『蝶々夫人』
第一幕 婚姻
明治維新から数年経った日本の長崎。青い海もその街並も眺めることのできる丘の上に小さな家が建てられている。周りには桜の木が咲き誇り花びらが風により漂っている。その中で家を見ながら黒い海軍の軍服を着た金色の髪に青い目の背の高い男が驚いた顔をしている。顔は朗らかな笑みを浮かべている。何処か軽薄な感じがするのは否めない。
「これがかい」
「はい、そうです」
彼の隣には小柄でまだ髷をしていそうな感じの風采のあがらない男がいる。彼は紛れもなくこの国の男だ。
「これが日本の家です」
「これが障子で」
白人の海軍の男は障子を指差して彼に問う。
「これが天井、これが襖なのかい」
「全てその通りです」
男はそう答える。
「そうか。五郎さんだったね」
「ええ」
男は海軍の男に名前を問われて答えた。
「そうです、ピンカートン中尉」
「この前までは少尉だったんだけれどね」
笑いながら自分の右手をぽんぽんと叩く。見ればそこには二本の金色の線がある。一本は太くもう一本は細い。それは中尉の階級を表すものである。
「この前なったんだ」
「左様ですか」
「うん。それでだね」
彼はまた五郎に問うのであった。
「建て替えが随分楽そうな家だね」
「自由に開けたり閉めたりできますので」
五郎はその問いにまた答える。
「お好み次第にお部屋の模様替えをできますよ」
「じゃあ婚礼の部屋は」
「どちらでも」
五郎は家の二つの部屋を指差して述べた。
「そうかい。広間は」
「こちらです」
別の部屋を指差す。
「それでここからも出入りが」
「しかし。軽そうな家だね」
ピンカートンは五郎の話を一通り聞いた後で家全体の感想に入った。
「少し強い風が来たら吹き飛ぶんじゃないのかい・この辺りは台風も多いんだろう?」
「ああ、それは御安心下さい」
しかし五郎は笑ってピンカートンのその疑念を打ち消してみせた。
「土台から屋根まで塔の様に丈夫ですから」
「そうなのか」
「はい。ですから御安心下さい」
「だといいけれど。あとは」
「使用人ですか?」
「ん。そちらの手配はどうなっているのかな」
家から目を離し五郎に顔を向けて問う。
「それでしたらもう」
五郎がぽんぽん、と手を叩くと一人の小柄な女性が姿を現わした。緑の着物を着て黒い髪を上で結っている。穏やかな表情をしていて目は垂れ気味である。小走り気味の歩き方がピンカートンの目についた。
「この人なんだね」
「そうです。花嫁さんのお気に入りのお手伝いさんです」
五郎はそのお手伝いを手で指し示しながらピンカートンに説明する。
「名前は?」
「鈴木です」
女中のほうから答えてきた。答えると共にぺこりと頭を垂れてきた。
「どうか宜しく御願いします」
「ミス鈴木、いや」
ピンカートンはその鈴木を見て英語を出し掛けたがそれをすぐに消して言い方を変えた。
「鈴木さんだね」
「はい、そうです」
「それでそれが日本の挨拶なんだね」
「御存知ですか」
「一応はね」
そう鈴木に対して答える。
「知ってはいるよ」
「そうですか」
「うん。ところで鈴木さん」
ピンカートンは顔をあげた鈴木の顔を見て彼女に問うた。
「どうして笑っているんだい?何か日本人はいつも笑っている人が凄く多いけれど」
「笑いは果物や花の様なものです」
鈴木はその穏やかな笑みと共にピンカートンに答えるのであった。穏やかな風が桜の花びらを運びピンカートンの前を舞う。
「花の様なもの」
「そうです。笑いは怒りの横糸を解きほぐし真珠貝の口を開き利をもたらします」
「日本ではそう言われているんだね」
「はい。それは御仏の下された香水であり生命の泉なのです」
「それは誰の言葉かな」
「奥生です」
その言葉を述べた者の名を述べた。
「昔の僧です」
「仏教のだね」
「はい。御存知を」
「わかったよ。ところで五郎さん」
ピンカートンは鈴木の話が終わるとまた五郎に顔を向けて問うた。
「何でしょうか」
「花嫁さんはまだかな」
「もうそろそろだと思いますが」
「そうか。それで親類の人は多いんだよね」
「ええ。二十は超えています」
「大体二ダースってところだね」
ピンカートンはそれを聞いて呟いた。
「面倒な人はいないよね」
「まあそういう人は呼んでいませんので」
こうピンカートンに述べた。
「御安心下さい」
「わかったよ。じゃあ安心させてもらうよ」
「はい。それでそちらの参列の方は」
「もうすぐ来られる筈だ」
ピンカートンがこう言うとすぐに白い髪と口髭の恰幅のいい初老の男がやって来た。温厚で思慮深そうな学者の様な顔をしている。白い服とネクタイをしている。
「ふう、長崎はいい場所だが」
彼は額の汗をハンカチで拭きながらピンカートンのところにやって来た。
「坂道が多いのが。困りものだな」
「この方だよ」
ピンカートンはその白い服の男の側まで来てにこりと笑って紹介した。
「領事のシャープレスさんだ」
「ああ、もう来ていたのか」
そのシャープレスの方もピンカートンに気付いて顔を向けるのだった。それから彼に声をかける。
「流石に早いな」
「ようこそ来て下さいました」
「登るのが大変だったけれどね」
シャープレスは苦笑いを浮かべてピンカートンに応える。
「だが。景色はいいね」
「海に街に山に」
ピンカートンはシャープレスと二人で今二人が今いる場所から見える長崎を見渡して言う。街も海も山も見事な美しさを二人に見せていた。
「アメリカにもこんな場所はそうそうありませんよ」
「そうだな。それでこれが君の家だね」
「そうです」
家に顔を向けたシャープレスの言葉に答える。
「九百九十九年借りました」
「千年生きるつもりかい?」
「契約は何時でも変えられるので」
ピンカートンは軽薄に笑ってシャープレスに述べた。
「この国では家でも契約でも思う通りになりますので」
「あまりいいことではないがね」
シャープレスはそのことには顔を顰めるのであった。
「イギリス人みたいな真似をしないでくれよ」
「わかっています。僕もアメリカ人です」
ここでも軽薄な笑いをシャープレスに見せるのであった。
「あんな連中みたいなことはしませんよ」
「だといいが」
アメリカとイギリスはお世辞に仲がいいとは言えない。これは歴史的なものだ。とりわけ海軍同士はあまり仲がいいとは言えないようだ。ピンカートンはかりにも将校であるので自重しているが兵士達はイギリス兵をライマーと呼んで馬鹿にしている。これはイギリス兵達が健康の為にライム入りのラム酒を飲んでいることから来ているのである。
「ですがアメリカ人です」
「それは今聞いたが」
「ですから」
ピンカートンはその軽薄な調子をさらに強いものにさせて言うのであった。
「世界の何処に行っても危険を顧みず楽しみ大儲けしてみせます。運を天に任せて嵐が船をひっくり返して帆柱が折れるまで突き進みどんな花でも手に入れてみせます」
「そうしたやり方が最近の我が国の評判を落としているのだが」
シャープレスは顔を顰めてピンカートンに忠告する。
「海軍士官だったら慎んで欲しいのだが」
「まあその程度はいいのでは」
「どうかな。それでは人生は楽しいだろう」
「勿論」
満面の笑みでシャープレスに答える。
「楽しくて仕方がありません」
「だが最後には報いが待っているものだ」
人生に関しての深い言葉であった。
「それを覚悟しておけ」
「何、どんなに打ちのめされても運命を取り戻すのがアメリカ人」
しかしその忠告はピンカートンには届かない。
「ですから日本流に九百九十九年の間結婚します。何時でも自由にできるという条件で」
「全く。そんなことでは」
「まあ一杯」
五郎に手渡された杯を手渡す。
「喉も渇いておられますね」
「まあそうだが」
「ミルクポンチかウイスキー。どちらが」
「ウイスキーにしておこう」
そうピンカートンに言葉を返した。ピンカートンの気楽さに不安を感じたがそれを消す為でもある。
「バーボンだな」
「勿論。アメリカ人はイギリスのウイスキーは飲みませんので」
「それはいい」
これに関してはシャープレスも同意した。その言葉を受けてピンカートンはシャープレスが受け取った盃にバーボンを入れていく。それから自分のものにも入れて乾杯をするのであった。
「合衆国に栄光あれ」
「うん。ところで」
シャープレスは一杯飲んだ後でまたピンカートンに問うた。
「その花嫁さんは愛しているんだろうな」
「まあ一応は」
「一応!?」
「恋の程度にもよりますね」
ここでも軽薄なピンカートンであった。
「真実の恋か気紛れか」
「それで結婚するのか!?」
「ですが彼女の無邪気さと純粋さに心を惹かれたので」
また顔を顰めさせてきたシャープレスにこう言葉を返す。
「それは事実です」
「しかし」
「ガラス細工の様に繊細なその姿は屏風絵の様で」
語るその顔がうっとりとしていた。
「あの赤く光る漆塗の背景から飛び立つ蝶々の様で。実に繊細です」
「是非捕まえてみたいと」
「そうです。それを自らのものに」
「だからそれは止めておくのだ」
シャープレスはまた彼に忠告を送った。
「真面目な娘なのだろう?」
「はい」
「だったら余計にだ。純粋な心を粗末にしてはいけない」
「しかし閣下」
シャープレスに対して述べる。
「僕は別に彼女を傷つけるわけではありません」
「どういうことだね、それは」
「彼女にも甘い夢を見せてあげるのです。それがどうして」
「しかし本当に結婚はしないのだろう?」
「それは彼女もわかっているでしょう」
そう思い込んでいるのである。ピンカートンは。
「当然のこととして」
「だといいがな。まあいい」
「ええ、どうぞ」
シャープレスが杯を差し出すとそこにバーボンを注ぎ込んだ。
「それでこれからはどうするのか」
「暫くは彼女と一緒に。そして」
「そして?」
「アメリカに戻ったならば妻を得ます」
「本当に結婚するのだな」
「そうです」
そうした意味で彼にとっては遊びなのだ。あくまでそのつもりだ。
「さて、そろそろでしょうか」
「来たか」
「ええ、ほら」
朗らかな少女の声が聞こえてくる。
「あの声は」
「可憐な声だ」
シャープレスはその声をまず気に入ったようである。顔が綻んでいる。
「蝶々さん」
同時に女達の声も聞こえてきた。
「こっちよ。こっちに花達が」
「ええ、わかってるわ」
その蝶々さんの声も聞こえてきた。
「春ね、今は」
「そう、春よ」
「蝶々さんの為にある春よ」
そう女達に言われている。だがまだ姿は見えはしない。
「海の上にも山の上にもすっかり春が満ちて」
「その中で蝶々さんは」
「ええ。私は世界中で一番幸せよ」
「そうか」
シャープレスはその声を聞いて呟く。
「それが続けばいいが」
「私は愛に誘われて楽しい家の入り口に来ているのね」
「もうすぐだ」
ピンカートンがにこやかな笑みになる。
「僕のここでの奥さんが来るんだ」
「っこには生きている人のも御先祖様のも全ての幸福があるのね」
「蝶々さんに幸せがありますように」
「これからも。ずっと」
「ええ。きっとね」
「来ましたよ」
桜色の下地に赤い蝶々をあしらった服を着た小柄な少女だった。黒く切れ長の神秘的な輝きを持つ目があり白く整った、人形の様な顔立ちをしている。髪は見事に上で結っておりその白いかんざしが黒い髪の中に目立つ。一目で心を奪われてしまう可憐な少女であった。
「この娘だね」
「はい、ピンカートン中尉ですね」
「うん」
ピンカートンは少女の問いに答えた。
「僕がそうだよ」
「はじめまして」
少女はピンカートンが名乗るとぺこりと頭を下げた。
「私が蝶々です」
「蝶々さんだね」
「そうです」
そう名乗るのであった。
「そう呼んで下さい」
「わかったよ。じゃあ蝶々さん」
「ええ」
にこやかな顔でピンカートンに応える。
「山道は疲れたかな」
「いえ」
ピンカートンのその問いにはにこりと笑った後でその首を小さく横に振るのであった。
「別に。それは」
「そう。だったらいいけれど」
「待つ時の方が辛い程です」
「そうか。君はいい娘だね」
「有り難うございます」
「それで蝶々さん」
今度はシャープレスが蝶々さんに声をかけてきた。それまで彼は周りの日本の女達を見ていたがそれを終えてあらためて蝶々さんに顔を向けたのである。
「奇麗な御名前ですが」
「私の名前がですか」
「そうです。お美しい」
名前だけでなくその姿も褒めていた。これは彼の本心である。
「それは本当の御名前でしょうか」
「いえ」
だがその問いには首を横に振るのであった。
「これは。また別で」
「そうなのですか。それでお生まれは」
「ここです」
長崎というのである。
「ここで。長く続いている家でした」
「家でした」
日本語に通じているシャープレスにはその言葉の意味がわかった。
「そうでしたか」
「私は。今は芸者なのです」
蝶々さんは寂しげな笑みを浮かべて己の素性を語りだした。
「どんな者でも立派な素性でないとは言いません。けれどどんなに丈夫な樫の木も大風の前では折れてしまうもの。ですから」
「そうだったのですか」
「はい」
「それでですね」
シャープレスはさらに蝶々さんに問うた。まるで彼女の全てを知るかのように。
「兄弟はおありですか?」
「いえ、母だけです」
そう答える蝶々さんであった。
「父は。名誉を守って」
「名誉を守って?」
「死んだのだ」
首を傾げたピンカートンにシャープレスが小声で囁いた。
「聞いているな。日本では武士は名誉を守る為に切腹する」
「ああ、あれですか」
話には聞いているがそれだけだ。だからピンカートンは頷くことしかできない。
「それで本当に」
「多くは聞くな。いいな」
「わかりました。それは」
「よし。それでですね」
また蝶々さんに顔を戻す。
「お幾つでしょう」
「幾つに見えますか?」
「十歳!?まさか」
これは蝶々さんの背から見たものである。アメリカ人の彼等から見ればそこまで小柄なのだ。
「いえ。十五です」
「十五歳!?」
ピンカートンはそれを聞いて思わず声をあげた。
「それはまた」
「老けて見えますか?」
「いや、全然」
ピンカートンは慌てて首を横に振ってそれを否定する。
「そんなに若いんだ。いや」
「幼いな、まだ」
「ええ」
そしてシャープレスの言葉に今度はその首を縦に振るのであった。
「その通りです。まだ遊びたい盛りで」
「甘いお菓子も欲しいだろうな」
そんな話をしている間に客人達の紹介が五郎によって行われる。その中でシャープレスはまたピンカートンに対して声をかけてきた。
「君は幸福だ」
「有り難うございます」
「私はここまで可憐な娘を見たことがない。それに心もいい」
「そうですね。それはわかります。彼女の異国情緒が私を惹きつけました」
「それだけか」
「?何か」
ここでもわかっていないピンカートンであった。
「どうかされましたか?花の美貌が私を捉えているというのに」
「あれがアメリカの人」
「アメリカの武士なのね」
離れたところから女達がピンカートンを見て話をしている。
「奇麗な顔をしているわね」
「そうね」
「けれど」
だが彼等は話をしている。
「何か奇麗過ぎて」
「怖いかも」
「いいか?」
またシャープレスはピンカートンに対して忠告するのであった。
「これから君が彼女とのことを真面目に考えていないのなら大変なことになるぞ」
「またそれですか」
「何度でも言う」
真剣な顔のシャープレスに対してピンカートンは少しうんざりした顔になっている。だがそれでもシャープレスは彼に対して言うのであった。
「彼女は我々を信じきっているのだしな」
「お母様」
蝶々さんは今度は彼女によく似た中年の女性を連れて来ていた。
「こちらが私の」
「そう。こちらが」
「ええ。嫁入り道具はあるわね」
「ええ。こちらに」
母親が出してきたのは黒い漆塗の箱であった。そこには舶来のものも日本のものも両方ある。ピンカートンもそれを見ていた。
「ハンカチにパイプに」
「帯止に鏡に扇子です」
「うん。あとは」
箱とは別にあるものに気付いたピンカートンであった。
「あの壺は何かな。あの紅い壺は」
「我が家の家法の一つです」
「そうなのか。あとは」
ここで長い箱に気付いた。
「あれにも家法があるのかな」
「そうです、私の大切なものです」
急に蝶々さんの顔が真剣なものになった。その顔で答えるのであった。
「大切なもの?」
「父の形見です」
「まさか」
シャープレスはそれを聞いて察した。
「あの長さからすると」
「ええ、そうです」
五郎がここでシャープレスとピンカートンに囁いた。
「蝶々さんのお父上は主の命であの刀で切腹されたのです」
「そうだったのか、やはりな」
シャープレスはそれを聞いて頷いた。
「だからか。宝なのは」
「本当なのかな」
ピンカートンはそれを聞いてもまだ信じられない顔である。実際に首を傾げる。
「日本人はわからないな。自害するなんて」
「我々にはわからないこともある」
またシャープレスはピンカートンに忠告するのであった。
「それを良く憶えておくのだな」
「よくわからないけれどわかりました」
ここでもピンカートンの返事は軽いものである。
「さて。もう何もないみたいだけれど」
「あの」
ピンカートンが宝物が何もないのを確かめているとそこに蝶々さんがまた声をかけてきた。
「何かな」
「実は昨日」
「うん」
「教会に行って来たのです」
「教会にかい!?」
「はい」
蝶々さんはおずおずとした小さい声で言ってきたのだった。彼にだけ聞こえるよう小さな声で。
「誰にも行っていませんが」
「ということはつまり」
これが何を意味するのかはもう言うまでもなかった。ピンカートンはそれを聞いて納得した顔になって頷くのであった。
「はい。アメリカはクリスチャンですよね」
「勿論そうだよ」
ピンカートンにとってはこれは当然のことである。しかし日本ではキリスト教は解禁されたばかり。教会もこの長崎にやっと出来たばかりだったのだ。
「だからです。貴方の為に」
「そうだったのか。けれどそれは」
「誰も知りません」
また小声でピンカートンに囁くのだった。
「私以外は貴方だけです」
「そうか。やっぱり」
「全ては貴方の為にです」
またそれを告げる。
「宜しいでしょうか」
「うん、嬉しいね」
口ではこう言うが心からはわかってはいない。やはり軽薄な彼であった。
五郎は蝶々さんとピンカートンのそうしたやり取りに気付くことはなく神主を呼んでいた。日本の神道の神主である。ピンカートン達から見れば実に変わった格好である。
「話には聞いていたけれど」
「驚くものではないぞ」
シャープレスが驚くピンカートンに囁く。
「日本では普通なのだからな」
「これもですか」
「そうだ。さて」
そんなことを話している間神主が準備を整えた。そのうえでピンカートンと蝶々さんの間に立って婚姻の誓いを読み上げるのであった。
「戦艦リンカーン砲術士ベンジャミン=フランクリン=ピンカートン中尉」
「はい」
ピンカートンの今の役職まで読み上げられる。
「長崎大村の蝶々さんが新郎の自らの意志に基く権利と新婦並びに親類一同の承諾によって目出度く夫婦の契りを結ぶことをここに認めます」
「それでは」
ここで五郎が出る。
「今まではここで終わりでしたが何分色々変わりまして」
変わった理由は明治維新により様々な書類手続きの必要ができたからである。西洋の形式を取り入れた結果なのだ。
「御署名を。まずは」
「僕だね」
そうしたこともわかっているピンカートンが最初に応えた。
「それじゃあ」
「はい、こちらに」
「うん。じゃあ」
彼が最初にサインをする。差し出された筆は断ってシャープレスの差し出した万年筆を使って英語で自分の名前を書き込むのだった。何処か細く軽い筆跡だ。
「これでいいね」
「有り難うございます。それでは次は」
「私ですね」
「そうです」
今度は蝶々さんの番だった。蝶々さんも静かに署名する。彼女が筆で優しい字で書くのだった。優しいがしっかりとした筆跡であった。
「これで終わりです」
「蝶々夫人ね」
「そうね」
一緒にいた女達は蝶々さんが署名を終えたのを見てくすくすと楽しげに笑いながら言い合う。そこには何の悪気もないが蝶々さんは彼女達に少しむくれて言うのだった。
「蝶々夫人じゃないわ」
「じゃあ何なの?」
「ピンカートン夫人よ」
誇らしげに言う。
「いいわね。蝶々夫人じゃなくて」
「ピンカートン夫人なのね」
「そう呼んでね。いいわね」
「わかったわ。それじゃあ」
女達もそれで納得する。シャープレスは一連のやり取りが終わったのを確かめてからまたピンカートンに対して声をかけるのであった。
「では私はこれでな」
「帰られるのですね」
「あまり領事館を空けておくこともできない」
彼も忙しい身なのだ。
「だからな。これで」
「わかりました。それでは今日は有り難うございました」
「うん。しかし」
くどいと思われようともと考えた。そのうえでまた彼に告げる。
「くれぐれも。自重するようにな」
「やれやれ、またそれですか」
「それでもだ」
苦笑いを浮かべるピンカートンにまた言う。
「何度も言うぞ。いいな」
「わかりましたよ。それじゃあ」
「うん」
シャープレスは一同に別れを告げてその場を後にする。彼が去ってからも宴は続くのであった。
皆朗らかに酒や祝いの歌を楽しむ。しかしそこに一人の僧侶が飛び込んできたのであった。大柄でかなり逞しい身体をした仏教の僧侶であった。
「仏教のお坊さんか」
「伯父様・・・・・・」
ピンカートンは何だといった感じの顔だったが蝶々さんは違っていた。彼の顔を見て思わず震えだしたのだ。
「盆主さん!?」
「どうしてこちらに!?」
「蝶々よ!!」
その僧侶盆主は蝶々さんに対して問い詰めてきた。顔が真っ赤になっている。
「何故教会になぞ行った!」
「えっ・・・・・・」
蝶々さんはそのことを言われて顔を青くさせてしまった。
「どうしてそれを」
「本当だったか。何故だ」
「何なんだ、このお坊さんは」
ピンカートンは話がわからず五郎に小声で尋ねた。
「いきなり出て来たが」
「まあ困った人でして」
五郎も困った顔でピンカートンに答えるのであった。
「何かあるとすぐに騒ぎ出すんで。今日も呼ばなかったんですが」
「それでも来たんだね」
「そういうことです。困ったことに」
「災厄は向こうから来るものだけれど」
ピンカートンは首を捻ってからまた述べる。
「場が乱れるじゃないか」
「さあ、言うのだ!」
盆主は蒼白になり喋れなくなった蝶々さんを問い詰め続けている。その声はまるで雷の様であり辺りを完全に圧していた。
「教会に行った理由を!それは何だ!」
「それは・・・・・・」
「まさかとは思うが」
「キリスト教に入ったのだろうか」
周りの人々もそう囁く。そうして次第に蝶々さんを冷たい目で見だしていた。
「だとしたらそれこそ」
「とんでもない話だが」
また切支丹という言葉が残っている時代だ。それへの偏見もあったのだ。その偏見が蝶々さんを取り囲んでいく。そして彼女はそれから逃げられない状況だった。
「言えないのか!」
「おい、五郎さん」
ピンカートンはたまりかねて五郎に言う。
「何とかできないのか!?」
「それはその」
小柄で見るからに非力な彼に出来る筈もない。彼も青い顔になっていた。
「できないのか。ならば」
彼は意を決して前に出た。そのうえで盆主に対して懐から銃を抜いた。
「その位にしておくんだ。蝶々さんを悲しませるな」
「くっ、銃か」
「そうさ。言っておくが僕は本気だ」
銃口を盆主に向けながらまた言う。
「さっさと僕の前から消えろ。さもなければ」
「くっ、わかった」
拳銃を突きつけられてはたまらない。彼も退くしかなかった。
「だが蝶々よ」
彼は去り際に言い捨てるのだった。
「もう勘当だ。いいな」
「御前が彼女を勘当しても僕がいる」
これは彼のハッタリだ。しかし蝶々さんはそうは受け取らなかった。彼の心だと受け取ったのだ。これもまた不幸であった。
「わかったら帰れ。いいな」
「ふん、言われなくとも」
「なあ。何かあの人が五月蝿いし」
「そうだよな」
式の参列者達も盆主の言葉に態度を変えていた。それで口々に言いながら次第に消えていくのであった。五郎も逃げてしまっており残っているのは蝶々さんとピンカートン、そして鈴木の三人だけになってしまっていた。蝶々さんはそれを見てあらためて哀しい顔になるのだった。
「誰もいなくなってしまったのね」
「構いはしないさ」
ピンカートンが彼女に応えて言う。項垂れる蝶々さんに対して彼は毅然として顔を上げていた。
「僕がいるから」
「貴方が」
「そう、僕がいる」
顔を上げた蝶々さんにまた告げる。
「だから。哀しむことはないよ」
「勘当されても。貴方がいてくれる」
「だから哀しくないよね」
「はい」
涙を流していたがそれでも笑顔になってきていた。少しずつ気を取り直してきていたのだ。
気付けばその二人の周りはもう暗くなってきていた。周りを舞う桜の花びら達も少しずつだがその姿を夕闇の中に消そうとしていた。
「暗くなってきたね」
「ええ」
蝶々さんはピンカートンの言葉に頷く。彼はそっと蝶々さんの身体を自分のところに引き寄せるのだった。
「鈴木」
ここで蝶々さんは鈴木に声をかけた。
「はい」
「着物を用意してくれるかしら」
「あの着物ですね」
「ええ、そうよ」
静かに鈴木に答えた。
「あの着物を」
「わかりました。それでは」
鈴木は蝶々さんの言葉を受けてまずは家の中に入る。そうして暫くして黒い木箱を持って来た。そのうえで蝶々さんの側に控えるのだった。
「ここに」
「これで。夜の用意と整いました」
「これでだね」
「そうです」
ピンカートンにも答える。
「夜も。これからも貴方と共に」
「そうだね。もうすぐ夜になるんだね」
「貴方と一緒にいられる時間がはじまるのです」
蝶々さんはそれが永遠だと思っている。彼女は。
「今から」
「僕が側にいるよ」
ピンカートンも何気なくそれに合わせて言うのだった。軽いというよりは特に何も考えず。
「だから。哀しみを完全に忘れてね」
「はい。貴方の妻になって」
「やっぱり日本に来てよかった」
ピンカートンは無意識のうちに英語を出していた。だからこれは蝶々さんにはわからなかった。
「三ヶ月の間でも。こんな可愛い娘が一緒なんだ」
そう呟いてから蝶々さんに向き直る。そのうえで彼女に言うのだった。
「蝶々さん」
「はい」
彼に言われるのならば。蝶々さんも受け入れるのだった。うっとりとした顔で。
「今こそ君は僕のものになるんだ。今は桜色の衣だけれど」
「それが」
「白くなるだね」
「そうです。夜になれば」
そう答える。既にその用意もできている。
「その白い衣に黒髪をなびかせた君が見たい。いいね」
「喜んで」
うっとりとして答える蝶々さんだった。
「そんな私は何に見えますか?」
「月姫に」
ピンカートンはうっとりとして答える。
「大空を渡る雲から降りて来る月姫様そのものだよ」
「私が。月に」
「そう。君は月だ」
また言ってみせる。
「輝きを受けて人の心を捉える月なんだよ」
「この私が。月なら」
「僕はそれを捉えて白いマントに包んで大空の国へ連れて行く使者だ」
「貴方は。そうなのですね」
「今からそうなるんだ」
ピンカートンもまたうっとりとした声で言うのだった。
「君と一緒になって」
「私と一緒に」
「だから。言って欲しい」
そっと蝶々さんに囁くのだった。
「愛していると。いいね」
「貴方を」
「そう。月は燃える心を鎮める言葉を知っている筈だから」
じっと蝶々さんの目を覗き込んでいる。その黒く神秘的に輝く瞳を。
「だから。さあ」
「けれど私は」
「駄目なのかい?」
蝶々さんが拒む様子を見せたので彼も悲しい顔になる。
「一言でいいんだけれど」
「それを言えば私は死んでしまうわ」
「どうして?」
「あまりにも恥ずかしくて」
ピンカートンから目を逸らしての言葉だった。それと共に頬を紅に染める。
「どうしても。言えないのよ」
「僕は君のその言葉を待っている」
それでもピンカートンは言う。
「だから。さあ」
「貴方がいるだけで」
そう言ってなおも拒む蝶々さんだった。
「だから。御願い」
「けれど僕は」
それでもピンカートンはなおも引き下がらない。
「一言だけでいいから。だから」
「聞きたいの?」
「そうさ、君の言葉を」
こう言って蝶々さんの視線を追う。
「聞きたいんだ。是非共」
「貴方はとても素敵な方」
蝶々さんは今度はピンカートンの容姿について述べた。
「背が高くて笑顔が朗らかで」
「それだけで満足なのかい?」
「そう。それだけでいいの」
慎ましげな様子を見せてきた。
「もうそれだけで。私は」
「何という慎ましい人なんだ」
ピンカートンはそのことに感激さえする。
「では僕はそんな君を捕まえる。それでいいね」
「捕まえるのね」
「そうさ」
蝶々さんに答える。
「そしてずっと離さないよ」
「そういえば」
ピンカートンの捕まえるという言葉であることを思い出した蝶々さんだった。
「海の向こうでは捕まった蝶々は」
「何だい?」
「ピンに刺されて箱に入れられるのね」
怯えた様子と声になる。蝶々という名前から蝶々達を連想したのだ。
「そしてそのままずっと」
「それは何故かわかるかい?」
ピンカートンは甘い笑みを浮かべて彼女に問うた。
「どうしてなの?それは」
「二度と逃がさない為なんだよ」
言葉も甘いものになっていた。
「二度とね。だから僕も」
「あっ」
その言葉と共に蝶々さんを抱き締めた。強く、激しく。
「二度と離さない。だから行こう」
「家の中に」
もう蝶々さんもそれはわかっていた。その場を支配する愛が彼女にそれを教えていたのだ。
「穏やかな夜だ」
もう夜になっていた。空には静かに輝く無数の星達がある。濃紫の空に赤や青、白、緑の星達が瞬き蝶々さんを照らしていた。
「その夜の中で」
「私達ははじまるのね」
「そう、星達に祝福されて」
二人は同じ空を見ていた。だがそれはそれぞれ違う目で見ていた。蝶々さんは完全に同じ目で見ていると思っていたのだが。
「はじまるんだ。さあ、中へ入ろう」
「二人の愛の中に」
うっとりとして抱き合いやがて家の中に消える。灯りもなく静かな夜がはじまる。それが蝶々さんの愛のはじまりであった。
一途っぽい女性だな、蝶々は。
美姫 「本当よね。でも、ピンカートンの方はちょっと遊びみたいな感じなのが気になるわね」
あれだけ忠告をされても、聞き流しているような感じだし。
美姫 「一体、どんなお話になるのかしら」
次回を待っています。
美姫 「待ってますね〜」