それでも今はそうなんだね」
「帰る時ではないからな」
その天使達への返答である。
「だから今はな」
「何だよ、つれないね」
「そんなのだと」
「最後の審判まで待ってるなんて」
「決まりは決まりだ」
メフィストは端整に述べた。
「最後の日まで私は同志達と共に地上に留まる」
「じゃあその日まではね」
「こうして付き合いを続けるんだね」
「律儀だね」
「律儀なのは私と同志達の絶対の戒律だ」
天使達に対しても礼儀正しい。
「だからだ。それは破らない」
「約束には厳しい」
「それはいいことだね」
「では今から行って来るとしよう」
こう言ってであった。
「それではだ」
「じゃあね」
「また会おうね」
こうして彼は天界を降りてそのうえで地上に向かう。向かう場所は帝国の街フランクフルトであった。そこに向かうのであった。
フランクフルトの酒場は賑やかである。重厚な樫の木の酒場は質素であるがそれでも頑丈であり椅子もテーブルも独特の雰囲気を醸し出している。
その中において様々な者達がビールにソーセージを楽しんでいる。ビールにしても黄金のものもあれば黒のものもある。誰もが木の杯の中のそれを愛していた。
「酒こそは永遠の友人だ」
「これがなくて生きていられるものか」
「まず飲まなくてはな」
こう話しながら飲んでいく彼等だった。
若い娘達も飲みながら踊っている。そうして人生を謳歌している。
「柔らかい四月の光」
「この輝きの中で」
「若さと艶やかさを楽しみましょう」
「そうさ、飲もう」
「是非共」
若者達が彼女達に話す。
「皆で飲もう」
「明るく楽しく」
「やあ、楽しんでるな」
「では我々もだ」
「楽しませてもらう」
兵士達と老人達も店の中に入って来た。そうして早速飲みはじめる。
「まずは飲んで騒いで」
「さあ、お坊さん達も来たぞ」
「飲もう飲もう」
今度は修道僧達も来た。彼等も明るく飲むのであった、
「皆で」
「ビールを愛そう」
「酒とは何か」
ここで言うその修道僧達であった。
「それは全てである」
「人生の喜びである」
「神はそれを飲むことを許されました」
そう言ってそのビールを飲む。あらためてである。
その店の外に二人の男が通り掛かった。一人は長い白い髭を生やした老人である。背は高く背筋も伸びているが老いは隠せない。学者の黒い服を着ている。その横にいるのはいささか小柄で白い服を着ている。白い服の男の方が二十歳程若い感じである。
その彼等がだ。酒場の賑わいを聞きながら話をしていた。
「いいものだな」
「そうですね」
白い服の男が老人の言葉に微笑みと共に応える。
「とても」
「全くだ。私もだ」
「どうされました、ファウスト博士」
「この甘美な春の光に氷は崩れ」
まずはこう前置きをするファウストだった。
「既に希望豊かに谷には緑があるが」
「はい」
「冬は山の中に去りそれに代わりたい洋画自然の姿と彩りを明るくし活気付けている」
こう語っていく。
「木々の花々はまだ蕾みを見せていなくとも」
「それでもですか」
「そうだ、それでもだ」
ファウストの言葉は続く。
「至高の光が祭日に寄せて着飾った街の人々を誘い出し花と戯れさせている」
「若さですね」
「私にはもうないものだ」
ファウストはここまで話して寂しい顔になった。
「最早な」
「しかし博士」
「何だワグナル君」
ワグナルが彼に憂いのある顔で言ってきた。
「博士と共にいるのは私にとって光栄ですが」
「私はただの老人だが」
「私にとっては永遠の師です」
そうだというのである。
「その博士とこうして歩けるのは素晴らしいです」
「ではこのまま共に歩いていくのか」
「ですが」
しかしここでさらに話してきたワグナルだった。
「それでもです」
「それでも?」
「私は人ごみは苦手でして」
「では去るというのだな」
「できればここは」
まさにそうだというのである。
「是非共」
「わかった」
それを聞いて静かに頷くファウストだった。
「それではだ」
「はい、それでは」
こうして二人はその場を去った。その酒場の中からまた賑やかな声が聞こえてきた。
「さあ飲もう」
「そうだな。どんどん飲もう」
「楽しもう」
こう言ってであった。さらに飲んでいく彼等だった。
「酒は幾らでもある」
「幸せもまた」
「それはこの世にある」
「さあ飲もう」
こうして飲んでいってである。さらに話すのであった。
「踊ろう」
「皆で楽しもう」
「これからも」
彼等は楽しんでいた。それが逆にファウストは。寂しい顔で自分の家に向かっていた。そこでまたワグナルが彼に声をかけてきたのであった。
「博士」
「どうしたんだい?」
「もう夕暮れですね」
時間のことを言ってきたのだ。世界は赤くなっていた。ファウストが先程褒め称えたその太陽は沈もうとしていて赤い光を放っていた。
その中にいてだ。さらに言う彼であった。
「もう亡霊達の時間です」
「そうだな」
「そして地上に霜が立ち込めます」
「春だというのにな」
「春でも黄昏です」
晴れやかな時は終わる。そういうことだった。
「ですから」
「家に戻るか」
「そうだな。ところで」
「ところで?」
「何か妙なものを感じないか」
こうワグネルに言ってきたのである。
「どうも」
「そうでしょうか」
「誰かがいる」
こう言うのである。
「あそこにだ」
「あそこにですか」
「そうだ、野原にだ」
ファウストは野原を指差していた。今は赤い光に照らされているその野原をである。そこを指差してそのうえで言っているのであった。
「灰色の服を着た僧侶をだ」
「何も見えませんが」
だがワグナルはこう返して首を傾げるだけだった。
「別に何も」
「いや、見えていないか」
「そう言われれば」
ここでワグナルも見た。そのフードを被った僧侶にだ。見れば確かにそれはいた。一人の原を彷徨うようにして歩いているのであった。
「あれは」
「妙な動きだな」
ファウストはその彷徨う僧侶を見て呟いた。
「妙な歩き方をしている」
「ただ彷徨っているだけでは?」
「いや、違うな」
そうではないというのである。
「あれはだ」
「あれは?」
「一見彷徨い朧な螺旋を描いているようで」
「そうではないと」
「そうだ、違う」
また言うファウストだった。
「こちらに近付いて来ている」
「そうなのですか」
「何か蜘蛛か」
「蜘蛛ですか」
「そうだ、蜘蛛だ」
それだと言う。
「罠を仕掛ける様な動きだな」
「ですからそれは気のせいでは」
「だといいがな。それではだ」
「はい、帰りましょう」
「家までな」
二人はそのままファウストの家に帰って行った。その後ろでは街の人々の賑やかな声が聞こえてきていた。二人のその後ろからあの灰色の僧侶がついてきていた。
ファウストの家は極めて質素だった。彼の部屋もである。あるのは書と様々な研究道具だけである。他には何もなく彼の部屋も窓と扉、それに机以外には書があるだけである。本棚は一杯でうず高く積まれてもいる。そんな部屋の中に彼は一人でいた。
「夜の忍び寄る野から牧場から」
彼は机に座り書を手に呟いていた。
「物音が絶えた小道を帰ると私はここで安らぎと深い静けさと聖なる神秘に満たされる」
そのことに満足しているのだった。
「胸の中の激情は収まり静かな忘却となり」
そしてその言葉を続けていく。
「ただ人への、神への愛が私の心に熱く燃える。野から牧場から帰るとひたすら福音の書に惹き付けられて私は物思いに耽る」
こう言っているとであった。何時の間にか部屋の中に彼がいたのであった。
「君は確か」
それはあの灰色の僧侶であった。彼がいたのだ。
「あの僧侶か」
僧侶はフードの中の顔を静かに頷かせた。それだけであった。
「何故ここに。若しやだ」
その不吉な印象からすぐに察したのであった。
「悪霊か。それとも亡霊か」
「いえ」
ここでその僧侶ははじめて口を開いてきた。そうして言うのであった。
「どちらでもありません」
「どちらでもないというとだ」
「まずはです」
こう言ってであった。その法衣を取る。するとあの赤づくめの紳士が出て来たのであった。
「はじめまして、博士」
「洒落た服だな」
「今のお気に入りの格好でございます」
恭しく一礼しての言葉である。
「私の」
「君のか」
「左様です」
「それで君はだ」
ファウストはその彼に対して問うのだった。顔は自然に怪訝なものとなっている。
「何者なのだ」
「その質問は愚問かと」
「愚問だというのか」
「左様です。言葉の議論よりも」
生粋の学者であるファウストへの言葉である。
「物事の本質を信じれおられる方としてましては」
「名前には本質を示す効能がある」
「それは知っています」
「ならばだ」
ここまで話してまた彼に問うのであった。
「君は何者だ」
「では名乗りましょうか」
「うむ」
「私はです」
ここでようやく名乗りだしたのであった、それは。
「常に悪を考えながら」
「悪をか」
「善を行うあの力を具現化する力の一部分です」
「善をか」
「そうです。悪を考えてです」
明らかにファウストを試す言葉であった。
「さて、私は何者でしょうか」
「おおよそのことはわかった」
ファウストは男を見据えながら述べた。
「しかしだ」
「しかし?」
「君の口からそれを聞きたい」
微笑んでその赤い紳士に告げた。
「是非共ね」
「おや、私を試されているのですか」
「それで怒るならそれでいい」
こうしたことも言ってみせるファウストだった。
「それならそれでね」
「ふむ。それではです」
「名乗れるかい?」
「無論です」
悪魔も思わせぶりな笑みで彼に言葉を返した。
「それではです。私は」
「君は?」
「霊です」
まずはこう言ってみせたのだった、
「常に全てを否定する霊です」
「全てをです」
「そう、星や花さえです」
そういったものをだという。
「私の嘲笑や言葉はあらゆるものを惑わし」
「ふむ」
「無を欲し崩壊を愛します」
「創造ではなく」
「崩壊から創造が生まれます」
これはいささかインド的な言葉であった。
「罪を呼ばれるものこそ、つまり死と悪が私の拠って立つ領域です」
「それは」
「私は笑って無造作に言います」
「何と?」
「否、と」
にやりと笑って否定の言葉を出してみせた、
「私は苦しめ試し唸り怒り否と言います」
「否定するのか」
「噛み付き甘言で誘い苦しめ試し」
その言葉を続けていく。
「怒号し口笛を吹きます。こうしてです」
ここで実際に指を唇に挟んで鋭い口笛を吹いてみせる。
それからまた。言うのであった。
「私は偉大な一切、即ち闇のほんの一部です」
「闇の」
「暗黒の中にいる暗黒の申し子です。そう」
「何と?」
「最後の審判のその日まで」
またにやりと不敵に笑ってみせたのだった。
「私は全てを否定しましょう。ですが」
「ですが?」
「貴方が私と契約されるならばです」
「契約をすれば」
「その時は喜んで御受けしましょう」
ここでまた恭しく一礼してみせた。
「そして私は貴方と共にいましょう。僕として」
「その代わりにだ」
ファウストは彼のその話を聞いたうえで問うた。
「私はどんな条件を呑まないといけないのだい?」
「それを言うのはまだ早いのでは?」
「いや、今のうちに聞いておきたい」
こう返したファウストだった。
「それをだ」
「それをですか」
「うん。それで何なのだ、それは」
メフィストに対して問う。
「その条件は」
「私はこちらでは貴方にお仕えし」
「うん」
「そして不眠不休で駆け付けます。そして」
「向こうの世界では」
「そういうことです」
今度はにこりと笑っての言葉だった。
「それで如何でしょうか」
「あちらの世界のことはいい」
それはどうでもいいというのである。
「それはね」
「それでは」
「若し君が私の魂を静められるような無為の一時を私に提供してくれるなら」
「その時は」
「また私の曇ってしまった考えに私自身と世界を明示してくれるなら」
こう言葉を続けていく。
「過ぎ去る一瞬に向かって止れ、御前は美しいと言うのなら」
「その時こそですね」
「私は死んでもいい」
その時こそ、ファウストは言った。
「そしてこの身を地獄に飲み込ませてやろう」
「それでは」
「契約を」
お互いに手を出して握り合う。これで決まりであった。
「ではこれで私は博士の」
「そうだな。ではこれからは」
「宜しく御願いします」
また恭しく一礼する悪魔だった。ファウストは彼のその一礼を見てからまた問うてきた。
「それでだが」
「それで?」
「何時からだ?」
こう尋ねるのだった。
「何時はじまるのだ?それは」
「すぐに」
これがメフィストの返答だった。
「今すぐにだ」
「わかった。では何処に」
「お好みの場所なら何処にでも」
ここでもにやりとした笑みを浮かべてみせる。
「御案内致します」
「馬や馬車、馬丁といったものは」
「そんなものは不要です」
「では魔術で」
「そうです」
まさしくそれだと言う。そして言うのであった。
「私は人間の思考より早く移動できるのですから」
「だからか」
「はい、それではまずは」
ファウストに魔法をかけ若さを取り戻させた。彼は若い日の長身で引き締まった身体をしている美男子になった。銀色の髪に北欧のそれを思わせる端整な顔をした若き日の彼に。そうなってみせたのである。
メフィストやファウストは名前としては有名だから知っているけれど、オペラの話はどんなのか知らないな。
美姫 「悪魔のメフィストが契約を持ちかけたみたいだけれど」
うーん、ここからどうなるんだろう。
美姫 「楽しみよね」
ああ。次回も待っています。
美姫 「待ってますね」