『ラ=ボエーム』
序曲
かつてはこの長老達にも若い時代があった。そうイメージするのは容易ではなかった。
「あの頃のこの街はね」
少し小柄ながら細面で端整な顔立ちの老人が語った。
「この街も寂しかったものなんだ」
「僕達の財布はもっと寂しかったがね」
「はあ」
私は今度は濃い顎髭を生やした老人が話してくれた。
「駆け出しの画家でね、本当に」
「そして僕はまだ貧乏詩人だった」
「私は売れない音楽家だったし」
「わしは無名の哲学者だった」
口髭を生やしたキザな老人と顔中髭だらけの老人が次に言った。
「あの頃はね。何もなかった」
「四人で寒いパリでここえていたんだ」
「大変だったんですね」
私はその言葉に合わせてこう言った。
「あの頃は今みたいなパリじゃなかったんですよね」
「まあね」
優男の老人が語ってくれた。
「所々入り組んでいてね、本当に」
「こんなすっきりと絵になる風景じゃなかったなあ」
老画家も語ってくれた。
今パリはかなり整備され、緑の多い街になっている。今の政府になる前に皇帝であるナポレオン三世が特別に命じて整備したのだ。何かと癖のある人物だったがパリや国民に対しては気前がよかった。それにあの英雄ナポレオンの甥だというのが何よりも心強かった。それで今でもまあそれなりに根強い人気がないわけでもない。多分に山師ではあったが。戦争に負けて退位してもう二十年になるか。
「金持ちは威張っていたし」
「それは今でもだろ」
「おっと、そうか」
哲学者は音楽家の突っ込みに対して笑ってみせた。そういえば最近哲学でマルクスとかいうのをやたら耳にする。私はそうしたことに詳しくはないのでよくはわからないが。
「ユゴーも書いていたよね」
「レ=ミゼラブルですか」
詩人の言葉に応えた。
「そう。あの小説でね、市街戦の場面があったね」
「はい」
「そこなんだよ。ああした曲がりくねった道を僕達は歩いていたんだ」
「へえ」
そう言われてもピンとこないのは私がそんな道を知らないからだろう。
「汚くてね。あちらこちらにゴミがあって」
「雪に隠れるんだよ、それが」
「けれどその下にあるのは本当のことで」
「それを踏んでしまった日には」
まだパリは汚かったということだろうか。かつては道にゴミや排泄物を捨てっぱなしだったこの街の名残がまだ残っていたというのか。
「凄かったんですね、昔は」
「けれどそれでも楽しかったな」
詩人はここで目を細めてきた。
「汚い街の中で何もなかったけれどな」
「ああ、あの頃はよかった」
「貧しかったけれど心は王様だったね」
他の三人も詩人の言葉に頷いていた。私はそれを聞いてあることに気付いた。
「皆さんは若い頃からのお知り合いですか」
「知り合いも何も」
音楽家が答えてくれた。
「一緒に住んでたんだよ、屋根裏に」
「そうだったんですか」
「寒い冬にもね。危うくベッドで凍死しそうになったり」
「うわ」
哲学者の言葉は真に迫っていた。とにかくパリの冬は寒い。
「色々あったよ、本当にね」
「恋もあったしね」
「恋」
画家のその言葉に耳をピンとさせた。
「どんな恋ですか?」
「それはね」
詩人の顔が曇ってしまった。
「あっ、お話したくないことですか?」
「いや、君も芸術家になりたいんだね」
「はい、僕は小説家ですけれど」
私はそう答えた。小説だけでなく詩もやっているがそれは言わなかった。
「それなら知っておきたいことだから。話させてもらうよ」
「有り難うございます」
「あれはね」
そして詩人は話しはじめた。他の三人も姿勢を正し黙ってその話に耳を傾けはじめた。それを見てどうやらかなり真面目な話だと思った。
「僕達がまだ。大学を出たばかりの頃だった」
暖かい暖炉の中で木が燃えていた。ガラスの窓の外では雪が降りはじめていた。そうした寒い季節の話だった。悲しいが暖かい話がはじまった。
新しいお話が幕を開ける。
美姫 「老人たちの昔語りから始まるのね」
さて、今度はどんなお話なんだろうか。
美姫 「一気にラストまでいくわよ」
それでは最後でまた。