『イーゴリ公』




                          第二幕  堕落した中にあっても


 ウラジーミル=ガレツキーの屋敷。ここだけはルーシーの軍勢の敗北の中にあっても騒ぎが続いていた。だがその騒ぎは到底戦に向かうものではなかった。
 巨大で硬い木で造られた屋敷の中は油と香木の香りで複雑な匂いがしていた。そこでは乱れた声と笑い声が聞こえる。そうして酒に酔った男達が寝転がっていた。
 見れば彼等はスクーラとエローシカであった。彼等は酔い潰れてそこに寝転がっているのであった。その中でスクーラがエローシカに対して言うのだった。
「ここに来てよかったな」
「そうだろ」
 エローシカが彼に答える。彼等は真っ赤な顔でそこに寝ているのだった。
「ここが一番さ」
「そうだよな、戦なんて糞くらえだ」
 スクーラはそう言って手許にある杯を手に取った。そうしてまた一杯やるのだった。
「どうだい?」
「ああ、くれ」
 エローシカもそれを受ける。そうしてその場に胡坐をかいて二人でまた飲みだした。
「ウラジーミル様のところには何でもある」
「酒も御馳走も」
 スクーラは上機嫌で述べる。
「それに女もな」
「どうだい、ウラジミール様の目は確かだろ」
 エローシカは笑顔でまたスクーラに問うた。
「女を見る目も」
「皆村から攫って来たんだったな」
「そうさ」
 エローシカは上機嫌でまた述べる。
「何処の村か知らないがな」
「そうか。やっぱり女は娘に限る」
 スクーラは下卑た笑みを浮かべてまた酒を飲む。
「女は結婚すると太る」
「しかも髭が生える」
 それがロシアの女である。寒いせいでそうなるのだ。
「それに比べて若い娘は」
「何より肌がいい」
「それだけじゃないしな」
 エローシカもまた下卑た笑みをここで浮かべるのだった。
「声がいい」
「お父さんお母さんのところへ返して」
 スクーラは娘達の声色を真似て歌うようにして言う。
「公爵様おうちへ」
「おうちへ返して」
 エローシカも言う。
「いい声だよなあ」
「また娘達のところへ行くか?」
 スクーラが誘った。
「酒に飽きたら」
「そうだな、飽きたらな」
「酒に飽きれば女だ」
 エローシカも飲みながら朗らかに言うのだった。
「まさにここは天国だ」
「俺達にとってはな」
 だが女達にとってはそうではなかった。その攫われてきた娘達が大柄な男に追い立てられて必死に逃げている。ウラジーミルの巨大な部屋の中では粗野な男達が酒を頭から被り御馳走を食い散らかし娘達を押し倒していた。そうした宴の中にあった。
「ウラジーミル様万歳!」
「公爵様にご長寿を!」
 彼の取り巻き達がその中で叫ぶ。そのウラジーミルは自分の席で派手に酒を飲んでいた。そうして真っ赤な顔で部屋を見回していたのだった。
「やはりあれだな」
 彼はその宴の楽しみの中で言うのだった。
「こうした場こそがわしに相応しい」
「全くです」
「我等もまた」
 取り巻き達が彼のその言葉に頷く。
「イーゴリ公はこうした楽しみを知らないのだな」
「はい」
「あの方は何分生真面目な方ですので」
「真面目か。下らないことだ」
 彼はそれを一笑に伏したのだった。彼にとってはそれで終わりであった。
「昼は思うがままに政治をする」
 彼は言う。
「豪奢なテーブルの上で事務や計の執行を行い裁判もする」
「全てを決められるのですね」
「そうだ、わしが全て決める」
 誇らしげに言う。
「何もかもな。そして夜は」
「夜は?」
「毎日がこうだ」
 今の宴の場を見回してまた一杯飲んだ。そこに取り巻きがまた一杯注ぎ込む。
「酒に御馳走に」
「それに女ですな」
「そうだ。特に頬の紅い黄金色の神の女だ」
 それが彼の好みであった。
「若い娘の中でも。美しい娘は全てわしのものだ」
「素晴らしい」
「やはりそうでなくては」
「男の愉しみとは何ぞや」
 彼は取り巻き達に問う。彼等はうやうやしい様子でそこにいるがやはりそれは下卑た態度であった。ウラジーミルの粗野な物腰と同じように。
「存分に楽しむことだな」
「それはやはりその三つで」
「その通りだ。特に酒だ」
 また飲んだ。そこにまた注がれるが彼は何処までも飲むのであった。
「これがなくてはな。何も意味がない」
「ルーシーの男は酒がなくては生きてはいけない」
「酒は全ての父であり母である」
「そうだ。全ては酒からはじまる」 
 こうした意味で彼はルーシーの男であったそれを自覚しながらもまた飲むのであった。
「これからな」
「ところで公爵」
「何だ」
 ここで取り巻きの一人の言葉に顔を向けるのだった。
「お耳に入れたいことが」
「ポーロヴィッツのことか」
 彼は最初そう察しをつけた。これはルーシーの領主なら当然のことであった。
「それならば西からポーランドやマジャールの者達を引っ張って来い」
「いえ、そちらではありません」
 だがその取り巻きはそれを否定するのであった。
「そうではなく」
「では何だ?」
「妹君です」
 彼はこう述べた。
「ヤロスラーヴナのことだ」
「そうです。今の公爵に御不満のようですが」
「やれやれだな」
 彼は妹の名を聞いてその真っ赤な顔に苦笑いを浮かべるのだった。やはり酒は止めはしない。
「あいつの真面目さも。筋金入りだ」
「今日こちらに来られるようですが」
「では通せ」
 何でもないといった様子で応えるのだった。
「来れば。いいな」
「宜しいのですか」
「構わん」
 一向に動じた様子はない。それは酒のせいではなかった。
「通せ、よいな」
「わかりました。それでは」
「酒はまだあるか」
 彼はここで周りの者達に問うた。
「ないのなら蜜酒を出せ」
「はい」
「そしてワインもだ。いいな」
「何処までも飲まれるのですね」
「では聞こう」
 彼はここで周りの者達に問うのだった。
「酒がなくて何の人生か」
 彼は問う。
「そんなものは何でもない。酒のない人生なぞないも同じだ」
「全くです」
「まさに酒は全ての父であり母」
 彼等もまた主の言葉に相槌を打つ。
「それがなくては何もなし」
「生きている意味もなし」
「その通りだ。これがあるからこそ御馳走も美味いし」
「娘も抱ける」
 彼等は今も娘達を追いかけている。娘達は彼等から必死に逃げようとするが結局は追いつかれ押し倒される。誰もがそうであった。
「娘達にも飲ませ食わせるようにな」
「勿論ですよ」
「それは」
 彼等は下品な様子でまた主の言葉に応える。
「お父さんお母さん」
「早く帰して」
「家族のところへ」
 男達は娘達の声色を真似る。
「けれどそれは駄目なことで」
「さあ酒だ酒だ」
 娘達の口に無理矢理注ぎ込む。
「御馳走もな」
 やはり無理矢理詰め込む。娘達の中には泣き叫ぶ者までいる。
「飲ませろ食わせろ」
「そして楽しませろ」
「わしは女にも寛大だぞ」
 ウラジーミルは席から立って宣言する。
「どんどん飲ませて食わせろ」
「勿論です」
「では皆で」
「しかし。軍が行くとこうまで気持ちがいいとはな」
「全くだ」
 その中で男達が言い合う。
「戦争よりも酒だ」
「そう、まずはこれだよ」
 そう言い合ってまた飲み合うのだった。
「酒がなくては」
「生きていても意味がないし」
「面白くもない」
「しかしこれからどうなるんだ?」
 誰かが言った。
「軍がいないのに」
「だからそれは心配するな」
 ウラジーミルは安心するように彼等に言うのだった。
「我等には城がある」 
 ロシアの堅固な城が。まずはそれを話に出した。
「そして富も」
「富もですか」
「こういったものを使えばいいではないか」
 そう周りの者達に告げるのであった。
「違うか?」
「確かに」
「その通りですが」
 それは一理あった。何も自分の兵を使う必要もない。ポーランドもマジャールもルーシーにとっては敵だ。つまり敵の力で敵を倒す、それがウラジーミルの考えであったのだ。
「ですがそれは」
「危険な一面もあるかと」
「何、そうはさせぬ」
 ウラジーミルは不敵に笑って彼等に述べるのだった。
「そこは加減だ。その為にも富も城もある」
「はあ」
「守り、そういう時にはこちらも兵を使う。何事も戦うばかりではないではないか」
 そこまで言ってまた派手に杯の中のものを飲み干すのだった。またしてもすぐに酒が注がれる。
「わしの考えがわかるな」
「わかります」
「ではいざという時はそうして」
「既に手は打ってある」
 彼は彼でそれなりに動いていた。
「安心せよ。よいな」
「わかりました」
「それでは」
 彼等は不安であったが頷いた。イーゴリ公がいない今ウラジーミルの言葉を信じるしかなかったのだ。だがそこにある不安を拭い去ることはどうしてもできなかったのだ。
 そのウラジーミルの屋敷の前に。今ヤロスラーヴナがいた。彼女は暗い顔で兄の屋敷を見上げているのだった。そのあくまで巨大な屋敷の門を。
「お妃様」
 その彼女に侍女達が声をかける。彼女を気遣う顔であった。
「どうしても。行かれるのですね」
「そうです」
 ヤロスラーヴナは暗いが毅然とした声で彼女達に答えた。
「何としても言わなければならないことがありますので」
「しかしお兄様は」
「御聞きになられるかどうか」
「無理にでもです」
 彼女には決心があった。
「無理にでも。兄に言います」
 それを言葉にも表わす。
「そうでなければルーシーが終わるのですから」
「ルーシーがですか」
「今のルーシーがどうなっているか」
 侍女達に対して語る。
「わかっていますね」
「ええ」
「それはもう」
 空が暗い。それこそが今のルーシーの空であった。彼女達はその空を見て主に答えるのであった。
「夫と息子が戦場に向かい随分経ちました。ですがまだ知らせはない」
 ヤロスラーヴナは巨大な門を見上げながら言う。その門はまるで絶望の宮殿への入り口のようであった。
「悪い予感に胸が痛み憂悶に覆われる。よからぬことになっているのは間違いありません」
「ですが」
「それでも」
「それでもです」
 また侍女達に言う。
「楽しみは過ぎ去りただ一人涙に暮れ夜も眠れず夫を待つだけ。しかし夫はまだ来ない」
 彼女もまた夫のことを想うのであった。一人の女として。
「夢に現われる夫の顔は蒼ざめている。かつては優しさと温もりだけを与えてくれた方が。しかしそれでも私は」
「お妃様は」
「ルーシーの女です。ですからルーシーを救う為に」
 顔が毅然となる。そうしてまた言った。
「この屋敷の門をくぐります。宜しいですね」
「わかりました」
「それでは」
 侍女達はその言葉に頷いた。そうして門の前まで行きそこを開けると。中から娘達が飛び出て来た。
 見ればその娘達も乱れた格好であった。髪は散々に散りその服はあちこちが破れており胸も腿も露わになっている。中には何も着ていない娘さえいた。
 ヤロスラーヴナは彼女達を見て言葉を失った。娘達はその彼女のところに来て言うのだった。
「お妃様ですね、イーゴリ公の」
「はい」
 それでも何とか平静を保って彼女達に答える。
「そうですが」
「ああ、よかった」
「これで私達は助かります」
「助かるとは」
 彼女は蒼ざめた顔をさらに蒼ざめさせて娘達に問うた。
「どうしたのですか、この屋敷の中で」
「話を聞いて頂けますか」
「私達の話を」
「無論です」
 そう彼女達に答える。
「何があったのか。お話なさい」
「わかりました。それでは」
「私達は」
 娘達はヤロスラーヴナのその言葉に救われた顔になった。そうして涙を流しながら語るのであった。
「さらわれたのです」
「村から」
「さらわれた!?」
「はい」
 ヤロスラーヴナに対して述べた。
「その通りです」
「ガーリツキイ公爵に」
「兄が。一体どうして」
「御自身の慰みものとする為に」
「周りの者達の褒美とする為に」
「馬鹿な。どうしてそのようなことを」
 口ではこう言ったがやはりとも思った。兄のことは昔から知っている。度を外して酒と女を好み異常な宴を好むからだ。この時もそうなのだと内心思った。
「最早私達にとって今は地獄です」
「お助け下さい」
「わかりました」
 ヤロスラーヴナは娘達の言葉に応え屋敷の中をきっと見据えた。そうして大きくしっかりと足を踏み出したのであった。
「行きましょう、何があっても」
「お妃様」
「私達も」
「いえ」
 同行しようとする侍女達は制した。
「私一人で充分です」
「しかし」
「しかしも何もありません」 
 階段を登りながら。まだついて来ようとする彼等に顔を向けて言うのだった。
「私がいいと言えばいいのです。わかりましたね」
「左様ですか」
「兵士達よ」
 娘達を追って屋敷からウラジーミルの兵達が出て来た。しかし彼女はその兵士達に対して毅然たる声で言うのだった。
「兄上のところに私を。宜しいですね」
「し、しかし」
「それは」
「宜しいですね」
 戸惑う兵達にまた問うた。それは有無を言わせぬ口調であった。
「どうなのですか」
「は、はい」
「わかりました」
 その気迫に負けた。彼等は止むを得なく頷き彼女を案内するのであった。ヤロスラーヴナは堂々と屋敷の門をくぐり兵達を引き連れる形で奥に進んで行く。兄のいる場所に。

 その時ウラジーミルは酩酊寸前であった。その状態で周りの者達に問うのであった。
「娘達はまだか」
「今兵達が追っています」
「間も無くかと」
「ふん、可愛い奴等だ」
 逃げた娘達のことを言っていた。
「逃げても無駄だというのにな。しかし」
「捕まえた後は」
「また可愛がってやる」
 その酩酊した顔で言うのだった。
「たっぷりとな。いいな」
「無論です」
「我々も」
 周りの者達は下卑た笑みを浮かべる。彼等もかなり酔っていた。だから彼女がすぐ側まで来るまで全く気付いていなかったのであった。
「兄上」
 そこに兵を連れたヤロスラーヴナが来た。険しい顔で兄の前に立った。
「この騒ぎは何ですか」
「おお、来たか」
 ウラジーミルは平然として妹に顔を向けた。そうして言うのだった。
「待っていたぞ」
「待っていたとは」
「おい」
 ここで彼は周りの者と兵達に声をかけた。
「下がれ。よいな」
「わかりました」
「それでは」
 彼等はそれを受け下がる。こうして広い部屋に兄と妹二人だけになった。ウラジーミルは部屋をそうさせてからまた妹にまた顔を向けるのであった。
「話があるのだな」
「そうです」
 ヤロスラーヴナは険しい顔のまま兄に対して答えた。
「これは一体どういうことなのでしょうか」
「どういうこととは?」
「この有様です」
 散々に荒れ果てた部屋を指し示した。そうして兄に抗議する。
「娘達を攫いそうして狼藉の数々。この馬鹿げた宴」
「別におかしくはないが」
「そう思われるのは兄上だけです。まだ戦いの結果もわからないというのにこの有様は」
「戦いなぞ他の者にやらせておけ」
 ウラジーミルはそう妹に言い返した。
「他の者にな。わし等は楽しめばいい」
「それを夫が聞いたらどう思うと考えられますか?」
「今はわしが預かっている」
 ウラジーミルは傲然としてこう言い返した。
「ならばわしのやり方でいく。それだけだ」
「私が何なのかお忘れですか」
 ヤロスラーヴナは業を煮やして兄に言い放った。
「私は。イーゴリの妻ですよ」
「それは知っているが」
「御存知なら。私が夫から留守の全てを任されているのを御存知ですね」
「むっ」
 今の言葉には流石のウラジーミルも怯みを見せた。今の言葉がわからない程彼は愚かではなかったのだ。
「まさか御前は」
「そのまさかです」
 またしても兄に言い返す。毅然として。
「兄上、ですから」
「わしを許さぬというのか」
「このままでしたら」
 引くつもりはなかった。彼女も背負っているものがあるのだから。
「決して」
「わしを滅ぼしてでもか」
「例え兄上であっても」
 やはり退かない。兄を睨み据えてさえいた。
「これ以上の狼藉は許せません」
「それが御前の考えなのだな」
「そうです」
 やはりここでも退かなかった。まるでルーシーの大地そのものであった。今彼女は完全にルーシーを背負っていたのであった。だからこその強さであった。
「おわかりですか。それなら」
「わかった」
 遂にウラジーミルも負けた。彼もルーシーを相手にはできなかった。
「ではここは大人しく従おう。それでいいのだな」
「はい。ご自重下さい」
 穏やかな顔に戻って述べる。
「そうされればいいのですから」
「わかった。では今日はもう休もう」
 ウラジーミルは席を立った。そうして妹に言うのだった。
「ではな」
「はい」
 こうしてウラジーミルは宴を止めさせてその場から消えた。一人残ったヤロスラーヴナは沈痛な顔のままであった。その顔で述べるのであった。
「このままでは本当にロシアは」
 彼女はここでもロシアを憂いていた。
「滅んでしまう。あの方がいなければ」
 ここでも夫のことを想う。しかしまだ帰らず暗雲がルーシーの空に立ちこめ続けているのであった。それは何時晴れるかさえわからなかった。



祖国は祖国で大変な事態に。
美姫 「このままだと、自国が自滅する可能性もあるかもね」
そこまでいくかな。
美姫 「うーん、どうなるか分からないわよ」
一体、どんな結末が待っているんだろうか。



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