『ラ=ボエーム』




            第二幕  私が街を歩くと

 カルチェ=ラタンとはフランス語でラテン語地区という意味である。シテ島を中心としてセーヌ河で分かれると左岸にあるこの地域は昔から学生の町、そして文化の町であった。各国から学生達がやって来て石畳の上に藁を敷いてその上に座って大学の講義を聞いていた。その講義がラテン語で話されていた為にこの呼び名となったのである。ロドルフォはソルボンヌにいた頃からこの街に親しんでいた。そして今では完全にここの住人となっていたのである。
 彼とマルチェッロ、ショナール、コルリーネは『カルチェ=ラタンの四銃士と呼ばれていた。いつも四人でおり、そして勘定を払うことなく遊んでいた為にこう呼ばれていた。彼等は要領よく遊ぶ方法を知っていたのだ。金がなくとも遊ぶ、パリジャンの生き方に忠実であったのだ。
 クリスマスのカルチェ=ラタン。今ここでは多くの人達で賑わっていた。見れば様々な人達がいる。彼等は出店を前にして騒ぎ遊び飲んでいた。食べ物が飛ぶ様に売れていた。
「ナツメヤシにオレンジをどうぞ」
 果物屋の親父が言う。
「焼き栗はいかが」
 その隣では栗が売られている。
「パイにクリーム菓子もあるよ」
「こっちはカルメラ焼きを売ってるよ」
「十字架をどうぞ」
「お花はいかが」
 商人達も活気よく商売を行っていた。そしてその中にロドルフォ達もいた。
 マルチェッロは焼き栗を買っていた。次にカルメラを。ショナールは音楽用品を物色し、コルリーネは古本屋の前にいる。ロドルフォとミミはあちこちの店をぶらぶらとしていた。それぞれ夜店を楽しんでいた。
「焼き鳥はいかが」
 見ればすずめやうずらを焼いている。旨そうな匂いがする。
「人参のお菓子をどうぞ」
「薔薇があるよ」
「ラッパ安いよ」
「コーヒー美味しいよ」
「こっちはワイン」
「ビール大安売りだ!もってけドロボー!」
 客達はそんな声に誘われ店の間を歩いている。寒い筈のクリスマスの夜は異様な活気に満ち暑い程であった。
 親に連れられた子供達もいる。警衛の兵士達も。市民に学生、金持ちにミミと同じ様なお針子娘、そして娼婦に僧侶。よく見れば僧侶達もちゃっかり紛れ込んでいた。
 ショナールはその中で楽器をまじまじと見ていた。狩猟ラッパを吹きながら確かめていた。
「このラッパはおかしいぞ」
 中年の太った店主に対して言う。
「左様で?」
「左様で、じゃないよ。ラの音がおかしい」
「そうでしょうか」
「じゃあ吹いてみるよ」
「はい」
 実際に吹いてみる。すると妙にくぐもっていた。
「他の音はこうなってる」
 また吹く。するとその男は清らかなものであった。
「ほらね。おかしいだろ」
「確かに」
「他に悪いところはないけれど。これはどうにかならないかな」
「それじゃあお安くしときますよ」
「どの位だい?」
 そこを問うと返答はこうだった。
「半分でどうでしょうか」
「半分か」
「ついでにそこにあるパイプもつけて」
「気前がいいね」
「そのパイプもいい加減かなり古いですからね。よかったらどうぞ」
「そっちのパイプはそれ程悪くはなさそうだけれど」
「まあよかったらどうぞ。そっちのパイプと合わせて元の額で」
「よし」
 交渉成立であった。ショナールはコインを一枚渡した。
 コルリーネは色々と本を買っていた。その中の一冊にやけに注目していた。
「よくこんなものがあったね」
「掘り出しものですよ」
 いささか胡散臭そうな親父がこれまた怪しい笑みを浮かべて言う。
「他には滅多にないかと」
「というよりはじめて見たよ」
 その声はややうわずっていた。
「こんな本。よくあったね」
「ですから掘り出しものなのですよ」
 入手ルートすらはっきりしないようだ。
「おわかりでしょうか」
「そんなものかな」
 あまりいいとは言えない口車であったがコルリーネは世事に疎いのかそれに乗っているようであった。
「はい、ここでしか手に入らないでしょうね」
「ふん」
「今ならお安くしときますよ」
「わかった、それじゃあ買おう」
「毎度あり」
 そしてまんまと買わされてしまった。だが買ったコルリーネは上機嫌であった。
 ロドルフォはこの時ミミと一緒だった。そして帽子屋の前で二人でいた。
「どれでも好きなの買っていいよ」
 彼は優しい声でミミにそう語っていた。
「どれでもいいの?」
「うん、君だったら何でも似合うけれど」
「嫌だわ、そんな」
 その言葉には恥ずかしそうにする。
「お世辞だなんて」
「お世辞なんかじゃないよ」
 ロドルフォはのろけて言った。
「本当のことさ」
「もう」
 二人は完全に恋人同士になっていた。そして帽子屋の前で仲睦まじく話に興じていた。
 残るマルチェッロは店と店の間をウロウロとしていた。そして品物と通り行く女の子達を物色していた。
「トゥループラムは如何」
「僕のトゥループラムは何処かな」
 そう言いながら女の子達を見ている。
「別嬪さん達にお花を」
「若しくは花を」
 そう言いながら見回していた。そこにコルリーネがやって来る。
「おうマルチェッロ」
「何だ、君か」
 コルリーネの方を振り向いて残念そうな顔をする。
「何だはないだろ」
「男に声をかけられてもな」
「男にもてるだけましと思うんだね」
「生憎僕にはそんな趣味はなくてね。それにしても機嫌がいいね」
「ああ、掘り出し物の本を見つけてね」
「掘り出し物!?」
「そうさ」
 彼はにこやかに返した。
「物凄い掘り出し物をさ。凄いぞ」
「一体どんな掘り出し物なんだい?」
「ルーン文字の文法書さ」
 彼は胸を張って言った。
「ルーン文字・・・・・・あああれか」
 かって北欧で使われていた文字である。石等に刻むことが多く、硬い感じの文字である。魔力が備わっていると言われているが実際に北欧の魔術師達がよく使っていた。
「あれの文法書なんだ」
「どうだい、凄いだろう」
「それはどうかね」
 だがマルチェッロは思わせぶりに笑うだけであった。
「本当に凄いかどうかなんてわかりゃしないさ」
「僕にはわかるんだよ」
「大哲学者にはかい?」
「そうさ、他に何があるんだ」
「やれやれ。まあそろそろモニュスに行こう」
「ああ、もうそんな時間か」
「そうだね。それじゃ」
 カフェに入った。そこはもう人でごったがえしていた。見れば彼等の予約した席には既にショナールが座っていた。
「よお」
「おう、席を取ってくれていたのか」
「買い物が済んだんでね」
「で、ロドルフォは?」
「新しい彼女と一緒なんじゃないかな」
 ショナールはあまり思うところなくこう返した。
「あのミミって娘と帽子屋にいたよ」
「大詩人殿は春ってことか」
「雪も降る季節に」
「暖かいことで」
 三人は笑いながら言った。彼等は野外の席に陣取っていた。目の前を様々な人達が通り過ぎて行く。そこにロドルフォがミミを連れてやって来た。
「ここなのね」
「ああ」
 ロドルフォはにこやかな顔で答える。
「さっき紹介した仲間達がいるよ」
「もう来ているかしら」
「来てるんじゃないかな。あの店に随分いたし」
「ねえロドルフォ」
 ミミは彼に顔を向けて言った。
「何だい?」
「このボンネット似合うかしら」
 見れば彼女は薔薇色のボンネットを被っていた。鮮やかな薔薇の色が彼女を映えさせていた。
「うん、よく似合うよ」
 ロドルフォはニコリと笑って答えた。
「君の髪は黒だから。赤と黒はよく合うんだ」
「そうなの」
「そうさ。だからそれにしたんだ」
「私の為なのね」
「そうさ、僕は君の為なら何でもするよ」
 声が強くなった。
「命をかけてもね」
「有り難う」
 そんな話をしながらマルチェッロ達を探す。そして彼等を見つけた。
「おうい」
「よお」
 三人の方でも気付いた。お互いに手を振る。
「そこか」
「ああ、それじゃあ楽しくやろうぜ」
「席は二つ取っておいてくれたかな」
「安心してくれ、三つでも四つでもあるぞ」
「そんなにいらないよ。僕はミミだけでいいんだから」
「他に女の子がいたら呼ぶよ」
 ショナールは笑いながら言った。
「僕の趣味でね」
「またかい」
 ロドルフォはそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「君も。相変わらずだね」
「君にあてられたのさ」
 ミミを側に寄せているロドルフォを見て少しシニカルな声で言った。
「これでも焼き餅焼きでね」
「おやおや」
 ロドルフォはテーブルにやって来た。そしてミミと隣同士で座った。
「友達に彼女が出来ると自分も欲しくなるものさ」
「それを音楽にすると」
「そういうこと。どうやらいい曲が作れそうだ」
「楽しみにしてるよ」
「また名曲になるぞ」
 笑って言う。
「迷曲じゃなければいいね」
「天才に駄作なし」
「さてさて」
「それじゃあ注文するか」
 マルチェッロはここで他の者に対して言った。
「皆何を頼む」
「とりあえず美味そうなものはありったけ頼もうぜ」
「今は機嫌がいいしね」
 コルリーネはまだ上機嫌を続けていた。
「お金もあるし」
「じゃあこれを見てくれ」
 マルチェッロはそのコルリーネにメニューを渡した。
「ルーン文字よりもまずこっちだ」
「有り難う。そうだな」
 メニューを少し見てから言った。
「サラミを」
「僕は鹿のステーキを」
 それを横から覗いていたショナールが言った。
「サラミに鹿のステーキ」
 マルチェッロはメニューにそう書いていく。
「ラインのワインを」
「テーブルワイン」
 ショナールとコルリーネはそれぞれ飲み物を頼んだ。
「じゃあ僕はマルサラ、そして七面鳥の丸焼きを」
「七面鳥はいいとしてマルサラかい?」
「そうだよ。それが何か?」
「今はクリスマスだよ」
 ショナールは言った。
「うん」
「白ワインはないだろ」
 マルサラは西シチリア原産の甘い白ワインである。
「そうかな」
「クリスマスといえば赤じゃないか。キリストの生誕の日なんだし」
 つまりキリストの血、というわけである。だから赤なのだ。ショナールはそう言っていた。
「じゃあランブルスコを」
「よし」
 北イタリアモデナの発泡性の赤ワインである。かなり甘い。注文する側で母親達が自分の子供達の相手をしている。
「もう遅いわよ」
「クリスマスだからいいじゃないか」
「そういう問題じゃないの」
 若く美しい母親達もいる。だが皆小さな子供達を叱っていた。
「とにかく遅いから帰るのよ」
「嫌だよ、もうちょっと」
「いたいよ」
「困ったわね」
 泣く子には勝てない。それは母親が最もよくわかっていた。
「じゃあどうすればいいの?」
「何か買って」
「おもちゃかお菓子頂戴」
「仕方ないわね」
「それを買えば帰るのね」
「うん」
 子供達は元気よく頷く。
「それで帰るよ」
「わかったわ。それじゃあ」
「どっちかをね」
「有り難う、お母さん」
「やっぱりお母さんは優しいや」
「こんな時だけ褒めないの」
「ちゃっかりしてるんだから」
 何だかんだ言っても子供には弱いようであった。渋々とした顔ながらおもちゃかお菓子を買い与えている。そして夜の店を彼女達も楽しんでいた。
「海老を頼もうか?」
「じゃあ僕は貝を」
 コルリーネとショナールはまた注文していた。セーヌ川を使って運ばれて来る海産物である。セーヌ川はパリにとって非常に重要な生命線であった。ここを使ってものを入れていたのだ。フランス革命の直接の原因となったのは食糧危機であったがこれは寒波によりセーヌ川が凍ったことにより起こっている。
「じゃあ僕はジャガイモを。ところでお嬢さん」
 マルチェッロはミミに顔を向けてきた。
「はい」
「その頭のボンネットはロドルフォからの贈り物でしょうか」
「ええ」
 ミミは頭に被っている薔薇色のボンネットを触って応えた。
「そうですけれど」
「そうですか、よく似合ってますね」
 目を細めてこう言う。
「私によく似合うからって。それに私実は薔薇色が好きでして」
「それは何よりです」
「ロドルフォは。それもわかってくれていたみたいですね」
「そうでしょうね、彼は詩人ですから」
 ロドルフォに顔を向けて言う。
「そうした読みは見事なのですよ」
「はい」
「詩人は愛を理解するから詩人になれるんだよ」
 ロドルフォはそれに応えて言う。
「そして大詩人に」
「未来の大詩人の御言葉で」
「尊い愛を知っている」
「あらゆるものを美しく語ることが出来る」
 ショナール、コルリーネ、マルチェッロはそれぞれ言った。
「見事なものだ」
「愛は甘いものなのね」
「彼にとってはね」
 三人はミミに応えた。
「蜂蜜よりも甘い」
「いや、そうともばかりは限らないよ」
 だがロドルフォは甘いだけではないと主張した。
「というと?」
「その口によって甘く感じたり苦く感じたりするものさ」
「そうなの」
「僕のようにね」
 マルチェッロがここで苦い顔を作った。
「何かあったの?」
「ちょっとね」
 ロドルフォがミミに応える。
「愛の喪中なんだ」
「喪中」
「おいおい、下らない話は止めてくれよ」
 マルチェッロはここでロドルフォに対して言った。
「今宵はクリスマスなんだ。思い切り騒ごう」
「騒ぐか」
「そうさ、ワインをどんどん持って来てくれ」
 またボーイに声をかけた。
「ランブルスコをだ。こうなったらとことんまで飲むぞ」
 そして本当に派手に飲み食いをはじめた。まるで何かを忘れようとしているかの様であった。食べていると道の方が騒がしくなった。
「何だ?」
「国王陛下でも来られたのか?」
 ロドルフォ達は冗談を交えて声をあげる。
「それとも大女優が」
「だとすれば誰だろうな」
 だがそこにやって来たのは国王でも女優でもなかった。来たのは派手な紅の絹の服に帽子を身に着けた美しい女であった。
 赤い髪にはっきりとわかる目鼻立ち、身体はダンサーの様に均整がとれている。黒い髪と瞳は周りを挑発し、惑わすかの様であり媚びる様な、それでいて誘う様な視線を辺りに放っている。
「あいつか」
 マルチェッロはその女を見て顔を苦くさせた。
「まさかとは思ったがやっぱり来たか」
「どうしたの、一体」
「ムゼッタが来たのさ」
「ムゼッタ!?」
「知らないのかい?今最も有名なパリジェンヌだけれど」
「あまり」
 ミミはロドルフォの言葉に首を傾げさせた。
「カルチェ=ラタンには殆ど来なかったから」
「だったら知らないか。彼女は酒場の女でね」
「ええ」
「派手なことでここじゃ有名人なんだ」
「そして」
「おい、言うのはよしてくれよ」
 マルチェッロは憮然として言った。
「何なら僕から言うから」
「そうか」
「彼女はね、僕の前の恋人だったのさ」
 酒臭い言葉でそう言った。
「そうだったの」
「そうさ、けれどあいつは僕を裏切った」
 ワインをラッパ飲みしながら言う。
「おいその飲み方はよくないぞ」
「健康に悪い」
「いいんだよ、そんなの」
 ショナールとコルリーネにもこう返す。
「クソッ、どういうつもりでここに来たんだ」
「ムゼッタだってクリスマスを楽しみたいんだろう?」
 二人はムゼッタの周りをの騒ぎを眺めながら言った。
「クリスマスだし。当然じゃないか」
「あいつにとっては当然でも僕にとってはそうじゃないんだ」
 酒を飲み終えた後で言った。
「おっとと」
 そのムゼッタの後ろに太った初老の男がいた。シルクハットにタキシードで着飾っているがそれがかえって滑稽に見える姿であった。
「やれやれ、こんなに買って」
「クリスマスは買い物をするものよ」
 ムゼッタはその男に顔を向けて言った。
「違うのかしら」
「確かにそうだけれど」
「あれ、あの老人は」
 ショナールは彼に気付いた。
「枢密顧問官のアルチンドーロ氏じゃないか」
「おっ、そういえば」
 ロドルフォもそれに気付いた。
「何だ、彼が今のパトロンか」
「顧問官殿も派手なものだ」
「よおムゼッタ」
 店の客達が彼女に気さくに声をかける。
「元気そうだね」
「貴方達もね」
 ムゼッタは気さくに返事を返す。
「最近見なかったがどうしたんだい?」
「私がいなくなるのはいつものことでしょ?」
「ははは、確かに」
 カルチェ=ラタンの男達はそれを聞いて顔を崩した。
「本当にいつものことさ」
 マルチェッロはそれを聞いて忌々しげに呟く。
「全く」
「しかし顧問官はまた貧乏くじを引いたな」
 ショナールは後ろでひいひい言っているアルチンドーロを眺めながら言った。
「パトロンになるのはいいとして」
 当時の金や地位のある男の義務とも言えることであるからこれはいいのである。
「ムゼッタをねえ」
「あまり評判がよくない人なの?」
「悪い奴じゃないんだが何しろ派手好きでね」
 ロドルフォがミミにそう囁く。
「何かと騒動を起こしてるんだ」
「あの女のことなら僕に聞いてくれないかい?」
 マルチェッロはワインをあおりながらミミに言った。
「僕が一番知ってるから」
「はあ」
「あいつの名前はムゼッタ」
 彼は誰に聞かれることなく語りはじめた。
「姓は誘惑っていうんだ。仕事は風見であちこち振り向く。くるくるとね」
 指を回しながら言う。見れば指まで赤くなっている。
「梟みたいに抜け目がなくて血に餓えている。そして人の心を食べるんだ」
「それじゃあまるで悪魔よ」
「そうさ、あいつは悪魔だ」
 目が座ってきていた。
「悪魔じゃなくて何なんだ。人の心を惑わしてばかりいて」
「その声は」
 あまりに騒ぐのでムゼッタの方も気付いた。
「マルチェッロ」
「おや、こっちを見ている」
「知るものか」
 マルチェッロはショナールの言葉にも構わずまた酒を飲んだ。
「シチューをくれ」
「おい、そんなに飲んでるのにか」
「酔い醒ましにもなるさ」
「そう言いながら飲んでるじゃないか」
「いいんだよ、もう」
 仲間達の言葉にも耳を貸さない。相変わらず飲みっぱなしである。
「言ってくれるわね、全く」
 ムゼッタはマルチェッロに顔を向けて目を少し怒らせた。
「気付いている癖に。飲んでばかりで」
 女としての怒りであった。
「私を怒らせたこと。覚悟しておくがいいわ」
 そう言いながら椅子にどっかりと座り込んだ。そして注文をはじめる。
「ボーイさん、これとこれと」
 次々にまくしたてる様に注文する。
「これも持って来て。大至急ね」
「ちょっとムゼッタ」
 慌しい様子の彼女を向かいの席に大きな息と共に座り込んだアルチンドーロが窘める。
「そんなに慌てるのは」
「お行儀が悪いっていうの?」
「そうだよ。ここは穏やかにだね」
「相変わらず人のいい方だな」
 コルリーネは戸惑うアルチンドーロを眺めながら言った。
「まるで鳥みたいだ」
 当時お人よしは鳥と例えられたのである。
「見ていなさいよ」
「誰と話しているんだい?」
「誰とでもないわ」
 アルチンドーロに独り言を聞かれてキッとして返す。
「ボーイさんとよ。それがどうかして?」
「ボーイ君にも穏やかにだね」
「私は自分の好きなようにしたいの」
「いや、だからそれは」
「あんたの方が五月蝿いわよ」
 酷い言葉であった。
「そんな・・・・・・」
「つべこべ言ってないで食べたら。ほら、来たわよ」
「あ、うん」
 テーブルの上に次々ワインと料理が運ばれて来る。見ればロドルフォ達が食べているのより豪華な酒と料理であった。
「さあ食べて」
「元々私の金なんだけれど」
「何か言った!?」
「いや、別に」
 アルチンドーロは小さくなっていた。そしてボソボソと食べはじめる。
「ふん」
「またムゼッタが癇癪を起こしているな」
 何時の間にか店の周りにカルチェ=ラタンの学生や娘達が集まっていた。そして酒や食べ物を手にムゼッタを見て笑みを浮かべている。
「困ったことだ、全く」
「今度の犠牲者は誰かな?」
「私共もその中で」
 店の者達が慌しく動き回りながら応える。
「ムゼッタさんが来るといつもこうですよ。騒いで派手に注文して」
「そして皆が店に来て注文する」
「はい、まああの人が来てくれるだけで忙しくなります」
「それでお店は繁盛だ」
「ははは、確かに。あれこれと五月蝿い人ですけれどね」
「無視を決め込むのね」
 ムゼッタは相変わらず飲み続けているマルチェッロを睨みつけていた。
「いや、そんなことはしておらんよ」
 アルチンドーロはそれを聞いて慌てて顔をあげた。
「食べているだけで」
「そうなの」
 だがムゼッタは彼の話を聞いてはいなかった。
「それならそれでこっちにも考えがあるわ」
「また注文するのかい?」
 わかっていないのはアルチンドーロだけであった。店の者も客もムゼッタが誰を見ているのかわかっていた。そして楽しげに眺めていたのだ。
「これは面白いお芝居だ」
「ああ」
 ショナールとコルリーネも笑みを浮かべて眺めていた。
「どうなるかな」
「これからお楽しみ」
「あまり趣味のいいお芝居じゃないけれどね」
 だがロドルフォはあまりいい顔でこのやり取りを眺めてはいなかった。
「どうしてなの?」
「僕は浮気とかは絶対に駄目なんだ」
 その理由はこれであった。ミミに対して言う。
「そうなの」
「だから。それだけは駄目だよ」
「私はそんなことはないわ」
 ミミもそうであった。だがその基準が違っているのはこの時まだ気付いてはいなかった。
「皆わかっているみたいだな」
 コルリーネは相変わらず楽しんでいた。
「ああ、こんな面白い芝居見ずにはいられない」
「フン」
 ショナールもそれは同じであったが当事者であるマルチェッロだけは違っていた。ムゼッタをあくまで無視して相も変わらず酒と食べ物を詰め込んでいる。
「こうなったら」
 ムゼッタは遂に動いた。
「こっちから攻めてやるわ」
「おい、どうしたんだ」
「何でもないわよ」
 急に立ち上がった。アルチンドーロは適当にあしらう。
「私が街を歩くとね」
 マルチェッロが意識しているのを見越して言う。
「皆立ち止まって私を見るわ。頭のてっぺんから足の爪先までね。あまりにも美しいから」
「また何か言ってやがるな」
 マルチェッロは必死に無視しようとする。相変わらず酒に気を紛らわせる。
「その時私はいつも微妙な満足感を味わうわ。皆が私を見ていて、そして魅力に気付いてくれているのがわかるから。その視線がたまらないの」
 声は独り言の様でいてマルチェッロに向けられていた。
「ふん」
「その私を知っていて、思い出して、そして悩み苦しんでいる人が私から逃げられるかしら。そんな筈がないわよね」
 そしてここで媚惑名笑みを浮かべる。
「ねえロドルフォ」
 ミミはここでロドルフォに囁いた。
「何だい?」
「あの人だけれど」
 ムゼッタを指差しながら言う。
「本当にマルチェッロが好きなのね」
「そうかな」
「だから。あんな風に言うのよ」
「けれど彼女は移り気でね」
 ロドルフォはここでこう返した。
「贅沢な生活の為に彼を振ったんだ。それで今の彼女があるんだ」
「それでもよ」
 ミミは言う。
「マルチェッロのことが本当に好きだから」
「けれど同時に贅沢も好きなんだ」
「けれど。今は贅沢よりもマルチェッロを見ているわ」
「また心変わりするだろうけれどね」
「そうかしら」
 その言葉には悪戯っぽくとぼける。
「ムゼッタは何時でもそうなんだ。だからそうしたものだって考えた方がいいよ」
「私はそうは思わないけれど」
「まあ見ていなって」
 ロドルフォは言った。
「これからどうなるかね」
「さてさて、罠が見えてきたな」
「ああ」
 ショナールとコルリーネは互いに囁き合っている。
「一人は罠にかけ、一人はそれに落ちる」
「落ちるかな」
「何なら賭けるかい?」
「おいおい、そんなことは言ってないよ」
「何だ、面白くないな」
「それに結果は僕にもわかるし」
 コルリーネは言った。
「そうか」
「私にはわかっているわ」
 ムゼッタはまだ攻撃を仕掛けていた。マルチェッロにさらに言葉をかける。
「自分の苦しみを口には出さなくてもその中では死ぬ程苦しんでいるわね」
「ムゼッタ」
 その話にたまりかねたのかアルチンドーロがたまりかねて言う。
「だからそんなに無作法なことは」
「パリジェンヌの動きそのものが作法なのよ」
 だがそれには弱らずにこう返した。
「行儀も作法も私達が作ってるのよ」
 パリジェンヌらしい言葉であった。
「だからつべこべ言わないの」
「そんな」
「本当に彼が好きなのね」
 ミミはまた囁いた。
「可哀想な人。どうするのかしら」
「どうにもならないと思うけれどね」 
 ロドルフォはまた言った。
「燃え尽きた愛は戻らないし。侮辱を受けてそれに返さない愛なんてないから」
「けれど」
「僕はそれはないと思うけれど」
「私は信じるわ」
 ミミは澄んだ声で言う。
「あの人はきっとマルチェッロを」
「負けるな、これは」
「ああ」
 コルリーネはショナールの言葉に頷き続けていた。
「君の学問でもこれは読めないかね」
「僕は哲学者なんでね」
 コルリーネは気取った声で応えた。
「人の心はわかるつもりさ」
 彼も完全な朴念仁ではないようだ。
「彼女が美人だってこともね。けれど」
「けれど。どうしたんだい?」
「今の僕は美人よりもギリシアの古典とパイプの方がいいね」
「やれやれ、神話の美人がお好みか」
「勉強にはなるよ」
「さてと」
 ムゼッタは言葉を終えてチラリとアルチンドーロを見た。
「この人ともそろそろ」
 そう呟いて椅子に座り込んだ。
「足が痛むわ」
「どうしたんだい?」
 アルチンドーロはそう言って足に手を当てるムゼッタを心配して声をかけた。
「ズキズキするわ」
「そんなに。何処がだい?」
 慌てて彼女の方に近寄る。
「靴が合わないのよ」
 そして彼女は足をわざと客達、その中でもとりわけマルチェッロに見せながら靴の紐を解く。白い腿までが見えそうになる。
「こんな靴じゃ」
 そう言いながら脱いだ。
「もう歩けないわ。他の靴が欲しいわ」
「幾ら何でもこんなところで脱ぐなんて」
「早く新しい靴を買ってきて」
 だがムゼッタはやはり彼の言葉には構わない。
「そんな無分別な」
「分別もパリジェンヌが作るのよ」 
 それでもこの調子でやり返す。
「パリの女は常に正しいのよ。それを疑うの?」
「それはわかったら早く買って来る!いいわね」
「わ、わかったよ」
 アルチンドーロはたまりかねて頷いた。
「それじゃあ行って来るよ」
「行ってらっしゃい」
 素っ気無く、冷たい言葉で送る。そしてアルチンドーロが見えなくなるまでまずは動かなかった。
「さてと」
 それが終わってからマルチェッロに顔を向けた。
「わかってるんでしょ?」
「ああ」
 酒から口を離し答える。
「最初からわかっていたさ」
「やっぱり」
「君には勝てない。僕にはね」
「そっちに移っていいかしら」
「勿論」
 ムゼッタはその言葉に従い動いた。靴が片方ないのにも構わず彼のいるロドルフォ達のいるテーブルに向かう。客達が彼女に椅子を差し出す。
「有り難う」
「パリの女王様の為なら」
 男達は恭しい動作でムゼッタに一礼する。
「これ位のことは」
「じゃあマルチェッロ」
 ムゼッタは座りながらマルチェッロに声をかけた。
「また。一緒に飲みましょう」
「うん」
 これで全ては決まった。二人は乾杯しまた付き合うことになったのであった。その場を歓声と拍手が包み込む。
「これで舞台は終わりだ」
「最高のハッピーエンドだったな」
 皆ムゼッタに喝采を送っていた。
「最初からこうすればいいのに」
「僕にも意地があるのさ」
 マルチェッロはムッとした顔を作ってこう返した。
「男の意地がね」
「じゃあ私にも女の意地があるのね」
 ムゼッタも負けてはいない。
「そして私が勝った」
「負けてあげたのさ」
「あら、そうなの」
「まあ負けたことは認めるよ」
 その点に関してはマルチェッロも素直であった。
「君にね」
「お帰りなさい」
「只今」
 言う方が逆であったがこれでよかった。そしてそれを見守るロドルフォ達のところに店のボーイがやって来た。
「お勘定ができました」
「ああ、もうか」 
 ショナールが鷹揚な動作で頷く。
「さて、と」
 そしてその勘定を受け取る。見た途端に表情が一変した。
「な・・・・・・」
「どうしたんだい、一体」
 これに気付いたコルリーネが声をかける。
「酔いが急に醒めたみたいだけれど」 
 見ればショナールの顔が真っ青になっていた。さっきまでの赤ら顔は完全に消えてしまっていた。
「醒めたもこうしたもないよ」
 声まで青くなっていた。
「これを見てくれ」
「!?」
「ただのお勘定じゃないか」
 ロドルフォも覗き込む。すると二人は同時にその顔を青くさせショナールの後を追った。
「な・・・・・・」
「おい、これ」
 ロドルフォも声が青くなっていた。その青くなった声でショナールに問う。
「何だよ、この値段」
「こんなに食べたか?」
「多分あいつだな」
 ショナールはそう言いながらマルチェッロを指差した。
「マルチェッロが」
「さっきまでワインをがぶ飲みしていただろ?」
「ああ」
「それだ。その値段だよ」
「僕達の分もあるみたいだぞ」
 ショナールは勘定を読みながら言った。
「これを見ていると」
「で、問題はだ」
 ショナールはここで二人に対して言った。
「お金はあるかどうかだが」
「それだ」
「僕が稼いだお金だが・・・・・・ん!?」
 服のポケットを探し回りながら困惑した顔を浮かべる。
「参った」
「参ったっておい」
「どうしたんだ」
「ない」
 使ってしまったものはないのである。
「全くない。どうしたんだ」
「おい、あれだけあったのにか」
「何処に消えてしまったんだ」
 コルリーネとショナールはそれを聞いてまた驚いた。
「わからない。お金は自然に消えるものなのか」
 その事実に今更ながら気付いた。
「こんなことが。あるなんて」
「僕は持っていない」
「ルーン文字の魔法でかい」
「ああ。ロドルフォ、君は?」
「僕もだ」
 彼はボンネットにしてしまっていた。
「何もない。どうしよう」
「一体どうしたの?」
 そんな彼等にムゼッタが声をかけてきた。
「ムゼッタ」
「急に怯えた顔になって。どうしたのよ」
「いや、ちょっとね」
「お金が」
 三人は青い顔のまま答えた。その遠くからラッパの音が聞こえてくる。
「おお、軍隊の帰営か」
 市民達はそれを聞いて声をあげた。
「今日は遅かったな」
「クリスマスだからね」
 彼等はそう言いながら道を開ける。そこにみらびやかな軍服を着た兵士達が行進してきた。
「兵隊さん格好いいなあ」
「僕も大きくなったら兵隊さんになるんだ」
 子供達もそんな兵士達を見て言う。
「銃を持って」
「お髭を生やして」
 行進の真似をする。
「悪い敵をやっつけるんだ」
「そしてフランスを守るんだ」
「それじゃあ強くなってね」
 母親達はそんな彼等に対して言う。
「そしてフランスを守るんだよ」
「うん」
「どんな奴等でもやっつけてやるよ」
 そう言いながら彼等の弟達は後にプロイセンに敗れる。まだ意気軒昂な彼等はそのことを知らない。華やかなフランスが武骨なプロイセンに敗れるということを。
「私に任せて」
 ムゼッタは三人に対して言った。
「まとめて払ってあげるから」
「いいのかい?」
 マルチェッロが彼女に尋ねる。
「かなりの額だけれど」
「私が支払うわけじゃないから」
 気軽なものであった。
「君が支払わないって」
「じゃあどうやって」
「まあ見ていて」
 だが彼女はあっけらかんとしている。四人の心配する声も気兼ねしてはいない。
「ねえボーイさん」
 声に色気をこれでもかという程含んでボーイを呼ぶ。
「はい」
「お勘定お願いするわ」
 そう言ってロドルフォ達のものとムゼッタのものを同時に手渡す。
「お願いね」
「はい」
「一緒に来ている顧問官さんが払うから」
「わかりました」
「彼に全部押し付けるのか」
「ええ」
 ムゼッタはマルチェッロに悪戯っぽく微笑んで答えた。
「その通りよ」
「やれやれ、悪い女だ」
「その悪い女と付き合ってるのは誰かしら」
「それはまあそうだけれど」
「さあ、来たぞ」
「戻って来たか?」
 ロドルフォ達はその声に顔を向ける。だがやって来たのは顧問官ではなく兵士達であった。店の前までやって来たのである。
「なあ」
 ここでショナールが一同に提案した。
「まあ勘定はここに置いておくといい」
「後は顧問官殿のおごりか」
「そうさ。そして僕達はこの間に逃げよう」
「うん」
「兵隊さんにでも紛れてね」
「兵隊さん達にか」
 見れば堂々と行進している。
「何、兵隊さんの仕事は僕達を守ってくれることさ」
「暴徒や叛徒からね」
「僕達がそうでないということの保証が必要だけれどね」
 昔から、そう革命の頃からフランスの軍隊は市民に対して銃口を向けているのだ。もっぱら暴徒化した場合だが革命の際に恐るべき政治手腕を発揮したナポレオンの内相フーシェは叛乱を起こした街の鎮圧に人口の一割を処刑すると定め、それを躊躇無く実行に移した。この時彼がジャコバン派にいた為の行動であったがこうしたことも度々あった。ナポレオンにしろ反乱鎮圧に暴徒化したとみなされる一般市民に大砲を放っている。これより十年前にも革命があったがその時も同じであった。どちらにしろフランス軍は一般市民にも銃を向けることがある軍なのである。もっともこれは大抵の国においても同じであるが。アメリカにしろウイスキー一揆で大々的に兵を送っている。また一揆や革命では実際に暴徒が暴れるものである。治安維持の為には必要な場合もあるのである。
「とにかく人垣もあるし」
「そこに紛れ込むか」
「ムゼッタ、君も来るんだろう?」
「ええ」
 彼女はマルチェッロの言葉に頷いた。
「まさか今の恋人のお勘定も払ってなんて言えないでしょ?」
「そうだな。じゃあ行こう」
「ただちょっと待って」
「どうしたんだ?」
「靴が無いのよ」
 そう言ってさっき靴を脱いだ方の足を見せた。
「ほら、さっきのあれで」
「そうか」
「よう隊長さん」
 その彼等の後ろでまた歓声が起こった。
「よく来て下さった」
「いつもながら決まってるね」
 見れば鼓笛隊長がやって来ていた。ことさらに着飾り、パリッとした様子でやって来る。思わず振り向かんばかりの男伊達でありその手には金色の指揮棒がある。
「それでね」
 ムゼッタはマルチェッロに対して言った。
「手を貸して欲しいのよ」
「仕方ないな」
「それじゃ僕も」
 コルリーネもやって来た。そして左右から担がれて店を後にする。その次にロドルフォとミミが並んで続き、最後にいるのはショナールであった。
「さてさて」
 ショナールは店の方を振り返って呟いた。
「顧問官殿にはお気の毒だけれど。まあパリジェンヌのことはわかっているだろうしな」
 気紛れで贅沢を愛する。それがパリジェンヌである。振られただの一杯食わされただので怒るのは男として野暮なものであるのだ。
「まあ最後まで見れないのは残念かな」
「じゃあなムゼッタ」
「また来てくれよ」
「ええ、またね」
 ムゼッタは客達に応えていた。
「それじゃ後はお願いね」
「うん」
 一行は姿を消した。そしてそれと入れ替わりにアルチンドーロがやって来た。
「ふう」
 彼は額に流れる汗をハンカチで拭いながら店に戻って来た。
「お帰りなさい、顧問官さん」
「お疲れ様です」
「いやいや」
 彼は辛そうな息を吐き出して客達の挨拶に応えていた。
「困ったことだよ、全く」
「ムゼッタのことですか?」
「うん、何しろ我が儘でね」
 彼は困った顔でそう応えた。
「あれが食べたいとかこれが欲しいとは」
「いつもそんなのですか」
「そうなんだよ。いや、それはいいんだがね」
 彼はさらに言う。
「おまけに移り気で。すぐに他の若い男に」
「ムゼッタはそんなのですよ」
「君達も知ってるのかい?」
「だって有名ですから。なあ」
「ああ」
 彼等は互いに頷き合う。顧問官に同情するふりをして実は心の中で笑っている。
「それでね、顧問官さん」
「うん」
「ムゼッタは。止めた方がいいですよ」
「もっと大人しい娘が宜しいかと」
「そうは言ってもね」
 だがアルチンドーロはそれには首を縦には振らなかった。
「あれだけ美人だし。そもそも美人のパトロンになるのは」
「義務のようなものだと」
「君達もそう思うだろう?芸術家と美女はフランスの宝だ」
「この二つは何をしても許すと」
「まあね。人を殺しでもしない限り」
「わかりました。それを聞いて安心しました」
「安心!?」 
 彼は買ってきた靴を出しながらテーブルに座った。
「何を安心するんだい?一体」
「まずはテーブルを見て下さい」
「ムゼッタも随分食べたね」
 食い散らかされた皿の山と林立する空き瓶を見て言った。
「いつものことだけれど。もう少し上品に食べたらいいのに。まるでナポレオンが食べたみたいだ」
 ナポレオンの食事マナーはお世辞にもいいものではなかった。当時ようやくフォークが一般化してきていたというのに手掴みで食べ、食べた骨は床に投げ捨て所構わず汚れた手を拭く。料理が来るのが遅いとテーブルを蹴飛ばし慌てるコックに対してこう言ったのだ。
「そなたはまだいい。余一人の機嫌を取っていればいいのだからな」
 そして続けてこう言った。
「余は国民全ての機嫌を取らなければいけないから大変なのだ」
 そう言って料理を催促していた。そのうえ食べるのも非常に早かった。この時のパリではナポレオンの食事マナーと言えば
無作法の代名詞であった。
「何度も言っているのに」
「マナーだけじゃありませんよ」
「まだ何かあるのかい?」
「ですからテーブルの上を」
「よく御覧になって下さい」
「お勘定があるね」
「はい」
「それも二つって・・・・・・えっ!?」
 その二つの勘定を見て思わず驚きの声をあげてしまった。
「な、何なんだこれは」
「ムゼッタからの餞別ですよ」
「払って欲しいって」
「一つはわかるがもう一つは」
「その芸術家のものです」
「芸術家」
 思わず声をあげた。
「もうここにはいませんよ、彼等は」
「ムゼッタと一緒にどっかに行っちゃいました」
「またか」
 アルチンドーロはそれを聞いて思い切り嘆息した。
「また若い男と」
「けれど怒らないんですよね」
 客達はこれ以上ない程落胆する彼に対して尋ねた。
「芸術家と美女はフランスの宝だから」
「人を殺しでもしない限りは何もしない」
「その通りだ」
 彼は泣きそうな顔でその問いに答えた。
「支払うよ。これもパトロンの義務だ」
「流石は顧問官さん」
「太っ腹なことで」
「けれど何でこうなるんだ?」
 本当に今にも泣き出しそうであった。
「ムゼッタと一緒にいると」
「それがムゼッタなんですよ」
「移り気で遊び人」
「しかも魅力的ときたものだ」
「難儀なものだな」
「けれどそれは承知だったんでしょう?」
「ああ」
 へたれ込んでいた。
「まさかとは思ったけれど」
「では次のパトロンを見つけましょう」
「運がよければまた彼女の方から来ますよ」
「そうするか。まずは」
「お勘定ですね」
「そうだったな」
 泣きそうなまま勘定を払う。彼にとっては踏んだり蹴ったりのクリスマスであった。









▲頂きものの部屋へ

▲SSのトップへ



▲Home          ▲戻る