『後宮からの逃走』
第三幕 徳ある太守
セリムの宮殿は広い。その中には彼の邸宅もあればオスミンの邸宅もある。やはりその中でもセリムの邸宅は巨大だ。それを後ろに見つつベルモンテとペドリロは庭の中をあれこれと動き回っていた。
目的は一つしかない。その目的の為に。二人は今必死になって動き回っている。
「もうすぐだ」
「ええ」
ペドリロは主のその言葉に頷いた。
「ですから急いで」
「わかっているよ。愛よ」
ここで愛を讃えるベルモンテだった。
「御前の強さが頼りだ。御前の力を信じる」
こう言うのであった。
「どれ程のものが御前の手からもたらされたか。この世のどんなことも愛さえあれば適うのだ」
「その通りです。それにしても」
ここで周りを見渡すペドリロだった。暗がりの中に邸宅が立ち並んでいるのだけが見える。彼等の他には猫一匹いない状況であった。
「静かですね」
「そうだな。好都合だ」
「ノアの洪水の後みたいです」
それに例えるペドリロだった。
「この静けさは」
「全くだ。とにかく」
「はい、もう十二時です」
その十二時であった。
「ではそろそろ」
「うん」
「ムーア人の国に」
彼もまた言う。
「可愛くて奇麗な娘が捕まっていました」
「ブロンデのことだね」
「その通りです」
にこりと笑ってベルモンテの言葉に応えつつまた言う。
「唇は赤く肌は白く髪は黒く」
やはりブロンデそのものである。
「夜も昼もこの娘は溜息と涙ばかり、自由が欲しくて仕方ない」
こう言う。
「けれど遠い国から騎士がやって来て」
ペドリロ自身のことである。
「女の子を哀れに思い救い出しました」
「そうだね。それじゃあ」
「はい、夜の闇を忍んで」
今度はいささか真面目なペドリロだった。
「鍵も見張りもかいくぐり真夜中になったら目を覚まさせてあげるよ」
「コンスタンツェもまた」
「自由の為に」
「その十二時です」
また時間を言うペドリロだった。
「それじゃあ」
「よしっ」
ベルモンテがコンスタンツェの部屋の前に来た。ペドリロが側に寝かしていた梯子を彼に差し出す。彼はすぐにそれを部屋の窓にかけるとコンスタンツェの窓が開いて。絶好のだタイミングだった。
「げっ、この梯子の音は大きいぞ」
梯子が動く音に肝を冷やすペドリロだった。
「これは予想外だ。下手をしたら本当に首を刎ねられて縛り首にされて水責めに火炙りに金責めにされて最後は皮を剥がれてしまうぞ」
そのオスミンの変てこなフルコースをそのまま言った。
「そうならない為にも」
「ああ、コンスタンツェ」
だがベルモンテはそんな音も聞こえず窓から姿を現わしたコンスタンツェを見てうっとりとしていた。
「いよいよだよ」
「ええ」
まずはコンスタンツェが降りて次にブロンデの部屋にも梯子をかけて彼女も出す。これでいよいよと思ったその矢先に。彼が出て来た。
「ふう、大分頭が痛いな」
オスミンであった。そのまま酔い潰れていたのだがふと目を覚ましたのだった。酒のせいで身体が暑く涼を取ろうと家の外に出ると。
「何っ、貴様等!」
「しまった、こんな時に!」
「よりによって!」
四人はオスミンとばったり顔を合わせて思わず叫んでしまった。オスミンはすぐに騒ぎ出した。
「起きろ、起きてくれ!」
「何だ何だ!?」
「どうしたんだ!?」
「脱走だ!」
オスミンは出て来た一同に対してまた叫ぶ。
「奴隷達が脱走するぞ!」
「何っ、脱走だと!」
「それは大変だ!」
「逃がすな、塞げ!」
「逃がすなよ!」
四人が呆気に取られているうちに忽ち宮殿にいる者達が出て来た。そうして四人を取り囲んでしまったのだった。本当にあっという間であった。
「やっぱりな」
オスミンはベルモンテを見て納得した顔で頷いていた。
「御前もグルだったか」
「グルだと!?」
「そうだ。おかしいと思っていたんだ」
ベルモンテに顔を向けていった。
「何でこんなところに来てしかもこいつと顔見知りだ」
今度はペドリロを見ての言葉である。
「そうしたらこの通りだ。そうだな」
「くっ・・・・・・」
「おい」
ベルモンテが忌々しげに沈黙したのを見てからオスミンは周りの者に声をかけた。
「太守様を呼んできてくれ」
「太守様をですか」
「そうだ」
表情を消して告げるのだった。
「すぐにな。いいな」
「はい、それでは」
「これでよし」
こう言ったうえで彼は。四人を前にして高らかに言うのであった。
「そうれ!何という大勝利だ!」
「くっ!」
「何てこった・・・・・・」
「御前等をとっ捕まえてその首を絞めてやれるんだからな!」
歯噛みするベルモンテとペドリロを見て言う。
「笑って踊って飛び跳ねて」
実際にそうならんばかりの勢いである。
「歓喜の歌でも歌いたいよ。これで御前等を厄介払いできるからな」
「厄介払いというと」
「そうです」
ブロンデが真っ暗な顔でコンスタンツェに告げる。
「この男の言う通りです」
「私達は縛り首ですか」
「こっそり隠れて抜け出そうとは不届きなハーレムの鼠共。しかしアッラーはそれを見過ごされることはない」
オスミンはアッラーの名前さえ出す。
「悪の報いを今受ける。こんな嬉しいことってあるものか!」
オスミンがそう叫んでいるとそこに。呼ばれてやって来たセリムが来た。他の者達は彼の後ろに集まっている。ベルモンテ達は相変わらず囲まれている。
「どうしたのだ?この騒ぎは」
「不届き者を捕らえました」
「不届き者!?」
「そうです」
オスミンは恭しく主に対して述べた。
「この者達がです」
「むう」
セリムはここで四人を見た・とりわけコンスタンツェを見て顔を曇らせるのだった。
「そなたまでいるとはな」
「私はどうなっても構いません」
コンスタンツェは覚悟を決めた顔でセリムに言うのだった。
「ですがこの方は。ベルモンテだけは」
「その建築家か」
「いや、コンスタンツェ」
だがここでベルモンテはコンスタンツェを護るように前に出て言うのだった。
「僕が君を護る」
「ベルモンテ・・・・・・」
「太守殿」
ベルモンテもまた意を決した顔でセリムに対して言うのだった。
「僕が彼女の身代わりになりましょう」
「そなたがか」
「はい。僕も貴族です。嘘は言いません」
その誇りにかけてというわけである。
「ロスタドス家の名にかけて」
「ロスタドス家だと」
セリムはその名を聞いて眉を動かしてきた。
「今ロスタドス家と言ったな」
「はい」
「ではオラン総督ロスタドス侯爵だな」
「父ですが」
ベルモンテは少し妙なものを感じながらもセリムの問いに答えた。
「それが何か」
「うむ。私はあの男と戦場で会い見えた」
「何っ!?」
「何と」
「私は敗れ多くの領土を失った」
このことを彼に言うのであった。
「言うならば私にとって怨敵なのだ」
「そんな・・・・・・」
コンスタンツェは思いも寄らぬこのことを聞いて顔を絶望に彩らせた。
「それでは。ベルモンテは」
「さて、この場合どうなるか」
セリムが言うとオスミンが後ろで何処からか持って来た縛り首の形にした縄を自分の首にかけて引っ張る動作をしてみせていた。
「言うまでもないと思うが」
「そういうことですか・・・・・・」
「さて。それではだ」
セリムはこのことを告げ終えるとオスミンに顔を向けて声をかけた。
「そなたは私と一緒に来てくれ」
「はい」
「他の者はここに残るように」
周りの者達にも告げる。
「私が受けた苦しみをそなたに見せよう」
こうベルモンテに告げてからオスミンを従えて一先何処かへと消えた。あとに残ったベルモンテ達はいよいよ絶望に囚われた。ブロンデが真っ青な顔でペドリロに問う。
「どうすればいいの?この場合は」
「いや、もうこうなったら」
ペドリロもこう言うだけだった。
「もう。手が」
「そんな。それじゃあ・・・・・・」
「何ということだ」
ベルモンテは天を仰ぐばかりだった。
「コンスタンツェ、僕のせいで君まで」
「いえ、心配することはないわ」
だがコンスタンツェはここでこうベルモンテに対して言うのだった。
「死が何だというの?」
「死が!?」
「そう。それもまた安息の道」
既に覚悟を決めていたので言葉は澄み切ったものだった。
「特に貴方と一緒なら死は降伏の第一歩よ」
「コンスタンツェ」
ベルモンテは彼女のそこまでの決意を聞いてそこに真実を見た。
「君は痛む心に安らぎを与えてくれる。けれど僕が君を」
「死なせるというのね」
「そうだ。僕のせいで」
それが悔やまれてならないベルモンテだった。ここに来たことを軽率で愚かな行動であったとさえ思い激しく後悔していた。
「もう君の目を見ることができない。僕が君を」
「貴方を死なせるのは私」
コンスタンツェもこう言うのだった。
「私が囚われたばかりに」
「しかしそれは」
「いえ、その通りだから」
あくまでこう言うのであった。
「私のせいで。貴方が」
「コンスタンツェ・・・・・・」
「貴方がいなくては生きている意味がないわ」
また誠を語るコンスタンツェだった。
「だから。もう」
「それは僕もだ」
ベルモンテもまた己の誠をコンスタンツェに語る。
「それなら。高貴な心を共に抱いて」
「ええ、二人で」
最後に抱き合い言葉を交える。
「最期まで二人で」
「共にいましょう」
こう言い合うのだった。二人の心は完全に一つになった。そしてここでそのセリムがオスミンを連れて戻って来た。彼は二人の前に来て問うてきた。
「今の気持ちはどうだ」
「慎んで何でもお受けしましょう」
「私もです」
二人は互いに寄り添い合ったままセリムに告げる。ペドリロとブロンデも同じようになっている。
「ですからどうか」
「私達に報いを」
「そなたの父だが」
セリムはここでベルモンテに彼の父のことを告げてきた。
「確かに手強い男だ」
「はい」
「だが。立派な男でもある」
こう言うのであった。意外なことに。
「私の相手として相応しい」
「左様ですか」
「そしてだ」
彼はさらに言葉を続ける。
「武器を持つ者以外には剣を振るうことがない。私もまた同じだ」
「!?」
ここでオスミンが妙なものを感じた。するとセリムはまた言うのであった。
「そなたは祖国に戻るがいい」
「えっ!?」
「四人共だ」
コンスタンツェはおろかペドリロとブロンデもであった。
「そなた達に自由を贈ろう。そしてそなた達が私の手中にあったにも関わらず自由にしてもらったと世に告げるのだ」
「またどうして」
「眼には眼をではない」
セリムはベルモンテに対して告げる。
「悪に対しても徳だ。そしてそなたの父にも倣おう」
「父上にも」
「そなたの父も虜は無事返した」
セリムはまた言う。
「我が子もまたな」
「そうだったのですか」
「これによりそなたがその父以上の人物になればさらにいい」
セリムはさらに徳のある言葉を述べた。
「私のこの行いも報われよう」
「ですが太守様」
オスミンが今にも爆発せんばかりの顔で主に言ってきた。
「この者達はそれこそ百回殺してもいい位ですが」
「では祖国に帰ってそうなればいい」
少なくとも彼にそのつもりはないのであった。
「私はそれはしない」
「うう・・・・・・」
「そもそもあのブロンデという娘」
セリムはブロンデを見つつ呟く。
「そなたではかなり荷が重いぞ。今の妻で満足しておて」
「何という喜び」
ベルモンテは思わぬ幸福に今にも天に昇らんばかりであった。
「太守様、貴方は」
「素晴らしい方なのはわかっているつもりでしたが」
コンスタンツェもまた同じであった。
「この様な徳を頂けるとは」
「まさかこの様な状況で帰られるなんて」
「何と偉大で高貴な方」
ペドリロとブロンデも恍惚とさえしていた。
「この感謝の気持ちを忘れたら」
「ええ。それこそ人として終わりだわ」
「そう、まさにその通りだ」
「キリストやイスラムは関係なく」
「若しもです」
ペドリロは感激した顔でセリムを見て言う。
「私はこの御恩を忘れたら喜んで縛り首になりましょう」
「私もです」
ブロンデも言う。
「その時は」
「愛の喜びに浸りながら感謝の心の命じることは忘れません」
コンスタンツェもまたセリムに対して告げた。
「愛に捧げられた私の心は感謝に対しても」
「この御恩と特に報いましょう」
ベルモンテはこのことをセリムに誓った。
「そして貴方の御高名を天下に」
「そうしてくれれば何よりだ」
セリムは四人の感謝の言葉を静かに聞いて述べた。
「私は。それだけでいい」
「何という素晴らしい方だ」
「全くだ」
宮殿の者達もセリムの徳に感激していた。あらためて自分達の主の徳を知って。
「この様な徳を持たれているとは」
「我々が今まで思っていたよりもさらにだった」
元々徳の人物だとは思われていたのである。だがそれは彼等の想像以上だったというわけだったのだ。セリムの徳はそこまで達していたのである。
しかしであった。オスミンだけは違った。何とも苦々しい顔をして言うのであった。
「どういうことだ。悪党共が助かるとは」
地団駄を踏んでの言葉である。
「この忌々しい奴等に何を以ってするべきか」
「だからオスミンさん、それは」
「もう言っても」
周りの者達が言っても彼の癇癪は収まらず。またこんなことを言い出すのであった。
「まずは首を刎ねお次は縛り首にし」
「またはじまったよ」
「この人も飽きないねえ」
「それから焼けた棒で串刺しにして火炙りに金責め」
さらに言葉を続ける。
「それから水責めにして最後は皮を剥いでやる」
そこまで言って黙ってしまった。そしてここで言うのであった。
「まあもっともだ」
「もっとも?」
「どうしたんですか?」
「太守様が決められたことだ」
とりあえず一通り騒いでからの言葉である。
「わしが言ってもはじまらない」
「そうそう」
「可愛い女の子なら幾らでもいますし」
「この世の喜びもまた」
「後でバッカスだ」
覚えた酒について述べた。
「忌々しいがアッラーよ御赦しを。また飲みます」
「酒でも飲んで嫌なことは忘れましょう」
「そして次の幸せを」
「復讐程忌まわしいものはない」
セリムは後ろのこうした喧騒をよそにまた言ってきた。
「それよりも相手から学びそれで私心を捨てて人を赦すことだ」
「はい、その通りです」
「ですが口で言うのは容易くとも」
「行うことは難しい」
セリムの従者達が口々に言う。
「それをできるからこそ太守様は素晴らしいのです」
「偉大な心を持たれているからこそ」
「アッラーの御名において命じる」
セリムはあらためて四人に対して告げた。
「租国に帰り。このことを全て語るがいい」
「はい、それでは」
「そのように」
四人も晴れやかな顔でその言葉に応える。そこには誠意のみがあった。
「以上で今宵の騒ぎは終わりとする。では行くがいい」
晴れやかな顔で港に向かう四人を見送りつつ宮殿の者達の自身を讃える声を聞くセリムであった。四人も感謝の言葉を忘れずそれは彼等の心そのものでもあった。このセリムの徳の話は今でも伝わっている。イスラムの高徳の太守として。言うまでもなくベルモンテ達四人が広く伝えた話である。それはモーツァルトの音楽を通じ遠く日本にまで届き今こうして書き残されることになった次第である。
後宮からの逃走 完
2008・12・7
逃走が失敗してどうなるのかと思ったけれど。
美姫 「領主セリムが思ったよりも良い人で良かったわね」
だよな。まさか、ここで解放してもらえるとは。
美姫 「本当に失敗した時点で終わったかと思ったけれどね」
今回も楽しませてもらいました。
美姫 「投稿ありがとうございました」