『仮面舞踏会』
第三幕 崩壊
真夜中のストックホルム郊外。この国において最も華やかな街においても寂しい場所というものはある。それがこの場所であった。
墓地。そしてその端にある処刑場。罪を犯した者が裁かれるその場所は真夜中になると一層寂しさを増す。まるで魔物が潜んでいる様な無気味な感触さえあった。
処刑台の周りにも誰もいない。ただ無気味にその姿を夜の闇に浮かび上がらせているだけである。昼であれば血がその処刑台にこびり着いているのがわかるだろう。だが今は見えはしない。夜の漆黒の闇の中に隠れている。月の虚ろな赤い光の他には何もない。その赤い光も見れば処刑の時の罪人の血の色に似ていた。その暗鬱な光だけがそこを照らしていたのであった。
「ここね」
そこに一人の女性がやって来た。昼に占い師のところに姿を現わしたあの女性であった。
「あれが処刑台。何て恐ろしい」
闇の中に浮かんでいる処刑台を見て顔を青くさせる。
「けれど行かなくては。さもなければ私は耐えることができない」
それでも彼女は前に進んだ。
「これ以上の苦しみに」
そして岩の上に来た。占い師に言われた岩の上に。
屈んで足下を探す。頼りは月の光であった。
「これね」
そこに一つの赤い草を見つけた。
「これがあれば」
彼女は強張った顔でその草に触れる。
「私は苦しみから解放される。さもなければ死ななければならない。そう、死」
その顔がさらに白くなる。豊かな黄金色の髪がヴェールから零れ、青い瞳が赤い月の光の中でも美しく輝いている。豊満な美貌を持つその顔が何かしらの力に怯え蒼白となっていた。そして今手に持っている赤い草を見詰めていたのであった。
「死ななければ。苦しみから解放されはしない。けれどこの草があれば」
解放される筈であるのだ。占い師の言葉に従えば。
「この凍りつきそうな心。このままだとあの人を裏切ってしまう。けれど」
だが迷いはあった。
「あの方が心から消えてしまう。けれどそれでも」
その迷いが更に大きくなる。そして彼女の心を揺さぶっていたのであった。
「どうすれば。どなたか私を助けて頂ければ。けれどそれは」
迷いに心を揺さぶられていた。そこに誰かがやって来た。
「誰?」
「私です」
そこに姿を現わしたのは王であった。昼に着ていた漁師の服ではなく王の立派な服であった。
「陛下、どうしてこちらへ」
彼女は王の姿を見て思わず立ち上がった。草から手は離れていた。そしてその顔は強張り、さらに白くなった。
「貴女のことが心配で」
王は言った。
「アンカーストレーム伯爵夫人」
そして彼女の名を呼んだ。彼はアンカーストレーム伯爵の妻であったのだ。夫婦仲はよく、間には一人の息子がいる。夫と同じく悪い噂のない女性であった。
だがその彼女にも誰にも言えない悩みがあったのだ。それが自分への想いだとは。王はそれを知り最早我慢することができなくなっていたのであった。
「私は知ったのです」
「何を」
「言わずともおわかりだと思います」
彼は言った。
「だからこそ私は今ここに」
「仰らないで下さい」
だが彼女はそれを否定した。
「私はただ。忘れたいだけです」
「しかし」
「さもなければ私は死ぬまで、いえ最後の審判まで責め苦と恥辱に苛まれます」
彼女は言った。
「ですから一人に」
「いえ、それは出来ません」
だが王はそれを拒んだ。
「私の胸には貴女への永遠の愛が宿っているのですから」
「そんな」
「私は貴女が」
王は言った。
「必要なのです」
「私は忘れたいのです」
夫人は王の言葉を必死に振り切ろうとする。だが王はおいすがる。
「私は貴女のことを思いいつも苦しんできました。例えこの心臓が止まっても私の心は貴女のものです」
「陛下」
「妻をなくし。幾夜思い苦しんだことか」
王は続ける。
「この想いは日に日に膨らんでいくばかり。それを押し留めることはできなかった」
「ですが」
「天に祈りもしました。救ってくれ、と。ですがそれも適いませんでした」
「それでも私は」
「私の心はあの方のものです」
夫の。自分を愛してくれる夫のものだと。
「御許し下さい、私は」
「私は貴女でなければ」
王はなおも言う。
「駄目なのです。ですから」
「しかし」
「一言だけでも」
「一言だけ」
夫人はその言葉に動きを止めた。
「はい」
そして王はそれに頷いた。
「一言だけでも。お願いします」
「私の心を」
「そうです」
彼女の心はわかっている。だがそれを実際に耳で聞くのと聞かないのとでは全く違う。王は今耳で、いや心で彼女の言葉を聞きたかったのだ。
「是非共。お願いします」
「わかりました」
彼女はこくりと頷いた。そして怖る怖るその言葉を口にした。
「愛しています」
「私を!?」
「はい」
彼女はまた頷いた。
「貴方を・・・・・・愛しています」
そして言った。自らの偽らざる気持ちを今告白したのであった。愛する者の前で。
「愛しています、貴方は」
「何ということだ」
王は自分の心が夢幻に支配されていくのを感じていた。
「まるでこの世から離れていくようだ。私は確かに今その言葉を聞いた」
心が昇華されていくのがわかる。今彼はその中に心を漂わせていた。
「心が燃える。もう私には何の悔いもない」
「私も」
夫人も言った。
「この言葉を口にしたから。もう思い残すことは何も」
「私を愛している」
「はい」
彼女はまたしても頷いた。
「私も貴女を」
王も言った。
「愛している。他の何よりも」
「陛下」
二人は見詰め合った。
「もう他には何もいらない。私は貴女さえいてくれれば」
「私もです。陛下さえ御側におられれば」
二人はそのまま自分達の世界に入ろうとしていた。このまま入ることになったであろう。だがそれは運命が、全てを司る神がそれを許しはしなかった。
「陛下」
ここで男の声が聞こえてきた。
「あの声は」
「まさか」
二人はその声を聞いて思わず声をあげた。
「主人が」
「いけない」
王は咄嗟に彼女にヴェールを被せた。そして月の赤い光を頼りにこちらにやって来るアンカーストレーム伯爵を出迎えた。
「こちらにおられたのですか」
伯爵は顔を強張らせて王の前にやって来た。
「一体どうしたんだ、こんなところまで」
「御救いに参りました」
彼は一礼してそれに応えた。
「私をか」
「はい。何者かが陛下の御命を狙っております。それで」
彼はやって来たのだ。王を救う為に。
「間に合ったようですな。心配しておりました」
「有り難う」
「そちらの女性の方も。御無事で何よりです」
「はい」
夫人は震える声でそれに応えた。伯爵はそれが自分の愛する妻だとは知らない。
「闇夜の中刺客達が蠢いておりました。そしてこの墓場に向かっていたので」
「来てくれたと」
「はい。ここは危険です、今すぐ去りましょう」
そう言いながら彼は自分のマントを脱いだ。
「私が身代わりになります。さあこれを」
「だがそれでは君が」
「構いません。どんな敵でも退けて御覧にいれます」
彼は宮廷きっての剣の使い手でもあった。スウェーデンでも剣で彼の右に出る者はそうはいなかった。
「ですから。御安心下さい」
「わかった。そこまで言うのなら」
王も彼の剣のことは知っていた。そしてその心も。ならばここでも彼の心を汲むことにしたのだ。
「頼もう。私は刺客達を引き受けます」
「うん、頼むよ」
二人はマントを交換した。王はその後で伯爵に対して言った。
「こちらの女性だが」
「はい」
夫人は震えていた。何時夫に自分のことがわかるかと気が気でなかったのだ。
「守って欲しい」
「わかっております」
女性を無下にするような伯爵ではなかった。二つ返事で答えた。
「そして貴方も」
「私はいい」
だが彼はそれを断った。
「私は一人で去ろう」
「ですがそれは」
「何、君のマントを羽織っているから。これで闇夜には誰かわかりはしない」
その為にマントを換えたのである。これは当然であった。
「だから。安心して欲しい」
「しかしそれでは」
それでも伯爵は安心してはいなかった。
「陛下が」
「私がいればそれだけ君の負担が増える」
王は言った。
「それよりもこの女性を頼む」
「それで宜しいのですね」
「うん。ただし、これは絶対に守ってくれ」
「それは」
「この女性のヴェールを何があっても取らないでくれ。いいね」
「わかりました」
彼もひとかどの人物である。女性に対する礼節は忘れてはいない。だからこそ頷くことができた。
「そして一言も話をせず、一度も見ないで。ストックホルムの街まで送ってくれ」
「わかりました、それでは」
「街の城門に着いたならば君一人で反対の方に向かってくれ。いいね」
「はい」
「それだけでいいんだ」
そして言い終わると夫人に囁いた。
「これでいいね」
「はい。それよりも」
夫人は小声で王に言った。
「早くお逃げ下さい。もう一刻の猶予も」
「陛下」
伯爵も声をかけてきた。
「どうしたんだい」
王は伯爵に顔を戻して問うた。
「刺客が来ております。この墓場にまで」
「もうか」
「足音に囁き合う声が。ほら、白い光まで」
それは剣の光であった。何の為の光か、最早言うまでもないことであった。
「謀反人達が」
自分の命を狙っている。だが王は何故か彼等に対して然程憎しみ等を感じずにはいられなかった。
(私も同じだ)
彼は心の中で呟いた。
(彼等は私を裏切り、私は友人を裏切った。結局は同じなのだ)
自らの心を責めていた。しかし今は責めてもどうにもならなかった。
「陛下」
伯爵がまた声をかけてきた。
「お早く」
「わかった、それでは」
王は身を翻した。
「また会おう。ではその女性を頼むよ」
「畏まりました。では」
夫人は無言で頷いた。伯爵はまだ彼女がその女性が自分の妻であることを知らない。今はこの女性が誰かなぞ彼にとってどうでもよいことであった。彼は無言で剣を抜いた。
「私の後ろにいて下さい」
伯爵は約束通り女性を見なかった。彼女が自分の真後ろに来たことを感じると安心したように頷いた。そしてその時に刺客達が姿を現わした。
「処刑台のところにいるぞ」
「逃がすなよ」
闇の中に男達の無気味な声が聞こえ辺りから剣を手にした男達が現われる。
「今夜こそあの男の最後だ」
「いいか、ぬかるなよ」
「はい」
漆黒の服に身を包んだ男達が姿を現わした。彼等は皆その手に剣を握っている。
「大丈夫です」
伯爵は女性が震えているのを感じてこう言った。
「ここはお任せ下さい」
彼は全く臆してはいなかった。そして男達と対峙する。
「王よ」
その男達の中から二人の男が出て来た。
「今宵が最後。御覚悟を」
「苦しまれることのなきよう」
そこから出て来たのはホーン伯爵とリビング伯爵であった。彼等は執拗に王の命を狙っていたのであった。
「王か」
アンカーストレーム伯爵はそれを聞いておかしそうに笑った。
「面白いことを言う。私が王だとは」
「何っ」
「その声は」
伯爵達はその声が王のものではないことに気付いた。闇夜の中に身を置いているのでその耳が研ぎ澄まされていたのであった。
「アンカーストレーム伯爵か」
「如何にも」
彼は答えた。
「そしてそこにいるのはホーン伯爵とリビング伯爵だな」
「・・・・・・・・・」
だが二人はそれに答えはしない。しかしそれは最早肯定の沈黙であった。
「御前達が以前より陛下の御命を狙っていることは知っていた」
伯爵は剣を構えて言った。
「だがそれもここまでだ。ここにいるのは王ではない」
「まずいぞ、アンカーストレーム伯爵だ」
二人の後ろにいる刺客達が怯えながら囁く。
「これは勝てる相手じゃない」
「逃げた方がいいぞ」
「馬鹿を言え」
だがホーン伯爵がそんな彼等を制止した。
「もう我等が誰か知られている」
「こうなっては仕方がない。ここはこの男を倒すぞ」
リビング伯爵も言った。そして二人はそのままゆっくりと前に出る。
「アンカーストレーム伯爵」
二人はアンカーストレーム伯爵を見据えた。
「卿には恨みはないがここで死んでもらう」
「覚悟はいいな」
「私を倒すことができたらな」
彼は二人を見据えて言い返した。
「私をな。出来るのか」
「この数を前にしてまだ言えるか」
「数の問題ではない」
彼は尚も言う。
「剣は。数ではなく腕だ」
「言ってくれる」
「ではそれを証明してみせよ」
二人はそれぞれ左右に動きアンカーストレーム伯爵を挟み撃ちにしようとする。それに対して伯爵は冷静に構えそれを待ち受ける。彼は全く臆するところはなかった。
「来い」
「言われずとも」
二人は同時に動いた。
三振りの剣が闇夜の中に煌く。アンカーストレーム伯爵は稲妻の様な動きで剣を振るう。二人はそれに対して防戦一方であった。
「くっ」
「これがアンカーストレーム伯爵の剣か」
「どうした、まだ序の口だぞ」
伯爵は落ち着いた声で言う。
「この程度で遅れをとるか」
そしてさらに突きを繰り出してきた。
「これはどうだっ」
「うぬっ」
リビング伯爵はその突きをかろうじてかわす。しかし攻めることは不可能だった。
「だがっ」
もう一人いるのだ。ホーン伯爵が。彼は同僚を救う為に剣を振り下ろした。それで伯爵を斬るつもりであった。
「甘いっ」
しかしアンカーストレーム伯爵はその剣を横目で冷静に見ていた。そしてすっとかわす。だがそれを夫の危機と感じた夫人は慌てて間に入る。そしてその剣が彼女のヴェールを斬り裂いてしまった。
ヴェールが落ちる。そしてそこから彼女自身の顔が零れ落ちるのであった。
「何っ」
皆それを見て思わず動きを止めた。
「あれは」
「間違いない」
ホーン伯爵とリビング伯爵も言い合った。
「彼の奥方だ」
「それが何故ここに」
「これはどういうことだ」
暫し呆然としていた伯爵も強張った顔で妻に問う。
「何故御前がここに」
「成程、こういうことか」
リビング伯爵が酷薄な表情で呟いた。
「卿の主君は卿の妻と通じていたのだ」
「それが卿の主君の正体だったというわけだな」
ホーン伯爵も言った。
「信頼していた主の正体は不誠実な男だった。そういうことだ」
「不誠実な男」
「信頼を裏切るのにこれ以上はないという形だな。違うか」
「クッ・・・・・・」
伯爵は反論することができないでいた。その通りだからだ。
「我々が王を殺そうとしたのは別の理由からだったが。ここまで破廉恥な男だったとはな」
「呆れた話だ。だがここは退こう」
「このことは言わぬ。我等にも誇りがあるからな」
王の命は狙っていても彼等は決して卑しい者達ではなかった。アンカーストレーム伯爵の誇りを守ることは忘れはしなかったのだから。
「待てっ、何処へ行く」
だが伯爵はそんな彼等を呼び止めた。
「!?」
「何処へ行くつもりなのだ」
「知れたこと、帰るのだ」
二人の伯爵はそれに答えた。
「我等の狙うのはあくまで王」
「卿ではないからな」
「待て、王を狙うのだな」
「そうだが」
「また次の機会にな」
「わかった」
彼はそこまで聞いて頷いた。
「明日の朝私の家まで来てくれ」
「卿の家にか」
「そうだ」
彼は言った。
「是非共。いいだろうか」
「何か考えがあるようだな」
二人の伯爵は彼の顔を見ながら言った。見ればその顔には険しい皺が引かれている。
「わかった。ではお邪魔しよう」
「明日の朝だな」
「うむ。是非共来てくれ」
彼はそれに応えて頷いた。
「是非共な」
「最早我等を害しても卿の為にはならぬしな」
王に裏切られた彼がもう忠誠を尽くすとは思えなかったのである。
「明日の朝、確かにな」
「うむ」
三人は挨拶を交わして別れた。ホーン伯爵とリビング伯爵はそれぞれ別の道を通って姿を消した。彼等の部下達もそれに続いて姿を消す。
後にはアンカーストレーム伯爵とその妻だけが残った。夫は妻に顔を向けた。不吉な皺が走り、憤怒を抑えている顔であった。
「帰るぞ」
「・・・・・・はい」
一言だけであった。夫人はそれにこくりと頷いた。
そして二人は処刑台の側から姿を消した。赤い朧な月の光の下風が処刑台の血生臭い匂いを運んで来ていた。
忠義を尽くしていた男の妻と。
美姫 「しかも、それがばれてしまったわね」
この後、彼はどう行動するんだろうか。
美姫 「どうなっていくのかしらね」
次回も待っています。
美姫 「待ってますね〜」