『イーゴリ公』
第三幕 脱出行
ポーロヴェッツ軍は集結していた。馬のいななきと弓を確かめる音があちこちでしていた。
「いよいよだな」
「ああ」
皮の鎧に身を包んだ兵士達が笑顔で話し合っている。遊牧民の鎧であった。全身を覆っているが決して重くはない。あくまで騎乗での鎧であった。
「我等がハーンも出撃される」
「今度は遂にルーシーをか」
「そうだ」
彼等は笑顔で話をしていた。その笑顔は戦場に燃える笑顔であった。
「ルーシーの富も穀物も」
「全て我等のものとなる」
それを思うだけで彼等の心は奮い立つ。戦場に向けて。
「美しい娘達を我等の妾とし」
「彼女等を腕に抱き酒を飲もうぞ」
勝利の酒をであった。
「この広大な平原を一気に駆け抜け」
「村を下し城を陥し」
「敵を降伏させ」
「ルーシーを全て我等のものとするのだ」
「愛する兵士達よ、その通りだ」
ここで一際立派な鎧に身を包んだハーンが出て来た。彼は真っ黒な見事な馬に乗り兵士達の前に姿を現わしたのであった。遊牧民の兵達は彼の姿を見て一層奮い立った。
「ハーン!」
「偉大なるハーンよ!」
口々に彼を讃える。
「今こそルーシーに!」
「御命令を!」
「それは間も無くだ」
ハーンは血気にはやる彼等に告げた。
「我等の行くところ敗北はない」
彼はまず自身の兵達にこう言った。
「誇り高き草原の民は敗北を知らぬ。知っているのは」
「勝利!」
「栄光!」
「そうだ。剣による幸福だ」
彼はそれを高らかに謳った。そのうえには青空が晴れ渡っている。彼等が愛してやまない何処までも続く青空であった。
「リーモフとプティーヴルは既に我等のものとなった」
「はい」
「ハーンのお力により」
どちらもルーシーの街だ。彼等により陥落させられたのである。
「この世の全ては我等のもの」
ハーンはこうも宣言する。
「だからこそいざ」
「ルーシーへ!」
「あの地にいる者達は全て血の涙を流す宿命」
「敗北の血の涙だ」
まさにそれであった。
「それをルーシーの民の心に刻み込み」
「彼等を我等の僕とする」
「草原の民は全てを支配する」
空前絶後の大帝国そのままの言葉であった。
「それは今よりはじまる」
「我等のハーンの手により」
「これから」
「明朝だ」
今出撃の時が言われた。
「いいな、今夜は前祝だ」
「酒宴ですか」
「戦いの前の酒はまた格別」
ハーンは自信と余裕に満ちた笑みで述べた。
「誇り高き我が兵士達と共に楽しもうぞ」
「勝利の為に!」
「ハーンの栄光の為に!」
彼等もそれに応える。そうしていよいよ戦場に向かおうとしていたのだった。
ロシアの捕虜達はそんな彼等を見ていた。彼等にしてみればこれ以上はない恐ろしい叫びであった。ウラジミールもそれを聞いて顔を暗くさせていた。
「いよいよ彼等が出撃するのだな」
「そのようですな」
家臣の一人が彼に答える。
「我等の故郷で」
「馬蹄でルーシーが踏み躙られる」
ウラジミールはそう言ってさらに暗い顔になった。
「あのハーンにより」
「そうして全てが奪われる」
家臣達もまた暗い顔で述べる。
「村も街も彼等のものとなり」
「娘達は彼等のものとなる」
「ルーシーの富もまた」
彼等は言い合う。悲嘆の声で。
「どうするべきか」
「父上」
こkどえウラジミールは彼等の中心にいる男に顔を向けた。そうして言うのであった。
「ここはお逃げ下さい」
「逃げよというのか」
「そうです」
父を見て言う。
「そしてルーシーの軍を率いて彼等から」
「ルーシーを守れというのだな」
「なりませんか」
「私はルーシーの為にいる」
これは何よりも彼の心を出していた。
「それを偽ることはない」
「それでは」
「今すぐに」
周りの者達も言う。彼等もウラジミールと同じ心であった。
「お逃げ下さい」
「そしてルーシーを」
「私があの地に戻れば。ルーシーは救われるか」
「その通りです」
「ですから今こそ」
「しかし私は」
公爵はここで暗い顔になった。それは彼の誇りによるものであった。
「それは」
「なりませんか」
「逃げられることは」
「私は。敗れた男だ」
今のこの有様をここで胸に置いて言うのだった。
「その私が。できるのか。彼等に一度は敗れたこの私が」
「勝敗は戦の常です」
ウラジミールはそう父を慰めた。
「ですが今度は」
「六枚の羽を持つ高貴な鷹の一族が」
ルーシーの者達のことである。彼等は双頭の鷹等鷹を自分達の象徴にしてきたのである。ここで出されたのはそうした鷹の一つであったのだ。
「草原の者達に屈することがあってはならない」
「それができるのは父上だけです」
「だから。今すぐに」
「しかし。それは一人だけではない」
公爵はここで毅然として言うのだった。
「一人だけではないと」
「それは一体」
「皆も一緒だ」
彼はウラジミールと他の者達を見回して言った。
「私もですか」
「我々もですか」
「そうだ」
息子にも他の者達にも告げた。
「よいな、今こそ」
「しかしそれは」
「あまりにも危険なのでは」
「そうでなくては駄目だ」
流石にこれだけの人数で脱出するとなると危険だ。一人でさえそうなのであるから。しかしそれでも公爵はそうでなければ駄目だと言うのだった。
「わかったな」
「わかりました。それでは」
それに最初に応えたのはウラジミールであった。
「我々はそのように」
「共にルーシーに帰りましょう」
「風となり帰ろうぞ」
公爵は一言で伝えた。そうしてまず彼が向かう。
「ルーシーへ」
「我等が祖国へ」
彼等は今ルーシーへ向かう決意をした。その最後にウラジミールが向かう。彼は最後尾で仲間達の後ろを守っていた。だがその彼のところにコンチャコーヴァが来たのであった。
「何処に行かれるのですか?」
彼女は怪訝な顔で彼に尋ねてきた。
「貴方達の野営地はそこではない筈ですが」
「姫・・・・・・」
暗い顔になっていた。それで見抜かれてしまった。
「まさか貴方は」
「先に行ってくれ」
彼はここで他の者に先に行くように言った。そうして二人だけになった。
「私は。祖国を見捨てることができません」
それが彼の言葉であった。
「ですから」
「そんなこと。私は」
「駄目なのですか?」
「もう貴方だけしか見えないのです」
今にも泣きそうな顔で彼に告げた。
「それなのに。どうして貴方は」
「それは私も同じです」
ウラジミールも同じであった。顔に苦しみが漂っていた。
「ですが。それでも私は」
「嫌です!」
コンチャコーヴァは遂に泣いた。そして言うのだった。
「私は貴方と共にいたい、永遠に」
「姫、ですがそれは」
「御願いです、ずっとここに」
ウラジミールに身を投げ出した。そうしてまた叫ぶ。
「一緒にいて下さい。何でも差し上げますから」
「何でも・・・・・・」
「そうです」
また彼に告げた。
「ですからここは」
「私に残って欲しいと」
「なりませんか?」
泣いていた。涙に濡れる顔で彼に問うた。
「それは、もう」
「しかし私は」
散々に揺れる心で。彼は言う。だがその言葉は震え揺れていた。それが彼の心そのものであった。
「それはもう」
「なりませんか」
「お許し下さい」
こう言うしかなかった。
「私には祖国が」
「私には貴方が」
二人の言葉が重なった。
「それ以外にはもう」
「見えはしない」
「私しか」
今のコンチャコーヴァの言葉が胸に突き刺さった。
「そうです、貴方しか」
「それは・・・・・・」
ここで言おうとする。しかしそれは容易には出ない。
「私は・・・・・・私は」
「我が子よ!」
ここで公爵の声がした。
「父上!」
「何をしているのだ。行くぞ!」
「行ってはなりません!」
またコンチャコーヴァが止める。
「貴方は。私と共に」
「来るのだ。早く!」
また公爵が叫ぶ。
「さもなければ。もう二度と」
「二度と」
「祖国に帰ることはできないのだぞ。それでもいいのか!」
「祖国に」
祖国と聞いてその心がまた揺らいだ。
「祖国が。私は祖国を救う為に」
「ルーシーを救うのではなかったのか!」
また我が子に問うてきた。
「だからこそ共に行くと誓ったのではないのか」
「そうだ、私は」
決意しかけた。
「その為に今は」
「私は貴方のものです」
しかしコンチャコーヴァも必死になっていた。その必死な声で彼にすがりつく。
「ですから。貴方も」
「私も。貴女が」
これもまた彼の偽らざる心であった。
「離れられない。しかし」
「もう時間だ!」
また公爵が息子に告げる。
「さもないと。御前は祖国には」
「それはわかっている」
ウラジミールは遂に天を仰いだ。そうして呟くのだった。
「だが。私はどうすればいいのだ」
「来るのだ!」
「行かないで下さい!」
父と恋人の声は共に彼を誘う。彼はどちらにすればよいのかわからなくなっていた。その中で散り散りに心が引き裂かれどうしようもなくなっていた。
「私と一緒に」
「ウラジミール!」
公爵は遂に直接我が子の名を叫んだ。
「どうするのだ!」
「私は。どうすれば」
どうしていいかわからなかった。だがその時だった。
「捕虜達が逃げ出しているぞ!」
「追え!」
「くっ、遂にか!」
ポーロヴェッツ人達の声であった。公爵はその声を聞いて歯噛みするしかなかった。
「こうなっては。ウラジミール!」
それでも我が子の名を呼ぶ。
「共に生きていれば」
「生きていれば」
「また会おう。さらばだ!」
「父上!」
ウラジミールもまた父に対して叫んだ。悲痛な声で。
「また神のご加護があれば」
「うむ!」
「共にルーシーを護る為に戦いましょう!」
「待っているぞ!」
公爵もそれに応えた。
「その時をな!」
「はい!」
「では行くぞルーシーの戦士達!」
公爵は同志達に対して言った。
「いざ祖国へ!」
「誇り高き祖国へ!」
「我等の家族を護る為に!」
彼等は去って行く。馬のいななきが遠くへ消えていく。ウラジミールとコンチャコーヴァのところにポーロヴェッツ人達が集まる。彼等はウラジミールを剣呑な目で見ていた。
「貴殿は逃げなかったのか」
「しかも王女様と一緒にいるな」
不審なものを見る目そのものであった。
「どういうつもりだ」
「何か企みがあるのか?」
「そんなものはないわ」
コンチャコーヴァは彼等とウラジミールの間に立って言うのだった。
「彼に手を触れることは私が許しません」
「ですが王女様」
「この者は」
彼等は王女に対して言う。明らかにウラジミールを信じてはいなかった。だがそれでもコンチャコーヴァは恋人を守ろうとしていた。ウラジミールは覚悟を決めていたがその彼を必死に守ろうとしていた。
そこにハーンが来た。ポーロヴェッツ人達は彼の姿を見て一斉に姿勢を整える。ハーンは彼等の間を通りウラジミールとコンチャコーヴァの前に来たのであった。
「事情はわかっている」
彼はまずはそう皆の者に告げた。
「公爵とルーシーの者達が逃げたな」
「はい」
「その通りです」
周りの兵士達が彼に答える。
「そして公子だけが残りました」
「如何為されますか?」
「この若者には手を出すな」
まずはこう皆に告げた。
「えっ!?」
「何もですか」
「そうだ」
威厳に満ちた声で皆に命ずるのであった。
「わかったな。何があっても手出しはするな、いいな」
「わかりました」
「それでは」
「見張りの兵は降格だ」
そのうえで今回の責任者の処罰を下した。
「本来は死罪だが相手が相手だ。よい」
「畏まりました」
「ではそのように」
兵士達はまた応えた。ハーンは命令を出し終えた後で満足気な笑みを浮かべた。そうして言うのであった。
「見事な男だ、流石はわしが認めただけはある」
「認められたのですか」
「そうだ」
将軍の一人の言葉に応える。
「勇者とな。わしが同じ立場であってもそうする」
「左様ですか」
「あの者とは共に馬を並べたかったが。これも運命か」
彼は言うのだった。決して公爵を罵らない。それどころか褒め称えていた。
その彼に対して。将兵達は問うてきた。ハーンは鷹揚に彼等に顔を向けた。
「ハーンよ」
「何だ」
「この若者に何もせずともよいのですか」
「先程の御言葉ですが」
「何故そんなことを言うのだ?」
ハーンは不思議そうに彼等に応えた。
「どうしてそういうふうに」
「この若者は公爵の子」
「鷹の子は鷹です」
「そうであろうな」
ウラジミールの能力も知っている。ハーンはそれも認めていた。
「立派な若者だ」
「それではその若者が」
「親鷹の後を追うとは思われませんか?後で」
「そうなるよりは」
「今、黄金の矢で」
「その必要はない」
ハーンは厳かに彼等にそう告げた。
「鷹の子に逃げられたくはないのだな」
「その通りです」
「だからこそここで」
「ならば。一つ考えがある」
ここで彼は自信に満ちた笑みを浮かべた。そうしてまた言うのだった。
「御考えが?」
「それは一体」
「ウラジミールよ」
ハーンは優しい声をウラジミールにかけた。ウラジミールも彼に顔を向ける。
「はい」
「御前は今よりわしの息子だ」
「えっ!?」
彼は突然の言葉に呆然となった。最初言葉の意味がわからなかった。
「それは一体。どういう意味でしょうか」
「そなたは今よりコンチャコーヴァの夫だ」
ハーンはまたウラジミールに告げたのだった。
「これでわかったな」
「何と・・・・・・」
「お父様」
これにはウラジミールだけでなくコンチャコーヴァも言葉を失った。
「まことですか、それは」
「お父様、それは」
「わしとてハーンだ」
彼は今度は二人に告げた。厳かな声で。
「わかったな。だからこそ」
「わかりました」
「それでは」
「これで鷹の子はわし等の元へ繋ぎ止められた」
ハーンはあらためて将兵達に顔を向けて宣言したのだった。
「これでいいな」
「わかりました。これで」
「鷹の子は我等のもの」
「ではいいか、誇り高き草原の者達よ」
ハーンはこれまでとはまた違う豪壮な声で皆に告げた。
「いざ、ルーシーへ!」
「ルーシーへ!」
「戦いへ!」
彼等も口々に叫ぶ。
「偉大なるハーンに勝利を!」
「我等に栄光を!」
彼等は夜空の下で高らかに勝利を叫ぶ。今遂に空は白くなろうとしていた。戦いがはじまろうとしていた。誇り高き草原の戦士達は馬に乗り今颯爽と戦場に向かうのであった。