『蝶々夫人』




                          第三幕  名誉を守り 

 その日蝶々さんは待ち続けた。しかしピンカートンは来ることはなかった。何時までも待ち続けていたが来ることはなかった。何時までも来はしなかった。
 夜の帳は消え去り遂に朝日が昇る。その時まで蝶々さんは待っていたが遂に来ることはなかったのだった。
「蝶々さん」
 鈴木も一緒だった。彼女は家の中の障子の向こうで一緒に正座している蝶々さんに顔を向けて声をかけたのであった。彼女の名を呼んで。
「夜が」
「もうすぐよ」
 蝶々さんはまだ待っていた。
「もうすぐだから」
「それはそうですが」
「どうしたの?」
「少しお休み下さい」
 まんじりとしたままの蝶々さんにこう告げるのだった。
「今は。宜しいですね」
「けれどそれは」
 そう言われても従おうとしない蝶々さんだった。その顔には強情なものがあった。
「あの方が来られたら」
「その時は私がお知らせします」
 ここでも蝶々さんを気遣う言葉を述べる。
「ですから。宜しいですね」
「御願いしてもいいのね」
「勿論です」
 こうまで告げる。実は鈴木は少しだけ寝入っていたので幾分かましなのだ。それで蝶々さんに休むように勧めたのだ。その間は自分がと思って。
「それで宜しいでしょうか」
「わかったわ」
 本音は違っていたがここは鈴木の気遣いを受け入れる蝶々さんであった。
「それじゃあ。今は」
「はい、奥の部屋で」
「じゃあ坊や」 
 蝶々さんは優しい顔で抱き続けている我が子に顔を向けた。子供はすやすやと眠っている。その顔を見て微笑みながら述べるのだった。
「一緒に休みましょう。お父さんを待ちながらね」
「絶対に来られますよ」
 鈴木もまた優しい言葉を蝶々さんにかけるのだった。
「ですから」
「ええ。じゃあその時には必ず起こしてね」
「わかっています。それでは」
「ええ」
 こうして蝶々さんは立ち上がり我が子を抱いたまま襖を開けて奥の部屋に消えた。そうして彼女が姿を消すと暫くして二人のシルエットが障子の向こうに見えた。それは洋服の男のものであった。
「まさか」
 鈴木はそのシルエットを見て無意識のうちに立ち上がった。それから障子を開けるとそこには。やはりいた。待っていた彼が。
「来られたのですね。本当に」
「静かにね」
 だがその彼女に声をかけてきたのはシャープレスであった。彼は相変わらず深刻な顔をしてそこにいた。その顔で声まで深刻なものにさせて鈴木に告げるのだ。
「いいね、それは」
「静かに、ですか」
「そう。蝶々さんはおられるね」
「勿論です」
 鈴木は彼の問いに頷いた。それから庭の中に立っている二人のところに降り立った。そうしてまた二人と話をするのであった。
「今はお休みです」
「そうか。それはいい」
 ピンカートンはそれを聞いて満足気に頷く。
「とてもお疲れでしたので」
「そうか。それじゃあやっぱりこれは」
 昨日の夜には風一つなかった。家中が花で飾られたままであった。シャープレスはその花びら達を見回して言うのだった。様々な色の花々を眺めながら。
「蝶々さんが」
「それに一晩中待っておられたんですよ」
 鈴木はこのことも二人に告げるのであった。
「一晩中。御主人が来られると御聞きして」
「そうか。そうだったな」
 シャープレスは彼女の言葉を聞いて頷く。
「だから。蝶々さんは」
「三年もの間。毎日港に入って来る船を見て待っておられたのです」
「見ろ」
 シャープレスは鈴木の話をここまで聞いたうえでピンカートンに顔を向けてみせた。これまで碌に話すこともなく次第に深刻な顔になって話を聞いていた彼に対して。
「私の言ったとおりだな」
「まさか。こんなに」
「だから言ったんだ。私が」
「こんなことになるなんて」
 次第に俯いてきているピンカートンだった。鈴木はそれを見て変に思うのだった。
「一体何が」
「本当のことを言うべきだ」
 シャープレスは厳しい声をピンカートンにかけた。
「それが勇気というものだ」
「それが」
「あの、どうかされたのですか?」
 何を話しているのかさっぱりわからず二人に問うのだった。
「一体何を」
「君が言えないのなら私が言おうか」
「いえ、それは」
 だが二人はその鈴木の前でまだ話をするのだった。鈴木はさらに話がわからなくなってきていた。首を傾げ眉を顰めさせるのであった。
「私の方から」
「何があったんですか?んっ!?」
 ここで。丘の上にもう一人いることに気付いた。それは。
「女の人?」
「そうだ」
 シャープレスが鈴木に答えた。
「彼の奥さんだ」
「奥さん!?その方でしたら」
 鈴木は最初それこそ蝶々さんだと思った。しかしそれは違っていた。
「違う」
「違う!?どういうことですか?」
「彼は。アメリカで正式に結婚したんだ」
 そう鈴木に告げる。ピンカートンは話せなかった。俯いてしまいそのままだった。見ればそこにいるのは白い洋服を着た茶色のふわふわした毛に緑の目を持つ白い肌の女だった。整った、人形の様な顔をしてそこに立っている。どう見ても海の向こうの女であった。
「あの方が。嘘ですよね」
「鈴木さん」
 信じようとせず自分に問うてきた鈴木にまた答えるシャープレスだった。
「私が今まで嘘をついたことがあるかい?」
「ではやっぱり」
「その通り。ケートという」
「ケート・・・・・・さん」
 名前を聞いても信じられなかった。言い換えると信じたくなかった。鈴木は今自分の目の前で起こっていることを信じたくはなかったのだ。
「朝早くやって来たことにも理由があるんだ」
「理由が。ですか」
「そう。鈴木さん」 
 あらためて鈴木に声をかけるシャープレスだった。
「貴女の力が欲しいのだ」
「私の力がですか」
「そう。慰めようのないことなのは私もわかっている。しかし」
「しかし?」
「子供のことは考えなければならない筈だ」
 シャープレスが言うのは子供のことであった。彼が思うのはそれしかなかった。
「あの時のままだなんて」
 ピンカートンはその横で家を見ていた。その顔には深い悔恨がある。あの時のような軽薄さはもう何処にもなかった。消え果ててしまっていた。
「この花達の香りが僕を包み込む。激しい後悔の中に沈めてしまう」
「ケート夫人はいい方だ」
 シャープレスはその彼にあえて何も声をかけず鈴木に言葉をかけ続ける。
「だからきっとあの子も」
「私からあの人にお話せよと仰るのですね」
 鈴木はようやく彼等が何を言いたいのか察した。ようやくであった。
「私が」
「早くあの子を」
 シャープレスは言葉を出せなくなってきていた。その心に押されて。しかしそれでも何とか言葉を出すのだった。己の責務であるから。
「三年の間本当に待っているなんて」
 ピンカートンはまだ家を見ていた。悔恨は深くなるばかりだ。
「僕はもうここには」
「本当は。君を止めたい」
 シャープレスは鬼ではない。だからこう彼に告げたのだった。
「耐えられないな」
「済まない、僕は」
「ここで君が平気な顔をしていたならば私は君を永遠に軽蔑していた」
 言葉は厳しいものであったが口調は違っていた。彼の心を見ていたからだ。
「だが。今の君の顔は」
「済まない」
「あの時の私の言葉だったな」
 シャープレスは俯きうなだれるピンカートンにあえて優しい声で語るのだった。今の彼をこれ以上追い込まず傷付けない為に。
「彼女は我々を信じきっていると」
「そうだった。確かに」
「一人になっても待っていたんだ」
 それが蝶々さんだった。
「ずっと。ここでな」
「僕は取り返しのつかないことをしてしまった」
 項垂れたまま言う。
「今はそのことで心が」
「行くんだ」
 ピンカートンに対してここから去るように勧めた。
「罪がわかったのなら。私はこれ以上は何も言わない」
「済まない、シャープレス」
 応える声が泣いていた。
「もう僕は」
「わかったんだ」
 声がさらに優しくなった。
「だからいい。もう」
「済まない、そしてさらば」
 蝶々さんと過ごした家を見ての言葉だった。
「愛の巣、花の隠れ家。僕は自分の愚かさに耐えられず御前の前から姿を消すよ」
「それではな」
「・・・・・・うん」
 シャープレスと挨拶を交えさせて姿を消す。項垂れるシャープレスの横に今度は青い顔になったケートが静かにやって来たのだった。
「申し訳ありませんが」
「わかっております」
 鈴木もまた静かに彼女の言葉に応えた。
「それでは」
「あの人の子供です」
 その言葉に偽りは感じられなかった。
「ですから。きっと立派に育てますので」
「鈴木、鈴木」
 だがここで。家の中から蝶々さんの声がした。
「何処にいるの?」
「どうして・・・・・・」
 鈴木は蝶々さんの声を聞いて悲嘆に暮れた。
「今起きてきたの・・・・・・」
「何処なの?いるのでしょう?」
「は、はい」
 慌てて家の中に入りながら応える。草履もそぞろに脱いで。
「こいらです」
「あの方がいらしたの?」
 蝶々さんは希望の中にいた。外は絶望に覆われているというのに。
「何処なの?何処におられるの?」
「それは」
「ここかしら」
 鈴木より早く出て来た。そうして庭先に出たのであった。
「領事様」
「どうも」
 シャープレスは目礼で蝶々さんに応えた。
「領事様がおられるということは」
「それはその」
「あの・・・・・・」
 しかし鈴木もシャープレスも答えることができない。とても。
「あの方は何処なの?それに」
 ここでケートに気付いた。
「あの方は。あちらの女性の方ね」
「はい、そうです」
 鈴木はその問いには答えることができた。
「奇麗な方だけれど。それでも」
 庭先の周りを見回しながらまた鈴木に問う。
「あの方がおられないなんて。おられるの?」
「今までは」
「今までは」
「そうです」
「蝶々さん」
 俯いてしまった鈴木に代わってシャープレスが蝶々さんに述べる。だがその言葉は暗く沈んだものであった。それでも言うのであった。
「御気を落とされずに」
「御気を!?一体」
「彼は一旦ここに来た」
「一旦は」
「そう。けれど」
 言いにくい。彼がこれまで経験した何事よりも。しかし言わなければならなかった。そして彼は何とかその言葉を述べたのであった。
「もう来ない」
「来ない!?まさか」
「いえ、本当です」
 絞り出す様な言葉であった。
「もう。二度と」
「二度と・・・・・・」
 その言葉が次第に蝶々さんの心に滲み入ってくる。その彼女にシャープレスはまた言うのだった。
「そして。この女性の方は」
「まさか」
「・・・・・・おわかりですね」
 これ以上直接言うのは辛い。だから蝶々さんが察してくれたのは有り難かった。内心そのことに感謝さえしていた。そう、彼女への感謝であった。
「罪はありません、この方には」
「・・・・・・わかりました」
 その言葉にまた頷く。
「それは。ですが」
「御願いします」
 また蝶々さんに対して頼み込んだ。
「どうか。堪えて」
「私に残っているのはその一つだけなのです」
「それも。わかっています」
 わかっていない筈がない。しかし。それでも彼は言わなければならなかったのだ。
「ですが」
「・・・・・・わかりました」
 そして遂に蝶々さんも頷いた。そうするしかないのもわかっていてだった。
「それでは」
「すいません。子供は」
「きっと私が」
 これまでそこにいるのが地獄に感じられ顔を蒼白にさせていたケートも言う。彼女も己がしなければわからないことがわかっていたのだ。
「はい。ですが」
「ですが?」
「少し時間を下さい」
 こうシャープレス達に頼んできたのであった。
「半時間程。宜しいでしょうか」
「最後のお別れなんですね」
「そうです」
 その言葉は半分は真実であった。しかしもう半分は隠した言葉であった。だがそれは決して口には出さないのであった。決して。
「私もでしょうか」
「ええ」
 鈴木に対しても答える。
「御願い。どうか」
「わかりました。それでは誰に」
「御子息はどうされていますか?」
「眠っています」
 こうシャープレスに答えた。
「今は」
「そうですか」
「その子に最後の別れがしたいのです」
 また言うのだった。
「ですから」
「はい。それでは」
「蝶々さん。私達は暫く」
「去りますので」
 こうして三人はこの場を去った。蝶々さんは一人になった。一人になるとすぐに家の中に入るのであった。
「明る過ぎるし春めき過ぎるから」
 障子も襖も何もかもを固く閉めながら家の奥へと入っていく。
 その部屋には仏壇がある。その仏壇の前に座ると蝋燭に火を点けて静かに祈る。それから立ち上がると仏壇の反対側にある神棚に近付きそこから白い布に包まれた細長いものを取り出す。それは短刀だった。蝶々さんの家の最後の家宝、ピンカートンとの婚礼の時に見せなかったあれだ。それを静かに取り出すと鞘を抜いたのであった。
「名誉を守ることができなければ名誉の為に死ね」
 座ってからこう呟いた。そうして喉元に刃を当てる。だがその時だった。
 子供が部屋に入って来た。彼に気付いて動きを止めた蝶々さんに駆け寄る。
「御前!?御前、どうして」
 蝶々さんは我が子を見て思わず声をあげた。
「どうしてここに。どうして」
 思わず我が子を抱き締める。抱き締めると涙が流れた。
「見せたくはないの。百合と薔薇の花の様な御前のその穢れのない瞳に可哀想な蝶々が消えていくのを見せたくはないのよ」
 子供を抱き締めながらの言葉であった。
「御前は海の向こうで幸せに生きて。お母さんに捨てられたと思われたくはないの。御前は御空から光に満ちて授かったのだから。だから」
 我が子に自分の顔を見せる。そうして言うのだ。
「御前のお母さんの顔を。忘れないでね。だから」
 最後の言葉だった。もういかなければならなかった。
「さようなら。これで」
 我が子に反対側を向けさせてその手に日本とアメリカの国旗と人形を握らせる。その時にそっと目隠しもさせた。その間に子供をじっと見詰めた後で障子の向こうに消えて。そこから我が子のシルエットを見つつ静かに喉に刃を突きつける。そうして。最後を迎えた。
 短刀がゆっくりと落ちて生じが開いた。倒れた蝶々さんの手が最後の力で開けたのだ。その時に弱かったのか子供の目の目隠しが落ちていた。子供は蝶々さんに静かに寄って来る。倒れ伏し息も絶え絶えの蝶々さんも少しずつ我が子に近寄る。だがそれも適えられそうになかった。命の火が消えようとしていた。仏壇の火が消えていくのと合わせて。その力尽きて子供のすぐ側で動かなくなった。
「蝶々さん!!蝶々さん!!」
 家の外からピンカートンの声が聞こえる。しかしもう遅かった。何もかもが遅かった。全ては終わってしまっていたのだった。全てが。


蝶々夫人   完


                         2008・2・12



いや、何かもう蝶々さんが。
美姫 「まさか、こんな結末だなんてね」
悲しい話だよ。
美姫 「名誉の為にと言ってたけれど」
しんみりすると言うか、悲劇だよな。
美姫 「でも、これもまた一つの結末よ」
だな。投稿ありがとうございます。
美姫 「ありがとうございました」



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