『ラ=ボエーム』




            第三幕   さらば、甘い目覚め

 ロドルフォとミミが出会って二月が経った。二人はあのアパートを出て同棲をはじめた。マルチェッロはムゼッタとよりを戻して今は酒場で住み込みで絵を描いている。ショナールもパトロンのところに住み込み、あのアパートにはコルリーネだけが残っていた。そんな二月のことであった。
 パリの城壁にあるアンフェール城門。カルチェ=ラタンに通じるアンフェール街の入り口である。上手にはアンフェール大通り、下手にはサンジャック大通りがある。そこの入り口に酒場が一軒あった。
 夜であった。冬のパリは寒い。夜は長く、雪に覆われる。それはこの門においても同じであった。
「今夜は冷えるな」
「ああ」
 その城門で警衛の兵士達が寒さに耐えながら門を守っていた。
「早く交代して一杯やりたいよ」
「ラム酒でな」
「いいな、そして熱いスープで」
「こんな寒い日はそれに限るな」
「ああ、早く終われよ」
「寒いのにな」
 酒場を見ながら話をしている。見ればその酒場には大きな看板の絵が掲げられている。見ればマルチェッロが以前描いていたモーゼの絵である。だがエジプト人達はおらず、モーゼの顔はあのドイツの音楽家になっており、マルセーユ港において、と太い文字で書かれていた。そしてエジプト人の代わりにトルコ人が描かれていた。どうやら設定を変えたようである。
 その絵は残念なことに兵士達の目には入っていなかった。彼等は酒とスープのことだけを考えていたのであった。
「シチューもいいな」
「兎のな」
 何はともあれ食べ物のことを考えている。
「柔らかくなるまで煮たスープを」
「それも白いのをな」
「早く飲みたいよな」
「ああ」
 その城門の向こうでは掃除人夫達が寒さに足を震わせながら待っていた。
「おい旦那方」
「おや?」
 兵士達は声をかけられやっと気付いた。
「早く開けてくれよ」
「開門にはまだ早いんじゃないか?」
「何言ってるんだよ、もう時間だよ」
「そうなのか?」
「水時計がそこにあるだろ」
「そんなの凍ってるよ」
「寒さでか。とにかく時間なんだよ」
 それでも言い繕う。
「そうなのか?」
「まだ空は暗いぞ」
 兵士達は夜空を見上げて言う。
「夜なんじゃないか?」
「いや、もうすぐ朝だよ」
「何でわかるんだよ」
「ほら」
 人夫達は後ろを指差した。見ればそこには牛乳売りの女や馬車引き達がいた。
「ああ」
「牛乳売りのおばさんも来たのか」
 朝の証拠であった。牛乳売りが来るのがパリの朝の合図であったのだ。
「どうだい、間違いないだろう?」
「そうだな」
 兵士達はそれに頷く。
「間違いない」
「水時計よりそっちの方が役に立つな」
「そうだろう。じゃあ開けてくれよ」
「ああ。ちょっと待ってくれ」
 兵士の一人が立ち上がる。そして鍵を手に柵に向かった。
「店じゃまだ飲んでるってのにな」
 酒場には灯りがある。そしてそこからは女達の明るい声が聴こえてきていた。
「ムゼッタがいるんだろう?」
 鍵を手に持っている兵士は座って留まっている同僚にこう応える。
「あいつはいつもああじゃないか」
「それもそうか」
「まああいつのことはいいさ。門を開けるぜ」
「ああ」
 門が開けられる。そして人夫達や牛乳売りの女、そして色々な商人達も入って来た。
「お疲れ様」
「これはいつものお礼ですよ」
「おお、有り難い」
 商人達が挨拶代わりにバターやチーズ、そして鶏肉に卵といったものを兵士達に手渡す。これは所謂役得というものであった。
「それじゃあ今日も頑張ってな」
「はい」
「朝までお勤め御苦労様」
 商人や馬引き達は兵士達に挨拶をしてそれぞれの市場へ向かって行く。彼等が行った後で一人の小さい少女が兵士達のところにやって来た。ミミであった。
「あの」
 青い顔をしている。そして小さな声で兵士達に尋ねた。
「人を探しているのですが」
「どうしたい、娘さん」
 兵士達も彼女に声をかけた。
「人を探してるって」
「マルチェッロっていう画家の方なんですけれど」
「マルチェッロ」
「確かムゼッタの今の恋人のか」
「はい、そうです」
 ミミはそれに応えた。
「この辺りの酒場にいるって聞いたのですが」
「それならあの酒場じゃないのか」
 兵士達はこう言って門の側の店を指差した。
「あの絵を描いた画家がそうなんじゃないかな、確か」
「あそこですか」
「ああ、俺達は絵には詳しくはないがね」
「確かそうだったと思うよ」
「有り難うございます、それじゃあ」
 店に向かおうとする。だがここで店の扉が開いた。そしてそこから何人もの男女が出て来た。
「ふう」
 その中にはマルチェッロもいた。ショナールとコルリーネも一緒であった。
「久し振りに飲み合ったな」
「ああ」
 彼等は朗らかに話をしていた。
「ここ暫く顔も見合わせてなかったしな」
「わざわざ来てくれて済まないな」
「いいってことさ。これも付き合いだ」
「未来の大画伯への投資さ」
 ショナールとコルリーネは笑いながら言った。
「で、ここには何時までいるんだい?」
「まあもう少しかな」
 マルチェッロは考えながら述べた。
「もうすぐ描き終わるから」
「そうか」
「じゃあまたアパートに戻って来るんだな」
「ああ、もうすぐな」
 コルリーネに答える。
「そっちに戻るから」
「じゃあ用意はしておくよ」
「悪いな」
「いいってことさ。で、ムゼッタとはどうだい?」
「相変わらずさ」
 ここでは苦笑いになった。
「僕も干渉しないし、あいつも干渉しない」
「そうなのか」
「そうだ、だから上手くやってるんだ」
 もうムゼッタの性格はわかっている。割り切っていたのである。
「そうなのか」
「あいつはどうかな」
 ショナールはそう言いながら店の中を見た。
「あいつはこういうことには潔癖症だからな」
「パリの女にそういうことを求めるのもな」
「滑稽な話だが」
 コルリーネもマルチェッロの言葉に頷いた。
「けれど今日はまたおかしかったな」
「ああ」
「何かあったんだろうな」
「ゴホッ、ゴホッ」
 ここで咳の音が聞こえてきた。
「咳!?」
「これは一体」
 三人は咳がした方を見た。見ればそこにはミミがいた。
「ミミ」
「そうしてここに」
「皆。ここにいたの」
「ああ」
「気が向いてね。皆で飲んでいたのさ」
 こう笑って告げるとミミは。
「じゃあロドルフォもここなのね」
「そうだけれど」
「呼びに来たのかい?」
「いいえ」
 だがミミはその言葉に残念そうに首を横に振った。
「それは。違うわ」
「一体どうしたい、それじゃあ」
「見たところあまり気分がよくないようだけれど」
「ロドルフォが」
 ミミはそれに応えて悲しい声で言った。
「ロドルフォが」
「あいつがどうしたんだい?」
「最近おかしいのよ」
「おかしいって何かあったのかい?」
「よかったら話してくれ」
 三人はミミにそう声をかけた。
「冷たいのよ、最近」
「冷たい」
「ええ。仕草も言葉も素っ気無くて。私を避けているのよ」
「そんな筈がないよ」
 だがマルチェッロはそれを否定した。
「あいつはそんな奴じゃない」
「そうだよ。それはきっと君の勘違いさ」 
 ショナールも言った。
「僕達の中じゃ一番気のいい奴なんだから」
「けれど」
 だがミミの言葉には真摯さがあった。
「本当に。冷たいのよ。昨夜だって何も言わずに部屋を出て」
「ここで飲んでいたってわけか」
「そうなの。ここで」
「何ともなかったようにも見えたがな」
「いや、そう言われてみれば少しおかしかったな」
 ショナールはコルリーネにこう言った。
「何かを必死に忘れようとしているみたいだった」
「じゃあそれは一体何なんだ」
「そこまではわからないが」
 ショナールはこう言って首を横に振った。
「何なんだろうな」
「よかったら話してくれないか、ミミ」
 マルチェッロはあえて優しい声でミミに尋ねた。
「僕でよかったら。聞くから」
「ええ・・・・・・うっ」
 そしてまた咳き込んだ。激しく、辛そうな咳だった。
「大丈夫かい?」
 マルチェッロはその咳き込む様子を見て声をかけた。
「それに顔も青いけれど」
「最近少し身体が」
 その青い顔で答えた。
「おかしいの。前からあまりよくはなかったけれど」
「まさか」
 ショナールはそれを聞いて不吉な顔になった。
「ミミは」
「どうしたんだ、ショナール」
 コルリーネはその暗くなった顔の友人に問うた。
「急にそんな顔になって」
「若しかしたらな、コルリーネ」
 彼は友人に対して言った。
「ミミは」
「おや」
 ここでマルチェッロは店の方に顔を向けていた。そして声をあげた。
「あいつが。起きたぞ」
「もうか」
「殆ど寝ていないっていうのに」
 三人は店の中を見ながら言った。見れば窓の方で誰かが起き上がっていた。
「ロドルフォが」
「ここは部屋に帰った方がいいよ」
 マルチェッロはミミを宥めるようにして言った。
「今の君は。ベッドの中で静かにしていた方がいい」
「けれど」
「いや、本当に」
 それでも彼はミミを帰らそうとした。
「寒いしね」
 ミミは応えなかった。だが三人はそんな彼女をあえて帰らせようとする。そしてカルチェ=ラタンの方に案内した。
 だが彼女は戻って来た。こっそりと紀の陰に隠れて店の方を伺うのであった。
 ロドルフォは店の外に出て来て三人に声をかけた。
「皆そこにいたのか」
「ああ」
 三人は彼に声をかけた。
「まだ暗いし。雪まで降っている」
「冬だからね」
「冬のパリの朝ってやつさ」
「そうか。芸術的ではあるね」
「そうだね」
「ところでロドルフォ」
 マルチェッロが彼の側まで来た。
「聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
「うん。どうして今夜ここに来たのかね」
 彼を友人に目を向けて言った。細やかに問う目であった。
「何があったんだい?」
「別に何もないさ」
 だが彼はこう返して誤魔化した。
「何もね」
「本当にそうなのかい?」
 マルチェッロはあえてこう尋ねた。
「本当に何もないのかい?」
「勿論だよ」
 ロドルフォはこう返した。
「何を言ってるんだよ」
「ミミと上手くいっていないのかい?」
「それは」
 図星なのはわかっていた。ロドルフォの表情が強張った。
「それは」
「やはりそうか」
「何かあったんだな」
 コルリーネも声をかけてきた。
「よかったら話してくれないか」
「ミミとは。もう駄目なんだ」
 彼は友人達に俯いてこう言った。
「あんな浮気だとは思わなかったから」
「浮気!?」
「そうさ。誰にだって色目を使うし。顔を向けるし。僕はそんなのは受け入れられないんだ」
「それは本当なのかい?」
 マルチェッロはあえて穏やかな声で尋ねた。
「何がだい?」
「そのミミのことさ。彼女がそんなことをするとは思えないけれど」
「けれどこれは本当のことなんだ」
「いや、僕はそう思わないね」
「僕もだ」
「僕もだよ」
 コルリーネもショナールもあえてマルチェッロに賛同してみせた。
「今の君はどう見ても嘘をついている」
「そんなことは」
「いや、間違いない。よかったら本当のことを話してくれ」
「本当のことを」
 ミミはそのやり取りを覗いていた。そして一人呟いた。
「わかったよ」
 ロドルフォは観念したように言葉を返した。
「本当のことを言うよ」
「そうか」
「何があったんだい」
「もう駄目なのは・・・・・・僕達じゃなくてミミなんだ」
「ミミが!?」
「私が!?」
 ミミの言葉は彼等には届いてはいなかった。
「ミミはもう助からない。わかるだろ?」
「やっぱりな」
「気付いていたか、ショナール」
「結核なんだろう?ミミは」
「ああ」
 ロドルフォは唇を噛み締めた。当時では絶対に助からない病だ。この時代結核により命を落とした者は非常に多い。ミミもまたそれに罹っていたのだ。
「あのままじゃもう」
「そんな」
 木の陰からそれを聞いていたミミは思わず声をあげた。
「私が、そんな・・・・・・」
「僕じゃどうしようもないんだ」
 ロドルフォは首を横に振ってこう言った。
「ミミは。救えない」
「しかしロドルフォ」
 そんな彼をマルチェッロが慰めようとする。
「まだ助からないって決まったわけじゃ」
「それは本心から言えるかい?」
「それは・・・・・・」
 ロドルフォの言葉に沈黙してしまった。結核のことは誰でも知っている。そしてどうなるのかも。マルチェッロもショナールもコルリーネもそれを知っていた。だから反論は出来なかった。
「言えないだろう」
「・・・・・・・・・」
 三人は俯いて黙ってしまった。
「もう駄目なんだよ」
 彼はまた言った。
「僕は貧しい。貧しい詩人がこんな時何が出来るんだ!?何も出来ないよな」
「けれど彼女には御前が」
「いても何にもならないさ。医者でもない」
 詩人の無力さを噛み締めざるを得なかった。貧しい生活がそれをさらに悪くさせることもわかっていた。
「ミミは温室の花なんだ。僕の部屋みたいな薄暗い部屋では枯れてしまう。僕と一緒にいるだけで彼女はその命をすり減らしてしまうんだ」
「何てこと」
 ミミは呆然となってしまっていた。
「このままじゃどうしようもないんだ」
「けれど」
「ミミの為なんだよ」
「ロドルフォ・・・・・・」
 三人はもう何も言えなかった。ミミもであった。だが彼女はこの時病に侵されている。そして今それが襲った。
「ゴホッ、ゴホッ」
「咳!?」
「まさか」
 四人はその咳がした方を同時に見た。そこにはミミがいた。
「ミミ」
「まだ残っていたんだ」
「何で君がここに・・・・・・。いやそれより」
 ロドルフォは慌てて彼女の側に寄る。
「こんな雪が降る朝に。まだ暗いのに」
 それが結核に悪いのは言うまでもない。
「何でこんなところに」
「御免なさい」
 ミミは俯いてそれに応えるだけであった。
「けれど私は」
「顔が青い。無理をしちゃ駄目だ」
 ロドルフォは彼女に自分のコートを着せた。
「君はもう・・・・・・いや」
「もう聞いたわ」
 ミミは悲しげな声で言った。
「前から。変だと思っていたの」
「そうだったんだ」
「貴方の様子が。そういうことだったのね」
「済まない」
 ロドルフォは申し訳なさそうに俯いて答えた。
「こんなこと、とても・・・・・・」
「いえ、いいわ」
 ミミにもロドルフォのその優しさがわかった。だからこそ余計に辛かったのである。
「私達、別れましょう」
「いいんだね」
「ええ」
 ミミはこくりと頷いた。
「私が側にいると貴方を辛くさせてしまうから」
「それは違うよ、ミミ」
 ロドルフォはその言葉に首を横に振った。
「僕なんかと一緒にいるから君は」
「いえ、違うわ」
「違わない。君は僕なんかを愛さなくていいんだ」
「そんな・・・・・・」
「君のことだけを考えてくれ。君は・・・・・・幸せになるべきなんだ」
 こうミミに言うのだった。
「ロドルフォ・・・・・・」
「僕のことは忘れて。暖かい部屋で」
「私はいつも暖かい部屋にいるのに?」
「えっ!?」
「貴方と一緒にいられることが。何よりも暖かいのに。それじゃ駄目なの?」
「心は確かにそうさ。けれど君の身体は」
「そんなこと・・・・・・うっ」
 また咳込んでしまった。先程のものより辛そうだった。
「その咳は。嘘じゃないよね」
「・・・・・・・・・」
「君には幸せになって欲しい。だから」
「ロドルフォ・・・・・・」
 ミミはロドルフォを見た。辛そうに顔を背けている。
「だったら」
 ミミはわかった。そしてそのうえで言った。
「私の引き出しの中の金のブレスレットと聖書。受け取って」
「うん」
「あと貴方がクリスマスに私に買ってくれたあの薔薇色のボンネットも返すわ」
「いいんだね?」
「それを私だと思ってくれたらいいから」
「わかったよ」 
 ロドルフォはそれを聞いて頷いた。その後ろではショナールとコルリーネが無言で立っている。マルチェッロもそれは同じであったが店の中の喧騒に気付いた。
 女の声が聞こえてくる。その声の主がわかって彼は顔を顰めさせた。
「あいつか。こんな時に」
 ムゼッタであった。それがわかったから彼は顔を顰めさせたのだ。
「こんな時まで。馬鹿騒ぎしやがって」
「さようなら、楽しい朝の目覚め」
「さようなら、夢の様な生活」
 ミミとロドルフォはそれぞれ言った。
「何もかも」
「さようなら」
 ここで店の中から窓を破ってコップや皿が飛んで来た。そしてマルチェッロの側にまで落ちて来る。
「いい加減にしろ、あいつ」
 ムゼッタが何やらトラブルを起こしているのがわかる。マルチェッロは腹に据えかねて店の中に入った。そしてムゼッタを外に引っ張り出してきた。
「何するのよ」
「一体何をしていたんだ」
「何でもないわよ」
 ムゼッタは憮然として返す。
「嘘をつけ」
「嘘じゃないわよ」
「そんなこと信じられるものか」
 マルチェッロはムッとして言い返す。
「御前の言うことなんてな」
「信じないっていうの?」
「そうさ」
「おい、ちょっと待て」
「ここは」
 ショナールとコルリーネが二人の間に入ろうとする。
「ちょっと下がっていてくれ」
「すぐに済むから」
「すぐに済むって」
「そんなことを言ってる場合じゃ」
「とにかく」
「だからいいんだって」
 マルチェッロもムゼッタも止めようとする二人を逆に引き離そうとする。
「放っておいてくれよ」
「邪魔よ」
「邪魔でも何でも」
「ここは大人しくしてくれないか」
「春になったらお別れにしましょう」
「春になったら」
「ええ」
 ミミはこくりと頷いた。
「冬に一人でいてそのまま死んでしまうのは。あまりにも寂しいから」
「わかったよ」
 ロドルフォはその言葉を受け入れた。
「春になったらお日様がいてくれるから」
「うん」
「今は何処にもいないお日様が」
 冬のパリの朝は遅い。まだ日は出ていない。
「側にいてくれるから」
「わかったよ、じゃあそれまで一緒にいよう」
「ええ」
「このうぬぼれ」
 マルチェッロ達はその後ろで本格的に罵り合いはじめた。
「大体いつも御前は」
「何なのよ」
「馬鹿騒ぎばかりして他の男にも馴れ馴れしいし」
「それが私の流儀よ」
「何が流儀だ、この浮気女」
「浮気はされる方が悪いのよ」
「じゃあ僕が悪いっていうのか」
「そうよ」
 売り言葉に買い言葉だ。ムゼッタはキッとした顔で言い返す。
「悔しかったらあんたも浮気してみたら?」
「こいつ!」
「よせって」
「こんなところで騒いでも」
「ええい、止めてくれるな」
 ショナールとコルリーネの制止を振り切ろうとする。
「ここで退いたら」
「男が下がるとでも言うつもりかしら?」
「ムゼッタも止めろよ」
「全く。いつもいつもこんな喧嘩ばかりして」
「それも今日で終わりだ」
「どういうこと!?」
「別れてやる、もう」
「言ったわね」
 ムゼッタも完全に頭に血が上っていた。
「今の言葉、わかってるわね」
「勿論だ」
 そしてマルチェッロも。こうなってはもうどうしようもなかった。
「別れてやるよ」
「ええ、こっちこそ願い下げよ」
「って二人共何言ってるんだ」
「落ち着けよ」
「僕は冷静だ」
 これがそうではないのは誰でもわかることだった。わかっていないのはマルチェッロとムゼッタだけだった。完全に周りも後先も見えなくなっていた。
「冷静にこう言ってるんだ」
「私もよ」
「何を馬鹿な」
「いい加減にするんだ」
「だから別れるって言ってるんだ。もう顔も見たくないよ」
「それは私の台詞よ」
「あっ、言ったな」
 言い返すと向こうも。
「ええ言ったわよ。何ならまた言いましょうか?」
「その必要はないね。もう顔に書いてあるから」
「あんたの顔にもね」
「このあばずれ」
「この甲斐性なし」
 完全に壊れてしまっていた。
「これはもうどうしようもない」
「お手上げだな」
「あっちはもう」
 ショナールはロドルフォとミミを見た。
「入る必要はないけれど」
「僕達が言えることじゃない」
「そうだな」
「それじゃあ春に」
「うん」
 ロドルフォはミミの言葉に頷いた。
「別れましょう」
「花の季節に」
「冬の間はずっと一緒にいて」
「最初の花が咲いたら別れよう」
「それまでは二人でいましょう」
「いいんだね、それで」
「もう決めたから」
 ミミは答えた。
「それを思い出にして生きていくわ」
「わかったよ。それじゃあ」
「けれど」
 そしてミミは一瞬悲しい顔になった。それまで無理に作っていた笑みが消えていた。
「私思うの。冬がずっと続けばいいって」
「僕と一緒にいられるからかい?」
「ええ」
 彼女は答えた。
「ずっと。だったらいいのに」
「ミミ・・・・・・」
「けれどもう決めてしまったから。花が咲くのと一緒に」
「僕達も」
「貴方のことは忘れないわ」
「僕だってそうさ」
 ミミをじっと見ていた。
「何があっても」
「ずっと覚えておいてくれるのね」
「だって僕は君が何よりも好きだから」
 彼は言う。
「忘れたくはないから」
「私もよ」
 それはミミも同じである。
「貴方といられた時間、忘れないわ」
「有り難う」
「この浮気者!」
「看板描き!」
「マムシ!」
「ヒキガエル!」
「魔女!」
「悪魔!」
 マルチェッロとムゼッタはその後ろでまだ罵り合っていた。もうショナールとコルリーネにもどうしようもなかった。ロドルフォとムゼッタは雪の振る暗い朝の中じっと抱き合っていた。冬を名残惜しむかの様に。









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